<コース>
横浜 → (京浜急行) → 久里浜 → バス10分 → 久里浜港(9:15) → 高速船 → 大島岡田港(10:15)

大島公園内にて
都はるみさんが独特の唸りでデビューしたのが昭和39年。
以来、大島と言えばアンコと椿の島。
伊豆七島は伊豆という位ですから伊豆の国。
いまの静岡県ですが明治になって東京に編入されました。
東京都と言っても、飛行機か船でないと行けない離島。
先ず、縁はないと思っていましたが、
第63回大島つばき祭りに合わせて久里浜港から高速船が出る様子。
久里浜ならば行き易いので、早速、旅行会社に申し込み。
船+食事+見学=¥6,900 のパックツアーでありました。
若い娘を表す「アンコ」ですが、元来は目上の女性の意味。
おそらく姉御→アンコでしょうね。
島内ではアンコ装束の年配の女性が、行く先々でお出迎えしてくれますが、
アンコ本来の意味に戻った気もします。アンコ猫ヤアンコワンコにはちょっと驚きですが…。

久里浜港から東海汽船セブンアイランド号に乗船
9:15発で大島岡田港10:15着。ジェット船のため80㎞を60分の船旅。

港では「あんこわんこ」がお出迎え

待合所前の為朝碑

バス移動の途中の椿の小径

大島公園でのアンコさん達のパフォーマンス
バックミュージックは勿論「アンコ椿は恋の花」

椿博物館にて

椿博物館からの眺め
島全体は椿で有名で植物園等があります。
椿は南方系の樹木なので温暖な大島には自生していても不思議はないですが、
花だけでなく椿油を採るという実用目的。江戸時代から整髪油として重宝されました。
食材は金目鯛はじめ海産物が主。【餡子唾気】とは参りません。

これは野生のヤブツバキか?

温室内にて中国産椿

貴宝殿

Cara Mia
椿は西欧に伝わると、早速挙って栽培された。

Great Eastern

暁香(あかつきのかおり)

プリンセス雅子

金茶花

椿花ガーデンの椿の小径にて
そう言えば、沙羅双樹もツバキ科。

大島桜
染井吉野の元親の品種。
大島のもう一つの顔は流刑地。
保元の乱で敗れた鎮西八郎為朝がその弓の腕前を惜しまれ、ここに配流。
しかしここでも国司の命に従わなかったので、都からの追討を受け自害しました。
これで話は終わる筈ですが、為朝はここで死なず琉球へ逃れ、
息子が初代琉球王舜天王になったと、正史「中山世鑑」、滝沢馬琴「椿説弓張月」にあります。
恐らく都の貴種に自出を求めた琉球王室の策略。
江戸時代には薩摩の支配下に入りますが、
同じ源氏の流れを自称する島津藩への対抗措置でもあったのでしょう。
とんだ珍説とはなった気がします。

昼食は大島温泉ホテルにて「島っこ膳」
金目鯛と大島揚げ(明日葉と魚のすり身)が美味。

明日葉の味噌汁
太めの三つ葉という感じ。

温泉ホテル前にて
生憎、ガスが掛かっている為、冨士は見えず。

三原山、真正面に三原神社がある
噴火口の御洞(みほら)が三原の語源になったそう。

麓の馬達

左二頭は与那国馬。右は宮古馬。

山頂口から元町港を

岡田港付近の八幡神社
為朝が建立したとかしなかったとか。

八幡神社本殿
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
お江戸の三ヵ寺目はおばあちゃんの原宿、巣鴨へ。

お婆ちゃんの原宿、巣鴨地蔵通商店街
巣鴨のお地蔵様と言えば「とげぬき地蔵」ですが、元々は中山道を行く左手にある眞性寺(しんしょうじ)の「銅造地蔵菩薩坐像」。
正徳4年(1714年)に江戸市中の賛同を得て建立した江戸六地蔵の一つで、高さ2.7mで大きな笠の下から旅人を300年間見守り続けています。
一方の「とげぬき地蔵」は萬頂山高岩寺(ばんちょうざんこうがんじ)と言い慶長元年(1596年)の創建。本尊は地蔵菩薩(延命地蔵)様。
当初は神田明神下、その後下谷屏風坂(上野付近)にうつり、明治24年(1891年)に巣鴨に移転と三度引っ越しをされています。
縁起に拠れば、
『江戸時代に妻の病の平癒のために夫が地蔵の御影を紙に書いて川に流し全快したので、寺では御影を配布することになりました。
その二年後、毛利家の女中が誤って針を飲み込んだ時に地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、御影に針が刺さって吐き出し助かった。』
とか。
これが「とげぬき地蔵」の名前の由来で、上野時代も高岩寺門前町として庶民の参拝が絶えませんでした。
巣鴨に移ってからもその人気は衰えず、同じ地蔵様という事で本家に取って代わったというのが【眞性】でしょう。本家の方も別段異議申立てをしなかった訳ですから庶民の信仰は鷹揚なものです。
高齢者の参拝が多いのは、誤飲防止の効果でしょうか?【抗がん】時も効果があれば良いですが…。
とげぬき地蔵の門前の店で遅めの昼食となりましたが、店は元気なおばあちゃん達で一杯。これだけ元気ならお参りに来る必要はないように思うのですが…。
とげぬき地蔵のご利益に「ボケ防止」とありましたのでしっかりと御願いして帰路に着きました。

萬頂山 高岩寺(曹洞宗)
通称とげぬき地蔵。巣鴨の名はこの辺りに鴨が多かったからだとか。最近ゆるきゃらの「すがもん」ができた。

とげぬき地蔵さん縁起

どげぬき地蔵御朱印

「巣鴨 歴史めぐり」
案内所で頂いた無料冊子(24頁)だが、巣鴨の歴史を簡潔に記述している。

門前の 「八つ目や にしむら」にて
日によってはヤツメウナギの入荷があるらしいが、どんな味かは「無顎」なため分からず。

巣鴨駅前郵便局 ; 桜の外枠に染井吉野発祥の地の碑、桜並木、眞性寺地蔵尊
[参考書]
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東叡山 寛永寺 円頓院(天台宗 関東総本山)
浅草寺に続いて西へ向かいJR上野駅から歩いて寛永寺へ。
寛永寺は将軍家所縁の寺。創建は寛永2年(1625年)、徳川家光によって天海を開基として創建されました。
江戸にある徳川の菩提寺のうち、増上寺は中世から存在しましたが、寛永寺は新たに創建されたもの。増上寺は浄土宗なので、全ての宗派の元と言う位置付けで天台宗の寺院も必要があったのでしょうか。
江戸城の鬼門を守るという事で北東の地に建立。京都の比叡山に対するので東叡山、創建元号を寺号とするのも延暦寺と同じです。
17世紀半ばからは日光・比叡山も管轄下に置き、歴代住職も皇族が続くなど天台宗本山として強大な権力を持ちました。
貫主は輪王寺宮と呼ばれ高い格式と権力を持ちますが、これは宗教の名前を借りて、皇族を幕府側に惹き付けておく戦略だったとすれば納得できます。宗教と政治は切っても切れないものです。
こうして午前中で江戸の天台宗の二ヵ寺を巡りましたが、浅草寺が庶民の寺なのに対し、寛永寺は将軍様のお寺。当然権威は後者が高い筈ですが、賑わいは断然前者。
歴史の重みと言ってしまえばそれまでですが、将軍のお膝元とはいえ江戸庶民の力が【たいとう】していたという事でしょう。

不忍池
蓮が早朝に咲く時、音がするとかしないとか?

寛永寺
東叡山と言うだけあって本堂は根本中堂と呼ばれる。

寛永寺御朱印

上野郵便局 ; 国立博物館、上野動物園のパンダ、西郷隆盛像、旧寛永寺五重塔、桜
台東桜木郵便局 ; 旧寛永寺五重塔、桜
[参考書]
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金龍山 浅草寺(聖観音宗 総本山 天台宗系単立寺院 坂東三十三ヵ所第十三番)
東京に出る用事があったので、有名処の三ヵ寺を巡礼。金龍山浅草寺(きんりゅうさんせんそうじ)は浅草というよりも東京を代表する古刹で観光地。創建は飛鳥時代に遡る江戸最古の古刹。
寺伝では、
『推古天皇36年(628年)に、隅田川で漁をしていた檜前(ひのくま)浜成・竹成兄弟の網に仏像が掛かり、それを見た主君の土師中知が出家して仏像を祀った。大化元年以降秘仏である。』
とされます。
仏教伝来から百年足らずの時代に、果たして川から仏像が出現するのか、仏像と分かるほど損傷していなかったのか、と疑問は尽きません。一説では埼玉の飯能にあった寺から洪水で流されたとも言われます。
大きな逗子に入って居られる観音像は一寸八分(5.5㎝)、絶対秘仏なので詳細は不明ですが、偶々網に掛かった木片が観音様に似ていたとするのが信憑性がありそうです。
謂われはどうあれ、信仰はそれに続く人々に拠るもの、以後、中世・近世と為政者、庶民からも信仰を受け現在に続いています。
関東大震災では生き残りましたが東京大空襲で焼失。戦後は一時期衰退しますが、地元の熱意で復興。信仰の底力を見た気がします。
いつでも多くの人で賑わっていますが普段は人混みの浅草寺も朝7時台は仲見世共々閑散としており、本堂でゆっくり拝観できました。

