<コース>
JR横浜 →JR戸塚 → 徒歩7分 → 東海道戸塚宿 → JR戸塚 → JR保土ヶ谷 → 徒歩5分 → 東海道保土ヶ谷宿 → 徒歩5分 → 相鉄天王町 → 相鉄横浜

旧東海道と保土ヶ谷宿本陣
戸塚からは京浜東北線でJR保土ヶ谷下車。
東海道でありながら東海道本線が通過してしまうといのは何とも気の毒ですが、
かつては三崎・浦賀方面、そして鎌倉・江の島方面への分岐点でもありました。

上方見附付近の松並木
といっても復元用に最近植えられたばかり。

一里塚跡
東海道はJR保土ヶ谷駅を下ると右手に曲がりますが、
そこに建つのが保土ヶ谷宿本陣の苅部(かるべ)家。
苅部家は小田原北条氏の家臣・苅部豊前守の末裔で問屋・名主も兼ねていました。
苅部家は横浜地域屈指の地主で徳川家も頻繁に利用したとか。
今は横浜周辺の方が繁華ですが、
江戸期には保土ヶ谷宿が神奈川宿も配下に置いていたとは地元の方の話です。
本陣といえば聞こえは良いですが、大名の宿泊は定額でなく心付けで、
大名の財政状況が苦しくなると収入減。
しかも本陣のため一般客を泊める事もできなかったので、経営は大変だったようです。
なかには潰れた本陣もあるようですが、苅部家では通用門が現存。
明治3年(1870年)に本陣が廃止になるに際し、苅部家は軽部と改姓。
現在も本陣跡の奥に在住されています。
元々経済力があったので、ダメージが【軽め】だったのでしょう。

国道1号線の向こうに見える保土ヶ谷宿本陣

丁度東海道が曲がる付近に立つ苅部家本陣跡
通用門が現存、後ろの建物同様現在は使用されていない。

本陣跡説明
街道沿いには非公開ながら、旅籠本金子屋跡も現存。
明治2年築で、現在営業していませんが子孫の方は、隣に住まわれています。
また駅前には古風な蕎麦屋もあり、昔の様式で最近建てたとか。
戸塚~保土ヶ谷はどちらも横浜市内ですが、後者は本陣、旅籠など
当時を偲ぶものが若干残っています。良い【程がや】に開発を進めた差がでたのでしょう。

旅籠・本金子屋跡

歴史の道の説明

金沢横丁の石碑(道標)

石碑説明

宿場そば 桑名屋
古い様式の建築を用いた最近の建築。この建物の施工した工務店は江戸東京博物館も手掛けた。

昼食 「雪割」

相鉄天王町駅前にて
広重の絵に描かれた新町橋は無くなり、代わりに公園となっている。

横浜帷子郵便局 ; 保土ヶ谷宿本陣跡
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JR横浜 →JR戸塚 → 徒歩7分 → 東海道戸塚宿

戸塚宿の中央付近にある澤邊本陣跡
世間はGWですが、こちらはカレンダー通りなので近場でお茶を濁しました。
戸塚宿は戸塚町・吉田町・矢部町からなる宿場。
政令指定都市の横浜市の戸塚区であり、東海道本線の駅があり、お江戸日本橋からちょうど十里。
当然最初からあった宿場と思っていましたが、意外にも1601年の幕府の宿場整備時には
神奈川・保土ヶ谷・藤沢宿はあったものの、戸塚宿はなし。
地元民の強い要求で、宿場開設が許可されたのは1604年の事でした。
保土ヶ谷から藤沢まで17㎞、途中に品濃坂と権太坂があったので当然とも言えますが、
藤沢は宿場が廃れる事を理由に強硬に反対。
戸塚は開設運動の中心であった澤辺宗三の妹が、
戸塚地域支配の彦坂元正の側室であった事などを利用し、開設にこぎ着けました。

澤邊家本陣跡
本陣設置の功労者であった澤邊家だが本陣は跡のみで、傍には現在も子孫が住まわれている様子。

JRを越えて保土ヶ谷方面から見た東海道

吉田大橋の前にある案内板
広重の絵は吉田大橋を描いている。

広重の絵にある「左かまくら道」道標
現在は妙秀寺系内に移転している。
随分と生々しい話ですが、その後の戸塚の発展は著しく、
幕末の本陣・脇本陣・旅籠の数が神奈川(2・0・58)、保土ヶ谷(1・3・67)であるのに対し、
戸塚(2・3・75)と凌駕しています。
宿場として繁栄したのは結構ですが、繁栄しすぎて当時を偲ぶものは殆ど残っていませんでした。
時代の荒波に【とっつか】まった宿場と言えましょう。

現在の吉田大橋
街灯は大名行列の毛槍を模っているとか。

戸塚宿外れの江戸見附
後ろはファミレス。

戸塚郵便局 ; 国道1号線に残る戸塚宿の松並木、お軽勘平記念碑、富士山
[参考書]
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JR横浜 → JR小田原 → (箱根登山鉄道) → 箱根湯本 → 徒歩25分 → 阿弥陀寺 → 徒歩40分 → 正眼禅寺 → 箱根湯本 → (箱根登山鉄道) → 小田原 → 徒歩10分 → 城下町

小田原駅箱根登山鉄道ホームにて
GW直前は好天に恵まれたので、チョイ足を延ばして箱根湯本まで(8:10着)。
四半世紀以上前に住んでいたころは諸般の事情で見向きもしなかったのを思い出します。
箱根湯本は温泉街で賑わいますが、少し外れた寺院には人影も殆どありません。
山に向かう細い道を行くと20分程で、阿弥陀寺に到着。
阿育王山放光明律院阿弥陀寺(あいいくおうざんほうこうみょうりついんあみだじ)は
『開山木喰僧・弾正誓が各地を遊行の後、
慶長9年(1604年)塔ノ峰山中の岩窟に籠り念仏修行を始めたのが始まり。
同年には小田原藩主・大久保忠隣の保護を受け、堂宇も建立された。』 とあります。
本堂は旧久野村(小田原市)の名主の家を移築したとかで、
ガイドブックには美しい茅葺の屋根が載っていました。が、実際に来てみると茅はなし。
お寺の方に伺うと、維持の関係で20年前に普通の屋根に変えたとの事。
「以前ならば、見る事ができたのに…」と残念でしたが、愚痴っても【蚊帳】の外ですね。

阿育王山 放光明律院 阿弥陀寺(浄土宗)
茅葺だったが現代風になった本堂。

東海道沿いの石碑
続いて旧東海道に入り駅に向かって下ると、右手に見えるのが正眼禅寺。
放光山正眼寺(ほうこうさんしょうげんじ)は、
『鎌倉時代の創建とされ、境内には応永2年の石灯篭が、本堂には狩野尚信と伝わる襖絵が残る。
境内にある曽我堂は地蔵菩薩二体を安置し、その胎内からは康元元年(1256年)の仏像が見つかった。
この堂は曽我十郎の恋人虎御前が建てたと言われ、二体の仏像は兄弟の姿を模したと伝わる。
江戸時代の地蔵信仰と相俟って、箱根八里の道中祈願をする旅人で賑わった。』 とあります。
由緒ある寺院ですが一般拝観はなく、お堂も外から拝むだけでした。
御朱印も対応されていないとの事。訪れる人もいませんでしたが、それも影響しているのでしょうか。
そのあと、早雲寺を通り駅にも戻りましたが、ここも御朱印はなし。
最初の阿弥陀寺は御住職が不在だったので、結局三ヵ寺参拝して御朱印なしとはなりました。

正眼禅寺にある曽我堂
曽我十郎の恋人虎御前が建てたと言う。
駅から小田原まで戻り、国道1号線沿いを散策。
1号線といえば旧東海道に相当しますが、道沿いには街かど博物館ができており、
一巡すると結構な散歩となりました。
以前は駅周辺しか知らなかったので、灯台下暗しを地で行く事になりましたが、
箱根の石畳が堪えて小田原城は登城せずとなりました。

小田原にあるだるま料理店
建物は大正15年で文化財。会席料理で高級そうだが外まで行列が。

小田原宿 なりわい交流館
昭和初期の元網問屋を利用。東海道沿いに建つ。

交流館内部
小田原提灯とそれを製作している職人さん。

小田原なので蒲鉾店が多い

市場横丁の道標

梅干を扱う「欄干橋ちん里う」

欄干橋ちん里う の店内
街かど博物館になっており、梅干しの古漬を展示。数百年前のものもあるが、今でも食用可能。

三時の甘未はういろう本店での「すずかぜ」
[参考書]
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横浜 → (相模鉄道) → 海老名 → (小田急電鉄) → 開成 → (臨時バス) → 瀬戸屋敷 → (臨時バス) → 開成 → (小田急電鉄) → 小田原 → 徒歩10分 → 報徳神社

開成町瀬戸屋敷 2/18~3/5
期間中は小田急開成駅から臨時バスが出る。¥210、10分
法華経寺に続き、ひなまつり第二弾は藤沢在の同窓も参加して頂き、神奈川西部にて。
開成町は神奈川最小の町。目立った観光地はないですが、
富士山系の伏流水と知る人ぞ知る米どころ。昭和天皇への献上米もここで作られたとか。
その町のかつての名主瀬戸家を使ってのお雛様展示。
駅からはそこそこ距離がありますが、イベント時のみ小田急開成から臨時バスが。
十年ほど前から始まったイベントだそうです。むかしの土蔵に【どうぞ】と人形が展示。
享保雛から平成の段飾りまでありましたが、珍しいのは吊るし雛。
関西ではまず目にすることはありません。
伊豆地方では有名ですが、ここも河津地域から伝わった様子。
地元の婦人会の方々が総出で作製されたそうで、買わずに済んだとの事。
集まった雛人形も壮観でしたが、敷地内の梅も含め
屋敷が周囲の風景と一体となっていたのが魅力でした。

小田急電鉄開成駅改札外の案内

バス停より見た瀬戸屋敷外観

屋敷前の長閑な田園風景
今時こんな案山子も珍しいが、どうも観光用に設置されている様子。右上には幽かに富士山が…。

門では可愛らしいお雛様がお出迎え

土蔵外観
昔は米を保管。雛人形はここがメイン。

展示中の雛人形
これは現代版か?

雛壇の横の吊るし雛

こちらは瀬戸家に伝わるお雛様
200年以上前の物という話。

調度品も今と異なり、時代を感じさせる

雛人形と言うより市松人形?

享保雛
地元の蔵から出て来た300年前のもの。

享保雛近影
典型的な瓜実顔。

これは現代風、子供雛か?

土蔵二階では地元の方が琴を演奏

二階の展示雛

土蔵内に飾られた吊るし雛

吊るし雛近影

瀬戸屋敷母屋か?

