<コース>
JR東京(6:40) → (やまびこ203号) → JR福島(8:35→8:45) → JR桑折(8:59) → 徒歩10分 → 旧伊達郡役所 → JR桑折(11:49) → JR福島(12:03→12:20) → JR二本松(12:42) → 駅観光案内所 → レンタサイクル → 二本松城下町

二本松奉行所の看板がある駅前派出所
桑折の後は在来線の上りで郡山に向かいますが、二本松で途中下車。
新幹線こそ停車しませんが、岳温泉、安達太良山、高村智恵子の生家を控えた観光地。
しかも江戸時代は十万石の城下町。寛永20年(1643年)に丹羽光重が入部、
以後幕末までの220余年間、丹羽氏が治めました。
始祖・丹羽長秀は柴田勝家と並ぶ織田信長の有力武将。
木下藤吉郎だった秀吉が両者の苗字から一字ずつ貰って羽柴の姓を作ったのは有名な話です。
名将の末裔が統治した町だけあって、昔の街並みや寺院が残っています。
有名な和菓子店もそのような造り。また藩政時代から続く菊人形でも知られますが、
【にわし】だからでしょうか?

御菓子師 「玉嶋屋」
本町にある江戸時代創業の老舗で二本松藩御用菓子。

昭和12年発売の「玉羊羹」
発売当時は「日の丸羊羹」。土産に購入。
そんな城下町ですが、今まで二度悲劇に見舞われています。
最初は天正13年(1585年)の伊達政宗に拠る小手森城攻め。
老若男女は言うに及ばず犬に至るまで殺害されました。その数千人。
この事があってから「独眼竜政宗」の名は四方に轟きました。
もう一つは、幕末の戊辰戦争。福島と言えば会津の白虎隊がすぐに思い浮かびますが、
二本松は会津に攻め入る前の7月29日に新政府軍の攻撃を受け落城。
木村銃太郎率いる12~17歳の二本松少年隊は大壇口の激戦で全滅しました。
新政府軍との圧倒的な兵力・兵器の差は如何ともできなかったようです。
戊辰戦争は東北全体を悲劇に至らしめました。
会津松平家は親藩、鶴岡酒井家は徳川四天王なのでまだ理解できますが、
仙台伊達、秋田佐竹、盛岡南部、二本松丹羽などは全て外様大名。
沈み行く徳川幕府にそこまで忠節を尽くすのは私には分かりませんが、
幕藩体制200年がそのような気風を育んだのでしょうか?
近隣の藩に対する義理立てもあったでしょうが、真面目一途な考えが
却って悲劇を生じるという事を我々は心に留めるべきでしょう。

駅前に建つ少年隊士の像

藩主菩提寺・大鱗寺の御朱印 (平成7年訪問時のもの)
少年隊士の供養塔も境内にある。

福島県流域下水道マンホール蓋 (福島県あだたら清流センターにて)

福島県流域下水道マンホールカード 配布場所は福島県あだたら清流センター

二本松市マンホールカード 配布場所は二本松市市民交流センター

昼食は駅前の二本松交流センター1階の「杉乃家」にて

二本松亀谷郵便局 ; 二本松城跡箕輪門とアカマツ、安達太良連峰
二本松竹田町郵便局 ;二本松少年隊群像、安達太良山
電車を二本待つ程の散策を終えて、郡山の手前の本宮で再び下車。
駅前にて伊藤久男の像に対面。昭和8年のデビュー以来、歌手生活50年。
我々の世代には「あざみの歌」「熊祭の夜」で有名ですが、
福島県出身とは今回初めて知りました。県下では春日八郎と双璧でしょうか?
そういえば「熊祭の夜」作曲の古関裕而も福島県。思わずエールを送りたくなりました。

JR本宮駅前の伊藤久男像
本宮出身の昭和歌謡の歌手。作曲家・古関裕而も福島県の人で、2020年朝ドラのエールの主人公でもある。

本宮市マンホール蓋
今回の訪問の数か月後にカードが発行された。
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JR東京(6:40) → (やまびこ203号) → JR福島(8:35→8:45) → JR桑折(8:59) → 徒歩10分 → 旧伊達郡役所

重文・旧伊達郡役所
会津若松での寺巡礼を明日に控え、この日は郡山泊ですが
1日移動だけではつまらないので、少し足を北へ伸ばして数か所巡礼。
JR郡山駅、福島駅までは東京から新幹線で楽勝ですが、そこから先の在来線が問題。
新幹線は1時間に3本ありますが、在来線は1本か多くて2本。
駅員の方も「本数が減ってしまって…。」と仰っていました。
福島駅から北へ3駅の桑折で下車。行政区では伊達郡桑折(こおり)町。
福島盆地の北部で源頼朝の奥州藤原氏征伐以降、
ここに封ぜられた伊達氏の本拠地となりました。
江戸時代以前の桑折は奥州街道と羽州街道が交わる交通の要衝。
そういえば「こおり」と言う呼び名は古代の評・郡に通じるものを感じます。