雷門から宝蔵門まで250m続く表参道にある仲見世通り
常に大勢の人でごったがえしているが、早朝7時なのでぼちぼち数軒の店が開き始めたところ。

入母屋造の宝蔵門
昭和39年に実業家・大谷米太郎(ホテルニューオータニ創業者)の寄進に拠った。

浅草寺本堂
普段の御朱印は横の影向堂だが、朝9時までは本堂で貰える。

五重塔
天慶5年(942年)の創建時は三重塔、その後慶安元年(1648年)に五重塔になり、昭和48年再建。

浅草寺御朱印
[参考書]
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<コース>
JR横浜 → (総武線) → JR小岩 → 徒歩15分 → 善養寺

星住山地蔵院善養寺(真言宗豊山派)
友人と待ち合わせまでに時間があったので小岩を巡礼。江戸川区は23区の東端、かつては武蔵国ではなく下総国。今は下町と呼ばれる場所です。
その江戸川区の近くにあるのが星住山地蔵院善養寺(せいじゅうざんじぞういんぜんようじ)、小岩不動尊の名前で知られます。
寺伝によれば、
『山城国醍醐山の頼澄法印という僧侶が夢のお告げに随って大永7年(1527年)この地に至り、不動明王を祀ったのが始まり』
とされます。
連歌師宗長の紀行文や新編武蔵風土記にも記載があるので伝説と言えども信憑性は高そうです。徳川時代には10石の朱印状を拝領し、付近100数十ヵ寺を擁する寺院。
天明3年(1783年)の浅間山大噴火では犠牲になった人馬が江戸川を下って小岩付近の岸に流れ着き、小岩村の人々は善養寺境内の無縁墓地に葬りました。今は境内に供養碑が立っています。
星住山の山号は、かつて境内に生育していた松に星の精霊が降り立ち石になったという伝説に由来しますが、残念ながらその松は枯死して今はなし。代わりに影向(ようごう)の松と呼ばれる木が有名となっています。
樹齢600年以上、高さ8m、地上1.8mで枝分かれして東西31m、南北28mと傘のような広がりを見せています。
影向とは神仏がこの世に現れた姿を言うそうで、世の中を包み込む傘のような役割なのでしょう。
この松が有名になったのは、昭和50年代に起こった讃岐志度町の「岡野松」との日本一争い。論争は1年以上に亘った後、結局大相撲の立行司木村庄之助と相撲協会理事長の春日野親方の裁定で「双方日本一」に落ち着きました。
他人にはどうでもいいように思いますが、地元では真剣な話だったのでしょう。尚、元横綱栃錦の春日野理事長は小岩の出身、ボクシングの白井義男、プロ野球の王貞治の両氏とならんで下町出身のスポーツ界の大立者。
地元だけに無視する訳には行かなかったのでしょう。
午前中の短い時間ではありましたが、非常に中身が濃いわ!というべき内容でした。

駅から歩くと西側の不動門へ着く

南側にある仁王門

仁王門裏側
通常は仁王さまだが、地元出身の横綱栃錦をモデルにしている。

境内遠望

本堂
本尊は地蔵菩薩

影向の松と本堂

影向の松の広がり

松の説明


松の根本付近


不動堂

不動堂から境内を望む

小岩不動尊御朱印

小岩郵便局 ; 善養寺境内の影向の松、江戸川水門
[参考書]
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江戸・東京歴史の散歩道〈6〉荒川区・足立区・葛飾区・江戸川区 (江戸・東京文庫) 新品価格 | ![]() |

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<コース>
JR横浜 → JR町田 → 小田急狛江 → 徒歩3分 → 泉龍寺

雲松山 泉龍寺(曹洞宗)
安政6年(1859年)再建の山門。
6月1日の葉書値上げ(¥52→¥62)のため、在庫の葉書で町田、川崎、狛江と多摩地区を巡りました。
風景印がメインでしたが狛江の駅北側にこんもり繁った森がありその中に寺院が。なかなかいい雰囲気だったので道草がてら巡礼。
雲松山泉龍寺(うんしょうざんせんりゅうじ)、寺伝によれば
『東大寺の開山で伊勢原の雨降山大山寺を開いた良弁僧正が天平神護元年(765年)この地に来て雨乞いをして法相宗・華厳宗の寺として創設したのが始まり。
天暦3年(949年)には廻僧の増賀聖が天台宗に改め、法道上人彫刻の聖観世音菩薩を安置した。
戦国時代には衰微し小さな観音堂だけになったが、旅の途中で立ち寄った泉祝和尚が曹洞宗の参禅修行道場として復興。
天正18年(1590年)に徳川家康が関東に入国するとこの地は旗本の石谷氏が地頭となった。』
とあります。
境内には弁財天池と呼ばれる霊泉がありますが、これは良弁僧正が雨乞いの折に湧出したもの。
多摩川本流から1㎞離れていますが、地下を通った水流が湧き出したもので昭和30年代まで周辺の田畑や飲料水として利用されていました。
不幸にして周辺の乱開発により池は昭和47年に枯渇、掘削することで再生を果たしました。
龍神様の怒りとは言いませんが、今まで続いてきた自然現象が消えることは地球が警告を発していると言う発想を持つべきでしょうね。
泉龍寺の名前も泉由来、家康が旗本石谷氏を置いたものここの重要性に気付いたからでしょう。
初代清定は寺域の整備に努めたので中興開基と呼ばれ、続く貞清は島原の乱で活躍、江戸町奉行を務め、慶安事件で丸橋忠弥を捕えた人物。英雄的人物として当時も人気がありました。
檀家も四百年も続く土豪やその子孫が多く、境内の落ち着いた雰囲気もそのためでしょう。
本堂の扁額の書は元経団連会長石坂泰三氏(東芝会長)、なんでも泉龍寺の檀家の人の幼馴染だったとか。
御朱印を御願いしましたが代金は受け取られませんでした。25年間の経験でも初めての事。同時に御朱印された方からもお金は取られなかったので、お寺の方針でしょう。
境内には仏教文庫という図書館(資料館)があり無料で閲覧可能。近所の方にも図書館を自由に利用できるようにして地域密着型を目指している感じでした。
佛教・歴史関連の書物中心で普通の図書館では閲覧できないようなもの(発禁本ではない!)が充実。館長の先代住職は東大卒業後、史料編纂所に30年務めた方だとか。
近世以降の佛教は冠婚葬祭が主となって宗教性は薄れている気がします。檀家制度にどっぷり浸かっていたので軌道修正が必要でしょうね。
いまは長寿社会ですが今ひとつ先行きに不安を抱えた人が多いので、宗教の役割も十分あると思います。要はそれだけの気概を持った宗教家が出るかどうかですが…。

珍しい二層式鐘楼
天保15年(1844年)の再建。90両の寄進により建ったとか。

本堂の扁額
経団連会長の石坂泰三氏の書

寺名の由来となった弁財天池
かつては1分間に水量9㎥、水温13℃と一定であった。昭和47年に涸れて以後は掘削して地下70mの井戸から汲み上げている。

弁財天池説明板

雲松山 泉龍寺縁起

泉龍寺御朱印

狛江市マンホールカード 配布場所はこちら

狛江郵便局 ; 多摩川の松並木、万葉歌碑、土器
[参考書]
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<コース>
京浜急行青物横丁 → 徒歩5分 → 品川寺 → 徒歩15分 → 京浜急行北品川

京急青物横丁近くにある廣重の東海道五十三次「品川宿」(保永堂版)のモニュメント
今日は江戸から東海道最初の宿場、品川へ。
というと出発はJR品川駅となりそうですがJRは港区、京急の青物横丁から北品川までの2.4㎞が旧東海道品川宿に当たります。
京急の青物横丁で下車するとすぐ品川寺(ほんせんじ)、宿場の名前と同じ古刹。寺伝に拠れば、
『大同年間(806~810年)に空海により創建。
長禄元年(1457年)江戸城築城で名高い太田道灌のより伽藍が建立され大円寺と称した。』
とあります。
昔はこの辺りはすぐそばまで海の波が打ち寄せる場所だったそうで、廣重の絵でもそのように描かれています。
果たしてそのような場所に寺を建てるものか?とは素朴な疑問。
海の人の信仰の御堂などがあって、後に道灌が堂宇を建てたと言う意見に【道灌】です。
戦乱に拠り荒廃しますが江戸時代に入った承応元年(1652年)に再興され現在の寺号になりました。
順番的には宿場の名前を寺名に持ってきた感じです。
山門前には江戸六地蔵の一つ地蔵菩薩坐像が旅人をお出迎え。
本堂自体はこぢんまりとしており、このお地蔵様が目印になったのでしょう。
境内には梵鐘がありますが、これはパリ万博、ウィーン万博に出展後、行方不明に。
その後スイスのジュネーブにあることが分かり幸いにも返還され元の場所へと戻されました。
『カネは天下の回りもの』を地で行く話ですが、カネだけに銀行で有名なスイスに集まったのでしょうが。

