<コース>
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下山駅前 → 徒歩20分 → 大福光寺
【復路】JR下山(9:40) → JR園部(10:13→10:17) → JR京都(10:53) → 徒歩15分 → 西本願寺 → 京都駅前

龍谷山 本願寺(浄土真宗本願寺派本山) 国宝・阿弥陀堂
御影堂参拝に続き、もう一方のお堂の阿弥陀堂へ。移動は渡り廊下を用います。
廊下自体は平面でなく、上に向かって続きますが、これは開祖の目線と阿弥陀様の足元を
同じ高さにする工夫だそうです。

御影堂から渡り廊下を抜けて阿弥陀堂へ

傾斜のある渡り廊下を行く
渡り廊下の左手二階に小さな梵鐘が吊るされていますが、これは境内の打刻を告げる鐘。
その下の一階には木の丸太が吊るされ、若い僧侶が木槌で打撃中。何でも丸太で練習を積んだ
僧侶のみが鐘を撞くのを許される慣わし。たかが鐘と侮ってはいけませんね。

渡り廊下から見える梵鐘

梵鐘の下の階にて丸太を打つ若い僧侶

阿弥陀堂側から見た梵鐘と丸太
そして阿弥陀堂前の廊下に至りますが、長い廊下の途中で堂内に向かい一礼。
説明では御本尊阿弥陀如来の正面だそうで、上から吊るされた燈明が目印だとか。
成程、分かりやすい目印です。

阿弥陀堂前の廊下を進む

上から吊るされたこの燈明が御本尊の正面に当たる

阿弥陀堂内陣へは北側から入る
内陣へは正面ではなく北側から入りますが、ここで説明を受けて目を床に落として観察。
所々、板に木が組み込まれた箇所があって、これは老朽化部分の補修跡。
初めは単に埋めるだけでしたが、後には色々な模様を組み込むようになったようで、
寺院が指示した訳ではなく、宮大工職人の遊び心だそう。漆喰壁の鏝絵もそうですが、
ちょっとした場所に奔放な遊び心を入れるのが本邦の職人の矜持なのでしょう。
その中に、富士山、鷹、茄子があったのは家康贔屓の職人でしょうか?
案内の星野師は「私の一押しは鷹です。」との事で、図柄が好みかと思いましたが、
「ホークスファンなので」と意外な答え。中々、【なんかい】な答えでした。
このような作品が残ったのもこの場所の老化が激しいからでしょう。廊下だけに…。

老朽化の補修跡
これは傘と花模様か?

これは御神酒を入れる器?

これが「一富士」

こちらが一押しの「二鷹」

これが「三茄子」
続いて内陣へ入り御本尊を参拝。面積から見ると御影堂よりも一回り程小さい筈ですが、
そんな印象は全くなく非常に広大な感じ。金色の欄間や豪華な襖絵は他の真宗寺院と同様ですが、
やはり本山は一味違います。内陣の撮影自由という所も同じでした。

参拝者が入れるのは木の柵の手前まで

右側の鳳凰の襖絵

左側は孔雀の襖絵

正面に祀られた御本尊の阿弥陀如来

柱を護る装飾は獅子の模様
こうして時間通りにツアー終了。広い境内には未だ見所が残っていましたが、集合時間もあり以降に持ち越し。
一度体験したツアーですが解説が面白いこともあって、次回も参加しようと思います。
唯、残り23種のカードのどれが貰えるかは、あみだくじを引くようなものでしょうが…。

阿弥陀堂から見た阿弥陀堂門

北側に建つ経蔵

北東隅を護る太鼓楼

発表会に続く親睦会の〆のスイーツ
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龍谷山 本願寺(浄土真宗本願寺派本山) 国宝・御影堂
ツアーは星野師の案内で御影堂からスタート。その手前には大銀杏がお出迎え。
樹齢400年の京都市天然記念物で通称「逆さ銀杏」。枝を逆さに植えて成長したのかと思いましたが、
解説では、その形が根っこを広げたような形であるのが理由だとか。
そういわれると、上に高く伸びた銀杏とは形が違っていました。

星野師の解説でツアー開始

御影堂前の大銀杏、通称「逆さ銀杏」

大銀杏近影
確かに通常に比べ枝が四方八方に伸びた感がある。
御影(ごえい)堂は
『寛永13年(1636年)の再建。東西48m、南北62m、高さ29m。441枚の畳が敷かれ、227本の柱で
約115,000枚の瓦を支える世界最大級の木造建築。内陣中央に親鸞聖人の御真影(木像)を
安置する事から御影堂と称する。』 とあります。
真宗寺院は御影堂・阿弥陀堂等の巨大堂宇が特徴的ですが、ここは桁違いの大きさ。
加えて、通常の 「みえいどう」 ではなく 「ごえいどう」 と呼ばれるのも特徴的。
やはり本山だから一線を画したのでしょう。関取の様に巨大だから【ごうえいどう】と言うのではなさそうです。

御影堂の屋根を支える多数の柱

御影堂前の廊下からの眺望
本堂の前面には通常の寺院より遥かに多い数の柱がお堂を支えますが、
手前の雨樋受石の四隅には奇妙な姿の生き物が。
これは仏法を妨げる天邪鬼で、従来は苦行として石に敷かれているという説明でしたが、
虐待等が厳しくなった昨今では、石を支える手助けをしているという解釈に代わっているそう。
世の中の流れはこんな所にも影響していました。

堂前の雨樋受石

四隅を支える天邪鬼
実際は 「受石の中央下に礎があるので邪鬼の負担は軽い」 とは星野師の談。
続いて御影堂の内陣へ参拝。どこの真宗寺院でも共通ですが写真撮影は全てOK。
唯、フラッシュと法要など読経中は遠慮して欲しい事と出入りの際は一礼するという二つだけ。
至極常識的な御願いと言えます。内陣に入り、御影の前で合掌。
頭上に掲げられた「見真」の扁額はそれ程巨大には見えませんが三畳分の大きさとか。
御影像の御前には陶器製の仏飯が置かれていましたが、中身は何と米一升分。
伽藍に限らず全てに於いて桁違いの大きさ、御前の御膳はビッグサイズでした。

御影堂内陣の襖絵

頭上に掲げられた 「見真」 の扁額

御影堂正面の御影

御影近影

米一升分が入る陶器
こうして御影堂を無事参拝。ツアーで頂いた「お西カード」は御影堂の大屋根の両端に置かれた瓦。
説明では人間の身長より大きく、重さ1トンもあるとか。通常は鬼瓦ですが、ここでの呼び名は獅子口瓦。
魔除けの意味もあるので、鬼でも獅子でも問題はなさそうですが、鬼瓦を造る職人は鬼師(おにし)と
呼ばれるので、【お西さん】に遠慮したのかもしれません。

「お西カード」 は No.2

カードのデザインとなった御影堂屋根

下から見上げた獅子口瓦
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龍谷山 本願寺(浄土真宗本願寺派本山)
堀川通越しに見る総門
伝導院を外から見て、周囲に置かれた石像を触らない様に注意して西を見ると正面の門の向こうに
西本願寺が遠望。このまま進むと、総門→堀川通→御影堂門を経て本願寺境内へ。
総門と御影堂門の間にメイン通り堀川が走るのも不思議な光景ですが、
道が拡張されて道路になったのは明治以降の事。
江戸時代には門の間を街道が通り人が行き交っただけの事。
それで信徒の事を【門徒】と呼ぶのでしょう。

総門から見た御影堂門

御影堂門脇に立つ御法語

御影堂門扉の透かし彫り

御影堂門柱の基部の獅子の彫金

境内より見た御影堂門
堀川通に面しては大きな門が二つ。いずれも壮麗な門なので、隣接する必要もないように思えますが、
北側の阿弥陀堂門の正面には阿弥陀堂、南側の御影堂門の正面には御影堂と、
参拝者の便宜を図ったのでしょう。それだけ多くの参拝者が居たという証拠でもあります。

堀川通り越しに見る阿弥陀堂門

阿弥陀堂門近影

阿弥陀堂門の向こうに建つ阿弥陀堂

阿弥陀堂門の透かし彫り

御影堂門柱の基部は龍の彫金
龍谷山本願寺(りゅうこくざんほんがんじ)は、
『親鸞聖人を開祖とする浄土真宗本願寺派本山。「西本願寺」或いは「お西さん」と通称される。
本願寺は親鸞聖人の娘である覚信尼と聖人を慕う人々が京都東山大谷西に建立した廟堂が起源。
その後、第3代宗主覚如が廟堂を寺院化し、本願寺の礎を築いた。
中興の祖である第8代蓮如の布教に拠って真宗教団が成立。
第11代顕如は大坂の石山本願寺に拠って織田信長に対抗した。
和平に拠って大坂を退去した後、豊臣秀吉から寺地の寄進を受け現在の京都堀川に寺基が定まった。

門前に建つ沿革

庶民的な顔ハメ
現在、境内には国宝の阿弥陀堂・御影堂の両堂を始め、唐門や書院、飛雲閣などの建造物や、
重要文化財の経蔵・手水舎等が残り、平成6年(1994年)に「古都京都の文化財」として
「世界文化遺産」に登録された。』 とあります。
先ずは、お茶所(総合案内所)でスタンプ押印して、御朱印がなく代わりに
無料の法語(ほうご)を拝受。何でも御仏の言葉だそう。

お茶所で入手した説明書

御朱印はない代わりにスタンプが設置

加えて法語を拝受
そうこうしていると、
「今から、境内案内が始めるので、良かったら参加下さい。途中で抜けて貰っても大丈夫です。」
と尼僧?の方が仰るので、手水舎前に集合。
申込み不要で無料、1日4回(10:00~、11:30~、13:45~、15:30~)、各回約30分。
“お西さんを知ろう!”というこんせぷとで、総勢30名の「お西のお坊さん」が本願寺の境内を案内するツアーで、
それぞれが個性的な話をするのが売りだとか。事前に調べてもいなかったので、これも棚ぼたでした。

