<コース>
JR大阪 → JR天王寺 → 近鉄阿部野橋 → (近鉄南大阪線) → 古市 → 徒歩2分 → 白鳥神社 → 徒歩10分 → 白鳥陵古墳

白鳥神社(旧村社)
この日は所要で足を伸ばして古市駅まで。ここは堺市と並んで世界遺産に登録された百舌鳥古市古墳群。
近鉄古市駅の東に隣接するのが白鳥神社。白鳥神社(しらとりじんじゃ)は、
『元はこの西方の軽墓(軽里)の伊岐(いき)谷にあった伊岐宮(いきみや)が嚆矢。日本武尊が祀られていたが、
南北朝や戦国時代の兵火で焼失。峯ヶ塚古墳上に小さな祠として存在していたが、
それも1596年の慶長の大地震で倒壊。そのまま放置された。

古市駅東口に隣接する白鳥神社への入口(南向き)

正式には神社の東側にあるこちらの鳥居が正式な様子
寛永年間(1624~1643年)になって古市村の産土神としてこの地へ遷座。
日本武尊を祀る故に白鳥神社と称したと享和元年(1801年)の河内名所図会にある。
その後、日本武尊に加え素戔嗚尊も御祭神とした。
現在の場所は6世紀後半とされる前方後円墳(荒陵)の後円部。一方、前方部は駅と国道170号線との間に
低い台地として残存。括れ部分が明治31年1898年の河陽鉄道の開通工事の際に削られ駅地となった。
この古墳は571年、欽明天皇を河内古市でもがりした際に仮の陵として造営された。』 とあります。

東側の鳥居の周囲
確かに古墳と思しき形をしている。

由緒記

階段を上り境内を見渡す
社務所らしきものはなく通常は無人である。

正面から見た拝殿

拝殿脇の小社
各地へ遠征した後、三重の能褒野で息を引き取った日本武尊は白鳥に姿を変え、大和の琴弾原を経て
古市に飛来したと『日本書紀』にあります。その後、埴生の丘に羽を曳くが如く飛び去ったのが羽曳野の由来。
飛び去った先が和泉の大鳥神社とされます。
日本武尊伝説のある古市ですが、日本武尊の白鳥陵古墳はここではなく西へ数百の場所。
日本武尊は伝説上の皇子とされ、明治期の古墳の比定も誤差があるようですが、
どうせなら古墳の場所に神社がある方がインパクトがあると思うのは私だけでしょうか?

日本武尊御陵への参道
近鉄の線路を越え西へ坂を上る。

白鳥陵古墳
前方部北西角から東南向きに見る。良く写真に撮影されるアングルである。

古墳説明板

白鳥陵古墳の北側を通る竹内街道

仁賢天皇陵古墳
白鳥陵古墳から藤井寺駅に向かう途中にある。

濠越しに見た仁賢陵古墳
古墳の東側には二つの大きな池が隣接する。

羽曳野市マンホール蓋

羽曳野市マンホールカード 配布場所はこちら(現在休止中)
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常施無畏寺 護浄院(天台宗 勅願所)
こぬか薬師から東へ向かい、御所を回って荒神口へ。京都への入口の一つで、東から西へ向かうのが筋ですが、今回は逆。
その手前に、古い門構えがあるのが鴨沂(おおき)高校。明治5年(1872年)、日本最初の公立女学校として
創立された京都一女が前身。旧京都一中(現洛北高校)が深泥池近くにあるのに対し、京都一女は御所の直ぐ東。
出身者も森光子・山本富士子・加茂さくらの女性陣を始め、田宮二郎・沢田研二の諸氏まで。タイムショックでした。
その通用門のすぐ横が目指す寺院。

御所に面した鴨沂(おおき)高校校門

明治天皇滞在碑と塀越しに見える鴨沂(おおき)高校校舎
常施無畏寺護浄院(じょうせむいじごじょういん)は、
『宝亀3年(772年)、光仁天皇の開成皇子が摂津勝尾山で修業中、荒神尊が八面八臂の鬼人となって出現。
その荒神尊の姿を自ら彫刻して清師に祀り、勅命に拠って鎮護国家の霊場として光仁天皇より
田地百畝を賜ったのが嚆矢。清荒神の名もここに由来する。

北から見た清荒神
因みに向かいには鴨沂高校学友会館が建つ。

正門前にて

山門近影
室町時代になり後小松天皇から「勝尾山は遠方で勅使代参も労少なからず」との勅命を受けた乗厳律師が、
明徳元年に京都高辻堀川の東に境内地を得て荒神尊を遷座。同3年、南北朝の和合祈願の勅命が下った。
その後、後陽成天皇より「皇居守護のため東南の地に遷座せよ」との勅命を受けた豊臣秀吉の命で、
その死後の1600年に現在地に移転。後陽成天皇御自作の如来荒神尊七体を併せ祀った。
天皇より「常施無畏寺」の号を賜ったのはその折で、元禄7年(1694年)には御所の浄域を護ることから「護浄院」の号も賜わった。

山門脇の由緒記駒札

山門越しに境内を望む

荒神様を祀った本堂

本堂手前の鳥居
神仏習合の名残か?
天明8年(1778年)正月の大火で罹災するも、寛政年間に再建。慶應2年(1866年)には孝明天皇の持念佛の
千手観音を安置、明治24年(1891年)には皇太后・皇后より殿堂造営費が下賜された。』 とあります。

ここは拝殿に当たる

清荒神の扁額

拝殿奥にあるこれが本殿
山門に接する位に近い。
荒神さんと言えば、竃・火の用心の神さまで、宝塚市の清澄寺がすぐ頭に浮かびますが、
日本最初とあるからには、ここが始めなようです。

不動明王、歓喜天、観音様を祀るお堂

書院入口と寺務所
御朱印はここで拝受。

清荒神御由緒

清荒神御朱印

西側にある通用門
ここを出ると鴨沂高校通用門がある。

鴨川に架かる荒神橋
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医徳山 薬師院 (黄檗宗)
菩提薬師さんに続いて、向かったのはこぬか薬師。祀っているのは同じ薬師さんですが、
場所も同じ二条筋。ひたすら西へ向かうこと10分。

こぬか薬師入口
釜座通りの西側にあるが、ここはかつての裏門であったとか。
医徳山薬師院(いとくさんやくしいん)は、
『伝教大師最澄が16歳の時、比叡山草創の大願に拠り一刀三礼彫刻された薬師如来が本尊。
本尊は七体の内の一つであったが、比叡山女人禁制を嘆き岐阜県に安置された。
寛喜2年(1230年)、疫病が全土に流行した時、薬師如来が院主の夢に現れ
「一切病苦の衆生、我が前に来たらば諸病悉く除くべきに、来也(こぬか)、来也。」
とのお告げがあった。
感涙した院主が人々に知らしめた処、疾病諸病が忽ち平癒。
これ以降、人々は仏の言葉を仰ぎ奉り「こぬか薬師」と呼ぶようになった。

門前にある由緒記
これを駒札と呼ぶ事を、住職夫人に聞くまで知らなかった。
16世紀に上洛した織田信長が斎藤道三より伝来した薬師如来をこの地に移転。1688年に鉄面禅師が再興し
天台宗から黄檗宗に改宗。現在より数倍の境内を有する禅風寺院として知られたが、幕末蛤御門の変で焼失。
明治21年(1888年)萬福寺塔頭緑樹院の竺丈禅師が近衛・三井家に働きかけ再建に着手。
その際、井戸から大黒様が現れ大黒町となった裏門を正面にした。
以前の表門は薬師町として名を留め、二条通り一帯の薬問屋・漢方薬店が名残を留めている。』
とあります。

東向きの本堂

石の台座にも薬師如来の文字が
以前はこの町内一帯が境内でしたが、今は本堂と庫裏を残すのみ。通りに面した入口から見ると、
少し離れた場所に本堂が建っている様子は裏門だからでしょうか?
参拝を終え御朱印を貰おうと見渡せば、本堂前に書置きの箱が。鎌倉時代の疫病を退散させた薬師様ですが、
令和の舶来の病魔は勝手が違うようです。

格子の間から見た本堂内陣

本堂前に提示してある御朱印あれこれ
早速開けると中身は空。結局ベルを押してお寺の方に書いて頂きました。
書いた後、御本尊にお参りされてから拝受と言う念の入れよう。
夫人;「お前立とは違って、ここの薬師様は10㎝程度の小さな御本尊ですよ。」
和辻;「前の通りは珍しい名前ですね。釜座(かまざ)通でしたっけ?」
夫人;「“かまんざ”と読みます。」
和辻;「お釜でも作っていたのですか?」
夫人;「三条釜座には、室町時代から続く千家十職の釜師・大西清右衛門の工房がありますので。」
和辻;「なるほど、茶道に所縁の通りですね。」
夫人;「通りの向かいには表千家脇宗匠の御自宅がありますし。」
老舗旅館とばかり思っていたのが茶道の脇宗匠の家と知ってびっくり、というよりも納得しました。
無事参拝を終えて次の目的地はと、地図を見ると結構な距離。
車で移動しようかと、周囲を見渡して暫く待ちましたが、結局「来ぬか、タクシー」。
徒歩で御所までのトホホ移動でした。

こぬか薬師御朱印
通称寺で拝受。「不来乎」で「こぬか」と読むらしい。

本堂前から通りを見る
紅葉とホトトギスの脇に手水鉢があり、毛氈を敷いた蓮台がある。ここで一服するのかしらん?

通りを挟んだ向かいにある表千家の脇宗匠の御自宅
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瑠璃光山 利生院 大福寺(天台宗 京都七福神)
この日の午後は大学の近くで開催かれる公開講座に参加予定ですが、午前中は自由時間。
以前、松ヶ崎大黒天で京都には通称寺と呼ばれる寺院が点在する事を教わり、この機会に近場を巡礼。
京阪三条駅から市役所方面に歩き麩屋町通りを北上。二条通を少し上った場所にあるのが大福寺。
麩屋町通りに面して本堂があり、周囲の民家とほぼ変わらない位のこじんまりとしたお寺ですが、
ほてい薬師の通称名で知られています。通常、「ほてい」は布袋ですが、ここでは菩提と書きます。
仏教らしいと言えますが、理由は今一つ分かりませんでした。

薬師さん入口
麩屋町通りの西側に家屋の谷間にある。

本堂正面
瑠璃光山利生院大福寺(るりこうざんりしょういんだいふくじ)は、
『推古天皇の598年、大和国宮田郷に建立。御本尊の菩提薬師如来は聖徳太子の自刻と伝わり秘仏。
京都十二薬師の一つとされる。桓武天皇の794年頃、勅旨に拠って平安京に移転。
方八丁の浄域を賜り七堂伽藍を建立、歴代皇室の崇敬が篤かったと言う。
しかし、天明年間に炎上し、寺域の多くを焼失。今は僅かにその名残を留めるだけである。

由緒記

内陣には入れず、通りに面した外から拝む
御本尊の他に京都七福神の七番になる布袋尊を祀り正月には宝印を授与。
それを出納長に貼ると商売繁盛になるとされ、出納帳を大福帳と呼ぶ様になったのはここに由来する。
また幕末には勤皇の志士、梅田雲浜が仮寓を営み妻を迎えた。』 とあります。
その規模からは想像できないような古刹ですが、通称名が示すように朝廷だけでなく
庶民の信仰に支えられた面も多々あったと思います。参拝は内陣ではなく通りから礼拝。

本堂の屋根に鎮座まします布袋様

本堂脇の案内を通り寺務所へ
御朱印を拝受すべく堂内に入ると直書き御朱印が25種、書置き御朱印が25種。傍らには「千手四十臂」とあります。
「よくもこれだけ!」と感心しましたが、千手観音の腕は通常40本、1本につき25通りの方法で人を救うそうですから、
御朱印もその数だけ用意しているそうです。

