<コース>
【往路】JR横浜(6:15) → (快速ラビット) → JR東京(6:42) → JR上野(6:49) → JR大宮(7:13) → JR小山(7:53→8:22) → JR岩瀬(8:58)
岩瀬駅前案内所 → レンタサイクル45分 → 真壁町
【復路】JR岩瀬(17:17) → JR小山(18:23→快速ラビット18:41) → JR小山(19:07) → JR大宮(19:45) → JR上野(20:10)

真壁のメイン通りの商家
春の青春18きっぷの最初は水戸線岩瀬駅から南へ11㎞行った先の真壁町。
以前に巡礼した坂東札所の雨引観音から更に6㎞先ですが、
サイクリングコースは整備されています。それもその筈、
このコースはかつて岩瀬から土浦まで走っていた関東鉄道の廃線跡。
廃線の理由は営業成績不振でしょうが、途中に札所があり、筑波山もありですから、
残していればこの辺りの観光も随分違ったものになっていたと思います。

廃線跡のサイクリングコース
向こうの山の中腹に見えるのが雨引山楽法寺。

街中を流れる川での流し雛
神主さんが祝詞をあげているところ。

町内の造り酒屋へ

村井酒造の門前
17世紀創業、「公明」の銘柄。

村井酒造の雛人形

村井酒造の雛飾り
先代夫人が近江から嫁ぐ際に持参したもので内裏様とお雛様の位置が関西風になっている。お酒「公明」とコラボ。

琴は「楽しい雛祭り」

潮田家外観
江戸末期から明治期には関東一円に商圏を持ち「関東の三越」と呼ばれた。

潮田家は真壁の登録文化財第一号でもある

潮田家の雛飾り
江戸期には呉服商をしていたと聞き納得。これだけの飾りつけには数日かかるとか。

潮田家の雛人形
右下は珍しい狆引き官女。

潮田家の大正雛
といって左右対称になっている訳ではない。

町家を改装した案内所

案内所の雛人形とゆるキャラ「まかぴょん」

雛人形のモデルとなった時代装束も展示

旧真壁郵便局
いまは休憩所。

旧真壁郵便局内の雛人形

御陣屋前通りにある店
二階にも雛飾りが。

豪華絢爛たる着物

川島書店

川島書店の内部の飾り

同じく川島書店にて

同じく川島書店にて

伊勢屋旅館
今でも現役で、一泊二食で¥6800。

伊勢屋の中でも展示中

伊勢屋旅館の雛飾り

お昼は伊勢屋旅館で「弥生の風」を ¥1300
真壁は伝統的街並み保存地区としては以前から有名ですが、
ここ十年は町ぐるみで雛祭りのイベントを開催しています。
かつては真壁町でしたが今の行政区は桜川市。
「桃の節句なのに桜川市とはこれ如何に」です。
小さな女の子の居る家では珍しくもないのでしょうが、場所を取る、片付けが面倒等で
お蔵入りになっていることが多い昨今、うまく活用した町興しといえますね。
街中の店には殆ど飾られていますが、圧巻は古い商家の雛人形。
時代が経っても良いものは残る例でしょうか。
普段は人通りも少ない街がこの一月は雛にも稀な賑わいでした。
♪春の弥生のこの良き日誰より嬉しい雛祭り
この歌詞を地で行く一日でした。

田崎人形店

電気店の大木商会


三輪家住宅
大正期の建築でいまも履物を商う。

三輪家内部の飾りびな

佐藤家

佐藤家内部の手作り雛人形

同じく佐藤家

同じく佐藤家

メイン通りの人通り

木村家住宅

西岡本店
天明年間創業で「花の井」の銘柄。奥さんは近江の日野出身で関西弁の遣り取りで盛り上がった。

西本本店入口

西岡本店酒蔵内の雛飾り

苔の上にも三年?


江戸末期からの老舗・橋本旅館

橋本旅館正面
左側は橋本珈琲としてカフェになっている。

橋本旅館内の飾り付
階段を利用。

橋本珈琲にて一服

真壁の中心から北へ向かう

谷口家住宅
真壁の近代を支えた製糸業の家。

道路沿いの旧家

震災の傷跡も生々しい


長屋門

真壁長岡郵便局 ; 加波山たばこ神社のきせる祭り、旗立石の碑
真壁郵便局 ; 雪見灯籠の外枠に登録文化財・蔵、筑波山

桜川市マンホールカード 配布場所は市役所(平日)&真壁伝承館(休日)
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知りたい、歩きたい! 美しい「日本の町並み」: この国の「原風景」に戻れる場所 (知的生きかた文庫) 新品価格 | ![]() |

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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 茨城交通バスは平日・土曜のみ1日4本運転
【往路】JR横浜(6:15) → JR上野(6:17→7:03) → JR水戸(9:00→9:22) → JR常陸大子(10:37)
大子駅前(10:42) → (茨城交通バス) → 蛇穴(11:18) → 徒歩75分 → 日輪寺 → 蛇穴(13:50) → (茨城交通バス) → 大子駅前(14:26)
【復路】JR常陸大子(16:42) → JR水戸(18:02→18:17) → JR上野(20:24→20:34) → JR横浜(21:09)

八溝山日輪寺(天台宗 坂東三十三ヵ所第二十一番札所)
・百里を往く者は九十里をもって半ばとす 『戦国策』
坂東三十三ヵ所も残り1カ所ですが、上記の謂いが相応しい場所です。
江戸時代の坂東札所案内でも江戸から最も遠隔地で、茨城・福島・栃木の県境の八溝山の中腹。
巡礼者には「八溝知らずの偽坂東」と呼ばれたのも故なしとしません。
二番目の遠隔地は中禅寺ですが、中禅寺が明治以降観光地化して行き易くなったのに対し、
ここは、
JR横浜(5:53)~JR常陸大子(200㎞) → バス40分(18㎞) → 徒歩6㎞
と水戸からの鉄道もローカル線、バスも日に4本と行き難いことは折り紙付き。
しかも冬季は閉まるとあっては現代の難所。
鉄道が開通前は歩いて行ったわけですからこちらも先達に敬意を表して冬前の巡礼とはなりました。
終点のバス停の名は蛇穴(じゃけつ)。一体何処へ連れていかれるのかという思いながら目的地まで只管徒歩。
途中森林浴や見晴らしが良い所はあったものの店等は一切なく無我の境地で65分歩いて目的地に到達。

バスの終点
蛇穴という名前もスゴイが、日曜はなしというのもスゴイ。

停留所先にある登山口、林道となっている

この道を4.4㎞歩く(上る)

途中の見晴らし
八溝山は茨木県の最高峰。

途中の道標

続いて札所への道を1.2㎞歩く
八溝山日輪寺(やみぞさんにちりんじ)は、
『673年に役行者が開基、その後の大同2年(807年)に空海が自作の十一面観音を祀り中興したと伝わる。
平安時代以降は修験者を中心に霊場とされ、室町時代には坂東札所としての地位を確立。
文明年間には壮大な伽藍を有する寺院となった。
江戸時代になると将軍家・水戸家から庇護を受けたが、寛永20年(1643年)に焼失。
万治3年(1660年)に再建するも明治13年(1880年)に再び山火事に遭遇、今は僅かな建物を残すのみである。』
とあります。
縁起では江戸時代には諸堂があったが廃仏毀釈や火災で縮小したそうです。
それでも残った訳ですからいかに大事にされていたか分かります。
朱塗りの鮮やかな本堂で御朱印を拝受した後、境内を歩くと古びた建物が。説明書きではこれが旧堂だそうです。
左の本堂の建立前にはここにお参りしていたのではないかと。古くなっても残している所が偉いですね。
行基、空海という宗教界の2大スターが関わった寺、日頃の煩悩を忘れ無心になれということでしょうかね。
帰りは持参したパンを食べながら下山となりましたが、その甲斐あって1本速いバスに乗車。
行は4人でしたが、帰りは私一人と貸し切り状態。
バスの運転手さんの話では、
「ここを流れる久慈川は綺麗な川で、支流にはいまでもカジカ(鰍)や山椒魚が居ますよ。
カジカの骨酒は絶品だし、卵は吸い物にするとプチプチとした食感ですわ!」 との事。
噂では聞いた事がありますが、一度食べてみたいものです。

