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下松駅前(9:25) → (南海ウイングバス) → 道の駅愛彩ランド(9:44) → 徒歩10分 → 積川神社 → 積川神社前(10:46) → (南海ウイングバス) → 池尻(10:58) → 徒歩5分 → 久米田寺 → JR久米田(13:19) → (阪和線) → JR北信太(13:27) → 徒歩5分 → 葛葉稲荷神社 → 徒歩15分 → 聖神社 → JR北信太
【復路】JR北信太(15:27) → (阪和線) → JR天王寺(15:46→15:52) → (大阪環状線) → JR大阪(16:06)

聖神社 信太明神(和泉国三宮 式内社 旧府社)
聖神社の広い境内を順に参拝。
『本殿は慶長9年(1604年)の再建。檜皮葺屋根、正面に千鳥破風、
軒に唐破風を付け向拝を設けた「三間社入母屋造」で、荘厳で雅やかな
安土桃山時代を象徴する極彩色や彫刻が施された大規模な社である。
日光東照宮の創建時には、当社本殿を参考にしたとされる。
昭和12年(1937年)の大修理工事の際には、慶長9年の再建と
江戸期の修理を裏付ける棟札が発見された。

塀越しに見る本殿の千鳥破風と唐破風

本殿の向拝部分

本殿側面

極彩色の組物

蟇股の彫刻は鳳凰か?
三(さん)神社は保食神(うけもちのかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、
別雷神(わけいかづちのかみ)が御祭神。通称「奥宮」「信太稲荷」で農耕・産業・食生活を見守る宮。
社殿は安土桃山時代の「三間社春日造」の建築様式である。
瀧(たき)神社は伊邪那岐・伊邪那美の夫婦の神を祀り、夫婦和合・縁結び・子宝の御神徳を持つ。
こちらの社殿も安土桃山時代の「一間社春日造」の建築様式となっている。』 とあります。

境内末社の瀧神社(左)と三神社
いずれも国の重要文化財。

一間社春日造の瀧神社

正面に千鳥破風、軒に唐破風付き向拝を設けた瀧神社

三間社春日造の三神社

三神社の千鳥破風の蟇股彫刻

三神社の檜皮葺屋根

三神社の向拝の彫刻
ここも積川神社同様、重文である社が修復を経て鮮やかに蘇っていました。
御朱印を御願いいした宮司さんの話では、
宮司 ; 「個人的には、檜皮葺よりもスレートあたりにしたかったのですが…。」
私 ; 「高価になりますからね。」
宮司 ; 「檜皮葺だと、鴉が巣の材料に引き抜くのですよ。」
私 ; 「耐久はどれくらいでしょう?」
宮司 ; 「20~30年ですね。」
私 ; 「それでは普通の家と一緒ですね。」
宮司 ; 「檜皮葺のできる業者さんがは全国で数えるほどしかなくて。」
私 ; 「遠方から来られるのですか?」
宮司 ; 「幸い、近畿にも居られたので助かりました。伝統継承は多変ですわ!」
と言った会話。神様も鴉には【クロウ】されているようでした。

境内の北側にある平岡神社

平岡神社説明

平岡神社本殿

こちらは厳島神社
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聖神社(和泉国三宮 式内社 旧府社)
この日は葛葉稲荷神社で巡礼止めの予定でしたが、葛葉稲荷神社が聖神社から分祀したと聞き、
これは元社にも参拝しないと画竜点睛を欠く、或いは龍頭蛇尾に終わると思い予定を延長。
阪和線の線路を越えて熊野街道筋を南下。新興住宅に囲まれた先の神社と異なり
歴史を刻んだ家並みが続きますが、やがて東側に大きな石の鳥居が出現。
ここが神社の入口で、道を東に進み坂を上って10分程で信太山丘陵の西端にある神社へ到着。

熊野街道沿いに建つ長屋門

同じく街道沿いの重厚な屋敷

街道東側に現れる一の鳥居
ここから東へ上る。

街を見下ろす高台へ
社碑に続く参道を進み左折するとやがて行く手に社殿が。
街道沿いの鳥居からここまで10分程かかりますが、坂を上り木々の間を抜ける事で、
古社への参拝の期待がいやがうえにも高まります。
『聖(ひじり)神社は信太(しのだ)明神とも呼ばれ、静かな森に囲まれた場所に社殿が建つ。
かつてはその神域一帯は信太森と呼ばれる深い森林地帯であったと言う。
創建は天武天皇3年(674年)8月15日、天皇の勅願に拠って信太首が聖神を祀った事に始まるとされる。
当時この付近一帯は荒地で、人々の生活は困難を極めたが、神社を創建するとその御利益で
稲が「信(の)び信び太く」育つようになり、地名も「信太」に、この地の人々も「信太」を名乗るようになった。

坂の上にある社碑と二の鳥居

二の鳥居脇の風化した狛犬

二の鳥居に続く参道

参道を左折した先に見える社殿
この神徳が国家にも認められ、皇室や公家の守護神として、また各地の人々の崇敬を集めた。
延喜式内社で和泉国五大社の内、三ノ宮に当たる。
聖神は「日知り」の神、つまりは暦の神と見做されて、信太郷に住んでいた渡来氏族の陰陽師の信仰篤く、
後に土御門家に属する陰陽師の安倍晴明に関する伝承も多く伝わる。
江戸時代前期の僅かな時期ではあったが、独自の暦を発行していた事もあった。
聖武天皇や後村上天皇からは社領の寄進を受け、宇多上皇は参詣の際に、当社に御衣を奉納。
後白河法皇が参詣の際に宸筆の社額を奉納したものが、社宝として今に伝わる。

境内の南側にも鳥居が建つがこれは脇門扱い

南側から見た境内

由緒記

境内見取図
天正3年(1575年)には織田信長から朱印地の寄進を受け全盛を極めるが、
その10年後の天正13年(1585年)には豊臣秀吉の根来討伐の兵火に拠り社殿焼失。社領も没収された。
秀吉の死後、慶長9年(1604年)には豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として本殿を再建、今に伝わる。
かつて当社の神仏習合を示す別当寺である萬松寺、堂塔伽藍を有した奥之院は
明治初期の廃仏毀釈で廃寺。
上地令に拠る境内縮小に伴い、信太山丘陵(現在の鶴山台)に点在していた三神社、
瀧神社などが境内末社として現在地に鎮座した。』 とあります。

拝殿

拝殿に掲げられた「聖神社」の扁額

向拝の蟇股の彫刻

拝殿前の手水舎
山の中腹の高台に鎮座し、広い境内を有する当社は、和泉三ノ宮に相応しい荘厳さに包まれています。
由緒記にあるようにかつては暦を司っていたそうですが、太陽や星を観察するために高台を選んだのでしょうか。

手水舎から北を望む
右手が拝殿、左手が社務所。

聖神社御朱印
スタンプ形式で、セルフで押印する。
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信太森神社(旧村社)
境内にある葛の葉伝説の石碑
近世以来、葛葉稲荷神社が有名になったのは所謂「葛の葉狐」の伝説のお陰。
『平安時代の朱雀天皇の頃、大坂阿倍野に安倍仲麻呂七代の子孫である
阿部保名(あべのやすな)と言う美丈夫が居た。
彼は讒言によって所領を失っていたので、所領回復と家名復興のために
葛葉稲荷神社に日参していた。

伝説の解説

奉納された絵

山門前左の狐の石像
咥えているのは鍵 or 巻物?

同じく右側の狐の石像
こちらは宝珠を咥えている。
ある日、保名は日参の帰路に猟師に追われた白狐を助けたが、自らは負傷する。
その後、葛の葉と名乗る女性が現れ、負傷した保名の実の身の回りの世話をした。
やがて二人は結ばれ、童子丸という子を授かるが、ある時、我が子に自分の正体を知られる。
葛の葉は保名に助けられた白狐の化身であった。

姿見の井戸

井戸の説明

白狐化身の木

楠木龍王の碑

龍王碑の由緒記

社殿奥に広がる森
葛の葉は父親の言いつけを守るよう我が子を諭し、保名の元を去る。
去り際に、傍らの障子に口に筆を咥えて
・恋しくは 尋ねきて見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉
の一首を記した。家に帰った保名はこの歌を見て驚き、
信太の森へ来て見ると、一面に葛が生い茂るばかりであったという。

本殿左手に聳える大楠
花山天皇が「千枝の楠」と名付け、清少納言も『枕草子』に記した名木である。

大楠の由緒記

大楠根元に祀られている楠本大明神
根元が二つに分かれている事から「夫婦楠」とも呼ばれる。

大明神の白狐の神様

南側から見た大楠と本殿
童子丸は長じるに及んで才能を発揮、天皇の病気を治した事で名をあげ、
安倍家は復興を果たす。かれは後の大陰陽師安倍晴明。
この話が江戸前期の古浄瑠璃「しのだづま」以来、浄瑠璃・歌舞伎の題材として広く使われた。
落語「天神山」でも知られる。』 とあります。

境内に繁茂する葛の葉

江戸時代の風景

境内の遠望
文化人類学的には異類婚姻譚というもので、雪女、羽衣伝説と類似のもの。
いずれも後に正体が露見して二人が別れる悲劇に終わるのも同じです。
このような伝説の背景にあるのは、その人物が人間離れした能力を有する場合が殆ど。
安倍晴明の超能力を狐の霊力に求めたと想像できます。ではなぜ狐なのか?

