<コース> 夏の青春18きっぷ
JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR豊橋(10:11→10:22) → JR浜松(10:57→11:09) → JR掛川(11:35→11:57) → (天竜浜名湖鉄道) → 遠州森(12:24) → (駅レンタサイクル30分) → 小國神社 → 遠州森(14:16) → (天竜浜名湖鉄道) → 掛川(14:40) → 徒歩5分 → 掛川城 → JR掛川(15:07) → JR豊橋(16:31) → JR米原(18:39→18:47) → JR大阪(20:13)

掛川城遠景
小國神社参拝の後は掛川まで戻ることに。
在来線や新幹線からも見える掛川城は中遠の政治の中心。掛川城は
『遠江が応永から延徳(1394~1492年)の約1世紀間、守護斯波氏の支配下に置かれた際に、
家臣の鶴見氏三代に亘り砦が築かれたのが嚆矢。
明応5年(1496年)、今川氏親は遠江攻めに伴い、家臣朝比奈泰熙に
天王山の地に掛川城築城を命じ遠江支配の拠点とした。

駅から北へ直進し橋を渡る

お城の堀に架かる橋から

石段を上り城内へ

復元された城門

かつてあった四足門の説明
永禄11年(1568年)12月の武田信玄の駿河攻めで駿府城を追われた今川氏真は
掛川城に実を寄せた。しかし西からの徳川家康軍によって翌年掛川城は開城。
氏真と朝比奈泰朝は小田原の北条氏を頼り、掛川城は今川最後の城となった。
この時、家康が南の小笠山の頂から震天雷(いしびや)を仕掛けて城を壊そうとしたが、
霧が出て城を覆い隠した故事から、この城を雲霧(くもきり)城と呼ぶようになった。

本丸門の前面に配置された三日月堀

三日月堀の説明

城門を過ぎた場所に建つ太鼓櫓

太鼓櫓説明

天守閣前の顔ハメ

復元された天守閣
開城後は家康家臣の石川氏、豊臣系の山内一豊が入城し軍事用として改築した。
その後は、松平氏と移り、その後は太田氏が幕末まで藩主を勤めた。
天守閣跡は平成6年(1994年)、日本初の本格木造で復元された。』 とあります。

十露盤堀

十露盤堀説明

茶室から見た天守閣

茶室

茶室横の庭園
天守閣は復元ですが、御殿は安政2年(1855年)の再建。
城主の居所・政庁・諸役所を兼ねたもので城郭の御殿としては県内唯一だそうです。
加えて、三日月堀、算盤堀と言った珍しい形の堀も残ります。日本の城郭では堀は今一つ注目されませんが、
そのような箇所を見るにつけ、江戸城築城で有名な道灌の末裔だと再認識しました。

二の丸御殿入口

重文・二の丸御殿
文久元年(1861年)の再建。

掛川市マンホールカード 掛川城券売所にて配布

JR掛川駅スタンプ(JR東海静岡支社)
復元された掛川城をデザインした秀逸なものだが、今は劣化して撤去されたとかされないとか。
[参考書]
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<コース> 夏の青春18きっぷ
JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR豊橋(10:11→10:22) → JR浜松(10:57→11:09) → JR掛川(11:35→11:57) → (天竜浜名湖鉄道) → 遠州森(12:24) → (駅レンタサイクル30分) → 小國神社 → 遠州森(14:16)

小國神社(遠江国一之宮 式内社 旧国幣小社)
現在の日本の主要都市は近世城下町が起源。一方、国分寺・一之宮は
律令時代の国府が元になっているので、今の都市とは離れている事もしばしば。
遠江の主要な城下町は浜松ですが、国府は東海道を一宿東へ行った磐田。旧国分寺跡も残ります。
それでは一之宮はどこだろうと探すと、これが国府からとんでもなく離れた場所。
新幹線の駅のある掛川から第三セクターの天竜浜名湖鉄道に乗って25分。
遠州森駅で下車して更に山に向かって4㎞行った場所。

天竜浜名湖鉄道掛川駅にて
お茶とお城をデザインした車両。
何故、このような場所にと思いましたが、森町は秋葉街道が通り、
南アルプス(赤石山脈)山系からの清流が南に向かって流れるという恵まれた場所。
千年を超える寺社も多く、舞楽・祭も伝承され「遠州の小京都」と呼ばれるとか。
最寄りは無人の遠州一之宮駅ですが、有人の遠州森駅で下車してレンタサイクルを利用。
天竜浜名湖鉄道は気賀駅始め鉄道遺産とも言うべき駅舎が多いですが、ここもその一つ。
子供の頃は、このような駅舎を多く目にしましたが、今は絶滅危惧種で保護されています。

天浜線遠州森駅舎
小京都を意識した造りになっている。

文化財のプレート

駅舎内の待合室と改札
線路沿いから高速沿いに走り、最後は宮川に沿って北上。
遠州らしく御茶畑が目に入りますが、宮川沿いには洒落た食事処や土産店が…。
何でも一之宮の門前として明神通りと名付けられたとか。
山沿いとはいえ、一之宮の威力は大したものです。

道沿いから見える御茶畑

明神通りを行く
宮川に架かる「みそぎ橋」。向こうに見えるのは「お直り処 久米吉 宮前田楽」
小國神社(おくにじんじゃ)は、
『欽明天皇の十六年(555年)、二月十八日に本宮山に御神霊が出現し鎮斎されたのが嚆矢。
その後、都から勅使が差遣わされ、山麓6㎞の現在地に社殿を造営し正一位を授けられた。
文武天皇の大宝元年(701年)には勅使が奉幣され十二段の舞楽を奉奏。
その後、仁明・清和天皇と位階が加わり、醍醐天皇の時代に式内社となった。
後醍醐天皇の元弘・建武の変以来、勅使は絶えるが、神主が祭礼を執り行う。

神社入口へ到着

入口に建つ大鳥居

大鳥居の扁額

太鼓橋を渡り参道へ

勅使道杉並木
参道の遥か向こうに鳥居と拝殿が見える

参道左手に佇む「鉾執社」

「鉾執社」説明

参道左手にある事待池

池の説明

池に架かる森山焼の橋

橋の説明

神幸所

全國一宮等合殿社

殿社の説明

かつての御神木
社殿前の鳥居前にある。
元亀3年(1572年)、武田信玄の遠江攻めに際し、神主小國豊前重勝は
子息を人質として徳川家康に援軍を要請。
家康は御神霊を別所に移し、戦勝祈願を行った後、社殿に火を放つ戦法を取った。
徳川勢勝利の後、家康は天正3年(1575年)に本社、同11年(1583年)に拝殿・廻廊、
同13年(1585年)に楼門を再建。慶長8年(1603年)には社領590石の朱印を賜った。

拝殿前鳥居

正面から見た拝殿

拝殿前面の彫刻と組物

拝殿脇にある開運「打ち出の小槌」

境内にある家康公立あがり石
将軍綱吉の代には社殿改造、吉宗の代には400両の寄進と江戸時代を通じて将軍家の庇護を受けた。
明治6年には国幣小社に列せられるが、同15年の火災で本殿以下を悉く焼失する。
復興は官命で行われ、明治19年に完成。
遠江國一之宮として崇敬を受け今に至っている。』 とあります。
一之宮として現在まで威容を誇りますが、大きな転機は徳川家康に味方した事。
戦とはいえ伝統ある建造物を焼くとは酷い話ではありますが、
戦後はきちんと復興に尽力しています。建物よりも人であったのでしょう。
それが勝利に繋がった訳ですから、家康の戦略は正しかったと言えます。

回廊の向こうに見える本殿

本殿

拝殿前から見た社殿

社殿

大鳥居横の「ことまち横丁」
うどん・甘味処など4店舗が入っている。

小國神社略記

明神通りパンフ

小國神社御朱印
[参考書]
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日本の神社 52号 (久能山東照宮・小國神社・秋葉山本宮秋葉神社) [分冊百科] 新品価格 | ![]() |

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<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR磐田(9:07)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
JR磐田駅(9:36) → バス10分 → 長森(9:46) → 徒歩25分 → 行興寺 → 長森(11:57) → JR磐田(12:16)

行興寺(時宗遊行派) 別名:熊野寺
弥生も末の六日は、朗々とした曙の空を見ながら一路東海道を西へ。
この日の巡礼先は手持ちのガイドにも載っていませんが、
かつて駅で押印したスタンプの図柄に用いられていました。
普通は観光先で押印するものですが、押印したものから観光地を訪ねる逆バージョン。
最寄りの駅はJR豊田町ですが、そこから北へ5km程距離があるので、
JR磐田駅からJR浜松駅までの路線バスに乗車。
東海道五十三次の28番目と29番目を結ぶ路線ですが、
東海道本線が並行して走っているためバスは60分おき。
しかも停留所からは20分徒歩と予想外の運動になりました。

JR豊田町駅スタンプ(JR東海静岡支社印)

JR磐田駅前の大楠

霊犬・しっぺい太郎の石像
大楠の前に建つ。
池田と呼ばれる場所に建つのは熊野(ゆや)の長藤で有名な行興寺(ぎょうこうじ)。
寺伝に拠れば、
『この地域はもと池田荘と呼ばれた荘園。
庄司・藤原重徳夫妻の熊野信仰で生まれた娘・熊野(ゆや)が、
遠江守・平宗盛に見初められ都に上り寵愛を受けるが、
故郷の母親の病を知って帰国を願い出る。
宗盛は許さなかったが、熊野が清水の舞台で
「いかにせん、都の春は惜しけれど、慣れしあづまの花や散るらむ」
と歌い舞い踊った事で帰国を許された。
しかし帰国後、暫くして母親は亡くなり宗盛も壇ノ浦で戦死。
兄弟の重衡は鎌倉に護送される際に、この地で熊野に慰められたと伝わる。
熊野はこの地で尼になり母や平家一門の菩提を弔い生涯を過ごすが、
没後その庵が正応3年(1290年)に行興寺として開山。
本尊は阿弥陀如来であるが、熊野が信仰した十一面観音も保存されている。
境内には樹齢850年と伝わる長藤があるが、
これは熊野が母のために植えたと伝わる。』 とあります。

行興寺入口
山門と言うよりも関所と言った造り。

由緒記

県指定天然記念物「熊野の長藤」のうち1本

熊野の長藤の説明

境内の長藤
流石に花がないと言った状態。

白藤の棚から境内を望む
右奥が本堂。
ポスター写真で見る限り、最盛期には紫のカーテンが
境内を覆い尽くす感がありますが、藤の開花は1ヶ月以上先。
藤の蔓が棚を這っている姿しか見る事ができなかったので想像を巡らしました。
熊野御前の事は「平家物語」にも記されていますが、
人口に膾炙するようになったのは謡曲「熊野」の影響が大。
伝説的な内容ですが池田は中世から天竜川の渡しで栄えた場所なので、
平家の公達が【ぎょうこう】した史実もあり得る話です。
いかに寵愛を受けていたとはいえ、宗盛に帰国を願い出るなど
【清水の舞台から飛び降りる】気持ちだったでしょうか?
これは鶴岡八幡宮での静御前にも通じるものがあります。
源平合戦は男性中心の記載が多く、女性は時代に翻弄される
悲劇のヒロインといった印象を受けがちですが、
彼女たちも己を最大限にアピールしていたに違いありません。