八溝山入口に到着
いまは車でここまで登れる。

木立の向こうに佇む本堂
1、2月は雪のため閉山。

日輪寺本堂

本堂脇にあるお堂
これが旧堂で手前に掛かっている鰐口は正徳三年(1713年)。

境内にある弁天像

妙にリアルな神馬像

日輪寺御朱印
御住職の書。
駅に戻って、道の駅で遅めの昼食。軍鶏が有名のようです。
その後、本数の少ない水郡線で水戸に向かいましたが、ふと見ると駅舎が日輪寺本堂に似ている事に。
最寄り駅なので似せたのでしょうが、まさか駅でお参りして巡礼を済ますことはないでしょう。
これで目出度く、坂東三十三ヵ所も御朱印帳も満願。
「八溝知らずの偽坂東」と言われる難所でしたが訪れた後は「八溝知ったら痩せバンドが緩い」感じです。

お昼は道の駅奥久慈にて
軍鶏ロースかつ

水郡線常陸大子駅
何となく、日輪寺の色調と似ていると感じるのは私だけ?
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】秋葉原(7:00) → (つくばエクスプレス) → つくば(7:45)
つくばセンター(8:00) → (シャトルバス) → 沼田(8:29) → 徒歩40分 → 大御堂 → 徒歩5分 → ケーブルカー → 筑波山頂 → ロープウェイ → つつじが丘(14:00) → (シャトルバス) → つくばセンター(14:50)
【復路】つくば(15:11) → (つくばエクスプレス) → 秋葉原(15:56)

筑波山大御堂(真言宗豊山派 坂東三十三ヵ所第二十五番札所)
彼岸の二日目、悲願のつくば山詣でに行きました。
西の富士、東の筑波と称賛され古より信仰の対象。
標高は千に満たないですが関東平野の広い場所から見えるという事が根底にあるのでしょう。
「山高きが故に尊からず」 がピッタリくる山です。
雄岳・雌岳があることから古代にはここで歌垣が行われたとか。
端的に言えば古代のナンパですが、そのような開放的な面も人気の所以でしょう。今はないとは思いますが…。
いまはつくばエクスプレスがあるため都内からも直ぐ、しかも「筑波山きっぷ」なるバス・ケーブル込みの切符もありすかさず利用。
関東から手軽に行けるハイキングコースであることが理由でしょうね。
筑波神社までのシャトルバスもありましたが、早く着いたので手前で降りて歩くことに。
時間は掛かりましたが、その分景色を堪能できました。

筑波山口から筑波山を望む

地酒の稲葉酒造の酒蔵
男女川という銘柄で百人一首からの命名。

つくば参道から見た筑波山

道端に咲く曼珠沙華

参道脇にある旧筑波山郵便局

登って来た参道を見返る
筑波山大御堂(つくばさんおおみどう)は、
『延暦年間、法相宗の徳一により開創された古筑波山寺が始まり。その後、空海が入山し知足院中禅寺と号した。
筑波山神社との神仏習合により繁栄し、江戸時代は広大な寺領を有したが、明治の神仏分離で破却。
昭和5年(1930年)に再建された。』
とあります。
徳一上人は関東・東北に多くの寺院を建立した僧侶。
その場所は、人々が崇めるような自然の場所が多く、筑波山を選んだのも頷けます。
納経所では尼僧の方がマスクをかけて一人で対応。なんでも煙草に対する強度のアレルギーだそうで
「喫煙される方は、御朱印帳を渡して外で待って下さい。」との事。
アレルギーを抱えながら御朱印される姿には頭が下がりましたが、他に代わってあげる人は居ないのでしょうか?
筑波山神社に参拝する人は多いですが、大御堂にお参りする人は少数。
歴史のある寺ですがロープウェイが神社の境内横にあることを差し引いても廃仏毀釈は痛手だったようです。
尚、大御堂と寺の名を冠さないのは、ここが文京区の護国寺の別院という扱いだそうですが、
随分遠い別院もあったものです。文京区からも筑波山は見えますが…。

筑波山神社への大鳥居に到着

鳥居前から見た関東平野

大御堂本堂
御朱印はこの左手で拝受。

本堂脇の鐘楼
大御堂の境内は非常に狭く目につく建造物は本堂とここくらいである。

大御堂御朱印

筑波山神社の山門

筑波山神社の山門と本殿
札所参拝の後は山頂まで上り雄岳・雌岳にお参り。
山頂には食事処もありガマの油売りの口上も聞くことができました。
山頂から見渡す関東平野はまた格別。ここが宗教的に崇拝されたのは分かる気がします。
往復はケーブルとロープウェイだったので
・筑波嶺の 嶺より落ちて 捻挫して 疲労積りて 不治となりぬる
とならずに済みました。
これで坂東三十三カ所も三十二ヵ所の巡礼を終了。
残すところは最難関の八溝山日輪寺、山道6㎞の往復が待っています。

男体山山頂

男体山山頂からの眺め

山頂の店での昼食
筑波地鶏丼、要は親子丼。

蝦蟇油の口上
演者は保存会の方。

御幸ヶ原にある男女川源流
百人一首の陽成院の歌で有名。

水源横にある紫峰杉

ブナの大樹。
ブナは橅と書くように柱にも薪にもならないが保水力が著しいので自然界には大いに貢献している。

ガマ石

女体山から男体山頂を見る
初めは男体山(871m)の方が高いと思っていたが、女体山(877m)の方が高かった。蝦蟇はメスのほうが大きいからか、女体が男体に見下ろされるのがイヤなのかは詳らかではない。

女体山頂からの眺め
奥にかすんで見えるのは霞ケ浦。

筑波山郵便局 ; 筑波山、筑波神社、つくばね
つくば田井郵便局 ; 日本の道百選・神郡街道、筑波山マユ、蚕影山神社の灯籠
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】JR横浜(7:27) → JR東京(7:55) → JR上野(8:00) → JR大宮(8:27) → JR古河(8:53)

鍛冶屋通りにある日光街道古河宿道標
奥にあるのは街角設置スタンプ
「新幹線が通っていて停車駅がない県はどこでしょう?」 というわけで、きょうはその茨城県古河に在来線でやって来ました。
先ずは城跡南の長谷寺へお参り。
明観山観音院長谷寺(みょうかんさんかんのんいんはせでら)は、縁起に拠れば
『明応2年(1493年)、初代古河公方足利成氏に拠り古河城の鬼門除けとして建立。
その際、鎌倉の長谷寺より観音を勧進、寺号とした。江戸時代には古河藩主の祈願所にもなった。
日本三大観音と称される所以は、大和、鎌倉、古河の長谷観音は一本の楠由来である事。
大和は楠の元木、鎌倉は中木、古河は末木によって彫られたと伝えられる。』
とあります。
日本三大○○と言う割には他二寺ほど知名度はありませんが、かつて青春時代を過ごした鎌倉を偲ぶために勧進した
というのは十分あり得る話です。真偽のほどはどうなのでしょうか?

JR古河駅からスタート
新幹線停車駅なみの規模である。

明観山 観音院 長谷寺(真言宗豊山派)
古河公方足利成氏により建立。

長谷観音縁起

長谷観音御朱印
古くは萬葉集に詠われ戦国時代は古河公方、江戸期は幕府重鎮の土井家の城下町。
文人墨客を輩出し下総の小京都と言われていますが、見学者は疎ら。完全に首都圏の通勤圏だからでしょう。
足利成氏は鎌倉公方の五代目。父持氏が京都の幕府と関東管領上杉家と対立した永享の乱で敗死した後、
鎌倉公方に就任しますが、またも上杉氏と対立。
30年に及ぶ享徳の乱を引き起こし、ついには鎌倉を引き払い下総の古河に移って初代の古河公方を名乗りました。
伊勢新九郎長氏が伊豆一国を手中に収めたのは成氏の晩年。
その後、長氏は北条早雲と名乗り後北条氏として関八州の統一に邁進します。
父親と違い敗死はしませんでしたが、彼が権力を己に集中しようとしたことが関東地方を戦国時代に突入させた遠因。
生まれながらの貴公子の我儘が下克上を招いたとも言えるでしょうか?
尚、彼の後も古河公方は続き、現在の足利家の当主は古河公方の直系にあたります。
町の見所はかつての城付近に集中しており、変に観光地化せず落ち着いた雰囲気、徒歩で十分見学できるのも魅力です。

