<コース>
【往路】JR天王寺(6:18) → JR加茂(7:26→7:33) → JR月ケ瀬口(7:57) → 月ヶ瀬駅前(8:45) → (臨時バス) → 尾山口(9:00)
徒歩5分 → 梅林入口 → 真福寺 → 一目八景 → 帆浦梅林 → 梅林公園 → 天神神社・天神梅林 → 代官坂 → 月ヶ瀬橋 → 一目万本 → 奥の谷梅林 → 龍王梅林 → 八幡橋 → 紅葉の小道 → 梅の資料館(月ヶ瀬橋畔) → 尾山口
【復路】尾山口(13:40) → (臨時バス) → JR月ヶ瀬駅(13:55→14:12) → (関西本線) → JR大河原(14:18) → 徒歩8分 → 恋志谷神社 → JR大河原(15:19) → JR加茂(15:35→15:39) → (大和路快速) → JR大阪(16:54)

資料館前に建つ石碑
北岸にある梅林公園からは曲がりくねった代官坂を降りると名張川河畔に出ます。
そこに架かる朱色の月ヶ瀬橋を渡り対岸へ、そこから川を下って次の八幡橋までの間がもう一つの梅林。
行政区では桃香野(ももかの)築、梅林があるのに桃香野とはこれ如何に?

代官坂からの眺め

奥の谷梅林付近に建つ石碑

梅の向こうに見える八幡橋

道路標識に記された桃香野(ももがの)

ガイド記載の桃香野地区
ここの梅は斜面ではなく専ら川沿いに植えられており、北岸とはまた違った趣ですが、歩く人は疎ら。
やはり尾山口から遠いせいでしょうか?と思っていると橋の袂の駐車場には大勢の人が。
「湖畔の里つきがせ」と言う施設がありました。
奈良県側から月ヶ瀬に来る場合には、こちらが玄関口。人が多いのも頷けます。

八幡橋南岸から桃香野地区を望む

湖面に梅が映える

「湖畔の里 つきがせ」 の駐車場
奈良市内側からの入口は梅林西側のこちらになる。

八幡橋上から見た「湖畔の里 つきがせ」

「湖畔の里 つきがせ」入口
道の駅ではないが、似た内容の施設である。
丁度、お昼時なので、「湖畔の里つきがせ」にて昼食。かやくご飯+梅うどんセット¥880と梅ソフト¥350。
普段は梅うどんというメニューは滅多に見ませんが、梅林では頻繁に登場。
あっさりした口当たりが好まれるからでしょうが、もう少し広まって欲しい気もします。

かやくご飯+梅うどんセット ¥880

食後の口直しは 梅ソフト ¥350
中には梅肉が入っている。偶然にも服の色と同じ。

施設入口に建つ月ヶ瀬のゆるキャラ 二人?

施設周辺の満開の梅

レストラン前にある梅の古木 「白髭の梅」

「白髭の梅」解説
食後は八幡橋から再び北岸へ渡り、紅葉の小道を歩いて月ヶ瀬橋へ。
【橋から橋まで】ぐるっと一周した事になります。
月ヶ瀬橋北側の「梅の資料館」では梅まつりに合わせて月ヶ瀬所縁の文人の作品を展示中。

北岸に続く「紅葉の小道」
斜面の茶畑は、明治以降梅林から転作されたもの。

紅葉の小道
秋には深紅のトンネルに変わる?

月ヶ瀬橋北岸に建つ 「梅の資料館」
売店(1階)、資料館(2階)、展望台(3階)となっている。

資料展の案内

ゆるキャラを描いた台紙に押印した記念スタンプ
『梅林が渓谷を挟んだこの梅渓は、江戸時代後期から風雅を好む文人墨客に讃えられ、
その景色を愛でる詩文が詠まれた。そこから多くの著作品が出版された事も月ヶ瀬の名を高めた。
天神神社脇には頼山陽の漢詩碑が建つ。耶馬渓の目付け親でもあり
江戸時代を代表する歴史学者であるが、月ヶ瀬を一躍有名にしたのは齋藤拙堂。
江戸末期の漢学者・齋藤拙堂は紀行文にも優れ『月瀬記勝(乾・坤二巻)』に記された
「梅渓有遊紀記」は大和の月ヶ瀬梅渓を全国的に有名にした。
これは漢詩集であるが、要所に挿画もあり廉価で入手できたことも手伝って、
人々の間で月ヶ瀬の名を不動のものとした。

資料館2階の展示室

富岡鉄斎の揮毫

鉄斎の描く月ヶ瀬

鉄斎の画の続き
また明治・大正期に活躍した文人画家・富岡鉄斎は月ヶ瀬の自然を好み数多くの山水画を残した。
当館所蔵の「月瀬図巻」は清荒神清澄寺より寄贈された貴重な作品である。』 とあります。
景勝地に石碑があるのは当然で、ここにも漢詩や歌碑がありました。
最も良い場所に建っていたのは頼山陽。
資料館の解説では齋藤拙堂の方が相応しく思いますが、やはり世間一般の知名度の差でしょうか?

資料館前から見た旅館と枝垂れ梅

龍王梅林に建つ谷崎潤一郎の歌碑

谷崎潤一郎の歌碑の釈文
植林山華は大和の書家で、歌碑の文もこの書家の手になるもの。

天神神社脇に建つ頼山陽詩碑

詩碑近影

山陽詩の書き下し文
山陽外史とあるので『日本外史』の一節か?

詩碑裏面の解説
などと考えながら散策路を歩いていくと、現代の歌詞を彫った石碑があり
スピーカーからは聞き覚えのある声が。
見ると八代亜紀さんが歌う御当地ソング「月ヶ瀬小唄」。
歌自体は大分前に発売されていましたが今まで聴いた記憶はなく、あまりヒットしなかったのでしょう。
私的には〇〇小唄というのが、前時代的な印象。
いっそ「月ヶ瀬ブルース」や「梅の慕情」ならばと勝手な妄想をしてしまいました。

「月ヶ瀬小唄」歌碑

歌碑の説明
建立は令和元年とつい最近。

八代亜紀さん手植えの梅

植樹の解説と植樹時の一句
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【復路】尾山口(13:40) → (臨時バス) → JR月ヶ瀬駅(13:55→14:12) → (関西本線) → JR大河原(14:18) → 徒歩8分 → 恋志谷神社 → JR大河原(15:19) → JR加茂(15:35→15:39) → (大和路快速) → JR大阪(16:54)

月ヶ瀬梅渓 天神梅林への橋
帆浦梅林に続く遊歩道を進み、赤い欄干を渡ると天神梅林。
名前の由来は、最も高い場所に建つ天神神社に由来。天神神社は、
『元久2年(1205年)、真福寺境内に菅原道真を祀る産土神として天神社を祭祀したのが始まり。
その際、神霊を慰めるため道真の好んだ梅を植えたのが月ヶ瀬の梅林の嚆矢とされる。

懸造り?ではないが、斜面に建てられた茶店

梅林への案内板


名張川の眺め
時代は下って元和元年(1615年)、加賀藩三代藩主前田利常は大坂夏の陣の帰路、
尾山天神に立ち寄り前田家安泰二千日の祈願をなし、元和7年3月に満願の碑を建立したと伝わる。
その碑にある両天神とは尾山神社と分神勧請された金沢城内の尾山天神を指すとされる。
碑文は四百年の風雪に晒されて目読する事が出来なかったが拓本に拠って判読された。

これは蝋梅

紅枝垂れ梅

天神神社

前田家と天神社の関り

神社と梅林の由来
明治17年(1884年)、真福寺境内から絶景のこの地に社を移祀している。
天神様である菅原道真の他、月ヶ瀬梅林の黄偈となった姫若も合祀している。』
とあります。

満願の碑

満願碑解説

天神社脇からの眺め

平地の少ない斜面なので、神社も祠が建つだけで社務所はなく無人。
元は真福寺境内に建てられた事、創建年代も後だった事を考えても月ヶ瀬梅渓の起源は
当社ではなく真福寺だったのは確実。
と言っても産業としての月ヶ瀬の梅は真福寺ですが、最初に植えられたのはここ天神社。
真の発祥の地が当社なのは嘘ではありません。
現在の地は梅林の中心にある高台で、土産店に加え宿泊所もあり、
美晴荘と名付けた旅館は皇室の方も泊まられたとか。
まさか梅林の中に宿泊できるとは思いも寄りませんでした。

美晴荘別館の玄関

別館の沿革

別館は食事だけの利用も可能

美晴荘本館(右)と美晴荘経営の茶店
別館は正面奥左手にある。
加えて、当社は近世になって加賀藩の庇護も受けます。
尾山神社と言えば、金沢を連想しますが、あちらは明治以降の創建なので、
当社が先。名前が同じなのは偶然でしょうか?
前田利常が領国から離れた当社に参詣した理由は分かりませんが、前田家の家紋は梅鉢紋で、
公式には姓は菅原氏。そのような由縁で当社に白羽の矢が立ったのでしょう。

天神社脇からの眺望
名張川に架かる朱い橋が目指す月ヶ瀬橋。

天神梅林から代官坂へ

代官坂から見た斜面の梅林

九十九折?の代官坂を下る
正面の幟が建つのも坂の一部。
前田家菅原氏は、大名家が幕府に提出した由緒に拠るそうですが、真偽の程は不明。
そのことは藩主自身が一番良く分かっていたに違いありません。
尤も、この点に関しては菅原家からクレーム等は一切なかったとか。
先祖を偉くするのは、自身が偉くなるのが最大の近道というのは古今東西変わらぬ真理のようです。

ここから先は「春告げの小径」と優雅な名前で呼ばれる。

「春告げの小径」から見た月ヶ瀬橋
橋の右手に建つのが梅資料館。

小径は最後に川沿いの82号線に合流
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月ヶ瀬梅渓 一目百景の眺望
・春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる 凡河内躬恒
梅渓発祥の寺院参拝に続きいよいよ梅林散策。花も勿論ですが、
それにも増して辺り一面に漂う香りに圧倒。馥郁というのは文学だけの表現と思っていました。
散策スタートに当たり先ずは梅林入口で腹ごしらえ。
店先で焼いていた草餅に惹かれたのが正直な所で、花より団子を地で行く話です。

これから向かう梅園の案内板

貰ったパンフの地図ではこうなる
梅園入口にある二軒の店は早朝から営業中。その内、近い方の「梅香」さんで焼餅購入。
食べ歩き覚悟でしたが、お茶まで出して頂き一服。長谷寺門前もそうですが、
大和は草餅が名物の様子。梅の里では鶯餅にはならないのでしょうか?

