<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR金山(9:20→9:30) → (名鉄) → 知多半田(10:00)
知多半田 → 徒歩3分 → 旧中埜家 → 徒歩8分 → 半田運河 → 半六庭園 → JR半田(11:14) → JR名古屋(12:03)

半六庭園正面入口(西門)
半田の豪邸は個人宅なので、中に入って見ることはできませんが、唯一見る事ができるのが旧中埜半六邸。
半田運河沿いの中埜酒店の南に隣接した場所に建ちます。
源兵衛橋から北上すると、道沿いに朱色塀が見えますが、こちらは裏の南門。正面玄関は西門になります。

邸の西側を南北に走る道

邸の南西端にある朱色塀

半六庭園の説明

庭園地図

景観重要建造物
『中埜家は江戸時代から地元の発展に貢献した豪商。
現在に残る屋敷と庭園は、明治22年(1889年)建築の中埜半六旧邸宅。
かつては母屋を始め茶室や九つの蔵など多くの棟が立ち並んでいた。
回遊式の日本庭園の泉水は海水を引き込み、潮の干満に合わせて水面が上下したと言われる。

南側側から見た母屋正面
今は1階がHANROK、2階が半六コラボと言う施設になっている。

母屋二階部分の張り出し

母屋西側の「ばぁむくぅへん研究所」
製造販売も行っている様子。

母屋南側の茶室跡

母屋の一角にある井戸と炊事場
また昭和40年代半ばから50年代初めまで、大相撲名古屋場所の折には
二所ノ関部屋宿舎として使用されており、第48第横綱大鵬も母屋二階で就寝していたと言われる。
現在、建家はフレンチレストラン・バームクーヘン専門店や貸部屋として利用され、
屋敷前の半六庭園は来訪者の憩いの場として無料で開放されている。』 とあります。

母屋の南にある広場
先には半田運河が流れる。

東側から見た母屋
この二階に大鵬関が泊まった?

東から見た庭園と母屋全景

母屋の縁側から北側を望む
奥の黒板塀は中埜酒造の建物。

庭園と四阿、その奥に建つ岸蔵(左)・前蔵
岸蔵は現在お手洗いとなっている。
半田の富豪・豪商の邸宅は今も子孫の方々が住まれている現役の建物が殆ど。
浮き沈みの激しい世の中での保持は、余程しっかりとした家訓が守られていると想像しています。
そんな中で見学できる半六庭園は貴重な存在。といって持ち主は中埜家ですから
左前になって手放したのではなく、地域に対する貢献といえるでしょうか。
大鵬関が定宿としただけあって邸内や庭園は横綱級。庭園が整備されているのは勿論ですが、
邸が綺麗に保たれているのは施設として利用されているから。玉子焼きではなくバームクーヘンでしたが、
なまじ使わずにいるよりも適度に使用する方が、良好に保存される道理です。

母屋と西蔵の間の中庭

中庭の紅梅

南から見た中庭
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知多半田 → 徒歩3分 → 旧中埜家 → 徒歩8分 → 半田運河 → 半六庭園 → JR半田(11:14) → JR名古屋(12:03)

JR半田駅西側にある長大な塀
醸造業で栄えた半田の建物の特徴は醸造蔵ですが、見逃してはならないのが豪商の邸宅。
近世の資産家といえば両替商・廻船業・醸造業の三大看板ですが、廻船業・醸造業のここは【はんぱ】ない大きさ。
JR半田駅ホームから西側を見ると長い塀に囲まれた広大な敷地が見えます。
一辺100m以上はありそうな方形なので少なくとも3000坪はあるでしょう。
今回はスルーしましたが、かつて前を通った際には「中埜」の表札が上がっていた記憶があります。
『名鉄知多半田駅から少し北に行った所に建つのが、旧中埜家住宅。
明治44年(1911年)に十代目中埜半六が海の見える小高い丘に建てた別荘。
中埜半六家は古くから海運業・醸造業を手広く行う半田屈指の豪商の一つであった。
設計は東海地方で多くの建築を手掛けた鈴木禎二に拠るもので、複雑な壁面と切妻屋根の組み合わせ、
屋根の天然スレート等、明治後期の洋風建築の特徴が残されている。

国の重要文化財・旧中埜家住宅

中埜家住宅説明

正面から見た中埜家住宅
欧州留学中に見た住宅の美しさに魅了されて建築したとされる。

柱を浮き上がらせた壁面
かつて鎌倉で見たのと同じハーフティンバー方式か?

天然スレートを使った屋根

北側から見たレンガ造りの煙突
唯、多くの邸宅はここより東に行った運河付近に集中しており、
明治23年(1890年)の明治天皇の当地行幸の際には小栗富治郎の屋敷が大本営となった。
その周囲には熾仁親王の宿舎に提供された小栗三郎家、酒造業を手掛け大地主となった中埜半左衛門家、
尾張藩御用達在郷十人衆に選ばれた中埜半六家など半田を代表する富豪・豪商の邸宅が立ち並んでいた。
小栗三郎邸は慶応3年(1867年)から明治3年(1870年)にかけて10代当主三郎兵衛が建てた
寄棟造桟瓦葺の純和風木造建築で、居宅と萬三商店の店舗を兼ねたものとなっている。
度重なる地震や昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で被害を被ったが、130年の風雪に耐え
現在は重要文化財になっている。』 とあります。

半田運河から一筋西の通りにある小栗家住宅

小栗家本宅の解説
昔ながらの板材に手書きというのが良い
現在も名古屋は派手好きで知られますが、建物は造る時よりも維持する方が大変。
特に中部地方は交通の大動脈で、戦乱に加え台風・地震等の自然災害に遭遇する事も多く、
それが顕著であった筈。創業よりも守成が大切なのは家も企業も同じ、この辺りに
愛知から全国的な大企業が出た鍵がありそうです。

小栗家北側
屋根の竹矢来は泥棒除けか?

今でも店の看板を背負っている
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源兵衛橋上から見た半田運河と中埜酒店の黒板囲いの醸造蔵
未だ寒さが残る弥生の5日は温暖な知多半島へ。県下では渥美半島と並ぶ半島で、
東西それぞれ見所がありますが、この日の巡礼先は東側の付け根にある半田市。
青春18きっぷ使用であれば、東海道本本線の大府駅から武豊線に乗り換えるのが筋ですが、
連絡が悪く大府で50分待ち。そこでJR金山から名鉄に乗換えての現地入り。
かつては蒸気機関車が走った名門路線ですが、時間の波は如何ともし難い様子。
武豊線列車の本数は名鉄の【半出し】位でしょうか?
半田市は小学校の国語で習う「ごんぎつね」の作者新美南吉の故郷でもあります。
高温多湿な我が国では各地に酒蔵、醤油蔵や味噌蔵は多くありますが、
酢の里と言うのは寡聞にしてここ半田くらい。

JR半田駅スタンプ (2008年JR東海名古屋支社印)

JR半田駅近くに展示中の蒸気機関車C11265
Cなので車輪は3個。

蒸気機関車説明
『知多半島は温暖な気候とミネラルに富んだ地下水に拠って古くから醸造業が盛んであった。
その繁栄を加速させたのが半田運河の存在で、古くは衣ヵ浦と呼ばれた衣浦には江戸時代には
多くの弁才船(千石船)が往来した。既に酒どころであった上方の灘よりも江戸への輸送に利があり、
加えて尾張藩の後押しもあって廻船業が栄えた。

源兵衛橋から西方面(JR側)を見る
黒いビルがミツカングループ本社。

半田運河地区地図
その特産品の一つが、ミツカングループの創業者であった初代中埜又左衛門が文化元年(1804年)に発明した
日本初の粕酢。従来、捨てられていた酒粕から作った粕酢は、高価な米酢に代わる手軽な材料として
江戸で握り寿司ブームを巻き起こし、やがて握り寿司の全国普及へと繋がった。
今でも半田に本社を置くミツカングループや国盛の銘柄を持つ中埜酒店などの黒板囲いの醸造蔵や
豪商の邸宅が並び、醸造の町半田の歴史を今に伝えている。』 とあります。

橋の向こうに見えるMIZKAN MUSEUM

運河に映えるMUSEUMとミツカングループ工場?
MUSEUMは酢造りの体験型博物館。事前予約が必要との事。

源兵衛橋越しに見たMUSEUM
半田運河沿いには今でも醸造蔵が並びますが、南側にあるのがミツカングループ。
源兵衛橋よりも北側に行くと銘酒国盛を作る中埜酒店になります。
現在はミツカングループと言う名前ですが1990年代までの社名は中埜酢店。
同じ苗字なので親戚であろうとは想像できますが、酒店からお酢店が分かれたようで、
かつては中埜酒店もミツカングループだったようです。

源兵衛橋北側に続く中埜酒店の醸造蔵

運河に黒板塀が映える醸造蔵

中埜酒店のタンク
右に國盛の看板が見える。

中埜酒造工場入口

東西に続く中埜酒造の建物

國盛 酒の文化館
観光客、観光バスの案内板。

酒の文化館
200年前の古い酒蔵をそのまま利用したお酒の資料館。展示の他、直売所も併設。
食生活に欠かせないお酢の産地にしては数が少な過ぎると思っていましたが、
中埜家が酒粕から酢を作る技術を発明したと知って納得。
価格と廃棄物の両方を減らすとあっては、他は太刀打ちできなかったのかもしれません。
三河文化が江戸文化に発展したとは二川宿で聞いた話ですが、江戸前寿司を作ったのが半田のお酢だったとは、
愛知は江戸っ子の胃袋も支配したことになります。
愛知県発祥の企業は独創性に富んだ会社が多いですが、これは異文化が交わる場所と言うのも
影響しているとも思えます。信長・秀吉・家康と天下人を三名も輩出したのと通じるものがあるでしょう。
勿論、たゆまぬ企業努力があったことは想像に難くないですが、
このような醗酵方法が【みつかん】ったのは【うんが】良かったとも言えるでしょうか?

半田協和郵便局 ; 十ヵ川、両岸の蔵、市文化財・山車

半田住吉郵便局 ; 国登録有形文化財・半田赤レンガ建物、住吉神社の例祭「ちんとろ祭」の子供三番叟、ちんとろ舟

半田市マンホール蓋 A

半田市マンホール蓋 C

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JR金山 → (名古屋市営地下鉄) → 赤池(10:05) → (名鉄バス) → 三好(10:29) → 徒歩3分 → みよし市役所 → 三好(10:42) → (名鉄バス) → 赤池(11:08→11:16) → (名古屋市営地下鉄) → 金山(11:45→11:48) → (名鉄) → 江南(12:10→12:18) → (名鉄バス) → 草井(12:33) → 徒歩10分 → 下水処理場 → 徒歩25分 → 音楽寺 → 徒歩20分 → 曼陀羅寺 → 曼荼羅寺(14:35) → 江南(14:45→14:51) → (名鉄) → 名鉄名古屋(15:14)
【復路】JR名古屋(15:30) → JR米原(16:39→16:47) → JR大阪(18:13)

日輪山 遍照光院 曼陀羅寺(西山浄土宗)
「ふじの寺」として知られる曼陀羅寺の東側に広がるのが曼陀羅寺公園。
『曼陀羅寺が寺域の一部を公園として市に提供。最長75m、広さ4,700㎡の藤棚には早咲きから遅咲きまで12種類、
約60本の藤の木が植えられている。開花期は4月中旬から5月初旬まで、房の長さは20~200㎝と幅がある。

公園の案内

公園内略図
この時期には「江南ふじまつり」が開催されるが、藤の種類や気候の影響で毎年開始日が決まるのが特徴である。
園内には東屋、池、ステージが配置。藤に加えて躑躅、石楠花もあり、藤棚の回廊の脇にある約200本の牡丹が
人の心を和ませる。』 とあります。

曼陀羅寺説明書の「藤の花 一覧」

この日の藤棚
この日の野暮用はMHCだったので目的は達成したものの、当然とはいえ藤の花は全くの空振り。しかし写真で見る限り
壮観な様子で、しかもそれに合わせて寺宝も公開するらしいので、「藤まつり」には是非とも再訪するべく帰路に付きました。
江南市の古刹は花とセットで回るのが正攻法のようです。

江南市マンホールカード 配布場所はこちら
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本誓院
無住となった音楽寺と異なり、広大な境内に伽藍が立ち並ぶ曼陀羅寺には今でも塔頭が残り、その数八つ。
正堂を中央にその周囲に塔頭が並ぶと、まさに曼陀羅模様ですが、残念ながらそのような配置にはなっていません。
そして最も奥にあるのが本誓院。

本誓院山門
西側に向かって開いている。

山門から続く参道

参道左手の薬師堂
『初代阿波藩主・蜂須賀家政が幼少の砌、ここにて勉学に励んだ。今も家政の位牌と勉学に使用した机を所蔵している。
家政は蜂須賀小六正勝の嫡男として、永禄元年(1558年)市内の宮後城に生まれ、長じて織田信長、羽柴秀吉に仕えた。
後に曼陀羅寺本殿、宮後八幡社の本殿、釣殿、拝殿を造営寄進している。
徳島藩主になった頃に、江南に伝わる「ひょうけい踊り」が徳島の「阿波踊り」になったと言われている。』 とあります。

参道の先にある本堂
手前の鳥居は神仏習合の名残か?

