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埴生護國八幡宮
木曽義仲の名を一躍有名にしたのが、世に言う倶利伽羅合戦。
最寄りの石川県の倶利伽羅駅は無人ですが、有人の津幡駅(石川)、
石動駅(富山県)には関係したモニュメントがあります。

倶利伽羅合戦が描かれたJR石動駅スタンプ
『寿永2年(1183年)5月、信濃国で挙兵した木曽義仲と、それを迎え撃つため北上した
平維盛が砺波山に於いて激突。世に言う倶利伽羅峠の戦いである。
この時、義仲は埴生八幡宮に戦勝祈願文を奉納。夜陰に乗じ、鬨の声をあげ
五百頭の牛の角に燃えさかる松明を付けて平家軍目掛けて突入。
不意を突かれた平家の軍勢は、慌てふためき十余丈の倶利伽羅谷へ雪崩のように落ち込んでいった。
これが世に名高い奇襲作戦「火牛の計」である。』 とあります。

護国八幡宮由緒

埴生八幡宮と木曽義仲

埴生八幡宮と木曽義仲
頂点を極めた平家を見事に打ち破った事もそうですが、より印象深いのはその戦法。
しかしそれには先達があって、中国戦国時代の斉の田単の火牛の計が基になっています。
唯、『史記』に描かれているその戦法は、牛の角には刀剣、焚火は尾に括り付けて放ったとあり、
少し違っています。義仲なりに戦法を変えたとも言えますが、獣は本能的に火を怖がるもの。
角に松明を括り付けたら暴れて制御できない可能性が高いとは、生物学者一般の説です。
『平家物語』と『史記』のコラボと言ったら良いでしょうが、もし討って出ない持久戦ならば
「蝸牛の計」となったでしょう。

日本一の大きさを誇る源(木曽)義仲騎馬像
昭和58年(1983年)源平倶利伽羅合戦八百年祭事業として建立。

騎馬像脇の八百年祭奉賛の石碑

拝殿内陣の甲冑姿の巴御前
倶利伽羅峠で平家を坂落としした義仲ですが、上洛以降の義仲は自身が坂を転げ落ちる事に。
最終的には従兄弟の源義経・範頼の軍に攻められ近江の粟津で戦死。
倶利伽羅合戦から僅か一年後、享年31歳でした。まるで花火の様な一生ですが、
家臣の四天王や愛妾の巴御前が付き従った事は、彼の人柄に拠るのでしょう。
四天王は討死しましたが、巴御前は義仲の切なる願いで落ち延び、
越中礪波の福光で戦死した義仲等の菩提を弔って91歳の長命を保ったと言われます。

一の鳥居の左にある倶利伽羅源平の郷 埴生口の庭

中央に聳える大欅

大欅の横の義仲の松
多分に伝説的ですがドラマチックな生涯です。地元では「大河ドラマに…」との声が挙がって居ますが、
「50回分をどうやって持たせるかが問題ですね。」と言うのが大きなネックのようです。
尚、最終的な勝者となった源頼朝は子供の代で断絶。
一方、31歳で夭折した義仲の裔は木曽の地で延々と続き18代目の木曾義昌は
信長・秀吉・家康に仕え、最終的には千葉の旭で大名となりました。
旭は朝日将軍からの命名とか。先祖の仇を子孫が討った事になるでしょうか?

義仲の松に隣接する巴の松

義仲と巴の松の由来

埴生口の館内にて
義仲と巴のパネルと火牛像。
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埴生護國八幡宮
煩悩が消えないまま石段を上って、上の広場に鎮座するのが八幡宮社殿。
埴生護國八幡宮(はにゅうごこくはちまんぐう)は、宮縁起に拠れば、
『奈良時代の養老年間に宇佐八幡宮の御分霊を勧請したのが嚆矢。
天平時代には越中の国守であった大伴家持が祈願したと伝えられる。
平安時代後期には、埴生の地は石清水八幡宮の荘園であった。

拝殿正面

由緒記

拝殿への入口

拝殿に掲げられた扁額
平安時代の末、寿永2年(1183年)5月、木曽義仲は埴生に陣をとり、
倶利伽羅山に二倍の軍勢を布く平維盛の大軍と決戦するに当たり、
当社に戦勝を祈願。その結果、大勝利を納めた。
この事は、平家物語、源平盛衰記、謡曲木曾など、多くの古典文学の中に語られている。

拝殿向拝下から内陣へ

入口からの眺め

拝殿内陣
左右には木曽義仲と巴御前の劇画が。
戦国時代には、武門、武将が篤い信仰を寄せ、武田信玄、佐々成政、遊佐慶親などの
祈願や社領の寄進が続いた。
江戸時代には、加賀藩より現在の社殿が寄進され、また時折々の祈願が寄せられている。
尚、「護國」の名は江戸時代初めに加賀藩より奉られたものとされる。
明治元年、神仏分離令に拠って、僧形八幡神像一体を埴生の医王院に遷座した。

拝殿に続く幣殿

埴生護国八幡宮説明書

八幡宮で販売されている関連冊子 各¥300

埴生八幡宮御朱印
書置きを購入 ¥300
社殿は奥から本殿・釣殿・幣殿・拝殿と続き桃山から江戸初期にかけての建造。
大正13年に社殿全部が国宝指定を受け、戦後は国指定重要文化財となる。
本殿は慶長5年(1600年)に前田利長が大聖寺へ出陣の際に祈願し、帰陣の後、寄進。
釣殿は慶長16年(1611年)、前田利長が高岡在城の折、病気平癒を祈願して寄進。
幣殿・拝殿は元和8年(1622年)に前田利常夫人天徳院の産後平癒祈願のため改造寄進を約し、
正保3年(1646年)に完成したものである。』 とあります。

社殿の並び
左から本殿・釣殿・幣殿・拝殿。

重文・社殿の解説

各社殿の説明

社殿概略図

幣殿と拝殿

本殿と釣殿
奈良時代に宇佐八幡宮から勧請された古社とはいえ、当社が一躍知られるようになったのは
平安末期の治承寿永の内乱。信濃から北陸道に出た木曽義仲がここで祈願した事に拠ります。
八幡宮のパンフの冒頭にも 「木曽義仲公祈願所」 とあります。
結果として義仲は倶利伽羅峠の戦いで勝利。平家を追って都に入る事ができました。
参道や境内にはその後、寄進された参道、灯籠、狛犬等が多くありますが、
これも義仲の武運に肖ろうとした武士が奉納したもの。
中には医者も見られますが、これも病魔に勝つと言う意向でしょう。

社殿右に立つ寄進された石灯籠

石灯籠の基部に彫られた寄進者名

木曽義仲願書石碑

本殿左手に建つ芭蕉の門人・各務支考の句碑
・白鳩の 木末に涼し 神の御意

拝殿西側にある宝物館
残念ながら閉館中。

宝物説明板
京の都では、その振舞いで評判を下げた義仲ですが、戦上手と言う点、
己に忠実に生きた点で、人気があるようです。松尾芭蕉の義仲贔屓は良く知られていますね。
その意味では、当社興隆の基礎を築いたと言えましょうか。

旧社務所
宝物殿から西脇参道を下った場所に建つ。

旧社務所から更に階段を降りた場所にある宮司宅
義仲石像の奥にある。
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埴生護國八幡宮
バス時刻に恵まれたため、高岡駅に戻ったのは14時過ぎ。
ここで巡礼を終わったのでは、越中まで来た甲斐がないというもの。
そこであいの風とやま鉄道で金沢方面へ移動。
下車したのは県境の石動(いするぎ)ですが、時刻は昼過ぎでした。
石動の社寺は駅の北と南に分かれますが、この日は南に在る一社へ。
2022年の大河ドラマにも関りがある事に拠る参拝。
徒歩圏内ですが、陽が落ちる時刻を考慮して駅観光案内所でレンタサイクル。
ものの10分で鳥居前へ到着。

一の鳥居の扁額
八幡宮の八の文字は鳩で記載されている。

二の鳥居前に到着
埴生護國八幡宮(はにゅうごこくはちまんぐう)は、
『手水鉢に注ぐ水は鳩清水と呼ばれ水源を倶利伽羅山中の幽邃境「鳩清水」の滝に発し、
3㎞の山側を経てここに至る。今から800年の昔、木曽義仲が当社に祈願した折、
白鳩の飛来があり、その案内で源氏勢が清水を得たとする霊水である。
昭和6年(1931年)、文化財社殿の防火用水として水道管で引水され飲料も可能。
「全国の名水百選」「とやまの名水五十五選」の一つに選ばれている。

二の鳥居脇の無人拝受所

拝受所手前の鳩清水

鳩清水説明

清水は龍の口から
清水に続くのは無人札所と一対の石灯篭で、石灯篭は埴生出身、金沢在住であった
江戸末期の眼科医・科学者であった松田東英の寄進に拠るものである。
二の鳥居を潜ると正面に境内への石段がある。
これも戦国時代の蓮沼城主(越中守護代)遊佐慶親の寄進で、県下の福光の桑山石を使用。
かつては煩悩を消して神に近付く意味から百八段であったが、改修を経て今は百三段になっている。

二の鳥居に続く階段

護国八幡宮由緒

年期の入った石の狛犬

同上

石段の先に見える社殿
石段を上ると上り口に一対、途中に一対の狛犬があるが、上り口の方は相当に古色を帯びており、
昭和58年寄進の途中のものと対照的である。
また石段の左右には御神木の杉があり、半ば左側のものは推定樹齢400年。
境内では最も大きい杉である。
石段を上った先には左右に広葉杉(こうようざん)があり、杉とは書くが葉は杉とは異なる独特の形。
中国原産で江戸末期以降、社寺に植えられた。』 とあります。

階段左手の御神木

右手の御神木
入口である一の鳥居から二の鳥居までは平坦な参道で、そこから境内までが急な石段。
その手前に授与品場と呼ぶ無人札所があってお守り等を販売。
石段を上って参拝できない人のための設備でしょうか?
清水はその石段の手前に湧出していますが、地形的に見て扇状地の端から水が出ているようなものでしょう。
木曽義仲が祈願した折に白鳩が飛来したという伝ですが、鳩は八幡宮の使者。
源氏の白と八幡宮の鳩で勝利のゲン担ぎをしたに違いありません。
私も鳩清水で休憩、乾いた喉には一服の清涼剤でした。
その後は、神木に囲まれた石段を上りながら精神を清涼にして参拝する事になります。

階段途中から二の鳥居を振り返る

これが「広葉杉」か?

