<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:31) → JR備中高梁(10:13)
備中高梁駅前 → 徒歩5分 → 郷土資料館・安正寺 → 紺屋川筋 → 商家資料館 → 石火矢町ふるさと村・武家屋敷 → 頼久寺 → 寿覚院 → 薬師院 → 松連寺 → 備中高梁駅前
【復路】備中高梁(13:51) → JR岡山(14:56→15:11) → JR相生(16:16→16:18) → JR姫路(16:39→16:42) → JR大阪(17:43)

東向山 松連寺(真言宗御室派)
薬師院の後は、直ぐ南に隣接する松連寺へ。
備中高梁駅の東方、愛宕山の麓に建ち、未だ南には寺院がありますが、
頼久寺から南北にほぼ1㎞続いた寺町もここが終点。寺町通りから来ると左程感じませんが、
駅から寺を遠望すると城郭そっくりなその異様な偉容に圧倒されます。

寺号標の脇から石段を登る

石段の正面には本堂が見える筈だが…
東向山松連寺(とうこうざんしょうれんいん)は、
『真言宗御室派の中本寺で、大日如来を本尊とする。現在の寺は明暦3年(1657年)、
備中松山藩主・水谷伊勢守勝隆に拠り市内奥万田より移築されたものである。
武家諸法度で城の新築は禁止され修理も難しい時代に、松山城の砦として築いた事は
城郭造りそのままの石垣が良く物語っている。

石段途中からの眺め

石段を登った先に建つ山門

山門前から城下を眺める
中央にJR備中高梁駅が見える。
本堂右に建つのは観音堂。文禄元年(1592年)の秀吉の第一次朝鮮出兵(文禄の役)では、
岡山藩主・宇喜多秀家を総督として安宅船で渡海するに際し、
当寺の宥海法印を釜山浦へ従軍させ戦勝祈願を行った。
凱旋の後、宥海の功績を賞し33体の観音像を彫刻。観音堂を建立しそこに祀った。
建立に際し御座船の格天井と船戸数枚、寺領100石を寄進している。格天井と船戸は珍しい品で、
桃山時代の優秀作品として県指定重要文化財となっている。』 とあります。

宝篋印塔の向こうに見えるのが観音堂

観音堂近影
かなり傷みが激しく、拝観は無理な様子。

山門を過ぎた場所に建つ宝篋印塔
奥には寺務所が。
薬師院も立派ですが当寺は更に上手。頑丈な石組の高い石垣、
石垣上部の白壁ラインが強烈に眼前に迫って来ます。
寺院ではありますが出城の役割を持ち、有事の際には城下を護る砦に転じる様に
設計されていると聞き納得できました。
言ってみれば城下を守る最後の砦ですが、いざ訪れてみると本堂は覆いが掛けられ修復中。
観音堂も痛みが激しく参拝できない状態でした。

覆いが掛けられ修復中の本堂

本堂と塀の間にあるのは経蔵か?

駐車場から見た松連寺全景
境内を見回しても無住ではなさそうですが、事務所入り口手前には草が茂っており、
手入れもされていない様子。もしかすると他寺院との掛け持ちなのかもしれません。
歴史ある寺院としてはここが【松連】時と言えそうです。

山門正面にあるのが寺務所の筈

書院玄関?

寺務所前の草木も伸び放題

かつて拝受した判子の御朱印
こうして炎天下の巡礼も無事?終了。駅の周辺に散らばっているとはいえ、
みな徒歩圏内で3時間足らずで拝観することができました。
1時間毎の電車は50分後なので、駅ビルで冷やしフォーを食べた後は+¥100でヨーグルトを。
昼飯後にも拘らず【ひるぜん】牛乳での〆でした。

備中高梁駅1階の「高梁ほっとカフェ」 にて冷やしフォーの昼食
残念な事に8月18日で営業終了でした。

〆はヨーグルト
[参考書]
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瑠璃山 薬師院 泰立寺(真言宗 善通寺派)
寿覚院から更に南に行った場所に建つ薬師院は、「男はつらいよ 第32作 -口笛を吹く寅次郎-」
の舞台となった寺。門前に来ると確かに映画で見た記憶が蘇りました。
仁王門の手前には山号院号寺号標が立ち、別の面には
一天泰平 四海静謐 風雨順時 百穀豊饒
と難しそうな四字熟語と
兼密乗院 穆王代
と格式のありそうな文字が彫られていますが、その直ぐ右脇には「男はつらいよ ロケ地」の石標も。
ロケ地ならではのロケーションですが、このギャップが何とも愉快です。
続いて壮麗な仁王門を潜りますが、そこに置かれた仁王像はどこかドリフターズを髣髴とさせる作風。
これも【怒りや!】と言えばそうなのかもしれません。

階段登り口に建つ山号寺号標

その脇にはこんな石標も

赤い垂れ幕が印象的な仁王門

右側の阿像

左側の吽像
瑠璃山薬師院泰立寺(るりさんやくしいんたいりゅうじ)は、
『真言宗善通寺派に属し、寺伝に拠れば寛和年中の985年頃、花山法皇の開基と伝わる。
元は別の場所に建てられていたが、火災に拠ってこの地に移転。
正保年間(1644~1648年)に伽藍が整備されたと言われる。

仁王門の先には更に階段が続く

階段途中から仁王門を振り返る

階段を上った先からの城下の眺望
本尊は薬師瑠璃光王如来、50年毎に秘仏御開帳法要が行われる。
本尊を祀る薬師院本堂は棟札に拠ると元和10年2月(1624年)の建築で県指定の重要文化財。
三間×三間の単層で入母屋造、屋根は本瓦葺で、正面一間に向拝を持つ形式となっている。
軒は二重の繁垂木で蛇腹支輪を設け、柱は来迎柱を除いて全て面取りしてあり、
組物は禅宗様の一手先を詰組としている。
正面には五段の階段を置いて登高欄を付け、四面に擬宝珠高欄付きの縁を廻らしている。
正面中央の間には牡丹の彫刻を入れた蟇股を飾り、その下には上部を菱孔子の透かし、
下部には入子板の上に模様を彫刻した両開桟唐戸を設けている。

階段先から見た境内全景

石畳の先には薬師院本堂が建つ

本堂正面

方丈前からの眺め

本堂の向拝と軒下の組物

四隅にある擬宝珠高欄付きの縁

本堂の扉

正面の両開桟唐戸と牡丹の蟇股

桟唐戸の彫刻 鷹(左)と鶴(右)
江戸時代の建築であるものの、勾配のきつい大屋根とこれを支える組物、桟唐戸の彫刻他、
随所に雄大豪華な桃山風の特徴がよく表れている。
山門右にある大仙堂の石造延命地蔵は鎌倉期の作風を感じさせる市指定重要文化財である。
また裏山には三十三観音霊場があり、参拝者が絶えない。』 とあります。

本堂前からの城下の眺望

これは子安地蔵様

手水舎にも「男はつらいよ」の札が

階段横の鐘楼

御仏の手の形をした椅子
何となく岡本太郎好みにも見える。
「第8作-寅次郎恋歌-(昭和46年)」 では寿覚寺・岡村邸の門がロケ地になっていますが、
撮影に使われたのは屋外。一方、「第32作 -口笛を吹く寅次郎-(昭和58年)」では
体調の悪い住職に代わって寅さんが急遽お坊さんに化けますが、法事に来た家族にばれてしまう話。
この時はお寺そのものが舞台でした。
二作の間には12年の隔たりがありますが、それまでは境内を貸すだけであったのが、
寺自体も使えるように変化。それだけオープンになったといえます。

方丈を左に見て寺務所へ向かう

書院玄関とその奥にある寺務所玄関

書院玄関の唐破風

寺務所全景
当院で文化財は薬師院本堂ですが、さすがにそこは使わず。
新たに建てられた本堂(方丈)が撮影の舞台として使われました。当然といえば当然ですが、
新築した伽藍を有意義に使う事ができたのは当院にとってもプラスになった筈。
仏教の聖地は映画の聖地にもなったわけですが、これを機に薬師院が【役者院】になることはありませんし、
御本尊が浅丘ルリ子如来と呼ばれることもなさそうです。

寺務所玄関にて御朱印拝受待ち

ロケの写真などは自由に閲覧できる

薬師院御朱印

下の駐車場から見た境内遠景
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光明山 寿覚院(浄土宗 知恩院派)
道路から草生した石段を登るのは頼久寺と同じ。
頼久寺から線路に沿って南下すると寺院群が続きますが、紺屋川を過ぎて少し行った場所に立つ
寿覚院前に「寅さん」ロケ地の看板が。
「はて、ロケ寺院は薬師院では?」 と思いつつ境内へ。
光明山寿覚院(こうみょうざんじゅがくいん)は、
『浄土宗知恩院派の末寺で阿弥陀如来を本尊とする。
成羽藩主山崎家治は祖父堅家の母の法名を寺号とした寿覚院を成羽後に建立。
寛永15年(1638年)、家治は天草に移封となったが、彼に従わなかった一部家臣達が
寺と共にこの地に移ったものである。

石段の先にある山門
現在の本堂は宝暦6年(1756年)に再建されたもので、
火龍の欄間は江戸中期の典型的な華やかな極彩色立体彫刻である。
本堂裏には寛永17年(1640年)銘入りの五輪塔と室町末期と思われる板碑がある。
歴代藩主の尊崇篤く、水谷・安藤・石川・板倉と歴代家臣の墓が多くある。』 とあります。
入口には「男はつらいよ」のロケ地の案内が。
「第8作-寅次郎恋歌-」で岡村邸の門と同様にこの寺院がロケ地に出てきますが、
さくら(倍賞千恵子さん)の夫の博(前田吟さん)の実家がこの地という設定になっています。

山門からの眺望
境内を上って見ても、さてどんな場面であったとピンときませんが、ロケ地の説明を見て思い出しました。
博のお母さんが亡くなって、高梁に帰ってお葬式を済ませて、皆で御墓へ行きます。
さくら ; 「お兄ちゃん、みんなの写真撮ってあげてよ!」
寅さん ; 「そっか、ここじゃぁ、俺が一番遠いんだもんな。」
寅さん ; 「はい、みんな笑って~。」
さくら ; 「お兄ちゃん、何てこと言うの!」
寅さん ; 「すまん、すまん。じゃあ、泣いて~。」
博の兄 ; 「もういい。私が撮る。」
と、私の拙い記憶に拠ればこんな遣り取りでした。世間の常識からすればけしからん話ですが、
思わず笑ってしまいます。これが許されるもの寅さんだからでしょう。

山門正面に建つ本堂
その後、一人家に帰った博の父親を夜に寅さんが訪ねて行きますが、その中の会話で、
寅さん ; 「先生の子供たちは優秀だけど、皆冷てぇなぁ。」
と言うのが印象的でした。
「男はつらいよ」では毎回マドンナが登場しますが、それに加えて常にベテラン俳優が出演。
仄聞するところでは、シリーズで山田洋次監督が是非とも起用したかったのは笠智衆と志村喬の両名だったそう。
博の父親はインド哲学を専攻する学者という設定でしたが、突然の寅さんの訪問を嫌がってはいない様子。
監督の一番伝えたかったのは、何だったのか?このシーンを思い出して考えています。

本堂前面に架けられた扁額
残念ながら参拝は外陣のみ。
話は戻ってお寺ですが、留守のようで本堂は閉まっており参拝は外陣のみ。火龍の欄間も拝観できず、
本堂裏の五輪塔と板碑を見ることが出来ただけで良かったとすべきなのでしょうか?
思わず「泣いて~。」と言いそうになりましたが…。

本堂裏手の五輪塔と板碑
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天柱山 安国頼久禅寺(臨済宗永源寺派)
本堂参拝の後は、その奥にある庭園へ。歴史のある頼久寺ですが、
その名を全国的に有名にしたのは何といってもこの庭園。
『茶人・造園家として名高い小堀遠州が備中奉行在任中に作庭したもの。
1605年頃の作庭で遠州初期の作品である。
慶長5年(1600年)、小堀新助正次が、備中国に一万石余を領したが、慶長9年に逝去。
一子の作助政一が遺領を継いだ。彼が後の遠州である。

