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【往路】阪急梅田 → (阪急電車) → 東向日 → 徒歩2分 → 西国街道

法性山 石塔寺(本化日蓮宗)
向日神社参拝を終えて鳥居前まで来ると、日像上人の説法石と言うものが鎮座。
神社の前に仏教遺蹟とは!と思いつつ、西国街道を南下すると五辻で再び分岐。
この東側の島坂は延暦4年(785年)長岡京造営長官であった藤原種継が暗殺された場所。
遷都して僅か1年後の事でした。
側近の暗殺に始まる一連の政争は僅か10年で長岡京を放棄、平安京遷都への原因にもなりました。

向日神社の鳥居脇にある説法石

石の台座に嵌め込まれた遺蹟由来
そこを過ぎて暫く行くと東側に由縁のありそうな山門があり、開放した門の向こうには
整備された庭が見えたので入ってみることに。
法性山石塔寺(ほっしょうざんせきとうじ)は、
『鎌倉時代末の延慶3年(1310年)、開山日像(にちぞう)上人が向日神社前に
法華題目の石塔婆を建立し、その傍らにお堂を建てたのが始まり。
その後、文明年間(1469~1487年)に日成がこの傍らに堂宇を建立し寺号を定めたとされる。

正面より見た山門
庭園の奥に本堂が見える。

山門脇の由緒記

山門から見た境内
鎌倉時代以降は、寺の前を通る西国街道を行き交う人々で当寺周辺は賑わいを見せ、
豊臣秀吉、明智光秀など歴史上の人物も通っている。
元和年間(1615~1624年)に不受不施派の寺院として幕府に届けたが、
寛文6年(1666年)の不受不施禁制後は妙顕寺派に属した。
その後、寛文年間には独立本山に成長し、その末寺は近畿一円に三十三ヵ寺に及んだ。
周辺には「御塔屋敷」「御塔下」「御塔道」等の地名が今も残り、かつての伽藍の壮大さを今に伝えている。

山門を入って右手に建つ塔堂・妙見堂・七面堂

塔堂

塔堂前に立つ石碑

塔堂内部に祀られている石塔婆

塔堂に続く妙見堂・七面堂
明治9年(1877年)には鶏冠井村の興隆寺を吸収、翌年には本堂・庫裏・座敷・塔堂・妙見堂・七面堂・
鐘楼・門等を整備した。現在は本化日蓮宗の単立寺院で十界大曼荼羅を本尊とする。
毎年5月に行われる鶏冠井題目踊は、日像が炊いたご飯の湯気が「南無妙法蓮華経」の
文字となったのを見た村人が喜ぶ様子を表現したとされる。』 とあります。

塔堂前から見た本堂と庫裏

本堂前の庭園

本堂前の石はかつての礎石?
これで向日神社の鳥居前に説法石が鎮座するのにも納得。
開祖日蓮上人が鎌倉で辻説法を説いたのは有名ですが、
鎌倉を起点に広まった日蓮宗の関西での起点はここだそう。
山門を潜ると庭の先には本堂建ちますが、直ぐ右手には古い小さな御堂が建ち、
その前には「日像菩薩石塔」の石碑が。
堂内を覗くと正面に南無妙法蓮華経と刻まれた石塔が祀られていました。
殆どの宗派では仏像を祀りますが、このような題目石塔を祀るのは
法華経を全てと考える日蓮宗ならではと言えます。

庭園の間を抜け本堂へと続く参道

松の向こうに建つ本堂

鉄筋の本堂全景
木々の入らないアングル。

本堂に掲げられた「法性山」の扁額

本堂前からの眺め
平安以後の宗派では、最澄と同時代の空海、明より来朝した隠元以外の宗祖は
全て比叡山に学びました。日蓮も例外ではありません。
しかし、他の宗祖が平安京で布教を始めた中で、日蓮のみは鎌倉を布教の手始めにしています。
関東の安房出身という事もあったでしょうが、身近な人達の日常に接してのスタートは、
それ以降の日蓮宗の方向性を決めたとも言えます。
他宗派への攻撃性が強調されることの多い日蓮ですが、
民衆から乖離してしまった仏教への抗議とも言えそうです。
歴代には「日」文字を名乗る僧侶が多いですが、これは日本や日輪ではなく
意外と日常を表していると考えるのは飛躍しすぎでしょうか?

本堂と庫裏の間にはこんな池泉回遊式庭園も

庭園に架かる石橋

境内の奥に続く庭園

庫裏正面
生憎、住職が不在のため御朱印拝受は叶わず。

境内の梅
[参考書]
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向日神社(式内社 旧府社) 舞楽殿と拝殿
御朱印拝受に続き本殿へお参り。
参道の両側は桜で有名ですが、社殿の周辺にも桜、奥は紅葉が見られます。
社殿はたくさん建っていますが、手前にあるのが舞楽殿、その奥が拝殿で
更に奥に行くと本殿に到達する模様。

拝殿前の桜 (3月24日撮影)

由緒記

拝殿近影
『重要文化財の本殿は応永29年(1422年)の建築で、三間社流造・檜皮葺。套堂(覆屋)内に納められ、
周囲を透塀で囲まれて、拝殿・幣殿と繋がって権現造に似た様式を持っている。
明治神宮のモデルになった社殿である。

拝殿の唐破風

唐破風下の鳳凰と龍の彫刻

向拝欄間の麒麟の彫刻

同じく亀の彫刻

唐破風の屋根瓦
本社の北側には元禄元年(1688年)建立の祖霊社が立ち、江戸時代末期の渡り廊下で
拝殿と繋がっている。その手前、東側には同じく江戸時代末期の五社神社が建つ。
また社宝の紙本墨書日本書紀(神代記下巻)は南北朝時代の写本で、
同じく国の重要文化財に指定されている。

拝殿前の枝垂れ桜 (3月24日撮影)

拝殿前の狛犬(吽像)

こちらは狛犬(阿像)とその奥にある渡廊下
境内奥には社叢が広がり、水が湧出する場所には不動尊が祀られている。
神社北側の公園内には元稲荷古墳があり、古墳時代前期の前方後円墳で全長94m、
三段築成で竪穴式石室を持つ。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の途上当社に参詣した時、その山名を訊かれた神主が
咄嗟の機知で「勝山」と答えたので、秀吉は喜び、以後勝山と称されるようになったと言う。』
とあります。

拝殿から右(北側)へと続く渡廊下

渡廊下は祖霊社へと続く

祖霊社前の五社神社
本社は渡り廊下で祖霊社と繋がるなど一見複雑な造りに見えますが、
時代を考えると増築なので、本来の姿は留めている筈。
明治神宮のモデルになった程の社殿ですが、説明に従うと本殿は覆われているので
直接拝見する事はできませんでした。
京都の神社が基になったのは、何ら不思議ではありませんが、
山城国一之宮である上賀茂・下鴨神社を【向こう】に回して選ばれたのは中々なもの。
こうして三間社流造が長岡京と東京の両都に並び立つことになります。

渡廊下を過ぎて本殿へ向かう

社殿後方からの眺め
但し、説明に従うとこの建物は套堂(覆屋)になる。

本殿奥には社叢が広がる

社叢の一画にある水掛不動尊
ここに湧水があったか?

境内奥の元稲荷古墳
当社が古の形式を保っているのが表向きの理由でしょうが、
平安京の二番煎じ、亜流と見做されるのを憚った可能性が【ありゅありゅ】。
このような場合、より古いものを持ってくるという加上説と言うのが歴史学にはあるので便利。
しかし、それならばもっと古い大和の神社を持って来れば良さそうなものですが、
色々複雑な事情があったのでしょうか?ともあれ【過剰】な想像は禁物です。

古墳のある勝山緑地

勝山の謂れ

向日町郵便局 ; 重文・向日神社本殿、長岡京大極殿遺跡碑、特産・筍

阪急西向日駅西口に建つ長岡京大極殿跡碑

石碑脇の満開の桜 (3月24日撮影)
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向日神社(式内社 旧府社)
ひな人形めぐりの途中、街道沿いに石鳥居があったので参拝することに。
鳥居の奥には真っ直ぐな参道が長く伸び、社殿は遥か先。
歩いて行くと右手に古風な社家が建ち、石畳の参道脇には桜の木が多数。
花見シーズンには賑わうと思いましたが、後で伺うと夏は青もみじ、
秋は紅葉と季節を通して楽しめる参道だとか。
(この後、3月24日に訪れると予想通り桜が満開。近所の人も写真撮影に興じていました。)

一際大きな社号標

桜に彩られた一の鳥居 (3月24日撮影)

一の鳥居に掲げられた扁額
石畳の参道は200m。直ぐ右手には神職の自宅が厳かに建ち、更に進むと
境内社の勝山稲荷神社を見て階段を上ると正面に見えるのが舞楽殿。
途中、桜の枝が参道に張り出し宛ら花道を行く心地。
訪れる人は皆、【賛同】してくれるものと信じます。

真直ぐに続く桜の参道

こちらが、神職の御自宅

参道に並んで神職の塀が続く
向日神社(むこうじんじゃ)は、
『延喜式にも登場する古社。社殿では養老2年(718年)創祀と伝えられる古社。
古くは向日神(むかひのかみ)を祀る上ノ社と火雷神(ほのいかづちのかみ)を祀る下ノ社があり、
前者は五穀豊穣、後者は祈雨・鎮火の信仰がある。
平安時代には山城国五社の一つに数えられている。
下ノ社の宮司は承久の乱では後鳥羽上皇側に付いたため敗北、
福知山の荘園・六人部荘(むとべのしょう)に身を隠した。
許されて戻った時には、下ノ社は荒廃。そこで建治2年(1276年)に下ノ社を上ノ社に合祀、
向日神社と改称し付近一帯の総鎮守となった。

参道の奥に微かに社殿らしきものが見える

境内社 勝山稲荷神社
応永29年(1422年)には近郷の七村が協力して本殿を再建した。付近は西岡と呼ばれたが、
明応7年1438年の西岡の土一揆は西岡向大明神に集結して蜂起したもので、
長享元年(1487年)には向日宮で「国の寄合」があるなど、山城国一揆勢の拠点の一つとなった。
神主は平安時代から六人部(むとべ)氏が継承、幕末の六人部節香(ときか)と
甥の是香(よしか)は平田派国学者として著名である。
また六人部暉峰(きほう)は竹内栖鳳門下の女流画家として知られる。』 とあります。

階段の先に建つ舞楽殿

舞楽殿と桜

拝殿前から見た舞楽殿
近隣では長岡天神(天満宮)が有名ですが、由緒はこちらがずっと古い。
平安時代から六十部(むとべ)氏が神職を務めるとガイドにはありましたが、
御朱印拝受の際に社務所で確認。対応下さった神職夫人の話では、
夫人 ; 「平安よりも古くて、奈良時代まで遡ります。」
私 ; 「神社は古い家系が多いですね。阿蘇さんとか海部さんとか。」
夫人 ; 「籠神社さんも古いですが、あちらは養子さんもいるので。うちは95代全て男系です。」
私 ; 「国宝の系図とかはあるのでしょうか?」
夫人 ; 「国宝ではないですが、文化財として保管しているものがあります。」
私 ; 「そういえば、以前「旅してゴメン」の撮影でウド鈴木さんが来られましたか?」
夫人 ; 「ええ、いらっしゃいました。それからは「テレビで見ました!」と
北海道から沖縄まで参拝者が大勢来られて、もうキャイーン状態でしたわ。」
と中々面白い話でした。

舞楽殿の前を右手に進み社務所へ

参集殿も兼ねた社務所
奈良時代云々はさておき、承久の乱で六人部荘に難を逃れた時が
一つの転機だった事は間違いなさそうです。
テレビ撮影では幼い男の子を抱いて居られたので、96代目までは先ず大丈夫のようです。
家系も伝統も継承するのは苦労が多い筈、キャイーンの末裔にならないよう注意しなければいけません。

向日神社説明書

向日神社御朱印
コロナのため書置きを拝受。
[参考書]
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中小路家住宅(国の登録有形文化財) 喫茶室にて雛人形を前に
五辻の分岐点を左へ進み西国街道を南下し、阪急京都線の線路を越えると上植野町下川原。
街道沿いは河原町と呼ばれ、白壁の土蔵や塀、門が連なり、往時の景観を今に伝えています。
そんな中で唯一見学できる施設が中小路家住宅。
唯、見学と言っても喫茶室併設なので、食事をしながらの見学ではあります。