広葉杉の葉
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氣多大社(越中国一宮 式内社 旧県社) 大伴神社全景
重要文化財の本殿の周辺には参集殿・御輿殿・拝受所が続きますが、
一番高台に鎮座するのが大伴家持を祀った大伴神社。
また神社から見下ろす場所には彼の顕彰碑も建っています。

社殿右手前に建つ参集殿

社殿左手の御輿殿

大伴神社に続く参道脇の拝受所
人気はなく使用されている様子はなし。
『家持は越中に赴任した翌年の夏、立夏にホトトギスが鳴かないのをきっかけに
都と全く異なる越中の風土を本格的に体験する事になった。
「この思いを都の人に伝えたい。」と思った家持は、越中を代表する「二上山」
「布勢の水海」「立山」と言う三つの景観を「越中三賦」と呼ばれる大作に纏め上げた。
この家持の思いを偲び、顕彰碑の脇には「越中三賦」を象った石が配されている。

鳥居の奥に鎮座する大伴神社

大伴神社本殿

大伴神社由緒
摩滅の上、解説もないので、内容は分からず。
「立山の賦」には立山連峰を源とする黒部川上流の石を、
「二上山の賦」には麓を流れると詠まれた射水川(現小矢部川)上流の石を、
「布勢の水海の賦」には詠まれている渋谿の崎から掘り出した石を、
と言う様に、家持の詠んだ越中の素晴らしい景観を表すのに
相応しい石で彼の歌の世界を象っている。』 とあります。

上から見た大伴家持顕彰碑

大伴宿祢家持卿顕彰碑

顕彰碑脇の「越中三賦」を象った石

越中三賦象形石の説明

境内下遠望
本殿の脇に小さく鎮座するのが大伴神社ですが、
果たして一ノ宮に付随した末社と考えて良いのでしょうか?
ここで時間的なスケールを追うと、大伴家持が越中国守に赴任したのは
天平18年(746年)6月から天平勝宝3年(751年)の6年間。
一方、氣多大社が能登国の同名社から勧請されたのは、それよりも後の天平宝字元年(757年)以降。
その時は既に家持は越中には居ませんでした。

参道右手にある総社跡

総社跡解説

結界を示す縄の奥にある総社跡伝承地

伝承地の標
古代の名族出身の中央政界の官僚で、歌人として名声を得ていたとはいえ、
一ノ宮の境内に一個人の社を建てるものなのか?
思うに家持赴任中に彼が氏神を祀る神社を建立した場所に、
後から一ノ宮を勧請したと考える方が無理のない気がします。
随分せこい気もしますが、【勘定】高いともいえます。
それなら大伴神社は取り壊せば良さそうなものですが、
歌人に敬意を表したか、後の祟りを怖れたか、そこが萬葉人の大らかさでしょう。

総社跡伝承地から社殿を見る

境内から見た市街地と富山湾

入口左手にある今の社務所
御朱印はここで拝受。
こうして越中一ノ宮参拝の後は、伏木駅方面へ。
徒歩でも15分程度ですが、鉄道だけでなく、バス路線もある交通の要衝。
いざ到着するとほんの数分待ちで高岡駅行きバスが。
鉄道やレンタサイクルを使わず、只管バスと徒歩の巡礼は久し振り。
バスに恵まれた半日でした。【時刻に仏】とはこの事でしょう。

神社説明書

氣多神社御朱印

JR伏木駅スタンプ
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氣多大社(越中国一宮 式内社 旧県社)
国分寺跡から更に進み、坂を上った所が氣多大社への入口。
その左手には富山の名水「気多大社の清泉」が湧出。
清冽な清水の多い富山県ですが、歩いて来た身には何よりの御褒美です。
このような清水の湧く所が、社が鎮座する理由でしょう。
また境内から国府が一望できるのもあったかもしれません。

入口付近から市街地を見る
右奥の大屋根は勝興寺本堂。

入口に湧出する「気多大社の清泉」

龍口から水盤に落ちる水

清泉の案内
龍の口からではなく、この洞から湧出するのが清泉か?
氣多大社と彫られた社標の脇にある75段の石段を上った先に建つのが神明鳥居。
ここを潜ると境内が静かな樹叢に包まれて広がっており、下は絨毯を敷き詰めた様に苔に覆われています。
そんな古色蒼然とした中を参道右に木造の小さな鳥居を見て、
更に第二の階段を上ると御神木の聳え立つ拝殿前に到着。

社標脇の75段の石段

階段上の神明鳥居

鳥居に続く参道

参道脇の石灯籠

続く石段の先に見える社殿

階段両脇の御神木
氣多大社(けたたいしゃ)は、
『養老2年(718年)に僧の行基が創建したと伝えられ、また天平宝字元年(757年)に
越中から能登国が分離した後、越の大社と崇められていた能登の羽咋にある氣多大社を
越中国府に近い現在地に勧請したとも言われている。
盛時には越中一宮として境内の周囲に神宮寺である徳証寺を始めとする
大伽藍が並立していたと伝えられるが、寿永年間(1182年)の木曽義仲、
天文年間(1532~1554年)の上杉軍と二度の兵火で悉く焼失したと言う。

階段上から見下ろした境内

御神木と狛犬

略史

正面に見える拝殿

社殿全景

正面より見た拝殿

拝殿前の千鳥破風と扁額
現在の本殿は永禄年間(1558~1569年)の再建。
構造は三間社流造り、杮板葺きで正面には一間の向拝を付けている。
本殿は全体に雄大な風格を備え県下でも優れた建築物である。
室町時代の特徴を持った作風が評価され昭和6年に国の重要文化財に指定された。』
とあります。

本殿解説

屋根瓦には加賀藩の梅鉢紋が

重文・本殿

拝殿(右)と本殿を繋ぐ幣殿
現在の社殿は戦国末期に焼失した後の再建なので、
古代とは直接の繋がりはありません。
唯、三筆空海や三蹟行成の書である扁額が残っているのは、
中世を通じて中央との太いパイプがあった証拠と言えます。

空海の真筆「一宮」

空海と藤原行成の扁額の解説
[参考書]
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越中国分寺跡
国泰寺参拝の後は、総門前の道路を山を迂回しながら富山湾方面へ徒歩移動。
氷見線雨晴駅までどれくらい掛かるかは未知数でしたが、1時間近くあるので、
乗り過ごす事はなかろうと安心して歩けました。415号線を横切ると富山湾が間近に。
線路沿いの細い道路を進むと、ここは路線バス道。駅近くのバス停まで来て時刻表を見ると
何と5分後にバスが、しかも次の目的地の最寄りのバス停にも停車するルート。
当初の予定より30分以上時間短縮できるという幸運でした。

バスの車窓から見た雨晴海岸と立山連峰
「伏木一の宮」で下車すると道路の向かいに「氣多神社」の大きな道標が。
そこを山方面に進むと神社ですが、少し進んだ左手に古代の国分寺跡が。

バス停の向かいに建つ社号標
越中国分寺は
『越中国に造営された国分寺であり、その造営時期ははっきりしないが、天平20年(748年)に
国師に付き従う僧であった清見(せいけん)の送別会を催した事が、大伴家持が詠んだ歌で確認できる事から、
この頃既に越中国分寺の造営が進んでいたと考えられる。
また『続日本紀』に拠れば天平勝宝8年(756年)までには全国の国分寺が完成していたとみられる。

国分寺跡に残る御堂

越中国分寺跡解説
当地は昭和初期の発掘調査に拠って、昭和40年(1965年)には富山県の史跡に指定されており、
周辺には一過寺、大門、国分堂等の字や国分道と称する参道の一部が遺存している。
また昭和41年(1966年)の調査からは礎石の根石と見られるものが六ヶ所確認され
金堂或いは講堂の基礎と推定される。
更に奈良時代から平安初期に属する均整唐草文を施した軒平瓦や八葉蓮華文の丸軒瓦が出土し、
越中国分寺がこの地に存在した事を示している。』 とあります。

御堂正面
傷みが激しく内陣には入れない様子。

御堂の向拝と軒垂木

境内に並んだ石は墓碑か?
国分寺と一の宮が近接している例。一の宮と異なり、国分寺は跡だけですが、
それでも敷地内には小さな堂宇が健在。
かつて国分寺そのものかどうかは分かりませんが、一時は後継寺院でもあったのでしょう。
今は無住で、大分傷んでいますが、残っているだけでも感謝に値します。

国分寺跡碑

朱い実はピラカンサス

境内の紅葉
[参考書]
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国分寺跡を巡る ~色なき風に誘われて 僧寺・尼寺全国一三七ヶ所の記憶~ 新品価格 | ![]() |

国分寺の誕生: 古代日本の国家プロジェクト (歴史文化ライブラリー) 新品価格 | ![]() |

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護国摩頂巨山 国泰仁王万年禅寺(臨済宗法燈派大本山 北陸観音霊場第二十四番札所)
青銅の灯篭越しに見た観音堂。
国泰寺で拝受した御朱印は二種類。一つは御本尊の釈迦牟尼仏ですが、もう一つは観音様。
坐禅道場の国泰寺は、北陸観音第二十四番・越中観音第三番札所の霊場でもあります。
巨大な三門の左手に木立の間に隠れるようにして観音堂は建っていました。
その大きさから言っても、御本尊より後に出来たと想像できます。

正面から見た観音堂

観音堂近影
垂れ幕の五色は東西南北(緑白朱紫)と中央の大日如来(黄)を表現。
『三門の前庭、木立に囲まれた白い六角堂は昭和43年の落慶。
正面に「圓通閣」の扁額を掲げ、伝行基作とされる聖観音菩薩を中心に、
三十三体の観音像を安置している。』 とあります。
中世以降、観音信仰が盛んになるのにつれて各地に観音霊場が出来ますが、
庶民の間にも漸く旅が広がり始めたと言うことでしょう。
唯、当時は只管徒歩で、豪雪で知られた北陸地方は【感温冷場】であったに違いありませんが…。

窓から見た内陣の御本尊

堂前からの眺望

国泰寺御朱印 (観音堂)

JR氷見線 雨晴駅スランプ
数多の観光地に混じって国泰寺がある。
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高岡駅前4番(10:43) → (加越能バス) → 国泰寺前(11:03) → 徒歩10分 → 国泰寺 → 徒歩20分 → 雨晴駅前(12:33) → (加越能バス) → 伏木一の宮(12:42) → 徒歩3分 → 越中国分寺跡 → 氣多神社 → 徒歩15分 → 伏木駅前(13:50) → (加越能バス) → 高岡駅前(14:12)

護国摩頂巨山 国泰仁王万年禅寺(臨済宗法燈派大本山 北陸観音霊場第二十四番札所)
大方丈の南側、法堂との間にあるのが月泉庭。
『月泉庭と龍淵池を中心とする庭園は景観地理学者で
庭園研究家としても知られる小川寿一氏の名作である。
先ず、庭の北東隅に弧が描かれているが、これが月を表す。
その横には蹲があって水が湧いているがそれが泉を表している。
これは開山慈雲国師の末期の句「天に月あり、地に泉あり」に由来している。

方丈入口付近にて

月を表すのはこの岩か?
庭の中央に置かれた石は約42トン、庭園の石としては恐らく日本一であろうと言われ、
雨晴海岸の義経岩を彷彿とさせる。
南西に立山連峰、南東に達磨群像、北西に滝や大亀、船に見えるものもある。
これらの石は開山縁の二上山から出たもので、化石を含んだ左岸である。
蹲傍らの藍色の小石は滋賀の永源寺石、敷き詰められた白砂は京都の白川砂である。