草餅に並んだ行列

盆梅を眺めながら暫し休憩

様々な盆梅が並ぶが全て売り物
焼餅を頂いた店の周囲は梅の盆栽が並んでいましたが、食事だけでなく、
梅干・盆梅など梅に関するう【めぼしい】ものを扱って居られる様子。
偶々出て居られた店の御主人に伺うと、梅は食用・観賞用に見事に分かれているそうで、
盆梅からは梅干しは採れないそうです。

店の裏にある梅の巨木
樹齢数百年かと思いきや、御主人の話では50~60年程だとか。

白梅の盆栽

購買意欲をそそる紅梅の盆栽

これも店の裏にある枝垂れ梅
道標から梅林へは坂を上り、名張川の北側の尾山地区の【おやま】にある梅林へ。
尾山と言う名は山の尾根の部分にあるからの命名でしょうが、月ヶ瀬梅林は
名張川(月ヶ瀬川・五月川)の両側の約3㎞に亘って東西に続く名勝地。
川は下流で木津川に合流しますが、かつては川が深い谷を形成する渓谷。
月ヶ瀬梅林ではなく、月ヶ瀬梅渓と呼ばれるのはそのためです。
しかし1959年に高山ダムが出来、それに伴って渓谷は水没しダム湖が形成。
今は、穏やかな川面に梅が映えます。

梅の向こうに見える月ヶ瀬湖
高山ダムに拠って名張川が堰き止められてできた。
『月ヶ瀬の梅は、今から約800年前、月ヶ瀬尾山に天神社を祀り、所縁の梅の木を植えたのが始まり。
その梅の実から烏梅(うばい)を作るようになり、林間の渓谷や空地を利用して梅を植え、
烏梅は急峻なこの地域の貴重な収入源となった。
江戸後期には10万本以上の梅が植えられており、梅の名所としても知られるようになった。

最初の見所「一目八景」

満開の梅と月ヶ瀬湖
烏梅は黒梅とも呼ばれ、梅の実を煙で黒く燻したもので、薬用や染色に使用。
特に月ヶ瀬の烏梅は、紅花染において烏梅に含まれるクエン酸が
紅花の美しい発色を可能にしたので、京・大坂の染物屋に送られた。
江戸時代後期には生産量が最盛期を迎えたが、明治以降安価な化学染料が
輸入されるようになったため需要が減り衰退した。
梅林も茶畑等に転換され、今では梅の木も1万3千本と全盛期の六分の一程度まで減少。
現在では地元で唯一残った古梅園1軒がその製法を伝えているのみである。

斜面全体に梅が見える
奥の建物は売店。

向日の岸辺にも梅

遊覧船はないが、時折ボートが走っている
梅林が渓谷を挟んだこの梅渓は、江戸時代後期から風雅を好む文人墨客に讃えられ、
その景色を愛でる詩文が詠まれ多くの著作品が出版された。
また大正11年には国が初めて指定した名勝の一つとなっている。
明治以降、梅林の減少や渓谷の水没等、かつての勢いはなくなったが、
地元の人々の努力によって新しく生まれ変わった梅林は、関西屈指の観光地として
季節には多くの人々が訪れる場所となっている。』 とあります。

次の梅林へ移動

帆浦梅林
月ヶ瀬で最も景色が良いとされる場所。

帆浦梅林の眺望
茶店の張出した展望台からの景色。よく写真に使われるのは紅白の梅が隣接しているから?

遠く西を望めば桃香野の集落が
梅林入口からは、鹿飛谷・一目八景・帆浦梅林と続きますが、この辺りが一番の見所らしく、
月ヶ瀬梅渓として写真で紹介されるのもここ。散策路から梅越しに名張川が見える絶景の地。
帆浦というからには、かつては川を往来する船の帆が見えたのでしょう。
一目八景というのも【ほら】ではないようです。
この付近を歩くと道脇には茶店や食事処が犇めいており、店で注文して
見晴らしの良い張り出しから梅渓を見るのがお勧めの様です。
メニューはうどんや鍋物が中心で焼き鳥・焼きそば・焼肉など煙を出すものは一切なく
焼いているのは草餅くらい。梅の香りを損なわないとの心配りに感心する事頻りでした。

張出しからの眺望


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尾勝山 真福寺(高野山真言宗)
道標の脇の坂道を上ると梅林エリアですが、その前に地元のお寺に参拝。
駐車場の横の階段を上った高台にあります。
奈良県の観光ガイドに載っている訳ではないので穴場かと思いましたが、
思いのほか多くの方が参拝に向かっていました。地元では有名な古刹だそう。
階段を上った場所には紅白の枝垂れ梅が咲き、境内は梅の木が花盛り。
通常、梅と言えば天神様で、寺院には似合わないと思っていましたが、その偏見は撤回。

駐車場(右手)の横の小高い丘に寺院が建つ
但し、山門はない。

境内へ石段を上る

石段脇の石碑と案内板

先ずは紅白の枝垂れ梅がお出迎え
お寺も参拝者に向けて、梅に加え御朱印・御守り・書籍と準備に余念がありませんでした。
梅の花と香りに包まれた階段を更に進むと本堂。内陣は改修中とかで外陣からの参拝でしたが、
御本尊はしっかり拝むことが出来ました。

紅梅の奥には購買ではなくて寺務所
御朱印の看板も見える。

真福寺御朱印(御本尊)

パンフはなく説明書きを拝受

梅が咲き誇る境内

参道の正面に建つ本堂
尾勝山真福寺(びしょうざんしんぷくじ)は、
『治承2年(1178年)の建立、境内に菅原道真を祀る産土神として天神社を祭祀し
神霊を慰めるため、道真の好んだ梅を植えた。
本尊の地蔵菩薩は平安時代後期、藤原時代の作とされる。
仏身90㎝の一木造で、奈良風を取入れた定朝様式が感じられる秀作で、
元は金帛が塗られていたらしく、台や光背は江戸時代に補作され、
今では全体が塗り替えられている。厨子は桃山時代様式を伝えている。

石の地蔵群を左に見て本堂へ

正面から見た本堂

本堂前面の向拝にて

向拝欄間の龍彫刻

前面に掲げられた「真福寺」の扁額

外陣より拝した御本尊・地蔵菩薩

本堂前の御本尊説明
現在の本堂は平成9年の新築で、旧本堂は弘化元年(1844年)に建立された事が文献等に見える。
新築の際に、旧本堂の内陣、正面本尊上部に設置されていたのが、鳳凰彫刻の欄間で、
移設場所がないまま寺務所脇に架けられ今に至っている。今でも一部に色が残るが、
出来た当初の江戸時代後期には、美しい彩色が施されていたものと考えられる。』 とあります。

本堂前の十三重石塔

寺務所脇に架けられている旧本堂の欄間を飾った鳳凰彫刻

鳳凰彫刻近影
いまも彩色の跡が見える。

鳳凰彫刻の欄間解説
古刹ながら真新しい印象なのは平成の再建のためでした。
また当寺は月ヶ瀬梅渓発祥の地でもあるようで、御住職の話ではその梅が今もあるとか。
本堂手前にある梅は「姫若(ひめわか)の梅」と呼ばれる古木。傍らに書かれた言い伝えでは、
『元弘2年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すべく笠置山に挙兵。
その折に、女官の一人が難を避けるべく逃げる途中、精魂尽き果てこの地の園生(そのお)の森で倒れた。
それを見た村人が姫を助けたので、その好意に感謝した姫は真福寺の境内に梅を植え、
染色の原料となる烏梅(うばい)の製法を教えた。これが今に至る月ヶ瀬の梅林の始まりである。』
というもの。

本堂前に聳える「姫若の梅」

「姫若の梅」解説

本堂前からの眺望
左が寺務所。
この謂れについては、地元が「月ヶ瀬 梅と姫のものがたり」という絵本を発行。
絵本と言う割には装丁・内容・価格も豪華で、早速購入。
その中では女官が倒れていたのは桜峠、女官を後醍醐天皇の側女とし
姫若・姫宮・園生姫と呼ばせています。
姫が教えた烏梅は都で高く売れ、村人の暮らしを豊かにしました。
姫は若くして亡くなりましたが、村人は姫の恩を忘れず、山間に梅を植え続けました。
そして早春には川面に梅の花と月が映え、いつしかこの場所は月ヶ瀬と呼ばれるようになったとか。

寺務所で販売されていた「月ヶ瀬 梅と姫のものがたり」 ¥1000

本堂前に建つ御掃除地蔵様と紅白の梅

紅枝垂れ梅
奥に見えるのが本堂。

こちらは白梅

こちらはピンクの梅
最後に地名の由来にまで繋がるとは流石ですが、恐らく地元には様々な言い伝えが
残っているのでしょう。唯、正史には園生の名はなく、かなり伝説的。
この地で烏梅が作られたのは事実で、思うに都の人が伝えた可能性が大。
その始祖に高貴で薄幸の姫君を持ってくることで、ブランド化を図ったものと思えます。
薬九層倍(くすりくそ【うばい】)と言う位ですから、梅干よりも高額なのは当然。
高嶺の花のお妃の伝説がより高値を呼んだ事になります。
梅花から採れる梅果を加工して【売価】を上げ、村人の収入は【倍加】、
うめー商売も有ったものだと感心します。

