<コース>
【往路】JR横浜(5:25) → JR東京(5:53) → JR上野(5:58→6:08) → JR宇都宮(7:51→8:02) → JR那須塩原(8:51)
那須塩原駅東口(9:20) → (大田原市営バス 雲巌寺・須賀川線) → 黒羽(9:47) → 大雄寺 → 大雄寺入口(14:31) → (大田原市営バス 雲巌寺・須賀川線) → 雲巌寺前(14:48) → 雲巌寺 → 徒歩20分 → 須佐木郵便局前(15:43) → (大田原市営バス 雲巌寺・須賀川線) → 那須塩原駅東口(16:47)
【復路】JR那須塩原(17:18) → JR宇都宮(18:02→18:05) → JR横浜(20:20)

東山 雲巌寺(臨済宗妙心寺派)
大雄寺の後は、黒羽のもう一つの古刹・雲巌寺へ。
大雄寺から11㎞程ですが、山道での自転車行脚はきついので再びバスで15分。
八溝山地の懐に森閑とした佇まいの寺へ到着。

バス停から反り橋を抜け山門へ

反り橋の上から見た山門
二層・入母屋造で江戸期の建築。
東山雲巌寺(とうざんうんがんじ)は大治年間(1126~1131年)に開基と伝わります。
その後衰えますが、弘安6年(1283年)後嵯峨天皇第三皇子の仏国国師のために執権・北条時宗が堂宇を再建。
事実上の再興でそのときに臨済宗に改宗しました。
天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めでは、北条側に立った事で焼討され山門を残し全焼。
数年後に再建されますが【うんがん】なかったと言えましょう。
奥の細道でも芭蕉は雲巌寺を訪問。知人であった住職の仏頂禅寺と句の遣り取りを残しています。
・木啄も 庵は破らず 夏木立 芭蕉
決して仏頂面だった訳ではないようです。
山門から釈迦堂、獅子王殿が一直線に並ぶ様は代表的な禅宗伽藍の様式。
境内には楓が茂り初夏・晩秋には深山幽谷の趣があります。
朱塗りの反り橋と山門は写真でもしばしば登場。最近はJR東日本でも吉永小百合さんを起用したCMが話題になりました。
再興時から禅宗の四大道場と言われるだけあって観光寺院ではなく、静かに参拝するのが習わし。
御朱印も書置きを拝受するタイプ。参拝中は、とうとう一人の寺院関係者も見かけませんでした。
来る者は「どうじょ!」と拒みませんが、境内を散策しながら心を落ち着ける場所であるのでしょう。
大雄寺は心がホッとする場所、雲巌寺は心が張り詰める場所と言うのは極論でしょうが、芭蕉もそんな場所を徘徊して俳諧に浸ったのかもしれません。

山門から見た仏殿

仏殿脇の薬師堂

仏殿脇を抜けて上へ向かう

高台にある方丈

方丈と庫裡

方丈前から仏殿と山門を望む

仏殿(手前)と山門

雲巌寺御朱印
書置きのものを拝受。

黒羽須佐木郵便局 ; 雲巌寺山門、奥の細道句碑、木材
黒羽郵便局 ; 黒羽町の外枠に雲巌寺山門、芭蕉の里
[参考書]
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那須塩原駅東口(9:20) → (大田原市営バス 雲巌寺・須賀川線) → 黒羽(9:47) → 大雄寺 → 大雄寺入口(14:31) → (大田原市営バス 雲巌寺・須賀川線) → 雲巌寺前(14:48) → 雲巌寺 → 徒歩20分 → 須佐木郵便局前(15:43) → (大田原市営バス 雲巌寺・須賀川線) → 那須塩原駅東口(16:47)
【復路】JR那須塩原(17:18) → JR宇都宮(18:02→18:05) → JR横浜(20:20)

黒羽山 大雄寺(曹洞宗 東国花の寺百カ寺栃木第11番)
・月日は百代の過客にして行きかふ人もまた旅人なり。
言わずと知れた『奥の細道』の冒頭。百代まで残る名文ですが、これは
・夫れ月日は万物の逆旅にして光陰は百代の過客なり
という 李白「春夜桃李園に宴するの序」 を下敷きにしたもの。俳聖芭蕉も先達には敬意を表したのでしょう。
と言うわけで、芭蕉が辿った道を 「僕の細道」 と題して散策。
赤羽は東京23区の北ですが、黒羽は北関東の栃木の北部。
いまでこそ鉄道・道路から外れていますが、かつては陸羽街道の要衝でした。
加えて2万石足らずですが、中世以来幕末まで続いた大関氏の城下町でもあります。
街道沿いにはかつての街並や古刹があり鮎釣りを除いては観光地化していない場所です。

鮎の那珂川と言うだけあって太公望で賑わっている

那珂川の立岩

バス通りに面した家々

街道沿いにある紺屋

足利銀行

文化財の家

かつての武家屋敷か?

おとり鮎と鮎料理の店
手前の水槽には鮎が群泳。
黒羽山大雄寺(くろばねさんだいおうじ)は、応永11年(1404年)に余瀬村に創建。大関氏の菩提寺でもありました。
戦乱で焼失した後は、領主大関正増により文安5年(1448年)に再建。
大関高増が居城を余瀬白旗から黒羽に移した天正4年(1576年)には大雄寺も移転と大関氏と共に歩みます。
総門、庫裏、本堂、座禅堂を結ぶ回廊が整えられ屋根は総茅葺。室町時代の禅宗様式を今に伝えるものです。
境内は牡丹の花で有名で、花の季節には回廊を巡りながら鑑賞できますが、雰囲気は大和長谷寺と似ていますね。
やはり廻廊には牡丹でしょうか?牡丹灯籠とは聞きますが…。

大雄寺入口

シャガと杉木立の先に見える山門

重文・総門
正面に本堂があり、左右には廻廊が付けられている。

重文・本堂
本尊釈迦如来を安置。茅葺の堂々たる造り。

本堂前の扁額

重文・茅葺屋根の廻廊
総門から本堂、禅堂を繋いでいる。屋根も茅葺は珍しい。

廻廊から見た境内

蓮越しに見る重文・鐘楼
鐘楼の屋根も茅葺である。

大雄寺御朱印
奥の細道で芭蕉はこの黒羽に14日も滞在しています。
長雨のためとか、大関藩家老の弟子に歓迎されたとか言われています。
が、いよいよ陸奥へ入るに当たり、情報収集や根回し等の準備に忙しかったのでしょう。
当時、伊達藩が日光東照宮の普請を命じられていました。
芭蕉はなにか【ふしん】な点はないか幕府から隠密裏に調査させられていたとか。
嵐山光三郎さんが『芭蕉という修羅』に書いていました。芭蕉は伊賀上野の出です。
お昼は甘味処で餡蜜でもと店にいきましたが工事中でお休み、「寒天だから【海藻】中でもしゃあないか」と諦めた次第です。

大雄寺から歩いて芭蕉の館へ向かう

芭蕉の館の前にある芭蕉と曾良の像

句碑 「かさねとは八重撫子の名なるべし」
曾良の作、借りた馬について来た子供を詠んだものか?