方丈縁側左端にて
左に見えるのが庭中央の大岩。

大岩近影

方丈縁側右端にて
左奥は庫裏、中央が法堂。
庭の西側にある建物は坐禅専修道場である禅堂。
正面には山岡鉄舟筆の「栴檀林」の扁額を掲げ、中は一面の敷瓦。
正面の厨子には文殊菩薩が祀られている。
明治25年(1892年)には虚無僧尺八の妙音会が設立され、
法要の時には読経と尺八の合奏と言う独特の習慣がある。
特に開山忌の6月2・3日には二十名程の虚無僧が集まり、
古刹に響き渡る妙音は風物詩として有名である。』 とあります。

方丈への廊下からの眺望
左が法堂、正面が禅堂。

方丈縁側から見た禅堂

禅堂正面
鉄舟揮毫の扁額や内陣も見えるが、近寄れないので遠目での拝観。
法堂手前の龍淵池は水と緑の豊富な場所でしたが、法堂を隔てただけで景観は一変。
水と苔は極僅かで石と砂が続く枯山水。とても同じ作庭家の手になるとは想像できませんでした。
作庭当時はアポロの月面着陸は未だだったと思うので、想像か望遠鏡での観察に拠るのでしょう、
月の庭とは言い得て妙です。
京都の竜安寺の石庭を彷彿とさせますが、置かれた石は遥かに大きなサイズ。
以前に参拝した日石寺もそうですが、巨岩が越中を特徴付けているようでした。
銘菓と並ぶもう一つの「月世界」と言えましょうか。

縁側隅から見た廊下と法堂

大岩と禅堂遠望

廊下入口からの眺望
などと思いながら庭を眺めていると、庭園の隅に座って居られた年配の男性が、
徐に尺八を取り出して演奏。暫く聞きほれてしまいました。
演奏が終わった時に、思い切って声を掛けました。
私 ; ひょっとしてプロの演奏家の方ですか?
男性 ; いいえ私は地元の人間で、全くの趣味です。
私 ; 何年くらいされていますか?
男性 ; およそ8年ですね。
私 ; 開山忌には、虚無僧姿の人が集まるそうですが…。
男性 ; ええ、私もその時は参加させて貰っています。
尺八は‘首振り三年ころ八年’と言う位に奥が深い楽器。演奏の方は‘ころ’の途中の頃でした。
今時、虚無僧も尺八演奏も滅多に見ることはできないので、さぞ人も多いと想像していましたが、
演奏した男性の話では、それ程【混むそう】ではないようです。

法堂裏手から見た庭園と方丈

庭園と廊下に続く方丈

開山忌風景 (説明書から)
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護国摩頂巨山 国泰仁王万年禅寺(臨済宗法燈派大本山 北陸観音霊場第二十四番札所)
庫裏入口と雪吊り
法堂に参拝した後は、東側にある庫裏で御朱印拝受。
境内の庭の木々には雪吊りがしてあるのは、冬場は1m程の積雪があるからだとか。
御朱印拝受の後は辞去する積りでしたが、法堂北側にある庭園と方丈内陣も
無料で拝観できると聞き思わぬ収獲。庫裏西側の大玄関の横にある廊下を経て方丈へ向かいました。

庫裏玄関

庫裏玄関前の庭と雪吊り

雪吊りの奥に建つ庫裏
大方丈は
『前庭に月泉庭を配し、「降魔道場」の大額を掲げる大伽藍で圓通閣の別名で呼ばれる。
南北朝以降の国泰寺は守護代神保氏の崇信を受けるが、応仁以後の戦乱に拠り荒廃。
二十七世雪庭和尚は後奈良天皇の綸旨を受けて再興を果たすが、天正13年(1585年)
前田利家に方丈を守山に取られ、現在地に移って来たと考えられる。
江戸時代の貞享3年(1686年)には現在の大方丈が建立。将軍綱吉は当寺を以て法燈派本山とし、
享保年間には萬壑和尚等に拠って伽藍の大整備が行われほぼ現在の形になった。

庫裏(右)に続く大方丈玄関
但し、ここからは入らない。

玄関近影

方丈へは法堂右の通路を往く

通路内部
明治維新になり当寺も廃仏毀釈の余波を受けたが、越叟・雪門和尚は山岡鉄舟の尽力を得て、
天皇殿の再建を始め諸堂宇の修造に務めた。
また若き日の西田幾多郎や鈴木大拙が北条時敬の勧めに拠って雪門に参じている。
当山で現存する伽藍中では最古のもので堂内には山岡鉄舟筆の「圓通閣」、
その内陣に釈迦三尊像を安置し、有栖川宮熾仁親王御下賜の「北鎮禅林」の扁額を掲げる。
また幕末に新選組局長近藤勇が着用したとされる甲冑が山岡鉄舟に拠って当寺に奉納されている。』
とあります。

入口(東)より見た大方丈内陣

西側からの大方丈の眺望

方丈の唐獅子の襖絵

御本尊を祀る大方丈中央付近
幕末三舟と呼ばれる山岡鉄舟は禅に深く帰依した人物。
旗本であれば幼少時の教育は禅宗僧侶から学ぶ事が多かったと思うので、
関連する書が当寺に残っていても不思議はありません。
禅に加えて剣の達人でもあった鉄舟は幕府内でも一本筋の通った人でもあったのでしょう。
世間が新政府に靡く中で、幕府のために奔走。駿府で薩摩の西郷隆盛と会見し、
江戸無血開城と将軍慶喜の助命への先鞭を付けました。

山岡鉄舟筆の「圓通閣」の扁額

御本尊正面に向かう椅子

御本尊近影
扁額は「北鎮禅林」とある。
明治初期、廃仏毀釈の嵐は国泰寺にも及び寺は荒廃。その窮状を見兼ねた鉄舟は
自らの揮毫で広く浄財を求め、当寺は見事復興したとか。
剣・禅・書の達人であった鉄舟ですが、単なるお飾りの趣味ではなく、
その書で浄財を集めるなど、中々如才なさも持っていました。
新政府からは恨まれた新選組の遺品を奉納したのも相通ずるものを感じます。
この甲冑を見るにつけ思うのは【火中】の栗を拾った鉄舟の人柄。彼は【撤収】の名人でもありました。

方丈内に展示されている奉納された甲冑の写真

甲冑と鉄舟の解説

山岡鉄舟と近藤勇の全身写真
後に十年に亘り明治天皇の教育係として仕え、生涯を日本文化の発揚に尽くしたと言われます。
その死後、葬列が皇居付近を通った際には、明治天皇は窓越しに見送ったとか。
国泰寺を復活させた英傑は我が国の国体も形作った人でした。

国泰寺説明書

国泰寺御朱印 (御本尊)
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龍淵池と法堂
匂うが如き仁王像のある三門を抜けると、正面に龍淵池が現れます。
『龍淵池は昭和49年に完成したもので、捕らえられた魚介類を放ち食を与える放生(ほうじょう)池。
我々の日常の殺生に対する供養を行い、生命尊重の心を新たにする役目を持つ。
これは「人命尊重」を祈願した先住心田和尚が、利生塔・月泉庭と共に整備したものである。

龍淵池に架かる石橋

石橋を挟んで反対側の池

寺務所前より龍淵池と三門を見る
この水をたたえた龍淵池を前庭に眺めて「毘廬堂」の扁額を掲げた建物が法堂(はっとう)。
享保6年(1721年)の建立で、説法を行う場所としての法堂本来の役目に加え、
本尊として釈迦三尊像を安置する仏殿の役割も持つ。』 とあります。
法堂内正面にある釈迦三尊像は八頭身ではありませんが、中央の釈迦如来の前には
「今上天皇聖壽無窮」の位牌型の物が。これも勅願寺故でしょうか?

法堂正面
龍淵池に架かる石橋上よりの眺望。

正面右側より見た法堂

法堂前面の扉

法堂屋根の垂木と組物

扉の透かし模様

法堂の「毘盧堂」の扁額

法堂の内陣

法堂中央に祀られた釈迦三尊像

中央の釈迦如来坐像
手前に「今上天皇」の文字が見える。
一見、法堂前にある池泉回遊式庭園かと思いましたが、意外にも放生池。
周囲の庭木が整備されているので、そのように感じるのでしょう。
龍淵と言うからには龍が棲むのでしょうが、それでは折角放生した魚も、龍に食べられてしまいそう。
それとも池に放した魚が滝を上って龍になる事からの命名でしょうか?

三門から見て池の右手に聳える巨木(木斛?)と寺務所

池周辺の木々と岩
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護国摩頂巨山 国泰仁王万年禅寺(臨済宗法燈派大本山 北陸観音霊場第二十四番札所)
文化の日で始まる休日は北陸路へ。
お盆の計画が、度重なる大雨や北陸線運休のため、今回のリベンジ。
秋晴れに恵まれた初日は氷見線沿線を巡礼する事に。
越中一の宮や国分寺跡があるのは以前から知っていましたが、穴場なのが国泰寺。
以前に氷見駅でMHCを貰った際に、観光案内所に置いてあったパンフで初めて知りました。
寺社共に氷見線の伏木・雨晴駅から徒歩で行ける距離ですが、
肝心の氷見線の本数が1~2時間毎の運転と不便を免れません。
もう一つは15分間隔で運行の万葉線に乗って伏木駅まで歩き、駅でレンタサイクルという案ですが、
雨晴まではトンネルを越えるのがネック。

国泰寺バス停付近に建つ大伴家持歌碑
どちらにしようかと悩んでいると、俄かに路線バス案が浮上。
運行本数は2時間毎程度ですが、高岡駅到着後30分で、国泰寺までのバスがある事が判明。
氷見線・万葉線どちらを採用した場合よりも1時間近く早く着きます。
その後の連絡はどうなるか分かりませんが、取り敢えずバスでの現地入りとなりました。狡兎三窟ですね。
氷見方面行の160号線から東へ1本入った細い道路を進み国泰寺前で下車。
停留所には大伴家持卿歌碑が。国司として赴任した越中で歌壇を形成した家持ですが、
ここでも歌を詠んだのでしょうか?