受付に展示?してある「書置き御朱印」

ノーマルと見開き

こちらは見開き
目移りするような数ですが、「通称寺の御朱印で。」と御願いすると、ごくノーマルなものを墨書。
値段も¥300円と通常価格。強いて高額なものを勧めないのが好感を持てました。
その代わり、説明付き「通称寺御朱印帳」を¥1000で購入。何でもファイルに御朱印を挟み込む形式だそう。
寺の新旧の変更があるからという理由ですが、従来の蛇腹式に取って代わるでしょうか?
大福寺の法印を授与された店は商売繁盛に繋がるそうですが、御朱印は寺の商売繁盛に繋がっているようでした。

ほてい薬師御朱印

「京の通称寺」御朱印帳

御朱印帳の「ほてい薬師」の頁
シールを¥100で購入して貼付するようになっている。
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【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岐阜(8:53→9:09) → JR美濃太田(9:44→9:56) → (長良川鉄道) → 美濃市(10:27)
駅観光案内所レンタサイクル30分 → 大矢田神社 → レンタサイクル5分 → 道樹寺 → レンタサイクル15分 → 清泰寺 → 美濃街並み → 来昌寺 → 善應寺 → 美濃市駅
【復路】美濃市(16:51) → (長良川鉄道) → 美濃太田(17:22→17:36) → JR岐阜(18:07→18:21) → JR米原(19:09→19:18) → JR大阪(20:42)

慈雲山 善應寺(曹洞宗 中濃西国八十八ヵ所第十六番札所)
陽も西へ傾きかけた頃、この日最後の巡礼に参拝。来昌寺から歩いても5分程の距離ですが、
参道を上ると美濃市街が一望できる山麓にあります。
慈雲山善應寺(じうんざんぜんのうじ)は、
『戦国時代末期に鉈尾山城(今の古城山)の城主であった佐藤氏に仕えていた山田伊右衛門は
関ヶ原の戦いで西軍に付き戦死した主君の菩提を弔うため、元和2年(1616年)に上有知(こうづち)に月鏡庵を開創。

道路沿いに建つ寺標の横の石畳を進む

枝垂れ桜と紅葉の奥にある山門
その後、寛永年間に鈴木与三右衛門が開基となって松森の地に開創。寛文8年(1668年)に
鈴木仏統の尽力に拠り現在地に移転し、月鏡庵と併合して新たに善應寺として開創した。
現在の本尊はその時に造られたものである。延宝5年(1677年)には長霊正鎮和尚を開山として招いている。
歴代住職は現在まで27世を数えるが、十一世・玄透禅師、十七世・禅知和尚は名僧として知られる。

山門近影
かつての寛保4年(1744年)築の山門は老朽化のため平成10年に再建された。

山門に続く鐘楼門
右にあるのは保育園。

境内全景
以前は鬱蒼とした杉木立に囲まれていたが、伊勢湾台風で殆どが倒壊。
本堂脇の桧一本を残すのみになった。
文政12年(1829年)には火災に遭い天保6年に山門・鐘楼門を残して再建された。
尚、山門は寛保4年(1744年)築の山内で最も古い建造物であったが、
傷みが激しく平成10年に新たに再建している。』 とあります。

玄関と本堂

本堂正面

本堂内陣で参拝
参道の石段を経て山門から鐘楼門へと上ると、本堂を正面に庫裏と坐禅堂である円通堂が対峙。
再建とはいえ、300年の禅宗の伝統は伊達ではありません。
唯、台風で古木がないのは寂しく、枯山水の前庭があるだけに残念でした。

円通堂(坐禅堂)
本堂の左手に建つが、余り使用されていない様子であった。

本堂前の枯山水庭園
御朱印を御願いしようと、ベルを押すも返事なし。
山門脇に保育園があったので伺うと、お寺が経営する美濃保育園だそうで、
親切にもお寺の方に連絡して下さいました。その答えは、
保母さん;「先代が先月に亡くなったので、御朱印は書けないそうです。」
和辻;「それは残念。」
保母さん;「でも本堂内に印が置いてあるので、自分で押して頂くのはOKだそうです。」
和辻;「代金はどうしましょう?」
保母さん;「賽銭箱に適当に入れて下さいとの事です。」
と言う遣り取りの後、本堂に参拝して自ら押印。本堂には立派な説明書があったので頂きました。
見本があったのでそれに倣いましたが、こんなことは初めて。
墨書はなしですが、自分で書いた【僕書】で御朱印となるのでしょうか?

善應寺説明書
本堂内陣にて頂く。

説明書にある開基夫妻の肖像画

善應寺御朱印
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長栄山 来昌寺(浄土宗西山禅林寺派 美濃西国三十三ヵ所第三番札所)
大福で一服した後は、うだつの町並みを囲む道路の外にある美濃西国札所へ。
長栄山来昌寺(ちょうえいざんらいしょうじ)は、
『天正2年(1575年)、法空寿養に拠り開山。
金森長近が城下町を整備した際に、町の鬼門除けとして現在地へ移転した。
本堂には多数の鬼瓦が使用されており、魔除けの意味を持つとされる。

陽が西へ傾く頃に到着

山門近影

境内から見た山門
脇には棕櫚と満天星が。11月23日には「どうだんつつじお茶会」が開催される。
本尊は阿弥陀如来だが、眼を守る観音様として柳谷観音、円空作の伝わる聖観音菩薩があり、
多くの参拝者を迎えている。山門前には槍ヶ岳山頂の登頂者として知られる幡隆上人の石碑が建つが、
これは上人が天保2年(1811年)に来寺した際に記したものである。』 とあります。

本堂と枝垂れ桜
柳谷観音様、円空作の聖観世音菩薩像を祀る。

本堂の「長栄山」の扁額と向拝の龍の彫刻

唐破風の玄関
鬼瓦が見下ろすとあるので、怖いお寺を想像しましたが、訪れてみると至って普通の敷居の低いお寺。
円空仏は見られませんでしたが、彼も庶民の目線で多くの仏を彫った人ですから、その意識は共通するものがありました。

塀際にある楠の巨木と紅葉

山門前に建つ幡隆上人の名号石
上人は越中出身の念佛行者で槍ヶ岳初登頂者。この石碑は天保2年(1811年)に来昌寺に招請された際の書を刻したもの。

来昌寺御朱印
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うだつの上がる町並み
清泰寺参拝後は次の札所ですが、美濃市街まで戻ったので、昼食も兼ねて市街地散策。
『美濃は長良川左岸の小倉山城の築城に合わせて造られた城下町。
156号から東側に入った一番町・二番町の二筋の大通りを中核に明治から大正・昭和と拡張された。

二番町通りの南に面する重文・小坂家住宅
安永元年(1772年)頃の尾張藩政下から酒造業を営む。丸みを帯びた「むくり屋根」が特徴。

小坂家住宅のうだつ

同じく二番町通りの古川家住宅
明治初期の建築で、江戸時代は呉服商。現在はそば切り「まる伍」として営業。

古川家住宅説明

古川家のうだつに隣接してうだつを建てた稀有な例
「うだつの上がる町並み」として知られるこの一帯は明治末まで上有知(こうづち)と呼ばれ、
商業の中心地として発展し、現在は重要伝統的建造物群保存地区として今に伝わる。』 とあります。

北に面した鈴木忍家住宅
庇の上にある祠は秋葉様を祀っている。

鈴木家住宅説明

旧今井家住宅
一番町北に面した泉町にある。

今井家玄関
かつての紙問屋で、うだつの上がる家としては市内最大規模。現在は美濃史料館として開館している。
「うだつ(卯建)」は元来火災の際に、隣家からの類焼を防ぐための防壁。
城下町から商家町へと発展した上有知では、次第にこのうだつが防火の機能と共に商人の権威の象徴となり、
商人は競ってうだつを建てるようになったとか。皆に【承認】されたかったのでしょうが、
結構な金額が掛かったようなので、「うだつが上がらない」人も多くいたに違いありません。

旧武藤家住宅
一番町通り南、観光協会番屋の向かいに建つ。金森長近が招いた刀鍛冶が発祥。

旧武藤家説明

武藤家前にある馬繋石

一番町通り南の卯建連棟家屋

北側の家は美濃和紙アートを展示

一番町通りを望む

うだつ連棟の近影

旧武藤家の脇から東方面を見る
このような繁栄の源になったのは美濃和紙。良質の原料が周囲にある上に、清流にも恵まれました。
紙漉きには清水は不可欠ですが、周囲の河川はその輸送にも恩恵を与えました。
現存する最古の美濃和紙は702年の正倉院所蔵の断簡。
これは揖斐川流域ですが平安時代には美濃周辺に移動。
板取川の中濃地区は土岐氏の奨励もあって和紙作りが発達。
大矢田地区には定期市も立ち、美濃和紙の名は全国的になります。

番屋から156号線に抜ける細道
老舗旅館や和菓子店が並ぶ。

老舗和菓子店

旧須田邸
156号を渡った場所にある旧家。

須田家説明

雁行する三棟が並ぶ須田家
江戸時代には障子紙・書院紙・小菊紙等、多種の和紙を生産し、徳川幕府に御用和紙として納めたと言います。
和紙を中間的に商う商人が出現するものこの頃。
明治以降は衰頽すると思いきや、いち早く海外貿易に目を向け販路を拡大しています。

一番町通りの大石家
今は大石華表堂として営業。

技巧を凝らした大石家うだつ

隣接する「美濃だんご あかり」
私たちには和紙と言えば障子と書道くらいしか浮かびませんが、洋紙の寿命が100年とされるのに比べ、
和紙の寿命は千年以上。その丈夫で長持ちする点が最大のメリットだったと思います。
いくら良いものであっても売れなければ金になりませんから、紙を扱う人々が常に先を見ていた事が
今に続く発展の基礎。紙は漉いても隙は見せなかった事に尽きましょうか?

西尾家住宅
現在は「茶房とみや」として営業。

西尾家説明

茶房一押しの「クリームわらび大福」で一服

駅に帰る途中の「此の花亭」

「たらちね」が売り切れだったので、こちらを土産に

美濃郵便局 ; 美濃紙、紙漉き風景、花御輿、奥長良峡
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知りたい、歩きたい! 美しい「日本の町並み」: この国の「原風景」に戻れる場所 (知的生きかた文庫) 新品価格 | ![]() |

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駅観光案内所レンタサイクル30分 → 大矢田神社 → レンタサイクル5分 → 道樹寺 → レンタサイクル15分 → 清泰寺

安住山 清泰寺(臨済宗妙心寺派 中濃西国八十八ヵ所第三十九番札所)
道樹寺の後は長良川を渡り美濃市街地へ戻る事に。
うだつの町並みの手前で、156号から長良川方面に少し入った所にあるのが金森家菩提寺。
入口から真っすぐな参道を進み左折すると右手に見えるのが三門。
瓦を塗り込んだ土塀の下には石垣がありますが、これはかつての城郭の一部で野面積みと呼ばれるもの。
境内全体が城塞のように見えるのもそのためでしょうか?

ここは駐車場入口

徒歩の参拝者は駐車場北の参道を進む

瓦を塗り込めた築地塀とその下の野面積石垣
確かに城塞の様な造りである。

石段を上り山門へ
安住山清泰寺(あんじゅうさんせいたいじ)は、
『永禄6年(1563年)、大圭紹琢禅師が保寧寺として開山。その後、美濃国の有力大名に拠り以安寺と改称。
更に関ヶ原の戦いの後、東軍に属し戦功のあった小倉山城主・金森長近が
前領主・佐藤秀方の菩提寺であった以安寺を城郭内であった現在地に移転。
妙心寺派僧・鉄松和尚を開山として安住山清泰寺と改称し金森家菩提寺とした。

山門の先にある瓦を用いたモニュメント?

