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美濃国分寺(岐阜県大垣市) 天平の法灯を受け継ぐ国分寺

2020.01.16(22:52) 534

土中で難を避けた薬師さま(2020.1.9)

<コース> 日中30分間隔で運転
【往路】JR大阪 → (新快速) → JR米原 → JR垂井

北口観光案内所→ レンタサイクル10分 → 真禅院 → レンタサイクル5分 → 南宮大社 → レンタサイクル15分 → 美濃国分寺 → レンタサイクル10分 → 北口観光案内所

【復路】JR垂井→ JR米原 → (新快速) → JR大阪

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金銀山 瑠璃光院 美濃国分寺(高野山真言宗 準別格本山)

 一之宮に続いて国分寺へ参拝。

JR垂井を中心に丁度、一の宮と反対側になります。

線路を越えて中山道に沿って東に向かうと、道路沿いに広大な広場が出現しますが、

そこが美濃国分寺跡。

その南から北を望むと山麓にやや現代的な造りを見せるのが美濃国分寺。

聖武天皇の勅願に拠って全国に建立された国分寺ですが、

中には寺院跡しか残っていないものも多々あります。

そんな中で、後継寺院が残り、しかも一之宮も近くにあるというのは稀有な例と言えるでしょうか?

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史跡・美濃国分寺跡
右奥に見えるのが現在の国分寺。

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国分寺の礎石

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美濃国分寺入口

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「やくしばし」を渡り山門へ

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山門(仁王門)近影

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阿形の仁王像

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御縁起

金銀山瑠璃光院美濃国分寺(きんぎんざんるりこういんみのこくぶんじ)は、

『天平9年(737年)、聖武天皇の勅願に拠って行基がここ青野ヶ原に至り、

欅の大木に一丈六尺(約4m)の薬師如来を刻み安置したのが始まり。

 その後、奈良の良弁僧正が第二世、弘仁年間には弘法大師が第三世、

その弟子の智泉が第四世と美濃最古の霊場として栄えた。

 隆盛を極めた堂宇も仁和3年(887年)に焼失。

後に再建されるが、平安末期には衰退に入ったとされる。

 復興したのは江戸初期、元和元年(1615年)に真教上人が土中から薬師如来を彫りだし、

現在の地に草葺の草堂を建て本尊を安置して以降である。』 とあります。

 伝説的とはいえ行基、良弁、空海と仏教界のヒーローが住持を務めたというのは異例の事。

それだけ重要視された証でもあります。

山号寺号も金銀瑠璃と金属・鉱山に関係しているのは南宮大社との関りもあるのでしょうか?

マンガンが採れたので西美濃三十三霊場の満願札所になったとは思えませんが…。

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山門から見た境内
正面が本堂。

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階段を上り本堂へ参拝

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本堂近影

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現在御本尊は本堂後方の奥之院に祀られている

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奥之院へは本堂横を通って向かう

 「やくしはし」を渡り、仁王門を過ぎると正面に本堂が。

外から参拝した跡、御朱印を御願いすると丁度、若い御住職が戻って来られました。

和辻;「御本尊は本堂ですか?」

住職;「いえ。今は奥の院にお祀りしています。本堂は御前立です。」

という事で、御朱印拝受の間に奥の院までお参りすると、説明通りの巨大な薬師様でした。

和辻;「もの凄く大きな仏様ですが、これが埋まっていたのですか?」

住職;「胴体の一部は朽ちていて補修しましたが、埋まっていたそうです。」

私も各地で、戦乱を逃れた仏像を目にしましたが、その中でも大きさはトップクラス。

埋めるだけでも大変でしょうから、身の危険を顧みず

仏像を守った名も知られぬ人々が大勢居たという事でしょう。

和辻;「戦後、濃尾地震があったと思いますが、この辺りの被害はどうだったのでしょう?」

住職;「生まれてはいませんが、この付近は被害が殆どなかったと聞いています。」

やはり、美濃でも国府、国分寺等は自然災害の少ない場所を入念に調査したようです。

その当たりの危機管理は現代も参考にする必要がありそうです。

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奥之院への階段から境内を見る
左が本堂の屋根。

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奥之院の本尊前から

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奥之院から国分寺跡を望む

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奥之院にある御本尊・薬師如来(説明書より引用)
600年の風雪に耐えた御姿。国分寺本尊は薬師様が多いとか。

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高台に建つ納骨堂と観音堂

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鐘楼

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本堂、奥之院と大師堂

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境内右手にある庫裏

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美濃国分寺説明書

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美濃国分寺御朱印

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南宮大社(岐阜県不破郡垂井町) 鉱山・金属の総本宮

2020.01.15(22:37) 533

動かざること大社の如し(2020.1.9)

<コース> 日中30分間隔で運転
【往路】JR大阪 → (新快速) → JR米原 → JR垂井

北口観光案内所→ レンタサイクル10分 → 真禅院 → レンタサイクル5分 → 南宮大社

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南宮大社(美濃国一之宮、旧国幣大社、式内社)

 真禅院参拝の後は、本家の一之宮に参拝。

通常は駅から南に新幹線を越えると鉄製の21mの朱の大鳥居が目に入ります。

そのまま南へ行くと目指す神社。

唯、今回は真禅院の前の道をそのまま東へ向かい大社の横へ。

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新幹線を越えて見える大鳥居
東海有数のスケールを誇る。左にはうなぎ店も…。

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大鳥居と新幹線線路

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神社入口へ到着

南宮大社は、

『社伝では崇神天皇に遡る古社。延喜式では美濃国一之宮とされた。

南宮山の麓に鎮座するが、国府の南にあった事が南宮大社の名の謂れ。

祭神は鉱山を司る神である金山彦命で、全国の鉱山・金属業の総本宮として今も崇拝を集める。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では境内全てが焼失。

寛永19年(1642年)に春日局の願いに拠って三代将軍・徳川家光が再建。

境内にある江戸時代の神社建築の遺構十八棟が重要文化財になっている。』

とあります。

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橋を渡って楼門へ

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重文・下向橋
一番下手にあり参拝者が行き帰りに渡る橋。

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一つ上手のこの橋も通行可

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重文・輪橋
楼門前に架かる神様が渡る太鼓橋。

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楼門前から見た輪橋
神様が渡るので人間の通行は禁止。

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境内から見た重文・楼門
随神像と狛犬が参拝者を見守る。

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楼門正面の重文・高舞殿
舞楽を奉納する社殿である。

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高舞殿とその向こうに見える拝殿

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拝殿前から高舞殿と楼門を見る

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高舞殿近影
四方の蟇股に十二支が彫刻されている。

 初めは南宮山に由来する社名と思っていましたが、

神社の名が山の名になったと考えるのが良さそうです。

ここの祭神は金物に所縁がありますが、この辺りでは石灰岩、マンガンが採掘されています。

唯、古代に於いて金属が産出したという記録は聞きませんし、

境内には朱塗りの建造物が多いですが丹生の地名もなさそう。

なぜ金属の神として崇拝されたのか謎は残ります。

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重文・拝殿
南宮造を構成する一棟で、参拝者はここで御祭神を拝す。

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拝殿の後方に見えるのが重文の本殿と幣殿

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重文・神輿舎
入母屋造・本瓦葺で神輿10基が収納されている。

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重文・神官廊
神仏習合時代の神官の控所だった建物。唯、今は前にある仮の社務所の蔭に隠れている。

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重文・勅使殿
入母屋造、妻入、銅板葺。

 南宮山は関ヶ原合戦では西軍の吉川広家、安国寺恵瓊が陣を構えた場所ですが、

吉川広家は家康の意向を受け兵を動かしませんでした。

動かざること山の如しを地で行った訳ですが、結局西軍が敗戦濃厚になると戦線から離脱。

これで大丈夫と思ったでしょうが、毛利家は大幅に領地を削減される羽目になりました。

また陣地となった南宮大社としては兵が動かなかったので

被害はないと予想したのでしょうが、全て灰燼に帰しました。

吉川広家も南宮大社も考えは【大海人】だったようです。

 唯、江戸時代になり幕府の力で再建にこぎつけたのは、

徳川からの罪滅ぼしの意味もあったかもしれません。

こうして令和2年初の一之宮参拝も無事終了。

個人的には鉱山・金属には縁はなくとも、金に円があればと思った次第です。

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参拝を終えて北側の門から帰路へ

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南宮大社御由緒

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南宮大社略誌

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南宮大社御朱印

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垂井郵便局 ; 垂井祭の曳き山車、重文・南宮大社楼門
表佐郵便局 ; 南宮大社、表佐太鼓通り

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朝倉山真禅院(岐阜県不破郡垂井町) 美濃一之宮の神宮寺の変遷

2020.01.14(23:05) 532

美濃一つだに無きぞ悲しき(2020.1.9)

<コース> 冬の青春18きっぷ使用   日中30分間隔で運転
【往路】JR大阪 → (新快速) → JR米原 → JR垂井

北口観光案内所→ レンタサイクル10分 → 真禅院

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朝倉山 真禅院(天台宗)

 年末に行けなかった美濃を再訪。

今でこそ、美濃の中心は岐阜市を中心とした地域ですが、

これは織田信長が岐阜城を築城して以降の話。

 それ以前の、美濃の中心はそれよりも西に拠った不破郡。

大垣市以外は垂井・関ヶ原と総て町ですが、ここには国府、国分寺、

国分尼寺、一之宮まで置かれたとあるので中心であった事は間違いありません。

濃尾平野の位置で見ると随分西にありますが、

ここから名古屋方面に平野が一気に広がるという開始点でもあったようです。

 古代の三関である不破の関が置かれた場所。

古代には壬申の乱で大海人皇子、近世では江戸幕府を決定的にした

関ヶ原合戦と歴史の分岐点になった場所でもありました。

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竹中半兵衛重治公の像
JR垂井駅北口にある。

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吉川広家陣跡
西軍に属しながら合戦には加わらなかった。

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行く手に境内が見える

 駅の南側には美濃一之宮の南宮大社が鎮座しますが、

その前の道を西に向かい朝倉山の麓に建つのが真禅院。

『朝倉山真禅院(あさくらさんしんぜんいん)は、

天平11年(739年)行基が自ら刻んだ阿弥陀如来を祀るべく開創した

象背山宮処寺(ぞうはいさんぐうしょじ)が嚆矢。翌年には聖武天皇の行幸という僥倖もあった。

 延暦年間の790年頃、勅令により最澄によって南宮神社と神仏習合され神宮寺と改名。

その後は平将門、安倍貞任の追討の祈願が行われた。

 文亀元年(1501年)の火災で諸堂は焼失、美濃守護・土岐政房の尽力で10年後に再建を果たすが、

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で再度焼失。寛永19年(1642年)に徳川家光に拠り再建された。

 明治になり廃仏毀釈の波を受けたが、神宮寺の僧侶・秀覚法印と村人たちの熱意に拠り、

南宮大社境内から移築。4年後に朝倉山真禅院として新たな歴史を刻んでいる。』 とあります。

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寺院入口の階段

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石標には朝倉山南神宮寺
南宮大社の神宮寺を略した形。

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小さな山門
神宮寺であったことから独自の大きな門は持たなかった?

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山門を過ぎて見える木立と鐘楼

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正面に見える重文・本地堂
阿弥陀如来を本尊とし、寛永19年(1642年)に再建された。

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本地堂近影

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本地堂の南方面

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釈迦堂(右)と最勝寺観音堂

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薬師堂

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本地院の前を抜け北側に

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来し方を振り返る
本地堂の向こうは護摩堂。

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観音堂
南宮大社奥之院高山社の本地仏「高山観音」を祀る。

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御朱印は観音堂にて拝受

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境内の北側

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鐘楼

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重文・梵鐘
奈良時代に奈良で鋳造された県下最古の梵鐘である。

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鉄塔を納める堂
北条政子が源頼朝の菩提を弔うために寄進したもの。

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重文・三重塔
大日如来を本尊としている。寛永20年(1643年)の再建。

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三重塔正面

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庫裏から三重塔を見る

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庫裏前の庭

 昔からの交通の要衝ですから戦乱に会うのは仕方がありませんが、

一番の危機は明治の廃仏毀釈だったというもの皮肉なもの。

幸いに人々の努力で無事移転しましたが、その背景には後に重文となった三重塔や

本地堂を後世に残したいといった現実的な事だったようです。

 信仰心とは少し違いますが、後世に伝わった事で良しとすべきでしょう

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三重塔前から垂井町内を見る
手前の建物は県立不破高校。

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真禅院説明書

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真禅院御朱印

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岡寺観音(三重県松阪市) 日本最初の厄除観音

2020.01.13(20:46) 531

仏の教えの継承時(2020.1.6)

<コース> 冬の青春18きっぷ使用
JR天王寺(5:35) → JR奈良(6:19→6:39) → JR加茂(6:54→6:55) → JR亀山(9:18→9:23) → JR松阪(9:23) → 徒歩5分 → 継松寺

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岡寺山 継松寺(高野山真言宗)