庫裏と書院の間から見える庭園

庫裏の縁側から見た書院

庫裏縁側から見た書院東とサツキの刈込

正面奥にあるサツキの青海波
小堀遠州は天正7年(1579年)近江国小堀村に生まれる。幼名を作助と言い、長じて政一と称した。
父正次の逝去後、松山城を預かり備中の国政を司った。
備中松山城を再建し、他に名古屋情天守、後陽成院御所造営等の作事奉行を務める。
茶道・建築・造園の巨匠として名を馳せ、駿府城普請奉行を務め従五位下遠江守に叙任された。
以後、遠江守に因んで遠州と通称される事となる。幼少から茶道に励み、宗甫、孤蓬庵と号し、
「きれいさび」を確立した。正保4年(1647年)に69歳で逝去、後世に多大な影響を与えた。

青海波の右に続く鶴島

庫裏の東の縁側より見た青海波全景

鶴島と背の高い石の奥にある亀島

鶴島近影
その頃の松山城は備中兵乱で非常に荒廃していたため遠州は頼久寺を仮の館とし、
加えて当寺を外護し、元和5年(1619年)までこの地に留まった。
本庭園はその頃の遠州の作庭になるもので、蓬莱式枯山水庭園で、愛宕山を借景とし、
白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島の二つの低い築山状の島を置いて石を組み、
書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込で青海波を表現した庭園である。

亀島近影

横から見た鶴島(左)と亀島(右)

庫裏の東縁側から見た書院

庫裏に続いて書院へ向かう
鶴島は三尊の石組を中心に周囲をサツキの刈込で中島景観を表現し、
亀島は亀の姿を具象的に表現している。
また、山畔のサツキ一植の大海波を表現する大刈込は、園内で最も優れた美的景観を示している。
また二島の間には簡素な地割の池があり正面遠景の愛宕山を借景にした平庭である。
この石組及び地割の主要部には江戸時代初期の手法が見られる。

書院入口付近から見た庭園
砂の模様が鮮やかである。

悟りの窓?からの眺め
正面が青海波で左側が書院。

庫裏と書院の間の庭園

砂の波紋と青海波
このような築庭様式は桃山から江戸初期に好まれたもので、現在まで旧態のまま保存されていることは、
歴代城主の帰依の念篤い事と、歴代住職の愛山の念深き事に拠るもので、
遠州作庭中の傑作庭園と称さられて、昭和49年(1974年)国の名勝庭園に指定された。
平成21年(2009年)には本堂や書院が追加指定されている。

書院縁側から見た庭園全景

遠く愛宕山を借景にした遠州庭園

波紋の奥に鶴島と亀島

書院縁側からの鶴島・亀島遠望

砂上を庫裏まで続く置石

青海波近影
他に自筆の禁札他遺愛品数点が保存されており、庭にある高さ148㎝の石灯籠は市指定文化財。
竿の部分には暦応2年(1339年)12月沙弥西念の勧請に拠る事が刻まれているが、
異なる部品を集めた寄せ灯籠であり、火袋・中台・竿は南北朝時代、
傘と基部は江戸時代中期以降のものと考えられる。』 とあります。

書院から見た庭園と奥にある庫裏

庭園の奥にひっそりと立つ石灯籠

書院へ至る廊下から見た石灯籠

書院側からの石灯籠近影
竿の部分に刻まれた文字が見えるような…。

庫裏側から見た石灯籠近影
独断ではありますが、日本の寺院の作庭で各地に名を残している名人は?
と訊かれて名前を挙げるとすれば、夢窓疎石・小堀遠州・小川治兵衛の三名。
活躍したのは室町・江戸・明治と時代を代表すると共に、僧侶・武士・職人と
各階級を代表する造園家でもあります。
敢えて失礼を承知で言えば、そんな日本を代表する作庭家の秀作が都から遠く離れた
備中の小都市に存在するのも意外ですが、加えて作庭したのが20代半ばという年齢。
普通に考えれば、或る程度年齢を重ねて円熟味を増すものですが、頼久寺はそれにも該当しません。
それは何故か?

庭園側から書院を見る

庫裏より見た書院内部

書院の床の間

違い棚に置かれた品
私見では、若き遠州は、
「これからは平和な時代になり作庭が重要視される筈。」 と考えて、己の進む道を決めたのでしょう。
そんな彼にとって、江戸や京から離れた場所に居たのは、それらの場所から影響を受けずに
存分に自分の力量を試す事が出来たに違いありません。

こちらは書院の茶室

獅子と花(牡丹?)の欄間彫刻

茶室の欄間は鳳凰の彫刻
西洋のギルド制では親方に成るには作品を提出して認められる必要があり、
そのため後世に残る傑作が多く生まれたとか。これは今も傑作を現す
masterpiece と言う単語に残っています。
遠州も頼久寺の庭園を、作庭家小堀遠州が世に出る登竜門としたのでしょう。
ここを【演習台】として遠州は完成されたと言える感性の庭です。

茶室から見た書院北側の池
左側の建物は本堂。

本堂側から見た池と茶室

池に架かる橋にはこのようなお地蔵様が

やけに前衛的な水琴窟
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天柱山 安国頼久禅寺(臨済宗永源寺派 備中西国第五番 瀬戸内観音霊場第十三番)
武家屋敷前の通りを南下した場所に寺院が構える。
武家屋敷から南下し、線路沿いの桝形を過ぎると左手に城を思わせる白壁と高い石垣が聳えますが、
そこが頼久寺。高梁を代表する有名寺院で、拝観料を取って公開する唯一の寺院でもあります。
寺の正面は、一見すると城の入口に見える佇まいですが、これは高梁の各寺院は出城に使用されたため。
高い石垣を築き、その上に白壁がめぐらせてあるのは白は城に良く映えるからでしょうか?

入口に建つ山号寺号標と名勝庭園石碑

通りから登城するような石段を登る
石段を上り境内に入ると本堂・庫裏・仏殿が建ちます。門を入って左奥の仏殿は、
明治頃に出雲の一畑薬師を勧請したことから、近所の人には薬師堂と呼ばれています。
内陣へ入って参拝しましたが、本尊のお薬師さんと宗祖の達磨大師の像が正面に祀られている他、
両側には経典が収納されていたのが印象的でした。経蔵も兼ねているのでしょうか?
その後は、庫裏で受付を済ませてから本堂とその奥にある庭園を拝観。

石段を登った先に建つ山門

境内から見た山門
天柱山安国頼久禅寺(てんちゅうさんあんこくらいきゅうぜんじ)は、
『臨済宗永源寺派に属し、その草創は不詳であるが、かつて天忠山と号す寺があり、古堂が僅かに
存在するだけであったと言う。暦応2年(1339年)足利尊氏が諸国に安国寺の建立を命ずると、
当時の備中守・高橋又四郎が天忠寺を廃して天忠山安国寺と号して再興。
当時、中国より帰朝して備中備後路を巡錫中の寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とした。
その後を霊仲禅英禅師(勅諡・円智悟空)が継ぎ第二世となり宗風は盛んであったが、徐々に衰退する。
後に永正2年(1504年)、松山城主上野備前守頼久が大檀越となり寺観を一新、中興の祖となった。
大永元年(1521年)に頼久が逝去すると、その大功を追慕し寺号に頼久の二字を加えて安国頼久寺と改称。
後には略して頼久寺と呼ぶようになった。頼久の墓も当寺の境内にある。

庫裏入口から見た境内全景
正面が仏殿(薬師堂)、右が本堂。

仏殿(薬師堂)近影

仏殿前の花頭窓

仏殿入口の欄間彫刻と屋根裏の組物
その後、備中松山は城主が上野氏・庄氏・三村氏と移り変わるが、戦国時代に入ると、
織田信長の中国制覇と安芸毛利一族の中央進出の戦いである備中兵乱の舞台となった。
備中松山城主であった三村家親は毛利元就輝元に叛き織田信長方に付いたため
毛利の攻撃を受け、永禄9年(1566年)に宇喜多直家に拠って興禅寺で暗殺、
子の元親は備中兵乱で毛利・宇喜多連合軍に敗れ、天正3年(1575年)松連寺で自刃。
更に孫の勝法師丸は小早川隆景に拠って殺害といずれも悲運の死を遂げた。
境内には三村氏三代の墓が残る。
この兵乱で頼久寺の伽藍は焼失、書籍や什物の殆どが灰燼に帰し、開山自讃の頂相、
開山が二世に与えた禅板しか残らなかったという。
後にこれをいたく悔いた毛利輝元は家臣である天野元明・元信に命じ、堂宇を悉く旧観に復興させた。

仏殿の内陣へ入り参拝

仏殿奥に祀られた御本尊
薬師如来(中央)と宗祖達磨大師(左手前)は分かるが、両脇侍は誰でしょう?

仏殿脇に積まれた仏典一覧
流石に積ん読ではない筈。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦後は、備中松山は毛利から徳川の支配となり、家康の命を受けた
小堀政次が奉行として着任。城がない状態であったので当寺を仮の館とした。
政次は開山から九代目の礼安衆文禅師を中興開祖とし、政次の後を継いだ政一(遠州)は家康に願い出て
頼久寺に朱印20石を賜っている。政一は元和3年(1617年)河内国奉行に移るまでの13年間、この地で政務をとった。
城主は、池田家、水谷家と変わるが、三代目の水谷勝美は元禄6年(1693年)に31歳で急逝、
更に継嗣も13歳で亡くなったため水谷家は断絶、所領没収となった。
城の受け取りは赤穂藩の浅野内匠頭長矩に命じられ、家老の大石内蔵助が当地に滞在して実務を担った。
その際に、大石が頼久寺に宛てた二通の書状の写しが今に伝わる。

仏殿前から城下を見下ろす
前方の線路は伯備線。

塀の傍に建つ鐘楼
その後の城主は、安藤家、石川家、板倉家と代わり明治維新を迎えるが頼久寺も栄枯盛衰を辿る事となった。
当初、山号は天忠山であったが、十三世越宗妙謙禅師が、その字義が明らかでないと言う理由で
現在の天柱山に変えている。伽藍は江戸後期の天保10年(1839年)の大火でも全焼し、
現在のものはその後の再建である。
尚、当山御本尊は聖観世音菩薩で備中西国第五番の札所であり、昭和60年3月に開創された
瀬戸内観音霊場第十三番の札所でもある。』 とあります。

山門正面に建つ本堂

本堂に続く書院玄関と庫裏
奥の庫裏入口で庭園拝観受付を行う。

書院玄関の唐破風
三村家は毛利から織田に鞍替えした先見の明はあったのですが、
相手が宇喜多直家と毛利という戦国を代表する謀略家だったのが不運でした。
三代続いて悲劇的な死を迎えた訳ですが、根は真面目な人だったのでしょう。
宇喜多直家などは、後に信長に寝返って所領を安堵されています。
もう少し狡賢さがあれば、また違った展開になっていたかと悔やまれます。
江戸時代に城の受け取りが赤穂藩の手で行われたのにもびっくり。それから10年経たない内に、
赤穂藩が同じ運命を辿るとは浅野・大石の両名は夢にも思わなかったに違いありません。

庫裏受付

頼久寺説明書

以前に拝受した御朱印 (聖観世音)

今回拝受した御朱印
若干、印に変化が見られる。
庭園で有名な優雅な寺の印象がありますが、その沿革を辿ると、まさに血みどろの戦国乱世を体現。
尤もこれは頼久寺のせいではなく、当地が中国地方を抑える拠点であったため。
城は有事の際には兵士の駐屯地となったので、避けられない定めではあります。
頼久・安国と良い名が付いているものの、内実は敵の来襲が絶えない【暗黒時】。
まさか山号の天忠を変えたことで【天誅】を受けたとは思えませんが…。

受付後、本堂内陣で御本尊に参拝

内陣に置かれた衝立
墨で描かれた〇は悟りの境地を表すか?
[参考書]
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:31) → JR備中高梁(10:13)
備中高梁駅前 → 徒歩5分 → 郷土資料館・安正寺 → 紺屋川筋 → 商家資料館 → 武家屋敷 → 頼久寺 → 寿覚院 → 薬師院 → 松連寺 → 備中高梁駅前
【復路】備中高梁(13:51) → JR岡山(14:56→15:11) → JR相生(16:16→16:18) → JR姫路(16:39→16:42) → JR大阪(17:43)

元池上醤油醸造元
高梁川に沿って走る180号線から一筋東へ入った通りが本町。
その中でも一際大きな醤油醸造元池上邸が商家資料館として無料で公開。
家屋の他、醤油蔵・製造場などが見学できる休憩所となっています。

北から見た本町の通り
左が商家資料館、右が今年1月に開業した町屋旅館・天籟。
『本町は慶長10年代(1605~1614年)に小堀正次・政一(後の遠州)親子が備中国奉行(備中代官)として
着任してから備中松山城の修復と備中国特産物の生産・集荷及び家臣団の需要に対して、
武家屋敷の西の松山川(高梁川)に沿って町屋作りに着手したのが始まりである。