境内南にある社務所で御朱印を拝受
一見、茶店に見えるが、くずもちを売っているので間違いではない。

葛葉稲荷由緒

「信太の森 霊験記 葛の葉姫」 の冊子 ¥500
舞台は異なりますが、『唐代伝奇』には、
中国四大書家の欧陽絢は母親が猿神と交わって生まれたという話があり、
その伏線として政府の壁に掲げられた彼の肖像画を見たある人が
「何故、ここに猿の絵があるのか!」と言ったとか。
今に伝わる清明の肖像画を見ると、彼が狐顔だったので、
このような伝説ができたというのが真相かもしれません。

葛葉稲荷神社御朱印

張子の白狐の御守り ¥700
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信太森神社(旧村社)
岸和田市で道の駅、積川神社及び久米田寺に参拝後、駅に着いたのが13時過ぎ。
流石にそのまま帰るのも芸がないので北信太で下車。北河内の人間が下りる事も稀で、
高3の担任だった先生が信太高校の校長で定年された事をやっと思い出した次第。

簡素なJR北信太駅舎
現在は無人化?

JR北信太駅スタンプ (2006年JR西日本大阪支社印)

駅を出て正面に建つ一の鳥居

南に進むと直ぐある二の鳥居
奥に次の鳥居が見える。

交差点を挟んで建つ三の鳥居と四の鳥居

神社入口に建つ石の鳥居
駅から南西に5分歩くと楠の大樹が目印の葛葉(くずのは)稲荷神社。
信太森(しのだのもり)神社が正式名ですが、葛の葉伝説が有名になったので、こちらの通称で知られます。
信太森(しのだのもり)神社は、
『和銅元年(708年)、元明天皇が楠の御神木の化身である白龍に対して祭事を行った事が嚆矢。
信太森神社はその神木を御神体とした神社として建立されたと言う縁起が伝わる。
また別の言い伝えでは信太首(しのだおびと)の後裔が守護神として聖神社から分祠したとも言われる。

門前にある由緒記

境内案内図と50を越える摂社

門前の狐の石像

神門を通して見た境内

神門の幕に描かれた神紋

神門から続く参道と大楠

手水舎

和泉式部の歌碑

歌碑解説

松尾芭蕉句碑
近世以来、特にこの神社が有名になったのは所謂「葛の葉狐」の伝説に拠る。
大坂阿倍野に住んでいた阿部保名(あべのやすな)と信太の森の狐(葛の葉姫)とが情を交わし、
二人の間に後の大陰陽師となる安倍晴明が生まれた。
江戸前期の古浄瑠璃「しのだづま」以来、浄瑠璃・歌舞伎の題材として広く使われた。

参道に続く石鳥居

社殿正面

鎮座御祭神

社殿の扁額

神紋が描かれた提灯

社殿全景
明治5年(1872年)に村社に列せられ、同40年(1907年)には神饌幣帛料供進者社に指定された。
その後、近在の12社が合祀され、現在も境内には50を越える末社があり、
豊穣・商売繁盛の他、学徳成就・良縁祈願・安産祈願・子宝・夜泣き・交通安全に御利益がある。』
とあります。

横から見た社殿
さて神社に来て見ると、想像よりもずっと小さな境内。
それでも周囲は住宅地に囲まれた中にあって貴重な森を提供しています。
かつては鬱蒼とした森があったそうですが、いまは「うっそー!」という位狭くなっていました。
似た例を挙げれば、梅田の「お初天神」あたりでしょうか?

社殿の彫刻

史跡の一角

利休に拠る「ふくろうの灯台」

子安石

子安石説明

境内の摂社の一つ
さて神社に来て見ると、想像よりもずっと小さな境内。
それでも周囲は住宅地に囲まれた中にあって貴重な森を提供しています。
かつては鬱蒼とした森があったそうですが、いまは「うっそー!」という位狭くなっていました。
似た例を挙げれば、梅田の「お初天神」あたりでしょうか?
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龍臥山 隆池院 久米田寺(高野山真言宗 準別格本山 和泉西国三十三ヵ所第二十三番札所) 塔頭 華厳院
明王院に続き、最後の塔頭の華厳院へ。
華厳院は、愛染明王を祀る寺院。
山門を入って右手に愛染堂が建ち、内陣にて御本尊を拝む事ができました。
これは久米田寺の塔頭では唯一の事。
加えて天井板には1枚毎に植物が描かれており、思わぬ眼の保養になりました。

山門右手に建つ愛染堂

「愛染明王」の扁額

愛染堂内陣の様子

愛染堂の天井画 (その一)

愛染堂の天井画 (その二)

華厳院庫裏

玄関前に建つ不動明王石像
その後、庫裏へ向かいますが、これは愛染さんの御朱印ではなく、
無住である和泉西国札所長光寺の御朱印をここで貰うため。
ベルを押すと、御住職が出て来られ、訳を話すと快く対応下さいました。
待ち時間があったので庫裏と庭を一巡り。窓越しに見る庭も風情がありましたが、
庫裏の部屋と言えば、入口に御簾が掛けられ、黒塗りの椅子とテーブルが。
知らない人が見れば、町屋を改装したレストランに見えたでしょう。
伺った所では檀家さんが居られるようなので、法事などの行事ではここを利用すると思えます。今風の寺院でした。

玄関の「華厳院」の扁額

玄関から続く書院の部屋

書院の襖絵と衝立
その奥に椅子とテーブルが見える。

部屋より見える庭

書院奥に広がる庭園

愛染堂(右)と書院を繋ぐ渡廊下

渡廊下から見た庭

華厳院で拝受した和泉西国札所・長光寺御朱印
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龍臥山 隆池院 久米田寺(高野山真言宗 準別格本山 和泉西国三十三ヵ所第二十三番札所) 塔頭 明王院
大師堂で御朱印を拝受した際に、
「塔頭子院の中で、明王院と華厳院の二院は御朱印対応していますよ。」
との情報を得たので、参拝する事に。
明王院は開山堂の右横、なだらかな石畳を上った先にあります。
山門を過ぎると正面に二体の仁王像がお出迎え。
普通、仁王像は山門に置かれるものですが、融通さんなので、細かい事は気にせず境内へ。

なだらかな石畳の先に建つ山門

明王院山門

山門前に建つ御本尊を示す石標

山門の正面では仁王様がお出迎え
『明王院融通堂は、昭和9年(1934年)の弘法大師御遠忌記念事業として、
先々代蓮舎実静和尚の発願で建立。泉大津市長生寺の本堂を解体移築、
本尊に如意宝珠融通尊を祀り、遠近を問わず、多くの庶民の信仰を集めた。
その後、70余年を経て老朽化が進んだため再建を発願。平成20年11月1日を以て竣工落慶となった。

参道の先に建つ融通堂

正面より見た融通堂
平成20年落慶。

明王院融通堂縁起
本尊の寶生如来は宝を生じ与える仏で、全ての理法を生み出す(万法能生)の徳を司り、
衆生の願いに応じて福徳・財宝を施す与願印の相を示し、如意宝珠(融通尊)を象徴とする。
一般的には『融通さん』と呼ばれ諸願成就・現世利益を施し、特に「金銀財宝意の如く」と称される。
縁日は毎月、1、11、21日で、内11日は融通さん参りである。
天井には和泉市の藤原祐寛画伯に拠る「水龍図」が描かれている。』 とあります。

堂に掲げられた扁額

隙間より見た内陣の様子

天井画の「水龍図」
非常に良く描かれているように見えるが内陣で見れないのが残念。

融通堂の向拝欄間の龍の彫刻
仁王像の右手に堂宇が建ちますが、これは不動堂。
正面の庫裏を右手に参道を左に進んだ先に建つ一際大きなお堂が目的地になります。

融通堂前から山門方向を見る
正面に建つのが不動堂。

不動堂

不動堂近影

不動堂前から融通堂方面の眺望
御本尊の融通尊を祀るお堂は、説明にあるように真新しく
落慶を終えたばかりの様で【ラッケー】でした。
唯、扉が閉まっていたので御本尊は僅かの隙間から拝むのみ。
奉納された「水龍図」も一部が見えただけで全体像は分かりませんでした
ここまで参拝した他の塔頭に比べ広い事に加え、境内の庭園や
置かれた不動明王や四天王?の石造が目を惹きます。
決して古いものではありませんが、綺麗に整備された庭との相性は良いようです。

融通堂前に置かれた像群

百日紅の前は四天王か?

これは童子像

不動明王と石塔

これは初耳
その後で、庫裏で御朱印を拝受した際に伺った所、通常拝観はしていない由。
塔頭の方針ならば致し方ありませんが、どうせならもう少し融通を効かせても
良かったのではないかと思った次第です。

庫裏の縁側

明王院御朱印
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龍臥山 隆池院 久米田寺(高野山真言宗 準別格本山 和泉西国三十三ヵ所第二十三番札所) 塔頭 多聞院
当寺境内には、現在、塔頭子院として五院が残っています。
『東隅に建つ多聞院は、その名の通り毘沙門天王を祀る。続く五大院は大聖不動明王を、
阿弥陀院は阿弥陀如来を祀る塔頭寺院である。
多門院・五大院は、参道正面に本堂が建ち、右手に庫裏、左手に中庭という配置を採っているが、
阿弥陀院は庭はなく直接本堂へ通じる造りである。

山門から見た多聞院境内

多聞院本堂

多聞院本堂に掲げられた扁額

五大院山門

五大院は大聖不動明王を祀る

五大院境内

五大院本堂

本堂向拝欄間の龍の彫刻

五大院庫裏
永禄年中(1560年~)、三好実休、畠山高正の争乱、次いで天正年間(1573年~)の織田信長の
河内、和泉諸寺院への侵攻等、相次ぐ法難に見舞われ堂塔は尽く烏有に帰した。
文禄、慶長に入って一部復興の兆しを見せ、江戸時代の延宝2年(1675年)に至って概ね再興整備された。
現在の堂舎は大部分この頃に建立されたものであるが、元より天平、鎌倉の盛観には及ぶべくもない。』
とあります。

阿弥陀院山門
但し、ここは閉鎖中で、裏に回って入山。

弁財天社

白髭稲荷大明神

白髭稲荷大明神の石碑
塔頭内に入るのはどこでも自由ですが、参拝は全て外陣から。
久米田寺に参拝する人は多いですが、塔頭までわざわざ足を運ぶ人は少ないと言う事でしょうか?