阪急京都線を抜け西国街道を更に南へ

街道に立つ竹を象った街灯

竹の形の道標
中小路(なかこうじ)家は、
『菅原道真の一族で、太宰府へ左遷される道真に従った後、京へ戻り、
道真を祀る天満宮を、現在の長岡京市開田に造立したとされる。
上植野にある向日神社の御旅所前から東西へ延びる一本道は“中筋道”と称され、
復元された長岡京では大路に当たる由緒を持つが、これを姓にしたと考えられる。

中小路家に到着

北に隣接する御屋敷

こちらは御向かいの御屋敷

南に隣接する御屋敷
室町時代から戦国時代には、乙訓・西岡の土豪として活躍、本拠として開田城を築いた。
付近一帯に多い中小路家は、その子孫と考えられる。当家に伝わる延宝8年(1680年)以来の
古文書などから400年近く前から現在地に住まい、幕末には聖護院門跡領の庄屋を務めていた。
代々の当主が忠兵衛であったことから屋号を「河忠」と言い、古くからの農家であった。

中小路家の長屋門

喫茶メニュー

門から見た主屋

主屋の前の庭

庭に咲く花
中小路家は西国街道に沿った住宅で、敷地中央北寄りに建つ主屋に、上質な造りの座敷を備えた大形民家。
敷地内には高く腰板を張った土蔵造りの内蔵と外蔵、落ち着いた佇まいの離れ及び内門が建つ。
また西国街道に面して、南から軒まで漆喰塗り込めとした穀蔵、出格子窓を付けた長屋門、
これらと統一的な外観を持つ木小屋と塀が連なり、旧家の屋敷構えを伝えている。
現在の主屋については、弘化5年(1848年)正月に居宅建て替えを願い出た文書の付図と比べ、
大きく異なる点はなく、この年に造立され維持されてきた建物である。』 とあります。

主屋玄関前にて

展示中の雛人形

左上段の内裏雛と三人官女

右側は内裏雛のみ
中の工事もなく、予約なしの昼食。入口横の座敷にも雛壇が置かれ、
庭からも眺めることができますが、屋内にはそれにも増して豪華な雛人形が陳列。

主屋に展示中の雛人形 (左側)

同じく右側

正面の雛人形は戦前の仕様か?

有職雛

御簾越しに見る内裏雛
併設の喫茶店も【なかこうじ】ならば甘酒か味噌がメインかと思いましたが、意外にもイタリアンでした。
雛人形を見ながらの優雅なランチで、オムライス&レモンスカッシュのセットで¥1000はお得。
食後は熱いカプチーノを注いだアフォガードアイス ¥650 で〆。
アフォガードとは溺れる意味でそうで、いい意味で食事に溺れました。
その後、南の一文橋まで歩いてひな人形巡礼終了。かつて橋が洪水でしばしば流されたため、
架け替えの費用として通行人から一文づつ徴収したのが名前の由来だそうですが、
りーずなぶるなランチのお陰で【一文無し】にならなかったのは幸いでした。

雛人形を見ながらのオムライス

オムライスに続いてレモンスカッシュ
リュトンの形のグラスがお洒落。

最後はアフォガードアイスで〆

こちらは売り物の雛人形
干支の関係かウサギが目に付く。
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<コース>
【往路】JR天王寺(6:18) → JR加茂(7:26→7:33) → JR月ケ瀬口(7:57) → 月ヶ瀬駅前(8:45) → (臨時バス) → 尾山口(9:00)
徒歩5分 → 梅林入口 → 真福寺 → 一目八景 → 帆浦梅林 → 梅林公園 → 天神神社・天神梅林 → 代官坂 → 月ヶ瀬橋 → 一目万本 → 奥の谷梅林 → 龍王梅林 → 八幡橋 → 紅葉の小道 → 梅の資料館(月ヶ瀬橋畔) → 尾山口
【復路】尾山口(13:40) → (臨時バス) → JR月ヶ瀬駅(13:55→14:12) → (関西本線) → JR大河原(14:18) → 徒歩8分 → 恋志谷神社 → JR大河原(15:19) → JR加茂(15:35→15:39) → (大和路快速) → JR大阪(16:54)

戀志谷神社(南山城村天満宮末社)
観梅帰りの列車では一駅先の大河原で下車。京都府下で唯一の村で、
駅周辺にはコンビニも見当たりません。
そんな場所で降りたのは以前に駅で押印したスタンプの図柄が気になったから。
その名も「恋志谷(こいしだに)神社」と言い無人の小さな社ですが、恋愛成就に御利益があり、
毎年4月2日と9月2日の大祭には御守りを求める長蛇の列ができるそう。

簡素なJR大河原駅舎
一応有人駅という事だが、この時間帯は閉鎖中。

以前に押印した大河原駅スタンプ
2006年JR西日本支社印の類似印。

駅前にある案内標識
向こうに橋が見える。
駅を降りると直ぐ目の前に木津川が流れ、目的の神社は向こう岸の集落に。
そこで100m程下流に架かる橋を渡ることになりますが、橋の名前は通称恋路橋。
正式には大河原沈下橋と言って洪水でも流出を防ぐ先人の知恵ですが、
沈下橋は四万十川ばかりと思っていました。
川面からの距離が短いから良かったものの、欄干がない橋はかなり慎重に渡る破目に。
私の後に自動車が平然と渡って行きましたが、習慣とは恐ろしいものです。
この木津川を下って行くと八幡市には流橋があり、木津川は差し詰め橋の博物館。

下流より見た恋路橋

欄干のない橋を往く
直ぐ後に、自動車も通って行った。
橋を渡って坂を上ると集落があり、その突き当りが目指す神社。
入口には石鳥居が建ち、右に天満宮社、左に少し小さい戀志谷神社の社号標が建ちます。
この社号標の大小はそのまま境内奥の社殿の大きさにも反映する事に。

入口に建つ石鳥居と両社号標

柳生宗冬が寄進した石鳥居

石鳥居の由緒記
戀志谷神社(こいしだにじんじゃ)は、
『鎌倉時代末期の元弘元年(1331年)、倒幕の計画を知られた後醍醐天皇は
京都を脱出し笠置山に籠って挙兵。
それを天皇に想いを寄せていた妃が聞きつけ、伊勢で病気療養中にも拘らず駆け付けたが、
既に遅く、天皇は幕府から逃れるため、笠置を去った後であった。

椿の花の活けられた手水舎

手水舎脇の狭い石段を上り社殿へ

石段を上った先から境内を眺める
勿論、右の大きい方が天満宮社。
妃は悲しみと長旅の疲れから病が再発。
「恋に焦がれ病に苦しむような事は、自分一人で十分。私は人々の守り神になりたい。」
と言い残して自ら命を絶った。
これを哀れに思った人々が祠を建て祀ったのが当社の始まりである。
妃は最期まで「天皇が恋しい、恋しい」と言い続けていた事から、
いつしか「恋志谷さん」と呼ばれるようになった。

左側に建つ戀志谷神社
駅スタンプはこの構図。

戀志谷神社口碑
但し、摩滅して判読し難い。

戀志谷神社口碑伝説
これがあると分かり易い。

石段の先に建つ戀志谷神社本殿

戀志谷神社本殿近影

右に建つ天満宮社にも参拝

天満宮社の下に並ぶ石灯篭群

石灯篭解説

解説にある天文14年造立の灯篭はこれ?
元は古森と呼ばれた地に祀られていたが、江戸末期の元治元年(1864年)、
この地にあった天満宮社に合祀された。
天満宮は、江戸時代初期に柳生藩第三代藩主柳生宗冬が勧請したと伝えられ、
入口の石鳥居は正保4年(1647年)に建立寄進されたもの。
ここは父宗矩や二人の兄(十兵衛・友矩)も好んだ一族所縁の地で、
藩主としてここを重要視したのが覗える。』 とあります。

天満宮本殿

両本殿の間に建つ伊勢神宮遥拝所

天満宮の右手には、橿原神宮遥拝所と大川神社

更に右手には山の神
奥さんが参拝するのかも。

並び立つ二つの本殿
なにやら月ヶ瀬で聞いたのと似た話ですが、妃は全くの別人。
いずれも後醍醐天皇がらみですが、立川流の熱心な信者で
側室だけで20人を超えた帝としては、そのような事もあったのでしょう。
歴史の教科書とはまた違った評価になります。
神社へは木津川に架かる大水時には沈む沈下橋を渡りますが、橋の別名は恋路橋。
ここを歩いて渡ると恋愛成就する言い伝えですが、沈下橋ならば恋に溺れる危険がありそう。
唯、失恋しても【木津】が癒してくれるでしょうが…。

本殿から見た御神木

本殿の裏山では木々が養生中
印象では榊に見えるが…。

境内にある舞殿
その奥にあるのは参集所か?

レトロな舞殿の屋根裏

境内左手の社務所
春と秋の大祭でも使用するのかしらん。

神社説明書
御朱印はないが、これは持ち帰り用に設置してある。
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東舞鶴駅 → 徒歩12分 → 赤れんが館 → レンタサイクル20分 → 金剛院 → レンタサイクル15分 → 松尾寺 → レンタサイクル30分 → 東舞鶴駅
【復路】JR東舞鶴(14:28) → (まいづる10号) → JR京都(16:07)

青葉山 松尾寺(真言宗 西国三十三ヵ所第二十九番札所) 境内の紅葉
仮本堂で御本尊に参拝したあとは、いつも通り境内を散策。紅葉と銀杏に彩られた道を往きます。
『境内には下段に仁王門(江戸中期)・勅使門・庫裏・方丈、上段に経蔵(江戸中期)・地蔵堂・
鐘楼・大師堂・六所神社があり、最奥に享保5年(1720年)に着工し10年後にようやく完成した本堂がある。
本堂から仮本堂へ向かう参道脇には鐘楼が建つ。
通常と異なり下部の袴腰が広がらず、上部と同じ広さを持った造りである。

参道脇に建つ鐘楼
その奥に聳えるのは銀杏の巨木。元永2年(1119年)鳥羽天皇の御手植えとされ、
樹齢900年。胸高囲5.2m、根廻り6.0m、古木特有の気根が垂れ下がっており、
その形が乳房に似ている事から安産・子育ての御利益があるとされる。
昭和52年に舞鶴市の指定文化財になった。

鐘楼の奥の銀杏の巨木
いわば此の樹木が御神木か?

古木特有の垂れ下がった気根
改修中の本堂左側には経蔵・地蔵堂と続き、その奥に句碑が二基、歌碑が一基。
更にその奥は竹林を経て青葉山への登山道と続いている。』 とあります。
青葉山境内には大銀杏があるせいか、地面は赤よりも黄色が優勢。
このグラデーションを見れば季節を知る信号になりそうでした。

本堂手前左手に建つ経蔵と地蔵様

その奥にある地蔵堂
全面に建つ六地蔵は冥途への案内仏?