商家資料館の入口にはかつての看板が掛かる

玄関を入ると直ぐに帳場が

帳場の横は商談の間か?
その後の水谷時代(1642~1693年)に資源開発・物流の大動脈として松山川の航路整備と高瀬舟の
発着場を本町と下町に作った事で、物流の忠臣としての本町にあらゆる業種の有力商人が集まり、
経済活動の中核地域として賑わいを見せた。』 とあります。

かつての醸造場も今は休憩所

醸造を育んだ井戸

最奥に建つ頑丈な建物は醤油蔵
場所的に見ると東の高台には武家屋敷が、西の川沿いには商家群ときちんと棲み分けがされています。
武士は高台で自尊心を満足させ、商人は川沿いで物流に利便性が高いという双方に有利となっています。

母屋と作業場の間にある庭

庭園は母屋から蔵まで細長い造園である

蔵前から見るとこんな感じ
江戸時代は士農工商の階級制が厳しかったと言われますが、階級間の格差よりも同じ階級の中での
格差が大きかったのが事実。
ここ商家資料館でも人形の調度品や庭園を見るにつけ武士の館との遜色は感じられませんでした。
近世は今と比べても決して住み心地の悪い時代ではなかったようです。

館内に飾られている三次人形

これは油屋主人が三次人形に似せて作った天神人形

醤油樽の上に飾られている人形
藤娘(中)と連獅子(右)は分かるが左は何?
[参考書]
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紺屋川付近の美観地区にある造り酒屋
安正寺から再び北へ向かうと西に流れる細い川が眼前に。これが紺屋(こんや)川で、高梁を代表する美観地区。
『城下町を西へ流れ高梁川に注ぐ紺屋川は、かつて備中松山城の外堀の役割を果たしていた。
河畔には美しい桜と柳の並木が続き、その周囲にある白壁・格子窓・蔵などと相俟って情緒ある町並みを形成。
紺屋川美観地区として 「日本の道百選」 にも選ばれている。

紺屋川に架かる住之江橋にて
奥に見えるのが有終館跡。

西から見た紺屋川
橋の上には祠が建つ。

祠の正面に回る
そんな中で一際目立つのが高梁キリスト教会堂。高梁でのキリスト教布教は
明治12年(1879年)10月に始まるが、翌13年に新島襄が来高して活動が急速に発展。
明治15年に高梁キリスト教会設立、同22年には信者の浄財で教会堂が建設された。
これは現存する県内最古の教会堂で、プロテスタントとしては同志社のチャペルに次いで古い。

東より見た紺屋川沿いに建つ高梁キリスト教会堂

正面から見た教会堂
門は閉まっていたが、ミサ中でなければ見学できたらしい。
また市内で最初に建てられた擬洋風建築で、設計は今治市の吉田伊平に拠る。
構造は木造平屋建・切妻造で、正面の車寄二階は菱組天井・漆喰塗の軒蛇腹であり、
トスカナ様式の二本柱が寄棟の屋根を支えている。鐘楼は昭和28年に付け加えられたものである。
当教会からは岡山県初の女学校創設者・福西志計子や木村静を始め、
日本福祉事業の先駆者である留岡幸助など数多の人材が輩出した。』 とあります。

正面に張り出した車寄せ

横から見た教会堂全景
この形は中世西洋の教会に似ているかも…。

教会堂の東には岡山県初の女子高跡地が
川と名が付く割には水量が余りにも少なく、果たして水運に利用できたのか疑問でしたが、
城の外堀の役目を担っていたと知り納得。商家は紺屋川が高梁川に合流する付近に集中していますが、
これは荷物を積み込みやすくするために他なりません。

紺屋川の北側にある消防倉庫兼公衆便所

こちらは川の南側に建つ商家
なまこ壁の建物の向こうは高梁川が流れる。

こちらは 「備中たかはし 町屋賞」 に選ばれた家屋

高梁川と紺屋川の合流点付近のなまこ壁町屋

高梁川と180号線を分ける塀も町屋風
そんな場所に日本家屋と教会堂が並んでいるとは不思議ですが、それほど違和感はありません。
何でもこの教会堂は元宮大工の手になるそうで、建築当初はフローリングではなく畳敷きになっていたとか。
そう思うとどことなく寺院の造りにも似ていて周囲と微妙なバランスを取って存在しています。
云わば和様備中もとい折衷ですが、外から物を受け入れる際に
既存の物に関連付けるのを得意とする日本人らしさが出たと言えるでしょうか。

180号線沿いに建つ旅館・油屋
昭和46・58年の二度、寅さんのロケに使われたとある。

高梁川に架かる方谷橋のたもとにあるここから本町へ向かう

本町から方谷橋を遠望

本町にある醤油店
[参考書]
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備中高梁におけるキリスト教会の成立: 新島襄の伝道と新しい思想の受容 新品価格 | ![]() |

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慧日山 安正禅寺(曹洞宗 永平寺直轄別録所)
山田方谷記念館と彼の銅像の建つ郷土資料館の直ぐ東側、伯備線沿いにあるのが安正寺。
城主の菩提寺との事で、門前には寺標の脇に遥かに高い下馬の高札が建ちます。
慧日山安正禅寺(えにちざんあんしょうぜんじ)は、
『備中松山城主・板倉氏の菩提寺で曹洞宗に属する。板倉家歴代の香華院御霊位祭祀の道場で、
大本山永平寺直轄別録所格式を誇る。延享元年(1744年)備中松山城主となった第七代勝澄は
現在地に御霊堂を建立、板倉家歴代の位牌を祀り御仏殿とした。

塀の向こうに見える本堂屋根

安正寺の席標と下馬の高札

門前には旧制高梁中学発祥の碑も建つ

境内側から見た山門
京都所司代に任じられた初代勝重・二代重宗から幕末の老中首座を務めた勝静までの霊を祀る。
朝敵となった当藩家臣団と朝廷側の岡山藩との交渉が行われたのも当寺である。』 とあります。
境内は別段観光に重点を置いている様子はなく、堂内での内陣参拝も自由。
内陣奥には立入禁止の幕が下がった廊下がありましたが、後で境内から見ると
廊下の先にある建屋が位牌を祀る御仏殿の様でした。

山門の正面に建つ本堂

本堂前面に掲げられた「安正寺」の扁額と向拝欄間の龍の彫刻

内陣に掲げられているのは「慧日山」の扁額
この後、足を運ぶ寺院群は線路を越えた高台に南北に連なりますが、当寺はそこからは少し離れた場所。
藩主菩提寺として足を運びやすい平地のこの場所に置かれたのか、或いは東の寺院群では
どこを菩提寺にするのか甲乙つけ難く、揉めることのないようにこの場所にしたのかは分かりません。
唯、当寺はそれら寺院群とは一線を画しているのは感じられました。
幕末には交渉の舞台となったのは菩提寺としての格式も与ったのは確か。
結果的には無血開城となったのですから、役目は十分果たしたと言えそうです。
【あんしょう】に乗り上げなかったのは何よりでした。

本堂奥から渡り廊下で繋がるのは位牌を祀る御仏殿

本堂に続く書院玄関

本堂前から山門を見る
向こうに見える水色の建物は郷土資料館。
[参考書]
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JR備中高梁駅前に建つ山田方谷銅像と「至誠惻怛(しせいそくだつ)」碑
市内を歩くとやたら目にするのが山田方谷と言う名前。駅前には銅像が建ち、
彼方此方には「山田方谷を大河ドラマに」と書かれた幟もあります。
備中高梁駅から米子方面に三駅先の駅名は「方谷」で彼の出身地。
昭和3年の駅開業時には地名の「中井」となる筈でしたが、
地元住民の運動で「方谷」になったという経緯があります。
今でこそ、宮本武蔵(智頭急行)・吉備真備(井原鉄道)と人名を冠した駅は散見されますが、
国鉄時代には人名の駅は方谷のみ。私は未訪ですが、方谷駅の待合室には
「日本で唯一の人名駅」と壁面に書かれているそうです。
これも地元住民に慕われているからに相違ありませが、ここまでされる山田方谷とは一体どんな人物なのか?

観光案内所で入手した無料冊子
『山田方谷は文化2年(1805年)、備中国阿賀郡西方村の生まれ、幼名は阿璘(ありん)、名は球(きゅう)、
通称は安五郎、方谷はその号である。時代が大きく変わろうとする幕末から明治にかけて活躍した。
5歳で新見藩の儒者丸川松隠に入門。神童の誉れ高く、その噂が藩主の耳に入り御前で
揮毫を披露したのは6歳の時であった。文政3年(1820年)には母、父を相次いで亡くしたため帰郷、
家業の傍ら備中松山藩主板倉勝職(かつつね)から、藩校「有終館」での修行を許された。
後に京都・江戸へ遊学。江戸では佐藤一齋の門下に入り陽明学を修得。後には塾頭に至った。
同門には佐久間象山が居る。
帰国後の天保7年(1836年)、32歳にして有終館の学頭を命ぜられ、またその傍ら私塾「牛麓舎」を開学、
二松學舍大学を創設した三島中洲や越後長岡藩家老河井継之助など優秀な人材を育成した。
有終館は天保10年に火災で焼失するが方谷の尽力で現在の場所に再建。
その時に方谷に拠って植えられた黒松が門脇に聳える。

郷土資料館前に建つ銅像
嘉永2年(1849年)に藩主となった板倉勝静(かつきよ)から元締役兼吟味役に任じられ、財政改革に着手。
産業の振興、情報の公開、流通機関の整備等、画期的な瀬策を実施し藩政改革の実を挙げた。
当時の備中松山藩には10万両に及ぶ借金があり、方谷は藩札の信用を高めるため、
嘉永5年(1852年)には藩札の半数以上を回収し、近似河原で焼却するという事を行った。
その甲斐あって財政も好転、安政4年(1857年)に元締役を退任する際には借財を整理した上、
余財10間万両を残す成果を挙げた。

臥牛山麓に建つ方谷学舎高等学校
財政に加えて政治的にも活躍、藩主勝静が寺社奉行・老中首座になると、幕政顧問として難事に奔走。
戊辰戦争では勝静が旧幕府軍に従って箱館まで転戦するという事態の中、留守を預かった方谷は、
鎮撫使である岡山藩に対し備中松山城を無血開城。城下と人々を戦禍から守った。
唯、その際に藩の優秀な人材であった熊田恰(あたか)が新政府軍の命で玉島で自刃という悲劇も生んだ。
明治維新後は、長瀬塾(高梁市)、小阪部塾(新見市)を開設して門弟の指導に専念、閑谷学校の再建にも尽力した。
明治10年6月26日小阪部にて死去、享年73歳。奇しくも孔子と同年であった。
枕元には板倉勝静から賜った短刀と王陽明全集が置かれたという。
方谷の理念は「至誠惻怛(しせいそくだつ)」即ちまごころといつくしみであり、
今も地域の人々の心に深く刻まれている。』 とあります。

頼久寺脇にのこる山田方谷先生寓居址

寓居址と方谷の碑
陽明学とは明の王陽明が創始した学派。教科書的には思想家とされますが、東洋史をかじった者にとっては、
科挙に合格し赴任先の地方政治に尽力した官僚・王守仁と言う方がしっくりきます。
彼の時代は明朝の中間期、君主の武宗は宦官に政治を任せ、明朝が衰退に向かう分岐点となりました。
そんな状況下にあって王守仁は、腐敗した政治の立て直しに尽力。
それ故、彼の思想の根本にあるのは、単なる机上の学問ではなく政治に直結した実践倫理。
彼の思想は我が国へも伝わり形骸化した朱子学に新たな風を起こしました。
近江聖人と呼ばれた中江藤樹、弟子の熊沢蕃山に始まり、戦後、吉田茂を筆頭に歴代首相の
政治指南役であった安岡正篤まで続きます。大塩平八郎もそうですし、幕末の維新運動にも大きな影響を与えました。

紺屋川北側にある藩校・有終館跡
塀の向こうには方谷が植えた黒松が聳える。
山田方谷の生涯を見ると、子弟の教育に始まり、財政改革、無血開城とまさに八面六臂の活躍。
常に実践に結び付いた陽明学に沿ったものと言えます。そんな中にあって天寿を全うして
【有終】の美を飾ったのは奇跡と言って良いでしょう。
そんな偉人にも拘らず知名度が今ひとつなのは、歴史小説や伝記に取り上げられる事が少なかったから。
誤解を恐れずに言えば素人受けする偉人ではなかった事に尽きるでしょう。
そんな人物に光が当てるのが歴史家の務めですが、昨今は新たな人物の発掘よりも
既知の人物の焼き直しが目立つようです。
そうかと言って拙稿が役に立つ訳ではありませんが、投稿も【いや未だ】なので報告に及んだ次第。

正面より見た有終館跡
今は保育園となっている。
[参考書]
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伯備線の向こうに聳える臥牛山
夏の青春18きっぷの初めは、備中の小京都高梁へ。下車したのは伯備線備中高梁駅。
古代王国のあった吉備と出雲を結ぶ交通路は1500年に及ぶ歴史を持っていますが、
伯備線は高梁川・日野川と言った川沿いに吉備と出雲を結ぶ横断線として敷設。
昭和43~48年にかけて倉敷~備中高梁間は複線化、特急停車駅でもあり当駅発着の列車も多く
備中北部の主要駅となっています。路線としても幹線扱いで、歴史の【機微】に接した【白眉】と言えましょう。
そんな伝統のある駅も今は駅員不在の時間が多いのが実情、地方再生を謳いながら
その対応には首を傾げたくなるのは私だけでしょうか?

