<コース>
JR仙台(7:53) → (ロケットの町にある茅葺の阿弥陀堂(2017.9.23)
<コース>
JR仙台(7:53) → (阿武隈急行) → 角田(8:40) → レンタサイクル50分 → 高蔵寺 → 角田(11:50) → 福島(12:54→13:00)) → 角田(8:40) → レンタサイクル50分 → 高蔵寺 → 角田(11:50) → (阿武隈急行) → 福島(12:54)

勝楽山 高蔵寺(真言宗智山派)
宮城最終日は、仙台から福島まで移動。といっても新幹線や東北本線ではなく、阿武隈急行。
未踏路線でもあり、伊達氏の始祖の地でもありますが、
途中の角田市内に非常に興味がそそられる古刹があるのがその理由。
駅から西に8㎞と距離がありますが、駅内観光案内所にレンタサイクルがあったので早速利用。
国道から田畑の道を通り渓流沿いを進み50分で到着。三方を山に囲まれた清閑な場所にありました。

阿武隈急行の列車
福島駅にて、左が阿武隈急行ホームで右が福島交通ホーム。

ロケットをデザインした阿武隈急行角田駅

角田市ロケット広場

角田市武家屋敷
角田は伊達家の家臣石川公の領地で、政宗次女の牟宇姫(むうひめ)が輿入れした。

武家屋敷近くにある店

角田市郷土資料館
無料で見学できるが、何故か本日(23日)は休館日。

郷土資料館の邸

国道113号から高倉川に沿って高蔵寺へ

本堂近くの池
勝楽山高蔵寺(しょうらくさんこうぞうじ)は、縁起に拠ると、
『弘仁10年(819年)、徳一上人が開創。
その後、平安末期の治承元年(1177年)に聖円によって阿弥陀堂が建立された。
本尊には阿弥陀如来像が祀られたが、これは藤原秀衡とその妻が作らせたと言われる。』 とあります。
徳一は会津の慧日寺を初め東北地方に寺院を開いた碩学。
慧日寺は磐梯山を御神体と見て創設したと思われますが、高蔵寺にもそのような自然の力を感じたのでしょうか?
阿弥陀堂は現在まで残っていますが、平安時代の建造物は全国で26。阿弥陀堂では七カ所だけ、
東北地方では中尊寺金色堂、白水阿弥陀堂と共に三ヵ所のみとなっています。
訪れた寺務所や本堂は新しい建築でしたが、杉木立の中の阿弥陀堂はそこだけ時間が止まった様。
写真で見ると大きさが実感できませんが、実際に前に立つと思ったよりも遥かに大きな御堂。
中尊寺や白水阿弥陀堂が国宝になっているのにここだけ重文なのが不思議でした。
角田市はロケットの町、時代の最先端と千年前のものが共存する町でした。

本堂
先ずここにお参りした後、左の寺務所で御朱印を拝受。

本堂横から阿弥陀堂へ向かう

重文・高蔵寺阿弥陀堂
宮城県最古の木造建築。9.3mの茅葺宝形造。

阿弥陀堂近影

茅葺の屋根

重文・阿弥陀如来坐像 (説明書より)
像高 2.7m の寄木造り、光背を入れると全高5.18m。

木立の向こうの阿弥陀堂
写っている人間から堂の大きさが分かる。

参道にある榧の木

相生の御神木

境内の曼殊沙華

重文・旧佐藤家住宅
江戸時代の中期に建てられた仙台藩領の中規模農家。高蔵寺境内に移築された。

高蔵寺説明書

高蔵寺御朱印

角田市マンホール蓋

角田市マンホール蓋 (高倉地区)

角田郵便局 ; 台山公園のH-Ⅱ型ロケット模型、重文・高蔵寺阿弥陀堂
西根郵便局 ; 重文・高蔵寺阿弥陀堂、白鳥、栴檀の木

角田駅にて電車待ちの間に「むうアイス」を
梅ジャム+アイスクリーム。政宗の息女は五六八(いろは)姫とか牟宇(むう)姫とか時代を先取りしたものが多い気が…。
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JR仙台駅 → レンタサイクル → 北山五山・輪王寺

