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新日山 安国寺 不動院(真言宗別格本山)
境内にはお堂に加えて鐘楼もあって楼門と共に重文に指定されています。
その後は、境内を見渡す高台の墓地へ。
『金堂の右手、不動堂の前にあるのが永享5年(1433年)の建立の鐘楼。
屋根は入母屋造、杮葺きで桁行三間、梁間二間、重層袴腰付の建物。
架けられている銅製梵鐘は、安国寺恵瓊が朝鮮より持ち帰ったとされる
高麗王朝初期の梵鐘で、鐘楼と共に重要文化財になっている。

重要文化財・鐘楼
朱色が鮮やかであるが、室町時代の永享5年(1433年)建立。

正面より見た鐘楼
金堂の左手、放生池の間の坂を上ると墓地に至るが、一般の墓に混じって
・豊臣秀吉遺髪塔
・福島正則供養塔
・武田刑部少輔墓
・安国寺恵瓊墓
の四基が建つ。
当山中興の祖である安国寺恵瓊は鎌倉以来の安芸国守護武田氏の一族。
大内氏との戦いで武田氏が滅亡した際には、安国寺に身を寄せ12年間仏道修行に励んだ。
時に恵瓊4、5歳であったとされる。
笠雲恵心(じくうんえしん)に師事した恵瓊は上洛し東福寺へ入山。
35歳で安芸安国寺の住持になり、後に東福寺、南禅寺の住持を兼ねた。

金堂と放生池の間の道を上り墓地へ向かう

坂の途中から見た楼門と金堂

一般の墓地の中央には十三重石塔が建つ
下で支えるのは亀。

墓地から境内を望む
安国寺住持になった頃から毛利氏の外交僧として手腕を発揮。
豊臣秀吉との交渉に当たった事から、秀吉の直臣として6万石の大名に取り立てられる。
毛利家の顧問を兼ねながら朝鮮出兵でも渡海するなど武将としても働いた。
大名になって以降も住持は手放さず、当寺をはじめ京都の東福寺、
建仁寺の再建等にも多大な功績を残している。
秀吉没後の関ヶ原の戦いでは西軍に属して敗北。
捕虜となった石田三成・小西行長と共に京の六条河原で斬首された。享年63歳。
当寺の墓所には恵瓊の首塚が現存する。』 とあります。

墓地の一角を占める戦国期の武将の墓四基

武田刑部少輔墓

豊臣秀吉遺髪塔と安国寺恵瓊の墓

福島正則供養塔
最後にお参りした墓所で偶然出会った四人の墓。
いずれも戦国武将ですが、秀吉以外は余り良い最期とは言えません。
恵瓊も毛利の外交僧であった故に処刑されたと思われがちですが、
当時の僧侶・連歌師等が外交・スパイに関わっていたのはほぼ常識。
恵瓊の場合はその自出に加えて外交能力が際立ったためでしょう。
毛利氏も滅ぼした武田の末裔をよく己の陣営に取り込んだものだと思いますが、
それを補って余りあるものがあったと考えるべきです。
関ヶ原の戦いでは、毛利家当主の輝元は西軍の総大将に立ちますが、
そこに持って行ったのは恵瓊。毛利、徳川両家にとっては危険な存在だった訳ですから、
死んでホッとしたところでしょう。
尤も恵瓊にしてみたら、一度は底辺に沈んだ身からのし上がることができた訳ですから
死んでも悔いはのこらなかったに違いありません。

安国寺恵瓊像 (不動院案内より)

寺務所で販売中

広島城址
戦前は国宝であった。

隅櫓

大手門

復元された天守閣
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新日山 安国寺 不動院(真言宗別格本山) 不動堂
当寺の御本尊は金堂に安置されている平安時代作とされる重文薬師如来坐像。
それにも拘らず不動院と呼ばれるのは何故か?
『当寺の復興に尽力した安国寺恵瓊は、毛利の外交僧として関ヶ原の戦いで西軍に属した。
そのため戦後、恵瓊は石田三成、小西行長と共に京都六条河原で斬首、
毛利氏も中国九ヶ国から防長二国に減封となり、寺領は没収され寺運は衰退して行く。
その後、福島正則が芸備四十九万石の大名として入国、
正則の祈祷僧である宥珍(ゆうちん)が当寺に入り住持となった。
その際に禅宗から真言宗に改宗、不動明王を本坊に移して本尊とし本坊を不動院と称した。
当寺全体を不動院と称するようになるのはこれ以降の事である。

寺務所前から境内を見る
正面が鐘楼、その奥が金堂。右奥が不動堂。

正面から見た不動堂
酒どころらしく酒樽が奉納されている。

前方に張出した不動堂の向拝

不動堂は金堂と異なり内陣で参拝可能
福島正則の治世は二十年足らずで終わり、替わって浅野氏が入国。
以後、藩政時代を通じて歴代藩主の庇護を受け、概ね安定した時期が続く。
明治になり当寺は権力者の手から離れ庶民の信仰の場となった。』 とあります。

堂内に安置された御本尊の不動明王

御本尊を説明する簡素な駒札

不動堂前にある水掛不動尊

不動堂前からの眺め
鐘楼の奥が寺務所。

不動院御朱印 (不動明王)
不動堂は廊下で書院と繋がっていますが、書院の入口には「全国安国寺会」の看板が。
事務局や宿泊所も兼ねているのでしょうか?
境内では目立たない不動堂ですが、裏手には庭園があり山に続いている様子。
案内図には強いて記載されていませんが、池泉回遊式の立派なもの。
加えて天籟滝と呼ばれる滝もあって書院に加えて更に奥に在る茶室からも眺める事ができそうです。

不動堂から書院へと続く渡り廊下

書院玄関
「全国安国寺会」の看板が掲げられる。

不動堂裏手の池泉回遊式庭園
堂の直ぐ裏手には柵があり、入れない。

庭園奥の築山部分
中央奥に滝が見える。
不動明王の安置された本坊は今の不動堂でしょうが、金堂とは比べ物にならないくらい小さな方形。
扉が開いていたので内陣を見ましたが、不動明王を本尊にする理由は分かりません。
しかし堂前に掲げられた札に
「不動明王 智證大師作 豊太閤念持仏」 とあったので納得。
秀吉の子飼いの武将であった福島正則らしい対応と言えます。
正則は幕府の陰謀に近い形で改易になりますが、その後に入国した浅野氏も北政所の縁続き。
不動明王は廃棄される事もなく、幕府も別段咎める事もありませんでした。
福島家は断絶しましたが、現在まで不動の状態を保っているのを知ればあの世の正則も【本坊】でしょう。

書院裏にある庭園
書院脇を抜けると庭園が間近に見られる。

杉苔と楓

庭園奥の石組み

茶室前から見た書院と庭園

境内の端にある茶室

庭園の奥にある天籟滝
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新日山 安国寺 不動院(真言宗別格本山) 国宝・金堂
重要文化財の楼門を潜ると正面に建つのが国宝の金堂。不動院金堂は、
『天井に描かれた天女と龍の絵に天文九年(1540年)の賛があり創建もこの頃と考えられる。
入母屋造、杮葺き、一重裳階付の建物で、桁行三間、梁間四間の身舎(もや)の周囲に裳階を廻らしている。
二階建ての様に見えるが構造的には一重裳階付で、裳階は正面一間通りを吹き流しとしている。
この構造は我が国では珍しく大陸的な正式の手法と考えられる。

楼門とその奥に建つ金堂

楼門下からの眺望

不動院の歴史

境内の略図
当寺は密教系の天台宗であるが、金堂の建築様式は中世の本格的な禅宗様式(唐様)であり、
内部は土間床の一室、中央を鏡天井とし周囲に隙間なく組物が並ぶ構成、
桟唐戸・花頭窓・礎盤付柱・扇垂木等に本格的な禅宗仏殿の形式が見られる。
天井高は8.6mに達し、現存する唐様の建築物として国内最大を誇る。
この堂は当初からここにあったものではなく、戦国末期の天正年間(1573~1592年)に
住職の安国寺恵瓊が山口市内にあった香積寺(現在の瑠璃光寺)から移築したものである。

正面より見た金堂

斜め前方より

側面より見た金堂

斜め後方より見た金堂

金堂裏側
昭和20年(1945年)8月6日、原爆投下に拠って被爆。
当寺は爆心地から3.9㎞の位置にあり、金堂の屋根の一部が吹き飛び、
本堂の柱の1本が折れたものの奇跡的に倒壊は免れている。
当時は市内中心部からの避難する被爆者の受け入れ先として機能した。
昭和33年(1958年)には金堂が国宝に指定、
平成5年(1993年)には広島市に現存する被爆建物リストに登録。
一瞬にして多くの文化財を失った広島にとって、幾世紀にも及ぶ風雪に耐え、
昔の栄華を今に伝える貴重な存在となっている。』 とあります。

金堂前面にて

金堂屋根の扇垂木

向拝柱と蝦虹梁

金堂正面入口
但し内陣へは入れず、参拝は外陣から。

花頭窓
正面に建つと、昨日見た功山寺の仏殿を彷彿とさせる典型的な唐様の堂宇。
国内最大かどうかは分かりませんが、今まで見たなかでは紀州の興国寺に匹敵するでしょうか?
唯、内陣は公開していない様子で御本尊の御薬師様も隙間からの拝観。
近くで参拝できなかったのと、天井画を見ることが出来なかったのが心残りではありました。

金堂内陣に安置された御本尊薬師如来坐像

重文・木造薬師如来坐像 (説明書より)
高さ1.4m、檜材寄木造で、定朝様藤原時代の秀作。

金堂細部の組物
三手先の組物、頭貫の木鼻が見える。
古来より中国地方の中心であった広島を一瞬にして壊滅させたのが昭和20年8月6日の原爆。
その後、市民の努力もあって広島市は奇跡的な復興を遂げますが、失った過去の遺物は元に戻りません。
そんな中で、ここ不動院と対岸にある三滝寺がほぼ無傷で残ったのは、まさに奇跡。
どちらも野戦病院として機能したことを考えても御仏の加護を思わずにはいられません。

現代家屋風の寺務所
ここで御朱印を拝受。

不動院案内

不動院オリジナル御朱印帳(紺と赤)

赤色を購入 (大判;175×120㎜)

不動院御朱印

広島東郵便局 ; 国宝・不動院金堂、原爆ドーム、比治山
広島東郵便局は、移転・改称のため現在この風景印はない。
[参考書]
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新日山 安国寺 不動院(真言宗別格本山) 重文・楼門
この日は広島市内の古刹を巡礼。
牛田山の山麓、市内を流れる太田川の東岸にあって駅からは4㎞程。
川に架かる祇園新橋の袂にあるのでJR可部線で下車する事も可能ですが、
今は市内を走るアストラムラインの不動院前で降りるのが近道。
しかしこの日は他の場所への移動もあったので、朝8時に駅リン君をレンタル。
朝の浅野の城下町を太田川左岸を遡っての巡礼となりました。