那珂川東岸の丘陵地に広がる黒羽城址公園
天正4年1576年の築城以来、居館として明治の廃藩となるまで続いた。

黒羽城の空濠

黒羽前田郵便局 ; 芭蕉の館、芭蕉と曾良のブロンズ像、那須五峰、大関家家紋
[参考書]
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【往路】JR横浜(快速ラビット6:15) → JR東京(6:42) → JR上野(6:47) → JR大宮(7:21) → JR小山(7:53) → JR宇都宮(8:18→8:23) → JR日光(9:11→9:32) → (東武日光路線バス) → 中禅寺温泉(10:20) → 徒歩10分 → 二荒山神社中宮祠 → 徒歩20分 → 中禅寺
【復路】中禅寺温泉(14:00) → (東武日光路線バス) → 田母沢(14:27) → 御用邸・四本竜寺 → JR日光(17:35) → JR宇都宮(18:17→快速ラビット18:41) → JR小山(19:07) → JR大宮(19:45) → JR上野(20:10)

重文・神橋
中禅寺参拝の後はバスで山内まで降りて散策。
日光東照宮・輪王寺が先ず頭に浮かびますが、今回は趣向を変えての観光。
旧田母沢御用邸は大正天皇が避暑地として使用されていたもの。
明治31年に東京の赤坂離宮より移築した建物に新築を加えた106室、4500㎡の広さがありました。
今は主要部分を残すのみですが、それでも十分。西洋とは一味違った味わいがあります。

旧田母沢御用邸 東門

御用邸玄関の車寄せ部

見学入口


玄関から見た邸内

御用邸中庭



シャンデリア
和洋折衷様式

御玉突所

玉座

外見は純和風


庭の枝垂桜
御用邸見学の後は、神橋の奥で遅めの昼食を摂りましたが、途中右手に三重塔が見えるのが四本竜寺。
本宮神社の裏手にあり、輪王寺の始まりとなった歴史ある寺。天平神護2年766年に勝道上人がこの地に紫雲が立ち上るのを見て草庵を結んだのが始まりで、この年が日光の開山とされます。
朱塗りの三重塔や観音堂が立ち並ぶ境内ですが生憎無住、御朱印も当然なし。
すぐ傍の東照宮や輪王寺が人でごった返しているのとは対照的で観光客もいませんでした。
名勝に人が行くのは当然ですが、このように歴史のある場所が顧みられないのは寂しい気がします。

風鈴祭りの最中

四本竜寺観音堂
下野観音霊場第三番札所で手前にあるのが紫雲石。

重文・四本竜寺三重塔
大同2年(807年)創建。
昼食は石造りの異国情緒あふれる「明治の館」での洋食。
日本コロンビア創設者の別荘で日光石を「乱れ石積み」の純石造建築でジョージアン様式と呼ばれます。かつて日光には外国人が避暑に訪れた影響でしょうか?

明治の館

オムライスを注文
その後は、日光金谷ホテルへ移動。明治6年創業の老舗。
明治初期にこのような本格的洋風ホテルを造った事も驚きです。
宿泊は無理でしたが見学はOK。内にある喫茶店でかき氷を食べて文明開化の時代を偲びました。

日光金谷ホテル

ホテルは登録文化財

甘味処で一服

日光郵便局 ; 国宝・東照宮陽明門、重文・神橋、五重塔、杉並木
日光駅前郵便局 ;重文・神橋、男体山、杉並木
日光本町郵便局 ; 並び地蔵、ニッコウキスゲ、日光連山
【参考書】
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日本中世史の権威による「地域の力を歴史に探る」著作。
東京大学出版会の月刊誌『UP』に連載されたもので、中禅寺を始めとする古代下野仏教文化は、
Ⅲ 食 4. 宇都宮餃子 食と道の関り に簡潔に記載している。
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日光山 輪王寺 別院 中禅寺(天台宗 坂東三十三ヵ所第十八番札所)
中宮祠に続いて湖の名の由来となった中禅寺へ。
日光山中禅寺(にっこうさんちゅうぜんじ)の創建は延暦3年(784年)。寺伝に拠れば、
『日光開山の勝道上人が湖に船を浮かべていると湖上に千手観音様の姿を見て、桂の立木に千手観音を彫り、それを本尊として祀ったのが始まり。
当初は二荒山神社の神宮寺として男体山登山口にあり、本尊は観音堂に、脇立ちに源頼朝が寄進した四天王像が置かれた。』
とあります。
江戸時代の日光は女人禁制のため、今のいろは坂途中の女人堂から拝みました。
明治期になって禁制は解除されますが、明治35年(1902年)の山津波で壊滅。現在地に移って再建されました。
本尊ですが、そのとき中禅寺湖に浮かんで無事発見。傷一つなかったそうです。
なんだか、出来すぎた話ですが、20世紀初頭のことでもあり、それほど出鱈目でもないように思います。
御本尊を拝みましたが、たしかに足元は根が付いていました。境内は五大堂なども含め寺全体が新しい感じなのは再建のためでしょう。

立木観音への案内板
バス停から湖沿いに南へ向かう。

立木観音仁王門へ到着
坂東札所では珍しく拝観料が必要 ¥500。

立木観音堂
重文・本尊千手観音立像は高さ6m、平安時代後期の作と言われる。

波之利(はしり)大黒天堂
波之利は「なみのり」と書いて「はしり」と読む。開山が日光山を開いた際に湖の上に見た大黒天を祀る。

本堂前に建つ愛染堂
右の樹木はアイゼンカツラで、映画「愛染かつら」のロケ地にもなった。
一番高い場所にある五大堂からの男体山と中禅寺湖の眺めは絶景。移転した事で、景色は良くなったかもしれません。
中心部から外れたので訪れる人は中宮祠に比べ少ないですが、却って静かに巡礼ができました。

本堂横から境内の最も高所にある五大堂へ

五大堂の前面
堂内は撮影禁止。不動明王を中心に、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の五明王を祀る。

五大堂から見た男体山と中禅寺

五大堂から見た中禅寺湖
正面の右手が観音堂。

五代堂内の天井画は堅山南風の大雲龍

男体山

立木観音説明書

説明書裏面の御本尊

立木観音御朱印

湖上から見た立木観音
中禅寺より奥にある旧伊国大使館別邸を見学。
東京の酷暑を避ける為に高原に避暑地的な場所を確保したのでしょうが、風景がヨーロッパのコモ湖やレマン湖に似ていることもあったのではないかと思います。
近くにはイギリス、ベルギー、フランス大使館別邸もあり人気の場所だったのが分かります。
因みにベルギー、フランスは今でも現役で活躍中でした。

旧伊国大使館別邸の内部
ここは見学可能。木肌を生かした壁が特徴的。

旧伊国大使館の食事の再現

仏国大使館別邸
ここは今も現役。

仏国大使館別邸
見学できないので外観のみ。
【参考書】
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二荒山神社 中宮祠(下野國一之宮)
バス停近くにある中宮祠入口の赤鳥居と男体山。
春に18きっぷで中禅寺湖に行きましたが、夏にも引き続き中禅寺湖へ。
標高が高いため夏場も25℃を越えないと聞き、涼をとっての巡礼には丁度良いと思った訳ですが、いざ着いてみると下界の37℃より少し低い35℃。
地元の方も「こんな事はまずないのですけど…。」と仰いましたが、それで気温が下がるわけもなく、猛暑の中での巡礼になりました。

JR日光駅前にて

駐車場奥の鳥居
湖の正面に立つ。
二荒山神社中宮祠(ふたらさんじんじゃちゅうぐうし)は下野一之宮。
宇都宮市内にある二荒山神社と区別するために日光二荒山神社と言われる事が多く、日光市山内が本社、男体山頂上が奥宮。ここ中禅寺湖畔は中間の中宮祠という扱いです。
日光を開いた勝道(しょうどう)上人が男体山を拝む場所として延暦3年(784年)に二荒山権現を祀ったのが始まりとされます。
男体山は火山で美しい形をしていますから上人も思わず拝みたい【しょうどう】に駆られたに違いありません。
初めは二つの荒々しい山があると思っていましたが、二荒山とは男体山の古称だそうで、山を御神体とする信仰。
二荒は「ふたあら」或いは「にこう」と呼ぶので、そこから日光の記名が生まれたようです。字面は日光が良いですが、元来は荒ぶる神を恐れるものだったのですね。
中宮祠は男体山登山口の表口で本殿横に登拝口が。【だんたいさん】も居ましたが、上って降りるのに1日がかりだそうで、今回はスルー。いつか上る日があるのでしょうか?

