<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:31) → JR岡山(9:08→9:11) → JR倉敷(9:28→9:52) → JR相生(11:18→11:21) → JR網干(11:30)
駅前レンタサイクル → 50分 → 室津入口 → 室津漁港

室津港
瀬戸内の穏やかな海を眼前に控える室津は1300年の歴史を持つ港町。
『室津は『播磨国風土記』に、室のように風を防ぐ泊であったと記され、
行基が定めたと伝える摂播五泊の西端の港で、奈良時代から栄えた港である。
平安時代には京都の北賀茂神社の神領となり分社が設けられ門前町が発達、
室町時代には室山城の城下町が成立した。

室津の沿革

観光案内板

港に停泊中の漁船

漁師町室津は賀茂神社の建つ岬に守られた自然の良港
江戸時代には姫路藩の港となり、一番の栄華を迎える。慶安2年(1649年)には港の入口に湊口御番所を設置。
西北の隅に灯籠堂を建て、姫路藩の侍が昼夜に亘り港を監視した。
西国大名は参勤交代の時、殆んどがここ室津で船から上陸、陸路を江戸へ向かった。
室津は海と陸の接点、宿場町として賑わい、薩摩屋をはじめ6軒の本陣があった。
明治以後、交通手段と交通路の変化に伴い、「室津千軒」と言われ殷賑を極めた港町も急速に衰退していった。
しかし今でも町内には町屋が残り、かつての繁栄を物語っている。』 とあります。

岬側から見た室津港

防波堤

湊口御番所跡碑

御番所跡公園の巨石

巨石の説明
時代と共に町の盛衰があるのは珍しい事ではありません。
交通路が変わったのは事実ですが、漁港としての室津は昔のまま。この日も港には多くの漁船が停泊していました。
播磨は瀬戸内の魚介類が豊富なことで知られますが、この付近は、いかなご・穴子・牡蠣が夙に有名。
しかし地元の方の話では、近年いかなごの漁獲高が激減、若い人も町を出ていく人が多いそうです。
いまは牡蠣の養殖に力を入れているようで、室津への途中にあった道の駅・地元販売所はどこも車で満車状態。
いかなごに代わる目玉商品になるよう【釘煮】を刺さないといけませんね。

もやい石

もやい石の説明

御番所跡公園から坂を上ると賀茂神社へ続く

御旅所
漁港の北側、漁協の上に建つ。
[参考書]
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駅前レンタサイクル → 50分 → 室津入口

室津の海
この日は、晴天で気温も上がるという天気予報を聞き、朝一番の電車で山陽本線の倉敷へ。
そこでの野暮用は直ぐに片付きましたが、そのまま帰宅するのも芸がないので港町と梅を見るべく、早春の播州路へ。
室津・綾部には山陽本線終点の網干が最寄り駅。
バスもありますが、一日の本数が余りにも少なく非現実的なので、JR網干駅前からレンタサイクルを利用。
地図上では12㎞程に見えましたが、南下して山陽本線網干までもそこそこの距離でした。
山陽網干駅の直ぐ南を通る国道250線をひたすら西へ。揖保川とその分流の中川・元川を渡ると旧御津町になります。

倉敷市マンホール蓋
配布場所はホテル グラン・ココエ倉敷 3階フロント。

倉敷市マンホールカード (E)
早くも倉敷市のMHCは5種類目に。
『室津までの道筋には海水浴や潮干狩りで知られる新舞子浜が、
また綾部山には梅林があって春から夏にかけて、阪神・姫路方面の多くの観光客を迎えている。
国道が南に向かう場所には岩見港があり、そこから室津までの3㎞の海岸は七曲りと呼び、断崖絶壁と屈曲した道が続く。
ここは海上に家島群島や唐荷(からに)島を望む景勝地で、瀬戸内海国立公園の一部となっている。

国道から見た岩見港

港の向こうの山肌には露出した岩が…
これが岩見港の語源では?

岩見港から室津まで続く七曲り
七曲りの終わる場所が室津への入口で、町へは国道の左側にある細道を海岸まで緩やかに下っていく。
海岸に出た場所が室津漁港で、更に道を南にいった先が藻振鼻。
その沖合い2㎞に浮かぶのが唐荷島。三つの島の総称で、それぞれ地の唐荷・中の唐荷・沖の唐荷と呼ばれる。
その昔、唐土の船が難破してその積み荷がこの島に流れ着いたことからこの名が付いたとされ、
古くから多くの歌人に詠まれている文学の島でもある。藻振鼻には
・玉藻刈る 辛荷の島に 島廻する 鵜にしもあれや 家思はざらむ
と詠んだ山部赤人の万葉歌碑が建っている。』 とあります。

室津への入口
右が国道250号線。

岬の西側を藻振鼻へ
中央に見えるのが賀茂神社の杜。

藻振鼻から見た沖合に浮かぶ唐荷島

かつてここに在った観音堂跡
250線を西行している間は道も広く気になりませんでしたが、そろそろ坂道に差し掛かったら七曲りの入口。
岩見漁港から南を見ると七曲りの道が遥か向こうまで続いています。
思わず【太陽に吠えろ】と言った気分でしたが、進んでいくと意外にも勾配は緩く自転車を押す事はありませんでした。
途中、振り返るとおおきな岩肌が山の中腹に。これが岩見の名の由来なのでしょう。
室津の入口からは岬の突端まではすぐ。徒歩でも15分程度でしょうか。
藻振鼻と呼ばれる場所にはかつて観音寺があったそうですが今は無く石碑のみ。
唐荷島の由緒は唐土の船の積み荷とありますが、赤人の歌に「辛荷」とある【からに】は、
海に投げ出された積み荷が塩辛くなった事例が、後に「辛→唐」と文学的に変化したように思いますがどうでしょうか?
由緒は兎も角、ここからの瀬戸内の眺望は素晴らしく、地元の年配女性3人が展望所のベンチに腰掛け談笑中。
周囲には梅もあり、塩と梅の香りが混ざっていい【塩梅】でした。

沖に三つ並んだ唐荷島

突端では磯釣りに興じる太公望の姿も

山部赤人歌碑
万葉仮名は犬養孝揮毫。

藻振鼻にある白梅

白梅近影
萬葉の里には桜より梅が似合う。
[参考書]
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知多半田 → 徒歩3分 → 旧中埜家 → 徒歩8分 → 半田運河 → 半六庭園 → JR半田(11:14) → JR名古屋(12:03→12:06) → JR桑名(12:28) → 観光案内所 → レンタサイクル5分 → 七里の渡し跡 → レンタサイクル10分 → 照源寺 → レンタサイクル5分 → 勧学寺 → レンタサイクル7分 → 観光案内所
【復路】JR桑名(15:24) → JR名古屋(15:54→16:00) → JR米原(17:09→17:17) → JR大阪(18:42)

走井山 勧学寺(高野山真言宗 伊勢西国三十三ヵ所第三十一番札所)
藩主の菩提寺に参拝した桑名での巡礼は果たした様なものですが、少し南へ下った場所に
古刹があると案内にあったので、欲を出してそちらへも参拝。丁度、伊勢西国札所であったのも幸いでした。
走井山勧学寺(はしりいさんかんがくじ)は、
『聖武天皇の天平年間、東国巡化の折に当地を訪れた行基菩薩がその風景を愛でて、
自ら千手観音立像を彫刻し安置したのが嚆矢。境内にあった名水「走り井」に拠って山号とした。
付近の丘陵は観音山または走井山と呼ばれる突角の要地で、
元亀或いは天正年間に矢田半右衛門尉俊元が矢田城を築城した。
当主は観音を信仰し、これを城の北方に祀ったという。
矢田城は織田信長の家臣・滝川一益の勢州平定に拠り陥落、当主俊元は自害した。

由緒記

丈六の千手観音を祀る本堂
江戸の元和元年(1615年)に桑名城主・本多忠勝の家臣であった本多半弥が山麓にあった観音堂を
矢田城址走井山に移し、更に後の藩主松平定重がこれを再建修復した。
伊勢湾を一望できる景勝地で、石段から表門を入ると正面に本堂・太子堂、左手に鐘楼・庫裏と続き
右手に水茶屋があって常に遊山の人々で賑わったと言う。

本堂前面の様子

本堂に掲げられた「走井山」の扁額
本尊は県文化財の千手観音立像で約六尺、かつて西北にあった海善寺が廃寺になった際に本尊が移されたもの。
寺伝に拠れば弘仁年間の810年の作とされるが、破損が著しく、修復を経て今に至っている。
開帳は毎年8月10日でこれを十日観音と称し、前日の九日より山は人で埋まったと言われる。』
とあります。

本堂前から南を見る

本堂脇の聖徳殿・太子堂
成程、実際に来て見ると説明通り周囲を見渡す要害の地。
城址に寺を移転した訳で、有事の際にはここを陣地にも転用できる事を見越しての事でしょう。
そんな境内を見渡すと、寺務所、庫裏がなく人の気配もなし。参拝すべく本堂前に行くと、
・御朱印は大福田寺で行っております。
との記載が。札所では時折見かけるパターンですが、伊勢西国三十四ヵ寺では五ヵ寺がそうなっていました。
当寺は風景印にも記載されている名刹。歴史もあり、要衝ながら無住になってしまうのもまた運命。
今は立地よりもリッチなお寺が生き残る時代と言えそうです。

境内の白梅

大福田寺で拝受した勧学寺の御朱印 (伊勢西国札所)

桑名馬道郵便局 ; 走井山勧学寺本堂、千手観音立像、サツキ
[参考書]
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東海山 照源寺(浄土宗)
照源寺で創建当初から今に残るのは山門と墓所ですが、加えて境内に鬱蒼と生える樹木が一層の趣を添えます。
『本堂前に生える二本の黒松は、両方の根元からほぼ水平に出ている側根が互いに癒着して連立しており、
夫婦松(別名、連立の松)と呼ばれるもの。日本の名松・百選にも選定された桑名市天然記念物である。

境内に茂る樹木群

日本の名松百選の一つである「夫婦松」

夫婦松の説明
また境内にある金龍桜は定綱が摂津の天台宗金龍寺から分植したもので、
一重と八重の花が同じ枝で咲く珍しいものである。
その他、本玄関と書院と間に中庭が、書院奥・墓所前には「二十五菩薩来迎図」を
表現した書院庭園がある。』 とあります。

庫裏の玄関前からの境内の眺望

玄関から夫婦松と本堂を望む
寺務所で御朱印を御願いしましたが御住職が不在なので書置きを拝受。
通常の御本尊に加えて、松と桜の見開き御朱印があり3月なので桜を拝受。
但し、境内の金龍桜は蕾も膨らんでいない状態でした。

