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法性山 石塔寺(本化日蓮宗)
向日神社参拝を終えて鳥居前まで来ると、日像上人の説法石と言うものが鎮座。
神社の前に仏教遺蹟とは!と思いつつ、西国街道を南下すると五辻で再び分岐。
この東側の島坂は延暦4年(785年)長岡京造営長官であった藤原種継が暗殺された場所。
遷都して僅か1年後の事でした。
側近の暗殺に始まる一連の政争は僅か10年で長岡京を放棄、平安京遷都への原因にもなりました。

向日神社の鳥居脇にある説法石

石の台座に嵌め込まれた遺蹟由来
そこを過ぎて暫く行くと東側に由縁のありそうな山門があり、開放した門の向こうには
整備された庭が見えたので入ってみることに。
法性山石塔寺(ほっしょうざんせきとうじ)は、
『鎌倉時代末の延慶3年(1310年)、開山日像(にちぞう)上人が向日神社前に
法華題目の石塔婆を建立し、その傍らにお堂を建てたのが始まり。
その後、文明年間(1469~1487年)に日成がこの傍らに堂宇を建立し寺号を定めたとされる。

正面より見た山門
庭園の奥に本堂が見える。

山門脇の由緒記

山門から見た境内
鎌倉時代以降は、寺の前を通る西国街道を行き交う人々で当寺周辺は賑わいを見せ、
豊臣秀吉、明智光秀など歴史上の人物も通っている。
元和年間(1615~1624年)に不受不施派の寺院として幕府に届けたが、
寛文6年(1666年)の不受不施禁制後は妙顕寺派に属した。
その後、寛文年間には独立本山に成長し、その末寺は近畿一円に三十三ヵ寺に及んだ。
周辺には「御塔屋敷」「御塔下」「御塔道」等の地名が今も残り、かつての伽藍の壮大さを今に伝えている。

山門を入って右手に建つ塔堂・妙見堂・七面堂

塔堂

塔堂前に立つ石碑

塔堂内部に祀られている石塔婆

塔堂に続く妙見堂・七面堂
明治9年(1877年)には鶏冠井村の興隆寺を吸収、翌年には本堂・庫裏・座敷・塔堂・妙見堂・七面堂・
鐘楼・門等を整備した。現在は本化日蓮宗の単立寺院で十界大曼荼羅を本尊とする。
毎年5月に行われる鶏冠井題目踊は、日像が炊いたご飯の湯気が「南無妙法蓮華経」の
文字となったのを見た村人が喜ぶ様子を表現したとされる。』 とあります。

塔堂前から見た本堂と庫裏

本堂前の庭園

本堂前の石はかつての礎石?
これで向日神社の鳥居前に説法石が鎮座するのにも納得。
開祖日蓮上人が鎌倉で辻説法を説いたのは有名ですが、
鎌倉を起点に広まった日蓮宗の関西での起点はここだそう。
山門を潜ると庭の先には本堂建ちますが、直ぐ右手には古い小さな御堂が建ち、
その前には「日像菩薩石塔」の石碑が。
堂内を覗くと正面に南無妙法蓮華経と刻まれた石塔が祀られていました。
殆どの宗派では仏像を祀りますが、このような題目石塔を祀るのは
法華経を全てと考える日蓮宗ならではと言えます。

庭園の間を抜け本堂へと続く参道

松の向こうに建つ本堂

鉄筋の本堂全景
木々の入らないアングル。

本堂に掲げられた「法性山」の扁額

本堂前からの眺め
平安以後の宗派では、最澄と同時代の空海、明より来朝した隠元以外の宗祖は
全て比叡山に学びました。日蓮も例外ではありません。
しかし、他の宗祖が平安京で布教を始めた中で、日蓮のみは鎌倉を布教の手始めにしています。
関東の安房出身という事もあったでしょうが、身近な人達の日常に接してのスタートは、
それ以降の日蓮宗の方向性を決めたとも言えます。
他宗派への攻撃性が強調されることの多い日蓮ですが、
民衆から乖離してしまった仏教への抗議とも言えそうです。
歴代には「日」文字を名乗る僧侶が多いですが、これは日本や日輪ではなく
意外と日常を表していると考えるのは飛躍しすぎでしょうか?

本堂と庫裏の間にはこんな池泉回遊式庭園も

庭園に架かる石橋

境内の奥に続く庭園

庫裏正面
生憎、住職が不在のため御朱印拝受は叶わず。

境内の梅
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向日神社(式内社 旧府社) 舞楽殿と拝殿
御朱印拝受に続き本殿へお参り。
参道の両側は桜で有名ですが、社殿の周辺にも桜、奥は紅葉が見られます。
社殿はたくさん建っていますが、手前にあるのが舞楽殿、その奥が拝殿で
更に奥に行くと本殿に到達する模様。

拝殿前の桜 (3月24日撮影)

由緒記

拝殿近影
『重要文化財の本殿は応永29年(1422年)の建築で、三間社流造・檜皮葺。套堂(覆屋)内に納められ、
周囲を透塀で囲まれて、拝殿・幣殿と繋がって権現造に似た様式を持っている。
明治神宮のモデルになった社殿である。

拝殿の唐破風

唐破風下の鳳凰と龍の彫刻

向拝欄間の麒麟の彫刻

同じく亀の彫刻

唐破風の屋根瓦
本社の北側には元禄元年(1688年)建立の祖霊社が立ち、江戸時代末期の渡り廊下で
拝殿と繋がっている。その手前、東側には同じく江戸時代末期の五社神社が建つ。
また社宝の紙本墨書日本書紀(神代記下巻)は南北朝時代の写本で、
同じく国の重要文化財に指定されている。

拝殿前の枝垂れ桜 (3月24日撮影)

拝殿前の狛犬(吽像)

こちらは狛犬(阿像)とその奥にある渡廊下
境内奥には社叢が広がり、水が湧出する場所には不動尊が祀られている。
神社北側の公園内には元稲荷古墳があり、古墳時代前期の前方後円墳で全長94m、
三段築成で竪穴式石室を持つ。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の途上当社に参詣した時、その山名を訊かれた神主が
咄嗟の機知で「勝山」と答えたので、秀吉は喜び、以後勝山と称されるようになったと言う。』
とあります。

拝殿から右(北側)へと続く渡廊下

渡廊下は祖霊社へと続く

祖霊社前の五社神社
本社は渡り廊下で祖霊社と繋がるなど一見複雑な造りに見えますが、
時代を考えると増築なので、本来の姿は留めている筈。
明治神宮のモデルになった程の社殿ですが、説明に従うと本殿は覆われているので
直接拝見する事はできませんでした。
京都の神社が基になったのは、何ら不思議ではありませんが、
山城国一之宮である上賀茂・下鴨神社を【向こう】に回して選ばれたのは中々なもの。
こうして三間社流造が長岡京と東京の両都に並び立つことになります。

渡廊下を過ぎて本殿へ向かう

社殿後方からの眺め
但し、説明に従うとこの建物は套堂(覆屋)になる。

本殿奥には社叢が広がる

社叢の一画にある水掛不動尊
ここに湧水があったか?

境内奥の元稲荷古墳
当社が古の形式を保っているのが表向きの理由でしょうが、
平安京の二番煎じ、亜流と見做されるのを憚った可能性が【ありゅありゅ】。
このような場合、より古いものを持ってくるという加上説と言うのが歴史学にはあるので便利。
しかし、それならばもっと古い大和の神社を持って来れば良さそうなものですが、
色々複雑な事情があったのでしょうか?ともあれ【過剰】な想像は禁物です。

古墳のある勝山緑地

勝山の謂れ

向日町郵便局 ; 重文・向日神社本殿、長岡京大極殿遺跡碑、特産・筍

阪急西向日駅西口に建つ長岡京大極殿跡碑

石碑脇の満開の桜 (3月24日撮影)
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向日神社(式内社 旧府社)
ひな人形めぐりの途中、街道沿いに石鳥居があったので参拝することに。
鳥居の奥には真っ直ぐな参道が長く伸び、社殿は遥か先。
歩いて行くと右手に古風な社家が建ち、石畳の参道脇には桜の木が多数。
花見シーズンには賑わうと思いましたが、後で伺うと夏は青もみじ、
秋は紅葉と季節を通して楽しめる参道だとか。
(この後、3月24日に訪れると予想通り桜が満開。近所の人も写真撮影に興じていました。)

一際大きな社号標

桜に彩られた一の鳥居 (3月24日撮影)

一の鳥居に掲げられた扁額
石畳の参道は200m。直ぐ右手には神職の自宅が厳かに建ち、更に進むと
境内社の勝山稲荷神社を見て階段を上ると正面に見えるのが舞楽殿。
途中、桜の枝が参道に張り出し宛ら花道を行く心地。
訪れる人は皆、【賛同】してくれるものと信じます。

真直ぐに続く桜の参道

こちらが、神職の御自宅

参道に並んで神職の塀が続く
向日神社(むこうじんじゃ)は、
『延喜式にも登場する古社。社殿では養老2年(718年)創祀と伝えられる古社。
古くは向日神(むかひのかみ)を祀る上ノ社と火雷神(ほのいかづちのかみ)を祀る下ノ社があり、
前者は五穀豊穣、後者は祈雨・鎮火の信仰がある。
平安時代には山城国五社の一つに数えられている。
下ノ社の宮司は承久の乱では後鳥羽上皇側に付いたため敗北、
福知山の荘園・六人部荘(むとべのしょう)に身を隠した。
許されて戻った時には、下ノ社は荒廃。そこで建治2年(1276年)に下ノ社を上ノ社に合祀、
向日神社と改称し付近一帯の総鎮守となった。

参道の奥に微かに社殿らしきものが見える

境内社 勝山稲荷神社
応永29年(1422年)には近郷の七村が協力して本殿を再建した。付近は西岡と呼ばれたが、
明応7年1438年の西岡の土一揆は西岡向大明神に集結して蜂起したもので、
長享元年(1487年)には向日宮で「国の寄合」があるなど、山城国一揆勢の拠点の一つとなった。
神主は平安時代から六人部(むとべ)氏が継承、幕末の六人部節香(ときか)と
甥の是香(よしか)は平田派国学者として著名である。
また六人部暉峰(きほう)は竹内栖鳳門下の女流画家として知られる。』 とあります。

階段の先に建つ舞楽殿

舞楽殿と桜

拝殿前から見た舞楽殿
近隣では長岡天神(天満宮)が有名ですが、由緒はこちらがずっと古い。
平安時代から六十部(むとべ)氏が神職を務めるとガイドにはありましたが、
御朱印拝受の際に社務所で確認。対応下さった神職夫人の話では、
夫人 ; 「平安よりも古くて、奈良時代まで遡ります。」
私 ; 「神社は古い家系が多いですね。阿蘇さんとか海部さんとか。」
夫人 ; 「籠神社さんも古いですが、あちらは養子さんもいるので。うちは95代全て男系です。」
私 ; 「国宝の系図とかはあるのでしょうか?」
夫人 ; 「国宝ではないですが、文化財として保管しているものがあります。」
私 ; 「そういえば、以前「旅してゴメン」の撮影でウド鈴木さんが来られましたか?」
夫人 ; 「ええ、いらっしゃいました。それからは「テレビで見ました!」と
北海道から沖縄まで参拝者が大勢来られて、もうキャイーン状態でしたわ。」
と中々面白い話でした。

舞楽殿の前を右手に進み社務所へ

参集殿も兼ねた社務所
奈良時代云々はさておき、承久の乱で六人部荘に難を逃れた時が
一つの転機だった事は間違いなさそうです。
テレビ撮影では幼い男の子を抱いて居られたので、96代目までは先ず大丈夫のようです。
家系も伝統も継承するのは苦労が多い筈、キャイーンの末裔にならないよう注意しなければいけません。

向日神社説明書

向日神社御朱印
コロナのため書置きを拝受。
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中小路家住宅(国の登録有形文化財) 喫茶室にて雛人形を前に
五辻の分岐点を左へ進み西国街道を南下し、阪急京都線の線路を越えると上植野町下川原。
街道沿いは河原町と呼ばれ、白壁の土蔵や塀、門が連なり、往時の景観を今に伝えています。
そんな中で唯一見学できる施設が中小路家住宅。
唯、見学と言っても喫茶室併設なので、食事をしながらの見学ではあります。

阪急京都線を抜け西国街道を更に南へ

街道に立つ竹を象った街灯

竹の形の道標
中小路(なかこうじ)家は、
『菅原道真の一族で、太宰府へ左遷される道真に従った後、京へ戻り、
道真を祀る天満宮を、現在の長岡京市開田に造立したとされる。
上植野にある向日神社の御旅所前から東西へ延びる一本道は“中筋道”と称され、
復元された長岡京では大路に当たる由緒を持つが、これを姓にしたと考えられる。

中小路家に到着

北に隣接する御屋敷

こちらは御向かいの御屋敷

南に隣接する御屋敷
室町時代から戦国時代には、乙訓・西岡の土豪として活躍、本拠として開田城を築いた。
付近一帯に多い中小路家は、その子孫と考えられる。当家に伝わる延宝8年(1680年)以来の
古文書などから400年近く前から現在地に住まい、幕末には聖護院門跡領の庄屋を務めていた。
代々の当主が忠兵衛であったことから屋号を「河忠」と言い、古くからの農家であった。

中小路家の長屋門

喫茶メニュー

門から見た主屋

主屋の前の庭

庭に咲く花
中小路家は西国街道に沿った住宅で、敷地中央北寄りに建つ主屋に、上質な造りの座敷を備えた大形民家。
敷地内には高く腰板を張った土蔵造りの内蔵と外蔵、落ち着いた佇まいの離れ及び内門が建つ。
また西国街道に面して、南から軒まで漆喰塗り込めとした穀蔵、出格子窓を付けた長屋門、
これらと統一的な外観を持つ木小屋と塀が連なり、旧家の屋敷構えを伝えている。
現在の主屋については、弘化5年(1848年)正月に居宅建て替えを願い出た文書の付図と比べ、
大きく異なる点はなく、この年に造立され維持されてきた建物である。』 とあります。

主屋玄関前にて

展示中の雛人形

左上段の内裏雛と三人官女

右側は内裏雛のみ
中の工事もなく、予約なしの昼食。入口横の座敷にも雛壇が置かれ、
庭からも眺めることができますが、屋内にはそれにも増して豪華な雛人形が陳列。

主屋に展示中の雛人形 (左側)

同じく右側

正面の雛人形は戦前の仕様か?