阿弥陀院脇の宝蔵
[参考書]
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下松駅前(9:25) → (南海ウイングバス) → 道の駅愛彩ランド(9:44) → 徒歩10分 → 積川神社 → 積川神社前(10:46) → (南海ウイングバス) → 池尻(10:58) → 徒歩5分 → 久米田寺 → JR久米田(13:19) → (阪和線) → JR北信太(13:27) → 徒歩5分 → 葛葉稲荷神社 → 徒歩15分 → 聖神社 → JR北信太
【復路】JR北信太(15:27) → (阪和線) → JR天王寺(15:46→15:52) → (大阪環状線) → JR大阪(16:06)

龍臥山 隆池院 久米田寺(高野山真言宗 準別格本山 和泉西国三十三ヵ所第二十三番札所) 大師堂
本堂の参道を右に進むと正面に建つのが大師堂。塔頭を除き唯一内陣参拝ができるお堂です。
『大師堂は文政7年(1824年)の再建。宗祖空海(弘法大師)を祀り、不動明王・毘沙門天を脇に従える。
天井には密教を表した絵が描かれている事でも知られる。
その奥には享和3年(1803年)再建の観音堂が建ち、和泉西国札所の御本尊千手観音を祀っている。

正面より見た大師堂

大師堂向拝部分

大師堂に掲げられた「御影堂」の扁額

大師堂内陣

御宝前

大師堂天井画

冊子にある天井画全図
元弘元年(1331年)10月笠置山落城し、次いで楠木城も陥り、後醍醐天皇は京都六波羅に入御されたが、
天皇擁護に奔走する大塔宮護良親王は、元弘2年(1332年)令旨を当寺明智上人に賜る。
これより南朝に味方し、国史の上に一山衆徒の活躍を見る久米田寺衆徒は大塔宮に忠誠を誓った。
建武の中興成るや、当寺寺領を管領すべき令旨を下され、後村上天皇の御代、正平年間には
南北両朝の争乱に乗じて本寺所領についてしばしば不安を感じた事が多かったが、
天皇はあくまで当寺に帰依されて保護を加えられ、先帝後醍醐天皇崩御の後には
塔婆建立料所を寄せられ、先帝の菩提を弔わしめた。

久米田寺説明書
現在は、冊子タイプは無くなった由。

久米田寺御朱印 (和泉三十三観音霊場)

鐘楼越しに見る大師堂

鐘楼とその奥の観音堂

和泉札所の御本尊を祀る観音堂
また、その後、南朝歴代天皇家の帰依も深く、特に楠木正成一門との交渉も密接で、
君臣挙げて」手厚い保護が加えられた。
吉野朝衰退後、当寺の実力を高く評価した足利家は当寺を以て和泉国安国寺にあて、
全国六十六基の随一として塔婆造立の料所を寄進した。これは実に利生塔建立の始めである。
次いで仏舎利を奉納し、光厳院も院宣を以て勅願寺と定めた。
かつして足利直義や義詮、義満から祈祷を懇望されること一再ならず、公家・武家の限りない帰依を受けた。
これは現在、平成15年(2003年)再建の多宝塔に安置されている。』 とあります。

平成15年再建の多宝塔

多宝塔近影

聖天堂付近からの眺望

靖霊殿からの眺望

多宝塔の組物

多宝塔亀腹の垂木・木鼻
本堂より大師堂の方がメインというのも不思議ですが【ほんどう】の話。
由緒記を読む限り行基は登場しますが空海の名は出て来ず。
それでも宗祖である事と、広く民衆に溶け込んだという事が広く受け入れられる由縁でしょうか?

多宝塔の周囲にある八十八ヵ所巡礼

各札所の御本尊が並ぶ
[参考書]
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龍臥山 隆池院 久米田寺(高野山真言宗 準別格本山 和泉西国三十三ヵ所第二十三番札所) 開山堂
本堂の脇にある細い参道の先には小さなお堂があります。
これが当寺を開創した行基菩薩を祀る開山堂ですが、ここも閉鎖中でした。
『開山堂は久米田池・久米田寺を開創した行基菩薩を祀り、行基堂の別名でも呼ばれる。
毎年10月には、池の水の恩恵を被る13町の地車(だんじり)が収穫感謝のため境内に乗入れ、
開山堂に参拝する行基参りが行われる。市内で地車が境内に入るのは当寺のみである。

開山堂近影

開山堂の向拝下にて
その他、境内には玄奘三蔵の遺骨と戦没者の霊を祀る靖霊殿(八角堂)、
歓喜天を祀る聖天堂があるが、行基に関わるものとして、高台の墓地に行基塚。
隣接して光明皇后の御爪・遺髪を埋葬したと伝わる光明皇后塚、
境内の南端に聖武天皇・光明皇后・亀山天皇の御墓である三基五輪の供養塔が建つ。

隙間から見た内陣

内陣の天蓋部分

冊子に掲載された内陣の様子
行基の時代には学問寺として隆盛を極めた当寺も時代と共に坂を下り始める。
平安末期から鎌倉初期への移行期は、社会不安と大動乱の波を受け、
寺領の掠失、伽藍の荒廃といった寺運の衰退が目立つようになる。
文治元年(1187年)の後白河法皇、正治元年(1199年)の後鳥羽上皇は、
相次いで寺領安堵と国役免除の庁宣を当寺に下され、幕府も下知状を発して保護をはかったが、
退廃の勢いを止めるまでには至らなかった。遂に弘安の頃に至っては
「伽藍悉く傾き、釈迦三尊の塔婆一基を残し、鐘楼、経蔵及び二十余りの僧坊、禅室全て礎石のみ残る。」
と言った有様であった。

歓喜天を祀る聖天堂

正面から見た聖天堂

後方より見た聖天堂
この頃、和泉地方を領有する鎌倉武士の安東蓮聖が、当寺の荒廃をいたく嘆いて、
再興を深く願い、執権北条時頼の許しを得て、当寺の別当職に就くや、
一族挙げての再営修復に全力を注いだ。
弘安3年(1280年)落慶、西大寺叡尊の高弟・顕尊上人を中興開山に迎え、
ここに華厳・戒律・真言の道場として再び寺運隆盛の機運を開いた。
安東氏は 「自ら菜地を寄贈し、僧俗五十余人の衣食の糧を備えられ」、
以後、一族は代々大檀越として深く当寺に帰依し、
田畑等の寄進も一再ならず、物心両面において多大な外護を尽くした。

聖天堂の奥に続く靖霊殿

昭和32年(1957年)建立の靖霊殿
法隆寺夢殿を模した八角形で、玄奘三蔵の御骨と明治以降の戦争で亡くなった岸和田市出身者の霊も祀る。
後宇多天皇もまた、当寺が行基菩薩開基の霊場である事を追慕されて勅願所に列し、
これより室町時代にかけての二百数十年の間、中興隆盛期を迎える。
即ち東大寺、高山寺と並んで華厳経額の中心として、また戒律は戒壇院、
西大寺、唐招提寺の系譜をひく、南都律の拠点として日本全土から学僧が参集した。
加えて宋人の止住も夥しく、経論の書写、講義、更に開板事業も営まれ、
学山としての名声を高め、幾多の名僧を輩出した。
また殿堂房舎が拡充されたのもこの頃で、資料に拠ると山門・金堂・講堂・開山堂・禅堂・
多宝塔・鐘楼・経蔵等の基本的堂舎の他、十余り。境内地は東西五丁、南北八丁と記されている。
子院・末寺も多く、当時子院は二十余ヵ寺に上り、和泉国内の他、遠く伊賀・摂津・東国に及んだ。』
とあります。

三基五輪の供養塔

境内の高所にある行基塚

行基塚の墓石?
行基は大和で入寂し生駒の竹林寺に葬られたので、当寺はあっても分骨。
それでも開創者に敬意を表した証と言えます。
行基は民衆を束ねて教団を形成しましたが、朝廷と争う姿勢は採っていません。
当寺もそれを守り、兵力を持つことなく学問所として歩みますが、
それでも戦乱を避けられえなかったのは皮肉な話です。

行基塚から道を挟んだ場所にある光明皇后塚

光明塚古墳
光明皇后の墳墓は大和にあった筈なので、これは分骨か、名前のみか?