JR備中高梁駅スタンプ
(上) 国鉄時代の「わたしの旅」印 (下) 2006年JR西日本岡山支社印

WEST EXPRESS 銀河運行に合わせて別バージョンも設置
但し設置場所は駅ではなく、改札を出た高梁市観光案内所。

高梁郵便局 ; 重文・備中松山城
高梁市は13世紀、秋庭氏の臥牛山上の築城に始まる備中第一の城下町。
駅から北へ3㎞程行った場所に、江戸時代に築かれた日本一高い山城・備中松山城が聳えます。
近世備中松山藩の城下町として発展し武家屋敷、商家や寺社が残り、映画 『男はつらいよ』 で
二度もロケに使われた場所。
駅から北へ伸びる城見通りを少し行くと右手に見える洋風建築は明治37年に建築された高梁尋常小学校本館。
今は高梁郷土資料館として第二の人生?を歩んでいます。
全国には小京都と呼ばれる(小京都に加盟している)町が50以上ありますが、規模は平野・盆地と様々。
そんな中でここ備中高梁は盆地ですらなく、高梁川に沿った僅かな平地に人が密集したような状態。
こんな面積にも拘らず城下町を形成したのは、交通の要衝としての役割が大きかったためでしょう。
一概に広ければ良いものではありません。

昭和53年開館の高梁市郷土資料館はかつての尋常小学校

資料館入口は小学校の玄関か?

入口脇には二宮金次郎像が建つ
永らく備中松山と呼ばれていたものが、何故高梁になったのかについては、複雑な経緯が。
室町初期に此の地の城主となった高橋宗康は、己の姓を領民に呼ばれるのを好まず松山に改称。
その後、永く松山が続きますが、最後の藩主板倉勝静が幕府に従って箱館五稜郭まで転戦。
留守を預かった藩儒の山田方谷の方針で無血開城したので焼き討ちは免れましたが、
新政府の命令で、城下を流れる高梁川の名に改名したそう。漢字は変わっても
「たかはし」になったのですから、元に戻ったとも言えます。

日本の道百選に選ばれた「紺屋川」 沿い

紺屋川を通る伯備線

のぼりの特急「やくも」 が通過中
[参考書]
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里庄駅 → 徒歩15分 → つばきの丘運動公園 → 徒歩25分 → 不動院 → 徒歩15分 → JR里庄(11:32) → JR岡山(12:12→12:16) → JR茶屋町(12:33) → 徒歩25分 → 盛綱橋 → 徒歩3分 → 藤戸寺
【復路】JR茶屋町(14:49) → JR岡山(15:02→15:11) → JR相生(16:16→16:18) → JR姫路(16:39→16:42) → JR大阪(17:43)

補陀落山 千手院 藤戸寺(高野山真言宗)
再建された伽藍が多い藤戸寺ですが、唯一の文化財が五重塔婆。
『本堂の北西には県下最古の石造五重塔が建つ。高さ355㎝の花崗岩製で、塔身には四方仏が刻まれ、
源平合戦の供養塔と考えられる。頂上の相輪は後補であるが、他は良く保存されており、
殊に輪郭を巻いた初重塔身四方仏の表現が優れている。
全体の様式も古風である。その初重東面の輪郭下部に「寛元元年(1243年)十月十八日」の刻銘があり、
鎌倉中期の基準作例として貴重である。』 とあります。
至近で見た五重塔婆ですが、さして芸術性は感じず。これが重視されるのは、
偏に刻銘が【克明】に残っているからに他なりません。これも示準化石の一つと言えましょうか?

重文・五重塔婆近影

五重塔婆解説

塔身の四方仏
『また境内には
・いま刈田にて 海渡る 兵馬見ゆ 山口誓子
・お遍路や 杖を大師と たのみつつ 森白象
の句碑が残り、また四季折々の草木で彩られている。
夏至の頃には 『平家物語』 所縁の沙羅双樹の花が咲き、往時を偲ばせる。
・幸せは 静かなるもの 沙羅の花 白象』 とあります。
句碑の作者の白象という名は初耳でしたが、これは高野山管長森寛紹師の事と説明にありました。
普賢菩薩が乗るのが白象だったかと記憶しています。

参道右手の広場に建つ山口誓子句碑

鐘楼堂脇の森白象句碑

書院玄関に架けられた森白象の句
さてその後は 「早速、本堂にお参りして御朱印を」 と思って向かうと何やら内で声がする。
覗いてみると、熱心に抱擁チュー、ならぬ法要中。これでは参拝&御朱印も絶望的ですが、
寺務所を訪ねると住職夫人が対応下さり、何とか判子タイプの御朱印を拝受できて一安心。
御住職は外出が多いので、御朱印の際は予め連絡を入れるのが良いそうです。

参道左手の桜の脇を抜け書院(庫裏)へ

書院玄関

急遽対応頂いた藤戸寺御朱印
沙羅双樹の寺院として有名ですが、コロナの影響下のため書院での鑑賞は中止。
その代り境内には桜・ミツマタ(三又)を始めとする木々が整備されて植えられていました。
私 ; 「お釈迦様の涅槃に登場する沙羅双樹は、この樹とは違うのでは?」
婦人 ; 「はい。日本ではナツツバキを沙羅双樹と読んでいます。」
少し考えてみたら、インドと日本では気候も植生も違うので当然の事。
後で知りましたが、司馬遼太郎も 『街道をゆく』 で同じことを書いています。

玄関左には榧?の木、書院奥には木斛

玄関右手の源平椿

椿の横は樹齢数百年のヤマモモ

参道脇の桜全景

未だ小さい沙羅の花

これはミツマタ(三又)の花
参拝の後は再び茶屋町まで歩きますが、その前に門前の店に立ち寄って土産を購入。
「藤戸まんぢゅう本舗」は、
『佐々木盛綱に切られた漁師の御霊祭が藤戸寺で行われた際に、近くの民家から饅頭が供えられたのが起源。
その後、境内の茶店にて多くの参詣者に親しまれ、江戸時代には 「饅座小屋」 と呼ばれる製造元の民家に
販売所が移転。これが今に続く「藤戸まんぢゅう本舗」である。
平成17年1月24日には映画 「ALWAYS 3丁目の夕日」のロケの撮影場所となっている。』 とあります。

「藤戸まんぢゅう本舗」

店内の様子
お店の方の御好意で撮影。

映画ロケ地の解説
観光地の土産は包装に拘って中身は二の次のようなものが多いですが、これは昔ながらの素朴な味。
贈答用に寺を描いた箱入りもありますが、お店の方の勧めで簡易な包装を購入。値段・大きさ共に手頃でした。
さて店を出ると前の道路をバスが通り過ぎました。
気になって時刻表を見ると、倉敷駅~児島駅を結ぶバスが30分間隔で運行中。
前もって分かっていれば、茶屋町駅から25分かけて歩く必要もなかった訳で、
次回来る時にはバスを利用して【茶屋待ち】と行きたいものです。

贈答用にはこちらがお勧め

土産に購入した「藤戸まんぢゅう」
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<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:31) → JR岡山(9:08→9:11) → JR里庄(9:51)
里庄駅 → 徒歩15分 → つばきの丘運動公園 → 徒歩25分 → 不動院 → 徒歩15分 → JR里庄(11:32) → JR岡山(12:12→12:16) → JR茶屋町(12:33) → 徒歩25分 → 盛綱橋 → 徒歩3分 → 藤戸寺
【復路】JR茶屋町(14:49) → JR岡山(15:02→15:11) → JR相生(16:16→16:18) → JR姫路(16:39→16:42) → JR大阪(17:43)

補陀落山 千手院 藤戸寺(高野山真言宗)
寺院の場所は、かつては海に小島が散在する海峡の場所で、高台に大きな伽藍が聳えます。
山門はありませんが、入口に立つと正面に幅広い階段が見え、そこを上ると
更に階段があって上った先に建つのが本堂。

参道と石段の奥に建つ堂宇

階段左手の桜
補陀落山千手院藤戸寺(ふだらくさんせんじゅいんふじとじ)は、
『慶雲2年(705年)、この辺りが未だ海であった頃、この藤戸の海より千手観音像が浮かび上がり
安置したのが始まり。その後、三十余年を経た天平年間に行基が諸国を巡錫した際に、
この千手観音を本尊として藤戸寺を創建した。

最初の階段を上った先にある広場
更に登ると大師堂・本堂・不動堂・鐘楼(左から)が建つ。

大師堂は廻廊で下の書院(庫裏)へと繋がる

広場に掲げられた藤戸寺縁起
寿永3年(1184年)12月、源平合戦の藤戸の戦いで源氏の武将・佐々木三郎盛綱は、
この藤戸海峡を馬で渡り先陣の功を立てた。その戦功に拠り児島の郷を受領し入国した際、
合戦で荒廃した寺院を修復し、源平両軍の戦没者及び、先陣の手引きをしたものの
秘密保持のために盛綱に切り殺された漁師の霊を慰めるために藤戸寺で大法要を行った。
そして寺前の飛境内であった小島に経を納め供養塔を建立、これが経ヶ島である。
尚、この史実は謡曲 『藤戸』 として古来より広く演じられ歌い継がれている。

正面より見た本堂

向拝に吊るされた鰐口は長寿鐘とも呼ばれる

前に張出した向拝
応仁の乱以降は、内続く戦乱で度々戦火に見舞われたが、
江戸時代に岡山藩の領地となって漸く伽藍が整備。
現在の本堂は5代藩主・池田治政の命で天明元年(1781年)に再建されたものである。

本堂に掲げられた 「藤戸寺」 の扁額

本堂向拝下から大師堂方面を見る
本堂に向かって左側に大師堂が回廊で繋がり、右側の廊下の先には不動堂が建つ。
江戸時代以降、毎月21日は藤戸のお大師さまとして縁日で賑わい、5月21日には
檀家信徒の先祖供養に加え、源平合戦戦没者・中興の佐々木盛綱・漁夫の供養も行っている。
手前に建つ鐘楼堂は、柱と柱の間の貫がなく、支柱が石という珍しい構造である。』 とあります。

本堂より見た大師堂側面

大師堂と本堂を繋ぐ回廊

本堂右手奥の不動堂

不動堂正面

鐘楼堂
本堂はどっしりと中央に構えており、脇侍を随えた御本尊という表現がしっくりきます。
唯、脇侍に見える大師堂ですが、21日の縁日だけは主従が逆転するようです。
古刹ながら古びた感じは全くない近世式大伽藍で、時代劇にも出て来そうと思いましたが、
実際にテレビドラマの水戸黄門のロケでも使われたそう。誰しも考える事は同じです。

境内の宝篋印塔

北側の階段から本堂を見る

階段下の子育子授地蔵尊

地蔵尊から盛綱橋を見下ろす
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補陀落山 千手院 藤戸寺(高野山真言宗)
盛綱橋にある盛綱像
里庄で用事が済んだのが11時半ば、近畿まで戻ると夕方なので倉敷市内の藤戸に建つ
【クラッシッキ】な寺院を拝観する事に。茶屋町駅で下車して南へ徒歩25分。
倉敷と言っても美観地区とは随分離れますが、藤戸へ至る道筋には昔ながらのなまこ壁の家屋が連なっていました。
ここもやっぱり倉敷か!と感心しましたが、一軒に「入居者募集中」の看板があったのには驚きました。
藤戸は今では陸地ですが、かつては海に小島が散在する海峡の場所で、高台に大きな伽藍が聳えます。

