<コース>JRは15分間隔、阪急は10分間隔で運転
【JR】JR大阪 → (新快速) → JR高槻 → 徒歩10分 → 高山右近記念聖堂 → 高槻城跡 → 野見神社
【阪急】阪急梅田 → (準特急) → 高槻市 → 徒歩5分 → 高山右近記念聖堂 → 高槻城跡 → 野見神社

野見神社(式内社 旧郷社)
かつての遺物が殆ど残らず公園と化した高槻城ですが、その範囲は国道171号線沿いまで至り、
跡地には高校や芸術文化劇場が建っています。
特に後者は周囲に堀を巡らせ石垣と白壁を造るなど城郭を意識しています。
無くなったとはいえお城を無視するのは余りにも【情欠く】行為だからでしょうか?
その北側に隣接するのが野見神社。城下町周辺には人家が多く、
有名寺社は郊外にある事が多い高槻では例外的な場所にあります。

芸術文化劇場の周りにある石垣と堀

道路に面した一の鳥居は意外と小さい
野見神社(のみじんじゃ)は、
『旧高槻城内北大手にあり、御祭神は須佐之男命、野見宿彌(のみのすくね)命を祀る。
社伝に拠れば、宇多天皇の御代(887~897年)に、当地で悪疫が流行し多くの死者が出た時、
「社殿を作り牛頭天王を祀れば悪疫が治まる」 との御神託があり、早速お祀りしたところ悪疫は忽ちにして終息。
喜んだ国人達は社殿を建て牛頭天王社として祀ったのが嚆矢である。

入口を過ぎた場所にある手水鉢
アリウム、ギガンチューム(葱坊主)、撫子 が活けられている。

流れ出る水を受ける樽にも
レモンケーキをイメージしたとかしないとか。
その後、享禄、天文年間には入江駿河守、和田伊賀守などの歴代高槻城主や家臣の崇敬を集め、
社領の寄進などがあったが、キリシタン大名の高山右近が城主の時に神殿を破壊し社領は没収。
時の神職は御神体を石清水八幡宮へ避難させ難局を乗り切った。
元和5年、城主となった松平紀伊守家信が城内の安全を祈願して、牛頭天王社を新造すると共に社領を寄進。
慶安2年(1649年)永井日向守直清が入部すると更に社殿を修築し、社領を寄進して
10月14日を例祭日として臣下・国人と共に盛大な祭礼を行う様になった。

参道を本殿へ進む
左は能舞台、拝殿は右手奥に建つ。

正面から見た拝殿
丁度、お宮参り中。

拝殿に続く幣殿と本殿
永井氏200年の治世の後、明治維新後の神仏分離令に拠って牛頭天王は須佐之男命と名を変え、
更に野見宿彌命を合祀して野見神社と改称した。
850坪を有する境内には、本殿・幣殿・拝殿・能舞台・社務所があり、本殿は天和2年(1682年)の建築。
幣殿・拝殿は平成15年の改修事業に拠り新築された。

高槻戎神社(左)と能舞台

野見神社御朱印

御朱印拝受時に頂いた由緒記

社務所では「相撲みくじ」 が販売中
摂末社は五社あるが、最も大きく歴史があるのが永井神社。
9代藩主永井直進に拠って藩祖直清を祀る「御霊社」として寛政5年(1793年)に造営された。
嘉永元年(1848年)には11代藩主永井直輝が直清入部200年を記念し、
本殿と拝殿を石の間で繋いだ神社建築様式である権現造と唐破風の門を造立している。
当初は直清神社、幕末には直清権現と呼ばれていた。』 とあります。

社務所の向かいに建つ永井神社

永井神社の唐破風門

門の透かし彫りと欄間の龍の彫刻
旧城内守護の鎮守社であったので城内にあるのは当然。と言うよりも歴史的には神社の方が遥かに古く、
神社の位置が以前と変わらないとすれば、神社の場所に城を建てたと言う方が適切と言えそうです。
唯、御祭神は牛頭天王から須佐之男命と野見宿彌命に変更。
千年近く祀られた神を変更するに当たっては人々にも違和感があったように思いますが、
それだけ神仏分離が厳しかったのでしょう。

永井神社本殿へは脇の門から

内側の欄間彫刻は虎

永井神社本殿
しかし今でも、近隣を代表する神社として人々に親しまれているのは、移行がスムースに行われたから。
モーからスモーへ代わった訳ですが、尤も境内には藩祖を祀る永井神社もあるので、
そちらの影響の方が大きかったとも言えそうです。
城の鎮守だけに町中にあっても落ち着いた雰囲気を醸し出す場所ですが、これも【呑みの少ねぇ】影響でしょうか?

永井神社の社紋は永井家の家紋・鉄線

鉢植えの花があったが鉄線ではなさそう

野見神社由緒記 ¥50

由緒記裏面に描かれた境内全景
[参考書]
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<コース>JRは15分間隔、阪急は10分間隔で運転
【JR】JR大阪 → (新快速) → JR高槻 → 徒歩10分 → 高山右近記念聖堂 →高槻城跡 → 野見神社
【阪急】阪急梅田 → (準特急) → 高槻市 → 徒歩5分 → 高山右近記念聖堂 → 高槻城跡 → 野見神社

高山右近記念聖堂
戦国以降は数多の城主が入れ替わった高槻城ですが、最も知名度が高いのは高山右近。
歴代城主の中で教科書に名前が載っているのは高山右近ただ一人。
また城跡公園の高台に建つのも右近の像で他の城主の像はありませんでした。
高台にあるのは高山だからでしょうか?

城跡公園に建つ高山右近像

台座に嵌め込まれた銘板
城跡から阪急へ戻る手前、171号線付近には高槻カトリック教会が建ちますが、
道路から見える前庭には祈りを捧げる高山右近の像が建っています。
傍らの説明碑に拠れば、彼の逝去350年に際して、ローマ教皇パウロ6世代理・マレラ枢機卿に拠って
祝別を受けて建立、同時に植樹もされているとか。像の横の楠がそうでしょうか?
正面に見える教会堂は高山右近記念聖堂と呼ばれており、これは高槻城主であった高山右近を記念し、
後に右近が追放され終焉の地となったマニラの聖母大聖堂を模して建てられたからだそう。

高槻カトリック教会
正面に見えるのが高山右近記念聖堂。

右近逝去350周年に植樹された楠とその奥にある右近像
戦国末期の高槻城主、キリシタン大名であった高山右近は、
『天文21年(1552年)頃、摂津高山(現在豊能郡豊能町)で生まれたとされるが、高山は近江・大和にもあり
詳しい事は不明である。父・高山飛騨守は松永久秀に仕えて大和国沢城主となり、後には和田惟政の
重臣として高槻入りした。元亀4年(1573年)、惟政の子惟長と対立した右近は彼を追放して高槻城主となった。
天正2年(1574年)には高槻城の側に壮麗は教会堂を建立、キリスト教の布教に務めた。
領内には20以上の教会とセミナリオ(神学校)も設立され、宣教師の記録に拠れば2万5千人の領民の内、
1万8千人がキリスト教徒になったと伝えられる。

高槻城主ズスト高山右近像

右近像近影
キリスト教徒の装束である。
天正6年(1578年)、摂津国を束ねる荒木村重が織田信長から離反。
右近は村重に人質を出していたが、キリスト教を弾圧するという信長に屈して開城した。
本能寺の変の後は羽柴秀吉に仕え、山崎の合戦などで戦功を挙げている。
高槻城主として12年間を過ごした後、右近は播磨船上城(明石市)へ移封。
秀吉がバテレン追放令を発した天正15年(1587年)には棄教の命令を拒否したため領地を没収された。

マニラの聖母大聖堂を模して造られた記念聖堂

記念聖堂内部
入堂は自由だが、騒がない様に注意!
その後、前田利家に仕え金沢に移住するが、禁教令を出した徳川幕府に拠って慶長19年(1614年)10月に
国外追放処分となった。右近はマニラへ赴くが、到着後40日で熱病のため慶長20年(1615年)2月3日に客死。
その波乱に満ちた生涯を終えている。
文化人でもあった右近は千利休の高弟「利休七哲」の一人、「利休極上一の弟子也」とも謳われた。』 とあります。

正面の祭壇とキリスト磔刑像

祭壇前より入口扉方向を見る
江戸時代の高槻藩は譜代の永井家が13代220年に亘って治めますが、藩祖直清は新田開発や文化振興を推進、
幕末の藩主は薩長に対して中立を守る事で城下を戦禍から守るなど功績は大きいものの右近には及びません。
例を挙げれば熊本藩の加藤清正が似た感じでしょうか?華々しい戦績がないからとも言えますが、
それを言うと高山右近も戦国大名としては左程戦での目立った功績は無いように思います。

右手の奥にはマリア像が

右手正面に掲げられた高山右近画像
洗礼名でジュスト・ウコン殿とある。
思うに当時の流行だったキリスト教に改宗し多くの信者を入信させた事、最後は信仰のために地位も財産も失い
異国の地で生涯を終えたという悲劇性が、判官贔屓で共感を呼ぶのでしょう。
カトリック教会に右近の像が建つもの、そのことに無縁とは思えません。
確かに当時は国内でキリスト教が熱狂的に受け入れられ、右近の他にも
大友宗麟・大村純忠・細川ガラシャなど入信者で名の知られた人が多くいます。

左奥には日本殉教26聖人の碑が嵌め込まれている

高槻駅前郵便局 ; 高槻城主・高山右近像、八丁松原の松並木
唯、キリスト教受容の背景にはその教義に共感したというよりも、当時の余りにもひどい戦乱のため
旧来の宗教に嫌気がさした人々が、少しでもましな宗教と願って入信したというのが真実に近い気がします。
改宗を迫られても屈しなかったのはそれだけ切羽詰まった状態だったからで、
明治になってキリスト教が解禁になっても信者はそれ程増えなかったとか。
日本では宗教家は別として政治家・経済人・文化人で宗教に傾倒する人は
あまり評価されて来なかったので、高山右近の人気は宗教以外に求めるべきと思います。
地元では右近を大河ドラマにと言う動きもあるそうですが、
ドラマ化した際にその魅力をどこに求めるかが見所の一つかもしれません。

外壁脇に建つ高山右近顕彰碑

石碑表面の文は田口大阪司教の撰

石碑の台座の「丸に十文字」は島津ではなく切支丹の印か?
[参考書]
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高槻城公園
高槻は京と大阪のほぼ中間地点で古代より政治・交通の要衝でした。JR東海道線の北側には
京都と西宮を結ぶ西国街道が線路に沿って通り、芥川宿が置かれました。明治に入ると
東海道線が敷設され明治9年7月26日に国鉄高槻駅が、昭和3年には今の阪急京都線高槻駅も開業。
鉄道では東海道新幹線、国道171号線、名神高速道路が東西を貫いています。
新幹線こそ停車しないものの、特急・新快速が停車する交通の要衝に変わりありません

かつての城跡にできた芸術文化劇場
城の石垣と堀を模した造りとなっている。

劇場の周囲に設置された高槻市カラーマンホール蓋

高槻市マンホールカード (配布は芸術文化劇場にて)
政治的には中世以降は地理的位置から動乱の舞台になった事で芥川山城・高槻城が築かれました。
芥川山城には戦国の梟雄と呼ばれた三好筑前守長慶が入り、一時的ではありますが
7年間に亘って近畿に君臨する芥川政権を打ち建てています。
三好家が没落した後は高槻城に重心が移り、織田信長ゆかりのキリシタン大名が入って活躍。
江戸時代に入ると度々城主が変わりますが、譜代大名・永井家が入り3万6千石の城下町として
幕末まで13代続きます。江戸時代には大坂・岸和田の両市と共に府下の三大城下町として栄えました。
かつての城は阪急京都線の南側に城内・野見・大手・出丸各町に広がっていたとか。

劇場の東側には二の丸御殿と桝形門があった

公園入口に建つ石碑
高槻城は、
『南北朝期に、入江氏が居館を築いたのが始まり。永禄12年(1569年)には和田惟政が城の基礎を作り、
天正元年1573年には高山氏が町屋をも堀で囲い込んだ堅固な城を築城。
特に高山右近はキリシタン大名として知られた武将で、城内に教会堂やセミナリオを建てて
宣教師を保護したため、高槻は一時キリスト教布教の重要拠点にもなった。