 令和最初の正月は、お伊勢さんに行くべきだろうと、自分勝手な解釈で伊勢路へ。

と言っても伊勢市ではなく少し手前の松阪で下車。

蒲生氏郷公が城下町を整備した伊勢商人の発祥の地。

本居宣長の出身地で、今も町中には当時の面影が残ります。

加えて最高級の牛肉とされる松阪牛の産地でもあります。

こんな風に観光客には人気のスポットですが、寺院は意外に知られていません。

この日は駅から徒歩圏内の古刹にお参り。

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駅から向かうと本堂裏手に出るがここの朱塗門は閉鎖。

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岡寺観音山門
参宮道に向かって門が開いている。

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説明板

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山門の「岡寺山」の扁額

岡寺山継松寺(おかでらさんけいしょうじ)は、

『天平15年(743年)創建と伝わる古刹。聖武天皇の命に拠って

行基が大仏建立の祈願のために伊勢地方に四箇所建てた中で今に残る唯一の寺院。

場所は今より海岸線に2㎞程行った飯高郡石津郷にあった。

本尊の如意輪観音は聖武天皇が厄年の際に宮中で祈願した後、

行基に命じてここに戻し「如意輪院」の勅額を下賜した。

岡寺観音は日本最初の厄除霊場として今に至るまで信仰が絶えない。

 天平勝宝2年(750年)には洪水で堂宇が流出。

二見ヶ浦の住人が出家して継松法師と名乗り寺を再興した。これが後に寺号になる。

 延暦21年(802年)には弘法大師が岡寺観音に逗留し本尊の脇立ちを刻み祀った。

当寺院が真言宗になった経緯はこれに拠る。

後に蒲生氏郷公の城下町整備に伴い現在の場所に移転した。』 とあります。

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山門下から境内を見る

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境内から山門を見返る

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境内中央の香炉堂とその向こうに見える本堂

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本堂拝殿中央の「継松寺」の扁額

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拝殿奥には「如意輪院」の扁額が
右手は納経所。

 毎年3月の初午大祭は人手で賑わうようですが、普段はいたって静寂な場所。

駅から5分が信じられないくらいです。尤も周辺の牛の店は賑わっていますが…。

 駅から向かうと朱塗りの門が迎えますがここは閉鎖。反対側にあるのが正門になります。

駅からは大回りになるので不便ですが、御住職の話では

「この辺りの寺院は全て参宮街道に向かって正門が開いていますよ。」

との事。現代の感覚で考えては駄目ですね。

 御朱印帳を開くとここは平成5年の9月に参拝。

同じ御朱印を二度貰うのも芸がないので不動尊を拝受しました。

平成5年に拝受したものは御本尊の「厄除観音」。これを見た納経所の方は

「これは先代の書ですよ!写真に撮っても良いですか?」

と興奮気味。

何でも、今と異なり御朱印がマイナーだったので先代の御朱印はないそうです。

正月早々思わぬ邂逅となった様でした。

 今回の御朱印を墨書された御住職は私と同年。

人は変わってもきちんと【継松】されている事を改めて感じた年の初めでした。

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拝殿は人手を考慮して広くとられている

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庫裏の唐門と書院

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岡寺山継松寺案内

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岡寺観音御朱印(本尊の如意輪観音で平成5年拝受)

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岡寺観音御朱印(お不動様で今回拝受)

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松阪市マンホール蓋

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松阪市内マンホールカード   配布場所はこちら

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松阪朝日郵便局 ; 岡寺観音、旧国道松阪大橋

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高津宮(大阪市中央区) 高津の富と崖っぷち散歩

2020.01.12(20:56) 530

古代の都のこうず(2020.1.4)

<コース>
東梅田 → (地下鉄谷町線) → 四天王寺前夕陽ヶ丘 → 徒歩5分 → 四天王寺 → 徒歩20分 → 高津宮

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高津宮(旧府社)

 四天王寺から上町台地を北上し、寺町群の北端にある高津宮(こうづぐう)へ参拝。

この日は同窓が大阪市内の高低差を歩いて体験という事で、

上町台地を高津宮から四天王寺まで南下する事に。

ひと昔前までは、このような企画など考えもつきませんでしたが、

これも「ブラタモリ」の影響でしょうか?

尚、大阪人には自明の事ですが「たかつ」ではなく「こうづ」と重箱読み。

重箱の隅を楊枝でほじくるような事ですが、初めての方のために念のため…。

神社自身は由緒正しい古社。案内記に拠れば、

『御祭神は浪速の地に皇都・高津宮(たかつのみや)を定められた仁徳天皇。

清和天皇が貞観8年(866年)、勅命に拠って旧都の遺跡を探索し社殿を築いたのが始まり。

以後、歴代皇室や人々の崇拝を受けたが、天正11年(1583年)豊臣秀吉の大坂城築城に際し現在地に移転した。

昭和20年の空襲で焼失するが昭和36年に復興、今に至る。』 とあります。

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表参道から梅の橋を通り境内へ

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石段を上った先にある本殿

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境内から参道を見返る

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境内にある「高津の富亭」
名前から寄席かと思ったが喫茶店であった。

 仁徳天皇は先頃世界遺産に登録された百舌鳥古墳群の大仙古墳の被葬者とされます。

日本書紀の仁徳天皇の紀には百舌鳥に葬られたとあるので、

仁徳天皇陵と言われてきましたが今は伝仁徳天皇陵。

中国と異なり墓銘碑がないので仕方がないとは言えますが、それなりの記録もあるのでどうでしょう?

仁徳天皇は高殿に上り人家の竈からの煙が少ないのを見て人民の窮乏を知り税を止めたとか。

清和天皇が神社建立を思い立たれたのはその仁政を慕ったものでしょう。

高津宮が何処にあったかですが、古代には今の河内は大きな内陸湖で、

南から北に上町台地が突き出している地形。

神社の西側は急な坂になって居り、昔はここまで海が来ていたのでしょう。

瀬戸内海を通って浪波に入って来る舟からは、百舌鳥古墳群、住吉大社が眼前に現れる仕組み。

高津という名前から想像すると港の近くの高台にあったことになります。

唯、古代の都は自然災害の少ない場所に造られるという鉄則からすれば、

個人的にはもう少し内に入った場所だった気もしますが…。

古代人はどんな都の【構図】を描いたのでしょうね。

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境内の西側に建つ絵馬殿
江戸時代は展望の名所で茶店もあった。

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西坂(旧縁切り坂)
明治初期まで形状が三下り半になっていたので俗に縁切り坂と呼ばれた。今では悪縁を断つ坂として密かな人気だとか。

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西坂の由来と西側の崖

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西坂を降りた道路から境内を見る
神社自体が高台にあるのが顕著に分かる。

古典落語の 『高津の富』 はここが舞台。なけなしの金で富くじを買った男が千両を当てたものの、

それが気になって夜も寝られない。結局、泥棒に盗まれて

「これで、ようやくぐっすり寝られる!」 と言うのがオチ。

分不相応な金は身につかないという教訓でしょうが、

そのような大金を手にしたことが無い人間には今一つピンと来ないところもあります。

 富くじは元来、寺社の修理資金を集めるのが本来の目的。

当たり札は境内で衆人環視の元、神職が箱の中の番号札を槍で突き刺したとか。

神仏の前では不正はないということでしょう。

決してギャンブルではありません。尤も胴元の取り分を寺銭と言いますが…。

富くじは今では宝くじと名を変えますが、一般人が行う事は不可。その法律は「富くじ禁止法」となっています。

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高津宮案内記

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高津宮御朱印

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四天王寺(大阪市天王寺区) 聖徳太子所縁の本邦初の寺院

2020.01.11(22:43) 529

聖徳太子の視点(2020.1.4)

<コース>
東梅田 → (地下鉄谷町線) → 四天王寺前夕陽ヶ丘 → 徒歩5分 → 四天王寺

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荒陵山 四天王寺(和宗総本山 新西国三十三ヵ所第一番札所)

 2020年の最初の巡礼は新西国一番の四天王寺。

我が国最古の建築は世界遺産にもなった法隆寺ですが、

最初の仏教寺院となると大和の飛鳥寺とここ四天王寺。

飛鳥寺が蘇我馬子の建てた氏寺ですから、官立としては四天王寺となるのでしょう。

 荒陵山四天王寺(あらはかさんしてんのうじ)は、

『推古天皇元年(593年)に造営開始。聖徳太子は物部氏との戦において、

「この戦に勝利したら四天王を祀る寺院を建立する。」

と祈願を立て、勝利したのでその言葉通りに建立した。

各地には太子建立の伝説のある寺院は多いが、実際に創建に関わったのは、

法隆寺と四天王寺のみである。』 とあります。

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四天王寺前夕陽ヶ丘駅からだと西側の中之門から入る

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正式には南大門へと続くこの鳥居から

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南大門

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中門(仁王門)

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阿像
京都の仏師である松久朋琳・宗琳の作。

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吽像

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中門の説明

 日本仏教の祖・聖徳太子所縁の寺院という事で、身分・宗派を問わず崇拝を集めてきましたが、

度重なる自然災害や戦争で創建当時の建物は残っていません。

それでも都度、再建されてきたのは、人々の信仰に拠るもの。

やはり【たいし】た影響力だったと思います。

 広大な境内には伽藍が並んでいるので昔は何が何だか分からずに右往左往。

平成6年には参拝して御朱印を拝受しましたが、

どこで貰うかサッパリ分からず、とうとう本坊まで伺いました。

今回伺うと納経所が一棟あり、そこで種々の御朱印を拝受できるようになっていました。

本坊の極楽浄土の庭や五重塔や金堂のある場所は有料拝観。

昔から有料だったのかは忘れようとしても思い出せませんが、

ここ数年の御朱印ブームの影響もあるのでしょう。

なにか一大テーマパークに来たような錯覚を覚えます。

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中門前から見た中心伽藍

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西重門の向こうに見える五重塔
昭和34年(1959年)再建の八代目。

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中心伽藍廻廊
この中は¥500で拝観。

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阿弥陀堂

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西大門(極楽門)
昭和37年松下幸之助氏の寄贈により再建された。

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夢殿にも見える南鐘堂
別名・太子引導鐘、天井裏に鐘があり参詣者は自身で撞く事ができる唯一の堂。

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聖霊院太子殿

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太子殿前殿から見た中心伽藍

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かつての遺構か?

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納経所

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何やらレストランのメニューのような…。

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北の果てにある元三大師堂

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重文・元三大師近影
前には知の輪くぐりが。

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無縁塔

 大阪を代表する古刹で便利な場所にあるので、子どもの頃からよく行きました。

祖母に連れられ出掛けた時などは、池の前で団子を食べながらじっと亀を眺めていました。

今でも池はありますが、亀がミドリガメになっているのが半世紀前と違う所でしょうか?

 尚、四天王寺創建に際しては、新羅から来朝した三名の技術者が建築に携わりました。

彼らはその後も寺院建築に携わる『金剛組』として存続、ギネスにも載る世界最古の会社となっています。

 聖徳太子は歴史の世界では右左を問わず悪口を言われない人物として有名です。

我が国の仏教に貢献したというよりも、時代の先端を行く

技術・政策を積極的に採り入れた現実的な人だったと思います。

令和の新年は令と和に相応しい太子の巡礼で幕開けとなりました。

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重文・石舞台と同じく重文・六時堂

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石舞台の説明

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亀の池と六時堂

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六時堂前から見た太鼓楼(右)と亀井堂(左)

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丸池

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丸池の説明

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四天王寺御朱印(平成6年拝受)

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谷町筋に建つ「金剛組」
20世紀初めまで、金剛氏一族が50代に亘って経営に携わった。

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四天王寺郵便局 ; 重文・四天王寺舞台、舞楽
天王寺郵便局 ; 桃の花の外枠に、救世観音菩薩像、四天王寺五重塔、金堂

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生田神社(神戸市中央区) 繁華街に鎮座する生田さん

2020.01.10(23:36) 528

幾多の変遷を経た生田さん(2019.12.29)

<コース>
JR大阪 → JR兵庫 → 徒歩8分 → 能福寺 → 徒歩30分 → 長田神社 → 高速長田 → 高速神戸 → 徒歩5分 → 湊川神社 → JR神戸 → JR三ノ宮 → 徒歩8分 → 生田神社

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生田神社(式内社 旧官幣中社)

 神戸一番の賑わいを見せる三宮駅から徒歩6分。緩やかな坂の先にあるのが生田神社。

略記に拠れば、

『201年、神功皇后の三韓征伐の帰路、兵庫の沖合で船が進まなくなったので占った所、

稚日女尊(わかひるめのみこと)が現れ、

「私を活田長狭国(いくたながおのくに)に居りたい。」 と申されたので、この地に祀った。

大同元年(806年)には朝廷より当社を守る家として44戸を賜った。

この家が神戸(かんべ)と呼ばれ今に伝わる神戸の謂れとなった。

元来は、新神戸駅の北の砂子山(現布引山)にあったが、洪水のため現在地に移転。

生田神社の名は延喜式や枕草子にも登場する古社である。』 とあります。

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繁華街の先に建つ二の鳥居
一の鳥居は遥かに遠く電車の線路よりも南側にある。

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楼門

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拝殿に並ぶ行列
年末29日にも拘らずこの人出。

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拝殿近影

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拝殿の後方に建つ本殿

 神功皇后や神戸の名前の由来を見ると、先に巡礼した長田神社と酷似しています。

どちらかが他方を引用したというよりも、由来が分からないくらい古いという事でしょうか?

