<コース>
JR新大阪(6:00) → (のぞみ200) → JR東京(8:23→8:52) → (とき309号) → JR浦佐(10:32)
浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04) → JR越後川口(11:24) → 道の駅・越後川口〒 → JR越後川口(13:08)

JR越後川口駅構内
上越線ホームから飯山線ホームを見る。
浦佐の毘沙門様を駆け足で拝観した後は、この日の宿泊先の燕三条駅前まで移動。
新幹線では僅か二駅分ですが、平日であることもありMHCと郵便局に寄り道しての移動。
電車はほぼ1時間毎の運行ですが、駅から目的の施設までの距離を考えると程良い時間でした。
先ずは越後川口駅で下車。改札を出てまっすぐ進むと川にぶつかりますが、これは信濃川ではなく魚野川。
魚野川は越後川口と小千谷の間で信濃川に合流するので、川口はその地形からの命名でしょう。
この駅からは飯山線が分岐、魚野川を渡って信州へと続くので合流点は交通の要衝でもあります。
飯山線は駅本屋寄りのホームですが、上越線に比べて格段に本数が少ないので、
上越線との間には雑草が生えていたのが印象的でした。

JR越後川口駅スタンプ (JR東日本新潟支社印)
上越線は緑色で統一、これは1990年代の押印。
改札を出て川沿いを少し遡ると郵便局。
実は平成17年に訪局して押印済ですが、最近デザイン変更されたのが再訪の理由。
より写実的になっていましたが、内容はどちらも鮎簗とキャラクター、
日付は8月15日と1日違い。何かの奇縁を感じました。

川口郵便局 ; 魚野川の簗場、町のマスコット (平成17年押印)
川口郵便局 ; 川口簗場、鮎と越後川口PRキャラクターかわぐっち (令和5年押印)
続いて1㎞弱歩いて道の駅へ。
面積は左程ではないものの、あぐりの里と言うだけあって農産物が豊富で、
それを目当ての来客が多く見られました。ここでもう一つの目的のMHCも無事ゲット。
デザインには花火が描かれているのは、ここが長岡市だからですが、
途中に小千谷市を挟む典型的な飛び地でした。

道の駅 越後川口 あぐりの里

越後川口 (長岡市) マンホールカード
配布場所はこちら
電車に遅れまいと駆け足で駅に向かいますがホームには誰もなし。時刻になっても電車が来る気配がないので
ホームの時刻表をもう一度よく見ると、何と土日祝日のみの運転。次の電車は1時間後。
次の下車駅は隣駅の小千谷ですが、6.6㎞の距離は炎天下で歩くには過酷でした。

道の駅 スタンプ

スタンプの脇には今では珍しいダイヤル式の公衆電話
どうしようかと悩んでいると、さっき通った場所に「まるじゅう」と言う蕎麦処があったのを思い出し入店。
お昼時でしたが一人なのですぐ昼食にありつけました。味は勿論、値段も手頃とまさに【にじゅうまる】。
涼しい場所でお腹を満たせレジに向かうと「こころ旅」の暖簾が。
お店の方に伺うと火野正平さんとスタッフがこの店で食事をされたそうで、
日頃テレビで見ている場所に自分も行くとは思いも寄りませんでした。
食事処があったから良かったものの、JRの駅周辺にもう少し施設があってもよさそうなもの。
道の駅に寄ったので余計にそう思うのでしょう。道の駅に人が多いのは物産を販売しているからで、
JR駅も国鉄時代の柵(しがらみ)から自らを解き放つ時期に来ている気がします。
先立って施設を【しょうへい】しなければなりませんが…。

道路に面した 「まるじゅう」 入口

冷やしとろろ蕎麦 ¥780

レジに架けられた 「こころ旅」 の暖簾
こうして1時間遅れで無事乗車とまりましたが、駅に着くと何と1番ホームに
13時11分発戸狩野沢温泉行きの列車が入線。とうちゃこに続き列車がとうちゃくです。
1時間遅れのお蔭で滅多にお目に掛かれない飯山線と遭遇できた訳ですが、
そうでも思わないと1時間遅れは取り戻せなかったもの事実です。

1番線に入線中の飯山線列車
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JR新大阪(6:00) → (のぞみ200) → JR東京(8:23→8:52) → (とき309号) → JR浦佐(10:32)
浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04)

吉祥山 多門院 普光寺(真言宗豊山派)
毘沙門堂前から本堂と庫裏を望む。
毘沙門堂から境内の建物はいずれも回廊で繋がっています。
本堂外陣の縁側から右に連なった回廊を進むと、白壁・赤いトタン屋根の建物と続きます。
『本堂に続く白壁の建造物は別行殿(宝物殿)。中央には運慶作と伝わる真言教主大日如来を安置し、
その四隅には東西南北の方角を護持する四天王像を配置。作者・製作年代不詳の四天王は
仏教の守護神である持国天・増長天・広目天・多聞天から成り、立体曼荼羅を形成する。
いずれも甲冑を身に着け武器を持つ。頭部にある兜飾りは希少である。
単独で祀られる時には多聞天は毘沙門天の名で呼ばれる。

毘沙門堂から右手へ続く回廊

白壁が映える別行殿(宝物殿)
別行殿に続く赤いトタン屋根の建物は普光寺本堂。承久3年(1221年)鎌倉幕府将軍・源実朝が
地頭・平繁基をして毘沙門堂に堂領を献ずると共に、僧道乗坊辨覚を天王堂 (毘沙門堂) 別当に任じ、
浦佐川西地区に境を定め「永代伐木殺生禁断」の令を下した。
辨覚はこの令を広まるため、また寺務執行のため、この地に大伽藍を建立。これが普光寺の創始と言われる。
慶長年間に火災に拠り普光寺が焼失、二十世賢弘和尚が延宝8年(1680年)4月、
檀信徒の協力を得て再建したのが現在の普光寺である。』 とあります。

本堂全景

本堂前から見た毘沙門堂側面

お堂の前は盆踊りの準備中
浦佐の毘沙門様で知られる当寺ですが、寺の本堂はこちらで大日御如来が御本尊。
しかし由緒記に拠れば、平安初期に建立された毘沙門堂の別当寺として
鎌倉初期に出来たのが普光寺なので、時代的には400年も後。
加えて「裸押し合い祭」が開催されることで、対外的には毘沙門堂が前面に出るのでしょうが、
本堂も江戸時代17世紀末の建立。毘沙門堂が火災によって昭和の再建となった現在では、
歴史的建造物の資格は十分に思えます。
唯、本堂は観光客の拝観はしていない様子。本堂前の境内には盆踊りのライトが準備されていましたが、
あくまで地元の方々の寺院を全面に出しているのでしょう。

回廊脇の鐘楼

御朱印 (普光寺御本尊)

同時に頂いた越後新四国八十八ヵ所霊場の御札
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浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04)

吉祥山 多門院 普光寺(真言宗豊山派) 毘沙門堂
山門を拝観したあとは、いよいよ目的の毘沙門堂へ。
山門からは参道ならぬ屋根付きの回廊が続いていますが、豪雪に対する配慮でしょうか?
お堂へは回廊途中で右折しなければなりませんが、そのまま直進すると正面には不動明王が鎮座。
毘沙門様に先立ってこちらへお参り。
『当山の不動明王は石像仏としては日本最大と言われており、明治初年に六日町の石工富八郎に拠り作製。
うがい鉢は当地大崎の坊谷山産出の大石を刳り貫いて作られた。

山門から毘沙門堂まで続く回廊

回廊の途中から山門を見る

回廊を直進した場所に鎮座する不動明王石像
右折する左側に建つのは古山門、江戸初期の高田城主松平越後守が修造したと伝わる。
元来、現在の山門(仁王門)の位置にあったが仁王門が新たに建立されるに当たり、
文政9年(1826年)にこの場所に移築。中央に聖徳太子、左右に白山権現・蚕天尊、
お堂に向かい左右には大黒天・愛染明王が祀られている事から太子堂と呼び習わされている。
長年の傷みに拠り屋根にトタン工事が施された他は、ほぼ当時の原形を留めて居り、
毘沙門堂境内に残る最古のお堂である。』 とあります。
境内最古の建造物がこのような形で残されているとは普通なら見落とす所でした。
その脇には欅の巨木が二本聳えますが、御神木でしょうか?

回廊の曲がり角に立つ古山門(太子堂)

太子堂前にて

太子堂を囲む様に聳える欅の巨木
古山門の正面に建つのが毘沙門堂。
『毘沙門堂は、大同2年(807年)平城天皇の御代、征夷大将軍坂上田村麻呂が東夷征伐の折、
国家鎮護の為に建立。インドの仏工・毘首羯麿作とされる本尊毘沙門天を奉祀したのが草創と言われる。
承久3年(1221年)鎌倉幕府は地頭・平繁基をして堂領を献じ、道乗坊弁覚を毘沙門堂別当に任じた。
これに拠って付近一帯は「永代伐木殺生禁断地」と定められ、毘沙門堂の威徳は高まる。
永徳2年(1382年)には八名の武将が毘沙門堂造営のために田を寄進したという古文書が残っており、
室町前期には各地の武将・豪族が競って田地を寄進。
その結果、桁行五間・梁間五間・入母屋造・茅葺の壮大な伽藍が建立されたと言われる。

回廊を右折し毘沙門堂へ向かう

毘沙門堂向拝前にて (内陣は撮影禁止)
戦国時代に入ると上杉謙信や景勝が当寺を訪れ、彼らの文書が残されている。
江戸時代には坂戸城主堀丹後守直寄が30石を寄進、従前と合わせ50石を領した。
慶安年間には三代将軍家光から御朱印50石・10万石の格式で遇され、緒役免除の特典も得た。
八代将軍吉宗以後は堂宇の修復は魚沼全郡に公課できることとなり明治維新まで続いた。
江戸時代には古義真言宗(醍醐派)に属していたが、明治に入ると新義真言宗(豊山派)に改宗している。
大正6年(1917年)に国の特別保護建造物に指定された毘沙門堂は、昭和6年(1931年)に火災のため焼失。
その後、5年の歳月を費やして再建されたのが現在に残る毘沙門堂である。
設計は当時の日本建築界の重鎮伊東忠太が担当した。

回廊入口から毘沙門堂を遠望

毘沙門堂全景
回廊があるためお堂の全景が撮れる場所は少ない。
毘沙門堂が多くの人で賑わうのが毎年三月の第一土曜に開催される「裸押合い大祭」。
日本三大奇祭の一つに数えられる。春を待ちわびた雪国の人々の熱気が伝わるこの祭りの由緒は古い。
江戸時代の記録では、正月三日、近くの村々から老若男女が立願のため、男は裸、
女は単(ひとえ)或いは袷(あわせ)を着て集まり、稲刈りの姿をして踊っては左右に分かれて押し合う。
これを「一踊り一押し」と言い7回繰り返す。
5回目の時、酒を堂上に注ぎ、7回目が終わると肩車に乗りささらをすりながら歌う。
この時、童子は堂にぎっしり立つ人々の頭の上を踏んで縦横に歩き回ったという。

堂前に掲げられた 「多聞天王」 の扁額

向拝下にて
正面に建つのが不動明王を祀る祠。
現在は近郷から奉納された30~50㎏の巨大蝋燭が照らす中を、不動尊前のうがい鉢の湧水で
身を清めた褌一つの男衆が堂内に入り、「サンヨ、サンヨ」の掛け声で激しく押合う。
この間に年男が人馬に乗って現れ、櫓に登って群衆に福盃を撒く。
これを拾えば幸運を得られるという五穀豊穣を願う奇祭。「堂押し」とも呼ばれ、
押し合う信者の熱気溢れる祭りは古式そのままの祭事として、
国の重要無形民俗文化財に指定されている。』 とあります。

「裸押し合い大祭」 の写真 (説明書より)
境内では先述した山門と並ぶ壮麗な建造物で間違いなく江戸時代以前の建築と信じていましたが、
それが昭和一桁の建築で未だ百年に至っていないとは驚きでした。
そんな新築を感じさせないのはさすが近代建築の巨匠と言えます。
尤も、積雪のために劣化が早いことは考えられますが…。
火災の原因について説明はありませんでしたが、奇祭のロウソクの火の不始末だけはあって欲しくありません。
銀杏を筆頭に樹木は延焼を防ぐ効果がありますが、境内には古山門脇にある欅の巨木が目立つくらい。
その意味でも今以上に樹木を増やしてほしいもの。越後の樹木は【植え過ぎ】くらいが丁度良いでしょう。

浦佐 毘沙門堂 説明書

御朱印 (毘沙門堂)
[参考書]
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浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04)

吉祥山 多門院 普光寺(真言宗豊山派)
道路添いの入口を抜け石橋を渡ると正面に壮麗な山門(仁王門)が。
そのまま山門を進むと毘沙門堂、右の坂を上ると普光寺に至りますから、
山門は毘沙門堂楼門も兼ねています。
石橋は短いながらも下に水が流れておりいかにも古刹の雰囲気。
橋の石の欄干は裸祭りで使用されるロウソクを模っています。

石橋を直進すると山門へ
石橋は 「参禅橋」 とあるか?