本堂正面
手前には履物が並び、内からは読経の声が…。

曼陀羅寺参道より本堂まで真っすぐ続く道もある

本堂遠景
本誓院は東海薬師霊場なので御朱印拝受のつもりでしたがベルを鳴らすも返事はなし。
履物の多く置かれた本堂から読経が聞こえてくるので恐らくは法要の最中。
そこに声をかける【度胸】もないので、今回は見送る事になりました。

奥に見えるのが西側の山門

本堂前から内庭を見る

曼陀羅寺庫裏前にある蜂須賀家政公顕彰碑
その後は、境内の塔頭を一巡り。
曼陀羅堂西側の慈光院は朱色の山門や庭が黄檗宗を髣髴とさせますが、彫刻や置物にはどことなく天竺の匂いが…。
寺院と言うよりもテーマパークに見えたのは私だけでしょうか?

本誓院に続く世尊院

朱色が際立つ慈光院山門

山門の龍の彫刻と御本尊を表す?梵字

妙にリアルな山門内側の象の彫刻

慈光院本堂

慈光院庭園
総門脇の光明院は紅葉が特徴、本山の光明寺に【巧妙】に似せているのでしょうか?
いずれの塔頭も中庭が整備されているのが特徴。禅宗と異なり浄土宗では珍しいと言えます。
そのような違いはあるものの、全て宗派は浄土宗西山(せいざん)派。曼陀羅寺の塔頭だから当然とは言えますが
【人間至る所西山在り】を地で行く感がありました。

光明院山門

光明院本堂と境内の楓
池らしきものも見える。

曼陀羅寺の鐘楼
[参考書]
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日輪山 遍照光院 曼陀羅寺(西山浄土宗)
正堂に続き渡り廊下を抜け曼陀羅堂へ。当寺の寺名の元にもなった建物です。
『曼陀羅堂は江戸後期の弘化年間(1844~1848年)に曼陀羅を祀るために再建。桁行5間、梁間4間半、入母屋造本瓦葺。
前面に一間の向拝、四周に縁、高欄を巡らした広さ500㎡の方形の建物である。
内部は外陣、中陣、内陣に分かれ中央須弥壇には曼陀羅を納めた厨子が置かれ、内陣格天井には「墨渓」「東雍」の
サインのある78枚の天井画が描かれている。

渡り廊下越しに見た曼陀羅堂

曼陀羅堂から見た渡り廊下
この曼陀羅は室町中期の寛正年間に、極楽浄土の在り様の描かれた曼陀羅が住持の元に出現したと伝わり、
これを機として曼陀羅寺と改称したとされる。この曼陀羅は「大和當麻寺の古幅と露たがふ事なし」と
『尾張名所図会』に記され中将姫信仰と融合し、広く信仰されてきた。

曼陀羅堂前面
内陣には入れず外陣より参拝。

向拝の彫刻群

曼陀羅堂より見た正堂
右脇にあるのは藤棚。
尚、同じ場所には寛文8年(1668年)に修復の曼陀羅堂があったが、新たな曼陀羅堂建立に拠り、総門近くへ移築された。
本尊の地蔵尊は後醍醐天皇の御母君檀天門院の念持仏とされ開山の乗運上人が賜ったとされる鎌倉期の作である。
以後、この建物は地蔵堂として現在に伝わっている。』 とあります。

正面より見た曼陀羅堂

曼陀羅堂由緒
寺名の由来となった堂宇にこのような複雑な由来があったとは。通常は新築すれば古いものは破棄される運命ですが、
ここは名前を変えて存続。新旧御堂が【まだら】状態ですが、このような配置も【まんざら】ではありませんでした。

地蔵堂(旧曼陀羅堂)
総門を過ぎて直ぐ右側に建つ。

地蔵堂由緒

地蔵堂正面
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日輪山 遍照光院 曼陀羅寺(西山浄土宗)
椋木に囲まれた参道を進み総門を抜けると正面に檜皮葺の巨大な堂宇が出現。
これが当寺の本堂ですが案内書等には正堂と記載されています。
日輪山遍照光院曼陀羅寺(にちりんざんへんじょうこういんまんだらじ)は、
『南北朝期の元徳元年(1329年)、後醍醐天皇の勅願に拠り、天皇の叔父に当たる天真乗運上人を開山として
天皇親政の大願成就と国家の繁栄、万民の安穏を願い創建された。当初は月輪山円福寺と称したが、
寛政3年(1462年)に観経曼陀羅示現し、曼陀羅寺と改称した。

境内より見た総門(唐門)
遥か向こうに矢来門が見える。

重要文化財・正堂
堂前には右近の橘、左近の桜が植えられている。

正堂説明板

正面の唐破風

正堂に掲げられた「曼陀羅寺」の扁額
天文10年(1541年)には改めて後奈良天皇から勅願寺の綸旨を受け、永禄6年(1563年)には織田信長からは禁制付与。
天正12年(1584年)には豊臣秀吉からは禁制及び204石の朱印状を頂いた。更に江戸時代の元和6年(1620年)には
尾張徳川家初代藩主義直から231石の寺領を頂き明治維新まで続く。
歴代の保護を受けると共に地域住民の信仰を集め、古文書類の他、多数の宝物を有している。
本堂に当たる正堂は寛永9年(1632年)、阿波徳島藩祖・蜂須賀家政に拠って再興。幼少期の家政が当山の塔頭である
本誓院で学んだため、その報恩感謝の故である。建物の様式は南北朝前期に建てられた京都御所の中心的建物である
紫宸殿に倣っており、屋根は檜皮葺。その広さは1,000㎡と東海三県では最も広い。

正堂前面

正堂からの境内の眺望

正堂前にある椋木

正堂廊下とそれに続く曼陀羅堂

渡廊下

渡廊下の向こうに建つ曼陀羅堂

境内横より見た正堂
本堂に続く書院は文禄元年(1592年)に建立された全国的にも珍しい室町風の書院造で、内部は鷹の間、鶴の間、上覧の間、
納戸に分かれ、上覧の間には床・付書院がある。創建当時の屋根は檜皮葺であったが、現在は銅版葺になっている。
江戸時代には幕府の巡見使が休憩所として利用した事でも知られるが、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの前哨戦である
岐阜城攻略の際に、東軍諸将の軍議がこの書院で行われたと記されている。』 とあります。

正堂脇を通り書院へ

書院玄関の唐破風
書院内は拝見していない模様。

書院に続く庫裏で御朱印拝受
後醍醐天皇の勅願とはいえ、御所の紫宸殿を模したというのも凄い話。正堂前に橘と桜があるものそのため。
唯、寄進したのは皇族や公家ではなく武家の蜂須賀家。普通ならば僭越で不敬罪とも成り兼ねませんが、
このような事例には柔軟性を発揮するのも貴族社会といえそうです。

曼陀羅寺説明書 ¥100

曼陀羅寺御朱印

江南郵便局 ; 重文・曼荼羅寺正堂、境内の藤、今市場の獅子舞
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日輪山 遍照光院 曼陀羅寺(西山浄土宗)
紫陽花の音楽寺が無住で空を切った後は、南西にあるもう一つの花の寺院へ。
音楽寺前にはバス停があり次の寺院前にも行くようですが1日2本のみ。そこでバス通りに沿って道を行く事20分。
団地を右手に見ながら進み右折すると巡見街道。街道沿いに公園があり更に行くと大きな門が見えてきました。
同じ古刹ながら音楽寺とはけた違いの広さ。街道に面したのは矢来門で、その奥に総門とされる唐門が建ち、
本堂は遥か先。境内には幾つもの塔頭があるようでした。

巡見街道に面して建つ矢来門

矢来門近影

境内より見た矢来門
参道を進むと両側に巨木が。進むと説明板があり椋木との事。椋木は総門前に2本、正堂前に1本の計3本があります。
『椋木は関東以西に分布する落葉樹で樹高は15~20m、幹は太く雄大な樹形を形成。また秋には黒紫色の実を付け、
多くの野鳥が集まる。開祖法然上人に関して、美作の誕生寺には、
上人誕生の時、紫の雲が棚引き、天の彼方から二流の白い幡(仏事の旗)が飛来して、庭の椋の木に架かり、
幡に付いた鈴が鳴り響き美しく輝いた。その椋の木は今も現存している。浄土宗である曼陀羅寺はその伝承に
基づいて椋の木が植えられたと考えられる。』 とあります。

参道の先の総門(唐門)と両脇の椋木

参道脇にある後醍醐天皇御創建地の碑

総門前から見た椋木

椋木は江南市指定文化財に
法然上人所縁の寺院は知恩院・誕生寺初め多く参拝しましたが、椋木の伝承は初耳。
というよりも見落としていたと言った方が正しいでしょう。偉人の誕生には瑞祥が付き物ですが、これもその類。
まさかこれで【無垢な】民の信仰心に訴えたとは思いませんが…。

総門(唐門)近影

正堂前の椋木
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR金山(9:48)
JR金山 → (名古屋市営地下鉄) → 赤池(10:05) → (名鉄バス) → 三好(10:29) → 徒歩3分 → みよし市役所 → 三好(10:42) → (名鉄バス) → 赤池(11:08→11:16) → (名古屋市営地下鉄) → 金山(11:45→11:48) → (名鉄) → 江南(12:10→12:18) → (名鉄バス) → 草井() → 徒歩10分 → 下水処理場 → 徒歩25分 → 音楽寺

琴聲山 音楽寺(浄土宗)
これは北側の道路から見た光景。
8月最後の日曜日は愛知県下でMHC巡礼。長く在庫切れだったものが復活した訳ですが、行先は二ヵ所ながら
お互い離れているのが玉に瑕。JRに加えて地下鉄・名鉄・バスを乗り継いで目的を果たしたのが漸く昼過ぎでした。
このまま帰るのも何なので、近くに見所は無いかと物色すると少し歩いた場所に古刹が…。

南側からこの参道を進むのが正式か?