太田川に沿って北上
新日山安国寺不動院(しんにちざんあんこくじふどういん)は、
『一般的には行基が開基とされるが、江戸時代の「新山日記」に当寺の開基は僧空窓(くうそう)とあり、
創建年代や開基については諸説あって判然としないのが現状である。
唯、金堂内に安置されている本尊薬師如来坐像が定朝様式であることから
平安時代には創建されていたと推察される。

参道の先に建つ楼門
太田川の堤防から一段下がった場所にある。

門前に到着
当寺が安国寺不動院と呼ばれるのは、足利尊氏・直義兄弟が日本六十四余州に設立した
安国寺の一寺であった事に由来。
暦応2年(1339年)に安芸安国寺に制定され寺名を景陽山安国寺と称した。
以後、安芸国守護武田氏の菩提寺として繁栄。
しかし戦国時代の大永年間(1521~1527年)、武田氏と大内氏の戦火に拠り伽藍は焼失。
その後の50年は藁屋に本尊を安置する有様であったと言う。

朝日の中に建つ楼門

楼門は文禄3年(1594年)建築
戦火で荒れ果てた当寺を復興したのが、戦国大名毛利氏の外交僧であった安国寺恵瓊。
豊臣秀吉の直臣大名でもあった恵瓊は秀吉より、自ら住持を務める安国寺の寺領として
一万千五百石を拝領。これは当時の中央社寺に比較しても破格の待遇であった。
恵瓊はこれを背景に伽藍復興に務め金堂、楼門、鐘楼、方丈、塔頭十二院等を復興整備し、
寺運は隆盛を極めたと言う。

正面から見た楼門
楼門と称されるが、建築形式的には上層・下層境にも軒の張り出しを持つ二重門に相当。

不動院所在の文化財
参道の先に聳える楼門は三間一戸、二階二重門、入母屋造、本瓦葺きで国の重要文化財に指定。
上層の尾椎(おだるき)に「朝鮮木文禄三(1594年)」等の刻銘があり、
文禄の役に従軍した恵瓊が朝鮮から持ち帰った材木で建立したと考えられていたが、
建築様式から室町時代のものと判断され、恵瓊が持ち帰った材木は修復に使われたと
考えられている。』 とあります。

楼門右側の仁王像(阿像)

楼門左側の仁王像(吽像)
開基がはっきりしないのは古刹故でしょうが、著名な行基と並んで無名な空窓の名があるので、
どうもこちらが本命と【くうそう】します。
足利氏に拠って安国寺になってからは、武家との関りが発生。武田と大内の争乱で焼失したのは
人間の守護がいても御仏の守護はなかったと言う事になりましょうか。
その後の【暗黒時】代を振り払ったのが、武田の血を引く安国寺恵瓊というのも何やら因縁めいたものを感じます。

境内側から見た楼門

楼門屋根の組物

楼門の屋根瓦の紋
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【往路】JR大阪(5:55) → JR姫路(7:30→7:31) → JR岡山(9:08→9:11) → JR福山(10:10)
福山駅前(10:30) → (バス) → 鞆港(11:02) → レンタサイクル20分 → 阿伏兎観音 → レンタサイクル20分 → 鞆の浦 → 淀媛神社 → 医王寺 → 明圓寺 → 沼名前神社 → 小松寺 → 備後安国寺 → 対潮楼 → 鞆港(15:08) → (バス) → 福山駅前(15:40)
【復路】JR福山(16:04) → JR姫路(18:44→18:56) → JR大阪(19:58)

海岸山 千手院 福禅寺(真言宗善通寺派別格本山)
御本尊参拝の後は、いよいよ絶景へ。
『現在の本堂と隣接する客殿は江戸の元禄年間(1690年頃)に建立。
江戸時代を通じて朝鮮通信使の迎賓館として使用され、日本の漢学者や書家等との交流の場となった。
その座敷からの眺望は素晴らしく、正徳元年(1711年)には通信使の従事官・李邦彦が「日東第一形勝」と称賛し、
延享5年(1748年)には同じく通信使の正使であった洪啓祺が客殿を「對潮楼」と命名、同行の子息洪景海が
それを書写し僧侶に与えた。後に福山藩主阿部正福がこの書を扁額に仕立てたものが現在ある扁額である。

対潮楼説明

境内に建てられた説明板

説明板のアングルで撮影

窓枠を最大にして撮影
對潮楼にて窓枠を額縁に見立てて見ると、瀬戸内海と仙酔島が宛ら一幅の名画に見える事が
「日東第一形勝(日の昇る東の国で一番の景色である)」と言われた所以である。
平成29年(2017年)にはユネスコ世界記憶遺産登録、重要伝統的建造物群保存地区に選定、
平成30年(2018年)には日本遺産に認定、みなとオアシスに登録された。』 とあります。

窓枠下の境内の松越しに見た弁天島と仙酔島

窓脇に掲げられた正面に見える島の説明
窓を額縁に見立てる手法は京都の宝泉寺でもあるので、ここ独自という訳ではありませんが、
背景に海があるのは寡聞にして知りません。
加えて、ここを有名にしたのは朝鮮通信使という言わば外来の人達の評価だった事。
1711年以降は寺も荒廃し、次の1748年の通信使には別の施設が用意されたとか。
それでも通信使一行がかつての福禅寺に拘ったので、日本人は改めてこの場所の良さに気付いたとも言われます。
閉ざされた島国のせいかは?ですが、日本が外国の高評価に敏感なのは今も昔も変わりません。

仙酔島に建つ鳥居と多宝塔
但し、この島は無人である。

皇后島と島に渡る福山市営渡船

弁天島の前を行く渡船
鞆町鞆から仙酔島までは、往復¥240、運行間隔20分毎、所要時間5分と非常に便利かつリーズナブルである。
窓の向こうに見えるのはてっきり仙酔島と思っていましたが、正面の多宝塔のある島は弁天島、
右の半円形の島は皇后島、仙酔島はそれ以外の島の総称と今回初めて知りました。
仙酔島は仙人がその姿に酔いしれる事からの命名、仙人が船酔いするからではありません。
そんな事は兎も角、誰が見ても【センスいい島】なのは変わりません。
春の鞆の浦の風物詩である鯛網は出漁に先立ち仙酔島で「鞆の浦大漁節」を披露し、「大漁祈願祭」が行われる場所とか。
漁場は更に沖合にあるそうですが、もし楼から見える場所であれば【鯛潮楼】となったに違いありません。

福山藩主阿部正福の揮毫になる「對潮楼」の扁額

扁額の由緒

「日東第一形勝」の扁額と幕末の志士達の集合写真
坂本龍馬も写っている。

扁額の説明
見ると眼下にレトロな船が走っていましたが、これは仙酔島への渡船。
福禅寺の受付で聞いた話では頻繁に運行され運賃も格安だそう。
今回は時間の都合で×でしたが、次回は是非にも島に渡ってその眺望を楽しみたいものです。
勿論、島へは渡し舟、決して【潜水】して向かう訳ではありません。

客殿(対潮楼)の欄間にある菊の御紋の透かし彫り
村上天皇の勅願であることに由来する。

客殿の内部

朝鮮通信使の人達がここで詠んだ漢詩
江戸時代は言葉が通じない場合でも筆談で交流を図ったとある。
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海岸山 千手院 福禅寺(真言宗善通寺派別格本山)
鞆の浦を自転車で一回りして渡船横の店に返却した後は、振り返った石垣上に建つ伽藍に参拝。
最後に残ったのが鞆一番の観光名所になりました。

對潮楼
細い路地を抜けるとこのような看板も!
鞆の浦を自転車で一回りして渡船横の店に返却した後は、振り返った石垣上に建つ伽藍に参拝。
最後に残ったのが鞆一番の観光名所になりました。
海岸山千手院福禅寺(かいがんさんせんじゅいんふくぜんじ)は、
『平安時代の天暦年間(950年頃)、村上天皇の勅願寺として空也上人に拠って創建された真言宗の寺院。
本尊は千手観音で観音信仰が盛んな古刹である。

海岸山の扁額

境内から見える風景
現在の本堂と隣接する客殿は江戸の元禄年間(1690年頃)に建立。
江戸時代を通じて朝鮮通信使の迎賓館として使用され、日本の漢学者や書家等との交流の場となった。
正徳元年(1711年)には通信使の従事官・李邦彦が「日東第一形勝」と称賛し、
延享5年(1748年)には同じく通信使の正使であった洪啓祺が客殿を「對潮楼」と命名、
同行の子息洪景海がそれを書写し僧侶に与えたとされる。
以後、對潮楼は鞆の浦の絶景としてその名は広まるが、実際は客殿が出来る前からこの場所は
通信使に高く評価され記録にも残されている。
幕末の「いろは丸」沈没の際には、海援隊と紀州藩の交渉の場としても用いられた。』 とあります。

御本尊を祀る本堂(観音堂)

本堂前部

本堂から境内を望む
山号は寺の建つ海岸、院号は御本尊由来とは想像できますが、禅宗でもないのに寺号が福禅寺と言うのは
摩訶不思議。参道を歩くと境内の様子は禅宗様にも見えるので、予備知識がないと禅宗寺院と間違えそうです。
景色ばかりが強調されますが、ここはれっきとした寺院。きちんと本堂で御本尊の千手観音様にお参りした後に、
絶景を堪能するという手順を踏みました。
また客殿は歴史の舞台ともなった場所で、通信使所縁の書に加えて坂本龍馬も写った「幕末維新の志士たち」の
写真が展示されていました。撮影者は我が国の写真家の元祖上野彦馬。景色に加えて歴史の重要な舞台でもありました。

独特の書体である本堂の「観音堂」の扁額

内陣に置かれた「海岸山」の扁額

對潮楼御朱印 (今回拝受と平成6年拝受のもの)
印は同じだが、墨書は随分おとなしくなっていると思えるが…。
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【往路】JR大阪(5:55) → JR姫路(7:30→7:31) → JR岡山(9:08→9:11) → JR福山(10:10)
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瑞雲山 安国寺(臨済宗妙心寺派)
釈迦堂西側にある安国寺本堂跡。
釈迦堂を内陣で参拝したあとは堂の裏手にある庭園へ。
説明板では庭園に並んでかつて本堂・庫裏があったとありますが、今は跡を残すのみです。
『安国寺の伽藍配置は各禅宗本山に見るものと同じ直綜式の三門・仏殿・法堂・方丈が完備されていたと推定され、
方丈側面の庭園として室町期の枯山水が安国寺方丈庭園として荒廃されながらも保存されてきた。

安国寺本堂跡

創建の由来
枯山水式庭園で、白砂や岩石で滝や流水を表現した室町末期の作庭と推定される。
三途の川には石橋、蓬莱山には岩石の仏様を置いた蓬莱式庭園とも呼ばれる。
中央の鶴島には蘇鉄、亀島には松を植えた鶴亀式庭園。鶴亀式庭園は戦国時代に流行したもので、
武将が自分達や主家の繁栄を願って作庭したものである。石橋の矢穴や長さ高さが桃山期の手法で、
慶長4年(1599年)安国寺恵瓊が改造したと伝わる。』 とあります。

