<コース>
【往路】駒ヶ根駅前(8:00) → (駒ヶ岳ロープウェイ線) → 切石公園下(8:09)
切石公園下 → 徒歩10分 → 光前寺 → 切石公園下(10:28) → (駒ヶ岳ロープウェイ線) → 駒ヶ根駅前(10:38) → JR駒ヶ根(11:09) → (飯田線) → JR市田(12:04) → 徒歩10分 → 高森町役場 → 徒歩20分 → 元善光寺 → JR元善光寺(13:14) → JR飯田(13:23)

飯田駅(JR東海名古屋支社)
参拝後は電車で元善光寺駅から飯田駅まで移動。高遠と並ぶ伊那の小京都と呼ばれる町ですが、
滞在時間も2時間余りとあって散策はなし。飯田線のほぼ中央にあるここからは豊橋までは
少ないながらも特急が運転されており、それに乗って豊橋に向かうのが目的でした。
時間の合間を縫って市役所でMHCをゲットしましたが、これが今回の信州の最後を飾るカードに。
駅周辺にはリンゴがデザインされたカラーマンホールが設置されていますが、
これは平成7年の訪問時には既に設置されていたもの。
MHCが出来てからは注目を集めるマンホールですが、飯田市のものは堂々たる老舗と言えます。

飯田市マンホール蓋
『飯田市は人口9万4千人で伊那谷一の商業都市であると共に飯田線内に於いては起点の豊橋市を
除くと最大の都市である。飯田は武田信玄の東海地方進出の前線基地に端を発し、
江戸時代は堀氏の城下町、また三州街道の宿場町として繁栄した。
昭和12年1937年に飯田町と上飯田町が合併して市制を施行。その後も周辺の村を次々に合併するが
人口流出もあって余り増加していない。産業は製糸・木工・精密機器などの工業、凍り豆腐に代表される
食品工業があるが、リンゴに代表される果樹栽培が有名である。リンゴの赤は飯田更には伊那谷を代表する
カラーであり、平成4年(1992年)に新築された駅舎もリンゴをデザインした赤である。
また市内には「リンゴ並木」の街路があり、地元の中学生に拠って管理されている。

JR飯田駅スタンプ
(上) 国鉄時代の「わたしの旅」印 (下) JR東海名古屋支社印

飯田駅入口屋根はリンゴの外枠にリンゴのステンドグラスとリンゴ尽くし
飯田線の特徴はその駅数の多さで、豊橋~辰野間195.8㎞に92駅が存在する。
これは飯田線の前身が4本の私鉄であったためで、鉄道創業期に官営の中央本線が
飯田を通り中津川から名古屋に抜ける案もあったが実現せず、結局私鉄の伊奈電気鉄道が飯田に敷設された。
計画に終わった中津川ルートは現在の中央自動車道となり、飯田~名古屋間の移動は高速バスが主流である。
そのような沿革を持つ飯田線には現在でも各駅の設備は簡素なものが多く、最近の秘境駅ブームを牽引している。』
とあります。

秘境駅スタンプ 「千代駅」と「金野駅」

「田本駅」と「為栗駅」

「中井侍駅」と「小和田駅」
リンゴで有名なだけに駅舎もリンゴ仕様でした。
ここから南方面は秘境駅・難読駅が続き観光案内所には6駅のスタンプも設置。
JR東海のスタンプ設置は当然としても、最近の秘境ブームが覗える話です。
駅に行かずとも押印できるのが魅力ですが、それを【卑怯】と言う人はいない様子。
その上、待合室には秘境駅巡りのキャラクターとスタンプもありました。
キャラクターの名前は為栗(してぐり)メロ。飯田線屈指の難読駅名を使っています。
JRで鉄道むすめは珍しいですが、昨今の秘境駅ブームの起爆剤に【してぐり】なのでしょう。
【おおぞれ】になってしまうと大変ですが…。

駅入り口付近に立てられた秘境めぐりキャラクター看板

看板の脇にはキャラクターのスタンプも
と電車を待っていると事故で列車が運休した模様。
「さて1時間以上あるけど、どうしよう?」と悩んでいると、20分後に名古屋駅行きの高速バスが出る模様。
急いで発売所に行くと、何とか空席があり、駅前で土産も購入して無事乗車。
土産に選んだのは飯田名物の赤飯まんじゅう。何でも江戸時代に飯田のお百姓さん達に
「赤飯を食べる事はまかりならぬ!」と贅沢禁止令が出されたので、それならばと
見えない様に赤飯をまんじゅうの皮の中に隠して食べたのが始まりとか。
どっちもどっちで、狐と狸の化かし合いというよりも馬鹿試合の感じがします。
余計な出費になりましたが、秘境駅を通らず高速バスという卑怯な手段を採ったために
予定より2時間早い帰宅とはなりました。

土産は飯田名物「赤飯まんじゅう」
【復路】飯田駅前(14:34) → (名鉄高速バス) → 名鉄名古屋バスセンター(16:58) → JR名古屋(17:17) → (のぞみ235) → JR京都(17:52)
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定額山 元善光寺(天台宗)
駒ヶ根駅を11時過ぎの上りの飯田線で南下。最後の巡礼先の最寄りは元善光寺駅ですが、
野暮用のため二駅手前の市田で下車。
JRで二駅歩くのはきつそうですが、飯田線は192㎞の間に94駅があり、
駅間平均2㎞と普通のJRの半分、これも前身が4つの私鉄だからでしょう。
飯田はリンゴですが市田は干し柿。MHCもそれを反映したデザインになっていました。
駅を横目に153号線を過ぎて500m西へ行くと寺院入口、広い駐車場と石段が目印です。

高森町と飯田市のマンホールカード

元善光寺駅を過ぎて寺院へ
定額山元善光寺(じょうがくさんもとぜんこうじ)は、
『欽明天皇の御代に百済から阿弥陀如来像が我が国に渡来。これが本邦への仏教伝来の始まりとされる。
しかし物部氏と蘇我氏の争いに仏教が巻き込まれ、如来像は難波の堀に沈められてしまう。
その後、推古天皇10年に信州麻績の里(現在の飯田市座光寺)の住人・本多善光(よしみつ)は
国司の供をして都に上った際に、難波の堀にて阿弥陀如来を発見。
生まれ故郷に連れて帰り祀ったのが元善光寺の起源とされる。
この時、臼に置かれた仏像が光を放ったことから、ここを座光寺と呼ぶようになったと言われる。

駐車場から山門まで続く綺麗な階段

階段を上り山門前へ

山門近影
奉納された酒樽と垂れ幕には寺紋の立葵が
皇極天皇元年(642年)に、勅命があり阿弥陀如来像は芋井の里(長野市)に遷座され、
本多善光の名を採って善光寺と名付けられ、元の場所は座光寺から元善光寺に改称された。
この時 「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰り来て衆生を化益せん。」
という仏のお告げがあり、本多善光は山中で授かった霊木に自ら一刀三礼の上、
御本尊と同じ大きさの一光三尊阿弥陀如来像を彫刻。これを元善光寺の本尊とした。
御詠歌に
・月半ば 毎に来まさん 弥陀如来 誓いぞ残る 麻績の古里
と詠まれた様に、長野市の善光寺と飯田市の元善光寺を両方お詣りしなければ片詣りと言われる。』
とあります。

山門のすぐ左手にある矢場

更に階段を上ると右手に鐘楼が建つ

本堂前に生える相生の松と後方の客殿
顔ハメがあるので、ここが撮影スポット。
御本尊の「一光三尊阿弥陀如来」は一つの光背の中に阿弥陀如来(中央)、観音菩薩(向かって右)、
勢至菩薩(向かって左)の三体の仏様が並ぶ善光寺如来という独特の形。
数えの七年毎に一度、丑年と未年にお前立を御開帳するのは善光寺と同じでした。
寺が元善光寺なのに地名が座光寺とは不思議でしたが由来を読んで納得。
それにしても遷座まで41年間、臼の上に安置した後、光が発したとは【うす】の様な【ほんだ】の話。
善光は【あみだ】を流して感激した事でしょう。今は「座光の臼」として宝物殿に収納されているそうです。

いよいよ御本堂へ参拝

本堂前から山門を振り返る

本堂内陣と「本多善光誕生霊地」 の扁額

お戒壇巡り入口に鎮座する「おびんづるさま(賓頭盧尊者)」

少し時間が経つとこのような人出に
境内は遥かに狭いとは言え、御本尊も寺紋も善光寺そっくり。立葵の紋は徳川四天王の
本多平八郎忠勝と同じですが、共に本多氏だからでしょうか?【知ってんのう】ならば教えて欲しいものです。
加えてお戒壇巡りとお賓頭盧様まで同じ。尤もこちらは盗難には遭われなかったのが幸いでした。
この地で【イイだ】とはならなかった訳ですが、わざわざ国府でもない北の長野市まで移したのかは今も謎です。
もしかすると堀に放り捨てられた如来様が、堀氏城下町の飯田に【否】とおっしゃられると忖度した関係者が
移した可能性も。なにせ如来様は自らは【言い出せん】お方ですから…。

元善光寺説明書

元善光寺御朱印 (平成7年拝受)

座光寺郵便局 ; 元善光寺本堂、善光寺寺紋・立葵、如来御腰掛石
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宝積山 光前寺(天台宗別格本山)
枝垂桜と名勝庭園で知られる光前寺ですが、もう一つ忘れてはならないのが霊犬早太郎(はやたろう)伝説。
遠江の国府磐田では「しっぺい太郎」の昔話として知られており、名前は違いますが根は同じ話。
国分寺跡訪問時の拙稿でも採り上げました。
「遠江国分寺跡 国府の変遷と霊犬の街」
本堂には早太郎の木像が鎮座、境内には三重塔を背景に石像が建ち、脇には早太郎の墓もあり、
いずれも映えの撮影スポットの様子。

本堂前に置かれた早太郎の木像
本堂内唯一の撮影可能な場所。
その伝説に拠れば、
『今からおよそ700年前、光前寺に早太郎という山犬が飼われていた。
この犬は光前寺の床下で子犬を生んだ母犬が、子犬達を連れて山に帰った際に、
一匹だけ寺に残していった犬である。或る日、光前寺の近くに怪物が現れ子供をさらおうとしたが、
早太郎が駆け付けて追い払って事なきを得たと言う、大変強い山犬として知られていた。
その頃、隣国の遠州府中(静岡県磐田市)見附天神社では、毎年祭の夜に白羽の矢が立った家の子女を
神前に人身御供として供えるという恐ろしい仕来りがあった。
延慶元年(1308年)、一実坊弁存という社僧が府中を通りがかる。
「神様がそのような悪行をする筈はない。」
と考えた一実坊は、祭の日に境内に潜んで様子を伺っていた。
そこに大きな怪物が現れ
「信州信濃の光前寺、早太郎には知られるな。」
と呟き娘をさらっていった。

本堂の前面に掲げられた早太郎伝説

早太郎を中心に三重塔と本堂

本堂を背景にした早太郎石像
そこで一実坊は信州へ向かい1年がかりで早太郎を探し出し、寺の和尚に頼み込んで借り受け、
見附村に戻ったのは翌年の秋口の事であった。
僧侶は村人と相談し、娘の身代りに早太郎を潜ませ、夜になって現れた怪物と激しく戦った。
翌朝、村人が神社へ向かうと境内には老猿の化身した狒々が死んでいた。
こうして怪物は退治され喜んだ村人は豊年踊りをして祝ったという。
戦って傷ついた早太郎は光前寺まで辿り着くと、門前で一吠えして息を引き取ったという。
一実坊はこの報恩のために大般若経を書写し、天神社から光前寺に奉納。これが今も遺物として経蔵に残っている。
これが縁となって昭和42年(1967年)には駒ヶ根市と磐田市は友好都市となって今に至る。
早太郎は不動明王の化身であり、災難除け、厄除けの霊犬として広く信仰を集め、
今なお見付からは報恩の参拝が続けられている。』 とあります。

三重塔を背景にして建つ早太郎石像

横から見た早太郎石像
顔が尖って居り、一見すると狼(山犬)にも見えるが、お寺の方の話では、やはり犬だそう。
この伝説については、小学校の図書室で読んだ「日本の昔話」(ポプラ社)と
横山隆一原作のテレビアニメ「おんぶおばけ」には「しっぺい(悉平)太郎」として、
「まんが日本昔話」の猿神退治には早太郎の名で登場。今まで計三度耳にして
昔話の中では印象に残る話です。犬の名前は違いますが元は同じ。
単なる昔話と思っていましたが、実在する古刹に伝わる話であると知ったのは社会人になってからでした。
名前が違うというのは不思議ですが、駒ヶ根でも疾風太郎と呼ばれることがあるそうで、
しっぺい(悉平) → しっぷう(疾風) → はやて(疾風) → はやい(早い)
と変化したと考えられます。

石像と本堂の間にある早太郎の墓

早太郎の墓の前から三重塔を見る
ところでこの話はどこまで真実を伝えているのでしょうか?
場所は少し離れますが野辺山付近の川上村には昔から川上犬と言う犬がいて猟犬として有名。
だとすると川上犬が田畑を荒らす野猿或いは国府を荒らしまわっていた山賊を退治したと考えるのが
あり得る話といえます。何故遠江の国府なのかは不思議ですが、かつて磐田の資料館で伺ったのは、
駒ヶ根と磐田は天竜川を通して交流があったそうなのでそれが反映されたのでしょう、という話でした。
信州で【みつけ】た猟犬が悪者を退治して、村人がそれを【いわった】。
何事も悪事をすると【しっぺい】返しを受けると言う教訓ではあります

境内には大坂夏の陣で討死した地元の勇士の墓も建つ

勇士の解説 「上穂十一騎之碑」
真田十勇士よりも一人多いのが自慢か?