母屋縁側に置かれた造花

屋敷内の人出

屋敷内は梅も見頃
その後は、小田原で城下町を散策しながら昼食。外郎本店では甘味も頂きました。
小田原城の周辺に報徳神社があったのでお参り。二宮尊徳(金次郎)を祀っています。
小学校にある薪を背負って本を読んでいる像が有名ですが、
彼は没落した家を復興させ、その手腕を買われて藩の財政を立て直した財政家でした。
彼の言葉に
『小人には小欲あり、大人には大欲あり。』 というのがありますが、
小欲とは己のみが望むもの、大欲とは万人が望むものだそうです。
学問だけでなく、実践に生かしたところが偉大なのでしょう。
内村鑑三博士は『代表的日本人』で取り上げていますが、
今の日本にはこのような事を述べる人がいるのでしょうか?

季節のスイーツセット¥600
苺のムースと抹茶。

報徳神社へと続く参道

参道脇の二宮金次郎像
小学校にある典型的な像。余談だが、読んでいるのは四書の『大学』

像の説明

二宮尊徳翁像
大柄で体格が良かったと記録されている。

翁像の説明

報徳神社拝殿

小田原城の堀にてカワセミを発見
このあと石垣方向に飛んで行って姿を消した。石垣の隙間に巣を作っているのだろう。
[参考書]
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教養として知っておきたい二宮尊徳 日本的成功哲学の本質は何か (PHP新書) 新品価格 | ![]() |

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JR北鎌倉 → 徒歩3分 → 円覚寺 → 徒歩10分 → 明月院 → 徒歩15分 → 江ノ電鎌倉 → 江ノ島 → 徒歩20分 → 江ノ島弁天

江島神社
朱塗りの大鳥居の奥にある瑞心門。ここが神社の入口になる。
彼岸の〆は江の島へ、17時閉門の直前ギリギリセーフでした。
今は橋で繋がっていますが、かつては陸続き。福岡の志賀島と同じ陸繋島と呼ばれる地形でしたが、
約2万年前の完新世(沖積世)の地殻変動で孤立した島となりました。
『江ノ島縁起』に拠れば、
『昔、五頭龍が人々を苦しめていた。欽明朝の頃、俄かに天地が揺れ暗雲から天女が、海中からは島が出現。
天女は龍の求婚を受け入れる代わりにおとなしくさせた。これが江の島明神の起源となった。』
とあります。
養和2年(1182年)源頼朝は平家追討を祈願し弁財天を勧請。江の島明神は神仏混交となりました。
厳島、竹生島と並ぶ日本三大弁天。弁天様は島が好きなようです。
建久元年(1190年)には鎌倉幕府初代執権の北条時政が参籠して子孫繁栄を祈願。すると美女が現れ願いを叶えると約束。
北条時政はその美女が竜神の化身であることに気付き、残した三枚の鱗を家紋にしたと伝わります。
これは『太平記』に載る話ですが、北条氏の家紋起原としては出来すぎた話。
恐らく鎌倉時代を通じて崇拝されていた江の島明神を家紋の由来に結び付け家門の格付けを謀ったのでしょう。
このように鎌倉幕府とも深い縁があった江の島明神はその後も崇拝を受け、江戸時代には庶民の江の島詣でに発展します。
江戸時代にあって参詣は手軽な旅行。現代に続くリゾート地江の島はこの時代に形作られたと言えるでしょうか。

境内にある石像

奉安殿(弁天堂)
弁財天が安置される。

境内から見る江ノ島大橋

江島神社御朱印

早目の夕食は江ノ島にて二色シラス丼

江ノ島大橋からの夕暮れ

江ノ島郵便局 ; 江ノ島、ヨットハーバー、ヨット、カモメ、富士山
[参考書]
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日本の神社 93号 (大山阿夫利神社・江島神社・平塚八幡宮) [分冊百科] 新品価格 | ![]() |

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京浜急行横浜 → 新逗子 → 徒歩5分 → JR逗子 → JR鎌倉 → 徒歩10分 → 海蔵寺 → 徒歩30分 → JR北鎌倉 → JR大船 → JR鴨宮 → 徒歩20分 → 勝福寺

飯泉山 勝福寺(真言宗東寺派 坂東三十三ヵ所第五番札所)
鎌倉の後は、神奈川県で唯一残った札所へ。
小田原市ですが、JR小田原駅ではなく普通しか止まらない鴨宮駅で下車したのち、徒歩20分。
飯泉山勝福寺(いいずみさんしょうふくじ)は、奈良時代に道鏡が開山という古刹。
孝謙女帝の側近であり中央政界で活躍した道鏡が何故となりますが、
女帝死後の政争に敗れた彼は下野薬師寺に左遷される事に。
その下向時に女帝から下賜された十一面観音を足柄郡千代台に弓削寺を建て安置したのが始まり。
平安の世になって本尊のお告げで現地へ移ったとされ、室町以降は勝福寺と号しています。
一説では、観音像は鑑真和上が唐から招来したものともいわれ、由緒の正しい御本尊。今は秘仏となっています。
ここには曽我兄弟が仇討ちに際して日参して成就したとか、
二宮金次郎が14歳のみぎり、僧侶の読経を聞いて発心したと言った話も伝わっています。
結構、【同郷】の人たちに【孝謙】していることになりますね。
弓削道鏡といえば皇位を狙った日本史上の大悪人ですが、孝謙女帝に振り回されただけで
彼自身は政治的に策を弄した事はなかったと思います。
奈良時代の権力闘争は激烈で敗者が死を賜る事もごく普通にありました。
そんな中で下野国に左遷位で済んだことは大した政治力がなかったという証拠。
皆さんに【勝福】されるかどうかは?ですが…。
この日は駅からは1~2㎞ですが、途中の山道が適度なハイキングコースとなりました。
でも帰宅してからは背筋が痛く、足がズシりとしたので、やはり自分もシルバーになってきたのを改めて実感した一日でした。

人家を抜けると立派な仁王門が眼前に

朱塗りが鮮やかな本堂
宝永3年(1706年)の再建で江戸初期の様式をとどめる密教寺院独特の建造物。

境内にある地元出身の二宮金次郎像
薪と読書スタイルが有名だが、これは14歳でお経を聞いて発心した像。尚、彼の読んでいる本は四書の大学だそう。

飯泉観音御朱印
[参考書]
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日本史上の大悪人と言われた弓削道鏡の真実
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横浜 → (京浜急行) → 金沢八景 → (シーサイドライン) → 野島公園 → 徒歩5分 → 伊藤博文別荘 → 徒歩20分 → 称名寺 → 徒歩10分 → 金沢文庫 → (京浜急行)→ 横浜

金沢山 称名寺(真言律宗 別格本山)
横浜長浜検疫所見学の後、昼からは海沿いを南下して野島へ。
野鳥園が有名ですが、伊藤博文公の別荘があり、ここで明治20年に明治憲法を起草したのは有名な話。
我々には千円札の肖像と初代内閣総理大臣で覚えていますが、お札から外れた今の知名度はどうなのでしょうね?

帰帆橋を渡り野島へ

旧伊藤博文金沢別邸(横浜市指定有形文化財) 入口
茅葺寄棟屋根で明治31年築。明治期の金沢は東京周辺の海浜別荘地として栄えた。見学は無料。
長州閥の中ではさして目立たぬ下位の人だったようですが、維新の三傑が舞台から去ったことにより、トップに上り詰めます。
運が良かったこともあるでしょうが、人に対する好悪がはっきりしている明治天皇から最も信頼されたという事ですから、
やはりひとかどの人物だったことには違いありません。
策士の陸奥宗光や山県有朋、猛将の黒田清隆には良い感情を持っていなかった明治天皇も、伊藤博文の率直な点を
気に入られたとか。その陸奥等とも伊藤博文は上手くやっています。バランス感覚に長けた人物だったように思います。
明治維新以降では殆どの職務の初代を歴任し初代朝鮮総督になった後、哈爾濱で凶弾に斃れます。
本人も周囲に漏らしていたそうですから覚悟の上だったのでしょう。
尚、李氏朝鮮の王族は併合後、準皇族の待遇を受けましたが、それにも伊藤公が関わっていたそうです。

伊藤邸客間

客間にある揮毫
宋学の周敦頤の文章らしいが、なかなかの達筆。

金屏風の解説

これは金沢八景の海が見える居間

伊藤邸浴場

廊下から見た中庭

庭から眺めた伊藤邸

庭から屋敷を見る

伊藤邸居間棟より見た湾内
右奥は八景島シーパラダイス。

今日のお昼は野島公園前のカリビアンにてアナゴ天丼。
値段は¥750、まさにトレビアン!
野島の近くでコスパの良い昼食の後は、称名寺までウォーキング。
金沢山称名寺(きんたくさんしょうみょうじ)は、鎌倉幕府の評定衆・引付衆を歴任した北条実時が正嘉2年(1258年)に
金沢の別邸内に持仏堂を設けたのが始まり。
この地は六浦荘金沢と呼ばれ、鎌倉と房総を結ぶ要地として北条氏が支配していました。金がたくさん出たのではないようです。
弘長2年(1262年)の 『関東往還記』 に「称名寺と号する不断念仏の寺」と記されているように、当初は念仏寺でした。
しかし、鎌倉に下向していた西大寺の忍性に帰依した実時は称名寺を真言律宗に改宗、文永4年(1267年)には下野薬師寺
から審海を迎えて開山としました。
実時の後、顕時・貞顕・貞将と4代に亘る金沢北条氏の保護により繁栄し、貞顕の元享3年(1323年)には大伽藍が完成。

入口に当たる称名寺赤門
桜の時期にはここから出店が続くが、普段は静かなもの。

称名寺塔頭の光明院表門

説明板

堂々たる称名寺仁王門
左右の金剛力士像は1323年に仏師院興が造立した関東最大の像。

阿字ケ池に架かる朱色の反橋

反橋、平橋の向こうにある金堂
稲荷山を背景に建つ。
それよりもここを有名にしたのは金沢文庫の存在。実時が晩年の建治元年(1275年)頃に別邸に集めた蔵書が始まり。
その後、金沢北条氏や称名寺の住職により充実が図られ、各地の武士・僧侶に利用されました。
『徒然草』の兼好法師も来遊したとあります。
この文庫も幕府滅亡後は衰退、金沢文庫の蔵書印のあるものが各地に流失しています。
特に後北条氏や徳川家康による持ち出しが多かったらしく、民政に気を配った彼らにしては汚点を残すことになりました。
現在の金沢文庫は昭和30年(1955年)に旧阿弥陀堂の跡地に復興され平成2年に(1990年)に現在地へ移転したもの。
残った文書をようやくまとめたことになります。
長い衰退時期に散逸・流出したとはいえ、『文選詩注』や金沢北条氏4代画像など国宝も残っているのは有難い事です。
尚、金沢文庫の駅名は「かなざわぶんこ」ですが、文庫の場合は「かねさわぶんこ」と読むのが正しいようです。
境内は「称名寺境内」として国指定史跡に。関東最大の仁王像や、鎌倉時代随一の浄土庭園があり、
後者は平安中期以降の浄土庭園の末尾を飾るものです。
由緒と言い広さといい鎌倉の寺院にも遜色なしですが、場所故かいつも人は疎ら。
観光ガイドに載ってないのがネックなのでしょうか?
鎌倉時代に文化が花開いた地で明治憲法の礎が築かれた訳ですから、政治と文化は継承されたと言えるでしょう。
一方でかつての景勝地は見る影もない状態。乱開発に警鐘を鳴らす必要がありそうです。