本堂跡の南にある安国寺庭園

庭園の説明

岩石で仏様を表した蓬莱山

蘇鉄を配した鶴島

松を植えた亀島
説明書に拠れば荒廃していた庭園を復元修理したのは昭和の作庭家・重森三玲氏。
これに拠り作庭当時の美観を取り戻したとされます。
本庭は室町末期の庭園として有名な京都大徳寺大仙院、妙心寺退蔵院の庭園の折衷として構成されていますが、
部分的には枯瀧の石組みは天正期の京都本法寺に類似したりと様々な時代の要素が見られます。
中国路最古の枯山水庭園と言われ、参拝者は石に腰掛けながらゆっくり眺める事ができる訳ですから、
堂宇は無くなったと言え恵瓊の意志は今に生きているといえるでしょう。

境内北側に植えられている楷(かい)の木
栃木の足利学校より足利氏繋がりで贈られたものだとか。

楷の木の話
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<コース> 冬の青春18きっぷ使用 バスは日中30分間隔で運転
【往路】JR大阪(5:55) → JR姫路(7:30→7:31) → JR岡山(9:08→9:11) → JR福山(10:10)
福山駅前(10:30) → (バス) → 鞆港(11:02) → レンタサイクル20分 → 阿伏兎観音 → レンタサイクル20分 → 鞆の浦 → 淀媛神社 → 医王寺 → 明圓寺 → 沼名前神社 → 小松寺 → 備後安国寺

瑞雲山 安国寺(臨済宗妙心寺派)
寺社の並ぶ寺町を北上した端にあるのが備後安国寺。重文の釈迦堂と庭園で知られます。
山門を抜けると禅宗らしく白砂が整えられた庭を抜け寺務所へ。
右手に堂宇が見えますが、これは寛永9年(1632年)に藩主水野勝俊が
夭逝した子を弔うために建立した観音堂。昭和初期に再建されているそうです。
寺務所の奥の細い参道を抜けた先にあるのが釈迦堂。外からも外観は見えますが、
折角来たのだからと拝観料¥150を払って入山。

沼名前神社の前の道を進むと現れる道標

南向きの山門
瑞雲山安国寺(ずいうんざんあんこくじ)は、
『鎌倉時代の文永10年(1273年)に無本覚心(法燈国師)に拠って創建された金宝(きんぽう)寺が嚆矢。
創建当時は三門・仏殿・法堂・衆寮などの七堂伽藍が聳える壮麗な寺院であったという。
南北朝時代の暦応2年(1339年)、足利尊氏の命で法燈国師の法孫愚谷和尚が安国寺と改名して開創。
尊氏にとって備後領内での重要な土地は尾道と鞆の津であった事から塔を尾道の浄土寺に建立し、
鞆の金宝寺を改称させたのだとされる。
しかし文献の上に安国寺の名称が最初に見られるのはかなり時代が下った応永6年(1399年)である。

山門から見た境内
左側が書院と庫裏、右が観音堂。

「瑞雲山」の扁額が掛かる書院
室町時代には繁栄したが戦国時代には一時衰退していたものを、天正元年(1572年)安芸の安国寺の
出身である安国寺恵瓊が京の南禅寺から移り毛利輝元を大檀越として再興に着手。
天正7年(1579年)に釈迦堂及び庭園が再興された。
子院塔頭も多く存在し、現在の釈迦堂を中心に海岸まで伸びる境内を持ち寺観も整えたが江戸時代には再び衰微。
その後、明治・大正にかけてその極に達し、大正9年(1921年)の本堂焼失後は廃墟化、庫裏も俗家と化し、
唯一荒廃した釈迦堂が残るのみであった。
その後、歴代の住職の努力に拠って境内が整備、仏像も解体修理されるなど、文化財としての保存が進んでいる。

蘇鉄の奥に建つ観音堂

境内の土塀越しに見た観音堂
境内全域が県の史跡に指定されている他、金宝寺に由来する鎌倉時代の建物や仏像が現在も保存されており、
釈迦堂と堂内の木像阿弥陀三尊像・木造法燈国師坐像は国の重要文化財に指定されている。
釈迦堂は金宝寺の仏殿として建てられたもので、鎌倉時代に禅宗と共に入って来た唐様の典型的なもの。
唐様建築としては日本でも最古に属する名建築である。』 とあります。

観音堂前から山門を見る

土塀越しに見た国宝・釈迦堂

安国寺由緒記
安国寺は室町初期に足利尊氏が全国に建立した寺院。戦没した死者の霊を弔う意向ですが、
新規に寺院を建立しただけでなく既存の寺院を転用する場合もあったようです。
日本史上の将軍家の中で、その経済基盤である荘園所有が最も少なかったのが足利家。
加えて建武の新政で後醍醐天皇が真っ先に内裏の新築を行って世間の顰蹙を買った事も影響していると思えます。

正面から見た国宝・釈迦堂

唐様建築の典型 釈迦堂正面の近影
その後の衰頽の危機を救ったのが安国寺恵瓊。毛利家の外交僧として活躍し、豊臣政権下では
6万石の国持大名にまでなった傑僧。いくら戦国時代とは言え、僧侶が大名までのし上がったのは
尋常ではありませんが、恵瓊は安芸の守護であった武田氏の流れ。
毛利に亡ばされた主家の復興を別な形で果たしたと言えます。

釈迦堂の「大雄宝殿」の扁額

釈迦堂内部と天井
着座の像は重文・木造法燈国師坐像。

天井の組物群と蝦紅梁
大檀越は毛利家ですが実際に動いたのは恵瓊。禅僧としての名乗りは瑶甫恵瓊ですが、安国寺恵瓊と
呼ばれるようになったのは故なしとはしません。尤も彼の場合は広島市内の安芸安国寺ではありますが…。
こんな状況も関ヶ原で一変。庇護者を失った当寺は一気に衰頽します。
西軍の大名の中で戦後処刑されたのは3名。その中に入った事でも東軍の恵瓊に対する悪印象を感じます。
江戸時代の福山藩は譜代大名が入ったので復興は益々遅れる事に。
漸く近年になって長い【暗黒時】を抜ける事が出来たようです。

後方の庭園から見た釈迦堂全景

安国寺説明書

安国寺御朱印 (平成6年拝受)
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萬年山 小松寺(臨済宗妙心寺派)
こぢんまりとした山門。
沼名前神社の二の鳥居の脇にある小さな入口を入り西へ向かった先にあるのが小松禅寺。
名の知られた寺院ですが、「これが!」と思う程の小さな境内です。
萬年山小松寺(まんねんさんこまつじ)は、
『安元元年(1175年)、小松内府平重盛卿が厳島参詣の途路、護身の阿弥陀仏像を安置して
一宇を建立したのが嚆矢。その際、記念に沼畔に松を植えたものが樹齢850年の偉容を誇っていたが、
昭和29年(1954年)の台風で惜しくも倒伏死した。
治承3年(1179年)、重盛は42歳で逝去。寿永2年(1183年)、重盛次男資盛の命に拠り平貞能が
京より重盛卿の遺髪を持参。五輪塔を建立し盛大な法会を行った。

小松寺略記

略記の建つ付近から境内を見渡す
延元元年(1335年)、一端西国に落ちた足利尊氏は九州から大軍を率いて東上し当寺に宿陣。
そこで弟の直義と軍議を行い、光厳院から院宣を受け錦旗を掲げる事で意気衝天することとなった。
南北朝の暦応2年(1339年)、当寺に本営を置いた北朝と大可島に陣した南朝軍の間に
数十日に及ぶ激戦が起こり、記録類は言うに及ばず殿堂も悉く灰燼に帰した。
ようやく大永年間に安国寺六世の曇叟華禅師が再建し禅刹に改宗。
元和9年(1623年)に九州久留米の梅林寺三世澤雲禅師が法系を整えたものが今日に伝わる禅の流れである。
天正3年(1575年)、信長に拠り京を追われた15代将軍足利義昭は当地に宿陣した毛利輝元を頼り当寺に寓居。
やがて信長の後を継いだ羽柴秀吉との間に和議が成立すると当寺を引き払い常国寺に移った。
当時の人は「足利は小松に興り小松に亡ぶ」 と言ったという。
慶安年間には福山城主水野勝成が当時の寺域の大半を割き祇園社の社地に。
貞享2年(1685年)にも再び境内を割いて社地とし現在に至っている。
本堂前に祀られている有髪薬師地蔵尊は非常に珍しい石仏で、
古来より霊験顕著として遠近より参詣者が絶えない。』 とあります。

参道正面に建つ本堂

本堂の「萬年山」の扁額

本堂内陣の様子
祀られているのは阿弥陀如来様。
寺名は創建した重盛の小松殿から、山号は常緑の松に肖って萬の齢をという意図でしょうか?
しかし、その甲斐なく重盛は42歳で父清盛に先立ちます。清盛と後白河上皇と間にたって
潤滑油の役割を果たしていた彼の死で、平家は滅亡への道を早める事になりました。
尊氏が飛躍する契機となった当寺ですが義昭がその幕引きに。
どうも小松寺は興隆よりも衰亡に縁があるようです。寺もかつては広大な寺域を有していたようですが、
隣接する沼名前神社の所有に移り現在では主従が逆転した感があります。
それでも廃寺となることなく重盛の衣鉢を受継いでいるのは、その遺髪を納めたからでしょうが、
本尊よりも有名な有髪地蔵尊があるのも髪が誘発しているように思えました。

本堂前にある地蔵堂

有髪薬師地蔵尊

小松寺御朱印 (平成6年拝受)
流れるような水茎の跡。
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沼名前神社(式内社 旧国幣小社)
寺院参拝の後は道を更に北上。道沿いに大きな石鳥居が見え、その奥には風格を感じさせる社が鎮座します。
沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は、
『明治9年に大綿津見命(おおわたつみのみこと)を祀る渡守(わたす)神社と須佐之男命を祀る鞆祇園社を合祀、
延喜式の記載に倣い沼名前神社と改称したものである。

社標から本殿までが山裾まで一直線に並ぶ

二の鳥居にて

二の鳥居の右手(北側)に建つ社標
渡守神社は仲哀天皇の2年、神功皇后が三韓出兵で西国に向かった時に、ここの霊石に大綿津見命を祀り
海路安全を祈願したのが始まり。その帰路に際し、腕に巻いた鞆をここに奉納したのが鞆の浦の名の由来となった。
一方の鞆祇園社は天長年間(824~834年)の創建、保元年間(1156~1159年)の勧請とも言われ、
その創建については不詳。御祭神は須佐之男命で、『備後国風土記』にある疫隈国社に比定する向きもある。

