
蕨城址
今は公園となっている。渋川氏の居城。横には和楽備神社があるが、漢字としては蕨の方が古いと思われる。
25日は研修会。二十三区と思いきや、何故かさいたま新都心。
ここも武蔵国と己を納得させましたが、折角なのでふらふらと中山道をば散策することに。
蕨はかつて足利一門の渋川氏の居城。
いまはベッドタウン化していますが、街道沿いには昔の名残が見られます。

蕨城址公園

蕨宿一の本陣跡
旧中山道沿いに昭和48年モニュメントを復元した。

本陣跡説明板

昔風にリニューアルしてある街道沿いの民家

蕨市立歴史民俗資料館入口

かつての織物の買い継ぎ商人の家屋
今は蕨市立歴史民俗資料館別館。

別館にある本屋


本屋の庭

分館の説明

蕨宿復元模型

江戸末期の蕨は綿織物(双子織)の生産地
職人の作業着「青縞」が有名。

蕨宿の店
蕨は街道沿いの整備に力を入れている
いまでこそ県庁となった浦和ですが、元々は小さな宿場で
明治初期に県庁の建物を建てる余裕があったから選ばれたとか。
山口・宮崎と並んで昭和9年にようやく市に昇格したと言うから今昔の感があります。
名物には縁遠いと思われがちな両市ですが意外なことに江戸期より鰻が名物。
故やなせたかし氏デザインの「浦和うなこちゃん」がマスコットキャラとなっています。
なんでも蕨より先、江戸方面には鰻屋がなく「腹が減って元気が出ないよう~」
と言った旅人は浦和・蕨で精をつけて「元気百倍!」と江戸に向かったとか。
尤も次の板橋宿は遊郭で有名だったので「元気千倍…」と
向かった旅人も多かったのは想像に難くありませんが…。
研修後の夕食は浦和老舗御三家の中村屋(江戸期創業)にて。
昨今の鰻の高騰で高くなったものの江戸よりは大分安め。
平成のサラリーマンはそのあと板橋には行かず、北区を通って帰宅の途につきました。

JR浦和駅前に建つマスコットキャラ

中村屋
旧中山道から少し西にある。

今日の夕食
お重は、¥1900(並)、¥2900(中)、¥3900?(上) これは中。

街道沿いにある山崎屋(江戸期創業)

同じく満寿屋(明治創業)
かつては昔風建物だったが、改装された。チョット残念。

中山道蕨宿にある鰻屋
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】西武池袋(7:05) → (秩父線快速急行) → 西武秩父(8:47) → 徒歩5分 → 秩父鉄道御花畑(8:59) → 和銅黒谷(9:08→9:41) → 皆野(9:44)
皆野駅前(10:25) → (皆野町営バス 日野沢線) → 札所前(10:49) → 徒歩3分 → 水潜寺 → 札所前(11:24) → (皆野町営バス 日野沢線) → 皆野駅前(11:48)
皆野 → 徒歩5分 → 円福寺 → 徒歩15分 → 万福寺 → 徒歩5分 → 親鼻(13:31) → 長瀞(13:37) → 長瀞観光案内所 → レンタサイクル → 宝珠山神社・長瀞七草寺
【復路】長瀞(16:25) →(秩父鉄道・西武直通) → 西武池袋(18:33)

荒川のライン下り
長瀞といえばライン下りで有名な川越と並ぶ埼玉県下の観光名所ですが、
寺院に関しては秩父札所も町内にはなく、寺院も小規模で観光的要素が乏しいのが欠点。
そこで観光客誘致に向けて秋の七草を植えた長瀞七草寺霊場が昭和60年(1985年)に正式オープン。
長瀞観光の新名所にしようという地元の悲願が感じられます。
先ず宝登山神社の左手にある長瀞山五大院不動寺へ。
1975年秩父札所午歳総開帳前に始まった長瀞火祭荒行を契機として1980年に建立された新しい寺院。
ここは撫子が有名となっていました。

長瀞不動寺
撫子の寺。無住のため地元の方が維持管理されている。

境内の撫子(ナデシコ科)

カーネーションもこの仲間

不動寺御朱印
次に橋を渡って野上駅の向こうに行くと、金玉山多宝寺(きんぎょくさんたほうじ)。
お金に関係がありそうな派手な名前ですが、由緒は古く真言宗で元享元年(1321年)の開創。本尊は十一面観音。
住職は幕末まで三峯山観音院の住職を兼ねたという名刹です。
ここは桔梗が有名ですが桔梗の時期は過ぎていたので、別の花を見ました。

金玉山多宝寺

多宝寺本堂前の景色
桔梗寺だが桔梗は終了。境内には紫色の花を付ける草木が植えられている。写真は紫苑。

多宝寺御朱印
再び長瀞方面へ向かうと、金嶽山法善寺(きんがくさんほうぜんじ)。
文明8年(1476年)の創建で本尊は阿弥陀如来。
天神山城主の藤田康邦が開基とされます。ここは藤袴の寺でした。

金嶽山法善寺
ここは藤袴と枝垂桜が有名。

藤袴(キク科)
藤色で、花弁が袴に似ていることが由来。

境内の藤袴

藤袴近影


吾亦紅(われもこう)
束子みたいですが「私も紅色です!」とアピールしているのが名の由来。

法善寺御朱印
この日の最後は線路沿いの東谷山真性寺(とうこくさんしんしょうじ)。
真言宗で女郎花の花。漢字で書くとギョッとしますが、由来は美女(おみな)を圧倒する(へし)美しさに由来し、
花言葉は「約束を守る」といたって健全な意味です。
いずれも大伽藍ではなくお堂が中心。住職が不在の場所もありますが、地元の人が中心に維持管理されているのが特徴。
全行程でも18㎞程度で1日で巡礼するのは十分可能ですが、この日は午後という事もあり、長瀞付近の四ヵ寺のみ。

東谷山真性寺

女郎花(オミナエシ科)
黄色い花を付ける。

男郎花(オトコエシ)
こちらは白い花を付ける。

真性寺御朱印
丁度秋の七草寺巡りの最終に当たっていたので、駅からレンチャリで4ヵ所巡礼。
秋の萬葉集で山上憶良が詠んだのが有名ですが名前は知っていても実物を見る機会は意外とありません、
というよりも咲いていても気が付かない事が多いのが現実でしょう。この際、しっかりと覚えることにしました。
地味な花が多いですが、撫子・藤袴・女郎花等優雅な名前が多く、詠まれるのも成程と思います。
因みに古今集以降、桜が圧倒的ですが、萬葉集では萩が最多(咲いた)だそうです。

巡礼を終えて秩父長瀞駅へ
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
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【往路】西武池袋(7:05) → (秩父線快速急行) → 西武秩父(8:47) → 徒歩5分 → 秩父鉄道御花畑(8:59) → 和銅黒谷(9:08→9:41) → 皆野(9:44)
皆野駅前(10:25) → (皆野町営バス 日野沢線) → 水潜寺 → (皆野町営バス 日野沢線) → 皆野駅前(11:48)
皆野 → 徒歩5分 → 円福寺 → 徒歩15分 → 万福寺 → 徒歩5分 → 親鼻(13:31) → 長瀞(13:37) → 長瀞観光案内所 → レンタサイクル → 宝珠山神社

寶登山神社
御社殿の龍の彫刻
結願札所巡礼を終えと昼前、帰宅には惜しいと巡礼を続行。
長瀞方面へ行く事にしましたが、昼食後は列車まで時間があったので隣の親鼻まで歩きながら町内を散策。
駅のすぐ西にある平量山円福寺(ひょうりょうさんえんぷくじ)は秩父地方最古の仏跡と言われる古刹。
平将門の創建と伝えられます。敗走した将門は秩父の城峰山に落ち延び、そこで下野国押領使藤原秀郷に
討たれたという伝説が。一説には討たれたのは将門の弟の将平とも言われ
境内には将平と畠山重忠の父重能の墓と言われる二基の五輪塔が残っているとか。
真偽のほどは分かりませんが、関東の威勢を中央に知らしめた将門と秩父氏の流れを汲む畠山氏を
寺の由緒に結びつけた感はあります。

平量山 円福寺(真言宗)

円福寺御朱印
親鼻駅に近づくと右手にお寺の案内があったのでここも立ち寄り。
西光山万福寺(さいこうさんまんぷくじ)は秩父十三仏の不動尊を祀る寺。
本尊の脇立ちという扱いですが、お不動さん参りの人で賑わいます。
このような由緒ある二寺ですが、建物全体が新しい事と境内が広い事で古刹の雰囲気はありませんでした。

西光山万福寺山門

万福寺本堂

万福寺御朱印
長瀞駅でレンタサイクルを借り、西へ1㎞ほど坂を上った所に鎮座するのが寶登山神社(ほどさんじんじゃ)。
秩父神社・三峰神社と共に秩父三社の一つ。古くから農商の神・火防盗難除けの神として関東一円の信仰を集めてきました。
唯、神社自体は新しく明治2年(1869年)の再建。本殿・幣殿・拝殿より成る権現造で、
欄間には多くの彫刻が【ほど】こされています。社伝に拠れば、
『日本武尊が東征の折、宝登山玉ノ泉で禊ぎをした後、山に登ると賊の放った火に囲まれた。
その時、巨犬が現れ身を挺して火を消し止め、命を無事山頂まで導いた。
後にその犬が大山祇命の使いであることを知った命は大山祇命と火産霊神を祀った。
これが宝登山神社の由来で、名前は火を止める「火止(ほと)山」、或いは和銅の精錬のあった「火所(ほと)山」に由来する。』
とあります。
火攻めは古代では有効な戦法。日本武尊は駿河の地でも敵に焼き討ちを受けますが、
その時は持っていた剣で草を掃って危機を脱しました。そこから焼津、草薙の剣の名前ができた訳ですが、
今回剣は使用せず。東征中ならば携行していた筈ですから、なにか使えない事情があったのでしょうか?
山麓には本殿が、山頂には奥宮は鎮座されていますが、元来は山自体を御神体とする自然信仰の可能性が大。
山麓と山頂に社がある理由として日本武尊の東征と山頂への遥拝の伝説を創ったとも思えます。

寶登山神社入口へ到着

長瀞 寶登山神社
110年、景行天皇の御代に創立。御祭神は神日本磐余彦尊(神武天皇)。

寶登山神社御社殿の龍の彫刻

二十四孝を描いた欄間

欄間の説明

寶登山神社 参拝のしおり

寶登山神社御朱印
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週刊 神社紀行 46 秩父三社 秩父神社 三峰神社 宝登山神社 秩父まほろばの神々 中古価格 | ![]() |

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【往路】西武池袋(7:05) → (秩父線快速急行) → 西武秩父(8:47) → 徒歩5分 → 秩父鉄道御花畑(8:59) → 和銅黒谷(9:08→9:41) → 皆野(9:44)
皆野駅前(10:25) → (皆野町営バス 日野沢線) → 札所前(10:49) → 徒歩3分 → 水潜寺 → 札所前(11:24) → (皆野町営バス 日野沢線) → 皆野駅前(11:48)

日沢山 水潜寺(曹洞宗 秩父三十四ヵ所札所結願札所)
長月最後の土曜日、残った秩父34ヵ所を巡礼。34番水潜寺は、皆野駅から山道を8㎞行った先。
結願札所は谷間の樹林に囲まれた静かな場所で、神秘的な雰囲気が漂います。
日沢山水潜寺(にったくさんすいせんじ)は、秩父三十四ヵ所の結願札所。
本堂の右手には「水くぐりの岩屋」と呼ばれる石仏のある岩窟があって湧水が。
巡礼者はここの水で身を清めて巡礼を終えるのが習わし。水潜寺の寺号はここから来ました。
本堂は文化11年(1814年)の再建。信者の供米の売却金を元にしたと言われ、
格子戸の上には極彩色の飛天、天井には花鳥が描かれています。
本堂前には「お砂踏み」の台があって、昭和29年1954年に当時の住職が全札所を回って集めた砂が入れてあります。
この上で、阿弥陀如来・薬師如来・千手観音を拝めば百観音巡礼した功徳があるとか。
いつの世でも楽をしようとする人は居るものですが、交通機関が未発達の時代は札所巡りも
一生の間に成就できるかどうかの大仕事。今とは違った見方が必要です。
御朱印は本堂横で拝受。若い住職が対応して下さいました。

秩父鉄道和同黒谷駅ホーム
ここで採掘された銅が最初の貨幣和同開珎に使われたそうで、ホームにはモニュメントが。マンホールではない!

