<コース> 南海電鉄・京阪電鉄は日中10~15分間隔で運転
【往路】なんば → (南海電鉄急行) → 岸和田 → 徒歩10分 → 岸和田漁港 → 岸和田 → 堺 → 徒歩20分 → 堺東 → 大阪狭山 → 徒歩10分 → 狭山池博物館 → 大阪狭山 → 中百舌鳥 → (御堂筋線) → 淀屋橋 → (京阪特急) → 樟葉 → (普通) → 石清水八幡宮
石清水八幡宮駅 → 徒歩5分 → 飛行神社 → 徒歩5分 → 神應寺 → 杉山谷不動尊 → 徒歩10分 → らくがき寺
【復路】石清水八幡宮 → 樟葉 → 淀屋橋

絲杉山 神應寺(曹洞宗) 奥の院 杉谷山不動堂
神應寺の鐘楼脇には「奥の院」と書かれた看板が。
神應寺の奥の谷には「奥の院」と呼ばれる数棟の堂があり、そのなかの一棟である杉山谷不動尊には
不動明王が祀られており、また「ひきめの滝」で滝行を行うために訪れる参拝者もいるとか。
地図やガイド等には杉山谷不動尊と書かれていますが、奥の院と言うのが厳密な扱い。
駐車場横には「杉山谷不動尊」と書かれた扁額の架けられた朱の鳥居が建つので、
そちらから参拝する人も多いのだそう。勿論、境内から行くことができるので今回はこちらのルートを選択。

ここが人生の分かれ路という程のものではないが…

不動尊への鳥居

鳥居を抜け放生(ほうじょうがわ)川に流れ込む渓流を遡る
参道同様、射干の生えた山道を行きますが、行く手に線路のようなものが見えてしばらくすると電車が通過。
石清水八幡宮のケーブルカーで、何度も八幡宮には参拝していたのに、このような景観の場所があったとは
今日初めて知りました。
絶景ポイントの割にはカメラを構える人はなし。もっと良い場所があるのか、季節があるのかのどちらかでしょう。
もしかすると暗くケーブルが見えないのかも。それなら風と共に去らねばなりませんが…。
などと下らない事を考えているうちに行く手に建物が見えるとそこが奥の院。

参道から見えた男山ケーブルカー

車両遠望
ケーブルが斜めのため車体も斜めなのを長目に眺め。

路線の真下を潜る

行く手に見える奥の院

参道脇にはやはり射干が
奥の院に建つ諸堂には豊川稲荷、十一面観音堂もありますが、何と言ってもメインは不動堂。
杉山谷不動尊(すぎやまだにふどうそん)は、
『その昔、行教律師が宇佐より八幡宮を当地に勧請した頃、この地には人々に害を加える怪奇現象が
しばしば起こっていた。偶々、諸国行脚中の弘法大師がこれを聞き法力で妖怪を封じ、お告げに拠って
大和国より厄除け不動尊をこの地に祀り、一刀三礼の十一面観音菩薩及び大師像を自ら刻み
安置したのが嚆矢である。

神應寺脇の道(左)と鳥居を潜った参道が合流

石仏群

石仏の横には豊川稲荷
不動堂はその後、天正17年に再建され豊臣家・徳川家からの崇敬を受けた。昭和10年(1935年)には
山津波のため高坊山林が崩落し、堂宇や付属の建物が惨禍を被り倒壊流出した際にも
本尊は無傷で通し、その霊験を敬われた。
しかし永年の風雪には耐え難く、昭和47年(1972年)に新たな堂宇を起工。
翌48年7月に不動堂・観音堂が落慶し、現在に至っている。』 とあります。

奥の院の正面に建つ不動堂

不動堂由来碑

不動堂の向拝前にて

内陣は撮影禁止のため不動堂外陣にて
先に訪れた神應寺と同様、石清水八幡宮が宇佐から勧請された頃の創建ですが、
神應寺が学問所であったのに対しこちらは修行の場。
清流を遡った先には滝が落下しているので、その場所に御仏を感得したのが寺院の嚆矢と思われます。
学問所は一般庶民には縁遠いですが、滝行などは一般の参拝者にも身近な存在だったので、
奥の院の方がより【多くの】参拝者を惹き付けたようです。

不動堂脇の観音堂

不動堂から参道を下り鳥居の先の 「ひきめの滝」 へ

分岐点にある龍の手水舎

手水舎脇には石の不動尊も
加えて由緒も豊富で、
弘法大師が悪さをする妖怪との【攻防】の末、封じ込めた事や、昭和になって【高坊】山の土砂崩れで
堂宇が崩壊した話など、やたらと【こうぼう】に纏わる話が登場するのがミソ。不思議な【光芒】を放っています。
妖怪云々の真偽は兎も角、都から近場だった事、勧請の経緯等から当地で祈祷を行ったのは、
【ひいきめ】に見ても、ほぼ確実。
全国各地に足跡を残した弘法大師ですが、その活躍も【多岐】に亘っているようです。

行く手に行場と滝が

階段を降りると滝が眼前に
但し、滝行は事前に届出が必要。

ここにもお不動さまが

ひきめの滝

滝の水は清流となって放生川へと注ぐ
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絲杉山 神應寺(曹洞宗)
京阪電鉄石清水八幡宮駅から南へ向かうと一の鳥居の向こうに岩清水八幡宮の御旅所である頓宮が控えます。
何故か山に登る人は多かったけれど鳥居があったので、ここで参拝して帰ったら、兼好法師の『仁和寺の法師』。
八幡宮への参拝は日を改めて、この日は石の道標に従い右手奥にある寺院へ。
石清水八幡宮の門前ではありますが、周囲の繁栄とは裏腹に民家の軒を分け入った先に堅牢な山門があり、
更にそこから登る百六十余段の石段は、木立と静寂の中に射干を見ながら庫裏に至るという造りになっています。

頓宮前の道標に従って右へ

細い道を進むと山門前に出る

階段下より見上げた山門

山門に続く百六十余段の石段

石段途中から山門を振り返る
両側には射干(シャガ)が。
絲杉山神應寺(ししんざんじんのうじ)は、
『貞観2年(860年)、八幡神を宇佐より男山に勧請した僧行教に拠り、應神天皇の位牌所として開創。
行教は奈良大安寺の僧で、石清水八幡宮を建立したことから建立大師の宣下を受けた。
当初は神應と称し法相・天台真言密教を弘通する四宗兼学の道場であったが、
室町時代に曹洞宗に改宗し現在に至る。

石段を登った先から見た境内

参道左には鐘楼が建つ
この右側の道を行くと奥の院に至る。
本堂には本尊の薬師三尊像に加え豊臣秀吉の木像を安置する。当寺の中興二世・弓筬善疆(きゅうしんぜんきょう)は
豊臣秀吉と同郷で、正室北政所が帰依。天正17年(1589年)には秀吉から寺領120石が給され、
文禄元年(1592年)の朝鮮出兵時には善疆が肥前名護屋へ出陣見舞いに訪れている。
秀頼の時代には衣冠束帯した秀吉の木像を安置するなど当寺を擁護した。

正面より見た本堂
但し、今回は外陣より参拝のみ。

参道手前には 「淀君茶室の庭石」 が鎮座
徳川時代になると家康始め歴代の将軍から寺領が安堵され、八幡宮領内や近隣に末寺数ヶ寺を組織した。
当時の古文書が現存しているほか、寺紋には豊臣家の太閤桐と徳川家の三つ葉葵と両家の家紋使用を
認められていた。
第十九世・廓翁鉤然(かくおうこんねん)は大奥総女中頭・右衛門佐局の支援を受け、
将軍綱吉と御台所より袈裟を賜り、各地を勧進行脚して寺観を整えた。
元禄13年(1700年)には多くの雲水が毎年修行する常法幢地の寺格を得て洛南有数の禅苑となった。

本堂前からの眺め
百日紅の奥に建つのが庫裏。

庫裏の前に置かれた陶器製の卓と椅子
明治の神仏分離では男山の仏教施設は悉く破却されたが、八幡宮三の鳥居付近の堂に祀られていた
行教像は紀中津御祖神と改称して難を免れ、明治6年(1873年)に墓所のある当寺に戻った。
現在は開山堂に祀られ平安初期の彫刻として国の重要文化財に指定されている。
奥の院杉山谷不動堂にある矜羯羅(こんがら)童子と制多迦(せいたか)童子立像は
14世紀後半作の等身大の貴重なものである。

庫裏の前の天然の庭

庫裏玄関前の池

間近で見た池
境内には江戸初期に活躍した大坂の豪商・淀屋辰五郎を始め徳川家の夫人右衛門佐、
淀城主・永井公とその家老一族、模型飛行機の元祖・二宮忠八の墓がある。
更に細密写生主義を貫き丸山派から脱皮して独自の画風を確立した長澤蘆雪の墓もある。
書院は伏見城の遺構を移築したもので、八幡市域では現存最古の書院建築である。
上段の間に違い棚を設け、金具には太閤桐、襖・杉戸には狩野山雪の筆に拠る
「竹に虎」「御所車」「瀑布図」が描かれている。また鰐口には元弘2年(1332年)の銘がある。
書院縁側から京都・宇治・淀川に向けた眺望は絶景と称され、秋には色鮮やかな紅葉が
幻想的風景を映し出す。』 とあります。

神應寺説明書

神應寺御朱印
場所柄、石清水八幡宮の神宮寺という扱いで、そのため神應寺と名付けられたと思っていましたが、
應神天皇に由来するもののよう。文字をひっくり返したのは天皇への敬意でしょうか?
歴代の天下人から崇敬を受け、明治の廃仏毀釈でも廃寺とならなかったようですが、
昭和11年の山津波が痛手だったのでしょう。堂宇全体も新しい雰囲気で本堂は外陣のみ。
それに続く座禅堂や寺子屋も現在は使用されている様子はありませんでした。

本堂に続く座禅堂

庭の奥には旧寺子屋が

寺子屋の前面
奥に続くのは座禅堂で、更に奥には本堂が建つ。
御朱印を拝受するため事務所へ向かいましたが、対応下さった住職夫人の話では、
一般公開は秋の法要の時期だけだそう。名刹の割に参拝者が少ないのはそんな事情もあるのでしょう。
と思っていたら説明書には¥500で拝観可能との記載が。但し要事前予約でした。
こうなると行き当たりばったりで来たのを【後悔】する事頻り。周辺は紅葉も多いので
次は是非秋に参拝して境内や書院で目の【ほうよう】をしたいものです。

境内には豊川稲荷社も

日陰には未だ紫陽花も
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飛行神社
この日は7月28日に配布開始された第20弾MHCのために大阪府下を右顧左眄ではなく右往左往。
南海空港線の岸和田で下車し港まで歩いて1枚。それから高野線の大阪狭山で下車して狭山池まで歩いて1枚目。
たかが2枚ですが終わったのはお昼前。直線距離は大したことはありませんが、特に空港線と
高野線の乗換に天下茶屋まで戻るのでロスが大で堺駅で下車してから堺東駅まで歩きましたが、
結局余計に時間が掛かりました。マンホールだけに水ものですね。
御堂筋線で淀屋橋まで戻り京阪電鉄に乗り換えて石清水八幡宮前で下車。
昔は八幡市という名前で急行停車駅でしたが、急行が殆どなくなった今は、実質は普通のみ。
石清水八幡宮が国宝になり、駅名も改称したにも拘わらず却って不便になりました。
これが解消されるのはいつの事でしょうか?

岸和田港の配布場所に置かれたカラーマンホール

同時に飲料水も配布

この日の収穫は3枚
駅で下車すると観光案内所の出張テントが駅前でMHCを配布中だったので、この日の3枚目をゲット。
さて、このまま帰宅するのも何なので駅周辺を散策しますが駅前にはエジソンの胸像が。
関西では良く知られた話ですが、エジソンが白熱電球の実用化に向けて世界中の竹を集めて実験したところ、
八幡産の真竹が1000時間点灯に成功。その後の実用化に結び付きました。1880年の事です。
電灯に関しては【白熱】したものがあったでしょうが、最終的に八幡の竹が使われたのは郷土の誇りで、
この胸像になったようです。

八幡市マンホールカード

石清水八幡宮駅前にあるエジソンの胸像
エジソンに比べると知名度は低いですが、ここは同じく発明家の二宮忠八ゆかりの地。
駅近くには彼の手になる飛行神社が鎮座します。
飛行神社は
『日本で初めて動力飛行機を発明した二宮忠八に拠って大正4年(1915年)に創建。
空を飛ぶ事に興味を持った忠八は二十代の頃、カラスが滑空する姿に着想を得て固定翼の
「カラス型飛行器」を制作、明治24年(1891年)に飛行に成功。
その後、人が乗れる複葉型モデルの「玉虫型飛行器」を設計、当地で製作を始めたが、
完成前の1903年、ライト兄弟が有人飛行を成功させたと聞き、製作を断念した。

道路に面した飛行神社入口

飛行神社本殿に参拝
しかし飛行機の発明以来、航空事故が多発した事に心を痛めた忠八は私費を投じて犠牲者の霊を祀る
神社を創建したのが始まりである。昭和11年(1936年)には忠八の死に拠り一時廃絶するが、
昭和30年(1955年)、息子の顕次郎に拠って再興された。宮司は代々、二宮家の人が務める。
本殿中央には空の神である饒速日命、向かって左側は日本薬学会の偉人を祀る薬光神社、
右側は航空事故で亡くなられた航空殉難者と航空業界の先駆者を祀る祖霊社で、これは世界は
同じ空の下で繋がって居ると言う忠八の信念で、国籍に関係なく全ての犠牲者を祀っている。
また境内には零戦戦闘機の機首部、航空機の動力部が展示されている。』 とあります。

境内に展示された零式艦上戦闘機の機首部
昭和58年10月に大阪湾で漁網に掛かり岸和田漁港に引き上げられたもの。

こちらは戦闘機のエンジン部か?
所謂式内社や県社などの古社ではありませんが、航空関係の神社としてそれなりの参拝者はいるようで、
複数の御朱印も掲示されていました。機首部が展示されているのも飛行機所縁らしいですが、
引き揚げられたのが、今朝訪れた岸和田漁港というのも何かの縁でしょう。
忠八の偉い所は、発明の栄誉は譲っても、飛行機の発明に関わった人間として、
その犠牲者を鎮魂した点。私が無知なだけでしょうが、ライト兄弟はそのような事をしたのでしょうか。
この辺りは一神教ではなく多神教である東洋的な見方を感じます。

当社で拝受できる御朱印一覧
聞くところでは、ライト兄弟に飛行機の実用化に先を越されたのは、資金面に難があったからと仄聞します。
当時のアメリカと日本の国力の差を実感する話ですが、そんな状況下にあっても世界に比高する業績を挙げたのは
誇るべきでしょう。真竹は使われた【だけ】ですが、飛行器は紛れもなく日本人の努力の賜物です。