境内の最奥にある賽の河原
この昔話では「早太郎」の名を聞いたお坊さんが、その名前の豪傑を探し回りますが
1年経っても見つからず。諦めかけていた時に子供が「早太郎!」と呼ぶ声を聞いて、
実は犬の名前だったと知るところがポイント。信州風に言えばここがミソでしょうか?
境内の説明では、その辺りの記述が今一つなので、ここを強調すればもっと【はやったろう】とは思いますが…。
前回の訪問時にはなかった早太郎御朱印も拝受、犬に御主人は居ても御朱印になるとは
思いも寄りませんでした。加えて早太郎御守と早太郎土鈴も購入。
なんだかんだで光前寺だけで¥5000近い出費になりましたが、
早太郎も霊犬・御朱印・【どれい】と大忙し、まさに【しっぷう】の様な生涯です。

霊犬早太郎御朱印

早太郎グッズ
御神籤(左 ;¥500)と土鈴(右 ;¥1000)。
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宝積山 光前寺(天台宗別格本山)
仁王門前に、名勝光前寺庭園の石碑が建つ事から分かるように、枝垂桜と並んで有名なのが名勝庭園。
仁王門を左に進むと大講堂ですが、その手前に周囲を桜と石に囲まれた池があり菖蒲を始め
種々の花が植えられています。でも残念ながらそこは名勝庭園ではありません。
しかし名勝庭園という名称はなくても参拝者が足を停めて眺めるに相応しい名所であることには変わりはなし。
他所から来た者には境内全体が庭園に見えるでしょう。

大講堂前にある池(奥側)

手前の池には菖蒲が
名勝光前寺庭園は、
『本堂の前庭と本坊客殿奥の庭園、仁王門から参道を経て三門本堂へと続く直線状の伽藍配置、
及びそれをとりまく境内林など境内全域の約6.7ヘクタールが光前寺庭園として文化財保護法に拠る
国の名勝に指定されている。
本堂前庭園は、鎌倉時代作庭の蘭渓道隆式池泉庭園。竜門瀑に鯉魚石を意匠した滝石組で、
鯉魚石を滝の上部に意匠した庭は稀少と言える。

本堂前庭園は蘭渓道隆式池泉庭園

本坊へと向かう苔の古道

苔の生育に適した杉木立
客殿奥にある庭園には三門手前の杉の巨木に覆われた参道を右に進むが、
その西側には苔の古道と呼ばれる道が並行して走る。
門を潜った先に建つ本坊で受付を済ませてから拝観となるが、
当寺では拝観料・入山料とは呼ばずに灯明料と呼ぶ慣わしである。
また客殿前にある庭も苔や石組みに工夫が凝らされ見応えがある。

杉木立の先にある本坊

本坊への門

門を抜けて左手にある石組みと池

正面に建つ本坊の奥で受付

客殿玄関へ

辯才天を祀る客殿

客殿より見た前庭
本坊奥の客殿にある庭園は江戸時代初期の築山式池泉庭園。西部の山畔に石組みと滝組を配し、
その下部に池泉を意匠したものである。静寂な環境と風致は県下随一と称せられ、
日本の名園として高く評価されている。』 とあるように境内の多くの場所に点在。
しかも大部分が無料で拝観。観賞用の作庭ではなく、あくまでお堂に付随したと言う扱いなのでしょう。

客殿より見た本坊書院

客殿西側の庭園

廊下から見た客殿

客殿と本坊を繋ぐ廊下からの眺望
巨木が林立する境内は直射日光が地面に届き難いため、その多くは苔に覆われています。
京都市の寺院とは違って、庭師に拠る苔の手入れは不要と思えましたが、余り繁茂するので
却って石組み等は目立たず。竜門瀑と鯉魚石と呼ばれる場所も今一つ分かりませんでした。
そんな中にあって客殿の庭園のみが有料でしたが、これも庭園を見ると言うよりも本坊・客殿の内陣に入るためでしょう。

本坊縁側から見た庭園

庭園の池に架かる石橋

本坊縁側と庭園

池の奥に見えるのは鶴島・亀島か?
本坊奥に祀られていたのは弁財天。本堂前に建つ重文・弁天堂には祀られておりません。
「御本尊の不動明王があるのに何故また辯天様が?」と思いましたが、
当寺は伊那七福神の一寺で辯才天をお祀りしているのだそう。それ故、御朱印もしっかりありました。
これらに関して【いいな!】と言う人は居ても【否!】と言う人は居ないようです。

光前寺説明書

今回(上)と平成7年(下)の拝観券
クリアファイルはおまけ。

光前寺オリジナル御朱印帳 (大判 ; 170×115㎜)
青色と桜色の二色があり桜色を購入。

辯才天御朱印 (伊那七福神)
[参考書]
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宝積山 無動院 光前寺(天台宗別格本山)
杉並木の参道のさきには見上げるような三門が。ここから先には大小さまざまな堂宇が散在する境内。
宝積山無動院光前寺(ほうしゃくさんむどういんこうぜんじ)は、
『貞観2年(860年)の開基。慈覚大師円仁の弟子本聖(ほんしょう)が比叡山を下りた後、
当地の太田切川の支流黒川から不動明王像を授かり、御本尊として伽藍建立したのが始まり。
創建当時は現在地より200m程、木曽山脈寄りにあったと伝わる。
7700坪の広大な境内に樹齢数百年の杉の巨木に囲まれて10余棟の堂塔を備え、
善光寺などと共に天台宗信濃五山の一つに数えられた。

巨大な三門の屋根裏

三門下から天井を見上げる

軒下の組物

横から見た三門
以来、千百余年の長い歳月の間に、幾多の火災等により古記録は焼失したが、
天正慶長時代には武田・羽柴等の武将の庇護を受け佐久・諏訪郡まで寺領を広げた。
江戸時代には徳川家光から地方寺院としては破格の60石の寺領と十万石の
大名格を与えられるなど隆盛を極めたが、明治以降は多くの末寺等も廃寺となった。
しかし今なお樹齢数百年の杉木立と10余棟の堂塔を備えた長野県下屈指の大寺であり、
南信州随一の祈願霊場として広い信仰を集めている。
杉並木参道の先に建つのが三門。嘉永元年(1848年)の再建で、
迷いより解脱に入る門の意味である。楼上には十六羅漢を祀る。
三門を過ぎた左手には鐘楼と十王棟が、右手には当寺で最も古い建物である弁天堂が建つ。
弁天堂は方一間入母屋造で内部厨子の宝形造と共に室町時代の様式が覗える
貴重な古建築として国の重要文化財となっている。

三門下から来し方を振り返る

三門左手には鐘楼が

右手には樹齢700年の当山霊木・三本杉が聳える
「樹の皮を剥がさないで下さい。」の注意書きがある。

三本杉の奥にある文化3年再建の一切経蔵

鐘楼奥の十王棟
こちらに気を取られて向かいの弁天堂の写真を撮り忘れたのが後悔。
その奥には樹齢700年の三本杉の霊木が聳え、脇には享和2年(1802年)に再建の経蔵が建つ。
唐破風造りの向拝の建築美は近郷第一と称せられており、多くの経典と共に
霊犬早太郎報恩のため奉納された大般若経六百巻も秘蔵されている。
最も奥の石垣の上に建つのが光前寺の御本尊不動明王及び八大童子を祀る本堂。
嘉永4年(1851年)の再建で、不動明王は秘仏である。本堂脇には裏山から清水が湧出、
延命水として名水スポットになっており、汲みに来る参拝者が後を絶たない。

石橋の奥に見える本堂

本堂近影

向拝と前面を繋ぐ蝦虹梁の見事な彫刻

虹梁の繋ぎ目を支えるのは猿か邪鬼か?

向拝の向こうに見える三重塔

向拝の欄間彫刻

本堂後方の造り

本堂屋根の遠望

向拝下より三門方面を見る
本堂から少し下った場所に建つのが南信州唯一と言う三重塔。文化5年(1808年)の再建で、
名匠・立川和四郎の作。高さ17mの均整のとれた美と彫刻の美しさは高く評価されている。
三重塔南には30体以上の地蔵菩薩像が並び賽の河原と呼ばれている。
更に境内奥は光前寺自然探勝園に続く。』 とあります。
多くの堂宇の中でも一際目立つのが本堂。三門の正面に見える本堂は
光前寺紹介の写真にも登場する絶好の撮影ポイントです。
加えて向拝の彫刻群が非常に精巧な造り。中でも龍が飛ぶ形の蝦虹梁は
他では見ることが出来ない逸品と言えそうです。

杉木立の奥に見える南信州唯一の三重塔

本堂左脇の延命の水

下から見上げた三重塔

正面から見た三重塔

よく写真に撮られるアングル

三重塔軒下の組物
いうなれば本堂、三門、三重塔が境内の堂宇の御三家ですが、いずれも19世紀の再建。
それが古刹に見えるのは、周囲に上手く溶け込んだためでしょう。
などと考えながらの散策でしたが、後で写真を見ると最も古い弁天堂を撮り忘れ。
小さかったことで見過ごすというミスをした訳ですが後の祭り。弁天堂だけにバチが当たったのでしょう。

本堂前庭園

光前寺御朱印 (御本尊)
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切石公園下 → 徒歩10分 → 光前寺 → 切石公園下(10:28) → (駒ヶ岳ロープウェイ線) → 駒ヶ根駅前(10:38)

西に見える木曾駒ヶ岳
信州巡礼二日目は駒ヶ根泊まりで、三日目は飯田線を南下する事に。
鉄道マニアの間では難読駅名、最近では秘境駅として取り上げられることの多い路線ですが、
一般的には西に木曽山脈(中央アルプス)、東に赤石山脈(南アルプス)を望む登山者の聖地。
特に太田切川扇状地の付け根部分にある駒ヶ根高原は標高900m、
名前の通り木曾駒ヶ岳、甲斐駒ヶ岳の両駒を望む事ができます。
しかも駒ヶ根駅前から海抜1662mのしらび平駅まで路線バス、
そこから2612mの千畳敷駅までロープウェイと初心者にも登れるルートが通っており
登山者には人気のスポット。私もいずれ登る日が来るのでしょうか?

駒ヶ根駅スタンプ
(上) 国鉄時代の「わたしの旅印」 (下) JR東海名古屋支社印

駒ヶ根市マンホール蓋

駒ヶ根市マンホールカード 駅の観光案内書で配布

駒ヶ根郵便局 ; 木曾駒ヶ岳、光善寺本堂、霊犬早太郎

駅前食堂で、地元のB級グルメ・ソースカツ丼
そんな駒ヶ根にあるのが名刹光前寺。北信濃の名刹が「ぜんこうじ」なのに対し、
南信濃では「こうぜんじ」と反対になるのも不思議ですが、北に比べても遜色のない古刹です。
お寺へは駅前からバスで10分の停留所で下車。普通、このような場合は本数が少なくて
【駒がねぇ】状態で苦労しますが、ここに関しては30分間隔で運転と異様に多い本数。
却って飯田線が60分おきで逆転現象。これもロープウェイ乗場には一般車乗入禁止のためで、
途中の駐車場に車を停めてバスに乗る登山者の姿が見られました。
バス停から南東へ進むと行く手に大きな屋根が見えるのが目指す寺院。

バス停から寺へ向かう途中の遠望

この中央奥に寺院が建つ

仁王門前へ到着
有料拝観は書院と庭園なので、本堂や境内は早朝からもj拝観可能?