史跡の看板
[参考書]
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龍臥山 隆池院 久米田寺(高野山真言宗 準別格本山 和泉西国三十三ヵ所第二十三番札所)
池にお参りした後は、その北端に隣接する寺院へ。
池を望む大門を潜ると石畳の正面に立つのが本堂である金堂。
龍臥山隆池院久米田寺(りゅうがさんりゅうちいんくめだでら)は、
『天平10年(738年)、聖武天皇の勅願に拠って、橘諸兄を大檀越(施主)とし、行基菩薩に拠って開創。
本尊は釈迦如来で行基建立49院の一つ、久米田池を維持管理するために建てられた隆池院に始まると伝えられる。

正面より見た大門
宝永3年(1706年)の再建。

大門脇に建つ寺標

金堂の向拝下より大門を見返る
その寺域は
「東は角河の流れ、春木の峯ならびに上の津川の東峯、七層の峯を限り、
南は葛城の横峯、西は松村の登路ならびに延年ヶ峯・八坂切上を、
そして北は熊野詣大道を限りに、この四至内の田畑地利を挙げて
仏聖の灯油住僧の依怙となさしむ。」 とあり、往時の盛大さを伺い見る事ができる。

由緒記

現在の寺域案内図

境内側より見た大門
聖武天皇は光明皇后と共に文武百官を率いて行幸され、
当寺を以て宝祚延久の勅願時寺に定められた。
平安時代に入ると、奈良興福寺一乗院の支配下になり、
南都北嶺の学僧の来往も多く、学問の寺として法灯を輝かせた。
幾多の戦乱を経て堂宇は焼失したが、江戸時代に復興。
宝暦3年(1706年)に大門が再建、本堂は遅れて明和7年(1770年)に再建された。
本堂の扁額「隆池院」は松平定信の筆である。
本尊は釈迦如来で、脇侍に文殊・普賢の両菩薩を祀る。』 とあります。

正面より見た金堂(本堂)

金堂に掲げられた「隆池院」の扁額は松平定信筆

金堂前面の向拝

向拝の木鼻彫刻の象

隙間から見た金堂内陣

内陣の「久米多寺」と書かれた扁額

説明書に掲載された金堂の御本尊(釈迦如来)
扉の隙間からは辛うじて御宝前が見えますが、細部は頂いたパンフで確認する事ができます。
ここで気になったのは御宝前の「久米多寺」の扁額。「田」ではなく「多」が使用されていますが、
後で確認すると元来は「多」で、池のお陰で米の収穫量が多かった事に由来するとか。
御本尊を祀るお堂ですが生憎閉鎖。特別な日のみに御開帳との事で、
行基が開創なので【ぎょうじ】のある時のみ開くのでしょうか?

左手後方からの金堂の眺望

同じく右手後方からの眺望

金堂右側面
奥に建つのは開山堂

前回参拝時に頂いた久米田寺案内冊子

重用文化財・曼荼羅図 (冊子より)

久米田寺御朱印
前回(平成23年)拝受の金堂御本尊
[参考書]
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龍臥山 隆池院 久米田寺(高野山真言宗 準別格本山 和泉西国三十三ヵ所第二十三番札所)
大門前からの久米田池の眺望
積川神社前バス停から15分、久米田バス停の一つ手前の池尻で下車。
そこから南へなだらかな坂を上ると行く手に広大な久米田池が姿を表し、
畔には久米田寺が建ちます。
『この地域は古来より灌漑の水に乏しく、農民は旱魃に苦しんだ。
そこで聖武天皇は行基に命じて溜池を掘らせ、神亀2年(725年)から
天平10年(738年)まで14年の歳月を費やして竣工した。

眼前に広がる久米田池
この久米田池は現在、水面積45.6ha、貯水量157万t、灌漑面積27.7ha、周囲2.6㎞を誇り、
平成28年(2016年)には「世界灌漑施設遺産」に登録された。
久米田寺は天平6年(734年)の開基で、この久米田池を維持管理するために
建てられた隆池院に始まるとされる。
当山中興二代禅爾上人が六万本卒塔婆供養を行って池の修復を勧進し、
楠木正成三男・正儀(まさのり)も当時の依頼に拠り、池堤を修復したと古文書に見える。』
とあります。

池の北側を望む

同じく南側

池の畔から見た久米田寺
巡礼先は久米田寺ですが、由緒から明らかなように久米田池が初めに造られ、
池を管理する目的で出来たのが久米田寺。
それを思うと先ず、池に参拝?するのが礼儀というものです。
古代史上の宗教家で各地に多くの足跡を残しているのは、役小角、弘法大師と行基。
半ば伝説的な功績を遺した前二に対し、行基の事績は橋を架ける、溜池を掘るといった土木事業。
しかも一般民衆の利益に合致しているのが特徴。
彼が掘削した池は、昆陽池・狭山池・久米田池が有名ですが、規模は縮小したものの、
現在まで農業用水として貢献している所を見ると、【かんがい】深いものがあります。

大門脇に並んで建つ久米田寺と久米田池の石碑

大門越しの久米田池の眺望

名所図会に描かれた久米田池
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積川神社(和泉国四之宮 式内社 旧郷社)
白河上皇揮毫の扁額(複製)の架かった二の鳥居を過ぎると正面に拝殿。
その奥に本殿が鎮座まします。
木材表面をそのまま使用した拝殿に対し、本殿は朱色も鮮やかな極彩色。
誰が見ても拝殿の方が古そうですが、重要文化財になっているのは本殿の方。

正面から見た拝殿

拝殿前面の造り

拝殿前の「右近の橘」

同じく「左近の桜」
『延喜式内社で和泉五社に列している。
霊亀2年(716年)、河内国から和泉国が分かれた際に和泉五社の制度が定められた。
当時、諸国に一之宮は必ず有ったが、五之宮まで定められたのは稀少とされる。
天平3年(731年)和泉五社は疫病退散の大祓を行った事から、聖武天皇から社領6800石を拝領。
積川神社はその内600石を賜った。
歴代天皇の勅願社として、また武将の崇敬も篤く、天正の頃までは
社領600石を有した格式の高い神社であった。

拝殿の狛犬の横を抜けて本殿へ

中門の奥に建つ本殿

本殿側より見た拝殿の後方
積川神社の氏地は牛滝川沿いに磯の上までの四ヵ村に及んだため、
遠方の氏子は中間点に当たる岸和田市額町に建つ鳥居から積川神社を遥拝し、
農作物の豊穣と家内安全を祈願した。
またその地は熊野街道に当たるため、熊野参詣をする皇族、
公家も勅願社である積川神社を遥拝したと言う。

千鳥破風の中門

本殿に伸びた中門
門の後方の一対の石灯籠は大坂商人加賀屋四郎右衛門の寄進、その奥は正平7年(1352年)楠正儀の寄進である。
積川神社本殿は、三間社流造・正面千鳥破風付・檜皮葺で、創建年代は詳らかではないが、
慶長7年(1603年)、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として大修理を加え、
現在に安土桃山時代の優雅広大なその様式を伝えている。
特に高欄の彫り物の鮮やかな事は安土桃山時代の美の極致とされる。
本殿南面の蟇股は「川に筆」、正面の蟇股は「笑顔の龍」と
彫り物師の遊び心が表れた全国でも珍しいものとなっている。
この本殿は大正3年(1914年)に旧国宝に指定、
昭和25年(1950年)の法律改正に拠って改めて重要文化財に指定された。
平成28年には本殿保存修理事業が行われ今に至る。』 とあります。

重用文化財・本殿

本殿の向拝部と極彩色の装飾

本殿左側

極彩色の装飾品

蟇股の彫刻 (説明書より)

本殿屋根の造り
由緒ある社寺が修復で真新しくなる事に対しては違和感を持つ人も多いようですが、
現役で使用している建造物に対して修理補修を加えるのは極自然の事。
廃墟や遺跡とは一線を画すべきでしょう。人々も建立当初は、このような社殿を拝んでいた訳ですから。

本殿の右に建つ若宮社・菅原社

若宮社・菅原社の説明

本殿の左側に建つ八阪社

八坂社御由緒

積川戎社

戎社本殿

これは白髪社か?
参拝後は、社務所で御朱印を拝受。神職が対応下さいました。
積川神社は専用のHPも持っているようで、そこには神主である積川氏が寄稿。
私 ; 「現在で、神主さんは何代目になるのでしょう?」
神主 ; 「私で77代目になります。」
私 ; 「崇神天皇の時代からですか!」
神主 ; 「さすがに、その頃は伝説のようですが。」
日本書紀の神代記でも神武天皇から9代目までは一般に欠史とされ、
10代目から崇神天皇から漸く実在したと考えられます。
77代目を鵜吞みには出来ませんが、少なくとも50代以上は一門世襲で続いていると言ってよいでしょう。
川に加えて氏の重みを感じた巡礼とはなりました。

二の鳥居を過ぎて右手に建つ現代風の社務所

社務所玄関

頂いた御由緒記

積川神社御朱印は77代目の直筆
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積川神社(和泉国四之宮 式内社 旧郷社)
一日千秋の思いで待った久しぶりの秋晴れの週末は、泉州岸和田まで。
と言ってだんじりを見たり、曳いたりする訳もなく、行先は道の駅愛彩ランド。
8月に岸和田市発行の17弾MHCが早々と品切れになり、漸く9月1日に配布再開となったため。
下松駅からバスに揺られて南へ20分。
終点で下車して10時の開店までは未だ時間があるなと思い道の駅へ向かうと
既に100名以上の長蛇の列。
「まさかMHC待ちでは?」 と不安になりながら、係の人に尋ねると
「これは朝一の地元の産物狙いですわ!」 と聞き一安心。
MHCは道の駅販売所で配布ですが、道の駅スタンプは別棟なので10時前に押印。
そうこうしているうちに10時になり生鮮食品を購入する人の間をすり抜け、MHCもゲット。
どうせならMHCも別棟ならば楽だったと思うのは私だけではないでしょう。