歌碑の向かいにある国泰寺への道標
左の296号線を進む。
道路を挟んで歌碑の向かいに案合の寺標が建っており、それに従い東行。
小高い丘を過ぎて10分程度歩くと視界が開け正面が寺院。
門前には旅館と思しき建家が何軒かありますが、何処も「竹の子料理」の看板を挙げています。
山も間近に迫っていることを改めて感じました。
唯、筍のシーズンは春なので、それだけに頼っていると文字通り竹の子生活に。
氷見線と言えば日本海の幸と加えて氷見うどんが有名なので、そちらに鞍替えするのでしょうか?
そうならこちらも別の意味で狡兎三窟と言えます。

寺院までの296号線はこのような小山を越える

入口に建つ寺号標
後醍醐天皇勅願とある。

門前左側にある竹の子料理旅館

寺号標の奥にも竹の子料理旅館が
摩頂山国泰禅寺(まちょうざんこくたいぜんじ)は、
『北陸路には数少ない臨済宗の道場で、臨済宗国泰寺派の大本山。
開山の慈雲妙意(じうんみょうい)禅師は行脚の時、
ここ二上(ふたがみ)山の幽邃の境に惹かれ山中の草庵で独り坐禅に励んでいた。
偶々、通りがかった弧峰覚明(三光国師)に誘われ、紀伊由良の西方寺(現興国寺)の
無本覚心(法燈国師)に参じて大悟するが、間もなく師の遷化に遭い、
二上山の旧居に戻り修行に励んだ。やがてその禅風を慕って雲水が集まり、
嘉元2年(1304年)に摩頂山東松寺(まちょうざんとうしょうじ)を開創した。

寺号標に続く苔と巨木の参道

総門前の石碑
入口には「後醍醐天皇勅願所」の石碑が一際固く聳える。
これは開山が嘉暦2年(1327年)参内して後醍醐天皇に法要を説いた事で「清泉禅師」の号を賜り、
翌年には「護国摩頂巨山国泰仁王万年禅寺」の勅額を下賜され勅願寺になった事に拠る。
興国3年(1342年)には南朝の後村上天皇より後醍醐天皇の御影が送られ、
「臨幸に代える」との御宸翰あり。天皇殿のある由縁である。更に北朝の光明天皇の帰依も受けた。
康永4年(1345年)6月3日、「天に月あり、地に泉あり」の句を末期として72歳を以て示寂。
光明天皇より「慧日聖光国師」の諡号を受けた。塔を「正脈」と号し、室を「大円」と言う。

改修中の総門をくぐる

総門に掲げられた「国泰禅寺」の扁額

総門下より上って来た参道を見る

境内側より見た総門
勅願碑の脇の坂を上った先にあるのが当山外構えの正門に当たる総門。
現在のものは天保2年(1831年)の造営で、扁額は黄檗山萬福寺五世の高泉性激の書。
総門を過ぎた先に建つ勅使門も同じ天保2年の造営で、
その先にある安永8年(1779年)建立の三門を経て法堂に続く。』 とあります。
総門は生憎、改修中でしたが「国泰禅寺」の扁額と「本派専門道場」の看板はしっかり見ることができました。
最初はこの扁額が下賜されたものと思いましたが、遥か後世の書。

総門から見た境内

総門脇にひっそりと佇む勅使門

鐘楼堂
総門を潜ると脇にひっそり建つのが勅使門。規模に加え目立たない点でも総門に及びませんが、
勅使門からは、三門・法堂・大方丈が一直線に並ぶ典型的な禅宗様式。
現実を【直視】した構造りにしているようでした。

勅使門の正面に建つ三門

三門近影

三門の金剛力士阿像(右)

同じく金剛力士吽像(左)
ここで気になったのは総門前の石碑に刻まれていた「臨済宗法燈派大本山」の文字。
パンフには臨済宗国泰寺派とあったので間違いではないかと思いましたが、後に庫裏で伺った所、
住職 ; 「開山の師である法燈国師に由来する呼び名です。」
私 ; 「では法燈(ほうとう)派でも良いのですね。」
住職 ; 「そうです。因みに「ほうとう」ではなく「はっとう」と読みます。」
との事。己の無知に気付かされ【はっとう】しましたが、
何故、ここだけ【はっとう】なのか?【ほうとうほうとう】【伏木】でした。

三門から勅使門を見る

三門屋根の垂木・木鼻等の組物

三門に造られたスズメバチの巣の残骸
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佉羅陀山 長慶寺 (曹洞宗)
本尊であった大仏は失われた長慶寺ですが、もう一つの五百羅漢像は健在。真に長慶の至りです。
『江戸時代後期、富山城下に米穀商の廻船問屋を営む黒牧善次郎という豪商が居た。
信仰心篤く、長慶寺にも度々詣でていたが、更に仏恩に報いるため、
佐渡の石工に535体の羅漢像を刻ませ寄進した。
松前港に米を運んだ帰路に佐渡へ立ち寄り、越中へ持ち帰り木町の浜で陸揚げしてここまで運搬。
寛政11年(1799年)から嘉永2年(1849年)まで50年を要したと伝わる。

五百羅漢へは本堂横の階段を上る

由緒記(その1)

階段上り口に鎮座される舎利弗尊者

由緒記(その2)
こちらの方が古い。

羅漢への道

五百羅漢配置図
羅漢像は樹林の中、山腹を背に富山の町を見守って東向きに雛壇状に坐して居り、
石灯籠をはさみながら整然と並んでいる。
昭和2年(1927年)の大修復を経て、昭和46年(1971年)に富山市指定文化財となった。』
とあります。

最前列の羅漢さま

最前列に対面してビンズル尊者が鎮座
撫で仏様として知られるが、ビンを抱えているのは【なで】

最前列の近影

境内の句碑
・御仏の ひざをまくらに 花み山 と読める。
羅漢像は本堂よりも更に高台、樹林に囲まれた中に鎮座されていました。
優れた出来栄えに見えますが、如何せん200年間風雨に晒されたので劣化は不可避。
見る人に拠ってはこの侘び寂びが良いでしょうが、元の状態で残っていればとも思います。
尤も石で作った時点でそのような事は諒承済みだったのでしょうが。

最前列より見上げた所

木立の中の羅漢像
所で、たすき掛けは何故でしょう?

階段を上り更に上段へ
これだけの羅漢像を寄進したのが、たった一人の豪商だった黒牧善次郎。
商売で独り勝ち状態だったのか、異常に信心深かったのかは分かりませんが
極めて特異的と言えます。

上段部の羅漢様

表情豊かな顔が並ぶ

上から羅漢様を見下ろす

横に並ぶ羅漢様
ここでふと気になったのは、羅漢像は佐渡で石工が刻んで持ち帰ったという言い伝え。
当時の廻船は船を安定させるために船底に石などの重量のあるものを積み込んだと記録にあります。
中には石では金にならないので、やがて瀬戸物などを積む商人もあったとか。
そうすると豪商・黒牧善次郎が廻船に羅漢石像を積み込んだ目的は、航海の安全のためで、
その後、古くなった或いは用済みの羅漢像を寄進したと見るのは余りにも金儲け主義に偏った考えでしょうか?
こうして午前に立山の磨崖仏、午後は富山の五百羅漢と石仏の巡礼も無事終了。
富山駅ビルの「きときと寿司」にて早めの夕食。富山市内の五百羅漢の後は富山湾の五貫で〆とはなりました。

高台から見た羅漢全体像

富山桜谷郵便局 ; 市文化財・足羽山斜面の五百羅漢

夕食は富山駅ビルの「きときと寿司」にて
富山湾の名産五貫(ブリ・ノドグロ・ズワイガニ・バイ貝・白海老) ¥1300。
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佉羅陀山 長慶寺 (曹洞宗)
民芸村の奥にある入口。
上市町で二ヵ寺参拝して昼食を摂った後は、地鉄で富山駅まで戻る事に。
ここからは市内をレンタサイクルで廻りますが、以前から気になる場所が。
富山の一駅西の呉羽駅のスタンプに描かれているのが五百羅漢。
羅漢像があるからには寺院があると予想されるので、一駅乗って呉羽駅から巡礼かと思いましたが、
調べると羅漢様があるのは呉羽山中腹ですが、東麓にあるので行くには富山駅の方が便利。
幸い「富山市 民族民芸村」という9館の有料施設に隣接した場所にありますが寺院拝観は無料。
しかもサイクルポートも入口にあるという一石二鳥でした。

JR呉羽駅スタンプ
(上) 民営化後の1990年代 (下)2006年JR西日本金沢支社印

寺の前にある茶室円山庵
佉羅陀山長慶寺(きゃらださんちょうけいじ)は、
『天明6年(1786年)、新川郡塩野にあった真言宗寺院を日輪当午禅師が当地に移し、
曹洞宗寺院とて開山したのが始まり。
当山一帯は桜谷と呼ばれ風致に富み、城下の人々にとっての行楽地。
花の頃には「山行き」と称する行楽の人々で賑わったという。

由緒記

入口からの富山市内の眺望
快晴時には遠く立山連峰まで一望できる。

参道左手に建つ三十三観音像

参道の先に建つ本堂
山号の佉羅陀山は地蔵菩薩の浄土の名で、かつては「桜谷の大仏」と言われた金銅の
地蔵大仏が建立され、その後に安置された五百羅漢石像と共に信仰を集めた。
大仏は明治の廃仏毀釈で失われ、現在は信者より寄進された大仏頭が本堂内に安置されている。
五百羅漢は昭和初期に修復され今に至る。
また冨山藩六代藩主前田利興の側室、自仙院が「桜谷八景」を詠んで奉納した
柿本人麻呂の祠の跡には筆塚と志留丸塚が建っている。』 とあります。

本堂近影

本堂自体は真新しい建築

本堂に架けられた山号の扁額

意外と簡素な本堂内陣
法要というよりも地元の会合で使用しそうな雰囲気である。

内陣に祀られた御本尊・釈迦如来
垂れ幕の笹竜胆は曹洞宗の紋で元は宗祖道元禅師の実家久我内大臣家の家紋である。

御本尊脇に祀られた大仏頭
今に残るのは再建された本堂ですが、かつては城下を見下ろす壮麗な寺院だったかと想像。
そこに大仏が加われば、皆が参拝した名所というのも当然。どちらも今に伝わらなかったのは不運でした。
当寺の建つ呉羽山は富山平野の中央を南北に走る丘陵地帯の一つ。
寺からは富山平野が一望でき立山連峰を望む事ができる絶好の場所。花見で賑わったのも頷けます。
加えて呉羽山は、ここから東は江戸文化、西は京文化と文化圏としての大きな境界となっていています。
北陸新幹線開通以前の話ですが、大阪を出発した特急サンダーバードはその殆どが富山止まり。
それより東へ行く列車は1日に2本しかなかった記憶があります。
隣県の新潟は兎も角、県内の滑川・黒部・魚津方面にも行かなかったと言うのも、
東西文化の境界であった事が影響している気がします。

御朱印を拝受すべくモダンな寺務所へ

長慶寺御朱印
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【往路】電鉄富山(8:03) → (富山電鉄本線) → 上市(8:31)
上市駅コグッチャ → レンタサイクル30分 → 立山寺 → レンタサイクル50分 → 日石寺 → レンタサイクル20分 → 上市
【復路】上市(12:43) → (富山電鉄本線) → 電鉄富山(13:11)