阿字ケ池越しに見る金堂と釈迦堂(右)
緑の屋根は「称名の晩鐘」で知られる梵鐘のある鐘楼。

阿字ケ池越しに見る反橋

池越しに反橋と仁王門を望む

金堂近影
本尊の重文・弥勒菩薩立像は建治2年(1276年)の銘がある宋風彫刻。

金堂右手の釈迦堂
本尊は特異な波状衣文を持つ清凉寺方式の重文・釈迦如来立像で実時三十三回忌の徳治3年(1308年)の作。屋根の上には北条氏の三つ鱗紋が。

称名寺境内案内書

称名寺御朱印

称名寺門前の「ふみくら茶屋」
アナゴと甘味が有名だが、残念ながら臨時休業。

金沢八景に2軒ある鰻屋 の内 「鰻松」 にて早目の夕食

金沢文庫駅前郵便局 ; 鎌倉時代の書籍文庫、称名寺庭園
横浜金沢文庫郵便局 ; 称名寺、北条実時の肖像
横浜片吹郵便局 ; 称名寺庭園
[参考書]
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<コース> 特急は10分間隔で運転
京浜急行横浜 → (特急20分) → 金沢八景 → 徒歩10分 → 龍華寺

知足山 龍華寺(真言宗御室派)
境内は牡丹が多く植えられている。
武州金沢は鎌倉の外港として、また房総半島への要衝として繁栄。加えて六浦の地名の如く海岸線が入り組んだ景勝地。金沢八景の名称も慶長19年(1614年)の「名所和歌物語』に早くも登場しています。
八景といえば私のような関西の人間には近江八景が先ず頭に浮かびますが、元々は中国の洞庭湖に注ぐ瀟湘(しょうそう)二水付近の景勝、いわゆる瀟湘八景をそのまま当て嵌めたもの。
八景は場所・地名と季節・時刻を結びつけるのが特徴で、国内では水戸光圀に招かれた中国の禅僧心越東皐(しんえつとうこう)が元禄7年(1694年)に詠んだ「武州金沢能見堂八景詩」を嚆矢とします。
てっきり近江八景を元に作ったと思っていましたが、こちらが先達。己の無知を反省です。江戸時代には江ノ島・大山詣とともに金沢遊覧が流行、歌川廣重の錦絵もそれに拍車を掛けました。
明治以降も別荘地として知られ、明治20年1887年に伊藤博文ら4人は旅館東屋で明治憲法を起草しています。
その際、草案の入ったカバンを盗まれたため、夏島にある伊藤の【草庵】に移って草案を完成させたというおまけまで付きました。
今なら大問題になりますが、このような【起草】天外が許されるおおらかな時代だったのでしょう。
いまは埋め立てが進みかつての景勝地の面影はなく、警鐘を鳴らさないといけない状態です。

八景入口にある石碑
ここで大日本帝国憲法草案が練られた。

廣重が描く所の金沢八景図

廣重が描く所の金沢八景図(続き)
歩いていると立派なお寺が。観光ガイドにもありませんが説明板に拠れば創建の800年の古刹。
知足山龍華寺(ちそくさんりゅうげじ)は文治年間(1185~1190年)に源頼朝と文覚上人が六浦山中に創建した浄願寺が始まり。名将が名勝に建てた寺ですね。
13世紀には忍性が来て戒律を広めましたが、文明10年(1478年)に兵火で焼失。明応8年(1499年)、現在地にあった光徳寺と併合され龍華寺の寺号になりました。
かつて家康が「源氏が立つりゅうげんじとは目出度い名前じゃ」と言ったとか。江戸時代には武蔵密教教学の中心寺院として、塔頭4院、末寺20寺余を擁したそうですから【驚愕】です。いつの時代もゲンを担ぐのは変わらんようです。

山門前にも牡丹が

茅葺の鐘楼と本堂
梵鐘は天文10年(1541年)に古尾谷重長が寄進したもので鎌倉末期の鋳造。

本堂
元和6年(1620年)に本尊が大日如来になった。

龍華寺説明書

龍華寺御朱印
御供え物の煎餅を頂いた。
こちらもゲンを担いで、日曜ながら土用の丑の日。金沢八景には有名店が2店ありこの日は「隅田川」にて昼食。
10年前は¥2000だったと記憶していますが、いまは¥1000アップ。10年間で月給は1.5倍にはなって居らず。ここ数年の価格の鰻昇りを実感した次第です。

「隅田川」

うなぎ料理「隅田川」にて
午後14時でも満席で、一番安い!竹重(¥3024)しか残って居らず。骨煎餅が付くのは嬉しい。

隅田川から100m程離れた「鰻松」
金沢区の鰻専門店はこの二つが有名。

金沢八景郵便局 ; 八景に因む八角の外枠に廣重・金沢八景図「洲崎晴嵐」
横浜六浦郵便局 ; 廣重・金沢八景図「野島夕照」

横浜六浦川郵便局 ;廣重・金沢八景図「瀬戸秋月」
六浦駅前郵便局 ;廣重・金沢八景図「内川暮雪」
【参考書】
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
京急横浜 → 京急神武寺 → (池子参道)徒歩30分 → 神武寺 → 徒歩25分 → 鷹取山 → (表参道)徒歩50分 → JR東逗子

醫王山 来迎院 神武寺(天台宗)
紫陽花のシーズンの鎌倉ですが、ニュースでは明月院や成就院は予想通りの混雑。ということでハイキングコースを通っての鎌倉入りとなりました。
醫王山来迎院神武寺(いおうさんらいごういんじんむじ)は、第三紀の凝灰岩に覆われた鷹取山の中腹にある古刹。といっても【神武時】までは遡りません。
寺伝に拠れば、
『神亀元年(724年)に聖武天皇の命により行基が開山、十一面観音・薬師如来・釈迦如来を彫刻して安置。
その後、天安元年(857年)に円仁により中興され法相宗から天台宗に改宗された』
となっていますが、『吾妻鏡』の承元3年(1209年)に源実朝が岩殿山と神武寺に参詣した記録が史実に登場する嚆矢のようです。
真相は深い霧に覆われています。
南北朝の動乱や戦国時代には被害を受けますが後北条氏の庇護を受け復興。
しかしそれも長くは続かず、天正18年(1590年)秀吉の小田原攻めでは後北条氏に与したため山内の殆どが焼失、江戸時代に少しずつ復興を遂げ今に至ります。
今回に先立ち昨年彼岸の入りの9月19日に訪問しています。その時、切通し入口には「関係者以外立入り禁止」の柵がありましたが御朱印を貰うので、事務所へ伺って無事拝受。
御住職の話では、三浦半島の寺院で天台宗は二ヶ所のみ。これは小田原の後北条氏に味方したため、家康入国後は浄土宗に改宗させられた寺院が多かったためとか。
生き残るためには勝ち組に乗らないと駄目なので、判断力が要求されます。
それから境内の拝観も御願いして諒承頂きました。境内は凝灰岩の切通しの奥にありますが、周囲が山に囲まれているため適度の日差しと湿度に恵まれ植物の宝庫となっています。
珍しいのは切通しの岩肌に自生していた大きな葉。御住職夫人が庭の整備をされていたので尋ねた処、イワタバコという植物だそう。
かつては煙草の代用にされた事もあったようですが、葉の形が煙草に似ている故の命名と思えます。6月には可憐な紫の花をつけるそうですが、盗掘が絶えないと嘆いて居られました。
山野草は余程環境を整えないと生育できないものが殆ど。持ち帰っても直ぐに枯れるのは目に見えていますから、何とも無駄な話です。ハイキングブームの負の影響です。
今回はその花を見るべくの再訪で念願かなって、イワタバコの花を観賞することが出来ました。
お寺に続いて鷹取山にも向かいましたが、途中の石の切り出した岸壁にもイワタバコが多く自生していました。
地面でなく岩蔭に着生するのは直射日光と養分が多い状態を好まない性質があるのでしょう。
この後は、元来た道を戻って、JR東逗子に抜け鎌倉詣をして帰宅。途中の山道が適度なハイキングコースとなりました。
帰宅してからは足が【逗子】りとしたのは自分もシルバーになってきた証拠ですが【人無事】だった事に改めて感謝しないといけないと実感した一日でした。

京急より鷹取山神武寺への参道

駅から徒歩25分で惣門へ到着
木鼻などを用いない簡素な四脚門。享保18年(1733年)の建立で昭和50年(1975年)に移築。

薬師堂前の楼門
宝暦11年(1761年)に建立の三間楼門。

神武寺境内への切通し
通常、柵からこちら側は関係者以外立ち入り禁止。壁から葉っぱだけ生えているのはイワタバコ。

市天然記念物・周辺岩隙植物群落

イワタバコ近影
薄紫色の可憐な花を付ける。

凝灰岩の岩陰にもイワタバコが…。

境内の石段にもイワタバコの群生が

石段のイワタバコ近影


神武寺の庭

神武寺境内
左が客殿宝珠院で右が庫裏。御朱印はここで拝受し御住職から沿革を伺った。

客殿宝珠院
天保12年(1841年)の再建で本尊阿弥陀三尊像を祀る。

一段高い場所に立つ薬師堂(本堂)
文禄3年建立の山内最古の建造物で秘仏の薬師三尊像と十二神将像が祀られている。

薬師堂の前面
三間堂寄棟造

逗子八景の鐘楼堂へ向かう

切通しの岩上に位置する鐘楼堂
安政6年(1859年)の再建。「神武寺の晩鐘」として知られるが当初の鐘は戦時中に供出され、現在の鐘は昭和25年の改鋳。

逗子八景 鐘の説明

神武寺説明書

神武寺御朱印

鷹取山に向かう途中にある採石場跡
クライミングができそうだが危険なので禁止とある。

岩肌にあるイワタバコの群生

花が咲いているものも

道の脇に咲くホタルブクロ

取山頂から見た横須賀
中央の岩蔭にもイワタバコの群生が。

鷹取山からJR東逗子駅へ

昼食は鎌倉の八幡宮門前横の「茶織菴(さおりあん)」にて
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
単身以降買出しに行く横浜ですが、よく考えると(別に考えなくても)東海道3番目の宿場。
歌川廣重の保永堂版東海道での題は「臺の景」、初めは何のことかとおもいましたが、今の台町付近の景色を描いているとの事。
横浜駅から徒歩5分、駅前の喧騒が嘘のように静かな場所です。ここがかつての東海道で東側に神奈川湊を望む景勝の地でした。
街道には茶屋が並んで描かれていますが、坂の上の方にある「さくらや」は高杉晋作やハリスも訪れ、おりょうさんが働いていたという老舗です。
いまでも料亭「田中屋」として営業中。幕末の雰囲気十分ですが一人で入るのには敷居が【高杉】でした。