 中世には北の山裾から三宮駅まで鬱蒼と樹木が茂っていたとか。

今の周辺の繁華街からは想像もできないような【うっそう】のような話です。

 今でも境内の北には源平合戦由来の「生田の森」として残っています。

源平以降も、14世紀の湊川の戦い、16世紀の織田信長の花隈城攻め等、

【いくた】びかの戦乱の舞台にもなりました。

近世以前は境内から海辺にかけては桜の名所ですが、

明治以降は外国人居留地となり桜もいつしか消滅。

遺跡が消滅するのは戦ばかりでないと言う事です。

 こうして忘年会までに神戸三社詣りも無事終了。

いずれも「長田さん」「楠公さん」「生田さん」と親しみを込めて呼ばれる社。

文字通りの【さん】社巡りとはなりました。

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本殿西側の生田の池

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社殿北側に広がる「生田の森」
枕草子にも記された古の面影を残す鎮守の杜。

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生田の森の神木

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生田の森にある縁結びの水占い
ここだけ行列が…。

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生田神社略記

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湊川神社(神戸市中央区) 市民に親しまれる楠公さん

2020.01.10(00:40) 527

人物評価は難航?(2019.12.29)

<コース>
JR大阪 → JR兵庫 → 徒歩8分 → 能福寺 → 徒歩30分 → 長田神社 → 高速長田 → 高速神戸 → 徒歩5分 → 湊川神社

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湊川神社(旧別格官幣社)

 神戸三社として知られ、神戸市内の初詣では一番の参拝者を集める神社ですが、

長田・生田両社が古代より鎮座するのに対し、ここは明治期の創建。

湊川の戦いで戦死した楠木正成の墓所に明治5年に創建されたもの。

要は戦死した場所に大楠公を祀った訳ですが、周辺は楠公一色。

前を通る道路も楠公の幼名「多聞」が付けられています。

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多聞通りの向こうに神社が見えるが凄い交通量である

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神社の西側の通りはモニュメントが置かれ静かな佇まい

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表神門

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神門の扁額

由緒記に拠ると

『後醍醐天皇に仕えた楠木正成(大楠公)は建武3年(1336年)5月25日、

九州から都に攻め上った足利尊氏の大群と戦い奮闘空しく戦死。

死に際して弟の正季以下一族の人々と共に「七生滅賊」を誓って刺し違えたと伝わる。

 その後、地元の人々によって大楠公の塚とされる場所が守られて来た。

太閤検地に際しては免訴地とされ、

江戸時代には尼崎藩主・青山幸利公に拠って松と梅が植えられ、五輪塔も建立された。

 元禄5年(1692年)には水戸光圀公が家臣の佐々介三郎を遣わし、

大楠公墓碑 『嗚呼忠臣楠子之墓』 が建立された。文字は光圀の揮毫、

裏面の賛文は光圀の師に当たる明の儒学者・朱舜水に成るものである。

 やがて幕末に至り、この墓所は維新回天への精神的支柱となり、

討幕の志士達の多くがここを訪れる事となった。

 明治元年(1868年)の4月、明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、

神社創祠の御沙汰を下され、明治5年(1872年)の5月25日に別格官幣社として湊川神社が創建された。

創建に当たっては神戸にあった伊藤博文の請願も与ったとされる。

 戦前は国鉄神戸駅の直ぐ北という事で賑わい、太平洋戦争で焼失したものの、

昭和28年には復興。港神戸の大社としての地位を今も保っている。』 とあります。

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拝殿正面

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拝殿近影
屋根には楠公の菊水紋がある。

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拝殿前から灯籠を見る

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拝殿左の楠公御殉節の地へ

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御殉節地
1336年に楠公と弟以下一族が戦没された場所とされる。

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殉節地は入れないので外から撮影

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表神門右手の大楠公墓所

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門を過ぎ墓所に向かう

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墓所前の石標
正三位を贈与されている。

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嗚呼忠臣楠子之墓

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墓所横の水戸光圀公像
昭和30年完成。平櫛田中の作。

 歴史上の楠木正成は従来の兵法を凌ぐ戦法を取り入れた事で新時代を開いた武将ですが、

負けると分かっていながら後醍醐天皇に最後まで忠節を誓った事が人の心を打つのでしょう。

明治天皇は北朝の系列ですが、正閏論で南朝を正統としています。

  神社を創建するまでになったのは楠公の歴史的評価が時代を下るにつれて高まりを見せたため。

楠公自身には身に覚えのない事ではあります。

私見では大楠公は英雄と呼ぶに値する人物とは思いますが、

それを余りにも政治的に利用するのはどうかと言う気も致します。

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境内にある大楠公一代記
この大観の大楠公の肖像は宝物館常設。楠公祭600年記念に時の宮司が大観に頼み込んで描いて貰ったとか。

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参集殿にある桜井の子別れの図
尚、桜井は大阪三島郡の地名。

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湊川神社略記

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湊川神社御朱印

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長田神社(神戸市長田区) 神戸三社の一つ、長田さん

2020.01.08(19:54) 526

長田さんと楠公さんの奇縁(2019.12.29)

<コース>
JR大阪 → JR兵庫 → 徒歩8分 → 能福寺 → 徒歩30分 → 長田神社

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長田神社(式内社 旧官幣中社)

 能福寺参拝の後はJR兵庫へ戻り、西へ向かって長田神社へ。

JRの最寄駅は新長田ですが、名前の通り神社からは少し遠い。

最寄りは高速長田か地下鉄長田駅ですが、JRからそこまで移動する位ならと、

そのまま徒歩で向かいました。

 地下鉄の駅から北に向かうと商店街に神社の大きな看板が見え、

それに沿って歩くと東門へ到着。

交通機関を使うとこのルートになりますが、立派な正門は反対側の西門。

 何でも神社の左を流れる川沿いの道が古来の参道だったそうです。

と言う事で朱塗りの橋を渡り西門から参拝しましたが、こちらから来る人は殆ど見かけませんでした。

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商店街入口には長田神社の石標が

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商店街入口の鳥居

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東門へ到着
29日だが、元旦に向けて準備中。

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朱塗橋の向こうに見える西門

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西門近影

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西門の木造鳥居

 長田神社の由緒は、

『201年、神功皇后の三韓征伐の帰路に、武庫の水門で船が進まなくなった。

占った所、「吾を御心長田の国に祀れ」 という事代主神の神託に拠り、

生田神社、西宮の廣田神社と共に創建された。この伝承の為に境内は入船形に造られている。

 古来より神社に奉仕する家41戸は神戸(かんべ)と呼ばれ、これが現在の神戸の名の由来である。

節分の日に行われる追儺式は中世より続く行事である。』 とあります。

 神功皇后に由来する程の古社でありますが、

歴史学者の津田左右吉はこの縁起には否定的です。

一説には、大和の豪族長柄首、和泉国の長公と同族の長氏の神と言われ、

長田の名を考えると人名に由来する方が無理のない気もします。

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西門鳥居下から境内を見る

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神門

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神門の装飾

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境内から神門を見返る

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長田神社縁起

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拝殿正面

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拝殿後方の本殿

 現在の神戸の中心は三宮から元町にかけてですが、昔は兵庫が港の中心。

古代には武器庫があり、平清盛はここを通して日宋貿易を行いました。

港を抑える場所として山麓の長田神社が鎮座したというのは飛躍しすぎでしょうか?

 建武の新政では、領地を巡る問題から長田神社は足利尊氏に与しました。

そのため湊川の戦いでは、会下山に布陣する楠木正成の退路を断つために

尊氏軍と共に鵯越えに陣を敷いたと伝わります。

 結果的に楠木勢は湊川で討死する事になりましたが、

神戸三社として知られる両社にこのような経緯があったとは奇縁と言えるでしょう。

600年経ってもその恨みが【消えん】かどうかは分かりませんが…。

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歌舞伎役者・中村時蔵奉納の石灯籠

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長田神社由緒記

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長田神社御朱印

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兵庫大仏(神戸市兵庫区) 平清盛所縁の大仏のある能福寺

2020.01.07(20:05) 525

異人のマスコット、兵庫大仏(2019.12.29)

<コース>
JR大阪 → JR兵庫 → 徒歩8分 → 能福寺

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寶積山 能福護國密寺(天台宗 新西国三十三ヵ所第二十三番札所)

 同窓の忘年会を三宮でする事になり、早めに出て神戸三社巡り。

それに先立ち兵庫駅南にある能福寺を訪問。

以前、この辺りに出張した際に道路から大仏が見えましたが、そこが巡礼先。

奈良、鎌倉の大仏は知っていますが、神戸にあるとは吃驚。

当時は、誰か奇特な御仁が勝手に造ったものと思い込んでいましたが、

後で調べると平安時代に遡る古刹で、新西国札所にもなっているらしい。

これは一度見て見なければと、今回の巡礼となりました。

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本堂前と思しき場所の門は閉鎖中

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兵庫大仏
能福寺のシンボルで、正式名は胎蔵界大日如来像(毘盧遮那仏)

 能福寺は正式名・寶積山能福護國密寺(ほうしゃくざんのうふくごこくみつじ)。

由緒に拠れば、

『延暦24年(805年)、唐より帰朝した最澄がその帰途に兵庫和田岬に上陸。

民衆の請願を受けて堂宇を建立したのが始まり。日本最初の密教教化霊場となった。

本尊は弘仁期に作製された重文・十一面観音である。

 仁安3年(1168年)には、平清盛が能福寺に於いて出家剃髪し浄海入道と名乗る。

更に治承4年(1180年)の福原遷都に伴い平家一門の祈願寺となり、

養和元年(1181年)に清盛が京都で薨去した際には、

住職であった徳大寺家出身の円実法眼が遺骨をここに葬った。

円実法眼に続いて清盛の甥に当たる忠快法印が住職を務め、

平家の都落ちに際しては一門がここに立ち寄っている。

 その後、南北朝時代の1341年に兵火で灰燼に帰した堂宇は

慶長3年(1599年)に明智光秀家臣の長盛法印の努力により再興している。

 江戸時代には京都粟田口の青蓮院門跡の院家として高い格式を誇った。

院家とは幼少の門跡に教育をする役職である。

 しかし明治の廃仏毀釈で寺は大きな痛手を受ける。

その時、兵庫の豪商であった南条宗荘兵衛が発願し明治24年に完成したのが盧舎那大仏で、

居留地の異人達は神戸のマスコットとして頻繁に訪れたという。

当時の住職は高砂出身のジョセフ・ヒコに依頼し、寺の縁起を英文で記した。

これが本邦初の英文碑とされる。』 とあります。

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大仏正面
本体11m、蓮台3m、台座4m。

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台座から境内を望む

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平相国(平清盛)廟
清盛の墓所があるのは国内で唯一。揚羽蝶の紋がはためく。

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瀧善三郎正信顕彰碑

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幕末神戸事件と碑の説明

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大仏の横を抜けて本坊へ

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本坊前の境内の様子

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境内にあるジョセフ・ヒコ能福寺縁起英文碑

 仏教の衰退を食い止めるべく地元の熱意で出来上がった大仏であり、

成金の道楽と思っていた浅薄な考えを訂正しました。

 御朱印を拝受すべく本坊に行きましたが、造りもどことなく古風な感じ。

門跡に教育をする印家という格がそう感じさせるのでしょうか?

 また本堂は、九条家の御殿「月輪影殿」を昭和19年に移築したもの。

大正天皇の貞明皇后は九条家出身ですので歴代天皇も参拝した実績が残ります。

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大仏台座から見た「月輪影殿」

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境内奥に見える月輪影殿

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影殿近影

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「月輪影殿」の扁額と九条家紋「下がり藤」

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影殿前面の装飾

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本坊
御朱印はここで拝受。

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院家の説明

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本坊の屋根には菊の御紋が

 このように皇族・摂関家に関係がありますが、最も所縁があるのが平清盛。

平安末期には築島を建設し、大輪田泊で宋との貿易を行いました。

治承4年(1180年)には京都からここ福原に遷都しています。

 平家と言えば武家で最初に政権を取った事で有名ですが、

のし上がる契機となったのは父忠盛が富裕な国司を歴任し財力を蓄えたから。

決して武力一点張りの人物ではなかったようです。

日宋貿易も経済力という観点から捉えると別の側面が見えそうです。

 唯、福原は僅か半年で京都に帰還。未だ経済を中心にした遷都には時期尚早だったためでしょう。

このような考えは遥か後世の戦国時代。織田信長を待たなければなりません。

 眼を海外に向けたこと、今一歩で天下統一できなかった事も共通ですが、

家紋まで揚羽蝶というのは出来すぎた気もします。

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兵庫大仏説明書

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能福寺御朱印
御住職の話ではこの梵字は観音様を表す「Kya」という文字だそう。

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革堂(京都市中京区) 寺町通に佇む札所

2020.01.06(23:46) 524

思い立ったらすぐ革堂(2019.12.19)

<コース>
京阪電鉄淀屋橋 → (京阪特急) → 祇園四条 → 徒歩10分 → 大谷祖廟 → 徒歩5分 → 圓徳院 → 徒歩15分 → 本能寺 → 徒歩5分 → 革堂

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霊麀山行願寺(天台宗 西国三十三ヵ所第十九番札所)

 本能寺の総門から出て北上すると右手に見えるのが西国札所の行願寺。

一般的には革堂(こうどう)の名で呼ばれます。

霊麀山行願寺(れいゆうざんぎょうがんじ)は、平安時代創建の古刹。

寺伝では
『仏門に入る前に狩猟を生業としていた行円は、ある日山中で雌鹿を射た。

その時に、母鹿の腹から小鹿が生まれるのを見て殺生の非を悟り仏門に入る。

観音菩薩を信仰していた行円は、賀茂神社に霊木があるとの夢のお告げに従い、

槻の霊木に八尺の千手観音像を彫り上げた。それを祀るために寛弘元年(1004年)、

一条天皇の勅願寺として行円上人が一条小川に堂宇を建立したのが行願寺の嚆矢とされる。

仏門に入った行円はその雌鹿の革を身に纏っていたため皮聖と呼ばれ、

寺名もいつしか革堂と呼ばれるようになった。

西国札所として栄えるが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の都市計画に従い荒神口へ移転。

宝永5年(1708年)の大火の後に現在地へ移った。』 とあります。

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薬医門(山門)
1864年の蛤御門の変で焼失した表門を明治3年(1870年)に再建。

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革堂の由緒

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本堂前の青銅製灯篭

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門の正面にある本堂
文化12年(1815年)建築の入母屋造本瓦葺。西向きの向拝は千鳥破風、軒先は唐破風。

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札所の石標

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納経所から見た本堂の軒下

 鹿の革を身に着けたので革堂。

一切の人々の成仏を「願い、行じる」ので行願寺だそうですが、

行円の願いで建立したので行願寺とはならないのでしょうか?