由緒記

山門の左に進むと金森長近公を祀る社に

長近公を祀る社

社参道と土塀の間の紅葉

社参道右手にある勅使門(唐門)

書院入口から山門を見返る
本堂の建築様式は京都風の一流寺院形式で、美濃国禅宗を代表する建築。
江戸時代には尾張徳川家の崇敬も篤く、この地域では最高の寺格を有した。
「宗門改め」に際しては各村に一寺が望まれたが、清泰寺住職が開山となって建立した寺院は二十ヵ寺以上に及ぶ。
また歴代住職からは空印・無学など本山妙心寺に出世した高僧も輩出した。

勅使門を囲む塀の内側にて

本堂正面

本堂前の扁額「安住山」と「清泰寺」

書院入口から本堂内陣へ

書院の龍の襖絵

本堂内陣前の様子

本堂前から勅使門と巨樹を望む
金森宗和が作庭した庭は背後の斜面を取入れた作庭で美濃市の名勝。
苔生した参道から続く土塀、唐門、本堂は街中にあって静寂の佇まいを漂わせている。』 とあります。
同じ禅宗寺院とはいえ、先程の道樹寺に比べると幽邃の地。
午前に訪れた大矢田神社は美濃の紅葉の名所でしたが、ここ清泰寺の紅葉も見応え十分。
【生態】系を活かした庭といえるでしょう。巨樹に囲まれた事、元城郭で高台にある事に加えて、
文化人でもあった金森長近が関わった事。それらの【宗和】と言えそうです。

本堂左手の霊光殿
この奥に歴代藩主の墓がある。

山門脇にある鐘楼

山門の外側に建つ弘法堂

弘法堂に隣接する「やすらぎ地蔵尊」

清泰寺御朱印
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【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岐阜(8:53→9:09) → JR美濃太田(9:44→9:56) → (長良川鉄道) → 美濃市(10:27)
駅観光案内所レンタサイクル30分 → 大矢田神社 → レンタサイクル5分 → 道樹寺

大仙山 道樹寺(臨済宗妙心寺派)
大矢田神社参拝後、道路を南下すると右手に案内が見えたので、それに従って進みましたが、
道が曲がっていたので、結局元の方面へ戻る事に。
案内は自動車用だったようで、自転車や徒歩ならば脇道から入れました。
門前に立つと、真っすぐ伸びた先に寺標と山門が。

南側の駐車場から続く参道

山門の奥に続く紅葉の参道
扁額は「大仙山」。
大仙山道樹寺(だいせんざんどうじゅじ)は、
『天正3年(1575年)に景聡(けいそう)が創建した臨済宗妙心寺派寺院。美濃市内では長蔵寺に次ぐ古刹である。
景聡禅師は伊勢の江南、尾張の南凕と並んで中部地域では三本の指に数えられる高僧。
景聡は寺内に手ずから菩提樹(道の樹)を4本植えた事で寺号を道樹寺とした。

瓦が埋め込まれた築地塀

白壁越しに見る本堂屋根

本堂への参道は上下共に紅葉

書院から山門を振り返る
禅師の元には常時100名を越える修行者が参集し修行を重ね、多くは近隣寺院の開祖となる。
美濃の禅宗興隆に寄与する所大であった。
本堂内の阿弥陀如来坐像は室町時代の作、阿弥陀如来立像・開山景聡の木像は江戸時代の作とされる。
明和7年(1770年)の大火で本堂が焼失したが6年後に再建され現在に至っている。』 とあります。

境内にて

本堂正面
内陣で参拝可能。

玄関と手前にある水琴窟

玄関から前庭と本堂を望む
市内では二番目の古刹とありますが、大火の後の再建なのでそれほど古い感じはしません。
それよりも周辺が人家や畑などの平地で巨樹がなく、日の光が境内に満ちているのが大きな理由でしょう。
再建された本堂を始め、玄関先の庭、水琴窟、白蓮池など全て整然と造られた感がありました。

本堂西側にある白蓮池

境内の西端にある放生池

境内北側にある開山・景聡禅師の墓
御朱印を御願いすると、「本堂の中に書置きがございますので」との事。
御本尊を拝観してから見回すと、箱の中に3種類の御朱印が。全て同じ内容ですが、大きさ違い。
27年間でこのような事は初めての体験。御朱印帳の大きさはまちまちなのでサイズの合うものをとの心遣いなのでしょう。

楞厳塔(経塚)

中門前の紅葉

本堂内陣にある書置き御朱印の3タイプ
右端を¥300で購入した。
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駅観光案内所レンタサイクル30分 → 大矢田神社

大矢田神社(金弊社 旧郷社)
美濃市駅でレンタサイクルを借りたら、先ず真っ先に天王山の麓へ。
駅からは6㎞程北西にありますが、楓谷の名前の通りヤマモミジの樹林が広がる美濃一帯の紅葉の名所。
駅から南下した後、西向きに長良川に架かる山崎大橋を渡り道標のある交差点を北上。
途中、拝殿がありましたが、よく見ると遥拝所。神社は未だ遠いので、ここで参拝して帰る人も多いのでしょう。
更に道が行き止まりになるまで北上。
山麓と聞きましたが、傾斜は殆ど気にならず、鳥居前まで自転車で行く事ができました。

94号線沿いに建つ道標
ここから北上する。

道標から少し行った場所には遥拝所が鎮座
大矢田神社(おやだじんじゃ)の御由緒に拠れば、
『第七代孝霊天皇の御代の創建。その後、元正天皇の養老2年(718年)、泰澄大師が天王山一山を開基。
天王山禅定寺と称し、七堂伽藍を建立し神仏混淆にて栄え、御社頭を牛頭天王社と称した。
しかし後奈良天皇の弘治2年(1556年)に兵火に遭い全山焼失。霊元天皇の寛文12年(1672年)に御本殿が再建された。
その後の禅定寺は次第に衰微し、常泉坊、極楽坊の二坊となる。
明治維新の神仏分離の大命に拠り仏堂を廃し、旧牛頭天王社を大矢田神社と改称、明治6年(1873年)に郷社に列せられた。

道路の行き止まりに建つ一の鳥居

御由緒

享保8年(1723年)再建の楼門
桁行三間八尺、梁行二間二尺、入母屋造檜皮葺。

楼門の「大矢田神社」の扁額と垂木

楼門から延びる参道
昭和20年12月にGHQの指令で神道に対する政府の保証は廃止されるが、昭和27年には
華堂・喪山天・青柳の諸神社を吸収合併、新たな宗教法人・大矢田神社を設立した。
室町時代から続く神事「ひんここ祭」は農民を妨害する大蛇と櫛稲田姫を食害する龍を
須佐之男命が退治するという五穀豊穣の祭で、無形文化財に指定されている。

参道に架かる神橋
この下を流れる川が俗界と浄界を隔てている。

横から見た神橋

太鼓橋を過ぎ境内まで234の石段を登る

木立の向こうに見える拝殿

石段左にある直毘の滝と神奈備池

境内に到着
神社の境内一帯の楓谷の山林には約3000本の天然の山もみじ樹林が繁り、天然記念物に指定されている。
天王山登山道の中腹には「下照もみじ」と呼ばれる樹齢500年の大もみじがあり、
その種が谷一帯に広がったとされる。』 とあります。

重要文化財の拝殿
寛文11年(1671年)の再建。

拝殿前の狛犬

重要文化財の御本殿
寛文12年(1672年)に禅定寺釈迦堂跡に再建された。桁行四間八尺、梁行三間三尺、流造檜皮葺正面庇付。

社務所前から石段方面を望む

境内にある伊勢神宮遥拝所

社務所前に置かれた「ひんここ祭」の人形
但し、2020年度は中止となった。

大矢田神社御由緒

大矢田神社御朱印
開山は白山開基で有名な泰澄大師。飛騨山系の南端に属する天王山の麓に開創したのは、
泰澄自身の山を見る目が確かだった証左と言えます。元は神仏習合でしたが明治以降は神社格。
しかし楼門初め習合時代の遺構が残り、周囲の地勢と相俟って昼間でも【幽谷】の雰囲気を漂わせます。
今年は「ひんここ祭」は中止。訊くところでは紅葉も10日程前がピークだったようで、少しディオクレティアヌス帝。
それでも紅葉の絨毯を踏みしめながら本殿への参拝できたのは僥倖でした。

境内から「もみじ谷」方面を望む

もみじ谷への道を進む
右上は社務所。

もみじ谷へ

谷に散り敷く紅葉
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旧名鉄 美濃駅舎
ほぼ紅葉も最後になる霜月の最終週は美濃市内へと巡礼。
岐阜県の旧国名の美濃と飛騨になっている由緒ある名前ですが県庁からは少し遠い。
公共交通機関利用では、JR岐阜から高山線で美濃太田まで出て長良川鉄道に乗換と大回り。
途中の関までは岐阜駅前から30分毎にバスがありますが、美濃までは行きません。

長良川鉄道 美濃太田駅ホームにて

券売機故障のためこのような切符に

長良川鉄道 美濃市駅前にて

文化財に指定の美濃市駅舎

駅前の案内
右にあるのは屋根を葺く茅で、和紙の原料ではない。
それでもかつては名鉄で岐阜市内の徹明町から美濃まで24.8㎞の美濃町線がありました。
路面電車いわゆるチンチン電車ですが、明治44年(1911年)に美濃電気鉄道として開業しています。
その後、大正12年(1923年)の越美南線の開通と共に駅も移転。
しかし1999年に新関~美濃間6.3㎞が廃止。2005年には徹明町~新関間の18.8㎞が廃止となりました。
廃止の理由は様々でしょうが、郊外から岐阜市内に入ると交通渋滞のため時間がかかったのも一因。
かつて岐阜から谷汲まで同じく路面電車に乗った際、帰りにえらく時間が掛かった記憶が蘇りました。
尚、1993年当時、徹明町から美濃までの所用時間は67分、運賃は¥540とあります。

旧名鉄 美濃駅舎
大正レトロな雰囲気。

構内には線路とかつての列車が展示中

谷汲行きで乗ったのは右の赤いタイプ
こうして路線は無くなりましたが、伝統を感じる造りの美濃駅舎は現存し文化財になっています。
ホームにはかつての車両が展示され無料で見学可能。ふと見ると、一角に新御三家の野口五郎さんのポスターが。
何でも美濃市出身だそうで、地元でもコンサートをされている様子でした。
越美南線も第三セクターになったので、美濃は文字通り「私鉄沿線」の町。
ですが「改札口で君の事をずっと待った」というのは少し閑散とした雰囲気。やはり町中のイメージでしょうか?

改札口ならぬ道路から見た構内

『私鉄沿線』の歌碑
歌手生活50周年かしらん?尚、作曲はお兄さんだそう。

若い頃のポスターも展示
そういえば、美濃の中心は駅前から1㎞程西へ進んだ場所。なぜかと言えば、
長良川の水運で発展した町なので、便利なように川の傍に町が発展しました。
上有知(こうずち)と呼ばれるこの辺りは金森長近が開いた川湊。江戸中期に建てられた珍しい川湊灯台も現存しています。
美濃和紙を大垣、桑名に運ぶなど美濃に鉄道が開通する明治44年まで文字通り「長良川の駅」として賑わいました。
大正になって水運は【衰運】に向かいますが、川から離れた場所に造られた駅は発展には余り寄与しなかったのかもしれません。
「郷に入っては郷に従え」と言うのが【さいじょう】の遣り方だと言ったら五郎さんはムッとされるかしらん?