金剛寶山 輪王寺(曹洞宗)
満勝寺に続いて、庭園で有名な輪王寺へ。
金剛寶山輪王寺(こんごうほうざんりんのうじ)は、寺伝に拠れば
『嘉吉元年(1441年)、伊達家九代政宗(独眼竜とは別人)夫人、蘭庭明玉禅尼の願により十一代持宗が福島県梁川に創建。
禅尼は幕府将軍足利義満の叔母に当たるため、六代将軍義教が後花園天皇に奏請して宸筆の額を賜った。
その後、伊達家の居城と共に、梁川・西山・米沢・会津・岩出山・仙台と移転を繰り返し、
現在の地に移ったのは十七代政宗の慶長7年(1602年)の事。
以降、伊達氏の庇護の下、奥州の曹洞宗の一大叢林として300年間栄えた。
しかし明治以降は、伊達の庇護を失い、更に明治9年(1876年)の火災により仁王門を残して焼失。
大本山の永平寺と総持寺は、無外和尚を住職にして復興を図り大正4年(1915年)にようやく完成した。』
とあります。
農業生産が安定化する戦国末期までは民衆は移住を繰り返しましたが、戦国大名や寺社もそれは同様。
戦国期は日本史上で真に大きな分水嶺だったようです。
輪王寺も六遷を経ていますが、法灯を伝えるにはそれくらいの大きな試練を受けなければならないのでしょうか?
復興に務めた無外和尚は伽藍に加え庭園建設にも意を注ぎ、いまに残る名園となりました。
名前は無外ですが、無害どころか輪王寺にとっては非常に有益な和尚と言えるでしょう。

輪王寺本堂
明治9年(1876年)、野火により焼失し、大正4年(1915年)の再建。

本堂の裏にある禅庭園へ

禅庭園入口から蘭庭堂と三重塔を望む

三重塔(宝楼閣)
昭和56年(1981年)、開山五百回大遠忌を記念し建立された。


蘭庭堂

五重塔
昭和15年(1940年)に自然石を用いて建立された。

禅庭園
池泉回遊式庭園で仙台有数の名勝とされる。


池越しに本堂を望む


高台から見た禅庭園

池の畔で休憩

輪王寺説明書

輪王寺御朱印

仙台北山郵便局 ; 輪王寺・大願寺の山門、東昌寺のマルミガヤ
仙台荒巻郵便局 ; 輪王寺仁王門、水の森公園、泉ヶ岳
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JR仙台駅 → レンタサイクル → 北山五山

當午山 満勝寺(臨済宗東福寺派)
昼からは仙台に戻り北山へ。ここには
① 政宗と共に移って来た東昌寺
② 政宗の師の虎哉和尚が開山の覚範寺
③ 支倉常長の墓のある光明寺
④ 始祖朝宗公を祀る満勝寺
⑤ 紫陽花で有名な資福寺
と伊達政宗に拠って置かれた臨済宗の五刹があります。
青葉城の北側に当たる城の守りとして、また有事の際には軍を駐屯させる思惑もあったのでしょう。
今回は、その中で満勝寺にお参り。
當午山満勝寺(とうごさんまんしょうじ)は、伊達氏初代朝宗公の菩提寺として、
弘安6年に伊達氏四世政依公が福島県伊達郡桑折町に開創した寺院が始まり。
政依は他にも四寺を建て京都・鎌倉に倣い伊達五山と称したといいます。
遥か陸奥の地に都を造ろうというDNAはこの頃にはもう伊達家にあったようです。
江戸時代には十七世政宗により元和3年(1617年)に北山に満勝庵を建立し、
二十世綱村公により寛文7年(1667年)に現在の地を賜りました。
初代朝宗公は藤原山蔭流で、源頼朝とは母方の従兄弟。奥州征伐に際しては出家していたので息子四名を従軍。
彼らが軍功を挙げて陸奥国伊達・信夫郡を拝領した後、伊達氏を名乗ることになります。

満勝寺庫裏
御朱印はこちらで拝受。

満勝寺説明書

満勝寺御朱印
その流れを汲む伊達政宗は地方の戦国大名というにはスケールの大きな人物で天下を狙える位置だったにも拘わらず、
豊臣秀吉には会津召し上げ、徳川家康には関ヶ原の恩賞100万石のお墨付きを反故にされます。
猿と古狸に独眼竜がして遣られた訳ですが、天下人との一世代の差は如何ともし難かったのでしょう。
それでも家光の代になって家康のお墨付きをちらつかせましたが、
若き老中・井伊直孝(直政の子)が伊達藩江戸屋敷に単独で乗り込み、政宗の目の前でそれを破り捨て百万石は水の泡に。
頼山陽が「日本外史」で述べています。
その後は、天下を直接狙う事は諦めたようで、豪華な仙台東照宮を造営したりしています。
徳川家に対するジェスチャーなのは言うまでもありません。
奥州派遣された支倉常長一行も帰国後は闇に埋もれたまま。折角の欧州派遣も【奥州覇権】には至りませんでした。
晩年は実質石高も100万石になり、江戸の人口は伊達米で持つと言われる程になりました。
政治的には天下を取れませんでしたが、経済的には天下を制した訳ですから、泉下の政宗も持って瞑すべしでしょうね。

重文・仙台東照宮
幕府に睨まれた伊達家なので将軍家にも気を使ったのか?

