<コース> 南海電鉄・京阪電鉄は日中10~15分間隔で運転
【往路】なんば → (南海電鉄急行) → 岸和田 → 徒歩10分 → 岸和田漁港 → 岸和田 → 堺 → 徒歩20分 → 堺東 → 大阪狭山 → 徒歩10分 → 狭山池博物館 → 大阪狭山 → 中百舌鳥 → (御堂筋線) → 淀屋橋 → (京阪特急) → 樟葉 → (普通) → 石清水八幡宮
石清水八幡宮駅 → 徒歩5分 → 飛行神社 → 徒歩5分 → 神應寺 → 杉山谷不動尊 → 徒歩10分 → らくがき寺
【復路】石清水八幡宮 → 樟葉 → 淀屋橋

単伝庵(臨済宗妙心寺派)
男山の寺院拝観後は再び放生(ほうじょう)川を渡り 「らくがき寺」へ。
途中、松花堂昭乗の歌碑や後村上天皇の行在宮跡の碑が建ちます。
南北朝動乱期に後村上天皇はこの地に行在所を構えて、足利尊氏・直義兄弟の内紛で一時期
京の都を奪回しますが、尊氏の息子の義詮の軍に攻められここから退いたとか。
山城と河内の国境ではありますが、このような歴史を見ると都の影響を直接被っているようでした。
その後、5分歩いて寺院へ到着。正式には西門が正門のようですが、碑を見ながら【来たもん】で、
北門から境内へ。後門というよりも小学校の校門の様な雰囲気でした。

詠み人知らずの句碑

後村上天皇行宮址碑

住宅地の奥に建つ西門が正門

西門近影

こちらが裏手にある北門
左手には市街地へ向かう道路が走る。

北門脇の 「らくがき寺」 石碑
小学校の校門の
『単伝庵の起源は不明であるが、現存する記録に拠ると正徳元年(1711年)、臨済宗妙心寺派の僧侶である瑞応が
人々の不慮の災難を救う事を発願。怪我除け・厄除けの救苦観音を安置し祈祷修繕したのが再建の経緯。
単伝とは瑞応が単伝和尚と呼ばれた事に由来する。
その後、何度か移転を繰り返し20世紀初頭には荒廃していたが、地域からの支援と寄進に拠り
昭和32年(1952年)に現在の地へ復興した。

北門からの眺め
正面は茶室、右は庫裏。

参道から北門を振り返る
右に建つのは豊川稲荷社。

正面から見た茶室

茶室脇の参道を抜け本堂へ

茶室と道路の間に挟まれた内庭

参道左手に建つのが大黒堂
境内には本尊の釈迦牟尼仏、江戸時代から伝わる観世音菩薩を祀る本堂に加え、地蔵堂、大黒堂が建つ。
大黒堂に祀られている大黒天は南北朝時代、石清水八幡宮の改築に際して、楠木正成が武運長久を祈願して
寄進した楠の残り株から刻まれたと伝えられる。足を前に踏み出したその姿から「走り大黒」と呼ばれ、
開運・福徳円満を授ける神として信仰されている。

正面から見た大黒堂

大黒堂内陣の諸仏

想像していたよりも小さい御本尊の 「走り大黒天」

左側にある仏像奥の壁に書かれた落書き群

こちらは右側の壁

大黒堂前からの眺め
正面が西門。
再建に寄付をしてくれた人々の願いが叶うようにと、60年ほど前から大黒堂の白壁に
自身の願いを落書きし、祈願を成就する事が始められた。
大黒天に願い事を見て貰うようにするためであり、絵馬の役割も果たしていると言う。
今では「らくがき寺」として知られるようになっている。』 とあります。

大黒堂から右に見える庫裏・書院

庫裏玄関近影

御朱印をお願いするため玄関に入る

単伝庵説明書

単伝庵御朱印

庫裏玄関前から大黒堂を望む

玄関前から西門を望む
手前の十三重石塔と大銀杏が映える。
このように記されたものは、書き手の希望か不満かどちらかに向かうのが常ですが、当寺は前者。
似た言葉に落首がありますが、これは主に大衆が世間を風刺したもので後者に相当でしょうか?
現在は否定的に捉えられ勝ちな落書きですが、歴史的を経て残ったものは当時の世相を知る貴重な史料。
単に人に伝えるだけの内容ではないようです。
本来、両者は同じルーツの筈ですが、長い年月の間に格差がついてしまったのでしょう。
御朱印を拝受する際、「落書きの様なものだったらどうしよう。」と不安になりましたが、流石にそれはなし。
大黒天の走り書きという、落ちのない「らくがき寺」参拝となりました。

大黒堂と手前の石碑

石碑近影
句碑と言うよりも落書きの案内か?