和銅黒谷駅舎

秩父鉄道皆野駅前にて
水潜寺へはここからバスに乗車。

札所前バス停の渓流

渓流の岩

日沢山水潜寺入口
秩父34ヵ所結願だけでなく、西国・坂東33カ所も含めた百カ寺の結願。参道では石仏さんがお出迎え。

入口の寺標

満願に向けて参道を行く

水潜寺讃佛堂
ここで若く話上手なお坊さんから御朱印を拝受。

観音堂(本堂)
方形屋根、四間四面の建物で寛政の頃の建造。手前には百観音のお砂踏みがある。

観音堂前面

観音堂前面の彫刻

水潜寺の奥へと続く道
崩落の恐れがあるため通行禁止。左手にあるのが寺名の由来となった清水の湧く岩屋。

水潜寺境内の湧き水
岩屋から引いた水潜りの天然水で、これが寺名の由来。右のお不動さんに3回かけて3回願い事をするとか。

湧き水

水潜寺境内
俳句協会会長の金子兜太氏は皆野町の出身なので投句ポストが彼方此方に。

水潜寺御朱印
札所までの町営バスは1日5本。【日に沢山】には程遠い数でしたが、このバスに乗って札所前で下車すれば、
巡礼を終えた頃合いに、折り返しのバスで駅に帰る事ができました。難所を予想していましたが、あっけなく成就。
同時に関東地域御朱印帳も3冊目が終了というマンガのような落ちになりました。
皆野駅に戻ったのは丁度昼前。秩父路の昼は蕎麦で済ますことが多かったのですが、満願したので川魚料理と奮発。
こちらも【鰻願】となった一日でした。

皆野駅前の「坂本屋」にて「川魚料理」を食べ鰻願成就

丸1匹入って¥2800で、東京よりも¥1000程安め。

駅前にはもう1件「川魚料理」の店「吉見屋」もあり次回はこちら?

皆野町マンホール蓋
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【往路】西武池袋(6:50) → (特急ちちぶ) → 西武秩父(8:14)
西武秩父駅(8:25) → (西部観光バス G2系統) → 栗尾(9:17) → 観音院 → 栗尾(11:05) → (西部観光バス G2系統) → 小鹿野町役場(11:13)
レンタサイクル35分 → 法性寺 → レンタサイクル50分 → 菊水寺 → レンタサイクル10分 → 博物館 → レンタサイクル40分 → 小鹿野町役場
【復路】小鹿野町役場(15:59) → (西部観光バス G2系統) → 西武秩父駅(16:34) → 西武秩父(16:51) → 西武池袋(18:33)

延命山 菊水寺(曹洞宗 秩父三十四ヵ所第三十三番札所)
法性寺参拝を終え次の札所へ向かうと、周囲も山から平野になり赤平川に沿った田圃の中を走り目的地へ到着。
前の二ヵ寺が山寺風なのに対し、ここは町の中にある普通のお寺と言った様子。
しかも道路沿いの寺標には何故か「大桜山長福寺」とあります。ここではないのかとお寺の人に尋ねると間違いなくこのお寺。
なんでもかつて菊水寺は小坂下という場所にあり、別当として管理していたのが長福寺。
その後、永禄12年(1569年)に武田信玄の焼き討ちに会い菊水寺は焼失。
本尊だけが無事で長福寺に移されたというのがその理由だそうです。
延命山菊水寺(えんめいさん きくすいじ)は、
かつての場所に「菊水の井」という名水がありそれが寺号の由来。
延命山の山号もその名水が延命に【効く水】だったからでしょう。
それならいっそ名前を変えれば良いとは思いますが、札所としての歴史があるので簡単には変更できなかったのか、
それとも【長福】を避けたのか…。

大桜山長福寺とある寺標

丁度、巡礼ツアーのバスが到着

1820年再建の菊水寺本堂

菊水寺御朱印

菊水寺門前の旧巡礼宿
明治期まで「婦ぢや」の名で営業。
またこの辺りは「ようばけ」と言われる地層とパレオパラドキシア初め化石の宝庫。
埼玉県は海無し県ですが、かつては海だったようで、【ナンモナイト】思っていたので吃驚。
秩父はセメントの産地ですが、石灰岩は生物の遺骸。意外に思うのが間違いでした。
昼食は地元小鹿野で採れた鹿肉の丼。いつも蕎麦の巡礼ですが、化石の宝庫だけに、御【地層】にありつけた一日でした。

「ようばけ」 のある赤平川付近

ようばけ
赤平川右岸にある。陽の当たる崖が訛ったもの。新生代第三紀の堆積。高さ100m、長さ400m。

ようばけの拡大
新生代第三紀中新世(1500万年前)の砂泥互層。

ようばけ説明板

おがの化石館にて
かつて海だった何よりの証拠。

おがの化石館のパレオパラドキシア
右下は復元図。昔見たデスモスチルスに似ているが別種だそう。名前は「古代の矛盾」 と言う意味である。

小鹿野町街道沿いにある旅館の越後屋

浅見商店
かつては紡績の糸を扱っていたとある。

常盤屋

村上酒店

和菓子司
歌舞伎が盛んな場所柄がポスターにも反映。

昼食は 「元六」にて ジビエの鹿味噌漬とフライ+蕎麦(¥1360)
鹿は害獣として駆除されたもの。新聞紙上でも取り上げられており観光の目玉となるか?

デザート ¥550
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【往路】西武池袋(6:50) → (特急ちちぶ) → 西武秩父(8:14)
西武秩父駅(8:25) → (西部観光バス G2系統) → 栗尾(9:17) → 徒歩35分 → 観音院山門 → 徒歩10分 → 本堂 → 栗尾(11:05) → (西部観光バス G2系統) → 小鹿野町役場(11:13)
レンタサイクル35分 → 法性寺

般若山 法性寺(曹洞宗 秩父三十四ヵ所第三十二番札所 東国花の寺百カ寺埼玉第三番)
観音院巡礼を駆け足で終えて、数少ない路線バスで小鹿野町役場下車。
続く札所は離れていますが、比較的平地なので役場でレンタサイクルを借りの巡礼。
休日も対応して頂き感謝ですが、それだけ需要があるのでしょう。
街中から山里を思わせる道を暫く行き、道の両側に秋海棠が咲き誇る場所に来ると寺標が。
更に進むと札所唯一の楼門がお出迎え。

巡礼道を行くと寺標が

道沿いには秋海棠が咲き誇る

法性寺門前の秋海棠の花。
ご住職の話では、植えたものとの事。

享保4年(1710年)建立の仁王門
秩父札所では唯一の鐘楼門で楼上は化粧屋根になっている。
般若山法性寺(はんにゃさんほうしょうじ)は、縁起に拠ると
『奈良時代の行基菩薩の創建と伝えられるが、文書に拠る記録は貞永元年(1232年)眼応玄察和尚が最初で、
彼が事実上の開山とされる。江戸時代には智外宗察が曹洞宗に改宗し、現在の形に伽藍を整えた。
山号は、かつて寺を訪れた僧が一夜のうちに膨大な般若経の全てを書き写した事から。
また奥の院にある船型をした巨大な岩石に観音様が祀られていることから“お船観音”と称される。』
とあります。
説明に拠れば、奥の院の岩は巨大な船の形をしており、その形から観音様が乗って来たという信仰が生まれたと思えます。
交野の磐船神社にも通じる話で、古代人が超自然的な形状のものを崇拝した名残が連綿と受け継がれているという事でしょう。
これは是非とも奥の院参拝と思いましたが、急斜面で1時間半かかると聞き今回は断念。
意志の弱い巡礼者ですが、次回に持ち越しとなりました。
秩父札所に加え東国花の寺にもなっているだけあって境内には至る所に植物があり、草木の中に建物がある感じでした。
春はミツバツツジ、夏は苔が有名だそうですが、今の季節は秋海棠で山門までの道も含めてピンクの花がお出迎え。
秋海棠を見ながら周回して堂宇を参拝。
秋に入ったばかりですが、見頃な秋海棠で賑わう武州街道ではありました。

仁王門を過ぎ本堂と寺務所を仰ぐ

本堂への石段を上る

観音堂へと続く石段
脇には秋海棠が咲く

石垣にはイワタバコも

これは蘭の仲間か?

境内の萩
花の寺だけに境内には至る所に草花が植えられている。

木立の向こうに見える観音堂

観音堂近影
宝永4年(1707年)造営の三間四方の懸崖造り。

観音堂正面の扁額 「般若堂」

観音堂奥のお地蔵様
此処も岩盤の下に祀られている。ここのお地蔵さまは子授けの御利益があるとされる。

法性寺本堂
ここも築300年。

御朱印はこちらで拝受

草木に囲まれた境内

法性寺を代表する秋海棠の花

法性寺のしおり

法性寺御朱印
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西武秩父駅(8:25) → (西部観光バス G2系統) → 栗尾(9:17) → 徒歩35分 → 観音院山門 → 徒歩10分 → 本堂 → 栗尾(11:05) → (西部観光バス G2系統) → 小鹿野町役場(11:13)

鷲窟山 観音院(曹洞宗 秩父三十四ヵ所第三十一番札所)
・百里を行く者は九十をもって半ばとす 「戦国策」
この日は重陽の節句。
秩父34ヵ所巡礼も、最初の1日で18ヵ寺、2日目で12カ寺とハイペースで来ましたが、30番目を過ぎた辺りからペースダウン。
私も30過ぎてからは「出歩くペースが落ちた」ので人間も巡礼も30が一つの山という事でしょう。
今回は秩父市ではなく駅からバスで揺られること50分の小鹿野町。
終点の栗尾バス停から2.7㎞の坂道を上った先にある寺に徒歩35分でようやく到着。

門前までの途中で見かけた高粱?

同じく道端の茅

途中にはこんな店も
鷲窟山観音院(しゅうくつさんかんのんいん)は、寺伝に拠れば、
『本尊の聖観世音菩薩は行基の作であったが、平将門の乱で所在不明になった。
その後、源頼朝の家臣畠山重忠がこの地で狩猟をした際に、家臣が梢の鷲の巣を射ると矢が跳ね返った。
不思議に思った重忠が巣を調べると、行方不明だった観音像が出たので、奇縁に思い堂宇を建立した。』
とあります。
山号の謂れでもある不思議な話。寺は山中にあり、境内一帯は岩に覆われています。
矢が跳ね返ったのは岩に当たったためで、それを奇瑞に結び付けたのでしょう。
日本一と言われる仁王石像の山門を潜り300段の石段を上ると本堂に到着。
本堂横の滝の左手の岩場には空海が一夜にして彫ったという千体の磨崖仏があって通称「爪彫りの磨崖仏」と呼ばれます。
超人弘法大師をアピールするためでしょうが、いくら何でも爪で岩を彫るのは困難。却って【まがい】物と思われかねません。
入口の仁王像も石像ですが、余り大きいので門が【しゅうくつ】ではないかと余計な心配をしてしまいます。
ほかにも境内には石仏群があって、両側が山に迫った場所と石質のため古代より多くの仏様が彫られたのでしょう。
縁起を読む限り、演技ではないかと思われる箇所もありましたが、胎内くぐり・鎖場・展望台もあって秩父札所では
初めて秘境に分け入った感触でした。

観音院入口にある仁王門

仁王像近影
台座を入れると4mと日本最大の石造の仁王像で明治元年の作。

本堂までの296の石段

石段途中の秋海棠の花

観音院説明板

三方を岸壁に囲まれた場所にある観音院本堂
本尊は鷲の巣から再発見された観世音菩薩で堂宇はコンクリートによる近年の再建。

観音院本堂脇の30mの聖浄の滝

不動明王

滝の左の「爪彫りの磨崖仏」

納経所奥の新生代第三期の地層
花崗岩質砂岩と礫岩が互層になっている。

東奥の院への参道から本堂と滝を望む

東奥の院

東奥の院の岩盤の下にある石仏群
畠山重忠の駒繋ぎとあるがこんな断崖まで馬を乗り入れたとは驚き!