説明板

郡役所正面

入口から見上げた2階ベランダ部分

横から見た入口部分

入口
今は在来線しか停車しませんが、桑折町の自慢は旧伊達郡役所。
『明治12年(1879年)に保原村(現伊達市)に設置されたが、
桑折村の有志の誘致活動に拠り明治16年4月に移転、
工費2万5千円を地元が負担し10月に竣工した。
建設には地元の大工棟梁4名が担当し、塔屋を備えた二階建ての擬洋風建築。
この様式の背景には当時の福島県令・三島通庸の方針があったとされる。
郡役所としての使命は大正15年(1926年)に終えたが、その後地方事務所等に使用。
昭和52年には重要文化財に指定され、昭和54年に解体修理が完成した。』 とあります。
宮城の登米や青森の弘前もそうですが、東北地区にも洋風建築は多く残っています。
唯、建築をすべて現地の人が行ったのには驚き。
恐らく見るもの作るのも初めてだったと思いますが、職人技術の高さを感じます。
加えて、これを企画したのが三島通庸。薩摩出身で大久保利通の腹心、
県令として各地を巡りましたが、福島では会津三方道路を強引に推進。
そのやり方から「鬼県令」とまで呼ばれた人間が
一方で地元の誇りともいうべきものを残したと言うのも意外でした。
彼については毀誉褒貶が半ばしますが、己の意思を曲げなかったのは流石。
憎まれることのない人間は大きな事もできないという見本とも言えましょうか?

1階の旧事務室

窓にはステンドグラスが

2階から見た階段部分

桑折町マンホール蓋

桑折町マンホールカード 配布場所は旧郡役所隣の種徳美術館

桑折郵便局 ; 重文・旧伊達郡役所、半田山、新沼
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JR仙台(7:53) → (阿武隈急行) → 角田(8:40) → レンタサイクル50分 → 高蔵寺 → 角田(11:50) → (阿武隈急行) → 福島(12:54→13:00) → (福島交通飯坂線) → 医王寺前(13:18) → 徒歩10分 → 医王寺 → 医王寺前(14:44) → (福島交通飯坂線) → 福島(15:03→16:16) → (やまびこ146) → JR東京(17:48)

瑠璃光山 醫王寺(真言宗豊山派)
阿弥陀堂の後は、阿武隈鉄道で福島まで行き、ホーム向かいの福島交通に乗り換え。
別会社でもこのように乗り換えが楽なのは慣れない人間には大助かり。東京だとこうは行かないでしょう。
終点の飯坂温泉は福島市内というよりも東北を代表する温泉。
東京から手軽に行けることもあって賑わいましたが、最近は昔ほどの元気はない様子。
これは飯坂に限った事ではないようで、浅田次郎さんの説に拠れば、
① 社員旅行、町内会旅行の衰退
② 海外旅行の格安化
が原因だそうです。なにか突破口を見つけないといけませんね。
電車は終点の一つ手前の医王寺前で下車。その名にある医王寺まで徒歩10分。
瑠璃光山醫王寺(るりこうざんいおうじ)は、縁起に拠れば、
『平安時代の天長3年(826年)、弘法大師が開基。本尊には大師作とされる薬師如来を祀り、
地元では「鯖野のお薬師さま」と呼ばれ親しまれている。
十二世紀末にここを治めた佐藤基治が新たに御堂を建て、一族の菩提寺とした。』
とあります。

福島駅にて
福島交通飯坂線の車両

駅から寺へ行く途中の道標

山門前へ到着
真言宗なので密寺となっている。

山門
左が受付

山門脇の大シラカシ
医王寺再興の寛永年間の植樹と言われ樹齢300年。

境内から山門とシラカシを見返る
左の門を進むと本堂

文化3年(1806年)再建の本堂
こちらの本尊は大日如来。
その頃、奥州藤原氏に身を寄せていた源義経が平家打倒の旗揚げをしましたが、
その際に基治は息子二人を義経に従者として遣わしました。
彼らが佐藤継信・忠信兄弟で、主を援けて目覚ましい活躍をします。
兄継信は平家との屋島の戦いで戦死、弟忠信は京都で義経の代わりに討死しました。
悲嘆にくれる兄弟の母・乙和御前を継信の妻・若桜、忠信の妻・楓は甲冑を身にまとって夫の勇姿を装い、
母を慰めたと言われます。
義経も二人の忠義に感じ、平泉に逃れる途中父基治の元に立ち寄り遺髪を埋めて追討の法要を営んだと言われます。
医王寺が今に至るまで、参拝者があるのは忠臣佐藤兄弟の菩提寺が故。
1689年5月2日、松尾芭蕉も奥の細道の途中に訪れてこの話に感動して泪したのは有名です。
また「弁慶の笈や義経の太刀」を宝物として見たと記しています。この時、詠んだ句が
・笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟
義経からは500年経ていますが、この頃には義経主従の伝説で観光地となっていた事が分かります。
今も本堂には二人の勇姿の人形が祀られていました。
松尾芭蕉の作品には、木曽義仲・源義経・佐藤兄弟と敗者に対する好意的な眼差しが見られます。
幼い頃から仕えた主君が夭逝して出世街道を歩めなかった芭蕉は、彼らに自身を見たのかもしれません。
歴史は常に勝者の歴史ですが、芭蕉の様な人物が別の一面を後世に伝えているともいえましょう。