俗と聖の境界を示す注連縄

由緒記

階段途中に建つ随身門(神門)
寺の山門に相当する。

上から見た随身門
中に祀られているのは仁王様ならぬ神様。
両社共に鞆の関町にあったが、慶長年間に現在の地に遷座。境内の最下段の二の鳥居は寛永2年(1625年)に
二代藩主水野勝俊が長子(後の三代藩主水野勝貞)誕生に際しその健康を願い寄進したものである。
三代藩主水野勝貞の治世には慶安4年(1651年)に本堂前に石燈籠が寄進され、
明暦年間(1655~1658年)には社殿が再建された。
また境内の八幡神社脇には20個の力石が置かれている。全て花崗岩製で、重さは118~230kg。
祭礼の場で力比べをして奉納したもので、近隣の住吉神社の3個と併せて「鞆の津の力石」として
市の文化財に指定されている。

随身門の先に見える拝殿

拝殿正面

拝殿前から随身門を見返る

階段を上った先に建つ青銅製燈籠
装飾を見て撮影したが、有名なのは石燈篭と後で知り、とんだ【とろう】に終わった。

社殿奥にある八幡社と渡守社

八幡社脇の力石(ちからいし)

日本遺産 鞆の津の力石

境内の北端の休憩所内に展示の「お手火」

お手火神事のポスター
本殿下にあるのが重要文化財の能舞台。元々、豊臣秀吉が伏見城に設けた組立て式(移動式)の能舞台で、
秀吉は戦場にも持ち込み兵士を慰労していたと伝わる。
江戸時代に入り伏見城取り壊しの際、二代将軍秀忠より福山藩主水野勝成が拝受し、万治年間(1658~1661年)に
水野勝貞が当社に寄進。現在の固定された姿になった。国指定の能舞台は4基あるが組立て式はここ唯一である。
江戸時代には京から演者が訪れ度々演能が開催され、現在も夏祭りの最後に神能祭が奉納されている。』 とあります。

重文・能舞台

能舞台説明

階段側から見た能舞台

能楽 鞆浦碑
訪問した中では、鞆の浦で最も大きな神社。名前の由来となった鞆が奉納された事に加え、
沼隈半島と同じ「ぬまくま」の名を冠した事から地域の中心的な社と思いましたが、元は二社が合祀したもの。
「隈」の字を「名前」に変えたのは、神に敬意を表しての事でしょうか?
宮崎アニメ「崖の上のポニョ」では、町が水没し船で避難する時に幟旗が見えますが、
それが沼名前神社であるとかないとか。真偽の程は知りませんが【神意】であるのは確かなようです。

社務所玄関の唐破風
但し、御朱印等の受付は左側の窓口にて。

沼名前神社説明書

沼名前神社御朱印
印の上側が鞆の図案か?
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松江山 宝泉院 明圓寺(浄土真宗大谷派)
医王寺参拝の後、坂を下ると左手に白塀の立派な寺院が。
門前には説明書も置かれてあったので、予定を変更して急遽参拝。
松江山宝泉院明圓寺(しょうこうざんほうせんいんみょうえんじ)は、
『承久年間に沼隈郡山田村に創建された小坊が起源。元は天台宗であったが、
二代目が山南村光照寺の明光上人に化導され歴仁元年(1238年)に真宗に改宗。
その後、山田村の領主から日蓮宗に改宗を迫られたが改宗を拒み、
室町末期(1570~1580年)に鞆の浦に移転した。

医王寺への道沿いに白壁が続く

山門

山門の屋根瓦にある紋
松は山号由来として、五三の桐は何?
織田信長との石山合戦の時には、10代住職の長存は「進者往生極楽 退者無間地獄」と書かれた
薄黄色の手織り木綿の旗を掲げ石山本願寺に駆け付け奮戦、後の東本願寺設立にも尽力した。
その功績に拠り本願寺12代教如上人から「松江山明圓寺」の寺号を頂き、以後鞆の浦の真宗寺院として
門徒と共に歩んできた。江戸時代を通じて朝鮮通信使の常宿でもあった。
境内には江戸時代の寛永21年(1644年)に造られた鐘と珍しい袴型の鐘楼があり、鐘は朝鮮型の形式が
取り入れられた貴重なものである。外国船の来航が相次いだ幕末、先の太平洋戦争時も信徒の尽力に拠って
供出を免れ、現在でも除夜の鐘では参拝者が撞くことが出来る。』 とあります。

山門正面に建つ本堂

蘇鉄と開祖親鸞上人像
境内に開祖の銅像が建ち、正面に誇大な伽藍、鐘楼があるのは真宗寺院の典型。
信者でなくとも堂の内陣で自由に参拝できるので、期待しましたがこの日は法要の真っ最中。
外陣のみの参拝で済ませました。
当寺は天台宗から住職が真宗に感化して帰依した寺院。改宗は大きな転換点ですが、
その後の日蓮宗への改宗は頑なに拒んだ事から、真宗への帰依は本物だったのでしょう。

珍しい袴型の鐘楼

書院玄関
石山本願寺と毛利氏が結び信長に対抗した石山合戦では遠く大坂まで参戦。
これも宗派に忠実に従った故でしょうが、「戦で死ねば極楽往生できる」の宣伝文句で信徒を戦場へ送ったのは
宛ら西洋の十字軍を彷彿とさせます。これも戦国時代故でしょうが日本史上では珍しい事。最終的に信長は
宗教勢力を屈服させて戦国時代の幕引きをすることになりますが、信徒たちはその大きな人柱だったと言えます。

書院の前庭

境内全景

明圓寺説明書
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桃林山 慈眼院 医王寺(真言宗)
淀媛神社参拝を済ませた後は港へは向かわず、道をそのまま北上。
後山(うしろやま)の東側の山裾には数百mに亘り寺社が並びます。
江戸時代に城下町を整備した際に、防衛のため一ヵ所に集めたものでしょう。
メイン通りから西へ寺の続く細長い坂道を上った所に建つのが医王寺。淀媛神社からもその姿が遠望できます。

寺院の連なるメイン通りから西へ入った細道

道沿いに建つ案内マップ

石垣と土塀に囲まれた境内へ階段を上る
桃林山慈眼院医王寺(とうりんざんじげんいんいおうじ)は、
『鞆の浦の後山中腹に建つ鞆の浦で二番目の古刹。寺伝に拠れば、天長3年(826年)弘法大師空海の開基とされる。
本尊は室町中期の木造薬師如来立像で県の文化財に指定されている。
その後、火災などに拠り衰退するが、慶長年間(1600年頃)福島正則が広島藩主となり、
鞆城代の大崎玄藩がこれを再興した。現存する鐘楼は寛永19年(1642年)福山藩主水野勝成の建立、
本堂は貞享2年(1685年)四代藩主水野勝種の再建と伝えられる。

医王寺入口(山門)

由緒記

境内の様子
手前が御影堂、その奥が庫裏。

正面から見た御影堂
と言う事は弘法大師像を祀るか?

御影堂に続く本堂
本尊薬師如来はこちら。但し外陣からの参拝。
当寺からは瀬戸内海が一望に見渡せ、福山藩儒の門田朴斎(もんでんぼくさい)は
「夕陽の虹は島々に横たわり 水面に落ちる月影は素晴らしい
また冬には石鎚山はじめ 四国連山の積雪が遠望できる」 と漢詩に詠んでいる。
境内から更に15分程山を上った場所には太子殿が建つ。文政9年(1826年)オランダ商館の医師シーボルトは
岩石の観察、躑躅や松などの植物採取のために、小道を上りここに至った。その時の様子を
「私は町外れの医王寺に行った。数百フィートの高い山に登った。」 と 『江戸参府紀行』に記している。
彼が上った山道は現在グリーンラインの展望台に通じるハイキングコースとなっている。』 とあります。

寛永19年(1642年)建立の境内で最古の鐘楼

宝篋印塔越しに鞆港を望む

大伴旅人の歌碑

歌碑の説明
古刹に相応しく仏像初め文化財を蔵していますが、普段は一般公開していない様子。
それでも観光客が訪れるのは、ここからの眺望が素晴らしいの一語に尽きます。
眺望という点では對潮楼に軍配が上がりそうですが、あちらは鞆の浦の一部。
浦全体を見渡す事にかけてはこちらに勝る場所はありません。
寺の石段、境内の端からも眼下に広がる鞆港や島々が眺められます。

境内から見た鞆港
正面の高台に建つのが對潮楼。

観音堂の脇を抜けて更に高台へ
更に境内の奥にある山道の先の太子堂へ。
10分程度の上りですが、その先に待っていたのは境内に勝るとも劣らない絶景でした。
シーボルトも動植物採取のためここへ来て絶景を楽しんだのかと思いましたが、
ここからは海上交通の鞆の浦の様子が手に取るように分かります。
後に、伊能忠敬の日本地図を国外に持ち出そうとしたことで国外退去となった彼には、
純粋な探究心だけでなく政治的な意図もあったのではと想像が膨らみます。

太子堂へと続く石段

石段途中から見た鞆港

石段の先に建つ太子堂

太子堂近影
絶景を眺めた後は境内に戻って寺務所へ。御朱印は以前に拝受していたので、説明書の有無を尋ねましたが、
「生憎、ここは置いていません。」 との返事。有名な古刹だけに残念な気がしました。
辞去する際にふと表札に目を遣ると「宇喜多」の文字が…。
阿伏兎観音の御住職は毛利一門でしたが、ここは宇喜多一門とは。
いずれも関ヶ原で西軍になり、殆ど戦をしなかった毛利家は大幅減封、
一方奮戦した宇喜多家は改易の上、当主の秀家は終生八丈島へ遠島。
盛者必衰、憂き世の厳しさを感じる話ですが、今に至るまで古刹を護り続けた事には
五大老の一人であった矜持を感じます。

太子堂からの鞆港

望遠で見た對潮楼と弁天島

医王寺御朱印 (平成6年拝受)
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淀媛神社
阿伏兎観音参拝から鞆の浦への帰路、峠を越えて湾内の海沿いの道に入ると右手に淀媛神社の案内が。
「こんな場所に、何故淀君の神社が?」と不思議に思いました淀君ではなく淀媛の見間違いでした。

道路に面して建つ一の鳥居

由緒記
『御祭神の淀媛は別名虚空津姫命(こくつひめのみこと)、神功皇后の妹に当たる。
神功皇后と共に三韓征伐された際に武功を挙げられた。凱旋の時にこの浦に船を停めて泊り、
やがて皇后の仰せを受けて渡守(わたす)神社の祭主となり村人の尊崇する所となった。
後に浦人達がこれを起源として産土神として祀ったのが嚆矢である。

石段途中にある狛犬と結界を示す注連縄

石段右手にある常夜燈
航海する人もこれを目印にしたか?