南側の塀添いの岩と植木

西門前の地蔵堂

祀られているのは道祖神のようなペアのお地蔵様

西門から見た境内
[参考書]
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:31) → JR備中高梁(10:13)
備中高梁駅前 → 徒歩5分 → 郷土資料館・安正寺 → 紺屋川筋 → 商家資料館 → 石火矢町ふるさと村・武家屋敷 → 頼久寺 → 寿覚院 → 薬師院 → 松連寺 → 備中高梁駅前
【復路】備中高梁(13:51) → JR岡山(14:56→15:11) → JR相生(16:16→16:18) → JR姫路(16:39→16:42) → JR大阪(17:43)

北側から見た武家屋敷
左手に建つのが旧折井家。
商家群のある新町から東へ向かい伯備線を横断。
踏切手前からは備中松山城の建つ臥牛山を北東に望む事ができる城下町の【白眉】とも言える場所。
踏切を渡った高台は石火矢町、かつての武家屋敷の場所ですが、今は石火矢ふるさと村として
昔のままの武家屋敷を見ることが出来る場所です。有料で公開されているのは二ヵ所。
『漆喰壁の格式漂う旧折井家は江戸初期に160石どりの馬廻り役を務めた武士の屋敷。
天保年間(1830~1844年)に建てられた母屋に漆喰塗りの長屋門が美しい。
母屋は資料館になっており、庭も昔のままに残されている。

伯備線を越えて武家屋敷の残る石火矢ふるさと村へ

風格のある旧折井家長屋門

門から屋敷を垣間見る

御厚意で撮影させて貰った母屋

旧折井家の向こうに見える高梁高校と臥牛山
その南側に続く、埴原家は江戸時代中期の建築。寺院や数寄屋風の要素を取り入れた
珍しい造りとなっており、市の重要文化財に指定されている。
この辺りから南の頼久寺にかけては昔の武家屋敷が残る「武家屋敷通り」となっている。
町の喧騒から逃れてのんびりと散策を楽しむ事の出来る場所である。』 とあります。
同じ南北に伸びる筋にあっても高梁川に近い低地は商家、城に近い高台には武家と
きちんと棲み分けは出来ていた様子。別段、どちらが良い悪いという事はありませんが…。

石火矢町の看板の先にも武家屋敷が続く

旧折井家の南に建つ旧埴原家

門の向こうに見える埴原家の寺院風玄関
公開している武家屋敷の南の岡村邸には重厚な門が建ちますが、
ここは「男はつらいよ 第八作・寅次郎恋歌」のロケ地。
岡村邸は現在も居住されており、公開している訳ではないので、門から見るにとどまりました。
特に「撮らさん!」と言う訳ではないのですが…。
撮影が行われたのは昭和46年10月で、さくらの夫・博の実家として登場。たしか博の母親が亡くなり
夫婦で葬儀に帰省して、やって来た寅さんが志村喬演じる父親と種々の遣り取りをした記憶があります。
後の32作・口笛を吹く寅次郎にも登場したとありましたが、より最近の筈なのにその記憶はありません。
これはもう完全な老化現象でしょう。

「寅さん」 ロケ地の岡村邸

岡村邸の門

門の前の石段に置かれた映画ロケ写真

門から見た岡村邸
道から北を望むと正面に臥牛山が遠望できます。当時の武士は毎日、城を遠目に見て
登城したのでしょう。今も歩くと髷を結った武士が登場しても不思議ではありませんが、
備中松山藩は最後まで幕府側に付き従った結果、明治政府に睨まれる羽目に。
そのため多くの藩士は屋敷を出て他所へ移り、今の屋敷には明治以降に入居した人が大半だとか。
地元で聞いた話ですが、想像とは大分違っていました。
唯、武士階級でもない人達が今に至る迄、屋敷を護った事は評価して良いでしょう。

岡村邸の向こうに見える臥牛山

石火矢町の武家屋敷通りから見る臥牛山

武家屋敷を南下すると桝形や階段が現れる
ここを右に進むと頼久寺。

高梁鍛治町郵便局 ; 石火矢町ふるさと村の武家屋敷、村花・サツキ
かつては寅さんのロケ地で観光客が来ましたが、最近は備中松山城が日本最高地点に建つ
天空の城として人気急上昇中とか。
加えて、平成30年の豪雨の後に三の丸で保護された猫が「さんじゅーろー」と名付けられ猫城主に。
【にゃん】だか「ひこにゃん」「たま駅長」の二番煎じのようですが、MHCにも描かれる人気者。
下を見て歩いていると折井家の前にはカラーマンホール蓋が設置されていましたが、
備中松山城と並んで猫の絵が描かれています。
臥牛山→寅さんと来れば、卯となりそうなものですが、予想に反して猫。
キャラクターも寅から猫へと小型化しているのでしょうか?