公園の一際高所に建つ高山右近像

正面から見た高山右近像
切支丹大名らしく刀も十字架の形である。

高槻郵便局 ; 高槻城主・高山右近像、市花・ウノハナ、シンボルロードけやき通り
元和3年(1617年)、幕府は西国監視の重要拠点として高槻城の直営修築に着手。
その結果、三層の天守閣と高石垣・土居を備えた近世城郭としての高槻城が出現。
慶安2年(1649年)には永井直清が高槻城に入部し、以後13代、幕末まで高槻を治めた。
江戸時代には八丁松原の景観と調和して名城と讃えられ、京大坂に近い城下町は
漢詩人藤井竹外など多くの文人学者を育んだ。

像の前には石垣と堀?が広がる

公園の南側に移築された旧笹井家住宅
今は高槻市立歴史民俗資料館として開館。

住宅玄関と屋根
入口を棟方向に設けた妻入りで本瓦葺。市内に残る瓦葺屋根の中で最も古い形式を留める。
明治7年(1874年)、石垣を鉄道工事に使用するため高槻城は破却。城跡は昭和25年(1950年)に府の史跡に指定。
城跡公園として市民の憩いの場となっている。南側には江戸時代中期の商家「笹井家住宅」を移築復元。
妻入り・本瓦葺きなど当時の形式を今に伝える建造物として市の有形文化財に指定された。
館内は歴史民俗資料館として生活用具等の展示を行っている。』 とあります。

旧笹井家住宅間取図

あがりぐちから中の間、離れ座敷を見る

土間に置かれた農機具など

屋根の構造
大坂・岸和田が復元とはいえ城郭が今に残っているのに対し高槻城は一切なし。
高槻城跡公園に立つと 「兵どもの夢の跡」 という一説が頭を過りました。
当初は城郭に対する市制の姿勢かと思いましたが、鉄道工事のためというのは意外。
文明開化となって今何が必要か?という事を考えての事でしょう。
当時は永井の殿様も子爵として居られた筈ですが、反対された様子は伺えません。
町の発展にはそれで良かったでしょうが、後世から見ると何とも残念な話です。
と思っていると永井神社の神紋が目に入りました。これは永井家の家紋で茶花として知られる鉄線紋。
鉄線ならば石垣を鉄道線路に転用するのにも抵抗がなかったからと納得した次第です。

公園内の池

南側からの眺め

永井家と永井神社の社紋・鉄線
[参考書]
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<コース> 電車は頻発
JR天王寺 → (関西本線) → JR高井田駅 → 徒歩5分 → 高井田横穴公園 → 柏原市立歴史資料館

歴史資料館に展示中の円筒埴輪
この日は野暮用で河内の柏原市まで。奈良県との県境にあるベッドタウンでブドウの産地でも知られますが、
下車したのは柏原駅ではなく奈良寄りに一駅進んだ高井田駅。明治22年開業の柏原駅に比べ
開業は昭和60年と遥かに遅く、河内平野から大和川沿いの10‰の上り勾配に作られた駅です。
高井田は普通電車しか停車しないローカル駅で、大和川を越えた駅の南にはベッドタウンが広がりますが、
北側は対照的な小高い山が聳え、その登り口には、高井田横穴公園の看板が建っています。

駅ホームから北側を望む

JR高井田駅スタンプ 2006年設置の大阪支社印
『発掘調査をするまでは円墳であるとしか分からなかったが、公園整備事業に伴う調査に拠って
古いタイプの横穴式石室を主体部とした古墳である事が判明した。
豪華な副葬品も多数出土し、小字名より高井田山古墳と命名された。
出土した副葬品から造られた時代は5世紀後半から末にかけてと考えられ、
数少ない導入期の横穴式石室として注目される。

駅から徒歩5分にある横穴公園入口

最初に現れた横穴墓
石室の構造に加え、夫婦と考えられる二棺合葬、須恵器を使用した葬送儀礼、
出土した火熨斗(ひのし)等から、古墳に葬られたのは朝鮮半島の百済からの渡来人物。
加えて副葬品の豪華さや古墳の規模から、埋葬されたのは百済の王族ではないかと想像される。』
とあります。

次に現れたのは、隣接する二つの横穴墓

途中にある竹林
看板の横の坂を上って行くと、途中、横穴石室が点在。入口は閉鎖されていたので、内部には入れませんが、
壁に描かれた壁画の複製が前に展示されていました。
出土品等は野暮用の行先である柏原市立歴史資料館で展示中。説明では壁画は線刻で
「ゴンドラ形の船に乗る人物」 と命名。この横穴に葬られた人物に比定されているそうです。

丘の途中にある柏原市立歴史資料館

資料館に展示中の須恵器と土師器

古墳より出土した火熨斗
温めて衣類の皺を伸ばす、古代のアイロン。
船に乗っているので、海の向こうから渡来した人物。加えて熨斗が有力な決め手になったようです。
学生時代には「壁画の高句麗、仏像の百済、工芸品の新羅」と講義で聞いた記憶があり、
別段、【否定】する気はありませんが、当時の朝鮮半島と日本の文化程度を比較すると
線刻壁画が稚拙な感は免れません。中国の様に詳細な墓名碑が出土すれば良いのですが…。

石室の壁に描かれた線刻壁画 「ゴンドラ形の船に乗る人物」

他の線刻壁画

更に古墳の坂を上り火熨斗出土地へ
古墳自体は自然に囲まれた静かな場所、貴人が眠るのには相応しい場所と言えます。
取り立てて観光地ではありませんが、どことなく下車して駅の周りを歩きたいと感じさせる場所でした。
それもその筈、この付近は大和から難波に至る龍田古道の地。
『奈良時代の天皇の行幸には輿が使われたが、奈良と河内の国境は山越えが必要であった。
その中でも高低差の小さい龍田古道は、輿で越える事のできるルートとして重宝された。
実際の行幸は午前に平城京を出発して青谷の離宮で一泊、翌日に難波宮に至ると言う行程であった。』
とあるように、輿で峠の古道を【越し】たという古代人の【鼓動】が伝わってきます。

古墳最上部

整備後の高井田山古墳で火熨斗が出土した場所

柏原市マンホールカード 柏原市立歴史資料館で配布
[参考書]
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【大阪メトロ】東梅田 → (谷町線) → 千林大宮 → 徒歩15分 → 城北菖蒲園 → 徒歩8分 → 大宮神社
【JR】新大阪 → (おおさか東線) → 城北公園通 → 徒歩10分 → 城北菖蒲園 → 徒歩8分 → 大宮神社

大宮神社(旧村社)
明治末期に近隣の神社七社を合祀したと言うだけあって、本殿には主祭神の応神天皇・神功皇后の他に
五神・十五社・四殿が合祀。加えて境内にも多くの摂社が建っています。
『二の鳥居を越えると役小角を祀る行者社が建ち、拝殿手前には巨木を御神体とした「いぼ大神社」が鎮座する。
これは昔から里人達がこのモチの老木を「いぼ神様」と崇め奉り、木肌と自身の肌とを交互に撫でて、
疣は元より吹出物や内臓の病も疣に事寄せて祈願すれば、霊験あらたかで必ず治ると言い伝えられ篤く信仰されてきた。

行者社(蔵王権現)

いぼ大神社のモチの巨木

巳さんを祀る楠社

楠社の脇にある竹藪
その他、本殿の周囲には楠大神(己)を祀る楠社、応神天皇の子である仁徳天皇を祀る若宮八幡宮、
北斗大神(乾)を祀る北斗社、稲荷社、春日社と時計回りに続き、本殿裏には伊勢神宮遥拝所が建つ。
そして本殿の左脇に建つのが高良大神を祀る高良(こうら)社。同時に豊臣秀吉を祀る豊国神社でもある。
高良大神の長寿と豊臣秀吉の出世開運の御利益で知られ、石清水八幡宮にある高良社を勧請したものとされる。

仁徳天皇を祀る若宮八幡宮

北斗社

本殿北側の遥拝所

稲荷社入口

稲荷社本殿

春日社
その高良神社から令和2年(2020年)、豊臣秀吉の坐像が発見された。
等身大の81㎝の坐像であり、全国で最大の秀吉木像とされる。
社伝では大坂夏の陣の際に大坂城より持ち出されたとされるが、
製作年代は少し時代が下った17世紀半ばと言うのが妥当とされる。
文政6年(1823年)には御開帳の記録があり、その後、高良社に移されたらしい。』 とあります。

本殿脇に建つ高良社

高良社本殿

本殿近影
この中から像が見つかった?
発見時には新聞紙上でも話題になったそうです。高良(たから)社からお宝が出ても不思議はありませんが、
高良(こうら)社だったので【こうら】驚き。そして何と今年のお盆には¥500で御開帳するようです。
豊臣家を滅ぼした徳川に時代に、いくら木像とはいえ秀吉像を祀るのは危険が伴いますが、
それを敢えて行った所が浪速っ子の心意気。きっと幕府に対する【たいこう】心がさせたのでしょう。

社報に載った秀吉像

秀吉像近影

大宮神社参拝のしおり

大宮神社御朱印
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大宮神社(旧村社)
ブラタモリでも紹介されましたが、太古の昔、大阪府下の平地は殆どが大阪湾の入海で、
淀川・大和川から流れ込んだ長年の土砂堆積に拠って多くの島が出来ました。
ここ大宮もかつては一つの洲であったため南島と呼ばれ、古くから村落があり船の往来が
あった記録が残っているそう。
飛鳥時代には聖徳太子が淀川の堤を視察した際に今の旭区にも立ち寄ったとされ、
太子橋の地名に残っています。

南に向いた入口

社号標と一の鳥居
花の観賞だけでは物足りないので近隣に寺社を探すと、すぐ傍に大宮神社が鎮座。社伝に拠ると
『寿永元年(1185年)2月、源義経が平家追討の下向の折、この地に宿を取ったところ、
宇佐八幡宮の霊夢を見て目覚めると、梅の古木に霊鏡が架かっていた。
義経は「我に神助あり」とその鏡を奉じて平家を壇ノ浦に討ち滅ぼし、帰京して後鳥羽天皇に奏上したところ
神社建立を許され、この地に社を建て大宮八幡宮と称した。摂津誌には南島神社と記されている。

二の鳥居の奥にある社殿

二の鳥居脇には氏子が奉納した御神燈が建つ

モチの老木の奥に建つ拝殿(左)と社務所(右)
天正11年(1583年)、豊臣秀吉の大坂城築城に際し当社は鬼門守護神と崇められ、
社殿・末社の建立や神域の整備が行われた。
毎年1月、5月、9月には幣帛を献じるなど繁栄し、当時の社殿は広壮で境内は3ha、
南は京街道(現在の内代町)に一の鳥居があり、そこから神社まで続く参道の両側には
松並木が続いていた。境内には樹木が鬱蒼と茂り、四周には清流が引かれていたと伝わる。

拝殿全景

拝殿の奥には本殿が見える

本殿の中門
徳川時代になっても大坂城の鬼門守護神としての信仰は篤く、大坂城代の交代時には
当社への参拝が行われ、正月には初穂料、5月・9月には大幣を献納して祈願したと言われるが、
社殿は年を追って衰微していった。
しかし天明・寛政年間には祠官廣渕肥後守善直が社殿・境内の復旧に務め、
その功に拠り朝廷から従五位下を授けられている。

拝殿に掲げられた「大宮神社」の扁額と垂れ幕に描かれた社紋

軒下に吊るされた灯り

横から見た拝殿
明治になって村社に列せられ、末期には近隣の神社七社を合祀。明治45年(1912年)には
大宮八幡宮から大宮神社に改称した。以前は本殿北側に小山があり多くの椿が咲く風景が見られたが、
明治初年の京街道改修の折に、小山は取り崩され現在は大宮中公園となっている。』 とあります。

拝殿と本殿の間には影向梅と亀甲石がある

影向梅を護る狛犬
当初は、最近に勧請された神社と思っていましたが、何と創建者は源義経。
しかも平家追討時にここで見た霊夢が正夢になり平家を滅ぼしたとありますから、
日本の歴史を変えた神社と言えます。
拝殿前に置かれた参拝のしおりを見ると、霊鏡が架かったと言われる梅の古木跡があるそう。
ところが探しても見つからないので、社務所で尋ねると宮司夫人がわざわざ案内して下さいました。
その場所は拝殿と本殿に挟まれた一画。向かって右が梅の古木跡の「影向梅」、
左が「亀甲石」となっていましたが、古木の石も僅かな跡を残すのみで、互いに【拮抗】。
時代の流れに押し流されたのでしょうか?