右の坂を上ると普光寺へ
『吉祥山の参号を記した山門は文政3年(1820年)に起工し、天保2年(1831年)に完成。
12年の歳月と10万余の信者の奉仕によって建立された。総欅造りで日光東照宮陽明門を模したと言われ、
釘は1本も使われていないのが特徴である。

石橋上から渓流を見下ろす
左手にも寺院があったが、下調べ不足のため今回はスルーする。

裸祭りの蝋燭をデザインした石橋欄干
天井には江戸後期を代表する絵師・谷文晁作の双龍図が力強く描かれ、
「八方睨みの龍」として知られる。
山門二階には東方に向かい金箔の段々を背に毘沙門天二十八使者像と
賢空和尚・内藤棟梁の像が奉安されている。
作者は京屋政五郎・六右エ門満昭の共作で、天保2年より天保7年の間に作られた。

山門の欄間彫刻の象と龍

山門の組物も見所の一つ
また山門二階の壁面に8枚の板絵と、格天井には23枚の天女の絵図がある。
約170年前に描かれた「天女・十六羅漢・釈迦出山絵図」と呼ばれ御用絵師の作と伝わっていた。
平成21年に板谷家が東京国立博物館に一万点程の文書を寄贈したが、
その資料の中に浦佐普光寺山門の「天井画配置図下絵」と「天井画・板絵下絵」を発見。
山門の天井画は年代から、板谷家5代目・板谷桂舟弘延の描いた作と結論された。』
とあります。

八方睨みの龍と毘沙門天二十八使者像 (説明書より)

山門下では天井画の案内が
普光寺境内では最も古く荘厳な建造物であるのは外見からも判断できますが、
説明にあるような天井画・壁画があると知ったのは初めて。
しかも令和2年より修復していた天井画・壁画が今回山門に戻ったそうで、
8月14~16日のお盆の期間に限り¥300の見学料で拝観可能。
これ以降は¥500で電話での予約制とか。
電車の時刻の関係で見学は短時間でしたが、期間ぎりぎりで間に合いました。
この日は幸運にも終了ギリギリで滑り込みセーフが何ヵ所かありましたが、
これも上杉謙信公が【義理】の人だったからに他なりません。

釈迦出山絵図

天女図 (その一)

天女図 (その二)
[参考書]
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浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04)

JR東京駅に入線する「とき309号」
8月16日は台風7号が近畿中国地方を直撃。陸海空の公共交通が軒並み運休したので、
お盆の帰省・旅行の計画変更を余儀なくされた方々も多かった事と思います。
かく言う私も乗車予定の15日の夜行サンライズ出雲が運休、折角1月前に並んで取った切符も使用できませんでした。
といって盆休みはそのままなのでイチかバチかの16日始発のぞみ200号で東京へ着いた後、上越新幹線へ乗車。
運休明けでしたが、のぞみ指定席、とき自由席も余裕で遅れることなく越後入り。
台風一過と安心していましたが、7時半頃から大雨のため東海道新幹線が運転見合わせと知ったのは後の話。
問題の時刻には静岡を過ぎた頃だった筈でギリギリセーフでした。

自由席ホームもこんな状態
新潟へ入って二駅目の浦佐で時刻通り下車。新幹線停車駅とはいえ、
新潟や長岡のような交通の要衝でもなく取り立てて観光地でもありませんが、
上杉謙信公所縁の普光寺があり浦佐の毘沙門さまとして知られています。

駅前では裸祭りの蝋燭のモニュメントがお出迎え
実は浦佐で下車するのは今回で三度目。最初の1994年には群馬県から移動して駅前へ宿泊。
当時新調された駅スタンプのデザインは毘沙門さまで行われる「裸押合い祭」。
非常に興味が湧いたものの当時はネットも普及せず、結局行かずじまい。
後で思えば駅員さんに尋ねるべきでした。
次に訪れた平成17年8月には場所は分かっていましたが、夕方だったためスルー。
結局、三度目の正直の訪問となりました。

最初の訪問時(1994年)に押印した浦佐駅スタンプはシャチハタ式
上越線内は緑色で統一されていた。

大和郵便局 ; 越後三山、スキー場、裸押合い祭
二度目の訪問時(平成17年)は風景印を押印するために下車。
浦佐駅スタンプはシャチハタ式からスタンプ台式へ、図柄も「裸押合い祭」から「山門」へと
変更されていましたが、毘沙門さまがメインは変わらず。
駅前には巨大なロウソクのモニュメントがありましたが、これは祭りを表したもの。
前回は気付きませんでしたが、最近できたのでしょうか?

今回押印したJR浦佐駅スタンプ
インク式だが、インクがやや薄め。

駅前のマンホール蓋
「やまと」とあるが奈良ではない!
新幹線からは伽藍屋根が望めましたが、駅西口を出て通りを真っすぐ進むと
毘沙門通りにぶつかり、右折するとすぐに門前。
新幹線も含め電車の本数は1時間に1本程度ですが駅近くであった事で【不幸時】は回避できました。

毘沙門通りに掲げられた案内板

この石標の奥に毘沙門堂が建つ
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36)
大垣駅(9:08) → (養老鉄道) → 養老(9:30) → (レンタサイクル10分) → 養老寺 → 徒歩15分 → 養老神社 → 徒歩15分 → 養老の滝 → 徒歩30分 → 養老寺 → (レンタサイクル5分) → 大菩提寺 → (レンタサイクル50分) → 道の駅 月見の里 → (レンタサイクル10分) → 徒歩10分 → 行基寺 → (レンタサイクル10分) → 駒野駅
【復路】駒野(15:16) → 大垣(15:53→16:04) → JR米原(16:39→16:47) → JR大阪(18:13)

臥龍山 行基寺(浄土宗 西美濃三十三霊場第二十七番札所)
書院の間から見える苔庭と岩肌
濃尾平野を見渡せる対面の間から中庭を挟んで北側には藩主の間が。
どちらかと言えばこちらが文字通り対面の間ですが、そこへ行くには短いながらも
書院縁側から木製の反り橋を渡る必要がありました。
他からは隔離された感があり、中央には段差がついた畳が敷かれていますが、広さは僅かに六畳。

対面の間から北側を望む

これは廊下左にある書院の間
人気が無いのに茶器が置いてある。

廊下から木製の反り橋を渡り藩主の間へ
右の舟型の手水鉢で手を清める?

国会のような赤い毛氈を踏んで藩主の間へ

驚くほど質素な藩主の間

藩主の間
御殿様は高い場所に座る?

六双一曲の屏風
画題は中国の隠者?が琴や碁を打つ光景。
部屋からの眺望も先程の対面の間には及びません。
殿様の贅沢と言うよりも、日常の喧騒から逃れる場所だったのでしょう。
古代から現代に至るまで、日本の贅沢はこの程度のものです。
藩主の間も周囲に苔で覆われた庭に囲まれていますが、
極めつけは書院を越えた場所にある西の庭園。

藩主の間の東側の庭園

こちらは北側の庭園

藩主の間から揖斐川方面を眺めるとこんな感じ

藩所の間から南側の庭園・対面の間・書院を見る
『当山の庭園は、松平家菩提寺となった際に、緑山和尚に拠り作庭。対面の間に面した東側には
南北に広がる雄大な濃尾平野を借景にした眺望の庭園があり、百八個からなる飛石が周囲を囲んでいる。
各書院からは濃尾平野は元より、南は知多半島、北は日本アルプス連峰を眺めることが出来る。
一方、書院西側には自然の岩肌を活かした枯山水の庭園が、苔庭の奥には岩肌を伝って落ちる滝水がある。』
とあります。

書院の廊下より西側の苔庭を眺める
正面に見えるのは本堂。

苔庭を北に見ると正面の砂岩の岩盤からは自然の滝が落ちる
東の庭園が部屋から遠景を望む場であるのに対し、西の庭園は部屋から間近な場所を見る場と言えます。
ここ揖斐川右岸は川の堆積の関係で砂岩・泥岩に覆われた場所。濃尾平野を一望できることも理由でしょうが、
その岩から滝が落ちているのが、この場所に寺院が開創された一番の理由。
その辺りの経緯は午前中に参拝した養老の滝にも共通するものがあります。

書院の間に座り庭と滝を眺める

少し本堂寄りからの眺望

本堂の高みから書院と苔庭を見下ろす
「ブラタモリ」では自然の石と滝をそのまま残した庭が絶賛されていましたが、人が手を加えずとも
美しいものは美しい訳で、それを実践した江戸期の縁山和尚の美意識が伺える話です。
滝のある一角は苔の庭となっていますが、これは水に恵まれた環境のお陰。
放映時は雨の季節で苔の緑も鮮やかでしたが、この日は梅雨明け以降の雨が降らない状況のため
苔が焼けているのが気に成りました。降雨を司る龍が山号ですので、きっと回復してくれるでしょう。
【臥龍晴天で枯る】などあってはいけません。

本堂縁側より岩盤を間近に見る

滝の近影
滝の落ちる場所は植物の生育が良い。

横から見た滝

この時期でも日陰の苔はこのように元気
当寺はこの辺りでは珍しく拝観料が必要(¥400)ですが、庭園維持も大変だからでしょう。
テレビでは関係者の姿が全く見えませんでしたが、受付では妙齢の上品な御婦人が対応下さいました。
恐らく住職夫人でしょうが、テレビに映るなど【ぎょうき】が悪いと思われたのか、気になる所です。

苔庭奥の砂岩の岩盤

岩盤は苔庭から本堂奥へと続く

本堂の間近まで岩盤が迫る

書院の掛け軸は平屋に相応しく?『平家(ひらや)物語』 の祇園精舎

書院欄間の透かし彫り
レンタサイクルは駒野駅で返却も可能でしたが、途中の養老駅で列車の行き違いで5分停車するので、
サイクルトレインを利用して返却しました。こうして養老沿線の二ヵ所での社寺の参拝も無事終了。
留守の所もありましたが、先ずは予定通りと言って良いでしょう。
欲を言えば市内の輪中にある“おちょぼさん”こと千代保稲荷にお参りして、
参道でナマズの蒲焼を食べたいところでした。
郵便局訪問の予定もあったので、次回に持ち越して問題なかったのですが、
帰宅後、養老の滝に参拝した人がナマズを食べたら罰が当たることを知った次第です。

駒野駅ホーム看板は名産のみかん

駒野駅記念入場券
キャラは駒野みかん

サイクルトレインでこの日の相方ともお別れ

駅前で見た海津市マンホール蓋
お稲荷さんとナマズは次回に持ち越す羽目に。
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36)
大垣駅(9:08) → (養老鉄道) → 養老(9:30) → (レンタサイクル10分) → 養老寺 → 徒歩15分 → 養老神社 → 徒歩15分 → 養老の滝 → 徒歩30分 → 養老寺 → (レンタサイクル5分) → 大菩提寺 → (レンタサイクル50分) → 道の駅 月見の里 → (レンタサイクル10分) → 徒歩10分 → 行基寺 → (レンタサイクル10分) → 駒野駅
【復路】駒野(15:16) → 大垣(15:53→16:04) → JR米原(16:39→16:47) → JR大阪(18:13)

臥龍山 行基寺(浄土宗 西美濃三十三霊場第二十七番札所)
対面の間からの揖斐川、濃尾平野の眺望。
本堂参拝して西側に迫る岩肌に対面した後は、右側の廊下を進んで書院奥へ。
その東端にあるのが対面の間と呼ばれる部屋。
床の間には掛け軸や調度品が簡素な中にも上品に置かれています。
藩主の菩提寺なので【体面】を保つ必要があったのでしょうが、それにも増して素晴らしいのはここからの眺望。

廊下を東に進んだ先にある対面の間

床の間の観音様の掛け軸と香炉

対面の間へ渡る廊下を振り返る
『当山の庭園は、松平家菩提寺となった際に、緑山和尚に拠り作庭。書院西側には
自然の岩肌を活かした枯山水の庭園が、苔庭の奥には岩肌を伝って落ちる滝水がある。
一方、東側には南北に広がる雄大な濃尾平野を借景にした眺望の庭園があり、
百八個からなる飛石が周囲を囲んでいる。
各書院からは濃尾平野は元より、南は知多半島、北は日本アルプス連峰を眺めることが出来る。

揖斐川下流方面の眺め

正面に見える濃尾平野
その奥に建つビル群は名古屋市内。

揖斐川上流方面の眺め
高須藩は三万石の小藩ながら尾張徳川家の連枝、支藩で尾張藩に後継者が途絶えた場合に
相続人を出す役割を持った。尾張藩17代藩主の内、実に4代が高須藩の出身である。
御三家を除けば将軍家筆頭家門というべき家格を保ち、江戸城での格式は大大名と同格であった。
幕末から明治維新にかけて大きな役割を果たした尾張藩主徳川慶勝、茂徳、会津藩主松田容保、
桑名藩主松平定敬の四名は高須藩松平家の四兄弟である。』 とあります。

庭園に湧き出す水

揖斐川に架かる海津橋遠望
対面の間から東側を望むと遮るものがなく、「お月見の寺」と呼ばれるのはここからの眺望を言うのでしょう。
今でも旧暦8月15日には観月会が開催されているとか。今の暦では敬老の日前後でしょうか、是非見てみたいものです。

対面の間から北側に続く庭園を望む
その奥に見えるのが藩主の間。

北側の庭園
このように風雅な場所ですが、明治以前には一般人はこの部屋どころか境内も立入禁止。
と言うと殿様が庭で月見を独り占めしたというと優雅な感じですが、果たしてそうなのか?
一般の立ち入りを禁止したのは、この場でかなり政治的な会合等が行われた場所だった可能性が大。
蜜だんごではなく【秘密の談合】であったら、【きなこ臭い】気もします。思った以上に藩主は大変だったのでしょう。

庭園の向こうに建つ藩主の間

庭園を飾る巨石群

書院の廊下を渡って藩主の間へ向かう
それにしても幕末の藩主がここの四兄弟とは驚き。他藩に養子に行く位ですから暗愚ではなかったでしょうが、
皆、それなりの名を残しているのも高須藩の家訓が活きているように思えます。
御三家筆頭でありながら、唯一将軍を出せなかった尾張家ですが、江戸幕府の幕引きでの功績は流石、
【おわり】良ければ総て良しと言えます。尤も、そのために彼らが【談合四兄弟】と言われることはないようですが…。

廊下より庭園を見る

廊下から見る庭園と対面の間

藩主の間に向かう途中の濃尾平野の眺め
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臥龍山 行基寺(浄土宗 西美濃三十三霊場第二十七番札所) 本堂
山門を潜り境内を軽く一周した後は伽藍に参拝。
山門直ぐ左手に建つ小振りなお堂は、扁額では真影堂とありますが観音堂。
当寺は西美濃三十三ヵ所札所なので、このお堂に札所の御本尊が祀られている筈で、
先ずはここに参拝。開放されていたので内陣まで入って拝むことが出来ました。

山門左手の観音堂

観音堂内陣で御本尊に参拝
続いて山門の正面に建つ本堂へ。境内の拝観は自由ですが、本堂の内陣・書院・庭園は
入山料¥400を納めての参拝。
臥龍山菩提院行基寺(がりょうざんぼだいいんぎょうきじ)は、
『天平時代に行基が聖武天皇の勅願を得て建立した古刹であるが、その後、徐々に衰退。
当初の伽藍は延元元年(1336年)に結城友定の兵乱で焼失し、正平年間に再建された。

山門の正面に本堂が建つ

本堂とその後方に見える石垣

本堂の向拝前にて

本堂に続く書院玄関
拝観受付はこの左手にある。

臥龍山行基寺説明書

行基寺御朱印 (西美濃観音霊場)
元禄15年(1702年)、尾張二代藩主徳川光友の次男松平義行が美濃高須藩に封ぜられると、
当寺を菩提寺として再建に着手、宝永6年(1709年)に改修工事が完了した。
山門は文政3年(1820年)、本堂は天保3年(1832年)の再建である。
尚、明治維新に至るまで、一般庶民の登山参拝は禁止であった。

本堂向拝下にて

本堂前面に掲げられた扁額
菩提院とは当寺の院号か?