有職雛

御簾越しに見る内裏雛
併設の喫茶店も【なかこうじ】ならば甘酒か味噌がメインかと思いましたが、意外にもイタリアンでした。
雛人形を見ながらの優雅なランチで、オムライス&レモンスカッシュのセットで¥1000はお得。
食後は熱いカプチーノを注いだアフォガードアイス ¥650 で〆。
アフォガードとは溺れる意味でそうで、いい意味で食事に溺れました。
その後、南の一文橋まで歩いてひな人形巡礼終了。かつて橋が洪水でしばしば流されたため、
架け替えの費用として通行人から一文づつ徴収したのが名前の由来だそうですが、
りーずなぶるなランチのお陰で【一文無し】にならなかったのは幸いでした。

雛人形を見ながらのオムライス

オムライスに続いてレモンスカッシュ
リュトンの形のグラスがお洒落。

最後はアフォガードアイスで〆

こちらは売り物の雛人形
干支の関係かウサギが目に付く。
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西国街道ひな人形めぐり 「ひな人形手づくりコーナー」にて
東海道の関宿で町並みと雛祭りを見た翌日は、うんと近場の西国街道へ。
3月1日~5日までの短期間ですが「西国街道ひな人形めぐり」が開催中。
新たな職場の近くとあって様子見を兼ねての散策でした。

イベントのパンフレット

阪急東向日駅西側にある西国街道分岐点

分岐点に建つ道標

築榊講常夜灯

常夜灯図解

向日市マンホール蓋
デザイン・色調共に優秀だが、MHCは未だ出来ていない。
向日市内ではJR向日町駅西口から阪急東向日を過ぎ、一文橋までの2㎞。
阪急東向日駅から直ぐの分岐点には天保13年(1842年)築の市内最大の常夜燈が建つが、
これは向日市寺戸町の伊勢講として江戸時代から続く築榊(つきさか)講が建立したものである。

キッチンタロー にて

キッチンタローでの展示

67号線との合流点付近にある須田家別棟

別棟入口に掲げられた屋号

玄関脇の道標
但し、これは最近になって建てられたもの。
この付近はかつて梅ノ木と呼ばれ、坂を登り切った場所で向日町になる。
昭和3年(1928年)に新京阪線(現在の阪急京都線)が開通して以来、
ここ西国街道沿いは商店が軒を連ね、通勤通学や参詣者で賑わった。

京料理 矢尾卯 の店先にて

矢尾卯の筋向いにある町屋
商店には見えないが、それっぽい造りに見える。

向日神社の向かいの musubi 助産院 にて

ちゃばな Cafe にて
西国街道は築榊常夜燈で206号線と分かれ、市役所付近で67号線と合流して南下し、
再び五辻で楊谷観音道と分岐と、分岐合流を繰り返して一文橋に至っている。
街道沿いには最初の合流点付近に須田家別棟が、一文橋手前には
中小路池住宅がかつての町並みを残している。』 とあります。

ひな人形手づくりコーナー にて
今回の展示では最も【雛数】が多い。

親王雛
これは東京 久月の製品。

有職雛
これは島津の製品。

ここから先はコーナーの方々の製作に拠る







古民家を利用しての雛人形展示と思っていましたが、展示しているのは街道沿いの店舗が中心。
ショッピングの傍らに楽しんで貰うというスタンスのようですが、休みの店舗も散見。
展示を見るのは無料ですし、お店が休みでもショーウインドウ越しにみえるので、
不都合はありませんが、町の活性化にはどうでしょう。これからも続く事を願いたいものです。

クリーニング つき山にて (五辻の北側)

つき山 の展示

㈱ 野村龍酒店

銘酒と雛人形

五辻の常夜灯

五辻で西国街道は再び分岐
町屋の奥に見えるのが石塔寺。

(有) 吉川工務店
阪急京都線の直ぐ北側。

雛人形 源氏枠飾り
これは他所より譲られたとか。
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<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:03) → JR大垣(8:37→8:40) → JR名古屋(9:14) → 近鉄名古屋(9:21) → (近鉄名古屋線) → 近鉄弥富(9:34) → 徒歩5分 → 歴史民俗資料館 → 徒歩8分 → JR弥富(10:08) → JR四日市(10:33→10:40) → JR亀山(11:07→11:14) → JR関(11:21)
関駅前 → 徒歩5分 → 関宿 → 関地蔵院 → 誓正寺 → 旧田中家住宅 → 會津屋・小万茶屋 → 旧落合家住宅 → 高札場跡・郵便局 → 深川屋 → 旅籠玉屋歴史資料館 → 旅人宿 石垣屋 → 橋爪家 → 伊藤本陣跡 → 三番町山車倉 → 鶴屋脇本陣波多野家 → 百六里庭(眺関亭) → 志ら玉前田屋製菓
【復路】JR関(13:21) → JR月ケ瀬口(14:12) → 徒歩5分 → 道の駅 → JR月ケ瀬口(15:13) → JR加茂(15:35→15:39) → (大和路快速) → JR大阪(16:54)

九関山 宝蔵寺 地蔵院(真言宗御室派)
鈴鹿山脈を控えた東海道の宿場として発展した関ですが、
元々は「関の地蔵さん」の門前町として発展したのが始まり。
・関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ
と言う俗謡もある程で、御本尊では日本最古の地蔵菩薩とか。
宿場のお雛様を見た後は順番待ちの昼食ですが、関の地蔵さんを素通りする訳にはいかず大急ぎで参拝。
実は平成5年5月1日に初めて関に来た際に「関の地蔵さん」は訪問済。
その時は拝観料を払って内陣も見ましたが、今回は外陣だけ。

国道1号線から東海道へと向かう道筋にて
白壁の向日が地蔵院。

塀の切れ目の向こうに本堂が
関の地蔵さんは、
『九関山宝蔵寺地蔵院(きゅうかんざんほうぞうじじぞういん)が正式名だが、
通常は地蔵院、関の地蔵さまと呼ばれる。
寺伝では天平13年(741年)、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、
僧行基がこの関の地にお地蔵様を刻んで安置したのが始まりである。
享徳元年(1452年)、愛染本堂の大修理に際し改めて開眼供養をしたのが一休禅師で、
禅師は自ら身に着けていた衣襟をお地蔵様の首に巻いて供養を行った。
これが後に、禅師の人柄と重なって次のような伝説を生む事に。

東海道西側から見た地蔵院築地塀と板塀
時は室町時代、この関に貧しい身なりの坊さんが通りかかる。
開眼供養をしようと思っていた村人は彼に依頼。すると坊さんは、
・釈迦はすぎ 弥勒は未だ 出でぬ間の かかるうき世に 目あかしの地蔵
と歌を詠んだかと思うと、いきなり地蔵菩薩の顔面に放尿して立ち去った。
怒った村人は、地蔵の身を拭い、改めて身なりの良い僧侶に読経を依頼、
僧侶は有難い説教も行い村人は涙を流して感激したと言う。
万事うまくいった、と喜んだのも束の間。村人の夢枕に地蔵が現れ
「折角、良い供養をして貰ったのに、何という事をしてくれた。」 と村人の口を借りて告げたという。
驚いた村人は、初めの坊さんを追い掛けてこの事情を話した。
すると坊さんは 「これを地蔵様の首に巻いて、儂の歌を三度唱えよ。」 と言って渡したのが自らの褌。
その坊さんこそ一休禅師で世間では褌を首に巻いて供養したと伝わる由縁である。
真偽の程は不明であるが、現在、地蔵様の首に涎掛けを掛けているのはこの開眼供養が始まりと言われる。

重文・地蔵院本堂

正面より見た本堂

手前に大きく張り出した向拝
ここを東海道の宿場に定めた家康も所縁があり、本能寺の変の直後、
伊賀越えで岡崎に戻る途中、関の瑞光寺に立ち寄っている。
今川時代の学友が住職を務めていたからだが、その時、
家康が食べた柿の種が生長した老木が今も境内に残ると言う。
江戸時代になるともう一つ有名な逸話が加わる。
或る日、ここに臨月の武家の奥方がやって来た。彼女は夫の仇討の旅の途中であったが、
俄かに産気づき旅籠会津屋で女の子を生むと間もなく他界。会津屋で育てられた女の子は
小万(こまん)と呼ばれ、後に見事父親の仇討を成就。その後は会津屋に戻って暮らしたと言う。
後世「関の小万の仇討」として知られるエピソードである。
会津屋は山田屋と変わったが、関の町並み保存地区の修景は旧山田屋(現・小万茶屋)から始まった。

地蔵院北側にある「会津屋」

会津屋東に隣接する小万茶屋
現在の本堂は四度目の御堂。徳川綱吉に拠って元禄13年(1700年)に落成した。
母親の桂昌院がこの地蔵菩薩を信仰された結果、綱吉の誕生を見たからと言われる。
本堂の天井画は元禄時代の絵師狩野永敬が十年の歳月をかけて描いたもので、
仏典に則って描いた174枚から成る。
本堂左手の愛染堂は文永4年(1267年)の建立で三重県内では最も古い建造物。
厨子は豊臣秀吉の寄進で、銀箔を押しその上から透かし彫りの模様を嵌め込んだ珍しい物である。
本尊の愛染明王は良縁と商売の神様で、古来より女性と商人の信仰を集めた。
毎年、8月26日の愛染祭りで御開帳される。

本堂に隣接(南側)にある重文・愛染堂

愛染堂近影
境内左手には鐘楼堂があり、建立は寛永11年(1671年)。
本堂・愛染堂とこの鐘楼堂が国の重要文化財に指定されている。
境内の奥に在るのが書院で、その中に一段高くなった部屋が行在所。
江戸時代には大名や公卿が参詣の折に休憩した場所である。
明治以降も明治11年、13年の二度に亘り天皇の行幸があり、
それ以後も皇族方が、休憩・宿泊されている。』とあります。

重文・鐘楼堂

鐘楼堂と内部の梵鐘

境内奥にある書院
前に「明治天皇行在所」の石碑が建つ。

書院の更に奥にあるここが行在所か?
開眼供養の逸話は、破天荒な僧侶であった一休和尚らしいエピソードですが、真偽の程は不明。
汚い袈裟を着て臨んだ法要で追い返されたので、煌びやかな袈裟で再訪。
出迎えた人々の前で、袈裟だけ置いて帰ったという逸話があるので、それが形を変えたとも言えます。
一方、家康が【随行】者と瑞光寺に立ち寄った話、小万の仇討は恐らく真実を伝えていると思えます。
このように三つもエピソードが残るのは珍しく、また古代の鈴鹿の関に由来する名前ではあるものの、
関と書けば岐阜県の関市と間違われ、関宿(せきじゅく)と書けば
千葉県の城下町の関宿(せきやど)と間違われる等、知名度は以前に比べるとやや低下。
関市は関孫六で知られる刃物の町、関宿は『潮来笠』の一節に登場するので無理もない気もしますが…。
30年前に伺った際には、拝観料¥800を払って内陣・庭園まで見学。
京都・奈良とは異なり¥800は高額と思いましたが、抹茶&御菓子付きを思うとりーずなぶる。
御朱印に対応下さったのは庵主様でした。
庵主 ; 「以前は京都に居て、こんな僻地は嫌なので御本尊を日夜拝みました。」
私 ; 「戻るように祈られてのですね。」
庵主 ; 「でも気が付いたら、ここにずっと居させて欲しいと祈っていました。」
私 ; 「それにしても、東海道でよくこれだけの町並みが残りましたね。」
庵主 ; 「お茶が枯れると猛反対があったみたいで。今思えば先見の明がなかったのかなぁ」
などと説法ならぬ世間話で盛り上がりました。
今ほど観光客もなく、丁度地元の檀家の方も同席されていたのも幸運でした。
抹茶&菓子付き拝観も、堂宇の内装を今風に改装したのも全て彼女の発案。
気さくで話し易い庵主様で、寺の営業に女性の目線を取入れるとお見受けしました。
また話を伺えるかと思っていましたが、以前に石薬師寺で聞いた話では、他所に移られたそう。
残念な話ですが、また何処かで思いがけなくお目にかかる気もします。

前回訪問で頂いた冊子型地蔵院パンフと拝観券

地蔵院御朱印 (平成5年拝受分)

関郵便局 ; 羽黒山、重文・地蔵院本堂
駆け足で地蔵院を見た後は昼食へ向かいますが、途中の長徳寺門前で何やら発見。
近付いて見ると御朱印自動販売機。墨書だけでなく書置きや判子タイプもあるので、
別段驚くに当たりませんが、遂にここまで来たかと言うのが正直な感想でした。

長徳寺山門前の御朱印販売機

販売中の御朱印一覧

御朱印の案内
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<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:03) → JR大垣(8:37→8:40) → JR名古屋(9:14) → 近鉄名古屋(9:21) → (近鉄名古屋線) → 近鉄弥富(9:34) → 徒歩5分 → 歴史民俗資料館 → 徒歩8分 → JR弥富(10:08) → JR四日市(10:33→10:40) → JR亀山(11:07→11:14) → JR関(11:21)
関駅前 → 徒歩5分 → 関宿 → 関地蔵院 → 誓正寺 → 旧田中家住宅 → 會津屋・小万茶屋 → 旧落合家住宅 → 高札場跡・郵便局 → 深川屋 → 旅籠玉屋歴史資料館 → 旅人宿 石垣屋 → 橋爪家 → 伊藤本陣跡 → 三番町山車倉 → 鶴屋脇本陣波多野家 → 百六里庭(眺関亭) → 志ら玉前田屋製菓
【復路】JR関(13:21) → JR月ケ瀬口(14:12) → 徒歩5分 → 道の駅 → JR月ケ瀬口(15:13) → JR加茂(15:35→15:39) → (大和路快速) → JR大阪(16:54)

関宿(東海道五十三次第四十七宿)
昔の町並みを活かした東海道のおひなさまは2月11日~3月5日まで開催中で、ギリギリセーフ。
東海道がほぼ東西に走り家は街道に面して建てられているので、街道を歩きながら素早く鑑賞。
鄙には稀な体験でした。
『地蔵院門前には関宿を代表する町屋が並ぶ。「会津屋」は関宿を代表する旅籠で、かつての名は「山田屋」。
仇討で有名な小万が育った家としても知られ、今は蕎麦屋となっている。
東に隣接するのは二階に洋風意匠の窓がある洋館屋、今は小万茶屋として営業し雛人形を展示。

旅館「あいづや」 は蕎麦屋として営業中

小万茶屋外観

小万茶屋内の展示

小万茶屋内の展示
同じ北側通りを東へ行くと、大きく間口の開いた落合家へ。
ここは街道からも見ることができますが、誘われるまま中に入ると、豪華な雛壇がお出迎え。
人形もここで【落ち合う】のでしょうか?