医王寺本堂内
義経から息子継信・忠信兄弟の死を知らされた母親の乙和御前に対し、嫁の若桜(右)と楓(左)が甲冑を身に纏い慰めた故事に因む。

医王寺境内の義経と佐藤兄弟像

境内にある芭蕉の句碑
・笈も太刀も 五月にかざれ 紙幟

佐藤基治、乙和御前夫妻の墓前の傍らにある乙和の椿
不思議と蕾のまま開かずに花が落ちるので、乙和御前の悲しみが乗り移ったと言われる。

木立の奥にある薬師堂へ向かう

鯖野の薬師堂
飯坂温泉を発見した鯖野新王と言う人を祀ったことが由来。

薬師堂近影
本尊は薬師如来でその別名「大医王仏」が寺号の由来。

医王寺説明書

医王寺御朱印

飯坂郵便局 ; 十綱橋付近の温泉街、吾妻小富士
平野郵便局 ; 医王寺山門のシラカシ、芭蕉の句碑、サクランボ、モモ、リンゴ
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JR郡山(6:53) → JR会津若松(8:08) → レンタサイクル40分 → 勝常寺 → レンタサイクル40分 → 七日町地区 → レンタサイクル60分 → 伊須佐美神社・浮身観音 → JR会津若松(18:12) → JR郡山(19:29)

道樹山 龍興寺(天台宗 会津三十三ヵ所番外札所)
一之宮から若松市内への帰路、会津三十三ヵ所と言う案内板に惹かれ、どのような所か確認がてら拝観へ。
道樹山龍興寺(どうじゅさんりゅうこうじ)は嘉承元年(848年)、慈覚太子円仁の開基とされる古刹。
それよりも徳川家康のブレーンだった天海大僧正所縁の寺として知られています。
彼の幼名は兵太郎と言い、漆原と永井野の村境、字浮目の地で一寸八分の観音像を感得。
この寺で随風と言う名で得度したと言われます。
彼はのちに家康のブレーンとなりますが、感得した観音像は母の元に留め置かれ、
永禄二年(1559年)に建立された持仏堂に収められたとか。
持仏堂は浮身堂或いは八葉堂と呼ばれていますが、これは観音像を見つけた場所に由来するのでしょう。
以来、皆の信仰を集めていますが、記録には天海僧正との関係を裏付けるものがなく伝説の域の話の可能性大です。
円仁は平安期ですが、戦国・江戸期に活躍した天海大僧正にこのような話があるのは当時の【龍興】だったのか、
今後の【天海】に目が離せない所です。

浮身観音略縁起

浮身観音堂

浮身観音堂御朱印

来た道を引き返し会津若松駅へ

洋風のJR七日町駅舎

駅舎内の案内所で休憩
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JR郡山(6:53) → JR会津若松(8:08) → レンタサイクル40分 → 勝常寺 → レンタサイクル40分 → 七日町地区 → レンタサイクル60分 → 伊須佐美神社 → JR会津若松(18:12) → JR郡山(19:29)

伊佐須美神社(岩代國一之宮 陸奥國二宮 会津総鎮守)
市内で昼食を終えた後は、一之宮へ参拝。只見線会津高田駅から徒歩15分と便利そうですが只見線が曲者。
一度降りると数時間来ないこともザラなので再び10㎞を自転車行脚。
【タダ見せん】と言う路線名のせいとは思いませんが、余所者にとってはもう少し公共交通機関に理解があっても良いのではないかと痛感します。
伊佐須美(いさすみ)神社は会津盆地南の宮川沿いに鎮座する陸奥國二宮、会津総鎮守。社伝では
『第十代崇神天皇の御代、東北巡撫に派遣された四道将軍親子がここで再会した事を喜び、
伊弉冉諾(イザナギ)尊・伊弉冉(イザナミ)尊を越後県境の御神楽岳に祀ったのが始まり。
その後、欽明天皇十三年(552年)に現在の高田の地に遷御。今に至る。』 とあります。
それ以上の記載はないですが、川沿いに港(津)があり、そこで会ったから「会津」になったのでしょう。
「アイツが来た!」とか「姿を見て合図を送った」といった事ではないようです。
崇神天皇はさておき、この地には大和王権に特有の前方後円墳もあり、
畿内の勢力が早い時期にここまで浸透してきたのは史実と考えて良いでしょう。
現在、会津には郡山から入るのが一般的ですが、
当時は日本海から越後経由で川を遡上して入った可能性が高いのではと思います。
伊佐須美の文献登場は承和10年(843年)、以来1200年近く会津地方を見守ってきた事になります。
社務所で御朱印を拝受すると、非常に珍しい書体で「伊佐須美」と墨書して頂きました。
始めは驚きましたが、後で見ると「いかすね」と言った【漢字】です。