お茶所に展示されている重文・梵鐘

手水舎から見た阿弥陀堂

手水舎から見た御影堂
話も面白かったですが、参加者には「お西カード」が配布。
ツアー参加者のみに配られる限定カードで、全部で24種。右下には024(おにし)と記されていて、
どれが当たるか分からないそうです。案内頂いた星野師の話では、
「いままでコンプリートされた方は二名いらっしゃいましたが、一人は地元で半年。もう一人は遠方で、4年半かかりました。」
との事。
りぴーたーを狙っての話でしょうが、真宗が日本で一番信徒数が多いのは、こういった事にも理由がありそうです。
マンホールカードに始まり、歴史カード、ダムカードと続きますが、無料(キャッシュレス?)でカード化するのは
時代の流のようです。私が集めるかどうかは神のみではなく、御仏のみぞ知り給う事でしょうが…。

手水舎の青銅の龍
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龍谷山 本願寺(浄土真宗本願寺派本山) 本願寺伝導院本館
早朝出発の甲斐あって御朱印ゲットして京都駅に戻ったのが10時53分。
さてあと2時間あるなと思っていると、会場の北には西本願寺があるのを思い出して参拝。
前回の平成4年は世界文化遺産の前だったので、さぞかし観光客が多いのではと思っていましたが、
平日なので、思った程ではありませんでした。
堀川通りの西に面して建つお西さんですが、一筋東の油小路通りを北上。
観光客や車の混雑を避ける意味もありますが、もうひとつは門前町の雰囲気を味わうため。
西本願寺の門前は東本願寺の門前と同様に仏具屋さんを主とする町筋。
観光客でごった返す市内の観光名所に比べると人通りはグッと減りますが、
その分落ち着いた気持ちで参拝に向かうことが出来ます。

右手に法衣店を見て油小路を北上
『約400年前に西本願寺が豊臣秀吉から土地の寄進を受け寺域を定めた際に、
周囲に作られた広範な寺内町が始まり。
通りを北上すると周囲とは一線を画したインド風建築の建物が目に入るが、これが本願寺伝導院。
これは明治28年(1895年)4月に設立された真宗信徒生命保険株式会社の社屋で、
東京帝国大学教授・伊藤忠太の設計、竹中工務店の施工に拠って明治45年に竣工。
当初は本館に加え、付属屋・倉庫(二棟)・物置・人力車置場・便所・屋根付伝い廊下から成っていたが、
現在残るのは本館のみである。

正面より見た伝導院本館

教会風にも見える本館入口

正面の屋根の建物

二階の窓部分

後方の屋根
端に載っているのは擬宝珠?
伊藤忠太が提唱した石材や鉄に依存しつつも、欧化でも和洋折衷でもない日本建築の木造伝統を進化させる、
所謂「建築進化論」を明確に表現した建物で、外観は古典様式に基づくものの、開口部まわりや軒まわり、
塔屋の形態などにイスラム様式、日本の伝統的様式が用いられている。
現在は本願寺伝導院として、浄土真宗本願寺派僧侶の布教・研修の道場として使用される。』 とあります。

石杭の上の龍の彫像

こちらは象の像

石像は触れるの禁止!
伊藤忠太と本願寺と言えば、直ぐ築地本願寺の建物を思い出しますが、こちらも似たインド風建築。
お釈迦さまは天竺の出身なので、問題はなさそうですが、周囲と比べるとチョット浮いた気がします。
【仏具】を醸す事はなかったのでしょうか?

仏具店の並ぶ通りの奥に西本願寺の門が建つ
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東神苑(国指定名勝)
南神苑から本殿後方の道を抜けた場所にあるのが中神苑。
細い道の脇には水が流れ、「生き物、貝を採らないで」の掲示が。「カワニナでも居るんかいな!」と
覗いてみると、なんと大きなカラスガイが砂から顔を覗かせています。
貝は水の浄化に効果があるとか。そこをを進むと明るい視界が開けます。

小径を抜けて中神苑に出る

中神苑の蒼龍池の睡蓮
『中神苑も西神苑と同じく平安神宮創建時に作庭されたもので、七代目小川治平兵衛が手掛けた。
庭の中央には蒼龍池があり、池の東側の大島(珊瑚島)から北岸にかけては、
古石柱や梁を用いた沢飛び「臥龍橋」がある。これは龍が臥す姿を象って名付けられたもので、
使用された石材(向川石)は天正17年に豊臣秀吉が造営した三条・五条両大橋の橋脚である。

池に造られた臥龍橋
別段、上が臥龍の松という訳ではない。

珊瑚島へ点々と続く臥龍橋

南側から見た蒼龍池と臥龍橋
また光格天皇御遺愛の「折鶴」と言う珍種も含め、池を囲んで杜若が群生し、
水面には睡蓮や河骨が咲き、初夏には風趣に富んだ景色となる。

池はこのような浅瀬を経て南の池へと続く

北側から東神苑を望む

池の中央付近に架かる泰平閣(橋殿)

池の畔には尚美館(貴賓館)が建つ
その南に続く東神苑は、明治末期から大正初期の造営。
京都御所から移築された泰平閣(橋殿)並びに尚美館(貴賓館)があり、広大な栖鳳池には
鶴島・亀島の二島を配し、その周囲には八重紅枝垂桜を始め皐・椿など多様な花木が植栽され、
水面に映る花々は格別の風情を醸している。
東山を借景とした神苑は明治時代を代表する庭園である。』 とあります。

鶴島・亀島の向こうに見える泰平閣

池の向かいから尚美館を望む

いよいよ泰平閣を渡る

泰平閣の屋根裏構造
入口の池に置かれた飛石は何と近代の代表的作庭家・小川治兵衛(植治)の作。
このような作品をさらっと置いてしまう所も神苑の懐の深さと言えます。
尤も説明を見なければ素通りしてしまう人も多いでしょうから、
説明板が無ければ【臥龍点石を欠く】感は否めませんが…。

橋上から見た二島と尚美館

尚美館遠望

橋上から南側を見る
正面の建物は平安神宮会館(披露宴会場)。

尚美館の玄関
西から東へ移動しただけで様子は一転。
広い池の周囲には楼閣が建ち散策するも良し、立ち止まって眺めるのも良し。
植物園主体の西に対して東は庭園が主体。
平安京は右京と左京で趣が異なりますが、神苑もそれを意識しているのでしょう。
生物学の西に対し、東は日本文化史とも言えます。なるほど深淵な池がある深遠な庭でした。

西側から見た泰平閣

泰平閣中央の鳳凰閣?

13時からの公開講座前に生協で軽め?の昼食
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西神苑(国指定名勝)
岡﨑神社参拝の後は、西へ歩いて平安神宮へ。
今更、平安神宮参拝もないですが、この日のお目当ては神苑の花菖蒲。
平安神宮は桓武天皇に拠る平安京遷都から1100年に当たる明治28年(1895年)に、
桓武天皇の偉徳を称え京都の祖神として祀るために市民が中心となり建立。
平安京の正庁、朝堂院の様式を復元して同年3月15日に御鎮座。
皇紀2600年に当たる昭和15年10月19日には孝明天皇の御神霊の御鎮座も見ました。

應天門の内に広がる境内
ですから由緒は120年余り、古社の多い京都市内にあっては新参者もいいところですが、
平安京創始の桓武天皇と最後の孝明天皇という二柱を祀るが故に、京都市民は元より
広く国民に崇敬されるようになりました。余談ですが、遷都に関しては天皇より詔勅が出ますが、
江戸遷都の詔勅は今に至る迄出されていません。京都人が度々口にする言葉です。
大極殿左にある朱色の白虎楼が神苑への入口。この楼閣は東の蒼龍楼と共に平安京朝堂院の様式を模したもの。
屋根は四方流、二重五棟の入母屋造・本瓦葺が施されていますが年代はいずれも明治初期。
それでも国の重要文化財に指定されているのは流石と言えます。

正面から見た白虎楼
平安神宮は南の應天門から大極殿までは塀で囲まれていますが、その内側は白砂が敷かれ植物は疎ら。
それが塀を潜ると、いきなり樹木が茂り回遊式池がある日本庭園が出現。全くの別世界になります。
尚、境内参拝は無料ですが、神苑は入場料¥600が必要です。

入口を過ぎて現れる紫陽花

順路に従うと北側に池が出現
神苑は、
『平安神宮の神域を囲む東・中・西・南の四区分され、広さは30,000㎡、明治の代表的庭園として
国の名勝にも指定されている。
本殿に向かって左手にある南神苑は明治28年の創始以来、八重紅枝垂桜の名所として親しまれて来た。
昭和44年(1969年)には孝明天皇百年祭の記念事業として、平安時代の特色である野筋(道筋)と遣水が設けられた。

白花菖蒲と睡蓮

花菖蒲は水辺と土の中間付近が多い

花菖蒲の咲き具合も様々
また昭和56年(1981年)には代表的文学書である竹取物語・伊勢物語・古今和歌集・
枕草子・源氏物語に登場する草木、約180種を植栽して、
王朝文化を偲ばせる「平安の苑」と名付けた。』 とあります。

睡蓮も見頃を迎えている

ピークを過ぎた花菖蒲

睡蓮のピンクの花
日光が燦燦と降り注いで暑い位の境内から一転して、涼しく感じる庭へ。
遠くから来た参拝者に癒しを与えてくれるポイントです。
古い京都では創建から130年しか経っていませんが、短期間によくぞここまで整えられたものと感心します。
特に多様な植物は現在のダイバーシティを先取りしたもの。

こちらは赤色の睡蓮

これはオモダカ(沢潟)か?