重文・中門前の石段にて

重文・拝殿の横にある登山口

重文・登拝口鳥居

鳥居の扁額

男体山登山口の石段

登山口の内側から境内を見る

境内の碑

二荒山神社中宮祠御朱印
丁度この日は、弓の競技会が開催中。中禅寺湖に浮かべた的を岸辺から射るそうで、これは見なければと、遊覧船に乗って湖をほぼ一周。
途中、男体山に加え湖畔の大使館別邸を湖上から眺める事ができました。

中門前では弓の競技会参加者が記念撮影

湖に浮かべた的を射る
那須与一も真っ青だが、那須の氏から分かるように那須地域が本貫である。

遊覧船から見た男体山
湖上を渡る風が心地よい。

湖上から見た英国大使館別荘
JR東日本が吉永小百合さんを使ったポスターで有名になった。

仏国大使館別荘

遊覧船乗り場にある日光市マンホール蓋

華厳の滝
【参考書】
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JR横浜(6:37) → JR宇都宮(8:58) → 宇都宮西口(9:20) → (関東バス大谷立岩線) → 大谷観音前(9:46) → 大谷資料館・大谷観音 → 大谷観音前(11:43) → (関東バス大谷立岩線) → 宇都宮西口(12:09)

天開山 千手院 大谷寺(天台宗 坂東三十三ヵ所第十九番札所)
先週に続き栃木県下の札所巡礼で宇都宮の大谷寺(おおやじ)へ。
西日本の地名では谷を「たに」と読むのに対し東では「や」と呼びます。日本海側は南小谷、内陸は岡谷、太平洋側は三河三谷付近が境界線になるのでしょうか。
大谷は大谷石の産地で付近は軽石凝灰岩の宝庫です。付近にはそれを使った建物も幾つかありました。柔らかく加工し易い耐火性に優れるという長所がありますが水に弱いのが難点だとか。
関西では御影石(花崗岩)が良く使われえますが、関東では大谷石。これなら【石材】適所と言えますね。
かつての採石場跡が資料館として公開されており地下は夏でも10℃前後。映画、ドラマやコンサートでも使用されているようで有効なリサイクルと言えそうです。

大谷石の岩肌が至る所に

大谷景観公園
御止山と姿川の間に広がる。御止とは日光輪王寺の門跡(宮さま)が秋に松茸狩りをされたので立ち入り禁止だったから。

大谷資料館 ¥500
かつての大谷石地下採掘場跡で一年を通してヒンヤリしている。音楽や映画のロケに使われているそうで、2014年の「るろうに剣心」の撮影にも使われた。我々の世代は「セーラー服と機関銃」の方だが。

切り出された大谷石

深さ30m、広さ2万㎡の巨大地下空間」

手掘りから機械へと変遷
採石場の後は目指す札所へと向かいました。門前に来て巨大な大谷石が覆いかぶさるようになった場所に今にも押し潰されそうに本堂があるのに驚き。国内屈指の洞窟寺院だそうです。
姿川が傍を流れ洞窟がある好立地。本堂下からは1万年前の縄文人の遺骨も見つかり大昔から人類が生活していた場所だったのでしょう。縄文時代の横穴式住居に造られた寺と言えます。
坂東の札所には珍しく拝観料を払い入山。
天開山千手院大谷寺(てんかいさんせんじゅいんおおやじ)は寺伝によれば、
『弘仁元年(810年)に空海が東国巡錫の折、川に住む毒蛇が毒を流して人々を困らせているのを聞いて谷あいに入り、10日後に毒蛇を退治したと告げて立ち去りました。
村人が谷に入ると岩肌には光り輝く千手観音が彫ってあり、人々は大師に感謝して仏教に帰依するようになった。』
とあります。
全国各地の弘法大師伝説ですが、大師も木を彫ったり石を彫ったり温泉を掘ったりと大忙しです。
もし石を彫り損ねたら「弘法も鑿の誤り」となったでしょうが、見事に仕上がった様子。流石【工房】大師と呼ばれるだけの事はあります。
目指す札所は洞窟の壁に千手観音が彫られたもので当初は金箔で光り輝いたと言われ、高さ4m、台座1mの堂々たる本尊。
本尊を含めた釈迦三尊・薬師三尊・阿弥陀三尊の10体の磨崖仏は特別史跡と重文の両方に指定。
磨崖仏は中国の雲崗・龍門が有名ですが、ここのものは小さくても精巧に彫られた日本最古の石窟仏、決して【まがい】物ではないようです。
開基は空海ですが下野出身の道隆上人が関わったともいわれるので、かつてここで暮らしていた人たちが壁に刻んだ仏を信仰の対照とした早くからの宗教的場所だったと考えられます。

坂東三十三カ所十九番札所大谷寺門前
珍しく拝観料¥300が必要

洞窟の下にある本堂
この奥に壁面に彫られた千手観音像がある。但し、撮影禁止。

平和観音の頭部から見た大谷寺
拝観後は傍の平和観音へお参り。最初はこちらが大谷観音と思っていましたが、これは採石場跡地に、第二次世界大戦の慰霊と世界平和を願って戦後建立されたもので、日光の輪王寺が管理しているものでした。
ところで寺院には「葷酒(くんしゅ)山門に入るを禁ず」と書かれている所が多く、ニンニクや酒などの匂いを漂わせた人間は入れません。
宇都宮の名物と言えば餃子ですが、食べた人はどうするのかと考えましたが、ここでは拝観料が要るのでこれで帳消しにするのかもしれませんね。

付近の採掘場跡の崖にある平和観音
高さ27m、昭和23年から8年がかりで昭和31年に開眼。

優しい眼差しの平和観音様

大谷寺説明書

説明書裏面
御本尊の写真が載る。

大谷寺御朱印

街道途中にある屏風岩石材㈱の石蔵
明治17年の建築。

バス停付近の建物。
他にも大谷石を使ったイタリアンの店もあった。

東部宇都宮駅近くのカトリック松が峰協会
大谷石の建造物では国内最大。

昼食は宇都宮なので餃子
サッパリした味。

大谷郵便局 ; 平和観音、特産・大谷石、古賀志山
宇都宮中央郵便局 ; 登録文化財・松が峰教会聖堂
[参考書]
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下野国の古刹の成り立ちを記述
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春日岡山 転法輪院 惣宗官寺(天台宗) 本堂
午後は佐野から館林と寺を巡り帰路へ。
佐野と言えば日本三大ラーメンの町、青竹打ちで有名ですが、元々はこの付近にあるゴルフ場に来た人たちが口コミで伝えたのが始まりとか。
それ以前は佐野と言えば厄除け大師、厄除けや水子地蔵尊の関東三大師として正月は多くの参拝者で賑わいます。
正式には春日岡山転法輪院惣宗官寺(かすがおかやまてんぽうりんいんそうしゅうかんじ)ですが、佐野厄除け大師で呼ぶ習慣です。正式名は長いのでどれだけの人が知っているのか訊いてみたいものです。
創建は天慶7年(944年)、藤原秀郷が平将門降伏の誓願により佐野の春日岡に春日明神の社殿と共に寺院を建立し、朱雀天皇から「春日岡山惣宗官寺」の勅額を賜ったのが始まり。
南都の僧侶宥尊が開山となりました。法相宗に属し藤原一門の信仰を受けますが、治承寿永の乱で衰退。
鎌倉時代に藤原氏出身の僧侶俊海が一門と北条氏の援助により復興、以後天台宗になりました。江戸時代初期には秀郷から三十代目の大名佐野信吉により現在地へ移転となります。
本尊は如意輪観音ですが、比叡山中興の祖である元三大師良源の最古の御影を祀っていることから厄除け大師と呼ばれるようになりました。
このように伝統のある古刹である事に加え徳川幕府の庇護や籤運に強い御利益が人々の人気となり、広い境内には立派な伽藍が並んでいます。
札所でもないのに満願寺よりも余程多い参拝者でした。御朱印を貰うと書いたもの(正しくは印刷したもの)を拝受。参拝の人が多いため御朱印まで手が回らないといった所でしょうか?