更に奥には三基の句碑が…。

右端は句碑

中央は歌碑

左端は句碑
また裏山には竹林はあるものの梅林はなし。松竹梅揃い踏みはなりませんでした。
などと下らない事を思いながらの散策でしたが、境内を巡る人は皆無。
納経所ではそれなりの人に遭っただけに不思議でしたが、松尾寺は
札所の本堂と納経を済ませると留まる場所ではないのでしょう。
そう思うと、句碑や歌碑の説明も全くない理由も納得です。
こうして二ヵ寺巡礼は無事終了ですが、鹿原山と馬頭観音で
【馬鹿】を見たとはならんように注意が必要です。

地蔵堂脇の楓

経蔵裏は一面の銀杏

裏山の竹林

本堂奥には青葉山への登山道が

未だ青葉の残る楓

色が移ろいゆく楓

紅葉が進んだ楓
巡礼後は赤レンガ館で「肉じゃが丼」¥900。舞鶴鎮台に務めた東郷平八郎が
イギリスのビーフシチューを再現しようとして出来たのが「肉じゃが」だった事に由来します。
日英を【統合】したようなものでしょうか?
駅からは「特急まいづる」で二条駅まで戻り、無事18時から始まるイベントへ参ずることができました。
全車指定席でもあり¥3500。「これなら市内で拝観する方が良かったのでは」とも言えますが、
駅に置かれたチラシには東福寺夜間拝観¥3000。
交通費を掛けて静かにゆっくり見るか、近場で混雑の中で見るかは意見の分かれる所でしょうが…。

肉じゃが丼

デザートはお芋のタルト

二条駅で入手したリーフレット
[参考書]
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東舞鶴駅 → 徒歩12分 → 赤れんが館 → レンタサイクル20分 → 金剛院 → レンタサイクル15分 → 松尾寺 → レンタサイクル30分 → 東舞鶴駅
【復路】JR東舞鶴(14:28) → (まいづる10号) → JR京都(16:07)

青葉山 松尾寺(真言宗 西国三十三ヵ所第二十九番札所) すっぽりと覆われた本堂
最後の階段を上ると正面に建つのが秘仏馬頭観音を祀る松尾寺本堂。
兜を連想させる唐破風に青葉ならぬ緑青の美しい銅板屋根が印象的に残っていますが、
上り切って見ると周囲が覆われまさかの改修中。
『和銅5年(712年)には威光上人に帰依した元明天皇が、藤原武智麻呂に命じて本堂を建立。
馬頭観音像を移して安置したと言う伝えも残され、養老年間(712~723年)には
元正天皇の勅願で泰澄が山頂に奥之院を建立している。

由緒記

改修の御知らせ
寺伝に拠ると正暦年間(990~995年)、青葉山北麓に春日為光という漁師が居た。
或る日、漁に出たところ、突然の嵐に遭遇し海に投げ出された。運よく大きな流木に
捕まることが出来、お陰で浜辺に流れ着くことが出来た。
救われた為光がほっとしていると流木が白馬に変身し青葉山に向かって走り去った。
不思議に思い馬の足跡を辿ると、松尾寺の前で馬を見つけたが
為光が近づくと再び流木となってしまった。
為光は流木こそ観音様の化身であった事に気付き、急ぎ仏門に入ると
流木に馬頭観音を彫って大切に祀ったと言う。

まさに絵になる本堂

渡廊下で本堂と繋がる大師堂が仮本堂

手水舎で身を浄めてから参拝
元永2年(1119年)には鳥羽天皇の行幸があり、寺領四千石を給い、寺坊は六十五を数えて繁栄した。
鎌倉初期から若狭と丹後の両国が寺の帰属を巡って論争した。
しかし天文年間(1532~1555年)に織田信長の兵火で諸堂の多くを焼失。
天正9年(1581年)になって細川藤孝が改修、更に慶長7年(1602年)に京極高知の修復などで
伽藍を整備するが、寛永7年(1630年)、正徳6年(1716年)と二度の火災で再び本堂などを焼失。
現在の本堂は、牧野英成により享保15年(1730年)に修築された。

正面は御神木?

横から見た仮本堂(大師堂)

大師堂近影
但し、桜の木が気になって上手く撮影できず。
本堂は五間四方、二重・宝形造で向拝一間、軒唐破風付で、堂内は凹形の外陣と凸形の内陣からなる。
二層屋根の堂々とした造りの本堂には、春日為光が刻んだと言う本尊馬頭観世音菩薩像が安置され、
胎内には威光上人が感得した霊像が納められていると言う。
菩薩とはいえ忿怒の厳しい表情を見せている。
頭上に馬を乗せている姿から、今は交通安全、競馬関係者の信仰を集めている。

大師堂の向拝

心霊閣の扁額

向拝欄間の彫刻は松に鶴 松尾寺と舞鶴に由来か?

大師堂前からの眺望
丹後地方唯一の国宝の仏画「普賢延命菩薩像」は鳥羽天皇皇后の美福門院の念持仏とされ、
また快慶作の木造阿弥陀如来坐像、鎌倉時代の孔雀明王像、法華曼荼羅などの寺宝は
いずれも重要文化財になっている。
5月8日の花祭に行われる仏舞は重要無形民俗文化財となっている。』 とあります。

御本尊の御前立 (説明書より)

国宝「普賢延命菩薩像」 (説明書より)
解説では威光上人に帰依した元明天皇が藤原氏に【厳命】して建立したとありますが、
今一つの説は命を救われた漁師春日為光の信心に由来するもの。
良く見ると為光を音読みすると‘いこう’。このような場合、有名でない方が真で、
著名な人物は後世、寺に箔を付けるために加上されたと考えるのが自然。
想像するに漁師から唐の高僧の名に【移行】し、【以降】はそれを由緒にしたのでしょう。
高僧の御威光ですな。

納経のため山門左奥の庫裏へ

庫裏(寺務所)近影
本堂と違ってこちらは赤屋根。

松尾寺説明書

松尾寺御朱印
(左) 平成5年拝受分 ¥300 (右) 今回拝受分 菊の御紋押印で ¥100増しの¥400
古刹で霊験があったので歴代天皇の崇敬を受けたため勢力争いや戦乱に巻き込まれたのか!
などと思いながら上り切ると、まさかの本堂修復中。但し、御本尊は渡り廊下で繋がっている
大師堂を仮本堂として安置されていたので、参拝することはできました。
納経のため庫裏に伺った際に尋ねました。
私 ; 「本堂完成は、来年くらいですか?」
住職 ; 「早くて令和8年暮れです。」
私 ; 「…」
通常の家屋と異なるのは当然ですが、少し時間が掛かり過ぎの様な気が…。
大過がなければ4年後に寿命はありそうですが、果たして自転車巡礼できるかどうか?
そんな先まで【待つのぉ寺】と言いたい所ですが、御本尊に【罵倒】されそうです。

庫裏とその奥に建つ書院
但し、どちらも拝観はせず。

書院近影

書院前の池

池泉回遊式にも見える前庭
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青葉山 松尾寺(真言宗醍醐派 西国三十三ヵ所第二十九番札所) 仁王門
レンタサイクルは小浜線沿いの27号線から外れて北へと向かう564号線へ。
上り坂にかかっても開帳ならぬ快調。やはり巡礼は【でんどう】に限ります。
青葉山松尾寺(あおばさんまつのおでら)は、
『京都府と福井県の県境に位置する標高699mの青葉山中腹に位置する。福井側から望見すれば、
東西に並び立つ双峰が一つに重なり、その秀麗な様は「若狭富士」と呼称されている。
・富士なくば 富士とやいわん 若狭なる 青葉の山の 雪のあけぼの 後陽成天皇皇子・八条王子

江戸時代再建の仁王門

仁王門の向こうの石段を上がると本堂へ
仁王像は不在、出張中か?

仁王門に掲げられた「青葉山」の扁額
この山は死火山で、かつては火焔を噴き上げ、噴流は直下の日本海に注いで
凄絶な水煙を上げていたものと思われる。
この厳しい表情をたたえた険峻な山は、早くから修験道場の場となっていた。
和銅元年(708年)、唐の僧侶の威光(いこう)上人が青葉山の二つの峰を望み、
祖国の霊峰馬耳山を想起する。上人はこの山こそが霊地であると考え、
中腹の松の大樹の下で法華経を唱えた所、馬頭観音の霊像が出現。
そこで観音像を彫り草庵を結んだのが嚆矢。
青葉山松尾寺はこの山と松に因んで名付けられた。』 とあります。

仁王門の奥の扁額

仁王門屋根の垂木と組物

仁王門欄間の龍の彫刻

こちらは鳳凰の彫刻
山を遠望しながら杉が両側に聳える道路を行くと、石標が建つのが寺院入口。
江戸時代には14~15軒の農家が宿屋を営んでいたそうですが、今は跡形もありません。
紅葉散り敷く参道を上ると俄かに視界が開け、階段の先には重厚な門が。
これが松尾寺仁王門で江戸中期、享保15年(1730)~享和2年(1802年)に建てられたものと
言われ京都府指定文化財。前面上には「青葉山」の扁額が掲げられています。

横から見た仁王門

境内側から見た仁王門
矢印にあるように納経は仁王門の左手へ。

仁王門から参道を振り返る
由緒にあるように当地に松尾寺が開創された理由は、活火山である青葉山に対する
畏敬の念からというのが最も無理のない説。これは若狭の人も考えたようで、
山の丹後側には松尾寺、若狭側には中山寺がありどちらも青葉山を山号としているのが、
その証拠と言えます。
後世ここを西国札所に決めたのが【かざん】法皇。仁王門を過ぎた参道左手に菊の御紋の勅使門があります。

仁王門を過ぎ階段を上る

門の脇にひっそりと建つかつての塔頭跡の碑

西国三十三ヵ所を示す寺標と参道脇を彩る楓
加えて寺から少し北へ行った場所にあるのが大杉の清水。山の中腹から湧出する水が
霊泉と見做されたのでしょう。山中にあって清水は【多すぎ】る事はありませんから。
初めて草庵を結んだとされる唐の威光上人は紀三井寺でも登場した高僧。
確かに双峰を遠望すると馬耳に見えます。
馬耳にお経を唱えて馬耳東風にならなかったのか疑問は残りますが、
そこは西方の大唐帝国の御威光でしょう。

参道左手の勅使門

門扉には菊の御紋が

石段からの仁王門の眺め
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JR小浜線松尾寺駅舎
金剛院に続く巡礼先は松尾寺、西国札所第二十九番札所の古刹で、
駅から3㎞程の距離はあるものの最寄り駅は小浜線の同名の駅。
京都府内にある小浜線内唯一の駅でもあります。
それにも拘らずこの日は6.1㎞手前の東舞鶴駅からレンタサイクル。綾部~東舞鶴間は
ほぼ1時間毎の運行ですが、小浜線への乗換となると途端に本数が半減。
松尾寺駅の開業は大正11年12月と古いですが、平成5年のデータでは一日の乗降客は
66名と東・西舞鶴駅の1.5%しかありませんでした。

27号線沿いに建つ松尾寺への案内板

駅舎全景
未だ非電化だった平成5年は乗換時間も僅かで9時半頃に駅に着きましたが、
電化された今回は東舞鶴駅での待ち時間が2時間近く。これでは歩いた方が早く着くと言うもの。
一体何のための電化だったのは不思議になります。

未だ非電化の平成5年に押印した松尾寺駅スタンプ
無人化されて久しく、これは隣の東舞鶴駅に設置されていたもの。
レンタサイクルは小浜線に沿って走ったので、途中興味もあって松尾寺駅へ立ち寄り。
東西の舞鶴駅舎は二階建ての鉄筋に改装されましたが、こちらは29年前と変わらぬ木造平屋建て。
無人駅であることは同じですが、それにしては駅全体が綺麗な状態なので近寄って見ると、
駅舎の正面には登録有形文化財の金属板が嵌め込んでありました。

駅舎入口近影
寺院本堂で言えば、向拝と山号の扁額に相当する?

入口の壁に嵌め込まれたレリーフ
ルネサンス様式の門司港駅舎などとは異なり決して芸術的な造形ではありません。
肥薩線の嘉例川駅あたりが嚆矢かと思いますが、3セクの天浜線、長良川鉄道を含めて
昔【ながら】の駅舎に価値を見出すのが最近の傾向のようです。

駅舎待合室
落書き等もなく綺麗な状態。

思わず唸ってしまう列車本数

改札口
待合室に入ると、13時10分の東舞鶴行の列車を待つ人が数人居られましたが、
全体を見渡して非常に清潔な印象を受けました。無人駅だと落書きや破壊が多発し
不良の溜まり場になるのではと心配でしたが杞憂に過ぎませんでした。
昔の駅舎が壊されずに守られているのは有難い事ですが、駅は鉄道として利用されるのが本来の姿。
列車を【まつのーぉ】寺ならば良いですが、廃線になって【ポツンと一軒舎】だけは避けたいものです。

27号線から青葉山を目指す

この先で左手の脇道へ入る

このような田圃の中を往く

最後はこのような坂道を上る
巡礼の道の最後は田圃の中から山中の坂道を経て門前へ到着。
西国札所と言う割には門前には宿泊・食事施設もなく、江戸時代よりも却って後退している感じ。
電車で参拝に来る人が少ないのはこんな所にも原因がありそうでした。

ようやく入口へ到着

入口脇の案内板

石段を上った先に山門が建つ
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鹿原山 慈恩寺 金剛院(真言宗東寺派 関西花の寺二十五霊場第三番) 小池庭
境内は親王御手植えの千年榧の木、清盛の父・平忠盛お手植えの奉行杉がありますが、
圧巻は数千本と言われるもみじ。
江戸時代以前に丹後の城主であった細川幽斎が植樹したとされ、
境内南西には彼の作庭になる「鶴亀の庭」もあります。