東奥の院からの眺め

観音院御朱印
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東急横浜 → (東急東横線・副都心線・東武東上線) → 東松山 → 徒歩20分 → 岩室観音堂・吉見百穴 → 東松山 → 朝霞台 → JR北朝霞 → JR新座 → 徒歩15分 → 平林寺

金鳳山 平林寺(臨済宗妙心寺派)
昼からは東武東上線とJR武蔵野線を乗り継いで新座市へ。
東京都に接した新座市ですが、市内には広大な樹木が茂り武蔵野の面影を留める場所があります。

JR新座駅前から続く野火止緑地散策路

水路には泥鰌も!

平林寺へ向かう

昼食は平林寺門前の「手のべうどん たけ山」にて

門前にしては珍しく蕎麦ではなくうどんが有名

昼食後のデザートは台湾風かき氷
金鳳山平林寺(きんぽうざんへいりんじ)は関東屈指の古刹で禅道場。寺伝では、
『天授元年(1375年)武蔵岩槻城主の太田道真(道灌の父)が石室善玖禅師を開山として岩槻在平林寺村に創建。
戦国時代に伽藍を焼失するが、徳川家康の庇護を受け天正20年(1592年)に鉄山宗純禅師により中興。
後の寛文3年(1663年)には川越藩主松平信綱の遺言に従いの嗣子輝綱が野火止の地に移し、一族の菩提寺とした。』
とあります。

平林寺総門付近
敷地総面積45haとか!

平林寺総門前にて
境内全体が平林寺境内林として天然記念物に指定されている。

拝観入口より見上げた総門
「平林寺専門道場」の看板が。

扁額「金鳳山」は石川丈山の揮毫
金鳳山とは開山の師が住まいした金陵(南京)鳳台山保寧寺に由来する。

350年以上の風雪に耐えた平林寺山門
岩槻から野火止に移転した際にも解体され運ばれた。左右の金剛力士像は電力の鬼と言われた実業家松永安左エ門の寄進。

山門脇の樹齢500年の高野槇

山門に続く仏殿
茅葺で本尊の釈迦如来像は創建時の物、脇侍は松平信綱の寄進に拠る。扁額は「無形元寂寥」。

仏殿の先にある中門
この向こうが明治13年再建の本堂で、総門から本堂まで一直線上に配置されている。

中門から見た仏殿裏側

仏殿の脇を抜け境内林に向かう

境内林への入口
松平伊豆守信綱は、大河内松平家初代。
3代将軍家光、4代将軍家綱に仕え幕政を支え「知恵伊豆」の異名をとった切れ者。島原の乱を鎮めた事でも知られます。
また川越藩主としても治政を上げましたが、水源が乏しい武蔵野の地に玉川上水から野火止用水を分水した事は
この地域の発展に貢献しました。今も町中を流れる野火止用水に沿って散策できます。
費用と年月のかかる大工事ですが、さぞかし知恵を絞ったことでしょう。
野火と言っても【ドラえもん】が助けてくれた訳ではありません。
菩提寺となった平林寺境内にも野火止用水が流れますが、加えて43ヘクタールにも及ぶ雑木林があり 「平林寺境内林」
として国の天然記念物に。境内に樹木があるのは珍しくありませんが、これだけの広さは稀。
松平伊豆守が将来に開発で自然が失われる事を想定して確保したとは思えませんが、
結果的に街中にあって武蔵野の自然を今に伝える貴重な場所になっています。

「島原の乱」供養塔
乱の200年遠忌に犠牲となった人々の為に建立。

境内を流れる野火止用水

大河内松平家廟所
三千坪の墓域に160基余りの一門の墓石が並ぶ。

境内林を散策
武蔵野の風景を象徴する雑木林

境内林内にある業平塚
東下りでここに来たとか来なかったとか。


境内林内にある野火止塚
ここから野火を見たとか。


水路は境内を巡る

仏殿脇の放生池
保全のためもあり、拝観料が必要。受付で御朱印を尋ねると住職夫人が
夫人;「以前はしていましたが、ある時他人の御朱印を間違って持って帰った人がいて、それ以降しなくなりました。」
との答え。関東第一の道場を期待していましたが残念。しかし、夫人の言われるには、
夫人;「入場券が御朱印の形なので、そのコピーを貼付して貰えれば大丈夫です。」 との事。
成程、そういえば御朱印に見えるので納得。25年間で初めての経験でした。
それから今でも大河内松平家の方が見えるそうで、生前は女優の河内桃子さんも毎年来られたそうです。
「すらっとした長身でお綺麗な方でした。」とは住職夫人の談。
当時の女性としては長身の170㎝、祖父である理化学研究所創設者大河内正敏氏はいつも一緒に連れて歩いたとか。
こうして今は農業だけでなく他では見られない武蔵野の自然に触れることができ巡礼も無事終了。
♪夏が過ぎ昼下がり♪
【用水】のお蔭で少年時代を思い出した一日でした。

平林寺説明書

御朱印の代わりにと言われた拝観券
「松樹千年翠」とある。

平林寺総門向かいにある睡足軒
江戸時代は高崎藩陣屋。昭和には財界人松永安左エ門が屋敷を建てる。現在は平林寺所有。

睡足軒の建屋
三茶人の一人だけに質素な造り。

野火止用水上流付近
ここは桜並木になっている。

野火止用水史跡碑

新座郵便局 ; 平林寺山門、楓、桜、梅

新座大和田郵便局 ; 平林寺山門、梨
新座片山郵便局 ; 平林寺山門、市花・コブシ、県蝶・ミドリシジミ、クヌギとノコギリクワガタ
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東急横浜 → (東急東横線・副都心線・東武東上線) → 東松山 → 徒歩20分 → 岩室観音堂・吉見百穴

岩室観音堂
週末も天気がいまひとつ。そこで2年前吉見観音巡礼の途中スルーした穴場を訪問する事に。
吉見町は比企の丘陵地帯。比企丘陵及び吉見丘陵は凝灰岩質で周囲には加工し易い場所が【比企】も切らず、
道脇には石仏などが鎮座されています。
岩室観音堂は弘仁年間(810~824年)に創建されたと言われ、歴代松山城主の侵攻もとい信仰を受けました。
88体の石仏が安置され四国八十八ヵ所と同じ功徳が得られると言われますが今は無住。堂だけがひっそりと残っています。
未だ崩壊してはいませんが、このままだと朽ち果てる運命なので、何某かの手を打つ必要があるのではないでしょうか?

東京駅を模したような東武・東松山駅
行先は吉身町だが、東松山市から東へ歩く。

岩室観音堂山門
風格はあるが風化が進んでいる様子。

岩窟内のお地蔵様群
境内という広さはなく、自然をそのまま利用したと言う表現がピッタリくる。
観音堂すぐ北側の吉見百穴(よしみひゃくあな)は江戸時代から知られていましたが、明治期になって本格調査。
帝国大学の坪井正五郎博士がコロボックル住居説を唱えましたが、いまでは古墳末期の墳墓というのが定説です。
百穴と言われますが、全部で219穴。長期に亘って使用されていた事から推測するに住み心地が良く、
【あなーきー】な状態ではなかったということでしょう。
古墳時代は墳墓として用いられた百穴も戦時中は軍需工場の一部として中島飛行機の地下工場に。
そのため数十基の穴が破壊されました。
工場は終戦後も稼働していたらしく、半島から出稼ぎに来ていた最後の人が辞めると同時に閉鎖。
国へ帰るので送別会を開き、その人が返礼に植えた木が今も残っています。戦時とはいえ心温まる話ではあります。
このように波乱万丈の変遷を経ていますが、いまは観光地として第三の人生?を歩んでいます。
古代の遺跡と現代の戦跡が共存しているのも奇妙なものですが、どちらも目を背ける事のないようにしないといけませんね。
見学後は、マンホールカード貰いましたが、これも穴繋がりでしょうか?

吉見百穴
実際は219穴ある。右下は軍需工場跡地への入り口

百穴説明板

地下軍需工場への入口
中島飛行機の大宮工場を移転したらしい。

軍需工場跡地
サスペンスドラマや仮面ライダー等の撮影で使われたとか。ああ、しょっかー!

百穴近影
穴の広さは3㎡程。大化薄葬令の影響か?

百穴にあるヒカリゴケ
関東では珍しいとされ、国の天然記念物に指定。

百穴の上から東松山市を望む

吉身町マンホールカード 配布場所は吉見百穴

東松山郵便局 ; 史跡・吉見百穴、箭弓神社境内の狐、牡丹
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JR横浜(6:37) → JR宇都宮(8:58) → 宇都宮西口(9:20) → 関東バス大谷立岩線 → 大谷観音前(9:46) → 大谷資料館・大谷観音 → 大谷観音前(11:43) → 関東バス大谷立岩線 → 宇都宮西口(12:09) → JR宇都宮(13:33) → JR大宮(14:41→14:45) → 東武豊春(15:01) → 徒歩20分 → 慈恩寺 → 徒歩20分 → 東武豊春(16:15) → 東武大宮(16:32→16:40) → JR横浜(17:49)
宇都宮の後は都心に戻りますが、少し時間があったので埼玉県で唯一残った札所へ巡礼。
華林山最上院慈恩寺(かりんざんさいじょういんじおんじ)は県庁のさいたま市の東の岩槻区。他の三ヵ寺が比企にあるのにここだけ外れています。
県庁といってもそれほど繁華ではなく山奥でもなく、不思議な場所です。寺伝では
『天長元年(824年)慈覚大師に拠り開創、大師が入唐求法の折に学んだ長安にある大慈恩寺に因み名付けたとされる。』
とあります。慈覚大師は下野の出身で関東・東北に所縁があるので、ここの開基というのも真実味があります。
かつては十三万坪の敷地と六十六ヵ坊を有する大寺でしたが、江戸・明治期に三度の火災により多くが灰燼に帰しました。
訪れた時は丁度本堂の工事中で、壮大な本堂は足場に覆われて見えず。御朱印は拝受できましたが、御朱印だけに寄った形になってしまいました。
そのまま帰るのはつまらんので境内を歩くと、奥に玄奘塔がありました。寺名の由となった大慈恩寺は唐の太宗李世民が天竺から帰朝した玄奘のために建立した寺。そこで大日般若経の漢訳を行ったと言われます。
仏教経典の漢訳といえば鳩摩羅什と玄奘三蔵が双璧ですが、鳩摩羅什の法華経が意訳であるのに対し、玄奘のものは一字一句丁寧に直訳したことが特徴。
その遺骨は永らく不明でしたが昭和17年に南京郊外で偶然発見され一部が日本に贈られましたが、同じ名ということで昭和25年に奉安されたようです。
札所の現状は工事中でしたが、代わりに仏教界の大立者玄奘三蔵所縁の史跡を見た事で良しとしました。

華林山 最上院 慈恩寺(天台宗 坂東三十三ヵ所第十二番札所)
玄奘塔の入口。

玄奘塔

慈恩寺説明書

慈恩寺御朱印
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横浜(6:13) → (東急東横線+副都心線) → 池袋(6:54→7:05) → (西武快速急行) → 西武秩父(8:47) → レンタサイクル → 西武秩父(16:51) → 池袋(18:33) → (東急東横線+副都心線) → 横浜

十五番札所 : 母巣山少林寺(ははそさんしょうりんじ) (臨済宗建長寺派)
今宮坊から秩父鉄道の線路を渡った所が次の札所。母巣山少林寺(ははそさんしょうりんじ)は石段の上に白漆喰塗の観音堂が建つモダンな寺院。
このような構造になったのは明治11年(1878年)の秩父大火の教訓を生かしたもので川越の蔵造りに共通するものがあります。他の寺院でもそうしたかったのでしょうが、お金が掛かるため難しいところがあったと思います。
御朱印を御願いすると、若い御住職が
住職;「関西の方ですね。」
和辻;「そうですが、御住職もそうですか?」
住職;「私はここの寺の出身ですが、大学が京都の花園だったので、お寺関係の友人は大部分が関西です。」
との事。私も驚きましたが、先方も秩父の巡礼で関西弁を聞くとは思わなかったのでしょう。暫く関西談議で盛り上がりました。

少林寺御朱印
続いては再び線路を越えて無量山西光寺(むりょうさんさいこうじ)へ。
秩父札所では珍しく真言宗豊山派の密教系寺院で、山門をくぐったところにある本堂は宝永7年(1710年)の建造。
本堂内には釈迦涅槃像、本堂脇には四国八十八ヵ所霊場回廊がありますが、変わったところでは酒樽大黒天。名前の如く酒樽の中に大黒天が祀られていますが、一体なにを祈願するのでしょうね。お酒が【無料】で飲めたら【西光】ではありますが…。

十六番札所 : 無量山西光寺(むりょうさんさいこうじ) (真言宗豊山派)

西光寺の酒樽大黒天
お堂の中には大黒天が。どんなご利益があるのでしょうか?