JR会津高田から南に向かうと神社の杜が視野に

鳥居

楼門

仮社殿
本社殿が焼失し、その跡に建つ。

伊佐須美神社御朱印
社殿が焼失して仮社殿だったのは残念ですが、境内には自然林が保たれており古代の香りを感じる事ができました。
その中で、印象に残った樹木が二つ。
淡墨桜の横には和歌があり「容保」とあります。幕末、火中の栗を拾ったばっかりに新政府軍に攻められた悲劇の藩主です。
徳川慶喜等に比べて政治力がなかった事は否めません。
が、職務を必死で全うしようとした人間が馬鹿を見るのは良い社会とは言えないでしょう。
もう一つは秩父宮妃御手植えの松。
秩父宮勢津子妃は松平容保公の孫ですが、戊辰戦争で新政府に睨まれたため華族に列せず平民のまま。
しかし秩父宮に嫁いだことで会津の復権にようやく陽が当たることに。
【まつだいら】までの朝敵の汚名を返上することを【勢津】に願って居られたでしょうから望みは叶えられた訳ですね。

薄墨桜
楼門そばにあり明神ヶ岳からの遷座以来の神木とされる。

薄墨桜脇にある松平容保公の和歌

天然記念物・飛竜の藤

藤の説明

天海僧正手植檜
母親の病気平癒祈願とされる。

縁結びの紅葉

秩父宮勢津子妃御手植えの松
[参考書]
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JR郡山(6:53) → JR会津若松(8:08) → レンタサイクル40分 → 勝常寺 → レンタサイクル40分 → 七日町地区 → レンタサイクル60分 → 伊須佐美神社 → JR会津若松(18:12) → JR郡山(19:29)

瑠璃光山 密蔵院 勝常寺(真言宗豊山派)
昨年11月末の会津行では時ならぬ積雪のために三ヵ寺巡りが二ヵ寺に。
会津は12~3月は拝観休止が多いので漸く4月になって残り一ヵ寺を巡礼。
といっても場所は会津若松市ではなく駅から北に7㎞程の湯川村。駅から遠い上に電車バスも少ない。
という事でお定まりのレンタサイクルになりましたが、天気は快晴で気温も上々、絶好の巡礼日和となりました。

鶴ヶ城の桜は満開の時期

白虎隊と赤べこの見送りでJR会津若松駅からレンタサイクルスタート

このような道を7㎞
但し盆地内なので起伏はない。
瑠璃光山密蔵院勝常寺(るりこうざんみつぞういんしょうじょうじ)は大同2年(807年)、或いは弘仁元年(810年)の開基。
東北を代表する古刹で開山は法相宗の碩学徳一上人。
徳一は南都興福寺の学僧で布教の為に会津を訪れ平安初期の807年に慧日寺を創設するなど仏教文化を広めた功労者、
当時の新興宗派だった最澄や空海と大論争をした事でも有名です。
両者と論争を繰り広げた位なので学識があったのは確実ですが、
その後、最澄・空海が天台・真言の開祖となった事や、徳一が体制派だった事などで歩が悪くなった感は否めません。
彼自身も藤原仲麻呂の息子と言われますが確証はなく、その知名度と共に生涯も謎に満ちています。
徳一が何故この地に勝常寺を作ったかについては次のような寺伝が。
『会津地方は魔物の所業により霧が立ち込め、作物も実らず、人々は病気に苦しめられた。
朝廷は人々を救うために弘法大師をこの地に派遣。
魔物を退治した弘法大師は薬師像を五体造り会津の東西南北と中央に祀ろうとしたが、大師は開眼直前に命により帰都。
後を徳一上人に任せたので上人は五ケ寺を造り薬師を祀った。その中央にあるのが勝常寺で会津中央薬師と呼ばれる。』
論争した相手に任せる程、空海もお人好しではないでしょうから、これは恐らく作り話。
磐梯山は806年に大噴火を越しており、それが直接のきっかけになったとは十分考えられます。
磐梯山噴火後の困窮を救うために徳一が寺を建立したという事実が反映されたものでしょう。
弘法大師を持って来たのは、仏教界のスターにあやかりたいと言う庶民の願望でしょうか?
今でこそ、会津の中心から外れていますが、当時は丁度盆地の中心地。全体を見渡せる状況が重視されたのでしょう。
境内に入ると正面に重文の薬師堂が。
平安期ではありませんが室町初期に葦名氏家臣富田祐持により再建された歴史的なもので見ごたえ【重文】。
それよりもここには本尊・薬師如来と脇立の日光・月光菩薩と国宝の仏像が3点もあります。
京都・奈良では驚きませんが、都から遠く離れた会津の地で、このような仏像に対面できるとは思いませんでした。
【しょうじょうじ】の狸に化かされたのでもなく、まして【密蔵】していたのでもない正真正銘の天平仏でした。
生き度もの戦火を潜り抜けて、これらを守り通した人々の信仰の力を改めて感じます。

かつての金堂跡から見た仁王門

仁王門奥にある重文・薬師堂
かつての講堂の位置にあり室町時代の再建。寄棟造で、元茅葺だったが昭和39年に銅板葺となった。

薬師堂の扁額

仁王門の西側にある本堂(正面)と本坊(右手)
仏像拝観と御朱印は本坊に申し出る。

本坊と境内の桜

境内の桜も満開

境内にある土井晩翠ウォーナー碑
太平洋戦争中、米軍爆撃から勝常寺を守ったと言われるが…。

勝常寺説明書

勝常寺国宝仏説明(湯川村パンフレット)