上有知湊跡

川湊灯台
高さ9mの木像で県の重要文化財。今でも夜には灯が入る。

湊跡説明

川湊の上流にある美濃橋
日本に残る最古の近代吊り橋として重要文化財に指定されている。
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<コース> 快速は30分間隔、可部線は20分間隔で運転、呉線は30分間隔で運転
JR岩国(9:05) → (山陽本線 快速) → JR横川(9:47→9:54) → (可部線) → JR三滝(9:56) → 徒歩15分 → 三滝観音 → JR三滝(11:36) → JR広島(11:44→12:00) → (呉線 快速) → JR呉(12:33) → 徒歩10分 → 入船山公園

旧高島砲台火薬庫(1号館)
明治35年(1902年)に音戸の瀬戸に近い休山に建設されたもので、総石造りの火薬庫は全国的にも稀。
昼からは一足伸ばして呉まで。歴史上、呉の最初の発展に寄与したのは平清盛ですが、大きく飛躍したのは明治時代。
近代国家としての海防力を備えるため、明治政府は横須賀・舞鶴・佐世保と並んで鎮守府を設置。
当時の先端技術を集めた種々の施設が作られました。

入口に建つ旧呉海軍工廠塔時計

時計説明
1日に4回流れるメロディーは市内の小中学生の作曲したもの。
今に残る遺構には現役で稼働する施設もあり、往時の面影を残す町は日本遺産となっています。
その中でも、入船山記念館は旧海軍の資料等を保存するため昭和42年(1967年)に開設。
時計台、住宅離れが園内に点在し、近代日本の歴史を肌で感じます。

番兵塔

番兵塔説明
ここもカレーが町おこし。海軍では航海中に曜日感覚を忘れない様に、金曜日のメニューをカレーにした事に由来するのでしょう。
駅近にもあったので、ホテルの朝食以外では三日目にして初めて食堂で食事できました。
市内ではガイドブックも作って居り30店舗が登録。山奥や離島もありますが結構人気があるようです。
食事をするとシールが貰えて、シールの数に応じて景品が。コンプリートすれば、海軍自衛隊の食事で使用する
「テッパン」が貰えるとか?個人的にはカレーが1回分無料で食べられる方が魅力的ですが…。
ここでの呼び名は「海自カレー」ですが、【盆カレー】もあるくらいですから【暮れ】カレーにしても良いとは思いますが、
ククレカレーとの商標もあるのでしょうか?

ボランティアガイド詰所

旧呉鎮守府司令長官官舎

官舎説明

旧東郷家住宅離れ
東郷平八郎が呉鎮守府参謀長として在任中に住んだ家の離れ座敷。現在は休憩所となっている。
所用を済ませ帰路につきましたが、海田市の信号機故障で運転見合わせ。
1時間待ってようやく動きましたが、2駅進んだところでまたも運転見合わせ。
なんでも故障原因が分からず、復旧見込みは17時過ぎとか。
慌てて下車して路線バスで呉まで戻り、広島行き高速バスに乗り最後は広電で駅に到着。
結局予定よりも2時間遅れでしたが、新幹線が遅れた訳ではないので払い戻しは一切なし。
鉄道旅の〆はバス旅でしたが、太川&蛭子さんの苦労が身に沁みました。
私の後ろには待ち人が【ルイルイ】と列をなしていたのは言うまでもありませんが…。

呉市マンホール蓋(その1)

呉市マンホール蓋(その2)

呉市マンホール蓋(その3)

呉市マンホールカード 配布場所はこちら

駅近の「りゅう」にてソードドラゴンカレー ¥950
鶏ガラと香草のブイヨンがベースのシーフードカレー。器は潜水艦けんりゅう。

海自カレー ガイドブック
シールを集めてテッパンを貰える。
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<コース> 快速は30分間隔、可部線は20分間隔で運転
JR岩国(9:05) → (山陽本線 快速) → JR横川(9:47→9:54) → (可部線) → JR三滝(9:56) → 徒歩15分 → 三滝観音 → JR三滝(11:36) → JR広島(11:44)

龍泉山 三瀧寺(高野山真言宗 中国観音霊場第十三番札所)
錦帯橋を見た後は岩国駅へ戻り9時過ぎには広島へ向けて出発。
この時期の広島の紅葉は宮島ですが混みそうなのでスルー。山陽本線横川駅から可部線で一駅の三滝で下車。
横川駅から歩いてもさして距離はありませんが、無人とはいえ、ここに駅があるのは中国観音霊場の三瀧寺があるから。
駅から徒歩10分でここも広島市内ですが、山間にへばりつくように堂宇が並んでいます。
【かべ】線だからでしょうか、寺名の通り三滝が落ちており滝を御神体として崇めたのでしょう。

駅から西に進むと参道に出る

入口に到着
山全体が境内のような感じなので大きな山門はなし。この階段を上って進む。

入口左にある茶店
休憩所を兼ねており紅葉谷を眺めながら食事ができる。

先ず正面に現れる観音堂
龍泉山三瀧寺(りゅうせんざんみたきでら)は
『大同4年(809年)、入唐留学から帰朝した空海が都へ上る途中、この地を訪れ「末世有縁の地なり」と
聖観世音菩薩の種字(梵字)を石に彫刻。滝の飛沫のかかる岩窟に安置したことに始まる。
現在、本堂内の厨子に秘仏として祀られているのがこの種字石である。

多宝塔
観音堂から右の高台に建つ。昭和26年に和歌山より移築された。

多宝塔説明

多宝塔からの眺め
参道の奥は茶店。

祖師之庭
観音堂から左に参道を進んだ所にある。空海・法然・親鸞・日蓮だったか?

駒ヵ瀧
祖師之庭の奥にあり、三瀧の中では最も低い場所にある。
三滝山の前側に二つの山があるため山裾が広がらず、その場所には谷筋が四つ集まっており、
そのうち三つに滝があるのでそれが名前の由来となった。
昔は「三瀧山龍泉寺」と称していたが、三瀧観音と言う通称で呼ばれる事が多く、
明治以降の住職が「三瀧寺」と呼ぶ様になり今の名前に定着したとされる。

駒ヵ瀧から参道へ戻る途中にある十三重石塔

参道の向こうに見える鐘楼

龍神堂

十六羅漢

参道脇の歌碑と茶堂
ここから参道は右に曲がり上りがきつくなる。

休憩所兼喫茶の茶堂

茶堂の内部
但し、ここでは休憩は駄目?

長椅子から「補陀落の庭」と「梵音の滝」を眺める

三瀧の二番目、梵音の瀧

補陀落の庭と参道

抹茶セット
以来、1200年に亘り観音様霊場として法灯を伝え、鎌倉以降は安芸国守護・武田氏の庇護の元、寺運は興隆。
室町時代に建立された旧本堂も武田氏に拠ると考えられている。
かつてはいくつもの堂塔を構え、多くの修行僧が滝に打たれ岩窟で禅定に入る修行を行ったが、
戦乱と水難に拠って多くの堂塔を失い、一時期は市中寺院の奥の院として辛うじて命脈を保った時期もあったと言う。

茶堂の向かいに建つ本坊

参道より補陀落の庭を見下ろす

石段の先に見える本堂

参道より本堂を見上げる

正面から見た本堂
これも懸造りの一種か?
昭和20年の原爆投下の際には爆心地から3㎞という距離にも拘らず、谷底にあると言う位置が幸いし殆ど無傷。
そのため当寺が臨時救護所となった。参道脇には亡くなった方の墓碑もあり、また境内入口の上に建つ多宝塔は、
和歌山県の広八幡神社にあったものを原爆死没者慰霊のために移築したものである。
市内からは程近い場所にも拘らず、境内は深山幽谷の趣があり、市民にとっては心安らぐ場所。
また宮島と並ぶ紅葉の名所となっている。』 とあります。

いよいよ本堂へ参拝

本堂内陣の仁王像

本堂を過ぎた場所にある石像群

本堂より見た三鬼権現堂

三鬼権現堂近影

権現堂から見た本堂

本堂脇を抜け更に上を目指す
尚、この滝は三瀧ではない。
政令指定都市中心から僅か4㎞の場所に、このような幽谷の地があるとは驚きですが、
地形的に原爆の被害を受けなかったのも奇跡的。これも観音様の御利益でしょうか?
広い境内に堂宇が散在するのと異なり、堂宇を辿りながら山奥に至るという山岳信仰の寺。
大阪で言えば犬鳴山に似ている気がしました。

参道より見た本堂屋根

ようやく終点に到着

最も高所にある三瀧「幽明の瀧」

瀧の向かいにある鎮守堂

鎮守堂から見た本堂の屋根

三滝観音御朱印
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不動山 永興寺(臨済宗天竜寺派 別格地)
洞泉寺参拝後は手前に隣接する寺院へ。山門の雰囲気は如何にも由緒がありそうでしたが、
ガイドには何も載っていないのが不思議でした。

山門前の白壁と紅葉と不動明王石像

山門近影
不動山永興寺(ふどうさんようこうじ)は、
『延徳2年(1309年)、後嵯峨天皇皇子の仏国国師を開山として守護大内弘幸に拠って創建。
弘幸の子の弘世は父の菩提を弔うために七堂伽藍を整備し寺領も広げた。
室町幕府から官寺として認可されるなど格式の高い寺として知られた。
大内氏に謀反した陶晴賢は永興寺を陣屋として厳島に出陣。毛利元就に敗れるが、
元就もここを宿陣として周防を平定するなど、手厚い保護を受けた。

山門の彫刻は大内菱?

由緒記
しかし関ケ原の戦いで状況は一変。慶長5年にこの地へ入った吉川広家は、この一帯に上屋敷を建設するため
永興寺の居館の解体や境内要地の転用を実施、寺は廃寺同然となる。
しかし慶長の末、周伯玄雍が寺の再興を広家に懇願し、漸く元和2年に再興。
江戸時代には多くの名僧を招き文化発展に寄与した。

新薬師堂
山門を過ぎた直ぐ見出手に建つ。これは駐車場からの眺め。

新薬師堂近影
市内にあった瑞光寺の薬師如来坐像と十二神将立像を安置している。

新薬師堂の「不動山」の扁額

新薬師堂前の枯山水庭園
但し、これは夢窓疎石の庭ではない。

枯山水庭園近影
明治に入り廃仏毀釈の影響で再び伽藍は縮小されたが、新薬師堂の建設や枯山水庭園の文化財指定もあり
着実な歩みを見せている。
裏庭にあるのが夢窓疎石の作庭とされる枯山水庭園。城山を借景とし自然の岩肌を涸れ滝に見立て、
鯉の滝登りを表現するなど、巧みな作庭技術が随所に見られる。』 とあります。

山門から続く紅葉の参道

案内書ではこれが本堂に当たる
現在もそうですが、岩国は芸防国境に位置する要衝。大内氏がここを重視して菩提寺を軍事的要衝として築いたのも当然。
文治派のイメージが強い大内氏ですが、中国六か国の太守となるために軍事的な手腕も不可欠でした。
かつての永興寺の中心地は現在の吉香神社。神社には歴代岩国藩主が祀られています。
今の場所は公園の西端、神社は東端ですから相当な広さを有していたのが分かります。

文化財指定・枯山水庭園
本堂前庭からの眺め。夢窓疎石の作庭であるが、修復を経ている。

西側から見た庭園

庭園を抜ける小径から
手前の石組みが鯉の滝登りを表現しているか?