境内にある熊野と母親の墓

熊野の長藤の説明書

行興寺御朱印
書置きを拝受。

行興寺の近くに建つ池田橋の跡の碑

池田の渡し「歴史風景館」
入館無料で写真や古地図を展示。

豊田町駅前郵便局 ; 天竜川、香りの博物館、熊野の長藤
[参考書]
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<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR横浜(6:13) → JR熱海(7:42→7:55) → (伊豆急行) → 伊豆稲取(9:00)
伊豆稲取 → 徒歩15分 → 吊るし雛の舘 → 済廣寺
【復路】伊豆稲取(15:09) → (伊豆急行) → JR熱海(16:14→16:21) → JR横浜(17:40)

吊るし雛の舘 入館¥300
弥生の二週目は、足を伸ばして伊豆半島へ。稲取は「つるし雛」発祥の地。
関西ではあまり見かけないので伊豆独自の風習かと思いましたが
酒田・柳川にもあるそうです。北前船の影響でしょうかね?
今では店で購入する事も多いですが、かつては各家庭での手作り。
勿論、雛祭りですから子供の成長を願う内容が多いですが、
他にもお金が貯まるような願いの飾りもあり、現実的です。
キンメダイの産地だけに金目のものに拘りがあるのでしょうか。
猿 → (災いが)去る、
梟 → 不苦労
といったお節料理の中身を連想する駄洒落が多く、
私も使おうかと思いますが、「吊るし上げ」を受けないように注意せねば。

伊豆急行伊豆稲取駅改札
今日はここからスタート。

伊豆稲取駅外観
なんとなくお雛様にも見える?

雛の館入口
駅から徒歩15分。温泉街の中にある。

雛の館玄関右にあるジャンボ吊るし飾り
4.5m、5000個だそうな!




これは庄内酒田でのつるし飾り
通称、傘福、大きな傘の下に吊るす。海産物が多い?

九州柳川のつるし飾り
通称、さげもん。毬が主か?

稲取つるし飾りのメインは桃
邪気を払い、桃が刀に通じると言う。作り易いので大量に吊るすのには便利。

子供三番叟
子供の祝いにはつきもの。

金目鯛
この地域の産物で、赤は邪気を払う。金目のものに恵まれますように?

申ぼぼ
厄が去るに由来。

子供の成長を願う吊るし飾り
草履(足が丈夫に)、亀(長寿)、巾着(金運)など。

梟(不苦労)と鶯(エエ声?)

犬は安産

兎の赤目は呪力があるとか
唯、赤目の兎はアルビノ系に限られるので、江戸期にはあったかどうか?因みに今の日本の白兎はイギリスのアナウサギの系統。

這い子人形

這い子人形(大)

金目鯛の骨の吊るし飾り
胸鰭付近の骨を集めたもの。

雛の館にある昭和2年のお雛様

昭和2年のお内裏様
雛祭を見たあとは漁港まで足を伸ばして昼食。丁度、キンメダイの釜めしが¥700。
土日祝日限定で12時までなので滑り込みセーフ。
高級魚で有名ですが、こんなリーズナブルな価格で頂けるのも地元だからでしょうか?
食事の後、町を散策しながら「むかい庵」「なぶらとと」と展示場を二ヵ所訪問。
全部で三ヵ所ですが、狭いエリアなので全てクリア。参加賞は出ないのでしょうか?

二つ目の展示場、むかい庵 ¥300
右おくにかすかに見えるのは伊豆大島、稲取からはジェット船で40分。

むかい庵の雛飾り

むかい庵の古式雛
平戸藩主の姫が鳥羽藩に嫁ぐ際に持参した。

貝合わせ

三番目の展示場、なぶらとと。¥100
レストランも併設。

なぶらととの展示

これは藤でできた吊るし飾り

道路脇にある銭洗

稲取漁港
土曜は漁がないのでのんびりしている。

船を繋いだとされる、もやい石。もあい石ではない!

お昼は稲取朝市会場にて金目鯛釜めし¥700
キンメのあら汁が無料で付く。~12時まで(土日祝)。

町役場前のモニュメント
駅に向かうと榧(かや)の大木が。下調べの段階では気付きませんでしたが
稲取は7000人の町に八カ寺があるそうで、そこは最も駅近の済廣寺。
大慈山済廣禅寺(だいじさんさいこうじ)は、
臨済宗建長寺派で如意輪観音を祀るお寺ですが、境内にある榧の木がパワースポットで有名。
樹齢750年、高さ18m、枝張り17mの巨木。
今でも多くの実がなるので、その生命力にあやかろうという事でしょう。
私も早速お参り、今回は巡礼はないと思い御朱印帳は持参しなかったので、書置きを拝受。
御本尊が朱で記載されていたのは雛祭期間限定だそう。とうとう御朱印も期間限定が登場。
聞く所では、香り付きの御朱印もあるようでした。榧の木があるから【香や】なのでしょうかね。
寺院には宝物もあり見所も多く、決してお寺が【榧の外】に置かれた訳ではないようです。
こうして今年に入って雛祭りは、中山・開成・伊東に続き四カ所訪問。
「五ケ所」目は果たしてどこになりますことやら…。

駅前にあるカヤの寺、済廣禅寺
樹齢750年とか!

かやの寺の御朱印
本尊が朱色なのは、雛祭り期間限定のためだとか!御朱印に期間限定ちゅうのも…。

稲取郵便局 ; 稲取港の漁船、ミカン、イシダイ、大島
河津郵便局 ; 今井浜海岸、大噴湯、ハナショウブ、マツ
[参考書]
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伊豆・駿河・遠州札所めぐり 御朱印を求めて歩く 静岡巡礼ルートガイド 新品価格 | ![]() |

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【往路】JR横浜(6:13) → JR沼津(8:05→8:08) → JR清水(8:50)
清水駅 → レンタサイクル → 龍華寺 → 鉄舟寺
【復路】JR静岡駅(17:34) → JR熱海(19:04→19:09) → JR横浜(20:31)

補陀落山 鉄舟寺(臨済宗)
龍華寺参拝後は少し北に向かい鉄舟寺へ。
補陀落山鉄舟寺(ふだらくさんてっしゅうじ)は、寺伝では
『元来、久能寺と言い久能山山頂にあった。
推古天皇の頃、国主・久能忠仁公により創建され、奈良朝の初期に行基菩薩が中興した。
武田信玄の駿河侵攻に際し、久能山頂に城が築かれたので現在地に移転した。
明治になり無住の廃寺となり衰退したが、山岡鉄舟はこれを惜しみ、今川貞山師を開山に迎え明治16年(1883年)に
再興を図った。
鉄舟は志半ばで没したが、彼の遺志は引き継がれ堂宇も完成。かつての名刹・久能寺は鉄舟寺として蘇った。』
とあります。
山岡鉄舟は幕府旗本。維新の際、勝海舟の命で共を一人連れて駿府の薩摩軍に乗り込み総大将の西郷隆盛と直談判。
江戸無血開城は事実上ここで決まりました。加えて将軍慶喜の助命も確約を得ます。
「金も命も名声も要らん、こげな男は扱いづらか!」とは西郷の鉄舟評。
「国滅びて忠臣出づ」とは『老子』の言でしたっけ? 尚、鉄舟を駿河まで送り届けたのが清水の次郎長でありました。
鉄舟の損得を除外視した考えが廃寺を【くのう】から救った訳で、筋の通った考えは直談判時と変わりがありません。
境内は質素ながら落ち着いた雰囲気。御朱印を貰おうとしましたが、関係者不在の為拝受できず。
こちらは次回を期して早々と【撤収】となりました。

本堂

鉄舟寺しおり
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清水駅 → レンタサイクル → 龍華寺

観富山 龍華寺(日蓮宗)
今年の夏の〆は、18きっぷで東海道の江尻(18番)へ。
江尻は今の清水。江尻の名前から連想されるように河口に栄えた港。
漁港というよりも貿易で港としては静岡市の中心。広重も駿河湾遠望で描いています。
駿河湾に突き出した三保の砂嘴が天然の良港を形成していますが、これは海流と土地の岩質に拠るものだとか。
清水と言えば次郎長ですが、彼の生家跡を過ぎて山裾を南下すると目に入るのが龍華寺。
観富山龍華寺(かんぷさんりゅうげじ)は、由緒記に拠ると、
『寛文10年(1670年)、日近(にっこん)上人が開基。上人は富士山を非常に好み霊峰富士の研究もしていたが、
この地から見える富士山が最も荘厳であるとして53歳の折に甲州身延の大野山本遠寺よりここに移り大野別院とした。
また東山天皇の帰依を受け、ここを皇室祈願寺とし観富山龍華寺と命名した。』
とあります。
要は富士山に惚れ込んだマニアックな坊さんの話ですが、寺まで移すのは大変。
日近上人は徳川家と縁戚で【じっこん】の間柄だった事から、紀伊頼宣、水戸頼房の二卿から寄進を受けて
本堂を建立させています。

正面から見た山門
山門より向こうは拝観料 ¥300。

境内の様子

行啓門

茅葺の本堂と庭園
視界の良い日は向こうに富士山が見渡せる。本堂は富士山を見立てたとか。

祖師堂から見た本堂、仙人掌、蘇鉄

蘇鉄と本堂

龍華寺天然記念物大仙人掌
樹齢300年で、根本は木化している。手前の小さいのは果実。一応食用になるらしいが…。
富士山好きが嵩じて自ら「観富園」という須弥山式の庭まで手掛ける始末となれば趣味の域を超えています。
金持ちの道楽と言ってしまえば身も蓋もありませんが、どうせなら後世まで伝わるものを残したのは立派と言えるでしょう。
「観富園」を造って人々に【還付】した事になりますかね。
境内には明治の文豪高山樗牛(ちょぎゅう)の墓も。山形出身の樗牛がここに縁があるのは転地療養で訪れた事が理由。
清見潟の景色を気に入った彼は死後の墓をここに指定したそうです。
樗牛とは「老子」にある役に立たない木と牛の事ですが、それゆえに大きくなったもの。
それを自身の号に選んだ樗牛には上人がここに寺を開いた事に共感したのかもしれません。

龍華寺大蘇鉄
堺の南宗寺に似た南蛮風な庭。

大蘇鉄の後ろ側
日本最大最古の雄株で推定樹齢一千百年。根回り6m、枝数58本。

大蘇鉄全景

鶴松(後方)と亀松(手前)