海照山 普門院 品川寺(真言宗醍醐派)
南品川にあり、空海が地元の領主品河氏に観音を授けたとか。

品川寺山門前にある江戸六地蔵
各街道毎におかれたらしい。

洋行帰りの梵鐘
行方不明だった鐘がジュネーブの美術館で見つかり、昭和五年に変換された。

品川寺境内の大銀杏

品川寺御朱印
日本橋を出て最初の宿場のため遊興地として名高く、殊に遊郭が多かったそうです。
岩波新書 シリーズ日本近世史④に記載の品川の記事から抜粋すると
『江戸の遊郭は公認された新吉原だけで、品川は飯盛女を一定数置く食売旅籠屋という疑似遊郭の扱いでした。
品川宿では旅籠111軒の内92軒が相当し、認められた飯盛女数は500人、板橋・千住・新宿が各150人でしたからその規模が推し量れます。
江戸から至近のため宿泊客は少なかったが「休憩」する客が多かった。』
とあります。現代の「ホテル」にも通じるものがあるのでしょうか?詳しい事は分かりませんが…。
旧国鉄品川駅は新橋(旧汐留)~横浜(桜木町)開業の時にできた最古の駅ですが、宿場の人の反対で駅が北にずれたとか。
鉄同忌避はそれも理由だったのでしょうか?
昔、アド街で品川を取り上げた時に地元出身の大物女性歌手がそんな話をしていました。
旅人にとっては「この世の花」の如き女性が「夢飾り」をして「愛のさざ波」している姿が眩しかったに違いありません。
高杉晋作や久坂玄瑞が密談した大妓楼相模屋もここにありましたが、今は跡形もなく往時を偲ぶのは困難です。
川崎宿同様、開発の荒波には揉まれていますが、品川浦船溜まりなどに停泊中の【本船時】は面影が残っているような気がします。
その昔、旅人の心をとらえたDNAが未だ息づいているのでしょうね。まさに、「人生いろいろ」宿場もいろいろです。

街道沿いの畳店

同じく金物店

朱塗りの橋の向こうに見える荏原神社

目黒川に架かる品川橋
ここを境に宿場が南北に分かれる。

聖蹟公園にある本陣跡

街道脇の児童公園

旧東海道
道幅は鈴ヶ森口までの約3.8㎞に亘り往時のまま。

北品川の鎮守品川神社

北の天王様と呼ばれる品川神社からの眺め
京急の奥に品川宿がある。

品川浦船だまりの風景
釣り船が停泊。

こちらは屋形船が停泊

明治28年創業の手焼き煎餅の店「あきおか」
品川は海苔が名産だったので、品川巻を土産に。

品川区マンホール蓋 配布場所はこちら
サンリオの工場が区内にあり、シナモンロールが「しながわ」に通じる?事からの起用。

品川郵便局 ; 品川寺の江戸六地蔵、品川神社、大井埠頭
[参考書]
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都市――江戸に生きる〈シリーズ 日本近世史 4〉 (岩波新書) 新品価格 | ![]() |

シリーズ日本近世史の中で宿場としての品川の記述が豊富
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<コース>
西武新宿線下落合 → 徒歩5分 → 薬王院

瑠璃山 医王寺 薬王院(真言宗豊山派 東国花の寺百ヵ寺東京二番)
瑠璃山医王寺薬王院は真言宗豊山派。寺伝では
『創建は鎌倉中期、源頼朝の帰依僧で相模の大山寺を中興した願行上人の開山。
長い間の荒廃を経て延宝年間(1673~1681年)に僧侶實壽により中興された』
となっています。しかし、江戸期にも火災に会い、明治になってようやく再興されました。
しばらくは低迷しますが、昭和40年代になって本山の長谷寺から牡丹が100株送られたことが契機となり牡丹寺として名を知られるようになります。
西新井大師と異なり傾斜した地に牡丹が咲く様は本家を思わせるのでしょうか「東長谷寺」とも呼ばれています。
こうして1日で三ヵ寺参拝完了。すべて真言宗豊山派で関東花の寺百ヵ寺というのも偶然ですが、文字通り百花繚乱。
【厄多いん】で【洗いたいし】という当初の目的も達成です。

薬王院山門
石碑には東長谷寺とある。

山門扉の牡丹の彫刻

境内の説明板

本堂へ続く階段と牡丹

境内の牡丹
天井に覆いがあるので西新井大師と雰囲気が違う。

この辺りの地名「落合」は二つの川が合流する事に由来するので、湿気が高い気が。


これは牡丹ではなく石楠花

薬王院説明書

薬王院御朱印

落合郵便局 ; おとめ公園、薬王院と牡丹、区花・ツツジ
[参考書]
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<コース> 東京メトロ護国寺 → 徒歩3分 → 護国寺

神齢山 悉地院 大聖護国寺(真言宗豊山派大本山 東国花の寺百ヵ寺東京三番)
足立区から文京区に移動して護国寺へ。
神齢山悉地院大聖護国寺は天和元年(1681年)、五代将軍徳川綱吉が母親桂昌院の発願を受け創建。
高崎の大聖護国寺の僧侶亮賢に高田薬園の地を与え開山にしたと言われます。
本尊は桂昌院の念持仏だった琥珀如意輪観音。
桂昌院の祈願寺から元禄10年(1697年)には将軍綱吉の祈願寺となり最盛期は寺領2,700石に及びました。
関西はそうでもないですが関東は豊山派寺院が多く、護国寺のお坊さんの話では、関ヶ原で豊山派が東軍に高野山派は西軍についたからだとか。
成程でしたが同宗で分かれるとは真田氏や九鬼氏と同じくリスク回避を計算しての事。
宗教を発展させる方法の1つは如何に勝ち組に乗っかるかなのでしょう。
現在も23区内に5万坪の広大な敷地を有していますが、パトロンにいかに有力者を捕まえるかというのも寺の重要な方針の一つ。
実社会でも大いに参考になる事でした。
徳川家の庇護を失った明治以後は一時苦境に立ちますが、皇族、陸軍に墓地を提供し挽回を図ります。
政治家や文化人でもここに墓を持った人は多いですが、松江藩主松平不昧公の墓所がここに移ったことで、大規模なお茶会が開かれるようになりました。
歴代の関係者は機を見るのに敏感だった訳で、民衆の純粋な信仰とは違いかなり政治的な面があるのは事実。
でもその結果、住宅やオフィスの乱立する区内で自然が残っておりしかも無料で散策できる訳ですから、当時の指導者に感謝しないといけません。

仁王門
護国寺の表門。八脚、切妻、丹塗りで、元禄期の建立。

境内から見下ろした楼門

仁王門と本堂の間にある不老門
鞍馬寺の門を基本に昭和13年建立。

不老門近影
「不老」の扁額は徳川家達公の筆になる。

護国寺説明板

重文・護国寺本堂(観音堂)
元禄10年の建立。

本尊は桂昌院の念持仏の如意輪観音

本堂屋根部分の修飾

月光殿入口
月光殿は三井寺の塔頭の日光院を昭和3年に移築したもので書院造の様式を今に伝える。重文だが観光謝絶。この日は茶会で使用。

多宝塔
石山寺多宝塔の模写で昭和13年建立。

境内には塔頭がいくつかあるが拝観謝絶が殆どである

護国寺茶席 圓成庵と不昧軒

圓成庵
ここも観光謝絶。この日は茶会で旧松江藩主の奥方も来られたとか。

護国寺境内には樹木が多いがこれは緑色の桜(御衣黄)

護国寺御朱印

文京大塚三郵便局;重文・護国寺本堂
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<コース>
JR横浜 → JR北千住 → 東武西新井 → 大師前 → 徒歩5分 → 西新井大師

五智山 遍照院 總持寺(真言宗豊山派 東国花の寺百ヵ寺東京一番)
桜が一段落した後は、牡丹を訪ねて 西新井大師(足立区) → 護国寺(文京区) → 薬王院(新宿区) と近場を巡礼。
五智山遍照院總持寺(ごちざんへんじょういんそうじじ)は真言宗豊山派で大和の長谷寺と並ぶ牡丹の名所。
関東花の寺の第一番の栄誉を担っています。東武伊勢崎線の西新井で支線に乗り換えても1駅、10分間隔なので至って便利。
駅から山門までも徒歩5分で参道には食事処や土産物店が犇めき合う盛況です。
寺格では長谷寺の下ですが、観光客は遥かに多いのではないでしょうか。

無人の東武大師前駅からスタート

駅を降りると商店街には花まつりの垂れ幕が

西新井大師門前
遥か先に山門が見える。

山門前に到着
左は1689年創業の老舗の草団子「清水屋」

江戸後期建立の西新井大師山門
寺伝に拠れば
『天長年間にこの地を巡業していた空海が、疫病に苦しむ住民のために自ら十一面観音菩薩を彫って安置21日間に亘る祈祷を行ったところ、清水が湧き出して病は平癒。
そこで霊泉湧出霊の霊場として天長3年(826年)に堂宇を建立した。』
とあります。
よくある弘法大師説話ですが川崎大師等と共に関東三大師、関東の高野山と呼ばれるほどの名刹です。
尤も「関東の高野山」は他でも聞きましたので汎用性があるようですが…。
別名を西新井大師。新宿の新井薬師よりも東なのに西新井とはこれ如何にですが、霊泉が本堂の西側にあったからだと教えて頂きました。

境内の藤棚から山門を望む

藤棚の向こうは鐘楼堂

藤の向こうに見える大本堂屋根


昭和47年落慶の西新井大師本堂
本尊に十一面観音と弘法大師を祀る。朝は8時から開門だが御朱印は9時から。

大本堂から境内を見る
朱色の塔は都内唯一の三匝塔(さざえ堂)