石段横の石地蔵群

本堂脇から名張川方面(南側)を見る

同じく西側の眺望
遠くには桃香野(ももがの)集落が。
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JR月ケ瀬口駅前の梅と石碑
月ヶ瀬梅林の最寄駅だからと思いそうだが、地元の偉人を顕彰したもの。
弥生も中旬に突入。気温も20℃越えの中、今期最後の梅の香りを求めて月ヶ瀬へ。
月ヶ瀬といえば関西を代表する梅林ですが、訪れた人は意外と少ない景勝地。
それもその筈、行政区は奈良市ですが平成の大合併前は月ヶ瀬村と呼ばれた市の東端で
バスを利用しても2時間。しかも奈良市内からの公共交通は午前・午後の二便と、
これでは自家用車かバイクを使わない限り訪問は困難。
そう諦めかけていた矢先、先週立ち寄った道の駅で梅まつり開催と
JR月ケ瀬口駅から臨時バスがほぼ1時間おきに運行される事が判明。
3年ぶりだそうで、祭りは2月12日から3月26日までと一ヶ月半ですが、
バスは3月4日から12日の9日間のみ。これは見逃せないと満を持しての巡礼。

駅北側にある道の駅で押印したスタンプ
文字だけの図柄は珍しい。

道の駅で入手した「月ヶ瀬 梅まつり」のチラシ
名古屋駅から天王寺駅を結ぶ関西本線ですが、加茂から亀山間は単線非電化。
大雨が降ると運休、月末には保線で運休、日中は1時間毎の運行とかなりの難物ですが、
バスとの連絡を思うと利便性は抜群でした。
8:45分の始発を目指しましたが、木津から加茂までの便がなく早めの7:57分着。
昭和26年開業のJR月ケ瀬口駅は非電化区間ながら駅員配置・スタンプ設置もありますが土日は休み。
歩くことも考えましたが、駅から9㎞の距離を考えて駅前で時間潰しとなりました。

休日は無人の駅舎

営業時間の張り出し

旧国鉄時代のDiscover Japan 印
このタイプとしては期間が長く、民営化後も暫く設置されていた。

JR月ケ瀬口駅スタンプ
2006年設置のJR西日本印と同様のタイプで、後に設置。今も現役で活躍中。

但し、コロナのためスタンプは休止中
時間が来て到着した臨時バスは名張営業所の三重交通。
駅は京都府、行先は奈良県なのに三重交通とはこれ如何に。
単に【みえ】を張ったのか、付近が【なーばり】なのかは分かりませんが…。

駅前のバス停にある臨時バスの貼り紙
JR駅間を走るコミュニティバスは毎日運行している。

マイクロバスと思いきや立派なバス

行先表示板
「宮の前」が中間点で県境の様子。
始発なので立ち席もなく15分で終点・尾山口に到着。終点は梅渓の北東隅。
ここから82号線に沿って進み、小中学校・郵便局・行政支所を見ながら南下すると
道沿いに名勝月ヶ瀬梅林の道標が。ここから梅園へ向かいます。
道沿いには梅を商う店舗が並んでいましたが、どれも趣のある建屋。
唯、昼食や土産購入には、ここまで戻らなければ思うとしんどいですが、
その心配は良い意味で裏切られる事になります。

月ヶ瀬のマンホール蓋
今は奈良市だが、かつては月ヶ瀬村だったので独自のデザイン。

月ヶ瀬郵便局 ; 名張川に架かる月ヶ瀬橋、梅花

82号線沿いに建つ道標

旅館の様な外観の福田商店
梅関係の商品が並ぶが、本業は漬物店。

道標脇の小谷商店

小谷商店入口
看板には「名産 月瀬漬」とある。
店裏には枝垂れ梅があり観光客が撮影中。
先週、バスの運転手さんに訊いた話では
「今は三分咲きなので、来週あたりがベストでしょう。」 とありましたが、
来て見ると見事な満開。【月ガセ】ネタではなかったようです。

小谷商店裏の枝垂れ梅

枝垂れ梅近影

坂を上った先にも「月瀬漬」 の店舗が
店名は同じ小谷商店。
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鶴橋 → (近鉄急行) → 生駒 → 徒歩10分 → 生駒台〒 → 徒歩10分 → 稲蔵神社

稲蔵神社
玉垣に囲まれた御神体の烏帽子岩。左が拝殿、奥が本殿。
稲蔵神社は、
『矢田丘陵の麓、いかるが三十六峰の一つとされる稲蔵の森に鎮座。
地元に伝わる話では古代より存在した社と言う。
境内にある烏帽子石が神の鎮座する磐座とされる。
天照大神の御孫、饒速日尊(にぎはやひのみこと)が大神より賜った十種の神宝を奉じて
天の磐船に乗り、河内の哮ヵ峰(たけるみね)に天降になった際、共に天降った生魂(いくむすび)、
大宮能御膳神(おおみやのみめけつのかみ)の二柱がこの烏帽子石に宿ったとされる。

種々の巨石に囲まれた稲蔵神社拝殿

拝殿前の通称‘お化け灯篭’
稲蔵神社から日露戦争に出征した13名の内、生還した12名が感謝を込めて建造したもの。

灯篭上部の近影
生魂は生命の神、大宮能御膳神は五穀豊穣の神で、この二柱はその霊験が極めてあらたかで、
古来より稲蔵大神、稲蔵(大)明神と称せられて多くの人々に信仰されてきた。
稲蔵明神は小明(こうみょう)村の鎮守として、稲蔵寺の鎮守として奥之院とも呼ばれている。
老樹が生い茂る長さ30m、横24mの稲蔵の森の境内には、高さ6m、周囲12mの烏帽子石をはじめ、
行場の滝、本殿、拝殿、社務所の他、行者、白川大明神、七森姫、伏見稲荷等の神々が
溝社を中心に奉祀されて、多くの社がある。』 とあります。

南側から見た拝殿と烏帽子岩

烏帽子岩近影
本殿の横には玉垣に囲まれた烏帽子岩、手前には巨石を組み合わせた石灯籠(通称お化け灯籠)、
奥には165基の石でできたお塚と、さながら巨石の展示場の様相。
灯籠とお塚は人工のものですが、烏帽子岩は自然石。古代人の磐座信仰の証でしょう。
社名は稲蔵ですが、元は磐座(いわくら)だったものが、後世稲荷信仰が入り込む事で
稲蔵(いなくら)に変化したと思いますが、どのような【いわく】があったのでしょうか?

烏帽子岩横に建つ本殿

柵越しに見た本殿
信仰の対象となった巨石群に加え、小明町は竜田川と天の川の分水点でもあります。
また、ここからは生駒山に沈む夕日を見ることが出来、
時には鳥居の上空に太陽を包む虹(ハロ)が出現することもあるとか。
続日本紀には721年に平城京の皇居上空にも出現した記録が残ります。
そんな場所に古代人が霊験あらたかなパワースポットを感じても不思議ではありません。

登山道から見た本殿と拝殿

本殿背後の白河大明神のお塚群

大阪倉満講社の寄進に拠る

お塚全景
やはり伏見稲荷関係が多い。
もう一つの特徴は饒速日(ニギハヤヒ)尊で、皇室の祖先神である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)とは別の天孫降臨神。
ニギハヤヒと言えば、天の磐船に乗って降臨したのが大阪府交野市の磐船神社と言うのが知られていますが、
生駒の北部にも降臨したとの神話があります。
磐船神社から生駒を越えて東にあるのが稲蔵神社で、どちらも巨石が特徴。
その関わりから共通の神を頂くようになったのでは、と想像が膨らみます。
ニギハヤヒの子孫とされるのが古代豪族の物部氏ですが、
河内を本拠地とした物部氏の勢力は生駒まで伸びていたのかもしれません。

お塚と碑

伏見稲荷を祀る祠

山の高台から境内全体を望む
広くはないが、命の杜に育まれた社と言った雰囲気である。

本殿脇の連理の杉
参拝の後は、御朱印を拝受すべく神司(かんづかさ)さんの御自宅へ。
運よく庭木の手入れをされていたので、参道の向かいの社務所兼休憩所で拝受してお話を伺いました。
森田神司が言われるのには、
神司;「御朱印の印は、風景印を元にしています。」
和辻;「局長さんは、こちらにことわってデザインを採用されたと仰っていました。」
神司;「「昔はニギハヤヒの子孫であることを隠していたが、今は誇りに思えるようになりました。」
との事。
宮司さんの家系かと思いきや、㈱そごうに定年まで勤められたサラリーマン。
唯、生家が農家組合から委託され、稲蔵神社境内に社務所兼茶店を営んでおられた由。
50歳を前にして、伏見稲荷大社の神職資格を取得。
定年後は小明(こうみょう)地区で神事に奉祀されています。
郷土を愛する姿勢と、御自身も見事な第二の人生を歩んでおられる姿に頭が下がる思いでした。

稲蔵大明神記

稲蔵神社御朱印
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鶴橋 → (近鉄急行) → 生駒 → 徒歩10分 → 生駒台〒 → 徒歩10分 → 稲蔵神社

生駒台郵便局 ; 稲蔵神社と本殿横にある花崗岩製の巨岩「烏帽子石」
GWの谷間の5月2日。休日の所も多いようですが、午前中は野暮用出勤。
そのまま帰宅するのも無芸なので、この4月に設置された風景印を求めて生駒まで行こうま!
京都・奈良と言われる割には、風景印では奈良は京都に大きく水を開けられた形。
最近になって、じわじわと増えていますが、中には観光地からほど遠い山中の局だったりします。
今回の訪問先は生駒駅から北へ阪奈道を越えた場所。
距離的には1㎞弱ですが、アップダウンが多く実際の距離よりも長く感じました。
住宅地として人気の生駒ですが、足腰も強くなりそうです。