金銅大梵鐘
元三大師1000年御遠忌を記念して昭和59年(1984年)に完成。「さのまる」が居る記念撮影スポット。

佐野厄除け大師説明書

厄除け大師御朱印

佐野市マンホール蓋 JR佐野駅前に設置

佐野市マンホールカード 配布場所はこちら
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出流山 満願寺(真言宗智山派 坂東三十三ヵ所第十七番札所)
手前が山門(仁王門)でその奥に見えるのが薬師堂。
坂東33ヵ所も埼玉県を過ぎいよいよ北関東下野へ。
JR栃木駅から目的地までのバスは午前2本、午後3本の一日5本。地図で調べてもよく分からんくらい山奥で、駅の観光案内所で確認したら「20㎞以上距離がありますよ」との事。
流石にレンタサイクルは諦めてバスに揺られること1時間、「これは満願寺やなくて我慢寺やで」と思いながら最後は山中のセメント採掘場を抜けて山中の寺へ到着。
出流山満願寺(いずるさんまんがんじ)は坂東第十七番札所。寺伝によれば
『天平神護元年(765年)に勝道上人に拠り開創。その後、弘仁11年(820年)弘法大師が上人の徳を慕って参詣。その折に名木を以て本尊千手観音菩薩像を造った。
以来、鎮護国家道場として足利時代、徳川時代に朱印を賜り守護不入の地として十万石の格式を与えられた。』
とあります。
長きに亘り崇拝され修験者の坊としても威勢を誇った寺も、明治の廃仏毀釈で衰退。明治末になってようやく復興の兆しが見え、現在の状態に至っています。
大きな山門を過ぎると左手に近代的造りの本坊と信徒会館が。御朱印はここで拝受しますが、山奥にこれだけの施設があるのは利用する人が居るからでしょう。
続いて本堂へお参り、普通ならここで終了ですが。拝観料ならぬ維持費¥300を払うと奥之院に行けるとか。

満願寺本堂
講組奉納の赤いぼんぼりが並ぶ参道の先、木立の中に240年の風雪に耐えて立つ。本尊は千手観音。

本堂軒下の尾垂木の彫刻

尾垂木の龍の彫刻

奥之院へと続く道

参道途中から見た女人堂
バスまでには十分時間があるのでお金を納めて山道行く事10分、剣ヶ峰山腹の垂直の絶壁に造られた舞台造りの拝殿に到着。
そこから階段を上ると鍾乳洞がありますが、入って吃驚。高さ4m余りの鍾乳石が鎮座されていました。頂上に窪みがないため約5万年かかってここまで成長したもので、十一面観音後姿と呼ばれています。
開山の勝道上人は日光山を開かれた高僧で神橋に銅像が建っている人。
昔、下野の国司であった高藤介の奥方が子宝に恵まれず、この奥にある鍾乳洞に籠って祈願した末に生まれた子供が開山の勝道上人とか。高僧の誕生説話ですが【証人】がいる訳でもありません。
しかし、この鍾乳石が十一面観音菩薩の後ろ姿に似ているのでこのような話でできたのも頷けます。見方によっては子宝に恵まれそうな形状にも見えます。
当初は何故このような山奥に古刹があるのか不思議でなりませんでしたが、奥之院を訪れて漸く納得。
何かの拍子に鍾乳洞に入った人が観音様そっくりの鍾乳石を見て崇拝、それが周囲に伝わって寺院が建立されたという流れでしょう。
本堂参拝のついでに行った奥之院ですが、いわばこちらが本家。見過ごさなかったのは幸運でした。

奥之院階段下に到着

拝殿には雷光形階段を上る

拝殿は剣ヶ峰中腹の垂直の崖に建つ

奥之院拝殿近影

奥之院の鍾乳洞にある十一面観音後姿
高さ4mで満願寺信仰の発祥の場所。

大悲の滝
寒中の修行僧や参詣者の入滝が行われる。

出流山 満願寺説明書

満願寺御朱印
帰りのバスまでは1時間以上。ここで昼食を摂れという御仏の教えでしょうか?
満願寺という名前ですがこの辺は唐辛子ではなく蕎麦が有名だそうで門前に何軒かお店がありました。
そのうち1軒を覗くと開店前でお店の方が挽いた蕎麦粉を運んでいる姿が目に留まったので「福寿屋」に入店。
注文して出てきたのは薄い色で細い蕎麦。黒っぽく太い関西の蕎麦を知る者にとっては斬新でしたが、御店の方に教わったように最初は出汁なしで口に入れると蕎麦の香りが広がるのが分かりました。
関東の本格的な蕎麦は今回が初でしたが、最初から絶品に会えたことになります。
早目の昼食を終えてバス停を待っていると隣に座った青年から声を掛けられました。
青年;「間違っていたら申し訳ありませんが、先週慈光寺に行かれた方ではないですか?」
和辻;「もしや、私が登る時に参道の坂を下って居られた方ですか?」
青年;「そうです。」
と思わぬ場所で再会となりました。
帰りのバスも1時間以上でしたが、隣に座った彼と巡礼の話で盛り上がりました。
なんでも四国の御出身で仕事で関東に来ているので坂東の札所を回って居られるとか。午後からは次の札所へ行くとの事。
順番通りに回るというのも律儀な話ですが、帳面・軸も持って居られて本格的な巡礼。
私よりも一世代若い方ですが、流石八十八ヵ所の本場の人は違うと感心した次第です。

昼食は出流山仁王門前の「福寿屋」にて出流そばを

10割細打ち
出汁だけではなく、塩と水のみで食べる方法もあると教わった。

食後の甘味

梅沢郵便局 ; 星野遺跡、満願寺奥之院の観音鍾乳石、三峰山
[参考書]
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下野国の古刹の成り立ちを記述
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<コース> 春の青春18きっぷ
【往路】JR横浜(快速ラビット6:15) → JR東京(6:42) → JR上野(6:47) → JR大宮(7:21) → JR小山(7:53) → JR宇都宮(8:18→8:23) → JR日光(9:11→9:32) → 東武日光路線バス → 中禅寺温泉(10:20)
【復路】中禅寺温泉(14:00) → 東武日光路線バス → 西参道入口(14:29) → 徒歩5分 → 日光東照宮 → JR日光(17:35) → JR宇都宮(18:17→快速ラビット18:41) → JR小山(19:07) → JR大宮(19:45) → JR上野(20:10)
青春18きっぷ最終日。
どこへ行くか迷っていると吉永小百合さんが宣伝しているポスターの場所が中禅寺湖畔にあると知り日光へ。
目指す場所は中禅寺より奥にある旧英国大使館別邸。
東京の酷暑を避ける為に高原に避暑地的な場所を確保したのでしょうが、
風景がヨーロッパのコモ湖やレマン湖に似ていることもあったのではないかと思います。
近くにはイタリア、ベルギー、フランス大使館別邸もあり人気の場所だったのが分かります。
因みにベルギー、フランスは今でも現役です。

日光東照宮(別格官幣社)

風格のあるJR日光駅舎

男体山と中禅寺湖

湖畔に立つ旧イタリア大使館別荘

木の樹皮を生かした壁が特徴の別荘内部

食卓の再現

別荘内から中禅寺湖を望む
後ろは日光連山。

旧英国大使館別荘
吉永小百合さんのポスターはここの2階で撮影。
昼食を食べて華厳の滝を見た後は市街地に戻り東照宮へ参拝。
以前から人は多かったですが、世界遺産になって以降、益々増えた気がします。
特に外国からの【男体山】が多い。
東京から比較的近い事もあるでしょうが、東照宮の豪華絢爛たる様子が人を惹き付けるのでしょう。
日本人には装飾が派手で【今市】敬遠する人もあるそうですが、
ヴェルサイユ等の宮殿を見ている西洋の人にとっては親近感が湧くのだと思います。
今回は、本殿に加え鳴竜で有名な本地堂(薬師堂)を拝観。
狩野安信の絵は昭和36年の火災で焼失しましたが昭和43年に堅山南風画伯の絵で復活。
鳴竜は拍手すると空気の振動で共鳴するという理屈ですが、いままで各地の鳴竜ではそれらしいものを聞けません。
今回、若いお坊さんが説明しながら拍子木を鳴らすと見事に共鳴。皆感心していました。
冬場の乾燥した人の少ない時がよく聞こえるそうですが、説明では堂内の場所によって共鳴具合に差が出るとか。
天井や床下の状態が影響するのでしょう。
物理の知識が必要ですが、初めにここを作った人はどういう意図があったのか、考えると不思議な気がします。
以前に真夏に訪問した際には下界が35℃でも22℃と夢のような気候。
冬場は寒いと聞いていましたが春先ならば大丈夫だろうと安心していると酷寒。
幸いに上着を着てきたので事なきを得ましたが、薄着であれば危うく【凍傷】宮になるところでした。

日本三大瀑布 華厳の滝

昼食は中禅寺温泉で「湯葉定食」を

日光東照宮への参道

最初の石の鳥居

鮮やかな重文・五重塔
小浜藩主酒井忠勝の寄進に拠るが、現在のものは文政元年(1818年)の再建。

重文・表門(仁王門)