由緒記と所蔵の円空仏
琴聲山音楽寺(きんせいざんおんがくじ)は、
『古文献や出土品より、壬申の乱に功績のあった村国男依所縁の寺院であったと伝えられる。
寺の前身は元暦元年(1184年)、源詠(げんえい)法師が創建した大乗院。
その後の、寛文覚書に「薬師堂一宇あり」と記録されるように寺名は薬師堂であったと思われる。
元禄2年(1689年)、中興開山の六世映誉和尚に拠って金聲山音楽寺と称し、更に大正時代に
二十一世輝道(きどう)和尚に至って琴聲山音楽寺と改めた。

参道の先に建つ本堂
但し、扉が閉まって居り人の気配は皆無であった。

本堂に掲げられた山号寺号の扁額
右書きと木目も露わな材に風格が感じられる。
現在、当寺は西山浄土宗に属し曼陀羅寺の末寺であるが、以前は今の西に位置し、曼陀羅寺を凌ぐ伽藍であった。
発掘調査では奈良時代の布目瓦や須恵器、平安時代の軒丸瓦が出土している。
境内の薬師堂に祀られている薬師如来は作者不明であるが、明応8年(1499年)の作とされる。
十三世淳教の1780年頃に設けられた役行者堂は災害等で廃止となり、その後に観音堂を建立。楊谷観世音を勧進した。

本堂前から境内を見る

薬師堂

薬師堂裏手の紫陽花群

僅かに咲き残った紫陽花

南の少し高くなった場所に建つ観音堂

観音堂正面
楊谷観音を勧請したもの。

参道脇の紫陽花越しに見る観音堂
また、ここは延宝4年(1676年)、45歳の円空が立ち寄り、鉈彫りの薬師如来、月光菩薩、日光菩薩、十二神将、
荒神・大護法神を寄進している。
ここの円空仏は、木曽川上流からの桧の流木で作られているのが特徴で、伝統的な仏像から脱すべく円空が
努力していた過渡期のものである。中でも十二神将は円空作の十二神将の内、最も初期に作られたものとされ、
その背面には全て陰刻の字が付せられ力強さが感じられる。
また荒神像は、昭和40年にドイツ、昭和55年にアメリカ合衆国に渡り海外の人々の目を楽しませている。
戦後、円空仏の評価が高まり最高傑作として昭和43年に市の文化財に指定された。』 とあります。

本堂脇に建つ村久野区歴史資料館
円空仏を展示しているが生憎休館中。

円空仏の説明

円空仏護法神
どことなくトーテムポールにも見える。
音楽寺と言えば秩父三十四ヵ所観音霊場が有名ですが、ここは全く別の寺院。仏教の声明が音楽の元になった訳ですから、
音楽と仏教徒は切っても切れない関係。そう考えると「音楽寺」と言う寺名ももっとあって然るべきかもしれません。
駅で入手したパンフに拠れば、ここは紫陽花の名所。堂宇の周辺には多くの株があったので、水無月には花が【皆付き】で、
さぞ壮観なことでしょうが、時期的にはもう遅く境内に数株咲いているだけで【皆尽き】でした。
もう一つは円空仏で収蔵庫もありましたが生憎閉鎖。境内を見渡しても人気は無く、無住か他寺院と兼務されている模様。
6月にあじさい祭があるようなので、見学はその時まで待った方が良さそうです。円空仏の寺は、【縁空】を切った形になりました。

境内の掲示板に貼付の 「紫陽花越しの薬師堂」 の写真
撮影者の名前が分からす、プロかアマチュアかも不明。

紫陽花と菖蒲越しに見た本堂

参道脇の紫陽花と本堂
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<コース> 夏の青春18きっぷ
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岡崎(9:48)
JR岡崎 → (愛知環状鉄道) → 中岡崎 → 徒歩10分 → 岡崎城 → 龍城神社 → カクキュウー八丁味噌 → 中岡崎 → (愛知環状鉄道) → JR岡崎 → JR金山 → JR大曾根 → 徒歩15分 → 建中寺 → 徒歩10分 → JR千種
【復路】JR千種(16:11) → JR名古屋(16:21→16:30) → JR米原(17:39→17:47) → JR大阪(19:13)

徳興山 建中寺(浄土宗)
三河岡崎で、お城とカードと八丁味噌を堪能した後は、再び東海道本線で西へ。
このまま終わりにするには時間が早く、以前に瀬戸市の定光寺を訪問した際に住職夫人が
「名古屋市内にも菩提寺がありますよ。」 と言われたのを思い出し尾張名古屋へ巡礼。
JRだと大曾根駅から南西へ少し歩きますが、周囲は地下鉄や国道が走る繁華街。交差点の表示は「徳川」とあるので、
尾張徳川家所縁の場所に繁華街が出来たと見るべきでしょう。
19号線から少し東へ入り東区役所に隣接した場所にその寺院はありました。道路に面して建つのは三門(山門)ですが、
道路を隔てて南には建中寺公園があり、その南には総門があり、こっちが境内の南端であったようです。

慶安4年(1651年)築の総門
総欅造り三間薬医門の建築様式で本瓦葺き。奥に見えるのが建中寺公園。

道路に面した三門(山門)
通常はここから入山。三門とは空門・無相門・無願門の三解脱門の意味を持つ。

慶安4年築の三門(山門)
総檜造り三間重層門で本瓦葺き。二階には釈迦牟尼を中心に十六羅漢が祀られるが非公開。

三門扉にある三つ葉葵の紋

三門脇の寺標
徳興山建中寺(とくこうさんけんちゅうじ)は、
『慶安4年(1651年)に尾張徳川家二代藩主光友公が創建。前年に逝去した初代藩主義直公(家康九男)の菩提を弔う
尾張徳川家祖先代々の菩提寺として、また藩内全ての人々の心の拠り所とするためであったと言われる。
5万坪の敷地に本堂を始めとして諸堂伽藍数十棟が並ぶ。
開山には茨城県結城市弘経寺の成誉廓呑上人を招聘。上人は学徳一世に高く御所参内して常紫衣の綸旨を拝した
高僧である。江戸時代は無本寺(別格本山)として塔頭寺院と末寺を有していた。

現在の境内の様子

天明7年(1789年)再建の本堂
入母屋造り本瓦葺きで古式に則った様式で再建された。

本堂の破風の彫刻と屋根瓦にある三つ葉葵の紋

本堂前面
間口15間、奥行14間、建坪210坪の市内木造建築としては最大級である。

本堂に掲げられた「徳興山」の扁額

本堂内陣の欄間彫刻と金襴緞子

本堂より三門を見る
天明5年(1785年)大曾根の大火に際し、火の付いた布団が本堂の屋根に巻き付き、総門、山門を残して灰燼に帰したが、
天明7年に尾張藩と住職の努力に拠って創建当時の姿に復元された。
大政奉還後の明治5年(1872年)に寺格を無本寺から知恩院の末寺へと降格され今に至っている。太平洋戦争では幸いに
して名古屋空襲を免れて堂塔伽藍は江戸時代の偉容を今に留め、その多くが文化財の指定を受けている。』 とあります。

本堂脇を通り御朱印拝受のため寺務所へ

本堂脇の書院
昭和39年(1964年)の再建。名工大竹利左衛門に拠る設計で壮麗なもの。

書院の扁額

徳興殿と寺務所(右)
徳興殿は明治29年(1896年)に旧名古屋商業会議所本館として建築され、昭和9年(1934年)に建中寺に移築された。

文政11年(1828年)創建の経蔵
第24~26世上人の三代を経て完成。内部には鉄眼禅師開版の黄檗版大蔵経五千八百巻が納められている。

経蔵の屋根裏の構造
徳興山の山号は「徳川が興る」事に由来すると思いましたが、御朱印を書いて頂いた若い僧侶の話ではお経の一節だそう。
境内の雰囲気は以前に訪れた岡崎の「大樹寺」に似た印象。浄土宗で徳川氏の庇護を受けたというのが共通点ですが、
沿革が似ると【遠隔】でも似るという好例に思えます。

三門左手の開山堂と不動堂(奥)

天明6年(1786年)再建の開山堂
大工は斎谷小一郎藤原長虎で寄棟造り桟瓦葺き。建中寺の開山上人、中興上人の木像と代々の住職の位牌を祀る。

昭和44年(1969年)再建の不動堂
本尊の不動明王は尾張徳川家の戦勝祈願の秘仏で、普段は前立て本尊を拝む。

龍の彫刻の石灯籠

天明7年再建の鐘楼
梵鐘には林羅山の銘が刻まれていたために戦時中の供出を免れたと伝わる。

賓客をもてなすための御成門
四脚平唐門、本瓦葺きの華やかな小門で、ここに移築される前は五代藩主五郎太公霊廟の紋であった。
名古屋の繁華街にあるものの、境内に入ると静かで厳かな雰囲気に浸ることができます。名古屋は太平洋戦争でも
空襲被害が大きく国宝名古屋城も焼失。そのような中で空襲を免れたのは奇跡的とも言えるでしょう。
建造物も再建等もあって年代の幅はありますが、それほど違和感がないのは、以前の様式を保っているから。
この辺りは名古屋人気質と言えましょうか?まさに都会の中で静かに息づく360年の歴史を体感できました。

建中寺幼稚園
昭和2年(1927年)創立で、昭和37年(1962年)に建中寺幼稚園として認可された。

建中寺説明書

寺務所で購入した冊子 ¥200

建中寺御朱印

名古屋代官郵便局 ; 建中寺本堂、灯籠、、松
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JR岡崎 → (愛知環状鉄道) → 中岡崎 → 徒歩10分 → 岡崎城 → 龍城神社 → カクキュウー八丁味噌

八丁味噌 カクキュー(合資会社)
お城から西へ戻り矢作川を越えて駅に向かうと、黒塗りの板張り壁面と漆喰塗の白い土蔵のコントラストも鮮やかな
場所に出ます。これがいまでも続く「八丁蔵通り」。八丁味噌は、
『岡崎城から西へ八丁(870m)の距離に位置し、それが八帖町の由来にもなっている。
江戸時代は三河湾に注ぐ矢作川と東海道の交差する水陸交通の要衝、この地の利を活かした原料の調達や製品の運搬、
矢作川の良質な伏流水と湿度の高い風土環境の元、地場産業として発展した。

通から見たカクキュー正面

醸造所を兼ねたテーマパークと言った所か?