旧折井家門前に設置されている高梁市マンホール蓋

旧折井家にて配布中の高梁市マンホールカード
[参考書]
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<コース>
【往路】JR天王寺(6:43) → JR和歌山(7:47→8:07) → JR御坊(9:09→9:13) → JR紀伊田辺(9:54)
紀伊田辺駅(10:15) → (明光バス) → 本宮大社前(11:50) → 徒歩5分 → 大斎原 → 産田神社 → 熊野本宮 → 本宮大社前(13:25) → 神倉神社前(14:17) → 徒歩15分 → 神倉神社 → 徒歩20分 → 浮島の森 → 徒歩10分 → 熊野速玉大社 → 徒歩15分 → 阿須賀神社 → 徒歩5分 → 徐福の墓 → 徒歩5分 → 新宮駅
【復路】JR新宮(17:10) → JR紀伊勝浦(17:37)

熊野速玉大社(全国熊野神社総本宮 式内社 旧官幣大社 別表神社)
浮島の後は、いよいよ町の名前の由来となった熊野三山へ。
先に訪れた岩倉神社の山頂からここへ遷座したというのが【いわ】れ。
熊野川の畔、紀宝バイパスの直ぐ西側に鎮座する社は熊野川河口に位置する
水上交通の要衝でもあります。

入口へ到着

入口に架かる朱色の太鼓橋(下馬橋)と一の鳥居

一の鳥居近影
扁額は「熊野権現」と記されている。
熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)は、
『熊野川河口に鎮座し、熊野本宮大社・熊野那智大社と併せて熊野三山として中世の頃から
篤い信仰を集めて来た。当初は熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ=伊弉諾尊)と
熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ=伊邪那美大神)を主祭神としたが、
神仏習合が進んだ平安時代になると12柱の神々を奉祀。
「新宮十二社大権現」として崇拝を受け、やがて式内社に列せられた。

参道右手に建つ二摂社
鑰宮手力男神社(かぎのみやたぢからお)と八咫烏神社

摂社説明

ここでは手水舎ではなく手水社と書く

手水社の龍
熊野信仰の原点、神倉山の霊石ゴトビキ岩を御神体とする自然崇拝を源に、
岩に降臨した熊野の神々を景行天皇58年(128年)に現在の社地に迎えて以来、
神倉山の元宮に対して初めての御社として新宮と呼ばれるようになった。
これが現在の新宮の謂われである。

正面から見た神門

神門の扁額
以後、熊野三山を地元で統括した熊野別当の新宮一族の拠点として門前町を形成、
新宮発展の中心となった。
神職は奈良時代に穂積忍麻呂が禰宜に任じられ、それ以降は熊野三党の一つ穂積氏が世襲した。

御由緒

神門の先に建つ拝殿

拝殿の奥に見える結宮(第一殿)屋根
現在の社殿は明治16年の大火で焼失した後、戦後の昭和42年(1967年)に再建されたもの。
熊野川の畔、深い森を背にして朱塗り、熊野造の社殿が並び、神門の先に広がる壮麗で
美しい社殿は鎌倉時代に描かれた「熊野曼荼羅」の世界を再現している。
銅葺きの千木・鰹木を載せた屋根は、緑青の色が杮葺きや檜皮葺とはまた違った
美しさを見せている。』 とあります。

拝殿と奥にある結宮(第一殿)と速玉宮(第二殿)の屋根

塀の向こうの速玉宮
主祭神の熊野速玉大神は、水の動きを神格化したものとされます。
水は生命の源であると共に、古代においては主要な移動手段。船が必要ではありますが、
移動速度に加え一度に多くの物資や人数を動かす事ができる点で、陸上交通を凌ぐのもがあったでしょう。
熊野川中流の中洲に鎮座する本宮大社、河口に鎮座する当社を見るにつけ、
熊野三山はこの地域の水を支配した一族が要所に祀ったのが由来であったと思われます。

向かって右側の上三殿(左)と八社殿
手前には鈴門が五つ並ぶ。

上三殿(大三殿と第四殿)

中四社と下四社からなる八社殿
前回の参拝時に比べると境内も綺麗になり、建物の色も鮮やかになった気がします。
加えて平日ながら結構な賑わい。
皇族に【後続】する人々が多かったためでしょうが、世界遺産になった影響も大。
速玉大社はかなり綺麗に整備され【流行ったま】大社でした。

社殿側から神門と授与所を見る

速玉大社の八咫烏

世界遺産登録の石碑
[参考書]
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<コース> 電車は日中10分間隔で運行
【往路】阪急梅田 → (阪急電車) → 東向日 → 徒歩2分 → 西国街道

西国街道ひな人形めぐり 「ひな人形手づくりコーナー」にて
東海道の関宿で町並みと雛祭りを見た翌日は、うんと近場の西国街道へ。
3月1日~5日までの短期間ですが「西国街道ひな人形めぐり」が開催中。
新たな職場の近くとあって様子見を兼ねての散策でした。

イベントのパンフレット

阪急東向日駅西側にある西国街道分岐点

分岐点に建つ道標

築榊講常夜灯

常夜灯図解

向日市マンホール蓋
デザイン・色調共に優秀だが、MHCは未だ出来ていない。
向日市内ではJR向日町駅西口から阪急東向日を過ぎ、一文橋までの2㎞。
阪急東向日駅から直ぐの分岐点には天保13年(1842年)築の市内最大の常夜燈が建つが、
これは向日市寺戸町の伊勢講として江戸時代から続く築榊(つきさか)講が建立したものである。