仁王門脇の枝垂れ桜
『入口には仁王門が建ち大永8年(1528年)作の金剛力士像が安置。寺を守護している。
仁王門の左手には枝垂桜があり、その奥の大講堂まで続いている。
大講堂は昭和55年に御本尊不動明王の御開帳記念事業として建立された
阿弥陀堂が元になっており、講堂前には池泉庭園がある。
仁王門からは杉並木参道が巨大な三門まで続き、地面には杉苔、光苔(ヒカリゴケ)が自生し、
幻想的・神秘的な情景を演出している。』 とあります。

正面から見た仁王門

仁王像(右の阿像)

仁王門に続く参道の石垣と杉苔

参道の左手には大講堂

正面から見る大講堂
拝観ルートには入っていないので、観光客は殆ど見えず。
枝垂れ桜で有名な当寺ですが、もう一つの植物が光苔。
光苔とはいうものの、自ら光を出さず、外からの光を反射するだけですが、
見る場所に拠って神々しい雰囲気が感じられるのでしょう。
この日も参道の石垣の隙間や本堂奥の床下などに見られましたが、
受付の方の話では盗難が絶えないそうで、数は減っているそう。
盗難は許されるものではありませんが、こんなものを取ってどうするつもりでしょう?
光前寺から光が失われない事を祈るばかりです。

途中から杉並木参道へ

杉の巨木の奥に三門が聳える

杉の根元の杉苔

杉苔近影

これは杉苔の胞子嚢か?
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<コース>
【往路】上田駅(6:50) → (上田交通) → 別所温泉(7:19)
別所温泉駅 → 徒歩8分 → 北向観音 → 徒歩5分 → 安楽寺 → 常楽寺 → 別所温泉(9:25) → (上田交通) → 下之郷(9:38) → (駅レンタサイクル25分) → 塩野池 → (レンタサイクル5分) → 中禅寺・塩野神社 → (レンタサイクル5分) → 龍光院 → (レンタサイクル5分) → 前山寺 → (レンタサイクル15分) → 生島足島神社 → 長福寺 → 下之郷(13:15) → 上田駅(13:31)

理智山 薬師院 長福寺(真言宗智山派)
生島足島神社に参拝したので塩田平から去る潮時ですが、神社に隣接したお寺には
「パワースポット」の幟が立ち何やら謂れがありそう。そこで予定外ですが、覗いてみる事に。
鉄筋コンクリート製の本堂と、朱も鮮やかな夢殿を見るとてっきり新しい寺院かと思いましたが、
ところがどっこい平安時代に遡る古刹。新興ではなく信仰寺院でした。

先ずは正面の本堂へ

本堂入口からの眺望
理智山薬師院長福寺(りちさんやくしいんちょうふくじ)は、
『康保2年(965年)に修行中の祐存上人が、塩田平の霊峰独鈷山の鬼門に位置する生島足島神社の神域に
独鈷山守り仏である中禅寺の薬師本尊を勧請し奉安したのが嚆矢。信州屈指の古刹である。
以来、癒しのお薬師様として、苦しみのない人生と安らかな来世を願う人々の祈りの聖地として今に至る。

入口より内陣を見る

御本尊の薬師如来
本堂手前に建つのが信州夢殿。
昭和19年(1944年)に熱心な観音信者であった大塚工芸社創業者の大塚稔氏に拠り建立。
八角のお堂は「信州夢殿」と称され、全ての部分を奈良法隆寺夢殿の完全に二分の一に縮小。
瓦も奈良の物を使用するなど当時の技を結集した昭和を代表する建築である。
御本尊は大塚氏が小布施の民家より譲り受けた観音像で、総高40㎝の金銅仏で
正式名称は銅像菩薩立像であるが、法隆寺夢殿に倣い救世観音と称している。
夢殿の命名と開眼は宗派を超えて、時の法隆寺佐伯定胤管主に拠ったものである。
古仏特有の微笑みから白鳳年間の作と考えられ、作風からは天平時代の作とも推定される。
長野県下ではこの時代の金銅仏は現在4体しか残って居らず、国の重要文化財に指定されている。
過去に三度盗難に遭ったが、その都度無事に戻ったので、最近は「お戻り観音」として
旅行安全を願う参拝者が増えている。』 とあります。

門から左へ進むと塀の向こうに夢殿が見える

正面より見た信州夢殿
二分の一の規模とはいえ、法隆寺のそっくりさんのお堂を建てる事には逆風もあったでしょうが、
それを許した法隆寺もエライ!「和を以て貴しとなす」太子の遺訓が今も生きていることを実感します。
観音様が三度盗まれても戻って来た事も奇跡的、驚旅行者が参拝するのも尤もな話ではあります。
しかし新婚さんがお詣りするには問題がありそうです。

外観だけの夢殿の縁起
御本尊の拝観と御朱印を御願いするため寺務所へ向かいますが、昼時のためか不在。
拝観は要予約なので次回に持ち越す事に。国宝・重文を全て堪能しましたが、
振り返ると安楽寺の八角に始まり信州夢殿の八角で終わった事が【発覚】した参拝でした。

不在の受付に置かれていた案内書

今回拝受できなかった御朱印
こうして別所と塩田平の社寺巡礼も無事終了して上田駅まで戻ったのが13時過ぎ。
そこからこの日の宿泊先の駒ヶ根まで移動。
上田駅(14:50) → (しなの鉄道) → JR篠ノ井(15:21→15:24) → (篠ノ井線) → JR坂北(15:58) → 徒歩10分 → 道の駅さかきた → 徒歩20分 → 西条温泉 → 徒歩15分 → JR西条(16:57) → JR岡谷(17:49) → (飯田線) → JR駒ヶ根(19:09)
途中の坂北駅でMHCの野暮用があったものの、ほぼ乗り継ぎ状態でしたが到着は19時過ぎ。
東信から南信まで南進して信州の広さを改めて知った一日とはなりました。
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生島足島神社(国幣中社)
塩田平の古刹と神社に参拝した後は、1時間に1本の別所線に乗るべく下之郷目指して帰還。
その前に、駅近くに鎮座する神社の参拝を忘れる訳にはいきません。
駅の改札をでて直ぐの場所には社号標が建ち、進んで行くと朱塗りの大鳥居が聳えますが、
今回は帰路なので西門からの参拝。

下之郷駅を出て直ぐの場所に建つ社号標

駅から南に行った場所に建つ北鳥居
ここから境内に向かうのが正式な参拝ルート。

今回の参拝は西鳥居から
こちらは鳥居も社号標も北よりも少し小振り。
生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)は、
『万物に命を与える生島大神、万物を満ち足らしめる足島大神の二神を祀り、
摂社(下宮)には諏訪大神が祀られている。
二柱の大神は大八洲国、即ち日本列島の御魂として奉祀され、日本の真ん中に鎮座する。
太古より国土の鎮守として仰がれる信濃の古社で、神代の昔、建御名方富命が
諏訪の地に向かう途すがらこの地に留まり、二神に奉祀し米粥を煮て献じたと伝わり、
その故事は今も御籠祭の神事として連綿と続いている。

西鳥居をぬけ西御門へ

西御門から神池と神島の眺望

神池を囲む柵の脇に植えられた牡丹

境内から神島に架けられた御神橋

北側から見た御神橋
古来より歴朝の崇敬篤く、平城天皇の大同元年には神戸封戸の寄進があり、
醍醐天皇の延喜年間には名神大社に列せられた。
鎌倉時代には北条氏、戦国時代には武田氏・真田氏の武将を始め、
代々の上田城主も神領を寄進、社殿を修築する等崇敬を表している。
当社には武田信玄の“戦勝願状と社領安堵状”、部下の武将たちが信玄に忠誠を誓った
“起請文”83通が残されており、国の重要文化財に指定されている。

現在は御神橋横の参橋から神島へ

神島に鎮座する御本社(上宮)

正面から見た御本社

御本社前にある磐座磐境
但し、御神体はこれではなく本殿内殿の土間である。
殊に天皇が都を定める時には必ず生島足島の二神をその地に鎮祭される例であり、
近くは明治天皇が首都を東京と定められた明治2年(1869年)、宮中にこの二柱の大神を親祭され、
明治32年には勅使を遣わされ国幣中社に列せられた。
神域は大八洲御魂霊地と称され、ヒムロや欅の老樹が繁り古社の歴史を感じさせる。
本社は神池に囲まれた神島の中に鎮座し、本殿内殿には床板が無く、
大地そのものの土間が御神体として祀られている。

参橋から東を見る
正面の社は子安社で良縁・安産・夫婦円満の神として崇敬を受ける。

こちらは東御門

御門脇の牡丹

東から見た神池
この様式は我が国でも最古の形とされる「池心宮園池(いけこころのみやえんち)」である。
内殿(御室)は切妻屋大社造で室町期の天文年間(1532~1555年)の建築と言われる。
内殿を覆う権現造の本殿・拝殿は戦時中の昭和16年(1941年)国費を以て再建され、
昭和を代表する貴重な神社建築である。
摂社本殿は、慶長15年(1610年)真田信之により再建され、
一本の大木から造られたと言う一間社流造である。
門は諏訪糸「御門屋」としては県内最古の門である。』 とあります。

下宮の前に建つ神楽殿

西側には歌舞伎舞台

摂社 諏訪神社(下宮)

下宮前にある夫婦和合の御神木・夫婦欅
樹齢800年で当社七不思議の一つ。これは右側の夫欅。

枝葉が旺盛な左側は妻欅
それよりも気になるのが「日本の真中」という説明。別所温泉駅の項でも述べましたが、
最近は「信州の鎌倉」に加え「太陽と大地の聖地」という事で令和2年6月19日に日本遺産に認定。
その理由として夏至の朝日の線が信濃国分寺から生島足島神社、塩田平を経て
西方の女神岳まで一直線に並ぶらしく、レイライン(Ley Line)と呼ばれますが、
果たしてそれだけなのでしょうか?
そこで境内を見渡すと、ここには神池が鎮座。諏訪湖が信州の中心とされるように
水の少ない塩田平に湧出する池を信州の諏訪湖に譬えて、レイクラインとして
日本の中心と考えたのではないかと勝手な想像を廻らせています。

境内の顔ハメ?

生島足島神社説明書

生島足島神社御朱印

東塩田郵便局 ; 生島足島神社
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獨股山 宝蔵院 前山寺(真言宗智山派)
メインの三重塔に参拝した後は、眼下に見える茅葺本堂へ。
重文の三重塔を見たら帰る人が多いと思いきや、殆どの人の足は本堂へ向かっています。
塔と違い重文ではありませんが、傾斜のある屋根と前面に張出した向拝はいずれも茅葺で、
古刹の雰囲気は十分。向拝前には乾燥した茅が立て掛けてありましたが、
茅葺を知らない世代へは良いサンプルと言えるでしょう。

本堂へ向かう途中に三重塔を振り返る

正面から見る本堂には風格が漂う

本堂の向拝屋根と欄間彫刻

向拝下に立て掛けられた茅
獨股山宝蔵院前山寺(どっこさんほうぞういんぜんさんじ)は、
『独鈷山麓にある古刹で大日如来を本尊とする。本堂は約400年前の建築で、
間口10間、奥行8間の木造茅葺屋根である。
弘仁年間の812年、空海が護摩修行の霊場として開創したのが嚆矢。
当初は古義真言宗として法相、三論両宗を兼ね、法蔵坊・花蔵坊・地蔵院と称していたが、
元弘年中(1331年)讃岐国善通寺から長秀上人が伽藍建立を発願してこの地に来止。
規模を拡大して現在地に移し、正法院前山寺としたと伝えられる。

本堂前に建つ第35世・中島大僧正像

書院玄関を抜け受付へ向かう

通り道から見た書院部屋

受付前の池
塩田城の鬼門に位置し、その祈祷寺として武将の信仰も篤かった。貞享年中(1684~)鶏足寺を離末し、
京都の智積院末となり、新義真言宗信州常法談林所として教学の殿堂でもあった。
教学の寺に相応しく歴代住持には高僧学僧が輩出し、第11世真海僧正は甲州武田家の信頼篤く、
天正8年には武田勝頼から朱印安堵状を下附されている。また第35世・中島永和大僧正は晩年、
総本山根寺座主に就任、本堂前にブロンズ像が建つ。
往時は四十数ヵ寺の末寺を擁し、歴史のある寺として知られる。

受付から見える奥の座敷で「胡桃おはぎ」が頂ける

胡桃の前に先ずは御本尊へ参拝

正面に鎮座まします御本尊

最近話題の賓頭盧(びんずる)尊者
また前山寺の奥の院として岩屋の中に弘法大師が安置されている。
かつて護摩修行の霊場であったとされる場所で、独鈷を以て加持をしたところ
水が湧出したので独鈷山と呼ぶようになり、前山寺の山号にもなった。
寛政5年(1793年)に、この山の岩を穿って木仏の西国三十三観音を祀り、
近隣の信仰を集めていたが、明治の廃仏毀釈などから前山寺に移動して今日に至ったが、
平成元年5月に近隣の石工組合の協力を得て、奥の院に石仏の観音像が復元された。
籠堂もあり景勝の地である。

御本尊に隣接する部屋の虎の襖絵

襖絵(右)

襖絵(左)

部屋に置かれた屏風
境内には桜、藤、牡丹の花が季節の移ろいと共に咲き、「花の寺」とも呼ばれている。
加えて山内には在来種のオニグルミが自生しており、それを使った胡桃おはぎが有名。
これは書院で頂くことができる。』 とあります。
外見だけでなく本堂内陣も屏風・襖絵など装飾品が見られましたが、
何といっても圧巻は塩田平を一望できる書院庭園。その庭を見ながら胡桃おはぎを食べるのが
当寺のもう一つの見所ならぬ【味所】になっている様子。

胡桃おはぎはこの部屋で

胡桃おはぎ ¥900
小豆餡の代わりに胡桃餡?が使われている。

部屋の棚には蘇民将来が
信州は海がなく標高も他府県と比べて高いため、生物相も他とは違うことが多く、
それが食文化にも影響を与えています。米作に不向きなため蕎麦食が発達し、
タンパク源は馬肉・鯉に加えて蜂の子・ざざ虫といった昆虫食もあります。
果物に相当するのが杏子と胡桃でしょうか?
特に胡桃は栄養価が高いと思われるので精進料理には向いた材料。
食べ物に関しては人間工夫を凝らすもので、【杏子】るより産むが易しと言えそうです。

おはぎを食べながら庭を見る

縁側から見た庭園

塀の向こうに広がる塩田平

縁側に続く庭園
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獨股山 宝蔵院 前山寺(真言宗智山派)
龍光院の後は、塩田平の端に建つ前山寺へ。前回の平成10年の訪問では
運悪く塔が修復中でしたが、「今回はそのような事はあるまい」と勝手に期待。
古刹の多い塩田平ですが、中禅寺・龍光院では観光客は殆どなし。
しかしここ前山寺は既に駐車場には多くの車が停車。
訪問した時刻にも拠るのでしょうが、同じ重文でもお堂よりも三重塔の方が人気があるのでしょう。
余談ですが、この付近の地名は前山となっています。