勝常寺御朱印
拝観後は市内に戻り七日町で昼食。七日町は商家が軒を連ねる町。喜多方にも劣らぬ蔵の街と言えそうです。
現在の会津若松は鶴ヶ城の城下町として中世以降に発展、若干山手にあるのは城の防御のためでしょうか。
ついでに城内を散策。今回、城巡りは予定していませんでしたが、桜も満開とあって思わぬ花見となりました。

鶴ヶ城の遺構 御三階
JR七日町駅東の阿弥陀寺境内にあり本堂として使用された。

昼食は桂林寺通りの「もちカフェ 七日町茶房 結」にて

会津湊町に受け継がれる伝統料理「豆腐もち」

七日町には大正浪漫調のレトロな街並みが多い
昼食の向かいにある味噌・田楽「満田屋」と会津天宝醸造㈱

いよいろ鶴ヶ城へ

鶴ヶ城天守閣

天守閣下の桜

石垣付近の桜


堀の桜
[参考書]
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安積疎水物語;明治の史跡、グリーンカレーとフルーツ王国(2017.11.25)
<コース>
JR磐梯町駅 → JR郡山駅 → レンタサイクル → 如寶寺

高嶽山如寶寺(真言宗豊山派)
左から観音堂、光明殿、大本堂
恵日寺巡礼を終えて郡山に戻ると昼過ぎ。昼食のあとはレンタサイクルで市内を散策していると、立派な構えが視界に。
高嶽山如寶寺(こうがくさんにょほうじ)は市内最古の寺院。
縁起は古く、807年に土地の虎丸長者が平城天皇から馬頭観音を賜り祀ったのが始まり。
その後も、後三年の役で兵火に会うも郡山の発展と共に歩んでいます。
境内には石卒塔婆を始め遺跡がありますが、古刹の匂いが少ないのは周囲が開けて広々としている事、
建物が綺麗に維持されているからでしょうか?

郡山市内最古の如寶寺
道路から山門を望む。手前にあるのは庭園隈上苑。

大本堂
本尊は金剛界大日如来坐像。

大本堂の扁額と欄間

如宝寺書院
白河の迎賓館(陽春館)を移築。いまは法事等で使用

如寶寺説明書

如寶寺御朱印
郡山は明治に入り、水不足を解決するために猪苗代湖から水を引き(安積疎水)、合わせて田野も開墾。
そのとき明治政府が雇ったオランダ人技師の影響もあったのでしょうか、市内には洋館が目立ちました。
「白河以北、一山百文」 と新政府からは見下された東北地方ですが、
地元民には「中央なにするものぞ」という気概があったのかもしれません。それが今まで守られているのにも感心しました。
疎水を計画したのは初代内務卿大久保利通。冷徹な政治家ですが、国の将来を見据えての事だったと思います。
志半ばで凶刃に斃れますが、死後は莫大な借金が残ったとか。
政府からの予算が足りない時は私財を使ったと言われています。
西郷隆盛とは袂を分かちましたが、「子孫の為に美田を買わず」の精神は同じと言えましょう。

麓山公園の滝
明治15年に完成した安積疎水の分水路から引かれた。

郡山市開成館 明治7年建設の擬洋風三層楼。区会所、宿泊施設等を経て今は記念館に

郡山市マンホールカード ; 郡山市開成館にて配布

安積歴史博物館
明治22年の旧安積中学の本館で今は市が管理。朝河貫一、久米正雄、中山義秀等を輩出。卒業生で芥川賞3名は国内最多。玄侑宗久氏もここのOB。記念館の玄関は開智学校、登米小学校と共通の印象を受ける。

最初にできた金透小学校の記念館

郡山公会堂
大正13年に郡山市制施行の記念に竣工。中之島公会堂を模したと言われる。

お昼は郡山でグリーンカレー¥1200
歌手のグリーンに肖って。店によりバージョンが異なるが緑はホウレンソウなのは共通。

帰りの「やまびこ」まで駅の内山製作所cafeにて フルーツ王国らしくあっぷるしなもんパンケーキ ¥1024
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会津磐梯山が仏都んだ話(2017.11.25)
<コース>
JR郡山駅 → JR磐梯町駅 → 徒歩15分 → 史跡慧日寺跡&恵日寺