寺町は秀吉が整備したとは聞いた事がありますが、革堂が後に寺町通に移転したのは初耳。

観音信仰が盛になった室町以降は、北の革堂と南の六角堂が勢力を二分していたそうなので、

いまの境内が小さいのは度重なる移転の為でしょう。

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丁度、西国巡礼の団体さんが到着した所

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左から、鐘楼、鎮宅霊符神堂、庫裏

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巡礼を終える頃には大勢の人が

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革堂行願寺参拝のしおり

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革堂御朱印(平成5年拝受)

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革堂御朱印(今回拝受)

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会合前に時計台前の店で一息 

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本能寺(京都市中京区) 歴史のターニングポイント

2020.01.05(20:26) 523

本能寺の辺(2019.12.19)

<コース>
京阪電鉄淀屋橋 → (京阪特急) → 祇園四条 → 徒歩10分 → 大谷祖廟 → 徒歩5分 → 圓徳院 → 徒歩15分 → 本能寺

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本能寺(法華宗大本山)

 東山から会合に向けて北上しますが、途中27年振りに本能寺へ。

「本能寺の変」で教科書にも載っている有名寺院ですが、

果たして今でもあるのかと未訪の人の方が多いのではないでしょうか?

 私が御朱印を始めた平成4年、偶々寺町通を通り掛かると本能寺の看板が。

そのときは「焼失したと思っていた寺があったのか!」と言う程度で

拝観して御朱印拝受した記憶しかありませんでした。

『本能寺は、応永22年(1415年)、日隆聖人が油小路高辻と五条坊門の間に建てた本応寺が嚆矢。

日隆は妙本寺で修行したが、法華経の解釈を巡って本山と対立。

本応寺が破却されたので尼崎の本興寺に移り後に帰洛。

永享5年(1433年)に四条坊門の北に本能寺を再建、法華宗本門流の祖となった。

中世には法華経道場として栄え、応仁の乱後の京都の復興に尽くした町衆は

法華宗門徒が多かったため益々反映した。

唯、京の街中にあったため度重なる厄災を受け堂宇も五度焼失。

移転・再建を繰り返して現在の場所にある。』 とあります。

 総門は寺町通にありますが、繁華街にある河原町通には小さい裏門があるのみ。

気付かなければスルーするような感じでした。

唯、中に入ると境内は広く、大本山というのも誇大ではありません。

境内は自由ですが宝物館は有料。「本能寺切」と呼ばれる国宝もありますが、

皆のお目当てはやはり信長公のようです。【ほんのう時】間稼ぎでしたが、改めて考える再訪でした。

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寺町通に面する総門
表門とも呼ばれ明治12年(1879年)恭明院の門を移築した。単層切妻造本瓦葺。

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総門脇の日蓮上人像

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本堂
工学博士・天沼俊一による建築で、室町時代の粋を集めた木造大建築。

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本堂裏の織田信長公廟
三男・織田信孝公の依頼で本能寺が建立。

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本能寺説明書

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本能寺御朱印

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圓徳院(京都市東山区) 北政所ねね終焉の地

2020.01.04(23:52) 522

秀吉正室の【えん】と徳(2019.12.19)

<コース>
京阪電鉄淀屋橋 → (京阪特急) → 祇園四条 → 徒歩10分 → 大谷祖廟 → 徒歩5分 → 圓徳院

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圓徳院(臨済宗建仁寺派高台寺塔頭)

 大谷祖廟に参拝した後、芭蕉庵・西行庵と過ぎて坂を下ると北の政所ねねの道へ。

秀吉亡き後、北政所が晩年を過ごした場所が高台寺。

その名の通り【広大】地に伽藍が建っている寺院です。

20世紀にはそれ程の人出もなかったと記憶していますが、

女性好みの街並みを目指したことから今や市内でも有数の観光地に。

南北に連なるねねの道から西へ向かうのが石塀小路。

ロケでも使われる場所ですが、昨今はインスタ映えのために観光客が殺到。

とうとう小路での撮影が禁止になりました。

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芭蕉庵
着物レンタルの店の一角にあり見学だけなら無料。

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西行庵

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ねねの道
和服レンタルで観光する若者が多い。

 高台寺と道を隔てたのが圓徳院。

以前に見学した記憶はありませんが、看板には特別拝観とあったので幸運にも拝観。

『秀吉没後、高台院の号を勅賜された北政所ねねは高台寺建立を発願。

慶長10年(1605年)、この地に伏見城化粧御殿と前庭を移築して住まいした。

これが圓徳院の由来で時にねね58歳。

移築に際してはねねの甥である備中足守藩主木下利房が尽力した。

その後、ねねの徳を慕って多くの大名、僧侶、茶人、歌人が訪れ、

それはねねが77歳で亡くなるまで続いた。

ねね在世中は武家屋敷という扱いであったが、その死後、

木下利房に拠って高台寺の三江和尚を開基として木下家の菩提寺になり

高台寺の塔頭となった。圓徳院とは利房の院号を採ったものである。』 とあります。

今でこそ寺院ですが元は武家屋敷。

正門に長屋門の形態が採られているのはその為だそうです。

唐門を過ぎて方丈へ向かうと昭和の作庭の南庭。

廊下から枯山水の庭をみながら書院の襖絵を眺める訳ですが、

これなどは寺院というよりも城の書院に近い雰囲気でした。

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特別拝観の案内

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ねねの道に面した正門
長屋門の形式をとっている。

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圓徳院説明板

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正門に続く前庭と唐門

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唐門から見える境内
圓徳の名前が…。

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唐門前のツワブキ

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秀吉好みの手水鉢
今川氏の血筋を引く西尾氏から秀吉に贈られ、圓徳院に寄進された。

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庫裏玄関

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方丈と南庭

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方丈廊下と南庭

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方丈に座り南庭を正面から見る

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南庭と方丈入口

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南庭右端

面白いのは書院の障壁画。元は大徳寺にありましたが、巡り巡ってここに。

長谷川等伯の「冬の絵」ですが、なんと桐紋を散らした唐紙に描いてあります。

これだけでも珍しいですが、襖絵製作を住職に依頼しながら色よい返事が貰えなかった等伯が、

住職の留守に客殿に上がり込み一気呵成に書き上げたもの。

当然、住職は立腹しましたが、余りにも良い出来栄えなのでそのままにしたとか、落語の様な話です。

・桐一双 描いて絵師の 腕を知る

といった所でしょうか。これが現存する訳ですから、等伯の茶目っ気に感謝です。

尚、ここの御朱印は桐紋の唐紙に墨書されています。

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木下育應作の松竹梅図襖

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赤松燎作の「白龍寺」
天下人秀吉を白龍として描いたもの。

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志村正作の雪月花図襖

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長谷川等伯の障壁画「山水図襖絵」

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木下利房公の肖像画

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ねねの肖像画

書院を巡って北に位置する北庭は伏見城の前庭を移したもの。

池泉回遊式庭園ですが、枯山水式となっています。

移設後に小堀遠州が手を加えたといわれます。

丁度書院の柱からは絵画をみるようですが、それにアクセントを加えているのが巨石。

伺った話では、ねね様を慕う各地の大名が競い合って持ち込んだものだとか。

貴重な青色片岩が多く見られます。

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北庭
柱を枠と見れば一幅の絵の様。

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北庭左側

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北庭の鶴島付近

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北庭の亀島付近

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晩秋には正面の紅葉が鮮やかになる

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北島の右端

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悟りの窓を通して北庭を見る

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出口から北庭をもう一度振り返る。

拝観を終えると、出口に歌仙堂と本堂が。

ここには秀吉の念持仏であった三面大黒天が祀られていますが、

規模も小さくどう見ても庭園と書院に付け足した感じです。

秀吉子飼いの武将を数多く育てたとはいいながら、

徳川の世ではそれほど彼女に気を使わなくても良いと思いますが、

それでも多くの人々が訪れたのは彼女の徳に拠るのでしょう。

圓徳院の名は意外とねね様のエンと徳に由来するのかもしれません。

エンが円か縁かは定かではないですが…。

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三面大黒天尊天を祀る御堂
御堂は京都御苑から移築したもの。

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歌仙堂(右)と御堂

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拝観を終えて外へ向かう

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圓徳院説明書

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圓徳院御朱印

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小腹が空いたので「藤菜美」にて団子を

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みたらしと抹茶 各¥350

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大谷祖廟(京都市東山区) 親鸞聖人の墳墓の地

2020.01.03(21:05) 521

大谷素描(2019.12.19)

<コース>
京阪電鉄淀屋橋 → (京阪特急) → 祇園四条 → 徒歩15分 → 大谷祖廟

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東大谷廟(浄土真宗東本願寺派)

 夕方から市内の会合に出席するために少し早めに出て、お寺巡りに。

東山麓にある長楽寺は建礼門院所縁の寺。市内の眺めも良いという事で期待していましたが、

門前に来るとまさかの休日。月曜休みは良く聞きますが木曜休日とは初でした。

 気落ちしながら石段を下ると、「大谷祖廟 北門」の看板が…。

どうせ【来たもん】ならば、寄ってみようかと予定外の参拝。

祖廟と言うからには開祖のお墓でしょうが、境内は広く宛ら一大伽藍の様子でした。

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長楽寺の門前に来ると…。

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長楽寺横には祖廟の北門が

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本来の祖廟入口は遥かに西側

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ようやく総門が遠くに見える

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総門
東大谷参道側にあり表唐門・四脚御門とも呼ばれる。

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総門近影

 『宗祖・親鸞聖人は弘長2年(1262年)11月28日、波乱に満ちた90年の生涯を終えた。

翌29日に東山鳥辺野にて葬送、30日に東山の西麓大谷の地に遺骨が納められた。

文永9年(1272年)11月、それまでの墳墓を改め廟堂を建立、

聖人の御影堂を安置した。これが大谷祖廟の起源で本願寺の始まり。

 江戸時代初期には本願寺分派に伴い、

東本願寺が寛文10年(1670年)に墳墓にほど近い現在の地に祖廟を造営した。

元禄年間の大改修を経て現在に至っている。』 とあります。

この場所は元来長楽寺の寺域だったのを、徳川家康が東本願寺に与えたものだとか。

三河時代には一向宗に手を焼いた家康ですが、

京都では浄土真宗と敵対するのではなく、うまく取り込まないといけないと悟ったのでしょう。

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太鼓堂
総門を過ぎた所にあり、かつては2階部分の太鼓で時刻を知らせた。現在は定例法話が開催される。

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階段を上り総門と太鼓堂を見返る

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大谷祖廟本堂
真宗では通常本堂より御影堂が大きいが、ここは本堂のみで本尊・阿弥陀如来を祀る。

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本堂の屋根部分の装飾

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供花再荘厳
祖廟への階段下で年4回実施される。

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御廟へと続く階段

 我が国で僧侶が正式に結婚するようになったのは親鸞以後、

それまでは世襲という事はありませんでした。

宗教それ自体は人間個人を崇拝するものでは本来ないとは思いますが、

親鸞が結婚して子供を持った事で、その血脈は信者には高貴なものとして崇拝される事となったのでしょう。

 イスラム教ではムハンマドの血を受けたアリーの子孫から

シーア派・イスマイリ派が生じたのと似た状況でしょうか?

 現在、日本で一番信徒数が多いのは浄土真宗。今の浄土真宗の基礎は親鸞、

それを発展させて教団にした功労者は蓮如と言われますが、

なによりもその教えが信者の心に訴えるものがあったからに違いありません。

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親鸞聖人御廟

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御廟正面

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鯉の滝登り、葡萄、牡丹(御廟左側)

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牡丹、葡萄、唐獅子(御廟右側)

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御廟を囲む塀の彫刻も極彩色

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大谷祖廟説明書

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満願寺(兵庫県川西市) 源氏累代が帰依した寺院

2020.01.02(14:56) 520

満仲が願った満願寺(2019.12.15)

<コース> バスは日中30分間隔で運行
阪急梅田 → 雲雀丘花屋敷(12:16) → (阪急バス) → 満願寺(12:23) → 徒歩3分 → 満願寺 → 満願寺(13:28) → (阪急バス) → 川西能勢口東口(13:45) → 川西能勢口 → 阪急梅田

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神秀山 満願寺(真言宗 新西国三十三ヵ所第十三番札所)

 尼崎と川西での野暮用が昼前に終わったので、そのまま帰るのも芸がないので、市内で道草。

関西でも指折りの高級住宅街の阪急宝塚沿線のしかも雲雀丘花屋敷駅からバスで10分足らず。

「こんなところに、札所があるんかいな?」と思いますが、

終点のゴルフ場前の山裾に目指す寺院はありました。

 札所の看板を過ぎ石段を上ると、一風変わった山門が。

これは明治期に建てられた洋風建築の仁王門で、

阿吽の仁王像は神仏分離により多田院から移設されたもの。

そこから石畳を下って本坊前に行き、再び石段を上ると

本尊をまつる観音堂、阿弥陀如来を祀る金堂に至ります。

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バス停横にあるモダンな満願寺案内板

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入口にある寺標と階段

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明治14年(1881年)再建の現代的な造りの山門
明治初年に多田院(現多田神社)より移された鎌倉末期の阿吽の金剛力士像を安置する。扁額は「神秀山」

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山門を過ぎて振り返る
こちらの扁額は「大悲門」

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山門を過ぎると下り坂

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参道から右手に本坊、正面に金堂を見る

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本坊前にて

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本坊
旧円覚院。普通はここで納経の筈だが、納経所は金堂前に。