鶴亀松と観冨園

龍華寺観冨園(須弥山式庭園)
池を駿河湾に、背景を有度山に、本堂を富士山に見立てたとか。

観富園説明

本堂の部屋から観富園を眺める

本堂の欄間

本堂の天井画

祖師堂

龍華寺境内の高山樗牛像
ここの景色が気に入ったので、お墓もここにある。

龍華寺参観の栞

龍華寺御朱印
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【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR浜松(9:19)
レンタサイクル → 頭陀寺・鴨江寺
【復路】JR浜松(17:03) → JR豊橋(17:36→17:45) → JR大垣(19:14→19:29) → JR米原(20:05→20:18) → JR大阪(21:42)

甲江山 鴨江寺(高野山真言宗 別格本山)
2002年建立の仁王門
昼からは駅近くまで戻って鴨江寺(かもえじ)へ。甲江山鴨江寺は、縁起に拠れば
『大宝2年(702年)に行基が開山。鴨江の芋掘長者の願いに拠った。』
と言われます。
平安時代には比叡山の僧兵と合戦したり、平将門の乱に際しては朱雀天皇の調伏を勅されたりと政治的な動きをします。
室町期には鴨江城として南朝側に付いて闘っています。
その後も、徳川家康が善光寺如来を迎えたり、江戸時代には成田山新勝寺を祀るなどして遠州高野山として浸透。
特にお彼岸まいりと言えば「お鴨江さん」と言われる程になっています。
良く言えば宗派に拘らないと言えますが、寺の経営という面からは有効でしょう。
観光ガイドには載っておらず訪れる人も疎らなので、学校経営・仏教体験教室等で頑張って居られます。
不幸にして戦争の被害を受ける事が多かったので、復興に関しては人一倍敏感になるのでしょうか?
企業城下町だけのことはありますね。尤も人をカモにしては駄目ですが…。

中門と先に見える拝殿

拝殿の奥にある観音堂
本尊である聖観世音菩薩、善光寺如来、聖徳太子が祀られている。

落ち着いた雰囲気の大師堂
宗祖・弘法大師を祀る。

鴨江観音説明書

鴨江観音御朱印

浜松鴨江郵便局 ; 賀茂真淵、鴨江寺

浜松市マンホール蓋(河川用)
因みに浜松市鳥はツバメ

浜松市マンホール蓋

浜松市マンホールカード 配布場所はこちら
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【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR浜松(9:19)
レンタサイクル → 頭陀寺・鴨江寺
【復路】JR浜松(17:03) → JR豊橋(17:36→17:45) → JR大垣(19:14→19:29) → JR米原(20:05→20:18) → JR大阪(21:42)

青林山 頭陀寺(高野山真言宗)
お盆の帰阪ですが、途中下車して浜松へ。
家康ゆかりの出世城として有名ですが、今年は大河ドラマの影響で直虎一色。
歴史上の新たな人物にスポットを当てるのは【井伊】傾向ですが、一過性でなければ良いですが…。
浜松と言えば城と企業城下町。奥浜名湖周辺には古刹が多いですが、駅周辺では思い当たらず。
駅南に竜禅寺という地名があり、寺もあったので先ず参拝しましたがお盆のために不在でした。

竜禅寺山門

竜禅寺本堂
広い境内で地名にもなっている。
さて次を探していると郵便局の職員の方が、
「直虎関係で頭陀寺(ずだじ)と言うお寺がありますよ。」 との事。
「すだち」は聞いた事がありますが、「ずだじ」などと言う名は初耳。
取り敢えずレンタサイクルで回ると、大河の幟が目に入り目指すお寺を発見。

頭陀寺山門
青林山頭陀寺(せいりんさんずだじ)、縁起に拠れば、
『西暦680年頃、遠州灘で一人の漁師が網に掛かった瑠璃石の薬師像を祀った所、豊漁が続き、妻の病も全快した。
大宝3年(703年)に文武天皇の夢に遠江の薬師如来が現れ、帝の命を受けた圓空上人が遠州灘の漁師の話を天皇に奏上。
仏閣創建となった。』 とあります。
という訳で文武天皇の勅願で「青林山」の扁額も賜り、現存する浜松最古の寺となっています。
室町時代には今川氏の庇護で栄えますが、同氏の衰えと共に衰退。
後に幼少の事よりここに所縁のあった豊臣秀吉・徳川家康によって復興されました。
この付近は領主松下氏が居館を構え「頭陀寺城」とも呼ばれた場所。
松下之綱には信長に仕える前の木下藤吉郎が仕えています。
また一門の松下清景には幼少期の井伊直政が養子となり家康に謁見が叶ったと言われます。
浜松城だけではなく、頭陀寺も出世城の効果があったと言えますね。
そんな寺院も昭和20年の空襲で焼失、戦後復興します。寺院全体が新しい雰囲気なのはそのためでしょう。
そんな中で弘法大師像(難除大師)だけが難を逃れました。難除大師の名前は伊達ではなかったという事でしょう。

山門の「青林山」の扁額

由緒記

山門正面にある頭陀寺本堂
難除大師を安置している。

頭陀寺境内にある三公像。
左から、秀吉、家康、直政。いずれも14歳。秀吉はこの屋敷の松下氏に奉公した。

願掛三尊の脇にある大河直虎の幟

頭陀寺説明書

頭陀寺御朱印
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】JR大阪(6:33) → JR米原(8:01→8:03*) → JR大垣(8:37→8:40☆) → JR名古屋(9:14) → JR豊橋(10:09→10:22) → 浜松(10:57→11:10) → 藤枝(12:03)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
藤枝駅 → レンタサイクル20分 → 蓮華寺公園 → 鬼岩寺 → 藤枝駅(14:02)

楞厳山 鬼岩寺(真言宗)
藤枝は東海道22番目の宿ですが、律令時代から志太地域の中心として栄え役所が置かれた場所でもあります。
八幡太郎義家が神社に咲く藤を詠んだ事が名の由来とか。
江戸時代には譜代本多家田中藩の支配下で、全国でも珍しい円形の城。
晩年の家康がこの城で興津鯛の天婦羅を食べた事が死因になったと言われていますが、最近は否定される方向にあるようです。

バス通り商店街にある看板

田中城下屋敷
旧本丸の南東に所縁の建物を復元。

田中城二之堀跡

蓮華寺池公園の蓮
本多家の菩提寺は蓮華寺池傍の蓮生寺(浄土真宗)ですが、今回は街道から少し横に入った古刹へ。
楞厳山鬼岩寺(りょうごんさんきがんじ)は、蓮華池公園から山を隔てた反対側の麓にある寺。
縁起に拠れば、
『神亀3年(726年)、聖武天皇の勅願で行基が開山し、行基自作の聖観世音菩薩が本尊。
弘仁年間にここを訪れた弘法大師が付近の人々を苦しめていた鬼を岩屋に閉じ込めたので寺号となった。』
とあります。
境内の裏手には岩が広がっており、このような伝説ができたのでしょう。鬼の引っ掻いた岩が境内にあるのも御愛嬌です。
治承寿永年間には源頼朝により伽藍が整備され、先学時代には駿河守護の今川氏の庇護を受けますが、永禄11年の武田信玄の今川攻めで灰燼に帰しました。
慶長7年(1602年)になり伽藍が復興。かつての勢力を示すような広い敷地と堂宇が対照的でした。
御朱印は若い御住職が対応され、
「歴史は古いのですが、再建等で伽藍は新しいものしかないので…。」
と話されました。
この辺りの寺院の中心だと思いましたが、一帯は曹洞宗が【そうとうすう】あるとの事。栄枯盛衰はどこでもあるようです。

鬼岩寺遠景

左から不動堂(護摩堂)と本堂

不動堂近影
智証大師円珍作と言う大聖不動明王を祀る。

不動堂の扁額

護摩堂説明板

護摩堂から見た境内

弘法大師堂

鐘楼堂

梵鐘の天女の装飾

鬼の爪痕と腰掛岩

鬼かき石

行基菩薩腰掛岩

裏山に続く岩
伝説の鬼を封じた岩もこちらか?

鬼岩寺縁起

鬼岩寺御朱印
藤枝は街道沿いに商店街が並ぶ商人の町。鬼岩寺付近の地名は茶町。
茶畑がないのに不思議でしたが、郵便局で伺った話ではお茶の問屋が軒を連ねていたことに由来するそう。
生産者よりも販売者の方が利益も大きいでしょうから、町の活気のあるのにも納得です。

お寺の付近にあるお茶問屋

瀬戸川に架かる勝草橋

ここは戦国時代から伝わるクチナシで着色したおこわ「瀬戸の染飯」が名物。
「ソメイなら藤ではなくて桜やろ!」と突っ込みを入れたくなりますが、体調管理と保存食も兼ねた優れものだったようです。
大昔の話と思っていましたが、駅前「喜久屋」さんで作っていることが分かり購入。
1個¥130でしたので3個買いましたが、思ったより食べ応えがあり夕食が不要になりました。これなら旅人も喜んだ事でしょう。
今のコンビニ弁当もクチナシならぬ形無しです。

瀬戸の染飯を描いた浮世絵

「瀬戸の染飯」
駅前の喜久屋さんにて販売。

藤枝市マンホール蓋

藤枝市マンホールカード 配布場所はこちら

藤枝本町郵便局 ; 郷土博物館、天狗祭りの天狗面、市花・藤
藤枝茶町郵便局 ; 茶畑、茶娘、市花・藤

広幡郵便局 ; 旧東海道松並木、富士山
藤枝前島郵便局 ; 東海道藤枝宿の松並木、富士山、市花・藤
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【往路】JR横浜(7:00) → JR熱海(8:20→8:23) → JR沼津(8:41→8:44) → JR吉原(8:59→9:20) → (岳南鉄道) → 岳南原田(9:29) → 徒歩10分 → 永明寺 → 徒歩40分 → 吉原宿 → 徒歩50分 → JR吉原(12:20) → JR原(12:28) → 徒歩10分 → 松蔭寺 → JR原(13:36) → JR三島(13:52) → 三島せせらぎレンタサイクル20分 → 湧水群・三島大社
【復路】JR三島駅(17:12) → JR熱海(17:27→17:37) → JR横浜(18:46)

鵠林山 松蔭寺(臨済宗白隠派 大本山)
「駿河には過ぎたるものの二つあり、冨士のお山に原の白隠」
よくある「過ぎたるもの」シリーズですが、原宿(13番)は名僧白隠(はくいん)禅師が生まれた場所。
我が国禅宗の開祖は栄西と道元ですが、江戸時代に禅宗を大衆向けに広める功績があった人。
一説によると白隠なかりせば今のように禅宗が世間に広まることはなかったとか。教科書では習っていませんが、そうであればきちんと教えるべきでしょうね。