八丁味噌を使った食事もできるところがミソ!
今でもこの地に位置する二つの蔵元に拠って、二夏二冬以上の間熟成させるという伝統製法で作られている。
その結果、水分が少なく、固くて色の濃い、酸味と渋味がありながら旨味とコクのある独特の風味が生まれる。
蔵に置かれた木桶には職人の手になる大証さまざまな石が積まれているが、この積み方を習得するのは10年を
要するとされる。』 とあります。

昔ながらの黒壁の醸造蔵

売店で購入した「八丁味噌ソフト」 ¥400
愛知環状鉄道の中岡崎駅が左奥に見える。

岡崎市マンホールカード カクキュー八丁味噌の郷にて配布
内藤ルネの色違い第三段だが、デザインと配布場所に違和感を感じるのは私だけ?
家康は健康にも気を配って当時としては長命の75歳で没。決して武将一点張りの不精な人間ではなかったと言えます。
有名な八丁味噌は現代から見ても健康食で家康は兵食として珍重したようです。
尚、ハ丁味噌は生産地がお城から八丁(870m)離れていたことに拠るもので、家康が口八丁で天下を取ったという訳では
ありません。まさに岡崎の風土が育んだ戦国フードと言えそうです。

中岡崎駅前のモニュメント
八丁味噌は右のような樽に載せた石で熟成される。

八丁味噌概説
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JR岡崎 → (愛知環状鉄道) → 中岡崎 → 徒歩10分 → 岡崎城 → 龍城神社

龍城神社(旧県社)
岡崎城内を歩くと天守の直ぐ横に神社が鎮座。龍城神社(たつきじんじゃ)は、
『康正元年(1455年)、三河守護代西郷弾正左エ門稠頼がこの地に築城した日、柳の五ッ衣に紅袴姿の高貴な乙女が
天守に現れ、
「我は久しくこの地に住む龍神なり。汝我を鎮守の神と崇め祀らば永く此の城を守護し繁栄不易たらしめむ。」
と城主に告げた。
折しも城中の井戸より水が噴き出し、高く天に上り飛瀑の如く龍神に注ぎ、黒雲舞い降りて天守を包むと龍神の姿は
忽ち消え失せた。
この不思議に驚いた城主は天守楼上に龍神を祀り、城名を「龍ヶ城」、井戸の名を「龍の井」と称したという。

正面から見た拝殿

拝殿の扁額
上には三つ葉葵の紋が。

拝殿の向こうに聳える天守閣
その後、文明年間に松平氏の居城となった。天文11年12月に城主松平広忠の長男として城内坂谷御殿で産声を
上げたのが後の徳川家康である。彼が誕生した時には天守の上に雲を呼び、金鱗の龍が出現したと伝わっている。
かくして家康薨去の後、城内に東照宮を奉祀し当社の創祀とした。
後に東照宮を現社地に遷座し本田忠勝を合祀、明治9年に龍城神社と定めた。その後、一時社名を東照宮に復した
時期があったが、明治45年再び龍城神社となり、大正3年には県社に列し当地域の中心神社として崇敬を集めている。
昭和37年には現在の社殿が再建された。』 とあります。

神馬の銅像

鳥居越しの眺望

龍城神社由緒

龍城神社御朱印
家康が生まれた場所なので、お祀りしていると単純に思っていましたが、松平氏以前の守護の時代にまで遡る
由緒があると知って驚き。家康が誕生した際には奇瑞があったそうですが、よく【気付い】たものと感心します。
没後は御祭神になり本多忠勝も合祀されたとありますが、神君家康は当然としても本多忠勝は徳川四天王よりも
子孫が岡崎城主だった事で忖度された気もします。
いずれにせよ民衆というよりも多分に政治的な意図があったことは伺える話。
勿論、徳川の世が【まつだい】らまで続く事を願ったのは言うまでもないでしょうが…。

公園内にある本多平八郎忠勝公像

城の北側に架かる龍城橋

橋上からの天守閣遠望
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岡崎城
・五万石でも岡崎さまは お城下まで船が着く
と歌われた岡崎は奈良平安時代の古道に遡る東西交通の要衝、江戸時代には東海道38番目の宿場が置かれました。
それにも増して有名なのが徳川家康誕生の地。家康の祖父松平清康に拠る町づくり以来の歴史があり、市内を歩くと
葵町やら康生町やら家康縁の地名が至る所に。家康は岡崎城で生まれましたが、そこの地名は康生町。
家康が生まれた事に由来するのは言うまでもありません。

西側の堀に架かる「たけちよ橋」を渡り城内へ

橋の先にある竹千代通りと石像
岡崎城は、
『清流乙川(菅生川)と矢作川の合流地点にある龍頭山の丘陵を利用したもの。
当初は三河守護代大草城主西郷弾正左エ門稠頼(つきより)が室町中期の康正元年(1455年)に龍頭山を護る砦として築城。
後に松平清康が奪取し城を整備拡張するが、享禄4年(1531年)家臣の謀反で落命(森山崩れ)。
後は息子の広忠が継ぎ城内で竹千代(家康の幼名)が生まれるが、天文18年(1549年)広忠もまた家臣に拠って殺害された。

堀端から

坂を上り天守へ
竹千代は7歳で今川の人質となり岡崎城も今川の支城となった。岡崎城が家康の下に戻るのは永禄3年(1560年)
桶狭間の戦いで今川義元が敗死した後の事である。
元亀元年(1570年)に家康は本拠地を浜松城に移し、岡崎城には長男の信康は入る。信康自害の後は、石川数正・
本多重次が城代を務める。家康の江戸転封以後は、一時豊臣系の田中吉政が入り近代的な城郭に整備、岡崎の
二十七曲りと呼ばれる道が造られたのもこの時である。
1602年(慶長7年)以後は、徳川譜代の家臣が城主を務め明治維新を迎える事となった。明治に入り廃城となったが、
昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリートで天守が再建された。』 とあります。

昭和34年再建の天守閣

天守閣前に建つ家康公遺訓

家康公遺言

樹木の向こうに見える天守閣

天守の北側にある壕

天下人家康公出世ベンチ
幼き竹千代と家康公の石像が建つ。
現在は旧岡崎城本丸、二ノ丸を中心にした岡崎公園。園内には三河武士の館・家康館、龍城神社、遺言碑などがあります。
浜松城は出世城として知られますが、岡崎城は天下人家康を形作った城と言えましょうか?
城主の家系に生まれたのは幸運と言えますが、幼い頃に親を失って人質となったのは不幸の極み。
そんな中でも自暴自棄にならなかったのは、己を冷静に見つめる事が出来たために他なりません。
今川の人質生活も思った程悲惨ではなかった事、大多数の家臣が離れず従った事などは、家康がひとかどの
器を持ったからに他なりません。
何故、家康が最終的に天下を取ったかについては色々あるでしょうが、
①失敗を活かせた事
②退く事が出来た事
が他の戦国大名との差ではなかったかと思います。

公園内にある家康公の顰(しか)み像
三方ヶ原の惨敗を教訓にするために、自らの姿を描かせた。

像の後方にある庭園

岡崎市マンホールカードと歴史まちカード
それぞれ三河武士の館、天守閣にて無料配布。

岡崎康生通西郵便局 ; 史跡・岡崎城、船着場跡、菅生祭の花火
岡崎康生郵便局 ; 岡崎城、花火、石燈籠、三つ葉葵の紋章
[参考書]
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JR大阪(5:55) → JR米原 → JR大垣 → JR岐阜(10:45) → JR多治見(11:24) → 多治見レンタサイクル15分 → 永保寺 → 修道院 → JR多治見(14:45) → JR定光寺(14:53) → 徒歩20分 → 定光寺 → JR定光寺(16:15) → JR名古屋(16:50→17:00) → JR米原(18:09→18:17) → JR大阪(19:42)

應夢山 定光寺(臨済宗妙心寺派)
多治見訪問の後はJRで名古屋まで戻りますが、少しだけ時間があったので途中下車。
駅の名前は付近の寺院に由来する以前から気になっていた定光寺(じょうこうじ)。
岐阜県から愛知県に入って最初の駅ですが普通しか止まらない無人駅。
駅名の如く人の姿が見えるのは【乗降時】だけです。
しかも30分間隔で運転なので、帰りの時間を確認してから出発。
駅は春日井市ですが川を越えると瀬戸市。名古屋市内では緩やかに流れる庄内川もこの辺りでは急流。
駅も山際にへばりつくような感じで、場所的にも尾張の瀬戸際と言うのがぴったりです。

JR中央線定光寺駅上りホーム
停車しているのは名古屋行普通電車。

庄内川に掛かる城領橋を渡り春日井市から瀬戸市へ
向こうに見えるのは旅館「應夢亭」で定光寺の山号から採った。

城領橋から見た庄内川の眺め
城領橋を渡りそのまま道路を直進。支流の御手洗川に沿って東行しますが、
たまに喫茶店があるくらいで樹木と渓流に囲まれた「尾張の嵐山」と呼ばれる景勝地だそう。
風景は兎も角、人が少なく活気がないのはコロナのせいでしょうか?
遡る事20分で入口があり更に石段を上って境内到着。

道路に面した寺院入口
続く石橋は直入橋と呼ばれ、承応2年(1653年)尾張藩二代・徳川光友の命で奉行・熊谷政実が架橋した。

直入橋に続く参道

更に上って境内へ

山門に到着
應夢山定光寺(おうむざんじょうこうじ)は、
『建武3年(1336年)覚源禅師の創建。覚源は千葉氏で肥後の出身。
9歳で出家して鎌倉建長寺で修業後、54歳の時尾張の国々を遊歴。
水野郷で坐禅修行をする傍ら住民の帰依を受けた。5年後、本堂を建立するに際し、
その場所から「定光仏」と言う霊像を掘り出した夢を雲水一同が見たので、寺号を定光寺、山号を應夢山とした。

山門前の観光案内

重文・本殿(仏殿)
無為殿と通称される。

本殿の側面

本殿の花頭窓と禅宗様式の格子

本堂に架かる「無為殿」の扁額
本尊には地蔵菩薩を安置し、開山と因縁深き霊仏として深く信仰されてきたが、江戸初期に
ここに立ち寄った尾張徳川家初代義直公が、その風光を賞せられ自らの墓所をここと定めた。
慶安3年(1650年)義直公が没すると、寺域に隣接する山林に義直公廟、所謂源敬公廟が造営され
尾張徳川家の庇護を受けた。』 とあります。

本殿脇の敬霊閣
納経はこの左側で拝受。

本殿と納経所の間を抜け藩祖義直公廟へ

源敬公廟の説明

廟入口
通常¥100だが、御朱印を御願いしたので無料で拝観させて貰った。

廟の説明

源敬公略歴

廟の案内図
駅から歩いて行けるとはいえ、人も少ない山道。
境内は桜と紅葉の名所とありますが、今は青紅葉。晩秋はさぞ壮観でしょう。
御朱印を御願いすべく、ベルを鳴らすと住職夫人が対応。書置きを拝受しました。
和辻;「お城からは随分離れていますが、何故ここを墓所に選んだのでしょうか?」
夫人;「義直公はよく鷹狩りに来られたそうですが、ここから名古屋市が一望できる事が選んだ理由とも聞いています。」
和辻;「成程、政治的な理由があった訳ですね。」
父の家康も鷹狩りを好みましたが、これは軍事練習が目的。義直の場合は政治的な見地から。
同じ狩りでも意味合いが異なりますが、それだけ時代を見る目があったとも言えるでしょう。

廟の途中にある獅子の門
元禄12年(1699年)の建立。獅子の彫刻は左甚五郎とあるが外側を覆われているので、よく分からない。

廟は築地塀で囲まれ中央の龍の門から出入りする

龍の門の彫刻も左甚五郎

龍の門の屋根部分

門の先にある焼香殿
承応元年(1652年)の建立。右にあるのは宝蔵。

焼香殿の屋根にある鯱と三つ葉葵の家紋
徳川家の菩提寺にはなりませんでしたが、尾張徳川家十九代義親公の時、
江戸時代に造営した墓所を廃して、義直廟脇に納骨堂を集約。
ようやく300年を経て纏まった事になります。
義親公はマレーに行った虎狩の殿様として知られる方ですから、
鷹狩りを好んだ義直に共感するところがあったのかもしれませんが…。

唐門とその奥にある源敬公墓

唐門扉にある三つ葉葵

廟所右手にある敬公に殉じた九名の墓

定光寺説明書

定光寺御朱印
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 夏の青春18きっぷ
JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR名古屋(9:15) → (名鉄犬山線) → 西春 → 名古屋空港行バス5分 → 高田寺北 → 徒歩5分 → 高田寺 → 徒歩20分 → 徳重・名古屋芸大 → (名鉄犬山線) → JR名古屋(15:00) → JR米原(16:09→16:18) → JR大阪(17:42)