キッチンタロー にて

キッチンタローでの展示

67号線との合流点付近にある須田家別棟

別棟入口に掲げられた屋号

玄関脇の道標
但し、これは最近になって建てられたもの。
この付近はかつて梅ノ木と呼ばれ、坂を登り切った場所で向日町になる。
昭和3年(1928年)に新京阪線(現在の阪急京都線)が開通して以来、
ここ西国街道沿いは商店が軒を連ね、通勤通学や参詣者で賑わった。

京料理 矢尾卯 の店先にて

矢尾卯の筋向いにある町屋
商店には見えないが、それっぽい造りに見える。

向日神社の向かいの musubi 助産院 にて

ちゃばな Cafe にて
西国街道は築榊常夜燈で206号線と分かれ、市役所付近で67号線と合流して南下し、
再び五辻で楊谷観音道と分岐と、分岐合流を繰り返して一文橋に至っている。
街道沿いには最初の合流点付近に須田家別棟が、一文橋手前には
中小路池住宅がかつての町並みを残している。』 とあります。

ひな人形手づくりコーナー にて
今回の展示では最も【雛数】が多い。

親王雛
これは東京 久月の製品。

有職雛
これは島津の製品。

ここから先はコーナーの方々の製作に拠る







古民家を利用しての雛人形展示と思っていましたが、展示しているのは街道沿いの店舗が中心。
ショッピングの傍らに楽しんで貰うというスタンスのようですが、休みの店舗も散見。
展示を見るのは無料ですし、お店が休みでもショーウインドウ越しにみえるので、
不都合はありませんが、町の活性化にはどうでしょう。これからも続く事を願いたいものです。

クリーニング つき山にて (五辻の北側)

つき山 の展示

㈱ 野村龍酒店

銘酒と雛人形

五辻の常夜灯

五辻で西国街道は再び分岐
町屋の奥に見えるのが石塔寺。

(有) 吉川工務店
阪急京都線の直ぐ北側。

雛人形 源氏枠飾り
これは他所より譲られたとか。
[参考書]
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昨年は、拙Blog を訪問頂き有難うございました。
これからも引き続き、応援&御贔屓頂ければ幸甚です。
併せて、今年も巡礼先で皆様の御健康と御多幸を祈念致します。
さて念頭に当り、今年の干支がご挨拶致。

宇治神社の手水舎
【卯の目鷹の目】で探しても、昨年の寅に比べて所縁の寺社は少なく、
直ぐ思いつくのは因幡の白兎神社くらい。
しかし最近はウサギの置物があるという京都市内の岡崎神社が人気急上昇中。

宇治神社拝殿前の「見返り兎」
加えて穴場では宇治神社がお勧め。宇治神社は御祭神の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子が
道に迷って難渋していた時に、一羽の兎が出現し皇子を振り返りながら先導した伝説があるとか。
以前は「宇治」を「菟道」と書きました。

宇治神社 「見返り兎」 御神籤
大きく力強い寅と辰に挟まれて小さく可愛い兎ですが、生物学的には繁殖力が強く、
敵を察知するために非常に広い視野を持つという長所があります。

宇治上神社 兎御神籤
① 二兎追うものは一兎も得ず
② 脱兎の如く
③ 狡兎三窟
今年は、どの路線で行きましょうかね?
2023年 元旦 和辻 鉄丈
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謹んで新春のお慶びを申し上げます。
尚、表題は「謹賀新年」で、「金が信念」ではありませんので、念のため。
弊Blog も5年目になりました。これも訪問して励まして下さった皆様の御蔭と感謝して居ります。
一方、3年目のコロナ禍も【タイガー】いにして、早く【虎口を脱して】従来の生活に戻って欲しいものです。