参道の左にある金龍桜
季節柄、このような状態。

金龍桜の見開き御朱印

金龍桜の説明と御好意で頂いた「アマビエの御札」
デザインは近隣のお寺の僧侶との話。
和辻;「藩主の墓所は見学できますか?」
夫人;「大丈夫です。本堂横を進むと案内がありますので。」
和辻;「中庭・書院庭園の見学は?」
夫人;「申し訳ないですが、庭は拝観していないのですよ。」
との事。早速、歴代藩主に敬意を表して墓所にお参り。

松平家墓所への石段

史跡 墓所の説明

五代藩主松平定綱墓所

右は白河藩主松平定信(楽翁)の墓所
明治維新まで改易・転封がなかったのは、松平氏の当地での統治が的確だったからでしょう。
加えて墓所の帰りに塀越しに書院庭園を見ることが出来たのも幸運でした。
松は青々と屹立していましたが桜は春を【まつ】状態。常緑だから当然ですが連理となったのは稀有の事だそう。
何故かと考えるに藩主が久松から松平に改姓したからだと納得した次第です。

本堂裏手にある書院庭園

「二十五菩薩来迎図」を表現した書院庭園
[参考書]
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東海山 照源寺(浄土宗)
桑名の町割りを定め、近世桑名藩の礎を築いた本多忠勝公に続き、嫡男忠政が藩主となりますが
大坂夏の陣の後、播磨姫路へ転封。
といっても10万石から15万石への加増で、しかも西国の要衝である姫路ですから栄転といえましょう。
代わって当地には徳川家康の異父弟であった松平定勝が入部。久松松平氏の統治が始まります。
東海山照源寺(とうかいさんしょうげんじ)は、
『桑名藩主松平隠岐守定勝の菩提を弔うため、子の定行が寛永元年(1624年)に遠州掛川より
伝挙三甫上人を開山として創建。当初は崇源寺と号したが、秀忠夫人の法号を憚り照源寺に改称した。

照源寺由緒

桑名指定文化財となっている寛永元年(1624年)建立の山門

美しい筆致で書かれた山門の説明

下から見上げた山門の屋根裏構造
松平定勝は徳川家康の異父弟、於大の方(伝通院)の再婚した久松氏の出である。
家康に仕えて小牧長久手の戦いや関ヶ原の戦いで武功を重ね、家康の信頼も厚く葵紋と松平氏を賜った。
元和3年(1617年)には二代将軍秀忠より桑名十一万石を与えられている。
定行は寛永12年(1635年)に伊予松山に転封となるが、桑名は実弟の定綱が継ぎ、
照源寺も歴代桑名藩主の菩提寺として寺領200石を安堵されている。
江戸時代には多くの僧侶を輩出する修行道場として隆盛を極めた。

山門前にある「仙台枝垂れ桜」
創建当時から残っているのは、山門と26基の松平家霊廟でいずれも市の文化財と県の史跡。
本堂は明治23年の改築で入母屋・桟瓦葺で内陣には本尊の阿弥陀如来を祀る。
当寺には家康公由来の仏舎利、二十五菩薩来迎図、楽翁公(松平定信)肖像等、寺宝が残されているが、
中でも「解体新書」挿画を書いた小田野直武に拠る日本風景図は日本絵画史上貴重とされる。』 とあります。

山門を潜りすぐ左手にある鐘楼堂

参道から山門を振り返る

参道の先に建つ本堂

左側より見た本堂

本堂に掲げられた「東海山」の扁額
宿場町である東海道沿いは海に近く庶民のエネルギーを感じますが、菩提寺の建つ線路の西側は
木々に囲まれた静寂の地。
同じ東海でも海と山ではこれだけ違うと言う事ですが、歴代の名将の眠る【名勝】と言えましょう。
家康の異父弟とはいえ、入部した時には家康は既に泉下の人。
それでもこの要地に封じられたのは、幕府の信頼が厚かったために他なりません。
本多忠勝に比べると知名度は低い久松松平家ですが、勤勉実直な人だったのでしょう。
桑名藩も幕府の信頼に応え、幕末に於いて最後まで幕府に忠誠を尽くしたのが、会津藩、庄内藩とここ桑名藩でした。

本堂前からの境内の眺望

本堂と庫裏前の枯山水庭園

照源寺説明冊子

照源寺御朱印 (御本尊)
[参考書]
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東海道五十三次桑名宿
七里の渡が有名ですが、桑名は松平家の城下町、かつ東海道五十三次42番目の宿場町でもあり、
旅籠数120軒を数える賑やかな場所でした。今でも町のそこかしこには宿場の雰囲気が残ります。
ここ桑名の町割に功績があったのが、本多忠勝公。
『本多忠勝公は関ヶ原の戦いの戦功により、慶長5年(1600年)上総大多喜より伊勢桑名十万石に転封になった。
入部した忠勝公は木曽三川の水運で栄えた港町を、城を中心とした城下町に造り変えるという
大胆な都市再開発事業を断行。これを「慶長の町割」と呼び、桑名で計画的に町造りが行われた最初とされる。
城下町・港町・宿場町という三機能を併せ持つ桑名の町は公の第一の功績である。
慶長15年に63歳で没した忠勝公は、城下の浄土寺に葬られている。

九華公園にある本多忠勝像

忠勝公像近影

像の下にある忠勝公事績

蟠龍櫓内に展示されている忠勝公の肖像画(複製)
旧東海道は七里の渡から南に向かいますが、渡跡から八間通までの川口町・江戸町付近が
宿場らしい場所で、案内図ではかつては花街であったと言う。
渡付近にはかつて大塚本陣、脇本陣駿河屋があったが、現在前者は料理旅館船津屋に、
後者は料亭山月となっている。
明治42年桑名に講演に来た泉鏡花は船津屋に宿泊、その時の印象を基に小説『歌行燈』を書いた。』
とあります。

渡跡から八間通りの旧東海道
桑名宿では旧東海道はベージュでカラー舗装されている。かつては花街であったと言うが、今は、はまぐり専門店が多い。

大塚本陣跡
かつては裏庭から直接乗船できたと言う。現在は料理旅館・船津屋として営業。

船津屋の東に隣接する船番所・脇本陣の駿河屋跡
こちらも今は料理旅館・山月として営業中。

駿河屋跡に建つ石碑
本多忠勝公と言えば「槍の平八郎」の異名を取った徳川四天王の一人。
関ヶ原では軍鑑を務めるなど武人の印象が強いですが、桑名の町割を造った事など武辺一本槍ではなかったようです。
船津屋脇には歌行燈句碑が建ち、戯曲『歌行燈』を書いた久保田万太郎の作。
てっきり作者が詠んだとおもいましたが説明を見て【行燈】。作者ならやはり【狂歌】になるでしょう。

船津屋脇に建つ「歌行燈」句碑
但し、摩滅しているためか読み辛いのが難点。

句碑の説明
丁度昼時でしたが、船津屋や山月は敷居が高くて敬遠。街道沿いにあるその名も「歌行燈」で昼食。
明治10年創業の老舗のうどん屋さんですが、鏡花の作品に由来する名前。
「うどん」に「たあん」を加えると「うたあんどん」。他案の入り込む余地はなかったのでしょう。
巡礼で饂飩は定番ですが、またこの付近は弥次喜多道中でも有名な蛤の店が多くあり、
名物「蛤歌行燈御膳」を頂きました。もし半田で昼食ならば【す】うどんだったでしょう。
昨今、漁獲量が激減し価格が高騰気味の蛤ですが、それなりのリーズナブルな値段で頂くことができました。
もっと安くなれば、焼き蛤を頂きたい所です。勿論、【しちりん】で…。

旧東海道沿いにある「歌行燈」

正面から見た「歌行燈」

名物「蛤歌行燈御膳」

桑名郵便局 ; 名産・白魚、蛤、七里の渡碑、揖斐川堤の桜
桑名城南郵便局 ; 旧東海道沿道の安永の常夜燈、町屋川、町屋橋

JR桑名駅スタンプ
(上) わたしの旅 シリーズ (下) 関西本線 名古屋~亀山電化記念

JR桑名駅スタンプ 2008年JR東海名古屋支社印
[参考書]
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七里の渡跡
半田運河を巡った後は武豊線・東海道本線で名古屋まで戻り、関西本線で伊勢の桑名へ。
JR東海道本線は名古屋から北上して関ヶ原・米原方面へ向かいますが、
江戸時代の東海道はほぼJR関西本線コース。国道一号線もこれを踏襲しています。
唯、線路や道路で行ける現在と異なり、江戸時代は名古屋(宮宿)から桑名までは唯一の海路でした。
理由は色々とあるでしょうが、この付近は木曽三川が複雑に入り混じって伊勢湾に流れ込んでおり、
大きな橋を架ける事に抵抗があった幕府が、川ごとの渡しではなく一気に海を渡る事にしたと思えます。

七里の渡跡に建つ伊勢国一の鳥居
ここから伊勢国という意味合いか?

七里の渡の案内板

七里の渡跡付近の地図
太い赤線が旧東海道。

七里の渡跡説明
『宮宿と桑名宿の間は東海道唯一の海路で、その距離が七里(約28㎞)であった事から七里の渡と呼ばれる。
七里の渡は丁度、伊勢国の東入口に当たるため、伊勢国の一の鳥居が天明年間(1781~1789年)に建てられた。
渡の西側には舟番所、高札場・脇本陣・駿河屋・大塚本陣が、南側には船会所・人馬問屋や庭本陣があり、
東海道を行き交う人々で賑わい桑名宿の中心として栄えた。
昭和33年(1958年)に三重県指定史跡になるが、翌34年の伊勢湾台風でこの付近は甚大な被害を受けた。
その後、渡跡の前には堤防が築かれたため、江戸時代とは異なる景観となっている。

渡跡の前に築かれた堤防
堤防の向こうには揖斐川が流れる。

少し高みから見た堤防

堤防の上から見た揖斐川
更に向こうが長良川で遠くに長良川河口堰が見える。

堤防の上から見た七里の渡跡

七里の渡跡にて鳥居を仰ぐ
また渡の東には蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が建つ。桑名城には元禄大火後の再建時にも51の櫓があったが、
川口にある七里の渡に面して建てられた蟠龍櫓は東海道を行き交う人々が目にする桑名の象徴的存在であった。
廣重の東海道五十三次(保永堂版)でも描かれている。』 とあります。

渡跡の先に続く蟠龍櫓

渡跡から南へ伸びる水路
今でも多くの船が停泊する場所である。

陸側から見た蟠龍櫓全景

揖斐川側から見た蟠龍櫓

櫓の屋根の鬼瓦
藩主本多家の家紋「立ち葵」と蟠龍。

櫓内部に展示されている蟠龍

櫓の狭間から七里の渡跡を望む
七里の渡は伊勢湾を横断しますが、尾張の宮の渡も伊勢の桑名の渡も海でなく
川で少し内陸に入った場所にあったとは今回初めて知りました。
内海とはいえ荒波を防ぐ意図があったようですが、海に棲むフナクイムシの被害を防ぐためでもあったのでしょう。
現代の感覚からすれば途中に海路を挟むのは能率が悪いように思えますが、
陸上の移動では徒歩が主流であった時代には、船の移動は時間的・物量的にも効率の良い方法でした。
外海と異なり伊勢湾では海難事故も殆どなかったと思えます。
それを思えば海の字を持つ東海道と言う呼び名は相応しいといえましょう。