道の駅 愛彩ランド

配布再開した岸和田市マンホールカード

道の駅スタンプ
最近は専用台紙を置く所も多い。
当所の目的を果たした後は、駅へ戻らず170号線に沿って東へ。
牛滝山へと向かう道路との交差点を北へ200m行くと、
バス停右手に木々に囲まれた神社が。
これが延喜式内社で和泉五社に列した積川神社。

バス停の向かいにある積川神社
『積川(つがわ)神社は、第十代崇神天皇の御代に此の地に創建されたと伝わる。
積川の地名は、前に牛滝川、後ろに深山川と高低相会し「川が積み重なる」所に由来する。
社域は府道牛滝街道に接して一段の高所を占め、2500坪の広大な境内を有し、
古木森然とした中に本殿がある。
祭神は生井(いくいの)神・栄井(さくい)神・綱長井(つながい)神・阿須波(あすは)神・
波比岐(はひき)神の五柱で、共に井水・土地の守護神である。

神社の東側の高台を流れる深山川

深山川は神社を巡って西側で低地を流れる牛滝川に合流
寛治4年(1090年)には白河上皇が熊野行幸の途、熊野街道から積川神社を遥拝され、
芝草を積んで舞台を設え舞楽を奏された。
その際に鳥居に掲げられた扁額の筆跡が拙いのを御覧になり、
親しく筆を執られて「正一位積川大明神」の八文字を大書され、
これに代えられたと伝わる扁額がある。
この扁額の「額」と人々がこの地で「額づく(拝む)」という事から、後世この地を額と名付けた。
現在、この扁額は保管されており、神社の二の鳥居に掲げられているのは複製である。』
とあります。

道路に面して建つ一の鳥居

御祭神と境内社

御由緒略記の石碑
見れば狭い深山川が神社の東側の高みから北側を通り、西側で牛滝川に合流。
成程、川が積み重なった場所です。
積川と書いて「つがわ」とは不思議でしたが、「せきかわ」では重箱読み。
「つむかわ」が「つがわ」に変化したのでしょう。
川の合流地点だけに水が豊富なのは当然で、御祭神も水に関わる神様。
境内の杜もその水の賜物で、二の鳥居脇の椋と楠の巨木は、
御神木で神社の象徴的存在となっています。

石段左手にある天然記念物・椋の巨木

二の鳥居から見た椋の木

石段右手の楠の巨木
これにもう一つ加わった川は扁額を揮毫した白河上皇。
由緒記の記述にも拠りますが、端的に言えば、
「こんな下手糞な字ではアカン!朕が書いて遣わす。」
と言った様なもの。
歴史教科書では、院政を敷き三不如意で知られますが、独裁者の面目躍如と言った所です。
唯、鳥居に掲げられた複製の扁額を見たところでは、それ程達筆には見えませんでした。
そうなると以前の額はどんな字が書かれていたのかが気になる所。
嵯峨天皇や空海の書であったら、お笑いですが…。

境内から二の鳥居を振り返る
左 ; 楠、右 ; 椋の木

境内奥の社叢
深山川と境内の間にある。

二の鳥居とその先に建つ拝殿

白河上皇揮毫の扁額(複製)
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<コース> 特急サザンは日中30分間隔で運転
【往路】難波(7:45) → (特急サザン3号) → 尾崎(8:22)
尾崎 → 徒歩8分 → 浪速酒造 → 徒歩5分 → 尾崎神社 → 本願寺尾崎別院 → 徒歩10分 → 市役所分室
【復路】尾崎(9:51) → (特急サザン16号) → 難波(10:28)

本願寺 尾崎別院 (浄土真宗本願寺派)
尾崎神社参拝に続き隣接する寺院へ。
地名を冠した点は同じですが、神社がこぢんまりとした一般家屋並みの広さなのに対し、
寺院は大伽藍というに相応しい寺域を持っています。
阪南市のガイドブック等には「浜街道沿いに佇む古寺」の名で紹介。
正門は街道に向いてはいませんが、街道に沿って長い白壁が続くまさに巨刹という表現がぴったりきます。

神社に続く長い壁
この奥に正門が控えるが、ここは浜街道沿いではない。

別院の正門
浜街道から直角の道に面し、北東向き。

こちらが浜街道に面した入口
車はこちらから境内へ入る。

文政13年(1830年)再建の正門
格式高い四脚門で、彫刻欄間が施されている。

正門の扉・欄間彫刻

正門の屋根の下の彫刻
本願寺尾崎別院(ほんがんじおざきべついん)は、
『当院の嚆矢は、善徳寺という小さな草堂に遡る。
ある時、一人の老父が来て善徳寺で一夜を明かした。その時、背負ってきた笈を残し、
中には蓮如上人御染筆の六字の名号、善導大師釈文の一軸があったと伝わる。

由緒記

境内の様子
本堂(左)と庫裏・台所(奥)

正面から見た本堂
もうすぐ法要が始まる直前。
善徳寺はその後焼失するが、そういった経緯もあってか、慶長3年(1598年)領主桑山伊賀守が再建を計画。
浄土真宗に信仰の篤かった家臣・石川次郎左衛門に命じて新たに十一間四面の堂宇を建立して、
本願寺第12代宗主准如上人に寄進し尾崎御坊となった。

いよいよ法要の始まり

本堂前の蔀戸とそれを引っ掛ける金具

本堂の向拝の下にて

向拝の柱の獅子
しかし、元禄13年(1700年)11月晦日に火災に拠り再度焼失。人々は茫然自失したが、
その4年後の嵐の翌朝、尾崎の浜に巨木を積んだ大船が漂着しているのが発見される。
村人は、この材木を天からの贈り物だと大いに喜び、再建の材と成すことを決定。
宝永2年(1705年)9月18日に上棟式を行い、御坊再建を成し終えた。
それ以降、誰言うとなく「不思議の御坊」と呼ばれるようになった。

向拝下から正門を見る

本堂内陣

玄関及び庫裏・台所(左から)

玄関の唐破風

唐破風屋根瓦にある下り藤の寺紋と牡丹の鬼瓦

寺務所(旧お茶所)

寺務所前に残る江戸時代の茶釜
その後、本堂の傷みも激しくなり、平成5年に屋根や内陣等の大修復が行われ、
再建当時の姿を取り戻し今に至る。』 とあります。
由緒記では伽藍焼失後、偶々浜に流れ着いた材木を再建に用いる事が出来たので
「不思議の御坊」と呼ばれるとありますが、私的には、焼失してもその都度各所から
寄進があり再建を果たしている方が驚き。宛ら「不死の御坊」と言った所でしょうか?

鐘楼

寺務所前の大銀杏

境内の樹木群
クスノキ(左)とカイヅカイブキ(右)

尾崎別院 説明書
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尾崎神社
酒蔵のある古き町並みを見た後は、尾崎の地名を冠した神社に参拝。尾崎神社は、
『1700年頃、疫病の流行を憂い病気の平癒を願って、京都の八坂神社より
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の分霊を受けてこの地に祀ったのが嚆矢。
その後、西宮大神宮の末社として戎神社を祀っていたが、
明治42年(1909年)に神社名を尾崎神社に改称した。』 とあります。

南に向いた鳥居

境内に建つ鳥居とその正面に建つ社殿
参拝前は土地の神々を祀った古社と思っていましたが、意外にも江戸時代の創建。
名前も明治以降の改称でした。
御祭神は本社本殿が素戔嗚尊、若宮本殿は八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)を祀る戎社で、
本殿より少し遅れての建立だそう。
思うに海に近い場所なので、戎社を付加したというのが真相ではないでしょうか?
境内には社務所らしき建物は見当たらず、説明書きの宮司名は尾崎神社と波多神社に
なっていたので、波多神社の宮司さんが兼務していると【はた】と気付いた次第です。

中門の奥に建つ本殿(左)と若宮(右)

御祭神の由緒
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浪速酒造
この日は、前日に配布開始となった第17弾MHCを得るために泉州の阪南市へ。
山側の熊野街道沿いに走るのが阪和線ならば、浜街道沿いを走るのが南海本線。
阪和線は山中渓駅周辺にかつての町並みが残りますが、
南海本線でそれに相当するのが尾崎駅周辺。中でも一際目を引くのが浪花酒造。

南海本線から浜街道へと向かう道筋

浪花酒造外観
銘酒「浪花正宗」直売所も兼ねる。
成子(なるこ)家住宅は、
『浪花酒造の酒蔵兼住宅。主屋は大正5年(1916年)築の木造総二階建て、
入母屋本瓦葺で、間口11間にも及ぶ大型町屋。国の重要文化財となっている。
三列六間取りの平面で書院化された座敷や、二階の居室化等に近代の町屋の特色が見える一方、
二階の天井を低くし、窓を全て虫籠窓にする等、伝統的な外観も保持している。
離れは玄関、座敷、茶室、洋館を配し接客空間として充実した施設を持つ。
その他、大規模な二階建ての酒蔵二棟もあり、「造り酒屋」の趣を残しながら町並みを構成している。』
とあります。

勝手口?前に吊るされた杉玉

こちらが玄関の様だが見学等はしていない様子

酒造に続く離れ(住居)
大阪府は旧国名では北から摂津・河内・和泉となりますが、キタ・ミナミに買い物に行く事はあっても
互いの行き来は稀。却って京都・神戸・奈良の方が身近に感じます。
この日の訪問先は阪南市ですが、和泉には泉南市もあります。
情けない話ですが、河内の人間にとっては、どちらが南にあるのか直ぐには分からない状態でした。
しかし古代より栄えた場所なので見所も豊富。MHCはそれに気付く良い機会を与えてくれたとも言えるでしょう。
余談ですが、成子家では阪南でも泉南でもなく浪花酒造。
【はんなん】に迷わないように何とか【せんなん】とイカンとの意図でしょうか?