信貴山朝護孫子寺
今年の干支である寅に所縁の寺&今年1400回忌の聖徳太子所縁の寺
龍虎と言うように、干支の中で強いものの代表。架空の龍に対し虎は実在の動物ですが日本には棲息しません。
それでもあちこちに登場するのはその強さに肖る意図があるのでしょう。
インドには百獣の王であるライオンも棲息していますが、虎の方が強いのでしょうか?
「虎の威を借る」「虎口を脱する」「騎虎之勢」「前門の虎後門の狼」「虎に翼」など虎を使った故事成語は多く、
まさに「虎穴に入らずんば【故事】を得ず」と言えます。
今年はこれを座右の銘にして、フーテンの寅にはならないように努めようと思いますので、宜しく御願い致します。
2022年 元旦
和辻鉄丈
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ルネサンスでデビュー、その後古代ローマ人の興亡、中世十字軍と作品を上梓してきた著者による久々の評伝である。フリードリッヒ二世といえば、啓蒙君主としての十八世紀のプロイセン王が有名だが、ここでは十三世紀の神聖ローマ皇帝及びシチリア王で別人である。
フリードリッヒ二世についてはブルクハルトの「玉座の上の最初の近代人」評が有名である。封建領主時代に強力な王権国家を目指したこと、貨幣経済を推進したこと(この辺りは我が国の織田信長にも似ている)、君主の学問的素養が低かった中世において高い知性を有したこと等が挙げられるが、最も近代的と言えるのは自分以外に対等の他者を認めた点であろう。
当時のヨーロッパはキリスト教主流の世界であり他は征服して改宗させる対象であった。これはイベリア半島のレコンキスタから南北アメリカ征服を経て、二十一世紀の現在でもその継承国家による世界警察的監視へ連綿と続いている。東アジアを一瞥しても広大な国家を中心とし朝貢国が周囲に存在するという思想の世界である。いずれも自分以外の他者を認めない点では共通しており、この亡霊が現在でも各地で対立紛争を惹き起こしている遠因と言える。この時代に曲がりなりにも他者の概念があったのはイスラム世界くらいであろうか。
キリスト教以外の古代ギリシア・ローマ時代に価値を見出した運動がルネサンスと呼ばれるのならばフリードリッヒは正にルネサンス人、著者が「惚れた」のも頷ける。著者の言によれば45年前にその構想があったが、時期が来なかったから今まで書かなかったと前書きにある。作品を読みながらその理由を考えてみた。ルネサンスは才人を輩出したがこれは時代の流れと言えなくもない。しかし、その250年も前に近代人フリードリッヒが一人だけ突出して出たのは何故か。45年の歳月は著者にとってその答えを求める期間であったと思う。
それではフリードリッヒが何故この中世にこのような考え方を持つことが出来たのか。著者によれば彼が多宗教、多民族の坩堝であるシチリアで育った影響も勿論あるが、それにも増して幼年期に彼が受けた教育が大きいといえるのではないか。
君主ともなればキリスト教高位聖職者が教育に当たるのが常であるが、彼の場合は周囲の事情で放任されていた。いわば「ゆとり」教育であるがこのような場合、人間は大雑把に言うと怠惰に流されるか自身を磨くかに分かれる。彼の場合は後者であった。
親兄妹もない境遇では独学しかないが、彼は生来旺盛な好奇心に恵まれていたようである。キリスト教、イスラム教の書物に加え自然科学に興味を示しているのが異彩を放つ。ピサのレオナルド(数列のフィボナッチ)を見出したことや当時の学問を網羅するための国立大学を設立したこと、鷹狩りに関する著書の行間から見えるのは統治者ではなく理系人間の顔である。自然科学では観察することから始まる。物事を客観的に見るバランス感覚は自然科学を通して養われたのだと想像できる。
市井の人として生まれていても彼は名を成したと思うが神聖ローマ帝国皇帝という立場でもその才能は発揮される。その頂点は第五次十字軍であるが、戦闘ではなく外交交渉によって無血で聖地回復するのであるから痛快である。十字軍の主旨からいえば成功裡に終わったと言えるが、ヨーロッパでの評判は必ずしも芳しくなかった。教皇庁とも再三に亘り揉めている。第六、七次十字軍を率いたフランス王ルイ九世が失敗であったにも拘わらず聖人にされたのと対照的である。
事実ヨーロッパの他国の人々からも「皇帝は異端である」と思われていたらしい。イスラムの太守とは通訳なしのアラビア語で対話し、互いに尊敬の念で結ばれたフリードリッヒであるが、同時代のヨーロッパに理解者を見出すことはできなかった。尤も彼が抜擢した人間は少数の例外を除いて彼に最後まで従っていることから、決して狭量ではなく人間的にも魅力があったに違いないと思うが時代は彼には冷淡であり早く生またことによる悲劇があった。
彼の死と共に神聖ローマ帝国は大空位時代(1256~1273)に入りスイスの小領主であったルドルフが本命のボヘミア王を抑えて皇帝に選出される。蒼鷹の城主(ハプスブルグ)と呼ばれた彼の登場でヨーロッパは新たな歩みを始める。一方のシチリアでは、フランスのアンジュー家の侵攻でフリードリッヒの家系は断絶する。その後“シシリアの晩鐘”と呼ばれる暴動を経て支配者はイベリア半島のアラゴン家へと代わり植民地化していく。暴動に際し島内の民衆が結束しマフィアを生むという伝説までついた。
このように彼の統治下にあった場所では彼の思想は生きなかった。フリードリッヒの思想は彼独自のものであり現代以上に個人の資質に国家が左右される中世では彼の死と共に終わる運命であった。皮肉にも彼が支配を目指し最後まで果たせなかった北イタリア諸都市からルネサンスが開花することになる。同類ほど反発するということであろうか。泉下のフリードリッヒがこれを知ったらどのように思うか興味深いところである。
かつて歴史家堀米庸三はその著「西洋中世世界の崩壊」において“シシリアの晩鐘”を中世後期の分水嶺と捉えた。著者による今回の作品はそれに代わる新たな時代区分の提唱といえる。加えてこの作品により塩野七生によるヨーロッパ史の大循環が達成されたことにもなる。
【参考書】
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戦後の中世ヨーロッパ史をリードした堀米庸三の名著。
シチリアについての歴史書は少ないが代表的な啓蒙書は次の三点
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この2点はいずれもノルマン王国を中心に著述したもの
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最近発売された古代から現代までのシチリア通史。他民族が共存したと一般に言われるシチリアであるが、異民族・異教間での確執があったことも詳細に記載。
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清の乾隆帝の時代「富春山居図」が皇帝の手に入った。元末四大家とされる黄公望の晩年の作品であり中国水墨画史上傑作とされる。喜んだ帝は早速そこに長文の賛を記した。ところが翌年に全く同じ作品が宮廷に齎される。こちらも見事な出来栄えで先年のものと遜色なし。決定的だったのは真作が一度火中に投じられたという来歴通り焼けた跡があった事。乾隆帝はこちらが真作とはほぼ間違いないと思ったが既に先の作品に賛を書いてしまったので、『模本であるが秀作である』との短い賛を入れただけで終わった。美術史上では有名な話である。
古来より国家の支配者の発言は一度発言されると訂正する事はできないとされ『綸言汗の如し』と言う格言で表される。出典は『礼記』『漢書』であるが日本でも『平家物語』『太平記』に記述があるところを見ると、昔から軽率な発言や訂正が多かったことの証。上に立つ者程、発言する前には十分に考える事が必要とされる所以である。
先頃も領土問題の発言で物議を醸した議員がいたが、これも発言前の思慮不足は明らか。最高学府出身のキャリア官僚であるから知識に問題はない筈。日本の最高学府は官僚養成所として出発、そして官僚制度は中国の科挙の焼き直しというのはよく知られた話。「科挙というとアカデミックな印象だが実際は秘密結社のようなものだった」とは東洋史学の泰斗宮崎市定の言である。秘密結社とは極端であるが大学からキャリアまで、まして中高一貫ならぬ塾からも一緒となれば仲間意識は相当なものだったと想像できよう。問題があっても身内の事として処理するという甘えがあった事は間違いない。しかし政治家になると一歩進んだ意識が必要になるのも真実である。
『かつて領土問題でもう一歩のところまで行ったのは橋本龍太郎氏だった。』と外務関係者が話していた。氏は領土問題を切り出す話のツボを心得ていたそうで、それを支えた教養は永年に亘り培ったものであろう。歴代総理大臣の中では大平正芳と橋本龍太郎の両氏が神田古書街の常連だったとかで、いずれも通常のキャリアと異なる出身だったのが自己研鑽に繋がったと言えようか。
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現在、東京国立博物館で顔真卿の特別展が開かれています(2019.1.16~2019.2.24)。国宝級の真筆も展示されており、日本だけでなく台湾・中国からも多くの人が来ているとか。