今は枯れ木となってしまった影向梅

左側には小さくなった亀甲石が

亀甲石を見守る狛犬
宇佐八幡宮から勧請されたとありますが、宮司さんの話では社紋は石清水八幡宮と同じなので、
勧請はそちらの可能性が高いとか。源氏との関りを考えると石清水の方が妥当です。
尤も宇佐が【うそ】という訳ではありませんが…。
源平以降も豊臣・徳川と天下人の庇護が続いたのは、大坂城の鬼門というより、
ここを抑える事が政治的に重要であった証拠。
でなければ反豊臣であった徳川が豊臣の方針を継承する筈はありませんから。
初めは【イマイチ】と思っていましたが、どうして【太子】た大宮でした。

塀の向こうに建つ本殿

後方(北側)より見た本殿

本殿の極彩色の蟇股

本殿屋根の鰹木
[参考書]
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<コース>
【京阪電鉄】淀屋橋 → (普通) → 千林 → 徒歩20分 → 城北菖蒲園 → 徒歩8分 → 大宮神社
【大阪メトロ】東梅田 → (谷町線) → 千林大宮 → 徒歩15分 → 城北菖蒲園 → 徒歩8分 → 大宮神社
【JR】新大阪 → (おおさか東線) → 城北公園通 → 徒歩10分 → 城北菖蒲園 → 徒歩8分 → 大宮神社

入口にある花菖蒲説明板
花菖蒲はアヤメ科の一種で、日本に自生するノハナショウブから園芸種として改良されたもので、
古くから観賞用に栽培されています。現在、園芸品種の数は2500~3000品種と言われていますが、
ここ城北にはその10%の品種が揃っています。
『我が国の大きな品種は三系統。江戸系は東京種、或いは江戸種とも言われ、
旗本松平菖翁(1773~1856年)の時代に江戸地方で収集改良された品種の総称である。
この品種は、池の庭や流れの岸に植え、群生美を楽しむために改良されてきたもので、
他の系統に比べ性質も強く、一般的に高性である。

出口付近に置かれた単独鉢植えの花菖蒲

同上

同上

「咆哮の虎」

「宝の山」

「五三の環」

「千代田城」
名前からして江戸系と思えるが…
肥後系は、江戸時代の末に松平菖翁の手から肥後藩主に渡った本種を元に改良されたもので、
花は雄大で六英咲きが主である。6枚の花弁が豊かに重なり合い程よく垂れたものが多い。
鉢植えで楽しむのに良く、群生美よりは個々の草姿花容が重視され、その優劣を競ったと言われる。

「伊勢舞子」 文句なく伊勢系

「青岳城」

「乱れ糸」
伊勢系は江戸中期から伊勢松阪地方で改良された系統で、草丈は低く、花茎は葉とほぼ同じ
高さまでにしかならない。三英咲きが主で、あまり大輪ではないが、花弁が薄く柔らかく垂れ
縮緬地となり優雅で清楚な趣がある。鉢植えや茶庭の植込みにも適している。

「美吉野」
写真では分かり辛いが、綺麗な桜色である。

「青柳」 (伊勢系)

「李香蘭」

「白鷺の里」 (種間交配種)
上記三系統に加え、長井古種は山形県長井市の長井あやめ公園で発見された品種群。
室町から江戸時代にかけてノハナショウブの中から、花の色や形に変化のあるものが栽培された。
花色は多彩で、花形は小輪で切り花や茶花に適している。

「長井小町」 (長井古種)

「長生殿」
優雅な名前は白楽天 『長恨歌』 から。

「座間の森」
江戸花菖蒲古花というものは、江戸末期から明治大正にかけて葛飾堀切の花菖蒲園で造られていた
品種が中心。豪華さはないが、江戸っ子気質をよく表し、あっさりした粋な風情の品種が多い。
これ以外にも、キショウブ・カキツバタ等の近縁種との交配によって生まれた種間交配種、
及び改良を加える前の原型の原種がある。』 とあります。

「都の巽」
この名前は百人一首の喜撰法師の 「我が庵は都のたつみ…」由来であろう。

「新天地」

「雲の領」
「雲の嶺」の書き間違いではないかと。ならば芭蕉の「雲の嶺 いくつ崩れて 月の山」 の名句か。
説明に拠れば、我が国で花菖蒲の品種改良が進んだのは江戸時代で武士の間で広まった様です。
如何に 「パックス・トクガワナ」 と呼ばれる平和な時代とはいえ 「武士たる者が園芸など…」 という
批判はなかったのかと気になりますが、菖蒲は尚武に通じるので大目に見て貰えた可能性が大。
但しこれは建前で、少ない収入の足しにする必要があったのが本音でしょう。

「王昭君」
西施・貂蝉・楊貴妃 と並ぶ中国四大美女。漢の後宮から友好のため匈奴の単于に嫁いだ。

「東鑑」
岩波文庫等では 「吾妻鏡」 の表記になる。

「昇竜」
美しさは元よりですが、命名も非常に凝っていて、これは支配階級だった武士ならではと言えます。
江戸・伊勢・長井名と言った地名を付けたものから始まり、枕草子・夕霧・美吉野・都の巽は
古典や和歌由来。加えて王昭君・長生殿・霓裳羽衣(げいしょううい)などは中国古典由来。
漢籍に親しんだ武家ならではとも思いますが、多くは白楽天の『長恨歌』の引用。
漢籍の中では初歩とされるレベルでした。
名前に李香蘭があったのには吃驚ですが、今の若い人は知らないでしょう。
いずれ楊貴妃や則天武后と同列に見られる日も遠くないとは思います。

「潮来の夢」

「涼風」 (伊勢系)
宝塚系ではないのかしらん?

「初紫」

「枕草子」
由来については言うまでもなし。
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【JR】新大阪 → (おおさか東線) → 城北公園通 → 徒歩10分 → 城北菖蒲園 → 徒歩8分 → 大宮神社

城北菖蒲園
水無月に入って梅雨らしい天気が続きますが、そんな湿った気分を吹き飛ばすべく、
花菖蒲巡りを計画。行先は関西花の寺にもある三田市の永澤寺ですが、
ネットで確認すると6月中はまさかの休園。
折角の見頃なのに呆然としましたが、考えて見ると城北公園にも菖蒲園が。
遠くの休園に対して近場が 【救援】 してくれた形。【勝負】は下駄を履くまで分からないものです。
自宅から10㎞もありませんが何も遠出をするばかりが能ではありません。
かつてバスを除く公共交通機関は地下鉄谷町線と京阪電気鉄道のみでしたが、
おおさか東線が開通して以降は城北公園通駅が開業、JR経由でも行くのが可能になりました。
駅からの徒歩は 20→15→10分 と短くなってきましたが、尤もこれを利用して訪れる人が
どれ程居るかは疑問です。私も梅雨の合間を縫ってチャリンコで巡礼。

大阪メトロ 千林大宮駅スタンプ
谷町線は外枠が梅で紫色が共通。

JRおおさか東線 城北公園通駅スタンプ

旭生江郵便局 ; 城北公園花菖蒲園、淀川に架かる菅原城北大橋
因みに旭区は全局に城北花菖蒲園をあしらった風景印が設置されている。
城北菖蒲園は
『城北公園内の北東に位置し、面積1.3haを有する大阪唯一の花菖蒲園である。
昭和9年(1934年)に淀川の廃河川敷に城北公園が開設、貸農園や昆虫館が設置された。
その後、市民の要望に拠って花菖蒲園の計画が持ち上がり昭和36年(1961年)に工事が着工、
昭和39年5月に花菖蒲園として開園した。

城北公園の淀川側にある花菖蒲園

花菖蒲園入口
花菖蒲の時期以外は閉鎖している。

入場券とパンフ

入口から園内へ
水辺以外には紫陽花も。

紫陽花の向こうに広がる菖蒲池
昭和49年には公園の拡張と内容の更なる充実を行っている。
園内は四阿(あずまや)を中心に回遊式庭園を形成し、江戸系、伊勢系、肥後系の三系統を始め、
約250品種、約13,000株の花菖蒲を栽培している。
毎年、5月下旬から6月中旬には花菖蒲が咲き、多くの来園者で賑わう。』 とあります。

公園の奥まで続く池
向こうに見える建物は大阪工大。

水辺に咲き誇る花菖蒲

四阿から見た花菖蒲

花菖蒲園全景
中央に見えるのが四阿。

四阿の下で花菖蒲を眺める人達

鳥たちも花を愛でているの【かも】
城北公園は大阪市内方面に向かう際に良く通りますが、菖蒲園が開園するのは
花菖蒲が咲くこの時期のみ。それ以外はシャットアウトで内部を覗う事も不可能です。
恐らく、人の雑踏で植物が傷む事を恐れての措置でしょう。その辺りは同じ時期に咲く紫陽花とは対照的。
棲息する場所が水辺だけに生育は水物という事になるのでしょうか?

池の周辺には紫陽花も

これは「墨田の花火」

紅色の紫陽花

カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)

花菖蒲と紫陽花のコラボ展示

展示脇にある半夏生
この花も水辺を好む事で知られる。
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JR北新地 → (東西線) → JR加島 → 徒歩8分 → 富光寺 → 徒歩5分 → 尼崎戸ノ内〒

長慶山 富光寺(高野山真言宗 摂津八十八ヵ所第七番札所)
職場が変わる事になり、日程に余裕ができたので定期券の範囲を散策。府下に住まいながら訪れる事の少ない淀川区。
企業と住宅地の印象しかありませんが、摂津八十八ヵ所第七番札所が鎮座。駅から僅かの距離というのも魅力です。
目指す富光寺は神崎川を渡れば兵庫県になるという大阪市の端に鎮座。富に光と字面は良いですが、
「ふこう寺ではなぁ」と思っていましたが「ふっこうじ」と読むそうで、復興ならばOK。やはり発音は大事ですね。

山門に掲げられた扁額
長慶山富光寺(ちょうけいざんふっこうじ)は、
『天正19年(1592年)の富光寺縁起の奥書に拠れば、大化2年(646年)頃、
インドより渡来した法道上人が雲に乗って都から播磨へ戻る途中、加島の辺りに五色に光る霊光を発見。
この地に降りて光っていた木を伐り阿弥陀如来を刻んで寺を建てたのが嚆矢。
一説には、同じ法道上人の作だが、京都より流れてきた「流如来」とも言われる。
本尊の阿弥陀如来は一丈六尺の立像で、法道上人が刻んだとされるが、調査の結果、
藤原期の作であることが判明している。開山法道上人は孝徳天皇の信任篤く、
この本尊の話を聞いた天皇は自ら「富光寺」と命名、勅額を与えたとされる。

山門前の山号寺号標
孝徳天皇勅願も刻んである。

山門の正面に建つ本堂

本堂は昭和59年の新築

本堂の張出した向拝と屋根の庇

本堂は新築ながら天竺様に似た構造に見える
元久4年(1207年)、法然上人が土佐へ配流される途次、当寺に一泊して法話を聞かせた。
この時、上人の話を聞いた神崎の遊女五人が入水するという事件が起こり、
これが後世、上田秋成『雨月物語』の「宮木が塚」になった。
鎌倉時代には香具波志神社を訪れた執権北条時頼が当寺にも参拝、大梵鐘を寄進した。
時頼は庭前の梅花を眺め、
・吹くは憂し 花をばさけよ 春の風
と詠んだ。
現在は、弘法大師1150年御遠忌事業として昭和59年に新築された本堂に安置。
平成21年に篤信者より寄進された等身大の観音菩薩と勢至菩薩の立像を脇侍に三尊仏として崇められている。