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本坊の前庭
美しい庭だが立入禁止。

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本坊を過ぎ金堂へ向かう

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石段を上った場所から境内を望む

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上った参道を振り返る

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石段右手の観音堂
元は奥の院観音堂の本尊であったが、明治時代に御堂と共に移築された。

 神秀山満願寺(しんしゅうざんまんがんじ)は

『奈良時代の神亀年間(724~728年)、聖武天皇の勅願で諸国に満願寺を建設した

勝道(しょうどう)上人が摂津国の満願寺として千手観音を本尊として開創。

本尊は神亀元年、比叡山の麓で村人が不思議な光を尋ねて発見し、

夢のお告げで摂津国に運んだとされる。

また神話時代に素戔嗚尊が高天原から出雲の国に追放になった時に、

この地に降臨したことから神秀山と称した。

 平安時代の安和元年(968年)には、摂津の多田に居館を構えた源満仲が帰依し、

以来源氏一門の祈願所に。正中2年(1325年)には後醍醐天皇により勅願寺に、

室町以降は足利将軍家の祈願所となって最盛期には四十九坊があった。

江戸時代にも多くの坊を持ったが次第に衰微し、

明治以降は唯一残った子院「円覚院」を本坊として今に至る。』 とあります。

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承応2年(1653年)再建の金堂
平安時代末期とされる十一面観音、聖観音の両菩薩立像を安置する。

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金堂前面の龍の彫刻

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金堂より境内を見る
左に見えるのが納経所。

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金堂脇を通り供養塔へ

 神話や本尊発見の由緒はさておき、多田院に拠った源満仲が帰依して以降、

源氏の庇護の下に繁栄したのは事実でしょう。

境内には正応6年(1293年)に源氏一族の法尼妙阿が亡父を供養した九重塔、

満仲の子や家臣を祀る七基の五輪塔がありました。

 満仲が祈願所とした、或いは近くでマンガンが採れたから満願寺と思いましたが、

納経所で伺うとそれはなし。そんな【マンガ】んのようには行きませんでした。

 それから境内の行政区は川西市で周囲は宝塚市と飛び地になっています。

これは多田神社との関りかと尋ねましたが、これはその通りでした。

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重文・石造九重塔
正応6年(1293年)の銘がある。

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源氏の七塔

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毘沙門堂
鎌倉初期とされる毘沙門天を安置する。

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毘沙門堂と金堂

 さらに奥には坂田金時の墓も。金時は金太郎で生まれは相模の足柄ですが、

彼は頼光四天王の一人。美作で亡くなった後、ここに葬られました。

余談ですが、川西市のゆるキャラは彼をモデルにした「きんた君」。

源満仲、頼光の方が良さそうな気もしますが、知名度から金太郎が採用となったのでしょう。

境内の裏は満願寺の自然林で天然記念物。少し下った所には「満願寺里山」とあります。

納経所で伺うと、

「家族で遊んだりピクニックができる施設です。ピザの窯焼きもできます。但し、入場料は要りますが…。」

との事でした。経営の一貫でしょうが、随分開けた考え方です。

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稲荷の奥に続く「満願寺の森」
総面積1.2haで、コジイを中心とした自然林である。

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森の手前にある坂田金時の墓

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金時の兜石と呼ばれるもの
こんな重いものでは戦はできないが…。

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森入口から見た境内

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満願寺里山

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ピザの焼き窯

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里山の向こうに見える廊下と観音堂、金堂

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満願寺説明書

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満願寺御朱印

 参拝を終えると丁度昼頃。境内に、金時蕎麦、喫茶坊「緑」と

食事できる場所があったので、バス待ちの間に「緑」で昼食。

参拝客も殆どいなかったので、安心していたら店内は満員。

地元の野菜を使ったおすすめの「寺定食」も売り切れでした。

「皆、何しに来てるんやろ?」と思いながらカレーを注文。巡礼でカレーは合わない気もしましたが、

お釈迦様はインドの方なのでと納得した次第。

しかし大勢が訪れる人気のある内容なので、是非次回にリベンジです。

尤も「もう、来んとき!」と言われたら駄目ですが…。

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本坊向かいの喫茶坊 『縁』

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この日の昼食 牛すじカレー ¥600

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川西市マンホールカード    配布場所はこちら

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川西市マンホール蓋 (市花・市木型)

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川西市マンホール蓋 (きんたくん型)

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川西市マンホール蓋 (多田神社型)

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川西市マンホール蓋 (黒川地区型)

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闘鶏神社(和歌山県田辺市) 熊野権現ゆかりの世界遺産

2020.01.01(17:34) 519

源平合戦の勝敗を左右したとはケッコーな!(2019.12.11)

<コース> 冬の青春18きっぷ
【往路】JR天王寺(6:45) → JR和歌山(7:49→8:06) → JR紀伊田辺(9:51)

観光案内所 → レンタサイクル → 高山寺 → 闘鶏神社

【復路】JR紀伊田辺(13:19) → JR御坊(14:09→14:32) → JR和歌山(15:34→15:36) → JR天王寺(16:53)

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闘鶏神社(県社)

 高山寺の後は、紀伊田辺駅方面に戻り東に向かうと闘鶏神社。

闘鶏神社(とうけいじんじゃ)は由緒に拠れば、

『十九代允恭天皇の419年、熊野権現をこの地に勧進し、

田辺の宮として祀ったのが起源。その後、天武天皇の684年、

白河法皇の1100年、近衛院の1147年と三度に亘り熊野三山の各社を勧進。

熊野権現の三山参詣に替えるという別宮的存在となった。

以来、熊野街道の大辺路・中辺路の分岐点として

皇族・貴族は熊野参詣に際し当社に祈願することとなった。

社名も田辺の宮、新熊野権現社、新熊野雞合大権現と変遷を経て

明治以降は闘鶏神社となった。』 とあります。

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JR紀勢本線紀伊田辺駅前
世界遺産を祝福する垂れ幕が…。

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駅前にある武蔵坊弁慶像
弁慶は田辺の出身。

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木の一の鳥居に続く石の二の鳥居

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二の鳥居にある「闘鶏神社」の扁額

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闘鶏神社の境内にある馬場
幅11m、長さ230m。江戸時代から流鏑馬や競馬が開催されたが危険防止のため昭和39年に中止。残念。

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鳥居から境内を見る

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拝殿

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拝殿の背後にある本殿

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本殿に続く御殿

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右から八百御殿、下御殿、中御殿、上御殿と続く

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上御殿の屋根部分

 闘鶏神社の名を高めたのは源平合戦。

この社の別当であった熊野湛増が紅白の鶏を戦わせ、

白が勝った事から熊野水軍が源氏方に付いたと言うもの。

鶏占いは以前から行われていたようですが、湛増の息子が弁慶とも伝わるので、

源氏側に付くのは既成路線だった可能性も。

唯、熊野水軍内でも意見の不一致があったので神託によって反対意見を封じたと思われます。

 古代ローマでも戦時には鳥占があり、鶏が餌を啄む様子で吉凶を占っています。

指導者が己に都合の良いように鶏を空腹にしていたと言いますから、

熊野でもそのような操作はあったのかもしれません。

 神社や駅から数百mですが、仮庵山(かりほやま)を背景にしたちょっとした密林になっています。

田辺に居住した南方熊楠はここの植生で生態学の研究を行ったのでしょうか?

 境内には天然記念物の楠の巨木が。宮司さんに尋ねた処、

和辻「熊楠の楠はこれでしょう。」

宮司「いえ、熊楠の楠は海南の藤白神社のものです。田辺には晩年に移ってきたので。」

和辻「それでは熊は熊野から採ったのではないのですか?」

宮司「それもはっきりとはしないようです。」

田辺に住んでいたことから、てっきりここだと思いましたが、とんでもない思い違い。

やはりデータを元に【とうけい】を取る必要がありそうです。

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境内にある湛増・弁慶の像

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源平合戦の記

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拝殿前の闘鶏の像

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境内の奥に広がる樹木

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池の畔の弁天様

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祠の背後が仮庵山

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南方熊楠と仮庵山

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境内にある御神木の大楠
市指定天然記念物で、樹齢約1200年。高さ14m。

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闘鶏神社由緒略記 ¥50

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闘鶏神社オリジナル御朱印帳

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闘鶏神社御朱印(平成6年拝受)

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田辺郵便局 ; 天神崎、弁慶像

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田辺大師(和歌山県田辺市) 小高い丘の上の高山寺

2019.12.31(21:09) 518

太子と大師に所縁の大した古刹(2019.12.11)

<コース> 冬の青春18きっぷ
【往路】JR天王寺(6:45) → JR和歌山(7:49→8:06) → JR紀伊田辺(9:51)

観光案内所 → レンタサイクル → 高山寺

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正南面山 高山寺(真言宗御室派)

 冬の18きっぷ2回目は暖を求めて南紀へ。

吉野熊野国立公園の制定は戦前ですが、

近年高野山熊野が世界遺産になったため熊野詣の人が増えているようです。

 紀伊田辺は和歌山からの普通電車の終点。

ここから新宮方面への普通は1日5本程度、特急を使わないと極めて不便です。

 駅前から会津川を越え、紀勢線の線路を越えると目の前に小高い丘が。

ここはかつて縄文時代の貝塚があった場所ですが、

その丘の上にあるのが高山寺。飛鳥時代に遡る古刹です。

丘の麓に着くと山門は生憎修理中。

その下を潜り参道を上ると、開けた場所に堂宇が並びます。

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紀勢本線の向こうに森があるのが高山寺
会津川に架かる切戸橋上からの眺め。

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修復中の山門

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山門の彫刻

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山門を過ぎて石段を上る

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階段を上り境内へ

 正南面山高山寺(しょうなんめんざんこうざんじ)の由来は

『推古天皇の御世、牟婁の長者が飛鳥に出掛け聖徳(上宮)太子の教えに感動。

太子の御意を受けた長者は牟婁に戻ると

私財をもってここ南面山に御堂を建立し勧修問寺と名付けた。

 御堂が完成した夜に長者は太子の愛馬「烏の駒」が

薬師如来と上宮太子の御像を運んで来る夢を見たが、

眼が覚めると薬師如来と太子の御像が目の前にあった。

驚いた長者は自らこの二像を御堂に祀ったという。

 弘仁7年(816年)には弘法大師が熊野詣の途中、

この寺に立ち寄り密法を修し自らの像を彫って安置した。

これ以降、寺はこの辺りの文化の中心となり栄えた。

 天正13年(1585年)の秀吉の紀州攻めで伽藍は灰燼に帰したが、

江戸時代になって高野山から空増上人が入山して復興、

江戸時代には寺名が興山寺、更に高山寺と名を変え現在に至っている。』とあります。

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石段を上った左にある不動堂

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高山寺のシンボル多宝塔と本堂

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多宝塔正面
旅僧の悲願の末に文化13年完成。

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多宝塔の裳階部分
扁額は聖徳太子所縁の「上宮閣」

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大日如来を祀る本堂

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本堂正面

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本堂脇に佇む観音堂

 聖徳太子が開基で、弘法大師が中興したというもの凄い話。

飛鳥時代から知られた牟婁の湯ですから歴史があるのは当然。

聖徳太子は伝説でしょうが、弘法大師の事績は高野山の記録にも残っているようです。

 縄文時代の遺跡があるくらいですから、昔から人が居住した場所であるのは確実。

人々の信仰の拠り所だったと想像できます。

大日如来を祀る本堂の前には多宝塔が。

これは江戸中期の旅僧・阿涼は発願し托鉢行脚し、

彼の没後は後を継いだ僧侶に拠って漸く完成したというもの。

山内に多宝塔があるなら一層信仰が深まるという考えだったそうですが、

世代を越えて完成したのは売名行為ではなかったでしょう。

 多宝塔以外にも本堂裏手には観音堂、大師堂、薬師堂が並び庭園となっています。

25年前には庭園にさえ気が付かずに通り過ぎたのは若気の至りではありました。

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本堂裏手の諸堂

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大師堂
言わずと知れた開祖弘法大師を祀る。

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大師堂から池の上の弁天堂を見る

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奥の薬師堂から弁天堂と池を望む

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弁天池と日本庭園

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庭園の紅葉は12月でも未だ見頃

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一番奥にある薬師堂

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日本庭園から見える弁天堂と本堂(左)

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薬師堂と庫裏(右)

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弁天池周辺の紅葉

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高山寺由緒記

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高山寺本尊御朱印(平成6年拝受)

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高山寺観音様御朱印(今回拝受)

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照蓮寺(広島県竹原市) 竹原の学問所

2019.12.30(15:44) 517

山陽にある頼家ゆかりの寺院(2019.12.10)

<コース> 冬の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:51) → JR姫路(7:56→8:01) → JR岡山(9:29→9:31) → JR三原(11:09→11:30) → JR竹原(12:11)

竹原市観光案内所 → (レンタサイクル10分) → たけはら街並保存地区 → 西方寺 → 照蓮寺

【復路】JR竹原(14:06) → JR忠海(14:19→15:19) → JR三原(15:42→16:04) → JR倉敷(17:25→17:41) → JR姫路(19:25→19:26) → JR大阪(20:28)

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龍頭山 照蓮寺(浄土真宗本願寺派)

 西方寺参拝に続き、再び街並みに戻り北側へ。

両脇には重厚な造りの家が並びますが、一部はそれを生かした食事処にもなっています。

参道の入口にあるのが、お好み焼きの店。

家の造りとはギャップがあるようにも思いますが、広島県らしいとも言えます。

 途中にある水色の建物は街並み唯一の洋風建築、いまは資料館になっています。

その横には竹鶴夫妻の銅像も。以前はなかったですが、これも朝ドラ効果でしょう。

 近くには竹を使った工房もあり周囲には竹が植わっています。

竹原は名前の由来となった竹を町興しに使っているようで、竹の街路樹もありました。

後から植えたものと思っていましたが、観光案内所で伺った所、

元々、この辺りの裏山には竹が群生していたそうで、それが町の名の由来になったとか。

己の思い込みを反省しました。【しない】と竹は密接な繋がりがあるようです。

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西方寺前から本町通南側を見る

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参道前のお好み焼きの店
町家というよりも蔵を改装したものか?