副題「王羲之を超えた名筆」でも分かるように顔真卿と言えば我が国では書道家として知られており、空海を筆頭に大きな影響を及ぼしています。今回、博物館での展示と時を同じくして顔真卿の伝記が出版されたのは偶然ではない気がします。御朱印を拝受している身としては彼の生涯に触れることも意味のある事ではないでしょうか。

旧中国では詩人・画家・書家というのはそれで食べるプロではなく、士大夫と呼ばれる高級官僚が己を高めるために或は余技として行ったもの。因みに王羲之も東晋では大臣まで登った人でした。
顔真卿は唐の玄宗皇帝の時代に科挙に合格し官僚としての道を歩んだ人。それだけでもエリートですが、加えて彼の一族が尋常ではありませんでした。遠祖が孔子の最も有能な弟子だった顔回というのはあてになりませんが、五代前の先祖が顔之推。彼は南北に分裂していた中国の梁に生まれましたが戦乱の為、北に逃れ北斉・北周・隋に仕えました。戦乱の世の苦渋を嘗めた訳ですが、その体験を『顔氏家訓』という書に纏め子孫の為の戒めとします。
『私は少しではあるが学問をしたおかげでどうにか職にありつけることができた。乱世にあっては財産があってもそれが亡くなれば何も役には立たず奴隷のように人に使役されて終わるものだ。だからくれぐれも学問を疎かにしてはならぬ』
と言うのがその書の骨子だったかと記憶しています。この書は後世まで伝わり重んじられ中国で家訓と言えばこれを指すようになりました。実際、顔之推の子孫からは漢書の注釈を行った顔師古初め学問に優れた人物が輩出。中国の家族主義はよく言われる所ですが、顔之推はそれを実践したと言えましょう。
顔真卿もその例に漏れず、書家としては王羲之以来の流麗な書法と異なる楷書体を確立。また剛直な性格でもあり高級官僚でありながら度々上司と衝突、左遷・降格の目に遭います。家訓の著者の末裔と言う意識があったのは事実でしょうが、性格でも楷書そのものと言えましょうか。
このままで行けばそれなりの役人人生を全うできたでしょうが、755年に安史の乱が勃発。玄宗皇帝と楊貴妃の泰平の夢は破れて唐王朝は坂道を下り始めます。各地で反乱軍が猛威を振るう中、顔真卿は従兄弟の顔杲卿と共に反乱軍に立ち向かいます。顔杲卿は反乱軍によって悲劇的な死を遂げますが、顔真卿は生き残り皇帝粛宗に見える事となります。
乱後は官僚として復帰しますが、その性格は変わらず上司に睨まれ地方勤務が続きます。その間、腐ることなく書に打ち込んだのは流石と言えましょう。後に都に戻りますが、またしても上役に睨まれたため、当時反乱軍の長であった李希烈を説得するために遣わされ、そこで反乱軍の手で処刑されると言う悲劇的な最期でした。
まさに剛直な忠臣を絵に描いたような生き様で後世には崇拝を受けるようになります。唯、残念なのは彼も家訓を書いた顔之推の末裔、生き残る術は学んでいた筈。己が大志を成就させるためには小事に拘る必要はないと言う考えにどうして至らなかったのか。妥協を許せない性格が災いしたと悔やまれます。
中国には彼の様に科挙に合格して官僚になったものの、政争に明け暮れて目的を果たせず、その鬱憤を晴らすために打ち込んだ文学などで後世名を挙げた人が多くいます。本人はそれで本望でしょうが、本来の目的が達成できなかった事は否めません。余りにも過酷な受験を経た事で自分の能力を過信したか、柔軟な考えが出来なくなったのでしょうか。日本は中国から様々な物を取り入れましたが、科挙と宦官だけは入れませんでした。日本の文人からは絶賛されることが多い科挙ですが、功罪は相半ばするもの。それがなかったが故に国内を二分するような政争がなかったとも言えましょうか。
著者は中国史家で京大名誉教授、新唐詩選で有名な吉川幸次郎氏は父君になります。後漢書の訳で知られますが、私が初めて著作に接したのは四半世紀前の「劉裕」の伝記。以後、「侯景の乱始末記」「王羲之◎六朝貴族の世界」と中世中国の人々の伝記に接してきました。その卓越した人物描写は「劉裕」以来変わりません。顔真卿の書の奥深さを知るためにも一読を勧めたい著作です。
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)