向拝と蝦虹梁

先端部の兎の彫刻

木鼻の部分はお馴染みの象
当寺は濃尾平野を見下ろす高台にあり、高い石垣を持つ城郭風の伽藍であるが、
これは緊急時には高須藩の城としての機能を持たせるためであったと言う。』
とあります。

本堂扉の浮彫はカラー版六つ葉葵?

本堂内陣にはこんなポスターが
当寺は浄土宗なので本尊に祀られているのは阿弥陀如来。徳川幕府は天台宗と浄土宗を
自身の信仰の柱に据えたので、当寺を菩提寺としたのは自然な流れといえます。
本堂の前面には菩提院の扁額が架けられ、扉等には三つ葉葵の紋が描かれているのは
藩主の菩提寺としての格式を表しているのでしょう。
内陣に吊るされた駕篭は当寺の住職が使用したのでしょうか?

内陣に架けられた 「行基寺」 の扁額

扁額の奥に鎮座する御本尊阿弥陀如来

内陣柱の極彩色装飾と黄金の三つ葉葵の家紋

内陣の閻魔様の掛け軸

内陣に吊るされた駕篭
本堂の左側(西側)は山肌が露出していますが、ここはTVでも紹介された場所。
山の中腹なので平地を最大限に利用した結果、このように山肌が間近に迫る構造になったのでしょう。
TVの説明でもありましたが、太古の昔に海底に堆積した岩が隆起してできたのが25㎞続く養老山地で
この付近は丁度断層地帯。濃尾傾動運動と呼ばれるものでできた地形だそうです。
露出しているのは砂岩を主体に泥岩が間に入ったもので、その続きに石垣を積み上げています。
天然と人口の交差と言うよりも、自然を上手く取り込んだもので、これなら左官職人の手を煩わすこともなく、
かつては【盛ん】に造られたのでしょう。別段、設計した人が地質マニアであった訳ではないようです。

本堂の前を通り西側の石垣へ向かう

本堂の間近に迫る石垣

砂岩に石垣を組合わせた独特の構造

砂岩と石垣の接する部分

本堂前から山門を見る
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臥龍山 行基寺(浄土宗 西美濃三十三霊場第二十七番札所) 山門
寺の黒塀に沿って進むと、やがて壮麗な山門が聳えます。これが駒野でも有数の古刹行基寺。
臥龍山菩提院行基寺(がりょうざんぼだいいんぎょうきじ)は、
『天平の頃、大仏建立のために諸国行脚していた行基が、聖武天皇の勅願で
美濃尾張伊勢三国の守護霊場として建立した菩提寺が嚆矢。
伝承では天平16年(744年)、地方を巡っていた行基が当地の洪水被害を目の当たりにし、
聖武天皇に懇願し人々のために建立したと言われる。

境内より山門を見上げる

山門欄間の龍の彫刻

扉の上は亀の彫刻

松平家菩提寺を示す三つ葉葵の浮彫

山門屋根の組物
開山である行基は、天智天皇7年(668年)に和泉国で生まれ、天平21年(749年)に菅原寺で入寂、
生駒の竹林寺に葬られたと一般的には知られているが、当寺には天平宝字元年(757年)にこの地で入滅、
当寺に埋葬されたとの伝承が残る。

山門脇から濃尾平野を遠望
下の駐車場からかなり登ってきたのが分かる。

山門の奥に建つ本堂

山門脇からの境内を一望
本堂の右手に書院が続く。
養老山地の中腹にあり、本堂・大書院・小書院・庫裏・松平家廟を有する。
高い石垣と黒塀に囲まれた城郭風の伽藍であり、一見すると小規模な城の様子を呈する。
一説には緊急時には美濃高須藩の城としての機能を有していたとされ、
そのため寺院と言うよりも城の御殿に近い構造である。
「お月見の寺」として知られる他、「隠れ城」の異名も持つ。
現在の本堂は天保3年(1832年)の再建、山門は文政3年(1820年)の建立である。』 とあります。

境内の一角にある石垣

石垣の後方の書院、というよりもお寺の方の住居か?
行基が開山というのも凄いですが当寺に葬られているのは更に驚き。
と言いたい所ですが、埋葬の地というのは恐らくは虚構。天皇に懇願して寺を創建して当地の人々に貢献した
行基に対する敬慕崇拝の気持ちがそのような伝承を生んだのでしょう。
【臥龍点睛を欠く】事になった訳ですが、民衆の行基への思慕という歴史的事実ではあります。

参道に並んだ石仏群

石仏近影
表情が豊かなので仏様よりも羅漢様にも見える。

参道脇からの眺め
その名の通り行基が創建した古刹ですが、何といっても7月1日の「ブラタモリ 木曽三川 暴れ川VS人間」に登場し、
タモリさんが庭を絶賛したお寺。TVでは庭園を絶賛されていましたが、境内には石仏や石垣が積まれ、
名古屋城の石垣に使用される予定であった刻紋(こくもん)石が置かれるなど地質的な展示も。
城マニアだけでなくジオマニアにとっても聖地のようです。

石垣の上に建つ石塔とその脇に置かれた刻紋石

刻紋石近影
約400年前の名古屋城築城の折、当山(臥龍山)一帯から採石された河戸石で、蜂須賀阿波守の紋が見える。

参道左手の滝
山腹の割には水が豊富な様子。

滝の左手にある観音像
私もその時TVで初めて知りましたが、かつて押印した駒野駅のスタンプには当寺が描かれていました。
このことは今回の巡礼に当たり、かつての記録を見返していて気付いた話。
スタンプ押印の【きそ】を疎かにした訳で【こまったのう!】です。

石塔付近から山門を望む

駒野駅スタンプ
(上) 近鉄時代 (下) 養老鉄道の現在
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臥龍山 行基寺(浄土宗 西美濃三十三霊場第二十七番札所) 山門前からの濃尾平野の眺望
養老の滝を見て駅に戻った後は、海津市駒野にある行基寺へ。
かつては海津郡南濃(なんのう)町でしたが、海津はそのままで今は市に昇格。
美濃は海に面していませんが、海津と言うからには伊勢湾にまで続く河川交通の港があったのでしょう。
最寄りは二駅先の駒野ですが、電車は50分後。
レンタサイクルは駒野駅返却も可能なので自転車で向かう事にしましたが、
養老山系の麓は予想に反して土地の起伏が激しく、養老駅から11㎞先の道の駅に着いたのは60分後。
【なんのう】その!とはとても行かずに【よろよろ】状態でした。
道の駅の名称は「月見の里 南濃」。ここから向かう行基寺も「お月見の寺」として知られているそうです。
道の駅でスタンプを押印するとキャラクターが入浴しているデザイン。月見うどんの卵と見えたのは
当地の名産みかんのキャラで、月見は未完のキャラの様です。
道の駅で水分補給後、「しじみめし弁当」を食べて再び出発。終点の桑名ならハマグリ弁当でしょうが、
この辺りはシジミが名産なのかと【しみじみ】考えました。

「道の駅 南濃」 スタンプ

昼食は駅で購入した「しじみめし」 とスイーツは「みょうがぼち」
行基寺へは258号線を南東に5分程行った上野河戸から細い道路を南へ直ぐの距離ですが、
下の駐車場からは急勾配の坂が続き、「これは電動でなければ無理だわ!」と降りて歩く事に。
行く手に寺院の塀が見えた時には漸くホッとしました。

寺の下の駐車場に到着
向こうに見える平野部とは未だ高低差は少ない。

駐車場横の参道
この勾配を見て自転車は早々と諦め。

参道を行く事10分で寺の塀が
寺に近付くと右手に常夜灯ならぬ燈台が。こんな山の中腹に燈台が?と不思議でしたが、
説明板に「御山の燈台」と記されており、紛れもない燈台。
『当山伝記に拠れば天平の昔、この臥龍山に大寺院が建立された際、
この地に仏舎利塔と一丈余尺の石積みによる高燈籠が築かれた。
この高燈籠は常夜灯として遠方の人々から菩提山(臥龍山)の燈台、法燈様として崇められた。
戦乱時には狼煙台として使用された事もあるが、鎌倉末期南北朝の頃、兵火に拠り寺院と共に焼失した。

参道を登り切った場所に建つ 「御山の燈台」

燈台の伝記
その後、江戸の宝永年間の初め、当地高須藩初代松平義行公が行基寺を再建された際に、
再び燈台が築かれ、揖斐・長良・木曽の三大川を行き交う船の標識と夜間の目印を示す
御山の燈台(燈標)としての役割も果たした。
時を経て平成の今、先人の残した多くの文化遺産が消え行く事を惜しみ、
当時の資料・伝承に基づき、伊藤源一氏に拠って復元されたものである。』 とあります。

燈台の先には寺院の石垣と黒塀の端が

塀に沿って入口へ向かう

塀を右に曲がった先に見える山門
燈台の形をしていますが、常夜灯・狼煙台・燈台と一台三役。
というよりも時代の状況に拠って用途に変化があったと言うべきでしょう。
辿り着いたお寺は臥龍山の中腹に沿って建ち、石垣の上に黒塀がある要塞のような造り。
成程、寺の塀からは遥か濃尾平野が一望できます。この燈台の説明を見て
改めて当寺の重要性に気付きました。燈台下暗しとはまさにこの事です。

石垣前から揖斐川上流方面を見る
中央の青い橋は津谷川(手前)と揖斐川に架かる福岡大橋。

揖斐川下流方面の眺望
津谷川は当寺付近で揖斐川に合流、中央右に海津橋が架かる。

山門前から来し方を振り返る
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養老山 大菩提寺(臨済宗妙心寺派 西美濃三十三霊場第二十四番札所)
養老の滝所縁の寺社に参拝した後は、駐車場に停めたレンタサイクルで駅方面に戻りますが、
その途中、左手にあるのが西美濃札所の大菩提寺。
寺については滝への往路で気付いていたので、当寺へは復路への訪問。養老の〆となります。

養老の滝へ向かう道路沿いの寺号標と砂利の参道
道路に面した入口からは砂利道ながら広い参道が続き、石段を登った場所に建つのが本堂。
石段の左右は楓が植えられており、秋には紅葉の参道に変わるのでしょう。
いかにも札所の古刹と言った雰囲気です。

草生した石段の先には本堂がお出迎え

正面より見た本堂
養老山大菩提寺(ようろうさんだいぼだいじ)は、
『昭和3年(1928年)、彦根市の石頭山千手寺に祀られていた聖観音菩薩像を本尊として創建。
本尊は後に10万人を越える分量の信者の毛髪を集めて織り上げた如意輪観音像に変わった。
旧本尊の聖観音像と所蔵する曼荼羅は養老町の文化財として登録を受けている。
名称も創建当時は大悲閣と称していたが、昭和28年(1953年)に大菩提寺と改称。
現在は臨済宗妙心寺派寺院として西美濃三十三霊場第二十四番札所となっている。』
とあります。

横から見た本堂前に張り出した向拝

本堂内陣で御本尊に参拝
巡礼札所と言えば、昔から参拝者が訪れた場所と思っていましたが、当寺の創建は100年足らず。
各地の札所の中でも珍しい範疇に入るでしょう。加えて御本尊が聖観音から如意輪観音に交代した上に、
材質は信者の毛髪。大阪には遺骨で作った仏様が鎮座ましますが、これは【もう初】。
本地垂迹説で【かみ】と仏を一体化させた、に【ほんじ】んならではの考えでしょう。

本堂は廊下で庫裏と繋がる

本堂奥の庫裏で呼び鈴を押すも生憎不在
本堂も開放中で内陣にて御本尊に参拝。さて御朱印を拝受すべく寺務所へ伺い
呼び鈴を何度も鳴らしましたが、人の居られる気配はなし。
最近は札所でも不在のところが多く、御朱印は紅葉の頃に持ち越しになりました。

本堂左手に続く細道は墓地へ向かうか?
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伝説と奇談 第16集 東日本編 | 西行 / 平将門 / 関東の天狗 / 河童 / 養老の滝 / 加賀百万石 / 曽我兄弟 / 九尾の狐 中古価格 | ![]() |

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養老神社(元郷社)
こちらが正面。
順序は逆になりましたが、養老の滝に参拝した後、坂を下って神社へ参拝。
本来ならば、孝子坂から右手に入り、社号標脇の石段を登り境内へ向かいますが、
今回は脇の小さな鳥居を潜りいきなり拝殿横へ。
入口には手水鉢が置かれていましたが、水は瓢箪の形の蛇口から湧出。
養老ならではと言えます。

孝子坂にある案内板

滝からの帰路、渓流を見下ろす
手前にあるのは射干。

脇から小さな鳥居を潜る
養老神社は
『養老孝子伝説の源丞内所縁の神社とされ、創建時期は不明であるが奈良時代の養老年間以降と推測。
平安時代の美濃国神明帳には養老明神として記載されている。
永正元年(1504年)には菅原道真を合祀し、養老天神に改称。更に時代は下って明治初期には
近くの元正天皇・聖武天皇祭場を移転して合祀。その際、養老神社に改称している。

鳥居手前の手水鉢
瓢箪から駒ならぬ水。

手水鉢横の石碑は神職の作か
元正天皇の美濃行幸と醴泉については
「私は美濃国の行宮に至り留まる事数日、多藝郡の多度山の美泉(うましいずみ)を見て自ら手を洗うと
皮膚滑らかになる、また痛い所を洗うと癒えない事はなかった。
私の身にはこのような験が起こったが、この水を飲んで浴する者は白髪は黒く、
禿頭には毛が生じ、眼は明るく見えるようになり、疾患は悉く平癒した。
私は、後漢の光武帝の時に醴泉が出て、これを飲む者は皆痼疾が癒えたと聞いている。
この醴泉は美泉で恐らくは水の精なのであろう。これに拠って老を養え。
まことにこの醴泉は瑞祥であって、天下に大赦して霊亀3年を改め養老元年とすべし。」
と『続日本紀』には記事が伝わる。

正面から更に階段を上ると拝殿がお出迎え

参道脇の杉の巨木は御神木か?