参拝後はほうじょう川に架かる安居(あんご)橋を渡り男山へ

横から見た安居橋
「天才は99%の努力と、1%の霊感から成る。」 というのは発明王エジソンの言葉として人口に膾炙していますが、
これは原文では努力が発汗を表すパースピレーション、霊感がインスピレーションと韻を踏む文になっています。
よく天才には努力が必要だという事で使用されますが、本当のところエジソンは
「霊感のない人間は努力をしても無駄だよ」 と言いたかったのだとか。
努力家にはかっがりする話ですが、忠八は霊感も備えた発明家であったのは間違いないでしょう。

たいこ橋である安居橋の中央を往く

橋上から川下を見る
欄干には 「ほうじょうばし」 と記されるが、地図では大谷川。
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【往路】JR京都(6:37) → (山陰本線) → JR園部(7:21→7:25) → JR下山(7:53)
下山駅前 → 徒歩20分 → 大福光寺
【復路】JR下山(9:40) → JR園部(10:13→10:17) → JR京都(10:53) → 徒歩15分 → 西本願寺 → 京都駅前

雲晴山 大福光寺(真言宗御室派) 重文・多宝塔
本堂に続き、もう一方の重文・多宝塔を拝観。重文・多宝塔は、
『創建年代は明瞭ではないが、足利尊氏に拠って暦応2年に建立されたとされる。
方三間二層檜皮葺で、内部に須弥壇と来迎壁を持つ。鎌倉から室町の様式を今に伝え、
明治37年に特別保護建造物、昭和4年に国宝、昭和25年より重要文化財になったのは本堂と同じである。

本堂前から見た多宝塔

木立に囲まれて建つ多宝塔

正面より見た多宝塔

入り口方面から

これは本堂側から
天正年間の兵火に遭って本堂・多宝塔を残してことごとく焼失。
元和5年園部藩主入部に拠って修理・宮繕の外護を受けた。
寛文年間(1661~1673年)には祐円法師に拠って再興を果たしている。
塔の外側には蟇股12枚が嵌め込まれており、内4枚は江戸の貞享元年の補足。
屋根上の相輪は露盤名に拠れば宝暦8年に改造されたものである。』 とあります。

下から見上げた多宝塔

多宝塔の亀腹と屋根裏の組物

屋根の上の相輪

壁面の蟇股 (正面より反時計回)
これは松と山並み

鳳凰と花(牡丹か?)

これも牡丹?
天正年間の兵火で唯一残った堂宇が本堂とこの多宝塔とありますが、
近接している二堂だけが残ったというのも不思議な縁ではあります。
焼失した伽藍は遥か下界にあったのでしょうか?
木目を活かした造りの本堂に対し、多宝塔は極彩色の建築。
訪れる人がどちらに目が行くかと言えば、当然こちらのようで、観光の写真や郵便局の風景印にも
大福光寺を代表する建造物として多宝塔が描かれています。






内陣が見れないのは残念ですが、外に嵌め込まれた蟇股は色褪せることなく近くで拝観できるので、
長時間見ていても苦になりません。
こうして上りの電車に合わせて境内を辞去しましたが、紅葉の季節には「帰る、又」見に来るとなりそうです。



多宝塔からの本堂の遠望

下山郵便局 ; 重文・大福光寺多宝塔
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雲晴山 大福光寺(真言宗御室派)
駅からアップダウンを繰り返しますが、息がアップしたり身体がダウンすることなく、20分で寺院門前に到着。
重文を所有する寺院は塀で囲まれる事もなく、木立の向こうに伽藍が建つだけの状態。
拝観料不要でいつでも拝観可能なのは大いに助かりますが、維持するのには苦労がありそうです。
早速、門前で一礼して境内参拝。

山門や塀のない伽藍
雲晴山大福光寺(うんせいざんだいふくこうじ)は、
『延暦年間(782~806年)に鞍馬寺の中興法印・釋峰延が毘沙門天守護のため創建。
創建時は現在地の北東にある空山(或いは深山)という標高595mの山の中腹で、屋敷跡には今も礎石が残る。
その空山の麓を下山、下の谷を鞍馬谷と名付け、現在も下山、鞍馬谷の名称がそのまま残っている。
一時は密教流布の根本道場として栄えたが、山上にあるため次第に衰微した。

共に重要文化財の多宝塔と本堂
その後、元享年中に足利尊氏が丹波路に至り、当寺の毘沙門天を信仰し戦勝の暁には
立派に修復建立せんと願をかけた。
幾多の戦いに勝利を得た足利尊氏は、正中2年に毘沙門堂・大福光寺等を山下の下山の地に移す事を計画。
嘉暦2年(1327年)に現在の地に移転、南北朝時代以降は足利将軍家の祈祷所となった。

重文・本堂遠景

正面より見た本堂の堂々とした構え

本堂近影
本堂は、俗に毘沙門堂とも言い、地名から地元では“蕨の毘沙門さま”と呼ばれる。
本尊の木像毘沙門天立像は鎌倉時代の作。鎌倉時代の建築であり方五間単層入母屋造檜皮葺で、
明治37年に特別保護建造物、昭和4年に国宝、昭和25年より重要文化財になった。
棟木には嘉暦2年10月23日上棟と記され、建築様式から見ても鎌倉建築の特徴を現わしており、
中でも菱欄間・格子戸は有名である。

本堂に掲げられた扁額

本堂前面に向拝はなし

本堂軒下の組物
内陣と外陣に分かれ、内陣は土間になっており礎盤がある。土間になっているのは非常に珍しい。
天井には彩色が施された跡が残り、外陣の後方を廻れないのが大きな特徴で日本に於いても数少ない。
寺宝に重文・紙本墨書方丈記・玉篇巻第廿四断簡を始め、絵馬に大永5年(1525年)の狩野元信筆の
板絵著色竹虎図、建武4年(1337年)の禁制札、鎌倉~室町時代の懸仏15面等がある。
中でも『方丈記』写本は著された32年後の寛元2年(1244年)に書写された最古の写本の一つ。
『玉篇』は唐代の物である。』 とあります。

本堂隅の構造

側面より見た本堂

大福光寺関連の文化財一覧
毘沙門さまを祀る本堂は外陣のみの参拝。菱欄間・格子戸は見ることができましたが
内陣へは入れなかったので、土間や天井を確かめることは出来ませんでした。
管理が大変なので仕方がない面はありますが、ここまで来て残念な思いが残ります。

解説にある格子戸?

こちらが菱欄間?
さて御朱印を拝受しようと境内を見渡しても、寺務所や受付らしきものは一切なし。
地方の寺院は維持が困難で無住の所が多いと聞いていたので「大福光寺よ、お前もか!」と呟く事に。
ふと境内の右手に目を遣ると道路の遥か向こうに、松の木がにゅーっと生え、白い塀がちらちらと見えます。
もしやと思い近付くと、山門には表札がありませんでしたが、門前には“大福光寺駐車場”の案内板が。

本堂横の道路の遥か先にお寺にような建物が目に

山門前へ到着

境内側から見た山門

門の前にある案内板
境内に入って寺務所らしき玄関でベルを鳴らすと奥様が出て来られ対応。
私 ; 「大福光寺さんはこちらですか?」
夫人 ; 「大福光寺は手前ですが。」
私 ; 「何メートル程、手前でしょう?」
などと 『池田の猪買い』 の様な遣り取りがあったかどうかは定かではありません。

白壁の内側の建物

こちらが現在使われている本堂

本堂横の庭

壁際に建つ石碑
説明がないので詳細不明なのが残念。
分かった事は、訪問したのが現在の大福光寺で、檀家の法要等は隣接する新しい本堂で行い、
伝統行事は重文の本堂で行うそう。宗教施設と文化施設の区別が厳密にできていました。
言って見れば二刀流ですが、文化財を護る上では有効な方法の一つなのかもしれません。
結果的に現在の大福光寺で書置き御朱印と説明書を拝受。当初の目的は無事クリアできました。
他に最古の写本である重文『方丈記』があるそうですが、こちらは京都国立博物館に寄託中。
方丈での拝観はなりませんでした。

こちらが寺務所

頂いた説明書
パンフと言うよりも学術書への記載か?

大福光寺御朱印
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27号線の上大道交差点に立つ案内板
文月最初の金曜日は会社行事。
「七夕祭りでもするんかいな?」と思いましたが、実はJR京都駅前のホテルにて経営計画発表会。
しかも12時50分会場入りとあって、午前中を使っての京都巡礼。七夕の日の思わぬ【棚ぼた】です。

26号線沿いの高台にあるJR山陰本線下山駅

まさか交通系カードが使えるとは思わず乗車証明書を貰った
といっても市内では芸がないので始発の山陰本線で下山下車。道は曲がっているものの地図上の直線距離は1㎞。
10分程度で着くと思いましたが、高台にある駅から高屋川まで下り再び上ると言うアップダウンコース。
坂を上り田圃の横を抜けて行きますが、所々に案内板が立っているので迷う事はありません。
駅で降りたのは私一人ですが、それなりに訪れる人がいるのでしょう。

高屋川に架かる80号線を渡り再び細道を上る
下山駅舎は右手の山の中腹に見える。

細道の登り口に立つ寺院の案内板

案内板の脇には毘沙門天の名が刻まれた石灯籠が建つ
路を抜けると人家の脇に茅葺の家が。案内板には国指定重要文化財・渡邉家住宅と記載。
隣の南丹市には美山かやぶきの里があるので驚くには値しませんが、普通の住宅の間に建つのは
珍しいと言えます。唯、現在も所有者の自宅敷地内なので見るのは外観のみでした。
こうして漸く門前に到着したのは駅を出てから20分後、トホホの徒歩巡礼でした。

坂を上って27号線まではこのような道を行く

重要文化財・渡邉家住宅

渡邉家を抜けると木立の向こうに目指す大福光寺が見える
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 電車は日中10分間隔で運行
【往路】阪急梅田 → (阪急電車) → 西向日 → 徒歩5分 → 石塔寺

法性山 石塔寺(本化日蓮宗)
この日は、買い物のため午前中は高槻市内へ向かいますが、その前に足を延ばして阪急西向日駅で下車。
実は今年3月5日に参拝してブログには投稿したものの、御住職が不在のため御朱印を拝受できなかったお寺へ再訪。
過去のブログはこちら
民衆の日常に入り込んだ日像上人(2023.3.20)
再訪しても再び空振りの恐れもありますが、西向日駅のポスターに
「青もみじとあじさいの御朱印めぐり(4月29日~7月31日)」
とあって目指す寺院も名を連ねていたので、期間中ならば大丈夫と判断した次第。

青もみじの御朱印パンフ
前回と異なり西向日駅から北上しますが、二度目なので迷うことはなし。
寺の西川の島坂は延暦4年(785年)長岡京造営長官であった藤原種継が暗殺された場所だとか。
遷都して僅か1年後の側近の暗殺に始まる一連の政争は僅か10年で長岡京を放棄、
平安京遷都への原因にもなりました。まさに坂を転げ落ちる速さです。

北側より見た鳥坂

山門から本堂を見ると木々が生い茂る様が分かる

本堂への参道も木陰に

礎石の場所から
境内に入ると3月の訪問時に比べ、境内の木々は茂って濃い緑に色付いていました。
洛西御朱印めぐりは計21社寺で御城印は2ヵ所。
西国札所の善峯寺、紫陽花の楊谷寺、紅葉の光明寺、キリシマツツジの長岡天満宮はさておき、
他の寺社は青もみじ・紫陽花と特別縁があるようには見えません。
それでも社寺がコラボを採っているのは、時代の流と言うべきでしょうか?

本堂西側の庭園と池もこんな様子

池に架かる石橋の奥に立つ庫裏

石橋の袂に咲く花は?
とりわけ当寺は「不受不施派」に属した時代に弾圧を受け【不自由】したので、
異論を【ふせ】て参加したのかもしれません。
尤も、そのような【七面堂】くさい事を言わずに素直に楽しめば済む事ですが…。

前庭には未だ紫陽花が

七面堂の扁額

妙見堂の扁額は「迹殿」

御朱印拝受のため庫裏へ

青もみじ御朱印 書置きで¥500

ついでに説明書も入手
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<コース> 準特急は日中10分間隔で運行
阪急梅田 → (準特急) → 長岡天神 → 徒歩8分 → 長岡天満宮 → 徒歩15分 → 乙訓寺

大慈山 乙訓寺(真言宗豊山派 洛西観音霊場第六番札所)
古刹である乙訓寺には本堂を初め諸堂が境内に建ちますが、普段から入堂禁止の本堂に加え、
毘沙門堂・地蔵堂も拝観入堂停止中。
「僧侶の居る寺で【にゅうどう】禁止とはどういう事やねん!」 と思っても所詮ごまめの歯ぎしり。
また開門は8時~17時ですが、御朱印等は10時~15時。10時過ぎまで止まりましたが、
一向に納経所が開く気配もなくパンフも貰う事叶わず。一体どうなっているのでしょう?
仕方なく、案内板を見ながら外陣から参拝する事に。
『寺宝には平安時代の重文・木造毘沙門天立像や鎌倉時代の木造十一面観音像等がある他、
境内には諸堂が建つ。
本堂脇の鐘楼は方一間・入母屋造。江戸時代中期で牧野成貞の寄進に拠る建立とされるが、
記録を欠くため建築年は不詳。
梵鐘は戦時中に供出され昭和42年の再鋳。以前の鐘銘を再刻して居り、元禄9年(1696年)10月精海らが
三条釜座の信州大掾藤原国次に造らせたと判明している。

本堂脇の鐘楼

参道を挟んで両側に建つ地蔵石塔と地蔵堂
山門から参道を真っすぐ進むと左手に建つのが地蔵堂。内陣には石仏である日限地蔵尊を祀り、
道を挟んだ向かいには石地蔵の塔がある。
本堂前の鎮守八幡社も同じく元禄8年の築。一間社流造で享保8年(1723年)の修理で檜皮葺から杮葺に、
明治以降は桟瓦葺に変えている。平成元年の修理に際し、軒の一部を杮葺にしその上に銅板を葺く仕様に変更した。

地蔵石塔近影

個性豊かな石地蔵
牡丹で知られえる当寺であるが、巨木も多く、山門を過ぎた右手には楠、参道の先の十三重石塔の
左には菩提樹がある他、境内東の庫裏手前にはクロガネモチが聳える。
推定樹齢400~500年で、京都府屈指の名木として天然記念物となっている。』 とあります。

地蔵堂正面

地蔵堂内陣の御本尊

奉納された大草鞋
そんな中で、参道正面の十三重石塔の左にひっそりと建つのが早良(さわら)親王供養塔。
早良親王は
『光仁天皇の皇子で桓武天皇の同母弟。父帝の意向もあって桓武天皇の皇太弟に立てられた。
長岡に都があった延暦4年(785年)、長岡京造営長官であった藤原種継暗殺事件に連座して、
皇太弟早良親王が淡路島へ流刑される前にこの寺に幽閉。親王は断食して無罪を主張し、
配流の途中、現在の守口市高瀬町といわれる高瀬橋付近で没した。

鎮守社の鳥居

鎮守八幡社

八幡社本殿
しかしその後、桓武天皇の母・高野新笠、藤原乙牟漏皇后や妃が相次いで死亡、
安殿(あて)親王(後の平城天皇)も精神に異常を来すなど皇室には不幸が続き、
また疫病・飢饉・洪水も頻発。親王の怨霊を恐れた桓武天皇は長岡京を10年で放棄し平安京に遷都した。
延暦19年(800年)には早良親王にも崇道(すどう)天皇の号が追贈された。
嵯峨天皇の弘仁2年(811年)には入唐より帰朝した空海が別当となり、京都の高雄山寺(神護寺)から移って
この寺に1年程住持した。最澄が空海を訪問し、密教関係の典籍や絵図を見せて貰ったのはこの間の事である。
一説には空海の入山は早良親王の怨霊を鎮める朝廷の意向であったとも言われる。』 とあります。

十三重石塔脇にひっそりと建つ早良親王供養塔

供養塔の奥にあるのは毘沙門堂か?