宿場を模したなまこ壁造りのJR原宿駅

原宿の東海道沿いにある高嶋酒造
絵は白隠が描く達磨像、「白隠正宗」は山岡鉄舟の命名。
白隠が得度し、後に住職を務めたのが鵠林山松陰寺(こくりんざんしょういんじ)。
寺伝では
『弘安2年(1279年)に天祥西堂が開創。鎌倉円覚寺の末寺となったが、その後中絶。江戸時代に興津清見寺の大瑞宗育が再興し妙心寺派に改宗した。宝永4年(1707年)に富士山の噴火で大破したのを再興したのが白隠である。』
とあります。
貞享2年(1685年)に原宿の長沢家に生まれた白隠は15歳で松陰寺にて得度。その後全国を行脚した後、享保2年(1717年)に33歳で松陰寺の住職になりました。
全国の修行僧を指導する傍ら、東海道を往来する人にも布教。彼は民衆にも分かるように仮名交じりの文章や絵を使って布教したので、その名は全国に知れ渡る事に。周辺には彼の書画が多く残っています。
停滞していた仏教を刷新する効果があったと思いますが、そのような考えに至るようになったのは間違いなく彼の才能。過ぎたるものと言われる十分な理由があります。

松陰寺山門

松蔭寺本堂
本堂横にあるのが「摺鉢松」

御朱印はこの寺務所で拝受

松蔭寺御朱印

白隠生誕の碑

沼津西郵便局 ; 歌川廣重「原の富士」、茶摘み、白隠禅師墓所
沼津西添郵便局 ; 白隠禅師画の達磨、すり鉢松、富士山
この日最後の三島(11宿)はかつての伊豆の国府。三嶋大社と柿田川湧水群で有名ですが、加えて浜松と並ぶ東海道の鰻の名所。冨士の伏流水で晒して「み」の引き「しま」ったのが特徴です。
三宿に共通するのは清冽な水に恵まれている事。私もここの水で心を洗ってから、再び現実に戻っていくことになりました。

JR三島駅南口
三島大社を模した造り。

日本の名水百選にも選ばれた柿田川湧水群
近くには行けず、高所から見る。

湧水ヵ所
砂を巻き上げながら湧くのが見える。雨が降って後、数年かけて濾過されるとか。

三嶋大社大鳥居
前が旧東海道で廣重も 『朝霧』 としてここを描いた。

三嶋大社本殿
伊豆国一之宮、頼朝が深く帰依したことでも知られる。

三嶋神社境内で食べた福太郎氷¥500
通常は福太郎餅だが、真夏なのでかき氷が付く。

鰻の街、三島
桜屋、すみの坊、うなよし がよく紹介される。

並丼、¥3000
土用丑の日ながら奇跡的に食べる事ができた。甘口、表面は少し硬め。

富士郵便局 ; 田子ノ浦港、船舶、富士山
三島郵便局 ; 楽寿園の小浜池、楽寿館、農兵節、富士山
【参考書】
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原宿については楽寿園の事に多くの頁を費やし、三島宿については廣重の『朝霧』と湧水との関係を記述している。
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
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大富山 永明寺(曹洞宗)
お江戸の原宿での研修翌日は駿河の国の原宿へ巡礼ですが、その前に一つ先の吉原へ。
吉原と聞くと時代劇の遊郭をすぐ思いつきますが、これは江戸の上野の郊外。この日訪れた吉原は東海道十四番目の宿、いくら江戸っ子といえどもここまで遊びに来る訳ではありません。
吉原宿は高波などの影響で、JR吉原駅付近から岳南鉄道吉原本町付近へと二度引っ越しをした宿場。そのため京へと下る際に富士山が左手に見える箇所があり、左富士の名勝で知られます。
四股名みたいですが道が曲がって居れば別段不思議ではない訳で、わざわざ述べる程とも思えません。他に名勝がなかったのでしょうか?
しかし、この辺りは北に霊峰富士が控える地。富士の伏流水の影響で豊富な水で知られます。富士と言えばパルプですが、これも水の御蔭。日本は水と安全はタダと言われた位なので、さして重要視されなかったのでしょう。

今日のスタート岳南鉄道吉原駅
1両編成の電車で30分間隔で運転。

吉原付近の水路
工業地帯だが、関西で言うと透明度は針江、醒ヶ井クラスか?
この日はJRから岳南鉄道に乗り岳南原田で下車。清流の流れる市内を少し歩くと永明寺。
大富山永明寺(だいふざんようめいじ)は、天平時代の756年に行基によって創設された古刹で、長きに亘り大富山金輪院と称した真言宗の寺。
文明年間の1472年に行之正順(ぎょうししょうじゅん)和尚により曹洞宗になり富金山永明寺と改名、明応の大地震で伽藍崩壊後は渓谷近くの現在地に移り、永正2年より大富山永明寺となりました。
その頃応仁の乱を避けた貴族・文人が今川氏を頼って京より来たので、駿河には今川文化が花開きました。永明寺も東山文化の影響下に滝を配した作庭を念頭に場所が選ばれたとあります。
ここは新富士溶岩の先端部に当たり、富士山深層の伏流水が豊富に湧出して滝になっている場所。【しんそう】は謎ですが、将軍家に縁続きの今川氏だけに【瀑布】を選んだかもしれません。
境内は1万3千坪を越えますが伽藍自体は新しい感じ。それよりも本堂裏手にあるのが「富士乱水の庭」と呼ばれる庭園。池や川が流れる庭は珍しくないですが、湧水が滝の様に流れるのは初見。東海屈指の回遊式庭園と呼ばれるのも頷けます。

庭園内の湧水
寺院でこのような清冽な水は珍しい。

永明寺「富士乱水の庭」
湧水の滝が音を立てて流れる。

永明寺御朱印
庭園の説明書きに御朱印を押印したもの
その後は吉原宿に戻って街道散策。明治の鉄道敷設の際には最初の吉原宿に駅を誘致したので岳南鉄道の吉原本町がかつての宿場に当たります。
昔の面影は少ないですが、清水次郎長が定宿とした旅館が残っており蕎麦屋も経営。そこで早目の昼食となりました。

吉原宿に唯一残る鯛屋旅館
1682年創業で今も現役。清水次郎長が定宿とした。

旅館玄関
今は手打ち蕎麦も営業。

鯛屋旅館で蕎麦の昼食

東海道(右の道路)から見る左富士(雲の中)
名勝ということであるが、道が曲がっているからそうなるわけで…。

東海道沿いにある平家越碑
富士川の戦いで、水鳥の羽音に驚き平家が都に逃げ帰ったという地。
【参考書】
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR静岡(8:06) → 静岡市レンタサイクル → 蓮永寺
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
【復路】JR静岡駅(17:34) → JR熱海(19:04→19:09) → JR横浜(20:31)
<お勧めビューポイント>
・臨済寺本堂(大方丈)と境内

大龍山臨済寺(臨済宗妙心寺派)
かつて室町時代は日本史でも人気が薄かった時代ですが、最近、応仁の乱や観応の擾乱関連の書籍が出て関心が集まるようになっています。
「今に続く日本の歴史が知りたければ応仁の乱以降を学べ、それ以前は異国の歴史である」と東洋史学者の内藤湖南も日本文化史研究で述べています。
静岡(駿府)は家康の御膝元として有名ですが、それ以前は今川氏の城下町。昼からは自転車を飛ばして賤機山麓にある臨済寺まで。
大龍山臨済寺(だいりゅうさんりんざいじ)は、今川氏親が出家した子の梅岳承芳(今川義元)の為に母親の別邸跡に創建した寺。当初は善得院と呼ばれましたが、天文5年(1536年)に義元の兄氏輝が葬られる時に彼の法名を採って臨済寺と改名、京都妙心寺の大休宗休が招かれて開山となり、弟子の太原崇孚(雪斎)が二世となります。後奈良天皇の師範であった大休は「勅東海最初禅林」の額を賜っています。
今の臨済寺は専門道場のため、境内は参拝できますが内部や庭の拝観は謝絶。5月19日(義元公命日)と10月15日(摩利支天祈祷会)のみ特別拝観ができるそうです。境内を歩くだけでしたが、綺麗に整えられた庭や仏殿を見るだけで、凛とした気が伝わってくるようです。
御朱印を御願いすると若い僧侶の方が快く引き受けて下さいましたが料金は取られませんでした。これも修行道場ならではでしょうか?

臨済時門前に到着
専門道場に相応しい堂々とした寺域。

臨済寺山門
仁王像は静岡浅間神社から移設されたもの。

山門の扁額「大龍山」は徳川慶喜の揮毫

門前の蓮池

蓮池越しに見た仏殿

平成9年建立の新仏殿
今川義元は当主氏親の子として生まれながら出家していましたが、兄氏輝の死後家督を巡る「花倉の乱」で弟を破り家督を継承。臨済寺太原雪斎は軍事顧問として今川氏の政治・軍事・外交に手腕を発揮、今川義元は東海一の弓取りと呼ばれました。
桶狭間の敗北と公家文化に浸ったという事で軟弱なイメージがありますが、戦国大名としての最盛期も義元の時代。今川家に人質時代の家康も雪斎から書と兵法を学んだとありますから、江戸幕府260年の礎はこの時期に培われたとも言えるでしょう。
弘治元年(1555年)、雪斎60歳にて没。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで義元戦死。その後の今川氏は急速に衰え、武田信玄の駿河侵攻で今川文化も灰燼に帰します。その後、駿河を領有した徳川家康によって伽藍は復興され江戸時代を通じて徳川家からの庇護を受けました。幼年時代に受けた返礼の意味もあったのでしょう。
一流の政治家となるには自分だけでなく一流のブレーンが要ると言う典型です。かつては歴代首相の政治指南役と呼ばれた人がいたそうですが、今はそのような人はいない様です。【太原】壮語する人はいますが、それだけでは【しなん】の業でしょうね。

本堂(大方丈)へと続く石段

石段を上った先の境内

重文・本堂(大方丈)
17世紀再建の入母屋造で杮葺き。扁額は「勅東海最初禅林」、賽銭箱には三つ葉葵が。

大書院
内部に竹千代(家康の幼名)御手習いの間がある。

臨済寺御朱印

静岡北安東郵便局 ; 重文・臨済寺本堂、富士山
【参考書】
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静岡出身で戦国時代の第一人者の手になる最新の今川義元評伝
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR静岡(8:06) → 静岡市レンタサイクル → 蓮永寺 *向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
<お勧めビューポイント>
・蓮永寺本堂
・清水寺本堂からの眺め