正面より見た拝殿
当時の記録から元正女帝の足跡を辿ると、717年9月11日に平城京を出発され、
近江国を経て同17日に西美濃へ到着。養老の美泉を御覧になって大変喜ばれた天皇は、
同年11月17日に詔を出し元号を霊亀から養老へ改めた、となる。
元正天皇が浴された美泉は当社境内に湧出し、天皇が訪れた際に、その泉から菊の香りがした事から
菊水泉と呼ばれるようになった。
孝子源丞内が老父に飲ませたのも、滝ではなく境内から湧くこの水であったと言われる。

拝殿近影

拝殿の屋根
昭和60年7月には環境庁より「養老の滝、菊水泉」が名水百選の指定を受けた。
毎年、春分の日には、孝子・源丞内に扮した女性二人が泉の水を汲み取る
神事「若水取り」が執り行われる。』 とあります。

(右から) 拝殿に続く幣殿と本殿

覆いの内に鎮座する本殿

本殿近影
その名称からも立地条件から見ても、当社が滝を御神体として祀る神社として創建されたのは明らか。
孝子の酒伝説も、一般には滝の水と言われていますが、ここ菊水泉からのものと考える方が
無理が少ないと言えます。
現在は管轄が異なりますが、昔は滝も泉も一連の物として扱っていたので、滝伝説に置き換えられたのでしょう。

拝殿から一段下がった場所に湧く醴泉

菊水泉の前にて

醴泉の由緒記
元正天皇の行幸は、てっきり伝説かと思いましたが、詳細な日付の記録も残っており事実のよう。
そうなるとここの泉に身体や患部を浸したというのも俄然現実味を帯びて来ます。
菊水と言う呼び名も皇室に所縁がありそうですが、菊の御紋が皇室を表すようになったのは
遥か時代は下って後鳥羽天皇の時代なので、ここでは無関係。
菊の香りがしたかどうかは定かではありませんが、身体に【効く水】が菊水に変化したのでしょうか?
『続日本紀』には元正天皇の御言葉が記されていますが、いくら古代とはいえ、
このような【現象】はやや【誇大】広告。
しかし、美貌の女帝として知られた元正天皇の言葉であったからこそ、人々は争って醴泉を求めたとも言えます。
言ってみればモデルですが、それだけ古代の天皇の業務は【多岐にわたって】いたのでしょう。

今も湧き続ける菊水醴泉

醴泉の水はやがて渓流へと合流する
ここならば汲むのも楽である。
境内には滝と同様に、岡山藩の儒者であった近藤篤の養老泉の詩碑の他、笠満誓の万葉歌碑も
沙弥満誓(しゃみまんせい)の名で建立されています。万葉集の歌の内容は養老とは直接の関係はなく不思議でしたが、
笠満誓は美濃守を務めた笠朝臣麻呂の事で、在任中に元正天皇の養老行幸と養老改元を実現させた人物、
満誓は出家後の名でした。出家後は、筑紫歌壇で大友旅人や山上憶良と共に活躍した歌人でもありました。
言ってみれば今に至る養老の大恩人でもある訳で、もっと注目されて然るべき人物の様に思います。

近藤篤に拠る養老泉碑

碑の解説

細川十州に拠る美泉詩碑 (七言絶句)

詩碑解説

本殿の脇には萬葉歌人・笠満誓の歌碑が建つ

歌碑解説
このように歴史を誇る養老神社も今は無住、辛うじて参道の売店で御朱印を扱うのみでした。
養老神社もそうですが、奈良時代から続いた社寺に吹く風は【まんせいてきに】厳しいものがある様子でした。

養老神社御朱印
孝子坂途中の土産店で購入。
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【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36)
大垣駅(9:08) → (養老鉄道) → 養老(9:30) → (レンタサイクル10分) → 養老寺 → 徒歩15分 → 養老神社 → 徒歩15分 → 養老の滝 → 徒歩30分 → 養老寺 → (レンタサイクル5分) → 大菩提寺 → (レンタサイクル50分) → 道の駅 月見の里 → (レンタサイクル10分) → 徒歩10分 → 行基寺 → (レンタサイクル10分) → 駒野駅
【復路】駒野(15:16) → 大垣(15:53→16:04) → JR米原(16:39→16:47) → JR大阪(18:13)

養老の滝(揖斐関ヶ原養老国定公園 日本の滝百選 名水百選)
養老寺から坂道を20分程登った先に滝はありますが、結構な人出と共に参道は
土産店・飲食店が並んでいるので不便はなし。殆どの店では「養老サイダー」が販売中。
中には顔ハメを置いた所もありました。

孝子とサイダーの顔ハメ
養老公園内にある観光案内所 「親孝行のふるさと会館」 前にて。
養老サイダーは公園内に会社と工場を持ち、養老の名水を使って製造されていましたが、
施設の老朽化や高齢化を理由に平成12年(2000年)12月に製造中止。
しかし有志の発案で別会社として復活、名前は以前のものをそのまま踏襲しています。
飲みたい衝動に駆られましたが、坂道を登る途中で息が上がるのを心配したので買い控え。
相当な坂道でしたが、木々と清流の御蔭か暑さそれ程でもなく、これはサイダーを飲んでも問題なかったようです。

渓流に架かる橋を渡り滝へむかう

渓流の両側には楓が
滝へは寺から渓流の左岸を西上。この辺りの道は養老孝子坂と呼ばれ、滝に至るまでに
渡月橋・妙見橋・もみじ橋・万代橋と四ツ橋が掛かりますが、もみじ橋の名前にあるように、
川の周辺は楓の木が生い茂る状態。秋には真っ赤なトンネルを進むことになります。

渓流添いの坂道を行く

来た道を振り返る

ようやく行く手に養老の滝が遠望
養老の滝は、
『木曽川水系に属する落差32m、幅4mの滝。岐阜県に拠り設置された養老公園内にあり、
揖斐関ヶ原養老国定公園に属する。
『古今著聞集』に記載されている滝の水が酒になったという親孝行伝説「養老孝子伝説」の故事で知られ、
日本の滝百選及び養老の滝・菊水泉として名水百選に選定されている。
その雄大な姿から多くの人々に愛され、江戸時代には葛飾北斎・歌川廣重も浮世絵に描いている。
また文人の関心も高く、梁川星巖は養老と改元した事を七言絶句に詠んだ石碑が滝入口に、
飛騨高山の国学者・田中大秀翁が養老の滝を美泉と弁じた石碑が滝の脇に建つ。

滝入口に建つ梁川星巖の石碑

間近で見る石碑

石碑の解説

石碑の建つ場所からの滝の遠望

滝の水は酒にならずに渓流に

山道途中で最も滝が近くに見える場所
田中大秀は安永6年(1777年)、高山に生まれる。本居宣長に師事し彼の学風を継承した。
文化11年(1814年)、大秀翁は「養老美泉録」を著し、これを機に尾張藩儒・秦鼎と
養老の美泉についての論争を繰り広げる。
翌文化12年には養老美泉碑を建立するものの、彼の死後、秦鼎の門弟が養老美泉録の版木を焼却、
養老美泉碑を打ち砕くと言う挙に出た。
明治31年(1998年)になって大秀の流れを汲む高山の山崎弓雄等社中の人々が碑の再建を図り、
殆ど原型に近い碑を再建し、現在に至っている。』 とあります。

いよいよ養老の滝に御対面

滝へは注連縄の張られた岩の間を抜ける

注連縄の張られた大岩

思ったより水量の多い養老の滝

岩から水飛沫をあげて落下する滝

滝壺近影
当たり前だが看板には禁泳とある。
文人墨客がこの名瀑の由来をどこまで信じたかは甚だ疑問ですが、
詩歌を作る格好の題材を提供したのは確か。
一人の有名人が詩歌を作ると、それに続いて或いはそれを凌ごうとする人が跡を絶たないからで、
各地の名所に歌碑や句碑が建つのは彼らの競争心の賜物と言えます。

滝の脇には滝不動尊が鎮座

更に奥に進むとこのように滝を祀る場所と東屋(休憩所)が

滝の近くには修験者の顔ハメ
中には行き過ぎた人も居る訳で、田中大秀の碑文を壊すなどはその典型。
詳細は分かりませんが、文学で勝負せずに碑を引き倒すなどは、相手の力不足を認めたようなもので、
却って贔屓の引き倒し。大秀の門下は碑を破壊した関係者が皆亡くなった頃を見て再建に取り組んでいます。
双方の行為を比べると大秀の方が遥かに大人の対応。何はともあれ、碑が【もとおり】に戻って何よりでした。

論争の元となった田中大秀の石碑

石碑の顛末
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瀧壽山 元正院 養老寺(浄土真宗大谷派 西美濃三十三霊場第二十五番札所)
源丞内墓碑
養老寺の奥の一角には開基の源丞内(げんじょうない)の碑がひっそりと建ちます。
当寺の由来となった人なので、ここは素通りする訳にはいきません。
『元正天皇の御代、養老山の麓に源丞内と言う貧しい樵(きこり)が住んでした。
朝な夕な山で薪を採っては年老いた父を養っていたが、父親の好む酒は十分に求める事は出来なかった。

横から見た不動堂とその奥にある丞内の墓碑
或る日、山に行った丞内は岩根を伝わる滝の水を眺めながら
「ああ、この水が酒であたらなぁ。」 と思った時、不覚にも転倒。その時、どこからともなく
酒の香りが漂い、不思議に思って辺りを見回すと付近の岩の間の泉から山吹色の水が湧出。
舐めてみると美禄の香りを放つ真の酒であり、「天よりの授け物だ」と喜んだ丞内は
ひさご(瓢箪)に詰めて持ち帰った。
始めは半信半疑であった父親も、一口飲んでうち驚き、二口飲んで額を叩き、
三口飲んでは手を叩き、二人の喜ぶ声は近隣にまで聞こえたという。

墓碑の脇には養老改元1300年記念碑が建立
やがてこの事は都の元正天皇の耳にも達し、
「これは源丞内の感心な孝行の行いを天地の神々がお褒めになったものである。」と仰せになり、
天皇自身も当地へ行幸。年号を養老に改め、源丞内を役人に取り立てた。』 とあります。

墓碑と石仏
今も参拝する人が多い?
養老の滝は、元正天皇の御代に、老父を養っていた美濃の貧しい木こりであった源丞内(げんじょうない)が、
酒の香りのした湧水を瓢箪に入れて持ち帰り父に飲ませたのが始まり。
後に現地を訪れた天皇もその霊泉で病が回復、養老と改元したのが由緒。
風邪に改源は効きますが、酒で改元は稀な話。

墓碑の周りには歌碑や句碑が建つ
いくら古代でも酒が湧き出るのを信じる程、民衆は愚かではありませんし、そんな事は【現状ない】もの。
しかし源丞内は『続日本紀』にも登場する実在の美濃国司なので、恐らく貧しい身から
立身出世し彼から伝説が生まれたもの。
奈良時代は皇位を巡る争いや疫病もあって社会不安が増大した時代。国家を救うために
聖武天皇が奈良に大仏を、諸国に国分寺・国分尼寺を建てるのは元正天皇に続く時代になります。
そんな時代にあって人心掌握するのに利用されたのが改元で、しかも普通に改元するだけではなく、
なにがしかの瑞祥を踏み台に行ったのが【随所】に見えます。
養老の前後は霊亀・神亀で、偶々甲羅に目出度い文字が見える亀が捕まったのが理由とか。

・多岐輪中 大垣輪中 夏に入る と読めるが…
甲羅の模様が文字化けするとは考え辛く、政権側がなにがしかの細工をしたのはほぼ確実。
これで社会不安が収まればよいですが、中々思い通りにいかないのが政治。その後も度々行われています。
これから半世紀後には宝亀が登場。再び亀にお呼びがかかった訳ですが、
人民は「懲りんやっちゃなぁ。」 と呆れていたに違いありません。
己の出世を上手く利用された源丞内ですが、彼がどこまで関わっていたのかは疑問。
しかし背景を思うと彼の周囲にも、酒臭さならぬ胡散臭さが漂うのもまた事実と言えそうです。

養老孝子御朱印
住職夫人の話では、こちらが本式だそう。
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瀧壽山 元正院 養老寺(浄土真宗大谷派 西美濃三十三霊場第二十五番札所)
駅で¥100のレンチャリで滝へ向かいますが、距離的には2㎞ですが上り坂で滝に近付くにつれて
勾配は急に道は細くなったので、止む無く1㎞手前の駐車場に停めて徒歩で滝に向かう事に。
その前に駐車場の向こうに寺院と寺号標が建っていたので、先ずはこちらに参拝する事に。

広い空き地の奥にひっそりと堂宇が見える

山門はないが代わりに寺号標が建つ
瀧壽山元正院養老寺(りゅうじゅさんげんしょういんようろうじ)は、
『寺伝に拠れば、奈良時代の元正天皇の御代に創建されたと伝わる。
後に美濃守となる源丞内(げんじょうない)の養老孝子伝説が平城京にまで聞こえ、
元正天皇は霊亀3年(717年)多度山に行幸。美泉に浴し痛んだ箇所を洗ったところ速やかに回復。
「醴泉は美泉であり、老を養う水である。」との言葉を賜り、年号を養老元年と改元、
天下の八十歳以上の老人に位一階を授け、孝子の節婦などを表彰した。