西光寺御朱印
実正山定林寺(じつしょうさんじょうりんじ)、現在は十七番札所ですが、室町時代の記録には一番札所だったようです。別名「林寺」、これは地元の林家個人の所有だったためで、現在は町内会が管理しています。
土壇上に建つ観音堂は四間四方の方形屋根、内陣は前と左右を扉で囲い、吹きさらしの念仏回廊で一巡できます。本尊は鎌倉末期の十一面観音立像。
本堂前の銅鐘には西国・坂東・秩父の百観音の本尊が鋳出され、宝暦8年1758年の年号と御詠歌が刻まれています。かつて巡礼中に生んだ我が子を捨てた母親が家に帰ると、捨てた子供とこの寺の本尊が並んでいたとか。
それを後悔した母親が【どうしょう】と鐘を寄進したのがこの鐘の縁起として知られています。残酷な話ですが江戸時代に多かった子殺しを戒める効果があったのでしょう。

十七番札所 : 実正山定林寺(じつしょうさんじょうりんじ) (曹洞宗)

百観音の御本尊が鋳込まれた銅鐘

定林寺御朱印
最後は時間ギリギリになりながら十八番札所の白道山神門寺(はくどうざんごうどじ)にも参拝。国道140号線沿いと言う場所が良かったのでしょう。
観音堂は天保時代の再建で秩父の名工藤田若狭の作。正面の破風が秩父祭りの山車に似ているのは山車を造った棟梁が藤田の血縁であったためとか。
こうしてサイクル巡礼なるものを利用して9時~17時まで回りましたが、いつもの調子で回ったため、気付いたら1日で一番から十八番まで終わってしまいました。
「これはもう少し【西武】せんといかん【所沢】」と反省した次第です。

十八番札所 : 白道山神門寺(はくどうざんごうどじ) (曹洞宗)

神門寺御朱印

今回の巡礼の道にある昔ながらの家屋

秩父市マンホール蓋
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十二番札所 : 仏道山野坂寺(ぶつどうさんのさかじ) (臨済宗南禅寺派)
享保年間建造の山門
常楽寺参拝を終えて再び西武鉄道の線路を越えて小学校の横を行くと仏道山野坂寺(ぶつどうさんのさかじ)。
本尊は高さ1.56mの一木造りの聖観世音菩薩で藤原時代の作。縁起に拠れば甲州商人がこの地で山賊に会った際に観音の名を唱えて一難を逃れたので、後に観音堂を建立したと言われます。
山門は享保年間(1716~1736年)の建造で、重層入母屋造。表の花頭窓の中に閻魔大王が、中には風神雷神等の木造が並んでいます。
悪いことをすると舌を抜かれるという戒めでもあるのでしょうが、怖いと言うよりも賑やかな雰囲気を感じます。
楼門に比べ本堂は新しいですが、明治39年(1906年)に火災で焼失し昭和49年(1974年)の再建。従って古刹の雰囲気は余りしません。境内には珍しく草木が植えられ本堂奥には庭園が造られており、無料で眺めを楽しむことが出来ました。
秩父札所は禅宗寺院が(曹洞宗)ありますが、京都・鎌倉と違い庭園を整備している所は稀なので新鮮な気分になりました。
何故、秩父札所に庭園がないかですが、境内が狭いことが一番のネックでしょうか?唯、盆地自体を一つの庭園と見做すこともできそうなので、敢えて作庭しないとも言えそうです。

野坂寺庭園
臨済宗南禅寺派なのも頷ける

野坂寺御朱印
この後は秩父鉄道線路沿いに御花畑駅まで行くと旗下山慈眼寺(きかさんじげんじ)。ここまで来ると山中ではなく街中の寺といった感じになります。
伝説によれば日本武尊が東征の時、この地に旗を立てたから「ハタノシタ」の地名が生まれ山号もこれに由来するようです。まさか白旗を立てたとは思いませんが…。
観音堂は御他聞に漏れず明治11年の秩父大火で全焼。その後、住職が資金を集めて20年後に再建しましたが、資金確保のために養蚕にも手を染めたそうです。さぞ【ようさん】のお金が集まったことでしょう。
またここには一切経1630巻が保管されていますが、寺の11世全隆和尚が江戸で知り合った近江の百姓治郎兵衛が13年後に再会したことを奇縁として宝暦5年(1755年)に奉納したもの。
再会しただけで奉納するというのも私には理解し難いですが、当時はそれだけ難しかったという証左でしょう。

十三番札所 : 旗下山慈眼寺(きかさんじげんじ) (曹洞宗)

慈眼寺御朱印
慈眼寺から北東へ500m程行くと札所十四番の今宮坊。本来は長岳山正覚院金剛寺(ちょうがくさんしょうかくいんこんごうじ)と言って修験道の本山である聖護院の末寺で平安時代の開創。
元は今宮神社の別当寺として神社の境内にありましたが神仏分離で現在地へ移転しました。最盛期には40人の僧がいたそうです。
本堂は江戸時代の建築で宝形造と呼ばれるもの。内陣の仕切板が折り畳み式でぬれ縁を造れない狭さ故の工夫が凝らされています。
本尊は空海が童子の暗示で刻んだとされる聖観世音像で藤原時代の飛天像もあります。日本の寺院は度々火災に見舞われますが、本尊は持ち運べるため難を逃れたものが多くあります。外国の様に巨大だったらそうは行かなかったでしょう。

十四番札所 : 今宮坊 長岳山正覚院金剛寺(ちょうがくさんしょうかくいんこんごうじ) (臨済宗南禅寺派)
江戸時代の建築で宝形造の本堂。

今宮神社にある「家康駒繋ぎのケヤキ」
樹齢500年、幹周り7.9mで、実際は家康ではなく武運長久を祈願した武士が馬を繋いだとされる。

今宮坊御朱印
[参考書]
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八番札所 : 清泰山西善寺(せいたいさんさいぜんじ) (臨済宗南禅寺派)
昼食後は西武鉄道の線路を渡り、坂を上って次の札所まで。山中にはこの付近で生産された絹を晒したという城谷沢の井や、後北条氏が武田勢に備えて築いた根古屋城跡があるそうです。
その城跡南西にあるのが清泰山西善寺(せいたいさんさいぜんじ)。文歴元年(1234年)の創設とされますが観音堂は幕末の再建。本堂に祀られているのは阿弥陀三尊像で観音様は脇立ち。
札所霊場でありながら不思議な気もしますが、当初は浄土系、天台系の念仏寺院で阿弥陀如来による救いで多くの参拝者を集めていた名残でしょう。今は臨済宗南禅寺派。
本堂前には天正年間に植えられたコミネモミジが樹高9m、幹周り3m、枝張り18mの威容を誇っています。
元々が山地性なのでここまで巨大化するには【生態的】に【最善時】だったのでしょうが、大きな枝ぶりからは本尊が大衆を覆い守る姿が重なります。

本堂前のコミネモミジ
樹齢600年とあるが、天正年間に植えられたともあるので誤差がある。

コミネモミジ全景

西善寺御朱印
続く明星山明智寺(みょうじょうさんあけちでら)は、建久2年(1191年)明智禅師の開基とされる寺。
観音堂は五番札所語歌堂と同じ様式で建立されましたが、明治16年落雷で焼失。その後再建されましたが、茨城の六角堂を髣髴とさせました。
安産・子育ての御利益があり女性の参拝が多い場所ですが、加えて眼病にも御利益があるそうです。
天正の頃、孝行息子が盲目の母親を伴って参拝した所、明けの【明星】の頃に母親の眼がぱっちりと【明智】になったとか。私も一心に祈願しておきました。

九番札所 : 明星山明智寺(みょうじょうさんあけちでら) (臨済宗南禅寺派)

明智寺御朱印
万松山大慈寺(ばんしょうざんだいじじ)は、石段を上った所。
彩色せず木目をそのまま生かした仁王門は古寺の風格が漂います。欄間の龍の彫刻が極彩色なのはその反動なのでしょうか。
本堂には本尊以外にも多くの仏が【大慈】に安置され、明智寺と並ぶ子育て観音として信仰を集めているそうです。

十番札所 : 万松山大慈寺(ばんしょうざんだいじじ)(曹洞宗)

欄間の極彩色の龍の彫刻

大慈寺御朱印
大慈寺から山を挟んで反対側に行くと南石山常楽寺(なんせきざんじょうらくじ)。
開基とされる門海上人が病に倒れた時、夢に現れた金剛神により病が【快気】したことから、病気平癒の寺として信仰を集めています。
また今は曹洞宗ですが以前は天台宗であったため元三大師も祀っています。かつては伽藍が揃っていたようですが明治11年(1878年)の秩父大火で全焼。
観音堂と庫裏が再建されたのは幸いですが、昔を偲ぶ建造物が少ないのは寂しい気がします。

十一番札所 : 南石山常楽寺(なんせきざんじょうらくじ) (曹洞宗)

常楽寺御朱印
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四番札所 : 高谷山金昌寺(こうやさんきんしょうじ) (曹洞宗)
2mの大わらじが奉納された仁王門。因みに仁王は健脚の神とか。
三番札所を過ぎて暫くして赤色の仁王門が見えると四番札所高谷山金昌寺(こうこくさんきんしょうじ)、通称は新木寺(あらきじ)。
札所の中での人気は双璧です。仁王門が札所屈指の大きさなのもありますが、主な理由は境内にある石仏群。全部で1319体あり地蔵・観音・羅漢・不動像と種類も多様。
寛永元年(1624年)、住職の古仙登獄(こせんとうごく)和尚が石造千体を供養のために安置したのが始まり、災害の多かった江戸後期に各地からの寄進が加わりました。当時の様子を知る貴重な資料になっています。
本尊を祀る観音堂の軒下には乳に戯れる嬰児を抱いた慈母観音像がありチチブの人気スポット。
寛政4年(1792年)に江戸の吉野半左衛門が金昌寺に願掛けして子供を授かったものの、妻と子を相次いで失ったため先祖供養で安置したと伝わります。
台座部分に『ミカエル』の銘があるのでマリア観音ではという説もあります。参拝者が最後にもう一度【見返る】からではないのでしょうか?