街道北側に建つ旧落合家住宅

旧落合家にて

内裏雛(落合家にて)

吊るし雛(落合家にて)
関宿を代表する銘菓「関の戸」を扱う深川家では内裏雛と宮中に運んだ菓子箱等を展示。
陸奥大掾と言うのは禁裏へ上がるに際し朝廷より下されたもの。
雛人形と御所への通い箱が並ぶのはどちらも内裏の所縁か?

銘菓「関の戸」を商う深川屋

内裏雛と内裏への通い箱

深川屋店内にて
二階の虫籠窓が白壁に映える玉屋は関宿を代表する大旅館の一つ。
「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われた。
今は江戸時代の貴重な建築に、当時使われていた道具類や、
庶民の旅に関係する歴史資料等を展示する資料館となっている。
ここと隣接する旅館石垣屋でも雛人形を展示。

白漆喰が一際目を惹く「玉屋」

いかにも旅籠らしい玉屋の店先

旅館「石垣屋」の展示

石垣屋の店先に立つ雛人形
橋爪家は代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商として江戸にも出店を持ち、
大坂の鴻池と並び称された豪商。江戸末期は芸妓の置屋として栄えた。
街道に面して手摺付き二階妻入建であるが、これは明治期の改造で元は平入屋根であった。
街道に面して三角形の屋根を見せるこの建物は関宿では珍しい。
ここでは江戸・明治・昭和に加え、昭和30年頃まで行われた掛け軸雛が展示されている。』
とあります。

橋爪家外観

橋爪家由緒

江戸時代の雛人形(橋爪家にて)

こちらは大正時代(橋爪家にて)

掛け軸雛(橋爪家にて)
途中、山車倉がありましたが、これはこの歴史ある町並みを舞台として7月末の二日間、
山車が巡行する祭礼に使用されるものでした。
かつて豪華な山車を見た村人が祇園祭を見てその豪華さに落胆したとか。
そこから「関の山」の諺ができたそうです。尤も日本三大祭りと比較するのも気の毒ではありますが…。

ショーウインドウ越しに見る雛飾り

格子越しに見る雛人形

はらや化粧品店にて

三番町山車倉
土産には「関の戸」と並ぶ銘菓「志ら玉」を8個購入。
「関の戸」に比べ賞味期限は短いものの1個¥100はお得でした。
ここの店内にもお雛様が飾ってあり「宝永雛」の表示が。
江戸の宝永年間の作かと驚きましたが、お店の方の話では娘さんに誂えたものとの事。
宝永とはきっと様式の事なのでしょう。放映されるかどうかは分かりませんが…。

「志ら玉」を商う前田屋製菓

店先に置かれた「志ら玉」
6個は土産、2個は帰りの列車内のおやつに。

展示の宝永雛

最上段の御内裏様
一通り街道を見て歩くと丁度1時間。それからお店に向かうとほぼ待ち時間なしの昼食でした。
高三の同級生に教えて貰った「初音」は初値ではないものの、大阪よりも¥1000程安い¥3180。
亀山市なので【みえ】を張った訳ですが雛祭なので自ら納得。
まあ、庶民の贅沢としてはこれくらいが【関の山】でしょうが…。

行列のできる「初音」に向かう

番号待ちの電光掲示板

上うな重

蓋には廣重の東海道五十三次の関がデザイン
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東海道から地蔵院、西の追分方面を見る
普通、JR関駅で下車して宿場へ向かうと付近へ出ますが、今回は店で予約した後なので、
出たのは地蔵院付近。全体ではかなり西寄りになります。そこで西から東の追分を目指して散策開始。
『古代に鈴鹿関があった関は中世には関氏が城を構えたが、整備されたのは江戸時代。
徳川家康が五街道を整備し、関は東海道五十三次の江戸から47番目の宿場として
参勤交代やお伊勢参りの人々などで賑わった。
関宿の範囲は東西追分の間約1.8㎞、25ヘクタールに及び、
東の追分は伊勢街道、西の追分は大和街道との分岐点となっている。

遠くに鈴鹿山系を望む

西へ向かうと山が近づく
この1.8㎞の区間に江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町屋が200軒余残る。
現在、旧東海道の宿場町の殆どが旧態を留めない中にあって、名古屋の鳴海(有松)と共に
歴史的な町並みが残る事から昭和59年、国の伝統的建造物群保存地区に選定された。
関宿の町屋は、平入の二階建てが一般的であるが、二階前面を土壁で覆った塗籠もあり目を惹く。
庇の下に取り付けられた幕板は風雨から店先を守る霧除けである。
店の前にはばったり(揚げ店・店棚)と呼ばれる上げ下げできる棚が付けられており、
商品を並べたり街道を通る人が座ったりする機能がある。
座敷の出格子窓は明治以降に付けられたものである。

街道南側に建つ町屋
座敷の前に取り付けられた出格子。昔風に建築したものか。

これも南側の町屋
出格子と袖卯建(そでうだつ)が見える。

庇の下に取り付けられた幕板

内側から見た幕板
板穴は開閉できるようになっている。

街道北側の町屋
町屋の特徴がほぼ全て揃っている。
また商家には庵看板と呼ばれる瓦屋根の付いた立派な看板が挙げたれているが、
その文字は京都側が漢字、江戸側がひらがなと、旅人が方向を間違えない様に工夫されている。
また町屋には漆喰細工や瓦細工など細部の意匠に工夫が凝らされたものが多くあるが、
これは職人が子孫繁栄・家運長久などを願って技を競ったものである。

街道から見える場所に飾られた雛人形

地蔵院付近北側の町屋
「ANTIQUE 江戸屋」 とあるが何を商っているのかしらん?

同じ並びに建つ「ナガオ薬局」
右書きの看板も大概だが、株式会社塩野義商店特約というのが時代を感じる。
宿場の中央付近にはかつての高札場跡。
復元された高札が掲げられたこの場所は関宿のほぼ中央、今は郵便局になっており、
町並みに外観を合わせた建物と、黒色の集配ポストが目を惹く。

かつての高札場跡に復元された高札

高札場跡にある関郵便局

郵便局前の黒ポスト
単なる飾りではなく、今も現役で活躍中。
伊藤本陣(松井家)は川北本陣と共に関宿に二軒あった本陣の一つ。
大名・公卿・高僧など身分の高い人が宿泊した。
伊藤本陣は間口十一間、建坪69坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺。
現在残っている街道に面した部分は、家族の住居と大名宿泊時に道具置き場に供する建物である。

伊藤本陣址

本陣解説
もう一つの川北本陣跡の東に隣接して建つのは、鶴屋脇本陣(波多野家)。
玉屋・会津屋と並んで関を代表する旅籠の一つで、江戸時代後期には脇本陣も務めた。
鶴屋は代々西尾吉兵衛を名乗ったので西尾脇本陣とも呼ばれ、身分の高い人達の宿泊の用を務めたが、
平素は一般庶民も泊まる事が出来たと言う。二階避面に千鳥破風がその格式を示している。

鶴屋脇本陣

脇本陣解説
両本陣の傍に建つのが百六里亭(眺関亭)。
関宿の町並みの中にできた小公園で江戸から百六里あることからの命名である。
通りに面した眺関亭からは関宿の町並みが一望できる。』 とあります。
今までの関訪問は宿場中央から東追分が主。
雛祭の展示も西側は少ないとあって町屋をゆっくり見ることができました。

脇本陣前から東追分方面を見る

白漆喰が【しっくい】くる町屋
左の白漆喰の建物が眺関亭(ちょうかんてい)。

眺関亭2階からの眺め
大きな屋根が地蔵院。

関のマンホールカードと町カード
旧田中家付近で、パンフを見ながら写真を撮っていると
年配の御当主が家の外に出られていたので、説明を聞く事が出来ました。
当主 ; 「昔の家は、必ず玄関が江戸側、座敷が京側に造られてます。」
私 ; 「それはまたどうして?」
当主 ; 「昔の壁は薄かったので、座敷の話が隣にまる聞こえになるのを防ぐためですな。」
当主 ; 「二階の壁に付いている輪っかの用途はわっかりますか?」
私 ; 「1階部分は馬繋ぎの環金具ですけど、キリンでも繋ぐのですか?」
当主 ; 「あそこは祭りや行事の時に幕を掛ける金具ですわ。」
私 ; 「こちらは中庭がありますね。」
当主 ; 「東海道が東西に走っているので、入口が北向きか南向き。日光が入るためです。」
とガイドには載っていない話を伺うことができました。

旧田中家
旧と付くが現在の田中氏が居住されている。中庭と東側玄関が見える。

二階の壁に付けられた金属の輪

旧田中家付近の町屋
中庭と東側玄関は共通点。
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関駅前 → 徒歩5分 → 関宿 → 関地蔵院 → 誓正寺 → 旧田中家住宅 → 會津屋・小万茶屋 → 旧落合家住宅 → 高札場跡・郵便局 → 深川屋 → 旅籠玉屋歴史資料館 → 旅人宿 石垣屋 → 橋爪家 → 伊藤本陣跡 → 三番町山車倉 → 鶴屋脇本陣波多野家 → 百六里庭(眺関亭) → 志ら玉前田屋製菓
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JR関駅前にて
奥を走るのは国道一号線。
雛祭の翌日、春の18きっぷで鄙へとお出掛け。最寄りは関西本線の弥富駅ですが、
始発列車や運行本数の関係上、東海道本線で名古屋まで行き近鉄名古屋線で弥富へ。
地図上は遠回りですが時間的には30分以上早く到着し、野暮用を済ませたのは10時過ぎ。
そのまま来たルートを帰るのも芸がないので、ひたすら関西本線で大阪を目指す事に。

この日の目的、弥富市マンホールカード
配布場所は弥富市立歴史資料館にて。
関西本線は名古屋から難波までを結ぶ170㎞の路線。
国鉄時代は東海道本線と並んで名古屋~大阪のメインルートで集客のために
豪華列車を走らせる、土産を持たせるといった熾烈な争いがあったのは有名ですが、それも今は昔。
全線複線電化の東海道本線に対し、単線電化の名古屋~亀山区間、
単線非電化の亀山~加茂間を持つ関西本線は大きく水を開けられました。
それでも昔は急行「かすが」が名古屋~奈良間を運行していましたが…。

関駅跨線橋上から名古屋方面を見る

同じく跨線橋上から見た駅舎と鈴鹿山脈
降りたのは非電化区間の関駅。翌5日まで開催されているひなまつりと
昼食を摂るための下車でしたが、降りたのは私を含めて数名。
駅の待合室兼喫茶スペースでは祭に合わせて雛人形が展示中。

駅構内で展示中の親王雛

これは内裏雛
雛人形も色々な【ケース】がある模様。

吊るし雛の奥に走る関西本線
『関は古代からの交通の要衝、古代三関のひとつ「鈴鹿関」が置かれ、
関の名もこの鈴鹿関に由来している。
鈴鹿関が初めて歴史に登場するのは古代最大の内乱である壬申の乱。
大海人皇子が鈴鹿・不破関を固めたという記録が残る。
延暦8年(789年)、桓武天皇に拠って三関は廃止されるが、
その後は天皇の崩御や政変等が起こる度に儀式としての固関が行われた。
鈴鹿関跡の詳細な位置や規模などは分からなかったが、近年の発掘調査で
聖武天皇に拠って整備されたと見られる西限の城壁が確認されている。』 とあります。

町屋をイメージした駅舎

国鉄時代の駅スタンプ
中々立派な出来栄えだが、サイズも一辺102㎜と豪華。

現在の駅スタンプ 「わたしの旅」類似印

駅前に立つ関宿案内図
かつての鈴鹿の関があったことからの命名ですが、今でも旧東海道、国道1号線、
関西本線が北から100m程の距離に並ぶことからも分かります。
関所が置かれるのは山が両側に迫り通過するのが狭い所に限られますから、
当然ではありますが…。

国道1号線から東海道へと向かう道

宿場への案内板

案内板横にある歌碑
国道1号線沿いにあるお目当ての店に行くと昼時でもあり満席。
36番の順番カードを貰いましたが、お店の方の話では約1時間待ち。
その待ち時間で東海道と雛祭という二つの関の【町時間】を過ごすことになりました。

1号線沿いの行列のできる店に名前を書く

1号線を挟んで店の向かいに建つ石の地蔵様

家の間を抜けいよいよ東海道へ
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> JR・阪急共に10分間隔で運転
【JRルート】JR大阪 → JR伊丹 → 徒歩8分 → 旧岡田家住宅
【阪急ルート】梅田 → 塚口 → 阪急伊丹 → 徒歩8分 → 旧岡田家住宅

旧岡田家住宅(国の重要文化財)
如月も末の六日、曙の空朧々として、ちと野暮用のために伊丹を訪問。
行先は旧岡田家住宅で、JRからも阪急からもほぼ等距離と駅近く。
10時の開館と同時に用事は無事終了。普通ならそのまま帰宅するところですが、
この時期 令和5年2月4日(土)~3月4日(土)
の期間で「ひなかざり」が無料で開催中。
これは見逃す手はないと、そのまま邸内を見学する事に。
JR西口から阪急へ向かう伊丹酒蔵通りから一本北にある東西の通り、
近代的なビルや住宅街の中にあってタイムスリップしたかのように
旧岡田家・旧石橋家と江戸時代の町屋が並びます。

通りから見た岡田家全景

重文・旧岡田家住宅

伊丹市マンホールカード 同市内では4種目
この日の野暮用はこの入手。

道路沿いに設置された同じ図柄のマンホール蓋
旧岡田家住宅は、
『上方から江戸へと酒を運ぶ江戸積酒造業を基幹事業として繁栄した伊丹の実業家。
その邸宅は延宝2年(1674年)の建築。現存するものの中では町屋は県内最古、
酒蔵が国内最古で、国の重要文化財となっている。

杉玉と看板の下がった入口から屋内へ
暖簾の三つ鱗は家紋?