貞松山蓮永寺(日蓮宗)
道路に面した山門
夏の青春18きっぷ初日は静岡へ。静岡は徳川家康が晩年を過ごした場所で江戸時代も一時期を除いて天領でした。
東海道19番目の宿場、鉄道唱歌でも『駿州一の大都会』と歌われています。江戸と尾張の中間点である事が重視されたのでしょうか。
政令指定都市になって以降、行政区が途轍もなく広がった静岡市ですが、この日は葵区へ。区の名前からして家康との縁が伺えます。巡礼先は駅からそれなりに距離がありますが、駅前レンタサイクルが充実しているので利用する事に…。
駅から北東へ向かい北街道に沿って進むと道路沿いに大きな山門が。
貞松山蓮永寺(ていしょうざんれんえいじ)は、文永12年(1275年)日蓮の高弟日持上人によって庵原郡松野郷(富士川町)に開かれた永精寺(えいしょうじ)が嚆矢。
家康の側室お万の方(養珠院)は家康に願い出て永精寺を駿河城鎮護のためにここに移し蓮永寺と改名しました。元和元年(1615年)の事です。
お万の方は上総大滝城主正木氏の娘で、後に伊豆河津の笹原城主蔭山氏の養女となり家康に仕え二人の男子を生みました。
後に上の子が家康第十子頼宣(紀州徳川家初代)、
下の子が第十一子頼房(水戸徳川家初代)
となるので、彼女は御三家の内、二家の生母。水戸黄門こと徳川光圀は彼女の孫に当たります。
お万の方は養家の蔭山氏の影響を受けた熱心な日蓮宗信者で、特に身延山久遠寺の日遠上人に帰依しています。一時期、宗論を巡って日遠が家康から死罪に処せられそうになった折には我が身に変えてその命を救った事もありました。
天下人の家康に逆らうのは勇気が要りますし側室であったならば己の地位に安住してそこまでする必要はなかったとは思いますが、彼女なりの信念があったのでしょう。家康も自分に反対したお万を処罰していません。
家康没後のお万の方は髪を下ろして養珠院と号して、ここ蓮永寺で家康の菩提を弔います。最晩年は紀州公頼宣の元で平穏に暮らし七十七歳で没しました。
寺域は徳川の庇護を受けただけあり広大でしたが、観光地化はしていない様子。
お詣りの後、御朱印を頂くために庫裏に伺うと、年配の御住職が布団から起き上がられて、
「暑さで体調がすぐれないので横になっています。御朱印は書置きがそこにあるので持ち帰って下さい。」との事。
休んで居られる所に邪魔した訳ですが、きちんとした対応をして頂いて却ってこちらが恐縮した次第です。

蓮永寺仁王門

庫裏と寺務所
御朱印はここで拝受。

鐘楼

本堂

蓮永寺御朱印
参拝の後、駅に戻る途中の山麓に「音羽山清水寺」の道標が。
京都の清水と全く同じではないかと、気になったので立ち寄り。永禄2年(15559年)に今川氏輝の遺命で創建されたそうで、本堂からの駿府の眺めが清水からの京都の眺めに似ているからの命名とありました。
私も木立の中に端正な佇まいの本堂から町を見ましたが、景色は兎も角、観光客の数は雲泥の差。しかし瞑想にふけるのには適した環境です。
戦国大名の文化といえば
① 越前の朝倉文化
② 山口の大内文化
③ 駿府の今川文化
の3つですが、いずれも都をモデルとしています。清水寺もそんな今川氏の都への郷愁がそのような名を付けたのかもしれません。

音羽山清水寺(真言宗)
京都の清水に眺めが似ていることからの命名だが、観光客は殆どいない。寺も留守で御朱印は拝受できず。

清水寺説明板

市内に唯一残る郷倉(ごうぐら)
江戸期に米を保存するために造られたもので、これは天保4年(1833年)の再建。

静岡横田郵便局 ; 清水寺観音堂、千手観音、富士山
静岡沓谷郵便局 ; 蓮永寺仁王門、銀杏、富士山
【参考書】
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<コース> 春の青春18きっぷ
【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR浜松(9:19→9:23*) → JR新所原(9:47→10:19) → (天竜浜名湖鉄道) → 気賀(10:58)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
天竜浜名湖鉄道気賀駅 → レンタサイクル15分 → 長楽寺 → レンタサイクル20分 → 気賀関所跡 → 気賀駅(13:17) → 新所原(13:58→14:14) → JR新居町(14:23) → 新居関所跡
【復路】JR新居町(17:01) → JR浜松駅(17:16→17:20) → JR熱海(19:52→20:03) → JR横浜(21:17)

光岩山 長楽寺(真言宗)
春の青春18きっぷ最終日は遠州浜名湖へ。
気賀駅からレンタサイクルで15分、山間にあり庵主様が守られる静かな堂宇に到着。
浜名湖の北にある光岩山長楽寺は平安初期の大同年間に弘法大師によって開かれた古刹。
この地の北に陽光を受けて光る巨石を発見し、霊地として堂を建てたのが始まりとされます。
その後、今川、徳川の信仰を受け繁栄、25haの寺領には七堂伽藍が立ち並びました。
境内裏の雑木林を開き梅を植林、本来は実を食用にするためでしたが、
いまではその梅林によって人を惹き付ける場所となっています。
それよりもここは小堀遠州作の「満天星(ドウダン)の庭」で有名。満天星をドウダンと読むとは初めて知りました。
裏山中腹の光岩を借景に約2千㎡の斜面に200株余りの満天星が植えられ、
客殿の屋根越しに遠く浜名湖を望むことができる名勝。
客殿前の池は浜名湖の風景を凝縮させたとも言われます。まさに【ドウダン】と言わんばかりの遠州の極致と言えます。
尚、遠州とはいかにも浜松に関係がありそうですが、これは彼の役職に由来するので直接的な関係はありません。
拝観を終えた後、表に出ようとすると掘りたてのタケノコが山積みに。
和辻;「この辺りで採れるのですか?」
庵主;「裏の竹林のものです。良かったら掘って行かれては。鶴嘴もここにありますよ」
和辻;「ここで売って居られるのですか」
庵主;「いいえ、食べきれないので欲しい方には掘って頂いて持ち帰って貰っています。」
これはラッキーとは思いましたが、これから次の場所へ行くので残念ながらタケノコは断念しました。
春先に自分で掘ったタケノコを食べる贅沢はなかなか味わえないので、次に行く時に期待することにしました。
これもタケノコ生活と言うのでしょうかね?

天竜浜名湖鉄道(旧国鉄二俣線)気賀駅
文化財指定

山門へ到着
山門と土塀は室町期の作

扁額は隠元禅師の高弟独湛和尚筆

境内の様子
姫街道らしく清楚な庵主さんが対応。

護摩堂

長楽寺の上段の間
ここからの庭の眺めが絶品。

満天星(どうだんつつじ)の庭

小堀遠州作庭
裏山の中腹にある光る岩がかつての本堂の場所。

裏山の竹林から見た長楽寺庭園
快晴の日には本堂奥には浜名湖が望める。

長楽寺説明書

長楽寺御朱印
駅に戻り昼食の後は気賀関所跡へ。かつての関所から離れた場所での再現ですが、雰囲気は十分伝わります。
浜名湖の南を走る東海道に対し、北を回るのが姫街道。
規模が小さいことに加え、新居の関所は女性に対して書類審査や水着審査ならぬ身体検査が厳しく、
女性がこっちの気賀関所を利用したことに拠ります。却って東海道の客が減り【ひめー】を挙げたとか。
続いて東海道に戻り新居宿(31番)へ。東海道では箱根と並ぶ二大関所で、こちらは再現ではなく1855年当時の姿を伝えます。
関所で取り締まったのは所謂『入り鉄砲に出女』ですが効果の面では【ドウダン】でしょうか?
関ヶ原の際の細川ガラシャは失敗。
ルネサンスでは我が子を人質にした敵に
「愚か者!子供くらいこれから幾らでも生んで見せる」
と啖呵を切ってスカートを翻したカテリーナ・スフォルツァの例もあり人質というのは戦時では効果が薄い気がします。
開府時は兎も角、50~100年経てば方針を見直すべきだったのでしょうが、
一度決めたことを止めるのが難しいのは今も昔も変わらんようでした。

気賀の老舗の「清水屋」にて。¥2,700
このあたりは関東・関西風が混在している。ちなみにここは関東風で背開き・蒸す。

気賀関所の復元へ

こちらは姫街道にある気賀関所
但し、役場に復元したもの。

気賀宿の食事再現

気賀関所あらための図

文化財登録された気賀駅プラットホーム
姫街道から東海道へ向かう。

新居関所

新居関所
昔は今切の渡しの船がこの水路まで入って来た。

新居関所全景
間口1間、奥行き7間

関所役人の図

関所あらための図
気賀と余り変わらない?

新居にある旅籠紀伊国屋
元禄年間から昭和30年代まで旅館として営業した。

当時の食事の再現
新居は当時から鰻の蒲焼が名産であった。

新居宿にある小松楼(芸者置屋兼小料理屋)
昭和20年代まで営業。芸妓は15~16名。

小松楼2階
当時の芸妓達の写真

小松楼2階の座敷

細江郵便局 ; 気賀関所、姫様道中、都田川堤の桜
新居郵便局 ; 新居関所跡、浜名の長橋、松
[参考書]
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<コース> 春の青春18きっぷ
【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR三島(7:02→7:22) → 伊豆箱根鉄道駿豆線 → 修善寺(8:00→11:29) → 伊豆箱根鉄道駿豆線 → 三島(12:03))
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
【復路】三島駅 → レンタサイクル →三嶋大社 → JR三島(17:12) → JR熱海(17:27→17:37) → JR横浜(18:46)

三嶋大社(伊豆國一之宮 伊豆國総社)
修善寺から電車で三島まで戻り市内散策。
三嶋大社は伊豆國一之宮。伊豆半島の中心として周辺にはかつて国府が置かれていました。
神社の由来は古く、天武天皇の時代に記録があります。
場所的には伊豆半島の付け根にあり全体を抑える要衝だったこともあるでしょうが、
富士山の豊富な伏流水が湧水しておりそれを利用できたことも大きかったと思います。
境内に大きな池があるのもその影響でしょうね。
平安末期には伊豆に流された源頼朝が源氏再興を祈願、それ以降武士の崇拝を受けることになります。
いまでも市内で「頼朝公祭り」が開催されており頼朝公に扮した行列が町を巡行。
有名人も扮するそうで、アド街ック天国で三島を取り上げた際には、
俳優の神保悟志さんは『僕の場合は一世一代の親孝行でしたね。』
CHA-CHAの勝俣州和さんは『僕の時は沿道から笑い声がありましたね』
と楽しそうに話して居られました。鎌倉に次ぐ頼朝所縁の地と言えそうです。
街も三嶋大社の門前として発展、市名にもなり江戸時代には東海道の十一番目の宿場として栄えました。
現在の国道一号線は神社のかなり南を走りますが、東海道は神社の大鳥居前を走っており廣重の浮世絵でも朝霧の中、
鳥居前の街道を行く駕篭が描かれています。画中の鳥居と灯籠の位置が間違っていという指摘もあるようですが…。
三島の由来については伊豆七島の関連が言われるそうですが、湧水の関係から美島が三島に転化したのではないかと
勝手な想像をしています。
豊富な伏流水を利用した山葵や、鰻も有名。東海道では浜松が有名ですが三島の方が好みという人もいるとか。
早速と行きたいところですが昼食は修善寺で済み。鰻のようにするりと手から抜けてしまいました。

三嶋大社前。
前を走るのは旧東海道

三嶋大社本殿

三嶋大社境内の枝垂れ桜


三嶋大社名物福太郎餅¥200

三嶋大社説明書

三嶋大社御朱印

三島大社町郵便局 ; 三嶋大社、富士山
三島中央町郵便局 ; 富士山、湧水、三島宿場灯籠
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【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR三島(7:02→7:22) → 伊豆箱根鉄道駿豆線 → 修善寺(8:00)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
伊豆箱根鉄道修善寺駅 → 徒歩20分 → 修禅寺

福地山 修禅萬安禅寺(曹洞宗)
朝8:30の様子。
春休み青春18きっぷで伊豆修善寺の修禅寺へ巡礼。
空海が手にした独鈷で温泉を掘り当てたのが始まり。
温泉が【独鈷】にあるか分かるとは凄い能力ですが「いっぽんどっこ」といえば水前寺、
日本独鈷の湯といえば修善寺と言う位有名になっています。
40年近く前に家族で来た時は随分山奥にある印象でしたが、温泉街からすぐそこでした。

巡礼のスタートは三島から

弘法大師が掘り当てた独鈷(とっこ)の湯
桂川で病気の父を洗う少年に感動して温泉を探り当てたという伊豆最古の温泉。

独鈷の湯は何故か立ち入り禁止

虎渓橋付近からの修善寺温泉街

修善寺温泉の旅館 湯回廊菊屋

温泉旅館五葉館

桂川沿いにある新井旅館(国の登録文化財)

桂橋からの眺め

竹林から桂橋へと続く道

竹林の小道
中央にあるのは竹製の円形ベンチ。カップルは何を話しているのか【孟宗竹】?