金昌寺境内にある1319体の石仏
多くは天明3年の浅間山噴火による飢饉の犠牲者を供養するために寄進された。

石仏奉納は関東一円、武士、農民、職人、商人と多岐に亘る

本堂脇にある慈母観音
赤子に乳を与えている図。

金昌寺御朱印
次の札所へは秩父市から横瀬町へ入ります。行く先にぽつんとお堂が見えるのが語歌堂(ごかどう)。
長興寺の大檀家であった本間孫八が慈覚大師作とされる准胝(じゅんてい)観世音菩薩を安置するため堂を建立したのが嚆矢。
准胝(じゅんてい)観世音菩薩は西国札所の上醍醐寺と語歌堂のみで、寺号は和歌を嗜んだ孫八が聖徳太子の化身である旅人と問答したことから名付けられたとか。
ここは無住ですぐ近くにある長興寺が管理していたので拝受しました。

五番札所 : 語歌堂(ごかどう) 小川山長興寺(おがわさんちょうこうじ) (臨済宗南禅寺派)

御朱印は250m離れた長興寺にて

語歌堂御朱印
続く向陽山卜雲寺(こうようさんぼくうんじ)は正面に武甲山が見える景勝地。
寺の開基が卜雲源心庵主であったことが寺号の由来、本尊は武甲山山頂の蔵王権現から移されたもの。
武甲山は秩父のシンボル的存在で名前の由来は日本武尊が鎧をこの山に埋めたからだとか。
いまは消石灰やセメントの山となっていますが、武尊の【武功】に肖りたい気持ちがあったのでしょう。日本武尊の故事が真実か否かは余計な【お石灰】と言うものです。
御住職に聞いた話では、砕石している場所には大型トラックが行違う程太い道があるようで、丁度発破の時刻で大きな音が響き渡りました。

六番札所 : 向陽山卜雲寺(こうようさんぼくうんじ) (曹洞宗)
本尊を納めた堂は荻の堂と呼ばれる。

卜雲寺御朱印

卜雲寺境内から見た武甲山
秩父のシンボル的存在だが今は消石灰やセメントの山となっている。
そこから少し下ると青苔山法長寺(せいたいさんほうちょうじ)。
観音堂が天明2年(1782年)焼失したため再建、再建にあたっては江戸の奇才平賀源内の設計図を基にしたと言われ御蔭で札所一の大伽藍となっています。
本堂の中に更に観音堂があるマトリョーシカ状態なのも不思議な構造。
別名「牛伏堂」なのは、牛に化身して苦しんでいた武士の霊を妻子が出家して慰めた伝説に因んだものだとか。本堂の扁額の下に石牛が鎮座されています。

7番:青苔山法長寺(せいたいさんほうちょうじ) (曹洞宗)

札所屈指の大伽藍である法長寺本堂
平賀源内の設計図を基にしたと伝わる。

法長寺御朱印
巡礼途中では蕎麦をしばしば目撃しました。丁度、法長寺近くに店があったので「花いかだ」にて昼食。【ほうちょう】寺だけあって蕎麦は手打ち、サバ文化はあっても蕎麦文化は関西には希薄なので良い経験になりました。

昼食は7番札所法長寺の近くの「花いかだ」にて
一見すると普通の家のよう。

手打ち蕎麦

路の傍にあった蕎麦の花

横瀬町マンホール蓋

秩父高篠郵便局 ; 山田の春祭り・箕飾り、札所四番金昌寺観音堂と慈母観音
秩父中宮地郵便局 ; 秩父夜祭の宮地屋台、札所、武甲山
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横浜(6:13) → (東急東横線+副都心線) → 池袋(6:54→7:05) → (西武快速急行) → 西武秩父(8:47) → レンタサイクル → 西武秩父(16:51) → 池袋(18:33) → (東急東横線+副都心線) → 横浜

一番札所 四萬部寺 観音堂
意味深な表題ですが至って真面目な観音巡りの話。タイトルを見てスポーツ新聞欄の小説を想像された方は官能巡りになってしまいますが…。
最後の観音霊場の秩父に初挑戦。平安末期の秩父の武将が播磨の地頭になった時に、書写山の性空上人の縁で秩父に広めたとか。
西国、坂東と比べると範囲は遥かに狭いですが、それゆえ巡礼し易く特に女性に好まれたとか。いまでも手頃な巡礼として人気があります。
秩父巡礼の行程は20里(約80㎞)、今なら車で1泊2日ですが、歩くにはそれなりの距離。
駅から遠い場所もあるので結局秩父駅からレンタサイクル利用に落ち着きました。自由に動けるので順番通りに廻ることに。
駅から走る事40分、定峰川の北、旧秩父往還の川越通りと熊谷通りが合流する所にある一番札所に到着。
誦経山妙音寺(しょうきょうさんみょうおんじ)は、寺伝に拠れば、
『正暦5年(994年)、観音巡礼を始めたとされる書写山性空上人の弟子の幻通上人が、この地で仏典4萬部を読誦して経塚を築き堂宇を建立し法華経山四萬部妙音寺とした』
のが始まり。
一般には四萬部寺の名で呼ばれます。
長享2年(1488年)の番付では24番となっていますが、江戸時代には川越・熊谷方面から来る江戸の巡礼者の便宜を図るためここが1番札所となりました。
札所前には巡礼者用の旅館もありましたが、その名も「一番」と付けられています。
境内で目に付くのは本尊を祀る観音堂、浅草の講中の力で元禄10年(1697年)に再建。秩父の名匠藤田徳左衛門が腕を振るいました。
入母屋・軒唐破風の銅瓦葺で札所中最も洗練された建築物という人もいるとか。

土曜朝9時前の西武秩父駅前
朝から人が多いが、大多数は三峰山への登山・ハイキング客。

一番札所 : 四萬部寺(しまぶじ) 誦経山妙音寺(しょうきょうさんみょうおんじ)(曹洞宗)

四萬部寺前にある旅籠、その名も一番。
外観から江戸時代から続いた宿と思いきや、百年足らずであった。

四萬部寺境内
正面が観音堂

四萬部寺観音堂
正面欄間の地獄極楽図が有名。

四萬部寺御朱印
続いて坂を上り二番札所の大棚山真福寺(おおだなさんしんぷくじ)へ。
開基が大棚禅師のためこの山号が付きました。かつては大伽藍でしたが万延元年(1860年)の火災で焼失、漸く明治41年(1908年)に観音堂が再建されました。
山中の古刹の雰囲気ですが無住のため御朱印は麓の光明寺へ移動、新しく大きな本堂が対照的でした。
真福寺にも【おおだんなさん】がパトロンに就いて下されば良かったのですが寺号の様にはいかないようです。今後、【光明】が射せば良いですが。

二番札所 : 大棚山真福寺(おおだなざんしんぷくじ)(曹洞宗) 観音堂
「御朱印は光明寺へ」の掲示が。

坂を下り光明寺へ

光明寺本堂
御朱印はここで拝受

真福寺御朱印
続いて坂を下って田圃の畦道を抜けて岩本山常泉寺(いわもとさんじょうせんじ)。
大きな仁王さんを通って新しい本堂へお参りした後、観音堂へ。観音堂は明治3年に秩父神社境内にあった薬師堂を移築したもの。
軒の湾曲した梁は海老虹梁(えびこうりょう)と呼ばれる唐様建築で高低差のある箇所に用いられますが龍の籠彫が圧巻でした。

三番札所 : 岩本山常泉寺(いわもとさんじょうせんじ) (曹洞宗)
畦道から本堂を望む

常泉寺境内
奥に見えるのが観音堂。

札所本尊を祀る観音堂

常泉寺観音堂前面の海老虹梁(えびこうりょう)
籠彫と呼ばれる龍の透かし彫りが圧巻。

観音堂から境内を望む

常泉寺御朱印
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
東武東上線池袋(7:10) → 高坂(8:00) → バス → 大東文化大学前 → 徒歩3分 → 岩殿観音 → 高坂(9:20) → 東松山(9:23) → 徒歩60分 → 吉見観音 → 東松山(11:20) → 小川町(11:36→11:45) → (ときがわ町路線バス) → せせらぎバスセンター(12:05→12:13) → 慈光寺前(12:22) → 徒歩30分 → 慈光寺 → 小川町(16:30) → 池袋(17:47)

都幾山 一乗法華院 慈光寺(天台宗 坂東三十三ヵ所第九番札所)
坂を上った所にある山門。奥には阿弥陀堂(本堂)が見え、御朱印はここで拝受。
吉見観音から徒歩で東松山駅に行き東武電鉄で小川町まで。
そこからは町営バスになり、直接山門まで行くバスはごく僅かですが、入口までは意外に本数がある模様。
バス停から坂道を上る事30分で到着。
途中で参拝を済ませ下ってきた若い人とすれ違ましたが、路線バスで来る若者も居るのかと感心しました。
都幾山一乗法華院慈光寺(ときさんいちじょうほっけいんじこうじ)は、寺伝に拠れば
『白鳳元年(673年)に興福寺の慈訓がこの地に千手観音を祀ったのが始まりで、宝亀元年(770年)に鑑真の弟子釈道忠に拠り開創。
貞観13年(871年)頃に天台別院となり以後、天台宗道場として発展。源頼朝の奥州遠征では祈願寺となり、徳川家康からは朱印100石を賜った。』
とあります。
今は交通の幹線から外れ、バス停からも更に坂道を上るなど、山奥のイメージがありますが、昔は鎌倉街道が近くを通る要衝。歴代の政権に帰依されたのも分かるような気がします。
日本国宝三大装飾経の一つ国宝・紙本法華経一品経や重文・大般若経があり、後者には貞観13年(871年)の奥書が。
これだけの経を製作する素地がこの寺にあったと言うことでしょう。その他銅鐘など重文も多数ありますが、境内はいたって簡素。
いかにも山奥の古刹という雰囲気でした。
山門の正面には本堂の阿弥陀堂があって御朱印はそこで拝受するのですが、『12~13時は昼休』との案内が。
訪れる人が少ないからかとも思いましたが先客が3名。札所にしては珍しく、時間に追われる今の時代を再考しなさいとの教えでしょうか?

本堂奥にある観音堂
札所の本尊木造千手観音像を祀る。縁起では開祖慈訓の作とされるが、解体修理の際に天文18年の墨書があったという。

慈光寺御朱印
今回の巡礼はいずれも平地ではなく山の岩場。いわば僻地ですが、古代人から見て岩窟内に宗教的なものを感じたのでしょう。
壮大な伽藍という訳ではありませんが、信仰の心に触れた気がします。
御朱印拝受後は坂を下りてバス停までの予定でしたが、御朱印待ちで一緒の年配の方が小川町駅まで車で送って下さいました。
乗せて頂いた方はこれから群馬の長谷寺に向かわれるそうで、私も来月には行くつもりですと話が弾みました。元気で巡礼できるのは何よりです。
小川町に早く戻ったので遅めの昼食。いつもならパンで済ますところですが、今日は川魚料理にした鼓を打ちました。
鰻で有名な小川町ですが今回は福助で。横浜朝五時台の電車に乗った甲斐があったというもの。
まさに早起きは【山門】の得ですが、その分歩いた距離も長く「武蔵、歩き疲れたぞ!」となりました。

昼食は小川町にある「女郎うなぎ 福助」にて
安政年間、「友人に頼まれて」吉原の花魁を引き取って面倒をみた先代に、花魁が実家に伝わる秘伝のたれを教えたからとか。

本日のお昼の鰻丼 ¥2,620
肉厚でさっぱりした味付。

初挑戦の鯰の天麩羅 ¥1,000
淡泊と聞いていたが意外としっかりした味。

小川町の割烹旅館「二葉 本店」
こちらは15年以上前に出張時に食べた山岡鉄舟所縁の忠七飯が有名。この日は貸し切りで入れず。

都幾川郵便局 ; 山女魚、重文・慈光寺銅鐘、堂平山の天文台
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
東武東上線池袋(7:10) → 高坂(8:00) → バス → 大東文化大学前 → 徒歩3分 → 岩殿観音 → 高坂(9:20) → 東松山(9:23) → 徒歩60分 → 吉見観音 → 東松山(11:20)