金剛院へ向かう途中に聳える奉行杉
平忠盛の御手植えと伝わる。

金剛院境内の御神木・千年榧
こちらは開山・真如法親王の御手植えと伝わる。
『京都府と福井県の県境近くの山間に位置する金剛院は、
三重塔を彩る紅葉が一際美しい事で知られる。
三島由紀夫の『金閣寺』にも紅葉と共に境内の情景が描写され、
別名「丹後のもみじ寺」と呼ばれる所以である。

三重塔周辺の紅葉
奥に建つのが本堂。

紅葉のグラデーション
山門を過ぎた場所にある「鶴亀の庭」は別名「小池庭」。
庭園中央の池には亀が泳ぐ姿の様に造られた亀島があり、また右手の平地には石組みや鶴石がある。
端の方に建っている細長い石は鶴首石と思われ、長寿や幸せを願う意図を以て造られた庭園と言える。
安土桃山時代の丹後国領主細川藤孝の作庭と伝わり京都府の名勝に指定されている。

伝・細川幽斎作庭の「小池庭」

庭園全景
赤黄緑に彩られている。

庭手前の植込み部分
これらに加えて、境内には高岳親王の御手植えと伝わる千年榧の木、
平忠盛の奉行杉など古木があり、更に椎・樫林等の優れた自然環境に恵まれている。
これは境内を取り囲む周辺林地域が社叢林として保全されてきたためで、
金剛院とその周辺は「京都府歴史的自然環境保全地域」に指定されている。』
とあります。

社叢林

地面を覆う杉苔

赤れんが館で入手した金剛院パンフ
主に自然環境について記載している。
細川幽斎といえば古今伝授を受けた文人大名として有名。作庭の才があっても不思議ではありません。
唯、軟弱なだけではなく、戦の駆け引きも巧みだったと見えて、関ヶ原直前の舞鶴城籠城では、
大軍を長時間に亘り引付け、結果的に関ヶ原への参陣を不可能にさせました。
戦国時代は、生き残りを掛けて皆が鎬を削る時代。いかに実力があっても誰に付くかで
家の浮沈が左右されます。その意味では武力よりも情報力が重視される時代と言え、
細川幽斎の文人趣味も上流階級を通じて如何に正確な情報を得る手段だった気がします。

池とその奥の石組み

一面に紅葉が敷かれた石組み

池の近影

紅葉の奥は椿か?
紅葉の名刹である当院ですが10日前位がピークだったようで、紅葉の絨毯を歩くと
【高岳親王後悔記】になりました。こちらも情報力が重視される事に変わりはありません。

金剛院御朱印 (関西花の寺)
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鹿原山 慈恩寺 金剛院(真言宗東寺派 関西花の寺二十五霊場第三番) 雲山閣
本堂に続いて周囲の諸堂を堂々巡り。
『鳥羽天皇の皇后美福門院得子以後、当山は皇室の篤い庇護も受け、
本坊の金剛院の外に十二坊舎、食堂、浴室なども整備され全盛期を迎えた。
その後の戦国動乱や天災人災にも耐え、江戸時代には田辺藩主の庇護を受け今日に至る。

本堂から雲山閣へと続く渡廊下

渡廊下の本堂側は閉鎖中

本堂前から見た雲山閣
本堂は江戸時代の建築。本堂左手には舞台造の雲山閣が渡り廊下で繋がり、
右手には弁天堂・鐘楼がある。
更に進むと弘法の滝があるが今は枯れ滝。かつての滝壺付近から水が湧くのを見る事ができる。』
とあります。

雲山閣(拝殿)

懸造りの雲山閣

本堂から見た弁天堂と鐘楼

弁天堂近影

銀杏に囲まれた鐘楼

石段から見上げた鐘楼
一面銀杏の黄葉が映える。

鐘楼の脇を抜け奥にある滝へ

地面は銀杏の絨毯

途中から見た三重塔

滝への道
千年以上前の古刹は、岩・洞窟・泉などの自然現象に神が宿るという信仰に
由来するものが多々あります。当院もその例に漏れないと考えると、
最奥にある滝がここに寺院を建てるきっかけになった可能性が大です。
伝説では開山が鹿に導かれて開創したのが当院の由緒となっていますが、
後世それを改竄して鹿に結び付けたのではなどと不謹慎に想像してしまいます。
勿論しかとは分かりませんが…。

滝の近くの景色

境内の最奥にある弘法の滝
かつては注連縄の上から流れ落ちていたか。

間近で見る滝
滝は枯れたが水は今も湧き出でている。
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鹿原山 慈恩寺 金剛院(真言宗東寺派 関西花の寺二十五霊場第三番)
三重塔に続いて、左の急な階段を上った場所に建つのが京都府指定文化財となっている金剛院本堂。
『三重塔から本堂までは105段の石段を上るが、山腹一帯は楓の林が広がり、
鐘楼前にある大銀杏と相俟って秋には赤と黄のコントラストを成している。
これらの楓は細川藤孝(幽斎)の植樹とされ、境内南西にある鶴亀の庭(小池庭)と共に彼の代表作となっている

本堂へと続く石段と紅葉の隧道
三重塔前からの眺望。

階段上り口にある手水舎

石段の先に見える本堂
開山が去った後は荒廃した金剛院であるが、永保2年(1082年)第72代白河天皇の病気平癒祈願のため、
若狭の国から波切不動明王を勧請。帝の病は不動明王の力に拠って忽ち平癒した。
大いに満足した帝は荒廃していた当山を復興。三層の塔を建立して眞如法親王を追善供養し、
勅願寺として「慈恩寺」の寺号を下賜した。
本尊が阿弥陀如来から波切不動明王に代わったのはこの時である。

階段途中からの眺め

階段を上った先にある本堂の唐破風向拝

階段を上り切った場所から
次いで第74代鳥羽天皇の皇后美福門院得子も深く仏法に帰依し、
平忠盛を造営奉行に命じ、久安2年(1146年)新たに阿弥陀堂を建立して
堂塔を修復するなど御願寺として保護した。

本堂近影

本堂説明

本堂前面の向拝下にて

向拝の欄間彫刻
龍(下)と迦陵頻伽(上)。

本堂側から見た向拝の欄間彫刻

向拝下の蝦虹梁
現在、御本尊は山門を抜けた左手に建つ宝物館に保管。
美福門院が帰依した木造阿弥陀如来坐像、快慶作の木造金剛力士像等、多数の重要文化財を収蔵。
中でも深沙(じんじゃ)大将立像は快慶の無位時代のもので1mに満たない像だが力強さと躍動感に溢れる。
『西遊記』の沙悟浄のモデルとされ、全国でも数例が知られるだけでの貴重な像である。』 とあります。

深沙大将立像
入山時に貰った説明書に掲載されたもの。

立像の解説
三重塔が重文なのに対し、本堂が有形文化財止まりなのは江戸時代の再建だから。
しかし、仏像群は軒並み重要文化財の扱いを受けています。
本来、仏像は堂の内陣で拝観すべきものですが、火災に拠る焼失防止に加え、
昨今は夜間の盗難防止のため安全な場所に保管される事が殆どのようです。

金剛院説明書

金剛院御朱印(本尊)
今回拝受分(左)と平成5年拝受分だが、印・墨書の内容は全く同じ。
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鹿原山 慈恩寺 金剛院(真言宗東寺派 関西花の寺二十五霊場第三番)
山門右手の受付を経て紅葉の参道を進むと、目の前に現れるのが重文・三重塔。
境内に加え北側の鹿原公園からも遠望できる、所謂紅葉の映えスポットで、
当院の案内書等には必ずと言って良い程、取り上げられる場所です。
鹿原山慈恩寺金剛院(かわらさんじおんじこんごういん)は、
『平安時代初期の天長6年(829年)第51代平城天皇の第三皇子、高岳親王に拠って創建。
親王は第52代嵯峨天皇の皇太子であったが、父である平城上皇が
薬子の乱で失脚したため廃太子となった。
世の無常を感じて仏門に入った親王は眞如(しんにょ)法親王と称し、空海の十大弟子の一人として
仏教の興隆に尽力した。諸国行脚の途中で鹿に導かれて当地に立ち寄り、
深山の静けさと自然の美しさに心打たれて当寺を建立したとされる。

三重塔を目指して紅葉の参道を往く

参道左手に聳える千年榧
高岳親王の御手植えと伝わる。

榧を拝んで更に奥へ紅葉の隧道を往く
貞観4年(862年)、法親王は83歳の高齢で入唐。更に天竺を目指したがマレー半島南部で客死したと伝わる。
法親王が入唐のために当寺を去ってから寺は荒廃した。
三重塔は永保3年(1083年)、眞如法親王の供養のため創建されたもので、正式名は金剛院塔婆。
現在のものは室町時代の再建で、各層の間を狭くして軒を深く見せた巧みな構造を有する。
方三間・杮葺、初重内部に四天柱と来迎壁・仏壇と言った室町時代の特色が示されている。
塔内には開祖である眞如法親王坐像が安置されている。四季の景色に溶け込む姿は、
三島由紀夫の 『金閣寺』 にも登場し、優雅な三重塔とされる。』 とあります。

紅葉の隧道を抜けた先に見える宝篋印塔と重文・三重塔

三重塔近影

三重塔解説
至高の身分に生まれ皇太子とされながら、父親が政争に【敗退し】たため廃太子となり【交替し】。
高貴な身分に生まれた事が必ずしも幸せとは言い切れませんが、高岳親王の場合、
己の預かり知らない所で、歴史に翻弄された悲劇の人といえるでしょう。
普通なら腐ってしまうところですが、当時の最先端であった空海に師事して仏教を極めようとしたところがエライ!
当寺を開創した後、更に仏教を極めようと80歳過ぎで入唐。
囲碁の名人であった親王は、彼の地で唐の最高位の名人に惜敗したとも伝わっています。
皇族には強烈な個性を持った方も居られますが、高岳親王は極く真面目な方だったのでしょう。
皇族の道楽と言ってしまえば身も蓋もありませんが…。

三重塔に祀られた開基に参拝

塔の内陣に置かれた開基・真如法親王座像

塔の屋根と垂木・木鼻等の組物
マレー半島で志半ばで没した悲運の皇子とされますが、彼自身には後悔などなかったでしょう。
第二の人生を仏教に捧げた【ぶっきよう】ながら見事な【稀】な生き様と言えます。
余談ですが、幻想・異端文学の大家であった澁澤龍彦氏の遺作が『高岳親王航海記』。
還暦を待たずして逝去された氏ですが、高岳親王の生き方に共感するところがあったに違いありません。

本堂への階段から見た三重塔

紅葉越しに見下ろす三重塔

鹿原公園から見る三重塔

三重塔の水煙
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<コース>
【往路】JR京都(6:37) → JR園部(7:21→7:26) → JR綾部(8:25→8:51) → JR東舞鶴(9:20)
東舞鶴駅 → 徒歩12分 → 赤れんが館 → レンタサイクル20分 → 金剛院 → レンタサイクル15分 → 松尾寺 → レンタサイクル30分 → 東舞鶴駅
【復路】JR東舞鶴(14:28) → (まいづる10号) → JR京都(16:07)

鹿原山 慈恩寺 金剛院(真言宗東寺派 関西花の寺二十五霊場第三番)
昨日は18時に京都市内でのイベントに参加。その合間を縫って市内から少し離れた場所で紅葉狩。
場所は130㎞離れた丹後の舞鶴市。近頃は、丹波の「森の京都」と共に「海の京都」で売り出し中だとか。
東舞鶴駅近くの舞鶴赤れんがパークで電動自転車を借りて二ヵ所巡礼。

右手に現れる奉行杉
平清盛の父忠盛の御手植えと伝わる。

駐車場から見た金剛院
パーク前の27号線を東へ6㎞、鹿原(かわら)と書かれた交差点を鹿原川に沿って
南東に0.8㎞行き右手に巨大な奉行杉が現れたら寺も間近。
鹿原の地名は開山である眞如(しんにょ)法親王が諸国行脚の途中で鹿に導かれて当地に立ち寄り、
深山の静けさと自然の美しさに心打たれて当寺を建立した事に由来。河原に建立したからではありません。