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歴史民俗資料館

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資料館横にある竹鶴政孝・リタ夫妻像

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まちなみ竹工房

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本町通の北端から

 町の外れの高台にあるのが、浄土真宗照蓮寺。

その手前にある井戸が酒造りの水に使用されているとありました。

 龍頭山照蓮寺(りゅうとうざんしょうれんじ)は、

『古くは定林寺と称した曹洞宗寺院。

竹原小早川氏代々の子弟の学問所でその帰依も篤かった。

1603年に宗具が入山し浄土真宗となり江戸時代には

頼三兄弟(春水、春風、杏坪)もここで学んだ。境内には頼惟清夫妻、春風の墓もある。

重文である梵鐘は峻豊4年(963年)の銘が残る日本で三番目に古い高麗鐘で

小早川氏が中国貿易により寄進したとされる。』 とあります。

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階段の先に建つ楼門

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楼門の「龍頭山」の扁額

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楼門下から街並み保存地区を見る

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本堂正面

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本堂前面の「照蓮寺」の扁額

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本堂と宗祖の銅像

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庫裏へ続く廊下

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本堂に吊るされた鐘
重文の高麗鐘はこれではない?

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南側の門
街並み散策ではこちらから入る事が多い。

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酒造用井戸
南側門の階段下にあるが、現在は使われていない。

 寺の前の街並みに今もあるのが、頼惟清(これすが)旧宅。

紺屋を営んだ頼兼屋の長男でしたが学問にも打ち込み、

子供の春水、春風、杏坪(きょうへい)も学問・詩文・書で名を挙げ「三頼」と称されました。

春水の子が山陽です。歴史では山陽とその子の三樹三郎が有名ですが、

ここに至るまでは四代に亘る流れがあった事になります。

 学問自体は直接金儲けには繋がらないので、

学問に打ち込めるだけの経済的余裕があったか、

町全体でバックアップしたかのいずれか。

「金を使うのは稼ぐよりも4倍難しい。」とは松下幸之助の言葉だったと記憶していますが、

教育格差が言われる今、江戸期の教育を今一度振り返るのも必要ではないでしょうか?

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本町通の端にある頼惟清旧宅
江戸時代後期、頼山陽の祖父・惟清が紺屋を営んでいた町家。紺屋用・家事用・書道用の三井戸がある。

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旧宅の説明

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旧宅脇に建つ胡堂(えびすどう)
地元の方の話では、商売繁盛を願って建てられたそう。広島出身の大林宣彦監督の『時をかける少女』(1983年)の舞台となった。

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横から見た胡堂
屋根の長さが前後で大きく違うのが珍しい。

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中ノ小路にある光本邸

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板屋小路
緩く湾曲した路の両側に、漆喰で塗籠めた中二階、平入の町家が競い合うように並ぶ。

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頼山陽銅像
本川に架かる新港橋の傍らにある。

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本川岸にある雁木
かつての塩の積出に関わった跡。

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竹原市マンホール その1
これは道の駅に展示しているもの。

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竹原市マンホールカード その2
「たまゆら」タイプで、駅前商店街に設置のもの。

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竹原市マンホールカード   配布場所は竹原市観光協会・道の駅たけはら

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忠海郵便局 ; 大久野島、スナメリ
竹原郵便局 ; 頼惟清住宅、町のシンボル竹

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竹原の思い出 - Takehara memories: 安芸の小京都と呼ばれ古い町並みが残る町




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西方寺(広島県竹原市) 安芸の小京都を見下ろす舞台造りの寺院

2019.12.28(21:57) 516

西方寺再訪(2019.12.10)

<コース> 冬の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:51) → JR姫路(7:56→8:01) → JR岡山(9:29→9:31) → JR三原(11:09→11:30) → JR竹原(12:11)

竹原市観光案内所 → (レンタサイクル10分) → たけはら街並保存地区 → 西方寺

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引接山 西方寺(浄土宗)

 冬の18きっぷの初日は頼山陽ゆかりの山陽路へ。

今まで大阪から日帰りの最西端は広島県。今日はその再現となりました。

竹原は三原から呉線で30分。平安時代には下鴨神社の荘園。

中世には竹原小早川氏の拠点となり、江戸時代には備後最大規模の塩田経営で栄えました。

本川沿いの東の上市・下市には今でも漆喰海鼠壁の古い町並みが残り安芸の小京都と呼ばれます。

 竹原に入浜式塩田が出来たのは慶安3年(1650年)、赤穂の技術が導入されました。

その後の発展は目覚ましく、50年後の元禄12年(1699年)には25万俵を生産。

全国各地に送られました。その繁栄が竹原の町を造った訳ですが、

今に残る家は塩田経営から業種転換したものが多いようです。

 本町通に面した竹鶴酒造もその一つ。

塩業から享保18年に酒造業に転じ「小笹屋」の屋号で知られます。

ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝の生家でもありました。

27年前には観光客も疎らでしたが今は結構な人出。

NHKの朝の連続ドラマの影響でしょうか?

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JR呉線竹原駅舎
町のシンボル竹をイメージしたデザイン。

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鳥羽町通りから左の本町通へ
右は旧笠井邸。

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本町通の東にある竹鶴酒造
江戸中期に「小笹屋」の屋号で塩造りを行ったが、享保18年(1733年)に酒造業にも進出。現在に至るまで現役だが、工場見学はしていない。

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本町通西側の松阪邸
唐破風の流れるような屋根と菱格子の塗り込め窓が特徴の商家。

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町家を利用したカフェ

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同じく町家を利用した宿泊所
1日1組限定というパターンか?屋根の向こうには普明閣の屋根も見える。

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本町通りを南に向いた光景

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旧郵便局の上吉井邸
右の坂を上ると西方寺へ。

 街並み保存地区の半ばを山に向かうと西方寺。

引接山西方寺(いんしょうざんさいほうじ)は

『元々、東側の田中町にあった禅宗寺院であるが、慶長15年(1610年)の大火で焼失。

現在の場所へ移り浄土宗に改宗。本堂は元禄15年(1702年)に再建された。

本堂横を上っていくと高台に建つのが西方寺観音堂、一般には普明閣の名で知られる。

小早川隆景の創建で京都の清水を模したとされる舞台造りだが、

現在の建物は宝暦8年(1758年)の建築。

また本尊は平重盛の念持仏だったと伝わる十一面観音であるが

現在は普明閣ではなく収蔵庫に保管されている。』 とあります。

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階段の先に山門が見える

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西方寺は高台に建つので遠くからは城塞のような造りに見える

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山門から街並みを見下ろす

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山門近影

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本堂正面

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本堂前面の「西方寺」の扁額

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本堂の欄間彫刻

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本堂から山門方面を見返る

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境内から竹原の古い町並みを一望

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十一面観音像を納める守護堂(右)と庫裏の間を抜けて普明閣へ

 街並み保存地区から直ぐの場所にあり、ここからは街並みが見渡せ、

また街並みからは寺が見えるという位密接な関係のある寺院ですが、

創建時と現在の間には【不明確】な点もあるようです。

四半世紀前に訪れた時には普明閣から街並みを見ましたが、

今回は修理中のため登楼できず仕舞い。

来年を目途に完成するようですので、それ以降に再訪する必要がありそうです。

尤も昔と違って高台に上って【マッサン】にならないとも限りませんが…。

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京都の清水を模したとされる普明閣

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本来ならば、この舞台から街並みが見渡せる

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正面から見た普明閣

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普明閣の扁額

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北方面を見た所

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登楼は修復中のため禁止

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裏手の墓地から見た普明閣の屋根

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普明閣へと続く廻廊

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高台からの境内と街並み

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西方寺御朱印(平成5年拝受)
今回、本堂前に3種の書置き御朱印があったが、このタイプはなかった。

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今回、拝受した御朱印
日付は自身で押す。

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黒谷さん(京都市左京区) 東山の念仏道場

2019.12.26(21:49) 515

紅葉の時期に来んかい!(2019.12.6)

<コース>
京阪淀屋橋 → (京阪電鉄) → 出町柳 → (叡山電鉄) → 一乗寺 → 徒歩8分 → 詩仙堂 → 徒歩5分 → 北山別院 → 徒歩5分 → 金福寺 → 徒歩20分 → 真如堂 → 徒歩3分 → 金戒光明寺

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紫雲山 金戒光明寺(浄土宗)

 真如堂の山門を出て左に進むとすぐに金戒光明寺の境内に。

学生時代の下宿から一番近い有名寺院だったので、

訪れたり通り過ぎたことは間々ありましたが、

【今回、紅葉時】は初めて。お蔭でじっくり拝観できました。

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高麗門
真如堂からだと北門から入山するが通常は西にあるここが正門。

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高麗門脇の石標
幕末に京都守護職会津藩の本陣となった。

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参道から見上げた山門

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万延元年(1860年)再建の山門
初めの門は先の戦(応仁の乱)で焼失した。この日は特別拝観なので楼上に上る人が多かった。

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山門にある後小松天皇宸筆の「浄土真宗最初門」の勅額
「浄土の真なる宗」の意味で親鸞の浄土真宗とは関係ない。

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山門下から境内を望む
良く時代劇のロケに使われる。

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境内から見た山門

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境内へと続く石段

 紫雲山金戒光明寺(しうんざんこんかいこうみょうじ)は、

『法然上人43歳の承安5年(1175年)、比叡山の修行を終えてこの地で念仏をされた時に、

紫雲全山にたなびき、光明が辺りを照らした事から最初の念仏道場を開いた場所。

 当初は法然の縁起によって紫雲山光明寺と呼ばれたが、

後に後光厳天皇に戒を授けた事から金戒の二字を賜り金戒光明寺となった。』 とあります。

 山号寺号は説明できますが、黒谷とは何か?法然が比叡山を出たのが黒谷の地で、

庵を結んだこの場所も黒谷の所領だった事がその由来だそうです。

谷という名前ですが寺院の建つ場所は小高い丘。江戸時代には城郭構造を取っていたようで、

現代でも山門から御影堂へ至る間は時代劇ロケに使用されています。

幕末京都守護職となった会津藩が本陣を置いたのもそのような地形が好まれたのでしょう。

いまも境内に会津藩士の墓があります。

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昭和19年再建の御影堂(大殿)
内陣正面には開祖法然上人の75歳の御影(坐像)を安置している。

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御影堂
浄土宗では本堂よりも御影堂の方が大きい事が多いとか。

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昭和19年再建の大方丈
通常はこのように外部のみだが、この日は内部まで拝観できた。

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本堂脇の熊谷直実鎧掛けの松
これは2014年に植えられた三代目。

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大方丈の前庭

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大方丈廊下より開かずの門を見る

紅葉で有名な寺院ですが真如堂と同様に境内の紅葉は拝観無料。

唯、山門への登楼と本堂、方丈、方丈庭園のみが特別拝観。

¥800で本堂以下を拝観しましたが、圧巻は方丈庭園。

開祖法然上人の生涯を枯山水で表現した紫雲の庭と呼ばれますが、

幼少時代・修業時代・浄土宗興隆時代の三つに分けて構成されていました。

一見したところ普通の庭園と見てしまいますが、そこが【こうみょう】たる所以でしょうか?