境内の末社
疫病・飢饉・洪水も頻発。親王の怨霊を恐れた桓武天皇は長岡京を10年で放棄し平安京に遷都。
延暦19年(800年)には早良親王にも崇道(すどう)天皇の号が追贈されたと言いますから
【早良の神に祟りあり】だった訳です。
現代の物差しで見るのは問題ですが、心に疚しさがなければ怨霊を恐れる必要は無い訳で、
桓武天皇には弟を無実の罪で廃太子にした負い目があったのでしょう。
それにしても早良親王が守口で亡くなったとは初耳。車やバイクの【音量】の話は聞きますが、
親王の怨霊の話は地元でも【ついぞ】聞いたことがありません。
崇道天皇となった事で、怨霊も【すどお】りしたのでしょう。

庫裏前の庭

庫裏の手前に聳えるクロガネモチ

クロガネモチの枝越しに見える庫裏と書院
そういえば、寺の建つ乙訓郡(おとくにぐん)は大宝律令施行(701年)の際に、
葛野郡(かどのぐん)から分立したので、前者を兄国、後者を弟国と呼んだのが由来とか。
後世に乙訓郡と変わりますが、そのままにしておいても良いものを敢て改名したのは、
弟の怨霊を恐れた桓武天皇に対して、官僚が【かどの】忖度をしたためでしょう。
それまで【おかんむ】りだった帝が【かんむ】りょうと感激したかは疑問ですが…。

菩提樹

庫裏前の藤棚

土産は駅への途中にある喜久春にて「たけのこ最中」を
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大慈山 乙訓寺(真言宗豊山派 洛西観音霊場第六番札所)
9時前に参拝した長岡天満宮のキリシマツツジは先週がピークで早くも萎み始めでしたが、
こんなことは【きりしま】せんと次なる寺院へ。
天満宮八条ヵ池前の道路を北上。途中から細い道に入りますが、
ほぼ真北で案内板もあるので迷い道には成らず。
今里という住宅地の中にありますが、西門に至ると年中閉鎖の貼り紙が。
「そんなの平気の平左(へいさ)!」と気を取り直して南門に向かうと巨大楠の手前に色も鮮やかな赤門が。
思わず天満宮の続きかと勘違いしそうです。

朱色も鮮やかな山門(表門)は江戸時代の建立
乙訓寺は聖徳太子が創建の古刹で、空海も1年間ここに住んでいます。
山門前の石碑にもその旨が刻んでありました。境内の牡丹が有名で訪れましたが、
山門前で掃除されていた地元の方が、「先週が見頃でした。」 と残念な答え。
この日もネットで開花状況を確認した積りがどこかで【ボタン】の掛け違えがあったのでしょう。
唯、拝観料を訊ねると「ピーク時のみなので、今は無料です。」と嬉しい答え。
境内を見ると未だ咲き残っていたので、拝観料(¥500)なしと言う【お得に】見る事ができラッキーでした。

奥の山門から続く参道は、左手に楓、右手に牡丹がお出迎え

参道脇の白牡丹

薄紅色の牡丹

こちらは一般的なピンク色の牡丹
大慈山乙訓寺(だいじさんおとくにでら)は、
『推古天皇の勅願で聖徳太子が創建したという古刹。
長岡に都があった延暦4年(785年)、長岡京造営長官であった藤原種継暗殺事件に連座して、
皇太弟早良(さわら)親王が淡路島へ流刑される前にこの寺に幽閉。
親王は断食して無罪を主張し、配流の途中、現在の守口市高瀬町といわれる高瀬橋付近で没した。
しかし、その後、桓武天皇の近臣に不幸が続くなど、親王の怨霊が皇族や貴族を悩ましたので
長岡京は10年で放棄され平安京に遷都。早良親王にも崇道(すどう)天皇の号が追贈された。

深紅の牡丹

各色揃い咲き

参道の突き当りは十三重石塔が建つ
嵯峨天皇の弘仁2年(811年)には入唐より帰朝した空海が別当となり、
京都の高雄山寺(神護寺)から移ってこの寺に1年程住持した。
最澄が空海を訪問し、密教関係の典籍や絵図を見せて貰ったのはこの間の事である。
一説には空海の入山は早良親王の怨霊を鎭める朝廷の意向であったとも言われる。
境内を中心とする一帯からは白鳳期~平安時代の瓦が出土、講堂や僧坊と推定される建物跡、
それら瓦を焼いた瓦窯跡などが確認され、かつての寺域は東西三町(360m)・南北二町(120m)以上
あった大寺院であった。宇多法皇が行宮を置いた事から、法皇寺とも称されている。

左折すると修行大師像が建ち、奥に本堂が見える

牡丹の奥に見える本堂

正面より見た本堂

本堂近影

一重宝形造りの本堂
室町時代には内紛に拠って足利義満が当寺を南禅寺の白英徳俊(はくえいとくしゅん)に与え
禅宗寺院として再出発している。
江戸時代の元禄年間になり護持院隆光が5代将軍綱吉の母・桂昌院から寺領100石の援助を受け再興を計画。
当時は南禅寺塔頭の金地院の兼帯地であったため、東山豊国神社にあった文殊院屋敷を拝領して交換するという
手段を取っている。元禄7年(1694年)12月に工事に着手、翌年5月に竣工、6月に落慶した。

平成4年に寄進された不動明王

本堂向拝下にて

本堂前面の扉と蔀戸
但し、内陣へは入れず参拝は外陣からのみ。

本堂前面から見た内陣の様子
御本尊は秘仏で厨子内、前には鏡が置かれてある。
本堂は宮殿(くうでん)附きで正面三間・側面五間の一重宝形造で瓦葺。
当初は大師堂と呼ばれ、宮殿には本尊の合体大師像が祀られている。
これは八幡神と弘法大師を合体させたもので秘仏である。
宝永2年(1705年)には大和長谷寺の芳運房元貞(ほううんぼうがんてい)が入山して第一世となり、
翌年には護摩堂が建立された。
再興されて暫くの間は侘しい佇まいの寺であったが、その後、本山の長谷寺より二千株に及ぶ牡丹が移植され、
現在では「ぼたん寺」としても名高い洛西屈指の古刹である。』 とあります。

かつては大師堂と呼ばれた本堂

側面より見た本堂

乙訓寺御朱印 (平成6年拝受)
この日の寺務所は何故か閉鎖中。

本堂の屋根
聖徳太子はさておき、早良親王・空海・最澄と歴史教科書に登場する人物がここに足跡を残したのはほぼ確実。
室町期に南禅寺の傘下になったのは思わず【なんぜん?】と言う所ですが、
寺社まで支配下に置こうとした義満なりの考えがあった筈です。
それ程の古刹ながら京都での知名度はいま一つ。やはり平安京から外れた事が大きいのでしょうが、
今は歴史よりも牡丹で知られています。
当寺の牡丹は本山の長谷寺の影響。芍薬は字に薬の文字が使われていますが、
似た牡丹も古来より根が薬用に使われたようで、僧侶は今の薬剤師の役目も果たしたとか。
寺に牡丹が植えられているのはその影響と考えるのが自然です。
牡丹は中国では好まれた花で、特に唐代が有名。かの楊貴妃も牡丹に譬えられたとか。
そう言えば、日本でも美人を「立てば芍薬、座れば牡丹。歩く姿は百合の花」に譬えています。
尤も本家の中国では牡丹を 「遠くから見ると美しいが、近くで見るといまいち」 と言う風に使うので
女性に対して使うときには注意が必要です。こちらも遣唐使で伝わる際に【ボタン】の掛け違えがあったのでしょう。

本堂前の牡丹と躑躅

本堂脇の牡丹園

牡丹園の白牡丹

これは珍しい黄色

深紅の牡丹
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長岡天満宮(旧府社)
この時期だけ開かれる中堤の中央参道を往く。
快晴の今日は、キリシマツツジを求めて洛西へ。通勤途中なので交通費は無料ですが、
しょっちゅう乗っているだけに休日のように思えないのは気のせいでしょうか?
3月に観梅で参拝したばかりの長岡天満宮ですが、翌月には早くも次の観光祭りが開催。
4月下旬から始まる「キリシマツツジまつり」がそれで、鳥居から境内に至る参道と
八条ヶ池の周辺に植えられている木々が深紅の花を咲かせます。
八条ヶ池を南北に分ける中堤には参道が三本あり中央は普段は閉鎖中ですが、
この時期のみ開放。これだけでも一見の価値ありです。

旧太鼓橋から南八条ヶ池を見る

キリシマツツジ近影
多くは満開を過ぎていたが、一部はこのような状態。

キリシマツツジと池の奥に見える錦水亭

南側の池の縁を彩るキリシマツツジ
『池はほぼ中央の中堤を境に南北に分けられ、その両側の参道には市の花であるキリシマツツジが植えられている。
九州南部の霧島で知られるが、当社のものはほぼ野生種。高さも2mを越え樹齢100~150年と考えられている。
毎年4月下旬頃から鮮紅色の花を多数咲かせ、満開時には八条ヶ池に映える姿は壮観である。』
とあります。

北側の池の堤防から中堤を望む

堤防上から水上橋と六角舎の眺望

この時期限定の御朱印
但し、社務所は10時からもあって今回は拝受できず。
花自体は小さいですが、最盛期には葉が隠れて一面に赤い絵の具を撒き散らした様。
観光案内にも載っているのもこの写真です。キリシマツツジは丁度池を縁取る形。
神社では鳥居や太鼓橋が朱色である事は多いので、それを意識しての事でしょうか?
尤も寺社がどのような花を植えるかは自由ですが…。
と4月下旬に入って最初の週末に参拝しましたが、既に萎れ初めた段階。
先週くらいが最盛期だったようですが、まつり開始時に終盤とは、まさに後の祭り。
地球温暖化にはとどまるところを知らないようですが、こんなことは
【きりしま】せんと次なる寺院へ行くことにしました。

境内は躑躅も花盛り

ピンクの躑躅

白躑躅

天神さまの直ぐ北側に停車中のファイアーエンジン
[参考書]
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<コース>
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笠置駅 → 徒歩30分 → 笠置寺
【復路】JR笠置(11:26) → JR加茂(11:34→11:43) → (大和路快速) → JR天王寺(12:37)

鹿鷺山 笠置寺(真言宗)
階段を上った山頂が行在所跡
また笠置山は鎌倉幕府打倒に燃えた後醍醐天皇が都を逃れて立て籠もるも衆寡敵せず敗れた場所。
元寇に続く元弘の変であります。
この時の歌が上記の御製。この歌には思い出があって、中学時代「五ツ木の模擬試験」で他の歌と並んで、
枕詞・掛詞・縁語を選べと出題されました。何の事がさっぱり分からず、あてずっぽうで書いて見事不正解。
学校の授業が遅かったためですが、それ以来リストラならぬトラウマとなっています。

階段上り口にある説明板
今考えると「さして」が笠の縁語、「天(あま)が下」が天下と雨中の掛詞でしょうか。
尚、詠んだのは同じ京都府下でも井手町だとか。そういえばちゃんと「いでしより」と歌っています。
やはり【援護】は大事。平等石を過ぎて山頂へ近づくと、後醍醐天皇の行在所跡が姿を見せます。

石段には散り椿が

敵も登り難そうな急勾配
『元弘元年(1331年)8月27日、自ら行った政治改革に失敗、
御所を出られた後醍醐天皇を受け入れた場所。標高290mの山頂である。
笠置山を皇居とされた天皇が詠まれたのが、
・うかりける 身を秋風に さそはれて 思わぬ山の もみじをぞ見る
という歌である。
天皇方二千五百、笠置山に向かう北条方(幕府軍)七万五千という大軍を相手に攻防一ヶ月。
ついに9月28日夜半、風雨を味方にした北条方五十名の決死隊が奇襲攻撃を敢行。
天皇方は敗北し、大弥勒磨崖仏を始め笠置寺山内四十九ヵ寺は全て灰燼に帰した。
但し、元弘の戦乱の中、天皇の居られた場所は定かではなく、現在の行在所跡は
1900年に笠置山顕彰会に拠って今の形に整備された。

山頂に置かれた歌碑

後醍醐天皇御製
『太平記』には「笠置の城は山高くして云々」と書かれているが、
あくまでも天皇の仮御所であり正式な築城はされなかった。
しかし室町時代以降、山頂の行在所跡を本丸と見立てたのか
一段下がったこの場所を二ノ丸跡と呼ぶようになった。

山頂にある 「行在所跡」 とされる場所
宮内庁管轄なので閉鎖している?