古河歴史博物館
旧出城にある。この一体に見所が集中。

城跡の南にある鷹見泉石記念館(旧宅)
古河藩家老で開国にむけ蘭学や西洋事情を集めた。渡辺崋山の肖像画(国宝)のモデルでもある。

鷹見泉石旧宅の家屋近影

旧宅の庭
この裏手には鷹見家子孫の方の家がある。

江戸期~明治の女流南画家奥原春湖旧宅
埼玉県にあったものを死後、故郷へ移築した。尚、河鍋暁斎も古河の生まれ。

煉瓦造りの小学校
古河は煉瓦の家屋が多かった気が。

小学校前の敷石
江戸末期藩主の土井利位(としつら)が雪の研究をして「雪華図説」を書いたのに因む。

篆刻美術館
江戸町通りにあり、かつての酒屋の蔵を使う。

杉並通りにある旧武家屋敷

鍛治町通りにある蔵
駅近くには作家・永井路子さんの生家が。彼女が歴史小説を書くのは古河で生まれた事が【永享】しているのでしょう。
『歴史をさわがせた〇〇』 シリーズは、成氏の生涯に感化されたのか、と想像が膨らみます。
古河は水の郷を活かした川魚料理が売り。鯰は品切れでしたので昼食には鰻を。
萬葉浪【鰻】に【鯉古河】れた街でした。

旧石町にある永井路子旧宅
実家はお茶を商っており古河で旧制女学校まで過ごした。

永井路子旧宅の内部

庭から見た旧宅

横町柳通りにある「武蔵屋」
創業100余年の鰻の老舗で建屋は国有形文化財。この日は開店前だったので次回はここが目標。

お昼は同じ老舗の 「たたみ家」 にて

お昼とはいえ、これで¥1650 はお江戸に比べ断然安い。

食後のデザート

古河の施設を8カ所全部回って押印

入場料は全て込で¥600 と安い
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
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【往路】JR横浜(7:37) → JR東京(8:05) → JR上野(8:10→8:23) → JR土浦(9:32)
土浦駅西口 → 徒歩7分 → 観光案内所「蔵」→ レンタサイクル50分 → 清瀧寺
【復路】JR土浦(17:00) → JR上野(18:05→18:12) → JR横浜(18:46)

南明山 慈眼院 清瀧寺(真言宗豊山派 坂東三十三ヵ所第二十六番札所)
秋一番の巡礼は清瀧寺へ。といっても市内から11㎞の土浦市の北部、周囲は畑でバスもなさそう。
途方に暮れていると運よく土浦駅近くの観光案内所にレンタサイクルがあることが分かり、自転車巡礼を敢行。

駅西口徒歩7分の観光案内所「蔵」
水戸街道に沿って建ち、かつては呉服を商っていた。

途中にある明治37年建築の旧制土浦中学校本館
現在は県立土浦第一高校構内にある。
南明山慈眼院清瀧寺(なんみょうさんじげんいんきよたきじ)は、寺伝に拠れば
『聖徳太子作とされる聖観音を背後のある竜ヶ峰に祀ったのが始まり。
大同年間(806~810年)に徳一上人により山の中腹に移され、更に現在の場所に観音堂が建てられた。』
とあります。
歴史のある古刹である事は間違いないでしょうが、清瀧の名からするとかつては瀧を御神体にでもしたのでしょうか。
自転車で50分。到着して山門を上り本堂横で御朱印を拝受。
境内は新しいですが、なんでも本堂は昭和44年(1969年)に不審火で焼失したとか。
寺院の管理が難しい場所では往々にしてこのような厄災があります。
訊くと、住職は居らず地元の有志の方が交代で対応されているとの事。頭が下がる思いでした。
私の他には1人居られただけですが、「早朝土浦駅から歩いて来られた方が今日の一番でした。」と聞いてびっくり。
札所なので驚くことではないのですが、それにしても朝から11㎞ 踏破するとは、上には上が居るものです。

天保年間(1830~1844年)建築の仁王門
イザナミノミコトが山に鉾を立てたら、清い水が出たのが名前の由来とか。JR土浦駅から11Km、自転車50分。

仁王門を過ぎた石段を上り本堂へ
右は本日の相棒。

清瀧寺本堂
左に有るのが納経所、かつては集落の年配者が交代で対応していたとか。

境内の鐘楼

清瀧寺御朱印
札所付近は小町という字。
なんでも小野小町がここで亡くなったという言い伝えがあるそうで、小町の里という施設もあり観光客も結構いました。
小町のネームバリューは凄いと思ったら、蕎麦を食べに来る人が殆どだとか。色気より食い気ですね。

小町の里入口

小町の里にある水車

里内の百人一首展示

三十六歌仙絵巻を元にした作品

田圃アート
コシヒカリの他、紫大黒、黄大黒、ゆきあそび、べにあそび という稲の品種を植えている。
巡礼後は市内に戻って散策。土浦市はつくばに出張や研修の時に通る程度でしたが、城下町と蔵がある落ち着いた街です。
観光案内所も蔵の改装でした。
霞ケ浦の帆曳き舟も有名ですが、やや観光化した感が。
これは1834年生まれの漁師折本良平が明治13年に考案したとありました。
それが明治35~40年に坂本金吉により八郎潟に伝えられ改良されたという事です。
余談ですが、坂本金吉は坂本九の祖父に当たります。
霞ケ浦と言えば年配の方には
♪若い血潮の予科練の 七つ釦は桜に錨♪
の海軍航空隊が浮かぶと思います。
土浦は10月の全国花火大会が有名ですが、これは海軍航空隊の殉職者の慰霊の為に在籍した山本五十六が地元の
神龍寺の住職に働きかけて始まった(大正14年)とか。今回初めて知りました。
山本五十六元帥は花火で有名な長岡出身、不思議な縁を感じました。

駅前の佃煮(小松屋)での昼食
メニューはこれ一品のみ。¥2700

かつての藩校郁文館正門
いまは市立第一中学の門として使われている。

土浦城址の堀と東櫓門

土浦城址(亀城公園)櫓門

天麩羅保立本店

吾妻庵(日本蕎麦)

蔵「野村」 かつては砂糖を扱っていた。

野村の裏手の喫茶施設

野村の奥にあるレンガ倉庫を使った店にて休憩

土浦市マンホール蓋

土浦市マンホールカード 配布場所はこちら

沢辺郵便局 ; 小町の里
山ノ荘郵便局 ; 清瀧寺山門、筑波山、男女の川、ツツジ
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茨城「地理・地名・地図」の謎 意外と知らない茨城県の歴史を読み解く! (じっぴコンパクト新書) 新品価格 | ![]() |

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【往路】JR横浜(5:25) → JR上野(5:58→6:04) → JR水戸(8:00→8:17) → JR常陸太田(8:51) → 常陸太田観光レンタサイクル → 佐竹寺 → 西山荘 → JR常陸太田(12:00) → JR水戸(12:39) → JR友部(13:19) → JR笠間(13:27) → 笠間観光レンタサイクル → 笠間稲荷・佐白観音 → JR笠間(15:27) → JR岩瀬(15:44) → 岩瀬駅前観光レンタサイクル → 雨引観音
【復路】JR岩瀬(17:17) → JR小山(17:54→18:11) → JR横浜(20:00)

雨引山 楽法寺(真言宗豊山派 坂東三十三ヵ所第二十三番札所 東国花の寺百ヵ寺茨城六番)
サイクリングコースから見た雨引観音
佐白観音の後は水戸線で岩瀬駅下車。16時前でしたが雨引観音までは5㎞程あるので、車でないと巡礼できないかと思いましたが、駅前観光案内所にレンタサイクルがあったので運よく巡礼できました。
駅から南へはサイクリングロードが整備されているので、そこを行けば安全に行けるとの話。この日は三ヵ所共に駅レンタサイクルがあったのも幸運でした。
かつて関東鉄道が土浦から岩瀬まで運行していた廃線跡だそうで観音の最寄には雨引駅があったとか。サイクリングロードを行くと左手の山腹に寺院が見えたので左折。
自転車で行けるところまで上りましたが、最後は急な坂なので1㎞余りは歩くことで目的地に到着。

関東鉄道廃線跡に残るホーム

入口にある薬医門
旧真壁城から移築。
雨引山楽法寺(あまびきさんらくほうじ)は、坂東の札所と言うよりも北関東を代表する桜の名所。
寺伝に拠れば
『用明天皇2年(587年)、中国の梁の出身の法輪独守居士が創建。
天平2年(730年)に聖武天皇・光明皇后が安産を祈願し法華経を奉納、弘仁12年(821年)の大旱魃時には嵯峨天皇が「紺紙金泥の法華経」を書写して奉納するとその効果あって雨が降り勅命により天彦山から雨引山に山号を変更。
その後、建長6年(1254年)には宗尊親王、建武年間には足利尊氏により再興され江戸時代には徳川幕府から寄進を受けた。』
とあります。
南朝の梁の武帝は菩薩皇帝と呼ばれた程の仏教信者ですが、法輪独守居士の開山は多分に伝説的。歴代の朝廷の祈願に対して霊験があらたかだったので、深く信仰を集めるようになったのでしょう。
今は、雨乞いよりも安産・子育てで訪れる人が多いとか。