岩殿山 光明院 安楽寺(真言宗智山派 坂東三十三ヵ所第十一番札所 東国花の寺百ヵ寺埼玉第五番)
安楽寺へは高坂駅の次の東松山駅で下車ですが、駅からの距離が6㎞。コミュニティバスも1日数本なので、これはもう徒歩しかありません。
この付近は吉見百穴もあるように丘陵地帯の柔らかい地盤を穿ったものが多く、途中でも石仏が多くありました。
岩殿山光明院安楽寺は行基が聖観世音菩薩を岩窟内に安置したのに始まり、大同元年(806年)に坂上田村麻呂が堂宇を建立したのが開創とされます。
この岩窟は「天の岩戸」として【うずめ】られる事無く保存されているとか。いずれも伝説の域ですが平安時代末には大勢の参拝客が訪れていたようです。
平治の乱(1159年)に敗れた源義朝は尾張で殺されますが、生き残った遺児は各地に潜み源氏再興の機会を待ちました。
六男の範頼は稚児僧に身をやつして安楽寺に潜み、その間に48mにも及ぶ三重塔や45m四方の大講堂を寄進したと伝えられます。
身を隠しながら寄進などと目立つ行為をするのもどうかと思いますし、一体どこから資金を調達したかの問題もあります。
それよりも範頼は母の出身地である遠江で成長したという説が有力。
幕府創設後、頼朝に疎まれて伊豆に幽閉されますが、そこで亡くならず吉見に逃れて余生を送ったという伝説があります。
範頼の妻の祖母は頼朝乳母の比企尼、そのため息子たちはこの地へ移り吉見氏を名乗ったとか。
寺から1㎞程南東に範頼館跡があり、範頼の後は吉見氏を名乗った4代の子孫が居館を構えていたと言われるので、幼少の頃に身を潜めたというよりも晩年にここに逃れたと言う方が真に迫っていると思います。
範頼については義経の陰に隠れて知名度は低いですが、武将・政治家としてもかなりの力量のあった人のようです。
身内を切れない政治家は三流といわれますが、頼朝の身内に対する酷薄さは少々度が過ぎた感があります。
その点は新居白石も『読史世論』で述べているようで、源氏の将軍が3代で滅び北条氏の世になったのも仕方のないことでしょう。

吉見百穴
古墳時代後期の横穴式墳墓だが、今回巡礼主体の今回はスルー。

吉見町マンホールカード 配布場所はこちら

仁王門

聖観世音菩薩を祀る本堂
本堂への石段脇はツツジ・サツキが咲き誇る。

本堂前面の修飾

「野荒しの虎」
本堂の欄間にある左甚五郎作とされる彫刻。

蒲冠者源範頼が建てたとされる三重塔
寛永年間の再建。

吉見観音御朱印
少し年配の御住職の墨書。東松山駅から60分歩いて来たと言うと「それは健脚ですね」と感心された。

吉見郵便局 ; 史跡・吉見百穴、吉見観音三重塔、市野川の橋
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
東武東上線池袋(7:10) → 高坂(8:00) → バス → 大東文化大学前 → 徒歩3分 → 岩殿観音 → 高坂(9:20)

巌殿山 正法寺(真言宗智山派 坂東三十三ヵ所第十番札所)
坂東三十三カ所も相模がほぼ完了して次の埼玉県へ。埼玉は旧武蔵国で関東平野の続きですが、今回訪れる場所は平野から丘陵にかけての地域。
広い埼玉ですが坂東札所は県下で4か所、うち3ヵ寺までがこの地区に集中。
場所から比企三ヵ寺と呼ばれていますが、何故この場所なのか?そのこともこの目で確かめる巡礼になりました。
神奈川と違って駅から遠いうえにバスが少なくウオーキング主体は覚悟の上。と言っても昔は皆歩いていたのですから弱音を吐いてはいけません。
巌殿山正法寺(いわどのさんしょうぼうじ)は坂東第十番札所、岩殿観音の通称で知られます。
山号と通称で【いわ】の漢字が異なるのが特徴でこれは次の十一番札所と区別するためでしょうか?
名前通り岩殿丘陵の端にあるお寺で、さぞ不便だろうと思っていましたが東武高坂駅から直ぐ傍までバスが頻発。
巡礼者の便を図っての事かと思いましたが、傍に大学があるため。学生の恩恵を受けることになりました。
バス停から寺まではすぐですが脇から入ることになるので巡礼の雰囲気を出すために参道へ回り道して門前へ。
かつての旅籠や屋号の看板のある家を抜けると石段の先に山門が現れます。
養老2年(718年)、逸海と言う沙門が岩窟に千手観音を安置し傍らに正法庵という草庵を結んだのが始まり。
桓武天皇の延暦15年(796年)に勅命で伽藍が整えられました。山号寺号は本尊の場所と草庵由来のようです。
その後衰微しますが源頼朝の命に拠り比企能員が再興、坂東札所の命を受けます。
能員は不運にも政争に拠り自死しますが息子は出家してこの寺を守りました。地名にもあるように比企氏はここに勢力を持っていた可能性が大です。
室町期には岩殿山一帯に66坊を数える大伽藍に発展しますが、永禄10年(1567年)の松山合戦で全て焼失。
天正2年(1574年)に焼失を免れた本尊を元に三度目の復興を果たし、江戸時代には坂東三十三ヵ所第十番札所として繁栄。
いまでも寺の東側の参道には当時の門前の雰囲気が濃厚に残っています。
これで安泰となれば良かったのですが、寛永年間の火災で諸堂を焼失、明治に入っても観音堂焼失と幾度となく火災に見舞われることに。札所の割には新しく文化財が少ないのはそのためでしょう。
戦乱時代はともかく、平和時に火災が多いのは何とかできなかったのかと思います。寺号の【しょうぼうじ】も火災には効果がなかったのでしょうかね?

表参道から仁王門前へ
岩殿丘陵の端にある。左のうどん屋と右の旅館がかつての建造物の姿を伝える。

旅館丁子屋
門前で江戸時代から昭和初期まで営業していた。

仁王門と扁額
本堂はこの右手にある。

仁王門から観音堂へは長い石段を上る
紫陽花が丁度見頃であった。

石段途中から仁王門方面を望む

観音堂へ到着
場所も狭く急斜面を切り拓いたといった所か?

坂東札所の本尊千手観音を祀る観音堂
養老年間の創設だが、寛永・天明・明治と3回再建された。

石段を上った右手にある鐘楼と銅鐘
銅鐘は元享2年の銘。鐘楼は元禄15年(1702年)に地元の山田茂兵衛の寄進により建立。

観音堂から見た表参道
参道の家の表札脇にはかつての屋号が記載してある。

岩殿観音御朱印
年配の住職夫人の墨書。横浜市の南太田から嫁いで来られたとの事で、しばらく京急沿線の話題で盛り上がった。
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松寿山 不動院 東福寺(真言宗智山派)
所用でお江戸に来たついでに近場を散策。
草加といえば新幹線車内販売の草加煎餅くらいしか知りませんでしたが、日光・奥州街道二番目の宿場町。
このあと越谷、粕壁と続くので東武日光線は昔の街道を行く訳ですね。当然と言えば当然ですが初めて知りました。
独協大学前で下車して街道に向かうと、松並木があって草加松原と呼ばれています。
松並木は寛永七年(1630年)の綾瀬川改修の際に植えられ、下って寛政四年(1792年)には1230本の苗木を植えた記録も。
一時60本まで減ったそうですが、現在は全盛期の半分634本まで回復しています。
『若(もし)生て帰らばと定めなき頼の末をかけ其日漸(ようよう)草加と云(いう)宿にたどり着にけり』
と松尾芭蕉が奥の細道で記述したのは元禄二年(1689年)の事。
江戸から高々二つ目の宿でこのように書くとは弱気な感じですが、それだけ当時の旅が厳しいものだったのか、
あるいは奥州に赴く使命が重かったからで【草加】。

綾瀬川右岸にある国指定名勝「おくの細道の風景地 草加松原」

松尾芭蕉文学碑 「奥の細道」の一節

松原大橋西側にある百代橋
名前は勿論 『月日は百代の過客にして』に由来

綾瀬川左岸から草加松原を望む

谷古宇橋西側にある矢立橋

矢立橋
「これを矢立の始めとして」に由来

札場河岸公園にある綾瀬川関

公園にある望楼
上に登って周囲が見える。
芭蕉は河合曾良と共にここを過ぎましたが、現在はその所縁で町おこしをしているようです。
公園内には二人の像がありますが、何故か別々に建立。
事情はともかく、これではお供が【かわいそーら】と思うのは私だけでしょうか?
続いて草加松原から日光街道沿いに草加宿へ。草加宿は江戸時代初期に近隣九ヵ村が協力して開いた宿場で、
それまでの千住から中川・元荒川沿いに越谷に向かう迂回ルートが随分短縮されたようです。
村人が開いたというのも凄いですが、当時綾瀬川の交通・運搬により村にも活気があった様です。
米の産地で野田とも水運で繋がったこともあって江戸時代より煎餅が名物。
草加煎餅は登録商標のブランドですが、円形・硬質・醤油味で表面に海苔・胡麻などを付けないのがオリジナルだとか。
今時、それでは商売にならんので色んなバージョンができています。
でも折角なので江戸時代の老舗いけだ屋さんのオリジナルを購入。煎餅を食べながら歩いていると大きな寺院に遭遇。

公園内の松尾芭蕉翁像
奥の細道旅立ち300年を記念して建立。友人・門弟との惜別を表す「見返りの姿」。

おせん公園に立つ河合曾良像
市制50周年を記念して建立。曾良は奥の細道に随行した門人で「奥の細道随行日記」を記したことで有名。この日記を読むと「奥の細道」にはフィクションが多い事がわかる。

草加宿神明庵
古民家を改修した休憩所。

伝統産業展示室にて草加煎餅手焼きの図
ここでは手焼き1枚 ¥100で販売。

伝統産業展示室にて
手前はゆるきゃら「パリポリ君」

市政60周年を記念してゆるきゃら「パリポリ君」をデザインしたマンホールが登場。但し、実際にはなくここの展示のみ。
松寿山不動院東福寺は草加宿の開宿に尽力した大川図書が慶長十一年(1609年)に創建し、僧賢宥が開山。
大川図書は小田原北条氏に仕えた武士土本氏でしたが、北条氏改易により浪人となりこの草加に落ち着いたと言われます。
当時の草加は湿地帯でしたが、図書は葦や草木を泥に加えて沼を陸地にする技術で今に続く草加宿の基礎を築きました。
草加の名前もそこに由来。改易で失った失地を【湿地】の埋め立てで回復した事になりますが、
かつて土本氏を名乗っていた事から土木技術に優れた家系だったのではないでしょうか。
戦乱の世でも身に一芸があれば喰っていける典型の気がします。

東福寺入口

山門近影
瓦葺四脚門で江戸後期の建造物。

山門の彫刻
元治二年(1865年)彫工後藤常重の銘がある。

境内の様子

本堂

本堂内陣

江戸の名工島村円哲の作の本堂内外陣境の彫刻欄間(三枚の内、右)
中国二十四孝の一で、大舜が親に尽くすので象や鳥が耕作を助けるモチーフ。

三枚の内、中央
仏教の守護神である龍の構図。

三枚の内、左
中国二十四孝の一で、貧しい董永が親に孝養を尽くし、己の身を売って葬礼をした事に感じた天女が財物を与えた。それに感謝し帰る天女に跪く構図。

草加八景にもなっている東福寺庭園

東福寺御朱印

草加市マンホール蓋

草加市マンホールカード(その1) 配布場所はこちら

草加市マンホールカード(その2) 配布場所はこちら

草加郵便局 ; 百代橋、札場河岸公園の望楼
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紀行作家嵐山光三郎が描く、官僚としての芭蕉像にスポットを当てた著作
奥の細道行脚 『曾良日記』を読む (岩波オンデマンドブックス) 新品価格 | ![]() |

「奥の細道」の真実に迫った著作
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】JR横浜(6:51) → JR東京(7:19) → JR上野(7:24) → JR大宮(7:51) → JR熊谷(8:30)
JR熊谷 → レンタサイクル45分 → 妻沼聖天山 → 秩父鉄道熊谷(13:50) → 武州荒木(14:05) → 徒歩5分 → 天洲寺
【復路】
武州荒木(15:03) → 秩父鉄道熊谷(15:18→JR15:34) → JR横浜(17:13)