鹿原川に架かる朱塗の端を渡り山門をくぐる
境内への入口はここのみ。

橋の上からの眺め

反対側の景色
紅葉はこの奥に続いている。
川に沿って進み、広い駐車場を挟んで左手に白壁で囲まれた寺院が一ヵ所目の金剛院。
遠くからでも全体が赤く見えるほどですが、それもその筈「丹後のもみじ寺」として関西花の寺
第三番札所になっています。10時前でしたが、車も参拝者もそれなりの数になっていました。
山門を過ぎてほぼ正面が寺務所。御朱印等はここで拝受できますが、
メインの紅葉を見るには山門右手の参道を進む事になります。

境内側から見た山門

先ずは寺務所へ
この周辺だけならば入山料は不要。

寺務所玄関前には赤い実のピラカンサスが

寺務所玄関からの眺め
正面に建つのは宝物館。
楓を植えたのは舞鶴城主だった細川幽斎。理由の記述はないものの、文武に秀でた彼の事、
百人一首の猿丸太夫の歌に着想を得たと想像するのも一興です。
平安初期に遡る古刹ですが【こんごう】は、紅葉の【効用】で多くの人が【来よう!】となるに違いありません。

寺務所の前庭と奥に見える拝観受付

山の借景を見ながら受付へと向かう

受付の先は紅葉の絨毯
[参考書]
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【往路】淀屋橋(7:48) → (京阪特急) → 中書島(8:25→8:29) → (宇治線) → 京阪宇治(8:44→9:24) → (京都京阪バス) → 奥山田正寿院口(10:07)
奥山田正寿院口(10;07) → 徒歩15分 → 正寿院 → 奥山田正寿院口(11:55) → (京都京阪バス) → 宇治田原郵便局前(12:05) → 徒歩15分 → 永谷宗円生家 → 茶祖大明神 → 徒歩30分 → 維中前(14:05) → (京都京阪バス) → 京阪宇治駅(14:33) → 通圓
【復路】京阪宇治(15:41)→ (宇治線) → 中書島(15:56→15:58) → (京阪特急) →淀屋橋(16:37)

茶宗明神社(大神宮社)
永谷宗円生家を奥に進むと石の鳥居が見えますが、ここが茶宗明神社。
茶宗明神社(ちゃそうみょうじんしゃ)は、
『昭和28年(1953年)の創建。煎茶の改良者・永谷宗円を祀る。
青製煎茶製法の成功は宗円にも多くの富を齎した。
宗円はその財をもとに湯屋谷村やその近郷の湿田の暗渠排水工事を実施、
村民からは「干田大明神」と称されていた。

生家前からの眺め
奥に見える建物が一応、社務所。

明神社入口の一の鳥居

社殿への階段前の二の鳥居

階段先の社殿
宗円は98歳の高齢でその生涯を終えるが、彼の没後、村民は「干田大明神」として崇神し
神前にて茶祖会を催した事が旧記録にある。
その後、彼の煎茶における功績を称え「茶宗明神社」 と改名。
現在も毎年4月に春の大祭、10月に秋の大祭があり宗円の徳を称えている。』 とあります。

社殿に参拝

この奥に本殿が建つ

社殿からの眺望
実在の人物が神として祀られるのは、その祟りを怖れた場合か、
地域に多大なる貢献をした場合。宗円の場合は当然後者になります。
15年の歳月を掛けて新茶の製法を追究するなどは並々ならぬ才能が必要ですが、
素顔の宗円は金銭や名誉に対する執着が少なかったのでしょう。
近江商人の三方良しにも通じるものがあります。

横から見た社殿

岩の前に建つ本殿
このような人物を先祖に持てば子孫も鼻が高い筈で、今も4軒の末裔が湯屋谷地区に居住されています。
20世紀に子孫の永谷武蔵がお茶漬け海苔を発案、これが今の永谷園となりました。
所謂スピンオフですが、先祖の功績に安住するだけではなかったところに宗円のDNAを感じます。

社殿を通り石碑の場所へ

境内に建つ石碑

永谷園創業者の永谷武蔵氏顕彰碑

顕彰碑誌

境内にある永谷園に拠る寄進

一の鳥居脇にある社務所
但し無人のようで、イベント時のみに使用か?
そこから30分歩いて1時間毎のバスで京阪宇治まで。
14時過ぎの遅めの昼食は宇治橋の袂の通圓(つうえん)。
茶祖参拝の後は、茶そばですが、余りの暑さに甘味を追加。今年初のかき氷となりました。
氷に加えてパフェもといきたかったのですが、通圓でツインを痛飲して
通院する羽目になっては困るので、1杯に留めることに…。
・我が胃をば 皆この茶摘み 市価で済む よろしますなと 人は言ふなり 金銭奉仕

「通圓」での茶蕎麦
窓の向こうに見えるのは宇治橋と宇治川。

抹茶白玉
[参考書]
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永谷宗円生家
紫陽花越しに見る生家。
土日祝に限ってですが、宗円生家は外観だけでなく屋内に入って見学も可能。
宗円の使った焙炉の他、その生涯をパネルで展示しています。
見学していると、説明下さった女性からお茶を頂きました。
私;「濃い味ですね。」
女性;「ここで採れたものを加工しています。」
と家の周囲を見ると生垣状のお茶の木が…。
女性;「昔は手入れしていたのですが、今は放ったらかしで…。」
お茶は単に飲む程度ならば、素人でも育てられますが、商品化や味に拘ると結構な手間がかかる物。
ここの方は謙遜されていましたが、飲んだ印象では手入れも行き届いている気がします。

生家入口からの眺望

入口付近のお茶の木

お茶の木 近影
お茶の木と並んで、邸内にあるのは紫陽花。
説明下さった方々が、少しずつ挿し木して増やして行ったものだそう。
この場所は塩谷(宗円街道)のどんつきで、周囲には木立があり、
直射日光を遮り湿度もあるのが、紫陽花に適しているのでしょう。

敷地内の紫陽花
木立の間にあるのが特徴?

これは「墨田の花火」か?

紅色の紫陽花

主流は青色の紫陽花

青色の紫陽花
7月に入ったので、時期的には紫陽花は終わりごろですが、ここは満開。
なんでも京都市内よりも5℃程気温が低いことが影響しているようです。
庭のテーブルでは紫陽花の入った水盤も置かれていました。
お茶と紫陽花の関連性は思いつきませんが、お茶の緑一色の場所に彩を添える貴重な存在。
【味彩】繋がりと言えましょうか?

墨田の花火?

青色の紫陽花

紅色の紫陽花

生家脇の四阿

卓に置かれた紫陽花

色とりどりの紫陽花はどのように細工されるか?
[参考書]
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奥山田正寿院口(10;07) → 徒歩15分 → 正寿院 → 奥山田正寿院口(11:55) → (京都京阪バス) → 宇治田原郵便局前(12:05) → 徒歩15分 → 永谷宗円生家 → 茶祖大明神 → 徒歩30分 → 維中前(14:05) → (京都京阪バス) → 京阪宇治駅(14:33) → 通圓
【復路】京阪宇治(15:41)→ (宇治線) → 中書島(15:56→15:58) → (京阪特急) →淀屋橋(16:37)

永谷宗円生家
正寿院拝観後は15分歩いてバス停に戻りましたが、既に20人近い行列が。
行きは何とか座れたものの、帰りのバスは立席状態となりました。
11:55分のバスに揺られること8分、2.5㎞程行った宇治田原郵便局前で下車。
1停留所とは言え、下りたのは私一人だけでした。
ここで降りたのはバスの混雑を逃れるためではなく、宇治の恩人の所縁の地に詣でるのが目的。
宇治田原町の南東部に位置し、地元では「やんたん」と呼ばれる場所は
日本緑茶の発祥の地で、茶祖と崇められる永谷宗円が生まれた場所でもあります。
「やんたん」とは昔のTV番組みたいですが「湯屋谷」と書いてそう読むのだとか。

宇治田原郵便局前バス停にて
これから行く先の案内板。

歩き出すと直ぐ辻利の工場と「日本緑茶発祥の地」の幟が。

道路沿いの御茶畑

斜面に広がる御茶畑
バス停から案内板に従って南へ歩く事、1.5㎞。
道は分岐して西側から鷲峰街道、大滝街道、宗円街道と呼ばれていますが、
地元では西谷(にしたん)、中谷(なかたん)、塩谷(しょんたん)と呼ぶそうな。
茶の里らしく、途中製茶工場を幾つか目にしましたが、中には永谷茶業の看板が…。
子孫の方が経営されているのでしょうか?

宇治茶の看板を掲げた家屋

弁柄が鮮やかな家屋
ここには「永谷」の表札が。後で伺うと御一門との事。
途中までは二車線ですが、分岐点で少し細くなり、更に分岐して
自動車1台が通れるしょんたんの突き当り見える茅葺家屋が永谷宗円生家。
入口と思って進むと間違って人家の玄関先へ。
永谷と書かれた表札をみていると、奥様が出て来られ、
奥様:「生家は、そこの階段を上った先ですよ。案内してくれる方が二名いる筈です。」
和辻:「有難うございます。ところで御子孫ですか?」
奥様:「本家は、明治41年に六地蔵へ移りました。ここには当家も含め親戚が4軒残っています。」
和辻:「途中に、永谷茶園や弁柄塀の御宅がありましたが、そこも一門ですか。」
奥様:「そうです。親戚でない家もありますけど…。」
という話。

木立の奥の突き当りが生家

木立に囲まれた生家

紫陽花の奥の茅葺家屋が宗円生家

生家説明駒札
『永谷宗七郎宗円(そうえん)は1680年、湯屋谷で生まれる。家は代々茶園を開き茶業を営んだ。
家屋の前庭には、大きな茶木があり、見物に来る人もあったと言う。
その頃の茶には二種類の製法があった。一つは武士を中心とした上流階級に広まった碾茶で抹茶の原料。
これは覆下で育った新芽だけを摘んで蒸して乾燥して作るもの。
もう一つは茶葉の新旧を区別せずに摘採し、煮る・蒸す等の殺青操作を加えた後、天日で乾燥させるもの。
これは中国では釜炒り茶(煎茶)の系列に属し文字通りの茶色。庶民が口にするのはこちらであった。

生家への階段を上る

紫陽花に囲まれた生家

生家の前に植えられた茶の垣根

生家は日本遺産認定
宗円は庶民でも優れた茶を口にできる方法はないかと試行錯誤を繰り返し、
15年に及ぶ苦心の末、元文3年(1738年)に新製煎茶の製法を編み出した。
これは露天栽培の新芽を用い、蒸してから焙炉(ほいろ)上に設けた助炭の上で
揉みながら乾燥させるものである。時に宗円は58歳であった。
この新製品は色沢や水色の特徴から「青製煎茶」、
発祥の地から「宇治製煎茶」と呼ばれるようになった。

生家側面

生家正面から生家に入る

玄関の茅葺屋根裏
同年、宗円は青製煎茶の販路を開拓すべく江戸に向かったが、
多くの茶商はどこも買い入れようとはしなかった。
唯一、日本橋の山本嘉兵衛がこれに着目し小判3枚で購入。
「天下一」の名で販売すると爆発的な人気を博し、茶商山本屋の名声も高まった。
山本屋は御礼として永谷家に毎年、小判25両を明治8年まで贈り続けたという。
山本屋は後に山本山と改名、「上から読んでも山本山、下から読んでも山本山」の広告でも知られる。
こうして煎茶は江戸庶民の間に浸透、定着する。

生家内の展示
奥に座る二人がボランティアガイドの御姉様。

永谷宗円翁略歴

ビデオで宗円翁の生涯を辿る

生家奥から入口方面を見る
その4年後の寛保2年(1742年)初夏、黄檗宗の僧侶・高遊外(こうゆうがい)が
湯屋谷の宗円を尋ね、宗円の作った青製煎茶を賞味して終日茶事を語り合った。
高遊外は風流道から青製煎茶を全国に普及、売茶翁(ばいさおう)の名で煎茶道の祖となった。
全国に普及したのは更に80年程後の事である。
宗円は自ら考案した青製煎茶の製法を惜しむことなく近在の人々に伝授した。
その製法は明治初頭までにほぼ全国に普及するに至る。
現在は機械化しているが、日本煎茶の大分部が宇治製法に拠るものである。』
とあります。

生家で配布のパンフ

永谷宗円肖像画
今風に言えば緑茶は宗円が開発、山本屋が販売、売茶翁が広告塔になったと言えます。
新製品の開発がなければ青製煎茶もない訳ですから、宗円の功績は大ですが、
それよりも技術を惜しまず広く普及に努めた事が、後世「日本緑茶の祖」と呼ばれる所以でしょう。
子孫の方がその場所に残っているのも、御先祖に対する敬意の表れと言えそうです。