歌川廣重 東海道五十三次 桑名「七里の渡し」 (保永堂版)
蟠龍櫓に展示されているもの。

桑名市マンホール蓋

桑名市マンホールカード(B) 配布場所はこちら

桑名八幡郵便局 ; 歌川廣重 東海道五十三次 桑名「七里の渡し」 (保永堂版)
[参考書]
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【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR金山(9:20→9:30) → (名鉄) → 知多半田(10:00)
知多半田 → 徒歩3分 → 旧中埜家 → 徒歩8分 → 半田運河 → 半六庭園 → JR半田(11:14) → JR名古屋(12:03)

半六庭園正面入口(西門)
半田の豪邸は個人宅なので、中に入って見ることはできませんが、唯一見る事ができるのが旧中埜半六邸。
半田運河沿いの中埜酒店の南に隣接した場所に建ちます。
源兵衛橋から北上すると、道沿いに朱色塀が見えますが、こちらは裏の南門。正面玄関は西門になります。

邸の西側を南北に走る道

邸の南西端にある朱色塀

半六庭園の説明

庭園地図

景観重要建造物
『中埜家は江戸時代から地元の発展に貢献した豪商。
現在に残る屋敷と庭園は、明治22年(1889年)建築の中埜半六旧邸宅。
かつては母屋を始め茶室や九つの蔵など多くの棟が立ち並んでいた。
回遊式の日本庭園の泉水は海水を引き込み、潮の干満に合わせて水面が上下したと言われる。

南側側から見た母屋正面
今は1階がHANROK、2階が半六コラボと言う施設になっている。

母屋二階部分の張り出し

母屋西側の「ばぁむくぅへん研究所」
製造販売も行っている様子。

母屋南側の茶室跡

母屋の一角にある井戸と炊事場
また昭和40年代半ばから50年代初めまで、大相撲名古屋場所の折には
二所ノ関部屋宿舎として使用されており、第48第横綱大鵬も母屋二階で就寝していたと言われる。
現在、建家はフレンチレストラン・バームクーヘン専門店や貸部屋として利用され、
屋敷前の半六庭園は来訪者の憩いの場として無料で開放されている。』 とあります。

母屋の南にある広場
先には半田運河が流れる。

東側から見た母屋
この二階に大鵬関が泊まった?

東から見た庭園と母屋全景

母屋の縁側から北側を望む
奥の黒板塀は中埜酒造の建物。

庭園と四阿、その奥に建つ岸蔵(左)・前蔵
岸蔵は現在お手洗いとなっている。
半田の富豪・豪商の邸宅は今も子孫の方々が住まれている現役の建物が殆ど。
浮き沈みの激しい世の中での保持は、余程しっかりとした家訓が守られていると想像しています。
そんな中で見学できる半六庭園は貴重な存在。といって持ち主は中埜家ですから
左前になって手放したのではなく、地域に対する貢献といえるでしょうか。
大鵬関が定宿としただけあって邸内や庭園は横綱級。庭園が整備されているのは勿論ですが、
邸が綺麗に保たれているのは施設として利用されているから。玉子焼きではなくバームクーヘンでしたが、
なまじ使わずにいるよりも適度に使用する方が、良好に保存される道理です。

母屋と西蔵の間の中庭

中庭の紅梅

南から見た中庭
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知多半田 → 徒歩3分 → 旧中埜家 → 徒歩8分 → 半田運河 → 半六庭園 → JR半田(11:14) → JR名古屋(12:03)

JR半田駅西側にある長大な塀
醸造業で栄えた半田の建物の特徴は醸造蔵ですが、見逃してはならないのが豪商の邸宅。
近世の資産家といえば両替商・廻船業・醸造業の三大看板ですが、廻船業・醸造業のここは【はんぱ】ない大きさ。
JR半田駅ホームから西側を見ると長い塀に囲まれた広大な敷地が見えます。
一辺100m以上はありそうな方形なので少なくとも3000坪はあるでしょう。
今回はスルーしましたが、かつて前を通った際には「中埜」の表札が上がっていた記憶があります。
『名鉄知多半田駅から少し北に行った所に建つのが、旧中埜家住宅。
明治44年(1911年)に十代目中埜半六が海の見える小高い丘に建てた別荘。
中埜半六家は古くから海運業・醸造業を手広く行う半田屈指の豪商の一つであった。
設計は東海地方で多くの建築を手掛けた鈴木禎二に拠るもので、複雑な壁面と切妻屋根の組み合わせ、
屋根の天然スレート等、明治後期の洋風建築の特徴が残されている。

国の重要文化財・旧中埜家住宅

中埜家住宅説明

正面から見た中埜家住宅
欧州留学中に見た住宅の美しさに魅了されて建築したとされる。

柱を浮き上がらせた壁面
かつて鎌倉で見たのと同じハーフティンバー方式か?

天然スレートを使った屋根

北側から見たレンガ造りの煙突
唯、多くの邸宅はここより東に行った運河付近に集中しており、
明治23年(1890年)の明治天皇の当地行幸の際には小栗富治郎の屋敷が大本営となった。
その周囲には熾仁親王の宿舎に提供された小栗三郎家、酒造業を手掛け大地主となった中埜半左衛門家、
尾張藩御用達在郷十人衆に選ばれた中埜半六家など半田を代表する富豪・豪商の邸宅が立ち並んでいた。
小栗三郎邸は慶応3年(1867年)から明治3年(1870年)にかけて10代当主三郎兵衛が建てた
寄棟造桟瓦葺の純和風木造建築で、居宅と萬三商店の店舗を兼ねたものとなっている。
度重なる地震や昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で被害を被ったが、130年の風雪に耐え
現在は重要文化財になっている。』 とあります。

半田運河から一筋西の通りにある小栗家住宅

小栗家本宅の解説
昔ながらの板材に手書きというのが良い
現在も名古屋は派手好きで知られますが、建物は造る時よりも維持する方が大変。
特に中部地方は交通の大動脈で、戦乱に加え台風・地震等の自然災害に遭遇する事も多く、
それが顕著であった筈。創業よりも守成が大切なのは家も企業も同じ、この辺りに
愛知から全国的な大企業が出た鍵がありそうです。

小栗家北側
屋根の竹矢来は泥棒除けか?

今でも店の看板を背負っている
[参考書]
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源兵衛橋上から見た半田運河と中埜酒店の黒板囲いの醸造蔵
未だ寒さが残る弥生の5日は温暖な知多半島へ。県下では渥美半島と並ぶ半島で、
東西それぞれ見所がありますが、この日の巡礼先は東側の付け根にある半田市。
青春18きっぷ使用であれば、東海道本本線の大府駅から武豊線に乗り換えるのが筋ですが、
連絡が悪く大府で50分待ち。そこでJR金山から名鉄に乗換えての現地入り。
かつては蒸気機関車が走った名門路線ですが、時間の波は如何ともし難い様子。
武豊線列車の本数は名鉄の【半出し】位でしょうか?
半田市は小学校の国語で習う「ごんぎつね」の作者新美南吉の故郷でもあります。
高温多湿な我が国では各地に酒蔵、醤油蔵や味噌蔵は多くありますが、
酢の里と言うのは寡聞にしてここ半田くらい。

JR半田駅スタンプ (2008年JR東海名古屋支社印)

JR半田駅近くに展示中の蒸気機関車C11265
Cなので車輪は3個。

蒸気機関車説明
『知多半島は温暖な気候とミネラルに富んだ地下水に拠って古くから醸造業が盛んであった。
その繁栄を加速させたのが半田運河の存在で、古くは衣ヵ浦と呼ばれた衣浦には江戸時代には
多くの弁才船(千石船)が往来した。既に酒どころであった上方の灘よりも江戸への輸送に利があり、
加えて尾張藩の後押しもあって廻船業が栄えた。

源兵衛橋から西方面(JR側)を見る
黒いビルがミツカングループ本社。

半田運河地区地図
その特産品の一つが、ミツカングループの創業者であった初代中埜又左衛門が文化元年(1804年)に発明した
日本初の粕酢。従来、捨てられていた酒粕から作った粕酢は、高価な米酢に代わる手軽な材料として
江戸で握り寿司ブームを巻き起こし、やがて握り寿司の全国普及へと繋がった。
今でも半田に本社を置くミツカングループや国盛の銘柄を持つ中埜酒店などの黒板囲いの醸造蔵や
豪商の邸宅が並び、醸造の町半田の歴史を今に伝えている。』 とあります。

橋の向こうに見えるMIZKAN MUSEUM

運河に映えるMUSEUMとミツカングループ工場?
MUSEUMは酢造りの体験型博物館。事前予約が必要との事。

源兵衛橋越しに見たMUSEUM
半田運河沿いには今でも醸造蔵が並びますが、南側にあるのがミツカングループ。
源兵衛橋よりも北側に行くと銘酒国盛を作る中埜酒店になります。
現在はミツカングループと言う名前ですが1990年代までの社名は中埜酢店。
同じ苗字なので親戚であろうとは想像できますが、酒店からお酢店が分かれたようで、
かつては中埜酒店もミツカングループだったようです。

源兵衛橋北側に続く中埜酒店の醸造蔵

運河に黒板塀が映える醸造蔵

中埜酒店のタンク
右に國盛の看板が見える。

中埜酒造工場入口

東西に続く中埜酒造の建物

國盛 酒の文化館
観光客、観光バスの案内板。

酒の文化館
200年前の古い酒蔵をそのまま利用したお酒の資料館。展示の他、直売所も併設。
食生活に欠かせないお酢の産地にしては数が少な過ぎると思っていましたが、
中埜家が酒粕から酢を作る技術を発明したと知って納得。
価格と廃棄物の両方を減らすとあっては、他は太刀打ちできなかったのかもしれません。
三河文化が江戸文化に発展したとは二川宿で聞いた話ですが、江戸前寿司を作ったのが半田のお酢だったとは、
愛知は江戸っ子の胃袋も支配したことになります。
愛知県発祥の企業は独創性に富んだ会社が多いですが、これは異文化が交わる場所と言うのも
影響しているとも思えます。信長・秀吉・家康と天下人を三名も輩出したのと通じるものがあるでしょう。
勿論、たゆまぬ企業努力があったことは想像に難くないですが、
このような醗酵方法が【みつかん】ったのは【うんが】良かったとも言えるでしょうか?