仙台東照宮説明書

仙台東照宮御朱印

仙台宮町郵便局 ; 重文・東照宮随身門
仙台上杉六郵便局 ; 重文・東照宮鳥居

仙台中江郵便局 ; 重文・東照宮随身門
仙台小松島郵便局 ; 重文・東照宮随身門

榴岡天満宮縁起

榴岡天満宮の見開き御朱印

仙台二十人町郵便局 ; 榴岡天満宮の拝殿、枝垂桜
仙台榴ケ岡郵便局 ; 榴岡天満宮の石段、鳥居、噴水、ツツジ
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伊達政宗が百万石を反故にされた逸話は、「日本外史 巻之二十二 徳川氏正記 徳川氏五」に記述がある
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JR仙台(6:00) → JR小牛田(6:44→7:04) → JR鳴子温泉(8:18) → 温泉郷 → JR鳴子温泉(10:06) → JR小牛田(11:04→11:08) → JR仙台(11:55)

駅周辺の公衆電話
彼岸の二日目は仙台市内巡礼ですが、その御先に朝から大崎市へ。
陸羽東線に載ってJR鳴子温泉駅で降りると、硫黄の異様な匂いが。
温泉郷では珍しくはないですが、駅まで漂って来たのは初体験。それだけ湯量が豊富な温泉という事でしょう。
【陸羽湯泉】は伊達ではないようです。
もう一つ勇有名なのが鳴子こけし。こけしで有名な宮城県ですが、場所によって微妙に差があるようです。
眼と髪の描き方に特徴があるように思いましたが、首の嵌め込み式が特徴だそうです。
音が【鳴子】になるように工夫したのでしょう。
列車の本数が少ないので昼前に駅に戻りましたが、温泉郷は宿泊しないと良さが分からないもの。
【鳴子と鉄道には勝てぬ】を恨めしく思ったものでした。

陸羽東線鳴子温泉駅
ホームに降りたとたん、硫黄の異様な匂いが一面に漂う。

鳴子温泉郷
温泉を掘っている箇所。

源泉から湯を引く

源泉かけ流しの足湯
もちろん無料。

温泉郷の顔ハメ

温泉街らしい町並み

鳴子郵便局のこけしポスト

鳴子郵便局 ; 鳴子ダム、鳴子こけし

大きなこけしが目印の鳴子こけし資料館

10時前まで待ったが開かず

鳴子マンホール蓋

陸羽東線駅スタンプ
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JR東京(6:04) → (やまびこ41) → JR福島(7:39→8:07) → JR白石(8:40) → 徒歩15分 → 白石城・城下町 → JR白石(12:06) → JR名取(12:40) → 徒歩20分 → 弘誓寺 JR名取(15:19) → JR仙台(15:34)

白石城天守閣
昨年の彼岸に続き、悲願の飯坂・白石・鳴子・仙台と芭蕉の足跡巡り。かなりの広範囲ですが全て伊達藩領。
移動初日は、白石からスタート。新幹線白石蔵王駅がありますが、町の中心から外れており、
福島で在来線に乗り換え白石下車。在来線から離れた新幹線駅の宿命です。
米沢で生まれた伊達政宗ですが、家督を継ぐと近隣を次々と征服。
最終的には福島では相馬藩を除くすべてを制圧、石高は200万石にも及びました。
しかし秀吉の奥州仕置きの為、会津は没収され蒲生氏郷へ。
更に関ヶ原では百万石のお墨付きを貰い家康側に付きますが、戦後は反故にされ62万石止まり。
そんな政宗を支えた家臣の中で群を抜いていたのが片倉小十郎景綱。
片倉家は神官でしたが、景綱が政宗の懐刀と言われる知恵者で、戦国を乗り切り近世大名へと伊達家を導きました。
かれは最終的には白石城主となり1万石の大名になりました。大河ドラマでは西郷輝彦さんが演じていたので
戦に強い男前のイメージがありますが、実際は肥満気味で戦というよりも外交に優れた手腕を発揮したようです。
その代わり後を継いだ二代目片倉小十郎がイケメンで、大坂夏の陣で活躍したそうです。
事実は小説よりも奇なりを地で行く話でしょうか。
今の白石城は木造によって復元され周囲には武家屋敷もあり、歩くには手頃な城下町でした。
尚、現在片倉家の子孫の方は神職をされているそうで、元の職種に戻った事になります。