 拝観内容が馬の耳に念仏となったかどうかは定かではありませんが…。

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大方丈の東に広がる「紫雲の庭」
法然上人の生涯と浄土宗の広がりを枯山水で表現したもの。

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紫雲の庭の右側
法然上人の美作での幼年時代を表現。

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紫雲の庭の左側
比叡山延暦寺の修業時代(左の石組)と金戒光明寺での浄土開宗(右の石組)を表現。

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方丈北園の池と紅葉

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池の北側から大方丈を望む

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北庭にある竹林

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庭園を巡りを終え大方丈へ

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拝観出口にある清和殿と新清和殿
御朱印と土産は右の新清和殿にて。

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阿弥陀堂
慶長10年(1605年)豊臣秀頼に拠り再建された山内で最も古い建造物。

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阿弥陀堂の後ろを通り墓所へ向かう

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蓮池に架かる極楽橋から山門を見る

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重文・三重塔
徳川秀忠公の菩提を弔うために寛永10年(1633年)に建立。近年まで文殊菩薩を安置していたので文殊塔とも呼ばれる。

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金戒光明寺説明書

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金戒光明寺御朱印 その1
本尊阿弥陀如来

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金戒光明寺御朱印 その2
浄土真宗最初門

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真如堂(京都市左京区) 洛中きっての紅葉の名所

2019.12.25(22:38) 514

御本尊とパトロンの話(2019.12.6)

<コース>
京阪淀屋橋 → (京阪電鉄) → 出町柳 → (叡山電鉄) → 一乗寺 → 徒歩8分 → 詩仙堂 → 徒歩5分 → 北山別院 → 徒歩5分 → 金福寺 → 徒歩20分 → 真如堂

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鈴聲山 真正極楽寺(天台宗)

 白川通から今出川通を越えて真如堂へ。洛東というよりも京都屈指の紅葉の名所。

以前は紅葉とは無関係な季節に訪れたので、今回は紅葉を見るべく参拝。

 北門から入りましたが、改めて総門へ回ると三重塔へと至る参道や本堂裏手は紅葉づくし。

赤いライトを浴びたような感じでした。加えて総門も朱色で通称赤門。

吉田神社の神様が夜にお参りに来る際に躓かないように敷居がないそうです。

東大に赤門があるのは知っていましたが、兄弟の近くにも赤門があるとは初耳でした。

尤もこちらは敷居が高そうですが…。

 入口から総門を過ぎ、三重塔を右手に見て進むと正面が本堂。

移転を繰り返したためか、建物に国宝はなく本堂のみが重文でした。

この間、参道には紅葉が彩を添え、本堂裏手まで続いていました。

 紅葉の名所ながら境内の紅葉拝観は全て無料。京都市内の寺院では珍しい例に思えます。

この日は特別拝観で本堂内と渡り廊下で繋がった書院と庭の拝観が可能。

¥1000は高額でしたが、年一回の事でもあり【後学】の為に拝観しました。

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寺標と総門
元禄8年(1695年)完成。

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総門近影
正面に本堂が見える。

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総門前の楓

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本堂へと続く参道の両脇も紅葉

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石段横の青銅の灯篭

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真如堂由緒

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参道右の脇道

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脇道は紅葉のトンネルと苔と紅葉の絨毯

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脇道を上るにつれて紅葉から銀杏へ移り変わる
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脇道の上からの眺め

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銀杏越しに見る三重塔

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参道上から総門を振り返る

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文化14年(1817年)再建の三重塔
多宝塔を祀った本瓦葺で高さ40m。写真のスポットでもある。

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享保2年(1717年)再建の重文・本堂
七間三面の総欅、本瓦葺の入母屋造。

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本堂前面の「真如堂」の扁額

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本堂前面の造り

 鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)は、

『永観2年(984年)、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を、

この近くにあった一条天皇生母・東三条院の寝殿に安置したのが始まり。

戒算(かいさん)上人を【開山】とする。その後、一条天皇の勅願寺となり

不断念仏の道場として【普段】から女人の深い帰依を受けた。

 しかし応仁文明の内乱で堂宇は焼失。本尊は比叡山、穴太と遷座した。

その後、日野富子の帰依を受け旧地に戻るが、室町、西洞院、今出川と

移転&焼失を繰り返し、元禄6年(1693年)になって漸く現在の地に落ち着いた。』 とあります。

 本尊を勝手に持ってきたらアカンやろうと思いますが、

そこには謂れがあって、戒算上人と東三条院の夢枕に立った老僧のお告げに拠るとか。

その際に、「都に下って、総ての人々、特に女性を御救い下さい。」と願うと、

阿弥陀様が三度頷いたので「頷きの阿弥陀」と呼ばれるようになったと言います。

「仏の顔も三度まで」の諺は無関係のようですが…。

 恐らく、天皇の御生母のために比叡山から本尊を移設しようとした際の理由付け。

御生母か天皇か、いずれの望みかは分かりませんが

叡山としても朝廷の意向は無視できなかったものと思えます。

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本堂廊下を巡り渡り廊下を通って書院へ

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本堂裏手の紅葉の林

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地面は紅葉の絨毯

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紅葉の向こうに見える薬師堂

 書院の間には四条派の絵画が描かれえていましたが、

珍しいのは「涅槃の庭」と「隨縁の庭」。前者は大文字山を背景に、

釈迦が入寂されその周りを弟子が囲んで悲しんでいる様子を石で再現したもの。

後者は、幾何学的な文様の小さな庭。なんでもここは三井家の菩提寺だそうで、

三井家家紋の「四つ目紋」に因んだデザインだそう。勿論、大檀家に違いなく、

寺が気を効かせたというよりも三井家が全面的に費用を負担したのでしょう。

 平安時代も、現在も財産に余裕のある人はこの世に極楽を再現したいと思うのでしょう。

お釈迦様がそれを【れいしょう】するかどうかは分かりませんが…。

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書院を拝観して「涅槃の庭」へ

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涅槃の庭
1988年、曽根三郎氏による作庭。後ろの大文字山を借景とし、北(向かって左)を頭にしたお釈迦様が入寂し、周囲を弟子たちが囲んで嘆き悲しんでいる様子を表したもの。

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「涅槃の庭」右側

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燈明寺石灯籠
鎌倉時代に山城の国燈明寺に伝わり、三井家を経て当寺に寄進された。

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隨縁の庭
2010年、重森三玲氏の孫・千青氏によって作庭された。

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庭は三井家家紋「四ツ目」に因んでデザインされた

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庭の背後の仏殿の蟇股に付けられた三井家家紋

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書院の中庭

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中庭には特別名前が付けられていないが、茶室を控えて優美な造りである

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朱と黄色の実が映える

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本堂裏手の階段
但し、ここからは入れない。

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本堂の廻廊から見た紅葉の林
見頃も過ぎて樹木よりも地面の紅葉の方が多い。

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紅葉のトンネル

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本堂を回って出口へ

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本堂より三重塔を見る

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本堂裏手に進む

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裏手から本堂を見る

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真如堂説明書

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真如堂御朱印(平成9年拝受)
墨書も印も流麗だが、右上の印が逆になってしまったのが残念。

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真如堂御朱印
今回は上下の向きは問題なし。

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金福寺(京都市左京区) 芭蕉と蕪村と村山たか女

2019.12.23(22:59) 513

寒風にあらず(2019.12.6)

<コース>
京阪淀屋橋 → (京阪電鉄) → 出町柳 → (叡山電鉄) → 一乗寺 → 徒歩8分 → 詩仙堂 → 徒歩5分 → 北山別院 → 徒歩5分 → 金福寺

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佛日山 金福寺(臨済宗南禅寺派)

 北山別院の後は、案内板に従って細い道を行く事5分。

以前にこの辺りを巡礼した際には見過ごしてしまいましたが、

今回は無事に行き着くことができました。

 佛日山金福寺(ぶつにちざんこんぷくじ)は、

『貞観6年(864年)、安恵僧都が慈覚大師・円仁の遺志により創建。

大師自作の観音像を本尊として安置した。始めは天台宗寺院であったが一時荒廃。

江戸中期に圓光寺の沢雲長老の法嗣・鉄舟和尚が再興し、

臨済宗南禅寺派となり今日に至っている。』 とあります。

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金福寺入口

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寺標と山門

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山門屋根の紅葉

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山門正面の庫裏
ここで御朱印を拝受する。

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由来書

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受付後、中門をくぐる

 古刹であり借景を取り入れた庭園は見応えはありますが、

境内はそれ程広くはありません。

それでも有名な観光寺院になっているのは二つの理由があります。

 一つは俳句の聖地として。

再興した鉄舟和尚と親交のあった松尾芭蕉が、京都を訪れた際に

本堂裏の草庵で俳諧を語ったと言われ後世に芭蕉庵と呼ばれました。

その後、庵は荒廃しますが芭蕉を敬愛する与謝蕪村とその一門が安永5年(1776年)に再興。

蕪村は42歳以降68歳で亡くなるまで京都に居住したので、

京都俳諧に与えた影響は大だったと思えます。境内には句碑や蕪村の墓もあり、

芭蕉と蕪村の所縁の寺ということで俳句の聖地となりました。

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中門を振り返る

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中門脇の満天星

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庭園越しに見る本堂

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本堂内にある蕪村が描いた芭蕉翁の画
芭蕉が描いた蕪村の画ならば途轍もない宝物になるが…。

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本堂拝観後は庭園を見ながら石段を上る

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石段途中の庭園

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石段上部の庭園
向こうに見えるのが芭蕉庵

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石段上から見た道を振り返る

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蕪村が再興した芭蕉庵

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芭蕉庵内部
利休作の待庵に似た三畳台目の茶室である。

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芭蕉庵由来

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庵を過ぎ山手へ

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高台にある蕪村の墓

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芭蕉句碑
・憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥

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こちらは蕪村の句碑

 今一つは、幕末の村山たか女。

多賀大社の寺坊の娘として生まれた彼女は祇園の芸妓を経て

彦根藩主井伊直弼の側近となり、長野主膳と共に直弼の「安政の大獄」に協力しました。

そのため勤王方からの恨みを買い、桜田門外の変の後は捕らえられ

京都三条河原で生晒にされました。しかし三日後に助けられ、

たか女は文久2年尼として金福寺に入り、明治9年に67歳の生涯を終えたと伝わります。

歴史の教科書には登場しませんが舟橋聖一『花の生涯』、

諸田玲子『奸婦にあらず』のヒロインとして登場。

舟橋作品では稀代の悪女として、諸田作品では反悪女として

全く逆の面で描かれているのもミステリアスです。

『花の生涯』は第一回NHK大河ドラマだった事もあり

悪女の印象が未だに付き纏いますが、今後は復権しそうな気もします。

『花の生涯』は井伊直弼が主人公ですが、脇役であったたか女が『花の生涯』を送ったとも言えそうです。

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本堂内にある、村山たか女の関連資料
掛け軸は長野主膳の肖像画。

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山門脇のたか女創建の弁天堂

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弁天堂由緒

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金福寺説明書

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金福寺御朱印

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本願寺 北山別院(京都市左京区) 親鸞聖人、求道のみち

2019.12.22(20:05) 512

親鸞聖人が喉を潤した泉(2019.12.6)

<コース>
京阪淀屋橋 → (京阪電鉄) → 出町柳 → (叡山電鉄) → 一乗寺 → 徒歩8分 → 詩仙堂 → 徒歩5分 → 北山別院

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聖水山 北山別院(浄土真宗本願寺派)

 詩仙堂拝観の後、南側の寺に向かって歩いていると大きな山門の手前に見事な紅葉が。

当初予定にはありませんでしたが、そのまま通り過ぎるのは惜しいので寄り道参拝。

 聖水山北山別院(しょうすいざんきたやまべついん)は

『元々は養源庵と称した天台宗寺院であったが、

門信徒の力によって延宝6年(1678年)本願寺に属し北山養源寺と称した。

延宝8年には本山別院となり、天和3年(1683年)には木仏御本尊、

親鸞・蓮如上人の御影を安置して別院の体裁が整った。

ところが享保17年(1732年)、山科別院の興隆支援のため本堂は山科に移動。

当地には小庵を残すのみになった。

 その後、明和2年(1765年)に再興が図られるが、安永2年(1773年)に全焼。

文政5年(1822年)に本堂が再建された。幕末の安政年間から

庫裏・鐘楼の移設が始まり明治4年に堂宇全体が整備された。

その後も大正・昭和にかけて改装・新築を経て今に至っている。』 とあります。

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階段横の見事な紅葉

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山門へ到着
左側は保育園。

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山門近影

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山門の向こうには本堂が

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門扉にある下り藤の紋

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山門からの眺め

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本堂

 寺の由来は古いですが真宗に改宗したのは江戸以降。

歴史的には古いとは言えません。しかしこの地と親鸞聖人には深い縁があります。

 比叡山で修行した上人は、29歳の時、万人の救われる道を求め

聖徳太子の創建された六角堂に百日間参籠。

そこで示現を得た上人は東山吉水の法然上人の弟子となり他力本願の教えを受けます。

 参籠に先立ち清水が湧出していた北山の地で喉を潤し、

御身体を拭い休息したとされるのが境内奥にある「御聖水」。

これが別院の山号にもなっています。また聖徳太子が童の姿となって

親鸞を励ましたという伝承が清水の脇の「影向石(ようごうせき)」として残っています。

 聖徳太子の伝承は兎も角、日野に生まれ叡山に上った親鸞聖人の伝説は信憑性が高いと思われます。

観光客が訪れる寺院ではありませんが、その奥には様々な歴史の【盛衰】が重層しているようです。

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本堂にある「聖水山」の扁額

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本堂前から山門を見る

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鐘楼

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保育園の脇の道を通った先にある御聖水と影向石

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御聖水説明

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今でも水が湧き出ている

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上宮太子(聖徳太子)影向石

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北山別院説明書

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詩仙堂(京都市左京区) 文人武将の隠居所

2019.12.21(21:35) 511

徳川譜代の臣の凹凸人生(2019.12.6)

<コース>
京阪淀屋橋 → (京阪電鉄) → 出町柳 → (叡山電鉄) → 一乗寺 → 徒歩8分 → 詩仙堂

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六六山 詩仙堂 丈山寺 凹凸窠(曹洞宗)

 この日は夕方、京都市内で会合があるので、

少し早めに出て叡山電鉄一乗寺駅で下車して北白川付近を散策。

 古くは宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場所、最近はラーメン街道で知られますが、

この付近は寺社が多い事でも有名です。

詩仙堂は江戸初期の文人・石川丈山の山荘跡。

文人らしい家屋と庭園が有名な観光名所ですが、

正式には永平寺の末寺の曹洞宗の寺院です。

 詩仙堂と書かれた石標の後ろにある竹の小さな門を潜り、

樹木に囲まれた石畳を進むと小さな茅葺の門の向こうに

楼を持った三階建ての家屋が出迎えます。

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京福電鉄一乗寺駅の改札を出ると直ぐにこの石標が

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途中にある「一乗寺下り松」の跡

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詩仙堂入口へ到着

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小有洞の門
入口に建つ竹で出来た門。「文人は竹を友とす」に拠るのか?