半田協和郵便局 ; 十ヵ川、両岸の蔵、市文化財・山車

半田住吉郵便局 ; 国登録有形文化財・半田赤レンガ建物、住吉神社の例祭「ちんとろ祭」の子供三番叟、ちんとろ舟

半田市マンホール蓋 A

半田市マンホール蓋 C

半田市マンホールカード 配布場所はこちら
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泉南市観光協会 → レンタサイクル20分 → 信達神社 → 金熊寺 → 金熊寺梅林 → レンタサイクル20分 → 泉南市観光協会
【復路】JR和泉砂川(14:51) → (紀州路快速) → JR大阪(15:58)

一乗山 観音院 金熊寺(真言宗御室派 和泉西国三十三ヵ所第二十九番札所)
金熊寺梅林の紅梅
金熊寺参拝の後は、いよいよ後方にある梅林へ。金熊寺梅林は、
『江戸初期の正保4年(1647年)、この地の豪族であった信達神社神主・矢野和泉守家次に
「この地に梅木を植えなば、神領益々隆昌ならん。」
との神託があり、一族で相議して梅木を植林。これが金熊寺梅林の始まりである。
以来、泉州の梅の名所として知られ、明治31年(1898年)の記録図には根来街道に沿って
六尾から桜地蔵付近まで梅林が続いている。現在は金熊寺の後方、小丘が起伏する一帯が梅林となって居る。

高台から見た梅林全景

斜面を下る

時期尚早のため開花はちらほら
大戦中は畑に転用されたが戦後復興し、現在約二千本。
樹齢20~30年の樹木が殆どであるが、中には百年を越える老木も混じっている。
ここで獲れる梅は金熊寺梅と呼ばれ、実は小ぶりだが種が小さく肉厚で良質高価なものとされている。
現在は隣接する信達神社と共に大阪みどりの百選に選定されており、
2月下旬~3月中旬には多くの参拝者が訪れる。』 とあります。

開花すれば壮観であろう斜面に続く梅林

梅林底部にある梅の木

梅林の先にある溜池
和泉なので、行基さんが造ったかも。手前の箱は養蜂用か?
当初は金熊寺の寺域にある梅林と思い、信達神社参拝後は神社が管理している梅林と思いましたが、
行ってみると農家さんが梅の剪定をしておられる様子。
尋ねてみると梅林は複数の農家さんが自分の土地に梅干し用の梅を植えて栽培されているもの。
金熊寺というのはこの場所の地名でした。
紀州と同じように山の斜面を利用して栽培されており、高台に立つと山全体が梅に覆われる様子が
見える筈でしたが、未だ蕾状態。農家の方に伺うと、
農家:「ここの梅は遅いので咲くのは三月半ば頃ですね。」
和辻:「3月には紀州の梅は散っているので、もっと早いと思いましたが…。」
農家:「紀州は和泉よりもずっと温暖ですから。しかもここは山側ですし。」
和辻:「紅梅は咲いていますね。」
農家:「あれは受粉用で、梅干しになるのは専ら白梅です。」
との話。
子孫を残すためには単一品種より多品種の方が収穫量が増えるのは生物学的にも尤もな理由。
紅梅が植えられていたのは交配のためでした。
北河内から見ると、紀州も泉州も温暖なイメージでしたが、その差を考えに入れなかったのが敗因。
ねごろ街道を来たのに【みごろ】には程遠い状態。観梅はならず【完敗】でした。

これが梅干用の金熊寺梅らしい

こちらは交配用の紅梅

しかし写真映えするのは紅梅の方

梅林の地面に咲く「キンポウゲ(金鳳花)」
その後は駅前に戻り、案内所の向かいのレストラン杏樹で昼食。
この日は山側に行ったのでキノコオムレツランチ¥1000+ミニパフェ¥600。
野菜も魚介類も豊富な泉州ですが、キタやミナミに比べると随分リーズナブル。
【杏樹るより喰うが安し】でした。

「杏樹」全景

キノコオムレツランチ ¥1000

ミニパフェ ¥600

泉南市のマンホールカード 配布は泉南市観光協会
[参考書]
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一乗山 観音院 金熊寺(真言宗御室派 和泉西国三十三ヵ所第二十九番札所)
本堂にお参りした後は梅林ですが、通り過ぎるにはちと惜しい金熊寺境内を散策。
神社と異なり鬱蒼と茂った樹木ではありませんが、綺麗に作庭されています。
本堂北側に建つのが行者堂。役小角を祀っており、説明書の写真では石畳と樹木に囲まれていますが、
実際は整備された階段と石灯籠の先に鎮座。樹木の維持も大変でしょうし、【樹命】もあることですから
境内を修復整備された結果でしょうが、写真とは随分雰囲気が違うようでした。
唯、御堂の縁には村を見守り続け惜しくも枯死した栂の板を使っているそうなので、
輪廻転生を経て寺の一部になっていました。

本堂脇を抜けて右奥に建つ行者堂へ

参道の奥に建つ行者堂

説明書に載った行者堂
現在とはやや雰囲気が異なるのは、石燈籠が無いためか?

行者堂正面

行者堂の縁は栂材

栂の説明

行者堂前から見た本堂とその奥に続く金熊寺梅林
その後は、本堂と庫裏を結ぶ渡り廊下の向こうにある池と庭園。
説明等は一切ありませんが小ぶりながら池泉回遊式でしょうか?

本堂と書院を繋ぐ渡廊下

渡廊下の奥にある庭園
本堂側からの眺望。

廊下側からの眺望

庭園左奥

庭園右奥
御朱印を拝受すべく庫裏に向かいましたが、玄関前に実の様な白い花が。尋ねると馬酔木(あしび)でした。
字面からも分かるように有害成分を含んでいますが、多く並ぶと壮観。
【あしび】心で植えて見るのも良いかもしれません。

書院側から見た渡廊下

本堂側から見た渡廊下

廊下からの庭園の眺め

上から目線の庭園

寺務所(庫裏)への門前の庭
鉢に植わっているのは蓮。

寺務所玄関からの眺め

玄関前の馬酔木
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一乗山 観音院 金熊寺(真言宗御室派 和泉西国三十三ヵ所第二十九番札所)
神社参拝後は、寺院へ。石の鳥居の直ぐ横に入口があり神宮寺であった事が分かります。
梅林があるので門前には石碑と立派な盆梅が。前の空き地はこの時期、¥500の駐車場に早変わり。
一乗山観音院金熊寺(いちじょうさんかんのんいんきんゆうじ)は、
『真言宗御室派の仁和寺の末寺で如意輪観音を本尊とする。
この本尊は、天武天皇の白鳳10年(682年)、役小角が夢のお告げに拠って金銅六寸の尊像を
土中より掘り出し、四肘の木像を造り安置したのが嚆矢とされる。
役小角は金峯・熊野の両神を勧請し、当寺の鎮守として信達神社に合祀したので、寺名を金熊寺と呼ぶようになった。

寺標脇には梅林石碑と盆梅が

盆梅近影

梅近影
正安元年(1299年)1月28日には、永仁の徳政令の煽りを受けて焼討ちに遭い諸堂が焼失。
しかし本堂と薬師堂は残り本尊も難を免れた。人々は不思議な事と噂したと言われる。
応長2年(1312年)3月28日に本堂・薬師堂・鐘楼・中門・金銅三尺鏡・両界曼荼羅等を補修、
延元3年(1338年)には足利尊氏が元の姿に近いように修復したが、天正13年(1585年)の
豊臣秀吉の根来攻めの兵火に罹り焼失した。

書院前からの境内眺望

本堂とその向こうに見える書院

本尊・如意輪観世音菩薩を祀る本堂

正面から見た本堂
戦国時代に兵火に遭ったが江戸時代に元に近い形で再建された。
慶長12年(1608年)、豊臣秀頼の家臣・大桑平右衛がこの地に狩りに来た際、白鷹を失った。
平右衛が祈願したところその効果あって白鷹を紀伊国で捕らえる事ができたので、返礼として本堂を修復した。
承応2年(1654年)9月には、信達十三ヵ村の人々の善意に拠って現在の堂宇が再興。
寛文5年1665年には岸和田藩主岡部氏から山林と新田を寄進された。
かつての金熊寺は多くの堂宇、塔頭を有する一山であったが、今は塔頭であった観音院のみが残り、
金熊寺の寺跡を継承している。1500坪の敷地に本堂・庫裏・行者堂・薬師堂等があり
信達神社、金熊寺梅林に接し、閑静な佇まいを見せている。』 とあります。

本堂前面
天竺様式に見えるが…。

向拝と庇部分

本堂前の「金熊寺」の扁額

本堂の参拝は外陣から
度重なる火災にも拘らず、御本尊は生き延びたようです。本堂は外陣からの参拝のみですが、
内陣には如意輪観音の巨大提灯が吊るされ、正面奥には金色に輝く観音様があります。
ですが、これはあまりにも金ピカなので御前立、御本尊は御厨子の中のようです。

本堂入口から見た内陣の様子

御本尊・如意輪観世音菩薩
といっても金ピカのこの観音様は御前立。

こちらが秘仏の御本尊 (説明書より)
金熊の由来は神社と同じ。神仏習合であったので当然ではあります。
根来攻めの際の焼失は修験道との関係で理解できますが、
徳政令関連で焼討ちに遭うとは一体どういった事情でしょう?
まさか【きんゆう】関連の仕事をしていたとも思えませんが…。

山門脇の釣鐘堂

書院とそれに続く寺務所(庫裏)

書院玄関に建つ山号寺号碑

金熊寺略記

金熊寺御朱印 (和泉西国札所)
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信達神社(旧金熊寺大権現宮)
参道脇に建つ「大阪みどりの百選」碑
信達神社の特徴はその鬱蒼と茂った鎮守の杜。
『信達神社は金熊寺梅林と共に「大阪みどりの百選」に選ばれている。中でも有名なものが二木。
一つは本殿東側に生える御神樹ナギで、樹周2.5m、樹高19.5mと府下最大で天然記念物。
ナギは日本では紀伊半島・四国・九州の南部に生え、笹状の葉はお守りとしてまた「凪ぎ」に通じる
として重宝される。紀州では熊野権現との関りから権現と名の付く神社に植えられる事が多い。
今一つは、本殿前のオガタマノキで樹周3m、樹高18mでこちらも天然記念物。招魂の木とされる。』
とあります。

本殿を囲む塀の向こうに聳えるナギの木

御神樹の説明

塀越しに見たナギ

中門から見たナギの幹

本殿敷地内の右脇からのナギ
但し、敷地内に入ってはいけない。
どちらもほぼ同じ大きさですが、熊野権現に関わる御神木のナギは本殿の敷地内にあるため遠くから眺めるだけ。
一方、オガタマは周囲に柵があるものの、傍まで近づく事ができます。
オガタマのタマは魂でしょうから招魂の木は納得。
ナギは凪に通じるとありますが、元は南方の木を表す「南木」が変形した気がします。
いずれも南方系で巨木になる点が崇拝される所以でしょうが、若干の【商魂】も感じるのは【木】のせいでしょうか?