庭園に続く西側は苔の絨毯

庭園奥に散り敷く紅葉

庭園の背後の城山
ここを借景として作庭された。
それよりもこのような都から離れた場所に夢窓疎石の庭がある事が驚き。
京の都に憧れた大内弘世が招いたのかどうかは知りませんが、疎石自身が永興寺の二世となっている事から、
この地が特別な意味を持った場所であった事は確実。天竜寺派別格地と言うのも伊達ではありません。
その他、慶應2年(1866年)に廃寺となった市内の瑞光寺から薬師如来坐像と眷族の十二神将像を移して薬師堂に安置。
常時拝観はできませんが薬師如来像は仏師快慶の手になるとも伝わる逸品。
仏像や庭園を護ったという文化財的な面からも大いに感謝すべきでしょうね。

西端に建つ霊光殿(位牌堂)

正面から見た霊光殿

白壁の向こうには洞泉寺が見える

永興寺説明書
正しくは永代供養 御位牌堂のご案内だが、縁起・見所など詳細に記載している。

永興寺御朱印
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盤目山 洞泉寺(曹洞宗)
吉香(きっこう)公園を一周して建造物、四季の草木に接しました。
6万石の吉川家の邸宅の広大さにも驚きですが、明治以降そこを市民一般に開放した度量も大したもの。
しかも入園は無料。明治維新を主導した長州藩の支藩だったという点もありますが、市民は恵まれたと言えそうです。
その奥にあるのが紅葉谷公園。かつては七ヵ寺が建ち寺谷と呼ばれていましたが、今は二ヵ寺のみ。
その最も奥にあるのが洞泉寺。

白壁沿いを紅葉谷へ

寺院横の道から公園方面を見る

紅葉谷から白壁を見る

紅葉越しに見える洞泉寺

紅葉と苔の絨毯

楓と杉苔と椎の実

谷の奥は紅葉から黄葉へ
盤目山洞泉寺(ばんもくさんとうせんじ)は、
『宝徳2年(1450年)、安芸の国人領主であった吉川経信が、芸州新庄の山中の盤の目と言う所に建てた
釈迦牟尼仏を本尊とする洞仙寺が嚆矢。無聞声音を開山とした。
寺は山県郡大朝新庄の小倉山城の鬼門に当り、吉川氏歴代の菩提寺であった。

紅葉谷から見た寺院遠景

入口に建つ寺標

由緒記
慶長8年(1603年)、毛利氏の減封に伴いここ岩国横山に移転。
それ以降、洞泉寺の文字が用いられるようになった。
藩政時代には歴代藩主の菩提寺となり、岩国五山の筆頭寺院。
領内第一の大寺として歴代住職には名僧が選ばれ、上下の尊信を集めた。
寺域内には吉川家墓所があり、また門前の「臥龍の梅」は樹齢300年。
春には開花して訪れる人の眼を楽しませる。』 とあります。

参道脇にある梅樹

門前にある樹齢300年の臥龍梅

山門前にて

山門扉の獅子の透かし彫り
岩国五山の筆頭とありますが、寺域はそれほど広大な印象はなし。
由緒記には記載ありませんが、明治初期の廃仏毀釈が影を落としている気がします。
寺域が縮小したのは時代の流れとも言えますが廃寺にならなかったのは努力の賜物。
それでも格式の高さを感じさせる寺院で、【臥龍】点睛を欠かなかったのは何よりでした。
特に白壁と紅葉のコントラストは見応えがありました。まさに早起きは【山門】の得です。

本堂正面

本堂の「盤目山」の扁額

洞泉寺御朱印 (平成6年拝受)

吉川家墓所
紅葉谷の手前にある。

歴代藩主の墓
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五連の反り橋 錦帯橋
西方巡礼の三日目は周防から安芸へ。前日に宿泊先の岩国に着いたのは22時前でしたが、
どうせなら錦帯橋も見ようと6時起床。橋を渡るのは9時過ぎからと思っていましたが、
行ってみると一日中渡ることが可能と判明。早速錦川を渡って散策。

朝日に映える錦帯橋

足元に気を付けて対岸へ
山口県の東端にある岩国は、古く萬葉集に「石国」「磐国」の名で登場。
平安末期の岩国氏、室町期には大内家臣の弘中氏、そして毛利元就の支配に続いて、関ヶ原の合戦の後、
吉川広家が出雲月山富田12万石から3万石で入部。小早川氏と共に毛利両川と呼ばれた吉川氏ですが、
小早川氏が早々と断絶したのに対し吉川家は幕末まで続きます。毛利家の支藩としての悲哀も辿ったようですが、
殖産興業や学問振興で後には6万石、実質は10万石越えとも言われる程になりました。

橋上からの岩国城遠望

対岸にあるソフトクリームの店「むさし」
種類の多さからTV等でよく見かけるが開店前。

吉川広嘉公の像
公園入口に建つ。
『城下町を流れる清流錦川は、何度も橋を架けても増水時に流出。3代藩主吉川広嘉公はそれを憂い
全国から情報を収集。その結果、甲州街道の渓谷に架かる橋柱のない「猿橋」の存在を知る。
その頃、広嘉は明国からの帰化僧で医師でもあった独立(どくりゅう)の治療を受けていたが、
彼の所持する「西湖遊覧誌」に湖に点在する島伝いに石橋が架かる挿図を見て、錦帯橋の着想を得たと言う。

吉香公園内を散策

香川家長屋門
元禄6年(1693年)の築。

長屋門説明

紅葉と榧の木
そして努力の末、延宝元年(1673年)に遂に希代の名橋は完成。当初は「五龍橋」「城門橋」
「龍雲橋」等と呼ばれたが、宝永年間(1704年)以降「錦帯橋」の呼び名が定着した。
その後、橋は人々の足としての機能を果たすが、昭和25年のキジヤ台風で惜しくも流出。
しかし276年間も風雪に耐えた名橋であることに変わりはない。今の橋は昭和28年に再建。
巻金と鎹以外は釘を1本も使用していないその優美な姿を今に伝えている。』 とあります。

公園内には旧岩国中学校・岩国高校の跡地も

吉川家資料館
手前にあるのは吉香花菖蒲園である。

堀の向こうに建つ錦雲閣
明治18年(1885年)に建てられた絵馬堂で、藩政時代にここにあった南矢倉を模したとされる。

吉香 鵜の里
錦川の鵜飼で使われる鵜の飼育施設。

公園内にある「実験橋」
錦帯橋が風雪でどのように劣化するか等を調べるための設備。
日光の神橋、甲斐の猿橋と並ぶ、日本三名橋ですが、観光客の数では錦帯橋が群を抜いています。
それにも増してそのいわくに驚き。
まさに「錦帯橋を見ずして岩国を語る勿れ」ですが、ここは吉川家の城下町でもあります。城は遥か山の頂に。
太平の世に山城も不要とは思いますが、これは月山富田城に居た影響でしょうか?

地元出身の田島直人氏の立志の碑
ベルリン五輪三段跳びで世界新記録16.00mで金メダル、この記録は戦後まで破られなかった。走り幅跳びでも銅を獲得した。

錦帯橋遠望
陽も大分高くなってきた。

観光交流所「本家 松がね」
江戸時代の商家を改造。かつては鬢付油『松金油』を売っていた。

「松がね」での五つの酒蔵展示
流石に獺祭の本場だけの事はある!
岩国城の建つ城山から麓にかけては藩主・吉川氏の邸宅跡。今は藩主と家老・香川氏の名を採って
吉香(きっこう)公園となり、家老長屋門や武家屋敷が残ります。岩国は錦帯橋だけと思っていましたが、
街並みも十分【きっこう】しているようでした。

岩国市マンホール蓋

岩国市マンホールカード 配布場所は『本家 松がね』
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JR浜田(8:00) → JR江津(8:25) → 徒歩10分 → 江津本町 → JR江津(9:23) → JR益田(10:44) → 観光協会レンタサイクル10分 → 医光寺 → 萬福寺 → JR益田(13:06) → JR津和野(13:37) → 津和野町並み → 弥栄神社 → 太鼓谷稲成神社 → 永明寺 → JR津和野(16:55) → JR新山口(18:51)

覚皇山 永明寺(曹洞宗)
パワースポットに参拝の後は、津和野の巡礼先の永明寺へ。
途中、線路を越えますが、遮断機が下りたままで、周囲には人だかり。
暫くするとSL山口号が駅から踏切へ向かい、バックして駅に戻るところでした。

踏切にてSLやまぐち号に遭遇
かつては貴婦人と呼ばれたC57型だったが、老朽化のためD51に交代。そのため車輪は3から4になった。
そのまま線路を越えて坂を上ると目的の寺院。町内では紅葉の名所としても有名です。
拙い記憶に拠れば、26年前の津和野訪問では訪れた寺社はここ一ヵ所。
街並みの散策に集中した事もありますが、ガイドに掲載されていたのがここだけだったのがその理由です。

寺標を抜け参道を進む

紅葉散り敷く参道

木々の先に山門が建つ
覚皇山永明寺(かくおうざんようめいじ)は、
『応永27年(1420年)、津和野城主であった吉見頼弘が創建したもので、曹洞宗の道元禅師の法孫月因和尚を開山とした。
以来、藩主は吉見氏、坂崎氏、亀井氏と移り変わったが、歴代津和野藩主の菩提寺として繁栄。
江戸時代には石見国一円の禅寺を統括して末寺七十余を擁し、加えて禅道場として雲水も二百人を越え、
寺領として虹ヵ谷村で百石を領していた。

深い木々に囲まれた山門

山門下から参道を振り返る

山門を過ぎて見る境内
中門、本堂、鐘楼が一望できるが、生憎改修中。
当寺は度々火災に遭い、現在のものは享保14年(1729年)の建築。仮普請のままながら畳数四百枚を数える巨刹である。
山門は殿町にあった町門を移築したもので、扁額「覚皇山」は明からの帰化僧心越禅師の揮毫である。
羅漢・涅槃像や藩主の木像、開祖の真筆など寺宝も多い。
殿様御成りの間からの庭園は明治の造園であるが、幽邃な中に四季折々の風情を楽しむことができる。
境内には森鴎外、坂崎出羽守の墓もあり、春の石楠花、秋の紅葉が趣を添える。』 とあります。

中門より見た茅葺の本堂

鐘楼の下をくぐり拝観受付へ

本堂前より中門方面を見る
中庭の綺麗な造りだが、改装中のため残念。

由緒記
吉見・坂崎・亀井氏の歴代藩主の菩提寺ですが、森鴎外の墓があることでも有名。唯、墓石には「森林太郎」とあるのみ。
政治的には陸軍軍医総監まで上り詰め、明治を代表する文豪として名を成した人物にしては余りにも簡素です。
医者でもあった鴎外には死ねば皆同じという意識であったのでしょう。藩主であった坂崎出羽守の墓石にも
「坂崎」と刻まれているだけだそう。生前の功績を考えると却って好感が持てます。

書院の部屋(御成りの間)にて
ここから庭園を眺める事ができる

部屋の襖絵(実際は板に描いてある)

襖絵

縁側からの庭園の眺め
改修中でもその幽邃な雰囲気は十分伝わる。

正面から見た庭園
26年前、御朱印を御願いすると対応されたのが94歳の女性であったのは鮮明に覚えていますが、庭や堂宇の印象は今一つ。
26年前に御朱印を書いて頂いた方は亡くなったそうですが、今回拝受したのはまた違った形式。
四半世紀の時の流れを実感することになりました。
今回の再訪で堂宇と庭園を確認するつもりでしたが、いざ訪れると境内や本堂は工事中。完成は3年後との事。
茅葺の本堂と紅葉の対比が鮮やかだっただけに残念でなりません。何か【用命】を拵えて再訪せねばなりませんが、
それまで【余命】があることを願うばかりです。

寺宝展示室

仏画と陶器

永明寺御朱印
(左) 26年前の94歳の女性の墨書 (右) 今回の拝受
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JR浜田(8:00) → JR江津(8:25) → 徒歩10分 → 江津本町 → JR江津(9:23) → JR益田(10:44) → 観光協会レンタサイクル10分 → 医光寺 → 萬福寺 → JR益田(13:06) → JR津和野(13:37) → 津和野町並み → 弥栄神社 → 太鼓谷稲成神社