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参道から小有洞を見返る

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この石段を上ると山荘に

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参道を上り詰めた場所に建つ「老梅関の門」

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玄関前の庭

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玄関から見上げた嘯月楼

 詩仙堂は正式名・六六山詩仙堂丈山寺凹凸窠(ろくろくざんしせんどうじょうざんじおうとつか)、由緒に拠ると

『石川丈山は父祖代々徳川譜代の家臣で、松平正綱、本田忠勝は親族に当たる。

自身も十六歳で家康に仕えた。三十三歳の時、

大坂夏の陣で先登の功名を立てたが、それを家康に叱責されたため出奔。

京都にて藤原惺窩に朱子学を学び、広島の浅野家に十数年出仕。

五十四歳の時に母が亡くなったのを機に京都に戻り、

寛永18年(1641年)五十四歳の時に詩仙堂を造営し、

九十歳で没するまでの三十余年、文人として隠棲生活を送った。

近世における隷書、漢詩の大家として知られ、煎茶道の開祖でもある。

 邸内には「嘯月楼」という家屋があり、そこの一室に中国の詩人三十六人の

肖像を狩野探幽が描き、漢詩を丈山自身が書き四方の壁に掲げた。

これが詩仙堂の名の由来であり、建屋や庭園が山の斜面の

凸凹した場所に建てられたため凹凸窠と呼ばれた。』とあります。

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嘯月楼の1階から見た庭園(右側)

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嘯月楼の1階から見た庭園(左側)

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詩仙の間の前庭

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読書室であった「至楽巣(猟芸巣)」と前庭

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庭園から山荘を見る

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庭への降り口にある杉苔と紅葉

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左から嘯月楼、詩仙の間、至楽巣

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堂上の楼の近影

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紅葉の向こうに見える山荘屋根

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嘯月楼の前庭

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前庭から下の庭に向かう

 徳川譜代の臣が一度叱責された位で武士を捨てて隠棲するとは

信じがたい気もしますが、本人は【じょうだん】ではなかったのでしょう。

「先駆けをするような猛者は平時の能吏には向かない。」

大坂の陣で戦国の世の終焉を見届けた丈山は

己の役目は終わったと【脳裏】に悟ったのかもしれません。

大名屋敷には及びませんが、隠棲するには贅沢な環境。

波乱万丈の凸凹人生を送り死線を潜り抜けた武将の

終焉の地が【詩仙】堂というのも因縁を感じます。

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石垣に繁茂する羊歯類

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下の庭に百花を配したという「百花塢(ひゃっかのう)」

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百花塢の前の池と残月軒

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残月軒近影
茶室の扱いか?

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残月軒横の藤棚と紅葉

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更に下って坐禅堂へ

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途中は苔の絨毯

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坐禅堂である「十方明峰閣」

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庭の最も奥まった場所から

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山茶花

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洗蒙瀑
庭に下り蒙昧を洗い去る滝の意味。

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一般には鹿威しと呼ばれる添水・僧都(そうづ)
山荘内の静寂の中で唯一大きく響く音で、丈山も好んだと言われる。

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至楽巣の脇の井戸「膏肓(こうこう)泉」
丈山自身が「病膏肓に入る」からか?

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詩仙堂説明書

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詩仙堂御朱印

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京都一乗寺郵便局 ; 詩仙堂嘯月楼、決闘の地・一乗寺下り松の碑 (2003年以前)
京都一乗寺郵便局 ; 詩仙堂、宮本武蔵と吉岡一門決闘の地・一乗寺下り松、宮本武蔵像

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松尾さん(京都市西京区) 山城屈指の古社

2019.12.20(23:41) 510

酒造りにはたした役割(2019.12.4)

<コース>
阪急梅田 → 桂 → 上桂 → 徒歩10分 → 浄住寺 → 徒歩5分 → 地蔵院 → 徒歩10分 → 月読神社 → 徒歩5分 → 松尾大社 → 松尾大社駅 → 桂 → 阪急梅田

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松尾大社(旧官幣大社)

 桂巡礼の最後は松尾大社。この日は月読神社から北に歩きましたが、

阪急松尾大社駅の西側には大鳥居が建ち、百m余り歩くと二の鳥居。

如何にも門前の駅という雰囲気です。

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阪急の駅からは大鳥居が見える

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大鳥居を過ぎた先に二の鳥居が見える

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二の鳥居正面

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鳥居には脇勧請が掛けられている

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脇勧請の説明

 松尾大社(まつのおたいしゃ)の由緒に拠れば

『太古の昔、この地域の住民が松尾山の磐座に神霊を祀って生活守護神としたのが起源。

その後、五世紀になると朝鮮半島から渡来した秦氏がこの地に移住し、

山城・丹波を開拓。河川を治めて農林産業を興した。

同時に松尾の神を氏族の神とし、大宝元年(701年)に社殿を現在地に移した。

以後、皇室の崇敬も篤く正一位を授けられ、山城屈指の古社と格式を誇る。』 とあります。

 二の鳥居を潜ると楼門に続き広い境内に拝殿、中門と廻廊に囲まれた本殿が鎮座しています。

下鴨大社と並ぶ古社ですが、一般には酒の神様として知られています。

伏見ならいざ知らず、桂で酒とは意外でしたが、西山一帯は古来より良質の水に恵まれた場所。

ウィスキー・ビール工場もあることをすっかり失念していました。

境内には松風苑という庭が三つあり、昭和の庭園学の第一人者重森三玲氏の最晩年の作。

上古の庭、曲水の庭、蓬莱の庭と時代の沿った動と静を表現しています。

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寛文7年(1667年)建造の楼門
三間一戸入母屋造、檜皮葺である。

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境内から振り返った楼門

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楼門の先にある入母屋造の拝殿

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拝殿側面
大祓式等の神事で使用される。

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拝殿の奥にある中門と本殿

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中門近影
脇には清酒の樽が奉納されている。

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中門横の社務所から庭園に入る

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平安風の曲水の庭
御手洗川の清水が七曲りして丘麓を流れる。

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高見から見た曲水の庭

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神像館(宝物殿)前の即興の庭

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磐座風の上古の庭
松尾山中の神蹟に因み山下に造られた。地面のミヤコザサは高山の趣を表す。岩石は四国吉野川の緑泥片岩。

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本殿裏の山道
かつての磐座に至る道だが、現在は通行止め。

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御手洗川上流の霊亀の滝
左の岩は烏天狗に見える。

秦氏は大陸の進んだ技術をもたらしましが酒の製法もその一つ。

本殿横の庭園の奥に「亀の井」という霊泉が。

延命長寿、よみがえりの水として醸造の際にこの水を加えると酒が腐らないといわれ

酒造業者の信仰を集めています。これが酒の神様の由緒でしょう。

秦氏は長岡京・平安京遷都に当たっては技術に加え、その経済力でも貢献したと言われます。

秦氏の【はたし】た役割は大きく、彼等なかりせば【はたし】て遷都が上手く運んだかどうか?

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滝の下にある「亀の井」の霊泉

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庭園入口の亀と鯉

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拝殿前の一ノ井川
両岸には山吹が咲き誇る。

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鎌倉風の蓬莱の庭
古典の手法の石組

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蓬莱の庭
現代の手法の池

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蓬莱の庭
三玲が形を指示し、長男の完途が完成させた。

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酒の神社らしく樽占いが…。
あ【たる】かしらん?

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楼門左の「酒の資料館」 無料

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松尾大社説明書

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松尾大社御朱印

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月読神社(京都市西京区) 京都で最も古い格式のある神社

2019.12.18(19:50) 509

イキな神様(2019.12.4)

<コース>
阪急梅田 → 桂 → 上桂 → 徒歩10分 → 浄住寺 → 徒歩5分 → 地蔵院 → 徒歩10分 → 月読神社

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月読神社(式内社 松尾大社境外摂社)

 朝から寺院の参拝が続きましたが、今度は神社。

地蔵院から北へ500m程ですが、道が曲がっていたので10分掛かりました。

 月読神社(つきよみじんじゃ)は、由緒に拠れば

『顕宗天皇3年(487年)、任那への使者に月神からの神託があり、

この地に社を賜ったのが始まり。祭神はイザナミから生まれた

月読尊、天照大神や素戔嗚尊の兄弟に当たる。

当初は桂川左岸にあったとされるが、斉衡3年(856年)にここ松尾山麓に遷座。

同時に祠官の名も松室に改めた。

鎮座以来皇室の崇敬を受け、貞観元年(859年)には正二位、

延喜6年(906年)には正一位に叙せられた。

京都では最も古い歴史と格式を持った神社である。』 とあります。

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地蔵院から西芳寺川を渡り月読へ

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神社入口へ到着

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鳥居を過ぎ石段を上る

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石段脇の紅葉

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神門

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由緒記

但し月読神社は壱岐が本社で上記の内容は壱岐氏の由緒、

山城には分社が勧進されたと言われます。

壱岐県主は中国から亀卜の技術を伝え中央に伝播した一族で、

神祇官にあって卜占に関与していたとされます。

壱岐は大陸からの文明が伝わる要衝にあったので

その重要性から畿内に分社されたのでしょう。

そうならば都のあった大和に祀られる筈ですが、

山城という事はここを本拠にした秦氏が与ったと思われます。

御祭神の月読尊は天照大神、素戔嗚尊の兄弟ですが知名度は今一つ。

本来の神は大和の神とは別系統の大陸由来の神でしたが、

後に大和と結び付けるために月読尊を持って来たと考えても

【月読】ならぬ深読みにはならないでしょうが…。

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入母屋造、銅板葺の拝殿

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流造、檜皮葺の本殿

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本殿右の聖徳太子社と月延石
背後の山はかつての磐座か?

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安産の神として信仰されている月延石

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天鳥舟命を祀る御船社

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願掛け陰陽石

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解穢の水で清める

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月読神社由緒記

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月読神社御朱印

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竹の寺 地蔵院(京都市西京区) 細川氏と一休禅師の寺

2019.12.17(21:05) 508

桂の地にある竹の寺(2019.12.4)

<コース>
阪急梅田 → 桂 → 上桂 → 徒歩10分 → 浄住寺 → 徒歩5分 → 地蔵院

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衣笠山 地蔵院(臨済宗系単立寺院)

 浄住寺に続いて少し北に向かうと地蔵院。

竹の寺で知られますが、紅葉の季節は境内も真っ赤に彩られます。

この日は南から北上しましたが、通常は苔寺バス停で下車して

坂を上って南下するのが正統派。こちらの方が雰囲気はありますが、

北上して住宅地にいきなり紅葉が現れるのもまた一興です。

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苔寺バス停から南へ向かう道

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上り坂の向かいにある「かぐや姫御殿」
西山は竹で有名なのでこのような施設も。但し、閉館している様子。

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途中の道から見た洛西

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住宅地の中にある地蔵院
竹で有名だが境内には紅葉も多い。

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地蔵院由緒

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中門近影
拝観はここから。

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中門から入口を見返る

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中門を過ぎて本堂へ向かう参道

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参道脇の竹林

 衣笠山地蔵院(きぬがさやまじぞういん)は、

『この地は鎌倉時代の歌人で衣笠内大臣藤原家良が山荘を営んだ場所。

南北朝時代の貞治6年(1367年)、室町管領細川頼之が宗鏡禅師を招聘して伽藍を建立。

但し、開山は宗鏡の恩師夢窓疎石とし、伝教大師作と伝わる地蔵菩薩を本尊としている。

 その後、北朝系の三天皇崇光・後光厳・後円融の勅願寺に準じた一大禅刹となったが、

応仁・文明の乱で悉く焼失。しかし、皇室と細川家の援助によって復興し、

明治になり竜済・延慶の両寺を合併し現在に至っている。』 とあります。

 南北朝時代は一休禅師がこの付近で生まれ、

6歳で安国寺に移るまでこの寺で養育されたと伝わります。

子供の性格は幼少期に形成されると言いますから、

ここでの生活が彼の一生を決めたとも言えます。

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正面から見た本堂(地蔵堂)
本尊の地蔵菩薩を中央に、夢窓疎石・宗鏡禅師・細川頼之の木像を安置する。

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地蔵院近影

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本堂南にある墓に向かう

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細川頼之・宗鏡禅師の墓
自然石を用いた簡素な造りである。

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お墓の横にある一休禅師母子像
2017年の建立。一休さんは生誕から6歳までここで過ごしたと伝わる。

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細川頼之公の碑

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本堂周辺の景色

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本堂前を通り方丈へ

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方丈遠景

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方丈玄関より入口を見る
両側は苔の参道。

 境内に残る方丈は貞享3年(1686年)の再建ですが、

庭園は十六羅漢の庭と呼ばれる平庭式枯山水庭園。

宗鏡禅師が作庭し、細川頼之が遺愛したと伝わります。

 応仁の乱の一方の旗頭は細川勝元。

己の関わった戦で寺が焼けた事による罪悪感があったかどうかは不明ですが、

先に訪れた浄住寺もそうですが、地蔵院もよい檀家に恵まれたと言えます。

 方丈内には細川ガラシャの肖像画、元首相の細川護熙氏の書画も展示されており、

細川家所縁の寺という印象が伺えます。

細川家は足利支流、一門の中の家格は際立って高い訳ではありませんでしたが、

戦国乱世及び江戸時代を大名として生き残った事で存在がクローズアップされたと言えます。

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方丈の内部

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細川ガラシャ殉節之経
幸野義画伯の奉納とある。

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細川護熙 元首相の書と滝の図
洞庭湖に注ぐ川の源流の瀧を想像して描いたものである。

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茶室全景
左は御朱印タイプの写真撮影か?

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猪目文様を象った窓のある茶室
日本古来の文様だが、ハート型のため近年人気がある。

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肥後細川家の九曜

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縁側より庭園を見る

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十六羅漢の庭 説明板

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十六羅漢の庭 左側

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十六羅漢の庭 中央

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十六羅漢の庭 右側

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十六羅漢の庭 玄関からの光景

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地蔵院説明書

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地蔵院御朱印
書かれたものを拝受。

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  27. 竹の寺 地蔵院(京都市西京区) 細川氏と一休禅師の寺(12/17)
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