慧日寺へと続く道
♪エイや~会津磐梯山は宝の山よ♪
福島県三日目の25日は仏都会津の発祥の地、磐梯町の慧日寺(えにちじ)へ。
地図で見ると史跡慧日寺跡とすぐ横に恵日寺と似た名前が並んでいますが一体どちらが本物なのでしょうか?
慧日寺は平安初期の807年に法相宗の僧・徳一により創設されたと伝わります。
徳一は南都興福寺の学僧で布教の為に会津を訪れ、慧日寺の他に勝常寺、柳津円蔵寺を建立するなど
仏教文化を広めた功労者、当時の新興宗派だった最澄や空海と大論争をした事でも有名です。
両者と論争を繰り広げた位なので学識があったのは確実ですが、
その後、最澄・空海が天台・真言の開祖となった事や、徳一が体制派だった事などで歩が悪くなった感は否めません。
彼自身も藤原仲麻呂の息子と言われますが確証はなく、その知名度と共に生涯も謎に満ちています。
徳一が何故この地に寺を作ったか?
ここは北東に磐梯山を控えた地。活火山の磐梯を望む山岳信仰が根底にあった事は確かでしょう。
磐梯山は慧日寺開基の前年806年に大噴火を越しており、それが直接のきっかけになったとは十分考えられます。
この地域の伝説では
『この地方は魔物の所業により霧が立ち込め、作物も実らず、人々は病気に苦しめられた。
朝廷は人々を救うために弘法大師をこの地に遣わし薬師を祀ったが、
大師は開眼直前に命により帰都したので、後を徳一上人に任せた』
というもの。
論争した相手に任せる程、空海もお人好しではないでしょうから、これは恐らく作り話。
磐梯山噴火後の困窮を救うために徳一が寺を建立したという事実が反映されたものでしょう。
弘法大師を持って来たのは、仏教界のスターにあやかりたいと言う庶民の願望でしょうか?
徳一の見込みは当たり、彼の死ぬ842年には寺僧300、子院3,800を数えるほどの隆盛となりました。
その後は幾度も兵火に巻き込まれて復興衰退を繰り返し明治2年に廃寺となり、明治37年に復興となります。
復興後の寺名は恵日寺で、かつての伽藍があった場所は慧日寺跡として史跡扱いになっています。
慧日寺跡では復元された中門や金堂を見学。
いずれ本尊も設置する予定だそうで、駅前の工房では仏像が作製されている御姿を間近に見ることができました。
慎重に製作されて居り、間違っても【工房も鑿の誤り】とはならないでしょう。
この日は30㎝を越える積雪で、除雪をしながらの巡礼。12~3月は拝観中止とは言え、もう少し【ええ日時】を選ぶべきでしたね。

朝8時台の参道の除雪作業

参道左手にある恵日寺本堂(真言宗豊山派)
旧慧日寺本坊で元禄年間の建立。徳一が開基の慧日寺は廃寺となったが、明治37年に恵日寺として復興。近世の慧日寺と法灯を伝えている。御朱印も拝受。

慧日寺史跡
開館4月1日~11月30日、時間9:00~17:00。右の建物が受付だが除雪が追い付かず拝観は後回しに。

説明版

史跡慧日寺跡
明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、平成20年になってかつての跡に金堂(右)を翌年中門(左)を復元。今は宗教法人ではなく町が管理する史跡扱い。

慧日寺中門

中門のカエル股

金堂屋根裏

金堂内部
このように本尊を納める予定。

復元に使用した機材
赤色;弁柄+漆、 緑色;緑青+漆、 釘;竹製

JR磐梯町駅前の工房にて製作中の阿弥陀如来像
東京芸大薮内教授(せんと君作者)研究室が中心となって復元中。平成30年8月には納める予定。

史跡慧日寺跡のパンフレット

恵日寺御朱印

磐梯郵便局 ; 磐梯山、慧日寺資料館、徳一廟五重石塔、町花・竜胆
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観音とソースカツ丼に「ころり」(2017.11.24)
<コース>
JR七日町(13:10) → JR新鶴(13:39→13:57) → JR根岸(14:01) → 徒歩10分 → 中田観音 → 徒歩40分 → 下荒井(15:20) → バス20分 → JR会津若松

普門山弘安寺(曹洞宗)
一日6本の只見線で会津若松に戻って市内を散策した後は、午後の只見線で仲田観音まで巡礼。
普門山弘安寺は1279年(弘安2年)に建立され年号で弘安寺と称されますが、中田観音の呼び名の方が有名です。
本尊十一面観音菩薩は土地の長者江川常俊が娘の菩提を弔うために鋳造、運んでいる途中で牛が動かなくなったこの地に観音堂を建てたと言われます。
伝説では娘は恋煩いで亡くなったとの事ですが御利益は恋愛成就ではなく、ころり信仰。
観音経で言う貪・瞋(しん;怒り)・痴の三毒を巡礼に拠って消滅させて貰いやがて安らかに極楽往生するもの。
ころりとは突然死ではなく安らかに死ぬ事と初めて知りました。野口英世の母シカも息子の火傷の治癒と立身出世を祈願されたとか。
博士のその後の活躍を見ると願いは【シカ】と実を結んだ事になります。高齢化社会ではこのような晩年は理想でしょうが、なかなか難しいのが現実です。
私も御参りしましたが鳥追観音だけは巡礼できずじまい。三毒の内、二毒は消滅できたでしょうが、残りの一毒は戒めとして心に留めなければと思った次第です。

只見線七日町駅 無人であるが駅内に土産物屋店とカフェが入っているので便利。

只見線根岸駅から徒歩10分で中田観音に到着

中田観音本堂 改修工事の為、御本尊は拝観できず。御朱印は左の仮本堂?で拝受

本堂の前屋根

中田観音御朱印

新鶴郵便局 ; 中田観音、町花・菊、吹上公園テニスコート
北会津郵便局 ; 白山沼、イトヨ、ゲンジボタルマスコットのピカリン
若松七日町郵便局 ; 郷土玩具・赤ベコ、元鶴ヶ城内の御三階
若松本町郵便局 ; 市花・タチアオイの外枠と花、鶴ヶ城、若松城下発祥の地標柱