オモダカの花はこんな色?
岡崎動物園はありますが、植物園はなし。この神苑を岡崎植物園にする意図があったかどうかは
分かりませんが、結果的にはそのような形になっています。
動物は動き回るので、見ているだけで癒されますが、動く事のない植物は見て想像を廻らす必要が。
種類毎に和歌など古典の引用があるのはその王朝文化に想いを馳せる一助と言えます。
奈良には万葉植物園がありますが、京都では神苑がその役目を果たしている気もします。
勿論、府立植物園もありますが…。
お目当ての花菖蒲ですが、先週くらいがピークだったそう。【深遠】な神苑で花菖蒲を堪能する積りが
花の盛りは短くて…。【勝負】処を間違えたようです。

花菖蒲近影(その一)

花菖蒲近影(その二)

花菖蒲近影(その三)
その庭の片隅にひっそりとあるのがかつての路面電車。明治44年製造の現存する
国内最古の車両で重用文化財。文化財の駅舎は知っていましたが、電車にも及ぶとは初耳です。
応仁の乱ではなく先の大戦での供出を免れて残っただけでも国宝級ですが、
それが無造作に置かれているのは如何にも京都。【露面】だけに雨曝しも気にしないのでしょうが、
梅小路博物館に展示されないのが旧国鉄の縄張り意識とすれば、再考する必要がありますね。

展示中?の路面電車は重用文化財でもある

電車の解説
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岡﨑神社(旧郷社)
拝殿の前に鎮座する狛兎(平成23年建立)
平安京の王城鎮護として創建された岡﨑神社ですが、当社を一躍有名にしたのは境内に置かれた多数の兎。
岡﨑神社は
『桓武天皇の延暦13年(794年)、平安京遷都の際に王城守護のため平安京の四方に
建立された社の一つで、都の東(卯の方位)に鎮座する事から東天王と称した。
御祭神として素戔嗚尊(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめ)及びその御子三女五男八柱神を祀る。

鳥居脇の兎提灯

神職宅玄関の兎電燈
また往時背後の紫雲山を始め境内一帯がウサギの生息地であった事から、兎は氏神様の使いと伝えられ、
ウサギが多産であることから子授けの神として祈願信仰されている。
境内には本殿や境内の灯篭・狛兎・斎館等にウサギの彫刻像が数多く見られ、
特に手水屋形にある子授けうさぎ像は参拝者の人気を集め、御祭神が八柱もの御子神をもうけられ、
ウサギが多産である事から子授けの神として祈願信仰されている。』 とあります。

拝殿手前にある手水屋形と御旅所

屋形内にある厄除子授兎(やくよけこさずけうさぎ)
昭和55年復元と札に記載。

子授兎近影
妊娠中の女性は、兎のお腹をさすると安産の御利益があるので何人かが撫でていた。
国内で兎と言えば因幡の白兎神社、洛南の宇治神社が双璧ですが、最近急速に人気が出て来たのが当社。
神話伝説を持つ前二社に比べ当社にはそのような伝説はなし。しかしその分、真実を伝えている気がしてなりません。

奥に建つ神職宅?

玄関の兎紋
由緒記には境内一帯がウサギの生息地だったからとありますが、鎮座したのが都の東、即ち卯の方角だった
というのが本来の理由の筈。境内に兎が居たと言うのは嘘ではないにせよ後付けの気がします。
すぐ東には白川通りが走り東山も近く、私も学生時代に野兎を何度か見ました。
いまも神社はこぢんまりとした森に囲まれているので、兎を目にする事もあるでしょう。

拝殿前の舞台には奉納?の兎おみくじが並ぶ

欄干にも兎が並ぶ

兎おみくじ ¥500 は社務所にて
ふと見ると能舞台の横に石碑が建ち、三善清行(みよしきよゆき)卿邸趾の文字が。
清行朝臣は菅原道真とほぼ同時代に活躍した文人貴族。漢詩・儒学の他、歴史・天文学にも精通し、
辛酉革命説に拠って901年「延喜」の改元を実現させました。道真程出世はしなかったにせよ、
最終的には参議に至り平安京で71歳の天寿を全うしたのは道真にはない幸運でした。
そんな彼が棲んだ位ですから、学問に集中できる環境だったのでしょう。或いはパワースポットを感じたのでしょうか?

参道より見た能舞台?

能舞台内陣

舞台脇に建つ三善清行卿邸趾碑
ところで当社の御祭神は素戔嗚尊。大国主命と兎なら分かりますが、素戔嗚尊なら相手は八岐大蛇。
因幡の白兎はありますが、出雲の白兎と言うのはありません。
そのせいか御祭神と兎は一緒にはならず、境内は専ら兎が占領して、御祭神は絵馬だけ。
兎の像もリアルではなく可愛らしくデフォルメされていましたが、
平成23年と令和元年の建立ならば分かる気もします。
特に拝殿前には「招き兎」の像がお出迎え。招き猫の兎バージョンですが、
境内に並んだ兎の像を見ると、世田谷豪徳寺の招き猫を彷彿とさせます。
招き猫からは「ひこにゃん」が生まれましたが、当社からは「おかぴょん」でも生まれるでしょうか?

神職宅前に置かれた母子兎 は平成22年の奉納

舞台前の狛兎
境内で尤も漫画チックな像。恐らく最新バージョン?

拝殿に置かれた招き兎
境内には兎の石像だけでなく兎をあしらったデザインが提灯、社務所の扉、狛犬の台座等
処々に見られます。加えて一羽の兎、二羽が向かい合ったものなどバージョンも多様。
御朱印を御願いすると兎を象った印が押してあったので、
私 ; 「これが、御社の神紋ですか?」
と伺うと、若い巫女さんは分からなかったようで、神職夫人と思われる方が
夫人 ; 「あちらの御旅所の扉の上にある二つがそうです。」
言われるままに行ってみると、三つ巴と丸木瓜と思しき紋が二つ。
兎とは全く関係ありませんでした。

御旅所前にて

絵馬に描かれた朱色の図柄は社紋ではなく上の金色が社紋になる
個人的には兎紋にした方が良い様にも思えるのですが、諸般の事情があるのでしょう。
素戔嗚尊、兎と神紋の三つ巴は暫く続く事になりそうで、中々三善とはなりそうもありません。

岡﨑神社御朱印
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大阪梅田 → (阪急電鉄) → 京都河原町 → (市バス301系統) → 岡崎神社前 → 岡﨑神社 → 徒歩5分 → 平安神宮・神苑

岡﨑神社(旧郷社)
水無月も中の七日が、13時から京都市内で開催される公開講座のため朝から左京区岡崎へ。
バスを降りた場所は今出川通の北に面して鎮座する岡﨑神社。
この辺りは何度も訪れていますが、未訪どころか名前さえ知りませんでした。
卯年の今年、境内に兎が居る映えスポットとしてマスコミ等で取り上げられて初めて知った次第です。
年始は参拝者でごった返えするでしょうが、流石に水無月ともなれば沈静化するだろうと
思っていましたが、入口には9時というのに既に大勢の人が。
直ぐに観光バスが来て混雑は解消されましたが、観光コースに入っていたのは驚きでした。
同じ時刻の鴨川の河原が閑散としていたのと対照的です。

河原にアベックの並ぶ姿も殆どない朝8時台の鴨川

丸太町通りの北に鎮座

鳥居の正面に建つ拝殿
岡﨑神社は、
『桓武天皇の延暦13年(794年)、平安京遷都の際に、王城守護のため平安京の四方に
建立された社の一つで、都の東(卯の方位)に鎮座する事から東天王と称した。
御祭神として素戔嗚尊・奇稲田姫命及びその御子三女五男八柱神を祀る。
清和天皇が貞観11年(869年)に造営し、播磨国広峯から祭神(牛頭天王)を迎え祀ったと言われ、
当時当地にあった東光寺の鎮守社の役目を果たした。

鳥居左手の手水舎とその奥に聳える巨木

由緒記の駒札
治承2年(1178年)には高倉天皇の中宮徳子の御産の奉幣を賜った事から、安産の神として祈願する信仰が生まれた。
御祭神の素戔嗚尊が出雲国の簸の川で、八岐大蛇から奇稲田姫命を救うため、十拳の剣を振るい見事退治。
その後、姫と固く結ばれ夫婦神となられたという有名な故事から縁結びの神としての信仰が篤い。
また創始時の王城守護方除けの勅願に拠り、現在も方除厄除神としての信仰が絶えない。

参道で最初に現れる社務所横の狛兎
本田宮司に拠り令和元年御大礼奉祝で建立。

こちらは左側の狛兎

兎に目を奪われがちだが狛犬もきちんと鎮座

拝殿前の狛兎
左右で阿吽の像となっている。

狛兎から鳥居方面を見る
この像は平成23年卯年一月に本田宮司が建立したもの。
元応元年(1319年)には後醍醐天皇に拠って社殿を再建、正一位の神階と神宝を賜る。
また室町中期には足利義政が修造、幕府との関係も深く、平家物語では官幣四十一社に加えている。
しかし応仁の乱の戦禍に遭い寺は焼失、神社のみが残り、慶長年間に現在の社名に改称された。
明治時代になり郷社に列せられたが、昭和9年(1934年)の第一室戸台風で拝殿は倒壊。
後に再建され今に至っている。』 とあります。

正面から見る拝殿

拝殿の唐破風

拝殿に掲げられた「扁額」
地名と同じ社名なので、てっきり近年にどこかから勧請されたお宮さんと思っていましたが、
ところがどっこい創建は平安京遷都まで遡り、しかも王城鎮護の役目を担ったという古社。
岡崎地区と言えば何はさておき壮麗な平安神宮ですが、平安神宮が創建130年に対し当社は1230年。
御祭神も平安神宮の桓武・孝明天皇に対し、当社は素戔嗚尊と神話時代。
「社広きが故に貴からず」ではないですが、平安京を本当に守ったのは当社と言っていいでしょう。
唯、知名度が低いのは社名が東天王社から岡﨑神社に代わったからとも思えるので
安易な改称は疑問です。それで問題が解消する訳ではありませんので…。

拝殿の脇を抜け後方の本殿へ

拝殿に続くこちらが本殿か?