倉敷川に沿って走る165号線

倉敷様のなまこ壁家屋
『藤戸・天城の山岡はかつて藤戸海峡に浮かぶ島であった。その後、次第に開発されてかつての海の姿は消滅。
今は、南北に流れる倉敷川が僅かにその名残を留めるのみである。
この橋の上流が源氏の武将・佐々木盛綱が渡海先陣で功名を挙げた藤戸の合戦のあった源平古戦場で、
多くの史実・伝説を今に伝えている。佐々木盛綱は平安末期に活躍した源氏の武将。
治承4年(1180年)、源頼朝が平氏打倒を掲げて挙兵するとこれに参加。
寿永3年(1184年)の藤戸合戦では、当時は島であった児島に陣取る平氏を攻めるのに、
地元の漁師の若者に浅瀬の場所を聞き出し、騎馬で藤戸海峡を渡って見事先陣を遂げたと
『平家物語』にある。盛綱はこの功に拠り児島に領地を与えられ、一族が土着した。

盛綱橋の手前の家屋

倉敷川に架かる盛綱橋と橋を渡った先に見える藤戸寺
しかし平家にこの秘密が漏れる事を怖れた盛綱は、その漁師を切り捨てたと伝わり、
これが後世謡曲『藤戸』として語り継がれる事となった。
地元には盛綱が馬で乗入れたという「乗り出し岩」、漁師の供養塔とされる石塔がある
「経ヶ島」等所縁の史跡が残る。漁師には老いた母親がいたが、息子の無残な最期を知り、
佐々木と聞けば笹まで難いと笹を抜き払ったが、それが今の「笹無山」と言う。

橋の手前端にある倉敷川と藤戸合戦の銅板

橋を渡った端には盛綱橋の銅板が
川向こうの盛り上がった場所が経ヶ島か?
江戸時代の寛永16年(1639年)、岡山藩家老・池田由成が天城に居館を築き、侍屋敷を中心とした町造りを実行。
従来「徒渡り」や「渡し」であった藤戸~天城の間に正保4年(1647年)に藤戸大橋・小橋を架け交通の便を図った。
以降、岡山城下栄町を起点として早島・児島・下津井に至る四国街道の往来が活発となり、
江戸時代後半には金比羅詣りの信仰の高まりと共に、この橋を多くの人々が往来。
橋周辺は川湊として近隣の物資の集散地として大いに賑わったという。
近世に入ると交通網が発達し橋の架け替えが必要となり、大正15年(1926年)4月にトラス橋が完成。
「盛綱橋」の名は、佐々木盛綱の藤戸渡海先陣に因んで時の県知事が名付けたと言う。
多くの人に親しまれた橋も昭和の終わりと共に、その役割を終了。
平成元年には総工費1億円の二代目「盛綱橋」が完成し今に至っている。』 とあります。

橋上の海を渡る佐々木盛綱像
腰から下がないのは海中に浸かっているからで、手抜き・原料節約ではない。

盛綱像の台座に嵌め込まれた橋由緒
この藤戸海峡を馬で渡り先陣の功名を挙げた源氏の武将・佐々木三郎盛綱は、
予め地元の若い漁師に浅瀬を訊くと言う【巧妙】さでした。
戦功で児島の郷を受領し入国した際、源平両軍の戦没者を慰めるために藤戸寺で大法要を行い
合戦で荒廃した寺院を修復しています。
しかし平家にこの秘密が漏れる事を怖れた盛綱は、その漁師を切り捨てたとされます。
まさに“恩を仇で返す”を地で行く話で、三国志の曹操にも同じような話が。
いくら乱世とは言え、随分酷い話もあったものですが、情報提供者を殺すようでは、
今後一切情報を得るのは不可能で、それに気付かない程、盛綱は愚将だったとも思えません。

橋上から倉敷川を望む

藤戸寺所蔵の「源平藤戸合戦大絵図」
私の勝手な想像ですが、
若い漁師は盛綱から褒美を貰ったものの、母親をほったらかして逃亡、或いは若い娘と駆け落ちしてしまった。
後でそれを知った母親は怒り心頭で、或ることない事を触れて回った。と言う方が無理の少ない気がします。
盛綱にしたらとんだとばっちりですが、しかしこれでは文学にはならんので、謡曲に使われる際に事実を【歪曲】。
この事で一番得をしたのは、若い漁師。文字通り「漁夫の利」でした、と言うのが案外真実に近いような。
藤戸合戦だけでなく、何事も【うら】があると見るのが良さそうです。

藤戸寺境内にある義太夫 『藤戸の浦』 公園の様子

石垣の上に聳える藤戸寺
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三部山 不動院(高野山真言宗 瀬戸内三十三観音霊場第十九番札所)
外陣からの本堂拝観も終了して余った時間で境内を散策する事にしましたが、
真っ先に目に飛び込んでくるのが陶器製の五重塔。以前の里庄駅スタンプの図柄にもなった秀作ですが、
駅は無人化されて久しく、折角のスタンプもお蔵入り。もう少し工夫はできなのでしょうか?

国鉄時代の「わたしの旅」印

2006年設置の岡山支社印
『宝篋印塔は宝暦12年(1762年)建立の供養塔で全長4.4m。周りには町花である椿が植えられている。
その横にある五重塔は明治44年(1911年)、安原吉三郎・藤沢まつの二人が寄進した供養塔で高さ3m、
里庄の陶工妹尾石平、妹尾俊男の製作とされる。天正年間から製作が続けられている「大原焼」であるが、
現存するものとしては代表的とされる名品である。

山門脇の宝篋印塔

宝篋印塔近影

五重塔近影

五重塔の基底部分
客殿には昭和14年(1939年)廣江一男の作品である「大原焼」の布袋像、中庭には江戸時代後期の名工
妹尾勘次郎の作品である浦島太郎と大坂城の「大原焼」がある。
境内には古瓦や銅版に拠るアート作品も展示。東端には不動院青年部が、平成の大改修で不要となった
1万枚の古瓦を使用。全長10mの龍、山・塔・牡丹を製作した。』 とあります。

境内の手前にあるアート作品
奥に見えるのが瓦で造った龍。

龍全景

瓦で造った山

瓦の山の頂上には五重塔のミニチュア版が載る
岡山の焼き物と言えば、六古窯の一つとされる備前焼ですが、ここは備中。
大原焼に関しては奈良時代に遡り、無釉薬で日常品を焼いていたとか。
備前の後塵を拝するのが嫌なのかどうかは知りませんが、
かつては殆ど途絶えかかっていたものを復活させた功績は高く評価すべきでしょう。

五重塔周辺の椿

地面に落ちた散り椿
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三部山 不動院(高野山真言宗 瀬戸内三十三観音霊場第十九番札所)
丘の上に着いたら愈々境内へ参拝。正面には文政11年(1828年)建立の立派な山門が聳えますが、
手前に壁が途切れた場所があり参拝者はそこから入るのが一般的な様子。
しかし今回は敬意を表して山門から入山する事にしました。

文政11年建立の山門
扁額は「三部山」と書かれている。

山門の手前から境内を見渡す
三部山不動院(さんぶさんふどういん)は、
『寛文5年(1665年)、備前藩主の池田光政が領内の寺院を整理、世に「寛文の法難」と呼ばれる。
その際に、三部山霊山寺も廃寺となったが、同寺の住職であった智算(ちさん)和尚が、
この地に霊山寺の中堂があった事を奇貨とし移居。元禄6年(1693年)に智算を開基として不動院を創建した。
当時の新庄村は摂州麻田藩の領内で、備前藩領の寺院整理に関係がなかった事が幸いしたと言える。

正面より見た本堂
本尊・不空羂索観世音菩薩を祀るが参拝は外陣からのみ。

本堂の端に取り付けられた出っ張り

本堂の縁側には賓頭盧尊者?
薬師堂もそうだが当院は朱塗りの仏様が特徴的。
三部山不動院復興第一世となった開基の智算は当寺にあること10年で霊山寺に帰住、
以後現在まで十九世を数え、その法燈を伝えている。
本尊はあらゆる衆生を苦難から救うとされる不空羂索観世音菩薩で、33年に一度の御開帳。
他に不動明王、毘沙門天、弘法大師が安置される。
丘の上に位置する境内には、本堂・山門・客殿・鐘楼堂・庫裏及び瑜伽大権現堂が並び、
木々を見ながら諸堂の間を巡る事ができる。

本堂の扁額 「大悲閣」

入母屋造・銅板葺の本堂屋根

屋根の上に着けられた寺紋
本堂は創建以来、242年の星霜を経て次第に荒廃が目立つようになったため、
第16世智賢和尚が改築を発願。改築費の募金を行い昭和7年(1932年)に改築に着手、
昭和8年(1933年)4月に総欅入母屋造銅版葺き169㎡の本堂と庫裏が落成し現在に至る。

本堂に隣接する庫裏

庫裏の屋根は千鳥破風か?
瑜伽大権現堂は、文政7年(1824年)児島の由加山蓮台寺から勧請した阿弥陀如来と薬師如来を祀る。
鐘楼堂は永禄12年(1699年)の建立。同時期に梵鐘も鋳造されたが、先の大戦で供出して今はなく、
現在の物は昭和39年(1964年)に再鋳された。』 とあります。

境内奥に建つ瑜伽大権現堂

拝殿の奥にある大権現

鐘楼堂とその奥に見える瑜伽大権現堂

昭和39年再鋳の梵鐘
江戸時代にはキリスト教が禁教となり、全ての民衆は寺請制度でどこかの寺院の檀家になりました。
それが現在の寺院制度に繋がったとされますが、そのような中で法難があった事は意外でした。
尤も内容を読むと仏教自体を弾圧したのではなく、寺院を整理統合するのが目的であったよう。
放漫経営があだとなって法難を引き起こしたというのが本当の所でしょう。
中国史上でも「三武一宗の法難」という四大弾圧がありますが、最後の後周の世宗が行った内容が
これに近いでしょうか。宗教が禁制となっても凄惨な争いが少ないのが【近世】の特徴と言えそうです。
当寺もその余波を受けた訳ですが、智算和尚がうまく立ち回ったお陰で、形を変えて今まで存続しました。
これを智算知将と呼ばずして何でしょうか?

三部山 不動院 御由緒記

不動院御朱印 (瀬戸内三十三観音霊場)

観音霊場のお札と一緒に頂いた蓮バッチ
バッチが¥500 で販売されているのは後で知った話。
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つばきの丘運動公園 管理棟
MHCはここで配布。
弥生も末の五日、曙の空朧々とはしていませんが世間では桜が開花。
にも拘らず、野暮用のために岡山県西部の里庄まで。
JR岡山駅以西は市内を走る山陽本線ですが、ここにきて初めて郡部に停車。
1993年発行の『各駅停車9』では水島臨海工業地帯のベットタウン化していると記載されていますが、
四半世紀経っても未だに長閑な田園地帯が残っています。

管理棟から下界を望む
目的地は線路北側の「つばきの丘運動公園」。線路から見える距離ですが高台にあるためか
到着まで15分、【さっと、しょう】という目論見は見事外れましたが、
「高台からの眺望が見られたのでいいさ、としょう」 と己に納得させました。

管理棟脇にある里庄町マンホール蓋

管理棟で入手した里庄町マンホールカード
その後は、線路を越えた場所にある寺院へ。
下車駅周辺でほんの立ち寄りの積りでしたが、実は「まいられぇ岡山」 にも載っている名刹。
歴代の駅のスタンプにも描かれており、単純に私の完全な見落としでした。
地図を見ながら向かいましたが、畑の畦道や坂道を上るもののなかなか辿り着けず。
漸く溜池に出た場所で、偶々居られた人に尋ねるとお寺は池の裏側。後で知ったのですが、
この池は堂迫池と言う名前だとか。“お堂が傍まで迫る”とはそのものズバリの命名です。

田畑の細道を抜けて堂迫池へ
今回は池を巡ってお寺に着きましたが、こちらは裏口。
本来は里庄駅から国道二号線を南西に行き、431号線に沿って行くのが王道。
実際に行って見ると行く手に寺院が姿を現します。

431号線からの眺望

レンギョウ・金雀枝越しに見る不動院全景
予定外の行脚でしたが、寺の建つ場所は人家を見下ろす結構な高台。
最近は“天空の城”がブームですが、これは“天空の寺”といった感じ。
これからブームをもたらすでしょうか?