本殿から拝殿の場所まで下りる
左がオガタマノキ。

オガタマノキ全景

オガタマノキ近影

オガタマノキ説明
さて神社参拝後は御朱印ですが、境内に人影はなし。
「さてはここも無住か」と思いましたが、社務所の連絡先が貼ってあったので、
あまり期待せずに電話を掛けると呼び出し音の後、宮司さんらしき方が電話に出られました。
和辻;「御朱印を頂きたのですが、どこへ行けば良いでしょうか?」
宮司;「今、どちらに居られます?」
和辻;「石の鳥居の前です。」
宮司;「後ろを振り返って下さい。」
と振り向くと、道路を挟んだ反対側の門の前に姿が見えました。
丁度、地鎮祭から戻られたとの事で、お忙しい中、御朱印を拝受した上、御由緒も頂くことが出来ました。
てっきり社務所は神社に隣接しているものとばかり思っていましたが、灯台モトクロスを地で行く話。
ナギする所をオガタマうまくいった信達です。

一の鳥居から振り返った光景
右奥が宮司さん宅。

ここ宮本地区のだんじり収納庫
この辺りでは「やぐら」と呼ぶらしい。

金熊大権現 信達神社 御由緒

信達神社御朱印
[参考書]
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【往路】JR大阪(8:38) → (紀州路快速) → JR和泉砂川(9:53)
泉南市観光協会 → レンタサイクル20分 → 信達神社 → 金熊寺 → 金熊寺梅林 → レンタサイクル20分 → 泉南市観光協会
【復路】JR和泉砂川(14:51) → (紀州路快速) → JR大阪(15:58)

信達神社(旧金熊寺大権現宮)
ことしは少し寒いので、梅の開花も遅いとの情報ですが、2月最後の土曜は梅を求めて泉南へ。
泉南市の市花は梅、これは市内にある金熊寺(きんゆうじ)梅林に由来しています。
金熊寺はJR和泉砂川駅の南東3㎞。なんでこのような山側にと思いましたが、この道は標高216mの
風吹峠を越えて和歌山の根来寺の西へ出るという根来街道。周辺に古刹があるのも納得です。
歩くにはすこし距離があるので、駅近くの観光案内所でレンタサイクル。
滑瀬橋でその名も金熊寺川を渡り阪和道を越えて20分程で目的地。
途中、岩出駅行きの南海バスが追い越して行き、改めて根来街道を往くのを実感sました。
街道から右の細道を入ると遥か向こうに伽藍が見えますが、その手前に神社が鎮座。
順序としてはこちらに参拝するのが筋と言うものです。

JR和泉砂川駅舎
昭和5年に阪和電鉄の信達駅として開業。当時の駅舎が三角屋根として今も残る。

滑瀬橋上から見た金熊川
向こうに見えるのが阪和道。

根来街道から右へ続く細道
突き当りに伽藍が遠望できる。

正面に金熊寺、右手に信達神社
信達神社(しんだちじんじゃ)は、
『その昔、泉南樽井の海岸に神武天皇の尊像が漂着。
それを神意と思った里人等が像を引き上げ、樽井の地に祀った樽井権現社が始まり。
更に神意を得て現在の地に社殿を建て遷座した。
この御鎮座地は神武天皇の東征に際し、男之水門より紀伊釜山に至る途中、
しばし休息されたとされる尊い高地で、当社にある神池は御兄五瀬命の矢傷を洗ったとされる。
その後、天武天皇の白鳳10年、役小角が金峯・熊野の両神を勧請し本殿に合祀したので
金熊寺大権現宮と呼ばれ、当時の信達荘十三ヵ村の鎮守・産土神の役割を果たした。
御祭神の「金」「熊」の二字を採って、この里を金熊寺と呼ぶようになったのは、それ故である。

入口に建つ一の鳥居

鳥居に続く参道
ここから先は両側に樹木が迫る。

参道脇の御由緒
天正年間に織田信長、豊臣秀吉の根来征伐の兵火で炎上。
社殿は焼失したが、御神体は幸いにして無事であった。
江戸初期の正保4年(1647年)、この地の豪族神主・矢野和泉守家次が東西に奔走。
桁行五間梁間二間の本殿を再建した。その矢野神主に
「この地に梅木を植えなば、神領益々隆昌ならん。」
との神託があり、一族で相議して梅木を植林した。これが現在の金熊寺梅林の始まりである。

太鼓橋を渡って本殿へ向かう

拝殿へと続く階段

階段の上から参道を振り返る

拝殿内部の様子
行事に使用すると思しき鞨鼓が置かれている。
明治元年(1868年)の神仏分離令に拠り、金熊寺から分離独立。信達神社となって今に至っている。
この地区では
① 権現様の秋祭り
② 林昌寺の躑躅の花見
③ 師走小晦日の市場歳の市
が信達郷の三大行事として知られ、近郷近在の人々が集まり大変な賑わいであったという。
この権現様の秋祭りが金熊権現宮の祭礼で、御輿渡御神事と国市座(庄宮座)が盛大に行われた。
明治の初期頃には国市座の参加者が三千人を数えたという。
室町幕府以降、各村連合の惣が出来、惣社が置かれるようになった。信達庄(郷)は13ヵ村で構成され、
この惣社が当社であった。今の信達郷共有林野組合はこの流れを継ぐものである。』 とあります。

本殿への中門

本殿は更に一段高い石垣の上に建つ

中門前から拝殿を見下ろす
寺院の由緒で仏像が海中・土中から出たというのは良くありますが、神社でしかも天皇像が漂着したとは
何とも不思議な話。唯、神武天皇東征途上で立ち寄った云々とあるので、その事が像の漂着に変形したのでしょうが、
天皇像を海に流すことに抵抗はなかったのでしょうか?
修験道の開祖・役行者が勧請した両神に因み改称したとありますが、両方の良い所採りで繁栄を願うのは
東大寺と興福寺に因む東福寺等ありそうな話。【きんゆう】だけに【かんじょう】高い所がありそうです。
その由緒ある社名も明治以後は信達神社に改称。信達は字の名前なので当然とも言えますが、
神仏分離は仏教側に厳しかった令なので、寺を改称して金熊寺大権現宮のままでいく選択肢はなかったのか?
地域の先達が信達になったのには何か【辛辣】な事情でもあったのでしょうか?

眼も鮮やかな朱色の本殿
桁行五間梁行二間(五間社流造)の社殿である。

本殿正面の唐破風と彫刻群

本殿左側
極彩色の蟇股と垂木が見える。

本殿右側
修復中なのは末社か?

本殿から石段を下る

弁財天を祀る境内社
[参考書]
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淵埋山 光善寺(浄土真宗大谷派)
御廟は墓地の一角にある。
光善寺の巡礼の〆は上人の御廟へ。と言っても境内から【5秒】で行ける所ではありませんでした。
『光善寺から東へ1㎞。京阪電鉄の線路を越えて更に高台に登った場所にあるのが蓮如上人御廟。
中振と言う地の丘の上に建ち、御廟の当たりからは、淀川の流れを見下ろす眺望千里の風景を
眺める事ができる。』 とあります。

道路脇に建つ石碑

御廟へと続く階段

御廟全景
善光寺は周囲よりも少し高いと言うものの、町全体を見渡すには不向き。
それに対し御廟の場所からは、寺内町全体を見渡すことが出来、死しても町を見守るという上人の意志を感じました。
しかし廟自体は加工した花崗岩を積み重ねただけの簡素なもの。
立派な造りの墓よりもその位置に拘ったのは、民衆目線に立った上人の教えであったのかもしれません。

御廟正面

石を積み上げただけの簡素な御廟

後方にある御廟への石段

後方からの御廟近影

御廟前からの眺望
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淵埋山 光善寺(浄土真宗大谷派)
山門前に建つ腰掛石への案内。ここより二丁とある。
参拝を終えた後は駅に向かいますが、府下の富田林や久宝寺程ではないものの
町並みには寺内町の香りが漂います。
所々に水路があるのは、寺内町を護る環濠に思えますが、説明がないので分からず仕舞い。
せめて案内板でもあればと思うのは私だけでしょうか?

当寺から腰掛石に向かう途中にある蔵

寺内町の面影を残す町並み

この水路は環濠跡か?
寺から数百メートル南下した場所にあるのが「蓮如上人腰掛石」。
『上人が出口に来た時は、『御文』に「九間在家」とあるように僅か九戸の村落であったが、
その様な村の中央部で、上人は石に腰掛け人々に親しく仏法を説いた。
出口では今でもこの「腰掛石」の御遺跡の場所を上人が居られるように「蓮如さん」と呼んでいる。
出口ではこの腰掛石の形に因んだ「出口だんご」が作られ、この地の名物となっている。
以前はどこの門徒の家庭でも出口だんごを作ったが、今では稀になっている。』 とあります。

腰掛石の向かいにある上庄南之口樋跡

蓮如上人腰掛石への入口

石碑の後方の石で囲まれた場所が腰掛石
蓮如はこの地で布教に従事しますが、結局三年で京都へと移る事に。
文字通り腰掛になってしまった訳ですが、【公善事】を積み重ね民衆の心は掴んだのは確かで、
今でも親しみを込めて呼ばれるのがその証拠。
収奪だけ行って去ってしまう為政者も多い中、蓮如の行為は際立っています。
政治に携わる人間が心すべき事でしょう。

腰掛石近影

脇に建つ蓮如上人御腰掛石之碑
明治40年建立で内容は漢文。
その後は、石より団子と言う事で国道1号線を越えた場所にある和菓子店へ。
目的の団子はかつては多くの店で作られたようですが、今は遠州屋さん一軒のみ。
所謂、かた団子で、餡子の周りを餅で巻いたもの。
日持ちはしませんが、素朴な味わいは昔ながらといえそうです。
コロナ禍で営業時間は短縮でしたが、お店は開店中。但し、目指す団子は売切れ御礼。
15時過ぎと言う時間が遅かったのでしょう。土産には「さいかちの木」と銘打った饅頭を購入しましたが、
でぐち団子を食べるためにはお店を訪れる【再価値】はありそうです。

遠州屋さん外観
唯一残った「でぐち団子」のお店。

団子が売切れだったので、「さいかちの木」を土産に
[参考書]
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淵埋山 光善寺(浄土真宗大谷派)
本堂の後は寺務所の横の細い通路を抜け、書院と庭園へ。
山門からは広い境内が目に入りますが、隠れた部分にもこんな広い場所があったのかと改めて感心しました。
『本堂に続く書院は520余年前の蓮如上人在住当時の姿を今に伝える貴重な建造物。
石川丈山はこの書院を「萬象亭」と名付けた。当時は池のすぐ傍を淀川が流れ、
三十石船の上り下りの情景や彼方に見える天王山の風景を借景に取り入れた風流な眺めであった。
淀川の堤防が500m以上も西へ移った今となってはその風情も昔話の域である。