仁王門

多宝塔

観音堂(本堂)
本尊は勿論観音菩薩で、十九面の孝子の彫刻がある。
北関東を代表する桜の名所ですが真夏なので花はなし。汗だくになりながら石段を上って16時過ぎに境内へ到着。
参拝したあと息せき切って御朱印を御願いするとほぼ同年代の女性が墨書して下さいました。頂いて拝見しましたが「水茎の跡も鮮やかな筆跡」とはこのようなものを言うのでしょう。
こうして茨城の札所巡りは3ヵ寺、雨引観音で幕引きとはなりました。「巡礼楽ありゃ苦もあるさ」ではないですが、猛暑の中の参拝もこの超絶御朱印を頂いた事でそれまでの疲労も吹き飛びました。

雨引観音説明書

説明書裏面

雨引観音御朱印

雨引郵便局 ; 雨引観音多宝塔、マダラ鬼神祭、筑波山
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
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【往路】JR横浜(5:25) → JR上野(5:58→6:04) → JR水戸(8:00→8:17) → JR常陸太田(8:51) → 常陸太田観光レンタサイクル → 佐竹寺 → 西山荘 → JR常陸太田(12:00) → JR水戸(12:39) → JR友部(13:19) → JR笠間(13:27) → 笠間観光レンタサイクル → 笠間稲荷・佐白観音 → JR笠間(15:27)

笠間稲荷神社楼門
佐竹寺に続き笠間市にある佐白観音に向かいましたが、笠間と言えば焼物と笠間稲荷。日本三大稲荷をどこにするかは様々な意見がありますが、関東では笠間稲荷。札所巡礼とはいえ、スルーするのも無礼なので先立ってお詣り。
歩くには駅から少し遠いのですが、ここにも駅前に自転車があり早速レンタル。駅から北へ広い道路を通り旅の無事を祈願しました。
笠間稲荷は別名胡桃下稲荷、かつては周辺が胡桃の森だった事に由来しますが、境内にはその名残か胡桃の古木がありました。昼食は門前の稲荷寿司でしたが、中に胡桃が入っていたのは御愛嬌。胡桃に「来る見」を掛けた縁起担ぎでしょうか?

笠間稲荷拝殿

境内にある胡桃の木

笠間稲荷御朱印

笠間稲荷門前の「二ツ木」にて胡桃入りの稲荷寿司を
笠間稲荷へ参拝の後は札所ですが、これがちょっと分かり辛い。道路に面して寺院へ続く細い石段を見つけた時はほっとしました。佐白山正福寺(さしろさんしょうふくじ)は、佐白山にある札所。
縁起に拠れば
『651年(白雉2年)、猟師の粒浦氏により創建された三白山が嚆矢。建保2年(1214年)に笠間氏により攻められ焼失しますが、後に笠間氏が帰依したことに拠り再建。山号も佐白山に改めます。
寺号も勝福寺から江戸初期には正福寺となりますが明治の廃仏毀釈で衰退。仏像なども散逸してしまいます。現在地に仮本堂が建てられたのは昭和5年の事。』
とあります。
一読しただけで波乱万丈の沿革が分かりますが、境内が狭く建物も質素なのを見ると成程と納得してしまいます。開基も猟師ですから通常の札所とは異質、宗教的な権威により創建したのではなく民衆の信仰が元になったのは確かでしょう。
七転八起ではありませんが、民のパワーが今まで続いた源泉の気がします。

佐白山 正福寺(普門宗 真言宗系単立 坂東三十三ヵ所第二十三番札所)
写真の細い参道を上る。標識の後ろは今日の相棒の自転車。

佐白観音本堂
御朱印はここで拝受。

佐白観音御朱印

笠間郵便局 ; 笠間焼の壺の外枠に重文・笠間稲荷本殿、佐白山、菊
笠間駅前郵便局 ; 笠間焼の壺の外枠に重文・笠間稲荷本殿、佐白山、登り窯
【参考書】
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日本の神社 101号 (筑波山神社・笠間稲荷神社・常盤神社) [分冊百科] 新品価格 | ![]() |

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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】JR横浜(5:25) → JR上野(5:58→6:04) → JR水戸(8:00→8:17) → JR常陸太田(8:51) → 常陸太田観光レンタサイクル → 佐竹寺 → 西山荘 → JR常陸太田(12:00) → JR水戸(12:39)

妙福山 妙音院 佐竹寺(真言宗豊山派 坂東三十三ヵ所第二十二番札所) 山門
夏の青春18きっぷ2回目は常陸へ巡礼。常陸といえば江戸時代は水戸が中心ですが、それ以前の中心は常陸太田。
上野から水戸までの電車は頻繁にありますが、常陸太田に行く水郡線になると1時間毎の運転。当然、列車(非電化)の時刻に合わせての行動となります。
全ての施設は駅から数㎞離れており、しかも方角が異なるので大変でしたが駅前の観光案内所にレンタサイクルがありました。自転車は全部で3台でしたが、8時51分に駅に着き案内所開始の9時に無事借りる事ができました。もう少し台数が多い方が良いですね。

JR水郡線・上菅谷駅にて乗り換え
当地は平安の末より470年間佐竹氏が統治。佐竹氏は八幡太郎義家の弟新羅三郎義光の孫源昌義を祖とする源氏の名門。昌義が祈願寺に寺領を寄進した際に境内で節が一つしかない竹を見つけ、これを奇瑞として佐竹氏を名乗ったと言われます。
その祈願寺が妙福山妙音院佐竹寺(みょうふくさんみょうおんいんさたけじ)。
寺伝では大同2年(807年)徳一の開創とありますが、寛和元年(985年)に坂東巡礼途上の花山院が随行した元蜜上人に聖徳太子作と言われる十一面観音像を与えて建立させたと坂東霊場記にあるのでそちらの方が信憑性が高そうです。
創建当時の名は観音寺で場所も今の北西にあったといいますが、天文12年(1543年)に兵火で焼失したので3年後に佐竹氏18代義昭が現在地に再建しました。佐竹城の鬼門除けとしてであったとされます。
佐竹寺も坂東三十三ヵ所の札所になったとはいえ、明治期には無住時代も経験しています。現在の山門、本堂には古風な雰囲気がありますが、訪れる人も少ないので一層そのように見えるのかもしれません。
本堂に参拝した後は横の庫裏で御朱印を。御願いすると年配の女性が『お婆ちゃん、御朱印ですよ』と声がして90歳を過ぎたと思われる御婦人が矍鑠たる筆遣いで書いて頂きました。

山門の扁額の上にある佐竹氏家紋の扇(五本骨)
頼朝の呼びかけに応じて参陣した際に、家紋のないのを哀れんだ頼朝が『これを家紋にせよ』と持っていた扇を与えたとか。

天文15年(1546年)再建の重文・佐竹寺本堂
関東の寺院は茅葺が多いが、ここの寄棟造は圧巻。

佐竹寺御朱印
佐竹寺は一門の祈願寺ですが、菩提寺は北に数㎞の場所の正宗寺(しょうじゅうじ)。佐竹氏8代貞義の子、月山和尚が開山で境内には一族の墓もあります。
広大な敷地を持つ寺院は有事の際には陣を置くこともできるので、祈願寺と菩提寺を分けたのはリスク分散を考えての事かもしれません。
名門佐竹氏も470年余りの間、上り坂・下り坂を経験しています。秀吉の時代はうまく立ち回って54万石を得ましたが関ヶ原では後手に回って秋田に転封。佐竹氏も関ヶ原の後に【まさか】秋田に行くことになろうとは夢にも思わなかったでしょう。

萬秀山正宗寺(臨済宗妙心寺派)
佐竹氏の菩提寺で、畑の中に広大な敷地を持つ。

正宗寺本堂

本堂正面の扁額

境内にある佐々宗淳(助さん)の墓

正宗寺御朱印
代わって常陸に入ったのが徳川御三家の水戸藩。二代目光圀は隠居を佐竹氏の城下町の常陸太田に決め、西山荘(せいざんそう、”にしさんそう”ではない)を営みました。
テレビや時代劇の撮影ではここがそのまま使われたようで、今もその雰囲気が残っています。
徳川光圀は兄の頼重を差し置いて藩主になった事を生涯に亘り悔いたと言われ、号の「梅里」は史記列伝に由来。光圀の「圀」は則天文字、師は明の儒学者朱舜水と中国の影響を非常に受けた人です。
『大日本史』編纂を始めたのは史書を編纂する中国に倣ったのかもしれません。尤もそのため財政難にはなった様ですが…。

西山荘への裏門
付近の農民がなかに入り易いように配慮したとか。

西山荘遠景

西山荘
ここで大日本史の編纂を始めた。

光圀公の書画
佐竹氏は駅から北へ延びる鯨ヶ丘と呼ばれる高台に築城しましたが、丘の中央の棚倉街道沿いが昔の街の中心で土蔵が並びます。
坂の町と言えば尾道ですが、常陸太田も坂の町、雰囲気は豊後の杵築に似ています。外からの防御には適した地形ですが、町全体の発展には限界があり、そこが近世城下町にならなかった理由でしょう。

十王坂から西を望む
山腹に見えるのは光圀公が生母の為に建てた久昌寺。

郷土資料館
昭和11年に建てられたかつての町役場。建設は地元出身の実業家梅津福次郎から3万5千円(当時の金額)の寄付に拠った。

蔵を使った食事処

門構えはかつての武家屋敷?