参道入口に建つ関所のような黒門
『参道黒門右側の欅の大木から続いて三重塔に向かう役150mの間に松・桜を主とした並木が
参道の両側を覆っている。目通り周囲2~3m、樹高20m余、樹齢350年前後に及ぶ老松6本に加え、
補植された若松が十数本ある。
また参道の左側には老松と同樹齢と見られる切株が往時の痕跡を残しており、
元々は参道全体が松並木として植栽された事が分かる。
市内に残る最も古い参道並木として貴重な存在である。

黒門右側に聳える大欅

黒門から三重塔へと続く参道並木

参道先の石段を上り山門へ

前山寺縁起
参道先の石段を上り山門を潜ると正面に石段と銀杏の木を前景にして重文・三重塔が聳える。
塔の建立年代は寺伝では鎌倉時代となっているが、様式上からは室町時代初期と推定されている。
塔は三間三重で、高さ19.5m、横3.25m四方、和様唐様の折衷様式で杮葺である。
初重の木鼻は象形で初重頭貫鼻が象化に移行する初期のものとして時代の特徴が覗える。
二、三重の柱に長押仕口がありながら、窓も扉もなく、また廻廊も勾欄もない。
ただ長い胴貫が四方に突出して、うまく変化と調和を持たせている。
このため「未完成の完成の塔」 と呼ばれている。

山門下からの眺望
大銀杏の奥に三重塔が建つ。

階段途中から塔を見上げる

陽光と木々に映える三重塔

重要文化財・前山寺三重塔略誌

未完成の完成の塔

作法に則り正面より重文・三重塔を見上げる
相輪は鋳鉄製で、格狭間付露盤、伏鉢、請花、九輪、水煙、竜車、宝珠よりなる。
内部には四天柱がなく、折上小組格天井とし、中央に須弥壇を置く。
寛喜・正平・天正・安永・嘉永・明治の各年中及び昭和45年、平成10年に屋根の葺き替えを実施、
昭和10年には解体修理を完工した。大正11年に特別保護建造物指定、昭和25年には
国の重要文化財指定を受けている。』 とあります。

塔の組物

塔の下手にある藤の木

藤の花越しにみる三重塔

藤の脇には牡丹も
塔の前には詳細な説明板が高札場の如く掲げられており、大いに鑑賞の参考になりました。
「これを見てしっかり【考察】せよ!」という事でしょうか?
初めて間近で見る三重塔は、こぢんまりとした大きさながらどっしりと眼前に聳えます。
塔を拝観するのはこの日二度目ですが、安楽寺の八角塔が木々に囲まれた奥深い場所に建つのに対し、
こちらは陽光が燦燦と降り注ぐ場所。別所と塩田平の違いと言えばそれまでですが、
場所に溶け込んだ建築様式を採っているように思えました。
解説には「未完成の云々」とありますが、私見では紛うことない完成系。
未完成というのはあくまで見る人の感性の様です。

解説書、入山券、箸袋の前山寺グッズ一式

前山寺御朱印 (平成10年拝受)

西塩田郵便局 ; 重文・前山寺三重塔、独鈷山
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宝珠山 龍光院(曹洞宗)
歴史に翻弄された若武者に思いを馳せながら境内を巡った後は正面の本堂へ参拝。
北条から方丈へ移った事になります。本堂は特に拝観している様子はありませんが、
扉を開けて外陣から御本尊に参拝することができました。堂内を見渡すと目を惹くものが一点。

本堂内陣の正面

御本尊 釈迦如来に参拝
『寺宝には狩野永琳筆の六曲屏風があり本堂に展示している。作者の狩野永琳は
西前山の保科氏の生まれで、江戸に出て中橋狩野派・狩野高信の門に学び、
文化5年(1808年)師の代理として京に赴き、御所で龍の絵を製作中に死去したと伝えられる。
所蔵の作品は花鳥8枚、人物4枚の計12枚の絵を六曲一双の屏風に仕立てたもの。

富士山?の衝立の奥は書院へ続く

本堂脇の座敷
それぞれの屏風は両端に花鳥、その内側に人物を二人向き合わせ、
中央の二枚は共に同じ季節の草花と鳥や蝶を描いている。
写実を基本とした画風は力みが無く、温和な纏め方をしている。
人物は中国の「竹林の七賢人」のうちの四人を描いたものとされ、
「紙本花鳥人物屏風」として上田市指定文化財となっている。
また参拝者のために寺の周囲や畑などで採れた山菜を用いた精進料理を供して居り、
禅の心を活かした料理として人気を博している。』 とあります。

何気なく置かれた「紙本花鳥人物屏風」

これは竹林の七賢

こちらは花鳥図 「牡丹の鷹」か?
裏手に回ってみると山なのでここが事実上の行き止まり。
本堂脇には坐禅堂が建ち、寺務所脇には木魚の原型とも言える
開梆が(かいぱん)が吊り下がっており禅宗寺院らしさが漂う場所でした。

山が間近に迫る本堂裏手は庭の様な雰囲気

本堂脇に建つ坐禅堂

「選佛場」の扁額

時刻を知らせる 開梆が(かいぱん)
塩田北条氏の菩提寺というのが当院の売りですが、本堂内の屏風や精進料理など、
そこで終わらなかったのが凄い所。
尤も寺務所で伺った所では、コロナのために精進料理は休業中との事。
りーずなぶるに加えて彩も鮮やかで非常に残念ではありますが、
中先代のようにもう一花咲かせてくれる事を期待したいものです。

寺務所で頂いた説明書
精進料理だけカラー版。

龍光院御朱印 (平成10年拝受)
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宝珠山 龍光院(曹洞宗)
塩野神社から道を東へ暫く行くと黒門が現れますが、これが次の巡礼先の龍光院。
但し、黒門よりも両脇に聳える欅と榧の巨樹の方が遥かに大きく、門は申し訳程度に見えます。
寺へは黒門脇の道路を行くのがメインのようですが、徒歩の私は黒門を潜り参道へ。
道路と違ってこちらは両側から刈込が迫る狭い道。この差は何なのでしょうね。

門前右側に聳える大欅

こちらは左側の大榧
宝珠山龍光院(ほうじゅさんりゅうこういん)は、
『塩田北条氏二代国時に拠り、父義政の菩提を弔うために建立。
当初は仙乗寺と言い、鎌倉建長寺の末寺であった。
北条義政は鎌倉幕府三代執権北条泰時の弟、重時の第三子で建治3年に出家し、
この塩田の地に閑居したが、4年後の弘安4年、40歳で没した。

正面から見た黒門

茅葺の黒門屋根を保護するため現在はトタンで覆われている

参道道路側から見た黒門と両巨樹
塩田北条氏は三代五十余年この地で繁栄するが、元弘3年(1333年)新田義貞の鎌倉攻めに対し、
応戦に馳せ参じ悲劇的な最期を遂げた。現在、参道中程に初代義政の墓が、
当院東方の山を隔てた塩田城跡に国時・俊時父子の供養塔が残る。
塩田北条氏滅亡後、二百余年を経た慶長6年(1601年)、
龍光院は曹洞宗の禅寺として再興され現在に至っている。』 とあります。

黒門に続く狭い参道

参道先の右手に山門がお出迎え

塩田北条氏の所縁を示す石碑

駐車場入り口に掲げられた沿革
風雨に晒され錆びた様子が侘び寂びを誘う。
別所温泉は信州の鎌倉と呼ばれる地ですが、それも鎌倉時代に執権北条氏の一族がこの地に居を構えたから。
尤も居るだけでは駄目で、この地に鎌倉文化を積極的に扶植した事がそう呼ばれる理由でしょう。
言わば最先端の【りゅうこうじ】を取り入れた事になります。
その鎌倉も幕府の滅亡と運命を共にしますが、今一度歴史の表舞台に躍り出ます。
それが幕府最後の得宗家北条高時の遺児・時行に拠る中先代の乱。
信濃に潜伏し諏訪氏の援助を受けた時行は鎌倉を奪回しますが、
再び足利尊氏に敗れ数年後に捉えられて一生を終わります。
言わば鎌倉幕府最後のあだ花と言っても良いですが、【苦労モン】に加え
十代の若武者だった事もあって漫画にも取り上られ一躍有名になりました。

山門から境内を一望
正面奥が本堂、左が坐禅堂。

山門を過ぎて左手には観音堂

堂内に祀られている観音様
短期間とは言え、このような事績が可能だったのは、信濃の地に地盤を持っていたからに他なりません。
戦略的な目の付け所は良かったのですが、如何せん、中山道沿いだけでは勢力が少な過ぎたのでしょう。
鎌倉から各地に伸びた街道沿いにもう少し勢力があれば違った展開になっていたかもしれません。
しかし結果的に敗れたとは言え僅か十代でこのような大勝負に出たとは【泣かせんどう!】とはなりますね。

こちらは右手の新しい羅漢堂

お釈迦様の脇に控える高位?の羅漢像

こちらは入口付近
全部で十六羅漢ある。
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【往路】上田駅(6:50) → (上田交通) → 別所温泉(7:19)
別所温泉駅 → 徒歩8分 → 北向観音 → 徒歩5分 → 安楽寺 → 常楽寺 → 別所温泉(9:25) → (上田交通) → 下之郷(9:38) → (駅レンタサイクル25分) → 塩野池 → (レンタサイクル5分) → 中禅寺・塩野神社 → (レンタサイクル5分) → 龍光院 → (レンタサイクル5分) → 前山寺 → (レンタサイクル15分) → 生島足島神社 → 長福寺 → 下之郷(13:15) → 上田駅(13:31)

塩野神社(式内社 旧県社)
中禅寺の前の道路から東を見ると杉木立の間に細い道が。これが塩野神社の参道ですが、
道路の西側には大きな木造の鳥居が。ここが神社の一の鳥居で、杉並木までの距離が
218mと長いのは、かつてここで流鏑馬が行われていた名残りだそうです。

道路の東側にある神社参道

道路の西には大きな木造の一の鳥居が建つ

流鏑馬の解説
何故か中禅寺入口脇に建つ
塩野神社(しおのじんじゃ)は、
『塩野川の水源にある独鈷山の鷲ヶ峰に祀ったのが嚆矢と社伝にあるが、
歴史的には「日本三大実録」「延喜式」に登場するのが初見。
上田・小県に於ける式内五座の一つに数えられる信濃の名社である。
大宮または大明神とも称され、古来この地方の信仰の中心であった。
鎌倉時代の塩田北条氏、戦国時代には武田信玄、真田昌幸・信之等の信仰を集め、
中でも永禄11年(1568年)の武田信玄の祈願状や、天正15年(1587年)の真田昌幸の寄進状が有名で、
いずれも上田市の文化財に指定されている。
また60年に一度の「甲子祭」で舞われる「前山三頭獅子」等、多くの文化財を現在に伝えている。

深い木立に囲まれた参道を往く

参道右手にあるかつての御神木の名残り

かつての社務所か?
今は扉が打ち付けられ人の気配すら感じられない。

二の鳥居を潜りいよいよ社殿へ
拝殿は勅使殿ともいわれ、棟札に拠り建築は江戸中期の寛保3年(1743年)、
作者は上田市房山の名工・末野忠兵衛と分かる。
楼門形式の拝殿は現在のところ県内では諏訪大社と当社に確認されるのみで建築史上貴重である。

二の鳥居に続く鞘橋
下には渓流が流れる。

鞘橋の奥には拝殿が見える

正面より見た拝殿

楼門形式の拝殿
何となく不安定に見えるのは私だけ?
本殿は一間社流造で、建築は寛延3年(1750年)、作者は本殿と同じ末野忠兵衛である。
各所に雲・天女・寅・牡丹・龍等の彫刻が施され、この時代の地方作品としては
彫刻が多く用いられた作品であり、当時の様式を良く伝えている。
かつては神宮寺も付属していた大社であり、武田信玄は二十貫文の朱印地を奉献していたと言われる。
境内の森厳さは定評があり、また太鼓橋の構築、拝殿の楼閣造り、本殿の彫刻等見るべきものも多い。
社殿脇の神が降りる磐座と境内を流れる塩野川は異空間に迷い込んだような錯覚を覚えさせる。』
とあります。

拝殿の奥に建つ本殿
彫刻と組物に特徴が見られる。

本殿向拝の欄間彫刻
兎が駈けている図か?