郵便局で貰った神社の説明書
生駒台郵便局で押印したのは稲蔵神社のデザイン。
局長;「風景印を作成する際に、神社に御願いしてデザイン使用の許可を貰いました。」
和辻;「結構シビアですね。ところでガイドにもなく、私も不勉強で聞いたことがないですが。」
と局長さんにその旨を話すと、
局長;「それならば、いい本がありますよ。」
と稲蔵神社の本(冊子)を紹介されたので、早速¥500で購入。中々商売上手です。
局長;「あそこは神主ではなく神司(かんづかさ)と呼びますが、もし居られたら色々と話が伺えると思いますよ。」
との事。風景印から出た話で、訪問することに。

郵便局で購入した冊子 ¥500

168号線に面して建つ一の鳥居

一の鳥居から東へ伸びる参道
局から東へ今度は坂を下って、168号線にぶつかった場所に大きな一の鳥居が。
ここが神社の入口で、付近の地名は小明町と書いて「こうみょうちょう」と読むそうな。
奈良でこうみょうとはこらまた巧妙と駄洒落を呟いて更に東へ進むと朱色の二の鳥居が。
ここから西を望むと正面には生駒山。夕方には生駒山に夕陽が沈む光景が見えます。

朱色の二の鳥居
左奥が神司さん宅。

二の鳥居と三の鳥居に掲げられた扁額

二の鳥居から西に向いて生駒山を望む
ここから先は周囲に人家もなく、両側には樹木が茂り、
神の杜に入る粛然とした気持ちで、細い階段を上って拝殿へ。
途中に朱の鳥居が並ぶ様は、さながら伏見稲荷といった感じですが、
それもその筈、伏見稲荷を模した稲荷信仰の証で、かつてはもっと多かったそうです。
拝殿で参拝しましたが、御神体は更にその奥に聳えることになります。

いよいよここから神社の杜へ

石の鳥居を潜ると次は右へ

石段を上り拝殿へ

神社の説明板

鳥居の正面に建つ拝殿
左は社務所らしいが、今は機能していない様子。

役行者を祀る神変大菩薩社
巨石の上に築かれており、足元にはかつて葛城修験の行場だった滝がある。

拝殿正面

拝殿の垂れ幕
稲の紋様は稲荷との関り?

柱の彫刻が神紋か?
[参考書]
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【復路】JR五条(15:30) → JR王寺(16:22→16:30) → (大和路快速) → JR大阪(17:09)

五條新町通り 400年の商家町
当初の予定の4ヵ寺参拝を終え、食事も済ませたので後は帰路に着くだけですが、
電車にはまだ時間がありそう。そこで朝方通った五條の町並みを覗く事に。
駅から国道168号線を吉野川に向かうと、新町通りの看板が。
『重要伝統的建造物群保存地区に選定されている五條新町地区は、
中世に成立した町場を起源とする五條と、江戸時代初めに整備された
二見城の城下町に由来する二つの地区から成る。

県指定文化財・中家住宅
168号線沿いの新町通り入口に建つ。宝永元年(1704年)の建築で、中家は五條村の庄屋や代官所の公金出納を代行した。

新町通り入口
五條新町地区は江戸時代を通じ、吉野川の水運と紀州(伊勢)街道沿いの商家町として栄えた。
この地区には江戸時代初期から昭和初期までの約4世紀に亘る町屋が軒を連ね、
時代の変遷を体感することができる。
記録が残る我が国最古の住宅である栗山家を初め、創業300年の造り酒屋、江戸後期の旅籠など、
防火の延焼から逃れるために、二階の軒裏まで塗り込めた重厚な造りである。

通り入口に建つ栗山家住宅
元禄9年(1696年)の棟札を持つ大型町屋。二階建てだが、外観を平屋に見せる構造となっている。

栗山家より通りを奥に進む

宝永7年(1710年)創業と伝える造り酒屋・山本本家
主屋・土蔵・離れ座敷・酒造施設が配置されている。

山本本家玄関
看板商品は金剛山の伏流水の井戸水を使った清酒「松の友」。徳利型の看板も趣がある。

鉄屋橋の向こうに見える山本本家醸造蔵
この新町通りを築いたのが松倉重政。慶長13年(1608年)、松倉豊後守重政は
関ヶ原合戦の功績に拠り、一万石余りの大名として二見城に入部。
二見村と既に町屋として栄えていた五條村を結ぶため、吉野川と並行する道路に沿った
町割を施行して新町を造り、諸役を免除して多くの商人を全国から集めた。
重政は8年後に肥前日野江城へ国替えとなったが、五條が南大和地域の中心として発展する
礎を築いた君主として、地域の人々は国替え後も「豊後様」として重政を崇めて
祭を行っていたと記録が残る。』 とあります。

重厚な海鼠壁

繊細な格子

新町通りから北へ入る細道

二階に袖卯建(そでうだつ)が見られる町屋

五條 源兵衛
18世紀築の大型町屋を和食レストランに改修。朝摘み野菜や地元の食材を使った料理が人気。
天領として知られた五條ですが、その町の基礎を築いたのが殿様だったとは初耳。
しかも松倉重政といえば、島原城主として重税・切支丹弾圧で知られる人物。
島原の乱は彼の死後7年目、息子の勝家の時代ですが、乱に至る道筋は
重政が付けたと言われても仕方がありません。
人物の毀誉褒貶は必ずついて回る事ですが、これが同一人物かと言う位180度評価が
変わる事も稀ではなし。明治の政治家三島通庸にも同様の記載があったと記憶しています。
果たしてどちらが正しいのか、おそらくどちらも真実でしょうが、
権力が人を変える典型にも思えます。その真実に近付くのが歴史に学ぶ人間の心掛けでしょうが…。

まちなみ伝承館
明治・大正期に建てられた医院の居宅を改修して使用。五條の歴史を紹介している。

伝承館横を流れる東浄川に架かる新町橋上にて

新町橋から通りを西に見る

まちなみ伝承館から通りを東に見る

案内図
[参考書]
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歩きたい歴史の町並 重要伝統的建造物群保存地区 全86カ所 (楽学ブックス―文学歴史 13) 新品価格 | ![]() |

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吉野川(音無川)と栄山寺橋
巡礼にかまけて昼食を抜かしていたので、栄山寺拝観を終えると14時前。
お寺の前に茶房栄山寺とあったので受付の方に食事ができるか訊いた所、
15年前に閉めたとの返事。あーあ、十年ひと昔とは!
受付嬢;「少し下った場所に「よしの川」さんがありますよ。」
和辻;「でも工事中みたいでしたが…。」
受付嬢;「あれは駐車場なので店は大丈夫です。」
和辻;「メニューは色々ありますか?」
受付嬢;「一通りの食事はできるみたいです。」
と言う事で、吉野川岸に建つ「よしの川」へ。

レストラン「よしの川」

レストラン内からの眺望
お店の名前はそのままですが、この付近の呼び名は「音無川」。
なんでも弘法大師が修業中に、水音が煩く、修行に集中できなかったので、
川に石を投げ込んで「願わくば、音を消し給へ」と呪法を唱えた所、水音がピタリと止んだとか。
石で意志を通した訳ですが、石の落ちる音の方が煩くはなかったのでしょうか?
吉野川と言えば鮎ですが、この日はマグロとろろ定食。お店の方の話では、
店員;「津風呂湖の鵜が鮎を放流しても皆食べてしまうので、漁協も放流を止めました。」
和辻;「それなら鮎は殆ど居ませんね。」
店員;「川を遡上する天然鮎はいますね。」
参考までに、鮎定食は¥2800でした。

昼食は「マグロとろろ定食」 ¥1100

入口にある「音無川」の由緒

レストランの庭にて
お店の方の好意で入れて頂いた。
「俎上に載るのが遡上した鮎だけだと、益々庶民の口からは遠ざかってしまいそう」
などと思いならが自転車で駅に向かうと、堤防には鯉幟の群れが。
端午の節句に向けてでしょうが、鮎に代わって鯉の泳ぐ吉野川を見ることになりました。

大川橋付近にて
川の看板は名産の柿。

吉野川右岸(北側)に棚引く鯉幟

鯉幟の向こうを流れる吉野川

野原郵便局 ; 富有柿、吉野川(音無川)と八角円堂遠望

JR五条駅スタンプ
(上) 国鉄時代の「わたしの旅印」 (下) 2008年JR西日本印 だが、どちらも同じ内容。
[参考書]
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学晶山 栄山寺(高野山真言宗)
文化財の宝庫とされる栄山寺ですが、最も有名なのは八角円堂。
国内に30程しかない奈良時代の木造建造物の一つです。
前回に訪れた時は外から見るだけでしたが、今回(4月25日~5月29日)は内陣特別拝観を実施中。
これを逃すと、次は何時になるか分からんので、別途¥400で見る事に。

国宝・八角円堂

円堂説明板
『八角円堂は、藤原武智麻呂没後、子の仲麻呂が父の菩提を弔うために建立。
大日如来坐像を本尊とする。
当初、武智麻呂の墓は佐保山にあったが、天平宝字4年(760年)に当山の北側に改葬。
建立時期はこの年から仲麻呂の討たれた天平宝字8年(764年)の間とされる。
外観は本瓦葺きの平面八角形であるが、内部の身舎(もや)は四角形。
内陣周囲に立つ4本の八角柱が構造上の要となる。
四方板扉、蓮子窓で屋根上の宝珠は復元品である。

正面より見た八角円堂

円堂の軒部分

軒下部分

円堂の窓部分
湿度を調整する構造か?