明治期の酒造屋

太田名物 「なべや」の粽
光圀公の侍臣儒者佐々宗淳介三郎(助さんのモデル)が大日本史の資料集めのため訪れた北越からの土産の笹団子をもとに作った。何故笹団子としなかったのかは、自分の名字と重なるからか?

常陸太田郵便局 ; 西山荘、水戸八景・太田落雁の碑、梅、雁
常陸太田栄町郵便局 ; 重文・旧制太田中学校講堂
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】JR横浜 快速エアポート成田(5:39) → JR東京(6:09) → JR千葉(6:51→7:15) → JR成田(7:22→7:26) → JR佐原(7:58→8:10) → JR潮来(8:22) → レンタサイクル → 二本松寺
【復路】JR潮来(16:44) → JR佐原(16:55 → 16:58) → JR成田(17:29→18:14) → JR横浜(19:58)
あやめ祭りの後は常陸利根川に沿って北利根橋を渡り割烹清水屋へ。
ガイドブックにも載る安永3年創業の老舗、電話した時には前日採れた霞ケ浦の天然鰻があるとの事でしたが、大きさがまちまちで値段もまちまち。
悩んでいると実物を幾つか持って来て下さったので、それを見て決定。
大きいほど高額なのは当たり前ですが、売れるのも大きいものからだとか。
天然物を食べるのは人生でも4度目ですが養殖とはやはり味が違います。店まで片道5㎞をレンタサイクルした甲斐があったと言うものです。
唯、養殖よりも美味しいかと訊かれると、はっきり分からないのが何とも情けない状態。きっと一生分からずに終わるでしょう。

昼食は安永3年創業の「割烹清水屋」にて
昨日霞ケ浦で採れた天然ウナギ ¥5,600
昼食の後は、あじさいで有名な羽黒山二本松寺へ。
寺伝に拠れば、
『平安初期の天長年間(824年)に慈覚大師円仁により潮来市の茂木に創建し、
建久2年(1191年)に豪族嶋崎氏初代の高幹公が城の鬼門とするために現在地に移転。
その後、佐竹氏、水戸徳川家からも尊崇を受けた。』
とあります。
歴代の世俗勢力の庇護を受けた訳ですが、場所が良かったのと敵対的な態度を採らなかった事が大きかったと思います。
羽黒山、二本松とありますが東北とは関係ないようです。
境内には光圀公御手植えの槙があり、加えて「あじさいの杜」には約1万株の紫陽花が植えられており散策しながら楽しむ事ができます。
潮来といえばアヤメなので同じ時期に咲く紫陽花を植える事で集客効果を狙ったものでしょう。なかなか商売上手です。
拝観後に事務所で御朱印を拝受。小型サイズの御朱印帳で書き難いと思いましたが、
「これくらいの大きさは書くのが楽です。」との事。単なる外交辞令ではなさそうでした。
この時の御朱印は1種類でしたが、今は色々なバージョンが出来ており特に紫陽花時期の限定版が人気なのだそう。
御朱印帳も紫陽花のデザイン。寺院に似合う花は個人により違うでしょうが、各地の花の状況と訪れる人を見る限り、紫陽花と寺の組み合わせはベストの気がしました。

羽黒山 覚城院 二本松寺(天台宗) 入口

本堂
本尊は秘仏薬師如来。

境内にある光圀公御手植えの槇

あじさいの杜にて

二本松寺御朱印

北利根橋上から

「おんな船頭唄」歌碑
常陸利根川を渡った香取市与田浦にある。三橋美智也の最初のヒット曲だが、なかなかヒット曲に恵まれなかったのでキングレコードが春日八郎が歌う予定だった曲を回したという裏話が。

潮来市マンホール蓋

市内の町家では「あやめ祭り」に合わせて内部を公開

着物の展示

屏風と潮来花嫁さん

JR潮来駅スタンプ(千葉支社) と 道の駅いたこスタンプ

潮来郵便局 ; 水郷風景、アヤメ、筑波山
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【往路】JR横浜 快速エアポート成田(5:39) → JR東京(6:09) → JR千葉(6:51→7:15) → JR成田(7:22→7:26) → JR佐原(7:58→8:10) → JR潮来(8:22) → レンタサイクル10分 → 長勝禅寺

♪潮来の伊太郎 ちょっと見なれば♪
水無月最初は「あやめ祭り」の潮来へ。
高校生の橋幸夫さんが着流し姿で颯爽と歌ったのが59年前、
この一節のうしろに「あれぇ?」とつけてザ・ぼんち師匠がMANZAIブームの走りとなったのが38年前
と令和の世からは見ると遥か昔の昭和の話。
しかし潮来という難読名がポピュラーなのも「潮来笠」「潮来花嫁さん」という昭和歌謡のヒット曲のお蔭。
でも昭和30年に美空ひばり主演の映画と主題歌が潮来ブームのきっかけとか。やはり昭和歌謡の女王は一味違います。
昔は産業が少なく、女性は船頭が主な職だったそうで、「おんな船頭唄」「船頭小唄」など哀調を帯びた歌が多いのもそのような背景があるのでしょうか。
50年程前は、歌の通りサッパ舟が水郷の交通手段でしたが、その後衰退して【サッパ】り。いまは観光で再現しています。
アヤメ・杜若は薔薇と違って派手さでは【菖蒲】になりませんが、落ち着いた雰囲気が水無月には相応しいように思えてきます。ほんに潮来はイイタコどした。

JR潮来駅で特急あやめ号到着のお出迎え
あやめ娘とゆるきゃら「あやめ」。ポケットの鳥はヨシキリ。

水郷潮来あやめ園

黄色は杜若、紫は花菖蒲と説明が

前川に架かる水雲橋
このたもとから艪舟が出る。

潮来笠記念碑
どことなく銅像の顔が歌手に似ている気が…。

「潮来花嫁さん」記念碑

嫁入り舟
「潮来花嫁さん」そのままですが、バージンロードの水郷版と言ったところ。今年は5月28~6月26日まで、80組の応募から30組を選んだ。舟に乗るのは花嫁と両親と船頭。乗り場に戻るのは良くないので、丘に上がった後、車で新郎の家に向かう。

艪舟から見た景色
太鼓橋の向こうは思案橋で右に遊郭があったとか。長崎と同じ命名である。
海雲山長勝寺(かいうんさんちょうしょうじ)は市街地にほど近い稲荷山の麓にある寺院。
寺伝では、
『文治元年(1189年)源頼朝が武運長久を願って建立。
本堂は珍しい唐様建築で、本尊は運慶派仏師の作とされる阿弥陀三尊像。
その後、荒廃していたのを嘆いた水戸光圀が元禄4年(1691年)、妙心寺の253世太嶽祖清禅師を迎えて中興開山とした』
とあります。
大楠公の碑を出すまでもなく、光圀公は埋もれたもの、忘れられたものを発掘するのが得意だったようですが、これも『大日本史』編纂を始めた事がきっかけだったように思えます。
余談ですが「いたこ」の読みは徳川光圀公の発案とか。水郷だけに【閘門】さまの出番が必要だったのでしょう。

海雲山 長勝寺(臨済宗妙心寺派) 正門

山門(楼門)
元禄13年(1700年)に水戸光圀の命で普門院から移築された。解体時、柱にお布施をした遊女の名前が多数書かれていたのが見つかったと言う。二重二階門で、入母屋造・杮葺型の銅板葺。

唐様建築の本堂
元禄年間頃の建築とされる。棟上には源氏の定紋「笹竜胆」が。

鐘楼
元徳2年(1330年)の銘にある銅鐘は重文。

長勝寺庭

長勝寺御朱印
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> JR東日本春の乗り放題きっぷ
JR横浜(5:25) → JR上野(5:58→6:04) → JR水戸(8:00→8:18) → JR大津港(9:20) → 徒歩30分 → 六角堂 → JR大津港(12:18) → JR磯原(12:24) → 徒歩15分 → 野口雨情生家 → JR磯原(14:24) → JR水戸(15:17→15:31) → JR上野(17:34→17:41) → JR横浜(18:14)