書院と庭園への門

門の先にある書院
その奥には本堂屋根が見える。

北側から見た書院

西側から見た書院

書院の窓と廊下
拝観はしていないので外から眺める。

書院内部の様子 (冊子より)
床柱等の主要な柱数本が当時のまま残されている、蓮如上人愛用の書院である。

書院前から門を見返る

書院から庭園を望む

南側から見た書院

書院に続く本堂の裏側
前方と異なり土壁のままになっている。
書院の西側にあるのが石川丈山作とされる光善寺庭園。中央付近にある池は創建当時埋め立てた池の名残である。
また池の周囲には現在では「さいかち」と言う名前で呼ばれる梓(はり)の木が繁茂していたので、
人々は光善寺の事を「梓原堂(しんげんどう)」と呼んでいたと伝わる。今でも境内の北端に梓の大木が残っている。

庭園遠景

創建当時の埋め立てた池の名残り

池に架かる石橋を渡る

池の向こうに見える住宅
ここに住む人は毎日この庭を眺められると思うと羨ましい。

南側の道を抜け池を巡る
この梓には蓮如上人と龍女の伝説がある。
上人が出口で辻説法をしていた頃、毎夜熱心に聴聞する美女が居た。ある夜、
「私はこの池に棲む大蛇です。貴方の説法で功徳を得て昇天できる事になりました。
御礼にこの池を献上しますので、埋め立てて御堂を建立して下さい。」
と言って池の傍の梓から昇天したとされる。
この樹は樹齢200~250年、幹周り2.5m、樹高12m。府下では幹周り2mを超えるものは殆どなく
昭和50年に大阪府指定の天然記念物になった。
唯、老木のため平成25~27年には樹勢回復の治療を受けている。』 とあります。

池の畔の石灯籠

十三重石塔

一応、心字池となってはいるが…。

池越しに見る書院と本堂

池越しに寺務所方面を見る

入口付近からの眺望
石川丈山と言えば、元戦国武将で大坂の陣以降は京都の詩仙堂に隠棲した人物。
詩仙堂の庭と当寺の庭の同一性は分かりませんが、通常の寺院の庭と違い素朴で力強い庭と言ったところでしょうか?
龍女の話は当寺の建立譚に繋がる話。伝説的な内容ですが、恐らく地元の有力者の女性が蓮如に帰依した結果、
この地を寄進したと言う史実があったのでしょう。
そこには梓の木が登場しますが、この樹木は洗剤や生薬としての効用があったと言いますから、
それに拠って富を得たのではと想像が膨らみます。
住職夫人は 「全然手入れが追いつきませんで…。」 と謙遜されていましたが、
私見では北河内にこれ程の庭を持った寺院は未見。
ガイドに載らない名園もあると【再価値】を見出した次第です。

寺務所の裏に建つ経蔵
といってお経を納めているようには見えず、蔵か物置の様。

境内の裏手に生える樹木群

境内の北西にある「さいかちの木」
木に勢いがないのが寂しい。

サイカチ伝説
[参考書]
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淵埋山 光善寺(浄土真宗大谷派)
山門の正面に建つのが本堂。真宗寺院に相応しく境内で一際目を惹く堂々とした造りです。
真宗寺院は門徒以外にも【門戸】を開いているのが常ですが、御堂の前には柵があり内陣には入れず。
仕方なく外陣からの参拝となりました。
その後、念のために北側にある寺務所へ伺い御朱印の可否を尋ねると、住職夫人が対応に出られ、
意外にも拝受できる事に。
加えて平成9年に発行された説明書も頂きました。説明書と言うには余りにも立派な30頁の冊子です。

天明2年(1782年)再建の本堂(御堂)
21.5m四方の入母屋造、本瓦葺で江戸時代後期の真宗本堂の特徴を良く示している。

本堂の壮麗な屋根
屋根の勾配が美しい。

屋根の鬼瓦の玄武?
和辻;「真宗では御朱印の無いのが一般的と聞いていましたので有難いです。」
夫人;「お参りに来て頂いた方には書かせて頂いています。」
和辻;「本堂内とお庭は拝観していないのですね。」
夫人;「拝観という形式は採っていませんが、良ければ御案内しますのでどうぞ。」
と言う事で、思いがけなく本堂内陣・書院・庭園を拝観できる事に。

境内北側にある寺務所
御朱印はこちらで拝受。

出口御坊 光善寺 御朱印

御好意で頂いた冊子
平成9年10月25日初版発行と奥付にあるが、売価が記載されておらず非売品の可能性も。
『天明2年(1782年)に再建された本堂は間口十一間、奥行八間の大きさ。
入母屋造、本瓦葺で江戸時代の真宗本堂の特徴を良く表しているものである。
内陣に祀られている御本尊は阿弥陀如来。両側には開祖親鸞と中興の祖蓮如の御影が掲げられている。
蓮如の後を受けた初代住職の順如(じゅんにょ)は42歳で早世したので、蓮如は外孫の光淳(こうじゅん)を
順如の養子として二代目住職とした。
彼に続く光善寺の系譜は、七世准玄(じゅんげん)が西本願寺の学寮の初代学長、
大谷派に転じた後の十世一玄(いちげん)、十一世真玄(しんげん)が著述・講義で活躍するなど
光善寺は教学重視の系譜を残している。』 とあります。

長く突き出た庇が特徴的な本堂前面

本堂前から南側の会館を見る

本堂の向拝と扉
和辻;「歴代の御住職は親鸞・蓮如上人の血筋ですか?」
夫人;「途中、跡継ぎが居らず井波から住職を迎えた事もありましたが、親戚なので細々とですが血は繋がっているようです。」
和辻;「というと御住職の苗字は大谷さんですか?」
夫人;「いえ、藤原です。」
親鸞聖人は平安貴族日野資業の六世の子孫、日野氏は藤原北家ですから、遠祖の姓に戻ったと言う事でしょう。
本堂の欄間は見事な出来でしたが、かつて井波の瑞泉寺から住職を迎えたことから、欄間の職人と技術も
伝わったに違いありません。
開祖と彫刻の血脈は300年経った今でも受け継がれている様子。これも信仰の力でしょうか?

本堂内陣の様子
お寺の御好意で撮らせて頂いた。

正面には御本尊の阿弥陀如来像

内陣の見事な欄間彫刻
これは孔雀図。

本堂前から山門方面を望む

本堂前から南側の鐘楼を望む
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淵埋山 光善寺(浄土真宗大谷派)
大阪市内から京都市内へ乗り入れる鉄道は新幹線を筆頭にその殆どが淀川右岸にあり、唯一左岸を走るのが京阪電鉄。
大阪駅に直接乗入れていない事、関西の私鉄では唯一プロ野球チームを持たなかった事で関西以外での知名度は
【今市太子橋】ですが、最近は沿線の守口出身の中川家礼二さん、伏見稲荷出身の西村和彦さん等の紹介で
知名度も上昇中だとか。
京阪電鉄京都線沿線には石清水八幡宮・伏見稲荷等の神社、成田山不動尊等の寺院がありますが、
意外に穴場なのが光善寺。そのものズバリ光善寺駅が最寄りですが、特急・急行も通過駅なので、
来る人も少ないのでしょうか?
私も普通の寺院と思い込んでいましたが、戦国時代に吉崎御坊を退去した蓮如が次に目指した
歴史的にも重要な寺院であると知ったのは最近の事。地元では出口御坊の名で親しまれています。
守口大根、門真蓮根は知っていましたが、出口ゴボウは初耳でした。

高い塀に囲まれた御坊

山門
四脚門形式で、切妻造・本瓦葺。17世紀中頃(慶安・寛文時代)の建築とされる。

山門脇に建つ堂々とした寺標
淵埋山光善寺(えんまいざんこうぜんじ)は、
『文明7年(1475年)、61歳で越前国吉崎御坊を退去した本願寺八世法主蓮如上人が京へ戻る途中、
ここ河内国茨田郡出口に草坊を営んだのが始まり。
当時の出口は僅か九戸の寒村であったが、蓮如はこの地で近畿一円の教化を図った。
当時この地にあった二丁四方の大きな池を埋め立てて諸堂を建立した事から山号を淵埋山、
建立に当り近在の有力門徒であった御厨石見(みくりやいわみ)入道光善が尽力した事に拠って寺号は光善寺となった。
当時は応仁文明の乱も収束に向かい、また蓮如は守護富樫正親の争いで吉崎を退去した事に鑑み
出口では門徒の反体制的行動を戒めたため報恩講には各地から大勢の人が参集、
出口には寺内町が形成された。『御俗姓の御文』『白骨の御文』は出口時代の作とされる。

山門の北側に続く脇門と太鼓楼

脇門近影
医薬門の形式で、山門と同時代の築。妻飾りや屋根の架橋に特徴が見られる。

境内から見た太鼓楼
入母屋造、本瓦葺で下層板張りの二層構造。天明7年(1787年)の建築だが、妻飾りの木連格子などは寛政頃の様式とされる。

山門正面に見える本堂(御堂)

光善寺由緒記
この地で3年間布教をした後、文明10年(1478年)本願寺建立のため山科へ移住。
後継者には長男順如(じゅんにょ)を大津から迎え光善寺初代住職とした。
同時に蓮如は出口御坊を近畿一円の筆頭御坊としたので、光善寺は教学の根本寺院として発展する。
しかし天文3年(1534年)、火災に拠り焼失。一時は淀川の対岸の摂津国島下郡鳥飼や
河内国茨田郡大場等に移転を余儀なくされたが、ようやく慶長年間に出口に戻って再建された。
現在の敷地は約三千坪、広大な寺域には17世紀の山門及び脇門、江戸中期の数寄屋風書院があり、
天明2年(1782年)の御堂、同7年の太鼓楼等があり近世建築の伽藍を有する寺内町の核としての
風格を有する寺院である。』 とあります。

境内の遠景
本堂の奥には会館が建つ。

本堂前の石碑

蓮如上人落歯懐紙

石碑に記された内容
8月21日に吉崎を退去した上人は船で若狭の小浜に着き、そこから丹波・摂津を抜けて9月5日に出口に到着。
住んでいる人は僅かでしたが、淀川の南岸に接する出口は京都と大阪の中間地点で、水陸交通の要衝。
同じく交通の要衝であった越前の吉崎に御坊を開いた蓮如には、ここの地形はこれからの発展を期待できる場所と
映ったに違いありません。
応仁文明の乱は日本史上のターニングポイントですが、丁度その頃に土地の生産性が向上し、
人々の定住が始まるようになったのも追い風でした。