会津若松市マンホールカード ; 会津若松市役所にて配布

夕食はJR会津若松駅前のまるたか食堂にて 会津若松B級ぐるめのソースカツ丼¥1000
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
会津ころり三観音その一(2017.11.24)
<コース>
JR郡山(5:55) → JR会津若松(7:09→会津バス7:25) → 坂下営業所(8:10) → 徒歩20分 → 立木観音 → 徒歩20分 → JR会津坂下(9:55) → JR会津若松(10:34)

金塔山恵隆寺(真言宗豊山派)観音堂
会津といえば、幕末の戊辰戦争・白虎隊と明治期の艱難がすぐに思い出されますが、意外にも東北地方の仏教発祥の地。
会津と言えば柳津の虚空蔵さんしか御参りの実績がなく、どこにあるかと調べると意外にも会津盆地の周辺に
点在していることが判明。
今年の巡礼を締め括りとして盆地に点在する古刹を1日がかりでレンタサイクルで巡る計画でしたが、まさかの雪。
「まだ11月やのに!」とボヤキながら、公共機関を駆使しての巡礼とはなりました。

24日の巡礼はここがスタート
立木観音は会津盆地の西の端、会津坂下にあります。
2時間おきの路線バスと雪道の徒歩で8時過ぎに目的地に着きましたが、拝観は9時から。
境内を歩いていると門の直ぐ横に『別れの一本杉』の歌碑が。春日八郎さんは坂下の出身。
昔、昼のプレゼントという番組に出演された時に、地元の住職が
「子供の頃から体格が良く腕白だったので、地蔵さんの頭で砲丸投げしていましたわ!」
と言っていたのを思い出しました。とするとお寺はここだったのでしょうかね?
駐車場に売店があったので雪宿り?しながら年配の店の女性と昭和歌謡で盛り上がり、
暑いお茶と饅頭を頂くと言うおまけ付でした。

立木観音山門にて

山門脇にある「別れの一本杉」歌碑
作詞:高野公男(茨城)、作曲:船村徹(栃木)、歌:春日八郎(会津坂下)というトリオによる、戦後を代表するヒット曲。
伝承では
『540年、中国六朝の梁国の僧青岩が高寺山に庵を結び、634年に南岳恵志の弟子恵隆がそこを恵隆寺と名付けたとか。
その後、蝦夷の反乱で焼失しますが、804年に空海と坂上田村麻呂により再興。
一時期は大伽藍と36坊もの堂宇を有していましたが、今は仁王門、本堂と観音堂だけが残っています。』
とあります。何れも伝承ではっきりとした証拠はないが、古刹であったのは間違いなさそうです。
本尊は十一面千手観音菩薩で808年に開眼、立木を彫ったものと言われます。
1190年に寺が高寺から現在の場所に移転したので根は掘り出された筈ですが、今でも床下には根があると言われます。
残念ながらその場所は見えませんでしたが…。
緞帳の中から姿を見せた御本尊は神々しいというよりも凄い迫力で迫る印象。
立木観音といえば日光中禅寺のものが有名ですが、ここは一本彫りで高さ8.5mと日本最大。
決して劣るものではありませんでした。会津に古くから仏教文化が花開いた証拠と言えるでしょう。
拝観後は、雪道を只管歩いて1日6本しかない只見線JR会津坂下駅へ。
「赤いランプの終列車」ではありませんが、9:55発車ギリギリで滑り込みセーフ。もう少しで「別れの一分過ぎ」になる所でした。

立木観音境内 三重塔は後世の建立。

立木観音本堂

本堂の扁額

観音堂から境内を見る

立木観音堂にて

只見線会津坂下駅に入る9:55の会津若松行き列車(1日6本)
これが最終ならば思わず♪さらばと告げて手を振る君は赤いランプの終列車♪と口ずさみそうな雰囲気。

立木観音説明書

立木観音御朱印

坂下郵便局 ; 奇祭・初市大俵引き
若松一箕町郵便局 ; 三角縁神獣鏡外枠に伝統玩具会津天神、会津五桜・石部桜
若松南町郵便局 ; 会津塗り椀外枠に鶴ヶ城、南走長屋千飯櫓 若松旭町郵便局 ; 鶴ヶ城、さざえ堂
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秋風ぞ吹く三春の地(2017.11.23)
<コース>
JR東京(6:20) → やまびこ201号 → JR新白河(7:44→8:18) → JR白河(8:21→10:53) → JR郡山(11:30→13:13) → JR三春(13:24) → 駅レンタサイクル20分 → 真照寺

日乗山真照寺(真言宗智山派)
・都をば 霞と共に 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関
と詠んだのは平安時代の能因法師。
京都から白河まで歩いても半年かかるとは思いませんが、都の人にはそれほど遠い地という思いがあったのでしょう。
今は東京発とはいえ、
・都をば やまびこ乗りて 立ちしかど 八時には着く 白河の関
となりますから随分早くなったものです。
勤労感謝の日から郡山に二泊して会津巡礼を目指しましたが、それに先立ち三春を散策。
樹齢千年の三春滝桜と三春駒、デコ屋敷で有名でピークは春。
梅・桃・桜が一斉に咲くという事ですが、流石にそれはちょっと欲張りと言うもの。
郡山出身の先輩も「それはないだろうな」と話されていました。