修禅寺山門へ到着
修善寺は大同二年(807年)空海により創建、
最初真言宗でしたが建治元年(1275年)に建長寺開山の蘭渓道隆が来住して臨済宗に。
その後一時衰退していましたが伊豆国を収めた北条早雲によって再興され曹洞宗に改められました。
次号も当初は柱谷山寺、鎌倉時代に修禅寺と変わります。
宗派も寺号も節操がないようですが乱世に生き残るためにはそれくらいの柔軟性は必要だったのでしょう。
地名は修善寺と漢字表記が異なりますが、読みは同じ。鎌倉の浄明寺のように寺号に遠慮したからでしょうか?
鎌倉時代は頼朝の弟範頼、息子の頼家がこの地に幽閉され殺害。
源氏の悲劇の舞台となり、岡本綺堂の『修禅寺物語』がそのイメージを広げるのに拍車をかけました。
源氏も北条も【より家】を良くしようとする意図があったのでしょうが、歴史的【弘法】に関わりがある所です。
温泉街の明るさとは裏腹のイメージがあるのは歴史的なものでしょうか。
頼朝が兄弟を冷遇したのは有名ですが、政治家に非情は付き物とはいえ彼の直系が3代で滅ぶ遠因ともなったと言えます。
三国志の曹操にも同じような話があるので度を過ぎたのは考え物。
家族関係が上手く【修禅】できなかったのが悔やまれます。

明治16年再建の本堂

修禅寺境内の桜

修禅寺の鐘楼

修禅寺御朱印

指月殿
虎渓橋を渡った所にあり、北条政子が23歳で亡くなった息子頼家の菩提を弔うため建立した経堂。

指月殿に祀られる木造釈迦如来坐像

指月殿右後方にある頼家墓所
元禄16年(1704年)の500回忌に当たり修禅寺住職が建立。

説明板

修善寺温泉街は蕎麦屋が軒を連ねる

お昼は修善寺駅で椎茸蕎麦¥450

鉄道むすめ「修善寺まきの」がお見送り

修善寺郵便局 ; 富士山、キャンプ、温泉マーク
修善寺温泉郵便局 ; 修禅寺、独鈷の湯
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【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR浜松(9:19)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
JR浜松駅 → レンタサイクル → 三方ヶ原古戦場 → 浜松城 → JR浜松駅(17:00)
【復路】JR浜松駅(17:30) → JR熱海(20:14→20:17) → JR横浜(21:31)

浜松城天守閣
江戸時代は譜代大名が入った。水野忠邦もその一人。
桜も各地で満開を迎えている様子。桜の名所といえばお城なので、未訪の浜松城へ。
徳川家康が青春時代を過ごし、天下人への足掛かりとなったため出世城とも呼ばれます。
最終的には天下を取った訳ですが、途中結構負け戦も経験しています。
その代表が三方ヶ原の戦いで、武田信玄にクソミソに負けて、浜松城へ逃げ帰るときには脱糞もしたとか。
三方ヶ原から城までは10㎞。
自転車でもきつい位ですから、敗者には途轍もなく長い道のりだったのではないでしょうか?
しかし、帰路でお腹が空いたので茶店で小豆餅を買ったり農家に入って粥を所望するなど、意外と冷静な面も見せています。
尚、茶店付近は「小豆餅」「銭取」の字が残り、粥を振る舞った農家は「小粥」の苗字を賜りました。
その後にも、城近くの犀ヶ崖で武田勢に夜襲を掛け損害を与えていますから、やられっ放しではなかったようです。
この負け戦が家康を一回り大きくし、家臣団の団結を強めた訳ですから、何が幸いするか分かりません。
駅から古戦場往復は20㎞。幹線沿いとはいえ、食事処もなさそうでしたが、偶然にも浜松名物の店があり、そこで休憩。
小粥に比べると高額でしたが、レンタサイクルでの移動が【味方が腹】になったのではないかとの見方です。

三方ヶ原脇を通る姫街道の松並木
浜松(29宿)~御油(34宿)の間の脇街道。女性が多く通ったのでこう呼ばれる。

姫街道の説明板

三方ヶ原古戦場跡
周囲は霊園になっている

三方ヶ原古戦場碑
揮毫は徳川宗家恒孝氏

三方ヶ原から浜松城へ行く途中にある犀ヶ崖古戦場跡
この谷に布の橋を架け武田軍を誘き寄せて落としたとか。この辺の字も布橋として残る。

古戦場の碑

城南にある家康公鎧掛松
三方ヶ原の合戦から帰還した際に鎧を掛けたと伝わる。

城内にある家康公像
右手に持つのは羊歯印。

浜松城遠景

天守閣上から見た天守門
天守門は140年振りに復元。

天守門と桜

お昼は「うな吉」にて ¥3,200
焼き方は関西風で、お店の人の話では、浜松は関東風と関西風が錯綜しているらしい。

浜松市マンホール蓋 何種類かあるうちの1種。

浜松市マンホールカード 配布場所はこちら

浜松葵西郵便局 ; 姫街道の松並木、赤松・黒松、姫
浜松北郵便局 ; 鰻の外枠に姫街道の松並木、遠州大念仏
花川郵便局 ; 花川運動公園のテニス風景、姫街道の松並木、三方ヶ原合戦の兵士
浜松三方原郵便局 ; 三方ヶ原合戦の徳川家康、武田信玄、古戦場の碑、根洗の松
[参考書]
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【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR富士(7:29→7:45) → JR身延(9:01)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
身延駅(9:08) → 山梨交通バス → 久遠寺(9:20→9:45) → 山梨交通バス → 身延駅(9:57) → JR身延(10:33) → JR下部温泉(10:45→12:11) → JR西富士宮(13:30)→ 徒歩15分 → 富士浅間神社 → 徒歩10分 → JR富士宮駅
【復路】JR富士宮駅(16:42) → JR富士(17:00→17:03) → JR熱海(17:42→17:51) → JR横浜(19:16)

富士山本宮浅間大社(駿河國一之宮)
午後は身延線で富士宮に戻り、富士山本宮浅間大社に御参り。
全国に1300余ある浅間大社の本社。大宮司は代々富士氏が務め「日本三大宮司」の一つとされています。
浅間とは古では活火山の事だそうで、富士山を御神体とするのでこの名がつけられたのでしょう。
竹取物語にも登場する位有名ですが、それはその形が優雅で周囲に高い山がなく孤立して聳えている事が神々しく
人に畏敬の念を抱かせたのでしょう。
御祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)ですが、かつては浅間大神と呼ばれていました。
奥宮は富士山山頂で本宮と奥宮がこれほど離れている例は他にはないのではないでしょうか?
創建については十一代垂仁天皇の御代と言われますが、「富士山の山霊を鎮めるために大同一年(806年)に建立された」
というのが確からしい所。古代では噴火の度に朝廷より使者が遣わされたと言います。
その怒りを鎮めるために位を授けるそうですが、どれだけ効果があったものか。
現在の本殿は関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が慶長九年(1604年)に本殿・社殿をはじめ30余棟に及ぶ大造営を行ったもの。
一富士二鷹三茄子と言う位ですから、富士山に力を入れたのは当然でしょう。
その甲斐あっていまは重要文化財兼世界遺産となっています。
境内には湧玉池といって富士山の天然水が境内に湧き出している場所があります。
かつて訪れた阿蘇神社でも境内には水が湧き出しており、神社が水の権利を握って周辺を支配していたのではと想像します。
快晴に恵まれ、桜と富士山いう日本的な景色に振れた1日でしたが、同時に金と水の重要性を再認識した日でもありました。

西鳥居

楼門

重文・富士山本宮浅間大社本殿(拝殿)
徳川家康により1604年に造営

本殿の浅間造
三間社流造の二階を持つ檜皮葺建造物で高さ13m。

浅間大社境内

拝殿横の桜

湧玉池

湧玉池説明板

池の透明度

富士山を背景に
富士山に降った雨や雪は時間をかけ土中で濾過され湧水となる


湧玉池から市内に流れる神田川

湧玉池交差点より富士山を望む

富士山本宮浅間大社説明書

浅間大社御朱印

富士宮郵便局 ; 重文・富士山本宮浅間神社本殿、桜、富士山
富士宮宮町郵便局 ; 重文・富士山本宮浅間神社本殿、桜、富士山
[参考書]
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【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR袋井(9:00)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
JR袋井駅 → レンタサイクル20分 → 油山寺 → レンタサイクル20分 → 可睡斎→ JR袋井(15:26) → JR磐田(15:32) → 徒歩10分 → 国分寺跡
【復路】JR磐田駅(17:42) → JR熱海(20:14→20:17) → JR横浜(21:31)

国分寺を模した造りのJR磐田駅 手前は七重の塔のミニチュア。
袋井に続き磐田(見付宿28番)へ。ここは磐田→見付→磐田と名前が3度変遷しています。
国府が置かれた奈良時代以降、遠江の中心。
国分寺も当然ここに建てられましたが、弘仁十年(819年)に焼失。いまは礎石を残すのみです。
出土した瓦の様式などから750年代に建立されたと考えられているそうで七重塔や七堂伽藍が聳える壮大な造りだったようです。
伝家の【法灯】がないのが残念ですが、遺構が整備されているのがせめてもの救いでしょうか。
時代は下って戦国時代、家康もここに城を築き始めました。
が、織田の援軍が来るときに天竜川が邪魔になるので川の西岸の浜松に変えたとか。
それ以来遠江の中心は浜松に移り今に至っています。川の流れが歴史の流れを変えた訳ですね。

遠江国分寺跡
いまは公園となっている。

東海道沿いにある脇本陣門

地元で造船業に貢献した旧赤松家

旧見付学校(明治8年竣工)

旧見付学校は現存する日本最古の木造擬洋風校舎
5階建で最上階は太鼓が置かれていた。

校舎内の授業風景の再現
地元に伝わるのが悉平(しっぺい)太郎伝説。
毎年若い娘の人身御供を要求する化け物が
「信濃の光前寺、悉平太郎には知らせるな!」
と話すのを聞いた旅の僧が、光前寺の飼い犬である悉平太郎を見つけて連れ帰り妖怪を退治。
妖怪は3匹の大きな狒狒だったとか。
日本に狒狒が居るはずもなく、山賊が娘を連れ去らって困っていた時、信濃の犬を使って探し出し捕まえたのが真相でしょうか?
いずれにせよ悪事を行うと必ず「しっぺい返し」を受けるという教訓。
光前寺では霊犬早太郎となっていますが、元は同じ話。
いまではゆるキャラにも起用されていますが、ひこにゃんの域に届くのにはもう少し時間がかかりそうです。

JR磐田駅でしっぺい君がお出迎え
なんで赤褌をしてるんでしょうか?