JR白石駅前

白石にある酒蔵

白石城
伊達家家臣片倉小十郎(1万8千石)の城下町。一国一城令にも拘わらず存続が認められた稀有の城。他は、三重と伊賀上野くらいか。平成になって木造にて再建。

天守閣への道

白石城大手門

天守閣の石垣

天守閣へ登る

天守閣内部構造

天守閣からの眺め

大手門、白石市街を望む

天守閣に続き資料館へ

白石城の復元模型

復元甲冑

片倉小十郎景綱
神官の家に生まれ政宗の参謀として活躍後、白石城主に。敵の真田幸村から幼子を託されて守り通した至誠の人でもある。

片倉家の家紋と旗印

片倉家中武家屋敷小関家
白石城を取り巻く水路沿いにあり、美しい景観を成している。

武家屋敷小関家
敷地は300坪と広いが、石高は数十石だった。いまも裏手に御子孫がお住まい。

小関家玄関へ向かう

小関家の庭

家屋外観

縁側
武家の質素な造り

家屋内部

縁側から庭を見る

屋根の内側の造り

白石市マンホール蓋(その1)

白石市マンホール蓋(その2)

白石市マンホールカード 配布場所はこちら

白石郵便局 ; 伝統こけし、白石城、三角櫓
白石南郵便局 ; 白石城三階櫓、大手門、蔵王連峰
その後は仙台まで移動ですが、名取で途中下車。
王朝時代の実方中将の史跡があって芭蕉も訪れていますが、遠いのでスルー。
街道沿いを歩いているとそれらしい寺院があったのでお参り。
金剛遊山弘誓寺(こんごうゆうさんぐせいじ)は、
弘仁年間(810~824年)空海が創建したと言われ、その後の寛喜2年(1230年)に良賢が再興したと言う古刹。
江戸時代には仙台藩から寺領を与えられ16カ寺もの末寺も持っていました。
その割には新しい伽藍ですが、昭和61年に放火で焼けて再建したそうです。なんとも残念な話でした。
物見遊山に続き金剛遊山にお参りしての仙台入りです。

金剛遊山弘誓寺

弘誓寺御朱印

名取市マンホール蓋

宮城舘越郵便局 ; 弘誓寺観音堂、山囲古墳の頭椎太刀、桃の花
名取大手町郵便局 ; 奥の細道句碑、中沢家住宅、タケノコ
[参考書]
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【往路】県庁市役所前(8:50) → (宮城交通バス) → 村田町役場前(9:30) → 龍島院・蔵の街並み
【復路】村田町役場前(13:02) → (宮城交通バス) → 仙台駅前(13:39)

西湖山 龍島院(曹洞宗)
宮城最終日は、仙台を高速バスで30分南下して村田町へ。
宮城の小京都として伝統的建造物群にも登録された町ですが、仙台駅からは車で40分と結構距離があります。
行くのは難しいと思っていましたが、仙台の初日に観光案内所で村田を通る高速バスがある事が判明。
予定外に訪問することができました。初日の登米といい、今回の巡礼は幸運に恵まれていました。
バスに乗って道の駅の横にある「未来のゲート」を下って蔵造りを模した「歴史のゲート」をくぐるといよいよ村田町。
町内には高い建物などはなく、ここだけ異質な空間を醸し出していました。

道の駅にある村田町出身の三宅義信選手の像

蔵造りを模した「歴史のゲート」をくぐり蔵の町へ
観光に先立ち、北側にある寺院にお参り。
西湖山龍島院(せいこざんりゅうとういん)は、寺伝に拠れば
『室町時代の天授年間、越後村上の耕雲寺七世審岩正察和尚を開山として開創。
その後八世洲山鱗芸和尚の寛永3年(1627年)、京都にて二十歳で永眠した伊達宗高公の遺骸を葬った事から、
伊達家の菩提寺になり寺領を得るに至った。』 とあります。
宗高公は伊達政宗の七男、慶長18年(1613年)七歳の時、柴田刈田三万石の村田城主になりました。
寛永元年(1625年)の蔵王山大噴火の折、公は政宗公の名代として蔵王に上り
「我が命尽きるとも噴火を鎮め、民の危難を救い給え」
と祈願されました。
この甲斐あって噴火は鎮まり領民からは「生神さま」と敬愛されたと言われます。
祈願と鎮火と夭逝とは直接因果関係はない筈ですが、公が二十歳で亡くなった事で一気に神格化されたのでしょう。
またここは池泉観賞式庭園が有名です。庭園の奥に福寿・無量の霊泉が湧出し龍化瀑へと流れ落ち、
これが龍門滝となって臥龍池へと注ぐという造りになっています。
龍島院という名もここから来ているのでしょう。庭園拝観は有料ですが僅か¥100。
おまけにお寺の方から、お話を伺いお茶まで頂きました。これではお寺が赤字ですね。
頂いた説明書には名勝・龍島院庭園とありますが、決して名前負けしていません。【龍島蛇尾】にならない所が流石です。