離れより浜街道方面を見る

二階建ての酒蔵

この日のメイン、阪南市のMHC
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【往路】JR大阪(8:38) → (紀州路快速) → JR和泉砂川(9:53)
泉南市観光協会 → レンタサイクル20分 → 信達神社 → 金熊寺 → 金熊寺梅林 → レンタサイクル20分 → 泉南市観光協会
【復路】JR和泉砂川(14:51) → (紀州路快速) → JR大阪(15:58)

一乗山 観音院 金熊寺(真言宗御室派 和泉西国三十三ヵ所第二十九番札所)
金熊寺梅林の紅梅
金熊寺参拝の後は、いよいよ後方にある梅林へ。金熊寺梅林は、
『江戸初期の正保4年(1647年)、この地の豪族であった信達神社神主・矢野和泉守家次に
「この地に梅木を植えなば、神領益々隆昌ならん。」
との神託があり、一族で相議して梅木を植林。これが金熊寺梅林の始まりである。
以来、泉州の梅の名所として知られ、明治31年(1898年)の記録図には根来街道に沿って
六尾から桜地蔵付近まで梅林が続いている。現在は金熊寺の後方、小丘が起伏する一帯が梅林となって居る。

高台から見た梅林全景

斜面を下る

時期尚早のため開花はちらほら
大戦中は畑に転用されたが戦後復興し、現在約二千本。
樹齢20~30年の樹木が殆どであるが、中には百年を越える老木も混じっている。
ここで獲れる梅は金熊寺梅と呼ばれ、実は小ぶりだが種が小さく肉厚で良質高価なものとされている。
現在は隣接する信達神社と共に大阪みどりの百選に選定されており、
2月下旬~3月中旬には多くの参拝者が訪れる。』 とあります。

開花すれば壮観であろう斜面に続く梅林

梅林底部にある梅の木

梅林の先にある溜池
和泉なので、行基さんが造ったかも。手前の箱は養蜂用か?
当初は金熊寺の寺域にある梅林と思い、信達神社参拝後は神社が管理している梅林と思いましたが、
行ってみると農家さんが梅の剪定をしておられる様子。
尋ねてみると梅林は複数の農家さんが自分の土地に梅干し用の梅を植えて栽培されているもの。
金熊寺というのはこの場所の地名でした。
紀州と同じように山の斜面を利用して栽培されており、高台に立つと山全体が梅に覆われる様子が
見える筈でしたが、未だ蕾状態。農家の方に伺うと、
農家:「ここの梅は遅いので咲くのは三月半ば頃ですね。」
和辻:「3月には紀州の梅は散っているので、もっと早いと思いましたが…。」
農家:「紀州は和泉よりもずっと温暖ですから。しかもここは山側ですし。」
和辻:「紅梅は咲いていますね。」
農家:「あれは受粉用で、梅干しになるのは専ら白梅です。」
との話。
子孫を残すためには単一品種より多品種の方が収穫量が増えるのは生物学的にも尤もな理由。
紅梅が植えられていたのは交配のためでした。
北河内から見ると、紀州も泉州も温暖なイメージでしたが、その差を考えに入れなかったのが敗因。
ねごろ街道を来たのに【みごろ】には程遠い状態。観梅はならず【完敗】でした。

これが梅干用の金熊寺梅らしい

こちらは交配用の紅梅

しかし写真映えするのは紅梅の方

梅林の地面に咲く「キンポウゲ(金鳳花)」
その後は駅前に戻り、案内所の向かいのレストラン杏樹で昼食。
この日は山側に行ったのでキノコオムレツランチ¥1000+ミニパフェ¥600。
野菜も魚介類も豊富な泉州ですが、キタやミナミに比べると随分リーズナブル。
【杏樹るより喰うが安し】でした。

「杏樹」全景

キノコオムレツランチ ¥1000

ミニパフェ ¥600

泉南市のマンホールカード 配布は泉南市観光協会
[参考書]
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一乗山 観音院 金熊寺(真言宗御室派 和泉西国三十三ヵ所第二十九番札所)
本堂にお参りした後は梅林ですが、通り過ぎるにはちと惜しい金熊寺境内を散策。
神社と異なり鬱蒼と茂った樹木ではありませんが、綺麗に作庭されています。
本堂北側に建つのが行者堂。役小角を祀っており、説明書の写真では石畳と樹木に囲まれていますが、
実際は整備された階段と石灯籠の先に鎮座。樹木の維持も大変でしょうし、【樹命】もあることですから
境内を修復整備された結果でしょうが、写真とは随分雰囲気が違うようでした。
唯、御堂の縁には村を見守り続け惜しくも枯死した栂の板を使っているそうなので、
輪廻転生を経て寺の一部になっていました。

本堂脇を抜けて右奥に建つ行者堂へ

参道の奥に建つ行者堂

説明書に載った行者堂
現在とはやや雰囲気が異なるのは、石燈籠が無いためか?

行者堂正面

行者堂の縁は栂材

栂の説明

行者堂前から見た本堂とその奥に続く金熊寺梅林
その後は、本堂と庫裏を結ぶ渡り廊下の向こうにある池と庭園。
説明等は一切ありませんが小ぶりながら池泉回遊式でしょうか?

本堂と書院を繋ぐ渡廊下

渡廊下の奥にある庭園
本堂側からの眺望。

廊下側からの眺望

庭園左奥

庭園右奥
御朱印を拝受すべく庫裏に向かいましたが、玄関前に実の様な白い花が。尋ねると馬酔木(あしび)でした。
字面からも分かるように有害成分を含んでいますが、多く並ぶと壮観。
【あしび】心で植えて見るのも良いかもしれません。

書院側から見た渡廊下

本堂側から見た渡廊下

廊下からの庭園の眺め

上から目線の庭園

寺務所(庫裏)への門前の庭
鉢に植わっているのは蓮。

寺務所玄関からの眺め

玄関前の馬酔木
[参考書]
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一乗山 観音院 金熊寺(真言宗御室派 和泉西国三十三ヵ所第二十九番札所)
神社参拝後は、寺院へ。石の鳥居の直ぐ横に入口があり神宮寺であった事が分かります。
梅林があるので門前には石碑と立派な盆梅が。前の空き地はこの時期、¥500の駐車場に早変わり。
一乗山観音院金熊寺(いちじょうさんかんのんいんきんゆうじ)は、
『真言宗御室派の仁和寺の末寺で如意輪観音を本尊とする。
この本尊は、天武天皇の白鳳10年(682年)、役小角が夢のお告げに拠って金銅六寸の尊像を
土中より掘り出し、四肘の木像を造り安置したのが嚆矢とされる。
役小角は金峯・熊野の両神を勧請し、当寺の鎮守として信達神社に合祀したので、寺名を金熊寺と呼ぶようになった。

寺標脇には梅林石碑と盆梅が

盆梅近影

梅近影
正安元年(1299年)1月28日には、永仁の徳政令の煽りを受けて焼討ちに遭い諸堂が焼失。
しかし本堂と薬師堂は残り本尊も難を免れた。人々は不思議な事と噂したと言われる。
応長2年(1312年)3月28日に本堂・薬師堂・鐘楼・中門・金銅三尺鏡・両界曼荼羅等を補修、
延元3年(1338年)には足利尊氏が元の姿に近いように修復したが、天正13年(1585年)の
豊臣秀吉の根来攻めの兵火に罹り焼失した。

書院前からの境内眺望

本堂とその向こうに見える書院

本尊・如意輪観世音菩薩を祀る本堂

正面から見た本堂
戦国時代に兵火に遭ったが江戸時代に元に近い形で再建された。
慶長12年(1608年)、豊臣秀頼の家臣・大桑平右衛がこの地に狩りに来た際、白鷹を失った。
平右衛が祈願したところその効果あって白鷹を紀伊国で捕らえる事ができたので、返礼として本堂を修復した。
承応2年(1654年)9月には、信達十三ヵ村の人々の善意に拠って現在の堂宇が再興。
寛文5年1665年には岸和田藩主岡部氏から山林と新田を寄進された。
かつての金熊寺は多くの堂宇、塔頭を有する一山であったが、今は塔頭であった観音院のみが残り、
金熊寺の寺跡を継承している。1500坪の敷地に本堂・庫裏・行者堂・薬師堂等があり
信達神社、金熊寺梅林に接し、閑静な佇まいを見せている。』 とあります。

本堂前面
天竺様式に見えるが…。

向拝と庇部分

本堂前の「金熊寺」の扁額

本堂の参拝は外陣から
度重なる火災にも拘らず、御本尊は生き延びたようです。本堂は外陣からの参拝のみですが、
内陣には如意輪観音の巨大提灯が吊るされ、正面奥には金色に輝く観音様があります。
ですが、これはあまりにも金ピカなので御前立、御本尊は御厨子の中のようです。