駐車場から寺院の白壁が映える

駐車場の真下は梅林

満開の梅
参道入口ではハート形に刈込まれた樹木がお出迎え。何でも檀家のご夫妻がお手入れされたそうで、
ハート形になって以降、不動院青年部の方には良縁が続いていると言われています。
今では当院屈指のバエスポットとして有名だとか。
ハートに続き白壁に沿って山門に向かいますが、奥まった場所に薬師堂が鎮座。
御本尊の前に参拝しましたが、右手の仏像はどことなく「ムンクの叫び」に見えるような…。
これも将来のバエスポット候補でしょうか?

ハート型に刈込まれた植木

白壁に沿って山門へ

白壁の奥まった場所にある薬師堂

薬師堂に祀られた仏様達
お参りの後、白壁に沿って山門へ向かいますが、当院は周囲を白壁で囲まれていて遠望すると
城塞にも見えます。古来より寺社は地域の中心で、僧兵も抱えていたので驚くには価しませんが、
それにしてもこれは凄い。
県下では備中高梁の松蓮寺、吹屋の広兼邸が当院に似た構造を採っているので、
鬼ヶ城に始まって吉備地域の人々には【高所興味症】があるようです。

白壁の奥に山門が見える

鐘楼と山門

宝篋印塔と大原焼の五重塔

山門前にて
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【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:49) → JR播州赤穂(8:24→9:05) → JR伊部(9:44)
備前観光情報センター → レンタサイクル20分 → 福生寺・西法院 → 備前観光情報センター
【復路】JR伊部(13:05) → JR播州赤穂(13:40→14:07) → JR姫路(14:39→14:41) → (新快速) → JR大阪(15:43)

大滝山 福生寺(高野山真言宗 瀬戸内三十三観音霊場第十番札所)
福生寺にお参りした後は、西法院からも遠望できた三重塔へ。本堂の右側の道を進むと
右手に坂道があり三重塔への案内板が。塔頭と異なり徒歩でしか登れない細道を行く事5分、
両側を覆う樹木が途切れて急に明るくなると目の前に三重塔が出現。
長い歴史を有する福生寺にあって境内に残る唯一の重要文化財。
途中の道からは、福生寺本堂、西法院や大滝が眼下に見渡す事ができる絶景の場所にあります。

道路沿いに建つ道標

このような参道を上る
重文・三重塔は、
『嘉吉元年(1441年)、六代将軍足利義教が願主となり建立。
本三間瓦葺の三重塔、鋳鉄製の相輪を建て総高19.72m、うち相輪6.12mである。
軸部の柱は総円柱、軒先の反転が目立ち、軒の出を深くし、二重繁垂木にしている。
和様の斗栱を三手先に組み尾垂木に出し、四隅に青銅の風鐸を吊り、
中備には形の良い蓑束を用いている。塔全体の姿に室町時代の特徴が良く出ている。
本尊は大日如来であるが、宝塔そのものが大日如来の尊形である。』 とあります。

眼下に見える福生寺本堂

参道から見た西法院全景

大滝方面遠望
都から離れていますが足利将軍家の庇護が篤かった当寺。それ故の建立とも言えそうですが、
三重塔からは境内が一望でき、寺へ続く道を進むと熊山城址。
願主の義教は籤引き将軍と揶揄されましたが、そのコンプレックスを払拭すべく強権政治を行った人物。
この頃に狙いを付けたのが赤松満祐で、その領国は播磨・備前・美作の三国。
そうするとここに三重塔を建てた理由もおのずから明らかです。
しかし赤松満祐が先手を打って将軍を暗殺(嘉吉の乱)、
義教の計画は水泡に帰すと共に、暗殺された将軍の汚名を残しました。
赤松満祐の方が上手だった訳で、寺名に反して福を生む事はありませんでした。
結果的に貧乏くじを引いたことになりますが。

行く手に現れる重文・三重塔

下方から見上げた三重塔
塔の建つ場所は平地が殆どなく、全景を写すのは困難。

塔の一階屋根裏の組物
こうして御朱印も無事拝受して駅へ戻りますが、駅前に着くと上り電車まで45分。
そこで情報センターで教えて頂いた駅前の「寿司一」で昼食。
文字だけのお品書きを見て¥1500の寿司定食を注文しましたが、
出てきたのは間違いではないかと思う豪華版。こちらはくじ運が良かった事になります。

三重塔解説

昼食は 「寿司一」 にて寿司定食 ¥1500
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【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:49) → JR播州赤穂(8:24→9:05) → JR伊部(9:44)
備前観光情報センター → レンタサイクル20分 → 福生寺・西法院 → 備前観光情報センター
【復路】JR伊部(13:05) → JR播州赤穂(13:40→14:07) → JR姫路(14:39→14:41) → (新快速) → JR大阪(15:43)

大滝山 福生寺(高野山真言宗 瀬戸内三十三観音霊場第十番札所)
西法院での紫陽花散策と御本尊参拝も恙なく終了。
後は駅に帰るだけですが、時間的に余裕があったので、親寺の福生寺にも立ち寄り。
3年前に引き続いての参拝ですが、西法院に続く【再訪】とはなりました。
大滝山福生寺(おおたきさんふくしょうじ)は、元禄14年(1701年)に書かれた縁起書に拠れば
『孝謙天皇の招きで来朝した唐僧鑑真和上が、天平勝宝6年(754年)に当地を通過する際に開山したとされる。
また国分寺を除けば国史に名をとどめる県内でも最古の寺院で、菅原道真編纂の「類聚国史」の
寺田の項に寺名が、法隆寺・橘寺・唐招提寺等の中央の大寺院と並んで記載されている。

分かれ道の正面を行くと本堂へ
この日の相棒は、手水鉢の左に。

階段を上った先に見える本堂
その後、孝謙天皇の勅命に拠り報恩大師が備前48ヵ寺を整備した際にその一つに加えられた。
彼は備前出身とされ、県内には報恩大師に拠る開創縁起を有する寺院が多い。
真言宗の一山地として堂宇伽藍は栄えたが、万寿元年(1024年)の大火で焼失するなど衰微した。
観応元年(1350年)に足利尊氏が軍を備前福岡にとどめた時、当山再興を発願。
尊氏の勧めで播磨から良圓師と良長師が来山し伽藍を復興、当山中興の祖となった。
以降、足利氏代々の庇護を受け、盛時には僧院33坊を数えたという。
尚、今に残る仁王門は応永4年(1398年)に足利義満に拠り、
三重塔は嘉吉元年(1441年)に足利義教に拠って建立。
これ以外の堂宇は康正元年(1455年)の赤松・山名氏の戦乱に拠り全て焼失した。

参道左の宝篋印塔と弘法大師記念石碑

高く聳える榧の木は御神木か?

本堂の向拝前にて

向拝下にて扁額を見上げる
本堂は岡山池田藩二代藩主・池田綱政に拠って天和2年(1682年)に再建。
以後、藩主池田家の厚い保護の下、伽藍及び十三の塔頭寺院も整備された。
本堂の右手奥に建つ大師堂は本堂と同じ天和2年の建立。
宗祖弘法大師を奉安し、毎月21日の御縁日には一山僧侶総出仕して御法楽祈願を行う。
また左奥の経蔵は寂應律師に拠って延享3年(1746年)の建立。内部には全国的にも珍しい
輪転式八角形の書庫を有し、市の文化財である鉄眼版一切経を納めている。

本堂外陣にて

欄間に彫られた龍の彫刻

柱の端は獅子?

内側から見た向拝
しかし明治初期の神仏分離で再び衰退、時代の変転止む無く現在の福生寺は無住となり
宗教法人を有せず、山内に残った実相院、西法院、福寿院の子院で法灯を今に伝えている。』
とあります。
平安末には衰退した鑑真に遡る古刹ですが、足利氏の庇護を受け一時は復興。
【良圓】に恵まれたという事でしょう。

後方(大師堂前)から見た本堂

二度目の正直、福生寺御朱印 (瀬戸内観音霊場)
唯、歴史を誇る古刹にあって本寺が衰微して、子院が残るという逆転現象は往々にして見られます。
経済の世界ではスピンオフと呼ぶ現象ですが、これは宗教の世界でも同様。大き過ぎたために
身動きが取れなくなった、勝者側であったために時代の流れを把握できなかったと言う事でしょうか?
最初に見た仁王門が境内の入口、そこから本堂、三重塔へは互いに距離があるので、
かつては広大な敷地があったと想像できます。
参拝者には不便な話ですが、戦国の動乱にも焼失することなかったのは、
互いに距離があったからでその面では感謝しなければなりません。

前から見た大師堂
宗祖弘法大師を祀る。備前市重要文化財。

道路より見た大師堂

経蔵

経蔵側面の華頭窓
境内を見渡すと、堂宇に混じって鐘楼脇に歌碑が一つ。
・菩提樹の 花の盛りや 鐘撞堂 赤松安子
とありました。作者は明治期に活躍した社会実業家・教育者。
単純に境内の菩提樹を詠んだ歌に見えますが作者は赤松氏。
戦国時代に全山が被害を受けた戦乱の当事者の一方と同じ苗字ですから、
もし御先祖の事績を知った上での詠みとすれば、複雑な心境であったと想像します。

一番手前にある塔頭・福壽院
拝観謝絶ではないが、観光に訪れる人の姿は見えず。

本堂前の鐘楼

鐘楼脇に建つ歌碑
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大滝山 福生寺 西法院 (山陽花の寺第十四番札所)
境内奥には山号の由来となった大瀧や諸堂が建ちますが、所々に備前焼の置物が散見。
さすが焼き物の里だけの事はありますが、狛犬、壺はともかく急須まであったのには吃驚。
出口付近なので、万事【急須】の洒落かと思いましたが、よく見ると土瓶。
その他、鎌倉時代の宝篋印塔、奈良時代の香登寺の礎石と時代は遡り、
極め付きは八千年前(暁新世)の模様入り安山岩。
【安山奇岩】で安産祈願なのでしょうが、凡人には何故あるのか理解不能でした。

備前焼の狛犬(阿像)

こちらは吽像だが、狛犬というよりもシーサーに見えるが

出口付近には備前焼の土瓶

鎌倉時代の宝篋印塔

その奥にある奈良時代の香登寺礎石

更に奥にある8千年前の安山岩
境内を巡った後は、本堂へ戻り御朱印を拝受。加えて福生寺の御朱印も頂くことができました。
前回は塔頭をさんざん回って「御朱印御願いします!」と【復唱】したのに空振りでしたが、
今回はその分までリベンジ。【さいほう】した甲斐がありました。

西法院説明書

西法院御朱印 (山陽花の寺)
その後は御本尊に参拝。以前の訪問時は閑散としてお堂も閉まっていましたが、
「あじさい祭」期間は本堂内陣まで参拝できます。
『西法院では三百数十年振りの平成29年11月に本堂新築建立落慶。御本尊は江戸時代作の愛染明王である。
その脇侍である阿弥陀如来立像は平安時代の作で県の文化財となっている。』 とあります。
御本尊より脇侍が古い、或いは有名というのはよく聞く話ですが、由緒までは分からず。
かつては塔頭が多くあったので、廃絶した寺院からここに移されたものかもしれません。
紫陽花に加えて普段目に出来ない御本尊も拝観でき、しかも【一切無量寿経】ならぬ一切無料と良心的でした。
本堂縁側に土産が並んでいたので、「あじさい焼き」と書かれた手焼き煎餅を購入。
備前焼と違ってこれは食べることが可能です。

あじさい祭中は、本堂も開放中
右側の縁側ではお煎餅、左の縁側下では紫陽花の苗木を販売中。

お土産に購入した 「あじさい煎餅」 ¥500
見ると部屋の奥の欄間の透かし彫りと梵字と四天王の名が書かれた襖が。
売り場の方に尋ねると、遣り取りが聞こえたようで、若い住職が応対下さいました。
私 ; 「欄間の丸に十の字は寺紋ですか?」
住職 ; 「そうです。当院の寺紋です。」
私 ; 「薩摩の島津氏と同じですが何か関係が?」
住職 ; 「史料が何も残っていないので、詳細は不明ですね。」
私 ; 「襖には四天王が書かれているようですが…。」
住職 ; 「四天王は右から東南西北となります。」
私 ; 「麻雀の東南西北(とんなんしゃーぺい)は四天王由来という事ですか?」
住職 ; 「そう考えて下さって良いでしょうね。」
私 ; 「梵字は四天王を表しているのですね。」
住職 ; 「はい。あの独特の文字は竹を用いて太細の線を出します。」
との事。中々、【凡人】には真似できない技です。