円堂の扉部分
ここから内陣を拝観する。
内部の4本の柱と上部の飛貫(ひぬき)、天井には彩色絵画が描かれ、剥落が著しいものの、
奈良時代絵画の遺品として建物とは別に絵画の重要文化財となっている。』 とあります。
奈良時代建造の八角円堂は以前より知っていましたが、内陣の柱に天平の菩薩が描かれ、
しかも重文になっていると【はしら】なかった。
唯、パンフにあるような鮮明な絵は私には分かりませんでした。
見る眼のある人には分かるのでしょうが、どのような経緯で【はっかく】したのかが気になります。
尤も1300年の歳月を経て今に残っているだけでも凄い事ではありますが…。

八角円堂の音声菩薩 (パンフより)

八角円堂御朱印
(左)壁画の音声菩薩 (右)八角円堂の切り絵

受付に置かれたスタンプ
このタイプが市内の観光名所数ヵ所に設置されている。

五條郵便局 ; 国宝・栄山寺八角円堂、吉野川(音無川)、吉野桜、桜鮎
[参考書]
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学晶山 栄山寺(真言宗豊山派)
大澤寺参拝の後は、山を一気に下ってJR五条まで。そこから吉野川を遡って川の畔の寺院を目指します。
五条では金剛寺と並ぶ有名な観光寺院で、しかも吉野川沿いの絶景ポイントとあって、
途中は食事処等が点在。この日に訪問した他の寺院とは随分違った道のりとなりました。
吉野川に架かるその名も栄山寺橋を過ぎると目的地。
奈良時代築の国宝を初め文化財の宝庫ですが、外観からは古刹という雰囲気はなく、
川沿いの平地に堂宇が点在している様子。川沿いに門があり、ここが山門の様ですが、閉鎖中。
改めて戻って入口を探しているといつの間にか境内に。
慌てて左側の受付で入山手続きをする羽目に。そんな長閑な寺院です。

吉野川の絶景とそこに架かる栄山寺橋

川沿いに建つ山門
正面奥には本堂が建つが閉鎖中。入口は北側との矢印が…。

こちらが現在の山門に相当
学晶山栄山寺(がくしょうざんえいざんじ)は、
『養老3年(719年)、藤原不比等の長男である武智麻呂が創建したと言われ、
当初は前山寺(さきやまでら)と呼ばれた。
その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代まで繁栄。
南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれた。
当寺は役小角の修行地とされ、修験道にも関係が深かったが、
戦国時代には八角堂を除く堂宇を焼失。後に本堂、阿弥陀堂、塔ノ堂が再建された。

山門を過ぎて直ぐ左手にある鐘楼

鐘楼に吊るされた国宝・梵鐘
山内では八角堂と並ぶ国宝である。

梵鐘の説明駒札

参道右手に建つ重文・七重石塔婆
重文とは思えぬ程、自然に建っている。

石塔婆解説

石塔婆に続く塔之堂(大日堂)

塔之堂からの眺望
栄山寺橋が遠望できる。

境内に建つ句碑
説明がないので作者・内容は不詳。
元来は興福寺の末寺であったが、江戸初期に一時無住となり、
その後、泉涌寺別院の末寺、東京護国寺の末寺を経て現在は大和長谷寺の末寺である。
奈良時代より現在まで法灯を伝える南大和の名刹であり、八角円堂・梵鐘の両国宝を初め、
本尊・十二神将、石灯籠・石塔婆を始めとする重要文化財を有する文化財の宝庫である。』 とあります。

由緒記

重用文化財・本堂(薬師堂)
御本尊は室町期作とされる木造薬師如来坐像である。

本堂前に建つ重文・石燈篭

石燈篭説明

本堂に掲げられた「學晶山」の扁額

本堂前面
撮影禁止だが、内陣へ入って参拝可能。仏像に加え、資料やパネル展示もある。

本堂前よりかつての山門を見る
大和の西端にあるとはいえ、藤原南家の菩提寺であったとは初耳。
南家は不比等長男の系列で仲麻呂の時に頂点を極めますが、孝謙上皇と道鏡に反旗を翻し敗死。
以後、衰退の一途を辿ったと思っていましたが、意外にも後世まで影響力を持った様子。
己の【無知麻呂】を反省です。
また南朝の行在所としては市内の賀名生が有名ですが、
ここにも置かれていたのは同じ南繋がりだったのかと勝手な妄想が膨らみます。

栄山寺説明書

栄山寺御朱印 (平成6年正月拝受分)

今回拝受の御朱印
同じ御本尊の筈だが、平成6年とは差異が見られる。
[参考書]
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神福山 青龍院 大澤寺(高野山真言宗)
水が湧く場所には樹木が生えるのは何ら不思議ではありませんが、
境内は周囲の山々とはまた違った植生が見られます。
『池の周りには杉、樅、木斛、百日紅、カゴノキ等の古木がある。
放生池の畔にあるのは「智恵の柳」。
弘法大師の杖より芽が生じたと言われる結界を示す二株の柳で、
嵐で倒れても根元から新芽が出て育ち、現在では千年余りに。
古文書にも「この寺の法灯の輝く限り柳は朽ち果てる事はなかろう。」 と書かれている。

太鼓橋周辺の植生

本堂の周辺

智恵の柳
太鼓橋の手前左にある百日紅は、江戸時代の境内図に成木として描かれており、
樹齢500年以上を誇る。今も8月半ばには美しい花を咲かせる。
前山にある山桜、イロハカエデは老木が多く、江戸時代描かれた『五條十八景』に
「勢堂紅葉」として紹介されている。』 とあります。
御朱印を拝受した際の御住職の話では、
住職;「太鼓橋横の楓と池の端に植えられている楓が最も綺麗に紅葉しますね。」
との事でした。

太鼓橋袂の躑躅

太鼓橋脇の百日紅の古木

樹齢を感じさせる百日紅の幹

太鼓橋周辺の樹木

太鼓橋横の楓
住職の話では、これが紅葉すると見応えがあるとか。

青竜ノ池の東端からの眺望

池の東側

庫裏の正面付近

十三重石塔と紅葉
琵琶ノ池の奥、護摩壇の周囲には巨木が聳えますが、立て札には有志の寄進とあります。
樹木を育成するのは当寺の伝統なのでしょう。
それよりも生命力が強く、‘柳に雪折れなし’とは言うものの何度枯れても復活する柳に驚き。
人の眼に効果がある水は植物の芽にも効果があるようです。

手入れが行き届いた庫裏に続く書院の前栽

本堂と庫裏の間の中庭

キク科の花?

池の北側の護摩壇

護摩壇の周囲は寄進された樹木が生長して巨木となっている

購入した「せのどうの昔話」 ¥500
[参考書]
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神福山 青龍院 大澤寺(高野山真言宗)
瀬之堂の薬師さんと呼ばれる当寺の名前については次の様な言い伝えがあります。
『当寺は尾根の上にあり、流れ込む川は一つもないにも拘らず、境内にある池には枯れることなく水を湛えている。
今も30㎝も掘れば水が湧くと言う。
14世紀後半の縁起にもそのような趣旨が記されており、これが大澤寺の由来と考えられている。
池には病気祈願のため鯉や亀が放生されてきたので「放生ノ池」、
また水底には水を司る大きな龍が棲むという伝説から「青龍ノ池」とも呼ばれる。

太鼓橋からの放生池(青竜ノ池) 西側

池の説明

太鼓橋から東を望む

由緒記

唯一残った本堂
御本尊は楠の一木造の薬師如来で秘仏。

本堂向拝の下

本堂の扁額「瑠璃光仏」
薬師如来は瑠璃光如来の別名を持つ。

向拝欄間の龍の彫刻
「青龍院」だがら彫られた訳ではないと思うが…。
また池の向かいには断層線からこんこんと浄水が湧出し、
これは「御香水」として眼病治癒に効果があると伝えられる。
ここは古来、「琵琶ノ池」「眼洗い池」と呼ばれ、左が男性、右が女性用となっている。』 とあります。

青竜ノ池の北側にある「琵琶ノ池」
古来、眼病に効果があると言い、今も御香水が販売されている。

琵琶ノ池の説明

太鼓橋の北側にある「一刀三禮ノ石」
役行者はこの石の上に木を置き、御本尊薬師如来を刻んだと伝わる。

享保年間の手水鉢

東側にある庫裏
御朱印はここで拝受。
眼の薬師さんと呼ばれる寺院は各地にありますが、どの寺院も例外なく境内から清冽な水が湧出しています。
衛生状態が今よりも悪く、医薬が乏しかった時代には、綺麗な水は何よりも重宝された筈。
湧き水は川の水と違い、降った雨が長い年月をかけて地中でろ過される訳ですから、
自然に得られる水では群を抜いて清潔。昔の人も経験的に知っていたに違いありません。
青龍池ならぬ清流池といった所でしょうか?

大澤寺説明書

御住職から頂いた大澤寺略縁起

大澤寺御朱印
法要のため、境内を30分散策した後に拝受。
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【往路】JR天王寺(7:45) → JR王寺(8:03→8:06) → JR五条(9:01)
駅前観光案内所 → レンタサイクル5分 → 金剛寺 → レンタサイクル25分 → 念仏寺 → レンタサイクル45分 → 大澤寺 → レンタサイクル25分 → 栄山寺 → レンタサイクル8分 → 新町通り
【復路】JR五条(15:30) → JR王寺(16:22→16:30) → (大和路快速) → JR大阪(17:09)

神福山 青龍院 大澤寺(高野山真言宗)
陀々堂念仏寺に参拝した後は、再び吉野川を遡りJR五条方面へ戻る事に。
次の目的地は、駅の北方5㎞程度と陀々堂よりも近場ですが、
陀々堂が川沿いで殆ど起伏が無いのに対し、こちらはひたすら山道を上る羽目に。
大澤寺という位ですから山中に沢がある場所なのでしょう。途中までは住宅地を通りますが、
そこを抜けると周囲は家も殆どない山道になって、車のすれ違いも困難。
そんな道の行く手に塀が見えたら目的の寺院。

途中まではこのような道を進む

やがて寺院が近づくとこのような道に

道沿いに白壁塀が見えると大澤寺

塀際に咲く菖蒲
神福山青龍院大澤寺(かんぷくざんせいりゅうじだいたくじ)は、
『今から1300年前の白鳳年間、修験道の開祖役小角が
この地を扶桑第一の行場として一宇の草堂を結び、一刀三禮の薬師如来を勧請し
朝夕祈願の浄域と定めたのが瀬之堂(せのどう・せんのんどう)の開基とされる。
弘仁年間、この地を巡錫した弘法大師が伽藍及び真言行者の僧坊の建立など、
真言密教の一大霊場の容相を整え、金剛七坊の一つとして栄えたとされる。
鎌倉末期には仁和寺の別格本山となり、広大な寺域には十二の塔頭を初め
諸国に末寺を擁していたとされるが、今に残るのは本堂と庫裏のみである。