大岩山 日石寺(真言密宗大本山)
境内に諸堂が並ぶ日石寺ですが、忘れてはならないのが豊富な湧出水。
『本堂左手奥にある六本滝は、年間を通じて滝行の出来る場所。
参拝者も申し込めば修行体験が可能である。
以前の瀧行は境内の更に奥にある千巌渓にて行っていたが、修行者の安全確保のために
明治元年(1868年)に境内の現在地に建設。毎年1月の大寒には白衣を纏った信者が滝打ちの業を行い、
また7月1日には、健康と修行の安全、地域の商売繁盛を願って滝開きが行われる。
水の流れ落ちる六基の龍頭は人間国宝・須賀松園の作。六本とあるのは六大に拠り、
六欲を抑え、六根清浄に至るのが由来である。六本滝の先には十二支滝が続いている。

本堂横の清浄門を潜り六本滝へと向かう

正面から見た六本滝

滝前で祈願をする人
六欲(貪・瞋・痴・慢・疑・邪見)を抑え、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清浄にするのが六本の由来。

六本滝に続く十二支滝
観音堂の裏手にある。
六本滝の脇に湧出しているのが藤水。不動明王の霊水としてとやまの名水に選ばれている。
藤水というのは、
「元禄15年7月27日、越後ねち谷の盲目の百姓が大岩山に参籠。その霊夢に
「此の山の脇に藤の木あり。その根元より水出づべし。」 とのお告げを受け、
参詣者に助けられ「藤の水」を求めて眼を洗った所、忽ち眼が開き杖の助けなく山を下った。」
という霊験に由来している。

六本滝からの眺め
中央奥に藤水が見える。

とやまの名水 大岩日石寺の藤水

藤水の由来

藤水近影
汲みに来る人の合間を縫って撮影。
この水の恩恵を受けたのが、門前街で提供されるそうめん。
境内の「大岩の藤水」と水源を同じくする地下水の水質と水温、そして2~3年寝かせた熟成麺に拠り、
シンプルながら深い味わいと舌触りを作り上げている。
全国的にも珍しい「そうめん街」で夏場には多くの参拝者がこれを求めて足を運ぶ。』 とあります。
ここの修行の目玉は心身を浄める滝行。
唯、滝といっても青銅製の龍の口から水がおちるので、人工的な感は拭えません。
説明書にあるように本来の滝は山中の危険な場所にあるので、安全面からここへ移したそうですが、
結果的にはそれが気軽に参加する人を増やした原因と思います。
修行を終えた人が向かうのが門前で供される素麺。
素麺街道と呼ぶそうですが、「さて町に素麺工場があったかな?」と思いましたが、
越中大門付近は素麺の産地と聞いていたので、そこの素麺の可能性が大。

昼食は百段坂の右手にある大岩屋館にて
左は甘味処の「だんごや」

素麺大盛り ¥650

葛切りも追加注文
今回、私は滝打ち修行は全くしていませんが、昼時の空腹に耐えかねて門前の大岩館に入店。
メニューは色々あったものの、迷わず素麺大盛り¥650を注文。
【多いわ】と言う事もなく葛切りを追加する始末で、どちらも残さず完食。
案内板には「心もお腹も癒される」とありましたが、加えて財布も癒されました。

食事を終えて店を出る頃には行列が

当寺の宣伝も兼ねた看板
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上市駅コグッチャ → レンタサイクル30分 → 立山寺 → レンタサイクル50分 → 日石寺 → レンタサイクル20分 → 上市
【復路】上市(12:43) → (富山電鉄本線) → 電鉄富山(13:11)

大岩山 日石寺(真言密宗大本山)
日石寺の御本尊は、その名の通り本堂内の岩盤に彫られた大岩不動で、
訪れる人は先ずここに参拝します。それに加えて広い境内には諸堂が点在。
一巡すれば種々の御利益が得られるようになっています。
『本堂を出て向かって左手に建つのが観音堂。平成8年の建築で、
外観は中尊寺金色堂と同形式の和様三間堂、屋根は方形造となっている。
堂からは十二支滝を間近に望むことができる。

寺務所脇の鐘楼堂

本堂から階段を下ると観音堂

観音堂説明

観音堂全景と観音像

観音堂の庇と垂木

参道に建つ並び御仏像群
更に滝の横を奥に進むと、子宝成就の愛染堂、歴代住職の墓地へと続き、高台に見えるのが三重塔。
江戸時代後期の作とされ、県下では最も古い木造の三重塔となっているが、
古い工作技法の中にも近世の技法が見られる。
周囲に壁が無く中が丸見えになっているのは建築時の財政難のためと言われるが、
現在ではこれが近世社寺建築を知る上での貴重な資料を提供している。

愛染堂への道

愛染堂近影
堂内のカップルの御願いは?

参道脇の五輪塔
歴代住職のものか?

三重塔

三重塔説明

外に壁が無く心柱が丸見え

三重塔組物

屋根に吊るされた風鐸

三重塔からの眺望
塔から下った場所には、昭和50年築の大日堂。法隆寺夢殿を模した八角円堂で大日如来を祀る。
それに続く地蔵堂に参拝すると本堂左手に至る。イケメンと参拝者に人気のある地蔵菩薩である。
本堂から更に下った場所にある阿覚窟は災いを払う場所である。』 とあります。

大日堂

大日堂説明

大日堂庇部分

鎮座する大日如来

三重塔遠望

宝印塔と印章塚

塔と塚の説明

地蔵堂

イケメンと評判のお地蔵様
本来は磨崖仏だけを拝むだけだった筈ですが、多くの参拝者が訪れる事、
境内が広く余裕があった事が、諸堂の建立に繋がったのでしょう。
営利目的と言ってしまっては身も蓋もありませんが。

境内を時計回りで本堂前へ

阿覚窟
災いを払う場所だが、覚 → 片 としてしまうとトンデモな災いになる。
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大岩山 日石寺(真言密宗大本山)
最後の百段坂を上ると日石寺境内。
山門ではなく、門前街の百段坂を上った先に建つのが日石寺の本堂である大日堂。
大岩山日石寺(おおいわさんにっせきじ)は、
『神亀2年(725年)、行基に拠る開基と伝わる。
本尊は凝灰岩の巨岩に行基が一夜にして彫ったと言われる不動明王磨崖仏で、
磨崖仏としては国内最高傑作とされる。
不動明王は剱岳の本地仏・行者の守護本尊として半肉彫りとなっており、
下方より仰ぎ見る様に技法が駆使されている。見る者に包容と迫力を与える威容を示している。

階段正面が本堂、左手が寺務所、右手が手水舎
この不動像の向って右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)、左に制吒迦童子(せいたかどうじ)の眷族が彫られ、
平安末期の追刻として右方中央に阿弥陀如来坐像、左方中央に行基菩薩と伝わる僧形坐像がある。
尚、僧形坐像は立山開山の慈興或いは慈朝との説もある。
日石寺の山号の大岩は、古来立山や剱岳における山岳宗教の行場として興り、
行者の本尊として不動明王が岩盤に彫られた事に拠り、平安期には密教や修験道場として
伽藍を形成していき、室町後期までに真言寺院として六十の坊社を有した。

日石寺本堂(大日堂)
立山寺とは対照的に参拝者で溢れる。

本堂近影
この内陣に磨崖仏が鎮座される。
天正年間に上杉謙信の兵火に遭い山内は焼失したが、
慶長年間に加賀前田家の庇護を受けて再興。前田家の祈願所と定められ、
北陸・信越・中部地方の一大不動霊場として隆盛を極めた。
昭和42年(1967年)の火災で江戸期の建造物や資料の多くを再び失ったが、
翌年に檀信徒の寄進等に拠って不動堂が建立され現在に至っている。
天正の兵火では制吒迦童子と僧形坐像は損傷を受けたが、
本尊の不動明王は殆ど被害を受けなかった。
加えて本堂が磨崖仏を覆う形で作られているため地震や風化の影響は少なく、
昭和49年には国の重要文化財に指定されている。』 とあります。

向拝には加賀前田家の梅鉢紋の幕が下がる

熱心に参拝する人で溢れる本堂内陣
尚、拝観料は無料である。

重要文化財・大岩日石寺磨崖仏

本堂前に建つ重文の説明碑
最初は、これが磨崖仏かと見紛った。

説明碑の裏側
どことなく仏様が浮かび上がったようにも見えるが…。
立山寺で名を知られているのは栂並木ですが、ここ日石寺は御本尊の不動明王。
古代には磐座信仰と言う巨石を崇める風習がありましたが、
やがて岩に仏像を彫る風に進化したのでしょう。
言わば、最初は仏足石を拝んでいたのが、後世にはその上に仏像を作るようになった
事に酷似していると言えそうです。
理由はさておき、巨岩に彫られた不動明王は迫力満点。
寺院では写経が行われますが、当寺では大岩不動明王を描く「写仏」があり、
精神修行として年齢・国籍を問わず参加される人も多いとか。
しかも岩のために後の戦火にも耐えたという如何にも御利益がありそうな仏様。
勿論、【まがい】物でない事は言うまでもありませんが…。

日石寺説明書

日石寺御朱印

御朱印の間に挟む吸い取り紙
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大岩山 日石寺(真言密宗大本山)
柿沢交差点に大きな案内板が建つ。
立山寺参拝を終えた頃には雨も上がり、次に目指す日石寺に向けて好スタート。
日石寺には上市役前から町営バス大岩線が2時間毎に門前まで運行。
意外に多い本数と言えそうですが、結構需要があるのでしょうか?
レンタサイクルで上市川を渡り、途中の柿沢交差点を大岩川に沿って南下。
寺の案内板がありここからは一本道なので迷う事はありませんが、道は結構な上り坂。
途中、自動車が横を通り過ぎるのを横目に見て、「立山寺とは随分違うな。」と言うのが実感でした。
「大岩不動の湯」という施設を過ぎて橋を越えると門前。
バス停は広く転回するスペースがありましたが、門前のドライブイン金龍の前は長蛇の列。
何だろうと覗くと名物の素麵を食べる人達でした。

大岩川に架かるこの橋を渡ると寺院は直ぐそこ

バス停の向かいにあるドライブイン金龍
行列のお目当ては勿論「大岩そうめん」。

金龍の脇にある境内へと続く百段坂

大岩山日石寺門前街
百段坂沿いに立ち並ぶ旅館や食事処だが、コロナ禍のためか閉館の貼り紙が目立ったのが残念。
行列を尻目に脇の百段坂を上り境内へ向かいますが、途中に山門が見えます。
『この山門は元禄年間に再建されたもので、桁行三間、梁間二間の
入母屋造桟瓦葺の楼門である。元は杮葺であった。
柱が全て角柱で、また二重目の乗せ方が民家や城門と同じ出桁造で地方色豊かな建物である。
左右の格子窓は仁王の間となって居り、二体の仁王像が安置されている。
地方信仰の在り方を雄弁に物語る建造物として往時を偲ばせている。』 とあります。