寺号標の後ろにある鐘楼

空き地から一段高くなった場所に建つ滝守不動明王堂
今や境内に残る唯一の堂宇でもある。
養老2年(718年)には七堂伽藍を創建、寺号を賜わり瀧壽山元正院養老寺と称する勅願所となった。
滝守護不動明王を勅納し、寺家30坊・寺領300石を賜り源丞内を開基に。当初は法相宗寺院で、
養老山麓は法相宗修業地として大規模な伽藍が営まれた。場所は現在より南東約1㎞の地点であったという。
一説では不動明王は鯰に乗って来たと言われ、そのため鯰を食べて参拝したり、
滝に浴したりすれば罰があたると伝わっている。
鎌倉時代初期に天台宗に改宗、十一面千手観音を本尊として当寺を永く護持した。
しかし永禄5年(1561年)織田信長の兵火に拠って堂宇は悉く焼失、寺領も剥奪された。
その際、滝守護不動明王・十一面千手観音等の寺の重要宝物は滝谷に避難しており難を免れることができた。

前方より見た不動堂

横から見た不動堂
堂の前で掃除されている方が、前住職夫人。左奥には孝子の奥津城がある。
その後、大垣城主伊藤長門守が帰依した事で、天正18年(1590年)2月に仮堂再建。寺領も寄付された。
更に慶長始め、高須城主徳永石見守が夢の霊告と当地が符合した事に感激し、再建の志篤く、
慶長元年(1596年)に再建に着手、同12年に諸堂坊舎悉く完成するに至った。
その時の住職が感謝の記に比叡山より雄松を持ち帰り植樹したが、三百年後の明治29年に枯死、
続く二代目の松も昭和63年に枯死した。今は徳永松として本堂前に名を留めるのみである。

堂前より内陣を見る

前に張り出した向拝
関ヶ原合戦の折には、徳川家康が当寺に戦勝を祈願、戦後成就を喜び、
新藤五国光の太刀を寄贈しており、今は国の重要文化財となっている。
この頃、真宗大谷派初代教如上人が揖斐郡春日谷で教化中に当寺の住職が帰依。
真宗大谷派に転派して阿弥陀如来を本尊とした。
享保11年(1726年)、霊元天皇が病になられた折、元正天皇の古事から、
菊水の霊水を取り寄せて薬湯として用いたところ病気は回復。
喜んだ天皇は父後水尾天皇の御宸翰懐紙を下賜されている。

向拝の木鼻の象の彫刻

不動堂扉の彫刻
当寺は創建より1300余年を経て堂宇の傷みも烈しく、400年前に建造された本堂は平成17年の豪雪で
屋根が損傷。応急措置で一事は凌いだものの平成26年に取り壊しを余儀なくされ、
現存するのは不動明王を祀った不動堂と宝物殿のみである。
このように幾変遷を経てはいるが、元正天皇の御病気平癒並びに孝子の遺跡霊場として
同帝の天牌を奉安し、宝祚萬寿天下泰平を祈ってきた勅願の古刹である事に変わりはない。』
とあります。

もう一つ残った宝物殿

寺宝一覧

在りし日の本堂と重文・十一面観音像
先代住職夫人から頂いた写真から。
寺標脇には広い空き地があり保育園予定地の看板が建ちますが、境内のお堂はその奥にひっそり建つのみ。
横の道を抜けて滝へ向かう人は多いですが、参拝者はほぼゼロ。
宝物殿は閉鎖中でしたが、不動堂は内陣へ入り参拝できました。
さて御朱印は?と思い手前に建つ家の呼び鈴を押すと年配の夫人が対応。御自宅が寺務所を兼ねたようです。
保育園に向かわれるとの話でしたが、時間を割いて頂きました。
夫人 ; 「最近、住職が亡くなったので、取り敢えず私が書かせて貰います。」
私 ; 「とんだ事でしたね。ここが本堂ですか?」
夫人 ; 「いえ、少し前までは本堂もあったのですが…。」
とかつて不動堂の横にあった本堂の写真も見せて頂きました。
私 ; 「子供さんは継がれないのですか?」
夫人 ; 「檀家が二軒しかないので、息子も他へ行って居りまして…」
との事。厳しい現実を目の当たりにしました。

不動堂に掲げられた扁額

御本尊は内陣の厨子の中に
御開帳は年に一度だとか。

不動堂前からの眺望
遥か眼下に街が遠望できる。
御朱印と同時にお寺の解説書も入手。それまで養老寺しか知りませんでしたが
「養老志」と記された表紙には山号院号も記載。山号の瀧寿は目出度い養老の滝から、
院号の元正は天皇の名前に由来するのは言うまでもありません。
奈良時代に由来する社寺も時代の流には逆らえないのでしょう。現在のお寺の経営は檀家(老)ではなく、
保育園(幼)に頼っているのが実情。【養老】の地だけに何とかして欲しいものです。

養老寺の概説冊子を拝受

養老寺御朱印 (西美濃三十三ヵ所札所)
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養老駅舎
9時8分の桑名行きに乗って、7駅先の養老で下車。
町の中心は一駅手前の美濃高田ですが、こちらは観光地である養老公園の玄関口。
有人駅で、電動ではないものの1日¥100でレンタサイクルもあります。
ホームに降りると風格のある駅舎がお出迎え。

養老駅スタンプ
(上) 近鉄養老線 (下) 養老鉄道の現在

近鉄養老線時代には、このように補助印?も設置
『現在の駅舎は、大正8年(1919年)全線開通時のもので、入母屋造・本瓦葺で棟が高く、
当時は二等・三等待合室もあり、立派な風格を備えている。駅舎に接したホームの天井には、
当地所縁のヒョウタンがぶら下がり、いかにも観光地の駅らしい。
駅西1.5㎞にある養老公園は日本三名瀑の一つ養老の滝を中心に養老さんの麓に作られた自然公園で、
滝水が酒に変わった「孝子物語」は有名である。
その酒を汲んだと言われることからヒョウタンが土産店に並び、
家族連れや学校の遠足等で一年を通して賑わう。』 とあります。

改札口からホームを見るとヒョウタンが吊るされている

駅名の看板も瓢箪を組合わせた文字

養老駅記念入場券
猫キャラは 「養老ひょうた」
大正モダンな駅舎は養老と言う名前とはまさに対照的。駅舎大賞を上げたいくらいですが、
既に文化財に登録済でした。古ければ良いとは一概には言えませんが、本当に良いものは
時代を越えて受け継いで行くべきでしょう。
ここの行政区は現在も養老郡養老町と平成の大合併にも近隣の市に編入されることはなかった様子。
日本三大名瀑については異論もありますが、どこの都道府県にあるかは知らずとも、
養老の滝の名は殆どの人が知っている筈。なにせ霊亀から養老に改元までした訳ですから。
風邪に改源は効きますが、酒で改元は後にも先にもこれ1一回きり。決して居酒屋だけの影響ではありません。

駅舎玄関近影

駅前にある国定公園案内もひょうたん型

駅前に建つ養老孝子 「源丞内(げんじょうない)」 石像
面白いのはヒョウタン(瓢箪)。駅で瓢箪を売りにしているのは私の知る限り御殿場線の
上大井駅くらいでしょうか?駅の看板文字もヒョウタンでしたし、滝の途中には瓢箪を扱う店も。
アフリカ原産のヒョウタンは昔から容器として重宝され、ケニアのマサイ族の水筒はヒョウタン製。
唯、あちらのものは筒形で全体に紐を掛けて持ち運ぶものが多いよう。
日本の様に真ん中が括れていれば、短い紐を掛けるだけで落ちずに済みますが、
この形に育てるには工夫がいるのだとか。

滝へと向かう途中で見かけた「安田ひょうたん店」

ショーウインドウに展示された瓢箪の工芸品

養老公園口郵便局 ; ひさご形の中に養老の滝、紅葉
酒の故事由来でしょうが『南総里見八犬伝』の網乾左母二郎(あぼしさもじろう)ならばいざ知らず、
今時、瓢箪に酒を入れて携帯する人が居るのでしょうか?
売られている瓢箪も芸術品と言う感じで、昔と違って 「酒を入れたら瓢箪が傷んでしまう。」 となるでしょう。
それより瓢箪漬を使った御飯が「養老飯」として販売、じわじわ人気が出ている様子。
ヒョウタンは昔から有毒とされますが、漬物にしたら毒が消えるのでしょうか?
町を挙げて「俺たちひょうたん族」をアピールしています。

駅舎に対面する孝子像

案内所に架けられた垂れ幕
土産は周囲に店がない駅前にあって唯一のお店でサイダーの代わりに「きびようかん」。
ガイドにも載る品ですが、前回は平日だったので閉店。二度目の訪問で漸くゲット。
酒や滝とは関係なさそうですが、お店の方の話では、付近は米には不向きなのでキビ(黍)を植えていたのだとか。
酒で知られた町にしては酒の販売は見かけませんでしたが、代わりに復活した養老サイダーが新たな目玉商品。
プラスチック製のヒョウタンに詰めて売れば人気が出そうにも思えますが、サイダーは振ると炭酸が抜けるので、
逆養老の滝になってしまいそうなのが難点です。

駅前の孝子像の向こうに建つ 「きびようかん本家」

お土産は「吉備羊羹」 を二棹
お店の方の話では、最近は凍らせて食べる若い人が多いとか。
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養老鉄道大垣駅ホーム
八月最初の土曜は、涼を求めて呑み屋ではない養老の滝へ向かいますが、大垣駅が旅のスタート。
揖斐川・杭瀬川・水門川に囲まれた水郷の町大垣は、中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点で
古くからの交通の要衝。天下分け目の関ヶ原合戦では西軍の石田三成は大垣城に本陣を置き、
江戸時代は戸田氏十万石の城下町として栄えました。
元禄2年(1689年)に江戸深川を出発した松尾芭蕉の「奥の細道」の結びの地としても有名です。

大垣駅スタンプ
(上) 近鉄時代 (下) 養老鉄道の現在
『大垣駅の開業は名古屋・岐阜よりも早い明治17年5月25日。当初は関ヶ原越えの補助機関車の基地として、
動力が近代化されると電車区が置かれた。現在、JR東海とJR西日本の境界は米原駅であるが
車両区が置かれるなど、ここを起点・終点とする電車は依然として多い。
国鉄時代から名門の大垣駅であるが、交通の要衝に相応しく、ここから樽見鉄道・養老鉄道が分岐。
前者は国鉄樽見線が昭和59年に第三セクターに転換したものだが、後者は大正2年(1913年)に
養老-池野間に開業した養老鉄道が前身。軌間1067㎜で、同8年に桑名・揖斐まで開業。
同12年に電化され現在に至っている。長らく近畿日本鉄道養老線として運行していたが、
平成19年(2007年)10月1日付けで近鉄傘下の養老鉄道株式会社となった。』 とあります。

養老鉄道ホームの標識
奥に停車中の車両は東海道本線のもの。

ホームから西方面を見る
(左) 桑名行 (右) 揖斐行
鉄道ファンにはかつての東京発の東海道線下りの夜行、更には「快速ムーンライトながら」の
終点であったことを懐かしむ方も多いでしょう。今でも重要性は変わらんように思えます。
目指す滝の最寄りは養老鉄道で大垣から少し南下した同名の養老駅。
かつては近鉄養老線だったので株主優待券1枚で上本町から大阪線・名古屋線経由で行けましたが、
今は養老鉄道なので別料金が必要。
しかしその後も多度など養老鉄道沿線は今でも桑名から行くことが【多度】。
18きっぷでJR大垣から南下したのは今回が初めてでした。

桑名行車両のラッピングはシナモンロール

大垣駅記念入場券
キャラクター猫は 「大垣しろ」
乗換えに30分あったので、見回っていると記念入場券セットが販売中。
管内の有人7駅の駅舎の写真や猫のキャラクターが描かれたものですが、
入場券¥210にしては、お値段高めの¥2940。
さてどうしようかと悩んでいると、1日フリーキップ¥1500が含まれた値段。
それならフリーキップを使えば良い訳で、無事出発前に購入。
行き先から判断して、左程【不利】にはならず、【人の振りして我がフリー使え!】との教訓でした。

養老鉄道入場券セット ¥2,940

養老線1日乗車券
通常は枠内にペンで書きこむが、今回は改札でスタンプを裏面に押印。
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<コース> 南海電鉄・京阪電鉄は日中10~15分間隔で運転
【往路】なんば → (南海電鉄急行) → 岸和田 → 徒歩10分 → 岸和田漁港 → 岸和田 → 堺 → 徒歩20分 → 堺東 → 大阪狭山 → 徒歩10分 → 狭山池博物館 → 大阪狭山 → 中百舌鳥 → (御堂筋線) → 淀屋橋 → (京阪特急) → 樟葉 → (普通) → 石清水八幡宮
石清水八幡宮駅 → 徒歩5分 → 飛行神社 → 徒歩5分 → 神應寺 → 杉山谷不動尊 → 徒歩10分 → らくがき寺
【復路】石清水八幡宮 → 樟葉 → 淀屋橋

単伝庵(臨済宗妙心寺派)
男山の寺院拝観後は再び放生(ほうじょう)川を渡り 「らくがき寺」へ。
途中、松花堂昭乗の歌碑や後村上天皇の行在宮跡の碑が建ちます。
南北朝動乱期に後村上天皇はこの地に行在所を構えて、足利尊氏・直義兄弟の内紛で一時期
京の都を奪回しますが、尊氏の息子の義詮の軍に攻められここから退いたとか。
山城と河内の国境ではありますが、このような歴史を見ると都の影響を直接被っているようでした。
その後、5分歩いて寺院へ到着。正式には西門が正門のようですが、碑を見ながら【来たもん】で、
北門から境内へ。後門というよりも小学校の校門の様な雰囲気でした。