龍島院山門前にて
初代藩主伊達宗高公墓所。

龍島院庭園からの眺め

臥龍池

庭園の高台から庫裏(左)と本堂を望む

池泉観賞式庭園

龍島院説明書

龍島院御朱印
続いて街並みを散策。歩いても十分ですが観光案内所で無料レンタサイクルを拝借。
町の中の数百mの両脇に蔵造りの家が20余あります。今、蔵を建てると1棟4~5億円するそうで、
いかに繁栄しかたが分かります。年間売り上げも30億円程あったとか。
同じ苗字(大沼氏)が多いので皆屋号で呼ぶのも時代を感じました。
一体何で儲けたのか?案内所の方に尋ねると即座に「紅花です。」との答え。
紅花は山形の専売特許と思っていましたが、仙台にもあったとは初耳。
しかし考えると山形市と仙台市は隣接しているので、同じ産物があっても不思議ではありません。
江戸時代には紅花で栄え、その後養蚕も加わり繁栄。鉄道敷設を打診されましたが、
養蚕に悪影響がでるという事で、誘致されず変わって大河原に駅が出来ました。
関西で言えば、篠山・出石パターンですね。
今は町のままですが、なかなか活気があり布袋まつりは有名で大勢の人も来るそうです。
写真を見ると頭の長い人形があってこれが布袋との事。七福神の福禄寿に似ているので
地元の方に確認してみましたが、「これが布袋ですよ」との返事。
レンタサイクルと言い、布袋さんと言い、商売をするには細かい事を気にしない大らかな考えが必要なのかと納得。
後継者がいない、修理が大変等問題はありますが、将来に残して欲しい街ではあります。
ここもバスや観光客は疎らで、道の駅に車が満車状態でした。訪れる人は観光よりも【歓購】に目が向いているようです。

観光の起点はここヤマニ邸
もと呉服商で今は寄贈され観光案内所に。前の人形は、ゆるきゃら「くらりん」

ゆるきゃら「くらりん」

蔵造りの通り

やましょう記念館
大沼家本家で紅花商人。子孫が寄贈し村田町所有。

やましょう記念館母屋

記念館内部

記念館内部

記念館奥に続く蔵。全部で4棟

カクショウ大沼邸(左)とカネショウ大沼邸(右)
右は現在雑貨店で私設博物館を兼ねている。

カクショウ大沼邸の門と欄間の透かし彫り

私設博物館の2階
テレビは昭和39年製。

ヤマジュウ大沼邸
酒造店で「乾坤一」が銘柄。

ヤマジュウの看板
「上もろはく」と記載。

カネキチ大沼邸
ここも紅花商人。

ヤマシン山田邸
今は医院。ここの蔵が唯一江戸期。

カネカ山家邸
いまはCafeとして営業。

ヤマセン山田邸
今は山専酒店。

屋根下の彫刻

蔵造りの家は全て間口3間1尺(税金対策)で、南側に家の通路を作る。したがってウダツがなくても防火対策になっている。

唯一のこる武家屋敷

町の南にある願勝寺
山門は村田館の館門で貞享年間の建築。

観光案内所で購入した「ほていこけし」

村田郵便局 ; 蔵の町むらた布袋まつりの布袋人形、白壁土蔵、蔵王連峰
[参考書]
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知りたい、歩きたい! 美しい「日本の町並み」: この国の「原風景」に戻れる場所 (知的生きかた文庫) 新品価格 | ![]() |

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JR仙台 → JR高城町 → 徒歩15分 → 松島 → JR松島海岸 → JR本塩釜 → 徒歩15分 → 鹽竈神社 → JR本塩釜 → JR多賀城 → 徒歩10分 → 多賀城址 → JR多賀城国府 → JR仙台 → レンタサイクル10分 → 陸奥国分寺