店舗に置かれた雛飾り
明治時代の雛飾りは明治40年(1907年)頃のもので、平成7年に市民より
旧伊丹市立博物館に寄贈されたもの。現在は市立伊丹ミューゼアムが所有。
最上段には内裏雛が黒塗りの御殿に鎮座し、前には三人官女が並ぶ。
下段には嫁入り道具や台所道具のミニチュアが並ぶが、これは当時の風習と考えられる。

明治時代の雛飾り

手前に置かれた生活道具のミニチュア

最上段に置かれた内裏雛と三人官女
大正時代の雛飾りは当館の柿衛文庫の所蔵。
最上段に内裏雛・三人官女が並ぶのは明治期と同じだが、
建家は白木の神社拝殿を模した造りと変わっている。加えて下段には、
結婚式に使用する打掛、御付きの女性と思しき立ち姿の人形が置かれている。

大正時代の雛飾り

手前に置かれた立ち姿の人形

最上段の内裏雛と三人官女
旧岡田家住宅は、正面に店舗、奥に酒蔵、その間に釜屋・洗い場が並んでいる。
建設時期は店舗が江戸前期の延宝2年、酒造は少し遅れて正徳5年(1715年)頃と考えられている。
釜場・洗い場は江戸後期に建てられ、その後大きく改造されて今に至っている。
建立から酒造廃業までの310年間に五次に亘る変遷があり、酒蔵の増築や窯場の増改築等、
様々な改革が行われた。これは醸造技術の改良や酒造規模の拡大が原因と考えられ、
詳細は阪神淡路大震災後の解体修理に伴う建物調査と内部の発掘調査に拠り明らかになってきている。

これは酒米の洗い場

洗い場横の井戸
ここからの水で酒造りをするとか。

洗い場・井戸の解説

かつての竃
学芸員の方の話では、酒米は炊くと柔らかくなりすぎるので蒸すくらいが丁度良いにだそう。

釜場・竃の解説
建立者は江戸前期の酒造家・松屋与兵衛であった事が古文書等から推定される。
蔵の所有は享保14年(1729年)に鹿島屋清右衛門に渡り、明治に入り安藤由松を経て
岡田正造へと渡り、昭和59年(1984年)まで㈱大手柄酒造の北蔵として酒造りが行われて来た。
ここで醸造されていた酒は、江戸時代には松緑(まつみどり)、岡田家の所有となって以後は、
富貴長(ふきちょう)・大手柄(おおてがら)が主要銘柄であった。
この良質な酒造りの伝統と文化は2020年に『「伊丹諸白」と「灘の生一本」下り酒が生んだ銘醸地、
伊丹と灘五郷』として「日本遺産」に認定されている。』 とあります。

醪(もろみ)の絞り機

天上の造り
昭和の雛人形は自宅も含め何度も目にしていますが、明治・大正期はこのような展示で見るくらい。
雛壇を飾る経済的余裕がなかった家庭が多かったためでしょうが、
その分職人の技術を集めた秀作が多い様にも見えました。
伊丹の酒造は、戦国武将山中鹿介幸盛の子である新六幸元が大叔父を頼って伊丹の鴻池に逃れ、
この地で清酒醸造を始めた1600年頃まで遡ります。清酒は江戸に運ばれ莫大な利益を得ました。
当時江戸の醸造業はまだ開発途上で、伊丹の酒は上方からの下りものとして絶大な人気を誇ったようです。
反対に下って来ないものは人気がなかった訳でこれが後世 「下らない」 の語を生みます。

かつて醸造された銘柄を展示
勿論中身は空だろうが…。
新六幸元の八男善右衛門は大坂に出て酒造りで得た資金を元に両替商に進出、
江戸時代には鴻池家として西日本屈指の大商人に成長します。
鴻池の発展の基礎が酒造りなのは聞いた記憶がありますが、
祖先が尼子十勇士の山中鹿介と言う真偽は如何に?単に伝説と思っていましたが、
学芸員の方の話では信憑性は高いそうです。
中国地方の覇権は毛利氏に奪われましたが、その家臣が西日本の経済圏を牛耳った事で、
尼子氏も以て瞑すべしでしょうか?

伊丹清酒造りの沿革

鴻池家の始祖二人
清酒の製法は戦国末の大和の正暦寺が発祥ですが、その技術者を京の伏見・摂津の伊丹が
引き抜いて江戸時代に発展を遂げます。酒造りに欠かせない水に恵まれた事もありますが、
できた酒を販売する交通網を持った事が大きかったように思います。
その伊丹の発展も後には灘に移る事に。猪名川水系よりも兵庫の港の方が酒の大量輸送に
向いていたからでしょうが、それに伴い当時の杜氏も多くが移った事でしょう。
正暦寺と同じ運命ですが【伊丹】分けと言った所でしょう。

ミューゼアム2階からの眺望
左手奥が岡田家、手前が石橋家。
醸造家には文化芸術に造詣が深い人も多いですが、岡田家22代当主・岡田利兵衛は
その代表格。岡田利兵衛は
『国文学者として梅花・聖心で教鞭を採る傍ら、松尾芭蕉研究でも知られ、多くの俳諧資料を蒐集。
岡田家の庭には台柿という見事な柿の樹があったが、その柿を衛るという意味を込めて
柿衛(かきもり)を号とした。
そのコレクションは「柿衛文庫」として隣接する市立伊丹ミューゼアムが所蔵している。
後に伊丹市長、名誉市民にもなった。』 とあります。

ミューゼアム横の庭園
資料館の売店で、岡田利兵衛に関する冊子を¥500で購入。
そこには家族写真もありましたが、中には三男の節人(ときんど)氏の学生時代の写真も。
節人氏は発生生物学の泰斗、京大・岡崎基礎生物学研究所を経て文化勲章受章。
私も氏の岩波新書・ブルーバックスの著作や講義でその謦咳に接しました。
生物学者でしたが源氏物語や俳句など文学に関する発言も多かったのは、
この生い立ちを思うと納得です。
尚、節人氏も晩年伊丹名誉市民になったそうで、親子二代に亘る快挙になります。

購入した岡田利兵衛(柿衛)伝の冊子 ¥500

伊丹桜ケ丘郵便局 ; 重文・旧岡田家住宅、旧西国街道道標
伊丹船原郵便局 ; 重文・旧岡田家住宅、酒造り風景
[参考書]
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<コース>
【往路】JR天王寺(6:18) → JR加茂(7:26→7:33) → JR月ケ瀬口(7:57) → 月ヶ瀬駅前(8:45) → (臨時バス) → 尾山口(9:00)
徒歩5分 → 梅林入口 → 真福寺 → 一目八景 → 帆浦梅林 → 梅林公園 → 天神神社・天神梅林 → 代官坂 → 月ヶ瀬橋 → 一目万本 → 奥の谷梅林 → 龍王梅林 → 八幡橋 → 紅葉の小道 → 梅の資料館(月ヶ瀬橋畔) → 尾山口
【復路】尾山口(13:40) → (臨時バス) → JR月ヶ瀬駅(13:55→14:12) → (関西本線) → JR大河原(14:18) → 徒歩8分 → 恋志谷神社 → JR大河原(15:19) → JR加茂(15:35→15:39) → (大和路快速) → JR大阪(16:54)

戀志谷神社(南山城村天満宮末社)
観梅帰りの列車では一駅先の大河原で下車。京都府下で唯一の村で、
駅周辺にはコンビニも見当たりません。
そんな場所で降りたのは以前に駅で押印したスタンプの図柄が気になったから。
その名も「恋志谷(こいしだに)神社」と言い無人の小さな社ですが、恋愛成就に御利益があり、
毎年4月2日と9月2日の大祭には御守りを求める長蛇の列ができるそう。

簡素なJR大河原駅舎
一応有人駅という事だが、この時間帯は閉鎖中。

以前に押印した大河原駅スタンプ
2006年JR西日本支社印の類似印。

駅前にある案内標識
向こうに橋が見える。
駅を降りると直ぐ目の前に木津川が流れ、目的の神社は向こう岸の集落に。
そこで100m程下流に架かる橋を渡ることになりますが、橋の名前は通称恋路橋。
正式には大河原沈下橋と言って洪水でも流出を防ぐ先人の知恵ですが、
沈下橋は四万十川ばかりと思っていました。
川面からの距離が短いから良かったものの、欄干がない橋はかなり慎重に渡る破目に。
私の後に自動車が平然と渡って行きましたが、習慣とは恐ろしいものです。
この木津川を下って行くと八幡市には流橋があり、木津川は差し詰め橋の博物館。

下流より見た恋路橋

欄干のない橋を往く
直ぐ後に、自動車も通って行った。
橋を渡って坂を上ると集落があり、その突き当りが目指す神社。
入口には石鳥居が建ち、右に天満宮社、左に少し小さい戀志谷神社の社号標が建ちます。
この社号標の大小はそのまま境内奥の社殿の大きさにも反映する事に。

入口に建つ石鳥居と両社号標

柳生宗冬が寄進した石鳥居

石鳥居の由緒記
戀志谷神社(こいしだにじんじゃ)は、
『鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)、倒幕の計画を知られた後醍醐天皇は
京都を脱出し笠置山に籠って挙兵。
それを天皇に想いを寄せていた妃が聞きつけ、伊勢で病気療養中にも拘らず駆け付けたが、
既に遅く、天皇は幕府から逃れるため、笠置を去った後であった。

椿の花の活けられた手水舎

手水舎脇の狭い石段を上り社殿へ

石段を上った先から境内を眺める
勿論、右の大きい方が天満宮社。
妃は悲しみと長旅の疲れから病が再発。
「恋に焦がれ病に苦しむような事は、自分一人で十分。私は人々の守り神になりたい。」
と言い残して自ら命を絶った。
これを哀れに思った人々が祠を建て祀ったのが当社の始まりである。
妃は最期まで「天皇が恋しい、恋しい」と言い続けていた事から、
いつしか「恋志谷さん」と呼ばれるようになった。

左側に建つ戀志谷神社
駅スタンプはこの構図。

戀志谷神社口碑
但し、摩滅して判読し難い。

戀志谷神社口碑伝説
これがあると分かり易い。

石段の先に建つ戀志谷神社本殿

戀志谷神社本殿近影

右に建つ天満宮社にも参拝

天満宮社の下に並ぶ石灯篭群

石灯篭解説

解説にある天文14年造立の灯篭はこれ?
元は古森と呼ばれた地に祀られていたが、江戸末期の元治元年(1864年)、
この地にあった天満宮社に合祀された。
天満宮は、江戸時代初期に柳生藩第三代藩主柳生宗冬が勧請したと伝えられ、
入口の石鳥居は正保4年(1647年)に建立寄進されたもの。
ここは父宗矩や二人の兄(十兵衛・友矩)も好んだ一族所縁の地で、
藩主としてここを重要視したのが覗える。』 とあります。

天満宮本殿

両本殿の間に建つ伊勢神宮遥拝所

天満宮の右手には、橿原神宮遥拝所と大川神社

更に右手には山の神
奥さんが参拝するのかも。

並び立つ二つの本殿
なにやら月ヶ瀬で聞いたのと似た話ですが、妃は全くの別人。
いずれも後醍醐天皇がらみですが、立川流の熱心な信者で
側室だけで20人を超えた帝としては、そのような事もあったのでしょう。
歴史の教科書とはまた違った評価になります。
神社へは木津川に架かる大水時には沈む沈下橋を渡りますが、橋の別名は恋路橋。
ここを歩いて渡ると恋愛成就する言い伝えですが、沈下橋ならば恋に溺れる危険がありそう。
唯、失恋しても【木津】が癒してくれるでしょうが…。

本殿から見た御神木

本殿の裏山では木々が養生中
印象では榊に見えるが…。

境内にある舞殿
その奥にあるのは参集所か?

レトロな舞殿の屋根裏

境内左手の社務所
春と秋の大祭でも使用するのかしらん。

神社説明書
御朱印はないが、これは持ち帰り用に設置してある。
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鎌倉幕府はなぜ滅びたのか (543) (歴史文化ライブラリー 543) 新品価格 | ![]() |

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<コース>
【往路】JR天王寺(6:18) → JR加茂(7:26→7:33) → JR月ケ瀬口(7:57) → 月ヶ瀬駅前(8:45) → (臨時バス) → 尾山口(9:00)
徒歩5分 → 梅林入口 → 真福寺 → 一目八景 → 帆浦梅林 → 梅林公園 → 天神神社・天神梅林 → 代官坂 → 月ヶ瀬橋 → 一目万本 → 奥の谷梅林 → 龍王梅林 → 八幡橋 → 紅葉の小道 → 梅の資料館(月ヶ瀬橋畔) → 尾山口
【復路】尾山口(13:40) → (臨時バス) → JR月ヶ瀬駅(13:55→14:12) → (関西本線) → JR大河原(14:18) → 徒歩8分 → 恋志谷神社 → JR大河原(15:19) → JR加茂(15:35→15:39) → (大和路快速) → JR大阪(16:54)

資料館前に建つ石碑
北岸にある梅林公園からは曲がりくねった代官坂を降りると名張川河畔に出ます。
そこに架かる朱色の月ヶ瀬橋を渡り対岸へ、そこから川を下って次の八幡橋までの間がもう一つの梅林。
行政区では桃香野(ももかの)築、梅林があるのに桃香野とはこれ如何に?

代官坂からの眺め

奥の谷梅林付近に建つ石碑

梅の向こうに見える八幡橋

道路標識に記された桃香野(ももがの)

ガイド記載の桃香野地区
ここの梅は斜面ではなく専ら川沿いに植えられており、北岸とはまた違った趣ですが、歩く人は疎ら。
やはり尾山口から遠いせいでしょうか?と思っていると橋の袂の駐車場には大勢の人が。
「湖畔の里つきがせ」と言う施設がありました。
奈良県側から月ヶ瀬に来る場合には、こちらが玄関口。人が多いのも頷けます。

八幡橋南岸から桃香野地区を望む

湖面に梅が映える

「湖畔の里 つきがせ」 の駐車場
奈良市内側からの入口は梅林西側のこちらになる。

八幡橋上から見た「湖畔の里 つきがせ」

「湖畔の里 つきがせ」入口
道の駅ではないが、似た内容の施設である。
丁度、お昼時なので、「湖畔の里つきがせ」にて昼食。かやくご飯+梅うどんセット¥880と梅ソフト¥350。
普段は梅うどんというメニューは滅多に見ませんが、梅林では頻繁に登場。
あっさりした口当たりが好まれるからでしょうが、もう少し広まって欲しい気もします。

かやくご飯+梅うどんセット ¥880

食後の口直しは 梅ソフト ¥350
中には梅肉が入っている。偶然にも服の色と同じ。

施設入口に建つ月ヶ瀬のゆるキャラ 二人?

施設周辺の満開の梅

レストラン前にある梅の古木 「白髭の梅」

「白髭の梅」解説
食後は八幡橋から再び北岸へ渡り、紅葉の小道を歩いて月ヶ瀬橋へ。
【橋から橋まで】ぐるっと一周した事になります。
月ヶ瀬橋北側の「梅の資料館」では梅まつりに合わせて月ヶ瀬所縁の文人の作品を展示中。

北岸に続く「紅葉の小道」
斜面の茶畑は、明治以降梅林から転作されたもの。

紅葉の小道
秋には深紅のトンネルに変わる?