大本堂内にある盆栽仕様の藤

大本堂から境内の池を望む
園内に牡丹は五ケ所あって花曼荼羅にしています。100品種、4,000株、赤・白・赤紫・ピンクや【まだら】と色とりどり。
回廊沿いの長谷寺の牡丹も良いですが、こちらも【曼荼羅】捨てたものではありません。
牡丹といえば旧中国では特に好まれた花で絵画にも登場。かの楊貴妃も牡丹に譬えられたことがあったとか。
妖艶な雰囲気がそう思わせるのでしょうか。私も長らく中国の国花は牡丹と信じていましたが、新中国になって梅に変わった由。
なんでも周恩来首相が厳寒に先駆けて咲く梅をこれからの困難を乗り切る象徴にしたという事です。
余談ですが、中国で「あの人は牡丹のようだ」と言うときは、遠くからは美しいが近くだと大した事ないという事だそう。
うっかり話すと大変なので心しないといけませんね。まあ、そんな言い方をする人も居ないとは思いますが…。
参拝を終え駅に向かいましたが、門前には団子屋さんが軒を連ねており参道途中で小休止。
長谷寺も門前の草餅が有名なので、同じ宗派だからでしょうか?店内では食べられず土産を購入。
花より団子を地で行く巡礼となりました。

牡丹園にて
向こうに見えるのは山門








草団子は創業1805年の老舗「中田屋」で購入
偶々家紋が同じだったという単純な理由で。

お大師だんご¥750

西新井大師御朱印

足立西郵便局 ; 西新井薬師本堂、ダルマ、牡丹
足立西新井郵便局 ; 西新井薬師の牡丹、本堂、三重塔
[参考書]
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正福寺参拝の後は、往路と同じ西武と東急を乗り継いで帰路につきましたが途中、乗り換えて大井町線九品仏駅で下車。
関西で九品仏といえば加茂の浄瑠璃寺ですが、そう名乗るからにはそこにあるのかいな?
と思いつつ駅名の由来となった寺は駅から徒歩5分。

九品山 唯在念佛院 浄真寺(浄土宗)
参道は総門まで松並木が続く。

参道の松並木
九品山唯在念佛院浄真寺は、徳川家綱の治世延宝6年(1678年)に珂碩(かせき)上人が世田谷吉良氏の奥沢城跡だった当地を貰い受け創建したのが始まり。
堂宇を配置する際に浄土宗経典の「観無量寿経」の九品往生思想に拠り阿弥陀如来像を9体祀ったことが寺名の由来になっています。
略縁起に拠ると珂碩上人は彫刻に優れた腕前を発揮、本堂の釈迦牟尼如来も自作です。
中でも18歳で発願し51歳で完成した九品仏は畢生の大作と言われています。
僧侶と言うよりも寺のコーディネーターと言った方が良いでしょう。自分でするからその分経費も抑えることができるので一石二鳥。
仏教も時代が下ると分業化されますが、昔は説教、伽藍建立、仏像彫刻と一人で対応していた訳で、【ぶきよう】では務まらない仕事。
やはり宗教家は【こーでないと】と思った次第。
道標から山門に入ると約3万6千坪の広大な敷地に七堂伽藍が配置。
都内でも完備した寺院は例が少なく、思わず【観無量】になりました。
世田谷区は23区内でも自然の豊かな場所ですが、さすがにこれだけ広い場所で、しかも江戸の面影を残すところは他にはないでしょう。
境内を散策する人もそれなりに多く手近な公園のようでした。
境内に鷺草園があると聞きましたが、【サギ】ではないもののお目当ての鷺草はほんの少し残っているだけ。
見ると境内を鳥の群れが行くのでよく見るとセイヨウインコ。
日本在来種ではなく飼っていた人が放したのでしょう。絶滅危惧種の鷺草と対照的に映りました。

総門

総門の扁額

扁額の説明

自然に囲まれた境内

横から見た本堂

庭園越しに見た本堂

本堂横の大銀杏

本堂前の桜

本堂へお参り

本堂入口近影

本堂内から見た庭園
浄土宗だが禅宗様石庭か?

本堂内から石庭、仁王門を望む

阿弥陀堂横の心字池?

花筏には少し足りない池の水面

本堂から三仏堂へ向かう

一堂に三阿弥陀如来が祀られている三仏堂
上品上生・中生・下生で一堂
中品上生・中生・下生で一堂
下品上生・中生・下生で一堂

境内の桜

浄真寺境内の木々に止まるインコの群れ
初めはオナガかと思ったが、望遠にして驚き。

九品仏浄真寺略縁起(無料分)

九品仏御朱印

世田谷九品仏郵便局 ; 九品仏のカヤの木、木造釈迦如来坐像、鷺草園のサギソウ
[参考書]
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<コース>
西武電鉄東村山 → 徒歩10分 → 正福寺

金剛山 正福寺(臨済宗建長寺派)
♪東村山 庭先や多摩湖♪
「八時だヨ!全員集合」で東村山の名を知ったのが45年前。
てっきりドリフのオリジナルと思っていましたが、昭和38年の市制施行に合わせて発表された「東村山音頭」「多摩湖小唄」が元歌。
しかも昭和の大歌手三橋美智也と春日八郎の御大が歌っています。しかし世間に知れ渡ったのはドリフの【多摩】もの。
歌唱力だけでは売れない場合もあるという事でしょう。
その東村山市に国宝の御堂があるらしい。早速、東急と西武を乗り継いで東京西部に繰り出しました。

東村山駅から地蔵堂へ向かう

山門前の桜
金剛山正福寺は鎌倉中期に建長寺の僧侶石渓心月により創建、開基は北条時頼或いは北条時宗という二説があります。
時代も中世で関わった人物も著名人であるにも拘らず開基がはっきりしないのは【怪奇】な気もしますが致し方ありません。
山門をくぐると正面に地蔵堂がお出迎え。応永14年(1407年)の建立で国宝。教科書にある円覚寺舎利殿に似た雰囲気があります。
親寺は異なりますが同じ鎌倉五山という事でこの唐様という様式がこのまれたのかもしれません。
内陣は拝観できませんでしたが、堂内は【空様】ではなく約900体の木製地蔵尊が奉納されています。
一木造りで高さ15~30㎝と小ぶり、祈願する際に1体奉納し、願いが叶うと更に1体奉納した事からこれだけの数になったのでしょう。
通称は千体地蔵堂ですが、今後増えたらどうするのでしょうか?
年代の分かるものは正徳4年(1704年)~享保14年(1729年)で、東村山、所沢始め近隣の各市に及んでいます。
さほど大きくない建物の中にできるだけ凝縮したというのが禅宗様といえそうです。

山門にて

山門の先に見える国宝・千体地蔵堂

地蔵堂正面
入母屋造・杮葺・一重裳階(もこし)で、1952年国宝指定。

入母屋造の屋根の端部と裏側の扇垂木

地蔵堂正面の桟唐戸

奉納された地蔵像の説明

横から見た地蔵堂
平面的には正方形に近い。
地蔵堂のあとは草木が整備された境内を奥に進み本堂の千手千眼観音にお参り。
さあ御朱印をと、横の寺務所へいくと扉に「御朱印はしておりません」の貼紙が…。
親寺の建長寺はしているのにと【正福】し難い気持ちはセーブして参拝終了。
江戸時代までは都内の西が政治の中心。新田義貞の鎌倉攻めもこの街道を通りました。その為か落ち着いた雰囲気の町でした。
今は23区に水を開けられた感がありますが、それでも「だいじょうぶだぁ!」なのでしょう。

境内の桜

地蔵堂横から本堂への参道

正福寺本堂
本尊は千手千眼観音

寺務所の前庭

東村山郵便局 ; 国宝・正福寺地蔵堂(千体地蔵堂)、花菖蒲

小平駅前の「昇り亀」の桜

「昇り亀」の説明板
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京急横浜 → 京急泉岳寺 → 徒歩3分 → 泉岳寺 → 徒歩20分 → 増上寺 → JR浜松町

萬松山 泉岳寺(曹洞宗 江戸三箇寺)
巷では花見も宴たけなわ、そこで【高輪】にある泉岳寺へ京急に乗って休憩も兼ねてお参り。
慶長17年(1612年)に徳川家康が願主となり外桜田に創建、寛永の大火の後現在の地で再建されたそうです。
関東でも【相当数】ある曹洞宗江戸三箇寺に選ばれていますが、それよりもここを有名にしたのは元禄の赤穂浪士討ち入り事件。
元々播州浅野家の菩提寺ですが、主君の浅野内匠頭と仇討ちをした義士が葬られており観光客が絶えません。
赤穂浪士の討ち入りについては当時も暴挙とされ、法に照らしても駄目ではないかと思うのですが、
庶民の幕府に対する不満も手伝って義挙と言われるようになったのでしょう。
寺側でも切腹した義士の遺品を売って設けたと言われますから商売も【内匠頭】だったと言えます。
元禄時代に隠密が各地の大名の調査をした「土芥讐記」という書物があるそうですが、
そこには吉良上野介は名君と褒められ、浅野内匠頭はボロクソに書かれているとか。
事実はかなり異なると己の【泉岳】を恥じた次第です。
その後は、徒歩で増上寺まで歩き参拝。将軍家の菩提寺なので境内や伽藍を含め壮大。
日光東照宮といい体制側に付く事が一番大事と言うことでしょうが、庶民のパワーも侮れないと感じた半日でした。

泉岳寺山門
家康時代の創建だが赤穂浪士で一躍有名に。播州浅野家の菩提寺でもある。

泉岳寺本堂

本堂正面

四十七士の墓に続く階

泉岳寺御朱印

増上寺大門

三解脱門

石段から見た三解脱門

仁王門

三縁山 広度院 増上寺(浄土宗鎮西派大本山)

増上寺大殿(本堂)
東京タワーのあるお定まりの景色だが建てるときに景観を乱すと反対運動はなかったのか?