塀の脇には庫裏に続く入口が
但し、ここは正門ではない。

本堂を囲む塀

こちらが正門
但し、ここからは入れない。

正門に続く太鼓橋
かつての木造も昭和8年にコンクリート製に。奥が本堂。

一番奥の駐車場横にある手洗い水
元享年間には後醍醐天皇が南朝興隆のためここを勅願所と定め、
紀州名手の庄に田地25町歩を下賜された。
続く南朝二代目の後村上天皇は瀬之堂を行宮とされ朝廷復権の御心を研がれたと伝わる。
大塔宮護良親王をはじめ楠公一族等、南朝所縁の寺院として栄え、
京都聖護院法親王より「柳の宿」の庵号を賜った。
江戸時代には紀州徳川家の祈願所となり、毎年正月高野山大先達により
息災増益の柴燈護摩法要が厳修されるなど繁栄を見せた。
この頃の事は『五條十八景』に「勢堂紅葉」として紹介されている。
しかしその後は徐々に荒廃し、明治になると無住となり一時は廃寺ともなっていた。
現在、本堂には藤原時代の楠一木造りの薬師如来が秘仏として安置され、
「眼の薬師」として霊験あらたかであり、眼病はじめ子供のひきつけ耳疾等の
平癒の祈祷所として朝野の尊信篤い。』 とあります。

大澤寺由来

西側の駐車場横の入口からの眺望

本堂の南に広がる青竜ノ池(放生池)

池の説明

薬師様のお使いの鯉
人の気配から餌が貰えると思って寄って来たところ。

北側からの池の眺望
山腹ながら良質な水に恵まれたことが寺の発展を支えたようです。
南朝の行在所とされたのも護り易い事に加え、水の影響が大きかったと言えます。
そんな寺院が何故廃れたかという方が気になりますが、
それだけ明治の廃仏毀釈が徹底していたと言う事でしょうか?

太鼓橋から西側を見る

太鼓橋から東側を見る
橋の袂にあるのは百日紅の古木。

知恵の柳 (大師のお杖)
弘法大師の御手植えと伝わり、嵐で倒壊しても根元から新芽が出て育ち千年余りに。
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阪合部山 念仏寺(高野山真言宗)
金剛寺参拝の後は、吉野川に沿って奈良と和歌山の県境まで。
JR和歌山線の駅では一駅先の大和二見が最寄りですが、駅から40分程歩くので自転車が便利。
道は起伏がありますが一本道なので迷う事は無い筈ですが、和歌山県に入ってしまい慌てて引き返して
吉野川を渡る橋へ。そこを渡る手前の木々の生い茂った場所の向こうに寺院はありました。
観光案内所で聞いた鄙びた茅葺の御堂が見えたので、ホッとしましたがそれも束の間。
入口に立つと目ぼしい建造物はこれだけで、すぐに無住寺院と分かりました。

吉野川に沿って走ると、脇の階段を上る事に

東の集落から見ると正面に茅葺の本堂が見える

入口にて境内を見渡す

入口に建つ寺標
念仏寺が正式名だが、地元では陀々堂で通っている。
阪合部山念仏寺(さかいべさんねんぶつじ)は、
『創建の時期は定かではないが、平安末期か鎌倉初期には真言宗寺院として存在していたとされる。
時代は下るが安永3年(1774年)9月の「大津村鑑明細帳」に
「右念仏寺と申者坂合部十二ヵ村之氏寺にて御座候」 とある。
阪合部山という山号から当寺は土地の豪族坂合部氏の氏寺として創建されたという説が有力である。
現在は真言宗に属する無住寺院で、境内には阿弥陀如来を祀る茅葺屋根の本堂(阿弥陀堂)が残るのみである。
この堂宇は陀々堂(だだどう)と呼ばれ、地元では念仏寺という名よりも陀々堂で知られる。

灯りの向こうに建つ本堂

由緒記

茅葺屋根が美しい本堂

正面より見た本堂

本堂前面

擦れて見え辛いが本堂の「陀々堂」の扁額
この名は、松明をかざしてその火の粉で身を浄め禍を焼き払う達陀(だったん)の秘法を行う故事に由来する。
この行法は室町中期に領主坂合部是房の弟頼澄別当が東大寺二月堂の修二会に倣い始めたもので、
毎年1月14日の修二会結願に鬼走り行法を創始し厄除福授を願ったものである。
鬼面4面が今に伝わるが、その一つに文明18年(1486年)の墨書があることから、
その頃には鬼面を使った行事が行われていた事は確実である。
この行事は以後500年以上に亘り絶えることなく伝えられてきた行事で、
国の重要無形民俗文化財に指定されている。』 とあります。

本堂側面

本堂裏面
寄進者の名札が並んでいる。

本堂の茅葺屋根

本堂屋根の頂上部分

本堂後方の収蔵庫

「鬼はしり」の説明板

鬼走りの父鬼
陀々堂とは怪体な響きですが、達陀の秘法由来の言葉【だったん】か!と納得。
鬼が登場する行事は由緒が古いものが多いですが、それだけ昔の人は
異形の鬼に対して畏敬の念を持ったのでしょう。一概に怖がっただけではないようです。
今は無住寺院ですが、地元の方は大切に守っているようで、
途中道を尋ねた「いちご農園」の経営者も「毎日、お参りしています。」との事でした。
地元の人が見守る限り、廃寺になることはなさそうですが…。

境内の護摩壇と宝篋印塔

宝篋印塔近影

境内から見た集落
これらの方々の努力で寺が守られている。

吉野川に架かる橋の名は「さかいべばし」
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小松山 福寿院 金剛寺(高野山真言宗 関西花の寺二十五霊場第二十三番札所 西国薬師四十九霊場第九番札所)
牡丹園から庫裏の茅葺屋根を望む。
関西花の寺として知られる金剛寺には境内には藤や躑躅なども見られますが、
この時期の見所は何といっても牡丹。
『牡丹は東洋を代表する銘花の一つ。
百花の王として古くから絵画や詩の題材とされ、その花姿から富貴草とも呼ばれる。
中国の甘粛省、陝西省が原産地とされ、日本へは仏教伝来と共に輸入。
施薬として寺院で栽培されていたものが、元禄時代の頃から観賞用として今日の様な牡丹が作られるようになった。

山門下にある「関西 花の寺」と牡丹の図柄

山門を過ぎて直ぐの藤棚

山門脇、白壁前にある躑躅

枯山水庭園(元禄四年の庭園)

境内で一際目立つ榧の巨木

庫裏前の紫蘭
当山の牡丹は、文政5年(1822年)に当寺の住職で唐招提寺長老の本常大和尚が
薬用として植えたのが始まり。以後、牡丹寺として知られるようになった。
北に霊峰金剛山、眼下には吉野川を借景とする牡丹寺は正に浄土を表している。
二千㎡の牡丹園には百種類、二千株の牡丹を中心に椿、木蓮、都忘れ、花水木、
石楠花、金雀枝、大山蓮華等が咲き続ける。
牡丹の花も白、紅、薄紅等、花弁の色模様や花の形も多彩である。
牡丹の栽培には手間暇がかかるが、歴代住職の熱意と吉野川の川霧もその生育に一役買っている。
毎年4月下旬から5月上旬に掛けて牡丹祭が開催される。』 とあります。

観音堂の横を抜け牡丹園へ

手前にある石楠花

石楠花

鉄扇

大山蓮華

柏葉紫陽花?

金雀枝

大デマリ

これはキク科の何でしょう?
芍薬は文字通り根が薬用になりますが、類似の牡丹も同様。根は一つのようです。
僧侶が薬草を栽培するのは奇異に思えるかもしれませんが、
当時の僧侶は学問に加えて最新の技術も習得していたようで、
鑑真和上も唐では医療に従事し来朝時に砂糖や薬を持参したそうです。
時代は下りますが黄檗宗の開祖・隠元禅師も普茶料理と豆を齎しています。
戒律は一般人には余り関係ありませんが、薬や食物となると話は別。
僧侶がいなければ食生活も随分違ったものになっていたでしょう。

牡丹園の様子
少し時期が遅かったような…。

白牡丹

黄牡丹

薄紅牡丹

赤牡丹

紅?牡丹

菖蒲と茅葺屋根

今回拝受の御朱印 (関西花の寺)
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小松山 福寿院 金剛寺(高野山真言宗 関西花の寺二十五霊場第二十三番札所 西国薬師四十九霊場第九番札所)
本堂参拝の後は、観音堂と庫裏ですが、いずれも唐招提寺と縁が。
山門前の寺標にもそのような記載があります。
『江戸時代の金剛寺は唐招提寺の長老の隠居寺として知られ、
歴代就職は当寺から唐招提寺に出かけた。
奥に建つ観音堂は明治30年(1897年)、当時の唐招提寺長老、大森覚明大僧正に拠って再建。
唐招提寺の金堂を模した造りとなっており、鴟尾には「唐招提寺金堂之模造」と印されている。
堂内に祀られている十一面観音、准胝観音は明治の神仏分離時に天満宮・御霊宮より移したものである。

境内奥に建つ観音堂

鴟尾には「唐招提寺金堂之模造」と刻印
また手前に建つ庫裏は元禄4年(1691年)の建立で茅葺屋根。
長老の隠居の間であると共に、弟子育成の場も兼ねていた。
内部には仏像、曼荼羅図、池大雅や伊藤若冲の書画が展示されている。』 とあります。

庫裏玄関

「江戸時代の金剛寺」
本堂、護摩堂、観音堂と順に参拝した後、庫裏に向かいましたが、
堂内とは打って変わって広々として光溢れる空間。
牡丹の絵画もありましたが、どれが大雅か若冲かは分からず仕舞いでした。
後方の中庭からは遠く葛城山・金剛山を望むことができます。
だから金剛寺と名付けた訳ではありませんが、一般的な隠居所というイメージからは程遠く、
修行生活を営む場所と言えるでしょう。
現に唐招提寺長老の当寺への貢献は多大なるものがあり、
唐招提寺の力がなければ当の昔に廃寺となっていたに違いありません。
仏法を広めるために命懸けで渡航した鑑真和上の精神が活きているのでしょう。