本殿後方の杜
町中にこのような杜があるのは珍しい?
御祭神は八岐大蛇退治で有名な素戔嗚尊とその家族。御利益が武勇ではなく安産・多産・恋愛とは
ちと不思議ですが、夫婦仲睦まじく子宝に恵まれたのがその理由だそう。
唯、三女五男の計八人の子供は取り立てて多産と言う程ではありません。
末広がりの八なのか、八岐大蛇に由来するのでしょうか?

岡﨑神社御朱印

御朱印拝受時に頂いた由緒記

境内奥に建つ摂社

摂社前の石碑は「雨社」 と読めるが
といって境内を見渡しても、スサノオファミリーの痕跡は目にすることはできず、飛び込んでくるのは兎ばかり。
などと思いながら歩くと、漸く絵馬殿で素戔嗚尊と八岐大蛇退治の絵馬に遭遇。
軒を貸して母屋を取られると言うべきか、スッピンオフと呼ぶのかは分かりませんが、
神様の世界も栄枯盛衰はあるようです。

摂社・宮繁稲荷神社

絵馬殿

奉納された素戔嗚尊と八岐大蛇退治の絵馬
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阪急梅田 → 桂 → 嵐山 → 徒歩20分 → 千光寺 → 徒歩15分 → 法輪寺 → 徒歩5分 → 嵐山 → 桂 → 徒歩5分 → 地蔵寺

久遠山 地蔵寺(浄土宗 京都六地蔵)
嵐山から阪急電車に乗り桂で京都線に乗換。但し、この日は桂駅近くの京都通称寺へ立ち寄り。
桂付近で地蔵といえば、上桂の地蔵院が知られますが、この日に向かうのは地蔵寺。
久遠山地蔵寺(くおんさんじぞうじ)は
『平安時代の貴族、桂大納言、源経信、伊勢女等がこの桂の地に山荘を営み、
桂河原で月を愛でたと言うのが寺の嚆矢とされる。

道路に面した地蔵寺入口

入口から境内を望む
丁度、通り雨が上がった所。

本堂への参道
全体的に樹木が少なく、境内が広い印象を与える。
本尊の地蔵菩薩は平安初期の公卿・小野篁が一度息絶えて冥途へ行き、生身の地蔵尊を拝して甦った後、
一本より六体の地蔵菩薩を刻んだ尊像である。
篁はその六体の像を伏見の六地蔵の地に安置したが、この地蔵を深く信仰した後白河天皇は平清盛に勅命を下し、
保元2年(1157年)に都の街道の入口の六ケ所に六角堂を建てて一体ずつ御尊像を分置した。
これより京都の宗教行事として広く庶民に親しまれる「六地蔵巡り」の風習が起こった。
この内の一つがこの桂地蔵で、世に姉井地蔵菩薩(2.6m)と呼ばれている。
元は八条殿の近く七条西山陰街道にあったが、室町中期に現在の地に移築された。

参道正面に建つ本堂と客殿(右)

本堂近影

本堂の庇と向拝

本尊の地蔵大菩薩(説明書より)
極彩色、木造、台上八尺五寸の伝小野篁作とあるが…。

本堂前から入口を見る

本堂屋根瓦
ここに刻まれているのが寺紋か?
この地蔵尊については次の様な逸話がある。
その昔、山陰道を毎日普請する白髪白髯の老人が居た。彼は人、牛馬や車が困らぬようにと溝土を上げて穴を埋め道を直した。
村人は不思議に思い、日の落ちるのを待ち後を付けたが、桂地蔵の裏藪で姿が見えなくなった。
村人達はかの老人は桂地蔵の化身と語り、旅の守り仏・交通安全のお地蔵様と呼ばれるようになったと言う。
本堂には地蔵菩薩・薬師如来が祀られ、開基当時のものと思われる石造宝篋印塔、六地蔵尊、
石造小仏群が境内にある。現在の伽藍は平成19年に落慶法要を営み、新たな本堂・客殿・庫裏となった。
客殿中庭には樹齢400年の五色の散椿があり、3月から4月にかけて咲き誇る様は非常に幻想的である。』
とあります。

鎌倉時代から使われている宝篋印塔

境内の石像群
左から日比地蔵、子安地蔵、水子地蔵

石造六体地蔵尊
自然石に地蔵尊六体を刻んだもの。

稚児養育地蔵尊
阪急桂駅から桂離宮に向かって進むと左手に大きな門構えが。
そこが目的の桂地蔵ですが、境内の堂宇が真新しいので古刹の雰囲気は感じません。
客殿に続く庫裏で御朱印拝受。京都の通称寺になるので、御朱印対応は速やかでした。
唯、本堂内陣へは入れず窓越しにお地蔵様を拝んだのみ。
また客殿に入る事もできなかったので、中庭の五色椿も拝めず仕舞いでした。
拝観の有無についてはあくまで寺院独自の対応なので仕方がありませんが、
菩薩の中では最も庶民的な地蔵菩薩様なのでもう少し、庶民目線でも良かったのではないかと思った次第です。

客殿玄関の唐破風

客殿前の植込み

水琴窟

かつての井戸と水盤

桂地蔵寺説明書

桂地蔵御朱印 (京の通称寺)
参拝後は、俄雨が降り出したので雨宿りを兼ねて昼食探し。
桂川へ向かう途中に離宮と言うオムライスの店がある筈でしたが、どこを探しても見つからず。
やはり四半世紀前のガイドでは無理がありました。
気を取り直して土産の和菓子店へ向かいましたが、幸いにもこちらは営業中。
しかも店内で食事もできるようになっていました。そこでお茶漬けを注文しましたが、
周囲を見ると皆さん、食事と甘味をセットで頼んでいる様子。私も右へ倣えで追加注文。
密を避けた洛西巡礼ですが、最後は蜜で〆とはなりました。

御菓子司 中村軒
創業明治16年、桂離宮の道路を挟んだ向かいにある。

店内の様子
御菓子を運ぶ入れ物が展示されている。

昼食は「鰻茶漬け」

白玉餡蜜を追加注文

家族への土産

麦代(むぎて)餅と猪子餅
麦代餅は田植え時の間食だったため、通常の餅に比べて大ぶりである。
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智福山 法輪寺(真言宗五智教団)
千光寺境内で嵯峨野の眺望を堪能した後は嵐山駅に戻って桂へ向かいますが、その途中にある法輪寺へ立ち寄り。
嵯峨野の寺社の大部分は渡月橋を渡った側にあり、手前にあるのは千光寺と法輪寺くらいのもの。
・知恵の虚空蔵さんの流麗な御朱印
で参拝済ではありますが前回(2017.4.30)は春、今回は秋という事でまた違った景色があると言うもの。

嵯峨街道に面して建つ寺標

境内へ続く橋
但し、振り返ってはいけないのはこの橋ではない!

由緒記駒札
京都市内には法輪寺という名の有名寺院が二ヵ所あるので、区別し易いように通称で呼ばれる事が主。
上京区にあるものは達磨寺、ここ西京区にあるものは嵯峨虚空蔵、嵯峨の虚空蔵さんとして知られます。
会津柳津、伊勢朝熊と並んで日本三大虚空蔵さんと地元では言われていますが、
茨城の東海村は何処へ行ったのでしょうかね。
嵐山駅から歩いてすぐの嵐山中腹にある智福山法輪寺(ふくちさんほうりんじ)は
『真言宗五智教団の京都本山で、寺伝によれば、和銅6年(713年)元明天皇の勅願で行基が創建した葛井寺
(かづのいでら)が嚆矢。その後、天長6年(829年)空海の弟子道昌(どうしょう)が中興して虚空蔵菩薩を安置。
貞観16年(874年)には伽藍が整備され、寺号も葛井+寺(かづのいでら)から法輪寺に改称した。

法輪寺山門

山門脇の紅葉

土塀前の南天
‘難を転ずる’から植えられえているとか。

山門に続く階段
平安時代には清少納言の『枕草子』の寺の段に代表的寺院として挙げられるなど、多数の参詣で隆盛を極める。
その後、応仁の乱や蛤御門の変で兵火を受けるが都度再興、現在に至っている。
本尊の虚空蔵菩薩は知恵と福徳を授かるため、数えの十三歳の男女が全国から「十三参り」に訪れる。
平安時代に清和天皇が廃針を納めた針堂を建立したことから針供養が行われる他、惟喬親王の故事から
漆寺としても知られる。また境内には電気・電波守護の電電宮社が祀られている。』 とあります。

電気電波関係者の霊を顕彰する電電塔
左右のレリーフは電波研究者のヘルツ(左)と電気研究者のエジソン(右)。

電電塔の説明
創建当初の名前は葛井寺(かづのいでら)、五穀豊穣・国家安穏・産業興隆を祈願するように天皇から
【げんめい】があったようです。法輪寺では和服姿の子供が多く十三参りだとか。
密教の秘法に「求聞持法」というのがあり虚空蔵菩薩の真言を唱えると記憶力が飛躍的に伸びるといわれます。
干支が一巡する数え13歳になると虚空蔵さんに知恵を授けて貰うそうで、京の子供達は3月13日から5月13日の間に
渡月橋を渡ってお参りする習わしがあります。確か、好きな漢字を一字書いて貰ったと記憶しています。
帰る際に渡月橋を渡るときに振り返らないのが鉄則。授かった知恵を返してしまうそうで、
洋の東西を問わず振り返る事には禁忌があるようです。
前回は春なので、和服姿の子供が多かったですが、今回は秋なので、参拝者はぐっと減っていました。