国宝・陽明門遠景

国宝・唐門
白い胡粉と金を基調にしている。

陽明門近影

日光東照宮御朱印

本地堂(鳴竜)御朱印
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【往路】JR横浜(6:39) → JR東京(7:05) → JR上野(7:13) → JR大宮(7:42) → JR小山(8:32→8:45) → JR足利(9:32)
JR足利駅 → 徒歩5分 → 太平記館 → レンタサイクル5分 → 足利織姫神社 → 鑁阿寺 → 足利学校
【復路】JR足利(14:42) → JR栃木(15:13→18:05) → JR小山(18:23→18:31) → JR大宮(19:18) → JR上野(19:45) → JR東京(19:51) → JR横浜(20:20)

足利織姫神社
足利市は室町将軍家発祥の地ですが、1200年以上の伝統を持つ足利織物の街。
その織物の祭神を祀っているのが織姫神社で織姫山の中腹に華麗な神殿が鎮座しています。
その由来は意外と新しく、宝永二年(1705年)に織物産業振興のため地元の住民が中心となって創建。
伊勢国度会郡の神服織機殿神社の御祭神の天八千々姫命・天御鉾命の二柱を勧請したのだそうです。
江戸期には養蚕が盛んだったとはいえ、このような神社を立てるだけの財力があった証。さぞ【養蚕】儲けたことでしょう。
神社は明治十二年に現在地に移りますが、翌年焼失。
しばらく仮宮だったのを昭和九年に有志を募って再建に着手、昭和十二年に完成しました。
この時も足利銀行から【融資】を受けることなく、有志の力で行ったのが素晴らしい事です。
ガチャマン景気と言われる位儲かったという事でしょうか?

織姫神社への道

織姫神社前の公衆トイレ

神社への229の階段

平等院を模したと言われる織姫神社社殿

社殿近影

社殿右側

社殿から市街を望む
戦後繊維産業は下降気味になりますが、最近では縁結びの神社として脚光を浴びているそうです。
平成26年には恋人の聖地にも認定されたとかで、織姫だからでしょうが若いアベック、もといカップルが多く参拝していました。
やや商業主義的な面も感じましたが…。

愛の鐘
鳴らすには鐘叩きを社務所で貰ってから。当然有料「その金を払うのは貴方♪」

愛の鐘横の説明版

足利織姫神社 説明書

織姫神社御朱印

織姫神社オリジナル御朱印帳
これは青色系でもう一つは赤桃色系とペア用か?

昼食は鑁阿寺門前の「めん割烹 なか川」にて

足利名物の蕎麦
その後は市内の鑁阿寺と足利学校を駆け足で見学して、蔵の街栃木へ。
こちらも運河に遊覧船を走らせたり、蔵を改造した店を作ったり、観光客誘致に努めていました。
昔に比べて人も多く、かつての主要産業の繊維や水運は【衰運】に【遷移】していますが、
新たな観光スポットとして復活しつつあるようでした。

国宝鑁阿寺本堂(真言宗)
かつての足利氏の居館に寺院を建てた

史跡足利学校

足利学校

蔵の街栃木を流れる巴波川と塚田記念館
かつては材木をここから途中で川に流れて江戸の木場まで運んだ。巴波川は波が渦巻いていたからだとか。

栃木市メイン通りに並んだ蔵四軒

左は蔵の街栃木の洋風喫茶関根、かつての証券所

洋館関根館にて苺サワーとミルク甘酒

栃木市マンホール蓋
塚田記念館から巴波川を渡った場所に設置。

栃木市マンホールカード 配布場所はこちら
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四半世紀前ながら足利・栃木の概要を記した良書
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【往路】JR横浜(6:15) → JR東京(6:42) → JR上野(6:47) → JR大宮(7:13) → JR小山(7:53→8:27) → JR佐野(8:58→12:39) → JR足利(12:51)
JR佐野駅 → レンタサイクル40分 → 大慈寺

小野寺山 転法輪院 大慈寺(天台宗準別格本山)
栃木県の寺社といえば世界遺産日光東照宮で誰しも異論はないでしょう。唯、東照宮は江戸時代の建立。
しかし下野国が古代には関東仏教の根拠地として確固たる地位を占めていたことは意外に知られていません。
奈良時代末期、中央での政争に敗れた道鏡が左遷されたのも下野薬師寺でした。
先日、「日本の歴史を旅する」を読んでいたら次のような記述が…。
『下野薬師寺の建立に関わったのが河内南部出身で中央でも活躍した下毛野朝臣古麻呂。
東山道の途上にあり陸奥に繋がる交通の要衝だった事が大きい。
また鑑真の高弟だった道忠は下野薬師寺から下野の大慈寺や上野の緑野寺を拠点に東国布教に努めた。』
下野薬師寺は廃寺となり跡を残すのみですが大慈寺は今でも残っている様子。
これは是非とも行かねばと思いつつ、駅から8㎞は厳しいかと思いましたが、
JR佐野駅前にレンタサイクルがあったことを思い出し、晴天の18日古刹へ向かいました。
途中、関ケ原の戦い前夜、真田一族が生き残りを掛け去就を決めた「犬伏の別れ」で【道忠】を北上すること25分。

大慈寺へ向かう曲道にある犬伏新町観音堂

「犬伏の別れ」の説明板

観音堂内には真田の甲冑の展示

大慈寺入口
大きな看板があるが、檀家以外に訪れる人は稀。
小野寺山大慈寺は、行基が開山。道忠の弟子で三代目の廣智上人は鑑真の孫弟子で、
修行中の地元の豪族の子供を当時新興の天台宗の最澄の元へ送り出します。
この子供が10年に亘り唐で修行し日本に密教の経典を持ち帰り、天台宗の基礎を確立した慈覚大師円仁その人でした。
宗教家としての円仁の功績は東国全般に亘り、こちらで大師といえば弘法大師ではなく慈覚大師という位にメジャーな存在。
宗教家としての功績はさておき、入唐した十年間欠かさず付けた記録が『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんらいぎょうき)』
として伝わり当時の唐王朝を知る一級資料。特に武宗による会昌の廃仏は当事者だったこともあり記述は詳細を極めます。
玄奘『大唐西域記』、マルコ・ポーロ『東方見聞録』と並ぶ三大旅行記ですが、長く一部の専門家にしか知られない存在でした。
それを一躍有名にしたのが、ハーバード大学の日本学教授だったエドウィン・ライシャワー氏の研究で、
彼の博士論文になったと記憶しています。

境内の木立と由緒碑

境内の様子

高台から境内を一望

本堂 比較的新しい建築。

慈覚大師堂

開山堂

薬師堂
ここの薬師如来に小野小町が病気の平癒を祈願したと伝えられる。

小町の碑
小町は晩年ここに住んだとされ小野寺山の号もあるが、円仁の遣唐使船に小野篁も乗る予定だった事がこのような話を生んだのかも。

小町伝説

相輪橖
弘仁年間の最澄の銘文が刻まれているが、現存するのは享保十年(1725年)の再建。

相輪橖の説明

大慈寺境内の井戸
開山当時から枯れていないとか。

円仁が修行した奥之院への道

奥之院観音堂
さて大慈寺ですが、山門には慈覚大師修行の寺と看板はあるものの、境内はお墓参りに来たような地元の人だけ。
やはり観光地というにはほど遠い印象でした。
本堂でお参りしていると、住職夫人とおぼしき方が、こっちを見ておられる様子。
不審者と思われてはいけないので、一礼して慈覚大師修行の寺にお参りに来た旨と御朱印をお願いしました。
御住職も出てこられて、もうすぐ出掛ける旨を聞き、間に合った事を感謝しました。
住職「天正(戦国)、弘化(江戸末)と二度の火災で国宝・重文になるようなものは全くなくて…。」
との話でしたが、今に至るまで法灯を絶やさない事がなによりの宝ではないでしょうか。
鉄丈:「ところで円仁研究のライシャワー博士は見えられたのですか?」
住職:「昭和○○年にハル夫人とお見えになり記念植樹をされました」
鉄丈:「えー!」と、免許証の誕生日を見せると、
住職夫妻:「こんな偶然があるのですね。これも仏縁でしょうか」
と驚いて居られました。
ハル夫人が寄贈されたアメリカ人形が本堂に保管されているのを特別に見せて頂き、夫妻が来所された日の事を思いました。
お礼を言って辞去しようとすると、
住職夫人:「よければ是非、これをお持ち下さい。」
と一冊の本を頂きました。見ると円仁所縁の古寺巡礼の本で御住職も執筆されているとの事。
代金を支払おうとすると、「これも仏縁で御座いますから。」と受け取られませんでした。