欄間の透かし彫りと襖に書かれた四天王

本堂からの帰り路
私 ; 「あの書は御住職が?」
住職 ; 「いえ、高野山の学識に書いて頂きました。」
何でも、最初は高野山の松長有慶管長に御願いしましたが御高齢で辞退されたのだそう。
それで今の【字体】になったようです。
私 ; 「真言宗の方は、皆さん高野山大学の御出身ですか?」
住職 ; 「高野山大学密教学部で学んで、更に上を目指す人は東北大学大学院印度哲学科に進むのが慣例です。」
私 ; 「御住職もそうですか?」
住職 ; 「いいえ。私は大学で全て学問を修めたので、高野山で修了です。」
と笑って答えて下さいました。成程、【凡人】には出来ない技だと思った次第です。

帰路、右手には西法院の石垣が聳える

続いて福生寺本堂と三重塔を目指す
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大滝山 福生寺 西法院(高野山真言宗 山陽花の寺第十四番札所)
花の寺だけに紫陽花ばかりに目が行き勝ちですが、境内には山号の由来になった大滝と諸堂が点在。
これは是非とも見逃がす訳にはいきません。何事も【初動】が肝心です。
紫陽花の細道を上った先が本堂玄関。古刹と言うよりも【新刹】という方が似合う平成29年の新築です。
玄関脇には蓮の花を持った「なごみ地蔵」がお出迎えしていますが、
建築時には既に「山陽花の寺」であったので、花を前面に打ち出しているのでしょう。

参道を上り、ぽつんと一軒家の趣がある玄関へ

非常に今風の玄関

玄関脇の「なごみ地蔵」さま
『本堂奥の橋を渡り、渓流を遡った先には山号の由来となる小瀧をなす渓流が流れ、
独特の風趣を存している。大瀧山熊山一帯は県指定自然保護区、
大瀧山は備前市名勝に指定され洗心の客が絶えない。

本堂前を抜け境内奥へ

橋の上から上流を見る

橋を渡り大滝へ
手前にはカシワバアジサイの葉が見える。

大滝と弁天堂

目の前を流れる大滝と弁天堂

大瀧と名付けられた小瀧
偶々、水量が少ないためか?
滝の周辺には楓も多く秋は紅葉で彩られる。滝の直ぐ脇の渓流沿いには
天女閣とも呼ばれる弁天堂が建ち、弁財天・薬師如来他、諸尊を祀っている。
渓流沿いに建つ弁天堂は夏でも滝の水しぶきで冷涼であり、
かつては大学生が夏休みの勉強合宿で泊まりこんだと言う。

紫陽花越しに見る弁天堂

高みから見た大滝と弁天堂

厄除くぐり大師と弁天堂

弁天堂の直ぐ横まで岩が迫る
弁天堂を過ぎた場所には弘法大師像が建ち、下を潜ると御利益がある所から
「くぐり大師」と呼ばれている。
その後、水子地蔵・不動明王と続き、高台には不動明王他、諸尊を祀る護摩堂、
その脇には歓喜天が祀られている。これらはいずれも新しく、平成16年の新建立である。

お不動様と水子地蔵さま

橋の上から見た護摩堂

護摩堂正面

護摩堂内陣の様子

聖天宮歓喜天
参拝者は紫陽花だけでなく、境内諸堂を巡っています。
諸堂の周りも紫陽花で彩られているからですが、花以外の見所があるのも事実。
一番人気が寺号の由来となっている大滝。普通、滝というのは遠くから眺めるものですが、
当院は間近まで行って眺めることが出来るのが魅力。
滝の脇には赤い弁天堂が建ち「映えスポット」になっており撮影する人が後を絶ちません。
唯、大滝と号する割には小滝という水量。
パンフ写真には雄大な水量が写っているので、これも温暖化の影響かと【推量】しますが、
間近に見る事で、小滝でも大滝に【遭うた気】になるのでしょう。

渓流の向こうに見える護摩堂

護摩堂から見える本堂屋根

護摩堂から降りる途中には宝篋印塔が建つ

大瀧から見た本堂
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大滝山 福生寺 西法院(高野山真言宗 山陽花の寺第十四番札所)
仁王門を過ぎて暫く行くと道が二股に分かれます。
正面には福生寺の本堂が建ち、大師堂・鐘楼・経蔵が並びますが、今は無住。
今は僅かに残った三塔頭が法灯を伝えています。
本堂右の道を上ると実相院、左へ進むと福寿院があり、そこを更に登った場所に建つのが西法院。
渓流を遡った石垣の上の高台に建つ姿は一間要塞にも見紛います。ここが目指す花の寺。

渓流沿いに建つ道標と案内板

西法院入口

この石垣の上に堂宇が並ぶ

石垣の下を彩る紫陽花
大滝山福生寺西法院(おおたきさんふくしょうじさいほういん)は、
『福生寺の子院の一つで創建年代は不詳。大瀧山は幽邃閑寂な自然環境が保存され、
境内には小瀧をなす渓流が流れ、独特の風趣を存している。
大瀧山熊山一帯は県指定自然保護区、大瀧山は備前市名勝に指定され洗心の客が絶えない。

細い参道の両側にも紫陽花が

参道から入口の寺標を見返る

参道の紫陽花とその奥に建つ幟(のぼり)

参道の灯籠脇には蕚紫陽花(ガクアジサイ)が

こちらはよく目にする紫陽花
昭和50年(1975年)頃より前住職がアジサイを植え始め、
現在は15品種、3万株のアジサイが咲く「あじさい寺」として知られる。
毎年、6月中旬から下旬にかけての紫陽花の咲き誇る10日間は
「あじさい祭」が開催され、多くの参拝者で賑わう。

本堂へ続く階段

本堂玄関前では小さな紫陽花がお出迎え
紫陽花は石灯籠の並ぶ参道から境内一帯、帰路に至るまで続き、訪れる人々の心を癒す。
加えて参道沿いには皐も多く、沈丁花・海棠・水仙・南天や鉢植えの花が並び、
季節の花が少しでも楽しめる様に心配りがなされている。』 とあります。

本堂前に咲く 「オタフク」

こちらは「ダンスパーティ」

お寺の方の話では、この色は珍しいそう
3年前の訪問は3月3日という冬枯れの真っただ中であったこともあり、
人の姿はありませんでしたが、この日は10時前で既に駐車場は結構な混雑。
「山陽花の寺」という公式名に加えて、ネット上での評判が人を呼び込むのでしょう。
今に残る福生寺の塔頭三院の中では西法院のみが独り勝ち状態ですが、境内には渓流が流れ、
山号の由来の大瀧が落ち、周囲には山が迫るという置かれた状況を考えれば当然な事。
直射日光を避けて日陰を好む紫陽花には、周囲に山が迫り渓谷に滝が流れる場所は
生育に向いた理想的な環境と言えます。

本堂の奥にも紫陽花は多数咲く
これは高台にある護摩堂を見たところ。

護摩堂遠望

護摩堂手前の紫陽花は鮮やかなブルー

途中の水盤の花紫陽花
最近は各地の寺で見られるが、嚆矢は京都の楊谷寺とか。
それに比べると他の二院は環境的に恵まれたとは言えませんが、それよりも
恵まれた環境を最大限に活かしたという点を称賛すべきと言えそうです。
入口から本堂を経て、裏手に流れる大滝を巡って帰路に付くまで
周りには常に紫陽花があるまさに紫陽花尽くしの寺。
【仁王】が如く今盛りなり、とはこの時期の特権です。
紫陽花にもいろいろな品種があって当院もその例に漏れず。
植物園ではないので名札等はありませんが、本堂前で苗を販売しており、写真説明がありました。
ウズアジサイ(渦紫陽花)と思った花は「オタフク」で、丸くふっくらした感じが命名の由来。
福生寺なので「おた福」ではないようです。
スミダノハナビ(墨田の花火)に見えたのは「ダンスパーティ」、尋ねても理由は?でした。
榎本美佐江と林伊佐緒ほどの差はないように思えますが、牧野富太郎ではないので
同定は難しいというのが実感。尤も当たらずとも【どおってい】事はありませんが…。

護摩堂脇に咲く紫陽花

聖天宮歓喜天の祠の後方

護摩堂周辺

紫陽花近影

歓喜天周辺
紫陽花と書いて「アジサイ」と読みますが、この語を造ったのは中唐の詩人白楽天(白居易)。
あるお寺に咲いていた名前の分からない花を見て『色紫にして気香(かんば)し』 と思って
「紫陽花」と名付けたと、『紫陽花』 と言う詩の序文に記しています。
日本で「紫陽花」 に 「アジサイ」 の訳を付けたのは源順(みなもとのしたごう)。
『倭名類聚抄』にありますが、紫陽花は余り香が強くないので、
白楽天の「紫陽花」はアジサイではないと考えられています。

護摩堂からの眺め
正面奥に大滝が流れる。

護摩堂下に建つ宝篋印塔とカシワバアジサイ(柏葉紫陽花)

カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)近影

小振りで可憐な紫陽花
では何故「紫陽」の語を用いたかと言うと、この語の持つ仙界のイメージのようで
楽天自身『頗る仙物に類す』と書いています。平安貴族の必読書であった白氏文集を読んでいた
源順もこの仙界のイメージを元に「アジサイ」 を選んだのだと思われます。
紫陽花の謂われとしてはよくわかる説明ですが楽天が詠んだ 『気香し』 は何だったのか?
ライラックとも言われますが結局は【白氏】に戻った状態。仙界のイメージは
雨中に浮かんだ光景よりも、土壌の性質で色が変化する事に拠るのでしょうか?

帰路の花道

帰路の左手

蕚の周りだけ色が抜けている

こちらは水無月に相応しい水色

行く手には福生寺本堂と三重塔が遠望できる
江戸末期に長崎に来日したシーボルトが紫陽花をヨーロッパに紹介した際に、
妻「お滝」の名を採って、H.Otaksa と学名を付たのは有名ですが、
後に以前に登録の植物と同種と分かり使われなくなりました。
成程、境内の滝が紫陽花を引き立てる訳はそんなところにあったのですね。
紫陽花には色々な逸話がありますが、なにか疑問点が残るのが特徴。
それで良しとなるのも【楽天】的ではありますが…。

山号の由来となった大滝と紫陽花

大滝周辺の岩場

言わば、岩場の紫陽花
[参考書]
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大瀧山 福生寺 西法院(高野山真言宗 山陽花の寺第十四番札所)
入口に建つ福生寺仁王門
関西花の寺・久安寺で同窓の花と旧交を温めた先週に続き、今週は西方にある山陽花の寺へ参拝。
場所は赤穂線から北へ2.1㎞上った山中で最寄りは香登駅。
2020年3月3日に参拝の際はこの駅で下車して只管歩いた結果、【かかと】に来たので、
今回は反省を込めてレンタサイクルがある伊部駅で下車。
[以前の投稿]
福生寺(岡山県備前市) 山中に建つ奈良時代創建の寺伝を持つ古刹
無人駅となって久しく、かつての駅舎には観光案内所と喫茶店が入っています。
兵庫県の相生駅と東岡山駅を結ぶ赤穂線ですが、今や岡山県内は全て無人化。
2006年には日生・伊部・長船・邑久・西大寺と【最大時】には
五駅でスタンプ設置があったのは遠い昔の話となりました。

登り窯を象った?伊部駅舎

有人時代の伊部駅スタンプ
(上) 国鉄時代の 「わたしの旅」印 (下) 2006年設置の岡山支社印

伊部郵便局 ; 備前焼、国宝・閑谷学校

駅舎の壁を彩る備前焼の獅子像
駅で下りたのは私を含め3名。観光案内所でレンタサイクルを借りる人の姿もなく、
途中すれ違う人も居ませんでした。六古窯の一つ備前焼の里で周辺には窯元が点在しており、
山陽新幹線に沿って西へ行く間には煉瓦の煙突のある家屋が目に入ります。
大内という交差点で右折して北上しますが、ここからは上り坂で周囲には人家もなし。
赤穂線の北側には山陽本線が走りますが、その間には山が塞いでいる状態。
片上鉄道が廃線になって以降は両者を行き来することは殆どないのでしょう。
北上する事2.1㎞で仁王門へ到着。