たまたま叙任式に遭遇
中央に座っておられる黄色の袈裟の方が増上寺のトップ。

増上寺境内の徳川将軍家墓所

墓所の門扉にある三つ葉葵の御紋

増上寺御朱印

高輪郵便局 ; 重文・慶應義塾三田旧図書館、泉岳寺三門、東京タワー
泉岳寺駅前郵便局 ; 大石内蔵助と赤穂義士の墓、義士墓の門、桜
[参考書]
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JR西国分寺 → 徒歩20分 → 武蔵国分寺跡 → 徒歩3分 → 武蔵国分寺 → 徒歩15分(お鷹の道)→ 殿ヶ谷戸庭園 → 徒歩3分 → JR国分寺

医王山 最勝院 国分寺(真言宗豊山派)
桜も満開の日、夕方東京駅周辺での会の前に足を伸ばして郊外の国分寺へ。
旧武蔵国分寺は聖武天皇の勅願を受け、750~760年にかけて建立されたと考えられます。
いまの都内から見ると随分西寄りに思えますが、古代では災害が少ないことが立地条件の第一。
それに加え国分寺崖線と呼ばれる武蔵野段丘の崖からの湧水が豊富な点が国府に選ばれた理由でしょう。
その旧国分寺は元弘三年(1333年)の分倍河原の戦いで焼失。
二年後の建武二年(1335年)に新田義貞により再建された薬師堂が旧武蔵国分寺の法灯を今に伝える武蔵国分寺の嚆矢です。
国分寺には鎌倉街道が通っており新田義貞は上州の新田荘から鎌倉攻めに向かいますが、
途中の国分寺がとばっちりを受けたことになります。尤も再建に尽力しているので、
後悔する所があったのでしょうか?

現在の武蔵国分寺南にある旧武蔵国分寺跡
国分尼寺も含め東西1.5㎞、南北1㎞にも及ぶ範囲に寺院集落が広がっていたと言われる。

旧武蔵国分寺跡にある礎石
七重塔があったと伝わる。付近は桜の名所でもある。

旧国分寺跡から国分寺へ向かう

武蔵国分寺楼門
明治28年(1895年)に前沢村(現東久留米市)の米津寺から移築された。

国分寺本堂
享保18年(1733年)に再建され、昭和62年に改築された。

本堂横の庫裡
境内には前住職が造園した萬葉集に詠まれた160種の植物が植えられている。

国分寺薬師堂
国分寺は鎌倉末の分倍河原の戦いで焼失した後、新田義貞の寄進で再建された

国分寺跡資料館の庭にある七重塔の模型

武蔵国分寺御朱印
付近は江戸時代尾張藩の鷹場だったので「お鷹の道」という遊歩道が駅まで続きます。
土地は本多家の所有ですが、自由に通行、散策ができ市民の憩いの場になっています。
国分寺駅南には、旧三菱財閥の殿ヶ谷戸庭園があって¥150で景色を楽しむことができました。
駅からほんの僅かに歩くだけで、このような自然に触れることができるのは、
これを作った人が維持管理に力を注いだからに違いありません。
古今東西を問わず格差社会の問題はありますが、あったが故に今まで残ったという一面もまた事実でしょう。

武蔵国分寺の横を通り「お鷹の道」へ
清流沿いに約350mの道が整備されている。

「お鷹の道」の看板

昼食は「史跡の駅 おたカフェ」にて

本多家長屋門
この辺り一帯を治めた大地主とか。

お鷹の道脇の湧水
夏には蛍が飛ぶとか。覗いたらウキゴリらしき小魚が岩陰に隠れた。

湧水群の先にある真姿の池と弁財天

「お鷹の道」もこの辺りで終盤

JR国分寺駅南にある殿ヶ谷戸庭園
三菱合資会社役員の江口定條の別荘を岩崎彦彌多が買い取り昭和9年に庭園を完成。

庭園の高台部
園内には約200本のイロハモミジが植えられている。

庭園の傾斜部から崖線下へ

野川の水源の一つである湧水が流れ込む次郎弁天池

池を見下ろす茶室・紅葉亭

紅葉亭から池を望む

国分寺市マンホールカード 配布場所はこちら

国分寺郵便局 ; 武蔵国分寺
国分寺泉郵便局 ; 重文・国分寺木造薬師如来坐像、蛇身装飾文様土器
国分寺西町郵便局 ; 国分寺薬師堂、楼門、仁王像、ベニバナ
国分寺富士本郵便局 ; 国分寺薬師堂、楼門、仁王像、クスノキ

国分寺内藤郵便局 ; 国分寺楼門、万葉植物園の草花
国分寺東恋ヶ窪四郵便局 ; 史跡・武蔵国分寺跡、薪能
国立駅北口郵便局 ; お鷹の道
国分寺南郵便局 ; 都立殿ヶ谷戸庭園
[参考書]
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JR王子 → 王子神社 → 王子稲荷神社 → 名主の滝 → 徒歩10分 → JR王子
この日は天気も快晴、桜も満開という事で友人と飛鳥山でお花見。
集合時間までに時間があるので、少し早めに出て駅周辺を散策。
鎌倉時代にこの地方の領主であった豊島氏が元享二年(1322年)紀州熊野から若一王子を勧請し、
王子権現として祀ったのが地名の起こり。
王子権現は今の王子神社に当たります。
駅からすぐの場所にも拘らず広大な敷地があるのは領主の保護があったからでしょうが、
この神社を中心に町は発展していく事に。

王子神社鳥居

王子神社拝殿
昭和20年に戦争で焼失し、昭和39年、57年の二回の造営で再建された。

王子神社御朱印
王子神社を過ぎて線路に沿って行くと坂の上に鎮座するのが王子稲荷神社。
さして広くない境内に社殿があるので新しく勧進した神社と思っていましたが、意外にも王子神社よりも古い。
古くは岸稲荷と呼ばれ1060年頃には相当な規模であったらしく、この地が王子と呼ばれるようになって王子稲荷となりました。
岸稲荷という名からはかつては近くまで水が迫っていたのでしょうか?
稲荷の傍を通る岩槻街道は徳川将軍の日光社参の道。
この街道によって江戸市街と直結された王子稲荷神社は東国随一の稲荷神社として発展し、
付近には料理屋や茶屋が軒を連ねる状況だったとか。
「かつて稲荷神社の近くに1本の榎の大木があり、毎年大晦日の夜、関東一円の狐が集まり正装で参拝した」
という言い伝えもあります。
いまでの大晦日には関連行事があり、落語「王子の狐」もここから生まれたのでしょう。
庶民で賑わう町とはいえ、狐と共存するような状態だった事が伝わってきます。

王子稲荷神社拝殿

境内にあるお狐様の石像

狐の出入りする穴

穴の周辺に奉納されている狐様

王子稲荷神社御朱印
その後、江戸時代に徳川吉宗が「享保の改革」の一貫として飛鳥山に桜を植え、庶民の行楽地として整備しました。
「倹約財政を推し進め幕府の負債を減らしたものの、将軍としては今一つ江戸庶民には人気がなかった」
と言いますから人気取りでもあったのでしょうが、その思惑は当たり、現在まで庶民の行楽地となっています。
また安政年間にはこの地の名主畑野孫八が自邸内に滝と回遊式庭園を造り一般に開放。
その後の変遷を経て「名主の滝公園」として無料で公開されています。
時代劇に出て来る上層部は下々から収奪する悪人が多いですが、実際には自費で貢献することも多かったようです。
そうでなければ江戸時代が平和に260年も続かなかったでしょう。
明治期には渋沢栄一がこの地に住居を建て会社の設立に携わりました。
彼の作った製紙会社がこの地名を取って王子製紙と呼ばれるのは周知の通り、
それに続き政府の印刷局もここに拠点を置くことになります。
大蔵省印刷局と言えば切手収集にのめり込んだ世代には懐かしい響きがあります。
かつては神を勧請して発展した街は、後に紙を印刷して札を勘定することで更に発展。
狐に木の葉で化かされることはないとは思いますが…。

名主の滝公園入口にある薬医門
稲荷神社の北にある。

名主の滝の男滝
落差8mだが、この日は休み。

夏場の男滝の様子
マイナスイオンと涼を求めてくる人が多い。

公園内の池の様子

桜の花弁が花筏になっている

王子郵便局 ; 名主の滝、音無川流堰、石橋
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☆王子稲荷については、「筑摩書房PR誌ちくま」2018年12月号 No.573
<東京のぼる坂くだる坂 7> 王子稲荷の坂 ほしのさなえ に要を得た説明がある。
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仏立山真源寺(法華宗本門流)
法華経寺参拝の後、都内に移動しましたが1時間ばかり余裕があったので入谷で途中下車。
「その手は桑名の焼き蛤」「恐れ入谷の鬼子母神」とは良く使われる言い回しですが、
関西人には入谷と言ってもどこにあるのか今一つピンと来ません。地下鉄入谷駅で尋ねると、徒歩3分との事。
教えて貰った場所に行くと「これが有名な鬼子母神か!」と思う位小さな敷地。
本堂に御参りして、果たして御朱印が貰えるのかと心配しましたが、無事拝受。
柘榴の図柄に「恐れ入谷の鬼子母神」とあったのは流石でした。
真源寺の創建は万治二年(1659年)、沼津光長寺20世の日融が開山です。寺院としての歴史はさして古いとは思いませんが、
開府の半世紀後にできた訳ですから、江戸庶民と共に歩んだ歴史とも言えるでしょう。
寺社は必ずしも大きければ良いと言うものではありませんが、知名度が全国区になったのは、
七月の朝顔市が庶民に人気があったのと上記の洒落の賜物でしょうか?
鬼子母神に続いては
「びっくり下谷の広徳寺」
「そうで有馬の水天宮」
「志やれの内のお祖師様」
「うそを築地の御門跡」
のバージョンがあるそうで、全て太田南畝(蜀山人)の作った狂歌だとか。
掛詞を使った洒落ですが、全て江戸っ子の身近にある社寺を使ったというのが秀逸だと思います。
いまのコピーライターの先達ですね。
そうすると 「なんだ神田の大明神」というのは誰の作でしょうか?
奇しくも鬼子母神を2ヵ所参拝した【台東】な一日でしたが、疲れも残らず会合にも遅れなかったのは【法華】の幸いでした。