一段下がった場所は二ノ丸跡
宝蔵坊跡は、奈良時代に創建された笠置寺塔頭四十九ヵ寺の財宝を集めた宝物庫のあった場所。
9月28日の幕府側の奇襲で、塔頭と同じ運命を辿った。
元弘の戦い600年を記念して約80本の紅葉が植樹され、その場所は
「もみじ公園」としてライトアップされる名所となっている。』 とあります。

春の 「もみじ公園」

シロヤマザクラか?
【現行の変】な所を改革すべく【元寇】に続く元弘の乱を起こした後醍醐天皇ですが、結果的に敗北。
自身は隠岐の島へ配流、主だった家臣も処刑されます。弓の名手足助重範も幕府側に切られました。
こうして見ると90年前の後鳥羽上皇と全く同じ轍を踏んだ訳ですが、そうならないのが歴史の魔訶不思議な所。
河内の楠木正成を筆頭に各地で蜂起が起こり、幕府側の有力武将・足利尊氏が幕府を裏切った事で
幕府は滅亡する事になります。

もみじ公園を抜け下山路へ

下山路脇のミツバツツジ
体制に不満を持った御家人が増えた事、各地で力を付けた悪党が表舞台に出た事など、
理由は様々ですが、恩賞への不満が倒幕の【温床】になったのは疑いありません。
得宗専制体制と言っても所詮、自分に【得そう】な方へ靡くのが人間の性ですから。
というと後醍醐天皇は運が良かっただけになってしまいますが、中世史家・佐藤進一に拠れば、
朝廷や幕府の官職が家に固定されつつあった現状を打破して再配分を目指したのが
建武の新政の主眼だったとか。それを判断するのは歴史の【上級の編】となりそうです。

下山路の終盤に建つ大師堂
明治30年の関西鉄道開通時に笠置駅にあった大師堂を旧正月堂跡に移築したもの。

室町期の石仏弘法大師を奉安する大師堂内陣

合流点に建つ弘法大師像と追悼碑

今は亡き「笠やん」の追討文
受付で墨書頂いた御朱印帳を受け取りましたが、御朱印をされた前住職からこんな話を伺いました。
私 ; 「行在所が山頂にありました。」
前住職 ; 「山頂は本尊弥勒菩薩の頭なので本来は何も建ててはいかんのですわ。」
私 ; 「なるほど。」
前住職 ; 「先代、先々代住職時代から弥勒様の話はタブーでした。」
私 ; 「それはまた何故ですか?」
前住職 ; 「弥勒菩薩の、この世は一つ皆平等という教えが時節に反しましたから。」
日本史上、寺社と政治の関りは深いですが、物凄く重みのある話。
あらためて今の時代に生きている事に感謝しなければなりません。

注連縄門を抜けた反対側に建つ慰霊堂

建物は新しいが由緒は古い毘沙門堂

毘沙門堂由緒
こうして、木を見て山も見て無事終了。
途中で猿に遭遇したので追い掛けましたが、敵もさるもの逃げられました。
お昼には未だ時間がありましたが、お腹もすいたので門前にあるキジ・ボタン料理で知られる「松本亭」へ。
入口へ行くと「本日の昼食は予約のため満席です。」と無情の貼り紙が。
「猿に続いて雉にも逃げられたか!」 と嘆いていると、テイクアウトの案内が。
店の方が準備されていたので伺うと、きじ丼なら直ぐ用意出来て、しかも庭のテーブルでOKとの事。
結局、店内か庭かの違いだけでした。
きじ焼きといっても「かしわ」である事が殆どですが、ここなら期待できそうと思って口に入れると、
鶏とは味が明らかに違いが。
私 ; 「この辺で捕まえたのですか?」
店員 ; 「いえ、雉は国鳥なので捕ってはいけないのですよ。」
私 ; 「ではこの鳥は?」
店員 ; 「店ではコウライキジ(高麗雉)という外国産の養殖を使っています。」
私 ; 「そういえばさっき、猿が横を走り抜けて行きました。」
店員 ; 「太っていたでしょう。」
私 ; 「かなり大きかったです。」
店員 ; 「たくさん食べていますから。」
私 ; 「お店まで残飯漁りに来るのですか?」
店員 ; 「いえ、笠置山は餌が豊富なんです。」
などと貴重な話を聞くことができ、結果【コーライ】でした。
まさか、後醍醐天皇がここに行在所を置いたのはそのためではないでしょうが…。
ここに犬が居れば桃太郎となる所ですが、案内の「笠やん」は猫なのでそうはならず。
御朱印帳も【もうもったろう!】なので、いぬ(帰る)ことにした次第です。

「松本亭」前にて

きじ丼 ¥1200
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【往路】JR天王寺(6:57) → JR奈良(7:44→7:50) → JR加茂(8:04→8:15) → JR笠置(8:24)
笠置駅 → 徒歩30分 → 笠置寺
【復路】JR笠置(11:26) → JR加茂(11:34→11:43) → (大和路快速) → JR天王寺(12:37)

鹿鷺山 笠置寺(真言宗) 伝虚空蔵磨崖仏
御本尊・礼堂に参拝後、正月堂脇の参道を抜け行場巡りを再開。
直ぐに巨石が聳える場所に出ますが、岩の間隙には千手窟龍神社と書かれた祠が建ちます。
『千手窟は古くは「笠置の龍穴」と呼ばれ、大仏殿建立の時には東大寺の良弁和尚が
千手の秘法を行い事業を完成させたと言う。彼の弟子の実忠和尚は、
「天平勝宝3年(751年)、この場所より弥勒菩薩の住む兜率天に至り天乗の行ずる修法を伝授され人間界に移した」
と縁起に記される。十一面観音悔過法発祥の場、仏の世界の入口である。

道の正面に出現した巨石群

巨石の隙間に祠が見える
実忠和尚は天平勝宝4年に山内に正月堂を建立、天衆より伝授された行法を修法。
同年二月には東大寺に二月堂が建立され、この行法が修された。
これが今日まで続く二月堂の修二会(お水取り)であるが、本来は悔過行。
悔過とは我々が知らず知らずに犯す罪について十一面観音の宝前に於いて懺悔する事である。
尚、東大寺には二月堂・三月堂・四月堂はあるが正月堂はなく、正月堂は当山にある。

祠は千手窟龍神社とある

千手窟解説
続く岩肌に描かれているのは伝虚空蔵菩薩像。9mの岩肌に刻まれており、
虚空蔵とは「際限なく入る蔵」の意味で記憶力が良くなると言う御利益で知られる。
図像学的には諸説あるが、当山では虚空蔵菩薩として伝わっている。
寺伝では弘仁年間(810~824年)弘法大師がこの岩に登り求聞寺法を修し一夜にして彫刻したと言う。
彫刻の様式から中国山西省雲崗の磨崖仏に相通じるものがあり、
本尊の弥勒磨崖仏と同じく奈良時代の渡来人の作と言う説が有力である。

千手窟に続く巨石群
虚空蔵尊が描かれているのが右側の石。

伝虚空蔵菩薩像

像下部の花弁
胎内くぐりは笠置山修行場の入口にある。行場入りする前には滝で身を浄めるのが慣例であるが、
当山には滝がないため、この岩を潜り抜けることに拠り身を浄めたと伝えられる。
幕末の安政の大地震で天井岩が落下。以後、切り石を天井として用いている。
今は岩の洞窟を胎内に譬え、通り抜ける事に拠って生まれ変わるとされる。

胎内くぐり入口

胎内くぐり内部

胎内くぐり出口
奥の巨石は虚空蔵菩薩像が掘られたもの。

巨石を左に見て更に進む
太鼓石は巨石が重なったもので、丸く剥がれている右側の部分を叩くと
「ポンポン」と鼓の様な音がする事から名付けられた。
山頂近くにあるのが「ゆるぎ石」。元弘元年(1331年)9月28日、
後醍醐天皇が幕府軍の奇襲を受けた場所にある。
この石は奇襲に備えるために武器としてここに運ばれたが使用されなかった。
こうして使われずに残った岩は重心が中央にあり、端を押すと人の力でも
ゴトゴトと動くので「ゆるぎ石」と呼ばれる。

太古からある太鼓石

太鼓石近影
叩くのは右側。

更に山頂付近へ

視界が開けた場所にある「ゆるぎ石」
平等石は古くは「行道石」と呼ばれ、石の周りを周回できるようになっていたが、
現在は安全に考慮して一部を廻るのみである。
現在では11月から3月頃の早朝、雲海の絶景スポットとして有名になっている。
この付近の木津川は谷間を流れるために紅葉の季節から早春にかけて放射冷却が起こり、
風が穏やかな朝には谷間に立ち込める川霧は雲海になる。宛ら仙界に居るような気分になる絶景である。
貝吹き岩は、元弘の戦いの中で、合図や戦意高揚のために法螺貝が吹かれたとされる場所。
一説では修験者もこの岩上で法螺貝を吹いたと言われる。
眼下には木津川、遠く生駒山を望み、早朝は雲海、夕方は夕日を楽しむ事が出来る場所でもある。』
とあります。

平等石

平等石の上からの眺望

平等石を迂回して山頂へ
宛ら巨石の博物館の様相を呈する笠置寺ですが、ここ千手窟は当山随一のパワースポット。
その意味では本尊・正月堂よりも重要な場所かもしれません。
千年以上の歴史を持つ古刹は、滝・湧水・磐座・洞窟等、開創の起源となった場所が必ずありますが、
ここではこの洞窟。異界への入口でもあり、また通ることで禊に通じるのが一番の理由でしょう。

貝吹き岩

貝吹き岩脇の石碑
お水取りは遠く若狭の遠敷の神宮寺の水源から地下を通り大和へ抜けるとか。
まるでシルクロードの地下水路カナートを彷彿とさせますが、暗渠を通る事で
穢れを除く効果を狙ったとも言えそう。
では当山はどうか?ここは木津川が眼下を流れる地で、伊賀地方から川を通って
運ばれた木材がこの先で陸揚げされ平城京へ向かった場所でもあります。
それが木津という名の由来。千手窟のあるこの山を通る事で木材の禊を行うと考えれば、
笠置の重要さも理解し易いと考えられます。

貝吹き岩付近より眼下を流れる木津川を見る

笠置駅とキャンプ場も視界に
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【往路】JR天王寺(6:57) → JR奈良(7:44→7:50) → JR加茂(8:04→8:15) → JR笠置(8:24)
笠置駅 → 徒歩30分 → 笠置寺
【復路】JR笠置(11:26) → JR加茂(11:34→11:43) → (大和路快速) → JR天王寺(12:37)

鹿鷺山 笠置寺(真言宗)
受付で入山料 ¥300を払い、御朱印を御願いしていよいよ境内巡礼へ。
といっても通常の寺院と異なり一山全部が行場として崇拝を受けているので、行場巡りと銘打っています。
先ず参道左手に建つ総鎮守社にお参り。
『正面の椿本護王宮は、笠置寺一山五十ヵ寺の総鎮守。延喜8年(908年)吉野山金峯山寺より勧請された。
現在の社殿は元弘の戦(1331年)で焼亡後のもので、桃山時代の建築様式で豊臣氏が社寺再興に
用いた手法が随所に見られる。寺蔵文書は未発見であるが、本堂と共に豊臣氏に拠る再興の可能性が高い。
その左側にある春日明神社は、建久4年(1193年)、南都興福寺の僧・解脱上人藤原貞慶は、
春日明神の神託を受け、南都を捨てて笠置寺に入山。以後、15年間に亘り笠置寺復興と南都仏教復興運動を展開した。
入山に際し春日明神を勧請、笠置寺般若臺に一社を建立したが、元弘の戦(1331年)で山内五十ヵ寺と共に焼亡した。
平成28年(2016年)の奈良春日大社の第六十次式年遷替に際し、御蓋山に祀られていた摂社本宮神社社殿の
移譲を受け再興された。』

総鎮守社
それに続く門には注連縄が張られており俗界と聖界の境界を表しています。
傍目には大袈裟に見えますがそれだけ神聖な場所と言う証拠と言えます。
そこを過ぎると道は二手に分かれますが、順路に従い右へ。
正面に巨石群が見えてくると、そこが当山の最も神聖とされる場所になります。

注連縄のある門
右手に建つのは御手洗い。

参道の先に正月堂か見えたらもう直ぐ

左上に巨石が見える
『左に聳えるのが笠置の地名の由来とされる笠置(かさおき)石。
671年、鹿狩りのために当地を訪れた天智天皇の子大友皇子が
馬もろとも巨石の上で立ち往生してしまった。皇子は山の神に
「もし自分を助けてくれるならこの岩に弥勒菩薩の像を刻みましょう。」
と願をかけたところ難を逃れることが出来た。
皇子は後日訪れるための目印として自分の被っていた笠をその場所に置いたと言う。
これが笠置の由来である。

笠置石

笠置石頂部
間に石が挟まっているのは何か意味が?
この岩の手前に建つのが重要文化財の十三重石塔。元来、この場所には
建久7年(1196年)、貞慶上人に拠って木造瓦葺の十三重塔が建立されていたが、
元弘の戦乱によって焼亡。現存する石塔は鎌倉時代末から室町時代初期の作とされ、
元弘の戦いの戦死者の供養塔、或いは貞慶上人が母のために建てた供養塔とも言われる。

重文・十三重石塔

石塔横にある五輪塔
その奥に鎮座するのが笠置寺本尊の弥勒磨崖仏。
難を逃れた大友皇子の発願に拠り天武天皇が造立された石仏と伝わる。
高さ15mの巨石に刻まれた仏は古来より「天人彫刻五十尺の仏」と呼ばれ
天人の作と伝えられるが、最近の調査では奈良時代中期には既に
彫刻されていたようで、天人とは中国大陸から来た人達と考えられている。
この巨石は遥か以前より自然崇拝の対象となっていたようである。
磨崖仏前に建っていた礼堂が創建以来三度の火災に遭い、その都度本尊磨崖仏も
火に焙られ、その結果彫刻された表面は焼け落ちたと伝わる。
この事についてはその信憑性を疑う向きもあったが、平成22年の調査で
かつての彫刻線跡が見つかったことから事実である事が判明した。

石塔前より本尊を見る

正面より見た本尊大弥勒磨崖仏
高さ15mの石に彫られたものだが、今は輪郭が残るのみ。

本尊前から笠置石、石塔を見る
本尊に向かって建つのが本堂とされる正月堂。
天平勝宝4年(752年)、東大寺の実忠和尚は笠置山千手窟より
弥勒菩薩の世界である兜率の内院に至り十一面観音悔過法を学んだ。
その会場として建立した正月堂を起源とする。
東大寺には二月堂・三月堂・四月堂はあるが、正月堂はここ笠置にあって修正会を厳修。
現在、東大寺にて務められる修二会(お水取り)の起源とされる。
十一面観音を本尊とする正月堂と、弥勒磨崖仏の礼拝堂は元来別の物であったが、
元弘の戦乱にて焼失。現在の建物は慶長16年(1611年)に一つの建物をして再興された。』
とあります。

本尊の前に建つ正月堂

正月堂内部

正月堂奥の内陣
ここで祈祷が行われる。
笠置山に建つ笠置寺は巨大な花崗岩が境内にある宛ら岩の博物館。
元は鹿鷺(かさぎ)山と書きましたが大海人皇子が狩りの途中、岩の上に笠を置いたので
この名前になったとか。間近で見ると「マジか!」と叫びたくなるような絶壁、
本当にこんな場所に馬で駆け上ったのか?【しか】とは分かりません。