多賀城政庁跡
一之宮の後は国分寺ですが、その前に多賀城で下車。
いまの宮城県の中心は伊達政宗が築いた仙台ですが、古代では多賀城府。
奈良時代初期に陸奥国府と鎮守府が置かれました。駅から坂を上った高台にあります。
随分高い場所にある感じですが、これも地震や津波を考えての事。現地でボランティアガイドに伺った所、
969年の貞観の大地震の際にも、津波は多賀城府の下までしか来なかったとか。古の人の危機管理能力も大したものです。
南門跡には壺の碑(つぼのいしぶみ)が。芭蕉も『奥の細道』で「羇旅の労を忘れて泪も落つるばかり也」と感動しています。
高さ2m程の石板碑で坂上田村麻呂の蝦夷征伐の折に造られたと言われますが詳細は不明。
ガイドの方から頂いた資料では、碑に刻まれているのは
『多賀城 去京一千五百里… 此城神亀元年歳次甲子…』
と設置場所とその謂われ。
別段、涙を流すような内容ではないですが、芭蕉にとっては碑に古代人の声を聞いたのでしょう。
所詮、凡人には分からない世界です。
見学の後は、新しくできた多賀城国府駅に移動して仙台へ。国府を象った駅舎でこれから多賀城の玄関になるでしょう。

高台にある政庁跡に向かう

多賀城政庁跡
松島から続く丘陵地帯の端の高台にある。昔の都は平野に造ることは少なく貞観の大津波(969年)の時も波はここには及ばなかった。

松林を抜け碑のある場所へ

壺の碑
建立は762年(天平宝字六年)藤原恵美朝臣朝狩による。朝狩(仲麻呂の子息)が謀反人となった後に碑は倒され、江戸初期に再発見され現在の位置に建てられた。

多賀城市のマンホール蓋
壺碑をデザイン。

JR東北本線国府多賀城駅
国府をイメージした駅舎。21年前はなかったので、多賀城へは行き易くなった。

国府多賀城駅スタンプ

下馬郵便局 ; 多賀城政庁跡、おもはくの橋、市花・アヤメ
多賀城郵便局 ; 多賀城址、壺の碑、覆堂、市花・アヤメ
仙台からは雨も上がり市内をレンタサイクルで国分寺へ。
護国山医王院国分寺(ごこくさんいおういんこくぶんじ)は、
聖武天皇の発願によって741年に建立されたと言われる陸奥国分寺の後継寺院。
国府の多賀城からは離れているので、後世に移転したかと思いましたが、境内から遺蹟が出土したので【移籍】でないようです。
どのような事情があったのでしょうか?
当初の国分寺もその後、頼朝の奥州征伐で焼失。これを再建したのも伊達政宗です。
鹽竈神社といい、国分寺といい随分と物入りでしたが、奥州探題の名は伊達ではなかったようです。
こうして1日で国府と国分寺を巡礼。細道ならぬ舗装道でしたが、
結構疲れたので夕食の牛タン定食の麦飯をお代わりしたというおまけ付きでした。
・鹽竈の カマより旨き タンの味

護国山医王院国分寺(真言宗智山派)

茅葺の仁王門
慶長12年(1607年)建立の三間一戸の八脚門で入母屋造。

重文・陸奥国分寺薬師堂
慶長12年(1607年)建立の入母屋造、本瓦葺。

宝形造の准胝観音堂
伊達吉村夫人の貞子による願いを受け、伊達宗村が延享2年(1745年)に再建。

仙台新寺郵便局 ; 新寺通りの街並み、政岡の墓、市花・ミヤギノハギ
仙台薬師堂郵便局 ; 陸奥国分寺薬師堂仁王門、芭蕉句碑
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国分寺跡を巡る ~色なき風に誘われて 僧寺・尼寺全国一三七ヶ所の記憶~ 新品価格 | ![]() |

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JR仙台 → JR高城町 → 徒歩15分 → 松島 → JR松島海岸 → JR本塩釜 → 徒歩15分 → 鹽竈神社 → JR本塩釜

海岸からの松島の眺め
雨が降りそうな中日の23日は先達の足跡を辿って松島へ。
東日本大震災では甚大な被害を受けた松島ですが、ほぼ復興していました。
奥の細道の冒頭で、あれほど松島を見ることを願望していた芭蕉ですが、松島では句を詠んでいません。
余程感動したのか、良い句が浮かばなかったのかは謎ですが、
「松島は笑ふが如く象潟は恨むが如し」 と述べた彼の人間的一面を見たようです。
・松島や 雨にうつむく 芭蕉かな