玄関付近から庫裏を見渡す
奥に見えるのは中庭。

庫裏全景

庫裏の展示物

牡丹の襖絵
落款はあるが作者は分からず仕舞い。

牡丹と庫裏を描いた図
これと同じ図柄の手拭いを販売していたような気図柄の

庫裏縁側より見た中庭

中庭の向こうに見える金剛山
唯、不思議なのは宗派が違う事。御朱印拝受の際に住職に伺った所、
住職;「今は律宗、真言宗とはっきり分かれていますが、昔は区分があやふやな所もあったので。」
和辻;「森本孝順(きょうじゅん)師はここへ入られましたか?」
住職;「81世の森本師は入られませんが、彼の師匠の79世が最後に隠居された方ですね。」
との事でした。
以前は神仏【こんごう】だったので驚くことはないですが、
分離後も宗派で【がんじん】搦めにすることはなかったようです。

庫裏から見た枯山水の庭

金剛寺説明書

金剛寺御朱印 (西国薬師霊場印)
平成5年1月2日拝受だが、この日は正月三が日のため入山料は無料であった。
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小松山 福寿院 金剛寺(高野山真言宗 関西花の寺二十五霊場第二十三番札所 西国薬師四十九霊場第九番札所)
天気も今一つなGW前半ですが、残り牡丹を求めて近郊へ、の積りでしたが
明石の薬師院は×、長岡京の乙訓寺も×と軒並み中止。五條まで足を運ぶ事に。
と言っても京都の鴨川沿いではなく奈良と和歌山の県境。
鉄道もJRだけになり、本数も日中は1時間毎。
駅前の観光案内所で自転車が利用できるようなので、案内所の開く9時着の電車で五條入り。
駅から南西に向かい吉野川を渡って少し上流に行った場所。
自転車では10分足らずですが、徒歩でも25分位でしょうか?

観光案内所前から見たJR五条駅

吉野川に架かる大川橋を渡る

大川橋を渡った場所にある案内板
それよりもその下の「豚珍館」が気になる。
道路脇に白壁が見えたら金剛寺。塀の向こうには堂宇の屋根が見えますが、
この時期は古木のヒラドツツジとのコントラストが見事でした。
山門下の受付で¥350を払い入山。山門上には「山門に鐘楼あり牡丹寺」と詠まれた釣鐘が。
これは宝暦12年(1762年)、近畿一円の10万人の寄進で完成したもの。
【釣りがねえ!】の意味合いかと思いましたが、お釣りはきちんと頂きました。

金剛寺門前へ到着
周囲は住宅地で至って静か。

山門と山門上に吊るされた釣鐘

山門脇から境内を見る

白壁越しに境内を見る
小松山福寿院金剛寺(こまつざんふくじゅいんこんごうじ)は、
『承安3年(1173年)、小松殿・小松内大臣と呼ばれた平重盛に拠って創建された古刹。
山号は彼の呼び名に由来している。
本尊の薬師如来は白檀の一木造りで平安時代の作。
本尊を祀る本堂は元禄時代の再建で昭和の大修理を経たもの。
脇侍に日光・月光の両菩薩、前に十二神将を随えている。
江戸時代初期からは野原城主の畠山義春の菩提寺として復興。
奈良時代の末期、宇智の大野に配流された光仁天皇の皇后、井上(いがみ)内親王とその子の
他戸(おさべ)親王の怨霊を祀る宮寺として、更には京都御室仁和寺直末の中本寺として繁栄した。
現在は高野山派に属する真言宗寺院である。

由緒記

境内の伽藍配置
また江戸時代末から明治、大正時代にかけては唐招提寺の長老の隠居寺として知られ、
茅葺屋根の庫裏が風情を漂わせている。
ボタンは文政5年(1822年)に当寺の住職で唐招提寺長老の本常大和尚が薬用として植えたのが始まり。
以後、ボタン寺として知られるようになった。毎年4月下旬から5月上旬に掛けてボタン祭が開催される。
秋には菊の香りと花の色に境内が彩られる。菊は延寿の花、古代より不老長寿の効用と
信仰が薬師如来の請願と一致することから、11月1日から8日まで菊薬師と小菊まつりが開催される。
西国薬師霊場であると共に関西花の寺として四季を通して花の絶えることがない。』 とあります。

本尊薬師如来を祀る本堂とその手前にある納経所

本堂は元禄時代に再建され、昭和後期に大修理を経ている

本堂正面
本尊の脇侍に日光・月光両菩薩が控える。

本堂前より見た枯山水の庭

枯山水の庭は別名「元禄四年の庭」
正面に見えるのは榧の老木。

本堂前から観音堂、牡丹園入口を見る
平重盛は清盛の嫡男、温厚な性格で知られ、父親の行き過ぎた面を補佐して功があった人。
父親に先立ち早世しましたが、もし長生していたら平家があのようにあっけなく滅亡することはなかったとも言われます。
その後、江戸時代の復興に伴い、井上・他戸と言う悲劇の皇族を祀っています。
井上内親王は聖武天皇の皇女で、天智天皇の孫である白壁王に嫁ぎますが、
王と藤原氏の謀略で息子と共に悲運の死を遂げた人。
代わって皇太子になった山部親王が後の桓武天皇ですから、
結局、白壁王を天皇にするために利用されただけでした。
天武天皇の直系であった内親王の無念はいかばかりか。
亡くなった場所がこの付近だったので、【いがみ】を【おさべ】るために【こまつ】た人々が祀ったのでしょうが、
そんな怨念を鎮めるだけの効果が当寺にあったのか謎は尽きません。【こんごう】の調査に期待です。

本堂に続く(右から)護摩堂、位牌堂、観音堂

正面より見た観音堂
明治30年(1897年)、当時の唐招提寺長老、大森覚明大僧正に拠って再建。

観音堂屋根
唐招提寺の金堂を模した造りとなっており、鴟尾(しび)には「唐招提寺金堂之模造」と刻印。
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【往路】上本町(7:52) → (近鉄電車) → 大和西大寺(8:21→8:25) → 天理(8:46→8:51) → (万葉まほろば線) → JR長柄(8:55)
長柄駅 → 徒歩5分 → 大和神社 → JR長柄(9:50) → JR天理(9:54→10:00) → (近鉄電車) → 近鉄郡山(10:11) → 徒歩5分 → 紺屋 → 近鉄郡山(11:10)

箱本館 「紺屋」
大和神社参拝の後は往路を逆に西大寺へ向かいますが、途中近鉄郡山駅で途中下車。
JRと近鉄に挟まれた場所は城下町に由来する地名と古い町並みが残りますが、北の本町地区の郵便局に
最近新たに風景印が設置。平日を活かしての押印ですが、駅に戻る途中に趣のある町屋に遭遇。
そこで予備知識なしで拝観することに。

大和郡山本町郵便局 ; 藍染め町屋を再生した箱本館「紺屋」、金魚、市の副花ヤマザクラ
『紺屋町は藍染めを職業とする人が集まった職人町で豊臣秀長の時代(1585~1591年)に成立したとされる。
天正16年(1588年)の「郡山惣町分日記」に箱本十三町の一つとして見え、東西に細長く町の中心には
幅1mの紺屋川が流れている。

前を東西に流れる紺屋川
幅1mだが、用水路ではなく川の範疇に入る。

北側に開いた店舗

舘の説明

大和郡山らしく店先には金魚鉢
箱本とは郡山町中の自治組織、地租免除の特権を与えられた十三町で始まった。
主な任務は治安維持・消火・伝馬等で、町が交代で自治に当たる事で様々な問題に応じた
対応ができる自由な住民自治の先駆とされる。
当館「紺屋」は奥野氏、江戸の享保13年(1728年)に遡り屋号は柳宗(やなそう)。
藩主柳澤氏に拠って苗字帯刀を許されていた。平成7年に物故された7代目まで藍染めを生業とし、
阿波から藍玉を、八尾から河内木綿を購入、独自の手法で藍染めの全工程を行う様になった。
現在、建物は市に寄贈され昔ながらの藍染めを行う傍ら、体験学習も行っている。』 とあります。

玄関の様子

天井に吊るされた染物とヤマザクラ、金魚提灯

奥から玄関方面を見た図

土間の場所には金魚らしきものが展示中

いよいよ上がって見学
入館料は無料と良心的。ここはかつての帳場か?
駅から郵便局への道筋には、紺屋町・車町・材木町・豆腐町・綿町・雑穀町・茶町と、
これでもかと言う位に職業由来の町名が続きますが、これは近世城下町の職業別集住制の名残り。
今ではあまりメジャーでないものもありますが、町名になるくらいですから店は複数あった事が確実。
当時の生活を知る手掛かりになりそうです。

展示中の染物
赤い花は牡丹だが金魚にも見える。
そんな中で紺屋というのは染物商。尚、町名は‘こんや’と読むことが多いですが、店舗では‘こうや’と読むそうです。
現在では染物と言えば、商売よりも芸術といった印象が強いですが、江戸時代には庶民にも関りがあった店舗。
「紺屋の白袴」「紺屋の明後日」と言った諺があることでも分かります。唯、いずれもネガティブなのが少し気になりますが…。

この部屋では染色工程を展示

染色回数と色調

座敷に展示された調度品の数々

床の間に展示された伊万里大皿と掛け軸
いずれも金魚がデザインされている。
醸造家程ではないにせよ、広い店舗と熟成期間が必要なことから大きな家屋が多く、
裕福で地域にも貢献したと考えられます。
また技術継承から何代にも亘って続いた店も多い模様。当屋も七代続きました。
これも技術のDNAの為せる業と言えますが、これを【染色】体と呼ぶのも郁子なるかなと思った次第です。

金魚の描かれた大鉢
これを金魚鉢と言うのかどうか?