端に突き出した龍の彫刻
神社建立の契機となったのは、境内にある磐座と山から流れ出る塩野川と言う典型的な自然崇拝。
木々に覆われた境内を行くと一層厳かな感が強まります。
しかしそんな古社も今は無人状態、中禅寺が管理しています。
明治の廃仏毀釈は仏教界にとっては激震でしたが、神社に関して有利だった筈。
これが無住になってしまったのは何故か?考えても【しおの】ない事ではありますが…。

境内の奥には様々な摂社が

中禅寺で拝受した塩野神社御朱印
こちらもロゴ入り ¥500
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龍王山 延命院 中禅寺(真言宗智山派) 重文・薬師堂
本堂参拝後は、いよいよ奥の薬師堂へ。寺の御本尊は本堂の地蔵尊ですが、
ここを訪れる人のお目当ては薬師堂と薬師如来。特異な山容を見せる独鈷山を背景に、
桜の林の中に中部日本最古の木造建築といわれる薬師堂が建っています。

本堂から参道へ戻り奥の薬師堂へ向かう

薬師堂へは仁王門を潜る
『木造金剛力士像は阿形(右)と吽形の二体で、それぞれ高さは207㎝と金剛力士像としては小振りであるが、
全体のバランスが良く怒りの表情も誇張を抑えた都風の典雅な感覚が表現されている。
この作風は平安時代後期の醍醐寺像や峯定寺像など五ヵ寺に残り、腰帯やポーズの取り方、
指の開き方などに平安後期様式の特徴があり12世紀末頃の製作と考えられる。
かつて塩田平は都と密接に繋がっていたとされ、京都より峯定寺像系の仏師を招いて
造られた事を伝える具体的な資料として貴重な像である。

仁王門を護る木造金剛力士像(長野県宝)
こちらは右側の阿像。

こちらは左の吽像
仁王門の奥には重文・薬師堂が建つ。この堂は藤原時代の「方三間阿弥陀堂形式」という造りで、
東西南北どの方向から見ても柱が4本立って居り、間が三つある様式である。
堂内中央に4本の丸い柱(四天柱)があり、その中央に本尊の薬師如来を安置しているが、
これは岩手県の中尊寺金色堂と同じ形である。

仁王門の先に建つ重文・薬師堂

後方より見た薬師堂
どの面から見ても柱が4本立っている造りである。
扉は正面に三ヵ所、残りの三方には一ヵ所ずつあり、あとは全て板を横に張った板壁になっている。
茅葺屋根の頂上には宝珠、その下に四角の台(露盤)を置き、真上から見る屋根は正方形で宝形造と呼ばれる。
このような形式は平安時代の終わり頃に行われた形式で、中尊寺金色堂などに代表される。
以上の特徴から薬師堂の建立は平安時代末から鎌倉時代初期と考えられ、中部日本では最も古いお堂と言われる。

正面の三ヵ所の扉と側面の一ヵ所の扉

宝形造りの薬師堂屋根
後方の高台にある墓地からの眺め。
本尊の薬師如来坐像は像高97.8㎝、桂材を用いた寄木造で、白鳳年間に塩野神社の本地仏として
造立された伝承を持つ。平安時代後期に隆盛した和様を基本にした造りで、
顔の表情や身体全体の表現は穏やかで丸みを帯びている。
しかし、肩や膝の張りが強く、衣の襞の彫りも深く、また両眼や唇も明快に刻まれるという
鎌倉彫刻の特徴も見られる事から13世紀鎌倉時代初期の製作と考えられている。
顔は円満で慈悲に満ちながら凛とした気品が漂う。
左手に薬壷を持つのは病に悩む衆生を救う御利益を持つ。
本尊脇に附するのは木造神将立像。像高68.2㎝、檜材の寄木造で薬師如来の眷族として
本来は十二体であるが現存するのは一体のみ。頭上の支獣を欠くため尊名は不明である。
焔髪・瞋目・忿怒の表情を露わにし、鎧を纏った武将の姿で、14世紀末の製作と考えられている。
薬師堂内の二像はいずれも国の重要文化財に指定されている。』 とあります。

薬師堂前面近影
内陣へは入れないが、扉の間から御本尊を参拝できる。

扉の隙間から参拝した本尊・薬師如来坐像と眷族の木造神将立像
いずれも国の重要文化財である。
寺院自体が山の麓にあるので当然ですが、周囲には寺院以外の人工建造物はなく、
茅葺のお堂はゆったりと佇んでいます。薬師様は人々を病気から救う仏様ですが、
薬に拠る治療だけでなく精神的な治療もあった筈。
ここに参拝した病人は、山懐に抱かれたお堂に癒された事でしょう。
そのような【心象】を持つことが出来ただけでも治癒には【じゅうぶん】だったと思われます。

平成10年に拝受した御本尊薬師如来の御朱印

薬師堂から本堂・事務所方面を見るとこんな景色
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龍王山 延命院 中禅寺(真言宗智山派)
独鈷山の麓に山号寺号標が建つ。
レンチャリでの塩田平巡礼は最も西の中禅寺からスタート。上田市塩田平の南方、独鈷山の麓にあります。
古刹と言うと山深い幽谷を想像しますが、山の麓ではあるものの太陽が燦燦と降り注ぐ場所。
加えて境内は花も植えられており、一見、植木市か造園の様にも見えます。
知らずに来た参拝者は花の寺と間違えそうで、いい意味で期待を裏切る寺院と言えそうです。
開門時間は過ぎていましたが受付は無人。これは困ったと思い、寺務所と思しき玄関で尋ねると、
「申し訳ありません!」と急いで走って来られました。準備中だったようで、却ってこちらが恐縮。

入口から真っすぐ続く参道の右手に建つ本堂

本堂への道はツツジが満開

ツツジの脇の庭園
その奥には巡礼姿の大師像が建つ。
龍王山延命院中禅寺(りゅうおうさんえんめいいんちゅうぜんじ)は、
『天長年間(824~834年)、弘法大師が当地を巡行した際、旱魃に苦しんでいた民衆を救うため、
草庵を結び雨乞いをしたのが始まりとされる。
山号の龍王山は独鈷山の支峰にあり、雨乞いの八大龍王が祀られている。

本堂近影
形は古風だが材質は新しい。

どことなくログハウス風な本堂前面の山号寺号の扁額

本堂内陣にお参り
その後、源頼朝や塩田北条氏の庇護を受け栄えるが、永享・寛文・享保年間に三度の火災に見舞われ
記録の多くは失われた。享保19年(1734年)になり祐精法印が中興し、現在の本堂が再建された。
本堂に祀られているのが本尊の延命地蔵尊。桂材で右手に悪霊を振り払う錫杖、
左手には願いが全て叶えられる宝珠を持つ半跏像。総体に量感があり、衣文が流れるように
下がり膝を覆っていることや、面部に張りがあるなど地方仏師の造像と思われ、
平安時代の作像と思われる貴重な本尊である。

内陣奥の御本尊は簾のため御顔は見えず

説明書にある御本尊

入山時に頂いた中禅寺説明書

今回拝受した日本遺産のロゴが入った御朱印 ¥500
境内には弘法大師修行像、水子地蔵尊などの諸仏や石造五輪塔などが安置されている。
また枯山水の庭園を始め、四季折々の草木が境内には植えられている。
令和2年には日本遺産【レイラインがつなぐ「太陽と大地の聖地」~龍と生きるまち 信州上田・塩田平~】
を構成する文化財として、薬師堂・薬師如来座像・木造金剛力士像が指定された。』 とあります。

本堂前の内庭
その奥が寺務所。

本堂前から見た薬師堂

本堂と薬師堂の間に置かれた釈迦如来坐像
境内にあった檜の老木からチェンソーで造られたもの。

釈迦如来坐像の由緒
先に塩野池の章でも述べましたが、修行の場として独鈷を埋めた事と雨乞いの祈祷を行ったのが
ここに寺院がある主な理由。山号の龍王・院号の延命もそれに関する名前。
今でも溜め池がある位ですから、古代の人々が如何に水を手に入れるのに苦心した跡が覗える話です。

薬師堂前にある枯山水庭園全景

枯山水に描かれた波紋

波の上に置かれた岩と石灯籠

庭園越しに見える仁王門と薬師堂へ
[参考書]
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下之郷駅で下車
早朝から別所に向かった甲斐あって、9時過ぎには別所温泉駅に戻る事ができ次の行先は塩田平。
長野県では盆地の事を平と呼びますが、ここは上田盆地の西半分に相当します。
別所温泉は徒歩圏内ですが塩田平は最寄りの駅からはいずれも3~4㎞程。
前回は別所温泉からタクシーで向かい、三ヵ所拝観後は只管駅に向かって40分徒歩移動する羽目になったので、
以前の轍を踏むまいと今回は中之郷駅から無料レンタサイクル。
レンタサイクルは連休明けにシェアサイクルに変わるそうで、滑り込みセーフでした。
下之郷駅は上田駅以外では唯一の有人駅。かつては西丸子線が分岐したほか、行き違いも可能。
構内にはかつての車両も停まっています。
駅舎は神社風の朱塗り柱ですが、これは生島足島神社の最寄駅のようです。
神社は後回しにして只管西行。建造物が殆どなく田畑の間を走るので道に迷う事はありません。

朱塗りの柱が鮮やかな駅舎
駅員配置駅だが、残念ながらスタンプはなし。

分岐した線路の先にはかつての車両が展示中
塩田平には中禅寺・龍光院・前山寺と古刹が並びますが、温泉の湧く別所と異なり、
何故ここに寺院群があるのでしょう?と走っていると途中、塩野池という溜め池に遭遇。
『塩野池があるのは西前山と接する東前山の小字市来(いちらい)。
ここから離れた内村境に市峠があることから遠く内山の方から市に来たとの説がある。
この付近一帯には塩野川・塩野神社があることから塩野池と名付けられたと考えられる。
塩野池は宝永元年(1704年)2月の築造、正徳4年(1714年)には土手を5尺に上げる工事をしていた。
付近は日本のため池百選に選ばれる程、ため池群の多い場所。
しかし塩野池だけは標高560mの山の斜面に造られている。
独鈷山の沢筋から湧き出る水が集まり塩野川となり、塩野神社の境内を通り塩野池に注いでいる。
雨乞いの山・独鈷山の水だけを集めてできたため池である。』 とあります。

高みから塩田平を遠望

塩野池(全国ため池百選)
ここに記されているは雨乞いの山・独鈷山なのでまさに【純水】。
地図で見ると最も西にある中禅寺の奥の山。後に前山寺で訊いたところ、
「昔、弘法大師が修行場を求めて99窟まで見つけましたが、どうしてもあと一つが見つからない。
そこで持っていた独鈷を山に埋めたのが山名の由来だそうです。」 と教えて頂きました。
これが寺院群のある理由としては最も無理がありません。
解説書や案内板の何処にも記載されていない答えは【独鈷】にあったと言うオチです。

独鈷山登山口から独鈷山を望む
[参考書]
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金剛山 照明院 常楽寺(天台宗別格本山 北向観世音本坊 別所三楽寺) 寺務所
本堂参拝を終えてお堂を出ると眼前には見事な枝ぶりの松が。
これが御舟の松で祈りの別所五木として極楽浄土へ導く木とされます。
最初に参拝した北向観音で祈りの別所五木の案内を見ましたが、これで四木を拝観。
参拝する寺院境内の目立つ場所にあったので、別途訪れる必要がなかったのも幸いしました。
その後は、本堂脇の山道を抜けて裏山へ。当寺唯一の重要文化財石造多宝塔を見るためですが、
本堂・本尊を差し置いて何故多宝塔なのか?

本堂前の祈りの別所五木 極楽浄土へ導く「御舟の松」

裸子植物の松の花
『重要文化財・常楽寺石造多宝塔は、総高274㎝の安山岩製。
銘文に拠れば、天長2年(825年)火焔の中から北向観音がこの地に出現。
そこで木造の宝塔を建立したが寿永年間(1182~1184年)に焼失。
その後、弘長2年(1262年)本塔を造立し、金銀泥で書かれた一切経一部を奉納したとある。
石造多宝塔の類例は全国的に見ても少なく、特に重要文化財となると本塔以外は滋賀県の小菩提寺にあるのみである。
本塔は笠や裳階が鎌倉時代の多宝塔の典型を示しており、全国的にも大変珍しい遺例である。

本堂左の石段を上り石造多宝塔へ

多宝塔は高台の墓地の最も奥に
その両脇には一回り小さい石造多層塔が置かれ、総高163㎝の安山岩製。
大正13年(1924年)に温泉旅館裏の水道工事の際に出土したもので、
その後散逸していたものを昭和56年(1981年)故郷の地に再建されたものである。
各部位のバランスや形は古様をよく留め、多宝塔と同様、鎌倉時代の作とされる。
こちらは上田市指定文化財の扱いとなっている。』 とあります。
苔生した多宝塔と多層塔を見ただけでは「ほう、そう!」くらいしか言葉がでませんが、
ここは別所温泉の寺院の由来となった観音様が出現した神聖な場所。本堂より高台にあるのも頷けます。
古ければ良い訳ではありませんが、外見だけで中身を判断するのが危険なのは文化財も人間も共通するようです。
尚、観音様がここに「来て迎えた」から北向観音と呼ばれるようになった訳ではないので念のため。

石造多宝塔とそれを囲む石造多層塔群

石塔図解
多宝塔から辞去するに際し、本堂方面を見ると裏庭が。
説明書や案内板には全く記載がありませんが、道が続いていたので近くまで行き見学。
後ろの山を借景にした池泉回遊式庭園で、池の畔にはミツバツツジやボケが咲き
本堂の茅葺とも良いコントラストとなっていました。
本堂の内からこの庭を見るとまた違った趣を楽しむことができそうですが、
まだその時期ではないというのがお寺の判断なのでしょう。

本堂裏にある池泉回遊式庭園

池の畔はミツバツツジが花盛り
[参考書]
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別所温泉駅 → 徒歩8分 → 北向観音 → 徒歩5分 → 安楽寺 → 常楽寺 → 別所温泉(9:25)

金剛山 照明院 常楽寺(天台宗別格本山 北向観世音本坊 別所三楽寺)
安楽寺で国宝を見た後は、黒門まで戻って三楽最後の常楽寺へ。
寺へ続く「さるすべりの小道」からは塩田平が一望できる見晴らしの場所、数分で常楽寺前に至ります。
拝観順にこのようなルートを採りましたが、駅から将軍塚を右折して進むのが本来の表参道。
この道に従って進むと両側に小さな祠が二基。傍らの説明板には常楽台寺の表参道を荘厳・守護していた
かつての仁王堂を再建したという由来が書かれていました。ここから見ると寺は遥か先に僅かに見える程度。
この距離を見るだけで、かつては壮大な山内を誇ったと想像できます。