高級住宅街といった趣の東海道の台町付近
一番高い所から保土ヶ谷方面を望む。

神奈川台関門と袖ヶ浦見晴所跡

台町に唯一残る料亭「田中屋」
文久3年(1863年)に、田中家初代が「さくらや」を買い取りスタート。

田中屋玄関
御店の方に伺った所、昼の部 ¥6,000~、夜の部 ¥10,000~ との事。

田中屋前の説明板
龍馬の妻、おりょうさんは龍馬なきあと田中屋に住み込みで働いた。月琴、英語に秀で、酒も強く物怖じしない性格が客に評判だったとか。
開国後は、各国の領事館や宿舎として宿場内の寺院が当てられました。いまもその記念碑が建っています。
広い場所が必要だったからでしょうが、異郷で異教の建物で生活するというのもなかなか度胸のいる話です。【読経】の声に驚かなかったのでしょうかね?
アメリカは湾内を一望できる丘の上の本覚寺を選びました。ハリスの抜け目のなさが伺える話です。
街道沿いには松並木と高札場が復元されています。絞殺場ならば刑事が登場しますが、これはお上の知らせを庶民に掲示する場所です。
周囲は住宅地ですが今も現役なのか【考察】の必要がありそうに思いました。
みなとみらいやベイブリッジに眼を奪われがちですが、良く見ると至る所に歴史の足跡があり過去と未来が混在する町でした。

アメリカ領事館のあった本覚寺(曹洞宗)
青木橋付近

本覚寺山門
樹齢200年のスダジイの下にアメリカ領事館跡碑がある。

フランス公使館のあった甚行寺

イギリス領事館のあった日蓮宗浄瀧寺

フランス領事館のあった慶運寺
浦島太郎が竜宮より持ち帰った観音像が祭られているとか。

亀に乗った浦島の碑

説明板

外国宣教師宿舎になった成仏寺
辞書で有名なヘボン博士はここの本堂で寝泊まりした。成仏した訳ではない。

東海道沿いの復元松並木

神奈川地区センター横にある高札場の復元

神奈川郵便局 ; 廣重「東海度五十三次 神奈川宿」、ベイブリッジ、みなとみらい21
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小田急伊勢原 → バス → 日向薬師 → 徒歩90分 → 大山寺 → バス → 小田急伊勢原

雨降山 大山寺(真言宗大覚寺派)
日向薬師参拝後、バスで伊勢原まで戻って大山行きバスに乗るのが常道でしょうが、時間とお金を節約するため山を横断して大山へ。
歩いた時間は凡そ1時間半、途中で手話教室の一行と合ったり鹿を見たり、幸い熊には遭遇しませんでしたが。
大山は丹沢山地の東端、標高1,252mの山で古くから山岳信仰の対象。
頂上には阿夫利神社(あふりじんじゃ)本社が祀られていますが、そこから90分程下った場所にある阿夫利神社下社にお参りするのが常道。
「大山」の名称は山頂に大山祇神社を祀ったからですが石尊大権現とも言われます。阿夫利は大山の頂上付近は天候が変わり易い「雨降り山」に由来、雨乞い信仰の対象でもありました。

日向薬師から大山へ

見晴台付近から市街を見たところ

大山山頂1252m

逢ったら怖いセレナーデ

大山阿夫利(あふり)神社下社
名水で有名。

下社境内から市街を見る
その阿夫利神社の神宮寺として建立されたのが雨降山大山寺(あぶりさんおおやまでら)。縁起に拠れば、
『天平勝宝7年(755年)に東大寺の別当良弁が聖武天皇の勅願を得て開創。
大地震に伴う火災で焼失した後、元慶8年(884年)安然により再興するも再び荒廃。
鎌倉時代の文永年間に鎌倉大楽寺の願行上人が大小の不動明王を作り安置し復興。』
とあります。
成田不動、日野高幡不動と並ぶ関東三不動となり三度目の正直で漸く【不動】の地位を得た事になります。
修験道の勢力が後北条氏に与した事で関東入国した徳川家康とは対立しますが、家康が改革を断行し政治的な影響力を排除。
江戸時代には庶民の現生利益を目的とした「大山詣で」が盛んになり落語にもなりました。
明治の神仏分離令で不動堂は廃止され阿夫利神社下社に。不動堂は関東一円から浄財を集めて明治18年(1885年)に現在地に建立、これが今の大山寺です。
三遊亭円生師匠著「書きかけの自伝」には東京落語協会の大山詣での写真が。
今でもあるのかと尋ねたところ「見たことないですねえ」というお寺の方の返事。建造物だけではなく、ここでも伝統がまた一つ消えていくのでしょうか?
近くなのに一方は日向、他方は雨降山大山寺とはこれ如何に。巡礼の順番通り天気も晴れから雨に向かうようです。
名産は独楽と「あふり餅」ならぬ「大山とうふ」。冷奴¥375と豆乳ソフト¥327が本日のおやつと相成りました。

大山寺への階段
紅葉の名所なので、秋には壮観。

雨降山(あぶりさん)大山寺本堂
江戸時代には大山詣で賑わい落語にもなった。

本堂脇の銅造宝篋印塔

大山不動尊御朱印

大山郵便局 ; 阿夫利神社・正子舞の乙女、大山
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小田急伊勢原 → バス → 日向薬師

日向山 霊山寺(高野山真言宗 東国花の寺百ヵ寺 神奈川七番)
関東のハイキングコースの大山へ初挑戦。一ヵ寺では勿体ないので、大山寺(おおやまでら)と日向(ひなた)薬師の二寺へ。
どちらも伊勢原駅からバスが頻発ですが大山行はバス待ちが大勢、一方日向薬師は殆どいない状態。
迷うことなく乗客の少ない日向薬師行きに乗りましたが、同じ巡礼とはいえ何こんなに差があるのか不思議でした。
終点のバス停から山道を徒歩10分。
日向山霊山寺(ひなたさんりょうぜんじ)、通称日向薬師は寺伝によれば
『霊亀2年(716年)、行基が薬師如来の託宣により大山の東方山麓に白髭明神と熊野権現の二神の援助を得て霊木に薬師如来を刻んで一宇を構えたのが始まり。元正天皇の時に勅願となった。』
とあります。
朝廷の尊崇も篤く村上天皇、鳥羽院は梵鐘を寄進、後一条天皇は勅額を下賜した記録が。
また薬師様の御利益としても名高く平安の女流歌人相模を嚆矢として源頼朝、北条政子、源実朝が眼病平癒・安産のため参詣しています。
行基の開創は疑問視されていますが、村上天皇以降の事はほぼ史実とされ10世紀頃には伽藍が整えられていたと想像できるでしょう。
本尊薬師三尊像は普段は秘仏、鉈彫りの仏像としては弘明寺の十一面観音と並び称されていますが、それで日【なた】薬師と言う訳ではないようです。
この日は外からの拝観というよりも博物館へ出張中。【鉈でここ】とはいきませんでした。
鎌倉公方、後北条氏、江戸幕府と時の権力者からも寄進を受け、かつては12坊を数えたようですが廃仏毀釈等で今は唯一残った宝城坊(ほうじょうぼう)が寺を継承している状態。
戦国時代を生き残った寺院が一気に衰退した事を思うと、明治維新はとてつもなく大きな変革だったと改めて思います。
現在残っている本堂(薬師堂)は巨大な茅葺で写真にもよく登場しますが、訪れた時には修理中で完成は平成28年以降。
見ることは叶わずじまいでした。ここは桜と彼岸花の名所でもあるらしいので、再度の巡礼で【悲願】達成と誓った次第です。

山門の仁王像
1830年焼失したが1833年に再建。

山門を過ぎると参道
周囲は日向薬師の寺林として県の天然記念物に指定。

山門から寺院までは500m程歩く

日向薬師宝物殿。
茅葺の本堂は350年振りの大修理にためここが仮本堂、修復完成は平成28年とか。御本尊は現在金沢文庫へ出張中。

日向薬師 宝城坊の解説

日向薬師御朱印
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JR横浜 → JR衣笠 → 徒歩50分 → 衣笠城址 → 徒歩20分 → 満昌寺 → 徒歩5分 → 清雲寺 → 徒歩40分 → 久里浜 → 徒歩60分 → 浦賀 → 京急浦賀 → 京急横浜

大富山 清雲寺(臨済宗円覚寺派 東国花の寺百ヵ寺神奈川四番)
境内から山門を望む。石灯籠の三つ引きは三浦氏家紋。
満昌寺参拝の後は、少し歩いて小高い丘の上に立つ花の寺清雲寺へ。
三浦義継が父為継の冥福を祈って建立したと言われ、本堂内の毘沙門天は建保元年(1213年)三浦一族の和田義盛の乱の際に敵の矢を受けた「箭請毘沙門天」として有名。
運慶派作と伝わる本尊でしたが今は脇立ち。本尊の滝見観音は三浦の祖、為通が奥州で鎮守府将軍平忠通から拝領したとされる宋代の作品で、大矢部の円通寺から移されたもの。
元来の本尊が他所から来た仏様に乗っ取られた訳ですが、これで【おお、やべ!】とはならなかったようです。
因みにここも天台宗だったものを円覚寺102世の大雅省音が中興し臨済宗に。
花の寺も当初はベニバナミツマタでしたが、今は女郎花と変遷。どこの世界も戦国時代があるのでしょうか?