階段途中から山門を振り返る

階段の先に見える本堂の屋根

階段を登り詰めた先から
紅葉スポットなので、人混みが消えるまで30分待ち。
知恵・健康を参詣で願うのは普通ですが、針・漆・電気という普段の生活で必要な物も祀っているとか。
蒟蒻に針を刺す針供養、木地師が開祖と仰ぐ惟喬親王と漆については聞いたことがありますが、
電電社のことは【でんでん】聞いた事もありませんでした。
しかも祀っているのがエジソン・ヘルツと電気の功労者ではあるものの、日本とは余り関係がなさそうな人物。
まさか嵐山なので雷から電気を連想したわけではないでしょうが…。

明治以降に再建された本堂
前回に比べ人は少ない。

本堂に掲げられた「智福山」の扁額

左手にある多宝塔
春とは異なり着物姿の子供は余り見かけませんでしたが、多くは境内の紅葉が目当ての参拝者。
加えて前回は見過ごしていた見晴らし台からは市内が一望。どこかで見た記憶があると思いましたが、
2時間サスペンス「狩屋親子シリーズ」で最後に犯人が追い詰められた場所。
寺の舞台はミステリーの舞台でもありました。
こうして足早ながら法輪寺参拝も修了。嵯峨の虚空蔵さんは秋にもホーリンラブでした。

書院玄関と銀杏の巨樹

境内にある漆の碑

見晴らし台からの眺望

法輪寺御朱印
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嵐山 大悲閣 千光寺(黄檗宗系単立寺院)
崖に建っている観音堂から比叡山を遠望。
仮本堂で諸々の仏様と了以の像に参拝した後は、いよいよ千光寺の中心大悲閣へ。
『鐘楼の上に建つ大悲閣は崖に張出した崖造(舞台造り)の建物。
本尊である千手観音像を祀っているので観音堂、または客殿・展望閣と呼ばれる。
尚、大悲閣とは観世音菩薩像を安置した仏堂の事を言い、名前は菩薩の大きな慈悲に由来する。
大悲閣の縁側からは遠く比叡山、大文字山を初め東山三十六峰、
麓には京都市街が一望できる絶景の場所である。』 とあります。

参道から見る大悲閣舞台部分

舞台の土台部分
崖の場所で安定するように工夫がされている。

土台の奥に置かれた天龍寺村、角倉町と書かれた龍吐水

本堂拝観後、大悲閣(観音堂)へ
左は角倉了以顕彰碑。

大悲閣入口
土足厳禁である。
平地の多い嵐山に在っては遠くまで見通す事ができる数少ない場所。
正面には大河内山荘、その向こうに続く船岡山、比叡山。
眼下には保津川下りの船、トロッコ列車と静と動の眺望が楽しめます。
縁側には椅子が置かれその上、無料の双眼鏡まで備えられているので遠くを見る人が引きも切りません。
といっての渡月橋を渡った嵯峨野の混雑とは段違いの密度。周辺に見所が少ないためか、
ガイド等でも取り上げられる事が少ないからかは分かりませんが、その分ゆったりと眺望に浸る事ができました。

先ずは入口から縁側に沿って一周

南の縁側から東へ

南東隅からの眺望

大悲閣の南側

最も眺望の良い東の縁側から
眼下に見えるのは鐘楼と紅葉の波。

嵐山屈指の眺望

眼下を流れる保津川と遊覧船

正面に見えるのは大河内山荘の庭
その向こうは船岡山か?

紅葉の波に埋もれた鐘楼

色鮮やかな紅葉

左下には嵯峨野トロッコ列車の線路が見える
了以もこの一角に住んだとあるので、さぞ景観を楽しんだかと思いましたが、
了以の念頭にあったのは開削した河川の状況を常に監視する事にあった筈。
了以と言えば、高瀬川が有名ですが、その他にも保津川・富士川・天竜川と開削した川はいずれも
暴れ川として有名な河川。開削後のメンテナンスにも気配りを絶やさなかったのは技術者としての矜持を感じます。
角倉一族の一人に吉田光由が居り、彼は我が国最初の算術書『塵劫記』を記した人物。
この書籍は明治まで続くベストセラーになりましたが、角倉一門に流れる理系の血がそうさせたのでしょう。
このため、千光寺は数学・理科【専攻】の寺として信仰を集めているようですが。

東側の縁側より景色を楽しむ人達

大悲閣の内陣

内陣に置かれた種々の遺物

陳列の様子

大悲閣北の窓からの眺望
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嵐山 大悲閣 千光寺(黄檗宗系単立寺院)
保津川から山道を二丁登った山門を過ぎ、紅葉に彩られた千光寺境内へ。
嵐山大悲閣千光寺(あらしやまだいひかくせんこうじ)は、
『元、清凉寺の西方中院にあり後嵯峨天皇の祈願所であったが、長く衰頽していた。
慶長11年(1606年)に保津川開削に成功した嵯峨の土倉業者・角倉了以(すみのくらりょうい)が
同19年に河川開削工事に協力した人々の菩提を弔うために現在地に移転、
大悲閣を建立し二尊院の道空了椿(どうくうりょうちん)を請じて中興開山とした。

受付脇にある楓の巨樹

楓の下に置かれた蓮台
紅葉を愛でながら茶を嗜むためか?
本尊の千手観音菩薩は恵心僧都源信の作と伝わり了以の念持仏であったとされ、
了以自身も大悲閣に住み開削した河川の通舟の便益を念じたと言われる。
かつて大悲閣の一室には遺命に拠り造られた了以像が安置されていた。
巨縄を巻いた形の円座に坐し、法衣姿で石割斧を持った右立膝の構え。
今も仮本堂で保津川の安全を見守っている。
了以は天台宗を奉じていたが、子孫の角倉玄寧が文化5年(1808年)に大顛を迎えて再興した際に黄檗宗となり今に至っている。
明治維新の際には大悲閣を除いた境内や多くの山林を失ったが、漸次諸堂を再建している。
しかし昭和34(1959年)年の伊勢湾台風に拠る被害は著しく、本堂は1978年に解体され、
大悲閣も暫くは元の状態を取り戻せなかった。大悲閣の改修が終了したのは漸く2012年になっての事である。
本尊や了以像は本堂解体後に建立された仮本堂へ安置されている。』 とあります。

千光寺仮本堂

本尊、開山等を祀っている本堂

仮本堂に掲げられた扁額

本堂手前に吊るされた木魚
黄檗宗寺院ではよく目にする。
山腹にあるので境内は狭く、そこに堂宇が犇めいていると言えば良いでしょうか?
正面にあるのは仮本堂らしく仏様達を空間に押し込めた様。中興開山の像も一緒にありました。
御住職に撮影の可否を尋ねると、「どうぞ御自由に撮影下さい。」との返事。随分と開放的な寺院です。

祀られたというよりも陳列されたという表現がしっくりくる本堂内陣

正面の御本尊と脇立ちの不動明王と毘沙門天

御本尊千手観世音菩薩立像

左側には大日如来と宗祖隠元と始祖達磨大師?

右側には中興開山の道空了椿(どうくうりょうちん)木像
そしてその脇には角倉了以の像が。説明に在る通りの姿でしたが、その顔は眼光鋭く、強い意志を持った
人物であろうと想像できます。仏像というものは理想的に描かれるのが常ですが、この像は非常にリアルな印象。
商人と言うよりも冒険家・探検家といった方が相応しいでしょうか?
前近代で何ヵ所も石を穿つ突貫工事をやり遂げた人物は、己の意志を貫く人物でもあったのでしょう。
千光寺の創建が【穿孔】の達人というのも何か因縁めいたものを感じます。

本尊の脇にある角倉了以木像

了以木像近影
石割斧を持ち、片膝を立てた法衣姿の坐像である。
中興の祖とも言うべき角倉了以は土倉業者(金融業者)なので、【隅の蔵】から金銭を拠出することは十分可能。
唯、当時の豪商が権力と癒着したのとは対照的に了以は権力とは一定の距離を置き土木事業に専念。
己の利益に加えて社会貢献も考えていた事が政商とは一線を画します。
加えて千光寺への援助が【先行】の了以一代限りではなく子孫まで受け継がれた事。
創建だけでなく維持管理の重要性を見抜いていたのは、河川改修に携わった技術者故でしょうか?。
まさに千光寺は【良医】に恵まれたと言えましょう。

遠く安南まで船を出した様子が描かれたもの

大悲閣説明書

千光寺御朱印

了以翁顕彰碑
林羅山が撰文したとある。

石碑の由緒

碑文の一部
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嵐山 大悲閣 千光寺(黄檗宗系単立寺院)
大堰川右岸を歩いて向かった先は千光寺。
嵐山大悲閣千光寺(あらしやまだいひかくせんこうじ)は、
『大堰川(保津川)の右岸を渡月橋から約1㎞上流に遡った所に入口があり、松尾芭蕉の句碑
・花の山 二町のぼれば 大悲閣
の句碑が建つ。
更に九十九折の山道を350m登ると眼下に千鳥ヶ渕が見える。
その嵐山の元禄山中腹に位置するのが千光寺である。』 とあります。

入口手前に建つ由緒記駒札

駒札の奥には「大悲閣道」の石碑が建つ

芭蕉の句碑

入口を過ぎると柴垣が続く
保津川沿いにある大悲閣道と彫られた石碑から柴垣の山道を上る事に。
その先には黒板で囲まれた小橋が。
なにげなく通りましたが「来遠橋(らいえんばし)」と見掛けに拠らず立派な名前がついています。
途中、参道と書かれた行く手が閉鎖中だったので左手の表参道へ。

黒板で囲まれた「来遠橋」

正面の参道は閉鎖中のため左へ迂回

大悲閣への道

途中にある歌碑?
摩滅している上、説明板もないが、説明書にある
・うつらうつらに のぼりきて をかのかなたの みやこをぞみる 会津八一
ではないかと。

参道から見上げた先には鐘楼と大悲閣が

紅葉と樹木に彩られた参道

参道は九十九折に
芭蕉は二町と詠みましたが、結局、山門までは300m強の道のり。
山頂までは優に三町はありました。参拝というよりもちょっとした【はいく】でした。
大和と言い、尾道と言い、千光寺と言う名の寺はどうしてこう高い山にあるのでしょうか?