更に石段を上り本殿へ
現在の社殿は大正3年(1914年)7月に新築完成、昭和2年10月に神殿・幣殿・拝殿屋根の銅版補修が行われた。
その後、老朽化が進んだが平成13年に氏子である平住民全世帯からの出資を受け修復が完了。
今に至っている。』 とあります。

手前に建つ拝殿

神社縁記
というよりも修復の記録と言った方が正しい。

拝殿・幣殿・神殿(本殿)が連続した造り

拝殿に続く幣殿と神殿

神殿(本殿)近影
付近の字は平ですが、社が建つのは浦に突き出た高台の頂点。
南を見ると遠く四国まで、北を見ると鞆の湾内が一望できる場所。
神功皇后が伝説の女性なので、淀媛も恐らくは想像上の人物。
そのような人物を御祭神に持ってきたのは、港を扼する地を守護するのに相応しいと考えたからに他なりません。

拝殿前から南を望む

北の鞆の港方面

北西の山側
一際高い場所にあるのはこれから向かう医王寺。
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 冬の青春18きっぷ使用 バスは日中30分間隔で運転
【往路】JR大阪(5:55) → JR姫路(7:30→7:31) → JR岡山(9:08→9:11) → JR福山(10:10)
福山駅前(10:30) → (バス) → 鞆港(11:02) → レンタサイクル20分 → 阿伏兎観音

海潮山 盤台寺(臨済宗妙心寺派 瀬戸内観音霊場第二十四番)
客殿に続いていよいよメインの観音堂へ。
客殿は一見地味ですが、その先には朱塗りの回廊が観音堂まで続きます。
登り口には白鳳稲荷大明神と手水鉢があってそこで身を浄めるのが習わし。
朱塗りの階段は一直線ではなく途中の踊り場を経て観音堂へ。
踊り場は鐘楼となっており梵鐘が吊るされていましたが、刻まれていたのはエスペラント語の詩。
一体、どのような意図でしょうか?

阿伏兎観音由緒記

手水舎から見上げた回廊

いよいよ回廊を上る

盤台寺回廊鐘楼
エスペラント語の詩が刻まれた福山市重要文化財。

鐘楼の先に見える観音堂

上って来た回廊を振り返る

観音堂入口近くの回廊

観音堂入口へ到着
『険しい海食崖が続く沼隈半島の南端「阿伏兎岬」は奇勝として知られ、岬の突端の断崖に建つ磐台寺観音堂は
阿伏兎観音の名で知られ、古くから海上交通の人々の信仰を集めた。
現在の堂は元亀元年(1570年)に毛利輝元が再建、寛文7年(1667年)に水野勝種の補修を受けたものである。
昭和31年(1956年)には国の重要文化財に登録された。

観音堂周囲の廊下を巡る

廊下左奥の欄干付近にて
足摺さんとその奥に見える瀬戸内海。

海に向かって開かれた観音堂

右手奥の欄干越しに見る瀬戸内海

右手奥の廊下から足摺さんを見る
透明な海の輝きと荒々しい岩肌に不思議と調和した朱塗りの観音堂は瀬戸内海の中でも
屈指の景観として広く知られている。浮世絵師・歌川広重は六十余州名所図会の中でその絶景を描き、
風景版画などの絵画の題材にも多く取り上げられた。
朝鮮通信使の記録にも紹介されており、戦前発行の国立公園切手のデザインにもなった。』 とあります。

足摺さんと波打ち際

欄干から下を覗くとこんな風
♬真っ逆さまに落ちて痛いや♪
階段の先の観音堂は土足禁止。早速、上がって周囲を見渡しましたが説明書にあるように
遠く四国まで見渡せる絶景の地でした。
唯、欄干が低いのと10m真下は断崖の海になっており怖さも半端ではありません。
全景を見渡すには階段途中から六地蔵の前を通り足摺さんと名付けられた石塔まで。
足摺という程の行程ではありませんが、観音堂はここからの眺めが一番でした。
尚、観光ガイド等の写真は全て海上からの撮影だそうで、その辺は三保の松原にも似ています。

回廊途中から見た足摺さん

足摺さんへ向かう途中に見上げた観音堂

途中にある六地蔵
天上界・人間界・修羅界・畜生道・餓鬼道・地獄界のどこに生まれ変わっても救いの手を差し伸べてくれるとか。

岩の上に建つ足摺さん

足摺さん近影

足摺さんから見た阿伏兎観音遠景

観音堂の眺め

波打ち際から見上げた阿伏兎観音

下から見上げた観音堂

岩盤の上を縫うように続く回廊

回廊下の岩盤
盤台の寺号はここに由来する?
「これじゃあ阿伏兎やなくて、見るのは危のう観音、もし落ちたらアウト観音やで!」
などと駄洒落を言う余裕もなく参拝。
「海潮音」と思しき扁額は瀬戸内に相応しいですが、【開帳観音】に掛けているようにも見えます。
堂内の十一面観音石仏は秘仏ですが、女性の安産祈願のため両乳房を模った絵馬が多数奉納。
以前、紀州の慈尊院で見たものに酷似していましたが、秘密にするのはこちらではないかと思ってしまいます。
唯、ここに真剣に祈願に来る人にとってはそのようなことは瑣末な事項。
「高所や乳房に動揺しているようでは、崖の上の煩悩やで!」と【ジブリ】に言い聞かせた巡礼となりました。

海に向かって開かれている観音堂入口

観音堂内陣
天井には福山藩を代表する四条円山派絵師藤井松林の百花図が描かれている。

内陣の扁額は「海潮音」?

奉納される「おっぱい絵馬」

阿伏兎観音御朱印
令和4年寅年バージョンと言う話。

千年郵便局 ; 重文・阿伏兎観音の景勝
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<コース> 冬の青春18きっぷ使用 バスは日中30分間隔で運転
【往路】JR大阪(5:55) → JR姫路(7:30→7:31) → JR岡山(9:08→9:11) → JR福山(10:10)
福山駅前(10:30) → (バス) → 鞆港(11:02) → レンタサイクル20分 → 阿伏兎観音

海潮山 盤台寺(臨済宗妙心寺派 瀬戸内観音霊場第二十四番)
バスの終点鞆港に着きましたが、この日第一の目的地は更に5㎞先の阿伏兎(あぶと)観音。
有名な寺院ですが、鞆港までのバスが30分間隔なのに対し、阿伏兎観音行きのバスは2~3時間毎。
これでは大幅な時間のロスなので、早速渡船場横の店でレンタサイクル。
鞆の浦から西へは松永、尾道と港が続き町も海沿いに発展。しかし明治の鉄道は山中を直線的に通したので、
鞆の浦や阿伏兎は行き難い場所になりました。どうせなら山口県のように海沿いを走って欲しかったものです。
勿論、急勾配もありますが、鉄道には【あぷと式】という手もあるので…。
鞆の浦はレンタサイクルがお勧めらしいですが道幅も狭いので徒歩で回る人が多く、
昼前ですが無事借りることができました。そこで、お店の人との遣り取り、
店員;「途中、山を越えますけど…」
和辻;「押していかないといけませんか?」
店員;「恐らくそうなるでしょう。それでも行かれますか?」
和辻;「時間がもったいないので、一か八か行ってみます。」
とその場の勢いで借りる事に。
いざ走って見ると途中の峠までは普通の自転車でOKですが、そこから阿伏兎隧道を抜けると1㎞程の
急な坂になっていました。結局、帰りには押す羽目になりましたが、距離が短かったのが幸いでした。
それにしても電動自転車を置く予定はなかったのでしょうか?
山を下ってからは海岸沿いに出て、ひたすら海沿いを快走。途中、大きな観光旅館を抜け、
いよいよ道が狭くなった先に建つのが目的の寺院。

観音側から見た阿伏兎隧道

海沿いを快走中の光景
地理的に向こうに見えるのは尾道としまなみ海道の橋。
海潮山磐台寺(かいちょうざんばんだいじ)は、
『昔、花山法皇の一行が、吉備国児島の泊から太宰府に向かう途中、阿伏兎の沖に差し掛かったところで突風に遭った。
船は転覆し海に投げ出された一行はようやく阿伏兎の岬に泳ぎ着き岩陰に身を寄せて一夜を明かした。
命拾いした法皇は岬の断崖の上に石仏十一面観音を安置、潮流の激しいこの海での航海安全を祈願した。
寛和年間(992年)の事であったと伝わる。
しかし1185年の源平合戦(治承寿永の乱)の被害を受け荒廃、観音像は海中深く沈み行方不明となる。

阿伏兎観音入口

お寺の直ぐ横は波穏やかな瀬戸内海

入口から来た道を振り返る
それから数百年経った頃、鞆の江の浦に日頃から熊野三山を深く信仰していた次郎右衛門と言う漁師が居た。
或る日の夕方、次郎右衛門は阿伏兎の沖で漁をしたが魚は一匹も掛らない。
最後に網を下すと、魚の代わりに高さ二尺、腰回りが一抱えもある石の観音様が掛った。
石仏には牡蠣殻が付き観音様の中からは古銭が出てきた。
驚いた次郎右衛門は早速阿伏兎岬の岩上に観音様を安置、雨露をしのぐお須屋を建てて祀り、
能登原宝大寺の覚雙建智和尚に伝え花と香を供え経をあげた。
やがてこの事が当時の太守毛利輝元の耳に達し、輝元は元亀年間(1570年)観音堂を再建し灯明料を献じたと言う。

寺標

境内図
尚、拝観時に頂いた説明書の裏面もこれ。

左にある受付で拝観と御朱印を頂く

趣のある門扉
奉納の記載と菊の御紋があるのは何故?

境内から受付を振り返る

受付と客殿を繋ぐ廊下
江戸時代に入っても福山藩主の水野・阿部氏の手厚い保護を受け発展。特に四代藩主・水野勝種に拠り、
寛文7年(1667年)石垣や鐘楼、回廊が増築されたのが現在に伝わっている。以来、今日まで千年余り
航海安全の祈願所として、また子授け観音、安産の守護として人々の篤い信仰に支えられえて来た古刹である。
尚、石仏を引き上げた次郎右衛門は海を見下ろす阿伏兎の山中に葬られている。』 とあります。

客殿から張出した庇部分

客殿説明板

客殿正面部分
垂れ幕の家紋に注意!