復元された宗円の使った焙炉(ほいろ)

焙炉の説明

現代風電熱式焙炉
[参考書]
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奥山田正寿院口(10;07) → 徒歩15分 → 正寿院 → 奥山田正寿院口(11:55) → (京都京阪バス) → 宇治田原郵便局前(12:05) → 徒歩15分 → 永谷宗円生家 → 茶祖大明神 → 徒歩30分 → 維中前(14:05) → (京都京阪バス) → 京阪宇治駅(14:33) → 通圓
【復路】京阪宇治(15:41)→ (宇治線) → 中書島(15:56→15:58) → (京阪特急) →淀屋橋(16:37)

慈眼山 正寿院(高野山真言宗)
風鈴の音色を聞き、本堂で仏像と襖絵を堪能した後は、道を挟んで下に建つ客殿へ。
入口から玄関には色鮮やかな風鈴棚が出迎えてくれますが、ここのメインは風鈴ではなく、
客殿にあるハート形の猪目窓と天井画。
案内パンフにも写真で紹介され、インスタ映えスポットとして人気になっています。

駐車場から見上げた客殿

客殿入口にて
二階建てだが、拝観は一階のみの様子。

客殿玄関までの通路

通路に吊るされた風鈴群

風鈴と青紅葉
『客殿近くには川が流れ、風の音や鳥の声が聞こえ緑が多く、
窓を通して自然を五感で感じることが出来る。
その中に居ると私たちも自然の一部であると言う事に気付き、我や時間を忘れる。
それを表す‘則天去私(そくてんきょし)’の一言から則天の間と呼ばれる。
その間に設けられているのが猪目窓(いのめまど)。
猪目とは1400年前から我が国に伝わる伝統文様で、ハート型に類似している。
猪目文様が何故ハート型であるのかに関しては、猪の目がハート型である事、
また仏教に所縁の菩提樹の葉がハート型である事など諸説ある。

客殿玄関

客殿大広間の正面にある猪目窓

猪目窓
窓の向こうに庭が見える。
昔から災難除けの意味として灯籠や柱にある釘隠し、窓や屋根にある懸魚(けぎょ)等、
建築装飾として多用されている。
昔から猪や獣の目は災いを除くと信仰され、菩提樹の木は縁起が良いとされた事から、
建築装飾にも反映されたと考えられる。
当院でも先人の知恵に倣い、人々の幸福と建物の安全を願う意図で猪目窓を設けた。』 とあります。

猪目窓近影

説明書に記載された猪目窓の春夏秋冬
また上に目をやると花と日本を感じる風景をテーマに描かれた160枚の天井画が。
『この天井画は、本堂にある江戸時代の天井画の復興から始まった。
本堂の天井は一枚毎に梵字と蓮が描かれ、仏の世界である曼荼羅を表現している。
客殿の天井画でも曼荼羅の教えを説く事から、20代から70代の日本画家約90名の協力を得て
6年の歳月を掛けて完成。一人一人は違う存在であるが、それぞれに役割があり、
お互いを尊重、支え合い、命を活かし合うという曼荼羅の教えを具現している。

客殿大広間の天井雅

天井画

天井画
160枚の中には京都らしさを感じる風景と言う事で、春夏秋冬の舞妓図が隠れており、
四隅には守護神として、東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武の四神が配されている。
一枚一枚の絵としても素晴らしいが、160枚を一つの絵として見る事もできる。』 とあります。
猪の目が果たしてハート型なのかについては、そんなに明確な形ではなかった記憶があります。
唯、古代の文様を現代風に解釈するのは自由。
写真撮影でもVサインからハート型に移行している昨今では、そう捉える人が多いのも当然と言えます。

天井画
舞妓さんと北を表す玄武。

天井画

天井画
鯉幟と風神。

天井画

天井画
舞妓さんと東を表す蒼龍。

天井画
現代画家に拠る天井画はかつて三河の田原の城宝寺でも見ましたが、宗教色より芸術色が濃い感じ。
しかし、これが無ければ現代画に接する機会もない訳ですから、それは評価すべきでしょう。
由緒は古いものの、仏像以外のコンセプトには現代風アートを取入れた当院は、
若者、特に若い女性向きと言えます。
京都市内以外で拝観料¥800は安くありませんが、御朱印2種¥1300、御朱印帳¥2500で計¥4600。
流行の波に上手く乗ったと言うよりも乗せられたお寺でした。
古仏も出来た当初は、最先端だった筈。
古い由緒があってもそれにしがみ付いて墨守するだけでは衰頽は必至。
その時々で如何に時勢に合わせるか、というのが宗教が未来に生き残る術と言えます。

御朱印帳の間に挟む紙

客殿の縁側
外の庭園よりも内側の猪目窓を見る人の方が多い。

縁側から見た庭園

庭園の石組みと楓

手水鉢
[参考書]
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奥山田正寿院口(10;07) → 徒歩15分 → 正寿院 → 奥山田正寿院口(11:55) → (京都京阪バス) → 宇治田原郵便局前(12:05) → 徒歩15分 → 永谷宗円生家 → 茶祖大明神 → 徒歩30分 → 維中前(14:05) → (京都京阪バス) → 京阪宇治駅(14:33) → 通圓
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慈眼山 正寿院(高野山真言宗)
御本尊とお不動さんに参拝した後は、本堂内と周囲を一周。
入山時に頂いた説明書に拠れば、本堂内陣の板戸には江戸時代に
獅子と牡丹が4枚に亘って描かれ、同じく内陣天井には宝暦5年(1755年)に完成、
安政2年(1855年)に修復された種字曼陀羅が描かれています。
しかし堂内は明りを落としているので見え難く、絵画の鑑賞としては今一つ。
その代り目に入ったのは、本堂内に描かれた鮮やかな襖絵。

玄関を入って直ぐの間に描かれた「竹に虎図」

紅葉唐子図

紅葉唐子図 説明

桜に目白

目白部分拡大

重文・不動明王坐像

不動明王の部屋の襖絵
作者は諌山宝樹(いさやまたまじゅ)とあります。
私は美術には全く不案内なのでてっきり過去の人と思っていましたが、ネットで調べると、
各地の寺社で襖絵や絵馬を描いている新進気鋭の女流日本画家で
朝ドラ「スカーレット」でも日本画指導をされたとか。
ネットにある画伯が奉納された絵馬の人物はメルヘンチックですが、
当院の壁に描かれた四季の風景画はどれも力強いものでした。
画伯のFACEBOOKに拠るとこれらの絵は京都の橋本関雪の別荘であった
白沙村荘で制作され今年になって奉納されたものの様です。

本堂の奥の部屋に描かれた「松藤鳥図」

作者と画題

本堂から見た駐車場

本堂から見た客殿
内陣の仏像が揃って古いものであるのに対し、絵は新たに製作されたもの。
当院の意図としては、年代がかった今回の参拝までは、
本堂襖絵はどこにも載っておらず思わぬ収獲と言えました。
本堂裏手に回ると、舟形の庭と板に描かれた葡萄栗鼠図が、縁側の前に行くと花手水がお出迎え。
中には自身で花を生けるものもありました。

本堂奥の「舟形の庭」

「舟形の庭」説明


奥より見た「舟形の庭」

「舟形の庭」 石組み

葡萄栗鼠図

葡萄栗鼠図 説明

縁側の前庭

前庭の手水鉢

手水鉢の紫陽花
‘古い革袋に新しい酒’という謂いがありますが、新しい本堂に古い仏像を祀る当院は
その逆バージョンと言えます。
普通ならば、古いものがあれば周囲も同じような様式にするものですが、
ここは関係なく現代の様式に。しかし違和感は全くなく「いいわ!」感が残りました。

地蔵堂付近

地蔵堂脇の手水鉢は自ら花を活ける

地蔵堂正面

地蔵堂説明

山門脇の樹齢400年の百日紅と鉢植えの蓮

蓮の花近影
[参考書]
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【往路】淀屋橋(7:48) → (京阪特急) → 中書島(8:25→8:29) → (宇治線) → 京阪宇治(8:44→9:24) → (京都京阪バス) → 奥山田正寿院口(10:07)
奥山田正寿院口(10;07) → 徒歩15分 → 正寿院 → 奥山田正寿院口(11:55) → (京都京阪バス) → 宇治田原郵便局前(12:05) → 徒歩15分 → 永谷宗円生家 → 茶祖大明神 → 徒歩30分 → 維中前(14:05) → (京都京阪バス) → 京阪宇治駅(14:33) → 通圓
【復路】京阪宇治(15:41)→ (宇治線) → 中書島(15:56→15:58) → (京阪特急) →淀屋橋(16:37)

慈眼山 正寿院(高野山真言宗)
夏に正寿院を訪れる人の多くは風鈴まつりがお目当て。
本来風鈴はその音色を楽しむものですが境内を見渡しても参拝者は風鈴を眺める人、
撮影する人が殆ど。インスタ時代の賜物でしょうか?
といってここは寺院なので、御本尊に手を合わすのが礼儀と言うもの。
そこで納経所で御朱印を御願いしている間に本堂へ上がり参拝する事に。

本堂玄関の唐破風

玄関に架けられた「慈眼山」の扁額
慈眼山正寿院(じげんざんしょうじゅいん)は、
『今から約800年前の正治2年(1200年)、飯尾山にあった医王教寺という大寺の塔頭寺院として建立。
当寺の少し奥に瀧谷という小さな滝があることから瀧谷寺(りゅうこくじ)とも呼ばれ、
ここから流れる水が地域の生活水でもあった。
この滝で祈雨の修法を行うと、龍神が現われ恵みの雨を降らしたと言う。
地名が川の上流を表す川上、また鎮守の神様が弁財天であることから水と深い繋がりのある寺とされる。

玄関から見た本堂内の鮮やかな襖絵

本堂正面に祀られている観音様
戦国・江戸時代に二度の火災に遭っているので、現在記述として残っているのは
当院を慶長元年(1596年)に中興された祐胤大徳という僧が、
慶長18年(1614年)9月11日に遷化されたという位牌である。
また鷲峰山の麓であることから修験の修行道場、宿場として繁栄。
不動信仰が篤く、荒行等が幾度も行われたことが札に残る。
江戸時代には寺子屋として算術・道徳などを学ぶために多くの生徒が通っており、
その時に用いた絵説き図が今も残る。
高野山真言宗に属し、御本尊は十一面観音立像で50年に一度のみ開帳される秘仏。
二度の火災にも焼失を免れ、鎌倉時代後期から室町時代の造立とされる。
また不動明王坐像は鎌倉時代の仏師快慶の作とされ、国の重要文化財になっている。

御本尊前にある「観世音」の扁額と宝珠の切り絵

御本尊・観音菩薩立像の説明駒札
夏季に開催される風鈴まつりが有名で、多くの参詣者で賑わい、京都の風鈴寺とも呼ばれる。
日本緑茶発祥の地、茶所であり、当院でも近代まで茶を栽培していた歩みがあることから、
季節に応じた最良のお茶が参詣者へ振舞われている。
道を隔てた客殿には猪目窓(いのめまど)と呼ばれるハート形の窓や
90名の日本画家に拠る150枚の天井画があり、近年パワースポットとして人気である。』 とあります。

観音様の隣の間

お不動様近影
但し、重文の不動明王坐像はこれではない!
正寿寺ではなく正寿院と言うのは塔頭寺院だったから。
そしてこの場所に建立されたのは、瀧谷に由来する水利のため。
生活水とありますが、山号の慈眼山から想像するに、
眼病にも霊験のある霊水であったのでしょう。
古刹が建立された場所には地勢的な理由がありますが、ここは水であった模様。

本堂の壁に架けられた重文・不動明王のパネル写真

美しい水茎の不動明王の説明
水に深い縁のある寺院にしては火事で二度焼失。
その意味では水の御利益がなかったとも言えますが、御本尊は二度も難を免れ今に伝わっています。
私の考えでは、昔は御本尊が重要で、それを祀るお堂はあくまでも仮の存在。
堂宇の造りも簡素であったと想像できるので、有事の際には御本尊のみ持ち出せば問題なかったのでしょう。

本堂の欄間彫刻

同じく欄間彫刻

梁の六角形の釘隠しと猪目穴
その御本尊は本堂中央の厨子の中にあって秘仏。写真もなく説明書に掲載されているのも絵ですが、
引き締まった面相と衣文の彫法が特に美しいとされています。
本堂内の壁には、重要文化財のお不動さんの顔面アップの写真が貼られていますが、
忿怒の表情は快慶作の仏像では珍しいそうで、東大寺南大門の金剛力士像など数例を数えるのみ。
加えて眼には水晶を嵌め込む独特の方法が採られています。
御本尊横の部屋にはお不動さんが祀られていますが、その御姿は説明書と
微妙に違う【不同】明王様でした。するとこれもお前立でしょうか?