百段坂の途中左に聳える山門

山門由緒

山門近影

山門の扁額は「大日王」

境内から見た山門
由緒ある山門ながら、ここから境内へ入る人は稀。参拝者は坂に続く門前街を見ながら進むのでしょう。
ガイド等には 『大岩門前街は食事処や三階建ての旅館など情緒ある佇まいを見せる。』
とあり、和風旅館と思しき建物が建っていますが、旅館の玄関には
「この度、廃業致します。」 との貼り紙が多く見られました。
コロナ禍の影響か後継者不在かは分かりませんが寂しい限りです。
そんな状況下でも参拝者を惹き付けて止まないのが、日石寺の魅力。
地方信仰は地方振興にも貢献している好例と言えそうです。

山門を潜るとこのような道を経て境内へ

遠ざかる山門

殆どの参拝者は百段坂を上り境内へと向かう
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眼目山 立山寺(曹洞宗)
栂並木と廻廊伽藍で知られる立山寺ですが、本来は禅の修行を行う寺院。
参禅道場とあるように、あくまで修行の寺で観光目的の寺院ではありません。
参拝中も、お盆の墓参の人々の他は見かけませんでした。
『開山の大徹宗令禅師は北陸一円に法徳を教示したが、弟子にも
高徳の僧が多く輩出し、県下を初め新潟、山形、福島、秋田、岐阜県等に
寺院を創建し、当寺と有縁の寺院が今も多く存在する。
立山寺は堀江城主土肥氏の帰依に拠って大いに繁栄するが、
永禄年間の上杉勢の兵火や度重なる火災に拠って次第に寺勢は衰退した。
しかしその都度、信徒や地元の力で復興され今も人々の信仰を集めている。

立山寺 解説

立山寺本堂

本堂は昭和49年に鉄筋コンクリートで復興

本堂向拝から見た境内
正面に見えるのが修復中の観音堂。

向拝からの眺望
手前から、ラカンマキ、供養塔、銀木犀と続く。
本堂は昭和9年(1934年)の祝融の後、第三十六世大法桃岳方丈の時に伽藍竣工となった。
しかし昭和28年(1953年)の火災で、伽藍から宝物に至るまで全て焼失した。
現在の本堂は、昭和49年(1974年)間口13間、奥行き13.5間、
室中までの畳は188畳と鉄筋コンクリートで復興された。
本堂前には1本のラカンマキと一対の銀木犀があり、上市町指定天然記念物。
銀木犀は暖帯性の常緑広葉樹であって古来より悪魔を追い払う信仰から植えられている。
樹齢300年を誇る価値の高い樹木である。』 とあります。

本堂内陣へ

本堂内陣

内陣奥の御本尊
曹洞宗なので釈迦牟尼仏の筈?

御朱印拝受のため庫裏へ向かう

庫裏玄関には参禅道場の札が

玄関から続く廊下
先には東司(厠)とある。
本堂内陣参拝の後、庫裏を訪問。お盆の最中で、関係者は全て出払って不在のようでしたが、
留守の女性から書置きを拝受できました。
尤もこのコロナ禍では、居られても書置きだった可能性は大ですが…。
本来の寺院の姿とも言えそうですが、建物や仏像も古いものが少ないのも理由の一つでしょう。
実際、寺の周囲には施設は一切ありませんでした。この差は、続いて訪れた日石寺で痛感することになります。

立山寺説明書

立山寺御朱印

本堂に続く廊下の向こうに見える書院と方丈

本堂から書院を見る
市街地から5㎞と近距離にありながら、木立に囲まれた当寺は日常から離れた異空間。
そんな寺院周辺は森林セラピー基地のエリアに指定され、森林セラピープログラムを体験することができます。
また境内での坐禅体験に加え、最近は禅活という挙式プランもあるそう。
古代より魂が結び合う地と言われた立山ですが、今もその効果は変わらない様子。
また実生活を積極的に取り入れた開祖の精神も今に息づいているようです。

一対の銀木犀

銀木犀は上市町指定天然記念物

本堂前にあるラカンマキ(羅漢槙)
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眼目山 立山寺(曹洞宗)
栂並木を抜けると小さな入口があり、そこを過ぎると右手に六地蔵が建ちます。
そこから先は三門、中雀門と続き、その先は回廊を通じて庫裏・本堂へ繋がっています。
三門は400年前、江戸初期に活躍した左甚五郎の作と伝わっており、
それに続く参道には大木が聳え当寺の長い歴史が感じられます。
眼目山立山寺(がんもくさんりゅうせんじ)は、
『建徳元年(1370年)、曹洞宗大本山總持寺第二祖峨山韶碩禅師の高弟で
五哲の一人であった大徹宗令禅師の創設になる古刹。
肥前出身の宗令禅師は、美濃の今須に妙応寺を、摂津に護国寺を建立した後、越中の立山に参詣。
その風景を愛でて坐禅をしていると、彼の名僧の誉を聞いた立山権現が樵の姿となって現れ、
立山山麓の小丘(今の櫛形山)を指し 「彼の地は法要の所、到りみたまえ。」 と禅師を懇請した。

入口右手にある六地蔵

先ず、最初にくぐる三門

境内から見た三門
通常の三門に比べ小振りであるが、名人・左甚五郎の作とされる。
立山権現は禅師と石上に対坐する事7日間、禅要戒法を聞いて帰依し寺院の建立を約束する。
その夜、大豪雨となり上市川に数千の大木が流れ着き、翌日より18名の大工(伽藍守護の十八神匠)が
集まってきて、七堂伽藍の精舎が落成した。
号を眼目山立山寺と称し、立山や立山信仰との関係が深い寺院であり、全国でも珍しい
開創や山神と竜神の神霊に拠る開基の寺であり、立山権現と北海大龍女を開基としている。

三門に続く木立と中雀門

中雀門近影
正面奥に本堂が建つ。

境内から見た中雀門
屋根の唐破風と花頭窓が特徴的。
眼目(さっか)村は上市川扇状地の扇頂部平野及び段丘上に位置し、
かつては咲花・察花と記された。
慶長10年(1605年)三代藩主前田利常が巡視した際に、当寺の由緒を聞き、
咲花・察花の字を「眼目」にして“さっか” と読むようにしたと言われる。
このように壮麗な寺院であったが、永禄年間の上杉氏の越中侵攻に際し伽藍を焼失。
開山堂のみが残った。
天正年間、佐々成政は富山城築城に際し、神通川の神を鎭めるために立山寺に祈祷を命じるが、
その時に現在の察花(眼目)村等に寺領を設定。寺号も立山寺から立川寺に改称したという。
寺号が再び立山寺になるのは明治32年(1899年)の事であった。』 と言われる。

中雀門から見た境内
二対の銀木犀と中央奥のらかんまき。

廻廊前に建つ鐘楼堂
上市川の北側、坂の上にある当寺は二つの門が一直線上に並びその先が本堂、
周りを廻廊が巡っているという典型的な禅宗寺院で、廻廊には観音堂(坐禅堂)と明王堂が付随していました。
観音堂は工事中でしたが、廻廊には西国札所の三十三体の石仏観音が祀られていて、
廻廊を行くと巡礼効果があります。
明王堂に祀られているのは不浄金剛と言われるウスサマ明王。
便所を清掃中に悟りを開かれた方で、下の病気に御利益があるので御婦人の祈願が多いとあります。

中雀門から左側廻廊を往く

改修中の観音堂に続く廻廊
三十三体の石仏観音が祀られている。

石仏観音
また拝観はできませんでしたが、庫裏の脇に建つ典座(てんぞ)は僧侶が食事を準備する場所。
禅宗以前の天台・真言では余り重要視されて来なかった、食事と排泄にあらためて注目したのが
曹洞宗の開祖道元禅師。入宋した際に学んだと言われます。
宗派としての禅宗は後発ですが、密教系宗派に比べ俗世間への浸透は大きい様子。
密教の教義については不慣れな人も、坐禅や問答についてはある程度の知識を持った人が大半。
これも学問的な事に加え、身近な事を積極的に取り入れた効果が大きいと思えます。
医食【道元】はここに由来するという訳ではありませんが…。

廻廊途中にある明王堂

明王堂に祀られているウスサマ明王尊
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眼目山 立山寺(曹洞宗)
参道に立並ぶ栂並木。
富山県は豊富な海の幸とアルペンルートで知られますが、寺社に関する情報は今一つ。
しかし古来より立山信仰があるので、何かしらはあるだろうと思っていると、
偶々TVで立山山麓の上市町の寺院が紹介されその名も立山寺。
しかも同じ町内にもう一つ寺院があるらしい。これは是非行かねばと、今回の北陸行きのメインに。
尚、「たてやまでら」と思い込んでいましたが「りゅうせんじ」と読むのが正しい読み方でした。

朝8時前の電鉄冨山駅
写真の電車に乗車。
当初は初日の午後、訪れるつもりでしたが北陸線の運休と遅延で×。
ではと二日目に計画しましたが朝から空模様は今一つ。先に富山市内を散策してから
向かうことも考えましたが、メインを制覇すべく朝から富山地鉄で上市駅へ。
上市駅は富山地鉄の本線で、列車はここで向きを変えて宇奈月温泉まで伸びています。
直ぐ手前に立山方面に向かう線路もある交通の要衝。
富山駅から30分弱で本数も1時間に3本程と非常に便利でした。

電鉄冨山駅構内にあるヘッドマーク
富山電鉄は全国各社の引退した車両が走る事でも有名。

電鉄冨山駅スタンプ

電鉄上市駅スタンプ
実際に駅に着くと出発時の小雨が本降りに。昼からは快方に向かう予報ですが、
取り敢えずマウンテンバイクを借りて9時出発。駅近くの郵便局で風景印を押印後、
上市川を越え野島の交差点を川に沿って東行。
木々の疎らな並木道を抜けると雨も小振りとなり、立山寺参道及び哲学の道と刻まれた石標が目の前に。
さてどこが入口かと迷っていると人の姿が見えたので、そこへ行くと駐車場。丁度雨も上がった様子。
案内等には栂並木の参道から門を過ぎて本堂へとありますが、駐車場横は直ぐ本堂入口。
正式には南へ坂を下って再度上ることになります。

上市郵便局 ; 立山連峰・剱岳、馬場島登山口、伊折橋
上市神明町郵便局 ; 立山連峰・剱岳、県天然記念物・栂並木、町花・竜胆

野島交差点を過ぎるとこのような道に
但し、これは参道の栂並木ではない。

寺院近くに建つ石標群
眼目山立山寺(がんもくさんりゅうせんじ)は、
『上市町眼目(さっか)にある曹洞宗寺院。さっかの寺と通称される。
寺名からも立山や立山信仰との関係が深く、開創は山神と竜神の神霊に拠る開基で、
立山権現と北海大龍女を開基とする全国でも珍しい寺院である。