境内から見た瀬戸内海
阿伏兎観音は文字通り岬の突端。普通の寺院のような広い境内は無く、あくまで断崖の上に置かれた観音様がメイン。
それでも御住職が居られ、禅宗の方丈建築の客殿があるのは流石。
歴代の藩主の庇護のお陰といえますが、墓地がないようなので檀家は居られないのでしょうか?
寺務所で御朱印を拝受して、御住職夫人と思しき方との話。
和辻;「阿伏兎とは何の事ですか?」
夫人;「阿伏兎はこの辺の地名です。」
和辻;「ところで客殿の内陣参拝はなしですか?」
夫人;「申し訳ございませんが、外陣のみです。」
山号は海潮山でも御【開帳】は無理でした。
和辻;「客殿の幕に描かれている家紋は大名の毛利家と同じですね。」
夫人;「私達は皆、毛利です。」
和辻;「もしかして御一門ですか?」
夫人;「一応、そういう事になってますが…。」
上流階級が一族を仏門に入れるのは歴史上よくありますが、毛利輝元が中国九ヵ国から周防長門二ヵ国に
減封された後も、当地に留まり法灯を現在まで伝えたのは流石。まさに【伝家の法灯】と言えます。

客殿脇を通りいよいよ阿伏兎観音へ

観音堂への階段脇にある手水舎

阿伏兎観音説明書

阿伏兎観音御朱印
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鞆の浦(瀬戸内海国立公園)
重要伝統的建造物群保存地区。
鞆の浦の自慢は港に加えてその町並み。
『江戸時代からの歴史的な街並みが今に残り『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されている。
町並みに加え由緒ある古刹や旧跡が残っており、細い網の目の様な路地を散策すると過去に
タイムスリップしたような錯覚を覚える。
廻船問屋の土蔵、瀬戸内海で獲れた魚介類を商う店、元禄年間創業の船具店など郷愁を誘う建物は多いが、
一番の存在感を示しているのが保命酒の醸造元。
常夜灯近くの旧太田家住宅は国の重要文化財。保命酒で財を成した豪商で、幕末の七卿が滞在した事でも知られる。

細い路地を南下し常夜燈方面へ向かう

重要文化財・太田家住宅
常夜燈近くにある太田家は江戸時代に保命酒で財を成した豪商である。

太田家玄関
薬用種とはいっても酒なので杉玉を吊るしている。

南側の道から見た太田家住宅
保命酒は糯米を主原料とした甘口の酒の中に十六種の植物性の薬味を溶かしたアルコール分14%の薬味酒。
誕生は江戸初期の万治2年(1659年)、大阪より鞆の浦に移住した漢方医の子息中村吉兵衛が
鞆の浦で造られていたお酒と薬味で製造したのが始まり。
醸造業が栄えていた鞆の浦に上方由来の漢方の知識が加わって誕生したものである。
江戸時代には福山藩の庇護を受け、特産品として全国にその名が知られ、他の酒よりも一段格上のものとして
藩の御用酒として献上品にも用いられた。朝鮮通信使、頼山陽、七卿等が好んだとある他、
ペリー提督一行の接待にも使用され、パリ万博にも出展された国際式豊かな酒である。
現在、四軒の醸造元が製造販売を行っている。

町並みに調和した和風の交番

交番前の道を西へ向かう
また隣接する浜蔵は江戸時代に建てられたもの。1867年、坂本龍馬率いる海援隊の「いろは丸」と
紀州藩船「明光丸」は鞆の浦沖で衝突し、いろは丸は沈没。龍馬は紀州藩と交渉し賠償金を勝ち取っている。
蔵内ではいろは丸の船体部品などの展示も行われている。』 とあります。
日本の町並み保存地区は街道に面したものも多いですが、ここは人が辛うじて行き違えるほどの路に面したものが殆ど。
やはり鞆の浦は陸上交通ではなく、海上交通の要衝であったと改めて知りました。街道ならぬ海道ですね。

こちらは別の保命酒の醸造元

醸造元は岡本亀太郎本店とある

岡本本店の玄関になっている長屋門
かつては福山城内にあった長屋門を移築したもの。

長屋門由緒

北側から見た岡本家

重厚さに圧倒される岡本家本店の入口
江戸時代には両替商・廻船問屋・醸造屋が町の分限者。いずれも立派な造りの家屋ですが、
ここでは醸造業者が一つ飛びぬけています。それだけ保命酒が売れたという事でしょう。
当初は一つの店でのみ製造していると思っていましたが、四つの醸造元で保命酒という名で
販売されていたのは驚きでした。揖保乃糸同様、鞆の浦の登録商標になっているのでしょうか?
龍馬所縁の地とは聞いていましたが、紀州藩と沈没船と巡る交渉があったとは驚き。土佐藩の脱藩者が
御三家と対等に渡り合っただけでも凄いのに、撃沈されずによく賠償金を勝ち取れたものだと感心します。
余程、交渉力に長けていたのでしょうが、紀州藩も龍馬の力量を評価したという事でしょう。
所詮歴史は人間が作るもの、改めて【歴史のいろは】を知った気がします。

港町北側の主要道
奥は小物を扱う店、手前の弁柄格子は漁網・漁具の販売店。

寺院群の一角にある「ささやき橋」
何の変哲もないコンクリート橋だが、朝鮮通信使の世話をした遊女と都の役人との悲劇の舞台でもある。
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鞆の浦(瀬戸内海国立公園)
バスの終点鞆港から対岸を望む。
寒波の襲来した平成21年末は温暖な瀬戸内、広島第二の都市福山市内巡礼でした。
年が明けた令和4年の長距離巡礼も引き続いて福山市内。
といっても駅近ではなく駅から南へ14km、バスで30分の鞆の浦。
『沼隈半島の先端にある鞆の浦は日本で最初の国立公園の一つとして指定された
“瀬戸内海国立公園”を代表する景勝地。鞆とは弓を射る際に右手に持つ武具。
伝説では神宮皇后が三韓遠征の帰路、この地の神社に鞆を奉納したのが地名の由来になったとか。
また一説では、付近の曲がりくねった湾の地形が鞆に似ていたからとも言う。

市営渡船のりば付近にて
国立公園の看板の向こうに弁天島と仙酔島が遠望できる。

弁天島の眺望
ここは瀬戸内海のほぼ中央に位置する潮の干満の分岐線。そのため古来より潮待ち風待ちの港として繁栄した。
鞆の浦の謂れとなった神功皇后に始まり、萬葉集では大伴旅人が鞆の浦を詠んでいる。
中世以降になると、京で敗れた足利尊氏はここで再起を計り諸町幕府初代将軍となった。
室町最後の将軍・足利義昭は織田信長に京から追放された後、毛利氏を頼り、ここに「鞆幕府」を置いたと言われる。
江戸時代になると船乗りや商人だけでなく、朝鮮通信使も江戸への途中に立ち寄り風光明媚な景色を楽しんだ。
また長崎に来航したシーボルトもこの地を訪れ、景色を楽しむと共に、動植物採取を行ったと記録にある。

渡船のりば前から見上げた對潮楼

鞆の浦を代表する景色
最近では「崖の上のポニョ」の舞台に似ているという事で、訪れるファンも多いとか。

鞆港の岸に造られた雁木

常夜燈より対岸の對潮楼を望む

「鞆の港」説明
幕末になると坂本龍馬が立寄り、政変で都を追われた攘夷倒幕を策した三条実美等の七卿が
長州へ落ち延びる際に宿泊するなど、常に歴史の表舞台に登場した。
明治以降は鉄道網の発達、蒸気船の運行に拠り、かつてのように潮待ちとする船はなくなったが、
今でも当時の港の活況を彷彿とさせる施設が数多く残っている。船着場の雁木は文化8年(1811年)に、
常夜灯は安政6年(1859年)に造られたもので、いずれも花崗岩製である。
日本の原風景を残す場所として知られるが、近年は宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」の舞台が
この地をイメージしたとされ、聖地巡りのファンで賑わいを見せている。』 とあります。

波穏やかな風待ちの港

傍で見る雁木

史跡いろは丸展示館とその奥に建つ常夜燈

鞆の浦のシンボル常夜燈
旅には欠かせないフォトジェニックスポット、地元では「とうろどう」と呼ばれているそうな。
古来よりの観光地で平成6年に続き2度目の訪問。御朱印帳を見ると前回も1月4日。四半世紀を経て進歩がない
と言われればそれまでですが、寒さを避けたのと、正月に「春の海」がずっと流れていたのが主な理由。
生田流筝曲の宮城道雄は神戸生まれですが、母が鞆の浦出身。昭和4年に瀬戸内を通った際の印象で
『春の海』を作ったというのは良く知られた話です。
しかし在来線を乗り継いでの移動なので要した時間は4時間半。まさに【鞆、遠方より来る】でした。

常夜燈近影
海中の亀腹型石積まで含めると10m余り、港の常夜燈では日本一の大きさを誇る。

鞆郵便局 ; 鞆港、仙酔島、名産・鯛
[参考書]
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【往路】JR大阪(5:55) → JR姫路(7:30→7:31) → JR岡山(9:08→9:11) → JR松永(10:27) → 備後今津〒 → 南松永〒 → 松永〒 → JR松永(11:57) → JR福山(12:06)
福山駅 → 福山胡町〒 → 福山西町〒 → 福山霞町〒 → 福山桜町〒 → 徒歩15分 → 草戸稲荷神社 → 徒歩2分 → 明王院 → 徒歩25分 → 福山駅
【復路】JR福山(15:11) → JR相生(17:18→17:19) → JR姫路(17:38→17:41) → JR大阪(18:43)

中道山 明王院(真言宗大覚寺派 中国三十三観音霊場第八番札所 山陽花の寺第十八番)
古くからの観音霊場でもあった明王院は、昭和56年(1981年)に創設された中国観音霊場の札所ですが、
平成22年(2010年)創設の「山陽花の寺」札所でもあります。
3県24ヵ寺で各県八ヵ所の札所がありますが、それぞれキャッチフレーズがあって、
岡山県が美(うるわし)の国、山口県が芳(かぐわし)の国で、この日訪れた広島県は癒(いやし)の国。

山門前から塀越しに見た庭園

前庭
花に何を感じるかは各人各様ですが、頂いた明王院「花ごよみ」には、椿・桜・皐・紫陽花とあるので
さもありなんと思います。
花の見所は山門に続く石段脇、その横に広がる前庭、そして展望台へと続く山道なので
自由に見る事ができますが、今の季節は閑散期でした。

前庭

石段脇の庭
それよりも気になったのが書院に続く庭園。頂いた参拝案内では、
『書院の北側と東南に築庭があり、共に江戸時代の作。北側の庭は自然岩盤の崖下に池を穿ち
石橋を架けた鶴亀の庭。池辺に飛び石を巡らし崖上に方形造の美しい護摩堂が望める。
東側は極めて簡素な平庭で中央に大きな円石を据え、周囲には小さな石組みが点在。
東南隅には老楓の下に苔生した石層残欠塔を置いた閑寂幽玄な庭である。
護摩堂の前庭は低い土塀を以て境界と成し、外は竹林・椿・彼岸桜等が見える。』 とあります

庫裏の前にある蘇鉄

庫裏玄関
御朱印はこちらで拝受。

庫裏玄関
山門の右手にある庫裏と書院は県の重要文化財で、共に江戸初期の水野勝成の建立です。
風格のある殿舎ですが、庫裏は御朱印拝受で少しは窺えるものの書院は閉まっており拝観できず。
境内の案内では年に決まった日にのみ拝観できるそうですが残念でした。

書院入口

書院の唐破風

扉越しに見た書院に続く庭

明王院御朱印(山陽花の寺)
その後は、再び来た道を歩いて戻って福山駅へ。乗り継ぎの電車には時間があったので、
少し遅めの昼食は色々な中から選んだ福山ラーメン。
グルメで有名な広島らしく癒しの巡礼の後はいやしい昼食で〆となりました。

福山ラーメン
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福山駅 → 福山胡町〒 → 福山西町〒 → 福山霞町〒 → 福山桜町〒 → 徒歩15分 → 草戸稲荷神社 → 徒歩2分 → 明王院 → 徒歩25分 → 福山駅
【復路】JR福山(15:11) → JR相生(17:18→17:19) → JR姫路(17:38→17:41) → JR大阪(18:43)