境内にあるE・O・ライシャワー博士の碑
円仁の「入唐求法巡礼行記」の研究で博士号を取られた。

境内にあるライシャワー夫妻記念植樹のメタセコイア

ハル夫人が近くの保育園に寄贈されたアメリカ人形
後に保育園が閉園するときに寺に納められた。名前はなかったが、ハル夫人からの贈り物なので「ハルちゃん」となった。

今回の仏縁で頂いた書籍

説明書 慈覚大師 円仁 はるかな旅

大慈寺御朱印
昼食は地元で有名な佐野ラーメン。これも中国原産なので円仁も入唐時には拉麺を食した可能性は大、
但し肉食厳禁だからチャーシューは×だったでしょうか。
円仁は日本と唐の懸け橋、ライシャワー博士は日本と米国の懸け橋、
「私は何かの懸け橋になれるだろうか?」と箸で麺を啜りながら暫し考えた次第です。

佐野ラーメン会の「大ちゃん食堂」にて
縮れ麺と醤油スープが特徴。¥650

佐野市マンホール蓋 JR佐野駅前に設置

佐野市マンホールカード 配布場所はこちら
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JR烏山駅 → 徒歩30分 → 太平寺 → 徒歩5分 → JR滝駅(10:30) → JR宇都宮(11:22) → レンタサイクル10分 → 宇都宮二荒山神社 → JR宇都宮
【復路】
JR宇都宮(17:30) → JR小山(18:00) → JR大宮(18:38) → JR上野(19:04→19:15) → JR横浜(19:50)

宇都宮二荒山神社(下野國一之宮 式内明神大社)
烏山で古刹を見た後は県庁に戻って市内散策。自転車で大通りを走っていると通りに面して大きな神社が鎮座。
宇都宮二荒山神社は第十代崇神天皇の第一皇子豊城入彦命が御祭神。社記によれば、
『第十六代仁徳天皇の御代に毛野国が上下二国に分けられた時に御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王が
下野国造に任ぜられ、豊城入彦命を荒尾崎に祀った』
のが始まりと言われています。
神話時代の話ですが、承和五年(838年)に現在の地臼ヶ峰に移されたと記録にあるので
1200年の歴史を持つ古社であることには間違いない模様。てっきり【かんぴょう】年間かと思いましたが…。
下野國一之宮とされ宇都宮の名は「いちのみや」が訛ったものだとか。
移ったから「うつるのみや」ではないようです。
下野一之宮は東照宮か中禅寺湖と思っていたので県庁付近にあると知って驚きでした。

大通りに面して建つ大鳥居

石段先にある神門

神門近影

神門正面にある女体宮(安産の神)

宇都宮 二荒山神社 説明書

二荒山神社御朱印
御祭神は武徳にも優れていたので古くから武将の信仰が篤く、藤原秀郷、源頼義・義家、源頼朝、徳川家康などが
『あとは敵を討つのみや。』と先勝祈願して寄進・改築を行っているそうです。
江戸時代の神領も1500石だったそうですから、ここ一之宮を中心に町が発展したのも頷けますし、
街中に広大な神域を持つことも納得できました。

宇都宮城址公園

大谷石でできた宇都宮教会

旧篠原家住宅
JR宇都宮駅西直ぐにある。後ろの高層ビルが東横インと言うのも凄い。

宇都宮市マンホール蓋

宇都宮市マンホールカード 配布場所はこちら

東武宇都宮駅前郵便局 ; シンボルロード、並木道、市庁舎
宇都宮今泉町郵便局 ; 重文・旧篠原家住宅
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JR烏山駅 → 徒歩30分 → 太平寺 → 徒歩5分 → JR滝駅(10:30)

滝尾山太平寺(天台宗)
以前、益子から宇都宮に昼頃に移動した際、ガイドを見ると烏山線の滝駅の傍に太平寺という古刹が。
早速行こうと思いましたが、烏山線の列車が2時間近くないのでそのときは中禅寺湖に参拝しました。
今回は早朝に出発しての再挑戦。滝尾山太平寺(たきおさんたいへいじ)は、寺伝に拠れば
『延暦二十二年(803年)征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐の大願を祈願し、この地に堂宇を立てたのが始まり』
と言われますが、寺院としては嘉祥元年(848年)慈覚大師円仁による開山となっています。
すぐ前には龍門の滝が流れ、その滝の躍動する力に感じたからでもありましょうか?
中世以降はこの地を治めた那須氏の庇護の元で栄えますが、天正十三年(1585年)には大関高増と那須資晴が
千本資俊・隆継父子をここで忙殺すると言う事件もありました。
天正十八年(1590年)には今度は那須資晴が秀吉の小田原征伐に遅参したため改易となる事態に。
因果応報とは言ったもので、以後領主が短期間に交代する事になり太平寺という名前とは裏腹な【大変時】だったようです。
【那須】術はなかったのでしょうかね。
その間、寛文十二年(1672年)には烏山から信州飯田に転封となった堀親昌が寄進したのが今に残る仁王門です。
享保十年(1725年)には譜代の大久保常春が二万石で入部しようやく安定、幕末まで続きます。
三河武士の大久保家の御先祖は下野の豪族宇都宮氏、墳墓の地に戻ったともいえますが藩政は一向に上向かず
【反省】すること頻りだったとか。
太平寺は大久保家の菩提寺となり境内には歴代の位牌があります。
また川口松太郎の小説『蛇姫様』のモデルと言われる二代目藩主忠胤の四女於志賀(おしか)姫の墓も境内に。
まさか大柄でHeavy姫だった訳ではないとは思いますが。

JR烏山駅ホーム
通常は1駅手前の滝駅が最寄だが今回は終着駅からスタート。

太平寺入口

仁王門 市内に唯一残る楼門。

仁王門から見た観音堂

観音堂 本尊は千手観音菩薩

木立に囲まれた境内

境内にある蛇姫様
境内に入ると、仁王門・本堂始めその迫力に圧倒。
一通り見学の後は御朱印を貰いに事務所と思しき場所に行くと留守の模様。
仕方なく次の列車までの時間、門前の「龍門ふるさと民芸館」で休憩。職員の方に、お寺が留守だった旨を話すと、
職員「もう何年も前から無住になっていますね。」
鉄丈「御朱印を貰おうと思うのですが、この辺りの家の方にお願いできるのでしょうか?」
職員「以前は門前の方が担当でしたが、遠くに引っ越されて。そこまで行って貰うのは大変ですよ。」
鉄丈「だったら、ここに残った人に頼んでいけば良いのに…。」
職員「でもその人は、これは私の役目だからと言って人には譲らないのですよ。」
色々と利害が錯綜して大変なようでした。
いまは無住であっても放火したり物を盗んで行く輩はいないようで【太平時】ではあります。
でも今後の事を考えると、維持するためには周囲の協力が不可欠。
限界寺院にならないためにも【維持】を張っている場合ではない気がします。

龍門の滝
寺の東150mにあり那珂川の支流江川にかかる幅65m、高さ20mの滝。龍門という事は鯉が登ると龍になる!