月ヶ瀬橋北岸に建つ 「梅の資料館」
売店(1階)、資料館(2階)、展望台(3階)となっている。

資料展の案内

ゆるキャラを描いた台紙に押印した記念スタンプ
『梅林が渓谷を挟んだこの梅渓は、江戸時代後期から風雅を好む文人墨客に讃えられ、
その景色を愛でる詩文が詠まれた。そこから多くの著作品が出版された事も月ヶ瀬の名を高めた。
天神神社脇には頼山陽の漢詩碑が建つ。耶馬渓の目付け親でもあり
江戸時代を代表する歴史学者であるが、月ヶ瀬を一躍有名にしたのは齋藤拙堂。
江戸末期の漢学者・齋藤拙堂は紀行文にも優れ『月瀬記勝(乾・坤二巻)』に記された
「梅渓有遊紀記」は大和の月ヶ瀬梅渓を全国的に有名にした。
これは漢詩集であるが、要所に挿画もあり廉価で入手できたことも手伝って、
人々の間で月ヶ瀬の名を不動のものとした。

資料館2階の展示室

富岡鉄斎の揮毫

鉄斎の描く月ヶ瀬

鉄斎の画の続き
また明治・大正期に活躍した文人画家・富岡鉄斎は月ヶ瀬の自然を好み数多くの山水画を残した。
当館所蔵の「月瀬図巻」は清荒神清澄寺より寄贈された貴重な作品である。』 とあります。
景勝地に石碑があるのは当然で、ここにも漢詩や歌碑がありました。
最も良い場所に建っていたのは頼山陽。
資料館の解説では齋藤拙堂の方が相応しく思いますが、やはり世間一般の知名度の差でしょうか?

資料館前から見た旅館と枝垂れ梅

龍王梅林に建つ谷崎潤一郎の歌碑

谷崎潤一郎の歌碑の釈文
植林山華は大和の書家で、歌碑の文もこの書家の手になるもの。

天神神社脇に建つ頼山陽詩碑

詩碑近影

山陽詩の書き下し文
山陽外史とあるので『日本外史』の一節か?

詩碑裏面の解説
などと考えながら散策路を歩いていくと、現代の歌詞を彫った石碑があり
スピーカーからは聞き覚えのある声が。
見ると八代亜紀さんが歌う御当地ソング「月ヶ瀬小唄」。
歌自体は大分前に発売されていましたが今まで聴いた記憶はなく、あまりヒットしなかったのでしょう。
私的には〇〇小唄というのが、前時代的な印象。
いっそ「月ヶ瀬ブルース」や「梅の慕情」ならばと勝手な妄想をしてしまいました。

「月ヶ瀬小唄」歌碑

歌碑の説明
建立は令和元年とつい最近。

八代亜紀さん手植えの梅

植樹の解説と植樹時の一句
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月ヶ瀬梅渓 天神梅林への橋
帆浦梅林に続く遊歩道を進み、赤い欄干を渡ると天神梅林。
名前の由来は、最も高い場所に建つ天神神社に由来。天神神社は、
『元久2年(1205年)、真福寺境内に菅原道真を祀る産土神として天神社を祭祀したのが始まり。
その際、神霊を慰めるため道真の好んだ梅を植えたのが月ヶ瀬の梅林の嚆矢とされる。

懸造り?ではないが、斜面に建てられた茶店

梅林への案内板


名張川の眺め
時代は下って元和元年(1615年)、加賀藩三代藩主前田利常は大坂夏の陣の帰路、
尾山天神に立ち寄り前田家安泰二千日の祈願をなし、元和7年3月に満願の碑を建立したと伝わる。
その碑にある両天神とは尾山神社と分神勧請された金沢城内の尾山天神を指すとされる。
碑文は四百年の風雪に晒されて目読する事が出来なかったが拓本に拠って判読された。

これは蝋梅

紅枝垂れ梅

天神神社

前田家と天神社の関り

神社と梅林の由来
明治17年(1884年)、真福寺境内から絶景のこの地に社を移祀している。
天神様である菅原道真の他、月ヶ瀬梅林の黄偈となった姫若も合祀している。』
とあります。

満願の碑

満願碑解説

天神社脇からの眺め

平地の少ない斜面なので、神社も祠が建つだけで社務所はなく無人。
元は真福寺境内に建てられた事、創建年代も後だった事を考えても月ヶ瀬梅渓の起源は
当社ではなく真福寺だったのは確実。
と言っても産業としての月ヶ瀬の梅は真福寺ですが、最初に植えられたのはここ天神社。
真の発祥の地が当社なのは嘘ではありません。
現在の地は梅林の中心にある高台で、土産店に加え宿泊所もあり、
美晴荘と名付けた旅館は皇室の方も泊まられたとか。
まさか梅林の中に宿泊できるとは思いも寄りませんでした。

美晴荘別館の玄関

別館の沿革

別館は食事だけの利用も可能

美晴荘本館(右)と美晴荘経営の茶店
別館は正面奥左手にある。
加えて、当社は近世になって加賀藩の庇護も受けます。
尾山神社と言えば、金沢を連想しますが、あちらは明治以降の創建なので、
当社が先。名前が同じなのは偶然でしょうか?
前田利常が領国から離れた当社に参詣した理由は分かりませんが、前田家の家紋は梅鉢紋で、
公式には姓は菅原氏。そのような由縁で当社に白羽の矢が立ったのでしょう。

天神社脇からの眺望
名張川に架かる朱い橋が目指す月ヶ瀬橋。

天神梅林から代官坂へ

代官坂から見た斜面の梅林

九十九折?の代官坂を下る
正面の幟が建つのも坂の一部。
前田家菅原氏は、大名家が幕府に提出した由緒に拠るそうですが、真偽の程は不明。
そのことは藩主自身が一番良く分かっていたに違いありません。
尤も、この点に関しては菅原家からクレーム等は一切なかったとか。
先祖を偉くするのは、自身が偉くなるのが最大の近道というのは古今東西変わらぬ真理のようです。

ここから先は「春告げの小径」と優雅な名前で呼ばれる。

「春告げの小径」から見た月ヶ瀬橋
橋の右手に建つのが梅資料館。

小径は最後に川沿いの82号線に合流
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月ヶ瀬梅渓 一目百景の眺望
・春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる 凡河内躬恒
梅渓発祥の寺院参拝に続きいよいよ梅林散策。花も勿論ですが、
それにも増して辺り一面に漂う香りに圧倒。馥郁というのは文学だけの表現と思っていました。
散策スタートに当たり先ずは梅林入口で腹ごしらえ。
店先で焼いていた草餅に惹かれたのが正直な所で、花より団子を地で行く話です。

これから向かう梅園の案内板

貰ったパンフの地図ではこうなる
梅園入口にある二軒の店は早朝から営業中。その内、近い方の「梅香」さんで焼餅購入。
食べ歩き覚悟でしたが、お茶まで出して頂き一服。長谷寺門前もそうですが、
大和は草餅が名物の様子。梅の里では鶯餅にはならないのでしょうか?

草餅に並んだ行列

盆梅を眺めながら暫し休憩

様々な盆梅が並ぶが全て売り物
焼餅を頂いた店の周囲は梅の盆栽が並んでいましたが、食事だけでなく、
梅干・盆梅など梅に関するう【めぼしい】ものを扱って居られる様子。
偶々出て居られた店の御主人に伺うと、梅は食用・観賞用に見事に分かれているそうで、
盆梅からは梅干しは採れないそうです。

店の裏にある梅の巨木
樹齢数百年かと思いきや、御主人の話では50~60年程だとか。

白梅の盆栽

購買意欲をそそる紅梅の盆栽

これも店の裏にある枝垂れ梅
道標から梅林へは坂を上り、名張川の北側の尾山地区の【おやま】にある梅林へ。
尾山と言う名は山の尾根の部分にあるからの命名でしょうが、月ヶ瀬梅林は
名張川(月ヶ瀬川・五月川)の両側の約3㎞に亘って東西に続く名勝地。
川は下流で木津川に合流しますが、かつては川が深い谷を形成する渓谷。
月ヶ瀬梅林ではなく、月ヶ瀬梅渓と呼ばれるのはそのためです。
しかし1959年に高山ダムが出来、それに伴って渓谷は水没しダム湖が形成。
今は、穏やかな川面に梅が映えます。

梅の向こうに見える月ヶ瀬湖
高山ダムに拠って名張川が堰き止められてできた。
『月ヶ瀬の梅は、今から約800年前、月ヶ瀬尾山に天神社を祀り、所縁の梅の木を植えたのが始まり。
その梅の実から烏梅(うばい)を作るようになり、林間の渓谷や空地を利用して梅を植え、
烏梅は急峻なこの地域の貴重な収入源となった。
江戸後期には10万本以上の梅が植えられており、梅の名所としても知られるようになった。

最初の見所「一目八景」

満開の梅と月ヶ瀬湖
烏梅は黒梅とも呼ばれ、梅の実を煙で黒く燻したもので、薬用や染色に使用。
特に月ヶ瀬の烏梅は、紅花染において烏梅に含まれるクエン酸が
紅花の美しい発色を可能にしたので、京・大坂の染物屋に送られた。
江戸時代後期には生産量が最盛期を迎えたが、明治以降安価な化学染料が
輸入されるようになったため需要が減り衰退した。
梅林も茶畑等に転換され、今では梅の木も1万3千本と全盛期の六分の一程度まで減少。
現在では地元で唯一残った古梅園1軒がその製法を伝えているのみである。

斜面全体に梅が見える
奥の建物は売店。

向日の岸辺にも梅

遊覧船はないが、時折ボートが走っている
梅林が渓谷を挟んだこの梅渓は、江戸時代後期から風雅を好む文人墨客に讃えられ、
その景色を愛でる詩文が詠まれ多くの著作品が出版された。
また大正11年には国が初めて指定した名勝の一つとなっている。
明治以降、梅林の減少や渓谷の水没等、かつての勢いはなくなったが、
地元の人々の努力によって新しく生まれ変わった梅林は、関西屈指の観光地として
季節には多くの人々が訪れる場所となっている。』 とあります。

次の梅林へ移動

帆浦梅林
月ヶ瀬で最も景色が良いとされる場所。

帆浦梅林の眺望
茶店の張出した展望台からの景色。よく写真に使われるのは紅白の梅が隣接しているから?

遠く西を望めば桃香野の集落が
梅林入口からは、鹿飛谷・一目八景・帆浦梅林と続きますが、この辺りが一番の見所らしく、
月ヶ瀬梅渓として写真で紹介されるのもここ。散策路から梅越しに名張川が見える絶景の地。
帆浦というからには、かつては川を往来する船の帆が見えたのでしょう。
一目八景というのも【ほら】ではないようです。
この付近を歩くと道脇には茶店や食事処が犇めいており、店で注文して
見晴らしの良い張り出しから梅渓を見るのがお勧めの様です。
メニューはうどんや鍋物が中心で焼き鳥・焼きそば・焼肉など煙を出すものは一切なく
焼いているのは草餅くらい。梅の香りを損なわないとの心配りに感心する事頻りでした。

張出しからの眺望


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尾勝山 真福寺(高野山真言宗)
道標の脇の坂道を上ると梅林エリアですが、その前に地元のお寺に参拝。
駐車場の横の階段を上った高台にあります。
奈良県の観光ガイドに載っている訳ではないので穴場かと思いましたが、
思いのほか多くの方が参拝に向かっていました。地元では有名な古刹だそう。
階段を上った場所には紅白の枝垂れ梅が咲き、境内は梅の木が花盛り。
通常、梅と言えば天神様で、寺院には似合わないと思っていましたが、その偏見は撤回。

駐車場(右手)の横の小高い丘に寺院が建つ
但し、山門はない。

境内へ石段を上る

石段脇の石碑と案内板

先ずは紅白の枝垂れ梅がお出迎え
お寺も参拝者に向けて、梅に加え御朱印・御守り・書籍と準備に余念がありませんでした。
梅の花と香りに包まれた階段を更に進むと本堂。内陣は改修中とかで外陣からの参拝でしたが、
御本尊はしっかり拝むことが出来ました。

紅梅の奥には購買ではなくて寺務所
御朱印の看板も見える。

真福寺御朱印(御本尊)

パンフはなく説明書きを拝受

梅が咲き誇る境内

参道の正面に建つ本堂
尾勝山真福寺(びしょうざんしんぷくじ)は、
『治承2年(1178年)の建立、境内に菅原道真を祀る産土神として天神社を祭祀し
神霊を慰めるため、道真の好んだ梅を植えた。
本尊の地蔵菩薩は平安時代後期、藤原時代の作とされる。
仏身90㎝の一木造で、奈良風を取入れた定朝様式が感じられる秀作で、
元は金帛が塗られていたらしく、台や光背は江戸時代に補作され、
今では全体が塗り替えられている。厨子は桃山時代様式を伝えている。

石の地蔵群を左に見て本堂へ

正面から見た本堂

本堂前面の向拝にて

向拝欄間の龍彫刻

前面に掲げられた「真福寺」の扁額

外陣より拝した御本尊・地蔵菩薩

本堂前の御本尊説明
現在の本堂は平成9年の新築で、旧本堂は弘化元年(1844年)に建立された事が文献等に見える。
新築の際に、旧本堂の内陣、正面本尊上部に設置されていたのが、鳳凰彫刻の欄間で、
移設場所がないまま寺務所脇に架けられ今に至っている。今でも一部に色が残るが、
出来た当初の江戸時代後期には、美しい彩色が施されていたものと考えられる。』 とあります。

本堂前の十三重石塔

寺務所脇に架けられている旧本堂の欄間を飾った鳳凰彫刻

鳳凰彫刻近影
いまも彩色の跡が見える。

鳳凰彫刻の欄間解説
古刹ながら真新しい印象なのは平成の再建のためでした。
また当寺は月ヶ瀬梅渓発祥の地でもあるようで、御住職の話ではその梅が今もあるとか。
本堂手前にある梅は「姫若(ひめわか)の梅」と呼ばれる古木。傍らに書かれた言い伝えでは、
『元弘2年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すべく笠置山に挙兵。
その折に、女官の一人が難を避けるべく逃げる途中、精魂尽き果てこの地の園生(そのお)の森で倒れた。
それを見た村人が姫を助けたので、その好意に感謝した姫は真福寺の境内に梅を植え、
染色の原料となる烏梅(うばい)の製法を教えた。これが今に至る月ヶ瀬の梅林の始まりである。』
というもの。