中道山 明王院(真言宗大覚寺派 中国三十三観音霊場第八番札所 山陽花の寺第十八番)
国宝・本堂に向かって左に聳えるのが同じく国宝の五重塔。国宝・五重塔は、
『本堂の南に東面して建つ方三間・本瓦葺・丹塗の塔で、南北朝時代の純和様の建造物である。
相輪の伏鉢の刻銘に拠ると、沙門頼秀の勧進と広く民衆の寄進に拠り貞和4年(1348年)12月18日に建立。
栂を用いた本堂と異なり欅・松・檜等多種材を用い、殊に心柱の受盤の用材は外国産と言われる。

本堂と並んで建つ五重塔

五重塔説明
この塔は弥勒菩薩の兜率天往生、竜華下生の信仰に拠って造立されたもので、
元は塔内の来迎壁に兜率天曼荼羅図と五大虚空蔵菩薩図が描かれていた。
これは明治期に皇室に献上され今は国立博物館所蔵、現在の来迎壁には江戸時代の極彩色で荘厳されている。
須弥壇には本尊弥勒菩薩と脇侍不動愛染明王の木像を安置している。』 とあります。

正面(東側)からの眺め

屋根の庇部分
五色の垂れ幕は、東西南北(緑白朱紫)と大日如来(黄)を表す。

垂木と木鼻

下から見上げた塔
屋根の逓減に注目。
共に国宝で本堂に遅れる事僅か27年の築ですが、木材が多種に及ぶ事、様式が純和様である事など
内容には様々な相違点が。その理由は支配者階級であったと思しき本堂の単独の寄進者と異なり、
多数の民衆であった事。中世に力を付け始めた民衆は表面的には支配者層に辛抱と遠慮をしながらも、
実質的には深謀遠慮で同等かそれ以上の堂塔を建立したと言えます。
今に残る堂宇を見ても本堂に対し何ら遜色ないのがその証と言えるでしょうか?

五重塔の御朱印

福山霞町郵便局 ; 福山城、国宝・明王院五重塔、バラ
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<コース> 冬の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR姫路(7:30→7:31) → JR岡山(9:08→9:11) → JR松永(10:27) → 備後今津〒 → 南松永〒 → 松永〒 → JR松永(11:57) → JR福山(12:06)
福山駅 → 福山胡町〒 → 福山西町〒 → 福山霞町〒 → 福山桜町〒 → 徒歩15分 → 草戸稲荷神社 → 徒歩2分 → 明王院 → 徒歩25分 → 福山駅
【復路】JR福山(15:11) → JR相生(17:18→17:19) → JR姫路(17:38→17:41) → JR大阪(18:43)

中道山 明王院(真言宗大覚寺派 中国三十三観音霊場第八番札所 山陽花の寺第十八番)
山門正面に建つのが国宝・本堂
『元応3年(1321年)3月14日、頼秀の本願、紀貞経の寄進で再建された。正面側面五間の正方形の堂で、
前方に向拝を付け四方に縁を巡らした入母屋造・本瓦葺、柱は全て栂材を使用している。
鎌倉末期に創造された折衷様の建造物では最古の類に属し、従来の和様と唐様の二つの長所を
巧みに混淆融和した様式である。

本堂由緒

本堂正面
外観は丹・黄土・胡粉・緑青で塗装するが内部は素木のまま。外陣の輪垂木天井は寄巧を極め、
内陣は十二本の柱を建て格子戸で外陣と隔てる。仏壇上に設けた春日厨子の内部には本尊を安置している。
本尊の二臂十一面間座音菩薩立像は重要文化財、伝教大師最澄の一刀三礼の彫像。
平安前期の作で秘仏とされる。その昔、或る家の侍官が落度に拠って誅伐されたが、
観音菩薩が身代りとなり助かったという霊験が伝わっている。』 とあります。

本堂近影

御本尊は秘仏のため写真が掲示されている

朱塗りの柱が鮮やかである

酒どころ広島らしく日本酒が奉納
本尊は厨子に安置された秘仏ですが、左右の脇侍は毘沙門天と不動明王、南脇陣は丈六の阿弥陀仏立像、
北脇陣には宗祖弘法大師と四方を囲まれた状態。
誅伐された人の身代りになった御本尊は、頂仏面を亡くしますが、享保年間に京都の仏工中橋運平が
失われた頂仏面を彫刻し円満に荘厳されたとか。そのまま放ったらかしにされたら【仏頂面】になったに違いありません。

本堂側面

本堂の御朱印
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中道山 明王院(真言宗大覚寺派 中国三十三観音霊場第八番札所 山陽花の寺第十八番)
草戸稲荷神社参拝の後は、隣接する明王院へ。
中道山明王院(ちゅうどうさんみょうおういん)は、
『芦田川西岸、草戸の愛宕山中腹に建つ真言宗の古刹。寺伝に拠れば、大同2年(807年)弘法大師空海の開基、
大師の十大弟子の一人である真如法親王(平城天皇皇子)も貞観3年留錫された。山上に親王院の跡が残る。
昭和37年の本堂解体修理の際、現在の堂宇が建立される以前に既に三度の建て替えがあり、
平安の頃より寺院があった事が判明した。

入口を入って直ぐ左手に建つ十王堂
慶長年間に再興、平成2年に再建された。

十王堂の説明
当寺のある草戸は平安より鎌倉・室町に至るまで芦田川河口の港町として繁栄。
万葉集に載る神島の港・磯間の浦はこの付近で、当時の航海では潮待・風待の港であった。
草戸千軒町は当寺の門前町として繁栄したものである。しかし芦田川の流出する土砂で福山湾も埋まり、
度々の洪水で町は埋没。寛文12年(1673年)の洪水で遂に壊滅した。

明王院縁起

階段を登り堂宇の建つ境内へ
平安末期には寺院は衰頽するが、鎌倉時代になり真言律宗を興した叡尊(えいそん)は全国に布教。
その沙門であった頼秀(らいしゅう)は、この寺を再興して堂宇を建立。
西光山理智院常福寺と称する西大寺末の真言律宗の寺院となった。現在に残る本堂・五重塔・山門が
その遺構であるが、山門は慶長19年(1614年)8月に住持快遍に拠り再興されたもの。
当時は阿弥陀堂も建立されていたが江戸初期に廃絶している。

県重文の山門は慶長19年に再興
奥に建つのが国宝・本堂。

境内側から見た山門
室町様式を今に伝える萩(榛)の一木造りで、別名萩の門。当寺も萩の寺と呼ばれる。

国宝の堂宇が並ぶ境内
江戸時代には福山藩主となった水野・阿部家の庇護の下で繁栄した。頼秀が常福寺を建立した頃、
本庄村青木ヶ淵に中道山明王院円光寺と寺があったが、福山初代藩主・水野勝成は円光寺の
住職宥将を尊崇し福山城築城の際の地鎮祭の斎主とした。
又、元和6年には明王院を城下の神島下市に移転して水野家の祈願寺とし寛永16年には護摩堂を寄進した。
承応4年(1655年)三代勝貞の時、常福寺の寺籍を廃して明王院とし、宥仙を住職として
末寺四十八寺を付して祈願寺とし庇護保全に努めた。』 とあります。

県重文の書院(右)と庫裏(左)
共に江戸初期の建築で水野勝成の建立に拠る古格のある殿舎である。

庫裏から本堂を見る

市重文の鐘楼
正保4年(1647年)水野勝成建立の方一間、単層・切妻造・本瓦葺。梵鐘は明暦3年(1657年)三代勝貞の寄進。

境内に聳える楠の巨木

境内の南端に建つのは祈祷所か?
国宝の本堂・五重塔を有する古刹で、しかも拝観料は不要とあって混雑を予想しましたが、
境内には正月前の準備をする人が少数居るだけで人は疎ら。
それではレンタサイクルを借りた人は一体何処に行ったのかと新たな疑問が湧きました。
レンチャリには見放された1日でしたが、国宝を間近でゆっくり拝観できたのは超幸運。
今年の〆の福山はまさに【ビンゴ】でした。

明王院参拝案内

明王院御朱印
平成6年拝受の中国観音霊場とお札。

山門前に掲げられた金色の本堂建立700年記念御朱印
最近はこのように期間限定・付加価値を付けたものを目にすることが多い。
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草戸稲荷神社(村社)
草戸稲荷神社の目玉は、何といってもその高殿本殿。川の対岸からでもそれと分かります。
『かつての本殿は拝殿の裏手にあった目立たないものであったが、昭和の末にコンクリート製の舞台が作られ
その上に移設。本殿上からは福山市街地が一望できる。
初詣の参拝者数では市内一、広島県下でも護国神社に次ぐ二位を誇り、初詣は50万人、
年間参拝者数は100万人を数える。』 とあります。

芦田川左岸からの眺め

御本殿前から見上げた所

造営記念碑の横を抜け本殿高殿へ

高殿への登り口
朱い柱は鉄筋コンクリート製。

内側から見た柱組み

柱の向こうに芦田川が見える

階段途中から本殿屋根、鳥居、稲荷橋を望む

高殿の最上階へ

草戸稲荷神社の扁額
洪水で移転せざるを得なかったのはとんだ災難。遷った先が山裾だったので崖造りにしたとも考えられますが、
高殿にしたのは昭和の時代。京都の清水寺とは成り立ちが異なるようです。
しかし草戸稲荷神社にとって移転は吉となったようで、しかも本殿を高所に移築した事で近年は
パワースポットとしても人気急上昇中。
御利益を求めての事でしょうが、最も御利益があったのは神社自身だったのかもしれません。

最上階からの眺望

石鳥居と稲荷橋の遠望

境内脇にある会館

御本殿と会館

最上階から北側へ降りる

途中から見た御本殿屋根
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草戸稲荷神社(村社)
平成21年の大晦日は列島に寒波が襲来したので締め括りは雪の影響の少ない瀬戸内へ。
西方浄土の巡礼先は広島第二の都市福山市内。平成6年に参拝した明王院の再訪となりました。
それに先立ち二駅先の松永駅で下車。市内の西端ですがかつては松永町。
瀬戸内の港ですが、国内でも有名な履物の町。といっても靴ではなく下駄。
和辻;「港で下駄とは不思議ですね」
駅員;「市内を流れるのが【あしだ】川だからでしょう。」
和辻;「ゲタ、ゲタ、ゲタ」
と言った遣り取りがあったかどうか。
大晦日の郵便局は休みですが30日は営業中。そこで駅近くの三局を徒歩で巡礼。
下駄が磨り減る程ではありませんでしたが、要した時間は1時間余り。図柄には全て下駄がデザインされていました。

JR松永駅スタンプ 2008年JR西日本岡山支社印
(上)当初に設置されたもの (下)はきもの博物館閉館後のもの

松永郵便局 ; 本荘重政像、貯木場、名産・下駄
備後今津郵便局 ; 平櫛田中碑、今津本陣跡、下駄
南松永郵便局 ; 下駄の外枠に備後畳表、日本はきもの博物館
その後は山陽本線で福山駅へ。在来線の混雑はさしたるものではありませんが、新幹線口は帰省の人でごった返し。
この時期くらいは増便してほしいものですが規制もあり難しいのでしょう。
予め調べたところ、駅南の地下駐輪場に年中無休のレンタサイクルがありしかも、1日¥150の【廉価サイクル】。
これで市内巡りも楽勝と思いましたが、まさかの欠品。
32台すべてが出払うとは、勝負とレンチャリは下駄を履くまで分かりません。
仕方なく松永に続いて徒歩で郵便局巡り。当初の予定数は未達でしたが、
押印した最後の局からは芦田川は直ぐの距離。神島橋の袂まで来ると川の向こうに朱色の欄干が。
「レンタサイクルがあれば参拝の予定だった明王院が!」
と思い橋を渡って歩道のない堤防を歩く事5分で到着。寺院と思ったのは隣接する神社でした。
朱色を目印に堤防上を歩きましたが、歩道がなく自働車がひっきりなしに通るので、
参詣道としては余りお勧めできません。お参りする人は何処を通るのでしょうか?