本堂縁側で風鈴を眺める風流人

風鈴棚から縁側を見る

正寿院説明書

正寿院御朱印 (御本尊)
[参考書]
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奥山田正寿院口(10;07) → 徒歩15分 → 正寿院 → 奥山田正寿院口(11:55) → (京都京阪バス) → 宇治田原郵便局前(12:05) → 徒歩15分 → 永谷宗円生家 → 茶祖大明神 → 徒歩30分 → 維中前(14:05) → (京都京阪バス) → 京阪宇治駅(14:33) → 通圓
【復路】京阪宇治(15:41)→ (宇治線) → 中書島(15:56→15:58) → (京阪特急) →淀屋橋(16:37)

慈眼山 正寿院(高野山真言宗)
本堂の縁側から風鈴を眺める人達。
京阪宇治駅からバスに揺られる事40分、更にバス停から南へ徒歩15分でようやく目指すお寺の門前に到着。
バスも混雑していましたが、お寺には観光バスや自家用車の人も加わって結構な人出でした。
慈眼山正寿院(じげんざんしょうじゅいん)は、800年前の創建で御本尊は十一面観音、
不動明王は快慶作の重要文化財ですが、皆さんのお目当ては仏像ではなく、今開催中の風鈴まつり。
加えて客殿にあるハート形の猪目窓と天井画が写真で紹介され、バエスポットとして人気になっています。
駐車場の直ぐ横は客殿ですが、ここは後回し。
先ずは坂を上った場所にある受付で¥800を払い、案内所とオリジナル煎餅を頂いて入山。
京都市以外の寺社としてはやや高めですが、需要と供給の関係でいけばそれだけ参拝者が引きも切らないと言う証でしょう。

駐車場からの眺め
右が客殿、左奥が本堂。

本堂への門からの眺め
参道にも風鈴が吊るされているが、入山はここではない。

風鈴近影
手前は百日紅の巨木。

坂を上った先にある拝観受付

風鈴まつりのパンフ

入山時に貰ったオリジナル煎餅
入口を入るといきなり合計2000個の風鈴がお出迎え。
棚毎に風鈴に特徴が見られますが、彩色ガラスに加え、内側に花を納めた花風鈴のトンネルが名物。
その下を通ると清涼感があります。
寺院は参拝して仏像を拝むのが本来の姿。その後、池泉回遊式や枯山水の庭園が出来、
戦後は境内に多くの花を植えた「花の寺」が登場しますが、「風鈴の寺」が登場するのはごく最近の事。
従来が全て視覚に訴えるのに対し、初めて聴覚に訴えたものと言えますが、
声明を行う寺院にしては遅きに失したとも思えます。

受付に続く風鈴棚

手前の風鈴には青い紫陽花

左側の風鈴には薄紫の紫陽花

風鈴に入れられた紫陽花
『風鈴の原型となった風鐸(ふうたく)は、平安時代に唐から我が国へ伝えられた
仏堂や仏塔の四隅に吊るされる青銅製の鐘型の鈴。邪鬼除けの意味で付けられており、
この音が聞こえる範囲は聖域であるので災いが起こらないと言われる。
当初の風鐸は大型であったが、徐々に小型化する。
法然上人がそれを風鈴(ふうれい)と呼んだ事が鎌倉末期の国宝『法然上人行状絵図』に記されている。
後にそれが(ふうりん)と呼ばれるようになった。

門に続く参道に吊るされた風鈴は色ガラス製

地蔵堂前の風鈴

本堂手前の風鈴は青紅葉

青紅葉の入った風鈴
風鈴の素材は従来金属製であったが、江戸時代中期以降になるとオランダ経由で
透明吹きガラス製法が伝来し、ビードロ製風鈴が江戸を中心に庶民の間に広がった。
明治時代には町で風鈴を売り歩く「風鈴売り」の姿も見られた。邪鬼除け(厄除け)として軒先に吊るし、
その涼しげな音色と共に夏を乗り切るお守りの役目も果たしたとされる。
ガラス製は彩色されたものも多いが、魔除けのため本来は赤色である。』 とあります。

風鈴棚越しに見る本堂入口と竹林

本堂唐破風前の風鈴棚
冷涼感を出す風鈴ですが、これだけ並ぶと風が吹くと一斉に鳴るので眠気も吹っ飛びました。
風鈴の音色で何故清涼感を感じるのか?
蒸し暑い夏の後に来る秋の虫の鳴き声に似ているからと言うのが一般的ですが、
透明なガラスは氷を連想させるので水に浮かんだ氷が融けてガラスに当たる音に
近いからではないかと想像しています。
唯、江戸時代にはどれだけ氷が普及していたかが未知数なのが難点。
これが分かれば疑問も【氷解】するのですが…。

本堂縁側前の風鈴棚
涼やかな青と水色。

本堂縁側からの眺望

縁側前の風鈴棚近影
玩具としてのイメージの風鈴ですが、寺院の軒下に吊るされた風鐸に由来し
邪鬼を払う目的があるので、本来の使用法に戻ったとも言えます。
上述したように寺院が観光客向けに風鈴まつりを始めたのは最近の話。
同じようなイベントでは雛人形展示があります。
雛人形は家族が減って場所も取るという事で、寺社が引き取ったものを有効利用したもの。
一方、風鈴は場所はとらないものの、近所から「音がうるさい!」というクレームが出るようになって、
風鈴を吊るす機会がなくなったのが理由の由。

地蔵堂前の風鈴棚で撮影する人達

撮影に人気のスポット
夏場に風鈴の音色が聞こえるなんて優雅とは思うのですが、
最近は「蛙の鳴き声が喧しい!」と役所にクレームを付けて、池を埋め立てさせた例もあるとか。
そんな風流も雑音にしか聞こえない程、日本人の感性は貧弱になってしまったのでしょうか?

本堂縁側前の風鈴棚

本堂内に展示された全国各地の風鈴(其の一)

全国各地の風鈴(其の二)
『源氏物語』 の宇治十帖は、光源氏の息子と言う事になっている薫大将と外孫の匂宮、
大君・中君とその異母妹浮舟の恋愛模様を描いた作品ですが、下世話な言い方をすれば不倫の話。
10年近く前、海外からホームステイに来た女性に
「『源氏物語』 は単に男性が多くの女性をとっかえひっかえする話にしか思えない、
それがなぜ偉大な文学とされるのかが分からない。」 と尋ねられた事がありました。
その時の、私の答えは、
「当時、人々の間に広がりつつあった仏教の因果応報をテーマにしている点でしょうね。」と言うもの。
私の拙い英語が果たして、きちんと伝わったかどうかは自信がありませんが、
話の内容については今でも大筋では間違っていないと思っています。
宇治の山奥に風鈴寺は『源氏物語』 との「フーリン」繋がりではとふと思った次第ですが、
そのうち薫大将・匂宮に関係した嗅覚に訴える寺院が出てこないとも限りません。

本堂裏手の軒下に吊るされた風鈴

本堂を囲む塀に吊るされた野菜型風鈴

籠に入った野菜型風鈴

風鈴寺 正寿院オリジナル御朱印帳
青海波に立体的に風鈴が刺繍されたもの。大判、¥2500。

正寿院御朱印(見開き)
[参考書]
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奥山田正寿院口(10;07) → 徒歩15分 → 正寿院 → 奥山田正寿院口(11:55) → (京都京阪バス) → 宇治田原郵便局前(12:05) → 徒歩15分 → 永谷宗円生家 → 茶祖大明神 → 徒歩30分 → 維中前(14:05) → (京都京阪バス) → 京阪宇治駅(14:33) → 通圓
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宇治茶バス パンフレット
文月最初の土曜は先週に引き続き宇治へ、といっても宇治駅から更に山を越えた宇治田原町。
宇治田原入りは禅定寺参拝に続き二度目ですが、禅定寺や猿丸神社が平安京から大津京へ抜ける
田原街道沿いにあるのに対し、今回の目的地は途中から信楽へと向かう道。
これだけをとっても行き難い場所で、宇治からの1時間毎に運行される路線バスも
5㎞程手前の維中前(いちゅうまえ)が終点。
さてどうしたものかと思案していると、今年になって土日祝のみ1日2本の宇治茶バスが
期間限定運行(2022年3月12日~12月11日)。【意中】の寺院へ行く事ができました。

観光案内所で購入した1日乗車券
京阪宇治駅観光案内所で「お茶の京都」1日乗車券を購入。
パンフには木製の「周遊木っぷ」¥1300が掲載されていますが、
案内所の方に勧められて紙製を購入すると¥1000。お茶一杯分が浮いた事になります。
乗車する京阪バスのカラーは白地に赤ですが宇治地域では抹茶グリーン仕様を使用。
しかも限定運行される「宇治茶バス」は外装に加えて内装にも拘った特別車両。
座席は畳、座席後方は茶室、運転席後ろにはお茶壺と宇治茶をコンセプトとした仕様が
【ツボにはまった】感じです。
これなら40分バスに揺られて【抹茶り】向かう心積りでしたが、バスは密を避けるどころか鮨詰め状態。
行きは辛うじて座れましたが、通勤以外でこんな混雑は高3の遠足での京都大原以来でした。

宇治茶バス

バス側面
今では国内屈指の茶所として知られた宇治ですが、そこに至るには紆余曲折があったようです。
『‘南方の嘉木’とされる茶の我が国最古の記録は奈良時代。平安朝初期には
最澄・空海の仏教界の二大巨頭が餅茶と喫茶法を伝え栽培が始まった。
鎌倉時代初期(1191年)になると入宋から帰朝した栄西が碾茶とその喫茶法を齎し、
栂尾高山寺の明恵上人に飲用と栽培を勧めた。鎌倉時代の茶は栂尾が知られ、
宇治には明恵が五ヶ庄の里人に教えたと伝わる。
宇治茶は鎌倉末期頃から徐々に知られるようになったが、闘茶の世界では
栂尾の「本茶」に対して、未だ「非茶」の扱いであった。

窓ガラスに描かれた茶壷

バス内の様子
史料上の初見は応安7年(1374年)で、南北朝時代から栂尾茶の衰頽と共にその名が高まり、
室町座代は幕府の保護を受けた「御園」として、森・川下の茶園、斯波氏の朝日の園、
京極氏の祝・奥の山の園、山名氏の宇文字の園の六園が現われ、
これに琵琶の園が加わり宇治七種の名園と称せられた。
天正年間になると上林家が秀吉の知遇を受け、宇治茶の品質保持のため
朱印状を与えた事に加え、他郷が宇治茶を詐称する事を禁じた。
江戸幕府もこれを継承し、朝廷・将軍・大名の御用茶に関係した茶師も出現。
17世紀中期以降は階級に応じて御物(ごもつ)・御袋(おふくろ)・御通(おとおり)の
茶師三仲間を形成、近世前期には50~60家に上った。
茶の湯の流行と共に、宇治茶が茶の代名詞になるのはこれ以降である。

バス後方に掲げられた茶の掛け軸

抹茶色のシート
江戸時代、将軍家への茶の献上には宇治採茶使の派遣があり、
寛永10年(1633年)に制度化して宇治茶壺道中になった。
17世紀後半から18世紀初頭が最盛期で往路は東海道、帰路は甲州街道・中山道を通り、
将軍家御用と言う事で沿道の庶民に畏怖感をもって見られた。
童謡「ずいずいずっころばし」の歌詞には人々の動揺振りが示されている。
宇治茶の特徴は、茶の上を棚で覆う覆下(おいした)茶園で、甘美な抹茶や玉露を作った。
元文3年(1738年)には宇治田原の永谷宗円が香気ある煎茶を、
天保6年(1835年)小倉村の山本嘉兵衛が玉露を創製したと伝える。
明治維新で幕府の保護がなくなったが、やがて輸出品として好評を得、大正以後機械化される。
最近になってお茶壺道中が復活されている。』 とあります。