本堂前に聳える「姫若の梅」

「姫若の梅」解説

本堂前からの眺望
左が寺務所。
この謂れについては、地元が「月ヶ瀬 梅と姫のものがたり」という絵本を発行。
絵本と言う割には装丁・内容・価格も豪華で、早速購入。
その中では女官が倒れていたのは桜峠、女官を後醍醐天皇の側女とし
姫若・姫宮・園生姫と呼ばせています。
姫が教えた烏梅は都で高く売れ、村人の暮らしを豊かにしました。
姫は若くして亡くなりましたが、村人は姫の恩を忘れず、山間に梅を植え続けました。
そして早春には川面に梅の花と月が映え、いつしかこの場所は月ヶ瀬と呼ばれるようになったとか。

寺務所で販売されていた「月ヶ瀬 梅と姫のものがたり」 ¥1000

本堂前に建つ御掃除地蔵様と紅白の梅

紅枝垂れ梅
奥に見えるのが本堂。

こちらは白梅

こちらはピンクの梅
最後に地名の由来にまで繋がるとは流石ですが、恐らく地元には様々な言い伝えが
残っているのでしょう。唯、正史には園生の名はなく、かなり伝説的。
この地で烏梅が作られたのは事実で、思うに都の人が伝えた可能性が大。
その始祖に高貴で薄幸の姫君を持ってくることで、ブランド化を図ったものと思えます。
薬九層倍(くすりくそ【うばい】)と言う位ですから、梅干よりも高額なのは当然。
高嶺の花のお妃の伝説がより高値を呼んだ事になります。
梅花から採れる梅果を加工して【売価】を上げ、村人の収入は【倍加】、
うめー商売も有ったものだと感心します。

石段横の石地蔵群

本堂脇から名張川方面(南側)を見る

同じく西側の眺望
遠くには桃香野(ももがの)集落が。
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【復路】尾山口(13:40) → (臨時バス) → JR月ヶ瀬駅(13:55→14:12) → (関西本線) → JR大河原(14:18) → 徒歩8分 → 恋志谷神社 → JR大河原(15:19) → JR加茂(15:35→15:39) → (大和路快速) → JR大阪(16:54)

JR月ケ瀬口駅前の梅と石碑
月ヶ瀬梅林の最寄駅だからと思いそうだが、地元の偉人を顕彰したもの。
弥生も中旬に突入。気温も20℃越えの中、今期最後の梅の香りを求めて月ヶ瀬へ。
月ヶ瀬といえば関西を代表する梅林ですが、訪れた人は意外と少ない景勝地。
それもその筈、行政区は奈良市ですが平成の大合併前は月ヶ瀬村と呼ばれた市の東端で
バスを利用しても2時間。しかも奈良市内からの公共交通は午前・午後の二便と、
これでは自家用車かバイクを使わない限り訪問は困難。
そう諦めかけていた矢先、先週立ち寄った道の駅で梅まつり開催と
JR月ケ瀬口駅から臨時バスがほぼ1時間おきに運行される事が判明。
3年ぶりだそうで、祭りは2月12日から3月26日までと一ヶ月半ですが、
バスは3月4日から12日の9日間のみ。これは見逃せないと満を持しての巡礼。

駅北側にある道の駅で押印したスタンプ
文字だけの図柄は珍しい。

道の駅で入手した「月ヶ瀬 梅まつり」のチラシ
名古屋駅から天王寺駅を結ぶ関西本線ですが、加茂から亀山間は単線非電化。
大雨が降ると運休、月末には保線で運休、日中は1時間毎の運行とかなりの難物ですが、
バスとの連絡を思うと利便性は抜群でした。
8:45分の始発を目指しましたが、木津から加茂までの便がなく早めの7:57分着。
昭和26年開業のJR月ケ瀬口駅は非電化区間ながら駅員配置・スタンプ設置もありますが土日は休み。
歩くことも考えましたが、駅から9㎞の距離を考えて駅前で時間潰しとなりました。

休日は無人の駅舎

営業時間の張り出し

旧国鉄時代のDiscover Japan 印
このタイプとしては期間が長く、民営化後も暫く設置されていた。

JR月ケ瀬口駅スタンプ
2006年設置のJR西日本印と同様のタイプで、後に設置。今も現役で活躍中。

但し、コロナのためスタンプは休止中
時間が来て到着した臨時バスは名張営業所の三重交通。
駅は京都府、行先は奈良県なのに三重交通とはこれ如何に。
単に【みえ】を張ったのか、付近が【なーばり】なのかは分かりませんが…。

駅前のバス停にある臨時バスの貼り紙
JR駅間を走るコミュニティバスは毎日運行している。

マイクロバスと思いきや立派なバス

行先表示板
「宮の前」が中間点で県境の様子。
始発なので立ち席もなく15分で終点・尾山口に到着。終点は梅渓の北東隅。
ここから82号線に沿って進み、小中学校・郵便局・行政支所を見ながら南下すると
道沿いに名勝月ヶ瀬梅林の道標が。ここから梅園へ向かいます。
道沿いには梅を商う店舗が並んでいましたが、どれも趣のある建屋。
唯、昼食や土産購入には、ここまで戻らなければ思うとしんどいですが、
その心配は良い意味で裏切られる事になります。

月ヶ瀬のマンホール蓋
今は奈良市だが、かつては月ヶ瀬村だったので独自のデザイン。

月ヶ瀬郵便局 ; 名張川に架かる月ヶ瀬橋、梅花

82号線沿いに建つ道標

旅館の様な外観の福田商店
梅関係の商品が並ぶが、本業は漬物店。

道標脇の小谷商店

小谷商店入口
看板には「名産 月瀬漬」とある。
店裏には枝垂れ梅があり観光客が撮影中。
先週、バスの運転手さんに訊いた話では
「今は三分咲きなので、来週あたりがベストでしょう。」 とありましたが、
来て見ると見事な満開。【月ガセ】ネタではなかったようです。

小谷商店裏の枝垂れ梅

枝垂れ梅近影

坂を上った先にも「月瀬漬」 の店舗が
店名は同じ小谷商店。
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阿星山 長壽寺(天台宗 湖南三山) 本坊
境内参拝を終えて帰路へ着きますが、山門の左手には現代風の建屋が。
寺務所か庫裏かと思い傍まで行くと玄関には長壽寺本坊の看板があり玄関が開放中。
さては、何かあるのかと気になって覗いて見ると、絵画作品が展示中。

正面の山門から左手へ進む

長壽寺本坊の看板が架かる玄関
本坊と言うからには居住空間の筈ですが、紅葉の時期にはゲージツの展示場に
早変わりするのでしょうか?入って直ぐの畳敷きの部屋の左手は、一連の鷹の襖絵。
鷹狩りの鷹が小屋に繋がれている様子から屋外で獲物を狙う場面までの一連を追った六隻。
一番右橋は鷹の舞う山野を描いた様。非常に写実的で実物を見て描いたに違いありません。
唯、美術史には疎いので、作者や時代を添えて貰うと助かるのですが…。

玄関から室内を眺める
左は一連の鷹の襖絵。

楓?の枝に止まる鷹

繋がれている鷹

繋がれていても眼は常に獲物を追う

狩りを待つ間

獲物を目掛けて飛び立つ瞬間?

戻って暫し休息

鷹が飛翔する幽谷
右手・正面・奥の部屋には切り絵が展示。正面は窓の部分に親小鹿が並び立ち、
足元は床紅葉。紅葉散り敷く地面を歩む親小鹿という宛ら古典の世界になっています。
最奥の部屋は切り絵を使った行燈で移り行く秋を表現。こちらはフクロウの絵柄でした。
【たか】が紙と言えばそれまでですが、されど紙。柔らかさの中に秘めた強さでしょうか。

右手の障子に掛けられた鳳凰の切り絵
因みに鳳凰は二文字で雌雄を表しているとか。

正面に置かれた親子鹿の切り絵
床に紅葉が写り床紅葉となっている。

近くで見た親小鹿と床紅葉

本坊奥の床の間

薄と秋を描いた切り絵の行燈
本坊の奥に廊下で繋がっているのが内仏堂。参拝者が本坊内から行く事はできませんが、
外陣からはお詣りできるようにはなっています。
その周囲も紅葉に囲まれていますが、ベンチが置かれ喫茶スペースが。
国宝や重文の周囲での飲食は無理なので、この場所になったのでしょう。
紅葉と国宝だけでも十分ですが、拝観者への呼び水になれば良いですが。

参道から見た本坊窓

本坊に続く内仏堂

内仏堂正面

紅葉越しに見る本坊

喫茶スペースの「こもれびの席」

地面の黄葉
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阿星山 長壽寺(天台宗 湖南三山) 重文・弁天堂
国宝の本堂の内陣拝観を済ませた後は、境内を一巡り。
古刹である長壽寺には本堂に加えて今も境内に諸堂が残っています。
『本堂前に建つ重文弁天堂は、桁行一間、梁間一間、屋根一重入母屋造、
唐破風付檜皮葺のほぼ真四角な堂で、小さいながらも本格的な構造である。
高さ1mの弁財天坐像が納められている。建立年代は詳らかではないが、
内部より‘十六、十二月’と記された刷毛書の墨書が発見され、また地中から出土した瓦に
「文明六年」の銘があり、「天文十九年三月手間参百人云々」の修理銘が見られる事、
更に建築様式から文明16年(1484年)の建立と言うのが建築史家の推論である。

正面から見た弁天堂

弁天堂の唐破風

檜皮葺屋根と垂木
本堂へ向かう参道の右手奥にひっそり建つのが石造多宝塔で湖南市指定有形文化財。
これは聖武天皇の菩提を弔うために鎌倉時代に建立したもの。
現在、相輪が欠けているが、この種の石像多宝塔の違例は極めて少なく、
全国に10基程度が残るのみである。

参道右手にある多宝塔入口

木々に囲まれて建つ多宝塔

正面から見た多宝塔

横から見た多宝塔
近江の主要な天台系伽藍配置では、三重塔を配するのが常であった。
長壽寺の三重塔は本堂に向かって左後方の叢林中にあったが、
天正3年頃織田信長の手に拠って安土城内の織田家菩提寺である摠見寺に移築された。
地中より鉄刀子、鎮壇具に用いられたと思われる素焼きの壺が発掘され、
壺の蓋には室町時代の作と見られる菊花双鶴文鏡が用いられ、
鏡の製作年代から享徳年間(1452~1454年)の頃、塔が建立されたと考えられる。

本堂の左奥、三重塔跡へ向かう

塔跡に残る礎石
平安時代以降、神仏習合が進み、寺院境内に鎮守社が設けられるのが常であった。
長壽寺にも創建時代は不明ながら、鎮守社として白山神社が建てられている。祭神は白山比咩。
重要文化財に指定されている拝殿の建築様式・手法は室町時代のものを伝えているが、
弘安十年(1287年)の「左衛門尉平某寄進状」に「社堂仏前」の語が見え、鎌倉時代には
社殿があったと推測される。四面に格子戸を備えるのは珍しい。
かつて内部には永享8年(1436年)の板絵三十六歌仙図が掲げられていたが、
今は長壽寺で保管されている。』 とあります。

参道を本堂へ向かわず左に行くと白山神社

重文・白山神社拝殿

白山神社本殿
木造では重文が二点残りますが、いずれも小さい建造物。
楼門・三重塔と言った大きなものは、持ち出されました。
常楽寺にあって長壽寺にないものは三重塔。解説にあるように信長が安土に持って行った結果です。
小さいものを残して大きなものを持って行ったのは、繊細よりも派手さを好んだ結果でしょうか?
楼門はなくなりましたが、幸いにも三重塔は摠見寺に今も健在。
しかし、もし【創建時】のまま建っていたらと思うのは私だけではない筈です。

参道脇の鐘楼
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阿星山 長壽寺(天台宗 湖南三山)
紅葉散り敷く参道を真っすぐ進むと正面に見えるのが国宝・本堂。
こちらは常楽寺と違って本堂前面から上がることができます。
阿星山長壽寺(あしょうざんちょうじゅじ)は、
『聖武天皇の天平年間(729~748年)、良弁僧正に拠って建立された勅願寺であり
現在国宝に指定されている。
聖武天皇が大仏造立のため紫香楽宮に遷都された折、世継ぎの誕生を良弁に祈請せしめた。
良弁は阿星山中瀑布に籠って祈り、間もなく皇女の降誕を見るに至った。
そこで天皇は皇女の生誕に因む子安地蔵尊を行基菩薩に刻ませて、
紫香楽宮の鬼門に当たる東寺に七堂伽藍・二十四坊の寺を建立し本尊とした。
そして皇女の長寿を願い長壽寺と言う寺号を授けたと伝えられる。
次いで鎮守社として境内の南に白山神社が建立されている。

国宝・本堂と重文・弁天堂の説明板

国宝・本堂全景
本堂は貞観年中(859~877年)に焼失するが、同年間に復興され現在に至る。
その後は、阿星山五千坊と呼ばれる程の天台仏教圏を形成した。
鎌倉時代には源頼朝、室町時代には足利尊氏が祈願所として諸堂を造改修したが、
戦国時代に織田信長の手に拠り三重塔は安土城中の摠見寺へ移築され現在は重要文化財。
楼門は栗東市の蓮台寺へ移築されたが、こちらは現存していない。
こうして主要な建物を失ったが、現在は国宝の本堂、重文の弁天堂、
同じく、釈迦如来座像、阿弥陀如来座像、十六羅漢図等が残されている。

本堂内陣を拝観する人達

本堂の内陣へ
本堂は貞観年中(859~877年)に焼失するが、同年間に復興され現在に至る。
桁行五間、梁間五間、屋根一重寄棟造、向拝三間、檜皮葺、四面廻廊と
天台伽藍にしては珍しい建築様式である。
中央三間は桟唐戸の入口、左右には連子窓、内部は内陣(正堂)と外陣(礼堂)とに分かれ、
奥行きの深い堂を構成し、化粧屋根裏や雄大な虹梁、その上の板蟇股等、
藤原時代の雰囲気を残し、建立時代が相当古い事を物語っている。