本堂内陣へ参拝

内陣に置かれた由緒記

内陣の様子

御本尊
本堂右手には阪神淡路大震災後に新築された護摩堂に不動明王、客殿に弘法大師像が祀られている。
不動明王には「空海上人八躰不動之壱」の銘が記され、貞和4年(1348年)作と台に記載がある。
弘法大師作との説もあったが、南北朝時代の作とも言われる。
延元元年(1336年)、足利尊氏を追った楠木正成が当地に本陣を置き、佐々木秀栓と一線を交えた時、
神崎橋上から本尊を一心に祈念し勝利を収めたと言う。この頃、この陣で熱病が流行るが、
この不動尊に祈念する事で収束。以来「熱切不動明王」の名で信仰されて来た。
戦国武将・三好長慶も願をかけ本陣にしており、山号はこれに由来している。
現在当寺所有の両界曼荼羅は成立年代から三好長慶に所縁があると考えられている。
慶長年間には僧侶実印が再興、豊臣秀吉は寺領、朱印地一町八反歩を寄進している。
江戸初期には小浜光隆が加島領主となり、江戸幕府大坂初代の船奉行として、
大坂湾を中心に海川の水上治安に当り、「川口殿様」と呼ばれた。
明治の初期の境内は今より遥かに広い1万5千坪に及び、老松昼なお暗い大寺院であった。
現在の本堂は昭和58年(1983年)の新築である。』 とあります。

本堂向拝下から不動堂を望む

不動堂近影
寺伝は孝徳天皇まで遡っていますが、空飛ぶ法道上人など荒唐無稽な話ですし、
北条時頼が歌を詠んだとあるのも内容は俳句で鎌倉時代には未だない筈。
要は、古くからある寺院に箔を付けるために歴史上の偉人を持って来たのでしょう。
加島は神崎川・淀川・中津川の三角洲の西端にあり、弥生時代後期から漁撈民の集落があったという
古くから人が集まった場所。中世以降は交通の要衝として宿場町ができ、淀川河口の江口と並んで
遊女の里として知られる歓楽街だったそう。今の十三はその名残でしょうか?

不動堂前面

不動堂前から見た境内

境内に置かれた鬼瓦
それだけに様々な人の争奪の地となったようで、領主も転々と変わって【かしま】しい状態だったでしょう。
楠木正成や三好長慶が祈願したのはほぼ確実でしょうが、そのため戦禍を受けたと考えるのが普通。
今の伽藍が新しいのも先の大戦だけが理由でない気がします。
そんな不幸から復興できたのも【寺号自得】とは言えそうです。

摂津八十八ヵ所の石碑

富光寺御朱印 (摂津八十八ヵ所)

宝篋印塔
参拝後は神崎川を渡り尼崎市内の郵便局へ。
戸ノ内郵便局が2022年4月1日の開局50周年を記念して風景印を刷新。
従来は、近松門左衛門の『冥途の飛脚』のヒロイン梅川と市花ベゴニアでしたが、
市内の殆どの局がほぼ同じデザイン。今回の独自の変更は貴重と言えます。

富光寺の屋根を見ながら大阪市から尼崎市へ

尼崎戸ノ内郵便局 ; 市木・ハナミズキの外枠に神崎川に架かる毛斯倫大橋、ハナミズキの花
描かれているのは神崎川に架かる「毛斯倫(もすりん)大橋」。
大正末期に尼崎市戸ノ内町に工場があった毛斯倫(もすりん)株式会社が、
対岸の大阪市と繋ぐために架けたもので、会社が無くなった後も町の象徴として親しまれてきました。
公共ではなく一事業者が橋を架けるなど、当時でも珍しかったでしょうが、名前がまた特徴的。
戸ノ内大橋ならばここまで有名になったかどうか。橋も呼び名が大切なのは寺院と同じです。

神崎川に架かる「毛斯倫大橋」
大阪側からの眺め。

大橋の上から下流を見る

尼崎市内から見た大橋
[参考書]
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【往路】阿部野橋(7:44) → (近鉄準急) → 富田林(8:14) → 富田林駅前(8:35) → (金剛バス) → 千早赤阪役場前(8:52)
千早赤坂村役場 → 徒歩10分 → 下赤坂城跡 → 徒歩20分 → 楠公誕生地・道の駅ちはやあかさか・村立郷土資料館 → 徒歩10分 → 建水分神社 → 徒歩5分 → 奉建塔 → 徒歩12分 → 千早赤坂村役場
【復路】千早赤阪役場前(11:47) → (金剛バス) → 富田林駅前(12:02) → 富田林(12:17) → (近鉄準急) → 阿部野橋(12:47)

建水分神社(延喜式内社)
楠公生誕の地を後に東へ進むと山が迫り神社が近づきます。水越峠から流れ出て千早川に合流する
水越川畔に建つのが建水分(たてみくまり)神社。地元では水分(すいぶん)神社で呼ばれます。
同じ漢字なのに「みくまり」「すいぶん」とは【随分感じ】が違いますが、水分(すいぶん)はこの辺りの小字。
恐らく神社の名前が地名となって後に読み方が変わったのでしょう。

趣のある門前の家屋
前を走るのは309号線。

神社への入口

入口右手に建つ道標
楠公所縁の史跡からの凡その距離が分かる。
建水分神社(たけみくまりじんじゃ)は、
『社伝に拠れば崇神天皇5年(紀元前52年)、勅して金剛葛城の山麓に水神として奉祀されたとあるが、
実際は白木大地に用水が通じる奈良時代末か平安時代初期と考えられる。
延喜元年(901年)の『日本三大実録』には叙位累進の記録があり、
延長5年(927年)の 『延喜式-神名帳-』 に記載のある式内社である。

神社解説の駒札

社務所を右に見て緩やかな坂を登り境内へ

坂の左手に建つ重文・旧宝物庫

宝物庫正面
古来より皇室の崇敬が篤く、第96代・後醍醐天皇は建武元年(1334年)、楠木正成に命じて
山下の水越川の畔にあった社殿を現在の山上に遷座。本殿・拝殿・鐘楼等を再営し、
延元2年(1337年)に神階最上位である正一位を授けた。霊峰金剛山の総鎮守で、
古来付近十八ヵ村の産土神であると共に累代この地を本拠とした楠木一族の氏神でもある。

本社大鳥居と狛犬

万延元年(1860年)造立の狛犬(阿像)
石造の狛犬としては大阪府下で最大級を誇る。

こちらは左側に建つ吽像
本殿は建武元年(1334年)に後醍醐天皇の勅命で楠木正成が再建した「水分(みくまり)形式」で、
一間社春日造の中殿(天御中主命)、流造の左殿(天水分神)、同じく流造の右殿(国水分神)を配し、
三社共に廊下で連なる珍しい形式で国の重要文化財となっている。

大鳥居近影
階段を上り本殿へ。

大鳥居の扁額
後醍醐天皇宸筆の木額の表面が摩滅したため、宝永2年(1705年)葉室大納言頼孝が聖筆を金銅製で模したもの。

鳥居脇の御由緒

階段の先に建つ(割)拝殿
拝殿左側には末社として金峯神社、鳥居の右手には摂社の南木(なぎ)神社が建つ。
後社は延元元年5月に楠木正成公が湊川にて戦死したのを悼んだ後醍醐天皇は自ら正成の木造を刻み、
産土神である当社の神域に祀ったものである。拝殿に日置流(弓術)の献額がある。』 とあります。

拝殿正面

横から見た拝殿の向拝(張り出し)

拝殿の内部
名前から想像できるように水を司る神社。楠木正成は鎌倉幕府体制側に属さない悪党と呼ばれた新興勢力。
由緒に関しては謎の多い人物ですが、水運を利用した交易や輸送に関わっていたとされ、
またこの地域で採れる水銀の原料である丹を扱っていたとも言われます。
いずれにせよ従来の土地を仲立ちとした封建体制とは一線を画した存在であったのは事実。
拝殿までは間近まで行けますが、本殿は通常拝観して居らず遠目からの参拝。
重文の貴重な建造物ですが、人が押し掛けると傷みが激しくなるのでしょう。

拝殿の奥には本殿への階段が

木の向こうに見える本殿屋根

通常非公開の重文・本殿三殿 (御略記より)

拝殿左手に建つ末社・金峯神社
参拝後は、参道右手の社務所で御朱印拝受。神職が対応下さいました。
玄関に入ると、戦艦「金剛」の写真と模型が。
私 ; 「金剛にはこちらが分祠されているのですね。」
神職 ; 「以前はそうでしたが、今は御札になっています。」
私 ; 「以前に参拝した大和神社は戦艦大和でした。」
神職 ; 「あちらは有名ですからね。」
私 ; 「他の戦艦もそうなのですか?」
神職 ;「ええ、全ての戦艦には関係する神社の御札が置かれていますね。」
私 ; 「例えば、武蔵なら何処でしょう?」
神職 ;「武蔵神社はないので、一ノ宮の氷川神社です。」
私 ; 「なるほど。」
神職 ;「戦艦に祀られて居る神社を専門に巡って居られる方もいるくらいですから。」
と興味深い話を伺うことができました。

大鳥居の手前にある摂社・南木神社

御由緒

南木神社拝殿

横から見た拝殿及び幣殿

拝殿に続く幣殿と本殿
金剛とはダイアモンドを表すインドの言葉で、仏教ではあらゆるものを打ち砕く宝とされます。
寺号や経典に用いられているのは御存じの通り。それで戦艦の名となったのかもしれません。
戦艦には熱心なファンがいるのは知っていましたが、そこに祀られる神社を巡るというのは初耳。
郷土資料館では楠公所縁の寺社巡礼の掛軸を見ましたが同様のものがありそう。
全国でどれくらいの方が巡って居られるかは?ですが、全部で【千巻】にはなりそうです。

水分神社ながら水が止まっている手水舎

旧絵馬堂
近代戦争は戦法よりも物量戦の印象が強く、精神的な面は軽視されがちですが、
“舟板一枚下は地獄”と言うのは今も昔も変わらず。乗組員にとって精神的な支えとなったのは
想像に難くありません。なにせ戦地に赴く訳で物見遊山とは違いますから。
唯、神風に頼り過ぎると駄目なのは古今の歴史が示す通りです。

参拝後は社務所へ

建水分神社 御略記

建水分神社御朱印
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千早赤坂村役場 → 徒歩10分 → 下赤坂城跡 → 徒歩20分 → 楠公誕生地・道の駅ちはやあかさか・村立郷土資料館 → 徒歩10分 → 建水分神社 → 徒歩5分 → 奉建塔 → 徒歩12分 → 千早赤坂村役場
【復路】千早赤阪役場前(11:47) → (金剛バス) → 富田林駅前(12:02) → 富田林(12:17) → (近鉄準急) → 阿部野橋(12:47)

楠公誕生地
下赤坂城跡に登った後は、役場まで戻って神社に参拝すべく東へ。
千早川に架かるのはその名も「出合橋」、対向車注意の看板がありましたが、
まさか出合がしらの意味ではないでしょう。
その途中、曲がりくねった道の先、少し曲がりくねった場所にあるのが楠公誕生地。

千早川に架かる出合橋上から

705号線にある案内板
遺跡は
『楠木正成が誕生したという伝承の残る地。現在の石碑は明治8年(1875年)2月8日に
大阪会議で来阪していた大久保利通が、楠公に関連する史跡を巡った際に、
同行していた堺県令・税所篤へ整備を命じて建てたものである。

駐車場前に建つ石碑
笹川良一謹書とある。禁書ではない!