聖徳山天洲寺(曹洞宗)
熊谷駅に戻った後は秩父鉄道で羽生方面へ。
途中、線路沿いに赤い柱の寺院が見えてきます。なんでも聖徳太子所縁のお寺だとか。
聖徳山天洲寺(しょうとくさんてんしゅうじ)は、寺伝に拠れば、
『慶長十二年(1607年)忍城主成田氏の家臣荒木八左右衛門の開基』
と言われますが、そこにある聖徳太子像はそれよりも360年も古いという【怪奇】な事実があります。
木造の胎内に残された墨書からは、
『寛元5年(1247年)、大江広元の四男毛利四郎季光が両親及び執権北条泰時の極楽往生を願い鎌倉の仏師に彫らせた』
と判明。中世は聖徳太子信仰が高まった時代ですが、製造年代の分かるものとしては最古。
私の意識では聖徳太子と関東とは殆ど繋がりがないと思っていたので吃驚でした。
太子16歳の姿を写した孝養像で太子の命日の2月22日のみ一般公開されるとか。
秘仏なみの扱いですが、我が国仏教の立役者としてはそれも当然かもしれません。
開帳の日には大工の棟梁も多く見えられますが、四天王寺を造ったことで木造建築の祖として敬われているのだそうです。
かつてのように高額紙幣の肖像画に使われていたら、銀行の頭取の方がみえるのでしょうかね?
参拝後は御朱印を拝受すべく伺うと、住職夫人が対応されて
「住職は先年亡くなりまして、今は息子が跡を継ぐべく修行中です。
とても御朱印ができるまでに至っていませんので、申し訳ございません」 との事。
昨今のブームで俄か御朱印も増えている中、却って新鮮に感じたものでした。

天洲寺への参道

山門

由緒

太子堂

太子孝養像の説明

本堂

荒木郵便局 ;重文・聖徳太子孝養像、武蔵導水路
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関東・甲信越 山の神社・仏閣 札所ガイド 御朱印を求めて歩く 新品価格 | ![]() |

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<コース>
【往路】JR横浜(6:51) → JR東京(7:19) → JR上野(7:24) → JR大宮(7:51) → JR熊谷(8:30)
JR熊谷 → レンタサイクル45分 → 妻沼聖天山

聖天山 歓喜院 長楽寺(高野山真言宗)
埼玉県に所用があったので、早めの巡礼。県北の主要都市熊谷は若き平敦盛を討った熊谷次郎直実の所縁の地。
市内を代表する名刹が妻沼聖天山(めぬましょうでんざん)。
駅から県境に向かって8㎞程の旧妻沼の中心に広い境内と伽藍を要しています。
開基は斉藤別当実盛公。富士川の戦いで東国武士の猛勇さを説いて平家を敗走させ、
加賀で木曽義仲軍と対した際には老齢ゆえ白髪を黒く染めて出陣し、最期はかつて育てた源氏の武将に討たれた人です。
治承3年(1179年)、当時長井庄と呼ばれたこの一帯を本拠とする実盛が民衆の祈願所として歓喜天(聖天)を祀ったのが始まり。
その後、次男実長(阿請房良応僧都)が頼朝の許可の元に関八州を勧進。
建久八年(1197年)に聖天宮修復と歓喜院長楽寺を建立し十一面観音を祀りました。
中世は忍城主、徳川幕府と庇護を受けますが寛文十年(1670年)の妻沼の大火で焼失、
本殿その他は宝暦十年(1760年)に再建され今の形となっています。

境内入口にある重文・貴惣門


貴惣門にある彫刻

開基斉藤別当実盛公
『無残やな 兜の下の きりぎりす』 と芭蕉が詠んだ

中門

仁王門
万治元年(1658年)の建立。明治24年に台風で倒壊し明治27年に再建。

国宝・聖天堂(拝殿)

本殿正面の龍の彫刻

本殿正面の虎と邪鬼
ここでは四天王に踏まれずに柱を咥えている。
ここは本堂の外面に施された極彩色の彫刻が圧巻。
私も行くまで知りませんでしたが、2012年に国宝になり2017年には切手も発行されたとか。
国宝前は埼玉の小日光、国宝指定後は埼玉日光と呼ばれたそうですが日光の100年程後の建築なので進化系でしょうかね。
日光が幕府の資金に拠ったのに比べ、こちらは庶民の寄付で成り立ちました。
士農工商と言われる割には庶民も力を蓄えていたということでしょうか。
平成15~23年には本堂の修復工事が行われましたが、創建当初の極彩色の彫刻を復元しようと計画。
総工費13.5億円のうち、信徒の人から25%を超える寄付が集まったとか。庶民の力は未だ健在といった所です。
拝観には¥700が必要ですが、日光に行くよりも近場なのでメリット大。
元手も取り返して【日光】りしているのではないかと想像しています。

国宝・奥殿
本殿の裏手にあり、ここに彫刻がある。 ¥700

外から見た奥殿彫刻

南面部分

南面にある彫刻
水に落ちる猿を鷲が救う図柄は左甚五郎という説もあるが、実際は石原吟八と関口文治郎の両棟梁である。

台座部分の龍

台座部分の彫刻
図柄は中国の故事に由来するものが多い。


唐破風下の彫刻には象・鳳凰・龍など瑞獣が並ぶ

腰羽目彫刻「小間取遊七人」「梅」

「竹馬遊三人」「桜」「蘇鉄」

「鶏持三人」「牡丹」「竹」

北面・大羽目彫刻「琵琶を持つ西王母と仙桃を持つ侍女」

北面・大羽目彫刻

「子供角力と椿」

「魚獲六人」「桃」

「獅子舞五人」

大羽目彫刻「長寿の意匠」

南にある聖天山歓喜院本坊

本坊近影

本殿彫刻参観 入場券
A4タイプ4頁で説明書を兼ねる

妻沼聖天山御朱印

御朱印帳袋 「鷲と猿」の彫刻が描かれている。
その後、熊谷駅まで戻ると大きな伽藍が目に。見ると熊谷寺(ゆうこくじ)とあります。
熊谷次郎直実の所縁の寺と思い巡礼しようとすると閉門中。
【ゆうこくじ】でもないのに何故と見ると『関係者以外は御遠慮下さい』との事。寺の方針ならば仕方がないですが
「折角通ったのに【直実】にされなくてもいいのでは」とふと思った次第です。

熊谷市マンホール蓋

熊谷市マンホールカード 配布場所は熊谷市役所下水道課

妻沼郵便局 ; 重文・歓喜院聖天堂、平和塔、杉、桜の花
妻沼長井郵便局 ; 荻野吟子像、あばれみこしの祭典、グライダー
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR横浜(6:51) → JR大宮(7:51) → 東武大宮(8:10)→ 岩槻(8:22 → 9:44) → 大宮公園前(9:53) → 徒歩5分 → 盆栽村 → 徒歩15分 → 氷川神社

氷川神社(武蔵國一之宮 旧官幣大社)
これは二の鳥居で両側にあるのは欅並木。ここから参道らしくなる。
この日午後からさいたま副都心で研修があったので、早めに現地に入りちょっと巡礼。
木曽街道大宮宿は氷川神社の門前町。氷川神社は武蔵國一之宮、関東にある280余の氷川社の総本宮です。
社記に拠ると創建が第五代孝昭天皇の御代三年四月、歴史的には縄文か弥生になるのでしょうか?
社名は出雲の簸川(現在の斐伊川)に因むと言う説が有力。
肥沃な河川として農作物に恵みを与える一方で水害を惹き起こした荒川を簸川に見立てたと略記にはありますが、
簸川の杵築大社をこの地に移し見沼の水の霊を氷川神として祀ったのが実際の様です。
見沼は江戸時代までこの地にあった大きな沼ですが【見沼】に消えてしまいました。
氷川神社の御祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の三柱、いずれも出雲由来の神様なのがその可能性を高めます。
出雲神が来たルートですが、日本海から中山道経由で来た可能性が高いのではないでしょうか。
今は瀬戸内・太平洋側がメインですが、日本海沿いは常に対馬海流が北上しており、古代の航海にはより適していたと言えます。
越後の糸魚川の奴奈川姫伝説や信州の安曇には出雲との交流が感じられますね。

氷川神社三の鳥居
ここが境内入口になる。

楼門
古代の武蔵国は凡そ今の東京都と埼玉県、東京都は海に面した湿地のため内陸に中心を置いたのでしょう。
都市は自然災害の少ない場所に置くのは洋の東西を問わない古代の鉄則です。
中世以降も源頼朝・足利尊氏・太田道灌・後北条氏・徳川家康と時の政権と深く結びつき繁栄、
明治天皇も3度参拝されているとか。広大な境内と社殿の壮大さには圧倒されます。
関東での初詣は明治神宮が最多で氷川神社は約210万人ですが、周辺人口の差を考えると立派な数字ではないでしょうか。
大宮の名前も氷川神社由来で、かつての県庁所在地の浦和よりも交通の要衝。
平成の大合併に際して市名も大宮か氷川にする動きもあったそうですが、浦和や与野が「やだねったら、やだね!」と
言ったせいで「さいたま市」になったと言われています。
因みに「さいたま」とは行田市にある「さきたま古墳」が由来。
この辺りとは関連がなさそうなのでもう少し検討する余地があったと思うのは私だけでしょうか?

楼門を過ぎた所にある舞殿、奥が本殿

拝殿 本殿はこの奥に鎮座。

武蔵一宮 氷川神社略記 二種類ある。

氷川神社御朱印
それから大宮地区は盆栽で有名だそうで、何でも関東大震災後に江戸から盆栽業者が移り住んで、町づくりをしたとか。
町を歩くと数百坪の豪邸があちこちに。
成城・松濤では見かけましたが、さいたま市にこのような場所があるとは吃驚。
盆栽と言うのは金のかかる趣味ですから、当然と言えば当然です。
大宮盆栽郵便局の窓口の若い女性が言われるには
「この辺はお金持ちが多くて。私もここまで歩いて通っているのですが、時々馬を散歩させている人もいますから…。」との事。
更に驚きですが、良く考えたら徒歩通勤する位だから、この人の家もお金持ちに違いないと、後で気が付いた次第です。

岩槻区芳林寺境内にある太田道灌騎馬像
岩槻城の築城は彼による。

街道沿いにある高札場
人形の町岩槻は日光街道の宿場町。奥は青果店。

東武大宮公園のすぐ北にある盆栽町の地図
関東大震災の後、東京の盆栽業者が移転してきたのが始まり。

もみじ通り
両側には豪邸が続き、自動車も殆ど通らない。右手前は無料休憩所の盆栽四季の家。

盆栽町しで通りにて
盆栽に関しては門外漢だが、眺めて大木に見える作品が良いと聞く。

盆栽町にある漫画会館
現代漫画の祖、北沢楽天は晩年をここで過ごし、大宮市名誉市民第一号となった。これは晩年の部屋を再現したもの。

楽天の作風
政治風刺漫画が主流。河鍋暁斎やビゴーの系譜か?

東武鉄道アーバンライン線の駅スタンプ
設置されて20年以上経つが、保管が徹底しているため良好な印影。

大宮郵便局 ; 氷川神社、盆栽
大宮盆栽町郵便局 ; 日本盆栽村の盆栽、大宮公園
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
山吹の伝説にどうかん?(2018.1.27)
<コース>
横浜駅(8:42) → 東急東横線 → 副都心線 → 東武東上線 → 東武川越(9:58) → 徒歩15分 → 蔵の街並み → 徒歩10分 → 喜多院

川越のシンボル時の鐘
川越大火翌年の明治27年の再建である。
・七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき
後拾遺集にある兼明親王の歌。親王は醍醐帝皇子で学問的にも優れた人物でしたが勅撰集入首はこの一首のみ。
当然知名度も低い筈ですが、この歌は非常に有名です。
江戸城築城で有名な太田道灌が若い頃、狩りに出て急に雨に降られました。近くの農家に立ち寄り、若い娘に
「蓑を貸して貰えないか?」
と頼んだ処、娘は家の奥から、山吹の花を取って来て、無言で道灌の前に置きました。
「はて、蓑を貸せと言ったのに、何故花など?」
と怒りながら館に帰った道灌が家来にその話をした所、家来は兼明親王の歌を引き合いに出して、
「山の茅ぶきの家なので、蓑がないのが悲しいです」と言いたかったのだと説明しました。
領民の若い娘が知っていることを領主の己が知らなかった事を恥じた道灌は勉学に励み、文武両道の武将になったとか。
下総に出陣し夜半に海岸沿いを通る際に
・遠くなり 近くなるみの 浜千鳥 鳴く音に汐の 満ち干をぞ知る
という古歌から引き潮を知ったとか、
また軍を返して利根川に夜に至った時には
・そこひなき 淵やはさわぐ 山川の 浅き瀬にこそ あだ波は立て
という歌から浅瀬を見つけ渡ったと言われます。
昔は国語の教科書に載るほどの有名な話ですが、道灌は父親の代から関東管領扇谷上杉家の家宰(家老)を務めた家柄。
ある程度の武将は幼少期から禅宗の僧侶に教育を受ける習わしですから、これは間違いなく作り話。
学問の大切さを教える教訓と言うのに【どうかん】です。
近世築城の祖であり文武に優れたが故に、主君に猜疑心から謀殺された悲劇の武将でもありました。
親子共々湯殿で謀殺された時の最期の言葉は「御家滅亡」だったとか。
道灌亡きあとの扇谷上杉家は下り坂となり北條氏康の河越夜合戦で滅亡と予言は的中。
一方、道灌の子孫は家康に仕え掛川城主として幕末まで生き残りました。

市役所前に立つ太田道灌像 これは鷹狩りの装束。
川越は道灌が居城しただけあって江戸の北の要衝。江戸時代には譜代大名が置かれ埼玉県下で最初に市制が敷かれます。
県庁は浦和に持って行かれますが蔵と洋館の街並みが残る埼玉第一の観光地には変わりありません。
昼食をはさんで蔵の街を散策した後は、南に向かって洋館通りへ。
メイン通りに面した蔵の街並は観光客がひっきりなしですが、洋館通りは人が疎ら、これからと言ったところでしょうか?