醫王山 寂照院 高田寺(天台宗 東海四十九薬師霊場第二十一番札所)
この日は、名古屋駅から名鉄に乗って北名古屋市へ。名前から場所はすぐに想像できますが、
この辺りは師勝とも呼ばれていましたからもう少し名前に工夫をして欲しかった気がします。
寺院は西春駅から東へ2㎞弱。歩くと20分掛かりますが、駅から空港行きバスが30分毎に。
確認するとお寺の直ぐ北に停まるのですかさず乗車。便利の良い場所にあるので
巡礼と言うよりもお盆の墓参りと言った感じでした。
62号線のバス停から南に歩くこと5分。全くの平野で周囲を住宅に囲まれた一角に目指す寺院はありました。

寺院入口
南向きなのでバス停から行くと反対側にでる。

仁王門跡の説明
古刹なのに山門が欠落しているのは戦乱に拠る。
醫王山寂照院高田寺(いおうざんじゃくしょういんこうでんじ)は、
『創建は奈良時代に遡る。壬申の乱で功を挙げた高田首新家(たかだのおびとにいのみ)の菩提を弔うため、
その子首名(おびな)が養老4年(720年)行基菩薩を請じて建立したと伝わる。
「続日本紀」第二十四巻、淳仁天皇天平寶字七年(763年)の条が高田寺の記録に登場する嚆矢である。
その後、大同年間(806~810年)、伝教大師最澄が東国巡錫の折、天台宗となった。
かつては末寺が十六ヵ寺、創建以来七堂伽藍十二坊を擁した大寺で室町時代に
最盛期を迎えたとされるが、現在まで残るのは重文・薬師堂(本堂)のみ。
建築様式から鎌倉末期或いは室町初期の建立と推定され、旧国宝に指定された理由に
「尾張一の美建築と言って差し支えない。」と言われたほどの美しい建造物である。

仁王門跡から境内を見る

参道の先にある重文・薬師堂

香炉越しに見る薬師堂

薬師堂近影

寺院に所縁の重文の説明

屋根の反りが美しい薬師堂
その後、寛永年間(1624~1644年)に明正天皇の病気平癒を祈り、
その験があって塔頭の実相坊円忠大徳に薬函を賜ったと言う。
本尊の薬師如来像も重文で養老4年創建当時の仏と言われる。
普段は秘仏で五十年毎に御開帳を行う。』 とあります。
由緒は古いですが、寺院全体としては新しい建物。その中にあって
唯一時間が止まったように見えるのが薬師堂。
尾張一かどうかはさておき、優美な建物であるのは間違いありません。
尾張は戦国時代には中心的役割を果たした場所ですから、戦禍に遭うのは
避けられなかったでしょうが、よくぞ残ったものです。

薬師堂壁のポスター
秘仏も開創1300年で特別開帳の筈が、五輪同様にコロナで来年に延期。

薬師堂の扉と屋根の構造

横から見た薬師堂
参道脇には古筆を納めた筆塚がありますが、平安時代の日本三蹟の一人、
小野道風は春日井市の出身で高田寺との関係も深かった事に由来します。
道風公は眼病平癒や書道上達を薬師如来に祈願し、
本堂修理に寄付をしたり自筆の扁額「醫王山」を奉納しています。
今でも彼に肖って祈願する人が後を絶たないようです。柳に蛙の像はありませんでしたが…。

薬師堂前から仁王門跡を見る

薬師堂の「醫王山」の扁額
道風の筆か?

参道脇の筆塚
薬師堂を外から参拝した後は、御朱印を拝受すべく参道右にある本坊へ。
綺麗に樹木が植えられた庭を抜けると、手前から書院、観品殿と続き、
その奥にある寺務所で書置きを拝受。伺った所、書院は宿泊研修施設も兼ねているようでした。

御朱印を拝受するため本坊へ向かう

研修宿泊施設である書院と聖観世音菩薩を祀る観品殿
観品殿とは何だろうと思い、たまたま庭を掃除されていたお寺の方に伺うと、
住職;「あれは“かんほんでん”と言いまして観音様を祀っている場所です。」
和辻;「一般の方はお参りできないのですか?」
住職;「はい。ここは檀家の方々が法事で使用される場所で、一般の方は薬師堂にお参りして頂いています。」
との話。

観品殿の扁額

高田寺由緒記

高田寺御朱印
てっきり“かんぴんでん”と読むと思っていたので己の無知を反省。上品下品の“ほん”でした。
【すかんぴん】ではお寺も大変、きちんと棲み分けがなされているようでした。
何処でもお金は【師勝】問題。【香典時】だけに頼っては駄目です。
御本尊は50年毎の御開帳ですが、今年は開創1300年の特別開帳。しかしコロナのため、来年に延期。
こういった危機こそお薬師様にすがって病気平癒を願うべきと思うのですが、
馬耳【道風】とならない事を祈るばかりです。

西春郵便局 ; 桜の外枠に高田寺、永遠の塔

北名古屋市マンホール蓋
マンホールカードはコロナの影響で配布休止中。
[参考書]
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JR横浜(5:48) → JR小田原(6:42→7:04) → ひかり501号 → 豊橋(7:59→8:05) → JR蒲郡(8:17→8:40) → (名鉄蒲郡線) → 吉良吉田(9:06) → レンタサイクル10分 → 金蓮寺 → 吉良吉田(10:45) → 上横須賀(10:49) → レンタサイクル10分 → 華蔵寺 → 上横須賀(12:45) → 西尾(12:57) → レンタサイクル15分 → 城址公園 → 西尾(16:00) → 新安城(16:18) → JR安城(17:01) → JR米原(18:40→18:48) → JR大阪(20:13)

西尾城丑寅櫓
三重で基部が約6m、上部が4.4mと狭いが見通しは良い。
古刹二ヵ寺を拝観の後は町の中心の名鉄西尾で下車。
西尾は大給(おぎゅう)松平氏の六万石の城下町。三河の小京都と呼ばれますが、ガイド等に載ることは殆どありません。
しかし城下町には街並みが残り、平成8年には西尾城も復元されました。
小京都には観光を前面に出す所も多いですが、西尾にはそのような印象はなく却って好感が持てました。
家康の好きな五文字と七文字の言葉は「下を見よ」「身の程を知れ」。
江戸に出てからは武士も贅沢になったようですが、三河では質実剛健の気質が生きている感じでした。
地元の方々も「何もない所で…」と謙遜されましたが、意外な発見が…。
鰻の産地がこの辺りとは聞いたことがありましたが、茶の産地とは訪問時まで気付かず。
特に明治以降は抹茶の生産地として全国シェアを占めるようになったそうで、
そう思うとどことなく町全体が抹茶色に見えて来るから不思議です。
どちらも町興しに一役買っていますが、最近は抹茶スイーツの伸びが著しいようです。
私も一役買う事にして、身の丈にあったもので済ませて帰路につきました。
今回は駆け足でしたのでまた来ようと思います。見所満載、食事も【身皮】満載の旅でした。

本町通りにある町屋

昼食は三河の名産をここで

かつての一色町は鰻の産地 ¥2150
ここの鰻は関西風。

城下町当時の面影を残す順海町付近

西尾城址前の民家。門はかつての武家屋敷門か?

西尾城址鍮石門
二ノ丸御殿への表門。かつて真鍮が使われた事に拠る命名か?

西尾市歴史公園案内図

西尾城址

西尾城丑寅櫓と濠

丑寅櫓への入口

城址にある旧近衛邸
京都の近衛家にあった書院と茶室が壊されるとなったときに移築

旧近衛邸玄関

近衛邸内から見た庭

邸内茶室

尚古荘
明治期に米穀商によって建てられた。

尚古荘庭園

尚古荘庭園

尚古荘庭園

尚古荘横にある伝想茶屋
明治21年創業の抹茶の老舗あいやがまちやを利用したCafe(支店)。残念ながら今月末で本店に統合されるとか。

抹茶を使ったアフォガード (伝承茶屋にて¥700)
アボカドではなくイタリアの珈琲の抹茶版。西尾市は特産の抹茶を使ったスイーツの店が此処彼処にある。

西尾郵便局 ; 三河万歳、茶壺
西尾永楽郵便局 ; バラの外枠に、重文・西尾城址の御剣八幡社、みどり川沿いの桜
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知りたい、歩きたい! 美しい「日本の町並み」: この国の「原風景」に戻れる場所 (知的生きかた文庫) 新品価格 | ![]() |

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片岡山 華蔵寺(臨済宗妙心寺派)
金蓮寺拝観の後は1駅進んで上横須賀下車。ここにも駅前に無料のレンタサイクル赤馬号があったので利用。
片岡山華蔵寺(へんこうざんけぞうじ)は、
『吉良義定が旗本として吉良家を再興した際に、父義安の菩提を弔うために慶長5年(1600年)に創建した臨済宗寺院。
その後、吉良家の菩提寺になり吉良家ゆかりの文化財が残されている。』
とあります。
ここは鎌倉時代に足利長氏が吉良地方の守護となり着任、吉良氏を名乗ります。
徳川家康が「源氏の裔という事」で征夷大将軍になる際には吉良氏の功績が大きかったとか。
その末裔が忠臣蔵で有名な吉良上野介義央(よしひさ)。
歴史書の記述がどうあれ出身地では英雄視されるものですが義央は本当の名君だったようです。
元禄時代に幕府の隠密による全国の大名・旗本の調査記録が残っていますが、義央は最上級の評価を受けています。
一方の浅野内匠頭は最低の評価だそうで、忠臣蔵の【吉良】われ役とは随分違いますね。
事実は小説より何とかの典型でしょうか?

華蔵寺入口
名鉄上横須賀から北へ1.5㎞。

山門の「片岡山」の扁額

華蔵寺の沿革

境内の案内

本堂

吉良御影堂
ここに義央公の木像が収められている。

境内にある吉良家墓所

華蔵寺境内の句碑

頂いたパンフレット(無料)
A4サイズ、全30頁。

華蔵寺御朱印
領民の為、堤防を築き愛馬の赤馬に乗って領内を巡視したと言われています。
いまでもお菓子にその名が残りますが、変わった所では郷土玩具「吉良の赤馬」。
義央公が領内を巡視した故事に拠るものですが、昔はお菓子のおまけに入れられていたとか。
木の粉を固めて製造するようですが、ここでも絶滅危惧種。観光案内所で伺うと、今は1軒だけになっていました。
電話してみると「全て受注生産で時間が掛かりますが」との事。時間は掛かっても入手できるのであればと早速注文しました。
自宅に送られてきたのは12月初旬、討ち入り前に間に合いました。

華蔵寺前の吉良上野介義央公の像
愛馬の赤馬で巡視した。

駅から華蔵寺への途中にある赤馬像

赤馬像の裏に書かれた由来記

郷土玩具「吉良の赤駒」
右が昔ながらの吉良公の乗った赤駒(¥1,500)、左は新しくできた白駒(¥1,000)。

吉良吉田郵便局 ; 幡頭神社、正法寺古墳、尾崎士郎文学碑
[参考書]
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JR横浜(5:48) → JR小田原(6:42→7:04) → ひかり501号 → 豊橋(7:59→8:05) → JR蒲郡(8:17→8:40) → (名鉄蒲郡線) → 吉良吉田(9:06) → レンタサイクル10分 → 金蓮寺 → 吉良吉田(10:45)