正月堂の基部は崖造り

笠置寺由緒記
その横にある御本尊も岩に彫られた巨大な弥勒磨崖仏。小さいとミクロ菩薩になります。
解説では三度の火災で剥がれたとありますが、「本当は磨崖仏などなかった。」と
疑問視する向きもあったとか。上等な花崗岩は御影石として墓石に使用されますが、
多くは熱に拠って空洞が生じる事が多く、そこに雨水や氷雪が浸透して剥離するのが特徴。
磨崖仏の言い伝えと完全に一致します。
最新の科学で結論は出ましたが、法隆寺再建論を出すまでもなく歴史を考える上では【細心】の注意が必要。
今は表面が剥がれて跡だけですが、過去には加工された物、決してまがい物ではありませんでした。

笠置寺御朱印 (平成5年拝受の御本尊)

今回拝受の御朱印 (こちらも御本尊で弥勒仏と墨書)
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元弘の乱 笠置合戦の図
桜の名所として知られる笠置ですが、笠置山は鎌倉幕府打倒に燃えた後醍醐天皇が
都を逃れて立て籠もるも衆寡敵せず敗れた場所。元寇に続く元弘の乱・笠置合戦の舞台でもあります。
駅前に建つのが合戦の像、説明に拠ればモデルが居て、
弓をつがえているのが三河の武士足助次郎重範(あすけじろうしげのり)、
その横で岩を持ち上げているのが般若寺の本性房(ほんしょうぼう)と言う怪力の僧。
『太平記』に登場する人物ですが、着色されており妙にリアルさがありました。

合戦の解説

足助重範と本性房
この日の巡礼先は、その舞台。笠置駅の東にある小高い山が標高289mの笠置山。
この一帯は京都府の笠置山自然公園となっています。登山口のゲートを過ぎると直ぐ道は左右二手に。
左は自動車も通れる広い道ですが距離が長い。そこで右手の遊歩道を進む事に。

笠置山登山口ゲート

ゲートの先で道は左右に
言葉で【ゆうほどう】大した事はないと高を括っていましたが、舗装もされない結構な斜面で各所に木が倒壊。
「成程、それで【東海遊歩道】なんや!」などと冗談を言う気力もなし。
途中の庚申堂で休息がてらお参りして再び【行進】。
少し行くと視界が開けた場所に「足助重範公奮戦址」の碑が。
駅前の弓の人物の遺跡ですが、どうせなら【功臣堂】に祀るべきでしょう。

東海遊歩道を往く

参道途中の庚申堂

庚申堂解説

本尊基部の三猿の浮き彫り
『笠置山は古くは鹿鷺山と記されていた。天智天皇の子である大友皇子が
この山に大鹿を追って狩りに来た時に、山頂の岩の上で立ち往生してしまう。
皇子は山の神に祈願し、その加護に拠って危機を免れた。
そして印として身に着けていた藺笠を岩の上に置いて帰り、
後にその岩に弥勒菩薩像を彫って報謝の意を表したと言う。
それ以降、この山は笠置山と呼ばれるようになったと「笠置山縁起」「今昔物語」は伝える。
一説ではそれは大海人皇子の身に起こった事とも言う。

駅近くの産業振興会館前にある 「笠置春光」 の絵

「笠置春光」 解説
ここでは大海人皇子の事績となっている。
山の南山麓にあるのが笠置寺。創建年代は定かではないが、
出土品などから飛鳥時代には既に造営されていたようである。
奈良時代に良弁が東大寺建立のため、当山に籠って秘法を修したと伝え、
山内に存在する巨岩信仰から寺が作られたと考えられる。
当初は鹿鷺山笠置山寺と称した。
以後、大和大峰山と同じく修験行場として栄え、平安時代の永承7年(1052年)以後は
世の末法思想の流行と共に笠置山寺本尊弥勒大磨崖仏は天人彫刻の仏として
非常な信仰を集めた。藤原道長も当寺を訪れている。
更に鎌倉時代の建久2年(1191年)、解脱(げだつ)上人藤原貞慶(じょうけい)が
隠棲して当山般若院に入り、宗教改革者として当山からその運動を展開する傍ら寺観を整え、
盛時には49院の堂舎僧坊が山中に建てられていたと言う。

参道途中の見晴らしの良い場所に建つ 「足助重範公奮戦址」 の碑
しかし元弘元年(1331年)8月、倒幕計画に失敗した後醍醐天皇は京都を逃れ、
東大寺別当尋尊を頼って当山に来て寺を行在所とした。
寺を中心に笠置城とし、近在の武士・農民を集め当山衆徒の助けを得て
幕府軍と戦ったが約一ヶ月の攻防の後敗北、9月29日に全山が焼亡。
その後、復興計画は遅々として進まず、江戸時代には若干の堂宇の再建を見たものの、
安政の大地震もあって江戸末期には再び荒廃。明治初年には
福寿院・多聞院・文殊院・知足院の四子院が無住のまま残されるだけであった。
明治9年(1877年)に大倉丈秀和尚が当山に錫を止め復興に尽力、
福寿院を笠置寺本坊、多聞院本堂を毘沙門堂、残る文殊・知足の二院は破却とし、
漸く20年後にほぼ現在の姿に山容を整えるに至った。

これが門かと思える山門近くの大岩
これがこれから始まる巨石の序曲であった。

「笠やん」 に導かれ山門へ
尚、創建時より明治に至る迄、山内四十九院を総称して笠置寺と呼んだもので、
笠置寺なる堂宇は存在していない。
山門を潜ると左手に門に続く筋土塀が建つ。
御所や門跡寺院に使用される横筋の入った土塀で、五本が最高の格式。
昭和天皇の御即位・御大典に際し、御衣の龍の御紋と共に使用を許された。

山門近影
寺号標には天武天皇勅願・後醍醐天皇行在所 とある。

笠置山寺縁起

最高の格式を誇る五本の筋土塀

筋土塀の解説
参道右手に建つのが笠置型燈籠。平安時代に笠置寺参道に建てられていたと伝わるが、
記述が残るだけで資料も現存する遺物もない幻の燈籠であったが、
岡崎の石材業者の組合が発行した書物を元に再現したものである。
燈籠の奥にあるのが本尊仏香爐と呼ばれるもの。室町期の作とされ
20mの大弥勒磨崖仏宝前に置かれていたもの。江戸時代に手洗鉢に転用された。

笠置型燈籠

本尊仏香爐
そのまま参道を進み受付の手前に鐘楼堂が建つ。中に吊るされた梵鐘は「解脱鐘」と呼ばれ、
建久7年(1196年)東大寺俊乗坊重源和尚の作。
当時、日本の宗教改革者とされた笠置寺の解脱上人に、重源はこの鐘と
中国より持ち帰った紺紙金泥の大般若経600巻を寄進した。
下縁六弁と言う鐘の基底部が六つに切り込まれた意匠は我が国に一つしかなく、国の重要文化財。
中国の形式を持った鐘で、「笠置山般若台」6字と俊乗坊重源の名を刻んでいる。
元弘の変により大般若経とそれらを納めた六角堂、鐘楼堂は焼失したが、
幸いに梵鐘だけは残り今に伝わっている。』 とあります。

鐘楼堂

中に吊るされた 「解脱の鐘」

「解脱の鐘」 解説

下縁六弁と言われる鐘の基底部
山名の由緒は非常に【みろく】的な説ですが、主人公が大友皇子と大海人皇子では
壬申の乱の勝者と敗者で真逆。解説書には大友皇子、駅前の産業振興会館横には
「笠置春光」と題して大海人皇子と異なるのも【人心】を惑わす原因でしょう。
思うに「鹿を追う者は山を見ず」で岩上に取り残されたのは大友皇子。
後に笠置寺の本尊を天武天皇が造り勅願寺となったので、
大海人皇子の伝説に置き換えたと言うのが真相ではないか。
寺としても敗者よりも勝者に肩入れしたくなるのは当然といえましょう。
中原に鹿を追う者は天下を争いますが、山中に鹿を追う者には天下は取れなかったという見本でしょうか?

現在、唯一残った本坊はかつての福寿院。

参道脇の桜
かつては桜と山吹で知られた笠置寺も明治の無住期に荒廃し樹木も減少した。
[参考書]
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関西本線笠置駅
ホームから木津川方面を望む。
・久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ 紀友則(古今和歌集)
3月4日に関駅、11日に月ケ瀬口駅と関西本線非電化区間の旅も
この日(4月2日)の笠置駅で取り敢えずはゴール。
JR笠置駅は大阪方面からの大和路快速の終点加茂から一駅名古屋寄り。
たった一駅ですが、こちらは大和路線とは言わず本来の関西本線。
しかも電化から非電化へと切り替わるので列車は全て乗換、
運行本数も30分間隔から60分間隔と半減する事に。
思わずそんなに【ひでえんか!】と思いたくもなります。
尤も今は木津~加茂間の本数が減ったために、加茂からの乗り継ぎはスムーズにいくようですが…。

跨線橋上から
加茂行き(手前)と亀山行き(奥)の行き違い。

ホームから見た木津川川原

跨線橋上から見た木津川堤防の桜と笠置大橋

跨線橋上から見た山側の桜

ホームの近くまで迫る桜並木
笠置駅は木津川左岸に明治30年開業という伝統駅。標高は54mですが、
山が両側に迫るため、谷底に居るような気分になるとか。
淀川水系の中では比較的清流とされる木津川は格好の川遊びの行楽地。
特に笠置駅周辺はキャンプ地として整備されていて、国鉄時代の駅スタンプの図柄もそうでした。
しかし現行の駅スタンプのロゴは「日本のさくら名所百選の地」となって居り、
桜の名所の方に傾斜している様子。駅のホームや跨線橋からは
満開の桜を間近に見る事ができるので駅周辺の桜目当ての観光客が増えています。
ホームで花見ができるのは、山中渓(阪和線)、伊豆多賀(伊東線)とここ笠置位でしょうか?

改札付近から
柱に挿してある造花。

笠置駅舎全景

駅舎入口と改札
ここは駅員常駐の様子。

笠置駅スタンプ
(上) 国鉄時代の「わたしの旅」印 (下) 現在の印
駅の改札を出て、左へ進むと目の前に橋が。ごく普通のコンクリート製の橋ですが、名前は大手橋。
鎌倉時代末期の元弘の戦いで笠置山一帯は兵火に包まれましたが、
ここには笠置山城の大手門があった事に由来する名前だとか。
そして下を流れるのは打滝川と少し上流で合流して木津川へと注ぐ白砂川。
川の両側には桜が植えられており、桜が散る時期には川面が花弁で覆われるのを
白砂に見立てたのでしょうか?随分と優雅な命名ですが、橋上には藤原俊成の歌も掲げられており、
昔から歌に詠まれた名所だったのでしょう。

満開の八重桜を見ながら笠置橋へ

白砂川に架かる大手橋
正面に見えるのが笠置山。

橋の欄干にある藤原俊成の歌

大手橋から上流方向を見る

大手橋から木津川方面を見る
関西本線の鉄橋の奥で合流している。
大手橋を渡り左手の木津川に架かる朱い笠置橋までが桜のメインコースとなります。
ここからはキャンプ地も一望できましたが、混雑は昔と変わらない様子でした。
平成5年4月18日訪問時には満開だった桜も、令和5年4月2日にはもう散り始め。
年ごとの差とは言え、2週間以上前倒しになっています。
温暖化の影響でしょうが、近畿地区の桜も今年はほぼ終了となりそうです。
・久し振り 光のどけき 春笠置 シヅコロロなく 花の散るらむ
という具合に散り急ぐのでしょうか?笠置だけに、と言っても若い人には?でしょうが…。

木津川左岸から見る笠置大橋

笠置大橋から見たキャンプ場

笠置郵便局 ; 笠置寺の解脱の鐘、木津川風景と笠置大橋

駅構内にある「笠やん」の像
かつて笠置寺に居た猫で、ここからはこの猫(こ)が案内役。
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<コース> 春の青春18きっぷ+丹鉄フリーキップ使用
【往路】JR大阪駅(5:55) → (福知山線) → JR福知山(8:19→8:53) → (たんごリレー1号) → 久美浜(10:38)
久美浜駅 → (レンタサイクル5分) → 神谷太刀宮 → (3分) → 宋雲寺 → (5分) → 如意寺 → 豪商稲葉家 → (5分) → 本願寺
【復路】久美浜(14:26) → (京都丹後鉄道) → 豊岡(14:41→15:01) → JR和田山(15:37→15:50) → JR寺前(16:42→16:46) → JR姫路(17:34→17:41) → (新快速) → JR大阪(18:43)

霊鴫山 本願寺(浄土宗)
稲葉家の前の街道を東へ進んで丹後鉄道の線路を越え、国道178号線と312号線の
合流点近くにあるのが本願寺。この日の巡礼のラストを飾る寺院となります。

道路から見た参道と山門

駐車場前からの眺め
霊鴫山本願寺(れいでんさんほんがんじ)は、
『天平2年(730年)、行基が諸国行脚の途上、当地に立ち寄った。
その際に一本の大樹に群集していた鴫が仏へと化身し西の空に飛び去る光景を目にした行基は、
鴫が群集していた大樹を以て阿弥陀仏と千体仏を刻んで安置。
信貴山帰命院本願寺と称し、阿弥陀如来を本尊とする法相宗寺院としたのが嚆矢である。
後の江戸時代になって山号は霊鴫山に変わった。

山門と石碑
圓光大師とは法然上人の事である。

駐車場前に建つ由緒

桜越しに見た山門
その後荒廃するが、寛弘4年(1004年)比叡山の高僧恵心僧都源信が
天橋立の文殊(知恩寺)に参籠した折、夢にて当山再興の告命を受け来山。
一山六坊を大修理すると共に千体仏を補作し安置、天台宗寺院として中興。
加えて当地に極楽で得る十種の喜びを表す十楽の地名を残した。

寺の周囲を巡る白壁塀

山門からの眺望
正面が勅使門、左奥が鐘楼。

山門を過ぎて右手に建つ観音堂
寺務所と言っても通じる建造物である。

寺宝の説明
建久3年(1192年)、後白河法皇が崩御され、かつて先帝の寵愛を受けた久美の庄城主の
伊賀氏は浄土宗宗祖法然上人に請い当山にて法皇の追善大供養を修した。
法然は一夏九旬の期間滞在し、一山六坊は皆その教えに帰依し、改宗して
以後は浄土宗寺院となったと言う。
山門を抜けて階段を上った正面に建つのが勅使門。寺伝では後白河法皇の追善供養を行った際、
城主伊賀氏が後鳥羽天皇の勅使を迎えるために建てたと言う。
明治38年に解体修理を受けているが、鎌倉時代初期の建築様式を今に伝える貴重な建造物で、
京丹後市指定文化財となっている。