大沢家住宅(重文)
寛政4年(1792)近江屋半右衛門が建てた川越最古の商家。呉服太物を扱った。

川越元町郵便局も蔵造り

亀屋
天明3年創業の川越最古の和菓子司で川越藩御用達。

亀屋の亀どら 左:芋餡、右:漉し餡 各¥230

昼食は「手打ちそば百丈」にて
会津の山都で修行した先代が大正時代にできたビルで開業。市役所前にありメインから少し離れているので穴場。

温とろろそば ¥972

菓子屋横丁の光景
この日も修学旅行生でごったがえしていたが、合間を縫って撮影。売れ筋は、芋味のソフトクリームと芋けんぴがのったソフト。寒さもどこ吹く風と言った雰囲気。

川越市マンホールカード 川越まつり会館にて配布

埼玉りそな銀行川越支店
大正7年保岡勝也が設計した第八十五銀行本店。ネオ・ルネサンス様式。

蔵造りの街と並ぶ大正浪漫夢通り

シマノコーヒー 大正館で一服 昭和8年築の洋風建築。
町並散策を終え夕方になって漸く目的地の喜多院へ。
喜多院は天長七年(830年)、淳和天皇の命で慈覚大師円仁が建立した無量寿寺が始まりで、
・永仁四年(1296年)には伏見天皇が元三大師を祀る関東天台宗本山とする
・正安三年(1301年)に後伏見天皇が東国580ヵ寺の本山とする勅を下す
・後奈良天皇が「星野山の」勅額を下す
と発展しますが天文六年(1537年)には北条VS上杉の合戦で炎上します。
その後、慶長四年(1599年)には徳川家康のブレーンだった天海僧正が住職となり喜多院と改名。
以後幕府の庇護の元に発展しますが寛永十五年(1638年)の川越大火でまたしても消失。
しかし将軍家光の命により直ちに復興し今に至ります。
まさに達磨の如く七転び八起きの寺院ですが、それだけ地理的にも重要視されたと言うことでしょう。
広大な敷地内には客殿・書院初め重要文化財が多々ありますが、面白いのは境内にある五百羅漢。
近郷農民の関根仙右ヱ門が安永六年(1777年)に40体を作製。
その後、喜多院の学僧がその意思を受け継ぎ近隣より寄進を集め、文政八年(1825年)に完成されたもの。
全部で538体が鎮座されています。その表情が何とも人間的でした。
無量寿寺とは言うものの拝観は有料。関東では鎌倉以外は拝観料無料の寺院が多いのですが、
【きたいん】に違わず【重文】な内容、残雪ながらも朝から夕方まで充実した一日でした。

星野山 無量寿寺 喜多院(天台宗)

本堂(慈恵堂)

多宝塔

五百羅漢を拝観(別料金)

内緒話する羅漢

考える羅漢

読書する羅漢

ちょっとお行儀の悪い羅漢

客殿渡り廊下にて

喜多院庭園 小堀遠州の作庭。

喜多院庭園
23日の雪の名残と、氷柱が印象的。

川越大師喜多院説明書

喜多院御朱印

夕食は天保3年(1832年)創業の店舗「いちのや」にて、ひつまぶし¥3050

川越元町郵便局 ; 時の鐘、重要伝統的建造物群保存地区・蔵造りの町並み
川越松江町郵便局 ; 県文化財・喜多院多宝塔、市文化財五百羅漢、だるま市、
[参考書]
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御朱印でめぐる関東の百寺 坂東三十三観音と古寺 (地球の歩き方御朱印シリーズ) 新品価格 | ![]() |

小さな江戸を歩く―日本全国50か所 京都、大阪、東国路 (サライブックス) 中古価格 | ![]() |

四半世紀前の著ながら小江戸・川越の概要を記した良書
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湯浅常山(1708~1781)が戦国期から近世初期にかけての武将たちの逸話を集大成した書。太田道灌は「巻之一 太田持資歌道に志す事」に載る。
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
海を渡った高句麗人、古代史の一コマ(2016.11.20)
<コース>
【往路】西武池袋(6:30) → 準急 → 飯能(7:24→7:40) → 国際興業バス名栗行き45分 → 小殿(8:24) → 徒歩40分 → 竹寺 → 徒歩60分 → 子ノ権現 → 徒歩80分 → 西武吾野駅(13:10) → 西武高麗駅(13:24)
西武高麗駅 → 徒歩20分 → 聖天院 → 徒歩20分 → JR高麗川駅
【復路】JR高麗川(16:30) → JR八王子(17:12→17:30) → JR横浜(18:20)

高麗山勝楽寺(真言宗智山派)
雷門遠景、両脇には石造りのチャンスン。
午後は電車で戻って高麗(こま)郡へ。
西武高麗駅を降りるといきなり左右に将軍標がお出迎え。一帯は高句麗所縁の郷です。
中国東北部(旧満洲)から朝鮮半島北部を支配した高句麗も668年に唐により滅亡。
一部の遺民は大祚栄を王に頂き698年に渤海国を建国。
以後926年に契丹に滅ぼされるまで「海東の盛国」として繁栄、日本との間にもたびたび使節が往来します。

西武高麗駅
真っ赤な将軍標がお出迎え。これはチャンスンと言う高句麗で村の魔除け。

聖天院への道のり
平凡な空き地に見えるがこれは有名な巾着田。

高麗郷古民家(旧新井邸)
客殿と母屋。無料で見学できる。
その一方で海を渡りこの辺りに住み着いた高句麗人(高麗人)もいました。
大和朝廷は716年に武蔵国に高麗郡を設置し、関東甲駿七か国に居住していた高麗人1799をここに入植させます。
その際、703年に王姓(こしきのかばね)を賜り従五位下に叙されていた王族若光がリーダーとなりました。
若光没後の751年に子の聖雲と高句麗僧の勝楽により菩提を弔うために建立されたのが高麗山勝楽寺。
歓喜天(聖天院)を祀っているので聖天さんと呼ばれます。
また彼の遺徳をしのんで建てられたのが北側にある高麗神社で別名白髭神社。
白髭とは若光の別名だそうで恐らく長命だったのでしょう、指導者としても不可欠の条件です。
彼の直系は神職として続き現在は60代目。
盛んに高句麗の自出が言われますが、60代にも亘ってその場所に住んでいる事の方が凄いですね。
現在、移民は世界各地で問題となっていますが、古代において人は貴重な労働力。
しかも土木・養蚕など大陸の進んだ技術を齎した可能性が大ですから、その後の日本の発展に寄与した事は間違いないでしょう。
秀吉の朝鮮出兵でも多くの朝鮮人陶工が日本に来ましたが、各自ばらばらではなく一族郎党挙げての渡海であった気がします。
余談ですが高麗とは高句麗の別名。
高麗(こうらい)王朝 (918~1392年) は朝鮮民族王朝ですが、高句麗はツングース系の半農半狩猟民族で全く別です。
それではなぜ高句麗を高麗と呼んだかですが、当時の記録は全て中国の書籍で現地発音を漢字に当てたものです。
但し、国名については、中国は自分たちは漢字一文字、
それ以外の四方の輩(東夷西戎南蛮北狄)は漢字二文字という意識があったので二文字にしたのではないかと思います。
関東に多く居住したのは畿内が百済系移民で一杯だったので余計な揉め事を避けるためでしょうか。
ただ騎射に秀でた民族の地から後世武士が台頭したのは何かしらの縁を感じます。

聖天院山門(雷門)

高台にある聖天院本堂
2000年に完成した総欅造り。

本堂へと続く階段から見た庭園

中門をくぐった所にある庭園

本堂脇にある石灰岩
雪山を表しているとか。

境内脇にある王廟
若光の墓所で朝鮮様式の砂岩の五輪塔がある。

高麗神社
若光を祀る神社で神主は代々若光の直系が務める。

高麗神社本殿

境内にある続日本紀の記述
高麗郡が置かれたのは716年。

神社の宮司を務める高麗氏の旧宅

聖天院御朱印
本尊は不動明王。
[参考書]
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あちこち歩いて足腰守護、山歩きの後は浅見茶屋で舌鼓(2016.11.20)
<コース>
【往路】西武池袋(6:30) → 準急 → 飯能(7:24)
西武飯能駅(7:40) → 国際興業バス名栗行き45分 → 小殿(8:24) → 徒歩40分 → 竹寺 → 徒歩60分 → 子ノ権現 → 徒歩80分 → 西武吾野駅

大鱗山雲洞院天龍寺(天台宗特別寺)
奥院から見た本坊(正面)と本堂(右)
竹寺から歩く事1時間で子の権現に到着。
縁起に拠れば
『延喜11年(911年)6月13日に、和歌山県天野出身の子ノ聖がこの地に十一面観音を祀り天龍寺を創建。
その後、弟子が子ノ聖を大権現として権現社を建立、神仏習合となります。現在は延暦寺の末寺。』
子ノ聖とは奇妙な名前ですが生誕が子年子月子刻であったためとか。
小柄だったのか、風貌が似ていたのか、よく動き回る聖だったのかは分かりませんが綽名のような気もします。

子ノ権現への途中から見た関東平野

竹寺から歩くと本坊脇に
御朱印はここで拝受する。
聖は入寂の際に
『私の魂はここに残って、腰より下を病める人の悩みを救わん』
と言われ、それ以降ここは足腰守護の神仏となりました。
ここに御参りすれば足腰の病に効果があるとの事ですが、これだけの山道を歩けば誰しも足腰は壮健になる道理で、
要は己の足で歩いて健康になれとの教えでしょう。いつの時代でも楽して良い結果は得られません。
巡礼を終えたら近くに江戸時代の古民家を改築した浅見茶屋という店があったので、そこで昼食。
2時間近く歩いた後なので名物の饂飩に加え黒蜜きなこアイスも注文。
ルポライター甘味蜜彦になった気分でフットワークも軽く残りの道のりを行くことになりました。

子ノ権現本坊
江戸末期の建設。茅と杉の皮で何層にも葺かれている。庫裡の大黒柱は周囲2.3mの栗ならぬ楓の大木を使用。

本堂
昭和57年落雷に拠り焼失し寄付を募って二年後に再建。総欅造りで、本尊は十一面観音。

本堂脇にある鉄製の草鞋
足腰守護の神仏なので履物を奉納する習わしがある。この重量は2トン。

鐘楼堂から見た本坊と本堂

子の権現の入り口にある黒門
今回はここが出口。奥には昭和11年に花井探嶺により造像された露座の仁王像がある。

門前の二本杉
子ノ聖が開山の折に箸として使った杉枝を挿したものとされ樹齢千年。これで「別れの二本杉」となる。

子ノ権現御朱印

子ノ権現で頂いたお寺の案内

昼食は子ノ権現下の浅見茶屋にて

肉汁ぶっかけ手打ちうどん ¥850

黒蜜きなこアイス ¥400
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