駐車場横に建つ境内案内図

駐車場脇にある境内入口
正面に見えるのが本堂。

現在地
山門前の参道には、300mに亘って栂(トガ)並木が続き、県指定天然記念物になっている。
栂の木は北陸固有の呼称で正式名は樅(モミ)の木。
本州・四国。・九州の低山に分布するが、成長が遅いため人工造林は殆ど行われない。
当寺の栂は三代将軍徳川家光の寛永年間、当山復興を機に總持寺祖院から
十六世拗山是越大和尚の時代に旧上市町まで4㎞に亘って植樹されたものと言われ、
境内地に最も近いこの場所のみが今に残った。
樹齢約400年。樹高約20m、幹廻り約3mという全国でも稀なもので、代々守り継がれてきた。
明治40年第三十四世長谷川天熲の時に、堂宇を建立したものの財源に困窮。
その時にこれら樹木を伐採して財源を確保しようと企てたが、
檀家の猛反対で伐るのを免れたという逸話も残っている。』 とあります。

南へ坂を下った所にある正式な参道入口
山号寺号の石標が建つ。

参道に立ち並ぶ県天然記念物 「栂並木」

樹齢約400年、樹高約20m、幹廻り約3m の栂が300mに亘って続く

栂並木の先に三門が見える
参道に木が植えられているのは別段不思議ではありませんが、
これ程の巨樹が300mに亘って続くのは極めて貴重。かつては4㎞あったそうですから、
もし残っていたら日光杉並木を凌ぐ景観になっていとことは疑いありません。
何故、これ程の並木を植樹したかの説明はありませんでしたが、
越中は家の周囲を樹木で囲った散居村が有名で、
これは暴風からの防風効果を狙ったものと言います。
想像するに参拝者を風から守る事が主眼だったのでしょう。
こんな素晴らしい並木も明治時代には伐採の危機にあったそうで、
それを企画したのが当山住職で止めたのが檀家だったのも意外な話。
普通は檀家から伐採の話があってもそれを止めさせるのが住職の筈。
困窮すると心まで貧しくなるのでしょうか?
理由はどうあれ、今に栂の木が残ったのは不幸中の幸い。
もし伐採していたら、関係者が【咎】を受ける所でした。

栂並木解説

入口脇にある役行者石像

境内から町方面を望む
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【往路】JR大阪(7:40) → (サンダーバード5号) → JR金沢(12:15→12:31) → (つるぎ710号) → JR富山(12:54→13:02) → (ひだ14号) → JR越中八尾(13:19)
越中八尾 → 徒歩15分 → 観光会館 → 徒歩5分 → 聞妙寺 → 徒歩10分 → JR越中八尾(14:28) → (ひだ7号) → JR富山(14:47) → (ライトレール) → 岩瀬浜

岩瀬、まち歩き
展望台のある岩瀬浜から二駅手前の東岩瀬駅までは、運河地区とは一転してレトロな空間。
旧北国街道に当たる大町新川町通りに沿って数百mに亘って風情ある街並みが続きます。
『江戸初期になると日本海を往来する北前航路が生まれ、江戸期から明治期にかけて
日本海沿岸には廻船問屋が多く営まれた。岩瀬では江戸前期の寛文年間に港町の形が出来上がり、
加賀藩の領地で御蔵があった当地では米や木材等を大坂や江戸に運んでいた。

岩瀬まち歩き案内看板

岩瀬地区の歴史

廻船問屋の説明
明治6年(1873年)に大火に遭い、約千戸あった家屋の内650戸が焼失。
しかし、当時全盛期であった廻船問屋を始めとした財力で再建に着手。
岩瀬独自の家屋様式「東岩瀬廻船問屋型」などの家屋として蘇った。
廻船問屋の家屋の多くは岩瀬大町・新川通りを表構えにし、河岸を背に建てられた。

大町・新川町通り(旧北国街道)北端の様子
ここから南に向かって風情のある街並みが続く。

野村商店
廻船問屋の家屋で自家製の昆布巻き等を販売。

造り酒屋

御休処 政太郎
明治期の二度の火災から髙岡土蔵造りを参考にして建てられた家屋。当時の職人の技術が集められている。

明治43年築の廻船問屋家屋

久保陶器店
現在の岩瀬の街並みは、明治期に建てられた家屋が多く残っている廻船問屋群のある街並みである。
波濤を越え、動く総合商社として巨万の富を築き、岩瀬に繁栄を齎した男たちの夢が紡いだ異空間。
北前船の寄港地の船主集落として平成30年日本遺産に認定された。』 とあります。

通りに直角に交わる御鷹道
鷹狩りに使ったか?

森家土蔵群
森家の蔵として使われていた奥行きの長い建物を復元。様々な店が入る岩瀬の文化発信拠点。

旧馬場家住宅
日本海側有数の廻船問屋、質の高い東岩瀬廻船問屋型だが、敢て豪華に見せない造りになっている。

馬場家住宅説明

馬場家玄関

岩瀬大町公園にあるガス灯と北前船の像
メイン通りに沿って重厚な町屋が並ぶ様は正に圧巻。廻船問屋の他、醸造元、銀行、
果ては新築家屋まで時代を反映した造りになっていました。
町屋を利用した休憩所・食事処があるのも各地と同じ。殆どの家が今も現役ですが、
廻船問屋であった森家・馬場家の両家屋のみ内部見学ができるようになっていました。

重要文化財・北前船廻船問屋 森家

森家解説

森家の通りに面した部分

これは何と北陸銀行

昔の造りで建てられた家屋
時間の都合で内部見学はできませんでしたが、明治時代に15歳で馬場家に嫁いだ
「はる」は大正8年(1919年)33歳の時に当主であった夫に死別。
以後、昭和46年(1971年)に亡くなるまで馬場家を支えました。加えて地域にも貢献し、
当時の金額で160万円(現在の10~20億円)を旧制富山高校設立の為に寄付しています。
船乗りの世界と言えば、男の世界を想像しますが、裏ではそれをしっかり支えた
女性の活躍があった事の証左でもあります。

通りの南側にある町屋

桝田酒造店
明治26年創業の造り酒屋。吟醸酒「満寿泉」で知られる。

路地の奥にある「満寿泉」酒蔵

富山信用金庫
北陸銀行と張り合ってこのような造りにした訳ではない。

佐藤釣具店
街並み散策の後は、旧富山港線の駅舎が唯一残る東岩瀬の駅まで。
今は待合室兼休憩所として用いられていました。これもレトロの有効な活用法の一つでしょう。

旧東岩瀬駅舎

旧駅舎内部
現在は休憩所として利用されている。

休憩所奥には畳敷も

現在の東岩瀬駅ホーム
奥に見えるのが旧駅舎。
富山駅に戻ると「あいの風とやま鉄道」で東富山まで。先日、新富山口駅が開設され駅スタンプも設置。
但し、無人駅なので一駅向こうの東富山駅に保管されていました。駅に到着して無事押印。
駅員さんからは構内のランプ小屋は明治42年の鉄道遺産との話を伺いました。この日は徹頭徹尾レトロでした。

新富山口駅スタンプ

東富山駅構内に残る明治期のランプ小屋
この日の宿泊地富山駅に戻って夕食。廻船問屋を訪問した後は、
海鮮丼といきたかったですが、駅ビルの飲食店は長蛇の列。
一番待ち時間の少なそうな店で白海老の掻き揚げ丼とはなりました。

越中茶屋にて白海老掻き揚げ丼
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越中八尾 → 徒歩15分 → 観光会館 → 徒歩5分 → 聞妙寺 → 徒歩10分 → JR越中八尾(14:28) → (ひだ7号) → JR富山(14:47) → (ライトレール) → 岩瀬浜

終点の岩瀬浜駅に到着
JR富山駅に戻った後は、夕方まで少し時間があったので、足を延ばして富山港まで。
かつては富山駅から国鉄、後にはJR富山港線がほぼ1時間毎に岩瀬浜まで運行していましたが、
2006年に廃止。すると路線は冨山地鉄に編入され、富山ライトレールとして市内と直結。
ノンステップタイプの車両で運行もほぼ15分間隔と利便性も格段に向上します。
私が乗った時間は15時前でしたが、それなりの乗客数でした。

岩瀬運河に架かる岩瀬橋上からの眺望
左の建物は岩瀬カナル会館、運河にはプレジャーボートが停泊中。

富山市(岩瀬浜)マンホールカード
岩瀬カナル会館にて配布。
終点の岩瀬浜は神通川の河口に発達した富山港の最寄り駅。
『富山港は富山湾の中央部に位置し、古くは東岩瀬港として、
北前船の中継地として日本海交易の拠点として発達した。
富山市の中心部を流れる神通川は富山城の北側で大きく蛇行しており、
度々洪水の被害があった。
そこで明治34年になって、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの提案で直線の放水路を建設。
更に旧河道が都市の発展に障害となるや、富岩(ふがん)運河を新設し、
掘った土砂で旧河道を埋め立てて新市街地を整備し、工場を誘致。
更に住友運河・岩瀬運河を開削し、物流の促進を図った。

岩瀬運河の先は富山湾に注ぐ
戦後は物流が舟運からトラック輸送に転換し、一時期は運河を埋め立てる計画も挙がったが、
市では町中の貴重な水面として活用する方針に転換。
今では観光船や県民憩いの場として多くの人に利用されている。』 とあります。
終点の直ぐ南に隣接するのが「岩瀬カナル会館」。ここでMHCをもらいましたが、
すぐ横の岩瀬運河には、海洋性レクレーション基地として、プレジャーボートが係留されていました。
そこから岩瀬橋を渡って富山港の方に向かうと、道沿いに「松月」の看板のある風格のある建物が。
明治からある老舗料亭で白海老料理が自慢の店で、明治期の建物や落ち着いた
庭の佇まいに癒される場所だとか。入口にもメニューなどはなく、きっと予約が必要なのでしょう。
魅力的な店ですが余りにも敷居が高そうで、一生に一度か一生行けない場所に見えました。

北国街道の手前にある「松月」
白海老料理で知られる老舗料亭。

風格を感じる「松月」玄関
メニューも料金もないのが本来の料亭。
そのまま進むと目の前に大きな塔が。
これが富山港展望台で、港のシンボル的施設として昭和60年に建設されたもの。
形状は北前船時代の常夜燈を象っているとか。
地上20mの展望台からは、港が一望できますが、正面に見えたのは石油基地でした。

海沿いに建つ富山港展望台
琴平社の常夜燈をモデルにしたもので、晴天時には立山連峰が望める。

展望台説明

展望台正面に見える石油基地

展望台の後方には廻船問屋の屋根が続く

富山岩瀬郵便局 ; 立山連峰、県天然記念物・古志の松原
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【往路】JR大阪(7:40) → (サンダーバード5号) → JR金沢(12:15→12:31) → (つるぎ710号) → JR富山(12:54→13:02) → (ひだ14号) → JR越中八尾(13:19)
越中八尾 → 徒歩15分 → 観光会館 → 徒歩5分 → 聞妙寺 → 徒歩10分 → JR越中八尾(14:28) → (ひだ7号) → JR富山(14:47) → (ライトレール) → 岩瀬浜

桐野山 聞名寺(浄土真宗本願寺派)
曳山展示館で野暮用を済ませた後は、西町を北東に駅に戻る事に。
途中、県下屈指の古い酒蔵の福鶴酒造を左に見て行くと町並みの中で
一際大きな伽藍が目に入ります。ここが聞妙寺。道が桝形になった場所が正門になります。