三春町の料亭前にて
三春駒は坂上田村麻呂伝説に由来

城下町巡りの初めはここ馬頭観音堂から

馬頭観音堂
坂上田村麻呂が愛馬供養の為に建立したと去れる。三春駒育成の中心的古社。
日乗山真照寺(にちじょうざんしんしょうじ)は藩主秋田氏の祈願寺、1231年で津軽の十三湊に創建されました。
領主の秋田氏は安東水軍の流れを汲む陸奥の名門。伊達政宗の正室愛姫(めごひめ)も秋田氏です。
その移動に伴い真照寺も秋田、笠間と移転。
随分と忙しい話ですが、海に関わる安東氏だけに宗教崇拝には強いものがあったのでしょう。
真照寺も1649年にようやくここに落ち着き【安東】したのではないでしょうか。
本堂初め、建物全体が簡素な印象なのは豪雪への対策のような気がします。
境内は水芭蕉が有名ですが、今は季節外れ。
花の盛りではなかったものの城下町、宿場町の面影が残る所も多く、春だけではないと改めて目を【三春】ものがありました。

真照寺境内にある古四王堂

説明書き

三春では寺と和菓子屋さんが目についた
ここは真照寺門前の蒼龍庵。

おたりまんぢうで一服¥80
「おたり」は作った御婆さんの名前だとか。

藩学校明徳門
いまは三春小学校の校門として活躍

三春町の旧遠藤眼科

三春町文化伝承館の庭
生糸の商売で財を成した吉田誠次郎氏が明治28年に建てた自宅。

伝承館の間

真照寺御朱印
書置きを購入するセルフ型。

三春郵便局 ; 桜の外枠、滝桜、三春駒
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みちのくに平安歌人をしのぶ(2016.11.05)
<コース>
JR福島駅 → 福島交通バス20分 → 文知摺観音

香澤山普門院 文知摺(もちずり)観音(曹洞宗)
陸奥巡礼三日目は米沢を昼頃出発し福島市内へ。
県庁ながら人口ではいわき・郡山に、観光では会津若松に後塵を拝している福島市ですが、
駅周辺のビルを少し離れると自然が多く残り両者が共存している街。
今回はそこで古典に所縁の文知摺観音を訪問。
文知摺観音、正式名・香澤山普門院 (こうたくさんふもんいん) は、
曹洞宗香澤山安洞院の末寺で芭蕉初め文人墨客が訪れた事で知られる歌枕の地。
・みちのくの しのぶもぢずり たれ故に 乱れそめにし われならなくに
[河原左大臣 古今集]
(訳) 陸奥の信夫の里の「信夫捩じ摺り」の模様の如くに私の心も恋に乱れています。一体誰のせい?みんな貴女のせいなのですよ。
小倉百人一首にも採られた有名な歌の舞台でもあります。
江戸時代に奥の細道で訪れた芭蕉も
・早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺
の句を残しています。

境内は紅葉が色づき始め

境内入口にある芭蕉像

源融(河原左大臣)の歌碑 明治8年建立。
福島市にある信夫の里は「信夫捩じ摺り」とは信夫草を布に摺り付け染色したとも、
模様を彫った石に布を押し当てて藍染めしたとも言われますが定かではありません。
その乱れ模様が有名で、この歌でも「乱れ」を導く序詞としての役目を果たしています。
また乱れには黒髪の意味も示唆されるようですから官能的な意味合いも含んだ詠ですね。
この歌に関して文知摺観音には作者源融 (みなもとのとおる) と地元の豪族の娘、虎女との次のような悲恋が伝わっています。
『按察使としてこの地に来ていた融が都に帰ったあと便りが来ないので虎女は悲しみの余り病の床につく。
ようやく手紙が着いた時には彼女は息を引き取ったあとで、その手紙にあったのがこの歌であった。』

文知摺石(綾形石)
都からの便りを待つ虎女の前に、愛しい融の面影が映ったと言う。これに【綾形】ものか?

地元有志が建てた源融と虎女の墓
融の墓は京都清凉寺の土を移した。
源融は嵯峨天皇皇子。臣籍に下りますが、その才覚で左大臣まで至り73歳で亡くなるまで朝廷で活躍した傑物。
陸奥の景色を愛し塩釜の風景を模した庭を作ったという記録があるものの果たしてこのような事実があったのかどうか。
地方勤務の役人と地元の女性との恋愛は結構あったでしょうから、
それが有名なこの歌と作者に仮託されたと見るのが妥当な所ではないでしょうか。
平安時代の陸奥と言えば、今よりも遥かに遠隔の地。
そのような場所に、しのぶ・安積・末の松山・沖の石といった歌枕が点在するのは都人の憧憬を誘うものがあったのでしょう。

正面から見た観音堂
芭蕉が訪れた時にはもうあったと言う

境内の風景

観音堂を望む

東北唯一の多宝塔

甲剛碑
由来ははっきりしない

文知摺(もちずり)観音御朱印

文知摺郵便局 ; 河原左大臣歌碑、文知摺観音多宝塔、阿武隈川の白鳥
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