詠み人知らずの句碑

後村上天皇行宮址碑

住宅地の奥に建つ西門が正門

西門近影

こちらが裏手にある北門
左手には市街地へ向かう道路が走る。

北門脇の 「らくがき寺」 石碑
小学校の校門の
『単伝庵の起源は不明であるが、現存する記録に拠ると正徳元年(1711年)、臨済宗妙心寺派の僧侶である瑞応が
人々の不慮の災難を救う事を発願。怪我除け・厄除けの救苦観音を安置し祈祷修繕したのが再建の経緯。
単伝とは瑞応が単伝和尚と呼ばれた事に由来する。
その後、何度か移転を繰り返し20世紀初頭には荒廃していたが、地域からの支援と寄進に拠り
昭和32年(1952年)に現在の地へ復興した。

北門からの眺め
正面は茶室、右は庫裏。

参道から北門を振り返る
右に建つのは豊川稲荷社。

正面から見た茶室

茶室脇の参道を抜け本堂へ

茶室と道路の間に挟まれた内庭

参道左手に建つのが大黒堂
境内には本尊の釈迦牟尼仏、江戸時代から伝わる観世音菩薩を祀る本堂に加え、地蔵堂、大黒堂が建つ。
大黒堂に祀られている大黒天は南北朝時代、石清水八幡宮の改築に際して、楠木正成が武運長久を祈願して
寄進した楠の残り株から刻まれたと伝えられる。足を前に踏み出したその姿から「走り大黒」と呼ばれ、
開運・福徳円満を授ける神として信仰されている。

正面から見た大黒堂

大黒堂内陣の諸仏

想像していたよりも小さい御本尊の 「走り大黒天」

左側にある仏像奥の壁に書かれた落書き群

こちらは右側の壁

大黒堂前からの眺め
正面が西門。
再建に寄付をしてくれた人々の願いが叶うようにと、60年ほど前から大黒堂の白壁に
自身の願いを落書きし、祈願を成就する事が始められた。
大黒天に願い事を見て貰うようにするためであり、絵馬の役割も果たしていると言う。
今では「らくがき寺」として知られるようになっている。』 とあります。

大黒堂から右に見える庫裏・書院

庫裏玄関近影

御朱印をお願いするため玄関に入る

単伝庵説明書

単伝庵御朱印

庫裏玄関前から大黒堂を望む

玄関前から西門を望む
手前の十三重石塔と大銀杏が映える。
このように記されたものは、書き手の希望か不満かどちらかに向かうのが常ですが、当寺は前者。
似た言葉に落首がありますが、これは主に大衆が世間を風刺したもので後者に相当でしょうか?
現在は否定的に捉えられ勝ちな落書きですが、歴史的を経て残ったものは当時の世相を知る貴重な史料。
単に人に伝えるだけの内容ではないようです。
本来、両者は同じルーツの筈ですが、長い年月の間に格差がついてしまったのでしょう。
御朱印を拝受する際、「落書きの様なものだったらどうしよう。」と不安になりましたが、流石にそれはなし。
大黒天の走り書きという、落ちのない「らくがき寺」参拝となりました。

大黒堂と手前の石碑

石碑近影
句碑と言うよりも落書きの案内か?

南側の塀添いの岩と植木

西門前の地蔵堂

祀られているのは道祖神のようなペアのお地蔵様

西門から見た境内
[参考書]
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石清水八幡宮駅 → 徒歩5分 → 飛行神社 → 徒歩5分 → 神應寺 → 杉山谷不動尊 → 徒歩10分 → らくがき寺
【復路】石清水八幡宮 → 樟葉 → 淀屋橋

絲杉山 神應寺(曹洞宗) 奥の院 杉谷山不動堂
神應寺の鐘楼脇には「奥の院」と書かれた看板が。
神應寺の奥の谷には「奥の院」と呼ばれる数棟の堂があり、そのなかの一棟である杉山谷不動尊には
不動明王が祀られており、また「ひきめの滝」で滝行を行うために訪れる参拝者もいるとか。
地図やガイド等には杉山谷不動尊と書かれていますが、奥の院と言うのが厳密な扱い。
駐車場横には「杉山谷不動尊」と書かれた扁額の架けられた朱の鳥居が建つので、
そちらから参拝する人も多いのだそう。勿論、境内から行くことができるので今回はこちらのルートを選択。

ここが人生の分かれ路という程のものではないが…

不動尊への鳥居

鳥居を抜け放生(ほうじょうがわ)川に流れ込む渓流を遡る
参道同様、射干の生えた山道を行きますが、行く手に線路のようなものが見えてしばらくすると電車が通過。
石清水八幡宮のケーブルカーで、何度も八幡宮には参拝していたのに、このような景観の場所があったとは
今日初めて知りました。
絶景ポイントの割にはカメラを構える人はなし。もっと良い場所があるのか、季節があるのかのどちらかでしょう。
もしかすると暗くケーブルが見えないのかも。それなら風と共に去らねばなりませんが…。
などと下らない事を考えているうちに行く手に建物が見えるとそこが奥の院。

参道から見えた男山ケーブルカー

車両遠望
ケーブルが斜めのため車体も斜めなのを長目に眺め。

路線の真下を潜る

行く手に見える奥の院

参道脇にはやはり射干が
奥の院に建つ諸堂には豊川稲荷、十一面観音堂もありますが、何と言ってもメインは不動堂。
杉山谷不動尊(すぎやまだにふどうそん)は、
『その昔、行教律師が宇佐より八幡宮を当地に勧請した頃、この地には人々に害を加える怪奇現象が
しばしば起こっていた。偶々、諸国行脚中の弘法大師がこれを聞き法力で妖怪を封じ、お告げに拠って
大和国より厄除け不動尊をこの地に祀り、一刀三礼の十一面観音菩薩及び大師像を自ら刻み
安置したのが嚆矢である。

神應寺脇の道(左)と鳥居を潜った参道が合流

石仏群

石仏の横には豊川稲荷
不動堂はその後、天正17年に再建され豊臣家・徳川家からの崇敬を受けた。昭和10年(1935年)には
山津波のため高坊山林が崩落し、堂宇や付属の建物が惨禍を被り倒壊流出した際にも
本尊は無傷で通し、その霊験を敬われた。
しかし永年の風雪には耐え難く、昭和47年(1972年)に新たな堂宇を起工。
翌48年7月に不動堂・観音堂が落慶し、現在に至っている。』 とあります。

奥の院の正面に建つ不動堂

不動堂由来碑

不動堂の向拝前にて

内陣は撮影禁止のため不動堂外陣にて
先に訪れた神應寺と同様、石清水八幡宮が宇佐から勧請された頃の創建ですが、
神應寺が学問所であったのに対しこちらは修行の場。
清流を遡った先には滝が落下しているので、その場所に御仏を感得したのが寺院の嚆矢と思われます。
学問所は一般庶民には縁遠いですが、滝行などは一般の参拝者にも身近な存在だったので、
奥の院の方がより【多くの】参拝者を惹き付けたようです。

不動堂脇の観音堂

不動堂から参道を下り鳥居の先の 「ひきめの滝」 へ

分岐点にある龍の手水舎

手水舎脇には石の不動尊も
加えて由緒も豊富で、
弘法大師が悪さをする妖怪との【攻防】の末、封じ込めた事や、昭和になって【高坊】山の土砂崩れで
堂宇が崩壊した話など、やたらと【こうぼう】に纏わる話が登場するのがミソ。不思議な【光芒】を放っています。
妖怪云々の真偽は兎も角、都から近場だった事、勧請の経緯等から当地で祈祷を行ったのは、
【ひいきめ】に見ても、ほぼ確実。
全国各地に足跡を残した弘法大師ですが、その活躍も【多岐】に亘っているようです。

行く手に行場と滝が

階段を降りると滝が眼前に
但し、滝行は事前に届出が必要。

ここにもお不動さまが

ひきめの滝

滝の水は清流となって放生川へと注ぐ
[参考書]
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石清水八幡宮駅 → 徒歩5分 → 飛行神社 → 徒歩5分 → 神應寺 → 杉山谷不動尊 → 徒歩10分 → らくがき寺
【復路】石清水八幡宮 → 樟葉 → 淀屋橋

絲杉山 神應寺(曹洞宗)
京阪電鉄石清水八幡宮駅から南へ向かうと一の鳥居の向こうに岩清水八幡宮の御旅所である頓宮が控えます。
何故か山に登る人は多かったけれど鳥居があったので、ここで参拝して帰ったら、兼好法師の『仁和寺の法師』。
八幡宮への参拝は日を改めて、この日は石の道標に従い右手奥にある寺院へ。
石清水八幡宮の門前ではありますが、周囲の繁栄とは裏腹に民家の軒を分け入った先に堅牢な山門があり、
更にそこから登る百六十余段の石段は、木立と静寂の中に射干を見ながら庫裏に至るという造りになっています。

頓宮前の道標に従って右へ

細い道を進むと山門前に出る

階段下より見上げた山門

山門に続く百六十余段の石段

石段途中から山門を振り返る
両側には射干(シャガ)が。
絲杉山神應寺(ししんざんじんのうじ)は、
『貞観2年(860年)、八幡神を宇佐より男山に勧請した僧行教に拠り、應神天皇の位牌所として開創。
行教は奈良大安寺の僧で、石清水八幡宮を建立したことから建立大師の宣下を受けた。
当初は神應と称し法相・天台真言密教を弘通する四宗兼学の道場であったが、
室町時代に曹洞宗に改宗し現在に至る。

石段を登った先から見た境内

参道左には鐘楼が建つ
この右側の道を行くと奥の院に至る。
本堂には本尊の薬師三尊像に加え豊臣秀吉の木像を安置する。当寺の中興二世・弓筬善疆(きゅうしんぜんきょう)は
豊臣秀吉と同郷で、正室北政所が帰依。天正17年(1589年)には秀吉から寺領120石が給され、
文禄元年(1592年)の朝鮮出兵時には善疆が肥前名護屋へ出陣見舞いに訪れている。
秀頼の時代には衣冠束帯した秀吉の木像を安置するなど当寺を擁護した。

正面より見た本堂
但し、今回は外陣より参拝のみ。

参道手前には 「淀君茶室の庭石」 が鎮座
徳川時代になると家康始め歴代の将軍から寺領が安堵され、八幡宮領内や近隣に末寺数ヶ寺を組織した。
当時の古文書が現存しているほか、寺紋には豊臣家の太閤桐と徳川家の三つ葉葵と両家の家紋使用を
認められていた。
第十九世・廓翁鉤然(かくおうこんねん)は大奥総女中頭・右衛門佐局の支援を受け、
将軍綱吉と御台所より袈裟を賜り、各地を勧進行脚して寺観を整えた。
元禄13年(1700年)には多くの雲水が毎年修行する常法幢地の寺格を得て洛南有数の禅苑となった。

本堂前からの眺め
百日紅の奥に建つのが庫裏。

庫裏の前に置かれた陶器製の卓と椅子
明治の神仏分離では男山の仏教施設は悉く破却されたが、八幡宮三の鳥居付近の堂に祀られていた
行教像は紀中津御祖神と改称して難を免れ、明治6年(1873年)に墓所のある当寺に戻った。
現在は開山堂に祀られ平安初期の彫刻として国の重要文化財に指定されている。
奥の院杉山谷不動堂にある矜羯羅(こんがら)童子と制多迦(せいたか)童子立像は
14世紀後半作の等身大の貴重なものである。

庫裏の前の天然の庭

庫裏玄関前の池

間近で見た池
境内には江戸初期に活躍した大坂の豪商・淀屋辰五郎を始め徳川家の夫人右衛門佐、
淀城主・永井公とその家老一族、模型飛行機の元祖・二宮忠八の墓がある。
更に細密写生主義を貫き丸山派から脱皮して独自の画風を確立した長澤蘆雪の墓もある。
書院は伏見城の遺構を移築したもので、八幡市域では現存最古の書院建築である。
上段の間に違い棚を設け、金具には太閤桐、襖・杉戸には狩野山雪の筆に拠る
「竹に虎」「御所車」「瀑布図」が描かれている。また鰐口には元弘2年(1332年)の銘がある。
書院縁側から京都・宇治・淀川に向けた眺望は絶景と称され、秋には色鮮やかな紅葉が
幻想的風景を映し出す。』 とあります。

神應寺説明書

神應寺御朱印
場所柄、石清水八幡宮の神宮寺という扱いで、そのため神應寺と名付けられたと思っていましたが、
應神天皇に由来するもののよう。文字をひっくり返したのは天皇への敬意でしょうか?
歴代の天下人から崇敬を受け、明治の廃仏毀釈でも廃寺とならなかったようですが、
昭和11年の山津波が痛手だったのでしょう。堂宇全体も新しい雰囲気で本堂は外陣のみ。
それに続く座禅堂や寺子屋も現在は使用されている様子はありませんでした。

本堂に続く座禅堂

庭の奥には旧寺子屋が

寺子屋の前面
奥に続くのは座禅堂で、更に奥には本堂が建つ。
御朱印を拝受するため事務所へ向かいましたが、対応下さった住職夫人の話では、
一般公開は秋の法要の時期だけだそう。名刹の割に参拝者が少ないのはそんな事情もあるのでしょう。
と思っていたら説明書には¥500で拝観可能との記載が。但し要事前予約でした。
こうなると行き当たりばったりで来たのを【後悔】する事頻り。周辺は紅葉も多いので
次は是非秋に参拝して境内や書院で目の【ほうよう】をしたいものです。

境内には豊川稲荷社も

日陰には未だ紫陽花も
[参考書]
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石清水八幡宮駅 → 徒歩5分 → 飛行神社 → 徒歩5分 → 神應寺 → 杉山谷不動尊 → 徒歩10分 → らくがき寺
【復路】石清水八幡宮 → 樟葉 → 淀屋橋

飛行神社
この日は7月28日に配布開始された第20弾MHCのために大阪府下を右顧左眄ではなく右往左往。
南海空港線の岸和田で下車し港まで歩いて1枚。それから高野線の大阪狭山で下車して狭山池まで歩いて1枚目。
たかが2枚ですが終わったのはお昼前。直線距離は大したことはありませんが、特に空港線と
高野線の乗換に天下茶屋まで戻るのでロスが大で堺駅で下車してから堺東駅まで歩きましたが、
結局余計に時間が掛かりました。マンホールだけに水ものですね。
御堂筋線で淀屋橋まで戻り京阪電鉄に乗り換えて石清水八幡宮前で下車。
昔は八幡市という名前で急行停車駅でしたが、急行が殆どなくなった今は、実質は普通のみ。
石清水八幡宮が国宝になり、駅名も改称したにも拘わらず却って不便になりました。
これが解消されるのはいつの事でしょうか?