ここを曲がるといよいよ山門

千光寺の山門
表面の木目と屋根の草が時代を物語る?

山門に続く鐘楼

鐘楼からの絶景
紅葉の奥、下を流れるのは保津川。

鐘楼から見上げた大悲閣

大悲閣の横を通り境内へ向かう
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阪急嵐山駅構内の紅葉
霜月最後の土曜日は錦秋の京都嵯峨野へ。駅のホームからも美しい紅葉が眺められ、朝から気分も高揚。
コロナ禍とは言え日本を代表する紅葉の観光地なので、朝からそれなりの人出。
阪急嵐山駅ホームでは駅員さんが乗降客の整理に忙殺されていました。

渡月小橋の袂を左折
西芳寺(苔寺)はここから距離があるが、何故か道標が建つ。

嵐山遊覧船乗場を右に見て大堰川を上流へ
駅を出て嵯峨街道を渡月橋に向かいますが、この日は橋を渡らず渡月小橋の手前を左折し
大堰川の右岸を上流へ。
橋までは【嵯峨か移動】の人の波が続きましたが、殆どの観光客は橋を渡るので右岸を行く人は稀。
保津川下りの船や、大堰川を行く屋形船を眺めながらのウオーキング。【対岸の梶】と言った所です。

道端には「大悲閣(千光寺)道」の道標が建つ

大堰川右岸から左岸を見る
対岸は大河内山荘辺りか?

水面を泳ぐ鴨たち

保津川を行く屋形船と保津川下りの舟
観光施設が林立する左岸と違い、右岸は遊覧船乗場を過ぎると建物もなし。
途中、和歌にも詠まれた戸無瀬(となせ)の滝を通りましたが、かつての名所も江戸時代の保津川開削で
往時の姿は留めていませんでした。開発に拠る変貌は現代に限った事ではないようです。

道沿いにある戸無瀬の滝

波乱万丈の滝の沿革

滝付近から大堰川下流を望む

途中から坂道へ

坂道から大堰川を見る
対岸の道は坂ではなく、平坦なのも対照的である。
暫く行くと道は平坦から坂道になりますが、両岸には【両岩】が広がり、
聞こえるのは保津川下りの船とトロッコ列車の音ずればかり。
嵐山駅の喧噪が嘘のようでしたが、こんな良い場所をおとずれる人も少ないのは、
未だ京都市内にも穴場はあると言う事です。

保津川下りの船
早朝から運行している?

岩場から見る保津川
ここまで来ると対岸も人が少ない。

周辺の紅葉

対岸の斜面には嵯峨トロッコ列車の線路が見える

帰路に見た保津川下りの船を乗船場へ運ぶトラック
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住蓮山 安楽寺(浄土宗系単立寺院)
本堂内に安置された両上人と両姫像。
安楽寺は別名・松虫鈴虫寺と呼ばれますが、これは住蓮・安楽上人との悲話に拠ります。
『安楽寺は法然の弟子・住蓮上人と安楽上人の念佛道場所縁の地。
二人の法話の声明は美しく多くの信者を獲得したが、その中に後鳥羽上皇の女官の鈴虫・松虫の二人の姫がいた。
容姿端麗で教養にも恵まれた両姫は上皇からの寵愛も篤く、他の女官達からの嫉妬も相当なものであったと言う。
そのような日常に苦悩した両姫は、いつしか出家を望むようになる。
建永元年(1206年)、後鳥羽上皇が熊野詣の留守中に両姫は夜中に御所を忍び出て、
鹿ヶ谷草庵にて両上人の前で剃髪出家し尼僧になった。時に松虫十九歳、鈴虫は十七歳であった。

境内の南側にある両上人の墓

両上人の墓石

両上人の辞世の詠
(右) 極楽に 生まれむことの うれしさに 身をば佛に まかすなりけり 住蓮上人
(左) 今はただ 云う言の葉も なかりけり 南無阿弥陀仏の み名のほかには 安楽上人
これには後鳥羽上皇が激怒し、専修念仏教団に対し弾圧を掛ける。
上人二人は斬首、75歳であった師の法然を讃岐に、親鸞を越後へ流罪とした。
これは「建永の法難」と呼ばれる。
後に都に戻った法然が二人の上人の菩提を弔うために建てたのが住蓮山安楽寺で、
山号寺号には両上人の名を冠している。
出家した両姫は紀州の粉河寺に逃れた後、瀬戸内海の生口島の光明坊に移り、念仏三昧の余生を送った。
松虫は三十五歳、鈴虫は四十五歳で往生を遂げたと伝わる。』 とあります。

両上人の墓の更に奥にある両姫の墓へ

両姫の供養墓

供養墓入口から参道を見返る
右に建つのが客殿。
これが尼僧になった女官の為に二僧が死罪となった「建永の法難」の顛末。
因みにその時に後鳥羽上皇は27歳でした。
密通を疑ったと言う説が有力で、今も昔も【みっつー】は避けるべきものですが、
若かったとはいえ治天の君としてはかなり過酷な処罰と言えます。
両上人の美声が人々を虜にしたとありますが、両姫も鈴虫・松虫という名前からして
美声を以て帝に寵愛された可能性が大。もし轡虫(くつわむし)や螽斯(きりぎりす)という名前ならば、
ここまで上皇も執着しなかったに違いありません。
後に上皇は鎌倉幕府に対して挙兵して失敗。隠岐の島に遠島となり現地で没しますが、
その遠因にこの法難が関わっていたと考えるのは、歴史の仮設としては【上級の編】に当たるでしょうか?

両姫の供養墓

供養墓近影
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住蓮山 安楽寺(浄土宗系単立寺院)
書院からの日本庭園の眺め。
本堂に続いては、回廊で続いている書院へ。
書院もそうですが、その手前にある内庭も一見に値します。
『書院は数寄屋風造りで、江戸末期に移築されたもの。平成15年には国の登録有形文化財となった。
奥には日本庭園がある。書院は現在華道展示等のイベントで使用されている。
書院から渡り廊下で繋がっているのは平成22年(2010年)築の客殿。
中には喫茶「椛」が入っている。』 とあります。

書院の床の間

床の間からの眺め

書院で開催中の華道のイベント

縁側から見た日本庭園(北側)

日本庭園(北から中央部)

日本庭園(中央部から南)

日本庭園の向こうには客殿が建つ
書院・客殿共に近年新築と思っていましたが、江戸末期の物件。
移築とはいえ、新しく見えるのは、それだけ丁寧に使用された証でしょう。
そのような歴史的建造物をイベントに利用できるのは嬉しい限りでしょうが、
使う事で傷むのを防ぐ効用もあるのでしょう。

渡廊下から見た日本庭園

書院から渡り廊下を抜け客殿へ

客殿から渡り廊下越しに本堂を見る

客殿から見た書院
客殿の「椛」をもみじと読むとは初めて知りました。
書院共々境内を有効利用したと言えますが、値段も一般と変わらないのが参拝者には朗報。
メニューの中には「鹿ヶ谷カボチャ餅入りお善哉」とあるので、中風に効果があるのかもしれません。
その内、「You, 中風に効くぜ!」とユーチューブで流れる日も遠くないでしょうが…。

客殿にある安楽寺喫茶「椛」のメニュー

絵画も展示している喫茶「椛」の店内
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住蓮山 安楽寺(浄土宗系単立寺院)
本堂と手前に植えられた木斛。
地蔵堂の前の参道を進み左手にあるのが本堂。
『本堂は常行三昧堂として使われていた方形裳階造の堂宇を江戸時代後期に移築したもの。
本尊は阿弥陀三尊像で、他に法然上人木造、法然上人張子像が安置されている。
宗派は異なるが法然の弟子と言う事で親鸞聖人の笠も展示されている。
加えて、住蓮・安楽上人、松虫・鈴虫の像も祀られている。』 とあります。

地蔵堂(左)の前の参道を往く

かつては常行三昧堂として使われていた方形裳階造の本堂

正面から見た本堂

本堂前面に張出した庇
堂内拝観はここで履物を脱ぐ。

本堂に続く石畳の参道
堂内へ入ると浄土系寺院に特徴的な煌びやかな装飾があって、その先に御本尊が。
ガイドの方から5分程度の由緒を聞きましたが、堂内はどこでも写真撮影OKとの事。
普通、庭や建物は兎も角、御本尊はNGの場所が多い京都では異例。
一体、【どうない】なっているのかと不思議でした。

堂内の様子
ここは住職が読経する場所。

本尊の阿弥陀三尊像
本堂からは渡廊下で書院へと続きますが、その間の中庭も落ち着いた造り。
本堂内の煌びやかさとは対照的な簡素さが一層、その美しさを際立たせているのかもと感じた次第です。

本堂は渡り廊下で書院に繋がる

左に進むと書院、右へ行くと喫茶椛

書院から見た渡廊下と本堂

書院から見た本堂

書院と本堂の間の中庭
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住蓮山 安楽寺(浄土宗系単立寺院)
茅葺の山門を過ぎて、受付で拝観料¥500を払って境内を散策。
直ぐ左手に納経所があったので先ず御朱印拝受。
通常は拝観中に墨書して貰いますが、ここは書き上がり待ち。
なんでも多くの人の手を経るリスクを減らすのだそうで、そういう考えもあるのだと感心しました。

茅葺門を過ぎいよいよ境内へ

山門下からの眺望は境内と言うよりも整備された庭園

山門に続く寺務所に掲げられた「楽山居」の扁額

左手にある御朱印所

安楽寺案内書
右は鈴虫姫(左)、松虫姫(右)剃髪図。

安楽寺御朱印
両姫の墓所らしく女性に拠る流麗な水茎である。
境内の庭園は池泉回遊式や枯山水ではなく石組みと樹木を組み合わせたもの。
浄土式とは言わないのでしょう。植物の中でも目を引いたのがセンリョウとマンリョウ。
どちらも朱い実を付けますが、庭を整備されていた人に伺うと、
「実が軽くて葉の上にあるのがセンリョウ、重くて下がっているのがマンリョウと区別します。」
とのメイリョウな答えでした。