階段を上った先にある勅使門

勅使門解説

勅使門の左右の聯に書かれた由緒

勅使門前の鐘楼堂

境内に建つ祖師堂(左)と本堂
境内奥に建つ本堂は鎌倉時代建築の重要文化財。市内最古の木造建造物である。
五間四面の単層入母屋造檜皮葺で、細い柱や屋根の緩い勾配等、全体に平安建築の名残が見られる。
内部は三間四面の内陣と周囲一間の外陣から成り、内陣正面に本尊阿弥陀如来立像が安置されている。
須弥壇上に安置された阿弥陀如来立像は、後白河法皇の供養物として京都仏師に拠り造られ、
法然上人が追善供養したと言われる。平安・鎌倉両時代の様式を顕著に示す貴重な仏像である。』
とあります。

正面から見た祖師堂

祖師堂の「霊鴫山」扁額

祖師堂内陣の様子

奥に祀られている祖師・法然像
この日の参拝寺院は計三ヵ寺ですが、宗派では如意寺が密教系の真言宗、
宋雲寺が禅宗系の臨済宗、そして本願寺が念仏系の浄土宗と三者三様。
そして関った高僧で見ると如意寺が行基、宋雲寺は著名な高僧に無縁であるのに対し、
ここ本願寺は奈良時代の行基、平安時代に源信(恵心僧都)、鎌倉時代は法然(圓光大師)と
日本を代表する高僧と縁があります。これ程対照的なのも珍しいと言えます。

祖師堂と本堂を繋ぐ渡廊下

祖師堂から渡廊下を行く

渡廊下左手の放生池と桜

廊下を渡り本堂へ
山門を潜ると先ずは勅使門。直視すると門柱に皇族の方の名がありましたが、
漢字が少し違っていたり‘後’の字が無かったり、後続のためにも正しく記載して欲しいものです。
境内の御堂に向かうと年配の御婦人が居られて、参拝の旨を伝えると案内して頂きました。
婦人 ;「どちらからお見えですか?」
私 ;「大阪です。」
婦人 ;「それは遠方から。先程は岡山の方が見えました。」
私 ;「遠くから観光に見えたのですね。」
婦人 ;「いえ、内の檀家さんです。」
私 ;「法然上人も美作出身ですからね。」
婦人 ;「私は出石から嫁いで来ました。」
私;「辰鼓楼と皿蕎麦で有名な町ですね。」
婦人 ;「実家は浄土真宗でした。」
私 ;「すると結婚してから改宗されたとか?」
婦人 ;「いえ、今もそのままです。」
といった世間か内輪か分からん話で盛り上がり。

本堂内陣の様子
電灯のブレーカーの場所が分からず、暗い中での参拝となった。

本尊・木造阿弥陀如来立像 (説明書より)

本堂前から勅使門方面を見る

本堂の向拝

本堂の蔀戸

前より見た重要文化財・本堂
鎌倉時代の作とされる。
違う宗派に嫁ぐとは思い切ったと考え勝ちですが、日本では余程の事がない限り、
宗教で結婚が破談になったと言うのは寡聞にしてし ません。私の周囲も殆どが仏教徒ですが
宗派はバラバラというよりもはっきり知らない方が多いのが現実です。
当寺も大きく三度改宗していますが、これも仏教の持つ鷹揚さと思えば驚くに値しません。
尤も、婦人の御実家が本願寺の名前を聞き、真宗寺院と勘違いされたとなれば話は違いますが…。

桜の奥の渡廊下と祖師堂

本堂前の椿

本願寺説明書

本願寺御朱印 (平成6年8月21日拝受)
[参考書]
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【往路】JR大阪駅(5:55) → (福知山線) → JR福知山(8:19→8:53) → (たんごリレー1号) → 久美浜(10:38)
久美浜駅 → (レンタサイクル5分) → 神谷太刀宮 → (3分) → 宋雲寺 → (5分) → 如意寺 → 豪商稲葉家 → (5分) → 本願寺
【復路】久美浜(14:26) → (京都丹後鉄道) → 豊岡(14:41→15:01) → JR和田山(15:37→15:50) → JR寺前(16:42→16:46) → JR姫路(17:34→17:41) → (新快速) → JR大阪(18:43)

豪商 稲葉本家(国登録有形文化財)
久美浜と言えば、関西人にとって夏の海水浴とマリンスポーツ、冬のカニ料理の場所
というのが一般的な通り相場。通常は夏と冬に訪れる場所です。
ところが町を走って見ると意外にも立ち止まって見たいな場所が彼方此方に散見されます。
駅を出て北へ向かうと交差点にいきなり風格のある建物が登場。
昭和7年建築の旧町役場だそうで、新役場が隣に新築されたので、
豆腐カフェ「もりのさんぽみち」として再出発したのだとか。

久美浜湾の向こうに見える甲山と大文字

小天橋遠景
甲山中腹からの眺望がお勧めとは観光案内所の方の話。

旧町役場を再利用した豆腐カフェ「もりのさんぽみち」

「もりのさんぽみち」入口
『久美浜町の歴史は縄文時代初期まで遡り、日本海に面するため
古くから大陸との交流が盛んに行われ各地に農耕文化が芽生えた。
江戸中期には幕府の直轄地となって代官所が置かれ、永らく政治上の要地として栄える。
海上交通の拠点となった湊宮では、廻船問屋「湊五軒屋」の千石船が
各地の交易に大きな勢力を持ち町は大いに賑わった。

湾へと注ぐ水路と町屋

今は小学校になった久美浜代官陣屋と県庁跡
明治元年に置かれた久美浜縣は同4年に豊岡縣に組み込まれ、同9年には京都府となった。
同12年には郡役所が設置され、付近一帯は久美浜一区として賑わった。
「うなぎの寝床」と呼ばれる細長い短冊形地割の町屋やそれに合わせた風情ある川筋、
昭和初期の町並みが残る景観を今に伝えている。』 とあります。

久美浜一区を往く
如意寺前の道路を東へ進み陣屋川・堀川を越えると久美浜一区。
道の両側には「タイ煎餅」を商う綿徳商店、三階建ての旧浜茶屋など風情ある町屋が続き、
後者はTHE SPICE の名のカレー専門店として【華麗】なる転身。
海側に行くと浜公園の手前には昭和4年建築の立派な造りの公会堂が公開中でした。

鯛煎餅を商う綿徳商店
日本海産のトビウオ・クロダイのすり身を用いた煎餅。

お土産に1袋購入

綿徳商店の東側を浜公園に向かう

公園にある久美浜町の街なみ案内

久美谷川沿いにある公会堂

公会堂説明

旧浜茶屋はカレー専門店
中は大勢の客で賑わっているのが見える。

久美谷川に架かる橋を渡る
再び町中の道へ戻り久美谷川を越えると豪商稲葉本家が南側に建ちます。
お目当ては家屋に加えて翌日まで開催中の雛人形展示。
4月まで雛飾りとは鄙には稀と思えますが、旧暦の上巳の節句は丁度今頃。
古い町並みでは暦も旧暦になるのでしょう。
入館無料ですが邸内には食事処も併設。ばら寿司とぼたもちが名物だとか。

豪商 稲葉本家にて

道路沿いに続く白壁
塀の向こう側は庭園。

暖簾を潜り本家へ

門を過ぎた場所にある庭では休憩できる

藤右衛門桜と奥に建つ蔵資料館
『稲葉家初代喜兵衛は織田信長の家臣団、美濃三人衆の一人稲葉一鉄の縁者と言われる。
稼業は代々「糀屋」を生業とするが、後には千石船を使った商売に転じ隆盛を極めるようになった。
久美浜代官所設置の享保20年(1735年)には幕府の公金預かり所となり、
以後は近隣諸藩の金融を独占する豪商に成長する。
天明の大飢饉前後には多額の金穀を献納し苗字帯刀を許された。

天上の高い玄関の通り土間の吹き抜け
通り土間では天井を張らず吹き抜けとし壁の部分に明かり採りを設ける。

雛祭りもここから始まる

御殿雛

内裏雛

稲葉本家に伝わる嫁入り籠
未婚の女性が乗ると良縁に恵まれるとか。
幕末の12代市郎右衛門の時代には、山陰道鎮撫総督西園寺公望の本陣となり、
数百名の関係者がここで食事を摂っている。慶応4年に丹後・但馬・丹波・播磨・美作の
計五カ国二十三万石の久美浜縣が設置されると、熊野郡区長、但馬郡区長を務め、
更に開設時の京都府議会議員、衆議院議員も歴任した。
明治17年には地租780円(約3億円)を納める府下一の多額納税者として
町の発展にも寄与する傍ら、自身も文化人として歌・書など作品を残している。

内裏雛と三人官女

廊下から見た庭園

著名な庭師・桜守である第16代・佐野藤右衛門に拠る作庭
庭は久美浜湾を表し、松は天に昇る龍を表す。
続く13代市郎右衛門は久美浜町長、府議会議長、京都府農工銀行頭取を歴任し、
久美浜町は元より京都府の金融産業振興に貢献。また先代の意志を継いで多額の私財を投じて、
昭和4年には久美浜~豊岡間の鉄道開通を実現させた。

享保雛 (寄贈品)

稲葉本家に伝わる飾り雛

奥に置かれた御殿雛
平安時代の御殿を再現した江戸中期の製作。12代市郎右衛門の先妻(幾勢)の嫁入り道具。
平成の大合併以前の旧久美浜町は、稲葉家15代当主より建物を譲り受け改築。
平成15年4月より歴史的建造物を活用した観光施設として開館、
京都府景観資産 「城下町に由来する風情ある久美浜の街並み」 の中心として今に至っている。』
とあります。

内庭

邸奥にある中庭
左に開いているのが雛御門。

中庭から見た母屋屋根と内裏雛の顔ハメ

中庭から母屋を振り返る
邸の方に伺うと職員の方が対応。
私 ;「こちらは何で財を成されました?」
職員 ;「こうじです。」
私 ;「今風に言えばゼネコンですな!」
職員 ;「工事やなくて、酒造りの糀です。」
かつて兵庫の龍野で町を散策した際に、初めて「糀屋」の看板を挙げた店を見ました。
醸造業には不可欠なものですが 「果たして糀だけで商売が成り立つのか?」
と不思議に思った記憶があります。
後に糀業者は寺社と結んで強固な経済力を持っていた事を知り納得しましたが、
今はそれだけに頼るのは難しい模様。【こうじ】魔多し、とは良く言ったものです。
それよりも歴代当主が地域に多大な貢献をした事に感動。西洋のノブリスオブリージュの本朝版です。
特に鉄道敷設に尽力された事は大きく、丹後鉄道に乗れるのは稲葉家の御蔭。
これも御先祖が稲葉【一鉄】だった故でしょうか?

玄関の土間を抜け弁柄格子を進む

かつての蔵は資料館に変身

久美浜郵便局 ; 久美浜湾、町花・チューリップ
久美浜神野郵便局 ; メロン、葡萄、甲山、久美浜湾
[参考書]
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常喜山 宗雲禅寺(臨済宗南禅寺派) 名勝宋雲寺庭園
境内散策の後は、庫裏へ伺い御朱印拝受。年配の御住職が対応下さいました。
案内板に記された庭園の事を尋ねると、快く院内に入れて頂き拝観できる事に。
書院の間を抜けて廊下の向こうにあるのが庭園。

庫裏玄関では衝立の虎がお出迎え

虎図近影

虎の裏側は龍図
二面揃って龍虎の図。
部屋や床の間には絵画や置物が飾られており、決して骨董品ではありませんが、
新しい部屋にマッチした感じです。襖に描かれた僧侶の画は、
かつて丹波市の「三寶寺」で見たものと同じ「こころの森美術館長」幻一氏の作品。
非常に人間的な表情は丹波から丹後に来ても変わりませんでした。

書院の間はこんな感じ
法要もこのような場所で行うのが今風といえそう。

襖絵は幻一氏の作品

掛軸、花瓶、香炉、生け花に彩られた床の間
『当山には、長禄2年(1458年)の銘が残る宝篋印塔、開基松井康之が父正之、
母法壽を祀る肥後の墓が境内に残る。
また桃山時代の絹本著色松井康之像、開山玄圃霊三に関する歴史資料が保存されている。
庫裏の奥には庭園があり江戸後期の作庭とされるが、寺史から判断すると、
中興開基松井康之の造営と考えられている。
庭園は蓬莱石を中心に多数の石組みと心字池を配し、小規模ながら枯淡な造り。
宋雲寺庭園として京都府指定の名勝となっている。』 とあります。
ガラス越しに見る庭園は、巨石や巨木がある訳ではありませんが、
確かにこぢんまりと纏まった禅宗式庭園といえました。

廊下の突き当りが庭園

名勝 宋雲寺庭園(中央付近)

庭園(左側)

庭園(右側)
続いて御本尊も拝ませて頂けることとなり内陣へ。
参拝後、周囲を見ると衝立や緞帳が美しく、置かれています。
「これは新しい作品ですよね?」
と話していると御住職が襖を横へ動かして下さり、現れたのは鴉の水墨画。
落款は分からなかったのですが、「もしや長井一禾の作品ですか?」
と尋ねると、にっこり笑って頷かれました。

御本尊の釈迦如来と脇立の文殊(右)、普賢(左)の両菩薩 (縁起より)

開山千畝周竹禅師像 (縁起より)

長井一禾の鴉の襖絵 (内陣左側)

鴉の拡大

襖絵の上の欄間は「花と蝶」
長井一禾(ながいいっか)は明治から昭和初期に活躍した河鍋暁斎門下の浮世絵師。
鴉の絵を得意としました。作品は関西花の寺で知られる綾部の「楞厳寺」が有名ですが、
お寺の都合で今は拝観出来ない状態。
その代りにというのも変ですが綾部の「東光院」で四幅の襖絵を見たのみでした。
今回は左右で計八幅。芸術作品は数が多ければ良いというものではありませんが、
思わぬ場所での再会とはなりました。その他に久美浜湾と甲山を描いた水墨画の襖も。
唯、墨書された光明とは作品名か作者銘名かは不明でした。

同じく鴉の襖絵(内陣右側)

鴉と樹木の拡大
当寺では新しい作家の作品で院内を飾る意向のようで、過去の著名な作品は限りがありますが、
新作ならば可能性は無限大。
寺社が芸術家のパトロンだった伝統は【いっか性】でなく【ながい】期間受け継がれているようです。

甲山と久美浜湾
[参考書]
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常喜山 宗雲禅寺(臨済宗南禅寺派)
神谷神社から南へ500m程行った場所に建つのが紅葉の名所として知られる宗雲寺。
伽藍が見えないと思いながら走っていると道路脇に寺号標が建ち寺院は更に奥に進んだ場所にありました。
山門を過ぎると周囲には木々が繁り、山奥の禅寺を髣髴とさせましたが、
境内へ入ると四方の伽藍に囲まれて庭に陽光が降り注ぐ場所。
このギャップも禅宗式と言えるでしょうか?