仙石線電車
地元出身の石ノ森章太郎氏にちなむ。他、サイボーグ009、ロボコン、さるとびえっちゃん等があった。

仙石線JR松島海岸駅

駅スタンプ

松島町のマンホール蓋
五大堂をデザイン。

松島五大堂

松島を望む観瀾亭入口

松島郵便局 ; 国宝・瑞巌寺本堂及び庫裏、僧侶、松島
松島海岸郵便局 ; 重文・瑞巌寺五大堂
その後、仙石線で本塩釜下車。
東北本線でも松島・塩釜駅がありますが、観光地にはやや遠く、仙石線で下車するのが常道。
鉄道の敷設は人の移動よりも物資輸送を第一に置いたという明治初期の国策でしょうね。
塩釜はマグロで有名な漁港。松島湾の海上にある金華山沖は、暖流と寒流が合流する潮目と呼ばれる場所。
世界三大漁場とも呼ばれる漁業の宝庫となっています。
ここへ来たからにはと駅から歩いて鹽竈神社(しほがまじんじゃ)へお参り。言うまでもなく陸奥国一之宮ですが、
表記が塩釜・塩竈・鹽竈と色々あってややこしいですが、頂いたパンフに従うと「鹽竈」になります。
由緒は分からないくらい古いですが、社伝では
『武甕槌神と経津主神が陸奥国を平定した際に、両神の道案内をした鹽土老翁神がこの地に留まり、
人々に塩づくりを教えたのが始まり。』 とあります。
伝説とはいえ平安時代の『弘仁記』にその名が出る古社。海上安全・大漁・家内安全・延命長寿・安産守護と
願い事も何でもござれですから、地元の人々から大きな信仰を受けていたのは明らかです。
社務所で御朱印を御願いすると、
「ここは鹽竈神社と志波彦神社の二社になります。」
という事で、2頁見開きで拝受。思わずギョギョとなりました。
志波彦神社は古来より東山道から多賀城国府に入る要衝に鎮座されていましたが、明治に鹽竈神社に遷祀されたようです。
神社のM&Aですが、仙台市も周辺を合併して政令指定都市に昇格した訳ですから似たようなものでしょうか。
現在の社殿は仙台伊達家によって建てられたもの。四代藩主綱村公の元禄8年(1695年)に着工、
五代藩主吉村公の宝永元年(1704年)に竣工しました。金色に輝いた豪壮な雰囲気ですが、
伊達家としては幕府に睨まれないように財力を減らして建造したと思わせる必要があったのでしょう。
そういえば芭蕉の『奥の細道』紀行も、日光東照宮の普請を命じられた仙台藩に【ふしん】な動きがないかどうか、
幕府の土木技術者として調査に赴いたというのが裏にあったとか。
嵐山光三郎さんが「芭蕉という修羅」で書いています。成程という感じです。
文学や文化も裏を返せばドロドロとしたものがあるようですね。

鹽竈神社門前

鹽竈神社表参道
社殿までは200段の石段を上る。

鹽竈神社(国幣中社 陸奥国一之宮)
石段先にある随身門

鹽竈神社の右宮左宮の拝殿
もう一つ、別宮もあるが造りは同様。

しおがまさま説明書

しおがまさま御朱印
志波彦神社と鹽竈神社の二組で一体。¥500

塩釜郵便局 ; 塩竈神社随身門、東洋一の設備を誇る魚市場、マグロ
塩釜西町郵便局 ; 塩竈神社随身門、サクラ
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】県庁市役所前(9:15) → (東日本急行 高速乗合バス) → とよま明治村(10:50)
【復路】とよま総合支所(15:20) → (東日本急行 高速乗合バス) → 仙台駅(16:52)

とよま明治村
奥の細道で芭蕉も一泊している。
平成28年のお彼岸は休暇を取って陸奥仙台へ二泊三日の旅。目指すは宮城県下にある小京都二ヵ所。
初日の22日は宮城北部にある明治の村、登米(とよま)へ。
江戸時代は仙台伊達家の支藩が置かれ、すぐそばを流れる北上川水運で栄えました。
町にはかつての武家屋敷や商家が軒を連ねたと言います。
廃藩置県後の明治2年には登米(とめ)県が置かれますが、僅か2年で仙台県に編入。その後【衰運】に向かいました。
東北本線瀬峰からの私鉄も昭和43年廃線。国鉄の瀬峰・田尻・柳津駅からはいずれもバスで1時間前後と、
文字通り陸の孤島になってしまった感があります。
北海道から九州まで全国に小京都は多々ありますが、飛行機や新幹線で主要都市に着いてしまえば、
そこからは比較的行き易い場所が殆ど。
そんな中で、登米は容易に訪問者を寄せ付けない孤高の姿を誇っている様にも見えます。
古生物学的な化石は、生物が死んだあと急速に埋没して酸素から遮断され、加えて石化されることが生成の条件。
登米は県庁が置かれたものの直ぐなくなり、交通が不便になった故に明治が保存されている、そんな町でしょうか。
このように訪れるにも一苦労の町でしたが、最近仙台からの高速バスが1日7本出るようになり、
片道90分かけて行けるようになりました。
でもバスは10人足らず。途中で降りる人も居て終点まで乗った人は5人。明治村に着いたものの、観光客もちらほら。
折角できた高速バスが廃止にならないか心配です。