庭園入口付近の光景

枯死?した巨木の下に植えられたセンリョウ

朱い実を付けたセンリョウ
千両と【軽い】ので実が上を向いている。

こちらも朱い実を付けたマンリョウ
万両と【重い】ので実が下に向いている。

巨木を背に更に庭園を進む
庭園内には仏足石がありましたが、その奥に建つのが地蔵堂。
『祀られているのは「くさの地蔵菩薩」と呼ばれ、古くから皮膚病や腫平癒に御利益があると信仰されてきた。
江戸時代の縁日では参道に多くの出店が並ぶ賑わいであったと伝わる。
平成3年の解体修理で体内の墨書が発見され、鎌倉中期の正嘉2年(1258年)の木造で、慶派仏師の作と判明した。
当寺にはくさの地蔵さまへの願掛けや御礼に柄杓が奉納されており、北斗七生が象られている。
現在の地蔵堂は平成27年の再建である。
また毎年7月25日に、京都の伝統野菜の一つである鹿ヶ谷カボチャを煮炊きしたものを参拝者に振舞い、
中風にならない様にと願う行事がある。』 とあります。

庭園全景

庭園奥には仏足石の碑が建つ

仏足石近影

歩いて来た道を振り返る

本道前の木斛

奥に建つ地蔵堂
「くさの地蔵菩薩」と書かれた提灯が吊るされている。
地蔵堂は真新しい造りですが、祀られているお地蔵さまは古仏。近隣から多くの参拝者が訪れたのは
御本尊を凌ぐものがあったから。それ程、病に苦しむ人々が頼ったのでしょう。
御堂の前には鹿ヶ谷カボチャの沓掛地蔵が置かれ、いつでもカボチャ供養の御利益が授かるようにと
「くさの地蔵様」780歳の誕生日の令和元年5月2日にお披露目されたそうです。
鹿ヶ谷カボチャは中が括れた怪体な形ですが、普通のカボチャよりも鉄分が多いとか。
単に京野菜と言う名前だけではなく実効もあったようです。尤も、最近は生産が減ってきているのは残念です。
お地蔵様と言うよりゆるキャラに見えますが、それを言っても【水掛け】論に終わりそうで…。

地蔵堂の周りに敷かれている庭石・飛石は煩悩の数と同じ108個

鹿ヶ谷カボチャの沓掛地蔵様

沓掛地蔵様近影

奉納された柄杓と鹿ヶ谷カボチャの絵
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住蓮山 安楽寺(浄土宗系単立寺院)
永観堂を拝観しなかったので、このままでは次の予定まで1時間待ち。
どうしようかと迷う所ですが、法然院の南に石段の先に紅葉と茅葺門のある寺があり、
通常は閉門していますが、この日は拝観できる事が分かり再び北へ向かう事に。
9時40分に門前に着きましたが開門は10時と看板が。ここでも20分待って入山。
運よく秋の特別拝観中なのも幸いしました。

静寂な雰囲気が漂う安楽寺入口

入口にある楓の巨樹

由緒記の駒札
住蓮山安楽寺(じゅうれんざんあんらくじ)は、
『平安末の鹿ヶ谷の陰謀から20数年を経た鎌倉時代初期、法然の弟子の住蓮上人と安楽上人は
東山付近を散策中、白鹿に出会う。その姿がかつての俊寛の山荘跡付近で消えたので、
霊感を感じた両上人は、現在の場所より東方に専修念仏の道場として「鹿ヶ谷草庵」を結んだ事に始まる。
その場所で住蓮と安楽は、唐の善導大師の『往生礼讃』に譜曲を附し、六時礼讃声明を完成。
両上人が勤める声明は真に美しく、多くの徴収を魅了したと言われる。
後鳥羽上皇に拠る建永の法難で両上人は刑死し草庵は荒廃するが、師の法然が両名の菩提を弔うために
草庵を復興。住蓮山安楽寺と改称し両上人の追善の寺とした。
その後、天文年間(1532~1555年)に現在地に本堂が再建され今に至る。』 とあります。

階段の先にある茅葺の山門
普段は閉まっている。

階段脇の紅葉が映える

楓の下は苔の緑の絨毯

苔に散り敷く紅葉

脇の築地塀にも趣が
法然院と異なり、隠れの道から直接石段が山門まで続き、両脇には楓が聳え苔の上には紅葉が散り敷く状態。
拝観が無くとも写真撮影には絶好のポジション、開門を待つ間もカメラを構えた人々が頻りにシャッターを切っていました。
皆、私と同じ10時入門組でしたが、合計でも10数名だったので、待たずに入れたのは言うまでもありません。

山門近影
明治25年(1892年)の建立で、平成15年に国の登録文化財に。

山門の茅葺屋根

屋根裏部分

山門下から入口を見る
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聖衆来迎山無量壽院禅林寺(浄土宗西山禅林寺派)
若王子参拝の後は、今日のメイン永観堂へ。京都と言うよりも日本を代表する紅葉の名所。
JR東京駅にも案内が貼付されており、知らない人は東京にあると思うでしょう。
八重洲口のタクシー乗り場で「永観堂まで…」と言った人はいないのでしょうか?
正式には聖衆来迎山無量壽院禅林寺(しょうじゅらいごうさんむりょうじゅいんぜんりんじ)と
一回では覚えられない程長い名前ですが、一般には紅葉の永観堂(えいかんどう)で知られます。

西側の白壁塀と紅葉

西側にある総門(出入口)脇の寺標

総門から境内を見る

総門の先にあるのが中門で、そこから先が有料拝観

永観堂由緒記の駒札

何故か百人一首の歌が
これは奈良での詠と思われるが、この句言に苦言を呈した人がいるのでは?
さて向かった先は9時の開門前に早くも数百人の行列。並んだものの20分経っても少しも進まず、
どうも検温のため入場制限されている様子。
コロナにも拘らず参拝者が多いのは結構な事ですが、密のために検温が必要で悪循環になっています。
これでは次の予定に遅刻なので今回はスルー。前回の平成4年11月30日訪問では紅葉が満開でしたが、
今回は少し早かったようで踏ん切りがつきました。
尤も世間一般には、このようなものを負け惜しみと言いますが。

和(なごみ)の道から見た放生池

道沿いの紅葉

境内のツワブキ

受付の中門まで続く行列

中門前の検温の様子
京都市に住む知人に拠れば、この時期の永観堂は中に入らず、外から眺めるだけで十分だとか。
私も拝観料不要の境内の一部を見て移動。御本尊なら「入観、遅し!」と見返るかもしれませんが…。

塀の外側の満天星(ドウダンツツジ)

こちらは南天の木

永観堂御朱印 (平成4年拝受)
[参考書]
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熊野若王子神社(旧村社)
早朝に法然院参拝の後は、鹿ヶ谷疏水道に沿って哲学の道を南下。
日が高くなる前に紅葉の永観堂を目指した訳ですが、疏水の途切れた場所に社があったので、
ちょっと立ち寄ってお参り。熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ)は、
『熊野神社、今熊野神社と並ぶ洛中熊野三山の一つ。

疏水に架かる若王子橋
通りで言えば、東西に走る冷泉通りの東端に当たる。

神社石碑

由緒記の駒札

同志社創設者新島襄の墓所の碑
墓は背後の若王子山頂にある。
永暦3年(1160年)、後白河法皇が熊野権現を禅林寺(永観堂)の守護神として勧請され祈願所とされた
正東山若王子の鎮守で、明治の神仏分離に拠り当社のみが今に残った。
若王子とは御祭神の一つ天照皇大神の別名・若一(にゃくいち)王子に由来している。
熊野詣を行うにあたり、修験者は先ず当社で身を浄めてから出発したと伝わる。
室町時代には足利尊氏・義政がこの地で花見の宴を開いたとされ武家の信仰を集めた。
応仁の乱で荒廃したが豊臣秀吉に拠り再興。明治になり修築が行われたが、その際、
本宮・新宮・那智・若宮があったが、現在は一社相殿となっている。

神社入口
左の幣を巻いた木が御神木の梛(なぎ)。

当社前全景
恵比須社(左)、拝殿(中央)、社務所(右)と並ぶ。

正面から見た拝殿

拝殿の奥に僅かに見える本殿

拝殿前面
今も本殿裏手の東山山中に瀑布があり、奇岩老樹も多く、夏は納涼地、秋は紅葉の名所として知られる。
御神木である梛(なぎ)の木は暖地に自生するイヌマキ科の常緑高木で高さ15m、葉は榊の代用にもされ、
種々の悩み事をナギ倒すとして喜ばれている。
境内には夷川通りに鎮座されていた恵比須を祀っている。』 とあります。

拝殿の屋根の鬼瓦には八咫烏が

拝殿に掲げられた熊野大権現の扁額
文字の各所に烏がデザインされている。

御祭神の四柱と宝形
宝形はかつて境内にあった地仏堂の屋根の部分。地仏堂には薬師如来が祀られていた。

薬師如来坐像は、国宝として奈良国立博物館が所蔵

恵比須社

祀られている等身大の恵比須様
熊野街道でも王子が起点ですが、哲学の道でも起点になっている様子。
若王子神社の名は度々、聞きますが天照皇大神の別名とは初耳。
進学・良縁の神様として哲学の道を訪れる若い人に人気があるようですが、
これは若王子という名前にもあるのかもしれません。
と言って「わかおうじ」とは読みません。わかおうじならば熊野を越えてマニラまで行ってしまいそうですが…。
梛の木についても詳細は知りませんでしたが「なぎ倒す」だけでなく難儀にも繋がるかもしれませんし、
飛躍すれば那智にも関りがあるのかもしれません。
「なぎ」という言葉自体が大事な訳で、古代の言霊まで遡ることになりそうです。