自販機も楠公仕様
それ以前の文禄年間には豊臣秀吉が増田長盛に整備を命じて土壇を築き、
建武以後の楠木邸に育った百日紅を移植した話や、元禄年間に領主石川総茂が
保護を加えたという記録が残る。
くすのきホール建設に伴い、発掘調査を行った際には、二重の堀を周囲に巡らせる建物跡を検出。
出土遺物も楠木氏と推定することが可能である。加えて楠公産湯の井戸の伝承地の伝説も残る。』
とあります。

楠公誕生地遺跡全景
周囲の巨木は勿論、楠。

遺蹟説明駒札

奥に建つ生誕碑
楠公産湯の井戸もすぐ近くですが、修理が必要だそうで見学はできず。
楠公誕生の地というのも確たる証拠がある訳ではなく、あくまで伝承の地。
戦前の教科書では「他の人物は忘れても楠木正成の名前は忘れるな!」とまで言われた忠臣。
生誕地不明ではまずかったのでしょう。

石碑近影

竹田宮恒徳王御手植の楠
誕生地の脇には道の駅「ちはやあかさか」と郷土資料館が。
道の駅は「日本で一番かわいい」が売りで、これは府下唯一の村にあるからでしょう。
郷土資料館では御朱印ならぬ御誕生印を拝受。御朱印ブームに肖って御城印・鉄印ができましたが、
誕生印はそれに続くもの。いずれ御臨終印も出て来そうです。

こぢんまりとした道の駅へ

道の駅スタンプ

生誕地に隣接する郷土資料館

資料館入口の顔ハメ

書置きの御誕生印を拝受
少し進むと高台に塔が見えますが、これが楠公600年忌記念塔の奉建塔。
湊川合戦の600年後の昭和15年に全国の児童・生徒・教職員からの寄付を基に建設されたそう。
高さは43歳で戦死した楠公に因み43尺となっているとか。
戦時中の困難な状況下でもこれだけ寄付金が集まったのは、楠公の人気故とも言えますが、
国民の士気を高めるために軍部が仕向けた可能性が大。【封建】時代の亡霊でしょうか?

奉建塔への階段を上る

階段脇に咲く水仙

43尺の奉建塔
刻まれている文字は 「非理法権天」。

塔の解説

塔の傍の展望台からの眺望
白いPLの塔も左に見える。
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<コース>
【往路】阿部野橋(7:44) → (近鉄準急) → 富田林(8:14) → 富田林駅前(8:35) → (金剛バス) → 千早赤阪役場前(8:52)
千早赤坂村役場 → 徒歩10分 → 下赤坂城跡 → 徒歩20分 → 楠公誕生地・道の駅ちはやあかさか・村立郷土資料館 → 徒歩10分 → 建水分神社 → 徒歩5分 → 奉建塔 → 徒歩12分 → 千早赤坂村役場
【復路】千早赤阪役場前(11:47) → (金剛バス) → 富田林駅前(12:02) → 富田林(12:17) → (近鉄準急) → 阿部野橋(12:47)

下赤坂城跡
小春日和となったこの日は、野暮用のために千早赤阪村へ。
小学四年の社会 「わたしたちの大阪府」では東能勢・千早赤坂と府下には二村がありましたが、
昭和・平成の大合併と50年を経て今に残る村は千早赤阪村のみ。
平成の大合併を潜り抜けた姿勢には物凄い矜持を感じます。
唯一の村なので「どんだけー!」不便な山奥かと思いましたが、近鉄富田林駅から金剛バスで17分。
しかも30分毎の運行でバスは結構な混雑。乗客の服装を見ると、殆んどが終点の千早口から
金剛山への登山組。【とんだ】勘違いで、【こんごう】は注意が必要です。

近鉄富田林駅前に建つ道標
バスは役場前で停車するので用事を済ませたのは9時過ぎ。このまま帰るのは余りにも無駄なので周辺散策。
千早赤阪村と言えば楠木正成所縁の場所なので、千早赤阪城跡へと思いましたが、
両者は全く別個の城で、千早城跡は金剛山登山口と遥か先。赤坂城跡も上赤坂城跡と下赤坂城跡に
分かれていて、近くにあるのは下赤坂城跡。全く己の【あかさか】さに反省です。

バス停の向かいにある村役場

入口にある村章は楠をデザイン?

千早赤阪村マンホールカード
この日の第一の用事完了。
役場の前の705号線を南下。千早赤坂中学校前を右に進むと城跡へ着く筈でしたが、まさかの通行止め。
道を引き返し、道沿いの棚田の畦道を通り抜けて漸く到着。やはり楠公の城への道程は【難航】でした。

役場内に展示中のカラーマンホール蓋

中学校へ向かうこの道は行き止まり

705号線脇の農地の畦道を登り城址へ
下赤坂城跡は、
『標高185.7m、比高61.4m、金剛山地の南方から北方に突き出した丘陵地帯の先端部分を利用した中世の平山城。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した河内の武将楠木正成に拠って築城された。
元弘元年(1331年)、倒幕計画が発覚した後醍醐天皇が笠置山に逃れたのと同時期の9月に正成はこの地で挙兵。
しかし北条軍は10月17日から21日にかけて激しく攻撃、俄か造りの城であったことともあって落城、
風雨に紛れて正成らは金剛山へ逃れた。

学校の裏手にある下赤坂城址

城跡説明板
翌年4月、正成は赤坂城を逆襲して奪還、湯浅定仏らを降して部下に組み入れ、
再三攻防戦が繰り広げられた。その間に鎌倉幕府は滅亡する。
その後、南北朝合一まで楠木方はこの城をゲリラ戦の基地としたと伝わる。
現在、千早赤坂中学校の所在地一帯が下赤坂城跡で、
丘陵上に本丸・二の丸・三の丸跡が小字として残っている。
城としての遺構は明確にはなっていないが、中学校内に本丸跡が、
村役場上付近が主郭であったと言われている。』 とあります。

城跡の高みへ

高みからの眺望
右が中学校、左手遥か奥に見えるのがPLの塔
難攻不落の山城を想像していましたが周囲は「下赤坂の棚田」と呼ばれる水田で、
小高い丘の上の見晴らしの良い場所。富田林市内のPLの塔が遠望できました。
戦略家の正成にしては何故こんな場所に?と思いましたが、籠城よりも敵を翻弄するのが主眼で、
直ぐ城を捨てて逃れるため堀や塀がなかったのもそのためでしょう。
合戦なら勝たなければ負けですが、ゲリラ戦ならば負けさえしなければ勝ち。
従来とは全く異なる戦術を取入れたのが楠木正成の日本史上の第一の功績と言えますが、
この戦術が後世日本史上の戦に影響を与える事はありませんでした。
新規を取入れるのに抵抗があったのか、戦争の美学が足枷になったのか、
その辺りは今後の研究課題でしょう。

城跡から眺めた下赤阪の棚田

棚田解説
地元の四條畷は小楠公(楠木正行)が戦死した場所なので繋がりが深く、
戦前は富田林中学と四條畷中学は姉妹校だったとか。
今は昔の話ですがMHCはどちらも楠がデザインされています。
こうして下赤坂城跡を後にしましたが、ふと思ったのはもし楠公の時代にマンホールがあったなら、
城壁の上から糞尿を落としたという戦術もなかったわけで、難攻不落の千早赤坂城の伝説も幻に。
なにか【ウン】めいたものを感じます。
楠木正成も戦術家としてよりも天皇の忠臣として後世に名を残しています。
あの世でこの事を知ったら【フンガイ】するかもしれませんが。
・千早古~っ 神慮も聞かず 湊川 兵くれないに 腹くくるとは

千早郵便局 ; 金剛山麓の千早城址、楠木正成の兜、ロープウェイ
[参考書]
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【往路】JR大阪(8:24) → (紀州路快速) → JR和泉府中(9:04→9:07) → (阪和線) → JR下松(9:12)
下松駅前(9:25) → (南海ウイングバス) → 道の駅愛彩ランド(9:44) → 徒歩10分 → 積川神社 → 積川神社前(10:46) → (南海ウイングバス) → 池尻(10:58) → 徒歩5分 → 久米田寺 → JR久米田(13:19) → (阪和線) → JR北信太(13:27) → 徒歩5分 → 葛葉稲荷神社 → 徒歩15分 → 聖神社 → JR北信太
【復路】JR北信太(15:27) → (阪和線) → JR天王寺(15:46→15:52) → (大阪環状線) → JR大阪(16:06)

聖神社 信太明神(和泉国三宮 式内社 旧府社)
聖神社の広い境内を順に参拝。
『本殿は慶長9年(1604年)の再建。檜皮葺屋根、正面に千鳥破風、
軒に唐破風を付け向拝を設けた「三間社入母屋造」で、荘厳で雅やかな
安土桃山時代を象徴する極彩色や彫刻が施された大規模な社である。
日光東照宮の創建時には、当社本殿を参考にしたとされる。
昭和12年(1937年)の大修理工事の際には、慶長9年の再建と
江戸期の修理を裏付ける棟札が発見された。

塀越しに見る本殿の千鳥破風と唐破風

本殿の向拝部分

本殿側面

極彩色の組物

蟇股の彫刻は鳳凰か?
三(さん)神社は保食神(うけもちのかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、
別雷神(わけいかづちのかみ)が御祭神。通称「奥宮」「信太稲荷」で農耕・産業・食生活を見守る宮。
社殿は安土桃山時代の「三間社春日造」の建築様式である。
瀧(たき)神社は伊邪那岐・伊邪那美の夫婦の神を祀り、夫婦和合・縁結び・子宝の御神徳を持つ。
こちらの社殿も安土桃山時代の「一間社春日造」の建築様式となっている。』 とあります。

境内末社の瀧神社(左)と三神社
いずれも国の重要文化財。

一間社春日造の瀧神社

正面に千鳥破風、軒に唐破風付き向拝を設けた瀧神社

三間社春日造の三神社

三神社の千鳥破風の蟇股彫刻

三神社の檜皮葺屋根

三神社の向拝の彫刻
ここも積川神社同様、重文である社が修復を経て鮮やかに蘇っていました。
御朱印を御願いいした宮司さんの話では、
宮司 ; 「個人的には、檜皮葺よりもスレートあたりにしたかったのですが…。」
私 ; 「高価になりますからね。」
宮司 ; 「檜皮葺だと、鴉が巣の材料に引き抜くのですよ。」
私 ; 「耐久はどれくらいでしょう?」
宮司 ; 「20~30年ですね。」
私 ; 「それでは普通の家と一緒ですね。」
宮司 ; 「檜皮葺のできる業者さんがは全国で数えるほどしかなくて。」
私 ; 「遠方から来られるのですか?」
宮司 ; 「幸い、近畿にも居られたので助かりました。伝統継承は多変ですわ!」
と言った会話。神様も鴉には【クロウ】されているようでした。

境内の北側にある平岡神社

平岡神社説明

平岡神社本殿

こちらは厳島神社
[参考書]
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聖神社(和泉国三宮 式内社 旧府社)
この日は葛葉稲荷神社で巡礼止めの予定でしたが、葛葉稲荷神社が聖神社から分祀したと聞き、
これは元社にも参拝しないと画竜点睛を欠く、或いは龍頭蛇尾に終わると思い予定を延長。
阪和線の線路を越えて熊野街道筋を南下。新興住宅に囲まれた先の神社と異なり
歴史を刻んだ家並みが続きますが、やがて東側に大きな石の鳥居が出現。
ここが神社の入口で、道を東に進み坂を上って10分程で信太山丘陵の西端にある神社へ到着。

熊野街道沿いに建つ長屋門

同じく街道沿いの重厚な屋敷

街道東側に現れる一の鳥居
ここから東へ上る。

街を見下ろす高台へ
社碑に続く参道を進み左折するとやがて行く手に社殿が。
街道沿いの鳥居からここまで10分程かかりますが、坂を上り木々の間を抜ける事で、
古社への参拝の期待がいやがうえにも高まります。
『聖(ひじり)神社は信太(しのだ)明神とも呼ばれ、静かな森に囲まれた場所に社殿が建つ。
かつてはその神域一帯は信太森と呼ばれる深い森林地帯であったと言う。
創建は天武天皇3年(674年)8月15日、天皇の勅願に拠って信太首が聖神を祀った事に始まるとされる。
当時この付近一帯は荒地で、人々の生活は困難を極めたが、神社を創建するとその御利益で
稲が「信(の)び信び太く」育つようになり、地名も「信太」に、この地の人々も「信太」を名乗るようになった。