滝見観音、毘沙門天が安置されている清雲寺本堂

境内の草花

清雲時御朱印

昼食はここ「うな萩」にて。
珍しく温泉で鰻を育てている。合宿などで利用する人が多いとは御店の人の談。

参拝の後は歩いて久里浜から浦賀へ。
江戸の平和の後半にペリーが来航、「国を横須賀!」とはなりませんでしたが、再び日本は動乱の世へ。
良港があるとはいえ、よくよく三浦は動乱に縁がある所のようです。
今は軍港がありますが、のんびりした街に【カレー】なる変身を遂げつつあるように思います。

ペリー記念公園にある「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」
久里浜湾に面してある。書は伊藤博文。

公園内にあるペリー記念館 入館無料

記念館にある黒船の模型

浦賀の渡し渡船場
浦賀湾は奥まで入り込んでいるので向こう側へ行くには便利。江戸時代から続く交通手段。ブザーを押すと来てくれる。¥150

西叶神社にある鏝絵(こてえ)
職人が鏝を使って作った芸術。伊豆が有名だが、浦賀でも「左官」に作られた。図は司馬温公(司馬光)の石で水瓶を割る所。

東福寺にある鏝絵の鶴と亀

横須賀市マンホール蓋

横須賀市マンホールカード 配布場所はこちら

横須賀浦賀郵便局 ; ペリー上陸記念碑、黒船、ペリー記念館
横須賀新町郵便局 ; ペリー上陸記念碑、黒船、ペリー錦絵
[参考書]
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JR横浜 → JR衣笠 → 徒歩50分 → 衣笠城址 → 徒歩20分 → 満昌寺

大善寺境内にある衣笠城址
山全体を利用した平安末期の典型的な山城である。

城址説明板
気候も良いのでJR衣笠駅→久里浜→浦賀 へとハイキング。
衣笠城は豪族三浦氏の居城。桓武平氏から三浦氏を名乗った為通が前九年の役の功績により源頼義から領地を賜ったのが嚆矢。
その後、曽孫の義明が治承4年(1180年)源頼朝の平家追討に応じて挙兵します。
石橋山の戦いで敗れた頼朝は安房に、三浦一族も衣笠城合戦で敗れ房総へ逃れますが、89歳の義明は踏み止まって戦死。
満昌寺は建久5年(1194年)、三浦大介義明を開基として源頼朝が建立。
義明が没して14年後ですが、頼朝にしてみれば自身の挙兵の折に老齢をも顧みず、城を枕に討ち死にした忠臣の霊に報いる意図があったのでしょう。
本堂前のツツジは義明の菩提を弔うために頼朝自らお手植えしたものと言われます。
140年後に仏乗禅師が中興開山となり臨済宗建長寺派に。
更に宝永2年(1705年)火災で堂宇が焼失した後、寛延2年(1749年)仏心禅師が再建し、その時に山号も雲龍山から義明山に変わったと言われます。
境内には重文・三浦義明坐像や襖絵など、見るべきものは多いですが予約や特別拝観のため今回は素通り。
その分、説明書の解説が詳細を極めています。
源氏の世になり、三浦一族は幕府の有力御家人として活躍。義明の流した血は無駄ではなかったと言う事です。
しかし5代執権時頼の時に宗家は滅亡、一族は各地へと散らばります。幕府に功績があったとはいえその終焉はあっけないものでした。
江戸時代には美作勝山藩主が三浦氏でしたが小藩なのでさして政治的に影響はなかったようです。
『かつての功労者に報いない国家は発展する』と言う謂いがあったような、なかったような。
満昌寺の御住職に伺った所
和辻:「お墓参りに一門が見えられますか?」
住職:「会津の戦国大名芦名氏が三浦一門なので見えますが、他は来られませんね」
との事。歌手三浦洸一さんも一族だそうですが、いまは【東京の人】。なかなか昔のような結束は難しいのでしょうかね。
鎌倉・室町は始終内乱があったためネガティブな印象ですが、これもトップとの力の差が小さかった故の気がします。
格差社会が言われて久しいですが皆同じレベルと言うのも良し悪しです。

衣笠山の麓に立つ大善寺
三浦一族の仏教信仰の中心で学問所も兼ねた。

満昌寺山門
頼朝が三浦義明を弔うために建立。交通量の多い車道脇に建つ。

満昌寺本堂
江戸時代の再建。本尊は宝冠釈迦如来坐像である。

本堂前にある頼朝公御手植えの躑躅
建久5年(1194年)の植樹。何時の頃からかこの木の枝先に頭を入れると「頭痛が治る」「頭が良くなる」と言い伝えられお詣りする人が多いとか。

境内にある御霊神社
建暦2年(1212年)に和田義盛により建立され三浦義明像を祀る。

御霊神社にある三浦義明坐像
予約制なので見れず。

義明山満昌寺説明書

説明書裏面
拝観できない分は取り敢えずこれで…。

満昌寺御朱印
[参考書]
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JR横浜 → JR平塚 → 金目観音 → 秦野 → 本厚木 → 飯山観音 → 本厚木 → 座間 → 徒歩5分 → 星谷寺

妙法山 持寶院 星谷寺(真言宗大覚寺派 坂東三十三ヵ所第八番札所)
金目、飯山観音と駅からバスが続きましたが、この日3番目は駅近。
星の谷観音星谷寺(しょうこくじ)は行基に拠る開創。始めは北東400mの本堂山にありましたが焼失したため寛延2年(1749年)に現在地に移転しています。
移転のため札所の中では新しいですが境内には椿・井戸・化石など星谷寺の七不思議とよばれるものが八つ。七つでないのも不思議な話です。
そんな中でも古いのは嘉禄3年(1227年)鋳造の銘のある重文の梵鐘。寄進者は銘により「大檀那源朝臣信綱」、平治の乱の落武者であったと言われます。
鋳物師は源吉国で源姓鋳物師では県下最古。鐘は平安様式を残しながら鎌倉時代の様式も見られ通常二つある撞座(つきざ)が一つしかないのも特徴です。
しかしこれが座間の由来になった訳ではないようです。梵鐘は凡将にも通じるのでどうかと思いますが、信綱なりの考えがあったのでしょうか?
星に願いを掛ける程、浪漫チックだったとも思えないので不思議な話です。
戦国時代には後北条氏の庇護を受け、早雲の曾孫氏照は出陣の際に度々ここを宿舎にしています。
それから出典は失念しましたが、武田信玄が関八州を制圧した際にはここを中心にする意図があったらしい事です。
高座郡のほぼ中央には位置し相模の国府も近いですが何故ここだったのか。
信玄にどのような政治意図があったのかは永久に謎となりました。これも不思議の一つでしょう。
この日は平塚の光明寺(金目観音)、厚木の長谷寺(飯山)、座間の星谷寺(星の谷観音)、いずれも西国に比べ境内が狭いのと巡礼者が少ないのが印象的でした。
本堂の雰囲気も何だか似ています。出発は遅れましたが意外と早く回ることができ、怪我の【光明】というのが【星谷】を得ているように思いました。
最後は御朱印で終了ですが、星谷寺では予め利用券を購入する必要が…。私も各地を巡礼しましたがこんな事は初めて。最後も不思議で〆となりました。

星の谷観音入口
小田急座間から徒歩5分、境内には槇、銀杏の大木が。

聖観音を祀る観音堂

観音堂の扁額

観音堂奥の境内

七不思議の一つ 星の井戸
昼間でも星が見えると言う。

星谷寺で御朱印(納経)するには券売機でチケットを購入するのがエチケット

星の谷観音御朱印

座間郵便局 ; 丹沢山、重文・星谷寺梵鐘、座間の大凧
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JR横浜 → JR平塚 → 金目観音 → 秦野 → 本厚木 → (神奈川中央交通18・19・20・21) → 飯山観音前 → 徒歩10分 → 飯山観音 → (神奈川中央交通18・19・20) → 本厚木

飯上山 長谷寺(高野山真言宗 坂東三十三ヵ所第六番札所 東国花の寺百ヵ寺神奈川六番)
先に見えるのは仁王門で花の寺らしく両脇には桜や紫陽花が。
金目観音の後は秦野から小田急で本厚木下車。
ここから新宿までは本数も増え通勤圏に入った感じですが、駅からバスで20分の飯山はゴルフ場、温泉やハイキングコースがあるものの駅前の喧騒とは打って変わって静寂の地。
この辺りの字に小鮎とあるのを見ても鮎が躍るような場所だったのでしょう。
バス停から庫裏橋を渡り400m程進むと飯山観音の石段下。
密教系古刹であれば重々しい雰囲気を想像しますが、いたって開放的。
日差しと境内に植えられた樹木のせいでしょうか。とくに桜は有名で。厚木市の人にとっての花見の第一の場所だとか。
飯上山長谷寺(ちょうこくじ)は通称飯山観音。寺伝に拠れば
、
『神亀2年(725年)行基が霊水伝説に関わり創建、本尊の十一面観音は行基の作と言われる。
その後、弘法大師に帰依した領主の飯山権太夫が伽藍を建立し真言密教の寺として再興。
永延2年988年には坂東巡礼札所六番になった。』
とあります。
本尊の木造十一面観音像は10.6㎝の仏さまですが、楠の一木造りである175㎝の胎内仏となって居り更に厨子に安置された秘仏。
行基の作ということで三重に守られていますが、これも【厚着】だからでしょうかね?

飯山観音への入り口にある朱塗りの庫裏橋
飯山温泉の所にある。大阪の犬鳴山七宝龍寺と似た感じ。

本堂までの石段

江戸中期建立の本堂
堂内には本尊に加え鎌倉期の諸仏像が祀られている。

本堂前面の垂木と彫刻

本堂前から厚木市内を望む

飯山観音御朱印

厚木市マンホールカード 配布場所はこちら

小鮎郵便局 ; 飯山観音、白山森林公園の桜
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JR横浜 → JR平塚 → (神奈川中央交通71・74・75・78) → 金目駅 → 金目観音 → (神奈川中央交通71・74・75) → 秦野

金目山 光明寺(天台宗 坂東三十三ヵ所第七番札所)
右が観音堂(本堂)、左は歓喜堂。
坂東三十三ヵ所1~4番にお参りしたので次は5番から。ところが地図で調べると今までと違って駅から遠い。
さてどうしたものかと思っていましたが、ネットで調べると意外とバスの便があってバス停から近い模様。
江戸時代の巡礼は徒歩ですが私にはそのような拘りはないので公共の交通機関は積極的に利用。
また順番通りに行くのが常道でしょうが、そんな拘りも捨てて移動に無駄のないルートを選択。
当日の気象が怪しかったので遅めの起床。JR平塚駅から小田急秦野駅に向かうほぼ中間で下車。
金目山光明寺(かなめさんこうみょうじ)は金目川沿いに建つ古刹。縁起に拠ると、
『大宝2年702年に、ある漁民が大磯の浜で拾った観音像を、天平年間に行基が彫った新たな観音像の中に収めたところ霊威が盛んになった。』
とあります。
本尊は寄木造りの聖観世音菩薩立像で平安末期の作。
禅宗様式の厨子に安置されており明応7年(1498年)の銘のある前立観音が置かれています。
縁起とは年代が異なり【おおうそ】とは思いませんが、坂東三十三ヵ所の寺の縁起でよくある海からの本尊出現譚。
海岸に流れ着いた流木を刻んだか、海岸に漂着した光り輝く物体を本尊にしたのか、いずれにせよ【光明】な話です。
鎌倉時代には源頼朝の、室町時代には足利氏や関東公方の庇護を受け繁栄。
永享の乱・応仁の乱で一時的に荒廃しますが、明応年間に太田道灌はじめ地域の人々の力で再建。
江戸時代には伽藍も復興します。明治期に衰退しますが後に復興と、文字通り七転八起の沿革。
境内も広大とは言えませんが平野の真ん中の川沿いで地域の【かなめ】だったのか、【金目】という名前が人を惹き付けたのか定かではありませんが、幾度も衰退したことで却って栄えているのは怪我の【光明】と言えるでしょうか?