JR大津港駅舎
六角堂を模した造りに。
雨のために行けなかった北茨城ですが、丁度乗り放題があったのでようやく訪問。
茨城県最北のJR大津港駅で降りて一路海岸へ。アンコウで有名な平潟港から海岸に沿って南下。
大津港の北東に続く海岸線は50mもの高さの断崖絶壁が複雑に入り組み波がぶつかる荒々しい景観が続き、
五浦(いずら)海岸は小五浦など五つの入江があるためにその名が付いたと言われます。

平潟漁港とアンコウの石像
アンコウの吊るし切りはここが発祥とか。

平潟から六角堂へ海岸沿いに移動
そこに建つのが六角堂で、明治38年(1905年)に岡倉天心が自らの思索のために建立したものです。
岡倉天心の業績については種々あるでしょうが、私が習った内容は東大のフェノロサの元で美術史を学び東京芸大の設立に功績があった人物。
この地を選んだのは、各地を見て回った際にここが一番気に入ったからだとか。
天心自身はこの建物を「観瀾亭」と呼んだので宮城の松島を意識していたのでしょう。
形は法隆寺の夢殿と言うのが定説。フェノロサが法隆寺で布に包まれた百済観音を見た衝撃は有名です。
天心の影響で五浦には美術関係者が集いましたが、数年で東京に戻ることになり大正2年(1913年)に天心が没すると事実上終焉となりました。
やはり首都からはなれて【五浦】かったのでしょう。
六角堂も後年東日本大震災で流失し再建と試練に会いますが、
短い間であったと言え、五浦が日本美術史上に与えた影響は小さいものではないでしょう。

六角堂入口
正式名称は茨城大学五浦文化研究所。

六角堂庭園の樹木

天心の旧宅

天心のレリーフ 亜細亜は一つなり

六角堂への道

上からみた六角堂

六角堂正面

六角堂から見た五浦海岸南側

六角堂から見た五浦海岸北側
正面に見えるのは五浦観光ホテル別館大観荘。

六角堂から道路を隔てた場所にある天心の墓所
五浦に続いて磯原に移動。童謡詩人の野口雨情の生まれた場所。彼の生家が保存されており立派な御屋敷。
実家は廻船問屋を営む名家で、水戸藩主も遠出の際に立ち寄り「観海亭」と呼ばれていたそうです。
そう聞くと金持ちの道楽かと思いますが、雨情自身は実家の没落や結婚の破綻などで苦労しています。
雨情の詩は子供向けの優しい言葉が多いですが、それにはかれの境遇が関わっているのかもしれません。
岡倉天心も男爵夫人との恋愛で世間の非難を浴びますが、幸せな家庭環境から芸術が生まれるものではないようです。
荒波と断崖の続く北茨城の地で美術と童謡が生まれたと言うのも不思議な縁を感じました。

磯原にある野口雨情生家前にて
直ぐ左手には子孫の方が経営されている「のぐち歯科」の看板が。

生家入口の門

観海亭と呼ばれた生家と庭園

観海亭横にある生家資料館
生憎、休館のため見学できず。この左手には今でも子孫の方が住んで居られる家がある。

駅に帰る途中にある野口雨情記念館・北茨城市歴史民俗資料館
前の銅像は童謡「しゃぼん玉」。

大津郵便局 ; 五浦海岸と六角堂
北茨城郵便局 ; 七つの子歌碑、二ツ島、野口雨情生家
[参考書]
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茶の本 日本の目覚め 東洋の理想―岡倉天心コレクション (ちくま学芸文庫) 新品価格 | ![]() |

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<コース> 春の青春18きっぷ
【往路】JR横浜(5:25) → JR東京(5:53) → JR上野(5:58→6:04) → JR石岡(7:28→8:05) → 関鉄グリーンバス柿岡車庫行50分 → 柿岡車庫(8:55) → 徒歩40分 → 西光院
柿岡車庫(11:50) → 関鉄グリーンバス石岡駅行50分 → JR石岡(12:40)

峰寺山西光院(天台宗)
青春18きっぷ最終日は生憎の雨模様なので詩人野口雨情の生まれた磯原まで茨城県縦断目指して出発。
先ずは国府のあった石岡市の峰寺山西光院(みねてらさんさいこうじ)へお参り。
ここを知ったのは、風景印の書籍に清水寺のような寺院の図柄があった事。
普通は言った先で、押印して知るものですが、逆の場合もあると言う例です。
大同2年(807年)、法相宗の徳一法師がここ山腹に輝いた岩を見つけ馬頭観音として祀ったのが始まりと【岩】れています。
馬頭観音は慈悲と憤怒を併せ持つ仏様、自然の偉大な力に感動して崇めるというのは古代では普通の事、
【誇大】でも何でもないでしょう。
徳一法師は藤原仲麻呂の子息と言われ関東・東北の各地に20ヵ寺余を開いた人ですが、
自然を上手く利用して人の心を掴む術に長けていたと思えます。
この古刹が建つのは峰寺山ですが、寺ができた後の命名ではないでしょうか。
以来、法相宗、真言宗、と宗派を変え現在は天台宗。
その間、安永6年(1777年)には堂内全てを焼失するという悲運に見舞われますが、寛政3年(1791年)に本堂が【完成】。
この本堂は急斜面の岩に多くの柱を立てる「懸造」或いは「舞台造」と言われます。
一般には京都の清水寺が有名なので、西光院は「関東の清水寺」の異称もあるとか。
バス停終点から山道を3㎞あるき9時前に到着したものの拝観は10時から。
雨中で待つこと30分でようやく拝観。関東の清水寺と言われるだけの事はありました。
晴れた日は遠く鹿島灘や筑波山まで見渡せると説明書にあった懸造の舞台は迫力がありますが雨だったのが非常に残念。
唯、お寺の方の話ではそこ迄は見えないと言う事で「では誰がそんな記事を書いたのか」と言う新たな疑問が湧いてきました。
本堂の裏手には花崗岩の巨石群があり、この岩の続きにある達磨状の自然石が本尊の馬頭観音様(絶対秘仏)だそう。
満願寺奥之院の鍾乳石の観音像と同じく、自然の造形を崇拝対象にしたのでしょう。
ここでは境内写真撮影禁止とあり御朱印を拝受した際にその旨を話すと、気の毒に思われたのでしょうか、
特別に撮影を許して頂きました。まるで雨中で仏に逢った気分です。
帰りも雨脚も強く予定が1時間以上も遅れ、結局磯原には行けずじまい。
まさに雨情の雨ではありましたが、その御蔭で懸造の本堂の撮影もできた訳ですから何が幸いするか分かりません。
茨城県南部の中心は、石岡→土浦→つくば と変遷しており、石岡は土浦と、土浦はつくばと合併したいようですが、
相手方がうんと言わないとか。
栄枯盛衰は仕方がないですが、かつての国府や城下町にはもう少しプライドがあっても良い気がします。
尤もプライドがあっても予算が足りないのが根本的な理由でしょうが…。

懸造りの西光院本堂
濃霧のため視界が効かないが、晴天には霞ケ浦、鹿島灘も見えるとあるが…。

舞台は地上11m

寺院の由来

本堂裏の花崗岩
この右の岩の続きに達磨状の自然石があり、本尊の馬頭観音とされている(絶対秘仏)。

西光院説明書

西光院御朱印

八郷郵便局 ; 峰寺山西光院、町花・ユリ
葦穂郵便局 ; 峰寺山西光院、立木観音像、ハンググライダー
[参考書]
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<コース> 春の青春18きっぷ
JR横浜(5:25) → JR上野(5:58→6:04) → JR水戸(8:00→8:18) → JR東海(8:34) → タクシー10分 → 虚空蔵堂 → 虚空蔵尊入口バス停(9:31) → JR東海(10:20) → JR水戸(10:38) → バス → 偕楽園 → JR水戸(14:00) → JR柏(15:28)