由緒記

「覚如上人創建之寺」と刻まれた石碑

参道の右手に建つ大師堂

大師堂の「霊法」の扁額
桐野山聞名寺(とうやさんもんみょうじ)は、
『正応3年(1290年)、美濃国各務郡平島村に、本願寺三世覚如上人の高弟・願智坊永承(がんちぼうえいしょう)が創建。
永承は師の「覚」の一字を頂き、名を覚淳と改め、念仏道の一歩を踏み出す。
願智坊は美濃に24年、次いで正和3年(1314年)飛騨国武原郷落合に道場を、
元享3年(1323年)飛騨国高原郷吉田に一寺を建立し、
嘉暦元年(1326年)覚如上人より「聞名寺」の寺号を頂く。

参道奥に見えた本堂

本堂近影

本堂向拝の下

前面の構造

掲げられた「桐野山」の扁額

垂木と蝦虹梁
応仁2年(1468年)、五代覚玄が越中に進出。大永4年(1524年)には本格的に拠点を移した。
八尾南部の乗峰や倉ヶ谷等の山間地を経て、福島の台地に寺域を構えたが、
天文20年(1551年)、三方を崖に囲まれた旧い砦の址である現在の八尾前山に移転、
濃飛越三州の中格本山となる。越後上杉勢の来襲に備えての事であった。

向拝下の様子

向拝の三匹の龍(左側)

向拝の三匹の龍(中央)

向拝の三匹の龍(右側)

本堂側面
神保、斉藤、豊臣、前田、金森氏などの歴代の武将の尊崇篤く、寛永9年に県下最古の寺子屋を開設。
境内に東西町など四筋の家並み建設を認め、八尾町の母体となる。
文化9年完成の現本堂は京都の名匠柴田新八郎貞英の傑作で、
総欅造の豪壮な作風は堂内の華麗さと共に本願寺様式建築としては
全国白眉のもので、地域住民の誇りである。
また「おわら風の盆」は当寺の境内で行われており、発祥の地として知られる。』 とあります。

本堂裏手に建つ庫裏(寺務所)

鐘楼

境内に建つ「風の盆」の石碑

碑の心組み

風の盆と刻まれた石碑
当寺は1290年まで由来が遡る古刹。
真宗勢力の強い北陸ですが、非常に珍しいと言えます。
八尾は当寺の門前町として発展した訳ですから、町と共に歩んだ500年と言えましょうか。

本堂脇にある銀杏並木
下新町の大火から寺を守った。

通りへ降りる石段

越中八尾駅から「ひだ7号」で富山駅へ
[参考書]
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越中八尾 → 徒歩15分 → 観光会館 → 徒歩5分 → 聞妙寺 → 徒歩10分 → JR越中八尾(14:28) → (ひだ7号) → JR富山(14:47) → (ライトレール) → 岩瀬浜

JR西日本 越中八尾駅舎
お盆休みは、暑いながらも晴天の北陸で巡礼と計画していましたが、まさかの連日の雨模様。
その上、北陸線内土砂崩れの影響で、予約した始発のサンダーバードと次発は運休。
やっと3本目(5号)が運行しましたが近江今津で1時間待ち。
運転再開後も徐行運転で、予定より1時間40分遅れで金沢着。
当初の予定は大幅に狂いましたが、なんとか高山線の列車があったので、
3時間遅れの八尾入りとなりました。
今は冨山市に編入された八尾ですが、かつては婦負(ねい)郡八尾町と呼ばれた山間の坂の町。
最寄りはJR越中八尾駅ですが、町の中心は駅前ではなく、井田川に架かる「坂のまち大橋」
或いは「十三石橋」を渡った川に沿った高台にあります。

越中八尾駅1番ホームにて

JR越中八尾駅スタンプ
(上) JR初期1990年代 (下)2006年 JR西日本金沢支社印

井田川に架かる十三石橋から八尾の町を遠望

橋の欄干に刻まれた歌?
開設等が一切ないので詳細不明。
『山間の坂の町である八尾は、養蚕業が盛んでかつては“蚕都”と呼ばれた。
加えて丈夫で強靭な八尾和紙の生産地としても知られ、越中富山の売薬の包紙はここで製造された。
室町時代末頃から始まる八尾和紙は、薬包紙の他、富山藩の公用紙、障子紙や傘紙、
提灯紙等、生活用紙として使われた。
その繁栄の様子は、メインの上新町通り、諏訪町本通りの伝統的街並群に見られる。

八尾のメイン通りである上新町通り
曳山展示館付近。

富山市(八尾)マンホールカードと同じ図柄のコースター
曳山展示館にて配布。

石畳が敷かれた諏訪町本通り
風情のある家屋が並ぶ。風の盆のメインはここ?

小路 「庚申通り」 の案内
上新町と諏訪町を結ぶ。
それにも増してこの町が注目されるのが、八尾町発祥の「おわら風の盆」。
小説や歌の題材にもなり、全国的に広く知られる。
毎年、9月1日から三日間、各戸の軒下には雪洞や提灯が下がり、幔幕が張られる。
人々は揃いの衣装に編笠のいでたちで、三味線や胡弓、太鼓などの哀調を帯びた楽の音に合わせ、
「おわら節」を歌い踊るという、郷愁を誘う秋の風物詩である。』 とあります。

上新町通りにある越中八尾郵便局

八尾駅前郵便局 ; おわら祭の踊り、ぼんぼり、井田川、白木嶺
越中八尾郵便局 ; おわら踊り、曳山祭の山車、井田川に架かる山吹橋

<2004年図案改正>
八尾駅前郵便局 ; おわら祭の踊り、井田川に架かる吊り橋
越中八尾郵便局 ; おわら踊り、曳山、町の中心を流れる井田川
駅から2㎞程離れた観光会館で野暮用を終えた後、駅へ戻りがてら町並み散策。
上新町通り、諏訪町本通りに趣のある家並みが続きますが、
注目すべきは禅寺坂の石垣の上にひしめく家並み群。
最も八尾らしい景観ですが、今回は時間の都合でスルーとなりました。

味噌醤油醸造元

上新町通りから西町への桝形
突き当りは行列のできる「手打ちそば高野」、正面は旅籠か?

西町にある宮田旅館
富山県の持ち家率は全国でもトップクラスですが、醸造元や和菓子司など商売をしている所はいざ知らず、
普通の民家と思しき場所も凝った造りをしていたのは驚きでした。
絹も和紙もかつては高級品で、しかも藩の専売であったと思うので、
町も潤った事は容易に想像できます。
富山では女性も仕事を持つ人が多かったことも影響したでしょう。
かつての郡名の婦負もそれに由来するような気もします。

左は和菓子店

旅籠の雰囲気十分

二階の竹製の張り出しは風の盆の観覧席?
「おわら風の盆」は全国でも珍しく哀調を帯びた踊り。
通常、祭は日頃の辛さを忘れるべく、陽気に振舞う事が多いものですが、ここは逆。
それは何よりも普段の生活が、充実していたからに他ならないと想像するのは私だけでしょうか?

西町にある福鶴酒造
「風の盆」と言う銘酒が。

福鶴酒造は県内屈指の古い酒蔵として知られる
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高岡 → 徒歩15分 → 大仏寺 → 高岡(11:12) → (氷見線) → JR伏木(11:24) → 徒歩5分 → 勝興寺 → JR伏木(13:01) → JR高岡(13:15) → 徒歩10分 → 瑞龍寺
【復路】高岡 → (バス) → 新髙岡(16:24) → (北陸新幹線) → JR糸魚川(17:01)

高岡山 瑞龍寺(曹洞宗)
北回廊の大庫裏。
総門から山門、仏殿、法堂と巡礼すると瑞龍寺参拝も一段落。通常なら「さあ、帰ろう!」となる所ですが、伽藍を結ぶ
回廊があるので、そこを回りながら出口へ。
『山門の右手にあるのが重要文化財の大庫裏。ここは寺の調理配膳や寺務運営を行う堂である。向拝は明治初年の
廃仏毀釈に際し、砺波の千光寺へ売却されたが、後の復元修理に際し、千光寺側の好意で返却され復元された。
天井は漆喰を弓型状に塗り、結露に配慮すると共に防火設備としての役目も果たす。隅柱及び荷重の架かる柱を
特に太くした点も見逃せない。正面には韋駄天尊像が祀られている。

正面から見た重要文化財・大庫裏

大庫裏に掲げられた扁額

大庫裏説明

大庫裏内部の様子

回廊を回り反対側の禅堂へ
一方、庫裏の反対側に建つのが同じく重要文化財の禅堂。禅堂とは坐禅修行をする建物であるが、坐禅だけでなく、
食事・睡眠も摂れる生活空間である。瑞龍寺の禅堂は古規僧堂として高い評価を受け、国内で重文指定の禅堂は
京都市東福寺、宇治市萬福寺とここの三ヵ所のみである。
延享3年に焼失するが直ちに再建。幕末に三分の一に縮小されたが、平成の修理で再び創建当初の姿に復元された。
回廊の一番東側には、南端に手洗いである東司(とうす)、北端に浴室が設けられたが、現在は残っていない。』 とあります。

南回廊にある重要文化財・禅堂(僧堂)
これは山門からの眺め。

正面から見た禅堂

「選佛場」の扁額

禅堂の説明

時を知らせる魚板
これが木魚の原型とか!
寺は僧侶の修行の場ですが同時に生活の場。通常は本殿や仏殿は参拝しても、手洗いや浴室は見ないものですが、
修行・食事・入浴・排泄・睡眠どれひとつ欠けても生活は成り立ちません。そんなことは当たり【前田の利長公】ですが、
毎日それを繰り返すのが人の一生。回廊を巡る事で参拝者は自ずと人の一生を辿る事ができる訳で、そこに創建者の
卓見を感じます。
曹洞宗の開祖・道元禅師は宋に渡り修行中、師が自ら市場へ食材を買いに行くのを見て不思議に思い尋ねました。
師曰く、「食事の準備も僧侶にとっては大切な修行の一つである。」と。
この言葉で食事の重要さを知った道元は帰国後、その教えを取入れることになります。
食事に携わる典座(てんざ)と呼ばれる職務に拠って我が国の精進料理が大きく飛躍するのはそれ以降の事。食事に限らず、
日常生活に関係の深い事も取り入れた事が、密教と比較して禅が広く庶民に広がる契機になったと思います。
まさに【衣食道元】と言えるでしょうね。

北回廊の半ばにある鐘楼

回廊の南端には東司跡が
尚、回廊も重文である。

韋駄天尊御朱印
大庫裏正面の厨子に祀られる。

烏瑟沙摩(うすさま)明王御朱印
本来は東司に祀られる仏様である。

南西回廊の奥(外側)にある茶室

南西回廊奥には前田利長公初め石廟が五基並ぶ
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