金目(かなめ)川の北岸に建つ仁王門
バス停から直ぐ。

境内から仁王門を見る

正面から見た観音堂

観音堂の屋根

金目観音御朱印

平塚西郵便局 ; 富士山、丹沢連峰、金目川、市花・撫子、重文・光明寺本堂内厨子
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<コース> JR平塚 → 徒歩40分 → JR大磯

鴫立庵(神奈川県大磯町)
晴天に恵まれた東海道五十三次散歩は平塚からスタート。
廣重の絵に描かれている平塚宿(保永堂版)、表題は「縄手道」背景は高麗山。流石の広重も【国府津】に【高麗】ったろうとは一般的な評です。
次の大磯までは1里足らず(3Km)と東海道の宿場としては二番目に距離が短い。
何でも徳川家康が高麗山の東側の森を鷹狩りに好み良く訪れたため宿場に格上げされたとか。
七番目の宿場で十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町と約1㎞に亘って続き、天保14年1843年には人口2114人、旅籠54軒を数えたとあります。
戦前は海軍火薬廠があり大いに栄えましたが、空襲を受け宿場は柳町を除き焼失。
宿場の面影は皆無ですが、その代わりに戦後整然とした街並みに生まれ変わりました。
地名の由来は桓武帝の孫の高見王の娘平政子(碑では真砂子)がこの地で亡くなり葬られた為。
塚が後に平らになったからとも、皇女の兄の高望王から平家が出たからとも言われています。
桓武帝の母は百済王の系列で山は高麗山、平塚は七夕祭りが有名となれば渡来人が多く住んでいたのでしょうか。
大阪の交野市との関係があるのか気になるところです。

JR平塚駅構内の飾り
年中吊るしてあるそうです。

平塚宿江戸見附跡


江戸見附付近に植えられた大楠と昭和25年建造の公民館(元市会議事堂)

平塚の名の由来になった平政子(真砂子)の塚と伝えられるもの


西組問屋場跡には消防第一分団が建つ
下は、広重の平塚宿(保永堂版)、表題は「縄手道」背景は高麗山。
平塚宿京方見附を過ぎ唯一昔の姿を留める高麗山を過ぎると日本最古の海水浴場の地である大磯。
昔は政界・財界の別荘地でしたが関東大震災の影響もあって建物の残っているものは少なく、栄枯盛衰を物語っています。
そんな中で1803年に旅館として創業の「國よし」も今は蒲焼の店に。政界・財界の重鎮(特に吉田茂)が好んで通ったといいます。
好奇心から品書きを見ると、予約制で昼は¥6,000~。思わず「バカヤロー」と叫びそうになりますね。
お昼は庶民的にお蕎麦になりました。

平塚宿京方見附
ここを過ぎるとすぐ大磯町。


今も変わらぬ高麗山
行政区では大磯町。

東海道沿いでみた茅葺民家

1803年に旅館として創業の國よし
今は蒲焼の店で政界・財界の重鎮(特に吉田茂)が好んで通ったという。

小嶋本陣跡にたつ蕎麦古伊勢屋 今日のお昼はここ
街道沿いにある宮経山延台寺は曽我十郎の恋人虎御前所縁の寺。
彼女が生まれた時に両親が祈った小石が大きくなり十郎が仇の工藤祐経の刺客に襲われた時には身代わりとなったと伝わります。
曽我兄弟の仇討の後、虎御前はここに庵を結んで菩提を弔ったとか。
廣重の大磯宿(保永堂版)の題名は「虎が雨」。雨に虎御前の涙を重ねたという事でしょうか。

曽我兄弟の仇討の後、兄の想い女だった虎御前が庵を結んで菩提を弔ったとされる延台寺

広重の大磯宿(保永堂版)、題名は「虎が雨」
街道を更に西に行くと鴫立庵に。
・心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ
この辺りの海岸を吟遊して西行が詠んだ歌とされます。
三夕の歌としてもまた西行の自信作でもありました。旅の途中で千載集が出来たことを人伝に聞いた西行は
西行『鴫立つ沢の歌は載ったのか?』と尋ね、
人『ありませんでした』との答えを聞くと
西行『それでは読んでも仕方ない』と言ったとか。
鴫立庵自体は西行には関係なく寛文4年(1664年)に崇雪という人が庵を結んだのが始まり。
元禄8年(1695年)には俳人・大淀三千風が庵主となったことから、日本俳諧三大道場として今も続いています。
余談ですが、神奈川の海岸沿いを湘南というのはこの辺りが発祥で境内には碑があります。中国の湖南をモデルにしたようでした。

鴫立庵

俳諧道場 秋暮亭
1765年、三世庵主鳥酔が増築した。

境内の円位堂(正面)
大淀三千風が元禄時代に建立した茅葺の堂で、中には等身大の西行法師の像を安置。左は19歳の虎御前像を安置する法虎堂。

境内にある「湘南発祥の地」の碑
更に先に行くと旧島崎藤村邸が。
疎開中、この家をみた藤村が「この質素さが自分の考えに合っている」として購入し亡くなるまでの2年あまり住んだ場所。
購入金額は当時で1万円、サラリーマンの生涯年収に匹敵したらしいので、これを質素と呼ぶのかどうか。
いずれにせよ【破戒】を免れたのは幸いです。
最後は京見附の松並木でUターン。悲劇の女性に縁があった二つの宿場を【大磯】ぎで見た割には中身の濃い散策でした。

旧島崎藤村邸
疎開中、この家をみた藤村が「この質素さが自分の考えに合っている」として購入。

藤村邸の庭

東海道、京(上方)見附付近の松並木

和菓子屋新杵
明治24年創業時の店構え。西行まんぢう、虎子まんぢうが有名だが、虎子は売り切れだったので、西行を3個土産に。

平塚本宿郵便局 ; 七夕竹飾、廣重の東海道五十三次から高麗山・富士山
平塚富士見郵便局 ; 廣重の塔街道五十三次「平塚宿」、北原白秋歌碑、白鷺塚と白鷺
大磯郵便局 ; 鴫立庵、大磯海岸、高麗山
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<コース>
JR横浜 → JR藤沢 → 徒歩10分 → 遊行寺 → 小田急藤沢 → 片瀬江ノ島 → 徒歩5分 → 龍口寺

寂光山 龍口寺(日蓮宗本山 霊跡寺院)
藤沢宿から小田急で江ノ島へ行き境川を渡って北に向かうと大きな山門が目に入ります。
龍口(りゅうこう)寺は日蓮の弟子日法により延元2年(1337年)の創建。
それまでこの地は竜ノ口と呼ばれ鎌倉時代の処刑場として有名でした。
当時、龍が日本を守護しているという考えがあり、ここは現世と冥界との入り口に当たるために竜ノ口、流れる川は境川と呼ばれたそうです。
唯、現地に立って見ても【冥界】な答えは見つからず、何故ここを選んだのか分かりませんでした。
ここでは大庭景親の梟首、源義経の首実験、元使杜世忠等の処刑で知られますが、日蓮もここで斬首される事に。
まさに処刑されようとしたときに予言通りに雷鳴が轟き首切り役人が恐れをなして処刑は中止。
罪一等を減じて佐渡へ流刑となりました。
世に言う「竜ノ口の法難」で、弟子がこの地に寺院を建立したのにはこのような理由がありました。
法難については日蓮の強運や超能力を云々することがありますが、彼は安房小湊の漁師の出身。
気象を見ることにかけては人よりも優れていたと思えますから、雷鳴も予測できたのでしょう。
「芸は身を助く」を地で行く話ですが、彼の過激な言動が招いたのも事実。
以降、今まで【龍口】に乗り遅れずに寺が続いていることを想えば、【減らず口の災難】には気を付けよ!という教訓でしょうかね。

龍宮城を思わせる小田急片瀬江ノ島駅で下車

総門

山門の扁額

本堂
天保3年(1832年)竣工の木造欅造り。法難時に日蓮が足元に敷いていた敷皮があるため敷皮堂とも呼ばれる。

龍口寺五重塔
明治43年竣工の欅造り。神奈川県下で唯一の五重塔。

龍口寺御朱印

常立寺
龍口寺輪番八カ寺の一つ。龍口寺から湘南モノレールを越えた場所にある。

常立寺境内にある元使塚
建治元年1275年に処刑された杜世ら元使5名の供養塔。

片瀬郵便局 ; 龍口寺、江ノ島、富士山
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龍が日本国を守っているという中世の思想について述べた異色の著作。竜の口の地勢についても考察している。
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<コース>
JR横浜 → JR藤沢 → 徒歩10分 → 遊行寺

藤澤山無量光院清浄光寺(時宗総本山)
久々の晴天に早朝から出かけましたが、JR山手線内の事故で藤沢へは10時着。
江戸時代には東海道の6番目の宿場。現在もJR、小田急、江ノ電が交わる交通の要衝です。
駅から北に向かい東海道に沿って行くと廣重の浮世絵(保永堂版)にも描かれた時宗総本山の遊行寺が。