11月15日の帰り、JR京都駅を通るとこのようなものが…。
11月の観光シーズンを狙ったものでしょうね。
ネットではこのようなものも結構ありますが、寺社も積極的に売り込みをしないといけないと言う事でしょうか?
今昔の感があります。

これは御朱印基礎知識編

アート御朱印編

歴史アイドル編

これはキャラクター編

これは歴史教科書編?
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御朱印帳のあゆみ
今では信じられない事ですが、私が御朱印を始めた平成4年には、御朱印をしているのは、ごく一部の年配者。
しかも殆どが女性。御朱印と言う言葉すら市民権を得ているとは言い難い状況でした。
その年の秋に訪れた京都の寺院(嵯峨野の二尊院ですが…)で、御朱印を頂こうと、帳面を差し出すと
「これはスタンプ帳!、御朱印は御朱印帳に書くものですよ。」
「御朱印帳って何ですか?」
「和紙が蛇腹式になっている帳面やね。スタンプ帳やと開けて書き難いし墨のノリも悪いんよ。」
と言われ、初めて御朱印帳の存在を知りました。
「では御朱印帳を下さい。」
「いや、ここには売ってない。」
と漫才の掛け合いのような遣り取りの後、スタンプ帳に書いて頂きました。
その時は事なきを得ましたが、これからの寺社巡りには御朱印帳なるものが必須と分かりました。
当時は置いている寺社が少なく、行く先で購入が出来ない事も茶飯事、前もって購入したものを持参する事が暫く続きました。
寺社だけでなく書店や雑貨店でも売っている今では、時代の流れを感じます。
私の御朱印は地域別にしているため、購入した御朱印帳は20冊を越えます。それを振り返ってみました。

平成4年に購入した最初のもの
左;園城寺三井寺 右;南禅寺
いずれも、布製紺色で、寺院の名や他の修飾は一切ない。御朱印帳の欄も記入式である

平成4年以降だが、札所や本山で購入したもの
左上;興福寺 右上;壷阪寺 左下;蓮華王院(三十三間堂) 右下;延暦寺
布製単色ながら、伽藍や塔などその寺院を代表するデザインが記載。また御朱印帳は予め記載してあり、その下に名前を書く

表面

裏面
左上;道成寺(和歌山) 右上;慈照寺(金閣寺) 左下;飛騨国分寺 右下;善光寺(長野)
いずれも平成10年以前に購入
布製だが多色になり、裏には寺院の名前が記載されている。デザインもその寺を代表するものが多い。観光寺院で顕著か?

左;大雄山道了尊 右;深大寺
関東の寺院でも同様の御朱印帳が出ている。これは平成20年代後半に購入したもの。

左;永源寺(滋賀) 右;長谷寺(鎌倉)
寺院といえば花で有名な所も多いが、それを御朱印帳に反映したもの

石薬師寺(三重県)
これは見開きにすると歌川広重の東海道五十三次の浮世絵になるもの。東海道の宿場では唯一寺の名が宿場名になった。
細かいデザインであるが、布製の力作である。

ここ5年位の間に、老若男女を問わず御朱印ブームになったが、御朱印帳にもそれが反映されている
ゆるきゃら、絵画等、綺麗で可愛いものが主流を占めつつある

足利織姫神社(栃木)
御朱印は本来寺院で写経をした証に頂くものであるが、神社でも頂くことができる。
寺院に比べ、神社の御朱印帳の方が煌びやかなので、特に若い女性を中心にコレクターが多い
これは縁結びで有名な神社で、男性様は青、女性用は赤となっている。