坂の上にある社碑と二の鳥居

二の鳥居脇の風化した狛犬

二の鳥居に続く参道

参道を左折した先に見える社殿
この神徳が国家にも認められ、皇室や公家の守護神として、また各地の人々の崇敬を集めた。
延喜式内社で和泉国五大社の内、三ノ宮に当たる。
聖神は「日知り」の神、つまりは暦の神と見做されて、信太郷に住んでいた渡来氏族の陰陽師の信仰篤く、
後に土御門家に属する陰陽師の安倍晴明に関する伝承も多く伝わる。
江戸時代前期の僅かな時期ではあったが、独自の暦を発行していた事もあった。
聖武天皇や後村上天皇からは社領の寄進を受け、宇多上皇は参詣の際に、当社に御衣を奉納。
後白河法皇が参詣の際に宸筆の社額を奉納したものが、社宝として今に伝わる。

境内の南側にも鳥居が建つがこれは脇門扱い

南側から見た境内

由緒記

境内見取図
天正3年(1575年)には織田信長から朱印地の寄進を受け全盛を極めるが、
その10年後の天正13年(1585年)には豊臣秀吉の根来討伐の兵火に拠り社殿焼失。社領も没収された。
秀吉の死後、慶長9年(1604年)には豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として本殿を再建、今に伝わる。
かつて当社の神仏習合を示す別当寺である萬松寺、堂塔伽藍を有した奥之院は
明治初期の廃仏毀釈で廃寺。
上地令に拠る境内縮小に伴い、信太山丘陵(現在の鶴山台)に点在していた三神社、
瀧神社などが境内末社として現在地に鎮座した。』 とあります。

拝殿

拝殿に掲げられた「聖神社」の扁額

向拝の蟇股の彫刻

拝殿前の手水舎
山の中腹の高台に鎮座し、広い境内を有する当社は、和泉三ノ宮に相応しい荘厳さに包まれています。
由緒記にあるようにかつては暦を司っていたそうですが、太陽や星を観察するために高台を選んだのでしょうか。

手水舎から北を望む
右手が拝殿、左手が社務所。

聖神社御朱印
スタンプ形式で、セルフで押印する。
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信太森神社(旧村社)
境内にある葛の葉伝説の石碑
近世以来、葛葉稲荷神社が有名になったのは所謂「葛の葉狐」の伝説のお陰。
『平安時代の朱雀天皇の頃、大坂阿倍野に安倍仲麻呂七代の子孫である
阿部保名(あべのやすな)と言う美丈夫が居た。
彼は讒言によって所領を失っていたので、所領回復と家名復興のために
葛葉稲荷神社に日参していた。

伝説の解説

奉納された絵

山門前左の狐の石像
咥えているのは鍵 or 巻物?

同じく右側の狐の石像
こちらは宝珠を咥えている。
ある日、保名は日参の帰路に猟師に追われた白狐を助けたが、自らは負傷する。
その後、葛の葉と名乗る女性が現れ、負傷した保名の実の身の回りの世話をした。
やがて二人は結ばれ、童子丸という子を授かるが、ある時、我が子に自分の正体を知られる。
葛の葉は保名に助けられた白狐の化身であった。

姿見の井戸

井戸の説明

白狐化身の木

楠木龍王の碑

龍王碑の由緒記

社殿奥に広がる森
葛の葉は父親の言いつけを守るよう我が子を諭し、保名の元を去る。
去り際に、傍らの障子に口に筆を咥えて
・恋しくは 尋ねきて見よ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉
の一首を記した。家に帰った保名はこの歌を見て驚き、
信太の森へ来て見ると、一面に葛が生い茂るばかりであったという。

本殿左手に聳える大楠
花山天皇が「千枝の楠」と名付け、清少納言も『枕草子』に記した名木である。

大楠の由緒記

大楠根元に祀られている楠本大明神
根元が二つに分かれている事から「夫婦楠」とも呼ばれる。

大明神の白狐の神様

南側から見た大楠と本殿
童子丸は長じるに及んで才能を発揮、天皇の病気を治した事で名をあげ、
安倍家は復興を果たす。かれは後の大陰陽師安倍晴明。
この話が江戸前期の古浄瑠璃「しのだづま」以来、浄瑠璃・歌舞伎の題材として広く使われた。
落語「天神山」でも知られる。』 とあります。

境内に繁茂する葛の葉

江戸時代の風景

境内の遠望
文化人類学的には異類婚姻譚というもので、雪女、羽衣伝説と類似のもの。
いずれも後に正体が露見して二人が別れる悲劇に終わるのも同じです。
このような伝説の背景にあるのは、その人物が人間離れした能力を有する場合が殆ど。
安倍晴明の超能力を狐の霊力に求めたと想像できます。ではなぜ狐なのか?

境内南にある社務所で御朱印を拝受
一見、茶店に見えるが、くずもちを売っているので間違いではない。

葛葉稲荷由緒

「信太の森 霊験記 葛の葉姫」 の冊子 ¥500
舞台は異なりますが、『唐代伝奇』には、
中国四大書家の欧陽絢は母親が猿神と交わって生まれたという話があり、
その伏線として政府の壁に掲げられた彼の肖像画を見たある人が
「何故、ここに猿の絵があるのか!」と言ったとか。
今に伝わる清明の肖像画を見ると、彼が狐顔だったので、
このような伝説ができたというのが真相かもしれません。

葛葉稲荷神社御朱印

張子の白狐の御守り ¥700
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信太森神社(旧村社)
岸和田市で道の駅、積川神社及び久米田寺に参拝後、駅に着いたのが13時過ぎ。
流石にそのまま帰るのも芸がないので北信太で下車。北河内の人間が下りる事も稀で、
高3の担任だった先生が信太高校の校長で定年された事をやっと思い出した次第。

簡素なJR北信太駅舎
現在は無人化?

JR北信太駅スタンプ (2006年JR西日本大阪支社印)

駅を出て正面に建つ一の鳥居

南に進むと直ぐある二の鳥居
奥に次の鳥居が見える。

交差点を挟んで建つ三の鳥居と四の鳥居

神社入口に建つ石の鳥居
駅から南西に5分歩くと楠の大樹が目印の葛葉(くずのは)稲荷神社。
信太森(しのだのもり)神社が正式名ですが、葛の葉伝説が有名になったので、こちらの通称で知られます。
信太森(しのだのもり)神社は、
『和銅元年(708年)、元明天皇が楠の御神木の化身である白龍に対して祭事を行った事が嚆矢。
信太森神社はその神木を御神体とした神社として建立されたと言う縁起が伝わる。
また別の言い伝えでは信太首(しのだおびと)の後裔が守護神として聖神社から分祠したとも言われる。

門前にある由緒記

境内案内図と50を越える摂社

門前の狐の石像

神門を通して見た境内

神門の幕に描かれた神紋

神門から続く参道と大楠

手水舎

和泉式部の歌碑

歌碑解説

松尾芭蕉句碑
近世以来、特にこの神社が有名になったのは所謂「葛の葉狐」の伝説に拠る。
大坂阿倍野に住んでいた阿部保名(あべのやすな)と信太の森の狐(葛の葉姫)とが情を交わし、
二人の間に後の大陰陽師となる安倍晴明が生まれた。
江戸前期の古浄瑠璃「しのだづま」以来、浄瑠璃・歌舞伎の題材として広く使われた。

参道に続く石鳥居

社殿正面

鎮座御祭神

社殿の扁額

神紋が描かれた提灯

社殿全景
明治5年(1872年)に村社に列せられ、同40年(1907年)には神饌幣帛料供進者社に指定された。
その後、近在の12社が合祀され、現在も境内には50を越える末社があり、
豊穣・商売繁盛の他、学徳成就・良縁祈願・安産祈願・子宝・夜泣き・交通安全に御利益がある。』
とあります。

横から見た社殿
さて神社に来て見ると、想像よりもずっと小さな境内。
それでも周囲は住宅地に囲まれた中にあって貴重な森を提供しています。
かつては鬱蒼とした森があったそうですが、いまは「うっそー!」という位狭くなっていました。
似た例を挙げれば、梅田の「お初天神」あたりでしょうか?

社殿の彫刻

史跡の一角

利休に拠る「ふくろうの灯台」

子安石

子安石説明

境内の摂社の一つ
さて神社に来て見ると、想像よりもずっと小さな境内。
それでも周囲は住宅地に囲まれた中にあって貴重な森を提供しています。
かつては鬱蒼とした森があったそうですが、いまは「うっそー!」という位狭くなっていました。
似た例を挙げれば、梅田の「お初天神」あたりでしょうか?
[参考書]
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龍臥山 隆池院 久米田寺(高野山真言宗 準別格本山 和泉西国三十三ヵ所第二十三番札所) 塔頭 華厳院
明王院に続き、最後の塔頭の華厳院へ。
華厳院は、愛染明王を祀る寺院。
山門を入って右手に愛染堂が建ち、内陣にて御本尊を拝む事ができました。
これは久米田寺の塔頭では唯一の事。
加えて天井板には1枚毎に植物が描かれており、思わぬ眼の保養になりました。

山門右手に建つ愛染堂

「愛染明王」の扁額

愛染堂内陣の様子

愛染堂の天井画 (その一)

愛染堂の天井画 (その二)

華厳院庫裏

玄関前に建つ不動明王石像
その後、庫裏へ向かいますが、これは愛染さんの御朱印ではなく、
無住である和泉西国札所長光寺の御朱印をここで貰うため。
ベルを押すと、御住職が出て来られ、訳を話すと快く対応下さいました。
待ち時間があったので庫裏と庭を一巡り。窓越しに見る庭も風情がありましたが、
庫裏の部屋と言えば、入口に御簾が掛けられ、黒塗りの椅子とテーブルが。
知らない人が見れば、町屋を改装したレストランに見えたでしょう。
伺った所では檀家さんが居られるようなので、法事などの行事ではここを利用すると思えます。今風の寺院でした。

玄関の「華厳院」の扁額

玄関から続く書院の部屋

書院の襖絵と衝立
その奥に椅子とテーブルが見える。

部屋より見える庭

書院奥に広がる庭園

愛染堂(右)と書院を繋ぐ渡廊下

渡廊下から見た庭

華厳院で拝受した和泉西国札所・長光寺御朱印
[参考書]
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龍臥山 隆池院 久米田寺(高野山真言宗 準別格本山 和泉西国三十三ヵ所第二十三番札所) 塔頭 明王院
大師堂で御朱印を拝受した際に、
「塔頭子院の中で、明王院と華厳院の二院は御朱印対応していますよ。」
との情報を得たので、参拝する事に。
明王院は開山堂の右横、なだらかな石畳を上った先にあります。
山門を過ぎると正面に二体の仁王像がお出迎え。
普通、仁王像は山門に置かれるものですが、融通さんなので、細かい事は気にせず境内へ。

なだらかな石畳の先に建つ山門

明王院山門

山門前に建つ御本尊を示す石標

山門の正面では仁王様がお出迎え
『明王院融通堂は、昭和9年(1934年)の弘法大師御遠忌記念事業として、
先々代蓮舎実静和尚の発願で建立。泉大津市長生寺の本堂を解体移築、
本尊に如意宝珠融通尊を祀り、遠近を問わず、多くの庶民の信仰を集めた。
その後、70余年を経て老朽化が進んだため再建を発願。平成20年11月1日を以て竣工落慶となった。

参道の先に建つ融通堂

正面より見た融通堂
平成20年落慶。

明王院融通堂縁起
本尊の寶生如来は宝を生じ与える仏で、全ての理法を生み出す(万法能生)の徳を司り、
衆生の願いに応じて福徳・財宝を施す与願印の相を示し、如意宝珠(融通尊)を象徴とする。
一般的には『融通さん』と呼ばれ諸願成就・現世利益を施し、特に「金銀財宝意の如く」と称される。
縁日は毎月、1、11、21日で、内11日は融通さん参りである。
天井には和泉市の藤原祐寛画伯に拠る「水龍図」が描かれている。』 とあります。

堂に掲げられた扁額

隙間より見た内陣の様子

天井画の「水龍図」
非常に良く描かれているように見えるが内陣で見れないのが残念。

融通堂の向拝欄間の龍の彫刻
仁王像の右手に堂宇が建ちますが、これは不動堂。
正面の庫裏を右手に参道を左に進んだ先に建つ一際大きなお堂が目的地になります。

融通堂前から山門方向を見る
正面に建つのが不動堂。

不動堂

不動堂近影

不動堂前から融通堂方面の眺望
御本尊の融通尊を祀るお堂は、説明にあるように真新しく
落慶を終えたばかりの様で【ラッケー】でした。
唯、扉が閉まっていたので御本尊は僅かの隙間から拝むのみ。
奉納された「水龍図」も一部が見えただけで全体像は分かりませんでした
ここまで参拝した他の塔頭に比べ広い事に加え、境内の庭園や
置かれた不動明王や四天王?の石造が目を惹きます。
決して古いものではありませんが、綺麗に整備された庭との相性は良いようです。

融通堂前に置かれた像群

百日紅の前は四天王か?