「さるすべりの小道」 から塩田平を一望

将軍塚から右折すると道の両脇に祠が建つ

祠近影と説明板

祠の行き止まりには寺院への階段が
金剛山照明院常楽寺(こんごうさんしょうみょういんじょうらくじ)は、
『平安時代の天長2年(825年)、慈覚大師円仁に拠り創建。
当時、ななくり(七久里)の湯と呼ばれた別所温泉に観音菩薩が出現、
それを安置するために建立された別所三楽寺(長楽・安楽・常楽)の一つである。
鎌倉時代には塩田北条氏の庇護の下、鎌倉仏教や禅宗文化が栄えた事で、
塩田は信州の学海と呼ばれるようになった。
その中で当寺は天台教学の道場や信仰の場としてその中核を担い、
創建当時から名僧高僧がここに錫を留めている。三楽寺の一つである安楽寺の開祖
樵谷惟仙(しょうこくいせん)が16歳まで当寺で天台教学を学んだ。
また相模の称名寺の僧侶が正応5年(1292年)信濃国塩田別所常楽寺で書写されたと
記述のある「十不二門文心解」が金沢文庫に残されている。

寺院入口に到着

入口に建つ由緒記

階段を上った先に本堂の茅葺屋根が見える
正面に建つ本堂は寄棟造・茅葺で正面中央に唐破風の向拝を設けている。
御本尊は宝冠を頂いた珍しい阿弥陀如来像で、妙観察智弥陀如来と呼ばれている。
寺の分限帳に拠れば本堂(客殿)・庫裏・本尊の建立は当山46世翁玄の時代(1710~1738年在住)とあり、
本尊には享保10年(1732年)の墨書がある事から、本堂再建も本尊入仏と同じ享保17年頃考えられる。
本堂の間取りは前側に細長く広縁を採り、中央に外陣・内陣、その両脇に部屋を配置する構成で
内陣の左脇の部屋が上段の間となっている。この間取りは当初からのもので殆ど変更されていない。
間口10間は県下の江戸後期密教系寺院本堂としては屈指の規模を誇る。

正面より見た本堂

本堂から張出した向拝

茅葺屋根の端
建物の様式は、虹梁・組物・欄間が17世紀後半の比較的古い様式を残す一方、
柱が一間毎に立たないという18世紀中期以降の特色が混在しており、
享保末~元文期の再建説を裏付ける。
唯、唐破風の向拝部分のみは本堂の様式とは異なっているため後世に付け加えたとされる。
本堂の意匠は彫刻的な装飾は少ないが、これは江戸中期の本堂の特色で、
その意味で常楽寺本堂は江戸中期後半の特色を今に伝える貴重な建築と言える。
江戸時代に長楽寺が廃寺となると、北向観音は当寺の伽藍の一部として
所有・管理をするようになり今に至っている。』 とあります。

唐破風の向拝は後世に付け加えられたもの

茅葺屋根に置かれた鬼瓦

本堂の前面に掲げられた扁額
常楽禅寺ではなく常楽台寺となっている。

内陣の奥に鎮座する御本尊
上って参拝できないので外陣から参拝。

説明書に載る御本尊
北向観音で頂いた説明書にもあるように当寺が本坊で、しかも塩田平の仏教興隆の中心になった名刹。
本堂の前に建つと茅葺の屋根には趣を感じますが、全体に清潔で古びた感じがしないので、
古刹を巡るという印象は希薄。これが、前に訪れた二ヵ寺に比べ参拝者が少ない理由の様な気がします。
説明では本堂の意匠に装飾が少ないとありますが、現在、本堂の天井板には花鳥図が描かれている事に加え、
左脇の部屋には大正13年月岡耕魚筆の能楽紅葉狩の衝立、佐久出身の書家比田井天来の六曲十二双屏風、
昭和62年傅益瑶作の別所古刹風光の襖絵が置かれ堂内に彩を添えています。

本堂の天井画

本堂横の書院
手前の衝立は月岡耕魚筆の「能楽紅葉狩」 (大正13年)。

佐久出身の書家比田井天来の六曲十二双屏風

昭和62年傅益瑶(ふえきよう)作の別所古刹風光の襖絵

最も奥の襖絵
説明書きはなし。
思うに常楽寺は過去の遺物を修復して護るよりも、新たなものを取入れる方針のようで、
境内に常楽寺美術館を開設したのも同じ考えと思います。これをどう判断するかは個人の判断ですが、
長楽寺が廃寺となって北向観音堂が常楽寺の傘下に入ったというのが一つの答えになります。
唯、安楽・常楽という名に比べ、長楽が凋落に通じたことが廃寺に繋がった可能性も否定できませんが…。

北向観音で購入した常楽寺説明書

無料配布の説明書

常楽寺御朱印
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【往路】上田駅(6:50) → (上田交通) → 別所温泉(7:19)
別所温泉駅 → 徒歩8分 → 北向観音 → 徒歩5分 → 安楽寺 → 常楽寺 → 別所温泉(9:25)

崇福山 護国院 安楽寺(曹洞宗)
本堂参拝の後は、いよいよ国宝の八角塔に御対面。別所温泉というよりも信州を代表する建造物で
別所温泉の案内にも必ずと言っていい程取り上げられています。
本堂入口脇の受付で¥300を払い入山。安楽寺自体の拝観は無料で有料なのはここだけ。
しかも8時から拝観できるのも有難い話です。これも八の縁でしょうか?
塔は本堂の裏を池の横の石段を上った先、山の中腹の高台にあり、
上っている途中からでもその姿を見ることができます。
周囲の松の緑に映えて、重厚な佇まいがどっしりと空間を支えていると言う表現がぴったりです。

本堂脇の池を右に見て八角塔への階段を上る

階段途中から見上げた塔

屋根の裏側を見上げる
『この塔の建立年代については、従来鎌倉時代末期或いは室町時代初期と言われてきたが、
平成16年に奈良文化財研究所に拠る三重塔用材の年輪年代測定法の結果、
伐採年代は正應2年(1289年)と判明。
1290年代鎌倉末期には建立された我が国最古の禅宗様建築であることが証明された。
これは信州一円に威を張った塩田北条氏が館を構えていた時代(1277~1333年)で、
当寺には宋より来朝した幼牛禅師が住職として住持していた時代に当たり、
歴史的な説が科学的な調査で裏付けられた好例である。

八角塔の下より上って来た参道を見返る

至近より見上げた塔

塔の一階部分と裳階
塔は本来釈迦の遺骨である仏舎利を奉安したものであるが、
中世以降は特定の人物や戦死者の供養のために建てられる事が多く、
この塔も北条氏の供養塔として建てられた可能性が高い。
建築様式は当時の中国宋代の先進技術であった唐様(禅宗様)で、
扇垂木・弓形連子・詰組など和様の塔とは異る重厚な佇まいを見せている。
全高は18.75m、構造形式は八角三重塔で、初重裳階付、杮葺。
四重塔にも見えるが一番下の屋根は庇に相当する裳階であるので、実際は三重塔である。
八角塔は奈良・京都などに記録として残されているが、それらが失われた今日、
我が国に残された唯一の八角塔であり、禅宗寺院に残る塔としても極めた貴重な遺構である。
平成23年には約60年振りに杮葺屋根の全面葺き替え、及び約90年ぶりに
塔頭部の相輪の補修が行われた。

裳階の裏側と組物

少し離れて見上げた塔全景

同じ目線で見るとこうなる

八角堂を詠んだ窪田空穂句碑
塔から石段を下ると開山・二世の二像を安置する傳芳堂が建つ。
二像共に嘉暦4年(1329年)の墨書銘があり鎌倉時代を代表する頂相彫刻。
当時の禅宗の地方分布の経緯を知る上で貴重であり重要文化財となっている。
更に下がった池の畔には、寛政6年(1794年)萬福寺から購入した鉄眼一切経を納めた経蔵が建つ。
方三間・塗り込め・宝形造・銅板葺でこの種の建物の代表的な物。
内部には一切経の他、傅大師に拠って考案されたと言われる輪蔵が納められ、
これを回転することで誰しも看経と同じ功徳に預かる事ができると言われている。』
とあります。

傳芳堂全景

堂内に安置された開山(右)と二世禅師の像
但しガラス張りなので、これは掲示された写真。

二像の解説

島木赤彦歌碑

歌碑の解説
八角塔が建つのは境内で最も高台ですが、説明板に拠れば塔というものは
本来下から見上げるべきもので、上から見下ろすものではないそう。
元来、塔は釈迦の遺骨である仏舎利を納めたものですから当然ではありますが、
あらためて塔の参拝の作法を知る事ができました。
かつては幾つかあったとされる八角塔ですが今や国内ではここだけ、貴重な存在と言えます。
飛鳥・奈良時代の法隆寺・薬師寺・當麻寺等の塔は全て四角。
また戦国時代以降も四角で、八角は中世の一時期のみに見られるようです。
唯、何故八角なのかについての記述はありません。

上田市指定文化財の経蔵

経蔵内に置かれた輪蔵
八角塔に関しては、契丹(キッタン・キタイ、中国名では遼)の遺跡として見た記憶があります。
契丹は北方の遊牧民族でモンゴル高原に加え、華北も領土に加えて初めて二面統治を行った国家。
その遊牧的建造物が中国に伝わり、入宋した僧侶に拠って最新の流行として本朝に伝播。
二面統治は契丹から金へと続き、モンゴルで完成。
しかしその後を受けた明王朝は遊牧民族と北方に追い遣り中華を復興する建前を採ったため、
遊牧的な文化も廃れざるを得なかった、と言うのが私見です。
八角も四角も方位が関わっているように思いますが、その理由は残念ながら思い付かず。
いずれ誰かの研究で【発覚】することを【キタイ】したいですが…。

安楽寺説明書

安楽寺御朱印 (平成10年拝受)

朱印にいくらか変化が見られた今回拝受の安楽寺御朱印
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崇福山 護国院 安楽寺(曹洞宗)
北向観音堂の後は来た道を引き返すと、七草の湯を過ぎた場所に建つのが黒門。
寛政4年(1792年)安楽寺13世南冲仏鯤和尚の時代の建立とあり 「崇福山」 の扁額が掲げられています。
これが次に目指す安楽寺の入口ですが、ここから境内までは畑を横に見てそれなりの距離。
寺院には寺号と並んで山号がありますが、古くは市街地を離れた山の中に寺は建てられた訳で、
山号は境内だけでなく寺域全体を表すそうです。
かつては広い境内だったのでしょう。信州最古の禅寺というのも伊達ではありません。

安楽寺への入口に建つ黒門

黒門に掲げられた「崇福山」の扁額

駐車場脇に立つ案内板
崇福山護国院安楽寺(そうふくざんごこくいんあんらくじ)は、
『天平年間(729~749年)の行基の創建、天長年間(824~834年)の創建とも伝わるが
いずれも伝説の域を出ずはっきりしない。平安末期には律宗寺院であったとも伝わっている。
安楽寺の記録が歴史に登場するのは鎌倉時代、樵谷惟仙(しょうこくいせん)が当寺に住持して以降の事。
惟仙が実質的な開山である。彼は信濃国に生まれ臨済宗の僧侶として13世紀半ばに入宋。
後に鎌倉建長寺開山となる蘭渓道隆が来日するに際し、同じ船で寛元4年(1246年)に帰国。
同じ船には後に惟仙を継いで安楽寺二世となる中国僧である幼牛恵仁(ようぎゅうえにん)も乗っていた。

案内板から山門へと真っ直ぐに続く参道

階段の先にある山門

階段の左手にはアスナロ(翌桧)の巨木が聳える

山門前へ到着

山門からの眺望
正面に見えるのが本堂。
蘭渓道隆の記した大覚禅師語録の一節に
「建長(鎌倉)と塩田(安楽寺)は各々一刹により、或いは百余衆或いは五十衆、
皆これ聚頭して仏法を学び、禅を学び、道を学ばんことを要す云々」
とあり、安楽寺は鎌倉時代中期には既に相当の規模を持った禅寺であり、
信州学海の中心同情であった事が覗える。
鎌倉北条氏の外護に拠って栄え、多くの学僧を育てていた当寺も、
北条氏滅亡以後は、寺運も傾いて正確な記録も残らないが、
国宝・重要文化財等数多くの鎌倉時代の文化遺産を蔵して、
信州最古の禅寺の面影を今に伝える。

先ず左手に十六羅漢堂が見える

ガラス越しに見る十六羅漢像
木札には塩田平四国霊場勧請仏とある。

躑躅の生垣を抜けて本堂へ

祈りの別所五木「高野槙」 は希望の木

参道右手に建つ鐘楼
安土桃山時代になると、勅特賜・大光智勝禅師高山順京和尚に拠り再建。
以後、曹洞宗寺院として現在に至っている。
境内には本尊の薬師如来を祀る本堂の他、十六羅漢堂・坐禅堂・鐘楼が建ち、
国宝・八角三重塔のエリアには萬福寺から購入した鉄眼一切経を納めた経蔵、
開山・二世の二像を安置する傳芳堂が並ぶ。
二像は鎌倉時代を代表する頂相彫刻として重要文化財になっている。
また参道左手の高野槙は希望の木として別所五木の一つである。』 とあります。