本堂向拝下にて
阿星山の扁額が掲げられ賓頭盧尊者の像が置かれる。

向拝の欄間

向拝屋根の垂木
また内陣・外陣がそれぞれ切妻型・寄棟型の船底天井となっているのは、内陣と外陣を
別棟とする双堂の形式を継承しているためであり、堂内には二つの建物が入り込んだような
この構造は国内に数例しか現存しておらず大変貴重である。
内陣正面にある春日厨子は、厨子中央に秘仏御本尊子安地蔵菩薩、脇侍に観世音菩薩と
毘沙門天を安置している。厨子内の様子は懸佛として祀られ、厨子の御開帳は五十年に一度である。
内陣に安置された重文の釈迦如来座像は像高177㎝、同じく阿弥陀如来座像は像高142㎝、
いずれも藤原時代、皆金色、檜の寄木造で仏師定朝の様式を踏襲したものであり、
特に阿弥陀如来座像の台座と光背は造立当時の物であり極めて貴重である。
本堂右の近年建てられた収蔵庫には高さ3mの重文・丈六阿弥陀如来座像が祀られており、
藤原時代、皆金色、檜の寄木造の堂々とした像である。』 とあります。

後方より見た本堂

これは本堂後方の入口

こちらは本堂側面の入口
右奥に建つのは重文収蔵庫。
寺号の由来は聖武天皇が娘の長寿を願った事に由来。
古代の帝王も子を思う親の気持ちに変わりはないと言う事です。
唯、元は光明皇后の安産を祈願した訳ですから場合に拠っては安楽寺となっていたかもしれません。
先に訪れた常楽寺と同じく国宝の本堂ですが、大きさは桁行で二間、梁間で一間だけ小さく、
こぢんまりとした印象は否めません。
その代り、建築年代は平安初期の貞観年間と常楽寺に遡る事500年。
珍しい建築様式が残っているのは古いからで貴重な証人と言えます。
大伽藍か古伽藍か、どちらを好むかは人それぞれではありますが…。

高みより見た本堂屋根

紅葉越しに見た伽藍

白山神社から見た本堂側面
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阿星山 長壽寺(天台宗 湖南三山)
西寺の集落から東へほぼ1㎞の山道を行き、広野川に架かる朱い欄干の
広野橋を渡ると長壽寺に到着。一般には東寺の名で呼び親しまれています。

JR石部駅スタンプ (2006年JR西日本京都支社印)
常楽寺(西寺)と長壽寺(東寺)のコラボ様式となっている。

朱い欄干の広野橋を渡ると目的の寺院は直ぐ右手奥

駐車場の奥に見える参道の紅葉

東寺バス停前から長壽寺方面を見る

長壽寺入口付近
但し、左は別の寺院。

入口付近からバス停を振り返るとこんな長閑な景色が
唯、周辺に食事処がないのは変わらず。そこで地元が中心となって、
期間中は駐車場脇に出店をオープン。値段も手頃なので早めの昼食に。
かやくご飯のおにぎり2個¥150、撞き立て餅2個¥150、豚汁¥150、
御飯つぶし¥100と、お腹いっぱい食べて¥550とは奇跡的。
紅葉の時期に地元食材の効用に出逢うことができました。

出店全景

豚汁とかやくご飯おにぎり

撞き立て餅、御飯つぶし が加わる

山門前に立つ寺号標

山門近影
出店を過ぎると直ぐ入口。「阿星山」の扁額が掛かる山門脇の受付で入山料を祓って入山。
入口から見渡した感じでは、西寺と異なり紅葉は参道に集中している様子。
私 ; 「寺名は違いますが、山号は西寺と同じなのですね。」
受付 ; 「いいえ、あちらは‘あせいざん’、こちらは‘あしょうざん’です。」
私 ;「あっ、しょうですか!」

阿星山の山号を掲げた山門

山門屋根に散った紅葉

山門脇を通り入山

入口を入って直ぐにある皇帝ダリア

参道は宛ら紅葉の絨毯

参道を覆う楓
奥に見えるのが山門。

赤い毛氈の上の猫の置物
参道を進むと右手に御朱印所が。本来は御本尊参拝後に拝受するものですが、
順番待ちもあり予め依頼してからお参り。後に頂いた墨書をみるとやはり平成4年字とは長足の進歩。
参拝者が増えると自然とそうなるのでしょう。個人的には良い傾向だと思います。

参道右手にある御朱印(納経)所

長壽寺説明書

長壽寺御朱印 (平成4年拝受分)

今回拝受の御朱印
尚、中央の墨書は「悲願金剛」 と変わらず。
ここ東寺は紅葉は参道に集中、紅葉の水盤も置かれています。
そのせいでしょうか堂宇を背景にした西寺とは異なった印象を受けました。
これも星と同じ拘りなのでしょうか?

更に参道を進み本堂へ

全体が朱く染まる参道

紅葉の水盤
京都の楊谷寺が発祥とか。

駐車場側に枝を伸ばした楓

紅葉の向こうに見える駐車場

色変わり行く楓

参道脇の紅葉が進んだ楓
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阿星山 常楽寺(天台宗単立寺院 近江西国霊場第一番 びわ湖百八霊場九十五番)
本堂脇の散策路入口
国宝二堂を見た後は、案内図に従って境内を散策。
本堂脇から境内の裏にある高台を巡り本堂や三重塔を眼下に見下ろすコースになります。

散策路入口付近からの眺望

本堂前の砂利道
この奥から散策路は始まる。

三重塔を右手にみて坂を上る

道沿いには西国札所の石仏が鎮座
これは第五番葛井寺の千手観音像。
『平成16年(2004年)10月1日、石部町と甲西町が合併し湖南市が誕生。
翌年、市内にある古刹で国宝を有する当寺、長壽寺と善水寺の三ヵ寺で
「湖南三山」を立ち上げ、同年の紅葉時期に初めて一斉公開「湖南三山めぐり」を開始した。
国宝の本堂・三重塔周囲に加え、境内を巡る散策路からは
赤く彩られた楓や満天星を目にすることが出来る。』 とあります。

参道脇の楓のグラデーション

満天星(ドウダンツツジ)の向こうに見える国宝二堂

周囲を朱色に囲まれた三重塔

道沿いの満天星

更なる高みから

塔と本堂の屋根

堂宇の向日に見える集落
説明を読む限り、湖南三山には偶々紅葉があったので「三山めぐり」が始まった訳で、
もし紅葉がなかったら巡礼自体の企画がなかったか、あっても随分と味気ないものになった気がします。
紅葉とありますが、当寺の特徴は楓と満天星。今流行りの二刀流ですが、
境内の低い場所は楓、高い箇所は満天星と棲み分けならぬ植え分け。
紅葉に堂宇が隠れてしまわないという配慮でしょうが、あくまで紅葉は従という扱いのようです。

紅葉に浮かぶ三重塔

散策路をそろそろと下る

紅葉のトンネルを抜けて本堂入口付近へ

散策路から見た境内の諸堂
実際、常楽寺の売りは並び立つ国宝の本堂と三重塔で、その他にも種々の堂宇が並び、
加えて室町時代の応永13年(1406年)銘の重文・石灯籠も健在。
仏像は盗難に遭いましたが、堂宇は盗まれる事はないでしょうから、
災害さえなければ心配は要りません。

散策路出口に建つ薬師堂

薬師堂解説
これに拠ると御本尊は盗難に遭ったとか。

薬師堂前から散策路を見上げる
正面の常緑樹は榧の木か?

薬師堂に隣接する普賢堂

普賢堂解説
こちらの御本尊は安全のため本堂内陣へお引越し。
しかし参拝者にとっては国宝以外はあまり興味がなく専ら紅葉鑑賞にあるようです。
京都市内の東福寺と言えば紅葉の名所ですが、その由緒は、時の住職が修行の妨げになる
花見客を遠ざけるために桜の代わりに楓を植えたのが始まりとか。
それが今では桜の時期よりも紅葉の時期の方が、期間が長い事もあって大勢の人が押し寄せます。
遷化した泉下の先達はどんな思いで見ているのでしょうか。

受付の向かいに建つ鐘楼

本堂前に立つ重要文化財の石灯篭
高さ268㎝、花崗岩製で室町時代の1406年の製作。

こちらは黄葉

紅葉の絨毯
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阿星山 常楽寺(天台宗単立寺院 近江西国霊場第一番 びわ湖百八霊場九十五番)
本堂に続き左手の高台に建つ三重塔へ。
『本堂の左から長い石段を上った山腹に建つのが国宝・三重塔、本堂と同じく東面する。
応永7年(1400年)の丸瓦と平瓦があるのでこの年に建立したと考えられる。
四方三間の和様、初層内部の四天柱内側の後方寄りに須弥壇が置かれ、
来迎壁を背に木造釈迦如来座像が安置される。

色鮮やかな木々に囲まれた三重塔

階段を上った先に聳える国宝・三重塔
内部は天井・柱・長押などに極彩色の文様が見られ、釈迦説法図・涅槃図が画かれ、
四方の板壁にも断罪図や地獄図が描かれ、多少落剝はあるが貴重な壁画である。』
とあります。

三重塔の正面
但し、内部は拝観できず。

三重塔の解説と断面図

三重塔全景

紅葉に囲まれた三重塔
高く枝を伸ばしているのが楓、低木が満天星。

塔の裳階と組物
ここも本堂と同じ時に落雷で焼失しましたが、本堂に遅れる事40年で再建されています。
本堂と異なり内陣は拝観できませんが、高さがあるため境内のほぼどこからでも
目にすることが出来ます。
階段の下側からは楓の紅葉を、上を通る散策路からは満天星の赤と、
場所によってその【効用】が異なるのが特徴。決して【同断】することはできません。

境内裏手の散策路からの眺望

満天星越しに見る二つの国宝、三重塔と本堂

高台より三重塔を見下ろす

紅葉の奥に垣間見える三重塔

三重塔遠望
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【往路】JR大阪(7:30) → (新快速) → JR草津(8:20→8:37) → (草津線) → JR石部(8:48)
JR石部駅 → 徒歩5分 → 石部宿 → 吉御子神社 → 真明寺 → 本陣跡 → 徒歩5分 → 登り町(9:38) → (滋賀バス) → 西寺(9:45) → 徒歩5分 → 常楽寺 → 徒歩15分 → 長寿寺 → 徒歩75分 → 善水寺 → 徒歩5分 → 岩根(14:30) → (滋賀バス) → 甲西北口(14:50)
【復路】JR甲西(15:03) → JR草津(15:17→15:22) → (新快速) → JR大阪(16:13)

阿星山 常楽寺(天台宗単立寺院 近江西国霊場第一番 びわ湖百八霊場九十五番)
駐車所を過ぎて、いかにも急場拵えと見える受付で拝観料を払って入山。
すぐ正面には国宝の本堂が聳えます。
阿星山常楽寺(あせいざんじょうらくじ)は、
『和銅年間(708~715年)、元明天皇の勅命を受けた良弁僧正により開基した
阿星寺(あせいじ)五千坊の一つ。阿星(あぼし)山焼失の際、
阿星寺本尊千手観音像が常楽寺に飛翔し本尊となったと伝わる。

入口に建つ常楽寺縁起
市内に所在する長壽寺の「東寺」に対し「西寺」と呼ばれ、共に聖武天皇が離宮を造営した
紫香楽宮(742~745年)の鬼門鎮護の役目を担った。
延暦年間(782~806年)に天台宗に改宗、平安から鎌倉時代にかけては長壽寺と共に歴代天皇の尊崇が厚く、
鎌倉時代には亀山天皇の勅命に拠る雨乞秘法を行う等、鎮護国家の道場とされた。
延文5年(1360年)には落雷に拠り伽藍は全焼。同年に僧侶観慶らに拠って再興され、
その後、三重塔、山門が再建された。
元亀2年(1571年)、織田信長に反抗して野洲郡金森の一向一揆勢が集結した際には、
信長配下の佐久間信盛が当寺に本陣を置いている。

紅葉の向こうに建つ本堂

国宝・本堂近影
このアングルがよく写真に使われる。

本堂説明板
宝徳4年(1452年)に建てられた仁王門は、豊臣秀吉が伏見城築城の際に移築され城門となり、
次いで慶長6年(1601年)には徳川家康に拠って三井寺園城寺に移築され、現在は園城寺の大門として
重要文化財。当寺には本堂と三重塔が残り、いずれも国宝となっている。
国宝・本殿は桁行七間、梁間六間、入母屋造、向拝三間、檜皮葺。延文5年(1360年)に全焼するが
同年に僧侶観慶が再興した事が、その時の勧進帳に拠り分かる。室町時代和様本堂の遺構である。
東面し堂内は外陣・内陣・後陣から成り、内陣の両側に堂蔵がある。

側面より見た本堂

張り出しが著しい向拝

向拝は三間だが柵が置かれ散見できず
内陣の須弥壇中央には秘仏である御本尊千手観世音菩薩を祀る厨子がある。
寄棟造・板葺で唐様を主とした構造で国宝。御本尊千手観世音菩薩は千手千眼観音とも呼ばれ、
度重なる災難を逃れ、寿命を延ばし病気を治す後利益があるとして、江戸時代には
庶民観音巡礼の札所として、近江西国観音霊場一番となり庶民信仰を集めた。
普段は秘仏で33年に一度御開帳を勤める。像高さ63㎝、素地は榧材の寄木造、
四十二臂の座像で南北朝時代の重文である。

本堂正面の蔀戸

正面から見た向拝

本堂前面に掲げられた「常楽寺」の扁額
厨子の両脇雛壇には風神・雷神の二神と御本尊の眷族である二十八部衆が
千手観音を信仰する人々を護持する守護神として祀られておりいずれも重文。
仏像はみな三尺像で檜の寄木造、玉眼の入った彩色像で、鎌倉時代後期の
徳治3年(1308年)から正和3年(1314年)にかけて造立された事が勧進帳に記されている。
風神と二王が昭和56年に盗難に遭い、阿修羅王は後に見つかったが、
風神と摩睺羅伽(まごらか)王の二体は不明なままである。
本堂裏側の外陣に安置する重文・釈迦如来座像は寄木造・皆金色、藤原時代の
特色を示している。』 とあります。

向拝の向こうに見える紅葉群

右手奥から本堂の内陣へ
但し、内陣は撮影不可。

横から見た本堂入口
近年、紅葉の名所として人気の出て来た常楽寺ですが、一番の映えスポットは
本堂前から紅葉を入れて本堂と三重塔が並ぶ眺望。
紅葉と三重塔と紅葉は良くある構図ですが、ここでは本堂が中心に。
いずれも国宝建造物ながら、低くて横に広い本堂と、幅はないが高く聳える三重塔が
良いコントラストを出しているのでしょう。俗に言う凸凹コンビになります。