太鼓谷稲成神社(郷社 別表神社)
弥栄神社参拝に続いて、津和野川の脇に立つ大鳥居を抜け、九十九折りになった千本鳥居を上る事10分。
市内を見下ろす境内に到着。
太鼓谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)は、
『安永2年(1773年)、津和野藩7代藩主亀井矩貞が領民の安寧のため、京都の伏見稲荷から勧進を受け、
城の鬼門に当たる太鼓谷の峰に社を創建したのに始まる。

一の鳥居
殿町通りを過ぎ津和野大橋袂に建つ。赤い橋はJR山口線橋梁。

弥栄神社を過ぎ川沿いを行く

津和野川沿いの二の鳥居
表参道はここから始まる。
元来は藩主のみの崇敬が許される社であったが、明治以降は庶民も参拝できるようになり、中国地方有数の稲荷社となった。
現在の参拝者は年間100万人を数え、最近では「日本五大稲荷」を称している。
日本の稲荷の中では唯一、稲成と表記するが、これは願いが叶う思いに由来。表参道には1047本の朱の鳥居が並ぶが、
その8割が願望成就の奉納、2割が将来への立願となっている。』 とあります。

二の鳥居から見た山腹に続く朱の鳥居

三の鳥居から千本鳥居が始まる

九十九折りの千本鳥居

千本鳥居途中から二の鳥居と津和野川を見下ろす

更に上を目指す

鳥居の並び
千本鳥居と聞くと尻込みしそうですが、鳥居の間隔が狭いのに加え、途中の眺望が時間を忘れさせるのでしょうか、
10分程度で境内に到着。神門を過ぎて正面に見えるのが本殿ですが、こちらは新築。
門の右にあるのが大正12年築の旧社殿。今は元宮となってここから参拝するようです。

朱の鳥居と紅葉と石州瓦

神門へ最後の鳥居

御由緒

神門に到着
海抜213m。
以前に訪れた時に比べると、訪れる観光客は各段に増えているのは確実。浅見光彦シリーズ等のTVドラマのロケ地、
山の斜面に続く鳥居がインスタ映えすると理由はいろいろですが、最も大きいのはパワースポットの地。
本家の伏見稲荷がそうですから、分家の津和野がそうであっても何ら不思議はありません。

境内の様子
正面が社務所、右が元宮。

元宮正面
途中から雨が降り出すという生憎の天気でしたが、境内には多くの参拝者が。
境内からは石州赤瓦の街並みと参道の紅葉も一望、朱塗りの鳥居と相俟って、
正に「赤い、紅いに、朱いなり【稲荷】」でした。

本殿前からの境内の眺め

本殿

境内から見た津和野の町

太鼓谷稲成神社御朱印
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弥栄神社(旧郷社)
街並みを見ながら歩くと、津和野川に架かる津和野大橋にぶつかります。その橋を渡らず、右折すると
城山に無数の鳥居が並ぶのが視界に入ります。そこへ向かっていくとその手前の大きな鳥居と御神木が目に入ります。
これが弥栄神社(やさかじんじゃ)で、社伝に拠ると、
『正長元年(1428年)、津和野城主であった吉見氏が京都祇園社の分霊を太鼓谷山に勧進したのが始まり。
永享9年(1437年)に吉見弘信が現在地へ遷座。城の鬼門を守る社とした。

朱塗りの鳥居
ここが正面になるが、駅から歩くと反対側に出る。

鳥居を抜け境内へ
御神木の向こうが津和野川
城主は吉見、坂崎、亀井と変遷するが、廃藩に至るまで歴代藩主の造営や寄進を受け、庶民の崇敬を集めた。
創建時は「滝本祇園社」と言う名であったが、幕末の慶應3年(1867年)に現在の名に改めた。
6月30日には「輪くぐり神事」が行われ、7月20日と27日に奉納される「鷺舞」は津和野を代表する神事で
国の重要無形文化財になっている。』 とあります。

正面から見た拝殿

拝殿に続く本殿

説明板
津和野の鷺舞は全国的に有名ですが、それに比べて境内の大きさは対照的。
拝殿横の御神木は立派で推定樹齢600年。正長元年(1428年)、吉見氏4代弘信が勧進した際に植えられたとか。
今や天然記念物で神社の【しょうちょう】。落雷で一部枯死したのが悔やまれます。
祇園社を勧進したのであれば八坂ですが、益々栄える“いやさか”の願いを込めて弥栄となったのでしょう。
元来、鷺舞は京都から山口に伝わったものを、津和野城主・吉見正頼が天文11年(1542年)に疫病鎮護のために始めたもの。
本家から見れば孫に当たりますが、今では孫が最も有名になっています。これもいやさか効果でしょうが、
京都も山口も別段【さぎだ~!】とならないのは【御親睦】の賜物とも言えそうです。

御神木 弥栄神社の大欅

弥栄神社御朱印
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殿町掘割付近の津和野を代表する景観
益田を後に、特急おきで山口線を南下。石見の小京都・津和野へ。
萩・津和野と観光で一括りにされますが山口県ではなく島根県。
場所的には石見の小京都ですが、山陰の小京都で通っています。

山口線津和野駅遠景
向こうに見えるのは乙女峠。

JR津和野駅スタンプ
(上) 旧国鉄「わたしの旅」シリーズ (下) 2008年JR西日本 広島支社印
『津和野は青野山の西麓に開けた山峡の町。“ツワブキの茂る野”から津和野と命名された。
戦国時代は大内氏・毛利氏に仕えた吉見氏が支配し、関ヶ原の戦いの時点では毛利支配下であった。
関ヶ原後、東軍に属した坂崎直盛が三万石で入部するが一代で断絶。
因幡鹿野より亀井政矩が四万三千石で入封し、明治維新まで続いた。』 とあります。

吉永米店
駅の東直ぐにあり、庭先の池には700尾の鯉が泳ぐ。

吉永米店の庭池
一声掛けて無料で見学できる。

駅前から殿町通りを望む
源氏巻の店、醸造元が軒を連ねる。

源氏巻の老舗、本町通りにある山田竹風軒本町店
政治的には紆余曲折を経ていますが、城下町は至って静か。掘割には鯉が泳ぎ花菖蒲が咲く。
武家屋敷や家老門が残り、文豪・森鴎外の旧宅があるかと思えば切支丹の聖堂もある。
最近では山腹に続く千本鳥居がパワースポットとして人気があるとか。
様々な見所がある上に、大部分が駅から歩いて見て回れる適度な広さが幸いしているようです。
加えて、うずめ飯・源氏巻といった独自の名物もあって観光地としては拮抗、若しくは萩・山口を凌いでいるように感じます。

津和野カトリック教会
石造りゴシック建築の教会だが、生憎改修中。

教会の由緒記

家老・大岡家の表門

表門の内側は町役場 勿論現役である

家老門と町役場の説明

かつての藩校であった養老館
若き日の森鴎外もここに学んだ。
石高では萩の36万9千石には遥かに及びませんが、藩祖・亀井玆矩(これのり)は山中幸盛(鹿介)の養女を妻にした人物。
尼子十勇士として大内・毛利氏と戦った矜持が町割りにも生きている気がします。尼子の執念とも言えましょうか?
このようにこの地方の中心的な津和野ですが、町役場は遥か向こうの日原に。案内所の方の話では、
平成17年(2005年)に隣接する日原町と合併した際、日原町は天領だったので役場は旧日原町役場になったとか。
いつの時代でも政治は複雑ですね。

旧家老多胡家表門

表門の説明

津和野マンホール蓋
殿町付近の掘割

津和野マンホールカード 配布場所は津和野町観光協会

列車の友は「源氏巻」 ¥300
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清瀧山 浄光院 萬福寺(時宗)
医光寺に続いての寺院は川を少し下った場所。自転車ならば数分ですが歩いても10分とは掛かりません。
清瀧山浄光院萬福寺(せいりゅうざんじょうこういんまんぷくじ)は、
『平安時代の建立になる古刹。当初は安福寺と号し益田川河口付近にあった天台宗寺院であった。
万寿3年(1026年)、大津波のため流出、その後、小庵を建てて法灯を守っていたが、
元応9年(1319年)に遊行4代呑海上人が入寺した際に、時宗の道場になった。

入口に到着
益田川右岸の堤防脇に建つ。

朱が鮮やかな山門
応安7年(1374年)、益田七尾11代城主・益田兼見(かねはる)が現在地に移築して萬福寺と改称、
寺領31石を与えて益田家の菩提寺とした。現在の本堂はその時の建築で、桁行7間梁間7間の寄棟造桟瓦葺。
鎌倉様式の建築物として国の重要文化財に指定されている。
重要文化財の「絹本着色二河白道図」ほか「観世音菩薩立像」など寺宝も多く「石見の法隆寺」とも呼ばれる。

重文・本堂
鎌倉様式の穏静簡古な手法で造られている。

本堂の「清瀧山」の扁額

本堂前の雪舟像

いよいよ堂内と庭園を拝観 ¥500

本堂内陣の様子

鎌倉時代作の重文・二河白道図
此岸(現世)の釈迦が往生者を送り出し、彼岸(浄土)の阿弥陀如来が迎える。現世と浄土を結ぶ白道を通って衆生が往生する様を描くのが一般的であるが、この図は現世や浄土を描かず、釈迦と阿弥陀如来が向かい合うという独特の構図となっている。

書院の部屋
ここから庭園を眺める事もできる。
文明11年(1479年)、15代城主・益田兼堯(かねたか)が画聖・雪舟を益田に招き、堂後に石庭を造営。
築山に池と泉を配した池泉回遊式庭園である。
本堂裏の430坪の地に、須弥山石を中央に、右にはやや暗い築山と枯滝を、左は明るく平坦な地と、
明と暗が巧みに使い分けられたもの。心字池を中心に須弥山側が彼岸(来世)、こちら側が此岸(現生)という
仏教の世界観を表した寺院様式庭園である。
慶應2年(1866年)の第二次長州征伐・益田口戦争の際には幕府軍の陣営となり、兵火のために総門は焼失したが、
本堂・庫裏には被害が及ぶことなく今に至っている。』 とあります。

国史蹟及名勝・雪舟庭園
書院の縁側からの眺め。手前の平石が礼拝石、その向こう池の手前が成就石。左の丘の頂が須弥山石、池の奥が枯滝。

ここが現世と浄土を繋ぐ場所
見る人は己の心に従って橋を架けるとの教えである。

本堂方面から庫裏と庭園を見る

本堂縁側より心字池と須弥山を眺める
こちらも雪舟庭園で有名ですが医光寺とは異なるタイプ。作庭はこちらが先ですが、故意に異なる様式を作った訳ではなく、
禅宗の医光寺には武家様式、時宗の萬福寺には寺院様式と使い分けたのが実情でしょう。
拝観を御願いすると住職夫人と思しき年配の御婦人が対応下さいました。
和辻;「庭園の写真はOKですね。」
夫人;「庭だけでなく、堂内どこでも大丈夫ですよ。」
これはまた、えらく鷹揚な寺院と驚きです。
夫人;「お庭を見る際には、池を挟んで現世と来世がありますが、その間に橋は架かっていません。
どのような橋を架けるか、どう進むかは見る人の心次第です。」
和;「行き方は自分で考える訳ですね。」
夫人;「そうです。時間をかけて考える事が大切になります。」
との事。寺院の庭を長時間眺めている人を見ますが、あれはそういう事だったのかと納得。

本堂より見た庭園遠景

本堂北側の庭

萬福寺説明書

萬福寺御朱印 (平成6年拝受)
・古大家の意匠になれる庭を前にして しばらく旅の時をおくる
とは文豪・島崎藤村の残した言葉。私は藤村の様に叙情的な言葉は到底浮かびませんでしたが、学生時代に
「古典は原本で読むように。訳だと訳者の眼を通して読んでしまうからです。」
と言われたのを思い出しました。
二ヵ寺共に雪舟作庭ですが、医光寺(臨済宗東福寺派)が武家様式なのに対して、萬福寺(時宗)は寺院様式。
違いはあっても雪舟作庭に違いはなく、87歳でこの地で亡くなった事を含めて益田には特別の思い入れがあったのでしょう。
石州益田は雪舟の町でもありました。

益田本町郵便局 ; 郷土芸能・石見神楽、萬福寺本堂

益田市マンホール蓋
駅前観光案内所にて。但し、カラーはここのみだそう。

益田市マンホールカード 配布場所は駅前の益田市観光協会
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瀧蔵山 醫光禅寺(臨済宗東福寺派)
江津駅から9時台の列車で終点の益田まで移動。石見の西端で交通の要衝、鎌倉時代には城が築かれた城下町。
いまでも山陰本線から山口線が分岐する要衝には変わりませんが、列車の本数は少なく、
特に山陰本線の萩・長門方面は昼間休業状態。特急は全て益田から山口線に入ります。
同じ石見地方で津和野という観光地を控えているので、当然とも言えますが、
自家用車のない石見の人はどのように萩に移動するのでしょうか?