道路に面して建つ寺号標

由緒記
常喜山宗雲禅寺(じょうきざんそううんぜんじ)は、
『かつて久美浜の多茂の木の地にあった天台宗常喜庵という小庵があった。
居住の恕庵和尚は谷村にあった愚中周及(ぐちゅうしゅうきゅう)の法嗣で
近衛家出身の千畝周竹(せんぽしゅうちく)禅師の正法に触れて禅家の弟子となった。
永享4年(1432年)に千畝周竹は近衛家の庇護の下、常喜庵を宮谷の地に移し
宮谷山常喜院として禅宗に改宗、自ら開山となった。

山門

山門に掲げられた「常喜山」の扁額

放生池の奥に石垣に囲まれた寺院が聳える。
殿堂伽藍は千畝の生家の近衛家、寺領100石は彼と親しかった足利義政の寄進である。
当時、丹波の天寧寺、安芸の仏通寺と共に臨済宗愚中派三本寺の一つとして寺勢を誇った。
その後、天正10年(1582年)に細川藤孝(幽斎)が丹後国十一万石の領主となり、
久美浜城主・松井康之に命じて康之の叔父の南禅寺266世玄圃霊三(げんぽれいさん)禅師を
中興開山に勧請。天正15年に復興された。
この時、康之の父正之を開基として、その法諡「清月宗雲禅定門」を以て寺号とし、
常喜山宗雲寺として以降は臨済宗南禅寺派に属している。
尚、文禄元年(1592年)の豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しては、松井康之・与八郎親子と
共に玄圃和尚も外交僧として従軍している。

階段を上り境内への門を過ぎる

上から階段を見下ろす

境内への門から参道を振り返る

門から境内を一望
本堂は享和元年(1801年)、黒崎市郎左衛門を棟梁として建立。
その後、明治44年と大正2年の大修理を経て、昭和61年に創建時の形に復元された。
本尊の薬師如来は安芸の仏通寺の山内、長松院の本尊文殊菩薩と共に刻された釈迦如来で、
脇侍の文殊・普賢菩薩と共に安阿弥の作と古文書に記されている。
高さ八寸五分と小振りながら、格調高い御姿である。

(八重)桜の奥に建つ本堂

正面から見た本堂

本堂前面に掲げられた扁額「北丹禅窟」
本堂の左手に続くのは禅堂場、大師堂・翻龍(ばんりゅう)窟とも呼ばれる。
当寺の由来に拠って大日如来・文殊菩薩・弘法大師を祀っており、
大日如来はかつて天台宗であった事、弘法大師は開山千畝禅師が元は真言宗であった事、
文殊菩薩は坐禅堂の本尊である事に拠る。
坐禅、写経を始め研修・法事・宿泊にと多目的に使用される。

本堂に続く禅道場

禅道場全景

禅道場玄関

禅道場に掲げられた扁額は「蟠龍窟」
説明書では翻龍窟と記してある。
本堂正面に建つのは観音堂、白衣観音菩薩を本尊とし、子安観音として子育て・安産にと
丹後・丹波・但馬より多くの参詣者を集める。特に戌の日に安産の祈祷を受けると成就すると言われる。
その脇には永享4年(1432年)建立の鐘楼堂があり、梵鐘は第二次世界大戦に供出されたが、
後に変換。山門と共に幾度かの火災から守られた常喜寺時代の遺構である。

観音堂

永享4年建立の鐘楼堂

観音堂前の桜

桜近影
これら堂宇に囲まれた境内には石が配置されているが、これは十六羅漢の庭と呼ばれ、
平成元年に檀家に拠って夫人の追善供養として造園されたもの。
作庭は京都庭園、造園は峰山造園が手掛けた。

十六羅漢の庭
岩を羅漢像に見立てる。

十六羅漢と桜
寺の裏の参道を上ると、天然石に彫られた高さ10mの磨崖仏延命福寿観音像がある。
当寺は禅宗であるが、開山は真言宗の奥義を極め、弘法大師の
『禅宗秘法記』の語句に触れて臨済禅に入った。
そして大師の遺徳に報いるように遺誡、後の大正14年(1925年)に境内山中に
従来からあった数体の石仏を元に、大師山四国八十八ヵ所洗心苑霊場が開かれた。
昭和56年(1981年)に第十二番札所付近の高さ10m・幅5mの霊石に
札所の護本尊として謹刻されたのがこの像である。』 とあります。

道路に面した入口には「延命磨崖仏」の案内が大きく掲示

磨崖仏への道

磨崖仏にお参り

磨崖仏近影
当寺の由緒記を見ると、古代中世に活躍した宗教家の名前は出て来ません。
その代りに登場するのは摂関家・将軍家・大名家と当時一流の毛並みを持った人物。
非常に大雑把な括りとして、宗教の発展には、広く民衆の支持を得るか、
大檀越を持つかに分かれますが、ここでは後者の道を歩んだようです。
今風に言えば、セレブの寺院と言った所でしょうか?

禅道場前から本堂と庫裏を望む

桜の奥の庫裏

御朱印拝受のため庫裏へ
唯、彼等の支持を繋ぎ止めるためには上層階級に好まれる何かを持つ必要があり、
それが学問芸術だった様に見受けられます。
堂宇を見ると通常は〇〇殿と書かれた扁額には「〇〇窟」と書かれています。
勝手な解釈をすれば、多数で修行する殿と、孤独で修行する窟の違いでしょうか?
それだけ探究心が強いと言えますが、別な言い方をすればオタクな人物とも取れます。
当寺がセレブのオタクを一手に引き受けたとすれば驚きですが…。

宋雲禅寺縁起

宋雲寺御朱印
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神谷神社(式内社 旧郷社)
この日は、久美浜湾沿いの花の寺・如意寺訪問がメインですが、その前に神社へ参拝。
寺へ向かう途中という事もありますが、もう一つは久美浜駅舎の元になった建物が
境内に残っている事。これは是非とも見ない訳にはいきません。
駅から北西に進むと久美谷川。満開の桜を横目に次の道路を左折すると直ぐに神社が目の前に。
道路を挟んで左手に社殿、右手に磐座が鎮座する二社一体の神社です。

久美谷川岸は桜の名所

道路の両側にある神社
神谷神社(かみたにじんじゃ)は、
『通称、神谷太刀宮(かみたにたちのみや)、太刀宮(たちのみや)と称し、延喜式に記される古社。
元々は神谷神社と太刀宮は別社で、延喜式内社の神谷神社は現在の南西の神谷地区にあり、
戦乱の世に荒廃したので当地にあった太刀宮に合祀されたと言う。

由緒記

正面から見た神門
両社共に垂仁天皇の時代に四道将軍丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)に拠り創祀された
と伝えられる。丹波道主命は四道将軍として丹波に派遣されたと『日本書紀』にあり、
丹波平定後、明神谷に出雲国より八千矛神・天神玉命・天種子命の三座の神々を迎え
社殿を創建したと社伝にある。丹波道主命は丹波河上須摩郎女を娶り五子を授かるが、
その一人の日葉酢媛(ひばすひめ)は第11代垂仁天皇の皇后となった。

神門は江戸時代の建築

横から見た神門
切妻造の四脚門となっている。
神谷神社は旧郷社であり、社蔵文書に拠れば文禄5年(1596年)、城主・松井康之から
用地寄進を受けている。道主命が太刀宮に納めたという国見剣が神霊として祀られて居り、
国見剣は久美浜の地名の由来の一つともなっている。

神門から拝殿(幣殿)を通してその奥の本殿を望む

奥に建つ本殿
これも江戸時代の建築。

横から見た一連の社殿
現在の本殿は天明元年(1781年)の建築で、桁行二間の入母屋造・檜皮葺。
出雲地方に多い大社造りの系統を引く建物で、「太刀宮造」と称され、
この地方では例のない神社建築である。彫刻も精巧なものとなっている。
神門も切妻造の四脚門で、格天井を張るなど意匠に優れ、境内社八幡神社本殿も
小規模な杮葺き、一間社流造で孔雀の彫刻を施すなど装飾豊かな建物である。

本殿全景

本殿前面の向拝と蝦虹梁などの組物

本殿軒回り組物と鳥・猿の彫刻
鳥居は石造明神鳥居で宝永4年(1707年)の建立。八幡山の山麓に巨岩を擁し、
自然崇拝の磐座の様相を呈している。境内地一帯が京都府文化財環境保全地区に指定されている。

社殿横の摂社と参道の石灯籠

道路に面した石鳥居
磐座側からの撮影。
また境内に旧久美浜県庁舎御玄関棟が移築され参考館となっている。
明治3年(1870年)の建築で明治初期の建造物としては府内最古。
明治初期の武家屋敷の流れを引く役所建築として貴重である。』 とあります。

神門前から見た参考館
境内に入るとまず目に入ったのが参考館。駅舎と比較して左右の広がりは小さいですが、
玄関の千鳥破風?はそのまま。説明がなくても分かりました。
唯、周囲は柵で囲まれ屋根は傾きシートで覆われた箇所も。
説明板では老朽化で危険が伴うとの理由で閉鎖中、内陣に入れなかったのは非常に残念。
取り壊される事なく移築されただけでも有難いですが、維持管理には色々と大変なようでした。

正面から見た参考館

こちらは久美浜駅舎
本殿参拝の後は道路を渡り磐座へも参拝。磐座の南側には注連縄の張られた
古式ゆかしい家屋があり神職の御自宅と見受けられます。
御朱印を拝受に伺うには敷居が高そうと思っていると、
境内奥に受付があり神職の姿が見えたので、ほっと一安心。
私 ; 「江戸時代の神門は何処でしょう?」
神職 ; 「正面に見えるのがそれです。」
私 ; 「あれは拝殿ではないのですか?」
神職 ; 「あの神門と奥の本殿が江戸時代で、明治になって間に幣殿が出来ました。」

道路の向かいにある磐座へ
石鳥居からの撮影。

石段を上った先にある境内社八幡神社本殿
こちらも江戸時代の建築。

八幡神社の脇に鎮座する磐座
私 ;「磐座も参拝しましたが、あちらの方が古いのでしょうか?」
神職 ; 「当社は二社が一つに合わさったものですから。まあ由来を思うとそうでしょうね。」
私 ; 「そういえば、ここも久美浜町だったのが合併して京丹後市になっていますね。」
神職 ;「三郡六町の合併なので各町のカラーが抜けきれなくて。中々纏まらないですわ!」
余所者が行政について嘴を挟むのはご法度ですが、神谷神社や如意寺と異なり
市町村の合併は一筋縄ではいかないようです。

玄関に注連縄が張られた神職の居宅

神谷太刀宮御朱印
[参考書]
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【往路】JR大阪駅(5:55) → (福知山線) → JR福知山(8:19→8:53) → (たんごリレー1号) → 久美浜(10:38)
久美浜駅 → (レンタサイクル5分) → 神谷太刀宮 → (3分) → 宋雲寺 → (5分) → 如意寺 → 豪商稲葉家 → (5分) → 本願寺
【復路】久美浜(14:26) → (京都丹後鉄道) → 豊岡(14:41→15:01) → JR和田山(15:37→15:50) → JR寺前(16:42→16:46) → JR姫路(17:34→17:41) → (新快速) → JR大阪(18:43)

寶珠山 如意寺(高野山真言宗 関西花の寺二十五ヵ所霊場第七番) 不動堂
庫裏の阿弥陀様を拝んだ後は、鐘楼から高台へ上り境内を一周。
手前に不動堂、その奥に本堂が建ち、いずれも花に囲まれているのは同じ。
その手前には椿が咲き脇には歌碑が。説明書きはありませんが、
・日を切りて 願ふこころを 松風の 音もさやかに 返すみ佛
と読めます。御詠歌でしょうか?説明書きがないの残念です。

不動堂前に建つ歌碑と椿

歌碑の傍らの石灯籠
自然石を用いた感が良い。
一般的に、御本尊でもない限り不動堂はこぢんまりとした宝形造りのものが殆どですが、
当寺では多宝塔風の唐破風を付けた風格のある堂宇。ガイド等で被写体になるのもこの建物です。

少し高みから見た不動堂

側面の花頭窓

石楠花越しに見た不動堂(後方)

桜と屋根の九輪
『不動堂は昭和58年(1983年)の新改築で、当地出身の名工・中村淳司棟梁の手になる。
和・唐・天竺の三様式を巧みに折衷する日本唯一の珍しい重層宝形造である。
堂内には「空海の爪彫り」と伝わる石造不動明王像が安置され、
日切不動尊として日を切って記念すれば霊験があるという。

不動堂入口

内陣の御本尊(中央の石板)と両脇侍

日切不動尊御朱印

不動堂とミツバツツジを抜け本堂へ
不動堂の奥に続く本堂は、寛文10年(1670年)、寛政3年(1791年)に改築の記録が残るが、
大正7年(1918年)の豪雨で倒壊。
現在の堂宇は昭和2年(1927年)に当時の様式に従って再建されたものである。
昭和37年(1962年)には参拝の便を考慮して、久美浜湾の西、観音山(宝珠山)中腹から
末寺大円寺跡であるこの飛び地境内の現在地に移っている。そこは仏堂の不動堂があった場所と言う。
昭和51年に解体修理し移築された。
本尊の十一面観世音菩薩は行基作の一刀三礼三年と伝えられる秘仏で、
境内の閼伽井の水と共に眼守護に霊験があると言う。

十一面観音を祀る本堂

本堂向拝欄間の龍の彫刻

側面より見た本堂

平成6年拝受の御朱印
当時はこれのみだった記憶が。
平成20年の本堂裏の作庭には観音山伽藍の参道の数百段の石段の一部を敷石として活用し、
山号「宝珠山」に因み「珠山(じゅさん)千年石の庭」と名付けた。
令和元年から2年にかけ、御庭植治監修に拠る大改修を行った。』 とあります。

本堂脇から湧き出る閼伽井

後方より見た本堂
御本尊よりも有名な仏様は割と見られますが、ここは堂宇も知名度もお不動様の方が上。
その理由を考えるに、元からここに在ったか他所から移って来たかの違いにあるようです。
日切不動尊は石板に彫られたもので、芸術的とはいきませんが、
由来は古そうで昔から広く信仰を集めた様子。
参拝者がひきも切らないので【ひきり】不動尊と呼ばれるようになった、
と考えるには飛躍しすぎでしょうか?

本堂脇の山斜面に咲くミツバツツジ

本堂裏に続く 「珠山千年石の庭」
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寶珠山 如意寺(高野山真言宗 関西花の寺二十五ヵ所霊場第七番)
関西花の寺として有名な如意寺ですが、花ばかり鑑賞する訳にはいかず、本来の目的の参拝に向かう事に。
久美浜湾に向かって建つ壮麗な山門は鎌倉時代初期とされる仁王像を安置。
意外と新しく見えるのは昭和28年、51年と古い様式を留めたまま修理されたからでしょう。
その手前に置かれているのが曼荼羅宝壺(まんだらほうこ)。色々と能書きがありますが、
要は賽銭箱で参拝前にお金を入れて回すと功徳があるそう。【早置きは山門の得】でしょうか?