神島橋上からの眺望
左に朱塗りの太鼓橋、右に朱塗りの欄干が見える。

堤防脇の水路に架かる二段の稲荷橋

稲荷橋正面に続く社殿
草戸稲荷神社(くさどいなりじんじゃ)は、
『大同2年(807年)、明王院の開基である弘法大師空海が同寺の鎮守として斎き祀ったのが嚆矢と伝わる
この地域に数少ない古社である。
御祭神は宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)、大己貴神(おおなむちのかみ)、保食神(うけもちのかみ)の三柱で、
周囲に二十社近い稲荷社と八幡神社を末社として祀っている。

最初は石鳥居を潜る

朱の鳥居の先に建つ御本殿

御朱印は御本殿脇の社務所(右)で拝受
当初の社殿は芦田川の中州に鎮座していたが、しばしば洪水の厄に遭い社殿流出破損したので、
後水尾天皇の寛永10年(1633年)6月、福山藩の藩祖・水野勝成公がこれを再建。
更に後光明天皇の御代の承応4年(1655年)水野家三代・勝貞公が父勝俊の病気平癒を祈願して
現在の地に社殿を遷した。この時、勝貞公が武運長久を祈り鳥居を寄進した額面が今でも残っている。』
とあります。

御本殿前から石鳥居方面を見返る

草戸八幡神社

病気平癒の三喜稲荷
芦田川は氾濫を繰り返し、かつて繁栄した町も流し去りました。鎌倉から室町にかけて繁栄し江戸時代初期の
洪水で廃絶、後に発掘され「東洋のポンペイ」として知られる草戸千軒町遺跡はその代表格と言えるでしょう。
洪水で移転した宮は国内には結構あって、熊野本宮もその一つ。神社というのは自然神を祀ったのが始まりで
あることが多いので、川の中州にあっても不思議ではないのですが、昔の人は洪水を考慮しなかったのでしょうか?

草戸稲荷神社説明書

草戸稲荷神社御朱印

福山桜町郵便局 ; アーチ型の稲荷橋、明王院五重塔、琴を弾く宮城道雄
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<コース> 快速は30分間隔、可部線は20分間隔で運転、呉線は30分間隔で運転
JR岩国(9:05) → (山陽本線 快速) → JR横川(9:47→9:54) → (可部線) → JR三滝(9:56) → 徒歩15分 → 三滝観音 → JR三滝(11:36) → JR広島(11:44→12:00) → (呉線 快速) → JR呉(12:33) → 徒歩10分 → 入船山公園

旧高島砲台火薬庫(1号館)
明治35年(1902年)に音戸の瀬戸に近い休山に建設されたもので、総石造りの火薬庫は全国的にも稀。
昼からは一足伸ばして呉まで。歴史上、呉の最初の発展に寄与したのは平清盛ですが、大きく飛躍したのは明治時代。
近代国家としての海防力を備えるため、明治政府は横須賀・舞鶴・佐世保と並んで鎮守府を設置。
当時の先端技術を集めた種々の施設が作られました。

入口に建つ旧呉海軍工廠塔時計

時計説明
1日に4回流れるメロディーは市内の小中学生の作曲したもの。
今に残る遺構には現役で稼働する施設もあり、往時の面影を残す町は日本遺産となっています。
その中でも、入船山記念館は旧海軍の資料等を保存するため昭和42年(1967年)に開設。
時計台、住宅離れが園内に点在し、近代日本の歴史を肌で感じます。

番兵塔

番兵塔説明
ここもカレーが町おこし。海軍では航海中に曜日感覚を忘れない様に、金曜日のメニューをカレーにした事に由来するのでしょう。
駅近にもあったので、ホテルの朝食以外では三日目にして初めて食堂で食事できました。
市内ではガイドブックも作って居り30店舗が登録。山奥や離島もありますが結構人気があるようです。
食事をするとシールが貰えて、シールの数に応じて景品が。コンプリートすれば、海軍自衛隊の食事で使用する
「テッパン」が貰えるとか?個人的にはカレーが1回分無料で食べられる方が魅力的ですが…。
ここでの呼び名は「海自カレー」ですが、【盆カレー】もあるくらいですから【暮れ】カレーにしても良いとは思いますが、
ククレカレーとの商標もあるのでしょうか?

ボランティアガイド詰所

旧呉鎮守府司令長官官舎

官舎説明

旧東郷家住宅離れ
東郷平八郎が呉鎮守府参謀長として在任中に住んだ家の離れ座敷。現在は休憩所となっている。
所用を済ませ帰路につきましたが、海田市の信号機故障で運転見合わせ。
1時間待ってようやく動きましたが、2駅進んだところでまたも運転見合わせ。
なんでも故障原因が分からず、復旧見込みは17時過ぎとか。
慌てて下車して路線バスで呉まで戻り、広島行き高速バスに乗り最後は広電で駅に到着。
結局予定よりも2時間遅れでしたが、新幹線が遅れた訳ではないので払い戻しは一切なし。
鉄道旅の〆はバス旅でしたが、太川&蛭子さんの苦労が身に沁みました。
私の後ろには待ち人が【ルイルイ】と列をなしていたのは言うまでもありませんが…。

呉市マンホール蓋(その1)

呉市マンホール蓋(その2)

呉市マンホール蓋(その3)

呉市マンホールカード 配布場所はこちら

駅近の「りゅう」にてソードドラゴンカレー ¥950
鶏ガラと香草のブイヨンがベースのシーフードカレー。器は潜水艦けんりゅう。

海自カレー ガイドブック
シールを集めてテッパンを貰える。
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龍泉山 三瀧寺(高野山真言宗 中国観音霊場第十三番札所)
錦帯橋を見た後は岩国駅へ戻り9時過ぎには広島へ向けて出発。
この時期の広島の紅葉は宮島ですが混みそうなのでスルー。山陽本線横川駅から可部線で一駅の三滝で下車。
横川駅から歩いてもさして距離はありませんが、無人とはいえ、ここに駅があるのは中国観音霊場の三瀧寺があるから。
駅から徒歩10分でここも広島市内ですが、山間にへばりつくように堂宇が並んでいます。
【かべ】線だからでしょうか、寺名の通り三滝が落ちており滝を御神体として崇めたのでしょう。

駅から西に進むと参道に出る

入口に到着
山全体が境内のような感じなので大きな山門はなし。この階段を上って進む。

入口左にある茶店
休憩所を兼ねており紅葉谷を眺めながら食事ができる。

先ず正面に現れる観音堂
龍泉山三瀧寺(りゅうせんざんみたきでら)は
『大同4年(809年)、入唐留学から帰朝した空海が都へ上る途中、この地を訪れ「末世有縁の地なり」と
聖観世音菩薩の種字(梵字)を石に彫刻。滝の飛沫のかかる岩窟に安置したことに始まる。
現在、本堂内の厨子に秘仏として祀られているのがこの種字石である。

多宝塔
観音堂から右の高台に建つ。昭和26年に和歌山より移築された。

多宝塔説明

多宝塔からの眺め
参道の奥は茶店。

祖師之庭
観音堂から左に参道を進んだ所にある。空海・法然・親鸞・日蓮だったか?

駒ヵ瀧
祖師之庭の奥にあり、三瀧の中では最も低い場所にある。
三滝山の前側に二つの山があるため山裾が広がらず、その場所には谷筋が四つ集まっており、
そのうち三つに滝があるのでそれが名前の由来となった。
昔は「三瀧山龍泉寺」と称していたが、三瀧観音と言う通称で呼ばれる事が多く、
明治以降の住職が「三瀧寺」と呼ぶ様になり今の名前に定着したとされる。

駒ヵ瀧から参道へ戻る途中にある十三重石塔

参道の向こうに見える鐘楼

龍神堂

十六羅漢

参道脇の歌碑と茶堂
ここから参道は右に曲がり上りがきつくなる。

休憩所兼喫茶の茶堂

茶堂の内部
但し、ここでは休憩は駄目?

長椅子から「補陀落の庭」と「梵音の滝」を眺める

三瀧の二番目、梵音の瀧

補陀落の庭と参道

抹茶セット
以来、1200年に亘り観音様霊場として法灯を伝え、鎌倉以降は安芸国守護・武田氏の庇護の元、寺運は興隆。
室町時代に建立された旧本堂も武田氏に拠ると考えられている。
かつてはいくつもの堂塔を構え、多くの修行僧が滝に打たれ岩窟で禅定に入る修行を行ったが、
戦乱と水難に拠って多くの堂塔を失い、一時期は市中寺院の奥の院として辛うじて命脈を保った時期もあったと言う。

茶堂の向かいに建つ本坊

参道より補陀落の庭を見下ろす

石段の先に見える本堂

参道より本堂を見上げる

正面から見た本堂
これも懸造りの一種か?
昭和20年の原爆投下の際には爆心地から3㎞という距離にも拘らず、谷底にあると言う位置が幸いし殆ど無傷。
そのため当寺が臨時救護所となった。参道脇には亡くなった方の墓碑もあり、また境内入口の上に建つ多宝塔は、
和歌山県の広八幡神社にあったものを原爆死没者慰霊のために移築したものである。
市内からは程近い場所にも拘らず、境内は深山幽谷の趣があり、市民にとっては心安らぐ場所。
また宮島と並ぶ紅葉の名所となっている。』 とあります。

いよいよ本堂へ参拝

本堂内陣の仁王像

本堂を過ぎた場所にある石像群

本堂より見た三鬼権現堂

三鬼権現堂近影

権現堂から見た本堂

本堂脇を抜け更に上を目指す
尚、この滝は三瀧ではない。
政令指定都市中心から僅か4㎞の場所に、このような幽谷の地があるとは驚きですが、
地形的に原爆の被害を受けなかったのも奇跡的。これも観音様の御利益でしょうか?
広い境内に堂宇が散在するのと異なり、堂宇を辿りながら山奥に至るという山岳信仰の寺。
大阪で言えば犬鳴山に似ている気がしました。

参道より見た本堂屋根

ようやく終点に到着

最も高所にある三瀧「幽明の瀧」

瀧の向かいにある鎮守堂

鎮守堂から見た本堂の屋根

三滝観音御朱印
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