これは童子像

不動明王と石塔

これは初耳
その後で、庫裏で御朱印を拝受した際に伺った所、通常拝観はしていない由。
塔頭の方針ならば致し方ありませんが、どうせならもう少し融通を効かせても
良かったのではないかと思った次第です。

庫裏の縁側

明王院御朱印
[参考書]
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龍臥山 隆池院 久米田寺(高野山真言宗 準別格本山 和泉西国三十三ヵ所第二十三番札所) 塔頭 多聞院
当寺境内には、現在、塔頭子院として五院が残っています。
『東隅に建つ多聞院は、その名の通り毘沙門天王を祀る。続く五大院は大聖不動明王を、
阿弥陀院は阿弥陀如来を祀る塔頭寺院である。
多門院・五大院は、参道正面に本堂が建ち、右手に庫裏、左手に中庭という配置を採っているが、
阿弥陀院は庭はなく直接本堂へ通じる造りである。

山門から見た多聞院境内

多聞院本堂

多聞院本堂に掲げられた扁額

五大院山門

五大院は大聖不動明王を祀る

五大院境内

五大院本堂

本堂向拝欄間の龍の彫刻

五大院庫裏
永禄年中(1560年~)、三好実休、畠山高正の争乱、次いで天正年間(1573年~)の織田信長の
河内、和泉諸寺院への侵攻等、相次ぐ法難に見舞われ堂塔は尽く烏有に帰した。
文禄、慶長に入って一部復興の兆しを見せ、江戸時代の延宝2年(1675年)に至って概ね再興整備された。
現在の堂舎は大部分この頃に建立されたものであるが、元より天平、鎌倉の盛観には及ぶべくもない。』
とあります。

阿弥陀院山門
但し、ここは閉鎖中で、裏に回って入山。

弁財天社

白髭稲荷大明神

白髭稲荷大明神の石碑
塔頭内に入るのはどこでも自由ですが、参拝は全て外陣から。
久米田寺に参拝する人は多いですが、塔頭までわざわざ足を運ぶ人は少ないと言う事でしょうか?

阿弥陀院脇の宝蔵
[参考書]
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龍臥山 隆池院 久米田寺(高野山真言宗 準別格本山 和泉西国三十三ヵ所第二十三番札所) 大師堂
本堂の参道を右に進むと正面に建つのが大師堂。塔頭を除き唯一内陣参拝ができるお堂です。
『大師堂は文政7年(1824年)の再建。宗祖空海(弘法大師)を祀り、不動明王・毘沙門天を脇に従える。
天井には密教を表した絵が描かれている事でも知られる。
その奥には享和3年(1803年)再建の観音堂が建ち、和泉西国札所の御本尊千手観音を祀っている。

正面より見た大師堂

大師堂向拝部分

大師堂に掲げられた「御影堂」の扁額

大師堂内陣

御宝前

大師堂天井画

冊子にある天井画全図
元弘元年(1331年)10月笠置山落城し、次いで楠木城も陥り、後醍醐天皇は京都六波羅に入御されたが、
天皇擁護に奔走する大塔宮護良親王は、元弘2年(1332年)令旨を当寺明智上人に賜る。
これより南朝に味方し、国史の上に一山衆徒の活躍を見る久米田寺衆徒は大塔宮に忠誠を誓った。
建武の中興成るや、当寺寺領を管領すべき令旨を下され、後村上天皇の御代、正平年間には
南北両朝の争乱に乗じて本寺所領についてしばしば不安を感じた事が多かったが、
天皇はあくまで当寺に帰依されて保護を加えられ、先帝後醍醐天皇崩御の後には
塔婆建立料所を寄せられ、先帝の菩提を弔わしめた。

久米田寺説明書
現在は、冊子タイプは無くなった由。

久米田寺御朱印 (和泉三十三観音霊場)

鐘楼越しに見る大師堂

鐘楼とその奥の観音堂

和泉札所の御本尊を祀る観音堂
また、その後、南朝歴代天皇家の帰依も深く、特に楠木正成一門との交渉も密接で、
君臣挙げて」手厚い保護が加えられた。
吉野朝衰退後、当寺の実力を高く評価した足利家は当寺を以て和泉国安国寺にあて、
全国六十六基の随一として塔婆造立の料所を寄進した。これは実に利生塔建立の始めである。
次いで仏舎利を奉納し、光厳院も院宣を以て勅願寺と定めた。
かつして足利直義や義詮、義満から祈祷を懇望されること一再ならず、公家・武家の限りない帰依を受けた。
これは現在、平成15年(2003年)再建の多宝塔に安置されている。』 とあります。

平成15年再建の多宝塔

多宝塔近影

聖天堂付近からの眺望

靖霊殿からの眺望

多宝塔の組物

多宝塔亀腹の垂木・木鼻
本堂より大師堂の方がメインというのも不思議ですが【ほんどう】の話。
由緒記を読む限り行基は登場しますが空海の名は出て来ず。
それでも宗祖である事と、広く民衆に溶け込んだという事が広く受け入れられる由縁でしょうか?

多宝塔の周囲にある八十八ヵ所巡礼

各札所の御本尊が並ぶ
[参考書]
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龍臥山 隆池院 久米田寺(高野山真言宗 準別格本山 和泉西国三十三ヵ所第二十三番札所) 開山堂
本堂の脇にある細い参道の先には小さなお堂があります。
これが当寺を開創した行基菩薩を祀る開山堂ですが、ここも閉鎖中でした。
『開山堂は久米田池・久米田寺を開創した行基菩薩を祀り、行基堂の別名でも呼ばれる。
毎年10月には、池の水の恩恵を被る13町の地車(だんじり)が収穫感謝のため境内に乗入れ、
開山堂に参拝する行基参りが行われる。市内で地車が境内に入るのは当寺のみである。

開山堂近影

開山堂の向拝下にて
その他、境内には玄奘三蔵の遺骨と戦没者の霊を祀る靖霊殿(八角堂)、
歓喜天を祀る聖天堂があるが、行基に関わるものとして、高台の墓地に行基塚。
隣接して光明皇后の御爪・遺髪を埋葬したと伝わる光明皇后塚、
境内の南端に聖武天皇・光明皇后・亀山天皇の御墓である三基五輪の供養塔が建つ。

隙間から見た内陣

内陣の天蓋部分

冊子に掲載された内陣の様子
行基の時代には学問寺として隆盛を極めた当寺も時代と共に坂を下り始める。
平安末期から鎌倉初期への移行期は、社会不安と大動乱の波を受け、
寺領の掠失、伽藍の荒廃といった寺運の衰退が目立つようになる。
文治元年(1187年)の後白河法皇、正治元年(1199年)の後鳥羽上皇は、
相次いで寺領安堵と国役免除の庁宣を当寺に下され、幕府も下知状を発して保護をはかったが、
退廃の勢いを止めるまでには至らなかった。遂に弘安の頃に至っては
「伽藍悉く傾き、釈迦三尊の塔婆一基を残し、鐘楼、経蔵及び二十余りの僧坊、禅室全て礎石のみ残る。」
と言った有様であった。

歓喜天を祀る聖天堂

正面から見た聖天堂

後方より見た聖天堂
この頃、和泉地方を領有する鎌倉武士の安東蓮聖が、当寺の荒廃をいたく嘆いて、
再興を深く願い、執権北条時頼の許しを得て、当寺の別当職に就くや、
一族挙げての再営修復に全力を注いだ。
弘安3年(1280年)落慶、西大寺叡尊の高弟・顕尊上人を中興開山に迎え、
ここに華厳・戒律・真言の道場として再び寺運隆盛の機運を開いた。
安東氏は 「自ら菜地を寄贈し、僧俗五十余人の衣食の糧を備えられ」、
以後、一族は代々大檀越として深く当寺に帰依し、
田畑等の寄進も一再ならず、物心両面において多大な外護を尽くした。

聖天堂の奥に続く靖霊殿

昭和32年(1957年)建立の靖霊殿
法隆寺夢殿を模した八角形で、玄奘三蔵の御骨と明治以降の戦争で亡くなった岸和田市出身者の霊も祀る。
後宇多天皇もまた、当寺が行基菩薩開基の霊場である事を追慕されて勅願所に列し、
これより室町時代にかけての二百数十年の間、中興隆盛期を迎える。
即ち東大寺、高山寺と並んで華厳経額の中心として、また戒律は戒壇院、
西大寺、唐招提寺の系譜をひく、南都律の拠点として日本全土から学僧が参集した。
加えて宋人の止住も夥しく、経論の書写、講義、更に開板事業も営まれ、
学山としての名声を高め、幾多の名僧を輩出した。
また殿堂房舎が拡充されたのもこの頃で、資料に拠ると山門・金堂・講堂・開山堂・禅堂・
多宝塔・鐘楼・経蔵等の基本的堂舎の他、十余り。境内地は東西五丁、南北八丁と記されている。
子院・末寺も多く、当時子院は二十余ヵ寺に上り、和泉国内の他、遠く伊賀・摂津・東国に及んだ。』
とあります。

三基五輪の供養塔

境内の高所にある行基塚

行基塚の墓石?
行基は大和で入寂し生駒の竹林寺に葬られたので、当寺はあっても分骨。
それでも開創者に敬意を表した証と言えます。
行基は民衆を束ねて教団を形成しましたが、朝廷と争う姿勢は採っていません。
当寺もそれを守り、兵力を持つことなく学問所として歩みますが、
それでも戦乱を避けられえなかったのは皮肉な話です。

行基塚から道を挟んだ場所にある光明皇后塚

光明塚古墳
光明皇后の墳墓は大和にあった筈なので、これは分骨か、名前のみか?

史跡の看板
[参考書]
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龍臥山 隆池院 久米田寺(高野山真言宗 準別格本山 和泉西国三十三ヵ所第二十三番札所)
池にお参りした後は、その北端に隣接する寺院へ。
池を望む大門を潜ると石畳の正面に立つのが本堂である金堂。
龍臥山隆池院久米田寺(りゅうがさんりゅうちいんくめだでら)は、
『天平10年(738年)、聖武天皇の勅願に拠って、橘諸兄を大檀越(施主)とし、行基菩薩に拠って開創。
本尊は釈迦如来で行基建立49院の一つ、久米田池を維持管理するために建てられた隆池院に始まると伝えられる。

正面より見た大門
宝永3年(1706年)の再建。

大門脇に建つ寺標

金堂の向拝下より大門を見返る
その寺域は
「東は角河の流れ、春木の峯ならびに上の津川の東峯、七層の峯を限り、
南は葛城の横峯、西は松村の登路ならびに延年ヶ峯・八坂切上を、
そして北は熊野詣大道を限りに、この四至内の田畑地利を挙げて
仏聖の灯油住僧の依怙となさしむ。」 とあり、往時の盛大さを伺い見る事ができる。

由緒記

現在の寺域案内図

境内側より見た大門
聖武天皇は光明皇后と共に文武百官を率いて行幸され、
当寺を以て宝祚延久の勅願時寺に定められた。
平安時代に入ると、奈良興福寺一乗院の支配下になり、
南都北嶺の学僧の来往も多く、学問の寺として法灯を輝かせた。
幾多の戦乱を経て堂宇は焼失したが、江戸時代に復興。
宝暦3年(1706年)に大門が再建、本堂は遅れて明和7年(1770年)に再建された。
本堂の扁額「隆池院」は松平定信の筆である。
本尊は釈迦如来で、脇侍に文殊・普賢の両菩薩を祀る。』 とあります。

正面より見た金堂(本堂)

金堂に掲げられた「隆池院」の扁額は松平定信筆

金堂前面の向拝

向拝の木鼻彫刻の象

隙間から見た金堂内陣

内陣の「久米多寺」と書かれた扁額

説明書に掲載された金堂の御本尊(釈迦如来)
扉の隙間からは辛うじて御宝前が見えますが、細部は頂いたパンフで確認する事ができます。
ここで気になったのは御宝前の「久米多寺」の扁額。「田」ではなく「多」が使用されていますが、
後で確認すると元来は「多」で、池のお陰で米の収穫量が多かった事に由来するとか。
御本尊を祀るお堂ですが生憎閉鎖。特別な日のみに御開帳との事で、
行基が開創なので【ぎょうじ】のある時のみ開くのでしょうか?