村松山日高寺(真言宗豊山派)
桃の節句の翌日は梅の名所の偕楽園へ。
と言っても観梅だけでは詰らないので少し北まで足を伸ばし東海村の村松山虚空蔵堂へお参り。
伊勢朝熊・会津柳津とならぶ日本三大虚空蔵さん。これで二寺制覇ですが、何故か近場の伊勢が残ってしまいました。
虚空蔵さんと言えば13歳の時にお参りすれば知恵がつくと言われる「十三参り」が有名です。
自分の思った「一字」を書くとか、御参りした後は後ろを振り向かないなどの作法が有る模様。
思えば、自身の十三参りの記憶はないですが、未だ知恵が足りないのはここに原因があるのかもしれません。
村松山虚空蔵堂の寺伝に拠ると、
『大同二年(807年)空海によって創設、平城天皇より「村松山神宮寺」の勅額を賜ります。
この地を巡っていた時に海の彼方から光る老木を引き上げ、等身大の虚空蔵菩薩を刻み安置したのが始まり。』
とか。円仁による開基の伝えもありますが、真言宗なので空海にする方が良かったのでしょうか?
弘法大師に拠る由緒譚ですが、各地のものと【大同】小異の気もします。
中世は常陸の佐竹氏の庇護の元栄えますが、文明十七年(1485年)戦火で焼失。
三年後に再建しますが、明治三十三年再び近所の火災で再び焼失。
本尊以外は灰燼に帰しました。その後、再建されて伽藍は整いましたので一見して立派な建物が目に付きます。

仁王門 昭和四十年再建。

虚空蔵さん本堂 大正三年再建。

本堂の扁額

本堂に続く回廊と事務所 御朱印はここで拝受

三重塔と奥之院(多宝塔)

三重塔

奥之院(多宝塔) 昭和九年建立。

奥之院から本堂と仁王門を見る 緑色の屋根が映える。

虚空蔵さん裏山にある「村松晴嵐」の碑
徳川斉昭公が選んだ水戸八景の意一つ

説明版

虚空蔵さん御朱印
東海村は原子力関連施設で有名。国家プロジェクトですから予算が下りる訳で、駅舎・道路等整備が行き届いています。
近隣と合併しないのもそのためでしょうか。もしかすると虚空蔵さんの再建も国から予算が下りたのかもしれません。
3.11以来原発の問題点がクローズアップされますが、虚空蔵様の知恵をお借りしたいものです。

JR東日本管内のJR東海駅
虚空蔵さんの後は水戸に戻って観梅。偕楽園は兼六園・後楽園と並ぶ日本三名園。
徳川光圀の号が梅里なのもここ由来かと思いましたが、創設は1839年9代藩主徳川斉昭(烈公)の時。
梅を植えたのは非常食のためと言われています。
光圀公の梅里は史記の伯夷・淑斉列伝由来で、弟に位を譲って国を出た故事所縁の地名だそうです。
光圀も兄頼重を差し置いて藩主になったことを生涯に亘り気に病み、若い時は吉原通いなど荒れた生活をしていたそうですが、
史記の記載を見て己の非を悟ったとか。やはり名君と言われるだけの事はありましょう。
尚、兄の息子を養子として水戸藩主に、実子は兄の後を受け高松藩主となりました。

JR水戸駅前の銅像

偕楽園好文亭中門

偕楽園より好文亭を望む

偕楽園梅林

養老

佐橋紅

遅めのお昼は車中で¥1100

水戸市マンホールカード 配布場所はこちら
偕楽園見物の後は常磐線で千葉県へ。同期の案内で手賀沼・白樺記念館を見た後、夕食は駅前のコ・ビアンへ。
ミートを頼もうかと思いましたが、待ち合わせが【かしわ】だったので、親子丼・チキンソテーを注文。
セットでも¥390と破格な値段。学生が良く利用するのも【納豆】くでした。非常に【偕楽】的な充実した1日でした。

夕暮れの手賀沼

親子丼
かつて近所に住んでいた同期のお勧めとか。

チキンソテー これで¥390。

デザート特大プリン¥200
後ろは、青りんごジュース(左)とイチゴジュース
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR横浜(8:29) → JR秋葉原(9:02→9:30) → (つくばエクスプレス) → 守谷(10:03)

正覚山安楽寺(天台宗 東国花の寺百カ寺 茨木第九番札所)
弘経寺に続き安楽寺ですが、安楽寺への道は駅から5㎞程度で上り坂。
自転車ならまさに【くぎょう】と言った所でしたが車なので至って【安楽】。
正覚山安楽寺(しょうがくさんあんらくじ)は、菅原道真大宰府配流の後、次男景行(かげつら)が弟兼茂・淳茂を伴い、
『他所に葬るべし』 という道真の遺志を奉じて任地下総に下向。
そこで大生郷天満宮の別当寺として太宰府安楽寺と同名の寺を延長七年(929年)に創建したと伝わります。
その後、下妻城主多賀谷氏に拠り現地へ移転、その時の住職定海法印を中興開山として山号も正覚寺となりました。
江戸城の鬼門に当たるため慶安年間に天海大僧正により良源が勧進。以後、一躍厄除け元三大師さまとして有名になりました。
又、安楽寺には参道が三道あり、願い事に拠り通る門が異なるとありますが、皆の賛同を得られるのでしょうか。
先に訪れた弘経寺といい徳川将軍家との縁が寺の発展に繋がった訳で、どのようなパトロンを持つかというのが
宗教には肝要なようです。本来は、悩める人を救うような気がしますが…。

安楽寺への階段

安楽寺へと続く杉並木

安楽寺本堂 本尊は阿弥陀如来。

花に囲まれたお堂
今回は蝋梅が咲いていましたが、金木犀、ヤブツバキ、ユキヤナギと花木があり季節ごとに違った味わいを与えてくれます。
その後は、常総市の観光センターを訪問。遅れて合流した同窓と糖分補給と甘無量でした。
同窓にも「御朱印をこれから集め始めたら?」と勧めましたが、中々うんとは言って貰えませんでした。
やはり【常総】教育は難しいです。

境内の蝋梅(狼狽ではない!)

安楽寺御朱印

常総地域交流センター(豊田城)
平成四年に誕生した五層七階建の白で大坂城に次ぐ高さ。尤も戦国時代にこの地を治めた豊田氏の城は茅葺だったが。

センター内に建つ地元出身の長塚節の像

常総市マンホール蓋

常総市マンホールカード 配布場所はこちら

遅めのスイーツは、守谷のCafe De Lapin にて
抹茶シフォン、抹茶パフェ、三種ケーキセット。
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR横浜(8:29) → JR秋葉原(9:02→9:30) → (つくばエクスプレス) → 守谷(10:03)

寿亀山天樹院弘経寺(浄土宗)
応永21年建立の本堂。戦国時代に焼失したものの、徳川三代、特に千姫の帰依を受け再興。天寿院とは千姫の号。
3づくしの平成30年3月3日は雛祭りの本場茨城県へ。
当初は駅から徒歩或はレンタサイクルでの巡礼予定でしたが、守谷市在住の同窓が何と車で案内してくれる事に。
寿亀山天樹院弘経寺(じゅきさんてんじゅいんぐぎょうじ)は、寺伝に拠れば、
『応永二十一年(1414年)、嘆誉良肇(たんよりょうちょう)上人により開設。
上人は芝増上寺の開山聖聡の弟子で名越北条氏の流れの名門です。
その後、ここは浄土宗僧侶の学問所として発展、数々の学問僧を輩出しますが、
岡崎にある徳川家菩提寺の大樹寺の開山がここ出身だった事から徳川家との所縁が出来ます。
10世の了学は徳川家康から信仰を受け、荒廃していた寺を再興し更には家康孫の千姫の落飾の戒師を務めました。
千姫は本堂を寄進し死後はここを菩提所とするように遺言、
寛文六年(1666年)に亡くなった際には遺髪が納められ遺品も寄進されました。
寺に伝わる姿絵は唯一残されたもので、寺号は千姫に由来しています。』
とあります。
有力なパトロンに恵まれ寺も潤った筈ですが、見学した限りではどことなく寂れた様子。
時代の移り変わりか場所柄かは分かりませんが…。

弘経寺開山堂
こころなしか傷んで傾いていたのが悲しい

本堂の欄間彫刻と三つ葉葵

正面から見た開山堂

弘経寺境内の杉(天然記念物)

境内の亀の水盤、蛇口は蛙

弘経寺案内

弘経寺御朱印
弘経寺(ぐぎょうじ)への道は駅からで上り坂。自転車ならまさに【くぎょう】となる所。同窓の絆に改めて感謝した一日でした。
また昼食も地元という事で穴場を紹介して貰うというおまけ付でした。
後で知りましたがここは曼珠沙華で有名だそうで、今回同行して貰った同窓はこの年の秋の彼岸に家族でここを訪問したとか。
当初は彼岸花の場所という事で向かったそうですが、現地に着いて初めて以前同窓と言った寺と分かり、
家族で大笑いしたとメールにありました。