とよま総合支所の脇にある仙北鉄道跡
東北本線瀬峰駅から登米まで敷設された。今あれば新たな観光に使えそうだが。

登米の反映を支えた北上川
着いたのは11時前でしたので早目の昼食をと、バス停から近い鰻の有名店「東海亭」に。
すると、これがどこから来たのかと驚く程、車が止まっており行列で1時間待ち。
今は観光よりも歓口の方に重点が移っているのでしょうか?
そこですこし離れたもう一つの店に行くと、ここはすぐ入店できました。実はこちらの方が老舗で落ち着いた雰囲気。
メニューに北上川天然鰻とあったので、訊いてみるとこれは前日までに予約が必要だとか。
天然ではありませんでしたが、ゆっくりと鰻を堪能できました。天然物も¥5000程度だそうで、次回に期待して来たいですね。

北上川の横にある「清川」
登米にあるのはここと、「東海亭」の2軒。北上川の天然鰻が売りだが生憎予約で完売。

うな重
ボリューム満点で、¥3600。
明治村と銘打っていますが、明治の建物は県庁・警察署・小学校の三ヵ所。
武家屋敷と商家がそれにアクセントを添えて独特な街並みになっています。
決して宣伝している風ではなく、そこかのんびりした雰囲気は伊達家よりも南部家の気風に近い気がします。
こうして一通り散策して15時過ぎのバスで仙台へ。半日で回れるのに丁度良い範囲でした。
戊辰戦争の影響で明治時代は東北地方にとって逆境でしたが、それをばねにして活躍した人物が多かった気がします。
恵まれた環境が必ずしも偉人を出すとは限らない例ですね。先の3.11の復興にも生かされていると感じました。

街のシンボル重文・旧登米高等尋常小学校
明治21年建設の純木造二階建て。昭和43年まで現役で今は教育資料館となっている。

小学校の2階バルコニー
校舎の中央に位置している。


2階バルコニーから見た廊下

吹抜け廊下と洋風欄干

当時の教室風景
子供の頃もこんな感じだった?

これは裁縫(家庭科)の部屋

警察資料館
明治22年~昭和43年まで登米警察署。洋風バルコニーは小学校と同じ。

当時の留置場。
中に入ったが重苦しい感じ。

警察の制服

当時の取調室
というよりもお白洲と言った方が適切では?

玄昌石の館
北上川下流に産する黒色粘板岩・玄昌石の生産工程を展示。とよま玄昌石は東京駅の屋根にも使用された高級石材であった。

水沢県庁記念館
明治4年~明治8年まで水沢県庁として使用。冠木門と入母屋屋根とこれは純和風建築だが、内部には洋風を取り入れている。

県庁記念館内部

蔵造り商店街

これは醸造元

伊新薬局
江戸期から続く商家で明治27年の建築。左奥の蔵は町内最古。

海老喜商店
味噌・醤油の醸造元で1833年創業。蔵資料館併設。

登米郵便局

高台院御霊屋

説明板

伝統芸能伝承館の森舞台

舞台の床下に設置された甕
共鳴をさせる目的だが、微妙な向きが重要。

蔵造り通りから1本中に入った武家屋敷通り

清野邸の棟門

熊谷邸の四足門
中世の豪族葛西氏邸の裏門を移築したもの。

武家屋敷の門の説明

今は医院となっている武家屋敷

菅野邸は代表的な長屋門

中町通りに面した武者隠しの家。
玄関が道に対して鋸の歯のようにジグザグになって居り、敵が攻めてきたときに足軽が迎え撃つ。

武者隠しの説明

旧鈴木家
江戸時代に紀州から移住。屋敷は「直ご家形式」と呼ばれ築400年以上。今は春蘭亭として見学できる。

春蘭亭で庭を見ながら一服
塩漬けの春蘭を入れた御茶と里芋の形をした和菓子(ねりきり)。¥500

登米郵便局 ; 重文・旧登米高等尋常小学校校舎、梅の花
[参考書]
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