右側本堂に御参りして左の寺務所で御朱印拝受

入谷鬼子母神御朱印

台東入谷郵便局 ; 入谷鬼子母神、朝顔
台東竜泉郵便局 ; 樋口一葉、水仙、区立一葉記念館
[参考書]
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天神様はウソ付き?(2018.1.25)

湯島天満宮(旧府社)
・寄った湯島の天神で新たなウソが買えるのよ♪
昨年の亀戸天神の鷽替神事に続き、今年は湯島天神の鷽替神事へ。
この日は午前中に東京で研修があり午後から休暇を取っての参拝となりました。
江戸における代表的天満宮とはいえ、高々500年程の歴史と思っていましたが、
神社としての創建は何と雄略天皇二年(458年か?)という古社。
南北朝時代の正平十年(1355年)に住民の要請で菅原道真を招聘、以後天満宮となったとか。己の無知を反省です。
江戸時代には徳川家の庇護のもと繁栄、加えて湯島に昌平坂学問所が設立。
明治以降には帝国大学が置かれるなど文京区は日本の学問の中心となり、
湯島天満宮も学問の中心として確固たる地位を占めるようになりました。
鷽(ウソ)は天神様所縁の鳥、漢字で鷽は学+鳥なので学問の神様のお使いに相応しいのでしょうか?
元々は鷽を交換する事で、自分の嘘を真に替える習わしですが、限定販売なので過熱気味。
とは言え昼過ぎでも購入はできました。尚、1月25日は道真公の命日だそうです。

表鳥居
寛文七年(1667年)建立の都指定文化財。千代田線湯島駅から向かうと表鳥居に至る。

拝殿

本殿横の寒梅 七割が白梅とか。

本殿に続く廊下

境内の残雪

境内の奇縁氷人石
嘉永三年(1850年)に江戸で初めて建てられたもので迷子の伝言板のようなもの。

鷽替神事の案内板

鷽替神事の場所
訪問は13時半だったが行列もなく、直ぐ購入。

子ウソ¥500と大ウソ¥700

湯島天満宮御朱印

こちらの門から退出
天神様といえば梅ですが、開花にはちと早く2月の梅まつりに期待。
道真公の頃には家紋は未だ登場していませんが、平安末になって採用。
子孫の唐橋家・東坊城家の家紋となっていますが、梅鉢紋といえば百万石の前田家。これには次のような話が…。
江戸初期に幕府が各大名家に家系図提出を命じました。
ある日、登城したある大名が前田の殿様に
「加賀宰相殿の所は?」
と問い掛けました。勿論、藩祖利家の自出を知った上でしたが、前田の殿様少しも騒がず
「御存じの通り、当家は始祖が卑賤からのし上がった身、家系図は全て学者の方にお任せしております。」
と返答したとか。百万石の面目躍如ですね。
結果として菅原家になりましたが、本家の唐橋家等からは一切苦情はなかったようです。
「御先祖を偉くするには己が出世する事」という諺を思い出しました。天神様もうそには寛大なようです。
前日に降った雪がまだ残っている状態でしたが、門前にある「茶房松緒」で休憩。湯島の白梅ならぬ白玉で〆となりました。

門前の「茶房松緒」にて休憩

天神様の横でホッと一息¥700

「茶房松緒」の昼食
翌2月18日に関東在の同窓と寒梅の観梅に来た時にて。昼膳¥1,000.

同じく「茶房松緒」の昼食。おばんざい手まり膳 ¥1,400。

湯島四郵便局 ; 湯島天満宮、表鳥居、絵馬、梅
湯島二郵便局 ; 湯島神社表鳥居、奇縁氷人石、絵馬、銀杏
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御朱印でめぐる東京の神社 週末開運さんぽ (地球の歩き方 御朱印シリーズ 14) 新品価格 | ![]() |

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幕末の飫肥藩士岡谷繁実が著した戦国から江戸時代までの我が国の武将の逸話を集大成した著作
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
庶民の町の待乳山にある商店に囲まれた聖天さま(2017.1.24)
<コース>
東武亀戸 → 曳舟 → 東武浅草 → 徒歩5分 → 待乳山聖天

待乳山本龍院(聖観音宗)
鷽替神事の後は、東武で浅草まで。駅から隅田川沿いを行くと小高い丘が見えますがここが待乳山。
推古天皇三年(595年)に地中から忽然と出現し、金龍が天より降って山を廻り守護したと伝えられています。
その六年後の601年この地が大旱魃に見舞われた時、十一面観音様が大聖歓喜天に姿を変え万民の苦しみを救われた事で、
ここに祀られる事になりました。浅草寺山号の金龍山はこの伝説に由来するもの。
本龍院は浅草寺の支院の扱いですが、元来は周囲を見渡せるこの場所が信仰の中心だったに違いありません。
ここだけは昔から地面がしっかりしていた事から「真土」、これが待乳に変化したと言われます。
子供に少しでもお乳を与えることが出来るようにとの願いだったのでしょうか。
場所も下町にあることから庶民にも親しまれ江戸名所にも登場しました。
境内には大根と巾着をあしらった図柄が見られますが、これは大根で心の毒を消し巾着で商売繁盛を表すとか。
あくまで庶民の寺院のようです。
その後は、浅草界隈からレンタサイクルで足を伸ばして吉原大門まで。かなり【台東】な一日でした。

聖天さん本堂 御朱印はここで拝受。

入口付近の築地塀 江戸時代の建造で延長45.5m。

境内の河津桜

本堂付近からの眺め

聖天さん庭園

待乳山聖天説明書

待乳山聖天御朱印

吉原大門付近の見返り柳

吉原大門交差点付近にある天麩羅の老舗
かつての吉原はこんなんだった?

台東聖天前郵便局 ; 桜橋、サクラ、浅草流鏑馬
台東清川郵便局 ; 妙亀塚、白髭橋
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
鷽替えなんて嘘かえ? ♪真冬に鷽を替える人♪(2017.1.24)
<コース>
JR横浜(5:39) → エアポート成田 → 錦糸町(6:18→6:29) → JR亀戸(6:31) → 徒歩15分 → 亀戸天神社
♪降りた亀戸の天神で 貴方と鷽を替えるのよ

亀戸天神社(府社:東宰府天満宮) 鷽替え神事の日はここまで行列が来ることも。
江東区にある亀戸天神社は菅原道真が祭神。
寛文二年(1662年)大宰府神官の大鳥居信祐が道真公の像を祀り、翌年社殿を造営したのが始まり。
藤、梅の花の名所に加え門前の船橋屋の葛餅でも有名で廣重の「名所江戸百景」にも登場する古社です。
毎年1~2月の受験シーズンには大勢の人が訪れますが、一番の人出は1月24~25日に行われる鷽替神事。
江戸時代には持ち寄った鷽を 「替えましょう、替えましょう」 と交換していましたが、昨今は前年の鷽を神社に奉納して新たに
買うようになりました。
凶事を「嘘」にして「鳥」替えるとも、鷽の字が学の正字体に似ているからとも言われます。
販売は二日間だけ。いわゆる限定販売の元祖です。

大鳥居に続く男橋の上から天神境内を見る
棚は藤で4月25日~5月5日が藤祭り。道真公は藤原氏により大宰府左遷となったので、藤はNGでは?