蓮如上人坐像
立ち姿は多く目にしているが、坐像は珍しい。

笠と杖が描かれた碑

鐘楼
入母屋造、本瓦葺で一般的な鐘楼に比べ柱高が高く、屋根勾配が強い縦長の形状となっている。

南無地蔵尊
塀の近くに安置された石の地蔵群。
この後、蓮如上人は京都山科に移りますが、彼に続く門主の時代には淀川河口に石山本願寺を築く事になります。
これも出口時代に淀川の持つ重要性に気付いたからに他なりません。その素地は、ここ出口時代に培われたと言えるでしょう。

書院玄関の唐破風

寺務所入り口も唐破風
御朱印はここで拝受した。

本堂の前庭
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【往路】JR北新地 → (学研都市線) → JR星田
JR星田 → 徒歩15分 → 星田神社 → 星田寺 → 徒歩15分 → 星田妙見宮 → 徒歩20分 → 天田神社 → 徒歩5分 → JR河内磐船
【復路】JR河内磐船 → (学研都市線) → JR北新地

天田神社(旧村社)
交野の三ツ星を参拝、MHCもゲットした後は、余裕があったので交野線の線路を越えた所に鎮座する天田神社へ。
天田神社(あまたじんじゃ)は、
『私市、森両集落の氏神社で住吉四神を祀る。
古代この地方は土地が良く肥えて、作物が豊かな野であったので甘野、川は甘野川、田は甘田と呼ばれた。
その甘田に田の神を祀って建てた甘田宮が天田神社の起源とされる。
交野は肩野物部氏の所領で、その祖先とされる饒速日尊が長く交野の祭神であった。その物部氏が
577年に敏達天皇の皇后であった豊御食炊屋姫(後の推古天皇)にこの地を献上、私市部(きさいちべ)となった。

道路を挟んで建つ一の鳥居

正面から見た古風な拝殿
平安時代になると都の宮廷貴族がしばしば狩猟に来ては和歌を詠み、
当地の七夕伝説に因んで甘野川は天野川、甘田は天田と書くようになった。
その頃、住吉信仰が流行し始めるに伴い磐船の神も海に関係すると考えられるようになり、
更に物部氏の衰頽もあって祭神は饒速日尊から和歌の神である住吉神に代わり、今に至っている。
境内からは土師器が出土、また周辺には物部氏のものと見られる古墳群も見つかる等、
歴史の古さを感じさせる。』 とあります。

拝殿の奥に建つ本殿

塀越しに見た本殿屋根

横より見た拝殿(右)と本殿
物部氏から皇室へと所有が変わり、祭神もそれにつれて変わったと言う事。
古代より人が居住した場所なので、農耕に適した場所であったのはそうでしょうが、
甘いと言う表現にはやや違和感が…。私には「あまた」と聞くと雨田を想像してしまいます。
一方の「ほしだ」は干田。要は水はけの良い場所と悪い場所を表す言葉であったのが、
後世、七夕伝承に拠って天田・星田に変化したと思うのですが、根拠のない甘い説か、
妙な意見(妙見)か判断の難しい所です。

人の気配が全くない社務所

境内にある自然林
参拝者は殆どいなかったが、バードウォッチングには10人程いた。
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星田妙見宮(星田神社摂社)
星田妙見宮で最も神聖で大切な場所は、頂上の拝殿にある影向石(織女石)ですが、
妙見信仰の基礎となる北斗七星を祀る場所も境内に点在。
『境内には貪・巨・禄・文・廉・武・破で表される七星塚が如意輪観音曼荼羅の形で置かれ、
参拝者は各自の本命星・元辰星に礼拝し厄除開運を願う慣わしである。
また当宮には北斗七星霊符など多数の霊符が伝わるが、太上神仙鎮宅(たじょうしんせんちんたく)
七十二霊符は中国皇帝に最高の守護符として尊ばれた秘法の霊符である。』 とあります。

境内案内図

七星塚

境内の七星の場所を表した曼荼羅

階段の上り口にある貪狼星(一番目)

絵馬堂前にある巨文星(二番目)

絵馬堂を過ぎた場所にある禄存星(三番目)

階段の先にある烏枢沙摩明王を祀る祠
因みにこの反対側にお手洗いが建つ。

烏枢沙摩明王の奥にある文曲星(四番目)
宗教と言うものは洋の東西を問わず来世を願うものですが、道教はひたすら現世利益を願うもの。
その辺りが他の宗教との違いですが、いかにも現実的な中国らしいとも言えます。
階段を上って拝殿に参拝して帰り路を行くと七星塚にもお参りできる仕組み。オリエンテーリングを彷彿とさせますが、
寺院で見かける四国・西国札所のお砂踏みの神社バージョンと言った所でしょう。
そういえばJRの豪華観光列車の名前は「ななつぼし」と言いましたっけ。

五番目以降は帰り道にてお参り

坂道途中にある廉貞星(五番目)

坂を下りた石舞台脇にある武曲星(六番目)

最後に鎮座まします破軍星(七番目)
坂の下にある「登龍の滝」は滝壺に隕石が落ちたという説もあるとか。
中国の登竜門は出世に関する話ですが、我が国ではドツボに落ちてしまわないか心配です。
登竜門は後漢末の文官と宦官の清濁の争いの中で生まれた話ですが、
それが西晋時代の星団ならぬ清談に繋がっていく訳ですから、ここにも道教の匂いを感じます。
我が国には教団としての道教は定着しませんでしたが、その痕跡は残っているようです。
分野の権威を表す泰斗という言葉は泰山北斗に由来していますし、葛飾北斎の北斎は北斗七星の事。
そうして見ると八百万の神々を祀る神道も道教的と言えなくはありません。

結界の向こうにある登龍の滝

滝の石碑

御神水
参拝前に浄めるか?

登龍の滝の前にて

登龍の滝の由緒

登龍の滝近影

滝の下に祀られたお不動様

滝の脇に建つ祠と石板

「鯉の滝登り」の石板

石舞台とあるが護摩壇では?

星田妙見宮御朱印(七星塚版)
境内を一巡したあとは、1月15日発行MHC入手のため河内森駅方面へ。
旧第四学区の市は全てMHCを発行していますが、二種類発行は交野市が初でした。
こうして「星に願いを」かけた後は「まんぼーる」で〆。オミクロン菩薩様は不在でしたが、密を避けて三ツ星。
パワーを貰ったと感じた一日でした。

交野市マンホール蓋

交野市マンホールカード
配布場所は交野市水道局。
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星田妙見宮(星田神社摂社)
一の鳥居付近にある七夕伝説の説明板。
星田妙見宮は七夕祭でも有名。毎年7月6・7日には参道が飾られ、近隣はおろか遠方からも多くの人が訪れます。
一の鳥居の脇には大伴家持が詠んだ歌碑が建立されていました。
『当宮には伝統的な七夕祭祀が伝わる。『河内名所図会』には、
「妙見祠、妙見山にあり。神躰巨石三箇、鼎の如く岐ちて、岡の如し。(中略)土人、織女石(たなばたいし)とも呼ぶ。」
と七夕の織姫を祀る石の記述がある。

大伴家持歌碑

歌碑の解説
また貝原益軒の『南遊紀行』にも
「此谷のおくに、星の森有。星の社あり。其神は牽牛織女也。」
と当宮の事が記載されている。
当宮を含む現在の交野市、枚方市辺り一帯は平安時代以前より、羽衣伝承・七夕伝承が伝わり、
銀河に例えられた天野川が流れる。そして星や七夕に所縁の在る地名や場所が点在する。』 とあります。

余呉湖の羽衣伝説と交野の七夕伝説の関り

拝殿の奥にある影向石(別名織女石)

影向石近影

織女石説明
京阪電車の交野線の終点私市には、在原業平が交野ヶ原で惟喬親王の狩猟の供をした際に詠んだ
・狩り暮し 棚機津女(たなばたつめ)に 宿借らむ 天の川原に 我は来にけり
という 『古今和歌集』 にある歌碑が建っています。
業平は平安時代ですが、家持の歌は天平10年(738年)。平安時代以前というのも嘘ではありません。

拝殿前に建つ常夜燈

妙見宮 七夕御朱印
地名についても、交野市には星田・天田が、枚方市内には北極星に由来する中宮、天の川に所縁の在る
鵲橋が残っています。これらについてはこの地を本拠とした百済王氏(くだらこにきし)に拠る古代朝鮮文化の痕跡、
古代道教信仰の名残といわれますが、どちらもあり得る話。
唯、渡来人の居住地であっただけではなく、加えてそこに星が降ったという歴史的事実が一役買ったのは確実です。
言わば隕石落下という【棚ぼた】が七夕をこの地に七夕信仰を定着させるのに一役買ったと言えるでしょうか?

かつてのJR交野駅スタンプ
片町線(現;学研都市線)の表記が懐かしい。
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星田妙見宮(星田神社摂社)
それでは当宮の信仰の中心となっている妙見とはどのような神なのでしょうか?
『妙見信仰は、北極星が不動の星として北の天の中心に位置する高貴な星と崇め、
北極星とそれを補佐し万物に恵みを与える北斗七星を神格化したもの。
妙見神は諸星諸神、方位方角を支配する尊い星神とされ、人の星(運命)を司る神と伝えられる。

拝殿に向かう階段

階段を上り切った場所に建つ拝殿
信仰の淵源は紀元前数千年前の古代バビロニア、その後、インド・中国を経て仏教と共に我が国へ伝わった。
これについては次の様な話が伝わる。
「推古天皇3年、百済の聖明王の第三王子琳聖(りんしょう)太子は夢のお告げに拠り法を伝えるべく日本に渡る決心をする。
同じ年、我が国にも大星降臨し「三年後に百済の第三子が来朝する」とのお告げがあった。
推古天皇5年、琳聖太子が来朝。秦河勝の案内で難波宮にて聖徳太子と会見。
太子が目指す政治・宗教の実現に向け、北斗七星剣と十七条憲法制定の基となる妙見信仰の調和の心、
太上神仙鎮宅七十二霊符神を伝えた。その後、我が国で初めての北辰星供が盛大に行われた。

拝殿の前面部分

何故かここにも「おもかる石」が…

拝殿前の狛犬
延暦5年(785年)には桓武天皇が当地交野ヶ原に郊祀壇を設け、我が国初の北辰祭祀に拠る天神の祀りをされた。
享和元年(1801年)刊行の『河内名所図会』には
「妙見尊は神道家には天之御中主尊と称し、陰陽家には北辰星と言ひ、日蓮宗徒には妙見菩薩と仰ぎて、近年おおいに奉信す」
と当宮が記述される。
古くより北辰(北極星)信仰の霊場として、神道・仏教・陰陽道・道教等様々な宗教が混淆した信仰形態で祭祀された。』
とあります。