左手後方からの金堂の眺望

同じく右手後方からの眺望

金堂右側面
奥に建つのは開山堂

前回参拝時に頂いた久米田寺案内冊子

重用文化財・曼荼羅図 (冊子より)

久米田寺御朱印
前回(平成23年)拝受の金堂御本尊
[参考書]
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龍臥山 隆池院 久米田寺(高野山真言宗 準別格本山 和泉西国三十三ヵ所第二十三番札所)
大門前からの久米田池の眺望
積川神社前バス停から15分、久米田バス停の一つ手前の池尻で下車。
そこから南へなだらかな坂を上ると行く手に広大な久米田池が姿を表し、
畔には久米田寺が建ちます。
『この地域は古来より灌漑の水に乏しく、農民は旱魃に苦しんだ。
そこで聖武天皇は行基に命じて溜池を掘らせ、神亀2年(725年)から
天平10年(738年)まで14年の歳月を費やして竣工した。

眼前に広がる久米田池
この久米田池は現在、水面積45.6ha、貯水量157万t、灌漑面積27.7ha、周囲2.6㎞を誇り、
平成28年(2016年)には「世界灌漑施設遺産」に登録された。
久米田寺は天平6年(734年)の開基で、この久米田池を維持管理するために
建てられた隆池院に始まるとされる。
当山中興二代禅爾上人が六万本卒塔婆供養を行って池の修復を勧進し、
楠木正成三男・正儀(まさのり)も当時の依頼に拠り、池堤を修復したと古文書に見える。』
とあります。

池の北側を望む

同じく南側

池の畔から見た久米田寺
巡礼先は久米田寺ですが、由緒から明らかなように久米田池が初めに造られ、
池を管理する目的で出来たのが久米田寺。
それを思うと先ず、池に参拝?するのが礼儀というものです。
古代史上の宗教家で各地に多くの足跡を残しているのは、役小角、弘法大師と行基。
半ば伝説的な功績を遺した前二に対し、行基の事績は橋を架ける、溜池を掘るといった土木事業。
しかも一般民衆の利益に合致しているのが特徴。
彼が掘削した池は、昆陽池・狭山池・久米田池が有名ですが、規模は縮小したものの、
現在まで農業用水として貢献している所を見ると、【かんがい】深いものがあります。

大門脇に並んで建つ久米田寺と久米田池の石碑

大門越しの久米田池の眺望

名所図会に描かれた久米田池
[参考書]
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積川神社(和泉国四之宮 式内社 旧郷社)
白河上皇揮毫の扁額(複製)の架かった二の鳥居を過ぎると正面に拝殿。
その奥に本殿が鎮座まします。
木材表面をそのまま使用した拝殿に対し、本殿は朱色も鮮やかな極彩色。
誰が見ても拝殿の方が古そうですが、重要文化財になっているのは本殿の方。

正面から見た拝殿

拝殿前面の造り

拝殿前の「右近の橘」

同じく「左近の桜」
『延喜式内社で和泉五社に列している。
霊亀2年(716年)、河内国から和泉国が分かれた際に和泉五社の制度が定められた。
当時、諸国に一之宮は必ず有ったが、五之宮まで定められたのは稀少とされる。
天平3年(731年)和泉五社は疫病退散の大祓を行った事から、聖武天皇から社領6800石を拝領。
積川神社はその内600石を賜った。
歴代天皇の勅願社として、また武将の崇敬も篤く、天正の頃までは
社領600石を有した格式の高い神社であった。

拝殿の狛犬の横を抜けて本殿へ

中門の奥に建つ本殿

本殿側より見た拝殿の後方
積川神社の氏地は牛滝川沿いに磯の上までの四ヵ村に及んだため、
遠方の氏子は中間点に当たる岸和田市額町に建つ鳥居から積川神社を遥拝し、
農作物の豊穣と家内安全を祈願した。
またその地は熊野街道に当たるため、熊野参詣をする皇族、
公家も勅願社である積川神社を遥拝したと言う。

千鳥破風の中門

本殿に伸びた中門
門の後方の一対の石灯籠は大坂商人加賀屋四郎右衛門の寄進、その奥は正平7年(1352年)楠正儀の寄進である。
積川神社本殿は、三間社流造・正面千鳥破風付・檜皮葺で、創建年代は詳らかではないが、
慶長7年(1603年)、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として大修理を加え、
現在に安土桃山時代の優雅広大なその様式を伝えている。
特に高欄の彫り物の鮮やかな事は安土桃山時代の美の極致とされる。
本殿南面の蟇股は「川に筆」、正面の蟇股は「笑顔の龍」と
彫り物師の遊び心が表れた全国でも珍しいものとなっている。
この本殿は大正3年(1914年)に旧国宝に指定、
昭和25年(1950年)の法律改正に拠って改めて重要文化財に指定された。
平成28年には本殿保存修理事業が行われ今に至る。』 とあります。

重用文化財・本殿

本殿の向拝部と極彩色の装飾

本殿左側

極彩色の装飾品

蟇股の彫刻 (説明書より)

本殿屋根の造り
由緒ある社寺が修復で真新しくなる事に対しては違和感を持つ人も多いようですが、
現役で使用している建造物に対して修理補修を加えるのは極自然の事。
廃墟や遺跡とは一線を画すべきでしょう。人々も建立当初は、このような社殿を拝んでいた訳ですから。

本殿の右に建つ若宮社・菅原社

若宮社・菅原社の説明

本殿の左側に建つ八阪社

八坂社御由緒

積川戎社

戎社本殿

これは白髪社か?
参拝後は、社務所で御朱印を拝受。神職が対応下さいました。
積川神社は専用のHPも持っているようで、そこには神主である積川氏が寄稿。
私 ; 「現在で、神主さんは何代目になるのでしょう?」
神主 ; 「私で77代目になります。」
私 ; 「崇神天皇の時代からですか!」
神主 ; 「さすがに、その頃は伝説のようですが。」
日本書紀の神代記でも神武天皇から9代目までは一般に欠史とされ、
10代目から崇神天皇から漸く実在したと考えられます。
77代目を鵜吞みには出来ませんが、少なくとも50代以上は一門世襲で続いていると言ってよいでしょう。
川に加えて氏の重みを感じた巡礼とはなりました。

二の鳥居を過ぎて右手に建つ現代風の社務所

社務所玄関

頂いた御由緒記

積川神社御朱印は77代目の直筆
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 南海ウイングバスは日中60分間隔で運転
【往路】JR大阪(8:24) → (紀州路快速) → JR和泉府中(9:04→9:07) → (阪和線) → JR下松(9:12)
下松駅前(9:25) → (南海ウイングバス) → 道の駅愛彩ランド(9:44) → 徒歩10分 → 積川神社 → 積川神社前(10:46) → (南海ウイングバス) → 池尻(10:58) → 徒歩5分 → 久米田寺 → JR久米田(13:19) → (阪和線) → JR北信太(13:27) → 徒歩5分 → 葛葉稲荷神社 → 徒歩15分 → 聖神社 → JR北信太
【復路】JR北信太(15:27) → (阪和線) → JR天王寺(15:46→15:52) → (大阪環状線) → JR大阪(16:06)

積川神社(和泉国四之宮 式内社 旧郷社)
一日千秋の思いで待った久しぶりの秋晴れの週末は、泉州岸和田まで。
と言ってだんじりを見たり、曳いたりする訳もなく、行先は道の駅愛彩ランド。
8月に岸和田市発行の17弾MHCが早々と品切れになり、漸く9月1日に配布再開となったため。
下松駅からバスに揺られて南へ20分。
終点で下車して10時の開店までは未だ時間があるなと思い道の駅へ向かうと
既に100名以上の長蛇の列。
「まさかMHC待ちでは?」 と不安になりながら、係の人に尋ねると
「これは朝一の地元の産物狙いですわ!」 と聞き一安心。
MHCは道の駅販売所で配布ですが、道の駅スタンプは別棟なので10時前に押印。
そうこうしているうちに10時になり生鮮食品を購入する人の間をすり抜け、MHCもゲット。
どうせならMHCも別棟ならば楽だったと思うのは私だけではないでしょう。

道の駅 愛彩ランド

配布再開した岸和田市マンホールカード

道の駅スタンプ
最近は専用台紙を置く所も多い。
当所の目的を果たした後は、駅へ戻らず170号線に沿って東へ。
牛滝山へと向かう道路との交差点を北へ200m行くと、
バス停右手に木々に囲まれた神社が。
これが延喜式内社で和泉五社に列した積川神社。

バス停の向かいにある積川神社
『積川(つがわ)神社は、第十代崇神天皇の御代に此の地に創建されたと伝わる。
積川の地名は、前に牛滝川、後ろに深山川と高低相会し「川が積み重なる」所に由来する。
社域は府道牛滝街道に接して一段の高所を占め、2500坪の広大な境内を有し、
古木森然とした中に本殿がある。
祭神は生井(いくいの)神・栄井(さくい)神・綱長井(つながい)神・阿須波(あすは)神・
波比岐(はひき)神の五柱で、共に井水・土地の守護神である。

神社の東側の高台を流れる深山川

深山川は神社を巡って西側で低地を流れる牛滝川に合流
寛治4年(1090年)には白河上皇が熊野行幸の途、熊野街道から積川神社を遥拝され、
芝草を積んで舞台を設え舞楽を奏された。
その際に鳥居に掲げられた扁額の筆跡が拙いのを御覧になり、
親しく筆を執られて「正一位積川大明神」の八文字を大書され、
これに代えられたと伝わる扁額がある。
この扁額の「額」と人々がこの地で「額づく(拝む)」という事から、後世この地を額と名付けた。
現在、この扁額は保管されており、神社の二の鳥居に掲げられているのは複製である。』
とあります。

道路に面して建つ一の鳥居

御祭神と境内社

御由緒略記の石碑
見れば狭い深山川が神社の東側の高みから北側を通り、西側で牛滝川に合流。
成程、川が積み重なった場所です。
積川と書いて「つがわ」とは不思議でしたが、「せきかわ」では重箱読み。
「つむかわ」が「つがわ」に変化したのでしょう。
川の合流地点だけに水が豊富なのは当然で、御祭神も水に関わる神様。
境内の杜もその水の賜物で、二の鳥居脇の椋と楠の巨木は、
御神木で神社の象徴的存在となっています。

石段左手にある天然記念物・椋の巨木

二の鳥居から見た椋の木

石段右手の楠の巨木
これにもう一つ加わった川は扁額を揮毫した白河上皇。
由緒記の記述にも拠りますが、端的に言えば、
「こんな下手糞な字ではアカン!朕が書いて遣わす。」
と言った様なもの。
歴史教科書では、院政を敷き三不如意で知られますが、独裁者の面目躍如と言った所です。
唯、鳥居に掲げられた複製の扁額を見たところでは、それ程達筆には見えませんでした。
そうなると以前の額はどんな字が書かれていたのかが気になる所。
嵯峨天皇や空海の書であったら、お笑いですが…。

境内から二の鳥居を振り返る
左 ; 楠、右 ; 椋の木

境内奥の社叢
深山川と境内の間にある。

二の鳥居とその先に建つ拝殿

白河上皇揮毫の扁額(複製)
[参考書]
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