左手にある坐禅堂

正面より見た安楽寺本堂

本堂の右側は庫裏

本堂の左側は受付・納経所
八角三重塔へはここから入山。
それにしても広い寺域で、先般の北向観音が高台で陽当たりの良い場所だったのに対し、
こちらは鬱蒼とした木々に囲まれた場所。
参道の先には釈迦如来を祀る本堂、その左手には修行のための坐禅堂が建ちます。
坐禅堂は外陣からでしたが、本堂は内陣で静かな心で御本尊に参拝することができました。
修行道場としてはそちらの方が好ましく、余り多くの参拝者が来ると修行の妨げになるからでしょうか?
特に冬場は雪に覆われて厳しそうな予感。苦労モンに安楽時が訪れる事は難しいようでした。

本堂内陣へ

内陣遠望

内陣に祀られている御本尊(釈迦牟尼仏)

欄間の菊水の透かし彫り

本堂横は書院か?
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北向山 北向観音(天台宗常楽寺支院 坂東三十三ヵ所番外札所)
温泉街の山道を抜け石段を上った場所に建つのが別所温泉のシンボルの一つ北向観音堂。
直ぐ近くに源泉が湧き、川を渡った辺りから当たり一面には温泉特有の硫黄の香りが漂います。
寺院自体は常楽寺を本坊としますが、その場所から別所温泉の寺院の中心的存在。
温泉はここの門前町として発展したに違いありません。
境内に着いた時点で時刻は未だ朝の7時台でしたが、寺は既に開門され参拝客もそこそこの人数。
電車の乗客は私を含めて二人だけでしたが、温泉宿泊客が朝から散歩を兼ねて訪れる事が多いのでしょう。
ここでは時間がゆったり流れる気がします。

境内の伽藍群

早朝から参拝者が絶えない本堂(観音堂)

年代を感じる説明板
北向山北向観音(きたむきさんきたむきかんのん)は、
『平安初期の天長2年(825年)、比叡座年略字座主の慈覚大師円仁に拠って、常楽寺と共に開創された霊場。
常楽寺の境内に金色の光明が出現、お堂の建立を告げたという伝承が今に残る。
常楽寺を本坊とし、現在でも北向観音は常楽寺の伽藍の一部として同寺が管理している。
9世紀に火災の記録が残り、安和2年(969年)平維茂は一山を修理し、三楽寺・四院・六十坊を増築したと伝えられる。
寿永元年(1182年)には源平争乱の中、木曽義仲の手により八角三重塔と石造多宝塔を残して全て焼失。
源頼朝の命の下で伽藍復興が行われ、建長4年(1252年)、塩田陸奥守北条国時に拠り再興された。

先ずは観音堂へ参拝

正面から見上げた観音堂
江戸時代の正徳3年(1713年)に火災に遭い、享保6年(1721年)に現在の堂宇が再建された。
その後、幾度かの修復を経て昭和36年(1961年)に増改築を施し、最終的には善光寺本堂と同じ撞木造りとなった。
北向観音と言うのは本堂が北に向いている事に由来するが、そのような堂は我が国でもほとんど例がない。
その由来は観世音菩薩出現の際、
「北斗星が世界の依怙(よりどころ)となるよう我も又一切衆生のために常に依怙となって済度を為さん」
と言うお告げに拠るものと言われている。

観音堂内の様子

観音堂内陣

右方より本堂裏へ

後方より見た観音堂
本堂に安置されている御本尊はあらゆる衆生の悩み・苦しみを救済する千手観世音菩薩で、
南面する善光寺阿弥陀如来と相対している事から古くから「厄除観音」として知られている。
厄除観音として南面する善光寺に詣で「未来往生」、北向観世音に参詣し「現世利益」を祈願しなければ
「片詣り」になるとされる霊場である。

横から見上げた観音堂

受付で購入した説明書
常楽寺の管轄なので、常楽寺説明書の裏面が北向観音説明となっている。

北向観音御朱印 (平成10年拝受分)
現世利益の厄除観音として昔から日本全国の人々の信仰を集め、二年詣りや
節分には数万人の善男善女で賑わう。
芸能人の参拝も多く、境内には本堂である観音堂の他、温泉薬師堂・愛染堂・不動堂などに加え、
松尾芭蕉・北原白秋の碑、新派俳優花柳章太郎の供養塔などが建つ。

不動堂全景

格子窓の隙間から見た不動堂内陣の様子
普段は外陣からの参拝である。
鐘楼の脇に聳えるのが長野県天然記念物の愛染桂の巨木。当地方では稀に見る桂の巨木(雄株)で
樹齢1200年、樹高22m・目通り周囲5.5m・枝張り14mで、樹勢は極めて旺盛である。
北向厄除観音の霊木として数々の信仰と伝説に覆われている。
伝説では天長2年の大火の際に、どこからともなく現れた千手観音がこの樹木の上から
犇めき合う避難民を救ったと伝わり、以後観音菩薩の影向した霊木として信仰されて来た。
葉がハート型をしており、作家川口松太郎はこの桂の木と境内東隅にある愛染明王堂に因み「愛染かつら」を執筆。
戦前に上原謙・田中絹代主演の日活映画「愛染かつら」として上映され人気を博した。
今では縁結びの霊木として老若男女に親しまれている。
別所温泉には他にも、北向観音の夫婦杉が夫婦円満、薬師堂のねじり紅葉が素直な心、
常楽寺の御船の松が極楽浄土への導き、安楽寺の高野槙が希望と、
それぞれ御利益を持った霊木があり、別所五木として親しまれている。』 とあります。

不動堂の向かいに建つ鐘楼堂

不動堂脇に聳える天然記念物 「愛染かつら」

別所五木に数えられる「愛染かつら」

ハート型の葉

本堂脇の夫婦杉
観音様を祀る本堂は善光寺と向い合せだそうで、現世利益を求めて参拝者が絶えません。
信濃と言えば善光寺と言う位に有名な古刹ですが、他の寺院はそれと対立・張り合うことなく
結びつく事で自らの繁栄を図ったのでしょう。当寺・布引観音・元善光寺しかりです。
これも一つの賢い選択と言えます。

温泉薬師堂
不動堂の奥の崖に造られている。

薬師堂の前に建つ北原白秋歌碑

石碑前から見上げた薬師堂

これは芭蕉句碑

新派の花柳章太郎丈供養塔
レリーフは女形か?
境内の堂宇にも劣らないのが愛染桂の巨木。私の年代は映画 「愛染かつら」 の主演二人を
リアルタイムで知る最後の世代でしょうが、その原作がここで生まれたとは驚き桃の木桂の木。
樹木自体は大昔から聳えていた訳ですから、それに着眼したのは間違いなく作者の才能。
まさか川口浩探検隊が調査に入ったとも思えません。

境内の端に建つ絵馬殿

絵馬殿内部にある仁王像

絵馬殿に続く札所観音堂
私も一場面を見た記憶がありますが、戦時中にも拘らずこのような恋愛映画が上映できたのも奇跡的。
これも観音様の現世利益の御蔭でしょうか?こうして朝7時台の参拝も無事終了。
月の比叡なく、ホロホロ鳥も鳴かず、夜風に独り行く事もない巡礼ではありました。

階段を上った左手にある愛染堂

堂内に祀られた愛染明王

観音堂前から
正面にあるのが愛染堂。
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正面の案内所右手の道路を行くと信州最古の温泉地・別所温泉
上田交所で下車すると温泉街までは一直線。別所温泉は
『夫神(おがみ)岳と女神岳の山裾に広がる温泉地。日本武尊が東征の折に発見し、
“ななくりの湯”と名付けたと言う伝説が残るが、実際は時代が下った平安時代の開湯とされる。
それでも我が国屈指の古湯で信州最古の温泉地である事は揺るがない。

駅の階段を上った先にはこのような道祖神が

別所温泉マンホール蓋
残念ながらカードは未だなし。
別所温泉駅から南に向かうと交差点にあるのが将軍塚で別名維茂(これもち)塚。
冷泉天皇の安和2年(969年)、信州戸隠山に「紅葉」と名乗る鬼女が棲み近隣住民を苦しめていたので、
勅を奉じた余吾将軍平維茂が北向観音に戦勝祈願した後、首尾よく鬼女を討ち滅ぼした。
これが将軍塚と呼ばれる所以であるが、実際は古墳時代後期に築造された当地方の有力豪族の墓とされる。

将軍塚全景

将軍塚説明板

塚の上部

墓石と石塔?
塚の向かいには地蔵堂・観音堂と小さなお堂が二つ建ち、七苦離(ななくり)地蔵堂と日本武尊の
伝説由来の名が付けられている。
相染川(湯川)に沿ってなだらかな坂を行くと温泉街。川を挟んで「かしわや本店」「中松や」などの
純和風の木造旅館が並び落ち着いた雰囲気がある。宿泊者だけに限らず、
一般観光客も利用できる天然の岩風呂をそのまま浴場とした石湯をはじめ
大師湯・大湯・相染閣の四つの共同浴場もある。
泉質は単純硫化水素泉で美肌の湯として知られ飲泉も可能である。

交差点を挟んで将軍塚の向かいにある七苦離地蔵堂と観音堂

堂内のお地蔵様

観音堂の中に建つ石造りの観音様
北向観音堂の下から湧き出る温泉は御利益のある良質の湯として、
今日まで地元の人を始め、多くの観光客に愛されて来た。
この北向観音の他、その本坊である常楽寺、国宝八角三重塔を有する安楽寺など、
周辺には鎌倉~室町時代に建立された寺社仏閣が多い事から「信州の鎌倉」とも呼ばれている。』
とあります。

道路を上った先の栄屋酒店の壁に架かる案内板

左手に進むと北向観音参道へ

温泉街を流れる湯川に架かる橋上から北向観音方面を見る

橋上から見た湯川
源泉に近付き川を渡る頃には、辺り一面に異様な硫黄の香り。
これ程の硫黄を感じたのは鳴子温泉くらいでしょうか。
いかにも温泉らしい佇まいですが、この辺りに古刹が集中しているのは、
仏教説話風に言えば源泉の湧き出す場所に仏を感得した事になるのでしょうが、
治療効果もある当地に湯治効果を見出したのが現実的です。
共同浴場には真田幸村の隠し湯・木曽義仲所縁の葵の湯と地元の有名人と並んで大師湯も。
普通、大師の湯と聞けば弘法大師ですが、ここは慈覚大師円仁。珍しいだけに
却って真実を伝えているのかもと思った次第です。

湯川の畔に湧く慈覚大師の湯

湯川に面した共同浴場 大師の湯
慈覚大師円仁が好んだことが名の由来。

参道先の階段を上り北向観音へ

別所郵便局 ; 国宝・八角三層の塔、北向観音堂、別所温泉
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温泉の日本史 - 記紀の古湯、武将の隠し湯、温泉番付 (中公新書) 新品価格 | ![]() |

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【往路】上田駅(6:50) → (上田交通) → 別所温泉(7:19)

別所温泉駅 (上田交通別所線)
二日目は上田市の別所温泉と塩田平を巡礼。
北条氏所縁の古刹が残り信州の鎌倉と呼ばれる場所です。
2019年10月の台風19号に拠る豪雨で千曲川に架かる千曲川橋梁が崩落、
運休が続き存続の危機に立たされましたが、2年後の2021年3月28日に復活。
532日を経ての再開でしたが、会社は元より地元の人々の努力が実を結んだ結果と言われています。

上田交通上田駅改札
別所線では3駅しかない有人駅だが、朝6時台は未だ無人。

上田駅に到着する電車

6時50分発別所温泉行き
『上田交通は上田駅と別所温泉駅を結ぶ全長11.6㎞の路線。かつては上田原と下之郷から
支線青木線と西丸子線が分岐、加えて丸子線、真田傍陽線も擁した四路線48㎞も今は廃止され本線のみ。
昭和61年10月1日に750ボルトから1500ボルトへの昇圧を実施し、元東急5000系の導入に拠る
車両の近代化を断行。運転本数も増やしたことから、ローカル私鉄では珍しく乗客は微増傾向にある。
中間13駅の内、交換可能な駅は4駅でうち駅員配置は下之郷の一駅のみで、無人停留場は
いずれも簡素な待合室を持つのみである。

車窓から見た中塩田駅ホーム

別所温泉駅ホームへ到着

ホームにはレトロな雰囲気が漂う

ホームから見える駅名標
終点の別所温泉は、信州の鎌倉と呼ばれる別所温泉の最寄り駅。
大正10年の開業時は信濃別所と称したが、昭和5年1月19日に改称された。
二本の発着線とモダンな駅舎を持つ。側線には昇圧と同時に廃車された5250系車両が展示され、
戸袋窓が楕円形のため「丸窓電車」の愛称で親しまれた。
温泉街は駅から徒歩圏内で、北向観音や安楽寺も近い。
駅は無人扱いであるが、土日祝日には不定期で駅員が配置される。』 とあります。

待合室の天井

今回押印した上田交通スタンプ(上)と以前の別所駅時代に押印したスタンプ(下)

駅脇に展示中の丸窓電車

丸窓電車解説
駅に置かれたパンフを見ると、最近は「信州の鎌倉」に加え「太陽と大地の聖地」という事で
令和2年6月19日に日本遺産の認定を受けたと記載。
何でも夏至の朝日の線が信濃国分寺から生島足島神社、塩田平を経て西方の女神岳まで
一直線に並ぶらしく、レイライン(Ley Line)と呼ばれていました。
そのレイラインに沿って走る別所線は、太陽と大地を結ぶ龍なのだとか。
自然現象を上手く取り入れたと言うよりも、こじつけたと言った方が近いですが、
癒しよりもパワースポットが重視される現在を表しているように思えました。
裏返せばそれだけ切羽詰まった状況という事なのでしょう。