お昼はシルクロードにて 牛肉黒胡椒炒め ¥950
20年前のガイドにも掲載された店。客足は少なく、店の方は「閑古鳥が鳴いて」と仰ったが美味で適正価格。

守谷市マンホール蓋

守谷市マンホールカード 配布場所はこちら

守谷郵便局 ; 名駅百選・新守谷駅舎、町花・山百合、筑波山
水海道郵便局 ; 鬼怒川の豊水橋、釣り人、筑波山
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 春の青春18きっぷ
JR水戸 → JR石岡 → 徒歩10分 → 常陸国分寺

浄瑠璃山東方院国分寺(真言宗智山派)
春の18きっぷ最初は茨城県へ。
早朝に出発したものの、強風で架線にビニールが巻き付いたため、70分足止めと出鼻を挫かれた感じです。
取り敢えず水戸で所用を済ましてから巡礼のため石岡下車。
常陸国分寺は聖武天皇の詔勅で建立された常陸國国分寺の後継寺院に当たります。
かつての国分寺は現在の場所、国分尼寺はその西北600mの場所にありましたが、
いずれも天正年間の佐竹・大掾の兵乱により焼失。
国分寺は慶長年間に近くの千手院の末寺となり再興を果たしますが、国分尼寺は廃寺となってしまいました。
大正年間には千手院と国分寺が合併し千手院は廃寺となり現在の姿になりました。
僧寺・尼寺の両遺構が残っているのは全国でも珍しいそうですが、
これも常陸國が上国として重要視されたからではないでしょうか?
尚、常陸國は親王任国ですので、武家で常陸守を名乗ることはなく、全て常陸介となります。

境内にある常陸国分寺址碑

山門 旧千手院山門を移築

本堂
旧本堂の焼失御、明治43年に筑波四面薬師の一つを移築。

国分寺跡の金堂の場所に建てられた薬師堂
境内には遺跡に加え、都々逸の祖である都々一坊扇歌の堂があります。
その風刺の強い作風から江戸を追放され、姉の嫁ぎ先であるこの地で嘉永五年(1852年)四十八歳で亡くなります。
奇しくも黒船来航の前年で、もし彼が生きていたら秀逸な都々逸を作ったかと思うと残念でなりません。
堂は昭和八年に地元の有志の手で建立されましたが、追放された人の堂を作るなど、その反骨精神も中々【堂に入った】もの。
泉下の扇歌もさぞ面白がっている事でしょう。

都々一坊扇歌堂
都々逸を確立した扇歌堂は、この地で最期を迎えたとか。

扇歌堂説明板

本日の御朱印 墨書ではなく判で押すタイプ
かつて国府があった場所も町ぐるみで雛祭り。
加えてメイン通りには大正期のレトロな建物が並び、お金を掛けずに観光する事が出来ました。
関東六県の中では唯一首都圏からの私鉄乗入れのない茨城県ですが、
弥生の時期には常陸の各地でこのようなイベントがあるようです。
これも雛祭りで有名な真壁に触発されたためかもしれませんが。

石岡のメイン通り
石岡の名前の様に重厚な造りの店が並ぶ。

メイン通りには蔵造の店も

石岡「まち蔵藍」
かつての染物屋「丁子屋」を改装した

石岡「まち蔵藍」に展示された人形

インスタ映え雛

去年話題の対局雛
藤井6段VSひふみん。判定は羽生名人

石岡市マンホール蓋

石岡市マンホールカード 配布場所は「まち蔵藍」

石岡郵便局 ; 初代都々一坊扇歌堂、史跡・国分寺碑、名産・栗
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
旅の初めの鹿島太刀?剣聖塚原卜伝(2017.1.4)
<コース> 冬の青春18きっぷ
【往路】JR横浜 快速エアポート成田(5:39) → JR東京(6:09) → JR千葉(6:51→7:15) → JR成田(7:22→7:26) → JR佐原(7:58 → 8:10) → JR潮来(8:22) → JR鹿島神宮(8:31)
JR鹿島神宮 → 徒歩5分 → 鹿島神宮
【復路】JR鹿島神宮(13:23) → JR佐原(13:44 → 15:56) → JR千葉(17:11→17:21) → JR横浜(18:31)
≪備考≫「青春18きっぷ」以外の次期ならば東京駅から高速バスが本数も多く便利

鹿島神宮(常陸国一宮・官幣大社)
旅立ち或は出陣に先立ち安全を祈る事を鹿島立ちと言いますが、これは鹿島神宮が由来。
私も坂東に戻り、明日からの仕事に先立ち初詣をする事にしたので、迷わず鹿嶋の地へ。
鹿島神宮は、由緒記に拠れば
『常陸国一宮で常陸国風土記にも記述される位の東国屈指の古社ですが、創建は何と神武天皇即位の紀元前660年。
教科書では縄文時代となりますが、それ程歴史があると言う事でしょう。
祭神が天照の甥の武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)という武運の神様。
古代には蝦夷平定の神、藤原氏の氏神として、中世以降は武士の神様として崇拝されました。』
境内を歩いても派手さはなく、凛とした雰囲気が感じられるのはそのためでしょうか。
下総には香取神宮が鎮座して、こちらも古社で鹿島神宮とよく対で語られます。
いずれも水辺の要地にあるので、蝦夷地への軍事拠点と言う位置付けだったのではないでしょうか。
どちらの名も「か」で始まりますがこれも共通の由来のためかもしれません。
因みに常陸とは直道(ひたみち)で、東北方面へと真っすぐに向かう道の事です。
鹿島神宮の奥には祭神が地下の大鯰を抑えているという要石があります。
かつて徳川光圀が掘らせましたが下まで辿り着かなかったとか。
黄門さまも罰当たりなことをされたものですが、それだけ地中深く埋まっているのでしょう。
年末の地震の事もあったので、お賽銭で抑えて暴れない様にしました。

JR鹿島神宮駅から徒歩五分で門前へ

鹿島神宮楼門
寛永11年(1634年)に水戸徳川家初代頼房公が奉納。扁額は東郷平八郎。

鹿島神宮拝殿

鹿島神宮祈祷殿・庁舎 御朱印はここで拝受。年明けなので、企業等の参拝が多かった。

奥ノ院へと続く木立 地元の学生さんがクラブ活動中?

境内にある鹿園 鹿は神宮のお使いである。

一番奥にある要石
鹿島七不思議の一とされ、世俗に地震を起こす鯰の頭を押さえる石として知られる。

奥にある大鯰の碑 武甕槌大神が鯰の頭を抑えている。

鹿島神宮参拝のしおり

鹿島神宮御朱印
今はサッカーで有名ですが、かつては剣術の里。
祭神が武運の神様なので仕える神官が剣術を嗜み室町期に流派が出来ました。
飯篠長威斎が香取神道流を起し、その流れから塚原卜伝が鹿島新当流を大成。
その教えは伊勢国司北畠具教、室町13代将軍足利義輝にも伝わります。
廻国修行3回で一度も不覚を取らなかったと言うと、豪傑を想像しますが、常に周囲に気を配り、
世の流れを見ることに長けた人だったようです。
弟子の北畠具教・足利義輝は何れも非業の最期を遂げましたが、卜伝は83歳という長命で畳の上で死にました。
剣豪に必要なのは力だけではないと言う事ですね。

剣聖塚原卜伝銅像
地元出身の卜伝生誕五百年を記念して鹿島神宮を臨む鹿詰公園に建立された。
昼食は門前の鈴章にて。地元の川魚が有名ですが鯰料理の看板があったので早速注文。
生簀を見せて貰いましたが私の記憶している鯰よりずいぶん大きい。尋ねてみるとアメリカ原産種を霞ケ浦で養殖しているとか。
大陸産は島国より大きく進化するようです。日本の鯰は共食いをするので養殖は困難ですが、この種は草食だそうで大丈夫。
鹿島の新たな名物になればと思いました。鯰料理を食べて念押ししたので、暫くはおとなしくなる事を祈ります。
昼からは千葉に戻って佐原から香取神宮へレンタサイクルで繰り出しましたが、鹿島神宮と違って物凄い人出。
遠くから参拝はできましたが、御朱印は以降に持ち越しとなりました。

昼食を摂った門前の「鈴章」 創業明治三十年。

昼食は鯰の天麩羅と薄造り
天麩羅はアッサリと鱧のような感じ。薄造りは色調は鯉に似ているが、フグを少し柔らかくした感じか。

鹿嶋郵便局 ; 重文・鹿島神宮楼門、鹿島サッカースタジアム
鹿島神宮前郵便局 ; 重文・鹿島神宮楼門、鹿

香取神宮にて 14時過ぎの混雑ぶり。
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20年以前の発売だが、現地取材も含め剣豪の生涯を簡潔に記述している。
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