磐田市マンホール蓋

磐田市マンホールカード 配布場所はこちら

磐田見付郵便局 ; 旧見付学校、霊犬・しっぺい太郎、桶ヶ谷沼のトンボ
磐田中泉郵便局 ; 特別史跡・遠江国分寺跡、サッカーボール、トンボ
[参考書]
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国分寺の誕生: 古代日本の国家プロジェクト (歴史文化ライブラリー) 新品価格 | ![]() |

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国分寺跡を巡る ~色なき風に誘われて 僧寺・尼寺全国一三七ヶ所の記憶~ 新品価格 | ![]() |

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徳川家康による浜松城築城の経緯について記述している
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JR袋井駅 → レンタサイクル20分 → 油山寺 → レンタサイクル20分 → 可睡斎

万松山 可睡斎(曹洞宗)
油山寺を巡礼して駅に行こうとしたら、3月下旬にも拘らず可睡斎で雛祭をしていると言う噂が。
今年3回目ですがこれは見ないといけないと思い、裏山沿いに走り門前へ到着。
万松山可睡斎(ばんしょうざんかすいさい)は応永八年(1401年)道元七代の法孫の恕仲天誾(じょちゅうてんざん)禅師が開山。
総持寺の直末寺院で、明治以降は秋葉山の神仏分離に伴って三尺坊大権現が奥の院に遷座、
火防霊場も兼ねるようになりました。
可睡斎とはちょっと変わった名前。元は東陽軒という名前でしたが、後に可睡斎と改めます。
家康に関わるその由来については余りにも有名ですが、敢えて記すと、
『11世の仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚は、若き頃、今川に人質となっていた松平竹千代を養育・指導した人。
のちに竹千代を葛籠に隠して背負い三河の岡崎城までの脱出をした強者でもありました。
後に竹千代(徳川家康)が浜松城主となり和尚を城に招き四方山話をしていると、ついつい居眠り。
周囲の者が起こそうとするのを家康は押し留め「睡る可し」と喜んだとか。
それ以後、和尚は城中で可睡和尚と呼ばれるようになり、寺名も可睡斎と改めた』
となっています。
嘘のような本当の話ですが、居眠りしたのは疲れたのか話が詰まらなかったかでしょう。
笑って許した家康も偉いですが寺名を変えた和尚も偉い。
【僧正】効果ですかね。『徒然草』の「堀池の僧正」に聞いて欲しい話です。
そんな家康の所縁もあって江戸時代は十万石の待遇、住職は代々僧録となり、
寺は伊豆・駿河・遠江・三河に【そうとすう】ある曹洞宗の寺を支配下に置くことになりました。
等膳和尚も以て瞑す可ですね。

総門

石段の先にある山門

聖観音を祀る本堂

御真殿
全国にある秋葉山の総本山。秋葉原もその末だが、AKB48がここでコンサートをしたかは?

活人剣
日清講和記念碑

日本一の大東司(トイレ)
境内は10万坪と広大で牡丹・紅葉等の動植物が多く見られます。
また様々な堂宇もあって雛祭にはその広い堂宇を利用している感じでした。
伺った所では檀家や地元の人から供養を頼まれたものを昨年から展示するようになったとか。
寺としてもお代を寄進されるのは大歓迎ですが、焼却してダイオキシンを出すのは憚られるのでしょう。
場所を取り準備に面倒な雛壇は敬遠されがちですが、こうしてお寺で展示すれば町興しの目玉。
各地でも雛人形の展示が増えると予想されます。
可睡斎は牡丹、可睡の杜は百合で有名なので芍薬があれば完璧ですが、雛人形を見た事で良しとすべきでしょうか。
今年はこれで3回目、一気に3歳齢をとった感じです。

可睡斎瑞龍閣に展示中の雛人形 これだけで1500体程。

瑞龍閣の天井画 龍の爪は3本。

日本庭園を背景に


これは明治期の雛人形 京雛の並び。




可睡斎室内牡丹園
冷蔵に入れて見たい直前に外に出し開花させるとか。


可睡斎 説明書その1

可睡斎 説明書その2

可睡斎 説明書その3

可睡斎御朱印

袋井郵便局 ; 遠州三名刹・法多、油山寺、可睡斎の堂塔
袋井可睡口郵便局 ; 市花・牡丹、天狗の団扇、護国塔
[参考書]
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JR袋井駅 → レンタサイクル20分 → 油山寺

医王山 薬王院 油山寺(真言宗智山派)
弥生も末の六日は、朗々とした曙の空を見ながら一路東海道を西へ。
袋井は東海道五十三次の27番目の宿場。ド真ん中が強調されがちですが、名刹遠州三山でも有名です。
21年前の正月に二山を巡礼したので、今回は行けなかった油山寺へお参り。
駅からは車で10分程ですが、歩くと1時間。駅前観光案内所で訊くと自転車屋さんがレンタサイクルを扱っているとの情報。
そこで店に行き、開店を待ってスタート。

宿場の案内板

東海道沿いにある休憩所
医王山薬王院油山寺(いおうざんやくおういんゆざんじ)は寺伝に拠れば、
天平勝宝年間(749~757年)に行基によって開創。
寺名のように薬師如来信仰で知られます。
ここの山中から油が湧き出たのが名前の由来とありますが、地形的にここから石油が出たのでしょうか?
それよりも境内にある滝水が硼酸を含み眼病の治療に用いられ、湯山寺が油山寺に変化したという方が
より信憑性があるように思います。
奈良時代に眼を患って居られた孝謙天皇が油山寺に病気平癒を祈願され全快したので、勅願寺に。
その時の御製
・世を照らす 瑠璃の光の ともし火は 油の山の 峯の月かけ
によって瑠璃滝と呼ばれるようになったとか。平癒に【貢献】したからでしょう。
境内は五十町歩(50ha)ありますが、まず立派な山門がお出迎え。
これは明治五年に掛川城大手門を移築したもので、万治二年(1659年)築の前後庇付入母屋造。
明治になって城が無用となっての移築でしょうが、万治二年だから卍に移したとは考えられず、
廃仏毀釈の中で、神社ではなくよく寺院に移したものだと思います。
御蔭で貴重な文化遺産が守られました。

重文・山門
堂々としているが元掛川城大手門を移築

石段の先に見える礼拝門

礼拝門を通り境内に出る

室生殿不動尊

横須賀城より寄進の書院
境内の奥には三重塔と薬師堂があり、三重塔は鎌倉時代に源頼朝の発願。
その後、元亀元年(1572年)兵火で焼失し、久野城主によって天正から慶長にかけて36年間で再建されました。
他にも書院始め建造物が照葉樹林の中にあって【逍遥】するにはよさ【しょうよう】!といった感じです。
滝水による眼病治療だけでなく、自然を眺めることで目の疲れもなくすことができそうです。

桃山時代様式の三重塔

三重塔を見ながら更に奥へ

薬師本堂
孝謙女帝がこの寺で眼病全快したと伝わる

油山寺 説明書

油山寺 御朱印

駅前にて袋井のB級グルメの「たまごふわふわ」のすいーつバージョン ¥200

袋井郵便局 ; 遠州三名刹・法多、油山寺、可睡斎の堂塔
袋井駅前郵便局 ; 重文・油山寺三重塔、重文・山門
[参考書]
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*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
JR清水駅 → レンタサイクル40分 → 久能山東照宮 → レンタサイクル25分 → 鉄舟寺 → レンタサイクル20分 → JR清水駅
【復路】JR清水駅(16:17) → JR熱海(17:27→17:37) → JR横浜(18:47)

久能山東照宮(別格官幣社)
静岡市内といっても広いですが、主要な見所は訪問した気で居りました。
でも久能山東照宮が未だだったと判明。東照宮へはJR静岡から日本平までバスで行きロープウェイに乗るのが常道ですが、
電車との連携が悪く、東照宮行きの路線バスはあっても本数が少ない。
こうなれば最後の綱あるのみ、という訳で三保の松原観光で利用したレンタサイクルでの【未訪】の東照宮行きを【敢行】。
JR清水駅前から港沿いに南下し右折して駿河湾沿いに走ること45分で東照宮下へ到着。

一ノ鳥居から巡礼スタート
久能山東照宮はその名の通り久能山山頂に鎮座。
平安初期には久能寺が建立されましたが、武田信玄の駿府攻めの時に村松の地に移転させ代わって久能山城を築城。
武田氏が滅亡した1582年以後は徳川家康が所有しましたが、家康は元和二年(1616年)に没。
遺言により城は廃止され東照宮と墓がつくられましたが、『一周忌が過ぎたら日光に移せ』 という遺言に従って、
再度日光東照宮が造営されるという目まぐるしさ。
一年で改葬するならば造営する必要もないとは思いますが、そこは家康の事。
大名家への経済負担や庶民の雇用確保を見越していたに違いありません。
階段下に立つと神社は遥か上、1159段の石段は「いちいちごくろう」と言われるそうですが、
体力のない人には【医師団】について貰わないと駄目ですね。
『人の世は重き荷を持って長き道を行くが如し云々』
は家康の言ですが、この石段を上ることでその【苦悩】を体験するとは思いませんでした。
この神社は海側の鳥居から参拝するのが正統なお参りになるようですが、交通の便とも相俟って観光客は疎らでした。

このような石段をひたすら登る

途中から見た駿河湾

一ノ門に到着

門衛所付近の桜 奥はロープウェイ乗り場。

重文・楼門(勅額御門) 元和三年(1617年)の建造。

楼門の扁額「東照大権現」は後水尾天皇の宸筆

徳川家康の手形

唐門前から鳥居と楼門を望む

鳥居横の五重塔跡
徳川家光の建立に拠るが明治六年の神仏分離で取り払われ今は礎石を残すのみ。後ろの朝鮮蘇鉄は駿府城本丸より移植したもの。

唐灯篭の後ろにある唐門

重文・唐門

唐門下より
東照宮に到着後は極彩色の神殿を拝観、途中ロープウェイが到着するとどっと人が増えました。
やはりこちらがメインのようです。日光といい久能山と言い、このような極彩色の建造物は関西には稀な印象。
公家文化と武家文化の違いと見るか、庶民の眼を意識したかしないかに拠るのか、感じ方は夫々でしょう。
唯、当時の技術の集大成であることには誰も異論はないでしょう。