本殿手前の女橋 この橋は希望の未来を表す。

本殿横からスカイツリーを仰ぐ
この二日間で3万体が売れるそうで売り切れ次第終了。
21日に下見に行き昼頃に行っても購入できるとは思いましたが、もし逃すと1年待ちなので安全を期して早朝の7時前に現地入り。
快晴とはいえこんな時期にもう100人を越える行列が。
ゲームの新発売には徹夜組もいっぱいいるそうですから驚くに足りませんが、毎月25日発売とかにならないものでしょうかね。
8時半に太鼓の音で授与開始。早朝から並んだ甲斐あって9時過ぎに手に入れる事ができ一安心。
単なる玩具ではなく御守りという位置付けなので授与中は雅楽が奏されており混乱もなく粛々と進行しました。
これも信仰の力でしょうか?
初めは小さい鷽から段々大きくするそうで、嘘に縁のない私は小さめを購入。
なんでも神職が寝食を忘れて手作りするそうですが、昨年米沢で似た作品が飾ってあり、年末に関東から大量の注文が
来るとの事。そういえば本殿横には大きなウソが二体飾ってありましたっけ。
初めは1人1体のみ購入と思っていましたが、複数購入できるとの事。御守り用の最小も2体入手しました。
数多く購入してネットで売り出す不届き物が居るとは思いませんが…。

購入を終えた9時過ぎに拝殿から 一人何体でも買えるようです。

販売が始まるとお囃子が鳴ります

価格表 最大の10号(21㎝)は予め神官が予約を確認していました。

朝8:30開始でこれは9:30の様子

神殿前に去年の鷽を奉納

鷽(六号) 高さ12㎝程 ¥2500
お守りなので郷土玩具よりも高め。右奥は懐中用で¥500。

亀戸天神社説明書

亀戸天神御朱印 下見の21日に拝受。

深川郵便局 ; 芭蕉の句碑、清洲橋、深川八幡
城東郵便局 ; 亀戸天神の社殿、太鼓橋、藤

亀戸天神門前の「船橋屋」にて一服 ¥630 但し、こちらも下見の21日に【舌見】。
[参考書]
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日本の神社 77号 (亀戸天神社・湯島天満宮・根津神社) [分冊百科] 新品価格 | ![]() |

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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
目黒のまんま(2017.1.21)
<コース> 電車は日中ほぼ8分間隔
横浜駅 → 東横線 → 田園調布 → 目黒線 → 不動前 → 徒歩8分 → 目黒不動尊

泰叡山護國院瀧泉寺(天台宗)
鷹狩りをしていた三代将軍家光の鷹が行方不明になり不動尊に自ら祈願した所、本堂前の松の木に無事に戻って来た逸話。
また世間知らずの殿さまが、その美味に思わず黒焦げになった秋刀魚を自ら裏返して平らげたと言う「目黒のさんま」。
目黒に登場する高貴な人にはどこか庶民的な香りがします。
この地が将軍の御膝元ながら広く江戸庶民にも開放された場所だったからでしょう。
今日は将軍様も御参りしたというお不動さんに足を運びました。
今では23区内なのでさぞかし狭い境内と思っていたら想像以上の広さに驚き。
目黒不動尊こと泰叡山護國院瀧泉寺(たいえいざんごこくいんりゅうせんじ)は寺伝に拠れば、
『大同三年(808年)、円仁は下野から師の広智上人と比叡山に赴く途中、当地で野宿。
その夜、夢枕に立った神人を自ら刻んで堂に安置します。その後、唐より帰朝した円仁は関東を巡礼していましたが、
長安の青竜寺で拝した不動明王が、かつて夢枕に立った神人であったと悟りました。
そこで堂宇を建立する場所を決めるために独鈷を投げたところ、当たって湧き出したのが境内の独鈷の滝、
隣接する垢離堂には青竜大権現が祀られています。』
という話ですが、初期天台宗の高僧では円仁だけが関東出身。
関東各地の天台宗寺院の由来には是非とも登場させたいとの願いがあったのでしょう。
尤も貞観二年(860年)に清和天皇から「泰叡山」の勅額を下されている所を見ると満更伝説ではない気がします。
目黒の地名の由来はこのお寺からという説もあるとか。
境内は平地と台地が接しておりその境界付近から独鈷の滝も湧き出しています。
「目黒」の由来は定かではありませんが地下に潜った水が再び地表に出る「めぐる」様子を言ったのではないでしょうか?
家光の鷹狩りを機に幕府の庇護のもと繁栄を取り戻し焼失した堂宇が再建、53棟にも及ぶ大伽藍が復興し
「目黒御殿」と称されたと言います。「目白御殿」の先達です。
また門前も【瀧泉】を極め、竹の子飯や目黒飴などの名物が人気だったとか。
「目黒のさんま」ができたのもこのような下地があったからでしょう。

仁王門 両脇に阿吽の金剛力士像、階上に韋駄天を祀る。

境内の梅

大本堂 石段を登った先にあり、本尊不動明王(秘仏)を祀る

水かけ不動明王
「洗心浄魂」身代わりに水を浴びて下さるお不動様。右の龍の口から出るのが独鈷の瀧、左奥が青竜大権現を祀る垢離堂。

目黒不動尊御朱印 お不動様に相応しいどっしりとした筆遣いである。

下目黒郵便局 ; 瀧泉寺前不動堂、灯籠
目黒不動尊お参りの後は、24~25日のイベントの下見も兼ねて下町へ。
深川は松尾芭蕉が1680年に日本橋から移り住んだ場所。
江戸では土木に関する仕事に従事していたので、官僚的雰囲気から逃れる意味で庶民の街に引っ越したのでしょうか。
ここから奥の細道も出発しました。

隅田川沿いにある芭蕉翁の像
随分年配に見えるが、今の御堂筋付近で亡くなったときは数えで51歳。
この辺は埋め立て地で、漁師や木場があり賑わったようですが、昨今の開発で絶滅危惧種状態。海苔も作ってないようです。
かつては蕎麦・鰻・天麩羅・鮨の4つが江戸前で手軽なファーストフードでしたが、今は【江東】。
名物深川めしもセットで¥1500~1900と庶民的とは言い難い感じでした。
深川江戸資料館で聞いた所、食べ物の物価は今とほぼ変わらずですが、卵1個は今の¥400~500位だったそうです。
まさに月日は百代の【価格】です。
・江戸前も 値が変わるよぞ 今の店
・行く春や きりなき魚の 値に涙

深川江戸資料館 船宿再現風景 右が猪牙舟で、今のリムジンに相当。

深川江戸資料館 当時の青果店の再現
大根は今よりも細く、江戸時代の大根脚とは白くて細い足と言う誉め言葉だったとか。

深川江戸資料館 お休み処の再現
団子屋を想像するが、江戸は路上喫煙禁止のため喫煙場所であった。お茶と美女の接待でお金を取ったという話。
[参考書]
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「波」連載中から話題となった俳諧者ではなくサラリーマン武士としての芭蕉を描いた嵐山幸三郎氏の異色評伝。伊賀上野藩の水利技術者として江戸のインフラに携わり、伊達藩の日光東照宮普請に関しては幕府の公人として仙台へ赴く。その表の記録が「奥の細道」である。
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福を招く猫(2016.12.23)
<コース>
東急大井町線等々力駅 → 東急世田谷線宮の坂駅 → 徒歩5分 → 豪徳寺

大谿山豪徳寺(曹洞宗)
等々力不動尊に続いて東急を乗り継いで宮の坂駅へ。
大谿山豪徳寺(だいけいざんごうとくじ)は、寺伝に拠れば
『戦国時代の文明十二年(1480年)世田谷城主吉良政忠が叔母弘徳院を弔う為に建立した草庵が始まり。
その後、江戸時代の寛永十年(1633年)に彦根藩3代藩主直孝の時に菩提寺にした。』 と伝わります。

豪徳寺へは東急世田谷線の路面電車で

豪徳寺入口
奥に見えるのが山門。井伊家の庇護を受ける前は、客に出すお茶にも事欠いたと言うが…。

豪徳寺山門

豪徳寺境内
平成29年の大河は井伊直虎なので混雑気味。丁度、浜松の龍潭寺から観光バスが来ていた。

豪徳寺仏殿

豪徳寺本堂
しかし一般に知られるのは次のエピソード。
『俄雨に遭った井伊直孝が雨宿りに立ち寄ったのがうらぶれた豪徳寺。
大木の下に居ると寺で飼われていた猫が頻りに直孝を見ている様子。
不思議に思った直孝が大木を離れた直後、落雷があり危うく難を逃れました。
後日、お礼のため寺に出向いた直孝は帰依して菩提寺としたと言います。
左前だった寺もこれを機に上向きに、猫のお蔭で災難から逃れたので、いつしか福を招く猫の人形ができたとか。』
「持つべきは物くるる人」兼好法師ばりの教訓が頭に浮かびます。
これは「街道を往く」か何かに記載されていた話で、いわゆる招き猫の由来。
実際は井伊家の領地に世田谷が加わり、江戸に近いことから菩提寺にしたのではないかと思いますが、
お寺が宣伝効果を狙ったものでしょう。
かつては知る人ぞ知る話でしたが、「ひこにゃん」が登場して一気に有名になり繁盛しています。
境内に奉納する招き猫も販売されており、猫の手も借りたい忙しさでしょうか。
尚、単なる猫の人形ではなく手招きする形にしたのは福を呼び込む縁起担ぎ、
井伊家が代々掃部守(かもんのかみ)をしていたので、Come on の意味を込めた訳ではありません。

豪徳寺三重塔 四面には十二支が彫ってあるが、立ち入り禁止。

三重塔の猫の彫刻 十二支の子の場所にある。

井伊家歴代墓所 開国の功労者井伊直弼に敬意を表してお参り。

豪徳寺境内の招福亭にある招き猫奉納場

寺務所にて
招き猫を買って奉納する。大きさは百円台から¥5000で、右は¥5000タイプ。

豪徳寺御朱印

豪徳寺駅前郵便局 ; 豪徳寺、招き猫、小田急ロマンスカー
[参考書]
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等々力、驚き、不動の滝(2016.12.23)
<コース>
東急大井町線等々力駅 → 徒歩5分 → 等々力渓谷 → 徒歩10分 → 等々力不動尊