運転席後方に置かれた茶壷
最初の産地から離れた場所に、より大きな生産地ができるのはよくある話。
明恵が宇治に茶を伝えたのは、それなりの平地があり川霧によって湿度が得られたからでしょう。
ツバキ科に属し、表面がクチクラ層で覆われた茶は、温度があれば生育しますが、
商品となると結構な手間が必要。
茶畑に扇風機を回して霜を防ぎ、覆下で【おいしさ】を引き出さねばなりません。

バス停の標識にある猪目穴

正寿院口バス停付近の様子
唯、茶は一度口にすると手放せない性質の嗜好品なので、手間暇掛ける価値は十分にありました。
戦前は絹に次ぐ輸出品でしたし、アメリカ独立・アヘン戦争も元を辿れば茶の輸出入が関わっています。
茶の歴史を見るだけで世界史を辿る事ができます。

平日のスクールバス時刻表

土日祝日のみ運転の宇治茶バス時刻表
そんな事を考えながら、【バスに揺られてガタピンシャン、トンネル抜けたらここどこ所?】とバス停到着。
「奥山田正寿院口」という名前だけに秘境の地で、高速道路はあるものの停留所付近には人家もなさそう。
ここから更に800m山奥に向かいますが、途中には人家・茶園が点在。意外に思いましたが、
更に進むと信楽街道「家康伊賀越えの道」の案内板が。
ほんの一時期ですが信楽は聖武天皇が紫香楽宮を置いた場所、
古街道が通っていても不思議はありませんが、何だか狸に化かされた気持ちでした。

バス停から正寿院へは1㎞弱の道のり

途中にある製茶場

家康 伊賀越えの道
[参考書]
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朝日山 恵心院(真言宗智山派)
本堂外陣から御本尊を参拝した後は、境内の庭園散策。さてこの日の目的は遅めの紫陽花鑑賞。
宇治で紫陽花と言えば西国札所の三室戸寺ですが、ここ恵心院も花の寺として人気上昇中。
拝観も無料なので隠れた穴場と言えそうです。
入口から坂を上ると曲がり角に開祖空海の説法姿の石像が建ちますが、像の後方には半夏生・カラーが繁茂。
どちらも水を好みますが、山側から水が染み出ているらしく範囲を広げている様子でした。
射干ならば【シャガに説法】となる所です。

空海の石像の後方に生える半夏生・カラー

半夏生近影

山門までの脇にはホタルブクロが

山門に掲げられた看板

紫陽花を浮かべた手水鉢

境内の庭園の入口

庭園の道沿いに植えられている紫陽花

紫陽花と芭蕉
奥に見える建物は本堂。

庭園の紫陽花は青色が主流

日当たりの良い場所に植えられているアガパンサス

前栽と書院

紫陽花近影
恵心院の庭園は境内の南側。広大という程ではありませんが、
散策路もあり四季折々の植物が植わっています。
この時期は紫陽花とアガパンサスが【みむろど】ならぬ見頃でした。
共に通路沿いに在り、内側に樹高の高い樹木があって適度な日陰を作っていました。
他に牡丹・梅・石楠花もあり四季の花に囲まれた寺院と言うのは誇張ではありません。
他にも三春滝桜と札のあるものが3本ありました。

紫色の紫陽花

これは「墨田の花火」か?

渦紫陽花

白色の紫陽花

蕚紫陽花

こちらも蕚紫陽花?

蕚紫陽花
庫裏で御朱印を御願いすると妙齢な尼さんが対応。
私;「綺麗に整備されたお庭ですね。」
尼僧;「先代住職が始めました。人に来て貰うなら花ぐらいないと、と言いまして」
私;「三春滝桜とありましたが?」
尼僧;「福島県の滝桜の20年ものを5本分けて貰いました。でも2本枯れていまは3本です。」
私;「維持が大変ですね。」
尼僧;「最近、鹿や猪が食事に見えるので管理が大変です。唯、猿が宇治川を越えてこちらに来ないのは幸いです。」
私;「仏教は殺生禁止なので、鉄砲で撃つ訳にはいきませんからね。」
尼僧;「この辺は禁猟区なのですよ。尤も持って来られても私には捌けませんけど…」
と話が弾みました。中々さばけた尼さんでした。

通路沿いの紫陽花群
樹木が程よい木陰を提供している。

庭園の眺望

アガパンサス群
今までも時折目にした花だが、今回初めて名前を知った。

アガパンサス近影

紫陽花の奥にある三春滝桜

三春滝桜
最近各地で鳥獣被害が出ていますが、山に餌が減っているのか、
餌を安易に得る方法に気付いたのかは分かりません。
唯、人と動物の攻防はまだまだ続きそうです。
・我が庵は 都の巽 しかぞ棲む 世をうぢやまと 人は言ふなり
と詠んだのは六歌仙の一人喜撰法師ですが、【鹿ぞ棲む】と言うのは今も当てはまる様子。
庭園を護るためには【きせんを制する】必要がありそうでした。

紫陽花越しに見る庭と本堂

本堂脇の庭

庭と石塔

庭の後方は宇治川と平等院

境内の蓮池
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朝日山 恵心院(真言宗智山派)
坂の入口に建つ寺標。右は伊藤園の施設。
宇治神社と宇治上神社参拝の後は、宇治神社の南にある恵心院へ。
宇治橋の上流に位置し、近年は「花の寺」として人気急上昇中。
とは言うものの、恥ずかしながら訪問はおろか存在さえ知りませんでした。
地図を頼りに探すと、朝日焼窯芸資料館と伊藤園の施設の脇にある細い坂道を上った先。
寺標の案内はあるものの、存在を表に出さない奥床しさを感じます。

寺へと続く坂道

坂道脇の由緒記

坂を上った先に建つ弘法大師石造
朝日山恵心院(あさひやまえしんいん)は、
『嵯峨天皇の弘仁12年(821年)、弘法大師空海の開基になる古刹である。
この場所が嘗て大師入唐の際に学んだ唐の青龍寺の地形に似ていた事から、
当初は「龍泉寺」と名付けられた。
その後、種々の戦火に遭い堂宇は破却されたが、寛弘2年(1005年)
比叡山横川の恵心僧都源信が再興してこの地に住まいし、
天台宗寺院として朝日山恵心院と寺号を改称した。

天正17年(1589年)再建の山門

山門の屋根瓦

境内から見た山門

木々の向こうに見える本堂

正面から見た本堂
延宝4年(1676年)の建立。

庫裏の前から見た本堂

本堂前面の向拝と蔀戸

本堂入口と「恵心院」の扁額

蔀戸

本堂に祀られた御本尊・十一面観音像の説明
その後、再び兵乱に見舞われ衰退するが、天正5年(1577年)に
真言宗の一沙門に拠って中興、再び真言宗に戻った。
天正17年(1589年)には、豊臣秀吉並びに徳川家康から30石の御朱印を賜った。
堂塔完備し境内荘厳を極め、当地域における真言宗の大道場として繁栄したが、
現在は明治以前の建造物としては僅かに天正17年再建の山門、
延宝4年(1676年)建立の本堂を残すのみである。
本堂は萬福寺の建築に携わった秋篠兵庫に拠って建立されたもので、
須弥壇室と護摩壇室が左右非対称で建てられた和様仏堂である。
平成25年に京都府指定有形文化財になっている。』 とあります。

本堂屋根の垂木

本堂の屋根

本堂からの眺望

鎮守社の白龍大神社

大神社側面

本堂向拝下にて

本堂前の水子地蔵尊

地蔵尊説明板
千年以上前の創建で、山門と本堂が明治以前の建築。
しかし全体的に古刹と言った雰囲気は希薄なのは、境内を彩る花の影響でしょうか?
御朱印を拝受すべく庫裏を訪問すると妙齢な尼さんが対応下さいました。
私 ; 「境内からは対岸が良く見えますね。」
尼僧 ; 「ええ、平等院改修中は、毎日その進捗具合が見えました。」
との事。成程、宇治の中心地を一望できる立地条件。
空海がここに寺院を開いたのは、単に留学先の寺院に似ただけではなさそうでした。

境内から宇治川対岸を望む
中央に見えるのが鳳凰堂屋根。手前の煙突は朝日焼窯業資料館。

平等院遠望

御朱印は庫裏にて拝受

恵心院由緒

恵心院御朱印
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 特急は10分毎、宇治線は日中15分間隔で運転
淀屋橋(7:48) → (京阪特急) → 中書島(8:25→8:29) → (宇治線) → 京阪宇治(8:44) → 徒歩5分 → 宇治神社 → 宇治上神社 → 徒歩3分 → 恵心院 → 徒歩5分 → 京阪宇治(10:29)

宇治上神社(式内社 旧村社)
右が拝殿、左が本殿で、その奥が春日神社。
拝殿の奥に鎮座するのが、国宝宇治上神社本殿。
『国宝・本殿は平安時代唯一の神社建築で我が国最古の遺構である。
外側の覆屋(おおいや)は桁行五間・梁行三間、檜皮葺・流造で、
その中に一間社流造、檜皮葺の内殿三社が並立して収まっている。
内殿三社が現在まで残っているのは覆屋に拠る所が大きい。
建築年代は年輪年代測定法から1060年と推定される。

国宝・本殿
朝から宮司さんが清掃中。

本殿由緒
向かって右の左殿と右殿がほぼ同形式であるのに対し、中殿は最も小規模かつ構造も簡素で、
左右両殿が構造の一部を覆屋と共通に用いるのと異なり、独立の形式を採っている。
内殿三社が平面的に大きさを異にする中、柱高だけは一致している点から、
覆屋を想定して建造されたと思われる。神殿は小規模であるが、藤原時代の好みを表していると言える。
内殿の扉絵、第1殿の竜子像2体、第3殿の随身像2体は最古の神像画で、扉絵は重要文化財になっている。
蟇股も奈良時代の板蟇股から刳抜式に変化した平安後期の特色を示している。

本殿全景
右手にある境内摂社の春日神社の本殿は一間社流造・檜皮葺、鎌倉時代の築で重用文化財。
藤原一族の守護神を祀っており、平等院鎮守社である離宮社の境内に一族繁栄を願って勧請された。
平安時代の拝殿・本殿に比べると木割の太い、どっしりとした鎌倉風の力強い構成を示して居る。

正面より見た春日神社

側面より見た春日神社
境内とその付近に天降(あまふり)石・岩神さんと呼ばれる巨石があり、
磐境(いわさか)信仰に拠る神社かと言う。
古くは応神天皇の離宮、次いでの菟道稚郎子の桐原日桁宮(きりはらのひけたのみや)が
営まれた場所とされ、今でも境内に名水桐原水(きりはらすい)が湧出している。
室町期に入り宇治茶が隆盛を極めるようになると、茶園を象徴するものとして
「宇治七茗園」が作られ、それに重ねて「宇治七名水」もでき、桐原水もその一つに数えられた。
他の六名水が全て失われた現在、現存する唯一の名水となっている。
尤も当社の場合は、お茶の水としてよりも、神詣のための手水として
遥か昔より使用されたものである。』 とあります。

春日神社脇にある巨石

桐原水

桐原水の水源へ階段を降りる

現在もこんこんと水が湧く

境内の御神木・大欅
御祭神の三柱は、多分に伝説的な人物ですが、仁徳王朝断絶後に王統を継いだ継体天皇は
応神天皇五世の子孫と伝わります。言わば王朝を繋ぐ要の人物。
歴代の天皇や藤原氏から尊崇を受けたのも頷けます。
先に見た拝殿と共に国宝で世界遺産。如何にも歴史が積み重なった重みを感じます。
現在、我が国に残る平安時代の木造建築物は約30で、奈良時代のものとほぼ同数。
74年の奈良時代に対し平安時代は400年、しかも時代も後。にも拘らず、
建造物が【多いどう!】とならないのは、都であったために常に戦乱に巻き込まれたから。
平安京から少し離れた宇治の地であった事が、平等院、当社や名水が【ぶじ】だった理由です。
参拝後は、授与所で御朱印拝受。季節に拠って御朱印が変わることで知られる当社ですが、
頂いたのは宇治茶に因んだ「茶加美(ちゃかみ)」朱印でした。
別段、これでお茶を濁す積りはありませんが…。

授与所

ずらり並んだ「うさぎおみくじ」

オーソドックスな白色を購入。

宇治上神社説明書

宇治上神社御朱印

宇治菟道郵便局 ; 国宝・宇治上神社拝殿、地名・菟道の由来の兎
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