遊行寺入口の境川に架かる橋
藤は町の花

遊行通りから藤沢橋までの歩道にはこのような東電のトランスボックスが設置

朱塗りの遊行寺橋を渡る

惣門(冠木門)
江戸期、門前は広小路として火除地に。横に藤嶺学園と中高校があるのは遊行寺の経営。
一般には遊行寺で通っていますが、正式には藤澤山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)というお経のような長い名前。
誰しも【もうたくさん、無理よう!】と言ってしまいそうです。
時宗の法主は「遊行上人」と言われるので遊行寺、藤沢道場の名で呼ばれることもありました。
開祖一遍上人は伊予の豪族河野通広の次男、十歳で仏門に入りました。
遊行寺を創建したのは遊行第四代呑海上人で正中2年(1325年)の事。
【しょうちゅう】だから呑海ではないでしょうが、彼の兄が相模国俣野荘の地頭俣野五郎景平であった縁で、この地にあった廃寺を再興。
兄の景平も遊行寺の檀越(施主)になったという経緯があります。
室町期には幕府や鎌倉公方の庇護を受けていましたが、戦国期に北条氏と三浦氏の合戦で焼失。
江戸時代の慶長12年(1607年)にようやく再興されました。
開祖一遍は豪族の自出ながら捨て聖と呼ばれ貧しい人にも区別することなく念仏を勧めた僧。
後世、地頭や将軍家の庇護を受けたことを知ったならばどのように思ったでしょうか。
戦国期の試練は開祖の教えに帰ることを思い起こさせたかもしれません。
江戸時代になると大山詣した人が精進落としとして江ノ島詣に行く地点として賑わいを見せます。
廣重の絵の題も「大山詣」。55枚の浮世絵作品の中に寺社を描いたのは藤沢、三島、石薬師の3枚だけ。
しかも三島は伊豆國一之宮、石薬師は宿場の名前にもなった古刹。
寺社を描くのを好まなかったように思われる廣重ですが、さすがに無視できなかったのでしょう。
観光ガイドには載っていないようですが、見応えのある立派な寺で以前から【一遍】見たいと思っていた願いが叶いました。
藤沢の町は開発されていますが、かつての東海道沿いに少し街並みが残っています。
ゆっくり散策したかったのですが、次の予定もあり【時宗】以降に持ち越しとなりました。

本堂へと続く桜並木

遊行寺に到着

桜の向こうの本堂

本堂正面
本尊は阿弥陀如来坐像

本堂手前にある樹齢500年の大銀杏
鶴岡八幡宮の大銀杏が倒壊したので県下第一との事。

時宗開祖一遍上人
伊予の豪族河野氏の出。水軍ゆかりの人の寺が湘南にあるのも何かの縁か?

遊行寺説明書

遊行寺御朱印

街道沿いにある斎藤家。左手には蔵が建つ。
江戸時代から続く紙屋で現在は洋紙を扱う。屋号は桔梗屋、一休さんが放映されていたころは、いじめにあったのでは?

内田商店
鉄と銅を扱っている様子。

内田商店の店の裏手にある重厚な造りの家屋

義経の頸を洗ったと伝える井戸
頼朝の首実験が済んで捨てられていたのを地元の人が拾って弔ったとか。

藤沢郵便局 ; 遊行寺(清浄光寺)本堂、江ノ島

藤沢本町郵便局 ; 廣重東海道五十三次・藤沢、「昔話のある町」の看板

藤沢市マンホール蓋
JR辻堂駅北に設置

藤沢市マンホールカード 配布場所はこちら
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<コース> 電車は頻発
JR横浜 → JR小田原 → 箱根湯本 → 徒歩10分 → 早雲寺

金湯山 早雲寺(臨済宗大徳寺派)
桜も終盤の頃、後北条氏の足跡を訪ねて小田原散策。それに先立ち、北条五代の菩提寺に参拝することに。
東京から日帰り温泉となった箱根湯本で下車。
駅前の繁華な旅館街を過ぎ早川を渡ると、温泉の喧騒も影を潜め、木立の中を旧東海道に沿って歩くと山門が。
金湯山早雲寺(きんとうざんそううんじ)は二代目北条氏綱が父伊勢新九郎長氏(法号;早雲)の遺言で大永元年(1521年)に建立。
大徳寺83世の以天宗清を招いて開山とし、一時期は関東臨済宗の本山として鎌倉の建長寺や円覚寺を凌ぐ禅刹として発展。
天文11年(1542年)には後奈良天皇綸旨により勅願寺となりました。
しかし天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めで寺は焼失。
寛永4年(1627年)に再興を果たしましたが往時の繁栄は取り戻せませんでした。
鎌倉幕府執権の北条氏を名乗り、三つ鱗の家紋を用いていますが、自出は室町幕府の財政官僚の伊勢氏なので、
直接の血縁はありません。
早雲は伊豆一国を手中に収めた後、大森氏の居城小田原城を攻略。ここを拠点に関東に進出します。
戦国時代の梟雄・下克上の三羽烏と言われる早雲ですが、領民の悲惨な状況を打開するため無料の医療所を作ったり、
年貢を下げたり社会貢献もしています。やはり力づくだけでは世の中は治められませんね。
孫の氏康の代に関東管領上杉氏を退け関八州を掌握しますが、その子氏政・氏照の代に豊臣秀吉により滅亡。
若き氏政が飯に味噌汁を2回かけた事で父氏康を嘆かせたのは有名ですが、やはり英雄は四代続かなかったという事でしょうね。
寺は観光客も疎ら、派手な造りはなく枯山水庭園がひっそり佇む様子は北条氏の興亡を象徴するかの様でした。
裏手には北条五代の墓所がありますが、これは寛文12年(1672年)に末裔の北条氏治により建立されたもの。
秀吉の小田原攻めで滅亡されたと言われる北条氏ですが、五代目の氏直が徳川家康の縁故であったことから助命され、
後には河内狭山藩として1万石の大名として幕末まで存続します。
けれど小藩だった事もあって表舞台に登場することはありませんでした。
江戸後期には財政破綻し大商人の管理下に置かれている状態だったとも言われます。歴史は敗者に冷酷なのだと痛感します。
御朱印を貰おうと方丈へ行くと「御朱印対応できません」の貼紙が。巡礼者にも残酷だと再度痛感しました。

須雲川沿いの旧東海道石畳

早川を渡り早雲寺へ

早雲寺山門の扁額
この真向かいには老舗旅館の「花紋」が建つ。

正面から見た本堂

本堂
本尊は釈迦如来

境内にある茅葺の鐘楼

裏山から本堂を望む

本堂裏手にある早雲寺庭園
早雲四男の北条幻庵の作庭である。

昼食は湯本橋たもとの「はつ花 本店」にて
箱根湯本で最も古い湯葉付近。左が蕎麦屋のはつ花、右は豆腐で有名な知客茶屋。

「はつ花 本店」のとろろ蕎麦

前回は向かいの「知客茶家」で麦とろ膳を
江戸時代には徳川譜代の大久保氏が入部しますが慶長年間に改易、その後半世紀を経て1686年に漸く復帰を果たしました。
江戸時代は箱根越えの難所を控えた宿場町として賑わいを見せます。明から齎された外郎や蒲鉾が有名になったのもこの時代。
しかし明治維新の際には藩論が分裂し維新後は冷遇される事に。
後北条氏の時もそうですが、決断すべき時に迷っているのは結果的に悪い方へ行くのと同じ、
小田原評定の教訓を生かしきれなかったといえます。
明治期には今度は華族の別荘地として繁栄。関東大震災で甚大な被害を受けますが復活して今に至っています。
不死鳥の如くという表現が似合いそうですが、一門が長く続くことが少ないのがこの町の特徴と言っては語弊があるでしょうか。

小田原城天守閣
北条氏285万石の居城

旧黒田長成侯爵邸(清閑亭)
小田原城西、海を見下ろす高台にある。侯爵の別邸にしては質素な造り。

旧黒田侯爵の清閑亭にて
見学は無料。¥500でお茶とお菓子のセットが頂けるので、少しだけ華族の気分が味わえる。これは餡を最中の皮に挟んでぱりぱり感を出して食べるもので、中々いい【案】!

東海道の南にある西海子(さいかち)小路。
かつての別荘地で今も高級住宅街。敷地は広く500坪くらいはありそう。

小田原文学館

小田原文学館通りにある岡田邸と茶室「雨香亭」
個人のお宅だが見学可能。

茶室「雨香亭」入口付近

雨香亭の「ほっこり茶会」
偶々、お茶を出していたので¥500で頂くことに。

雨香亭から庭を望む

済生堂薬局小西本店。
関東大震災で倒壊したものを大正年間に復元。今もバリバリの現役である。

東海道沿いにある「ういろう本店」
初代の陳延祐は室町時代に元から薬の「ういろう」と菓子の「ういろう」の製法を携えて来日。子孫は博多、京都と移り5代目が小田原に移住、現在に至る。苗字は外郎(ういろう)氏を名乗り、日本で1軒だけ。外郎とは初代の役職に由来する。

箱根湯本郵便局 ; 湯本温泉郷
小田原南町郵便局 ; 小田原城、桜、豆相人車鉄道
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<コース>
京急横浜 → 京急泉岳寺 → 徒歩3分 → 泉岳寺 → 徒歩20分 → 増上寺 → JR浜松町 → JR川崎 → 徒歩25分 → 川崎大師 → 京急小島新田 → 京急川崎 → JR鶴見 → 徒歩5分 → 總持寺 → JR鶴見 → JR横浜

広重の川崎宿(保永堂版) 表題は「六郷の渡し」
港区の二ヵ寺巡礼を昼前に終えての帰路、川崎で途中下車。東海道の二番目の宿場で川崎大師の門前町として発展。
政令指定都市&工業地帯、やはり往時を偲ぶものは残っていませんでした。
昨今のウオーキングブームで地元も街道整備にも力を入れているのでこれからといった印象です。
空襲の影響もあるでしょうが以上に開発の波が大きかったということでしょう。
古代ローマの遺産が失われたのは民族大移動よりもキリスト教による抹殺が大きかったと書いてあったのを思い出します。

多摩川にかかる六郷の渡し跡と川崎大師への道標
対岸は東京都大田区

道標

旧佐藤本陣の跡地
いまはコンビニになっており跡形もない。作詞家佐藤惣之助はこの家の出身。古賀政男とコンビを組んだ作品が多いが、ポピュラーなのは「六甲おろし」。

東海道沿いにある川崎宿交流館

かつて万年屋で評判だった奈良茶飯
栗と雑穀のおこわ風。今は街道筋の御菓子処「川崎屋 東照」で復刻している。¥580

善哉 ¥480
続いて川崎から徒歩で川崎大師へ。
京急小島新田という最寄り駅があるのを知ったのは大師到着後、『少しの事にも先達はあらまほしき事なり』 を実感しました。
川崎大師は正式名を金剛山金乗院平間寺(こんごうさんこんじょういんへいげんじ)と言い、寺伝では
大治3年(1128年)、漁夫の平間兼乗が夢のお告げにより海中から弘法大師像を拾い上げ安置したのが始まりとされます。
漁夫の氏が寺名になった訳ですが、戦時中に記録類が焼失したので詳しい経緯は不明とか。
浅草寺なども海中から引き揚げた仏像を御本尊にしていますが、仏教が浸透した12世紀になって弘法大師像が海から出る
と言うのも不思議な話ですし、相当傷んでいたと考えられる像がどうして弘法大師と分かったのか興味は尽きません。
この逸話によって漁夫の利を得た者が居たのでしょうか?
『鳥羽天皇の后の美福門院の祈願所となり、鳥羽天皇から勅願寺に加えられた』
と言いますが川崎大師が繁栄するのは江戸以降、やはり平和な時代になった事が大。
廣重の浮世絵にも描かれているように六郷の渡しを通り、道標に沿ってお参りするのが正式なルート。
庶民を初め幕末の外国人も多く訪れたとあります。初詣では多くの参拝者が訪れる県下有数の場所。
伽藍も昭和39年に鉄筋コンクリートで落成と、古い中にも現代様式を取り入れています。
儲かった分、還元してくれているのであれば有難い話です。