国宝・拝殿

左から見た拝殿

右から見た拝殿

唐門の側面

唐門扉部分の彫刻

唐門垂木部の装飾

拝殿の彫刻

拝殿の彫刻近影 「司馬温公の甕割り」
北宋の政治家司馬光が幼少の頃、誤って大甕に落ちた子供を救うために咄嗟の機転で石を投げて甕を割って助けた故事に因む。

拝殿の唐獅子

社殿内にある大蘇鉄

透塀と桜

重文・神庫

本殿を過ぎて神廟に向かう

神廟
本殿裏手50mの所にある徳川家康公の墓所で、御遺命により西向き。石塔は高さ5.5m、周囲8m。

神廟横にある有名な遺訓

久能山東照宮 説明書(拝観券)

久能山東照宮御朱印
この辺りは南斜面を利用して石垣イチゴの栽培が盛んだと途中農家の方に教えて頂きました。
イチゴ狩りの看板も至る所に見られます。折角なので東照宮下の食堂でイチゴパフェとイチゴジュースで一息。
イチゴはビタミンCが豊富なため思ったよりも酸味が強い印象、「良い、ごっくん(1159)」と頂きました。

一ノ鳥居前の「かどや」にて一服

イチゴジュースとパフェ
ジュースは滅多にお目に掛らないので文字通り「イチゴ一会」

駿河湾沿いの南向き斜面を利用したイチゴ栽培

石垣イチゴの栽培の様子
これは二段栽培で三段の所もあるとか。石垣が太陽で温まるのを利用している。偶然、農家の方が不要なイチゴを処分しておられたのでお願いして中を見学。盗みに入ったのではない。
久能山参拝の後は移転した久能寺へ。推古天皇の頃、久能忠仁が創建した古刹ですが廃仏毀釈で衰退。
しかし山岡鉄舟が地元の有志と協力して資金を集め再興。以後、鉄舟寺と呼ばれる事に。
国宝や重文も保有する寺院ですが生憎関係者不在。御朱印は後日にして早々と【撤収】とはなりました。

鉄舟寺

鉄舟寺本堂

境内にある山岡鉄舟像

久能郵便局 ; 重文・東照宮社殿、石段、富士山、石垣イチゴ
[参考書]
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【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR浜松(9:19)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
JR浜松駅 → 遠鉄バス舘山寺線30(9:34) → 舘山寺営業所(10:21) → 徒歩5分 → 舘山寺 → 舘山寺営業所(11:15) → JR浜松駅(12:05) → 遠鉄バス奥山線45(12:15) → 奥山(13:16) → 徒歩5分 → 方広寺 → 遠鉄バス奥山線45(15:19) → 石岡(15:38) → 徒歩10分 → 宝林寺 → 石岡(16:28) → JR浜松駅(17:16)
【復路】JR浜松駅(17:30) → JR熱海(20:14→20:17) → JR横浜(21:31)

初山 宝林寺(黄檗宗)
方広寺参拝の後は一路帰宅の予定でしたが、貰ったこの付近のパンフレットに湖北五山宝林寺と。
ガイドブックにも記載がないですが写真を見ると趣のある堂宇のようで、帰宅途中に北区で下車。
初山 宝林寺は、江戸初期の寛文四年(1664年)に旗本金指近藤家二代目当主、登之助貞用の招きにより
明国の僧独湛禅師によって開設された黄檗宗寺院。
以降、金指と気賀の両近藤家の菩提寺としてまた遠州地方の黄檗文化の中心として栄えたとあります。
関西人にとって黄檗宗と言えば萬福寺と普茶料理。
萬福寺もそうですが建造物には崩し卍などの明朝風様式が使われています。
境内にも蘇鉄が植えてありどこか異国風の感じを受けるのはそのためでしょう。
明王朝は1644年に李自成により滅亡。
その後、満州族の清王朝が続きますが、明の遺臣の中には異民族の支配を潔くせず、反乱・亡命した人々も大勢居たようです。
清朝も支配の一貫として『髪を留める者は首を留めず』と辮髪を強制するなど政治が落ち着くまでには時間がかかりました。
黄檗宗開祖の隠元禅師も日本に亡命した一人ですが、一説では日本の力で明王朝の再興を図ろうとしたとか。
唯、幕府はその申し出を受けず清国と干戈を交えるには至りませんでした。
明の遺臣として台湾を拠点に復明を目指していた国姓爺鄭成功の一族も結局は清王朝の軍門に下ります。
漢民族として異民族支配は受け入れ難いものがあったことは理解できますが、明王朝の命運は最早尽きていました。
幕府の基礎も固まり始めた矢先、対外的には【清朝】を期した訳ですが、当時の為政者の先見の明が日本を救ったとも言えます。

山門
初山の扁額は黄檗宗萬福寺から最初に分かれた寺に由来か。

重文・仏殿
寛文七年(1667年)に建立された中国明朝様式を伝える建築物。

仏殿の扁額
正面に釈迦三尊像、左右の厨子には達磨大師像、武帝像を祀る。宇治の萬福寺と同じ様式である。

重文・方丈
住職の起居堂として、また雲水達を指導する禅問答の場として正徳六年(1716年)に建立。中央に開山独湛禅師の等身大木造を祀る。

方丈から仏殿を望む

報恩堂
総ての恩に報いるために独湛禅師が建立。正面に宗祖隠元禅師の木造を祀る。

初山 宝林禅寺 説明書

宝林寺御朱印 書置きを拝受。
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*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
JR浜松駅 → 遠鉄バス舘山寺線30(9:34) → 舘山寺営業所(10:21) → 徒歩5分 → 舘山寺 → 舘山寺営業所(11:15) → JR浜松駅(12:05) → 遠鉄バス奥山線45(12:15) → 奥山(13:16) → 徒歩5分 → 方広寺

深奥山 方広萬寿禅寺(臨済宗方広寺派)
舘山寺に続いて方広寺へ。
地図上の直線距離で見ると5~6㎞程度ですが、共にバスの終着点で途中に浜名湖があるので、
浜松駅まで戻って再度バスで60分奥山下車。時間も距離も大幅にロスしました。
山中のバス終点が奥山とはそのままですが、寺伝によると、
『この地の豪族奥山朝藤を開基、後醍醐天皇皇子の満良親王(無文元選禅師)を開山として建徳二年(1371年)に建立された』
とあり人名由来のようです。
開山の際に面白い話が伝わっています。
『裏山に住む山神が 「俺の住む場所に寺を建てるのはまかりならん。」 と言ってきたので、禅師は山神と問答をする事に。
結果は禅師が勝ち負けた山神は頭を剃る事になります。
けれど余りの痛さに山神が途中で剃るのを止めたので、以来その神様を半僧坊と呼ぶようになった。』
たがが髪の事で随分と軟弱な神様ですが、その神様は本堂の奥に祀られているとか。
境内は広く伽藍は多いですが、多くは大火に会い明治以降の建立。七堂菩薩堂のみが応永八年(1401年)の建築でした。

バスを降りると正面にこれが

最初に通る総門(黒門)

山門(赤門)

参道にある五百羅漢

本坊へ近づく

本堂へはこの亀背橋を通る

亀背橋全景

奥山半僧坊方広寺への道

方広寺本堂 扁額は山岡鉄舟

開山堂

境内遠景

半僧坊真殿にある昇り龍と下り龍
一木彫りで工匠岩五郎の作。

本堂内
昼は過ぎましたが、坊内で名物「精進うな重」を頂き栄養補給。
噂には聴いていましたが、見た目は蒲焼そっくり。浜松に来て鰻をスルーする訳にはいきません。
肉食を禁じられた僧職にある人が工夫を重ねた逸品です。
これなら【装飾】も綺麗ですし【草食】系の人にも好まれるのではないでしょうか?
その昔、琵琶湖を近き淡海、浜名湖を遠き淡海と呼んでいたそうですが、どちらも広く湖の北側に古刹が鎮座するのも類似。
この辺り引佐(ひなさ)の中心は井伊谷(いいのや)付近。平安末に地頭に任命された井伊家が代々治めました。
平成29年の大河の主役井伊直虎はその末裔の女地頭。女性なのに直虎とは不思議ですが【たいが】なので致し方ありません。
井伊直政はその養子、徳川四天王として家康に仕え彦根城主となります。
浜名湖の北で育った直政が再び琵琶湖の北に封じられるのも何かの縁でしょう。
琵琶湖の神は、身の丈を越えた男を滅ぼすと言われ、大友皇子、藤原仲麻呂、織田信長すべて非業の死を遂げますが、
井伊家は現在まで続きます。『トップにならずとも【井伊谷】』 という態度が家を存続させた原動力だったのでしょう。
No.2に徹した武将のNo.1としてもう少し脚光を浴びても良い気がします。

精進うな重 ¥1296
海苔(皮)と豆腐・牛蒡・山芋で鰻の雰囲気を出している。

大本山方広寺半僧坊総本殿 説明書

方広寺半僧坊御朱印

井伊谷郵便局 ; 県無形文化財・横尾歌舞伎、ツツジ、ギフチョウ
奥山郵便局 ; 半僧坊大権現、方広寺三重塔、ミカン
[参考書]
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【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR浜松(9:19)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
JR浜松駅 → 遠鉄バス舘山寺線30(9:34) → 舘山寺営業所(10:21) → 徒歩5分 → 舘山寺 → 舘山寺営業所(11:15) → JR浜松駅(12:05)

秋葉山舘山寺(曹洞宗)
春の彼岸になったので東海道を一路西に遠州へ。
舘山寺は浜名湖東岸にある温泉地で遊園地もあります。バスも頻繁に運行されていて浜松から行ける近場のレジャー施設。
しかし元来は810年に空海に拠って開創された真言宗の古刹の名前、舘山中腹に建立したのでそのまま寺名になったようです。
温泉を控えた場所なので弘法大師のお眼鏡に叶ったのでしょう。
平安末期に荒廃していた寺院を文治三年(1187年)に源頼朝が再興。
江戸期には東海道の繁栄もあって栄えますが、明治の廃仏毀釈で廃寺。
ようやく明治23年になり再興されて曹洞宗になったとあります。
場所的に主要街道が通っていることもあって湖の波と政治の波をもろにかぶった寺院。
秋葉山の末寺という事ですが、波がかかるようだと防火に御利益はありそうに思うのですが…。
訪れてみると寺院は崖にへばりつく感じで湖から眺めるのが正統なお参りに。
観光客もそれなりにいましたがこれは温泉街の影響でしょうか。
・湖東城外舘山寺 湖畔嬌声至客船

本堂から浜名湖を望む

舘山寺沖にある鶏冠岩と奥浜名

奥浜名湖

舘山寺御朱印

舘山寺郵便局 ; 舘山寺ロープウェー、浜名湖
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