青龍山 金蓮寺(曹洞宗)
台風接近の三連休、大阪に帰 (けえ) ろうの日となりましたが、豊橋から海沿いを大回りして
平成の大合併で西尾市になった吉良町の古刹巡り。
青龍山金蓮寺(せいりゅうざんこんれんじ) は名鉄吉良吉田から北に2㎞程行った所にある古刹。
駅前に無料のレンタサイクル「赤馬号」があったので利用。
【来んれんじ】にはならず、自動車運転の出来ない身には本当に助かります。
寺伝に拠れば、
『創建は平安時代に遡り、幡豆郡司の娘が金蓮寺を氏寺としたという記述が初出。
その後、源頼朝の命により三河守護の安達盛長が建立した「三河七御堂」の一つにも数えられるが不明な点も多く、
足利尊氏がこの地に移した暦応3年(1340年)がほぼ確実と言われる。
江戸時代にはこの地を治める幕府旗本吉良氏の帰依を受けた。
始めは真言宗であったが、寛政年間(1789~1801年)に曹洞宗になった。』
とあります。

青龍山金蓮寺入口
遠くからでも阿弥陀堂は直ぐ判る。

本堂
御朱印はここで拝受

ここは不動堂

境内の巨木

お不動産の名水
本尊は秘仏の不動明王で「饗庭のお不動さん」として親しまれていますが、ここでの必見は国宝の金蓮寺阿弥陀堂。
鎌倉中期の建立とされ、その姿から遠くからでもそれと分かります。
平安時代の末法思想から阿弥陀信仰が広がりますが、その頃建立された阿弥陀堂の流れを汲む建造物。
特に平安貴族の住宅建築の雰囲気を伝えており、蔀戸(しとみど)・縋破風(すがるはふ)に内裏で用いられた建築と
共通の特徴があるとの事。
このような洗練された様式から建築には都の大工が携わったと考えられますが、
今日まで修理を重ねながら残った事は、領主始め地元民の篤い信仰心の賜物でしょう。

国宝・阿弥陀堂遠景

正面から見た阿弥陀堂
内陣には阿弥陀三尊像を祀る。

手前に伸びた孫庇が美しい阿弥陀堂
檜皮葺きは昭和29年の解体修理で瓦葺から改められた。

阿弥陀堂の縋破風

阿弥陀堂説明
拝観の後は御朱印を頂くため寺務所へ。ベルを押すと、御高齢の住職がニコニコしながら出て来られました。
「御朱印を御願いします。」と言うと無言で頷かれ、奥で書かれた後、持って来られました。
御朱印代¥300をお渡しした後、奥に戻られましたがどうも足が悪い様子。
申し訳ない事をしたかと思いましたが、終始にこやかな顔を崩されませんでした。
拝受した御朱印を見ると、文字の上にお地蔵様がほほ笑んだ絵柄が。
いままで色々な御朱印を頂きましたが、このようなものは初めて。
形式的ではなく、真心のこもった御朱印とはこういうものを指すのでしょう。
お地蔵様の顔が先程迄の御住職の顔と重なって見えました。

金蓮寺説明書

阿弥陀三尊像
説明書に掲載されたものを引用。

金蓮寺御朱印

吉良町郵便局 ; 国宝・金蓮寺阿弥陀堂、吉良義央木像、尾崎士郎生誕地碑

吉良町マンホール蓋 (汚水用)

吉良町マンホール蓋 (雨水用)
蔦は吉良家の家紋。
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JR大阪(6:33) → JR米原(8:01→8:03*) → JR大垣(8:37→8:40☆) → JR名古屋(9:14→9:31) → (近鉄電車) → 伏尾(9:41) → 徒歩10分 → 前田速念寺
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム

岡部山 速念寺(浄土真宗大谷派)
愛知県は信長・秀吉・家康と戦国の三傑が出た場所。彼らが戦国時代を終息させ江戸の泰平を迎えた訳ですが、
同じ地区から後の近世大名が輩出しました。
加賀前田家といえば百万石、将軍家に次ぐ石高ですが、その発祥の地が今の名古屋市中川区。
この地域の土豪であった前田利昌の四男利家が信長に仕えて功績を挙げ、大名に出世しました。
当初は兄の利久が家督を継ぎましたが、信長の命で利家が家督を継承。
利家が信長の小姓だったからともいわれますが、家の存続を図るために力量のある者を据えたというのが本音でしょう。
ここには前田城があり、利家はここで生まれ7歳の時に荒子城に移ったと伝わります(異説もあり)。
前田速念寺(まえだそくねんじ)は前田城旧跡に建立され、利家叔父の意休法師(前田利則)の時に天台宗から浄土真宗に改宗。
本尊・阿弥陀如来は利家が寄進しました。
信長家臣の岡部氏が速念寺に帰依し家紋・寄付等を寄進したことが山号の由来になっています。
本堂の屋根は特異な形ですが、利家の鯰尾兜を模したもの。他にも梅鉢紋が各所に見られます。
境内の伽藍は新たに再建されたものが多く古刹の雰囲気は少ない様子。
唯、門前の前田城址碑と歴代の墳墓に歴史を垣間見ることができます。
兄を差し置いて当主となった利家ですが利久を兄として敬う態度は終生変わる事がありませんでした。
金沢の前田家墓所でも自分よりも高い場所に墓を築いています。
戦国の世を勝ち抜き大名になった利家ですが、武功だけではないという事でしょう。

門前の寺標の横には旧跡と記載

山門の扁額は「梅廼寺」

境内から山門を見返る

速念寺本堂
屋根は利家の鯰尾兜を模したもの。

本堂の扁額は「速念寺」

境内には前田家の墳墓が三基

寺務所横の碑

名古屋助光郵便局 ; 速念寺山門と本堂、五輪塔
[参考書]
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前田利家・利長: 創られた「加賀百万石」伝説 (中世から近世へ) 新品価格 | ![]() |

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<コース>
JR名古屋 → (地下鉄鶴舞線) → 大須観音

大須観音へと続く商店街
布は繊維の中京工業地帯を象徴?
午後からの研修参加のため名古屋入り。午前中の合間を縫って大須観音へお参り。
大須観音こと北野山真福寺宝生院(きたのさんしんふくじほうしょういん)は、元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が長岡庄大須郷(今の岐阜県羽島市)に創建した北野天満宮の別当寺として僧能信が開創。
その後、後村上天皇の勅願寺となり戦国の世にも栄えますが、慶長17年(1612年)に度重なる木曽川の氾濫と徳川家康の名古屋経営のためにこの地に移されました。
永らく中部地方の真言宗寺院の中心であったので古文書も多く、国宝・古事記写本や重文の古書1万5千冊は真福寺文庫に保管されています。
と言うと堅苦しい寺院を想像しますが至って庶民的。以後ここを中心に芝居興行や露天商が集まり町が発展していく事になります。
羽島からの移転は大正解だった訳で、家康は武将としてだけでなく、城下町造りでも才能を発揮したと言えます。若い頃、苦労して人には何が必要か?という確たるビジョンがあったのでしょう。
後の名古屋人の派手な性格はこの時期に萌芽が見られるともいえるでしょうか?余談ですが、尾張四観音と呼ばれるものには大須観音は入っていません。

北野山 真福寺 宝生院(真言宗智山派 別格本山)
仁王門

昭和45年に再建の本堂
街のど真ん中にしては規模が大きい。雰囲気は浅草寺に似ている?

大須観音略縁起

大須観音御朱印
参拝後は合同庁舎まで移動。途中、県庁と市役所の横を通りましたが、何とも印象的な建物でした。どちらも名古屋城をデザインしたようで県庁は重要文化財となっています。
伝統的と見るか、そんな鯱張らんでもと見るか、おお好かんのう !と採るかは様々でしょうが名古屋人の拠り所なのは間違いありません。

愛知県庁本庁舎
昭和13年竣工。余談であるがこの年、名古屋城の金の鯱の鱗が盗まれた。

名古屋市役所本庁舎
昭和8年竣工。一般公募から採用された。

名古屋市役所本庁舎
中央は時計塔で四方睨みの鯱が載っている。

名古屋中郵便局 ; 金の鯱、大須観音、テレビ塔
[参考書]
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<コース> 名鉄本線は日中10分間隔、名鉄三河線は15分間隔で運転
名鉄名古屋駅 → (名鉄特急) → 知立 → 三河八橋 → 徒歩5分 → 無量壽寺

八橋山 無量壽寺(臨済宗妙心寺派)
GW10連休も終わった10日、ふと思い立って【とうか】いどうを東へ。
江戸時代の東海道は現在の東海道線に引き継がれていますが豊橋から名古屋までは名鉄本線になっています。
途中遊郭が多かったから国鉄は鉄道誘致を避けたと誠しやかに言われていますが、勾配がきつかったのが原因とか。
白須賀(32番)付近と同じ理由のようです。
知立(ちりゅう)は東海道39番目の宿。京都から行くと尾張を終わり三河に入った場所になります。
知立の古い表記は池鯉鮒、池や河川が多く存在し湿地帯だったのでこのような表記になったのでしょう。
初めて見たときは読めませんでしたが、こちらのほうが断然味があります。

東海道池鯉鮒宿本陣跡
廣重の絵にあるように馬市が有名であった。

東海道沿いにある和菓子店
看板の池鯉鮒の文字に時代が感じられる。
それよりも知立と言えば在原業平所縁の歌枕として有名。名鉄知立駅から豊田方面に2駅行くと三河八橋駅。
業平が伊勢物語第九段東下りで、ここ八橋で燕子花の歌を詠んだ事で一躍有名になりました。
「かきつばた」という五文字を句の上にすえて
・からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ
と詠みました。折句という手法ですが、伊勢物語の白眉と言われています。
私も負けじと 「かきつばた」という五文字を句の下にすえると
・やつはしか ちりふあんまき つまみつつ いえをおもへば たびぞらのした
という感じでしょうか?
八橋とは川筋がいくつもあった湿地帯に地元の人が架けた橋と思っていましたが、母に会うために川を渡ろうとした二人の子供が溺れたという悲しい出来事が元にありました。
それを悲しんだ母は出家して夢のお告げにより流れ着いた木材で八つの橋を架けたとか。
言い伝えではありますが当時はあちこちでこんな事があったのでしょう。
この話を伝え聞いた京都の西尾家はお菓子を作り販売。これが今に続く八ツ橋の起こりです。

八橋かきつばた園(無量壽寺)の入口
神仏習合の名残で無量寿寺と日吉山王社が敷地内に同居。

園奥にある在原業平像

かきつばた園にある業平歌碑

伊勢物語の解説

園入口右にある石碑
京都 本家西尾八ツ橋からの寄進。

境内にある八橋伝説二児供養塔
この八橋の中心寺院が八橋山無量壽寺(やつはしざんむりょうじゅじ)。
江戸時代の神仏習合も名残か境内には神社も併設している開放的なお寺でした。寺伝によれば、
『奈良時代の慶雲元年(704年)の創建の東海山慶雲寺が前身。
できた当時は真言宗で弘仁12年(821年)に密円法師が住持し東海山無量壽寺と改名。
延喜2年(902年)に八橋へ移り山号も八橋山になった』
とあります。
業平の故事でもあるように燕子花の名勝地でしたが、江戸時代の宝永8年(1711年)に臨済宗妙心寺派になった頃には見る影もなく衰退。
文化9年(1812年)にここに来た方巌売茶翁(ほうがんばいさおう)というお坊さんはそれを嘆き、寺院を再興し庭園も整備。
同時に燕子花庭園も完成しました。今に続く燕子花は売茶翁の努力の賜物と言う訳です。
現在でも燕子花園の維持管理は地元のボランティアが中心で、燕子花の季節でも拝観料なし。
お寺の話では「塀もなく、どこからでも入れるので」との事ですが、その心遣いが有難いです。
【むりょう】壽寺の寺名は伊達ではありません。
知立では毎年ミス燕子花を4名選ぶそうですが、燕子花園にあるお茶室ではかつての方々からお茶を頂きました。