金剛山 金乗院 平間寺(真言宗智山派大本山)
これは昭和39年の落慶した大本堂。御本尊は厄除弘法大師。

川崎大師八角五重塔(中興塔)
昭和59年の落慶

川崎大師説明書

川崎大師御朱印
川崎駅に戻った後はJR鶴見で下車し總持寺へ。
福井の永平寺と並ぶ曹洞宗大本山で10万坪に及ぶ境内に大伽藍がある巨刹ですが建築は新しく明治44年(1911年)。
それまで能登の国にあった總持寺が1898年の大火で焼失したためこちらに移転したのが理由です。
北陸に起点を置いた曹洞宗にとっては大英断だったと思いますが、
より人口の多い場所での信者獲得を目指したとすれば、当寺の関係者は【機転】が利いたと言えますね。
境内は宿泊施設や学校もあって一大施設の様子。唯、大学だけば別の場所なので初めて来る人には【駒澤】ると思いますが…。
この日の巡礼は總持寺で締め括り、帰宅してからは再び【掃除時】に戻りました。

諸嶽山 總持寺(曹洞宗大本山)
これは仏殿。

總持寺大祖堂

総持寺勅使門

總持寺御朱印

川崎市マンホール蓋

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川崎大師郵便局 ; 弘法大師道標、市花・ツツジ、富士山
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<コース>
京急横浜 → 京急弘明寺 → 徒歩3分 → 弘明寺

瑞應山 蓮華院 弘明寺(高野山真言宗 坂東三十三ヵ所 第十四番札所)
横浜での買出しの帰り、雨が降ってなかったので一駅手前で降りて家まで散歩。
瑞應山蓮華院弘明寺(ずいおうざんれんげいんぐみょうじ)は京急弘明寺駅から直ぐ、
というより弘明寺境内を横切って路線が引かれたというのが実情です。
寺伝によれば
『天平9年(737年)に行基が観音像を刻んで堂宇を建立、
弘仁年間には空海が双身歓喜天を安置した』
とあります。
本尊の重文・十一面観音立像は等身大の欅の一木造りで平安後期の作。
本堂建立の寛徳元年(1044年)以降とされます。
『吾妻鏡』治承5年(1181年)の条には 「源家累代の祈願所」 とあるので源家の庇護があったと思われます。
戦国期には北条早雲、江戸期には将軍家から寺領を賜り坂東札所として栄えます。
といって堅苦しい寺院ではなく庶民的な寺、門前の商店街もその雰囲気を醸し出しています。
明治の廃仏毀釈で寺域が2割程度になったことは痛手でしたが、
周辺のため公園や商業地として積極的に土地を出したのではないかと思います。
行基・空海の時代は多分に伝説的ですが、市内最古の名は揺るがないでしょう。
訪れた弘明寺では花祭りで甘茶の接待中でした。
茶に砂糖を入れるのではなく、甘茶という植物の葉だとか₍甘茶蔓とは別で甘草の仲間だそうです₎。
相当甘く「じぇじぇじぇ」となります₍←古い₎。
生まれて初めてお釈迦様の像にも甘茶を掛けて願掛け。
その後は、商店街を通り家に向かいましたが、大岡川沿いの桜も満開。日ノ出町付近と共に今日明日がピークでしょうか。

京急弘明寺駅を南に出るとすぐ屋根が視界に

京急改札出口付近の光景

仁王門
江戸時代に建てられ商店街の突き当りにある。

本堂へは石段を登る

重文・十一面観音立像を祀る本堂

本堂の扁額

本堂と桜

甘茶の接待 ¥100

釈迦が生まれた時、甘い雨(飴なら分かるが)が降ったという伝説から甘茶を掛ける習慣になった

弘明寺御朱印

大岡川に架かる弘岡橋と観音橋の間の親子階段付近

観音橋付近の桜

日ノ出町付近の大岡川

横浜六ッ川一郵便局 ; 重文・弘明寺十一面観音立像、弘明寺公園
横浜南、横浜宿町、横浜弘明寺 の図案も同一
横浜大岡郵便局 ; 大岡川桜並木、コイ、白鷺
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<コース> 京浜急行電鉄・バスともに日中は頻発
京浜急行横浜 → 新逗子 → 京浜急行バス海岸回り葉山一色行き

森戸大明神
京浜急行の「みさきまぐろきっぷ」はお得なきっぷロングセラーですが、他に「葉山女子きっぷ」なるものがあり
男性も利用できるとか。近場ながら行く機会がなかったので、一度行って見ることに。
御用邸とマリーナくらいしか知りませんが、森戸大明神は森戸川の河口に突き出た森戸岬。
三方を海に囲まれた見晴らしの良い場所にあります。
御祭神は大山祇命と事代主命。由緒に拠ると、
『治承四年(1180年)、伊豆の蛭ヵ小島で源氏再興を祈願した源頼朝は信奉する三嶋明神を勧請し森田大明神にした。』
とあります。
一見新しそうですが由来は古かったのですね。
その後も三代実朝、四代頼経と鎌倉将軍が自らこの地を訪れ流鏑馬・笠懸・相撲等を行ったとか。
武士の嗜みではありますが、やはりここの景勝に惹かれた所もあったかと思います。
その後も、三浦・北条・足利の諸氏からも崇敬を受け、江戸時代になると徳川家康から社領七石の寄進を受けました。

海岸から江ノ島を望む
2010年のオリンピックのヨット競技はこの辺りか?

裕次郎灯台と明神鳥居

森戸神社へのみそぎ橋

森戸神社本殿

境内の鯛みくじ 引いた結果は「小吉」。

森戸大明神説明書

森戸神社御朱印
江戸・明治期を通じても著名人が訪れますが、
明治十年代になって東大医学部のベルツ博士、イタリアのマルチーノ公使が訪れて絶賛。
以後、御用邸や別荘が立ち並ぶことに。
外国からの目線で見た訳ですが、何事にも周囲の意見を気にする日本人の気質も伺えます。
葉山御用邸の一部は現在しおさい公園となって見学可能。すぐ横は警察があって、治安も良く綺麗に整備されています。
「森戸泉に囲まれて♪」とはいきませんでしたが、富士山の見える場所ありと見所の多い街でした。

昼食は海辺のレストラン La-plage にて
かぼちゃのスープ

魚の湯葉包み

左;アーモンドのブラマンシェと季節の果物のゼリー包
右;季節のアイスと金柑のゼリー添え

葉山一色郵便局
明治35年建築の西洋風建造物

葉山しおさい公園博物館入口 ¥300
旧葉山御用邸付属邸車寄せ

しおさい公園庭園

しおさい公園庭園

しおさい公園庭園

しおさい公園庭園

庭園内の木蓮

庭園内の桜

葉山一色郵便局 ; 葉山御用邸、別荘群、富士山、江ノ島
葉山堀内郵便局 ; 鎧摺港のヨット、菜島
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR横浜(8:08) → JR国府津(8:59 → 9:10) → JR下曽我(9:17) → 徒歩15分 → 瑞雲寺 → 曽我梅林

龍珠山瑞雲寺(曹洞宗)
気温も上がり二月最初の散策となった今日は下曽我へ。
神奈川県内で東海道本線から御殿場線で一駅ですが、ここからはJR東海の管轄。
昭和九年に丹那トンネルができるまでは御殿場線が東海道本線で、貴人が東京から京都へ向かう際には
国府津の駅まで見送ったと言います。
太平洋戦争時にレールを供出して単線になり戦後もそのまま、本数も1時間毎でかつての面影はありません。

御殿場線JR下曽我駅
国府津から1駅だが、ここからはJR東海管轄。駅舎・車両・スタンプ全てタイプが変わる。

下曽我駅(JR東海静岡支社) 及び国府津駅(JR東日本横浜支社)のスタンプ
龍珠山瑞雲寺(りゅうずさんずいうんじ)は、
『明応元年(1492年)大井山功雲寺5世の仁忠継儀大和尚を開山、相州黒岩城主本多豊前守信親を開基として創建されました。
当初は東200mの丘にありましたが文化年間に現在地に移転、関東大震災で倒壊した本堂は昭和二年に再建されています。』
この寺院は曽我梅林の中心、中河原梅林の中に建っており、境内はもとより周辺には梅が【曹洞宗】植えられています。
梅林は中河原・別所・原と三ヶ所ありますが、ここの梅は実を獲る白梅が主体で規模は45ヘクタールに3万5千本、
梅酒用の白加賀、梅干用の十郎、両者兼用の杉田が御三家です。
紀州のような山ではありませんがなだらかな丘陵に植えられており、やはり【紅梅】がよいのかと改めて思った次第です。
梅まつり期間で梅の香り漂う中、地元の農産物が販売され食事処も併設されていました。
温州ミカンもスーパーの半値程でしたので、1㎏購入というおまけ付。

中河原にある瑞雲寺
曽我兄弟が願文を納めたとか。

本堂 昭和二年の再建。

本堂の扁額

本堂内にある曽我兄弟仇討の浮世絵

瑞雲寺のしおり

瑞雲寺御朱印 墨書でなく印字なので少し滲みが。

梅林と富士山 ポスターの様には上手くいかない。

中河原梅林

別所梅林

藤牡丹という品種

枝垂梅(紅梅)
ここの地名は曽我ですが、日本三大仇討で有名な曽我兄弟が育ったところとか。
曽我十郎祐成と五郎時致の幼い兄弟が工藤祐経を富士の裾野の巻狩りで討ち父親の無念を晴らすわけですが、
背景には領地や政治的なものがあったらしく、政治の道具に利用されたとも言えます。
工藤祐経が一方的に悪者だった訳ではなく、彼の子孫は伊東氏を名乗り後世に日向の戦国大名・飫肥藩主となりました。
因みに日本三大仇討のあと二つは赤穂浪士の討ち入りと伊賀越え鍵屋の辻の仇討だそうです。

曽我氏の邸跡はいまは畑の中

曽我兄弟旧跡

発願の地に建つ兄弟像

本日の昼食は「梅の香うどん」¥500

下曽我郵便局 ; 梅の外枠に市花・梅、傘焼き祭、富士山
[参考書]
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