岸和田港の配布場所に置かれたカラーマンホール

同時に飲料水も配布

この日の収穫は3枚
駅で下車すると観光案内所の出張テントが駅前でMHCを配布中だったので、この日の3枚目をゲット。
さて、このまま帰宅するのも何なので駅周辺を散策しますが駅前にはエジソンの胸像が。
関西では良く知られた話ですが、エジソンが白熱電球の実用化に向けて世界中の竹を集めて実験したところ、
八幡産の真竹が1000時間点灯に成功。その後の実用化に結び付きました。1880年の事です。
電灯に関しては【白熱】したものがあったでしょうが、最終的に八幡の竹が使われたのは郷土の誇りで、
この胸像になったようです。

八幡市マンホールカード

石清水八幡宮駅前にあるエジソンの胸像
エジソンに比べると知名度は低いですが、ここは同じく発明家の二宮忠八ゆかりの地。
駅近くには彼の手になる飛行神社が鎮座します。
飛行神社は
『日本で初めて動力飛行機を発明した二宮忠八に拠って大正4年(1915年)に創建。
空を飛ぶ事に興味を持った忠八は二十代の頃、カラスが滑空する姿に着想を得て固定翼の
「カラス型飛行器」を制作、明治24年(1891年)に飛行に成功。
その後、人が乗れる複葉型モデルの「玉虫型飛行器」を設計、当地で製作を始めたが、
完成前の1903年、ライト兄弟が有人飛行を成功させたと聞き、製作を断念した。

道路に面した飛行神社入口

飛行神社本殿に参拝
しかし飛行機の発明以来、航空事故が多発した事に心を痛めた忠八は私費を投じて犠牲者の霊を祀る
神社を創建したのが始まりである。昭和11年(1936年)には忠八の死に拠り一時廃絶するが、
昭和30年(1955年)、息子の顕次郎に拠って再興された。宮司は代々、二宮家の人が務める。
本殿中央には空の神である饒速日命、向かって左側は日本薬学会の偉人を祀る薬光神社、
右側は航空事故で亡くなられた航空殉難者と航空業界の先駆者を祀る祖霊社で、これは世界は
同じ空の下で繋がって居ると言う忠八の信念で、国籍に関係なく全ての犠牲者を祀っている。
また境内には零戦戦闘機の機首部、航空機の動力部が展示されている。』 とあります。

境内に展示された零式艦上戦闘機の機首部
昭和58年10月に大阪湾で漁網に掛かり岸和田漁港に引き上げられたもの。

こちらは戦闘機のエンジン部か?
所謂式内社や県社などの古社ではありませんが、航空関係の神社としてそれなりの参拝者はいるようで、
複数の御朱印も掲示されていました。機首部が展示されているのも飛行機所縁らしいですが、
引き揚げられたのが、今朝訪れた岸和田漁港というのも何かの縁でしょう。
忠八の偉い所は、発明の栄誉は譲っても、飛行機の発明に関わった人間として、
その犠牲者を鎮魂した点。私が無知なだけでしょうが、ライト兄弟はそのような事をしたのでしょうか。
この辺りは一神教ではなく多神教である東洋的な見方を感じます。

当社で拝受できる御朱印一覧
聞くところでは、ライト兄弟に飛行機の実用化に先を越されたのは、資金面に難があったからと仄聞します。
当時のアメリカと日本の国力の差を実感する話ですが、そんな状況下にあっても世界に比高する業績を挙げたのは
誇るべきでしょう。真竹は使われた【だけ】ですが、飛行器は紛れもなく日本人の努力の賜物です。

参拝後はほうじょう川に架かる安居(あんご)橋を渡り男山へ

横から見た安居橋
「天才は99%の努力と、1%の霊感から成る。」 というのは発明王エジソンの言葉として人口に膾炙していますが、
これは原文では努力が発汗を表すパースピレーション、霊感がインスピレーションと韻を踏む文になっています。
よく天才には努力が必要だという事で使用されますが、本当のところエジソンは
「霊感のない人間は努力をしても無駄だよ」 と言いたかったのだとか。
努力家にはかっがりする話ですが、忠八は霊感も備えた発明家であったのは間違いないでしょう。

たいこ橋である安居橋の中央を往く

橋上から川下を見る
欄干には 「ほうじょうばし」 と記されるが、地図では大谷川。
[参考書]
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大曾根(9:46) → (名鉄瀬戸線) → 尾張瀬戸(10:11→10:38) → (名鉄・愛環) → 三好ヶ丘(11:32→11:49) → 知立(12:25) → 徒歩5分 → 池鯉鮒宿 → 徒歩5分 → 知立神社 → 知立(13:24) → 西尾(14:00→14:30) → 南安城(14:44) → JR安城(15:28) → JR新居町(16:19→16:57)
【復路】JR新居町(17:16) → JR米原(19:39→19:54) → JR大阪(21:17)

知立神社(三河国二宮 式内社 旧県社)
神社に続く知立花菖蒲苑
知立神社に隣接するのが知立公園。その奥には知立神社創建時に奉行として携わったとされる
吉備武彦命を祀る土御前社(つちのごぜんしゃ)が鎮座しています。
公園はカキツバタでも有名らしく、5月には色とりどりの花が咲き誇るそう。

公園内の参道の奥に土御前社が鎮座

社へは鳥居を潜って

土御前社本殿
『知立公園の花菖蒲は、昭和30年(1960年)、同32年、同35年の三回に亘って明治神宮から下賜されたものである。
明治天皇及び昭憲皇太后御遺愛の花60品種が毎年5月中旬から6月上旬にかけて園内に咲き誇り、
八橋の杜若と共に知立の名花の双璧と呼ばれる。期間中は宝物展、からくり上演、撮影会など多くの催しが開催される。

知立神社への入口付近から

公園内の遊歩道を行く

菖蒲苑入口付近からは土御前社が遠望

同じく入口付近から知立神社方面を望む

土御前社前から見た菖蒲苑全景
また公園手前には
・不断たつ 池鯉鮒の宿の 木綿市
の芭蕉句碑が建つ。これは元禄5年(1692年)9月、江戸深川で詠まれたもので、
馬市と並んで有名であった池鯉鮒の木綿市の賑わいが伺える作品である。
この碑は池鯉鮒蕉門の俳人井村祖風が寛政5年(1793年)、この句が出来て100年に当たったのを記念し、
同好の士15名に働きかけて建立された。』 とあります。
以前に訪れた業平ゆかりの無量壽寺が市内ではカキツバタの名所とばかり思っていましたが、
事らの方が規模が大きそう。唯、今回は訪れる【しょうぶ】どころを間違ってしまったのが心残り。
私、バカよね~、と句碑ならぬ悔いを残して神社を後にしましたとさ!

菖蒲苑手前に聳える高さ9mのトネリコの木
西三河では最古とされ市の天然記念物。樹皮は秦皮と称し薬用、木部は建築・家具の材に使用される。

芭蕉句碑と解説板

句碑近影
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日本の神社 111号 (津島神社・尾張大國霊神社・知立神社) [分冊百科] 中古価格 | ![]() |

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知立神社(三河国二宮 式内社 旧県社) 摂社 親母神社
知立神社境内には、医薬を司る少彦名命を祀る小山天神社、火伏の神を祀る秋葉社等、
幾つかの摂末社が鎮座。面白いのは馬神と掲げられた舎で、馬市で知られた池鯉鮒だからでしょうか?
そんな中で一際目立つのが朱色も鮮やかな親母神社(うばがみしゃ)。摂末社の中では
唯一国登録有形文化財となっています。
祀られているのは主祭神の母親である豊玉比売命、安産の神として親しまれています。
御本殿には主祭神と父・妻・子が祀られていますが、何故母親だけが別なのか?気になるところです。

馬神
但し、内の白馬は作り物。
社の手前には二人の赤子を抱いた女性の像がひっそりと建ちます。台座に書かれているのは「お万の方像」。
『お万の方(長勝院)は天文17年(1548年)、知立神社の神主家・永見貞英の娘として生まれた。
徳川家康の正室・築山殿に仕え、後に家康の側室となって双子の子を授かった。
幼名を於義丸と名乗った一人は豊臣秀吉の養子となり秀康と改名、後に結城晴朝の婿となり名門結城氏を継ぐ。
もう一人の永見貞愛は体が弱かったため兄の永見貞親に引き取られ、天正19年(1591年)に知立神社32代神主となった。
その際に、家康からは信国銘の太刀・信濃長勝銘の槍が授けられた。同時に蔓葵の家紋の使用も認められている。
当時、知立神社は神領が減り困窮状態であったので結城秀康から支援を受けるようになった。

北側から見た親母神社

正面から見た親母神社
関ヶ原合戦後、結城秀康として福井藩主となるに伴いお万の方も福井に移っている。
永見貞愛は慶長9年(1604年)に31歳で夭折、同年に母・お万の方から送られた消息文の写しが
当社に伝わっている。慶長12年(1607年)に秀康が急逝するとお万の方も出家する。
その後、元和5年(1619年)に福井にて死去、孝顕寺に葬られた。』 とあります。
お万の方と言えば、数ある家康の側室の中でも最も寵愛を受けて紀州藩祖頼宣と水戸藩祖頼房を生み、
政治的にも数々の功績を挙げ晩年の家康から絶大な信頼を受けた女性を思い浮かべますが、
年代的にも子供の関係でもどうも違う様子。

親母神社の向こうには更なる摂社と社叢が広がる

社叢には霊が宿るとされるオガタマノキが
よく確かめてみると、寵愛されたお万の方は後の養珠院と呼ばれる女性で、当社に像が立つ長勝院は
一般的には小督局として呼ばれる女性。どうも知立は名前が誤解を招く場所のようです。
お万の方については、俗な言い方をすれば正妻のお女中に家康が手を付けたとなりますが、その自出や、
壮年だった家康が当時2歳であった彼女を側室に望み16歳になったのを機に側室に迎えたとも伝わっているので、
政略結婚だった可能性が大。外国でも王が部族長の娘と結婚して傘下に加えたのと同じでしょう。

小山天神社

火伏の神を祀る秋葉社
なので正妻の築山殿から裸にされ折檻を受けたなどは作り話。しかし城から出されたため
家康の子とは見做されなかったのは事実。後に、嫡男信康のはからいで父子の対面を果たしますが、
次男ながら徳川家の家督を継承できなかったのも、こういったことが理由でしょう。
お万の方も亡くなったのが72歳ですから当時としては長命ですが、子供二人に先立たれるなど
必ずしも順風満帆とはいえません。唯、それは今の価値観から見ての話しで、
戦国の世に生きた女性としては時代の波には乗れず翻弄されながらではありますが、
見事に泳ぎ切ったといえるでしょう。

双子を抱く於万の方像

社務所ではこのような詳細な冊子を無料で頂く
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【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR金山(9:20→9:28) → JR大曾根(9:37)
大曾根(9:46) → (名鉄瀬戸線) → 尾張瀬戸(10:11→10:38) → (名鉄・愛環) → 三好ヶ丘(11:32→11:49) → 知立(12:25) → 徒歩5分 → 池鯉鮒宿 → 徒歩5分 → 知立神社 → 知立(13:24) → 西尾(14:00→14:30) → 南安城(14:44) → JR安城(15:28) → JR新居町(16:19→16:57)
【復路】JR新居町(17:16) → JR米原(19:39→19:54) → JR大阪(21:17)

知立神社(三河国二宮 式内社 旧県社) 重文・多宝塔
東海の古社で知られる知立神社ですが、中でも有名な文化財が多宝塔。
『知立神社多宝塔は嘉祥3年(850年)、僧円仁が知立神社の別当寺として神宮寺を創建した際に建立したと伝わる。
その後、天文16年(1547年)の兵火で寺は焼失したが、多宝塔は永正6年(1509年)に近村の豪族であった
山岡忠左衛門の寄進に拠って再建されており、天文の災禍を免れた神宮寺の遺構として今に伝わる。

駐車場からの眺め

多宝塔近影
三間二層の杮葺屋根で相輪先端までの高さは14.5m、四隅に宝珠を置く。これらは明治の
廃仏毀釈の際に取り外され、本尊の愛染明王・仏壇も党内から除き文庫としたため、難を逃れている。
装飾品は後の大正9年(1920年)の解体修理の際に復元されたが、本尊は撤去されたまま
現在は西側にある総持寺に安置されている。和様を基調とした均整の取れた多宝塔であり、
全国的にも遺構の少ない神宮寺の建築を知る上で貴重なものとされる。』 とあります。

正面からの眺め

屋根裏の組物
神社の境内に残る建造物として風景印にも採用されていますが、途中、ピンチが二度。
一度目の戦国時代は何とか難を逃れましたが、正念場は明治の廃仏毀釈時。
今度こそ、取り壊されても不思議はなかったのですが、この時も何とか生き残りました。
寺側の機転には感謝するしかありません。
三河国二宮を代表する文化財が寺に由来する多宝塔というのも奇縁ですが、
廃仏時でも廃物として【消えん】と、神社の別当寺は神社の一部として【別途】の道を歩むことになりました。

知立郵便局 ; 無量寿寺のカキツバタ、八橋、多宝塔遠景
知立本町郵便局 ; 東海道39番目池鯉鮒宿、市花・カキツバタ、重文・知立神社多宝塔
[参考書]
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知立神社(三河国二宮 式内社 旧県社)
古城跡を抜けて国道155号線を越えると三河屈指の神社知立神社が見えます。
と言っても、155号線は神社の手前で高架になっており、姿を見ることができるのは高架下を潜ってから。
神社自体は厳かな雰囲気ですが、こんな状態ではその【効果】も半減。
道路を敷設するのは致し方ないですが、もう少し配慮や工夫が欲しいもの。
【効果】を狙うも【後悔した】などあってはいけません。