垣根になっている梛の木

熊野若王子神社由緒

熊野若王子神社御朱印
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善気山 法然院 萬無教寺(浄土宗系単立寺院)
法要をする寺院なので、法然院には檀家があって当然。
寺院に墓地があっても何ら不思議はありませんが、法然院には著名人の墓があることでも有名。
参道の右手の高台に昔ながらの墓地があって、入口には大きな石塔が。
「昔、近江の石塔寺で見た阿育王の石塔に似ているな。」と思いましたが、
基壇に阿育王石塔に似せて造るとありました。

墓所入口に建つ石塔
『境内には、谷崎潤一郎、河上肇、九鬼周造、浜田青陵、福田平八郎、内藤湖南の墓がある。』 とあります。
京都帝大の教授の墓は近場なので分かりますが、江戸っ子の谷崎の墓が何故この地に。
もしかして『卍』の舞台なのでしょうか?
関係者でもないですが、ガイドに従って墓場放浪。記された著名人の墓に一通りお参りしました。
墓地には住友家の墓もあり、鹿ヶ谷に別荘があるので財閥の住友家と勝手な想像をしました。

マルクス経済学者・河上肇夫妻の墓

哲学者・九鬼周造の墓

東洋史学の開拓者・内藤湖南夫妻の墓
東洋史学を越えたシナ学の泰斗と言う方が相応しい。夫人を旧姓にしたのは中国に倣ったものか?
様々な分野の方のお墓ですが、一見して皆同じような外観。
河上肇の墓は『貧乏物語』ではなく、九鬼周造も『いきの構造』ではなし。
財閥の墓(としてですが)も普通の大きさでした。
皇族や大名の墓は大きいものが多いですが、著名人とはいえ墓に拘る気はないのでしょう。
これこそ『いきの構造』と言えましょう。

これは特撮関係のお墓ではなくて…

京大アメフト・ギャングスターズの碑

墓所周辺に置かれた石と苔
[参考書]
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善気山 法然院 萬無教寺(浄土宗系単立寺院)
山門をくぐるといよいよ境内ですが、山門は茅葺で数寄屋造り、屋根に生えた苔が周囲に映えます。
木造の多い関西では珍しく、神社の山門というよりも茶室に向かうと言った感じ。
その先に紅葉が描かれた白砂壇があるのが一層その印象を強めています。
尚、当寺は浄土宗で禅宗ではありません。

正式に南側の山門から入山

山門近影

山門下から上って来た参道を見返る

山門の屋根裏部分

苔生したと言うよりも苔鮮やかな茅葺屋根

山門下から見た白砂壇

白砂壇から見た山門

白砂壇に描かれた銀杏と紅葉

こちらは紅葉と渓流
法然院は
『正式には善気山法然院萬無教寺(ぜんきさんほうねんいんばんぶきょうじ)と言う浄土宗系単立寺院。
鎌倉時代に法然上人が弟子たちと共に六時礼讃行を勤めた草庵に由来する。
その後、寛永年間(1624~1644年)には殆ど廃絶していたものを、延宝8年(1680年)に
知恩院第三十八世・萬無心阿(ばんぶしんな)上人と弟子の忍澂(にんちょう)が中興したものである。

参道に続く放生池に架かる橋

橋の右手に建つ講堂
元は元禄7年(1694年)建立の大浴室だったが、昭和52年(1977年)に改装された。

境内の杉苔

左手に建つ経蔵
元文2年(1737年)の建立。

正面より見た経蔵
本堂は延宝9年(1681年)に客殿として建立。堂内には恵心僧都作の阿弥陀如来坐像と
法然上人自作の木像を安置し、直壇には毎晨朝に二十五の生花を散華する。
方丈は文禄4年(1595年)築の後西天皇の皇女の御殿を貞享4年(1687年)に移築したものとされ、
狩野光信筆の襖絵十四面の「桐に竹図」「若松図」「槙に海棠図」及び屏風の「雪松図」は
いずれも重要文化財に指定されている。』 とあります。

経蔵越しの紅葉

放生池周囲の紅葉

これはセンリョウか?

水盤に浮かべられた菊
境内は6時から無料で開放されており、池の周りの椿や楓、地面の杉苔を眺めながら散策する事ができます。
加えて外観だけですが、元文2年(1737年)建立の経蔵、元禄7年(1694年)建立の講堂も見る事が可能。
講堂は一見そうは見えませんが大浴室として建立されたものを昭和52年(1977年)に改装したものだそうです。

境内を庫裏の方へ進む

参道脇の石組みと杉苔

こちらが玄関
このように境内は自由ですが、肝心の本堂、方丈や襖絵は見れず。御朱印も対応していませんでした。
といっても拝観謝絶ではなく、春と秋の1週間だけ特別拝観。11月30日に御朱印を貰っているので拝観していたのでしょう。
ネット上では寺の一部を定期的に講演会やコンサートに開放しているとあるので必ずしも閉鎖的ではないようですが、
境内には、法要中につき立入禁止の札が架かって居り、建物内には観光客を入れる方針ではなさそう。
これは元、念仏の修行道場だった事にも拠るのでしょう。

参道を更に奥へ

こちらが特別拝観時のみの方丈と本堂

本堂への参道脇に建つ十萬霊塔

境内の樹木
椿と紅葉の名所なのに【ばんぶー】教寺とはこれ如何にですが、
文化財が見れないのは非常に残念ではありました。
尤もそのような事を言っても【〇の耳に念仏】ですぐ【放念】でしょうが…。

東側に建つ石塔

石塔脇のモニュメント

モニュメントの説明

平成4年に拝受した御朱印
[参考書]
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<コース>
淀屋橋 → (京阪特急) → 出町柳 → 徒歩20分 → 哲学の道 → 法然院

善気山 法然院 萬無教寺(浄土宗系単立寺院)
銀閣寺付近から疎水沿いに南下すると最初に出会う古刹が法然院。
『哲学の道から東へ1本入っただけであるが、通称・隠れの道と呼ばれるだけに山麓の緑濃い
鄙びた風情の中に念仏道場らしい厳粛な空気が境内を支配している。
春は椿、特に中庭の三名椿が素晴らしい。晩秋には茅葺の山門に架かる楓が美しく、
古都の代表的な紅葉風景の一つとなっている。』 とあります。
道に沿って行くと小高い丘に木々が生い茂った場所が目に入り、恐らくここが法然院と推測。
更に進むと道標と参道が続き境内に入れますが、人も少なく寂びれた様子。

北から南下するとこのような場所へ

北側の脇門へと進む

脇門の先に見える境内
正面は元文2年(1737年)建立の経蔵。
平成4年に訪れた時はもう少し広かった記憶があるので不思議でしたが、北側は脇門で
正式には南側から入る慣わし。再度、南に回って正式に参拝。
広い参道と巨樹に囲まれた先に茅葺の山門が見えて来、漸くかつての記憶が呼び戻されました。
借景と言うよりも直ぐ東側が東山連峰なので山寺の雰囲気も十分。
7時台とは言え散策する人もチラホラ。早起きは【山門】の得、ではないですが、西だ来たろう!の甲斐があったと言うものです。

南側にあるこちらが正門

石標

由緒記の駒札

階段を上り境内へ

巨樹に囲まれた石畳の参道を往く

参道の先にある茅葺・数寄屋造りの山門
[参考書]
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<コース>
淀屋橋 → (京阪特急) → 出町柳 → 徒歩20分 → 哲学の道

哲学の道
北は銀閣寺付近から始まる。
この日は学生時代に御世話になった下宿の祝祭のため聖護院に正午イン。
昼までに時間があり東山も近いので、早朝から白川通今出川から鹿ヶ谷疎水に沿って南下。
銀閣寺から若王子までの2㎞程の散策道は哲学の道で知られます。哲学の道は
『明治23年(1890年)東山山麓に完成され、明治42年(1912年)に延伸された琵琶湖疎水分水沿いの
桜並木の散策路。若王子橋から浄土寺橋までの1.8㎞を呼ぶ。

晩秋は桜葉も散りこのような様子

紅葉は未だ散らず
哲学者の西田幾多郎らが好んで歩いたことから、“思索の小径”と呼ばれていたが、
哲学の道という呼び方に変わった。桜並木は橋本関雪夫人が植えた事から、関雪桜と呼ばれている。
近隣には世界遺産の銀閣寺初め著名な社寺が点在し、四季を通じて観光客の姿が絶えない。
昭和61年(1986年)には「日本の道百選」に選ばれた。』 とあります。

水路上に大きく張り出した山茶花
京都学派を代表する西田幾多郎が歩いた事からの命名ですが、何故ここを散策したかと言えば答えは簡単、
この付近に住んでいたからに他なりません。
今に比べて交通機関が発達していなかった当時は、職場へ歩いて行ける場所に居を構えた筈。
戦後のギリシア哲学をリードした田中美知太郎の自宅も鹿ヶ谷でした。
なので、思索に相応しい道云々よりも家の近所を散歩しに【きたろう】と言うのが真に近いでしょう。

山茶花の白い花

山茶花近影
昔の大学教授は経済的にも優遇されたと思いますが、大学の傍に一戸建てを構える事ができたのは
大正生まれの人まででしょうか?現在は、東大も含め一戸建てから歩いて大学に通勤するなど夢物語。
ほとんどのサラリーマンと同じく通勤電車に揺られているのが実情。
車内で思考される教授も多いでしょう。かつての哲学は【鉄学】に変貌を遂げているようです。

水路では鴨たちが食事の最中

道沿いにある甘味処「叶匠寿庵」
閉鎖中なのは、単なる休業かコロナの影響か?
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西田幾多郎の哲学=絶対無の場所とは何か (講談社選書メチエ) 新品価格 | ![]() |

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