入口右横の「かきつばた園」

無量壽寺入口
屋根の付いた山ではない。

境内遠景

庫裏

庫裏横の業平竹

本堂前の芭蕉連句碑
安永6年(1777年)に芭蕉が立ち寄った際の句を下郷学海が建立。

八橋古碑(亀甲碑)
荻生徂徠の弟子が在原業平の故事を書き付けたもの。

無量壽寺本堂
本尊は聖観音。

杜若姫供養塔
業平を追ったが想い叶わず自害したとされる小野篁の娘杜若を祀る。

業平の井戸

茶室:燕子庵

茶室内

頂いたお菓子「かきつばた」
名古屋の老舗「両口屋」の作

茶室入口からかきつばた池を見る

池越しに見る本堂

池越しに見る庫裏と本堂

かきつばた池(心字池)

池越しに見る茶室





最も奥のかきつばた池
周囲に樹木が少ないので陽当たりが良い。

密生して咲いている燕子花

八橋山無量壽寺説明書

無量壽寺御朱印

昼食は園内の売店で
うどん¥450+あんまき¥170
無量壽寺以外にも近くには鎌倉街道沿いに業平所縁の史跡があり徒歩で巡礼。
業平が何故、八橋の燕子花を見に行ったかですが、いずれ菖蒲か燕子花と言う位ですから女性に会いに行ったのが本音だったような気がします。
都の妻を詠むというのもわざとらしいですし、なにか心に【八橋い】事があったに違いありません。

在原寺(ざいげんじ)
寛平年間(889~897年)に業平塚を守る人の御堂として建立。その後、法灯が途絶えたが文化6年(1809年)に方巌売茶翁が再興した。

在原寺本堂
代々庵主様が守っていたが今は無住で、無量壽寺の管轄。

業平供養塔
高さ10m程の丘の上にある宝篋印塔。鎌倉末から室町初期の製作。

根上りの松
街道沿いにあり多くの浮世絵に描かれた。

落田中の一松
業平が「かきつばた」の歌を詠んだ場所と伝わる。

知立市マンホール蓋 その1

知立市マンホール蓋 その2

知立郵便局 ; 無量寿寺のカキツバタ、八橋
知立本町郵便局 ; 東海道39番目池鯉鮒宿、市花・カキツバタ、重文・知立神社多宝塔
知立の後は名鉄で名古屋市内へ移動。
有松は絞りで有名ですが切妻・中二階・漆喰塗り込め・虫籠窓が特徴の伝統的建造物保存地区。
旧東海道でしかも政令指定都市でこれだけ街並みが残っているのは奇跡的です。
元来、池鯉鮒と鳴海の間の宿と言う位置づけでした。しかし廣重が描いた鳴海は有松宿でしたし、残ったのも有松というのも皮肉なものです。
1794年に大火に見舞われましたが藩の援助もあり復興。豪壮な街並みが形成されました。
その後は災害にも会わず現在に至ります。火事も【商家】には歯が立たなかったのでしょうね。

有松宿の東海道
緩やかに蛇行しているのが分かる。正面の二階建ては味噌煮込みうどんの寿限無庵。

井桁屋服部孫兵衛家(絞り問屋)
1784年の大火後の建築。母屋の端にあるのは本卯建で右の白壁蔵も所有。

江戸後期築の山田家(絞り問屋)

竹田嘉兵衛家(笹加)
江戸後期の築、一階の屋根にガス灯が載る。

有松宿の西端にある小塚家(商家)
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】JR大阪(6:33) → JR米原(8:01→8:03*) → JR大垣(8:37→8:40☆) → JR名古屋(9:14→9:24) → JR大曾根(9:37→9:46) → 名鉄瀬戸線 → 瀬戸(10:11)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
名鉄瀬戸駅 → 徒歩15分 → 宝泉寺 → 瀬戸(12:09) → 大曾根(12:32)

大昌山 宝泉寺(曹洞宗)
午後から名古屋市内に所用があったので花見がてら少し早めに出て名鉄瀬戸線で終点へ。
瀬戸といえば六古窯の一つ、今では陶器の代名詞、日用雑貨を初めとして多くの生活雑器が生産されたことの証でしょう。
今は町の中心は西側に移りましたが、かつての瀬戸の中心はここ。
宮前橋を渡った場所に鎮座するのが奈良時代創建という深川神社。
ここには陶祖・加藤四郎左衛門景正(通称;藤四郎)の作とされる陶製の狛犬が安置されています。
藤四郎は曹洞宗開祖となる道元と共に貞応2年(1223年)に入宋、焼物の技術を学び帰国します。
その後、製陶に適した土を求めて全国行脚し仁治3年(1242年)に瀬戸の祖母懐(そぼかい)に良土を発見、
この地に窯を開きました。瀬戸焼の始まりです。
唯、最古の伝記記録は延享5年(1748年)であり、謎の多い生涯ではありますが、
地元では陶祖として崇められ深川神社の東側には藤四郎を祀る陶彦社が文政7年(1824年)に創建されました。
駅から東へ1㎞行った洞地区は焼物生産が行われた場所。二つの山が迫った谷間で斜面を利用して登り窯が築かれました。
いまも窯元がありますが、町を歩くと「窯垣」が至る所にあり「窯垣の小径」と呼ばれています。
これは大量に発生した窯道具の廃材を垣根初め建物の基礎に用いたもの。
なるほど良い【配剤】といえますね。肥前ではトンバイ塀と言うそうですが、発想は同じです。

瀬戸記念橋
瀬戸川に架かる橋にはこのように陶器のモニュメントが見られる。

宮前橋を渡った所にある深川神社鳥居

深川神社拝殿の屋根の装飾 これも陶器か?

陶彦社
深川神社の境内東にあり陶祖・藤四郎を祀る。

神社西側の法雲寺にある陶製梵鐘
戦時中の金属供出を受けて製造されたと言うが、陶器で良い音色が出るものか?

窯垣の小径入口付近
洞地区に全長400m程続く細く曲がりくねった道。不要になった窯道具を積み上げて築いたもの。

窯垣の小径に沿って歩く

窯垣の小径ギャラリー
江戸時代に建てられた窯元の邸宅を利用したもので、地元の若手作品が鑑賞できる。この日は生憎休館。

窯垣の小径資料館での本業タイルの展示
資料館は窯元旧寺田家の邸宅を改修。本業タイルは銅板転写で絵付けをした近代量産タイル第一号と言われるもの。

小径からメインの陶の路へと続く細道

窯元が軒を連ねる洞地区の遠望
小径を引き返し瀬戸川に架かる公園橋の袂にあるのが宝泉寺。大昌山宝泉寺は建長4年(1252年)、雲水山神宮寺として創建。
場所が近いので深川神社の神宮寺という位置付けでしょうか。その後300年間の来歴は不明で慶長元年に大火に合い焼失。
寛永10年(1633年)に赤津の雲興寺15世の興南和尚により曹洞宗の禅刹大昌山宝泉寺として再興されました。
この地は洞、古瀬戸、祖母懐に通じる要衝で現在に至るまで瀬戸焼を見守ってきた事になります。
本尊は釈迦牟尼仏ですが、本堂内にある十六羅漢は陶製、天井画は陶磁器の絵付職人によるもの。
陶器とともに歩んだ寺院の面目躍如です。

宝泉寺全景

山門
全国でも珍しい上下二重構造の竜宮造りで、階上部分はかつては鐘楼として使用された。

本堂
本尊は釈迦如来。本堂前を改修工事中。

庫裡
御朱印はここで拝受。工事中のため本堂へは左側の入口から。

本堂の天井絵(拝観無料)
瀬戸の陶磁器絵付職人により描かれたもの。慶長元年(1596年)伊の火災で一部焼失、再建時に再度描かれる。現在新旧併せて約200枚。

本堂にある陶質十六羅漢塑像
天保14年(1843年)に加藤善右衛門により制作。一般には木製が多い中、陶器で造られている。

宝泉寺中庭
後方にあるのは杢工庵

山門左手にある鐘楼
梵鐘は戦時中に供出されたが、昭和27年に檀家の寄進で再建。

鐘楼の天井画「天女の図」
作者は丹羽郡大口村桂林寺住職赤堀禅稲画伯とある。

首なし地蔵
山門を入るとすぐ左手にある。江戸時代に役人が隠れキリシタンを探す目的で切り落としたと伝わる。

宝泉禅寺説明書

宝泉禅寺 写真冊子(無料)

宝泉寺御朱印
その後は、瀬戸公園にある陶祖公園を経て巡礼終了。2時間足らずの間に瀬戸物の歴史を駆け足で巡る事ができました。
残念ながら花見に関しては低温と桜が少なかったことで空振り、そのまま大曾根へ直行となりました。
陶器の釉薬として椿を植えるのが多かったようです。
和歌の一つでもひねって【瀬戸の花詠み】と思っていましたが、【大曾根無情】となりました。
瀬戸だけに【磁器】を外してしまったと後悔です。

陶祖公園

公園内にある六角陶碑
藤四郎の業績を称えるため慶応3年(1867年)に名工加藤清助が中心となり建立。大小29個の焼物が組合さった陶碑は高さ4.1m、総重量2トン。

公園入口にある竹露庵

瀬戸市マンホール蓋

瀬戸市マンホールカード 配布場所はこちら

瀬戸元町郵便局 ; 磁祖・加藤民吉の像、登り窯
瀬戸記念橋郵便局 ; 陶磁資料館、陶磁器
[参考書]
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【往路】JR大阪(6:33) → JR米原(8:01→8:03*) → JR大垣(8:37→8:40☆) → JR名古屋(9:14) → JR豊橋(10:09) → 新豊橋10:15) → 三河田原(10:50)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
三河田原駅 → レンタサイクル → 田原城址 → 池ノ原公園 → 城宝寺 → 三河田原駅(14:02) → 新豊橋 → JR豊橋(14:50) → 蒲郡(15:01→名鉄15:11) → 東幡豆(15:27) → 徒歩5分 → はず観音 → 東幡豆(16:11) → JR豊橋(16:32→16:46)
【復路】JR蒲郡(16:46) → JR米原(18:41→18:47*) →JR大阪(20:12)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム

性海山 宝樹院 妙善寺(浄土宗西山深草派)
田原の後は東海道の蒲郡から名鉄で東幡豆まで。
私の持っているガイドには「かぼちゃ寺幡豆観音」とありますが、現地表記はハズとカタカナ。
「そんなハズは」と駅から歩くこと3分で到着。
ハズ観音こと性海山宝樹院妙善寺(しょうかいざんほうじゅいんみょうぜんじ)は三河湾が目の前に迫る海岸に建つ古刹。
なんでも寺伝によれば天平年間に行基が開創した寺院が始まり。
その後は天台宗の寺院でしたが、安土桃山時代の天文年間に利春僧都が再興して西林寺と名を変え、
更に江戸時代の寛政年間に妙善寺となり今に至ります。
政争に巻き込まれ易い土地柄だったので隆盛衰退を繰り返し、都度寺名や宗派が変わっていったのでしょう。
「ハズ」と表記する理由をお寺の方に尋ねると、「幡豆だとバンズとかハタマメと読まれるので…。」との事でしたが、
全国にはもっと難読の寺名もあるので、これくらいの読みは問題ないとは思いますがどうなのでしょうか?