瀧轟山明王院(真言宗智山派 致航山感應院満願寺別院)
東武大井町線等々力駅から徒歩5分にある等々力渓谷は国分寺崖線の最南端で23区内唯一の渓谷だとか。
昔から人が住んでいたらしく古墳や横穴墓がありました。綺麗な飲み水の確保できる場所だったからでしょうか。
かつては五島慶太、児玉誉士夫といった著名人のお屋敷もあったとか。
三菱地所会長等を歴任された方が103歳で亡くなったあと、1200坪のお屋敷(ゼロが1つ多い気が…)が区に寄贈されて
今は日本庭園として無料公開されていたのが【感無料】でした。

駅から3分の渓谷入口

渓谷は谷沢川に沿って1㎞余り続く 手摺がないので気を付けて歩く

渓谷の地層
上からローム層、武蔵野粘土層、礫層、渋谷粘土層、高津互層となる「そう」です。

等々力渓谷3号横穴 昭和48年発見、地元の有力者という説が有力。

ゴルフ橋(昭和36年竣工)
以前は木造。名前の由来はこの先に東急の開発したゴルフ場があったからとか。

日本庭園 昭和48年飯田十基氏が作庭、かつて個人所有の時は大平首相も訪れたとか。

庭園内の家で無料のお茶で一服
その渓谷の一角にあるのが等々力不動尊で正式名は滝轟山明王院(りゅうごうさんみょうおういん)。縁起に拠れば、
『推古天皇の頃、役行者が霊夢を見て不動尊を彫ったのが初めとありますが、時代も会わず多分に伝説的な話。
平安末期に根来寺の覚鑁上人(興教大師)が夢で「武蔵国調布丘に不動尊を祀れ」 とのお告げを受け堂宇を再興した。』
と言われます。唯、覚鑁が武蔵に来た事は疑問です。
今に残る不動の滝は水量が少ないですが、かつては周囲に音が轟いたそうですから、
滝のある場所に祀られていた不動明王を後世になって不動明王に縁のある覚鑁に結び付けた気がします。

等々力不動尊山門 正しくは瀧轟山明王院(真言宗)で、渓谷から行くとここは反対側になる。

等々力不動尊本堂

等々力不動尊御朱印

不動の滝 轟く程の水量ではないが、ここで修行すると推量している。

滝の傍の雪月花にて葛餅を
駅前に戻るとかつての名主の家がレストランに改造されているのを発見。古いものを維持するのは並大抵ではありませんが、
形を変えても後世に伝えようとされている事に敬意を表し、昼食を頂きました。

等々力駅南にある旧鈴木家穀倉
世田谷区の名主で後には材木を扱う。鈴木家は現在、「ざいもく屋」として中華料理の店になっている。オーナーは鈴木家の子孫。

「ざいもく屋」にて昼食 立派な家を伝えて下さったことに敬意を表して¥1500。

世田谷等々力郵便局 ; 等々力渓谷、区花・サギソウ
[参考書]
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カラー版 重ね地図で愉しむ 江戸東京「高低差」の秘密 (宝島社新書) 新品価格 | ![]() |

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大悲願は達成? (2015.12.6)
<コース>
JR武蔵五日市駅 → 徒歩10分 → 大悲願寺

金色山吉祥院大悲願寺(真言宗豊山派 東国花の寺百カ寺東京十番)
境内と観音堂。この付近がロケで使われたらしいが分からず。
JR五日市線で来る際に武蔵増戸駅と武蔵五日市駅の間に右手に大きな山門が見えます。
距離的には武蔵増戸駅の方が近そうですが、電車の待ち時間を考えて武蔵五日市駅から歩く事に。
金色山吉祥院大悲願寺は
『1191年に武蔵国平山の武将平山季重が醍醐三宝院の僧侶を招いて開山としたと伝わります。
その後、衰退した時期もありますが鎌倉公方の足利基氏・氏満親子の寄進を受け隆盛になり
1794年に観音堂建立、1824~1842年にかけて欄間彫刻を追加。明治維新まで続きます。』
一方、将軍になるという【大悲願】は達成できなかった鎌倉公方ですが、
現在の足利氏の嫡流は鎌倉公方の流れの古河公方の足利氏となっていますので中悲願は達成できたとすべきでしょう。
大悲願寺は東国花の寺百寺に入って居り、有名なのが白萩。萩は通常赤ですが、ここは白色のみ。
実は伊達政宗が参勤交代中に実弟の大悲願寺15世秀雄僧正を訪ねた際に見た見事な白萩に感動し、
仙台に帰ってから1株所望したそうです。そのときの書簡も残っているとか。
宮城野萩の赤とお揃いにしたかったのでしょうね。

大悲願寺仁王門
源平の武将、平山季重が1191年に建立。

境内の紅葉

1794年に建立の観音堂

観音堂彫刻 これは極楽浄土。

観音堂彫刻 こちらは地獄。

大悲願寺御朱印

武蔵五日市駅前郵便局 ; 武蔵五日市駅舎、大悲願寺山門、桜
あきる野郵便局 ; 秋川渓流、大悲願寺、梅
[参考書]
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伝家のほうとう (2015.12.6)
<コース>
【往路】JR横浜(6:51) → JR川崎(7:00→7:04) → JR立川(8:04→8:11) → JR武蔵五日市(8:48)
JR武蔵五日市 → 徒歩20分 → 廣徳寺 → 徒歩25分 → 光厳寺

光厳寺(臨済宗)
廣徳寺から20分程度歩くと戸倉城山の麓に佇むのが光厳寺。足利尊氏により建武元年(1334年)に創建された古刹。
寺名は光厳天皇の勅を奉じたことに由来し扁額は皇子である後光厳天皇のもの。創建当時は建武の新政が緒に就いたばかり。
山の麓にあることを考えると尊氏の後の幕府創設に向けた軍事目的として建立したのでしょうか。
境内には樹齢400年を数える山桜があり天然記念物。光厳上皇は北朝の初代天皇。
時代に翻弄され数奇な生涯を送られましたが政治的な野心の少ない人柄であったようです。
光厳天皇は出家後、京都の常照皇寺で過ごされましたが、そこには上皇御手植えの桜があります。
ここ光厳寺に上皇が行幸されたことはないようですが、桜を愛された上皇の意を汲んで
後世の人が植えたのではないかと思います。
昼食は「ほうとう」を。武田氏が滅亡した際に勝頼の妹の松姫主従が八王子方面へ逃げた際に、
その一行の一部が定住し伝えたと言われます。まさに伝家のほうとうといえます。

秋川渓谷に沿って

光厳寺境内

光厳寺本堂
本尊釈迦如来。足利尊氏創建で、寺名は光厳上皇に由来。扁額は後光厳天皇とか。

光厳寺御朱印
墨書でなく押印タイプであった。

ほうとう 佐五兵衛 での昼食
五日市ほうとう。猪豚が入っている。
[参考書]
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秋川を歩くのにあきるの? (2015.12.6)
<コース>
【往路】JR横浜(6:51) → JR川崎(7:00→7:04) → JR立川(8:04→8:11) → JR武蔵五日市(8:48)
JR武蔵五日市 → 徒歩20分 → 廣徳寺

龍角山廣徳寺(臨済宗建長寺派)
総門付近にて
五日市線の終点からスタート。
行政区では「あきる野市」で、また安易に平仮名かと思いましたが、市内には阿伎留神社があり秋留は由緒ある地名。
漢字にすれば良いものをと思いますが、常用漢字ではなさそうで難しいでしょうね。
渓谷で有名な秋川ですが、平安・鎌倉・室町の古刹があり、単なる田舎ではないようです。
聞くところでは山と里の産物の交換で市が立ち賑わったとか。昔は蚕を飼う家もあったそうです。

JR武蔵五日市駅
終着駅と言うと鄙びた古い駅舎が定番だが、ここはモダンな造り。

地元の酒蔵
喜正という銘柄。但し、見学はしていない。

多摩川支流の秋川を渡って廣徳寺へ向かう
秋川を遡る事20分、龍角山廣徳寺(りゅうかくさんこうとくじ)は、縁起に拠れば、
『応安六年(1373年)に創建された臨済宗建長寺派の古刹。足利氏や後北条氏の庇護を受けた。
初め正応長者の妻が堂宇を建て建長寺70世心源希徹禅寺を奉じて開山。その後、正応長者の寄進により伽藍が整備。
当時長者の飼っていた馬が一本角の竜馬を生んだので、これを瑞祥として山号を「龍角山廣徳寺」とした。』
とあります。一角獣だとユニコーンですが多分に伝説的。
正応といえば1288~1292年の元号で、続く元号が徳政令で有名な永仁(1293~1298年)。
その時に上手く立ち回って富を得た人が寄進したのでしょうか?
総門を潜ると見事な茅葺の山門があり、更に進むとこれまた茅葺の本堂があります。
加えて境内には大銀杏、榧(カヤ)、多羅葉の巨木が。丁度銀杏の落葉と重なり、黄色の参道を行くことになりました。
このまま黄泉の国へ行ってしまうかどうかは分かりませんが…。

茅葺の廣徳寺山門

廣徳寺山門脇にある二本の大銀杏
散ったあとは黄色の絨毯を歩く事に。

廣徳寺本堂と庫裡
御朱印はここで拝受。

廣徳寺本堂
屋根の三つ鱗は小田原後北条氏に由来。

本堂裏の庭
日陰のためか茅葺屋根には苔生したところも。

廣徳寺境内の多羅葉(天然記念物)
昔はこの葉に尖った先で文字を書いた。葉書の葉はこれが由来。

境内にある天然記念物の榧(カヤ)

総門にある穐留禅窟の大額

廣徳寺御朱印
[参考書]
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