本堂入口から見た内陣の様子

御本尊・如意輪観世音菩薩
といっても金ピカのこの観音様は御前立。

こちらが秘仏の御本尊 (説明書より)
金熊の由来は神社と同じ。神仏習合であったので当然ではあります。
根来攻めの際の焼失は修験道との関係で理解できますが、
徳政令関連で焼討ちに遭うとは一体どういった事情でしょう?
まさか【きんゆう】関連の仕事をしていたとも思えませんが…。

山門脇の釣鐘堂

書院とそれに続く寺務所(庫裏)

書院玄関に建つ山号寺号碑

金熊寺略記

金熊寺御朱印 (和泉西国札所)
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信達神社(旧金熊寺大権現宮)
参道脇に建つ「大阪みどりの百選」碑
信達神社の特徴はその鬱蒼と茂った鎮守の杜。
『信達神社は金熊寺梅林と共に「大阪みどりの百選」に選ばれている。中でも有名なものが二木。
一つは本殿東側に生える御神樹ナギで、樹周2.5m、樹高19.5mと府下最大で天然記念物。
ナギは日本では紀伊半島・四国・九州の南部に生え、笹状の葉はお守りとしてまた「凪ぎ」に通じる
として重宝される。紀州では熊野権現との関りから権現と名の付く神社に植えられる事が多い。
今一つは、本殿前のオガタマノキで樹周3m、樹高18mでこちらも天然記念物。招魂の木とされる。』
とあります。

本殿を囲む塀の向こうに聳えるナギの木

御神樹の説明

塀越しに見たナギ

中門から見たナギの幹

本殿敷地内の右脇からのナギ
但し、敷地内に入ってはいけない。
どちらもほぼ同じ大きさですが、熊野権現に関わる御神木のナギは本殿の敷地内にあるため遠くから眺めるだけ。
一方、オガタマは周囲に柵があるものの、傍まで近づく事ができます。
オガタマのタマは魂でしょうから招魂の木は納得。
ナギは凪に通じるとありますが、元は南方の木を表す「南木」が変形した気がします。
いずれも南方系で巨木になる点が崇拝される所以でしょうが、若干の【商魂】も感じるのは【木】のせいでしょうか?

本殿から拝殿の場所まで下りる
左がオガタマノキ。

オガタマノキ全景

オガタマノキ近影

オガタマノキ説明
さて神社参拝後は御朱印ですが、境内に人影はなし。
「さてはここも無住か」と思いましたが、社務所の連絡先が貼ってあったので、
あまり期待せずに電話を掛けると呼び出し音の後、宮司さんらしき方が電話に出られました。
和辻;「御朱印を頂きたのですが、どこへ行けば良いでしょうか?」
宮司;「今、どちらに居られます?」
和辻;「石の鳥居の前です。」
宮司;「後ろを振り返って下さい。」
と振り向くと、道路を挟んだ反対側の門の前に姿が見えました。
丁度、地鎮祭から戻られたとの事で、お忙しい中、御朱印を拝受した上、御由緒も頂くことが出来ました。
てっきり社務所は神社に隣接しているものとばかり思っていましたが、灯台モトクロスを地で行く話。
ナギする所をオガタマうまくいった信達です。

一の鳥居から振り返った光景
右奥が宮司さん宅。

ここ宮本地区のだんじり収納庫
この辺りでは「やぐら」と呼ぶらしい。

金熊大権現 信達神社 御由緒

信達神社御朱印
[参考書]
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信達神社(旧金熊寺大権現宮)
ことしは少し寒いので、梅の開花も遅いとの情報ですが、2月最後の土曜は梅を求めて泉南へ。
泉南市の市花は梅、これは市内にある金熊寺(きんゆうじ)梅林に由来しています。
金熊寺はJR和泉砂川駅の南東3㎞。なんでこのような山側にと思いましたが、この道は標高216mの
風吹峠を越えて和歌山の根来寺の西へ出るという根来街道。周辺に古刹があるのも納得です。
歩くにはすこし距離があるので、駅近くの観光案内所でレンタサイクル。
滑瀬橋でその名も金熊寺川を渡り阪和道を越えて20分程で目的地。
途中、岩出駅行きの南海バスが追い越して行き、改めて根来街道を往くのを実感sました。
街道から右の細道を入ると遥か向こうに伽藍が見えますが、その手前に神社が鎮座。
順序としてはこちらに参拝するのが筋と言うものです。

JR和泉砂川駅舎
昭和5年に阪和電鉄の信達駅として開業。当時の駅舎が三角屋根として今も残る。

滑瀬橋上から見た金熊川
向こうに見えるのが阪和道。

根来街道から右へ続く細道
突き当りに伽藍が遠望できる。

正面に金熊寺、右手に信達神社
信達神社(しんだちじんじゃ)は、
『その昔、泉南樽井の海岸に神武天皇の尊像が漂着。
それを神意と思った里人等が像を引き上げ、樽井の地に祀った樽井権現社が始まり。
更に神意を得て現在の地に社殿を建て遷座した。
この御鎮座地は神武天皇の東征に際し、男之水門より紀伊釜山に至る途中、
しばし休息されたとされる尊い高地で、当社にある神池は御兄五瀬命の矢傷を洗ったとされる。
その後、天武天皇の白鳳10年、役小角が金峯・熊野の両神を勧請し本殿に合祀したので
金熊寺大権現宮と呼ばれ、当時の信達荘十三ヵ村の鎮守・産土神の役割を果たした。
御祭神の「金」「熊」の二字を採って、この里を金熊寺と呼ぶようになったのは、それ故である。

入口に建つ一の鳥居

鳥居に続く参道
ここから先は両側に樹木が迫る。

参道脇の御由緒
天正年間に織田信長、豊臣秀吉の根来征伐の兵火で炎上。
社殿は焼失したが、御神体は幸いにして無事であった。
江戸初期の正保4年(1647年)、この地の豪族神主・矢野和泉守家次が東西に奔走。
桁行五間梁間二間の本殿を再建した。その矢野神主に
「この地に梅木を植えなば、神領益々隆昌ならん。」
との神託があり、一族で相議して梅木を植林した。これが現在の金熊寺梅林の始まりである。

太鼓橋を渡って本殿へ向かう

拝殿へと続く階段

階段の上から参道を振り返る

拝殿内部の様子
行事に使用すると思しき鞨鼓が置かれている。
明治元年(1868年)の神仏分離令に拠り、金熊寺から分離独立。信達神社となって今に至っている。
この地区では
① 権現様の秋祭り
② 林昌寺の躑躅の花見
③ 師走小晦日の市場歳の市
が信達郷の三大行事として知られ、近郷近在の人々が集まり大変な賑わいであったという。
この権現様の秋祭りが金熊権現宮の祭礼で、御輿渡御神事と国市座(庄宮座)が盛大に行われた。
明治の初期頃には国市座の参加者が三千人を数えたという。
室町幕府以降、各村連合の惣が出来、惣社が置かれるようになった。信達庄(郷)は13ヵ村で構成され、
この惣社が当社であった。今の信達郷共有林野組合はこの流れを継ぐものである。』 とあります。

本殿への中門

本殿は更に一段高い石垣の上に建つ

中門前から拝殿を見下ろす
寺院の由緒で仏像が海中・土中から出たというのは良くありますが、神社でしかも天皇像が漂着したとは
何とも不思議な話。唯、神武天皇東征途上で立ち寄った云々とあるので、その事が像の漂着に変形したのでしょうが、
天皇像を海に流すことに抵抗はなかったのでしょうか?
修験道の開祖・役行者が勧請した両神に因み改称したとありますが、両方の良い所採りで繁栄を願うのは
東大寺と興福寺に因む東福寺等ありそうな話。【きんゆう】だけに【かんじょう】高い所がありそうです。
その由緒ある社名も明治以後は信達神社に改称。信達は字の名前なので当然とも言えますが、
神仏分離は仏教側に厳しかった令なので、寺を改称して金熊寺大権現宮のままでいく選択肢はなかったのか?
地域の先達が信達になったのには何か【辛辣】な事情でもあったのでしょうか?

眼も鮮やかな朱色の本殿
桁行五間梁行二間(五間社流造)の社殿である。

本殿正面の唐破風と彫刻群

本殿左側
極彩色の蟇股と垂木が見える。

本殿右側
修復中なのは末社か?

本殿から石段を下る

弁財天を祀る境内社
[参考書]
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淵埋山 光善寺(浄土真宗大谷派)
御廟は墓地の一角にある。
光善寺の巡礼の〆は上人の御廟へ。と言っても境内から【5秒】で行ける所ではありませんでした。
『光善寺から東へ1㎞。京阪電鉄の線路を越えて更に高台に登った場所にあるのが蓮如上人御廟。
中振と言う地の丘の上に建ち、御廟の当たりからは、淀川の流れを見下ろす眺望千里の風景を
眺める事ができる。』 とあります。

道路脇に建つ石碑

御廟へと続く階段

御廟全景
善光寺は周囲よりも少し高いと言うものの、町全体を見渡すには不向き。
それに対し御廟の場所からは、寺内町全体を見渡すことが出来、死しても町を見守るという上人の意志を感じました。
しかし廟自体は加工した花崗岩を積み重ねただけの簡素なもの。
立派な造りの墓よりもその位置に拘ったのは、民衆目線に立った上人の教えであったのかもしれません。

御廟正面

石を積み上げただけの簡素な御廟

後方にある御廟への石段

後方からの御廟近影

御廟前からの眺望
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淵埋山 光善寺(浄土真宗大谷派)
山門前に建つ腰掛石への案内。ここより二丁とある。
参拝を終えた後は駅に向かいますが、府下の富田林や久宝寺程ではないものの
町並みには寺内町の香りが漂います。
所々に水路があるのは、寺内町を護る環濠に思えますが、説明がないので分からず仕舞い。
せめて案内板でもあればと思うのは私だけでしょうか?