拝殿前からの眺め
下にあるのが社務所。

遠く交野市内を見渡す

枚方市方面の眺望

狛犬の脇を抜けて更なる高台へ

先ずは青龍大明神

大明神から仰ぎ見た拝殿

横から見た拝殿

影向石に続く巨石群

青龍社から稲荷社へ
旗も青から朱へと変わる。
百済の聖明王は我が国に仏教を伝えた人物ですが、その第三王子琳聖太子が伝えたとされるものは、
どうやら仏教とは違った道教色の強いものだったようです。琳聖太子自身もやや伝説的な人物ですが、
このような人物を持って来たのは聖明王との関係から仏教側の反発を和らげようとの思惑であった気もします。

最も高所に建つ豊臣稲荷大明神

更に奥に建つ豊正豊玉龍王社
日本は大陸から多くのものを取入れたが、科挙と宦官だけは取入れなかった。とは歴史上良く言われますが、
王を放伐する革命思想と教団としての道教もそうだったとは学生時代に国史学で学びました。
唯、銅鏡があれほど渡来した状態で道教が全く伝わらなかったというのも不思議な話。
その教義や習慣は伝わったと見た方が自然でしょう。
それでも教団が組織されなかったのは、周りの宗教に溶け込んでしまったから。
その点ではうまく【どうきょ】したと言えるでしょう。

戻って社務所で御朱印拝受

4種類のオリジナル御朱印帳

星田妙見宮 参拝の栞

4種の内、この図柄を購入 (大判サイズ 175×115)
右上の山頂の人物は弘法大師。

星田妙見宮御朱印
これは一般的なもの。
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星田妙見宮(星田神社摂社)
星田神社、星田寺に続き三ツ星に参拝すべく坂を上って妙見さんへ。山全体に境内が広がり、
パワースポットとして参拝者も多い神社ですが、社格では先に訪れた星田神社の摂社の扱い。
降星の里、七夕伝説で有名で、付近は星田も含めてそのような地名が多く見られます。
平安時代に付近に住んだ渡来人の影響、道教信仰等がよく言われますが、
由緒書を見ると弘仁2年(816年)にこの山に隕石が落下、星が降臨したとありました。
星降る里というのは嘘ではないようです。

参道入口の一の鳥居
左が駐車場となっている。

妙見宮御由緒

参道脇の社標には「小松神社」と彫られている
星田妙見宮(ほしだみょうけんぐう)は、
『嵯峨天皇の弘仁年間(810~823年)、交野へ来た弘法大師が獅子窟寺吉祥院の獅子の窟にて佛眼仏母尊
(ぶつげんぶつもそん)の秘法を唱えたところ、天上より七曜の星(北斗七星)が三ヵ所に分かれて地上に降りた。
大師は自ら「三光清岩正身の妙見」と称し、「北辰妙見大悲菩薩独秀の霊岳」「神仏の宝宅諸天善神影向来会の名山」
として祀った。
この伝説は当地に残って居り、星が地上に落ちた場所として、一つは星田傍示川沿いの星の森、
もう一つが星田乾にある降星山光林寺境内、そして今一つがこの当宮とされる。
現在も降臨したと伝わる磐座を影向石(織女石)として祀っている。

二の鳥居へ進む

参道脇の降星伝説の説明板

隕石落下の記録

巨木に囲まれた参道を往く

参道右手にある親子杉への参道

親子杉近影
立入禁止は、木の皮を剥ぐ人が絶えないからだとか!
平安時代には「神禅寺」と称されており、河内長野市の金剛寺の古文書には
「嘉承元年(1106年)九月二十三日、星田神禅寺」の記載が残る。
また天文4年(1535年)の神明帳には小松大明神と記されている。
後世には淳和天皇、白河天皇、後醍醐天皇を始め楠木正成、加藤清正など多くの崇拝を集めた。
古くから七夕祭祀が行われており、享和元年(1801年)の『河内名所図会』、栢原益軒の『南遊紀行』にも記述が見える。
平成28年(2016年)には創建1200年を記念し「星田妙見宮鎮座1200年奉祝大祭」が開催された。』 とあります。

本殿へは親子杉の反対側の参道を上る

妙見宮鎮座1200年奉祝大祭賛歌

親子杉脇にある庚申(禰宜)社

三の鳥居
右奥の手水舎で浄めてから参拝。
隕石といえば科学的ですが、流星といえばロマンティックな響きが。しかしそれは日本の話。
1066年のノルマンコンクェストの前にハレー彗星が出現するなど西洋などでは流星は不吉とされ、
それに従うと為政者が己の不徳で【いんせき】辞任をしたり、国が【隆盛】から【衰勢】に向かうところですが、
そんな「ねがちぶ」な考えを神が降臨した「ぽじちぶ」に考えた先人に敬意を表します。

鳥居を抜けて石段を上る

石段の途中に建つ絵馬堂

絵馬堂の内部
「天尊山」の扁額は神仏習合の名残り?

絵馬堂を過ぎて拝殿へ更に石段を上る
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三宅山 華岳院 星田寺(東寺真言宗 北河内観音三十三番札所)
星田神社参拝に続き隣接する二つ目の星へ。立派な山門の向こうに綺麗な伽藍が建ちますが、
碑や説明板に平成5年とあるので、その時期に再建されたのでしょう。由緒は古いが新しい建物です。
三宅山華岳院星田寺(みやけさんかがくいんしょうでんじ)は、
『寺伝では長暦年間(1037年)に開基、創建。河内長野市の金剛寺の史料には、
長治2年(1105年)6月16日に当寺院で金剛界大灌頂次第が書かれたとある。

星田寺入口にて
右手に建つのが星田神社。

山門前の仁王像

由緒記の様なもの
江戸時代末期までは北側に隣接する星田神社と深い関係があったが、明治初年の神仏分離令以降、
神社との関係はなくなった。
境内には江戸中期の寛永元年に建立された堂があったが、平成になって250年振りに改築された。
御本尊は不動明王、周囲には弥勒菩薩、大黒天、毘沙門天、弘法大師を祀る。

山門近影
奥に見えるのが本堂。

境内全景
左から、庫裏、本堂、観音堂。

山門下からの眺望

正面から見た本堂
不動明王を祀るが参拝は外陣から。

本堂の「華岳院 星田寺」の扁額

本堂前からの眺め
その手前にある観音堂では十一面観音を祀る。
この観音像は、かつて星田村の東南山中に在った真言律宗小松寺(こまつでら)の根本草堂に祀られていたもの。
江戸の元禄年間に小松寺は伽藍の老朽化で廃寺となり、その際に十一面観音像は星田神社境内に移転。
更に明治初年の神仏分離令に拠って当寺に移され現在に至る。
平安時代の作と言われ平成2年に交野市文化財に指定された。』 とあります。
人気のない境内に入って本堂と観音堂へ。いずれも施錠されていたので外陣からの参拝、
お不動さんは遠目でしたが、観音様は間近で見る事が出来ました。
平安時代造で重文になっていないのは十分とは言えませんが、説明にあるように補修や復元を受けているからでしょう。
寺院の盛衰は星の流れならぬ時の流れですが、うまく乗り切った事で今の御姿があるのでしょう。

観音堂

観音堂の「三室山」の扁額
小松寺から移転したので、山号も小松寺のものになっている。

祀られている十一面観音菩薩さま

十一面観音像由緒記
その後、庭と沓掛不動さんを見て次に向かう予定でしたが、もしやと思いベルを鳴らすと運よく御在宅。
書置きですが御朱印拝受できました。その後、御住職に伺うと
和辻;「お寺の呼び方は“ほしだでら”ではなく“せいでんじ”ですよね。」
住職;「正式には“しょうでんじ”です。でも私を含めて皆“ほしだでら”と言うてますけど。」
和辻;「隣の神社とは神宮寺の関係ですか?」
住職;「ええ、かつてはそうでした。歴史はこちらの方が遥かに古いですが…。」
和辻;「観音堂の扁額に三室山とありますが、こちらの山号は三宅山ですよね。」
住職;「あれは観音様を祀っていた小松寺の山号をそのまま使っているのですよ。」
和辻;「いまから妙見さんに行くのですが、途中にある小松寺さんがそうですか?」
住職;「あそこは“しょうしょうじ”さんと言う法華宗のお寺です。かつての小松寺とは全く関係ありません。」
と、いきなり来た参拝者にも快く丁寧に対応下さいました。加えて縁起も頂く事に。
こちらも事前に調べてから動きますが、余程の有名寺社でない限り書物やネットには限界があります。
今回は、半信半疑で御朱印を御願いしましたが、結果的には有り余る成果を得る事ができました。

境内の池と手水鉢
奥に見えるのが庫裏と寺務所。

池を含めた前庭風景

水かけ明星お不動さん

お不動さん近影

星田寺の縁起(由来)

星田寺御朱印
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星田神社(村社)
1月も終わりですがオミクロンが猖獗を極める状況下。
何とか神仏のパワーを貰って収束をと、全く勝手な理屈で星田妙見宮へ。
北河内では有名なパワースポットですが事前に調べると社格では星田神社の摂社とか。
【拙者】も今回初めて知りましたが、それなら先ずは本社へとお参りせねばなりません。
学研都市線(片町線)星田駅から南東へ少し行くと星田神社。

石橋を渡り境内へ

石橋の上から見た放生池
星田神社は、
『現在、本殿には住吉四柱を祀っているが、それより遥か以前に一本の大杉があり、そこに当地の
交野物部氏の御祖・饒速日尊(にぎはやひのみこと)を氏神として祀った交野大明神が嚆矢とされる。
交野大明神は延喜式に見える式内社。平安から鎌倉にかけての序列では一の宮であったとも言われ、
天文4年(1534年)の神名帳にその名が記載されている。

階段脇の狛犬

正面から見た拝殿

拝殿入口の唐破風
その後、宝永年間(1704~1711年)に近隣の村の惣社であった磐船神社と宮座を争い、住吉大神として
祀られていた分霊を遷した。それに及んで交野大明神よりも大きな神殿が建立され、以後交野社は古社とされ、
また大杉も枯死したのでその芯を御神体として祀るようになった。
住吉神については謎が多いが、物部氏が蘇我氏との争いに敗れた後、祭神の饒速日尊を隠す必要から、
物部系の津守氏の奉祭していた住吉大社の神を表の祭神とした。』 とあります。

拝殿に掲げられた「星田神社」の扁額

拝殿の内部の様子

拝殿後方にある本殿

塀越しに見た本殿
放生池を過ぎ、階段を上ると鳥居の正面が拝殿。その奥には本殿が建ち周囲には摂社が。
集落に囲まれた境内は広く明るい雰囲気。地元の氏神様と言う表現がぴったり来ます。
境内を見回しても人は不在。運よく社務所前に置かれてあった由緒書と書置き御朱印を頂きました。
妙見宮の本社とはいえ、摂社に比べて参拝者も少ないのは場所柄にも拠るのでしょう。
スピンオフは企業ですが、飾りのないそのままの当社は差し詰め【スッピンオフ】でしょうか。

境内奥にある摂社群
左から交野社、八幡社、恵比寿社。

交野社脇にある「おもかる石」

星田神社由緒書

星田神社御朱印
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