別所温泉駅舎玄関

駅舎全景

上田駅へ出発する9時25分発の電車
ホームでは鉄道むすめ二人が御見送り。
別所温泉から電車に乗る前に、駅スタンプのために窓口で尋ねると。袴姿のお嬢さんが対応。
「コスプレですか?」と訊くと、かつて女性駅長が袴姿であった伝統を受け継いでいるとの事。
上田電鉄の「鉄道むすめ」キャラクター「八木沢まい」も袴姿ですが、これを踏襲しているそうです。
列車が入線、出発の際にはホームで出迎えて下さるので、新たな売りになるかどうか?
まさか信州の鎌倉がキャバクラに変わる事はないでしょうが…。

待合室にある「鉄道むすめ」 八木沢まい

業務中の駅務嬢
この日は9時過ぎに出勤。SNSにアップするため後姿になって貰った次第。

もう一人の駅務嬢

お土産に購入した鉄道グッズのクリアファイル(表側) ¥600

裏側
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【往路】JR大阪(6:30) → (サンダーバード1号) → JR金沢(9:13→9:23) → (はくたか) → JR飯山(10:38)
飯山駅 → 徒歩5分 → 旧仁王像 → 徒歩10分 → 正受庵 → JR飯山(12:11) → JR長野(12:24→13:05) → (しなの鉄道) → 屋代駅(13:25→14:05) → 戸倉駅(14:14→14:53) → 小諸駅(15:32→15:58) → 滋野駅(16:04) → 徒歩25分 → 道の駅雷電くるみの里 → 滋野駅(17:11) → 信濃国分寺駅(17:22) → 徒歩5分 → 信濃国分寺跡 → 信濃国分寺 → 信濃国分寺駅(18:21) → 上田駅(18:25)

信濃国分寺(天台宗)
本堂拝観に続いて境内を散策しますが、先ず目に入るのが重文の三重塔。
駅のスタンプや風景印にも描かれている代表的建造物です。
『信濃国分寺は平安末期に現在地に移ったと考えられ、源頼朝発願と伝えられるこの塔内に
建久8年(1197年)の墨書があったとされるが、その様式からは室町中期の建立と推定される。
永禄天正の兵火から難を逃れた境内唯一の建造物でもある。

しなの鉄道信濃国分寺駅スタンプ

信濃国分郵便局 ; 重文・信濃国分寺三重塔、国分寺史跡公園、蘇民将来符

正面より見上げた重文・三重塔

三重塔解説
外観は軒反りが強く壮麗で和様を主とした和唐折衷様式であり、内部は四天王柱上の台輪や内外陣の詰組など
純唐様式を採っている。本尊は金剛界大日如来の木像である。
明治40年(1907年)に旧国宝に指定され、昭和7年(1932年)から8年にかけて全面解体修理が行われた。
その時、取り外された三層西北梁隅木の焼痕は兵火の跡を物語る。また心柱を新しいものに代えたので
古心柱を現在の三重塔の前に展示しているが、心柱は塔の中心に吊り下げた様な仕様であり、
地震に強い構造となっている。全高20mで戦後あらためて重要文化財の指定を受けている。

軒反りが強い三重塔外観

三重塔内陣に祀られた金剛界大日如来木像 (説明書より)

展示中の古心柱
本堂前にあるのが市指定文化財である石造多宝塔。法華経に基づく地中出現の塔中に
釈迦・多宝二仏併坐することからの命名である。多宝塔の多くは木造で石造は少ない。
高さ152㎝と別所温泉の常楽寺のものに比べると幾分小振りであるが、県下では常楽寺のものに次ぐ
鎌倉期の豪健な作風。常楽寺の塔が終着点に置かれたとするとこちらは起点とされた可能性も考えられる。
相輪が欠けているが、二仏か経巻を安置する意図で扉が刻まれた殆ど類例のないものである。
屋根や塔身に窪みが見られるが、これは堅い石で叩いて粉にして飲むと病が治る、
御守りにすると御利益があるという信仰の痕跡と見られる。
その他、境内には大黒天堂・地蔵堂・観音堂・弁天堂の諸堂が建つ。池を挟んで三重塔に向かい合う
地蔵堂は郷土の名彫物師藤川仏師に拠る地蔵尊と閻魔十王を安置する。

三重塔の前に聳える御神木の柏槙(カイヅカイブキ)と根元の石塔

珍しい鎌倉期の重文・石造多宝塔

池の南側に建つ地蔵堂

地蔵堂前面の鏝絵(右側)

同じく鏝絵(左側)
弁天堂は元和8年(1622年)の創祀で、1829年池を掘りここに移転したもの。池は本堂再建の折、
土坦用の土を得るために掘ったもので、その時出土の五輪塔を池の中に安置している。
塔の奥にある鐘楼は上田藩主松平伊賀守の保護で享和元年(1801年)の棟上げ。
棟梁は常田村箱山藤吉容一。瓦葺の屋根の反りが深く全容が優美である。
梵鐘は供出のため昭和27年の再鋳であるが、優雅な天人模様が刻まれている。

池の中にある弁天島と弁天堂

鐘楼

昭和27年再鋳の梵鐘
大黒天堂は輪王寺一品親王作と伝える尊像を祀り、大正13年の再建。
甲子大黒天の宝木槌は民芸調で当寺の名物とされる。
珍しいのは本堂左奥にある宝蔵。これは常設芝居小屋の八日堂座が廃止された跡に建てられたもので、
仏伝に基づく壁の鏝絵は逸品である。』 とあります。

正面から見た大黒天堂

大黒天堂の向拝下には打ち出の小槌の彫刻が

明治30年建立の宝蔵

宝蔵前壁の鏝絵(左側)

同じく前壁の鏝絵(右側)
律令時代の国分寺の後継寺院ながら江戸以前の建造物は三重塔のみ。と言っても境内には
諸堂が立ち並び壮麗な雰囲気が漂います。戦乱時代に焼失したのは仕方がありませんが、
その後の再建を経て明治の廃仏毀釈を乗り切ったのが大きかったのでしょう。
以前、安曇野の寺院で伺った話では、信州で最も廃仏毀釈が荒れ狂ったのは松本周辺だったとか。
同じことが上田周辺で起こっても不思議はありませんでしたが、幸いにもなしで済みました。
恐らく八日堂の市を通じて庶民の生活に不可欠であった事が大きな理由でしょう。

昭和60年再建の観音堂
江戸初期の百体観音像を祀る。

参拝者休憩所(招堤庵)

休憩所脇の藤棚

本堂前から仁王門方面を見る
[参考書]
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【往路】JR大阪(6:30) → (サンダーバード1号) → JR金沢(9:13→9:23) → (はくたか) → JR飯山(10:38)
飯山駅 → 徒歩5分 → 旧仁王像 → 徒歩10分 → 正受庵 → JR飯山(12:11) → JR長野(12:24→13:05) → (しなの鉄道) → 屋代駅(13:25→14:05) → 戸倉駅(14:14→14:53) → 小諸駅(15:32→15:58) → 滋野駅(16:04) → 徒歩25分 → 道の駅雷電くるみの里 → 滋野駅(17:11) → 信濃国分寺駅(17:22) → 徒歩5分 → 信濃国分寺跡 → 信濃国分寺 → 信濃国分寺駅(18:21) → 上田駅(18:25)

国道18号に面して建つ仁王門と寺号標
国分寺跡の後は、国道を挟んだ向かいにある信濃国分寺へ。
道路の向かいには大きな仁王門が聳え、そこを通る道を進むと国分寺境内。
手前の駐車場の向かいに建つのが寺務所。門は開いていましたが
「参拝・御朱印・御守りは本堂で御願いします」 の注意書きが。
この場所はお寺の関係者の住居だけに使われるようでした。

参道から見た仁王門とその向こうを走る国道18号

仁王門に続く参道の先に見える本堂
続いて、注意書きに従って国分寺境内へ。当然、閉まっているものと思いましたが、
来て見るとまさかの開門状態。真っ先に本堂へ向かうと内陣には人の姿も。
「18時には本堂を閉めますが、境内は御自由に見て頂いて構いません。」
と耳を疑うような話。早速、説明書を¥50で頂き境内を散策。
陽は西に傾くといっても拝観には十分な明るさでした。先の雷電展示館といい、この日の参拝は幸運続き。
これも飯山の「七福の雪隠堂」のウンの賜物でしょうか?

参道左手には寺務所への門が

白塀に囲まれた寺務所
参拝帰路なので既に閉門。
信濃国分寺(しなのこくぶんじ)は、
『聖武天皇の詔に拠って日本各地に建立された国分寺の内、信濃国分寺の後継寺院に相当。
薬師如来を本尊とする天台宗寺院で、現在山号・院号はないが、かつて江戸時代には
「浄瑠璃山真言院国分寺」と号していた。
古代の国分寺は承平8年(938年)、平貞盛と平将門がこの付近で合戦に及び、その戦乱で焼失。
律令体制が衰退し国家の保護が失われた国分寺は漸次衰退し規模も縮小したと考えられる。
鎌倉時代に入り、源頼朝が善光寺参詣の帰途堂塔の修復を命じたとされ、
また江戸時代の修復時に三重塔から建久8年(1197年)の墨書が見つかった事などから、
その頃までには現在の場所に移っていたと考えられている。

寺務所境内に建つ客殿(阿弥陀仏殿)
明治28年の建立、この奥に寺務所(庫裏)が続く。

客殿脇の庭園
室町時代に入ると郷土の信仰の中心となり1月8日の縁日に開かれる市などで栄えた。
蘇民将来符の縁起を語る寺伝の「牛頭天王祭文」(1480年写)にその事が伝わる。
現在の本堂が八日堂と呼ばれるに至った経緯はこれに因んだもので、縁日に授与される
蘇民将来の御守りは家門の無病息災を願う護符として有名である。
戦国時代の天正12年(1585年)、徳川家康と真田昌幸の第一次上田合戦があり、徳川勢はこの地まで敗走。
戦時供出した梵鐘には永禄・天正年間に兵火に罹り堂宇全焼とあるのはこの時期の事とされている。
また慶長5年(1600年) 関ヶ原合戦に中山道から向かった徳川秀忠は、この地で足止めを食らうが、
その折に真田昌幸と信之・本多忠政との国分寺会見は良く知られている。
その後、宝永5年(1708年)に仮本堂再建、享和元年(1801年)に鐘楼建立。
文政12年(1828年)には68世住職・孝誼に拠って本堂再建が発願、万延元年(1860年)に竣工を果たしている。
発願以来33年の歳月と二千に百両を要した一大事業であった。

参道の真正面に建つ壮麗な本堂(薬師堂)

万延元年竣工の本堂

本堂外陣の参拝所

おびんずる様(賓頭盧尊者)
善光寺同様、ここも盗難が心配。
国分寺本堂(薬師堂)は桁行6間、梁行4間の入母屋造・妻入の建物で高さは約17m。
善光寺本堂の様に母屋の周りに1間の庇を設けており、二階建ての印象を与える。
内部は前側の外陣と奥側の内陣に分かれ、内陣の両脇と背後の一間通りは
僧侶の通る入側となっている。内陣には本尊の薬師如来を安置し、巳年開扉以外は秘仏である。
日光月光両菩薩を脇侍とし十二神将を安置している。
建立に携わった職人は大工棟梁が佐久耳取村(現小諸市)の田島喜平、彫刻は地元上沢出身の
竹内八十吉で、瓦師は三河から招かれていたと記録にある。
本堂は東信(長野県東部)では善光寺に次ぐ規模を誇り、向拝の彫刻に見られる鋭い彫りや、
虹梁の複雑な絵様等に江戸時代後期の特徴が見られる。

本堂の向拝下から参道を見返る

本堂から張出した向拝

本堂側面
八日堂縁日は地域分布の広さとその数において東信地方最大の規模を誇る。
当寺は国分寺創立の詔に基づく八日祈願の伝統から古来八日堂の別称で知られており、
特に正月八日は最勝王経転読の祈願会と、元旦から七日間の郷中安穏祈願の結願と重なり、
八日堂縁日として栄えてきた。
真田昌幸に拠る上田城下町が出現するまでは当地方の中心で、正月の市が八日堂の縁日と結びついて
隆盛となったと思われる。七日、八日の両日には信濃一帯を初め北関東・越後方面からも十万人にも及ぶ
参詣者が集まり、上田の町では古来大売り出しをする程の賑わいを見せた。
明治時代までは生活用品日用品の市で、蚕種が堂の縁側で売られたと言うが、現在は蘇民将来と
だるま市を中心とした縁日となっている。蘇民将来符は、薬木とされるドロヤナギ材の六角面に
「大福長者蘇民将来子孫人也」と墨と朱で書き分けたもので、民俗的にも注目される護符。
これによって八日堂縁日が全国的に有名となった。』 とあります。

境内北端に建つのは歴代住職の墓地?

説明書より引用
蓮の開花時期には北側の駐車場からこのような景色が見られる。

蘇民将来解説

蘇民将来符 (説明書より引用)
ガイドには本堂を八日堂と呼ぶと記載されていましたが、その理由には触れず。
境内の説明を見て初めて理解できました。
要は正月八日の縁日に市が立ったからの命名ですが、同じ様な事は近江の八日市にもあって、
あちらは西明寺の御開帳が八日だったことで市が立ったそう。同じ八日というのも奇遇ですが、
末広がりで目出度いからか、お釈迦様の誕生日が4月8日だからなのかは分かりません。
唯、お寺にとっては追い風になったようです。今の「イトーヨーカドー」もこれに肖ったというのは考えすぎでしょうか?

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