本堂脇の紅葉

紅葉と本堂屋根側面

檜皮葺屋根の向こうに見える三重塔
本堂が焼失したのは戦乱ではなく落雷に拠るもの。
戦の多かった近江では珍しい例と言えますが、それは織田信長に反抗しなかったから。
神仏を怖れなかった信長ですが、己に逆らわないものまでやたらと焼き討ちするような
人物ではありませんでした。その代り、秀吉に拠って山門は移築。
新築が大変だったのか、好みに合ったからかは分かりません。
その後も移築を経ますが、三井寺で今も残ったのは不幸中の幸いでした。

本堂脇から三重塔を眺める

本堂屋根越しに見える三重塔

満天星の向こうに見える本堂屋根
国宝のある常楽寺に、立派な山門がない理由は分かりましたが、今後再建されるのかどうか?
参拝者が殆ど居ない頃は、問題にも挙がらなかったでしょうが、今後はどうなるか?です。
尚、主要な仏像は全て本堂内陣に安置されていますが、説明にもあるように盗難防止のため。
戦国時代は白昼堂々と持っていきましたが、今は夜陰に紛れての持ち出し。
いつの世でも寺にとっての災難は尽きないようです。

高台から見た本堂檜皮葺屋根

今回拝受した常楽寺御朱印
平成4年に拝受したものからは長足の進歩と言える。
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阿星山 常楽寺(天台宗単立寺院 近江西国霊場第一番 びわ湖百八霊場九十五番)
この日のお目当ては三ヵ寺巡礼。駅からは少し距離がありますが、
JR石部駅でレンタサイクルがあるようなので楽勝と思いましたが、
着いてみると駅舎改良中でレンタサイクルも休止中。
仕方なく石部宿を散策がてら東へ移動し、「登り町」バス停で50分後の
市内循環バスに乗車し7分で到着。バスの乗客は10名足らずで、
下車したのも5名程でしたが、門前の駐車場は10時前にも拘らず何台もの観光バスが既に停車。

JR駅で配布の「湖南三山紅葉めぐり」のパンフ

JR石部駅スタンプ (2003年押印)
京都線・嵯峨野線・奈良線・琵琶湖線・北陸線・草津線・湖西線とアーバンネットワーク京都支社管内のみの設置。

「登り町」バス停傍らの高札場跡にある常楽寺のレリーフ
駅スタンプと同じ構図
実は常楽寺・長寿寺は平成4年11月28日、善水寺は平成21年11月22日と
紅葉の時期に徒歩で参拝済。しかし当時は観光に全く力を入れておらず入山料もなし。
御朱印も御願いして漸く書いて頂いた記憶があります。
それが今では、入山¥600+御朱印¥300 とは時代の流れでしょうか?

バス停「西寺」で下車し右の道へ

10時前で早くもこれだけの観光バスが

駐車場から見た常楽寺の遠望
境内全体が朱く見える。

駐車場を抜け入口へ

山門というには余りにも簡素な入口
近江では以前から百済寺・金剛輪寺・西明寺の湖東三山が紅葉の名所として有名。
一方、常楽寺・長壽寺・善水寺も天台宗系の寺院で本堂が国宝、紅葉の名所と言う事では
湖東三山に比べ遜色はありません。そこで湖南三山として売出す事を企画した
アイデアマンが居たのでしょう。それが見事に当たったと言えます。
一ヵ寺では無理でも三ヵ寺ならば商機がある。
毛利元就の三本の矢の故事は戦に限らない真理のようです。
しかし三ヵ寺はいずれも奈良時代の勅願寺で、見応えあり。紅葉も見事でしたが、
楓に加えて満天星の赤が圧巻。何処も境内の水が豊富なようで、閼伽だけに赤なのでしょう。

簡易な受付が却って好印象を与える

入山時に貰った常楽寺説明書

平成4年に拝受した常楽寺御朱印
微かな記憶では筆も常備されておらず、あり合わせの筆での墨書だったような。
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吉御子神社(式内社 旧村社)
JR石部駅から南へ1㎞、東海道に沿って町並みの中へ入ると曲り角に
神社の案内があったので、そこを右折。
吉御子神社(よしみこじんじゃ)は、
『崇神天皇の68年創建と伝わる古社。垂仁天皇の2年に宇加之彦の子である
吉彦命と吉姫命を谷黒の御前に祀ったのが創祀と伝わる。
御神体は平安時代作とされる木造吉彦命坐像で国の重要文化財。
弘仁2年(811年)には災害に拠って町の東西に分社され当社は西側。
東側には南方約1㎞にある吉姫神社が相当している。

一の鳥居とその奥の見事な紅葉

一の鳥居から続く参道
両側は人家で道幅は狭いが参道は意外と長い。

二の鳥居の向こうに小さく社殿が見える

石橋を渡ると境内
御幸橋とあるので、かつては行幸があった?

社殿前に広がる境内

簡潔な由緒碑
現在の本殿は、元治元年(1864年)に社殿が大破したため、
翌慶応元年(1865年)に京都上賀茂神社の旧本殿を移築。
大正10年(1921年)に国の重要文化財に指定された。
三間社流造・檜皮葺で流造の基本的な建築として古い遺構を留める貴重なものである。』
とあります。

社殿遠望

正面から見た社殿
これは拝殿に当たる?

「吉御子神社」と書かれた扁額

拝殿からの眺め
左は社務所、右が参集所だが、人の気配は全くなし。

拝殿に寄り掛かるように聳える御神木

拝殿前は楓の黄・赤の絨毯
石部宿を中心に彦と姫の神社を東西に置いたもので、何やら七夕を想像しますが、
分祀自体は良く聞く話。創建時代から見て地元の氏神様だった事はほぼ確実と思います。
唯、私の他に参拝者は居らず社務所と思しき建家も留守。観光客が増えれば
【よし見に行こ】と言う人も出て来るのでしょうが…。

拝殿の奥、一段高い場所に建つ本殿

本殿前の中門

中門近影

中門から拝殿を振り返る
合併して湖南市に昇格したものの、氏子を始めとする神社の運営は【困難】なようです。
今回は次の予定のため東の姫神社は参拝できず。お姫様の怒りを買ったとは思いませんが、
次回は御朱印拝受も兼ねて両参りに【来なん】と思った次第です。

重文・本殿

常緑の杉と黄・赤色の楓

朱い彩
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JR石部駅 → 徒歩5分 → 石部宿 → 吉御子神社 → 真明寺 → 本陣跡 → 徒歩5分 → 登り町(9:38) → (滋賀バス) → 西寺(9:45) → 徒歩5分 → 常楽寺 → 徒歩15分 → 長寿寺 → 徒歩75分 → 善水寺 → 徒歩5分 → 岩根(14:30) → (滋賀バス) → 甲西北口(14:50)
【復路】JR甲西(15:03) → JR草津(15:17→15:22) → (新快速) → JR大阪(16:13)

東海道 石部宿
JRの駅の向かいに建つ。
勤労感謝の日に出かける予定が雨で流れたので、11月最後の土曜は近江路へリベンジ。
という訳で草津線の石部駅で下車。
草津線ながら石部は東海道51番目の宿場町。京から江戸へ向かう旅人が最初に泊まる宿で
「京立ち、石部泊まり」 「京で会い、石部で深い仲になり」 とも言われたそう。

国鉄時代の「Discover Japan 印」
廣重の浮世絵が元になっている。

改修中の石部駅舎
と言っても宿場に泊まる訳ではなく、この日のお目当ては三ヵ寺巡礼。
湖東三山の百済寺・金剛輪寺・西明寺は紅葉の名所として以前から有名ですが、
近頃は湖南三山として・善水寺が売出し中。
いずれも天台宗系の寺院で本堂が国宝、紅葉の名所と言うのが共通点。

駅の西側にある西縄手付近の宿場公園

西縄手の解説

公園奥に建つ東海道五十三次と浮世絵
駅からは少し距離がありますが、JR石部駅でレンタサイクルがあるようなので楽勝と思いましたが、
着いてみると駅舎改良中でレンタサイクルも休止中。市内循環バスも本数が少なく、
結局バス利用も最初と最後だけで、後は只管徒歩。困難散々のトホホ巡礼に。

石部マンホール蓋
未だMHCは出来ていない。

西から東海道の東を見る
中央奥は三上山。

西の見附跡は説明板のみが建つ

地元の祭り囃子に因んだ最中「石部太鼓」を扱う谷口長栄堂
思わぬ【今日立ち石部停まり】となりましたが、バスまでには50分あったので宿場を散策。
駅から西へ徒歩3分の場所に西縄手があるので、宿場の西端に国鉄の駅を作った事になります。
東海道は草津線に平行に南東方面に進む事に。

東海道の曲り角には道標が建つ

曲り角にある田楽茶屋

田楽茶屋の説明

街道から奥まった場所に建つ真明寺

青木山 真明寺 (浄土宗) 山門

真明寺 本堂

本堂に掲げられた「青木山」の扁額

境内に建つ芭蕉の句碑

句碑近影

句碑解説
『石部宿は現在、街道らしき雰囲気は残るものの、宿場時代の遺構は殆どない。
公園として整備された西縄手を過ぎて最初に現れるのが、西の見附跡と一里塚であるが、
桝形城門は残って居らず説明板のみ。そこを右に曲がった突き当りに田楽茶屋が建つ。
これは歌川広重の絵に登場する立場の田楽茶屋を再現する形で建てられたもので、
休憩や情報収集の他食事もできる。

境内の池

階段を上り高台へ

高台から境内の眺望

高台の鐘楼
突き当りを左に進んだ途中、右手の奥まった場所に浄土宗の青木山真明寺があるが、
そこには芭蕉が詠んだとされる句碑が残る。その先にあるのが小島本陣跡で、
説明碑に拠れば間口45間、建坪775坪の巨大な本陣であった事が分かる。
脇には明治天皇の聖跡碑も建つ。本陣は昭和43年に取り壊されたが、
その跡地の一角に無料休憩所「いしべ宿驛」が建てられている。

本陣跡碑と明治天皇聖蹟

本陣跡説明板

歌川廣重 東海道五十三次 石部宿(保永堂版)

いしべ宿驛

昔風の外観で建てられた街道沿いの家屋
その先の交差点付近が石部中央で宿場の半ば。そこを越えた場所にあるのが高札場跡で
今はポケットパークになっている。』 とあります。
解説にあるように宿場の雰囲気はあるものの目ぼしい文化財はなし。
目にしたのは、かつての跡を示す説明版と復元した町屋でした。
一つ京寄りの草津宿に本陣が残っているのとは対照的と言えます。
駅の開業は石部も草津も同じ明治22年ですが、その後の町の発展を見ると草津の方に軍配が。
こうして見ると町が開発されたから昔の景観が無くなると言った単純なものではなさそうです。

石部中央 交差点付近

高札場跡に建つ時計

高札場跡の説明板

問屋場跡説明板

常盤館跡説明板

三大寺本陣跡

上りに差し掛かるバス停「登り町」付近
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【往路】JR京都(6:37) → JR園部(7:21→7:26) → JR綾部(8:25→8:51) → JR東舞鶴(9:20)
東舞鶴駅 → 徒歩12分 → 赤れんが館 → レンタサイクル20分 → 金剛院 → レンタサイクル15分 → 松尾寺 → レンタサイクル30分 → 東舞鶴駅
【復路】JR東舞鶴(14:28) → (まいづる10号) → JR京都(16:07)

青葉山 松尾寺(真言宗 西国三十三ヵ所第二十九番札所) 境内の紅葉
仮本堂で御本尊に参拝したあとは、いつも通り境内を散策。紅葉と銀杏に彩られた道を往きます。
『境内には下段に仁王門(江戸中期)・勅使門・庫裏・方丈、上段に経蔵(江戸中期)・地蔵堂・
鐘楼・大師堂・六所神社があり、最奥に享保5年(1720年)に着工し10年後にようやく完成した本堂がある。
本堂から仮本堂へ向かう参道脇には鐘楼が建つ。
通常と異なり下部の袴腰が広がらず、上部と同じ広さを持った造りである。

参道脇に建つ鐘楼
その奥に聳えるのは銀杏の巨木。元永2年(1119年)鳥羽天皇の御手植えとされ、
樹齢900年。胸高囲5.2m、根廻り6.0m、古木特有の気根が垂れ下がっており、
その形が乳房に似ている事から安産・子育ての御利益があるとされる。
昭和52年に舞鶴市の指定文化財になった。

鐘楼の奥の銀杏の巨木
いわば此の樹木が御神木か?

古木特有の垂れ下がった気根
改修中の本堂左側には経蔵・地蔵堂と続き、その奥に句碑が二基、歌碑が一基。
更にその奥は竹林を経て青葉山への登山道と続いている。』 とあります。
青葉山境内には大銀杏があるせいか、地面は赤よりも黄色が優勢。
このグラデーションを見れば季節を知る信号になりそうでした。

本堂手前左手に建つ経蔵と地蔵様

その奥にある地蔵堂
全面に建つ六地蔵は冥途への案内仏?

更に奥には三基の句碑が…。

右端は句碑

中央は歌碑

左端は句碑
また裏山には竹林はあるものの梅林はなし。松竹梅揃い踏みはなりませんでした。
などと下らない事を思いながらの散策でしたが、境内を巡る人は皆無。
納経所ではそれなりの人に遭っただけに不思議でしたが、松尾寺は
札所の本堂と納経を済ませると留まる場所ではないのでしょう。
そう思うと、句碑や歌碑の説明も全くない理由も納得です。
こうして二ヵ寺巡礼は無事終了ですが、鹿原山と馬頭観音で
【馬鹿】を見たとはならんように注意が必要です。

地蔵堂脇の楓

経蔵裏は一面の銀杏

裏山の竹林

本堂奥には青葉山への登山道が

未だ青葉の残る楓

色が移ろいゆく楓

紅葉が進んだ楓
巡礼後は赤レンガ館で「肉じゃが丼」¥900。舞鶴鎮台に務めた東郷平八郎が
イギリスのビーフシチューを再現しようとして出来たのが「肉じゃが」だった事に由来します。
日英を【統合】したようなものでしょうか?
駅からは「特急まいづる」で二条駅まで戻り、無事18時から始まるイベントへ参ずることができました。
全車指定席でもあり¥3500。「これなら市内で拝観する方が良かったのでは」とも言えますが、
駅に置かれたチラシには東福寺夜間拝観¥3000。
交通費を掛けて静かにゆっくり見るか、近場で混雑の中で見るかは意見の分かれる所でしょうが…。

肉じゃが丼

デザートはお芋のタルト

二条駅で入手したリーフレット
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