当寺から腰掛石に向かう途中にある蔵

寺内町の面影を残す町並み

この水路は環濠跡か?
寺から数百メートル南下した場所にあるのが「蓮如上人腰掛石」。
『上人が出口に来た時は、『御文』に「九間在家」とあるように僅か九戸の村落であったが、
その様な村の中央部で、上人は石に腰掛け人々に親しく仏法を説いた。
出口では今でもこの「腰掛石」の御遺跡の場所を上人が居られるように「蓮如さん」と呼んでいる。
出口ではこの腰掛石の形に因んだ「出口だんご」が作られ、この地の名物となっている。
以前はどこの門徒の家庭でも出口だんごを作ったが、今では稀になっている。』 とあります。

腰掛石の向かいにある上庄南之口樋跡

蓮如上人腰掛石への入口

石碑の後方の石で囲まれた場所が腰掛石
蓮如はこの地で布教に従事しますが、結局三年で京都へと移る事に。
文字通り腰掛になってしまった訳ですが、【公善事】を積み重ね民衆の心は掴んだのは確かで、
今でも親しみを込めて呼ばれるのがその証拠。
収奪だけ行って去ってしまう為政者も多い中、蓮如の行為は際立っています。
政治に携わる人間が心すべき事でしょう。

腰掛石近影

脇に建つ蓮如上人御腰掛石之碑
明治40年建立で内容は漢文。
その後は、石より団子と言う事で国道1号線を越えた場所にある和菓子店へ。
目的の団子はかつては多くの店で作られたようですが、今は遠州屋さん一軒のみ。
所謂、かた団子で、餡子の周りを餅で巻いたもの。
日持ちはしませんが、素朴な味わいは昔ながらといえそうです。
コロナ禍で営業時間は短縮でしたが、お店は開店中。但し、目指す団子は売切れ御礼。
15時過ぎと言う時間が遅かったのでしょう。土産には「さいかちの木」と銘打った饅頭を購入しましたが、
でぐち団子を食べるためにはお店を訪れる【再価値】はありそうです。

遠州屋さん外観
唯一残った「でぐち団子」のお店。

団子が売切れだったので、「さいかちの木」を土産に
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淵埋山 光善寺(浄土真宗大谷派)
本堂の後は寺務所の横の細い通路を抜け、書院と庭園へ。
山門からは広い境内が目に入りますが、隠れた部分にもこんな広い場所があったのかと改めて感心しました。
『本堂に続く書院は520余年前の蓮如上人在住当時の姿を今に伝える貴重な建造物。
石川丈山はこの書院を「萬象亭」と名付けた。当時は池のすぐ傍を淀川が流れ、
三十石船の上り下りの情景や彼方に見える天王山の風景を借景に取り入れた風流な眺めであった。
淀川の堤防が500m以上も西へ移った今となってはその風情も昔話の域である。

書院と庭園への門

門の先にある書院
その奥には本堂屋根が見える。

北側から見た書院

西側から見た書院

書院の窓と廊下
拝観はしていないので外から眺める。

書院内部の様子 (冊子より)
床柱等の主要な柱数本が当時のまま残されている、蓮如上人愛用の書院である。

書院前から門を見返る

書院から庭園を望む

南側から見た書院

書院に続く本堂の裏側
前方と異なり土壁のままになっている。
書院の西側にあるのが石川丈山作とされる光善寺庭園。中央付近にある池は創建当時埋め立てた池の名残である。
また池の周囲には現在では「さいかち」と言う名前で呼ばれる梓(はり)の木が繁茂していたので、
人々は光善寺の事を「梓原堂(しんげんどう)」と呼んでいたと伝わる。今でも境内の北端に梓の大木が残っている。

庭園遠景

創建当時の埋め立てた池の名残り

池に架かる石橋を渡る

池の向こうに見える住宅
ここに住む人は毎日この庭を眺められると思うと羨ましい。

南側の道を抜け池を巡る
この梓には蓮如上人と龍女の伝説がある。
上人が出口で辻説法をしていた頃、毎夜熱心に聴聞する美女が居た。ある夜、
「私はこの池に棲む大蛇です。貴方の説法で功徳を得て昇天できる事になりました。
御礼にこの池を献上しますので、埋め立てて御堂を建立して下さい。」
と言って池の傍の梓から昇天したとされる。
この樹は樹齢200~250年、幹周り2.5m、樹高12m。府下では幹周り2mを超えるものは殆どなく
昭和50年に大阪府指定の天然記念物になった。
唯、老木のため平成25~27年には樹勢回復の治療を受けている。』 とあります。

池の畔の石灯籠

十三重石塔

一応、心字池となってはいるが…。

池越しに見る書院と本堂

池越しに寺務所方面を見る

入口付近からの眺望
石川丈山と言えば、元戦国武将で大坂の陣以降は京都の詩仙堂に隠棲した人物。
詩仙堂の庭と当寺の庭の同一性は分かりませんが、通常の寺院の庭と違い素朴で力強い庭と言ったところでしょうか?
龍女の話は当寺の建立譚に繋がる話。伝説的な内容ですが、恐らく地元の有力者の女性が蓮如に帰依した結果、
この地を寄進したと言う史実があったのでしょう。
そこには梓の木が登場しますが、この樹木は洗剤や生薬としての効用があったと言いますから、
それに拠って富を得たのではと想像が膨らみます。
住職夫人は 「全然手入れが追いつきませんで…。」 と謙遜されていましたが、
私見では北河内にこれ程の庭を持った寺院は未見。
ガイドに載らない名園もあると【再価値】を見出した次第です。

寺務所の裏に建つ経蔵
といってお経を納めているようには見えず、蔵か物置の様。

境内の裏手に生える樹木群

境内の北西にある「さいかちの木」
木に勢いがないのが寂しい。

サイカチ伝説
[参考書]
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淵埋山 光善寺(浄土真宗大谷派)
山門の正面に建つのが本堂。真宗寺院に相応しく境内で一際目を惹く堂々とした造りです。
真宗寺院は門徒以外にも【門戸】を開いているのが常ですが、御堂の前には柵があり内陣には入れず。
仕方なく外陣からの参拝となりました。
その後、念のために北側にある寺務所へ伺い御朱印の可否を尋ねると、住職夫人が対応に出られ、
意外にも拝受できる事に。
加えて平成9年に発行された説明書も頂きました。説明書と言うには余りにも立派な30頁の冊子です。

天明2年(1782年)再建の本堂(御堂)
21.5m四方の入母屋造、本瓦葺で江戸時代後期の真宗本堂の特徴を良く示している。

本堂の壮麗な屋根
屋根の勾配が美しい。

屋根の鬼瓦の玄武?
和辻;「真宗では御朱印の無いのが一般的と聞いていましたので有難いです。」
夫人;「お参りに来て頂いた方には書かせて頂いています。」
和辻;「本堂内とお庭は拝観していないのですね。」
夫人;「拝観という形式は採っていませんが、良ければ御案内しますのでどうぞ。」
と言う事で、思いがけなく本堂内陣・書院・庭園を拝観できる事に。

境内北側にある寺務所
御朱印はこちらで拝受。

出口御坊 光善寺 御朱印

御好意で頂いた冊子
平成9年10月25日初版発行と奥付にあるが、売価が記載されておらず非売品の可能性も。
『天明2年(1782年)に再建された本堂は間口十一間、奥行八間の大きさ。
入母屋造、本瓦葺で江戸時代の真宗本堂の特徴を良く表しているものである。
内陣に祀られている御本尊は阿弥陀如来。両側には開祖親鸞と中興の祖蓮如の御影が掲げられている。
蓮如の後を受けた初代住職の順如(じゅんにょ)は42歳で早世したので、蓮如は外孫の光淳(こうじゅん)を
順如の養子として二代目住職とした。
彼に続く光善寺の系譜は、七世准玄(じゅんげん)が西本願寺の学寮の初代学長、
大谷派に転じた後の十世一玄(いちげん)、十一世真玄(しんげん)が著述・講義で活躍するなど
光善寺は教学重視の系譜を残している。』 とあります。

長く突き出た庇が特徴的な本堂前面

本堂前から南側の会館を見る

本堂の向拝と扉
和辻;「歴代の御住職は親鸞・蓮如上人の血筋ですか?」
夫人;「途中、跡継ぎが居らず井波から住職を迎えた事もありましたが、親戚なので細々とですが血は繋がっているようです。」
和辻;「というと御住職の苗字は大谷さんですか?」
夫人;「いえ、藤原です。」
親鸞聖人は平安貴族日野資業の六世の子孫、日野氏は藤原北家ですから、遠祖の姓に戻ったと言う事でしょう。
本堂の欄間は見事な出来でしたが、かつて井波の瑞泉寺から住職を迎えたことから、欄間の職人と技術も
伝わったに違いありません。
開祖と彫刻の血脈は300年経った今でも受け継がれている様子。これも信仰の力でしょうか?

本堂内陣の様子
お寺の御好意で撮らせて頂いた。

正面には御本尊の阿弥陀如来像

内陣の見事な欄間彫刻
これは孔雀図。

本堂前から山門方面を望む

本堂前から南側の鐘楼を望む
[参考書]
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