滝と岸壁
岸壁中段には女釜、男釜という浸食穴が開き男釜には大蛇が棲むという伝説が。

展望台から見た龍門の滝
滝後方にはJR烏山線が走る。

烏山郵便局 ; 山あげ祭り
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奇岩の山上寺で祈願する!(2017.12.17)
<コース> 冬の青春18きっぷ使用
【往路】JR横浜(5:25) → JR東京(5:53) → JR上野(5:58→6:08) → JR大宮(6:33) → JR小山(7:24→7:57) → JR栃木(8:09→東武8:17) → 東武壬生(8:35) → 東武壬生(11:15) → 東武栃木(11:29→JR11:38) → JR岩舟(11:47)
両毛線岩舟駅 → 徒歩20分 → 岩舟地蔵尊
【復路】JR岩船(16:31) → JR小山(16:52→快速ラビット17:03) → 大宮(17:45) → JR上野(18:12→18:25) → JR横浜(18:58)

岩船山高勝寺(天台宗)
両毛線に乗ると途中に岩舟と言う駅があり、駅の向こう側には船の形をした山が見えます。
これが名前の由来かと思っていましたが、調べて見るとその山には古刹がある模様。壬生寺の帰りに足を伸ばすことにしました。
岩船山はその形からの命名ですが、古代には岩肌の出た高い山に霊魂が集まるという信仰があったようです。
大阪の交野市にある磐船神社もそうですが、船という人類が最初に発明した乗り物に対する畏敬の念があったのでしょう。

岩船山を望む 左が船の舳先。右に見えるのが登山道で600の石段、長さ350m、高さ110m。
寺は宝亀八年(775年)、伯耆国大山寺の弘誓坊明源の開基と伝えられますが、次のような縁起が伝わっています。
『生身の地蔵菩薩に人目会いたいと常々願っていた明源は「下野の岩船山に登れば会える」 という夢を見ます。
お告げに従い山に付いた時は日没後、泊めてくれる村人もなく、漸く山腹の草庵に泊めて貰えました。
そこに住む伊賀坊が「月々の18、24日に山に登れば地蔵菩薩を拝める」 と教えてくれたので、
ようやくその日に二人で地蔵菩薩を拝むことができました。
大願成就して国に戻った明源は翌年、岩船山に行きますが草庵も伊賀坊もなく、唯山腹に地蔵菩薩があるのみ。
不思議に思って覗き込んだ明源は、その顔が伊賀坊にそっくりであることに気付き仰天。
初めて伊賀坊が生身の地蔵菩薩であると悟って、その地蔵を祀る堂宇を建て象生済度に尽くしました。』
と言うもの。
地蔵様が人間の姿を借りて現れるというパターンですが、
生き地蔵と言われるような方がここで布教活動されたことを反映しているのかもしれません。
伝説はこのようですが、実際には紫雲山壬生寺は円仁の生まれた場所、奇岩のある岩船山高勝寺は入唐の前に円仁が
祈願に訪れた場所という事で知られています。
以来、子授・安産の地蔵として崇拝され、徳川家光の側室お楽の方は岩船地蔵をいたく信仰し、
その御利益で生まれたのが四代将軍家綱と言われています。

仁王門 寛保二年の建立。

高勝寺境内

高勝寺本堂

鐘楼堂 18世紀の建立とされる。戦時中に供出された梵鐘は平成15年に再興された。

三重塔 栃木県下に三基ある内の一つ。寛延四年の銘があり江戸中期に多くの信者により建立された。相輪頂上まで19m。

岩船山高勝寺 説明書

岩舟地蔵尊御朱印
唯、高勝寺のご住職から伺った話では、円仁の生まれた場所は岩船の近くにある高平寺等諸説あるようですが、
1686年に大名の問いに日光輪王寺門跡が壬生寺と答えて、それを天台座主が認めたのが決め手になったとか。
壬生寺は日光輪王寺の末寺でもあります。
その後の騒動も結局、しかるべきものを相手方寺院に渡して収まったと言いますから、生臭い話ではありますね。

駅前観光マップ 円仁所縁の場所が記載してある。

岩舟郵便局 ; 町名由来の岩船山、町花・コスモス
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
鳥居と干瓢の町にある古刹(2017.12.17)
<コース> 冬の青春18きっぷ使用
【往路】JR横浜(5:25) → JR東京(5:53) → JR上野(5:58→6:08) → JR大宮(6:33) → JR小山(7:24→7:57) → JR栃木(8:09→東武8:17) → 東武壬生(8:35)
東武電鉄壬生駅 → 徒歩15分 → 壬生寺

紫雲山壬生寺(天台宗)
栃木県で巡礼と言えば日光東照宮ですが、古代より関東の仏教圏では大きな役割を果たします。
称徳天皇没後の政争に敗れた弓削道鏡が左遷されたのも下野薬師寺。この地域から後の仏教界を背負う大物が出ました。

東武電鉄壬生駅構内
今日はここがスタート。
平安遷都の年、豪族壬生氏の家に生まれた円仁(794~864年)は若くして仏教に帰依。
9~15歳まで地元の大慈寺で修行したあと叡山に上り、唐から帰朝した最澄に師事します。
20歳で言試 (国家試験Ⅰ種) に合格して得度。838年には留学僧として入唐し、事実上これが最後の遣唐使となりました。
五台山にて修行し最澄が果たせなかった密教の経典を招来。天台密教は事実上ここに確立しました。
没後は朝廷より本邦初の大師号「慈覚大師」が贈られています。
ここ大師堂は江戸時代の貞享三年(1686年)、荒廃した当地に心を痛めた日光輪王寺門跡天真親王の命を受け
壬生城主三浦壱岐守直次によって建立されます。
三年後に奥の細道でここを通った芭蕉の目にも映ったでしょうか?
更に今から106年前の御遠忌には上野寛永寺の旧勧学寮を本堂として移築し壬生寺は産声を上げました。
円仁誕生の地としては新しいですが、紫雲山の山号も慈覚大師の誕生の地として相応しい名を持って来たと思われます。
町名も大師町に変わりました。
唐での9年間は苦難の連続で長安から千キロの道のりを2か月かけて歩いたり会昌の廃仏に会ったりしますが、
その9年6カ月間欠かさず日記を記します。これが「入唐求法巡礼行記;にっとうぐほうじゅんらいぎょうき(全て呉音)」で
当時の唐王朝の様子を知る一級資料。
永く一部の専門家にしか知られませんでしたが、ハーバード大学エドウィン・ライシャワー教授の論文で一躍脚光を浴びました。
後に駐日大使として来日される訳ですから、御本人は【慈覚】されなかったでしょうが仏の【円仁】を感じます。

壬生寺入口
紫雲とは円仁が生まれたときに紫の雲がたなびいたとか言う伝説から。

壬生寺境内

ライシャワー大使の来山記念碑(昭和39年)

壬生寺大師堂
輪王寺の肝いりで建てたそう。

壬生寺本堂
上野寛永寺の旧勧学寮の移築。

日光輪王寺の末寺なので菊の家紋となっている

壬生寺御朱印

壬生城址
藩主鳥居忠英は徳川譜代で近江水口藩より壬生に転封、ジリ貧の鳥居家を建て直す。忠英は伊藤仁斎に師事し、その師弟関係は仁斎の子の東涯まで続いた。転封になった時に持ってきたのが、水口名産だった干瓢(広重の絵にもある)で、以降餃子にその座を明け渡すまで栃木の名産となった。余談だが箱根八里の作詞者鳥居忱(とりいまこと)は壬生藩家老の出身。

壬生郵便局 ;特産ユウガオ、天然記念物の銀杏
壬生中央町郵便局 ;ユウガオ、半月兜、城址碑
[参考書]
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鑁阿ん排して、足利へ(2016.11.23)
<コース> JR東日本 休日おでかけパス使用
【往路】JR横浜(5:25) → JR東京(5:53) → JR上野(5:58→6:08) → JR大宮(6:33) → JR小山(7:24→7:26☆) → JR足利(8:13)
☆階段を渡ったホーム
足利駅(8:25) → 足利市生活路線バス行道線20分 → 行道山バス停(8:45) → 徒歩15分 → 行道山浄因寺 → 徒歩60分 → 大岩多聞院最勝寺 → 徒歩20分 → 織姫神社 → 徒歩15分 → 鑁阿寺 → 足利学校
【復路】JR足利(17:41) → JR佐野(17:54) → JR栃木(18:12) → JR小山(18:23→快速ラビット18:41) → JR小山(19:07) → JR大宮(19:45) → JR上野(20:10)

金剛山仁王院鑁阿寺(真言宗大日派本山)
最勝寺巡礼を終えて市街へ戻ったのが丁度昼過ぎ。
足利は江戸期より続く織物の街ですが、室町幕府を開いた足利氏発祥の地。
八幡太郎義家の息子源義国がここ足利に居館を構え、子の義康の代に足利氏を名乗ります。
その三子の義兼は頼朝の又従兄弟、しかも妻は北条政子の妹という事で鎌倉幕府創設に関わった重鎮でもありました。
晩年高野山に入り剃髪、1196年にかつての居館跡に開創したのが鑁阿寺(ばんなじ)、
義兼の法名法華房鑁阿がその名の由来です。彼の七世孫が尊氏、戦前は逆賊と言われましたが、戦後は復権。
太平記等を読む限り常識的な人間のようで、後醍醐天皇の方が奇人に近い気がします。
三つの幕府の内では室町の一番人気が一番低いとか。
頼朝・家康に比べ所領が少なく大きな権力基盤がなかったのが原因でしょうが、
この時代に今の日常生活の基礎が築かれたのも事実。
「現代の日本を知るには応仁の乱以後を学べば十分である。それ以前は異国の歴史と言っても良い」
と東洋史学者内藤湖南は述べていますが、もう少し目を向ける必要があるのではないでしょうか。