JR益田駅スタンプ
(上) 旧国鉄「わたしの旅」スタンプ (下) 2008年 JR西日本米子支社管内設置
到着して直ぐの列車が出発すると次の山口方面の列車は2時間後。程よい時間なので益田川沿いの二ヵ寺に参拝。
門前まではバスが頻発していますが、晴天のこの日は駅前観光案内所でレンタサイクル。

益田川に架かる大橋より
向こう岸に朱く見えるのが萬福寺、その先の新橋の向こうが医光寺。

終点のバス停から直ぐにある医光寺総門
島根県指定有形文化財で、高さ4m、幅4.5m。

横から見た総門
かつての益田七尾城大手門を移築した。

総門説明
医光寺、正式には瀧蔵山醫光禅寺(たきぐらさんいこうぜんじ)は、
『貞治元年(1363年)、瀧蔵山崇観寺(すうかんじ)として今の西方に創建された天台宗寺院が嚆矢。
斎藤長者の妻・直山妙超大姉の本願に拠って、東福寺の法系、竜門士源を開山とした。
寺領は1500石、領主益田氏9代兼弘の保護と援助を受け、菩提寺として栄えた。
11代兼見は「祥兼置文」で領内の寺院に示達を与えている。

総門より見た医光寺遠景

石段の上の中門

中門の装飾と彫刻
その後、17代益田宗兼が現在の地に医光寺を建立し保護を加えたので崇観寺は衰頽、
更に堂宇の火災もあって医光寺と合併した。
総門は七尾城の大手門であったものを関ヶ原の戦い後に移転。承応年間以降、竹田の番匠に拠り
屋根を竜宮造りに改造した。2本の太柱に2段の屋根を掛け、大扉を付けた手法である。
堂宇は享保14年(1729年)の大火で延焼。その後、再建され今に至っている。

中門より見た境内
本堂の奥に開山堂が建つ。

正面から見た本堂

開山堂近影

中門右手の鐘楼

医光寺開基・益田宗兼墓
文明年間(1469~1487年)には画聖・雪舟が第5世住職として萬福寺より入山。
寺の裏山を利用して西南向き666坪の池泉鑑賞半回遊式庭園を築いた。
鶴を象った池の中に亀島を浮かべた鶴亀を主体とした武家様式庭園。寺院様式庭園の萬福寺とは対照的である。
現在の庭園は享保の大火後の再建であるが、蓬莱型山水様式の庭園として雪舟時代の特色を今に伝えている。
雪舟は晩年益田に戻り山寺東光寺(現;大喜庵)に入山し87歳で入寂。
医光寺で荼毘に付された遺骨は雪舟灰塚として境内にある。』 とあります。

本堂裏の縁側から眺めた雪舟庭園
鶴を象った池の中に亀島を浮かべる。

西側の丘にある須弥山石からは枯滝石組を造り、東の枝垂れ桜とバランスをとっている

亀島と枝垂れ桜
亀の背には中心石と三尊石を置く。枝垂れ桜が満開になるとTV放映される程有名であるとか。

本堂縁側と雪舟庭園

庫裏から見た本堂と庭園
益田は万葉の歌聖・柿本人麻呂ゆかりの町ですが、画聖・雪舟の故地でもあります。
どちらが偉大というのは野暮な議論ですが今に伝わるとなると1300年前と600年前ではどちらに軍配が上がるかは明らか。
我が国の山水画を大成した人物としての著名度が大ですが、雪舟は僧籍にあった人物でしかも禅僧。
作庭に秀でていても不思議ではありません。

本堂内部の書院
ここに座って庭園を眺める事もできる。

開山堂内陣の様子

開山堂の羅漢像

境内の外れにある雪舟灰塚
それよりも備中で生まれた彼が、何故ここまで益田に執着したのか?
周防の大内氏を頼った雪舟は47歳で明国に渡り、寧波で「四明天童第一座」に推された画力を持ちますが
修行の為に中国各地を訪れています。絵画以外にも得た情報は多かった筈。
大内氏の経済力は大陸交易が主ですから、雪舟には今風の商社駐在員の役目を期待していたのではないでしょうか?
連歌師飯尾宗祇や俳聖松尾芭蕉にもそんな話が伝わっているので、晩年まで益田を離れなかったのも
彼を重視した大内氏が外交顧問として手元に置いておきたかった気がします。
大内氏は近世大名としては生き残りませんでしたが、雪舟の残した遺構の威光が
現在まで人を呼んでいると知ったら、泉下の彼らはどう思うでしょうか?

雪舟和尚肖像画
安政12年(1856年)、350回忌法要に合わせて作成されたもの。

益田宗兼肖像画

庫裏にある金山西湖図屏風
江戸中期の雲谷派の手になるもの。

医光寺オリジナル御朱印帳 表と裏面

医光寺説明書

医光寺御朱印

益田郵便局 ; 雪舟庭園、雪舟廟大喜庵、柿本神社
益田染羽郵便局 ; 雪舟庭園、医光寺総門
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR浜田(8:00) → JR江津(8:25) → 徒歩10分 → 江津本町 → JR江津(9:23)

天領江津本町甍街道
この処、やたら「Go To」と言う掛け声があるので、西方巡礼2日目は石見の江津へ。
その名の通り中国地方第一の大河、江の川河口に開けた港町。初めて訪れたのは平成7年で広島の三次から三江線経由。
駅前のお好み焼き店でGの原選手の引退セレモニーをTV中継で見ながら昼食をとって13時台の列車に乗りましたが、
終点江津へ着いたのは18時過ぎで夜のとばりが下りていました。
二度目の三江線は、江津から始発列車で石見川本まで行き8時過ぎの列車で江津へ戻った2008年。
片道32㎞に1時間かかったのが強烈でした。その路線も二年前に廃線。今は山陰線が唯一の路線です。

山陰本線江津駅舎

JR江津駅スタンプ
(上) 旧国鉄時代の「わたしの旅シリーズ」 (下) 2008年設置のJR西日本米子支社印
三江線の本数の少ないのは有名(1日5本)でしたが、山陰線も御多分に漏れず。所用の後、
次の列車まで1時間あったので町を散策。なんでも江津は天領だったそうで、駅前観光案内書の方に伺うと、
本町付近には石州赤瓦の町屋が並び『天領江津本町甍街道』とネーミングされているとか。
「いらか街道」であって「いなか街道」ではありません。
かつては三江線で江津から1駅目に江津本町という駅がありましたが、廃線となったので徒歩で訪問。
尤も、始発6:00の次が12:34では乗る人もいないでしょうが…。

江の川左岸より見た郷川鉄橋
JR山陰本線が通る。その向こうには国道9号線の通る下江川橋。

鉄橋の直ぐ上流に架かる新江川橋
国道9号線バイパスが通る。

江の川左岸堤防に建つかつての上江川橋の碑
駅から東へ進み江の川沿いの堤防を南下。日本海側には国道9号線が走る下江川橋が架かり、
その横にはJR山陰本線の郷川鉄橋が。大正9年(1920年)に完成し全長480m。
鉄道開通に拠って町の中心は本町から駅周辺に移りました。
江の川の直ぐ上流には国道9号バイパスの新江川橋が。かつては二艘の渡船が連絡し、
初代の上江川橋は船橋で明治37年(1904年)の設置。
以降、洪水や劣化によって六度架け替えられ平成5年に設置されたのが現在の橋です。
その横にはJR三江線跡の線路が。大正15年(1926年)着工し昭和5年に開通。
江の川に沿ったとはいえ、高架橋や隧道など難工事だったと記録にあります。
江津本町駅は昭和33年開業した無人駅。廃線が平成30年ですから丁度還暦でした。

かつての三江線の線路のあった第二江津橋梁
江津本町駅はこの左側にあった。

第二江津橋梁にある説明

JR三江線石見川本駅スタンプ
2008年にJR西日本管内に設置された印の内、三江線にあった唯一のもの。まさか10年の寿命とはその時は夢にも思わず。
三江線の橋梁から西へ延びているのが天領江津本町、
『江津本町は、古くから江の川の舟運と日本海の海運の要所として栄え、寛文年間に上方航路が開かれると
北前船の寄港地、天領米の積出港として川岸には40~50隻の帆船が林立。
西の浜田で入港を待ち合わせる船がある程の混雑であった。
川岸から町中に向け多くの廻船問屋の蔵屋敷が軒を並べ、その中心を山陰道が貫き、東は大森銀山、
西は浜田へと向かう石見では大森銀山に次ぐ賑わいを見せた。

橋梁下から続く旧山陰道
ここからが甍街道のメインストリートになる。

国の登録文化財・旧花田医院
江津の瓦は赤色が主であったが、昭和9年にカーキ色が国防色となったため、この屋根瓦も黄色を基調としたものになった。

国の登録文化財・藤田家住宅(五島屋)
嘉永6年(1853年)の築で屋根の上の煙出しが特徴。江戸時代には「五島屋」として銑鉄を扱う回漕業を営んだ。

藤田家住宅の脇道からの眺め
奥には山辺神社が鎮座する。
幕末の慶應2年には大村益次郎を参謀とする長州軍振式隊450余名が進駐し、明治2年まで本陣が設置。
明治40年には東宮時代の大正天皇が宿泊する栄誉に浴した。
江津本町は郷田村、江津町、江津市と変遷する中で行政経済の中心として栄えたが、
昭和37年の市庁舎の移転に拠りその中心的役割を終えた。しかし江戸期から昭和初期にかけての繁栄ぶりは
役場、郵便局や数多くの商家土蔵などの歴史的建造物群で伺う事ができる。』 とあります。

藤田家住宅の脇を抜け裏手の本町川通りへ

横田家住宅(沖田屋)
江戸時代初期に当地へ移り、回漕業で財を成した。飢饉対策や開墾に私財を投じた事でも知られる。

藤田家住宅とその向こうに建つ高原家住宅
高原家住宅は元治元年(1864年)の築で、大工棟梁は松見屋角之助の記録が残る。主屋の格子が特徴である。

飯田家住宅(釜屋)
初代江津市長の家で、門前には御影石の橋が架けられている。

国の登録文化財・旧江津郵便局
三代目局長(明治17~28年)の飯田源之亟が建てた擬洋風建築物。郵便制度間もない頃の局舎として全国的にも貴重である。
下調べ不足と時間不足のため、十分に見る事は叶いませんでしたが、成程、世界遺産の石見銀山や
温泉津の街並みと共通するものがありました。現在の鉄道や道路事情からは想像できないような繁栄がありましたが、
その後の変遷でタイムカプセルになったようなものでしょうか?
大森銀山もかつては閑古鳥が鳴くような場所でしたが、世界遺産に認定されてからは観光客が押し寄せ
【銀座】状態だとか。江津もそうなれば集客できるでしょうが、落ち着いて見るにはもう少しこのままであって欲しい気もします。