国道155号線の高架下から

常夜灯の奥に建つ大鳥居

大鳥居近影
鳥居の奥には駐車場。

大鳥居に掲げられた扁額
一の鳥居を過ぎると正面に拝殿が見えますが、その前にある神池には石橋が。
『この橋は半円形に反った太鼓橋で、すべて花崗岩で組まれており、全長6.6m、幅2.4m、高さ1.68mである。
石の桁を弧上に通し、その上に橋板である厚さ12㎝の石板12枚を並べる。
欄干南側石柱には享保17年(1732年)の銘が刻まれており、「東海道名所図会」には
「石橋は神籬(ひもろぎ)の外にあり、池を御手洗という。片目の魚ありとなん。」
と書かれている。この片目の魚は身代わりとして娘を眼の病から救ったと伝わっている。』
とあります。

駐車場の奥に拝殿が見える

神池に架かる石橋

石橋正面には拝殿が
本来はここを渡って参拝する筈だが、今は通行禁止。
池には鯉の形の噴水があり、その横を錦鯉が悠然と泳いでいます。
片目の魚かどうかは分かりませんが、「かつては池鯉鮒と書いたくらいだから、鯉に縁のあるのは当然」
と思【い、しばし】佇んでいました。

神池越しに拝殿を見る

鯉の噴水とリアル錦鯉
知立神社(ちりゅうじんじゃ)は、
『近世、池鯉鮒大明神と呼ばれ、熱田神宮・三嶋大社と並ぶ東海道三社に数えられた。
御祭神は皇室の祖先神である鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を主神とし、
その父である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、妻である玉依比売命(たまよりひめのみこと)、
子である神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)後の神武天皇の四柱を祀る。

社務所前から見た拝殿

拝殿の向拝近影

正面から見た向拝
創建については、第12代景行天皇の御代、皇子日本武尊が東国平定のため当地で皇祖の神々を祀り戦勝を祈願。
その平定後の帰路に感謝の意味を込めて四柱の神を祀る社を創建したのが嚆矢とされる。
国史上では六国史の『日本文徳天皇実録』に登場する記録を初見とし、以降歴代朝廷より神階を授けられた。
『延喜式』には神祇官より幣帛を授かる式内社として記載され、元寇の頃、亀山天皇の弘長元年(1261年)には
朝廷より正一位を奉授、当社が所蔵する「正一位智鯉鮒大明神」の扁額は正安3年(1301年)の記載がある。
中世には国司の参拝に預かる「三河国二宮」として崇敬を受けた。

横より拝殿を見ると向拝の出っ張りが良く分かる

拝殿の奥、廻廊の向こうに建つ幣殿と本殿

左の狛犬(吽像)

右の狛犬(阿像)
戦国時代にはしばしば兵火に遭い、一時は近隣の重原村に遷座するなど苦難の時期もあった。
江戸時代に入ると領主を始め諸大名の篤い崇敬を受け、歴代刈谷藩主からは社殿の造営や
祭事への奉幣を受け、多くの大名も参勤交代の途次には当社神札を受けた。
近世に入ると当社の「蝮除け」「長虫除け」の御神徳が霊験あらたかであるとの信仰が広がり、
東海道を行き交う旅人は固より、関東から中国地方に至る各地に分社分霊が勧請され、
今日に至るまで各地より知立講の代参で知られる。』 とあります。

拝殿脇の儀式殿玄関

儀式殿脇のなんじゃもんじゃの木(ヒトツバダコ)

社務所全景
御朱印を拝受した際に、前から気になった事を伺うと、
① ここは三河に入るが、尾張に接しているので影響も大。社殿は尾張造となっている。
② 市名の字は、知立→池鯉鮒となったが、元の知立の表記に戻った
との話。廣重の絵が池鯉鮒なので、こちらが古いと勘違いしていました。
何事も現地に来ないと分からない事も多いものです。
余談ですが、織田信長は岳父の斎藤道三から気に入られ支援を受けましたが、
これも「蝮除け」の霊験の効果かもしれません。

知立神社由緒記

知立神社御朱印
あくまで私見だが、池鯉鮒より知立の方が、断然映える。
[参考書]
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池鯉鮒宿(東海道五十三次三十九番宿)
7月最後の土曜は2回目の18きっぷで大河ドラマも佳境に入った三河へ。春の青春18きっぷが終了して以降、
① 4月28日に第19弾
② 7月28日に第20弾
と二度もMHC発行があったのがその理由。近畿ならば問題ありませんが、東海以東や中国以西は
18きっぷを使用するとしないで交通費が大きく異なるのがその理由。
なくても別段「どうする」ものでもありませんが、入手しないと何となく喉に小骨が刺さった感じ。
一般にはこう言うのを「病膏肓に入る」と言うのでしょうが、この場合はマンホールだけに
「ドツボにはまる」 方が適切です。

知立市マンホール蓋 その1

知立市マンホール蓋 その2

知立市マンホールカード 第20弾
駅北側の「観光交流センター」 にて配布。
といってもMHC収集だけではつまらんので知立神社に参拝すべく名鉄知立駅で下車。
江戸時代の東海道は現在の東海道線に引き継がれていますが、御油から鳴海までは
東海道本線ではなく名鉄本線沿い。
途中遊郭が多かったから国鉄は鉄道誘致を避けたとまことしやかに言われていますが、
勾配がきつかったのが原因のようです。
普通なら在来線+名鉄で10時前には着きますが、この日はJR・名鉄・愛環を乗り継いで
瀬戸・三好ヶ丘に寄った後なので、着いたのは12時過ぎでした。

東海道沿いに建つ 「都築屋菓子舗」
交流センターの向かいにあり、看板の池鯉鮒の文字に時代が感じられる。

東海道沿いにある本町山車蔵
『池鯉鮒宿は江戸日本橋から数えて39番目の宿場町。かきつばたの名勝八橋と、
にぎやかな市場で知られた。
江戸時代の池鯉鮒は三河木綿の集積地となり木綿市が活況を呈し、
更にその木綿を運ぶ馬も取引されるようになった。
今も宿場手前の新田北交差点から始まる松並木は側道にあることが特徴であるが、
馬市の時に馬を繋ぐために設けられ、多い時には400頭も繋がれていたという。
その松並木周辺で開かれた馬市には、地元の馬は勿論、甲斐や信濃の荒馬も集まり、
商人や見物客でごった返した。その盛大さは歌川廣重の絵にも描かれている。

山車蔵の向かいにある日本料理・懐石割烹 「岐阜屋」

重厚さを感じる岐阜屋」の門

重厚な割にお昼の値段はりーずなぶる
駅近く東海道からは少し外れた場所には本陣跡が建つ。池鯉鮒には本陣・脇本陣が1軒ずつ置かれ、
当初は嶺家が勤め、寛文7年(1667年)頃からは永田家に引き継がれた。
敷地3千坪、建坪3百坪と広大な規模を有したが、明治に入り宿駅制度が廃止され、
明治8年(1875年)には200年以上続いた本陣も取り壊され今は跡だけが残る。

東海道から一筋南に建つ池鯉鮒宿本陣跡
街道左手には知立古城跡が残る。知立城は知立神社の神官であった永見氏の居城であったが、
桶狭間合戦の後、織田軍に拠り落城。その後、刈谷城主水野忠重が御屋形を建て信長を迎えたとされる。
江戸時代初期には将軍が上洛する際の旅舎として使用された。
敷地規模は街道に面して南北32間(58m)、東西57間(103m)、建物は堀切のようなもので区画されていたと伝わる。
御殿は元禄年間から宝永年間(1688~1711年)に地震に拠り倒壊し再建されなかった。
明治になって明治天皇がここで小休止されたという碑が建つ。現在は公園として開放されている。』
とあります。

知立古城址

江戸時代に描かれた御殿と神社

御殿址の石碑が建つ

明治天皇御小休止所址の石碑も建つ
知立は4年前の2019年5月10日に訪問済ですが、その時は二駅豊田寄りの三河八橋で下車して
無量壽寺のカキツバタ(杜若)を鑑賞。神社の存在は知っていましたが、知立駅は周辺をほんの少し歩いた程度。
「きっとまた来る事が絶対ある!」と確信しての事でしたが、こんなに早く実現するとは流石に予想外でした。
東海道の宿場の内、池鯉鮒には個人的に思い入れがあって、一つはどう見ても読めそうにない池鯉鮒の漢字。
今一つは五十三次の中で唯一動物が主に描かれている作品という事で印象に残っています。
名鉄を名古屋方面に向かうと中京競馬場がありますが、知立の馬市の名残でしょうかね?

歌川廣重 東海道五十三次 「池鯉鮒 馬市」 (保永堂版)
東海道の55枚の作品を見ると当時の人々の生活が伺えるものが殆どで、それが浮世絵と呼ばれる所以。
名所旧跡は余りないのは彼にとっては二の次だったからでしょう。
東海道の街並みといえば少し京都寄りの有松が有名ですが、現在の知立は所々に
宿場の街並みや古戦場跡が残る町。MHCがなければ半日くらいは観光したに違いありません。

街道沿いの了運寺の坂を下り神社へ

了運寺の向かいにある元祖あんまき小松屋本家

知立駅で購入した土産の餡巻

抹茶餡と夏季限定レモンカスタード
かつては黒あんと白あんだけであったが、今は様々なバージョンがある。
参拝も足早に終えて再び鉄路へ。西尾・安城を経て最終的には静岡新居関所で6枚目無事ゲット。
16時半の閉館間際でしたが、閉まりそうな時は、鳥の鳴きまねをする所でした。
帰りは豊橋から新快速で米原乗換で大阪に21時着。土産は三河のお決まりのヤマサのちくわと餡巻。
この地域では花火も手筒花火なので、細長く巻いたものが好きな土地柄なのでしょう。
殆ど電車に乗った一日でしたが、駅近の配布場所まで歩いたので、結構な筋肉痛に。
餡巻に加えて【按摩機】も必要になりそうです。これも【三河出た錆】と言わればそれまでですが…。

この日の収穫6枚
(上) 第20弾 (下) 第19弾

ヤマサのちくわは豊橋駅で購入
[参考書]
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【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:31) → JR備中高梁(10:13)
備中高梁駅前 → 徒歩5分 → 郷土資料館・安正寺 → 紺屋川筋 → 商家資料館 → 石火矢町ふるさと村・武家屋敷 → 頼久寺 → 寿覚院 → 薬師院 → 松連寺 → 備中高梁駅前
【復路】備中高梁(13:51) → JR岡山(14:56→15:11) → JR相生(16:16→16:18) → JR姫路(16:39→16:42) → JR大阪(17:43)

東向山 松連寺(真言宗御室派)
薬師院の後は、直ぐ南に隣接する松連寺へ。
備中高梁駅の東方、愛宕山の麓に建ち、未だ南には寺院がありますが、
頼久寺から南北にほぼ1㎞続いた寺町もここが終点。寺町通りから来ると左程感じませんが、
駅から寺を遠望すると城郭そっくりなその異様な偉容に圧倒されます。

寺号標の脇から石段を登る

石段の正面には本堂が見える筈だが…
東向山松連寺(とうこうざんしょうれんいん)は、
『真言宗御室派の中本寺で、大日如来を本尊とする。現在の寺は明暦3年(1657年)、
備中松山藩主・水谷伊勢守勝隆に拠り市内奥万田より移築されたものである。
武家諸法度で城の新築は禁止され修理も難しい時代に、松山城の砦として築いた事は
城郭造りそのままの石垣が良く物語っている。

石段途中からの眺め

石段を登った先に建つ山門

山門前から城下を眺める
中央にJR備中高梁駅が見える。
本堂右に建つのは観音堂。文禄元年(1592年)の秀吉の第一次朝鮮出兵(文禄の役)では、
岡山藩主・宇喜多秀家を総督として安宅船で渡海するに際し、
当寺の宥海法印を釜山浦へ従軍させ戦勝祈願を行った。
凱旋の後、宥海の功績を賞し33体の観音像を彫刻。観音堂を建立しそこに祀った。
建立に際し御座船の格天井と船戸数枚、寺領100石を寄進している。格天井と船戸は珍しい品で、
桃山時代の優秀作品として県指定重要文化財となっている。』 とあります。

宝篋印塔の向こうに見えるのが観音堂

観音堂近影
かなり傷みが激しく、拝観は無理な様子。

山門を過ぎた場所に建つ宝篋印塔
奥には寺務所が。
薬師院も立派ですが当寺は更に上手。頑丈な石組の高い石垣、
石垣上部の白壁ラインが強烈に眼前に迫って来ます。
寺院ではありますが出城の役割を持ち、有事の際には城下を護る砦に転じる様に
設計されていると聞き納得できました。
言ってみれば城下を守る最後の砦ですが、いざ訪れてみると本堂は覆いが掛けられ修復中。
観音堂も痛みが激しく参拝できない状態でした。

覆いが掛けられ修復中の本堂

本堂と塀の間にあるのは経蔵か?

駐車場から見た松連寺全景
境内を見回しても無住ではなさそうですが、事務所入り口手前には草が茂っており、
手入れもされていない様子。もしかすると他寺院との掛け持ちなのかもしれません。
歴史ある寺院としてはここが【松連】時と言えそうです。

山門正面にあるのが寺務所の筈

書院玄関?

寺務所前の草木も伸び放題

かつて拝受した判子の御朱印
こうして炎天下の巡礼も無事?終了。駅の周辺に散らばっているとはいえ、
みな徒歩圏内で3時間足らずで拝観することができました。
1時間毎の電車は50分後なので、駅ビルで冷やしフォーを食べた後は+¥100でヨーグルトを。
昼飯後にも拘らず【ひるぜん】牛乳での〆でした。

備中高梁駅1階の「高梁ほっとカフェ」 にて冷やしフォーの昼食
残念な事に8月18日で営業終了でした。

〆はヨーグルト
[参考書]
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