御朱印ブームと共に、御朱印帳袋も登場
以前は手製の布製袋に入れる人が殆どであったと思うが、最近はデザインに趣向を凝らしたものがデパート等で販売されている。
一部の寺院ではオリジナルのものを販売しているが、これは妻沼聖天(熊谷)のもの
大雑把に見た感じでは、百貨店に比べ寺社の方が安価な印象がある
これだけ色々とあると、巡礼先でMy御朱印帳やMy御朱印帳袋を見つける楽しみが増えますね。
どのようなものを選ぶかは全く自由ですし、神社と寺院を区別する必要もありません。
唯、御朱印帳に駅スタンプや記念スタンプを押印するのだけは避けて下さい。
昔と違って、そのような帳面には御朱印を拒否される可能性が大ですので…。
[御朱印帳の購入に当たって]
御朱印を始めるに当たってどのような御朱印帳を買ったら良いか悩んで居られる方には下記が廉価でお勧めです。
①表紙;布、 ②中紙;和紙、 ③構造;蛇腹、 ④サイズ;大判 182×121㎜
を満たしています。サイズが小さいと墨書に不便と思いますので…。
一見地味ですが、初めはこれくらいが適切で慣れたら自分の感性に合った御朱印帳を購入すれば良いでしょう。
私の場合は寺院中心、地域で御朱印帳を区別していますので、気に入った御朱印帳があった寺院では都度購入しています。
御朱印帳の値段はピンキリですが、大体¥2,000以下で手に入る事が殆ど。
特別製の表紙や紙に拘る余り、経済的に続かなくなってしまうのは避けるのが肝要かと思います。
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寺院で伺った処、御朱印は亡くなった時に一緒に納棺して貰うのが原則だそうで、それまで保管するのには一ヵ所に纏めて置くのが良いでしょう。余り多くの冊数を入れると重いので1ダースくらいが目安です。
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
かくありし時過ぎて、世の中いともの憂く、兎にも角にもつかで世に経る男ありけり。
かたちとても人にも似ず、こころ魂もあるにもあらで、かう物の要にもあらであるも理と思ひつつ、
唯終日明かし暮らすままに世間に多かるぶろぐ、ほおむぺいぢの端などを見れば、世に多かる旅行記などあり。
人にもあらぬ身の上まで書き記して珍しき様にもありなむ、天下の人の閑を過ぐしたるやと問はん試しにもせよかし、
と思ゆるも、過ぎにし年月の事共覚束なかりければ、さてもありぬべき事なむ多かりける。
<超訳>
昨今、御朱印がブームになっています。有名な寺社では御朱印待ちの行列ができる所も珍しくありません。
期間限定のオリジナル御朱印を出している寺社もあり一層の拍車がかかっています。
このブームですが若い女性を中心に神社のパワースポットを巡るという事が嚆矢になった様です。
最近では御参り先で若いカップルが仲良く御朱印を拝受している姿を見る事も多くなってきました。
御朱印は写経の証としてお寺が授与するのもですから若干違うと言う意見もあるでしょうが、
きちんと御参りしている訳ですから目くじらを立てる程の事もないでしょう。
書店では御朱印や巡礼に関する書籍が並び御朱印帳も販売されています。かつては巡礼先で購入しようとしても
御朱印帳がなく書いたものを購入して貼付した事もしばしばでしたが今ではそんな心配は無用。
今から御朱印を始めようとしても方法に迷う事もないでしょう。『少しの事にも先達はあらまほしき事なり』ですね。

平成30年に入手した御朱印帳
私が御朱印を始めた平成4年には御朱印をするのは年配の女性、いわゆる御婆さんばかりで
不思議と御爺さんはいませんでした。
納経所で出会う事があると「若いのに偉いわねぇ!」と感心され、お茶を御馳走になった事もあります。
今、自分がその年になってみると「若いのに偉いね!」と言うより先に、
向こうから「その年で偉いですね」と反対に声を掛けられそうな状況。
やはり四半世紀は大きいと言う事だと実感しています。
ネットでも皆さんが拝受された御朱印の印影がアップされており家に居ながらにして楽しむことが出来ます。
これも通信技術のお蔭でしょうが、いま己の来し方を振り返ってみると色々と紆余曲折がありました。
御朱印の意味も分からずにお金ばかり掛かった初期、巡礼に行ったものの仏教に無知で頓珍漢な対話しかできずに
冷や汗をかいた事、今では良き思い出になっています。
朧気な記憶と御朱印を見返しての回想ですが、皆さんの巡礼の一助になれば幸甚です。

平成4年に開始した時の御朱印帳 左;近江編、 右;京都編
[参考書]
発売して3年経ちますが御朱印のバイブル的存在。御朱印の意味や各地の拝受できる場所の一覧、オリジナル御朱印帳も掲載。
入門はこれ1冊で事足りますが、巡礼先での未知の御朱印を期待している人には不向き?
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