無人の名鉄東幡豆駅にある案内板

ハズ観音の門前に到着

山門

山門から外を見ると三河湾がすぐそこに迫る

境内遠景

本堂

本堂の扁額

境内のイヌマキの巨木
「かぼちゃ寺」の名前については門前の看板に由来があって、
『利春僧都が住職の時に観音様のお告げで門前の浜に打ち上げられたかぼちゃを得た。』
とあります。
かぼちゃの原産地は中南米で南蛮貿易の時代に日本に伝来。
1541年にポルトガル船が豊後の大友宗麟に伝えたのが最初とされます。
別名を唐茄子・南京瓜と言う位ですし「かぼちゃ」もカンボジアが訛ったものなので南から来たという意識があったのでしょう。
時代的には合致しますが、椰子の実と違って皮が柔らかいので遠くの海から流れ着くものかどうか?
人間は食文化に関しては保守的ですから、栽培が容易で栄養価も高いかぼちゃを広めるために観音様のお告げを持ち出した、
というのが真相ではないでしょうか。
そう言ってしまえば身も【ヘタ】もないですが、結果的にはこの作物の御蔭で人が救われるようになったのですから、
お告げは【ハズ】レではなかったと言えますね。
お寺も冬至の日に全国かぼちゃサミットを開催するなどカボチャを積極的に前に出しています。
本堂前には「かぼちゃ茶」なる接待も。成人病や中風の予防にも効果があると言うことなので、
これからの高齢化社会に向けて益々繁盛するのではと思います。
かぼちゃが馬車になることはないでしょうが、地元の檀家さんに還付金(パンプキン)があるかもしれません。

かぼちゃの由来記

本堂内から
右手に「かぼちゃ茶」の接待が。

冬至の日にはこの場所で「かぼちゃしるこ」の接待がある

庫裡(くり)の前にあるかぼちゃ

ハズ観音 説明書

ハズ観音御朱印

東幡豆郵便局 ; アサリ、槙の木、兎島と猿島、三河湾
[参考書]
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*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
三河田原駅 → レンタサイクル → 田原城址 → 池ノ原公園 → 城宝寺 → 三河田原駅

辨天山 長昌院 城宝寺(浄土宗)
最近は江戸の時代小説がブームで、出版社の宣伝月刊誌にも1冊に1~2話掲載されています。
そのなかで江戸後期の作品にしばしば渡辺崋山の名が登場します。
教科書で習った記憶では国宝「鷹見泉石」を描いた画家で、蛮社の獄に連座して悲劇的な生涯を終えた芸術家ですが、
調べてみると三河田原藩士で家老職まで至った政治家だそうです。
田原なら日帰りで行ける距離なのでその足跡を辿るべく繰り出しました。
が、生憎人身事故等で遅れ三河田原到着は11:50と予定より1時間遅れ。
しかし駅に無料のレンタサイクルがあったのでそれを利用、電車の遅れを自転車で取り戻すことができました。

豊橋鉄道新豊橋駅ホーム
日中は15分間隔で運転と旅行者には非常に便利である。
崋山は田原藩士の子として江戸で生まれましたが、子供の頃は家が貧しく勉学にも苦労したようです。
唯、絵画の才能があったので絵を売って家系の足しにしていたとか。
武士が絵を売って生活するのは幕藩体制から見るとあまり宜しくないですが、古い因習に捕らわれない考えがあったのでしょう。
その後は少しずつ出世し四十歳で家老に就任、藩政改革に乗り出します。
当時は江戸初期の米中心の経済がほぼ限界に達しており、商品流通を中心とした新たな経済を考える必要がありました。
が諸藩には【諸般】の事情があり思うようにはいきません。
そんな中、崋山は商品作物の導入や武士の内職を奨励しています。
特に報民倉と呼ぶ食糧備蓄庫を準備していたことで天保の大飢饉(1836年)では藩内に一人の餓死者も出さず、
全国で唯一幕府から表彰を受けるという栄誉を得ます。
鎖国についても否定的な意見で諸外国との交易で利益を得ようと考えていた節があります。
しかし絵画を通じて知り合った蘭学者とも交流があった事、著作『慎機論』が幕府批判と見做された事、
と悪いことが重なり田原藩に謹慎。謹慎中に絵画を描いて売った事が咎められそうになり自ら命を絶ちました。
何事にも先駆者には悲劇がつきものですが、崋山の切腹はペリー来航の僅かに十二年前。
もし存命であれば国の方針に寄与する事もあったでしょうが運が悪かったとしか言いようがありません。
後世、城の傍らに崋山神社ができますがこれは地元民の要望によったとか。
思うに単に【鷹見】に立って【譴責】するのではなく、領民目線を持って行動した事が偉い所であったように思います。

田原城惣門横にある報民倉(食糧備蓄庫)

報民倉の説明

大手公園にある渡辺小崋(崋山次男)の絵画の複製

渡邊小華の肖像
崋山が死んだ際には7歳であったが、兄の死を受け家督を相続、家老職に就いた。絵画でも才能を発揮。

公園内の宿木
常緑のため好まれるが、元来寄生植物である。

田原中部小学校横に立つ藩校跡の碑

田原城址
文明十二年(1480年)に戸田宗光により築城。当時は城の周りが海に囲まれその湾の形から「巴江城」と呼ばれた。江戸中期からは三宅藩1万2千石の居城。石垣・堀・土塁が残る。

復元された桜門(大手門)

復元された二の丸櫓
この奥は田原市博物館となっているがこの日は展示替えのため休館であった。

城内に鎮座する巴江神社

桜門向かいにある田原市民俗資料館

城横にある崋山神社
昭和8年に地元の人によって創建。

池ノ原公園
崋山が晩年過ごした屋敷跡、東屋、散策路がある。

池ノ幽居跡
崋山が天保十一年(1840年)二月十六日より翌十二年十月十一日に切腹するまで家族と住んだ住居を1955年に復元。

公園内の崋山の像

公園にある椿の小径

田原まつり会館にて祭りの山車を展示

田原まつり会館にて大凧を展示
田原の凧は他と異なり横型長方形である。
田原散策の〆は駅近くの城宝寺へ。寺伝によれば
『ここには渥美半島最大の古墳があり、弘仁二年(811年)、空海がここに立ち寄った際に弁財尊天造りをその頂上の堂に祀った』
のが始まりとされます。
かつては田原城近くまで海が迫り、城の南のこの辺りも海があり所縁の弁天様を高い場所に祀ったと言えそうです。
しかし伝説の域で、『応永二年(1395年)に讃誉空山上人が浄土宗に改宗、同五年に幸徳法印により創設』
というのが実際のように思えます。
永禄七年(1546年)には徳川家康により田原城の鎮護の寺として城宝寺と改称。
この付近には四ヵ寺集まっており、有事の際には兵を駐屯させる意図があったのでしょう。
渡辺崋山もここを墓所としており、本堂奥には崋山の霊牌堂があります。
その天井には有名な日本画家による55枚の花の絵があります。
画家としての崋山に敬意を表したもので、¥200で名画を鑑賞することができました。
お寺の方に伺ったところ全て作者からの寄進との事、これも崋山の遺徳の一つと言えそうです。
彼のような生き方は我々凡人には真似できないでしょうが、これを【他山の石】にと言ったら泉下の崋山に怒られますかね?

城宝寺入口
樹木が生い茂っている場所が城宝寺古墳。

山門

山門近影

古墳の横穴石室

古墳の上に建つ弁天堂

弁天堂からの眺め

弁天堂を下りて本堂へ

城宝寺本堂

本堂より弁天堂を望む

本堂奥にある崋山霊牌堂

側壁の作品

天井画





城宝寺御朱印

田原郵便局 ; 田原城二の丸旧櫓、渡辺崋山像、田原凧祭の大凧
[参考書]
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<コース> 春の青春18きっぷ
【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR浜松(9:19→9:23) → JR二川(9:51)
JR二川 → 徒歩10分 → 二川宿 → 徒歩20分 → 岩屋観音
【復路】JR二川(14:10) → JR浜松(14:39→14:50) →静岡駅(16:01→16:05) → JR熱海(17:27→17:37) → JR横浜(18:46)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム

亀見山 大岩寺 岩屋堂(曹洞宗)
雛祭は先週で終わりですが、13日までしている場所があると聞き2度目の18切符で二川へ。
33番目の宿場なので雛祭かと思いきや地元で訊くとそうではないそうで己の短慮を後悔!
東海道線の駅が宿場から離れていたこともあり、江戸時代の雰囲気を感じる街です。
東海道で本陣が残るのは草津とここのみ。加えて商家と旅籠が揃っているのは二川だけということです。
【二本陣】には郷愁を感じる場所なのでしょう。
二川は江戸文化圏ですが、地元曰く「三河の文化が江戸文化となった」。言われてみれば確かにその通りです。
2015年、草津宿の掛け声で、東海道57次の人気投票(TKD57総選挙)があり二川は堂々の第一位・センターを獲得しました。
本命と目された草津は3位。当然トップを獲れると思っていたので結果に【草津】ってしまったに違いありません。
第二位は枚方宿。五六市の影響か大健闘。それより守口宿が第四位というのには驚きで思わず我が目を擦りました。
尤も宿場の雰囲気は文禄堤付近に少しあるだけなので、得票を伸ばしたのは安い割に美味しいものがあるとか、
人口の割に美人が多いとか別の要因の気がします。真相はともかく、守口宿もこれを機に活性化すれば良いですが…。

JR二川駅にある説明板

二川宿本陣資料館
1807~1870年まで馬場家が本陣職を務めた。宿泊は西国大名が多く、特に福岡藩黒田家は江戸期を通じ57回宿泊している。

本陣内部の雛飾り

同じく本陣内部 吊し雛が特徴。

昭和20~30年代の町屋の雛飾り

本陣にて
京雛(左)と江戸雛(右)、雛段の並びが逆。

京雛 持っているのは箒・塵取・熊手

これは江戸雛 持っている小道具が京雛と異なる。

本陣にある上段の間

本陣の釘隠し 模様は蝶の図案?

本陣脇の旅籠「清明屋」
これは江戸の旅人の復元。

旅籠の食事の再現

東にある商家駒屋
江戸期には米穀商・質屋を兼ねた田村家の経営

駒屋内部
これは供養の終わった雛人形の再雇用で演奏風景。

同じく百人一首風景

西駒屋
ここは今でも醸造業を営む

街道沿いの和菓子屋と喫茶店
宿場見学の後は、以前から気になっていた場所を訪問。
電車で東海道を上るときに豊橋を過ぎて暫くすると、左手の小高い山上に観音像が見えます。
寺伝によれば天平2年(730年)行基が全国行脚の途中に、1尺1寸の木造千手観音を彫り岩穴に祀ったのが岩屋観音の始まり。
天正十三年(1585年)の火災で観音堂は焼失、元文三年(1738年)になってようやく再建されました。
観音像はさらに遅れて明和二年(1765年)に江戸の講によって建立されましたが戦争末期に金属供出に合い、
戦後1950年に再び建立されるという、波乱万丈の沿革を辿りました。
これだけ不運が重なると御利益は【あ観音】と違うかと思いますが、どうでしょう。
かつて観音堂には六塔頭がありましたが、岩屋山麓にあった大岩寺のみが残り岩屋観音を管理することに。
その間、元和八年(1622年)には真言宗から曹洞宗へ改宗しています。
電車からだと近くに見えますが、歩くと結構な距離。
しかも傾斜が急で山というよりも岩を上るのでしんどいよりも危ない感じでした。
ようやく参拝を終えて御朱印をお願いしようとしましたが観音堂は無人。
説明では宿場にある大岩寺が管理しているという事で再度歩いて、ようやく拝受。西へ東へ歩き回って【も大岩】でした。

二川宿から西へ

ようやく観音様の下に到着
岩屋山78.2mの上に立つ。

頂上付近にて
正観音は2.9mで、覆いがなく濡れ仏と呼ばれる。

岩屋堂(観音堂)

大岩寺まで戻り御朱印を拝受

昼食は「うな広」にて
三河といえば鰻、味・価格ともお得、宿場と反対側にある。

二川郵便局 ; 二川宿本陣、市花・ツツジ
[参考書]
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