本町川沿いの城構(とがまえ)
幕末、長州藩の陣営建設を命じられた庄屋であり酒造業を営んだ飯田六郎右衛門が築いたもの。現在は石垣と土塀が残る。

江津市マンホール蓋

江津市マンホールカード 配布場所は江津市観光協会

江津本町郵便局 ; 天領江津本町甍街道と旧江津郵便局
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 冬の青春18きっぷ使用
【往路】JR天王寺(6:35) → JR加茂(6:53→6:55) → JR亀山(8:16→8:23) → JR伊勢市(9:56)
近鉄伊勢市(11:12) → 斎宮(11:28) → 平安の杜 → 斎宮(12:28) → 松阪(12:41→12:48) → 四日市(13:25) → 近鉄四日市(14:54) → 東一身田(15:28)
【復路】高田本山(16:28) → 伊勢中川(17:21) → 近鉄桜井(18:31→18:43) → JR王寺(19:22→19:29) → JR大阪(20:08)

さいくう平安の杜
通常ならば正月に初詣ですが、巷は分散型を推奨しているので、一足早く初牛鳴(モー)出に伊勢国へ。
といってお伊勢さんは三密でしょうから、松阪と伊勢の中間の明和(めいわ)町。
とりたてて寺社はありませんが、かつての斎宮(さいくう)跡。近鉄山田線の東側にある広大な空間が
斎宮跡で公園になっており、平城京跡にも通じるものがあります。

近鉄電車斎宮駅ホームより東を望む
遥か向こうに「斎宮」の看板が見える。

神社を象った斎宮駅舎
現在は無人駅。

斎宮駅スタンプ
四半世紀以上前の有人駅時代に押印したもの。
古代(天武天皇)から中世の室町期まで、天皇の代行者として未婚の皇女の斎王(さいおう)が伊勢神宮へ奉祀した場所。
斎宮の役所であった斎宮寮の長官の元、儀式や饗宴に使用されたとされる正殿・西脇殿・東脇殿の三棟が復元されていました。
年末なので当然休館だったので、外から遥拝。来年は町名に肖って【めいわくなく明るく和やか】になって欲しいものです。
周りからは寒風と牛の鳴き声が聞こえてきました。

駅から続く平安時代の復元道路

道路から見た復元建物

正面に建つ正殿
斎宮寮の中心的な建物で、入母屋造・檜皮葺。床面積 94.5㎡、高さ 7.97m。

西脇殿
大人数の儀式などに使用した建物で、切妻造・檜皮葺、東面庇板葺。床面積 162㎡、高さ 7.59m。

東脇殿
儀式の準備等に用いられ、切妻造・檜皮葺、東面庇板葺。床面積 89.86㎡、高さ 5.86m。
参拝を終えて帰阪しようとすると紀勢線が強風でまさかの運転見合わせ。
近鉄の駅まで歩いて、伊勢中川から大阪線で帰阪となりました。18きっぷは使えませんでしたが、
代行輸送があったので、余分にかかったのは¥1000円程度。関西本線経由より却って帰宅は早くなりました。
「人生万事【斎王】が丑」です。皆様、どうか良いお年を…。

明和郵便局 ; 竹の都へいあん斎宮の杜、町花ノハナショウブ、めい姫
[参考書]
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<コース>
【往路】新大阪(6:06) → (ひかり501号) → JR新山口(8:38→9:13) → JR湯田温泉(9:31) → 徒歩5分 → 井上公園 → JR湯田温泉(9:58) → JR山口(10:02)
山口駅前レンタサイクル → 市内観光 → 山口駅(13:33) →JRバス → 萩・明倫センター(14:5) → 明倫館 → 徒歩5分 → 長寿寺・海潮寺 → 徒歩5分 → 野山獄跡 → 常念寺 → 徒歩10分 → JR東萩駅(16:58) → JR益田(18:10)

長栄山 不断光院 常念寺(浄土宗)
獄跡を少し南下すると道に面して大きな山門が見えます。これがこの日最後の巡礼先の常念寺。
長栄山不断光院常念寺(ちょうえいざんふだんこういんじょうねんじ)は、
『天文元年(1532年)、吉見氏の家臣であった安部家貞が開基となり、単蓮社信誉上人を開山として創建。
安部氏の法名であった常念を採って寺号とした。
当初は現在地より北に位置し、萩築城の際には藩主輝元が常念寺を宿舎とする。その縁で表門が寄進された。
これは京都聚楽第の裏門であった四脚門で、輝元が秀吉より拝領したもの。
桃山時代を代表する建築として重要文化財となっている。

西方に開かれている常念寺

重文・表門
江戸時代には総本山知恩院の命に拠り防長二ヵ国の触頭(ふれがしら)となった。
寛文9年(1669年)、類焼を受け堂宇を焼失したが、毛利家の援助を受け現在の場所に移転。
本堂は寛文11年に再建され今に伝わっている。
本堂の中には十六羅漢が祀られており、その11体には元治元年(1864年)京都禁門の変で戦死した
萩市勇隊の隊士16名の内、14名の法名が記されている。平均年齢23歳、法名と共に
「元治元年甲子七月十九日於京師戦死」の札が全てに立てられている。』 とあります。

境内から見た表門
両袖に潜り門が付けられているのが分かる。

正面から見た表門
表門は切妻本瓦葺で控え柱を持った桁行3.66m、梁間3.12mの四脚門で、両袖に潜り門が付いていました。
天下人から萩藩主、そして当寺と流転していますが、重文の決め手となったのは、
門に彫刻された狛犬であったと言うのも不思議な話です。
一方の羅漢は由来も定かでなく、何故14名の名が記されているのかも分からないそうでした。
明治半ばまでは、七月十九日に焼香する人がいたそうですが、昭和に入ると全く途絶えたとの事。
長州藩からは維新の元勲が輩出しますが、その過程で流された若い血も忘れてはいけないでしょう。

表門にある狛犬 (阿像)
一説では左甚五郎の作とされる。

同じく狛犬(吽像)
境内を見ていると、小中学生と頭巾を被った母親と祖母らしき人が戻って来られました。
和辻;「お寺の方ですか?」
母親:「そうです。」
和辻;「御朱印を御願いできますか?」
母親;「暫くお待ちください。」
暫くすると戻って来られましたが、頭巾を外した姿は法体姿。
和辻;「ここは尼寺ですか?」
祖母;「いいえ、先代が数年前に亡くなり、孫は未だ小さいので新たに僧侶の資格を取りました。今は小僧都です。」
と庭で遊んでいる小学生の男子の方に目を遣られました。
御主人が亡くなっただけでも大変な状況ですのに、その上僧侶の資格をとるとは並々ならぬ事。
維新を支えた人の【情念】は今にも受け継がれているのを実感しました。

寛文11年再建の本堂

本堂の「長栄山」の扁額と向拝の彫刻

常念寺御朱印
[参考書]
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山口駅前レンタサイクル → 市内観光 → 山口駅(13:33) →JRバス → 萩・明倫センター(14:5) → 明倫館 → 徒歩5分 → 長寿寺・海潮寺 → 徒歩5分 → 野山獄跡

両側に寺が並ぶ
萩城址からJR東萩駅まで続く通り。
寺院の密集する地区から東へ向かうと道を挟んで両側に石碑が建った場所があります。
そこが史跡野山獄・岩倉獄跡で、
『正保2年(1645年)9月17日夜、藩士岩倉孫兵衛(大組・禄高200石)は酒に酔って、
道を隔てた西隣の藩士・野山六右衛門(大組・禄高200石)の家に切り込み、家族を殺傷した。
この事件の後、両家は取り潰され屋敷は藩の獄となった。野山獄は上牢として士分の者を、
岩倉獄は下牢として庶民を収容した。尚、現在の指定地は獄の一部である。

道の西側にある野山獄跡

野山獄・岩倉獄略図
幕末、吉田松陰は海外渡航に失敗したのち野山獄に、その従者金子重之助(重輔)は岩倉獄に投ぜられた。
金子は牢死し、岩倉獄跡にはその死を悲しんで松陰が詠じた詩碑及び
萩出身の首相田中義一の手になる牢死の場所を示す石碑が建つ。
一方、野山獄には11烈士碑やその絶命の場所を示す石柱が建てられており、
11月の第一日曜には町内会に拠って両獄所縁の人々の慰霊祭が行われている。』 とあります。

こちらは東側の岩倉獄跡

岩倉獄跡説明碑
喧嘩両成敗が武士の常とはいえ、切り込んだ岩倉家は兎も角、被害者の野山家も取り潰しとは、酷な話。
説明では分かりませんが、一体どんな経緯があったのでしょうか?
悲惨な成り立ちの両獄ですが、幕末に活躍した人には結構縁があります。既述の吉田松陰の他、
高杉晋作は脱藩の罪で、明治政府の参議となる広沢真臣は反対派の弾圧で入牢しています。
入牢した事が己に箔を付けた訳ではありませんが、
それくらいの気概がなければ維新の大役にはなれなかった証でもあります。
今は石碑が建つだけですが、これを監獄ロックと呼ぶかどうかは定かではありませんが。

吉田松陰が詠じた詩碑(左)と田中義一首相の手になる石碑
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総源山 海潮寺(曹洞宗)
(左)本堂、(右)庫裏
古風な長寿寺のある通りからほんの少し北へ行くと対照的な大きな山門が目に入ります。
総源山海潮寺(そうげんざんかいちょうじ)は、
『応永15年(1408年)、不見明見を開山として石見の温泉津に創建された温津山海蔵寺が嚆矢。
第12世大佐の慶長12年(1607年)、毛利輝元の防長移封に際し萩に移転。現在の山号寺号に改称。
総源は流派を総括する本源から、海潮は観音経の海潮音の義に由来している。
江戸時代には石見・長門に11の末寺を擁した。

壮麗な山門
明治の大火にも焼け残った。

山門越しに本堂を見る

山門に掲げられた扁額
「栴檀は双葉より芳し」に由来か?尚、栴檀とは白檀の別名である。

塀越しに見た山門側面
明治7年(1874年)の火災で山門と蔵を残して全焼。萩明倫館の聖廟を買収して、翌年当寺に移して本堂とした。
藩政時代、全国の藩校では構内に広大な聖廟を造営し、孔子を学神として祀るのを理想とした。
明倫館もその例に漏れず、嘉永2年(1849年)に江向に再建された時、敷地の中心部に南面して造営され、
宣聖殿と称している。建物は木造平屋建、入母屋造本瓦葺で、桁行17.28m、梁間9.6。
中央部正面に、入母屋造本瓦葺の入口のある前室が張り出している。
聖壇には孔子の木造を祀っていた。』 とあります。

山門から見た本堂
明倫館聖廟の遺構である。

本堂正面
中央に張出しているのが入母屋造本瓦葺の前室。

本堂の扁額「総源山」
萩自体が毛利の城下町になってから発展したので、寺院が移って来たこと自体は驚きませんが、
明倫館の聖廟まで持ってきたとは凄いですね。
明治維新は薩長が中心だったので新築も可能だったでしょうが、
敢えて【孔子】混同しなかった事に維新の人達の矜持を感じます。

本堂左手にあるのは坐禅堂

十三重石塔
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