山門(仁王門)近影

山門前に置かれた曼荼羅宝壺

金剛力士阿像(右)

同じく吽像(左)

如意寺金剛力士像解説
仁王門を過ぎて右手にあるのが庫裏。先ずは寺務所に伺って御朱印拝受。
私 ; 「拝観料はおいくらですか?」
受付 ; 「そこの箱に志納を御願いします。御朱印される方は結構ですので。」
との事。海辺だけに【りょうし】ん的なのでしょう。ミツバツツジの寺だけに、こちらも奮発して三つ拝受。
私 ; 「阿弥陀様は本堂ですか?」
受付 ; 「いえ、すぐ隣の庫裏です。」
と寺務所に続く庫裏を覗くと、正面に鎮座されていました。

庫裏全景
正面に張出した部分が納経所。

阿弥陀如来を祀る庫裏の前にて

庫裏に鎮座する阿弥陀様
外陣からの参拝となる。

如意寺説明書
駅の観光案内所でも入手可能。

阿弥陀如来の御朱印
寶珠山如意寺(ほうじゅさんにょいじ)は、
『天平年間、行基菩薩に拠って開創されたという寺伝を持つ。行基が久美庄に逗留の折、
山上から火が出て海に入り、再び火が海から出て山に昇るという奇瑞があった。
そこで漁師に頼んで海中に網を入れると、過去七仏の如意宝珠の舎利塔が出て来た。
そこで観音山に伽藍を建て寶珠山如意寺と名付けたのが始まりと言う。
一説では「太刀宮の宝剣が海中に沈む事を恐れた行基が、漁師に命じて網を打たせたところ
玉を得た。それに拠って寶珠山如意寺を興した。」 と言う記録も伝わる。

如意寺縁起

境内側から見た山門
奥には久美浜湾が広がる。

庫裏に隣接した庭園は手前に桜と木蓮、奥にミツバツツジが映える

庭園は池泉回遊式
鎌倉時代の永仁3年(1295年)、当寺に深く帰依した伏見天皇は勅使を遣わし「如意寺」の勅額を下賜。
最盛期には寺領500石、院家十二坊の伽藍を有していたが、応永34年(1427年)の兵火で多くを焼失した。
その後、戦国期の天文、・江戸期の寛文・寛延・寛政、また明治後半に復興事業が行われるなど、
参籠・参拝する者は絶えず。万人帰依の寺院として現在に至っている。
昭和37年(1962年)には、参拝の便を考慮して、久美浜湾の西、観音山(宝珠山)中腹から
末寺大円寺跡であるこの飛び地境内の現在地に移っている。仏堂の不動堂があった場所と言う。
仁王門の金剛力士像は鎌倉初期の木造で重文級の作品。庫裏の阿弥陀如来像は平安後期、
恵心僧都作と伝えられる檜の一木造の美しい座像である。』 とあります。

境内の一角にある子安地蔵

その横にある六地蔵

地蔵さんの奥にはこのような滝が
由緒記には、行基が目にしたと伝わる火が海に入ったり出たりする奇瑞があります。
海に火が入るのは隕石の可能性もありますが、海から火が出るのはまさに奇瑞そのもの。
宝珠や剣が現れる方が未だしも現実的と言えます。
一体どのような仕儀なのか?それに【きずい】た人が居なかったのが不思議でなりません。

庫裏の前から高台に建つ不動堂を望む

八重桜の奥に見える山門
山門の横から高台へ向かう坂が続く。

八重の桜近影

坂より見た山門

鐘楼越しに見る久美浜湾と甲山
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寶珠山 如意寺(高野山真言宗 関西花の寺二十五ヵ所霊場第七番)
山門前から眺めた久美浜湾と甲山。
この日の巡礼先は関西花の寺第7番で久美浜湾に面した如意寺。
「海の見える花の寺」がキャッチフレーズだそうで今の時期はミツバツツジ。
久美浜訪問は三度目ですが初めての快晴、三度目の正直となりました。
駅から徒歩でも15分程ですが、彼方此方回りたいので駅レンタサイクル。
観光案内所で伺った所、
「お寺からの話では未だ三分咲きくらいで、来週が見頃らしいです。」
との事。「満開の筈が、外れか!」とがっかりしましたが、
桜も未だ散っていない海沿いを走る事5分で門前に到着。

駐車場に置かれた案内板

寺院の塀越しに見た甲山
天平年間に行基菩薩が創建という寺伝を持つ古刹ですが、自然災害を避ける古代にあって
海沿いに建つ寺院は稀。
これは小天橋で日本海と隔てられているので津波の心配がないのが理由でしょう。
国宝『一遍上人絵伝』では海上より龍神が出現する有名な場面がありますが、
それはこの近くの海岸だとか。
駅で下りたのは、地元の年配の男性と私だけでしたが、駐車場には多くの車が停車中。
海に面した山門を潜ると、境内全体ピンクに染まった光景が眼前に。
これは三分どころか八分咲きやで、と俄然元気が湧きました。

龍伝説の久美浜マンホール蓋

山門から見た境内
右は寺務所を兼ねた庫裏。
寶珠山如意寺(ほうじゅさんにょいじ)は、
『1年を通じて多くの花木や山野草が次々と咲く花の寺。春にはサツキ、ヤマボウシ、ハナショウブ、ササユリが
後を引き受け、サラやアジサイが続く。久美浜湾が海水浴で賑わう頃にはサルスベリやフヨウ、
立秋には萩がそよぎ、リンドウ、キクが紅葉に重なる。
冬枯れの境内にはサザンカが咲き、春の訪れと共にマンサク、梅がほころび始める。

庫裏から少し高台に建つ不動堂
よく写真に撮られるのがこのアングル。

ミツバツツジと桜の先に見える不動堂

不動堂前のミツバツツジ

不動堂前の桜とその奥に見える庫裏

不動堂前から見た久美浜湾と甲山
が、何といっても圧巻なのは4月上旬から中旬頃にかけて咲くミツバツツジ。
西日本に多い落葉性のツツジで、葉が小さめである事から正式にはコバノミツバツツジと呼ばれる。
日当たりの良い斜面を好み、細かな種で増えるので適度の下刈りが必要である。
雄蕊が10本あるのが特徴で、落花後、新芽が3枚ずつ出て、4月下旬には新緑に変わる。

石楠花と本堂

石楠花近影

桜の奥に見える本堂

本堂脇の山斜面にはミツバツツジが群生

本堂裏手の「珠山千年石の庭」から斜面への道を上る
如意寺は、時代の推移の中で昭和37年(1962年)、2㎞離れた観音山中腹から
飛び地境内であった現在の地にすべての伽藍を移すという大事業を敢行。
その結果、海へ向かって谷あいとなった境内は明るく起伏に富んだ絶好の地となり、
庭がそのまま自然の山へと続き、折々の花が寄り添うように咲く場所となった。

遊歩道入口にて

ミツバツツジのトンネルを行く

満開のミツバツツジ

ミツバツツジの奥に見える本堂屋根
当寺のミツバツツジは全て自生で約一万株。殊に青い空と海を背景に
ミツバツツジが山肌を埋めて咲く様は宛ら極楽浄土。
住職が時間をかけて整備した花のトンネルが境内を荘厳する。
境内の散策に加え、久美浜湾を眼前に望む絶景の部屋では
「花説法」と題した住職の法話も行われる。』 とあります。

本堂を見ながらミツバツツジの遊歩道を行く

本堂の宝形の屋根

山斜面も終盤からの眺望
山門の向こうに見える久美浜湾と甲山。

久美浜湾と甲山の斜面に見える「大文字」

白い桜とピンクのミツバツツジが境内を彩る

遊歩道もここで終了
ミツバツツジの花は大きさ・色調共に適度で好ましいと思える植物ですが、
寺院で植えている場所は意外と少なく、綾部の楞厳寺、山城の神童寺、近江の石山寺が思いつく位。
斜面を好みしかも下草刈りなど結構手間暇をかける必要がある事が理由の様です。
自生種とはいえ、ここまで山内を整備された如意寺の御住職に感謝です。
八分咲きのミツバツツジに加え、満開の石楠花、散り始めの桜と、
白・ピンク・赤のグラデーションを堪能できたエイプリールフル巡礼でしたが、
後でパンフを見るとボケの花も見頃だったと判明。最後は大ボケで〆とはなりました。

ミツバツツジの先に見える山門

こちらはミツバツツジの奥にある庫裏

庫裏前に咲くミツバツツジ

如意寺御朱印 (関西花の寺)
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【往路】JR大阪駅(5:55) → (福知山線) → JR福知山(8:19→8:53) → (たんごリレー1号) → 久美浜(10:38)

丹鉄「福知山駅」ホームにて
(左)たんごリレー号 (右)普通 宮津行き
期の始めの4月1日、京都府下の久美浜へ。
久御山ならば自宅から自転車でも行けますが、久美浜は大阪から150㎞以上離れた京都府の北西。
たとえ嘘でも自転車で行くのは無謀と言うもの。一字違いで大違いの典型でしょうか?
かつては大阪駅6時発の城崎行き電車が運行。途中通過待ちがあるものの、
殆んど待ち時間なしで9:35分に城崎着という便利さでしたが、今は始発の5時55分に乗っても、
福知山で35分、豊岡で43分待ち。久美浜到着は11時過ぎと随分不便になりました。

購入した京都丹後鉄道ワンデーパス ¥2500

赤松号、青松号をデザインした切符入れと今は絶滅危惧種の折り畳み時刻表
福知山で下車して待ち時間にふらっと京都丹後鉄道の改札へ立ち寄り。
私には北近畿タンゴ鉄道(KTR)で馴染みがありますが、平成27年4月から今の社名になったそう。
通称「丹鉄」、刀鍛冶も顔負けの名前です。
以前は、福知山での乗り換えが非常に長かった記憶がありましたが、JRより1分前に
「たんごリレー1号」というのが出発して乗り換えなしで久美浜まで先着する模様。
京都丹後鉄道は18きっぷの使えない三セクなので、と思い切って乗車。
特急料金が必要ですが、フリーキップを使えば割安になると駅員さんに教えて貰い¥2500で購入。
乗ったのは群青或いは紺色の「丹後の海」車両。車両スタンプが設置されていないのは残念でしたが、
和風仕様の社内は混雑もなく、ゆったりと寛ぐ事ができました。
デザインは言うまでもなく水戸岡鋭治氏、Meと謳歌効果となるのでしょうか。

ホームに停車中の「たんごリレー1号」 2両編成

リレー号の車体
通常は、「丹後の海」車両として運転。

車内の様子

車両後方の運転席付近

ブラインドも簾仕様
こうして久美浜には10:38着。‘捨てる神あれば拾う神あり’、不利きっぷにはなりませんでした。
久美浜駅は昭和4年12月に旧国鉄宮津線の駅として開業した歴史ある駅。
しかも平成3年に竣工した駅舎は、明治時代の久美浜県の県庁玄関の外観を木造で再現した
純和風建築。非常に風格がありますが、これは水戸岡氏デザインではありませんでした。

久美浜駅跨線橋上から
豊岡方面へ向かうリレー1号と駅舎。

駅舎玄関

久美浜駅全景

駅の集配ポストもこんな黒箱
写真撮影後は駅スタンプを押印しましたが、KTR時代に比べ小型・簡略化した感は否めませんでした。
今は駅スタンプよりも「鉄印」に重点が置かれているからでしょう。貴重な三セクの収入源なので、
上手く活用して収入減にならないようにしないといけません。
などと思いながらスタンプの図柄を見ると猫の姿がデザイン。
「ひこにゃん」「たま駅長」に肖ったのでしょうが、もしかすると「黒猫のタンゴ」かもしれません。

KTR時代の久美浜駅スタンプ
(上) KTR共通の駅印 (下) 久美浜駅オリジナル印

京都丹後鉄道 久美浜駅スタンプ
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<コース> 準特急は日中10分間隔で運行
阪急梅田 → (準特急) → 長岡天神 → 徒歩8分 → 長岡天満宮

長岡天満宮(旧府社) 拝殿前に建つ石碑
梅林で観梅後は、境内一周して帰路へ。
途中、参道脇には道真公縁の石碑が並びます。
私が目にした限りでは、漢文が三基、和歌が四基と数では伯仲。
漢詩と和歌に長じた道真公らしいと言えますが、内容には大きな隔たりが。
漢文が彼の政治信条など対外的なものであるのに対し、和歌は己の思いなど私的な物。
漢詩は友情を詠み和歌は愛情を詠む、とは良く言われる話です。

参道脇の石碑
これは道真公作ではなく、公の無実を詠んだものか?

同じく参道脇のチョット変わった字体

石碑の解説

参道脇の菅公歌碑
後ろにあるのは三春滝桜の分樹。

歌碑の御歌

歌の解説
注連柱を上った右手には紅葉庭園があり、その名も「錦景園」。
ここにも菅公所縁の歌碑があり、小倉百人一首でお馴染みの「このたびは…」の歌。
手向山はこの場所ではありませんが、紅葉繋がりでの建立なのでしょう。
因みに元歌は古今和歌集に収録されています。

紅葉庭園 「錦景園」

錦景園に建つ菅公御歌

歌の解説
『加えてここにはかつて古今伝授の間が存在。
慶長5年(1600年)、八条宮智仁親王は細川幽斎から古今伝授を京都の自宅で受け、
二代目・智忠親王はその建屋を領地のあった長岡天満宮境内に移築。
以後、開田御茶屋 (かいでんおちゃや) と呼ばれ大切に伝えられてきた。
明治4年、開田御茶屋は解体され細川家へ移築された。』 とあります。

これも参道脇の歌碑

歌の解説

三の鳥居を過ぎた場所に建つ歌碑

歌近影

歌の解説
参道脇の歌と同じなのは、それだけ菅公の無実を強調したいがためか。
開田御茶屋と言いながら古今伝授は、皆伝せず途中までで一旦中断。
そこへ起こったのが関ヶ原の戦い。東軍に属した細川幽斎が籠る舞鶴城は、数倍の西軍に囲まれます。
通常なら落城か討死ですが、古今伝授が絶える事を心配した朝廷の意向で、
勅使が幽斎との間を何度も往復。結果的に無血開城となったのは関ヶ原の終わった後でした。
幸運に恵まれたとされる幽斎ですが、そこは老獪な幽斎の事、全て計算ずくたっだのでしょう。
‘芸は身を助く’を地で行く話です。

古今伝授所縁の地の碑

古今伝授の解説

こちらは現代の句碑か?
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