途中にはこのような窯元が

備前市マンホール蓋
秀逸なデザインだが、カードは未だ発行されず。

焼き物の里を流れる川

最初は平坦地を山陽新幹線に沿って西へ
手前にある大ヵ池には睡蓮や菱が浮かぶ。

大内の交差点で右折
ここから登りになる。

このような道を2㎞上る

行く手にようやく仁王門が
『応永4年(1398年)に、三代将軍足利義満に拠り建立。京都からは離れているが
足利家の信仰が篤かった事が建立に繋がったとされる。
元和9年(1623年)に大修理・改修を経て現在に至り、県指定の重要文化財となっている。
また掲げられた「大瀧山」の額は佐々木文山の書として有名である。』 とあります。

正面より見た仁王門
石標には「大滝山福生寺仁王門」と記されている。

「大瀧山」の扁額は佐々木文山の手になる

扁額の下から来し坂を見返る
仁王門を過ぎると境内の筈ですが、本堂、塔頭や三重塔はまだ見えないので、
かつては広大な寺域を有した寺院なのがこの事からも分かります。
仁王門には阿吽の金剛力士像が置かれていますが、一見して非常にダイナミックな造り。
唯、折角の仁王像も道路脇に建つため【今後】もこの門を抜けて参拝する人は殆どいないでしょう。
仁王門を過ぎて境内の駐車場には10時前で既に多くの車が停車中。
やはり「山陽花の寺」の威力ですが、今時徒歩やレンチャリ巡礼は少数派です。

門を護る金剛力士像(右の阿像)

こちらは左の吽像

境内側から見た仁王門全景
[参考書]
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<コース> 冬の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:31) → JR岡山(9:08→9:33) → JR児島(9:54)
JR児島駅観光案内所 → レンタサイクル40分 → 由加山蓮台寺 → 由加神社 → レンタサイクル30分 → JR児島駅観光案内所
【復路】JR児島(13:40) → JR岡山(14:02→14:12) → JR相生(15:17→15:18) → JR姫路(15:40→15:42) → (新快速) → JR大阪(16:42)

由加神社本宮(旧県社)
由加神社本宮(ゆがじんじゃほんぐう)が日本三大権現の一つで、厄除け総本山として知られますが、
元は二千有余年の歴史を持つ神仏混淆の霊山。その起源を探るべく本宮の後方へ。
稲荷社の狐間を抜け、茅の輪を横に見て進むと、天神様の像の後方には巨石が鎮座します。

稲荷社のお使い

今は潜れない「茅の輪」

突き当りに見える磐座
『その昔、由加神社は巨岩を御神体とする磐座信仰を起源とし、災難を祓って福を授けると篤い崇拝を得ていた。
その後、桓武天皇を始め朝廷の祈願所として繁栄。
江戸時代には岡山二代藩主池田継政侯以降「由加大神さま」「権現さま」への信仰は篤く、
正月、五月、九月には藩主自ら参拝する程であったと言う。

天神様石像と注連縄を張った磐座

こちらが本宮の御神体

本宮の後方に建つのが本殿

易しい御神体の解説
またユーモラスな「タコ神様の像」が鎮座。これは当社の位置する児島地域周辺が
全国有数の漁場であることに因み、豊漁・魚供養のために奉納されたもの。
可愛らしく写真映えするとして若者を中心に人気である。
他にも「子授けの御神木」や「消痛の小槌」等様々な御利益スポットが参拝者を集めている。
平成14年(2002年)に完成した観光休憩所も広々として居り好評を博している。』 とあります。

本殿脇の「タコ神様」

タコ神様の説明
神社の本殿の裏手に巨石群があって、それが御神体と言う事なので、磐座信仰が元だったのはほぼ確実。
その他にも神社境内には力石、蓮台寺境内には御霊(たま)石があって、
不審物ではなく神仏として崇拝されていたのがよく分かります。
仏教はインドからの外来宗教なので、ここでは阿弥陀如来・薬師如来が瑜伽大権現となって
垂迹したという本地垂迹説を採用。神社は【本地衰弱】でありますが、
「タコ神様の像」が神社に多幸を齎すかどうか?今後の動向が楽しみです。

神社境内の力石

蓮台寺総本殿に行く途中の御霊石

御霊石の立て札
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【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:31) → JR岡山(9:08→9:33) → JR児島(9:54)
JR児島駅観光案内所 → レンタサイクル40分 → 由加山蓮台寺 → 由加神社 → レンタサイクル30分 → JR児島駅観光案内所
【復路】JR児島(13:40) → JR岡山(14:02→14:12) → JR相生(15:17→15:18) → JR姫路(15:40→15:42) → (新快速) → JR大阪(16:42)

由加神社本宮(旧県社)
蓮台寺川からの眺め。右は狛犬は備前焼の狛犬。
この日の目的地は中国観音札所の由加山蓮台寺でしたが、すぐ傍には由加神社も鎮座する神仏習合の典型。
当初は寺院の境内にある摂社かと思いましたが、行ってみるとこれがどうして立派な神社。
蓮台寺には参道から左に向かい42段の石段を上りましたが、そのまま正面の鳥居を抜け
61厄除石段を上ると由加神社。途中右手に朱塗りの欄干が鮮やかな二階建ての建物が見えます。
社務所と思いましたが「由加山会館成就殿」が正式名称。食事や会合をする場所でしょうか?

両神鳥居に続く61の厄除石段

石段の右手に聳える「由加山会館成就殿」

厄除石段の上から
由加神社本宮(ゆがじんじゃほんぐう)は、
『石段を全て上ると「日本一の備前焼大鳥居」が堂々たる姿を見せる。
これは明治27年(1894年)に奉納されたもの。両側には備前焼の子連れ獅子が鎮座する。
日本三大権現の一つ、また厄除け総本山として知られる。
瀬戸内海を見下ろす由加山は二千有余年の歴史を持つ神仏混淆の霊山である。

入口に聳える備前焼大鳥居

社号標と奥に見える本殿

鳥居右脇の備前焼狛犬阿像
台座の揚羽蝶は藩主池田家家紋。

こちらは左の狛犬吽像
本殿は県指定重要文化財、その前には一面に赤い「厄」の字が散りばめられた「厄橋」があり、
厄の字を避けて渡る事で厄除け祈願ができると話題のスポットである。
御祭神の由加大神は「有求必應」という言葉で名高く、「求めがあれば必ず応じてくれる」神様として
祈願者が後を絶たず、正月三が日には毎年35万人以上の参拝者が訪れる程、その霊験は全国に知られている。
現在、西日本を中心に岡山後楽園、奈良公園など、全国に末社52社を有している。

手前の厄橋を除けて本宮へお参り

由加神社本宮(大権現本宮)正面

長く張り出した向拝が特徴的な由加神社本宮
江戸時代から明治にかけて由加神社本宮と香川県の金比羅宮の両方を参拝する「両まいり」が盛んに行われた。
交通の便が悪かった当時、金刀比羅宮を目指す旅人は、本州から四国へ渡る途中、
備前第一の霊地由加山で災難・交通・旅行安全の参詣をした後、金刀比羅宮へ向かった。
やがてその風習が全国に知れ渡り、多大な利益を頂けると流行。
塩原太助、十返舎一九など多くの文人墨客も両参りをして、文化財などを残している。
瀬戸大橋開通と共に、史実を背景に信仰と観光を兼ね参拝者を増やすべく毎年11月3日に
由加神社・金刀比羅宮の両御神火に拠る由加山火渡り大祭が行われており、
毎年何万本という護摩木の奉納がある。今でもその風習は益々盛んとなっている。』 とあります。

向拝の唐破風下の鳳凰と欄間彫刻

向拝下から上を見上げる
右の天井に付いているのは十二支方位板。

向拝の蝦紅梁

「由加宮本宮」の扁額と欄間の龍の彫刻
神社で妙齢の巫女さんに訊いた所、元々は神仏習合で一体でしたが、明治の神仏分離で分かれたとか。
それ以降は僧職が神事を行っていたため寺が主導権を握っていましたが、
平成9年になって神社が独立したので、それ以降はどちらが本家かで揉めている模様。

木鼻の象の彫刻

御祈祷を行う本宮内陣

本宮後方にある男性用の「縁結び獅子」
神社の拝観は無料で、御朱印は¥300。一方の寺と言えば拝観は無料ですが、客殿見学は¥400。
御朱印はコロナのために書置き限定の紅葉様で¥800。どうもこの辺りの対応が経済力の差になったようで、
いずれが本家かはさておき、総合的判断では寺院の方がリードしているのは間違いありません。

本宮の向かいにある受付所で御朱印拝受
この道を進むと大師堂・多宝塔へ至る。

由加神社本宮説明書

由加神社御朱印
20代と思しき巫女さんの手になるが中々の達筆。
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由加山 瑜伽大権現 蓮台寺(真言宗御室派 別格本山 中国観音霊場第六番) 客殿
蓮台寺巡礼の最後を飾るのは、表門に続く重文・客殿拝観。
総本殿・本殿の様に真新しくはなく、大師堂・観音堂ほどの古風な感じでもなし。
寺院としては適度な古さと言って良いでしょう。また境内では唯一、拝観料の必要な施設でもあります。

拝観の案内板

表門正面に建つ客殿

真正面の書院の門は閉鎖中

拝観は右手の書院入口から

唐破風の書院玄関は外観のみ

塀越しに見る客殿

こちらは由加神社に設けられた裏門
『江戸時代に入り、備前岡山三代藩主・池田継政が蓮台寺を篤く信仰し、祈願寺として藩主自ら参拝した。
その時に宿泊使用された建物が蓮台寺客殿として今に伝わる。
表門を潜るとすぐ右手に建つ客殿は、寛政年間に完成した備前藩主池田侯爵の宿泊・休憩用の建物。
木造としては県下最大級の建造物で県指定文化財。客殿内は絢爛たる襖絵や繊細な彫刻の欄間などで装飾されている。

客殿の奥にある殿様「御成の間」と手前の火(花)頭窓

「八仙の間」の障壁画

「八仙の間」解説

玄宗と楊貴妃

絵の解説

廊下を通り次の部屋へ
中でも藩主が使用した「御成の間」は中段・上段の間に加え、上々段を設けた造りは
皇室の方々が座られたもので、現存するものでは松島の瑞巌寺と当寺の二ヵ所のみである。
また上段の間正面に掲げられた掛軸には藩主池田治政侯の直筆で「蓮台寺」と書かれている。

ここは孔雀の間と言うのかしらん?

孔雀図

客殿縁側
この先の階段を上ると奥の院。

縁側から見た(裏)門
この向こう側が由加神社。
客殿には八仙の間にある「仙境の八賢人図」、「玄宗と楊貴妃」「孔雀図」を含む108面の障屏画があるが、
中でも円山応挙の手になる「竹鶏の図」は、応挙が亡くなる二ヵ月前に仕上げた襖絵で最後の作品と言われる。
客殿の奥には斜面を利用した優美な庭園が造られ、奥の院である権現堂まで続いている。
客殿の間から廊下越しに景色を楽しむ事ができる。』 とあります。

説明書にある「御成の間」

同じく説明書にある円山応挙「竹鶏の図」

書院の中庭

同じく書院の中庭
客殿の造りもさることながら、注目したのは斜面を利用した庭園と書院の襖絵。
庭園は権現堂へと続く斜面上に築かれているため、実際以上に奥行きを感じる奥床しいもの。
襖絵は金地に描かれたもので、青緑が鮮やかに残っているのは岩絵の具系の高級顔料を用いたからでしょう。
画家として有名なのは円山応挙ですが、彼の鶏図の左側に描かれた竹図は息子である応瑞の作。
応挙の絶筆は奇しくも親子のコラボにもなったようです。

客殿の奥に続く庭園

斜面に沿って延びる庭園

客殿縁側より見上げた庭園

外から見た奥の院へと続く階段
応挙の自筆を見るのは香住の大乗寺以来の事。最近は若冲人気に押され気味ですが、
江戸時代の日本画を代表する人物であったのは事実。
唯、孔雀の間に比べると部屋全体が薄暗く鮮明に見えなかったのが残念でした。
絵画の保存のためを考えての事でしょう。
一寺院の客殿がこれほどまでに豪華絢爛なのは偏に藩主の御成りがあるから。
それだけ下賜金も多かったと想像できます。岡山城からはそれなりに距離がありますが、
お城に籠っていた殿様にはいい意味でリフレッシュになった事でしょう。
勿論、徒歩で来ることはなく【輦台】に乗ったに違いありませんが…

庭園の中央を通る石段

庭園の縁側に近い側

奥の院へと続く階段から見た庭園

庭園の向こうに見える奥の院
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