国宝鑁阿寺本堂(大御堂)
建久七年(1196年)足利義兼が建立、本尊大日如来を祀る。御朱印もここ。

境内にある大銀杏
樹齢600年、周囲9.5m。

多宝塔
1692年、徳川綱吉母の桂昌院が再建したもの。

鑁阿寺の参道途中にある足利尊氏像

鑁阿寺御朱印
20数年前は印刷しかなかったので、今回ようやく墨書を拝受。

鑁阿寺解説冊子
市内でそれにも増して有名なのが足利学校。創建については平安の小野篁説、鎌倉の足利義兼説等がありますが、
室町期に上杉憲実が書籍を寄進し学校制度を整えたのが嚆矢と見て良いでしょう。
鎌倉建長寺の僧侶は
「諸国から学徒が集まり学問に励み、野山に働く人々も漢詩を口遊む風雅の一都会である」
と感想を述べ、戦国期のフランシスコ・ザビエルも「日本国最大の学校」とヨーロッパに紹介しています。
「国の基本は何をさておいても教育である」
とは大英帝国の首相の言だったかと記憶しますが、一朝一夕にできないのもまた教育。
黒船来航を通じて日本の民衆の教育レベルの高さに諸外国は驚いたと言いますが、
その原点は足利学校まで遡ることができるのではないでしょうか。
足利学校の終焉はなんと明治5年、長きに亘って貢献して御苦労さまと言いたい気持ちでした。

足利学校入徳門
額は1840年に掲げられたもの

孔子廟前
孔子71代目の孔昭潤氏の御手植えだとか。いまは77代目。

孔子廟
儒学の祖の孔子とその弟子を祀る「釈奠」の儀式の準備中。

復元された方丈と庫裡

足利学校で抹茶休憩 ¥200

足利市マンホールカード A ; 太平記館にて配布
足利市マンホールカード B ;足利 まちなか遊学館にて配布
[参考書]
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室町幕府までの足利氏の歴史が詳細に書かれている
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多聞に悪口は多いわ!(2016.11.23)
<コース> JR東日本 休日おでかけパス使用
【往路】JR横浜(5:25) → JR東京(5:53) → JR上野(5:58→6:08) → JR大宮(6:33) → JR小山(7:24→7:26☆) → JR足利(8:13)
☆階段を渡ったホーム
足利駅(8:25) → 足利市生活路線バス行道線20分 → 行道山バス停(8:45) → 徒歩15分 → 行道山浄因寺 → 徒歩30分 → 大岩毘沙門天 → 徒歩20分 → 大岩多聞院最勝寺

大岩山毘沙門天最勝寺(真言宗豊山派)
行道山浄因寺巡礼の後は、戻ってもバスの便が悪いのでそのまま行道山、大岩山と大岩毘沙門天まで山を縦走。
すると途中で山歩きをされている同年代の地元の方に会い、話ながら道を教えて貰いながらの移動とはなりました。

大岩毘沙門天に抜ける道にある寝釈迦 70㎝位

頂上付近から見た赤城山

頂上付近から見た浅間山
大岩毘沙門天は聖武天皇勅願で行基により745年に開創。
鞍馬寺、信貴山とならぶ日本三大毘沙門と言うことになっています。
お寺は大岩山中にあり、立派な山門と本堂がありますがここも無住。
しかし山を下った所にある大岩多聞院最勝寺(真言宗豊山派)で御朱印を頂く事ができました。
毘沙門天にも日時によってはここから人が行かれるそうで、特に大晦日には 「悪口まつり」 という行事で
大勢の参拝客が見えるとか。一年の鬱憤を晴らすという意味もあるのでしょうかね。
元々は山中が本寺だったのが奥ノ院のような扱いになってしまったのかどうかは分かりません。
多聞天は毘沙門天の別名、古代ペルシアの千の耳を持つと言われる神様ビルシュマーナが起源とも言われています。
そんな耳の多い神様の前で悪口を言ったらさぞうるさかろうと思った事でした。

大岩毘沙門天仁王門

大岩毘沙門天本堂
早朝しか人はいないので、御朱印は下った最勝寺で頂く。

毘沙門天を下った所にある最勝寺本堂
ここの紅葉も見頃

大岩毘沙門天御朱印

お昼は織姫神社境内の蕎遊庵にて十割蕎麦
[参考書]
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霜月に下野の関東の高野山へ(2016.11.23)
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【往路】JR横浜(5:25) → JR東京(5:53) → JR上野(5:58→6:08) → JR大宮(6:33) → JR小山(7:24→7:26☆) → JR足利(8:13)
☆階段を渡ったホーム
JR足利駅(8:25) → 足利市生活路線バス行道線20分 → 行道山バス停(8:45) → 徒歩15分 → 行道山浄因寺

行道山浄因寺(真言宗)
熊野心月堂からの眺め
今年の紅葉も最後かなぁという23日は栃木県。
といっても日光ではなくJRと東武の通っている西部の足利へ。平地の端にあるバスの終点から山道を登ります。
行道山浄因寺(ぎょうどうさんじょういんじ)は、
『和銅7年714年行基により山岳霊場として開創。
その後、足利義満が法徳禅師偉仙和尚を中興開山として七堂伽藍を建立。
「関東の高野山」と仰がれるようになりました。』
唯、お寺は7年前に住職が亡くなり後任が未だ決まらず無住状態。従って御朱印も頂く事は叶いませんでした。
住職の世界でも派遣というのはないのでしょうかね。

バス亭から浄因寺へ続く道

参道が辛い人にはモノレールが便利 午前9時~午後3時運行 ¥500。

浄因寺の境内にて
向こうに見えるのが本坊だが7年前から無住である。
1623年、1886年と二度の火災で堂宇は焼失しますが、ここの見所は県内でも有数の紅葉と境内の絶景。
巨岩の上に立つ「清心亭」とそこに架かる「天高橋」の風景は時代を越えて多くの文人墨客に好まれています。
彼の葛飾北斎が北斎漫画 「下野行道山」 と諸国名橋奇覧 「足利行道山くものかけ橋」 と二度も描いている事からも
その凄さは分かるというもの。その後、修復はあったもののその南画のような雰囲気は健在。
無住のため普段は公開していませんが、この日は地元のボランティアの方々が対応して下さったので
清心亭の内部も見学する事ができました。
巡礼で合掌する際に「自分は何に対して手を合せているのだろう」といつも考えます。
教義、開祖、建造物と色々あるでしょうが、昔から今まで多くの人によって守られてきたという歴史がそうさせるのだろうと、
最近思う様になりました。

境内から見上げた清心亭
9時過ぎなので未だ雨戸が空いていない。

境内から見た天高橋
清心亭に渡るために岩から岩へと架けられた橋。平成5年に復元工事完成。

天高橋を渡り清心亭へ

清心亭内部の様子
丁度、地元の有志の方が開けて下さり中に入れました。

清心亭からの眺望

清心亭から見た浄因寺境内
欄干が低いので注意!

清心亭
文人墨客に好まれた断崖の見晴亭

北斎の「足利行道山雲の架け橋」
巨岩を結ぶ空中橋(天高橋)と清心亭を描く。少し実際と異なる所もあるのは改築か、或は絵画の誇張に拠るものか?

清心亭から見た紅葉

本坊奥にある熊野心月堂付近より
北斎の構図はこの辺りか?清心亭、紅葉と岩肌の調和が美しい。

清心亭と紅葉

名草郵便局 ; 天然記念物名草巨石群、源氏蛍、山茶花
足利北郷郵便局 ; 浄因寺雲の架け橋清心亭、無形文化財・神楽、マンサクの花
[参考書]
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