大鉢の内側
金魚(チンユイ)は蓄財を意味する金餘と同じ発音で中国では人気がある。

天井から吊るされた金魚提灯
かつて柳井市で見たものに似ている。

こちらは子供向きの金魚紙風船

特徴的な格子の窓

店の中庭

中庭の石灯籠
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意外な歴史の謎を発見! 奈良の「隠れ名所」 (じっぴコンパクト新書) 新品価格 | ![]() |

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長柄駅 → 徒歩5分 → 大和神社 → JR長柄(9:50) → JR天理(9:54→10:00) → (近鉄電車) → 近鉄郡山(10:11) → 徒歩5分 → 紺屋 → 近鉄郡山(11:10)

大和神社(式内社 旧官幣大社 別表神社)
大和(おおやまと)神社が再び脚光を浴びたのは戦艦大和との関り。
270mの参道が戦艦大和の全長と同じとは良く知られています。
『大和神社の祭神は武勇の神、破邪顕正の神に加え、航海神の性格も併せ持っていた。
奈良時代、遣唐使や使臣はその出発に際し長途の交通安全へ祈願を込め、その使命を果たしたと言う。
萬葉集には山上憶良が遣唐使を送る歌があり、
「…諸々の 大御神たち 船舳に 導きまをし 天地の 大御神たち 倭の大国霊 久方の 天の御虚ゆ 天かけり 見落とし給ふ」
とこの祭神に航海の安全を祈願している。

戦艦大和の全長と同じ270mの参道

萬葉歌碑 好去好来

歌碑解説
また太平洋戦争中は「戦艦大和」の守護神として、昭和17年(1942年)特別神符遷座祭を執行。
その後、同艦長以下乗組員も度々当社を参拝している。
同艦は昭和20年4月7日、鹿児島県坊の岬沖にて撃沈されたが、その英霊である第二艦隊司令長官
伊藤整一以下2,736柱と護衛艦の方々が境内の祖霊社に合祀されている。』 とあります。

境内の祖霊社

祖霊社由緒

戦艦大和に関わる記述
敵国語を船名に付ける訳にはいかないので、日本古来の名前を付けられた軍艦には
その名に因んだ神社から分社される事が多かったようです。
我が国最大、そして最後の戦艦の名前が国の始まりの大和というのも奇しき縁ですが、
大和は当初の目的の沖縄を救援することは出来ませんでした。
しかし戦艦の最期を悟った上官が独断で若い乗組員を下船、そのため尊い多くの命が救われました。
彼らの中には日本の戦後復興に活躍された方も多かったと聞きます。
そのように見ると、大和神社の御利益は確かにあったと言えそうです。

境内にある「戦艦大和展示室」

参道脇にある星塚古墳

星塚古墳解説板
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【往路】上本町(7:52) → (近鉄電車) → 大和西大寺(8:21→8:25) → 天理(8:46→8:51) → (万葉まほろば線) → JR長柄(8:55)
長柄駅 → 徒歩5分 → 大和神社 → JR長柄(9:50) → JR天理(9:54→10:00) → (近鉄電車) → 近鉄郡山(10:11) → 徒歩5分 → 紺屋 → 近鉄郡山(11:10)

大和神社(式内社 旧官幣大社 別表神社)
午後からの所用のため休暇を取った弥生の半ば、午前中の空き時間を使って晴天の中を大和路へ。
今は万葉まほろば線と呼ばれるJR桜井線の長柄駅で下車。
その南東に鬱蒼とした43ヘクタールの神域の森に鎮座するのが目指す大和神社。
いかにも奈良に相応しい名前ですが、「やまとじんじゃ」ではなく「おおやまとじんじゃ」と読む習わし。

桜井線の線路を渡った場所に建つ案内標識
神社まで600mとある。

畑?の向こうの杜が目的の神社

ここから南へ細道を入る

神社の濠と言うよりも溜池?
大和神社は、
『社殿は宮中三殿式で中央に日本大国魂 (やまとおおくにたまの)大神、右殿に八千戈(やちほこ)大神、
左殿に御年(みとしの)大神を祀る。大国魂大神と八千戈大神はどちらも大国主神の異名で、
八千戈大神は殊に武勇に優れた神である。
日本大国魂大神は、大地主(おおどこぬし)大神で第五代考昭天皇の年、
宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第十代崇神天皇が二神が同じく祀られているのは畏れ多いとして、
皇女豊鋤(とよすき)入姫に命じて天照大神を倭の笠縫邑に移し、
皇女淳名城(ぬなき)入姫を斎主として大国魂大神を倭の市磯邑に移されたのが当社の創建である。

神社表参道の一の鳥居
駅から向かうと北口から入るが、ここ東口が正式。

一の鳥居から続く参道

二の鳥居

鳥居を抜けていよいよ本殿へ

御由緒
8世紀半ばには大和のみならず尾張・武蔵・常陸・安芸・出雲の諸国に327戸の封戸が当てられ、
伊勢神宮に次ぐ多さであった。
上古より朝野の崇敬篤く神階は寛平9年(897年)に正一位に叙せられ、延喜式には大和坐大国魂神社三座とある。
白河天皇の時には二十二社に列し、朝廷の奉幣も絶えず明治4年(1871年)には官幣大社に列せられた。

正面に建つ神門

神門に掲げられた「大和大明神」の扁額
奈良時代に神武東征の水先案内を務めた功臣椎根津彦(しいねつひこ)の子孫である
市磯長尾市(いちしのながおち)を神主としてから、その子孫大倭直(おおやまとのあたい)氏が長く奉仕。
大倭直氏は豊後水道或いは明石海峡を本拠としていた一族と考えられ、海との関りが深い神社である。
近世には同族の市磯氏が代々奉仕し明治に至った。

神門から本殿を見る
手前は中門か?

中門と後ろに建つ御本殿(三殿)

塀越しに見た中門

龍神を祀る摂社高龗(たかおおかみ)神社

高龗神社 の祈雨神祭について

高龗神社へ参拝

高龗神社本殿
例祭は4月1日の「ちゃんちゃん祭」で早春の大和における大きな祭である。ユニークな名の由来は、
付近の寺の僧侶が寺の鉦鼓を「ちゃんちゃん」と打ち鳴らしてお渡りの神輿を迎えたためと言われ、
「祭り初めはちゃんちゃん祭、祭りおさめはおん祭」と俚謡にも歌われている。』 とあります。

紅しで踊りの碑

紅しで踊りの謂れ

ちゃんちゃん祭りの碑
創建時の様子を見る限り、当社は伊勢神宮に次いで重視されたのは確実と言えそう。
しかし天照大神と同時は畏れ多いと分祠される所を見ると、皇室神ではなく大和古来の神であったと思われます。
今は伊勢神宮の【威勢】とは大きく水をあけられましたが、平城京から平安京への遷都、藤原氏の台頭、
度重なる火災などが衰微に拍車をかけたようです。
それでも昔【ながら】の姿を保っているのは流石、大和の国と言えましょうか。

右手に建つ社務所

大和神社説明書

大和神社御朱印

天理朝和郵便局 ; 大和神社本殿、チャンチャン祭と戦艦大和の石碑
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【復路】JR王寺(15:30) → (大和路快速) → JR大阪(16:07)

片岡山 達磨寺(臨済宗南禅寺派 聖徳太子霊跡第十九番)
本堂内陣の御本尊、境内の名所旧跡を一通り見ましたが、境内の南にあるのが方丈と庫裏。
塀に囲まれていたので拝観謝絶と思いましたが、案内所で尋ねると、
案内所;「方丈の上には上がれませんが、外からならば自由にどうぞ。」
和辻;「庭園も大丈夫ですか。」
案内所;「はい。唯、まだきちんと整備されていませんが…。」
と言う訳で、拝観料もなしに方丈を拝観。案内所の女性は未整備と謙遜されていましたが、
入ってみると禅宗様式の立派なもの。十分鑑賞に値する庭でした。

境内とは更に塀で隔てられた方丈と庫裏

達磨寺方丈の説明

門を入って直ぐ左手にある池

池越しに見る方丈

方丈と南側に続く庭園

方丈の廊下と庭園

方丈の西側より見た庭園「亀集園」

正面から見た亀集園
置かれた石を亀が集まる姿に見立てたものか?

東側からの方丈の眺望

東側より見た亀集園
『達磨寺方丈はその棟札から江戸の寛文7年(1667年)に京都の工匠に拠って建立。
三室二列の禅宗方丈の基本形から成るが、屋根は西面では入母屋造、東面では切妻造と非対称になっている。
奈良県下では類例の少ない本格的な方丈建築として貴重な存在である。
また方丈南には日本庭園があり、亀集庭の名で呼ばれる。』 とあります。
思うに庭園の名は、置かれた石を亀が集まって来る姿に見立てたものでしょう。
水がめを集めて置いた訳ではありません。亀集(きんしゅう)とは錦秋にも通じる命名と思います。

南側より塀越しに見た方丈
西(左)が入母屋、東(右)が切妻の造りとなっている。

方丈の東側屋根の切妻

亀集園より見た方丈全景

方丈西側の廊下

方丈東側の切妻
達磨大師は中国で禅を広める際に、肉体も鍛えるべく弟子の僧侶たちにインドの古武術を教えました。
それが修業した寺の名を冠して少林寺拳法と呼ばれますが、ここではそのような武術は行われていませんでした。
達磨大師が単なる伝説だからでしょうが、もし行われていれば聖徳太子所縁の寺なので
【十七条拳法】となったかもしれません。

方丈近影

方丈に祀られた仏様

方丈の襖絵と屏風
屏風の題材は聖徳太子?

庭園の南側の参道

参道南の花梨
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片岡山 達磨寺(臨済宗南禅寺派 聖徳太子霊跡第十九番)
境内の名所旧跡図
本堂参拝に続いて堂内にある文化財を拝観することができましたが、
達磨寺境内には名所旧跡も多数点在しています。
『本堂自体が古墳の上に建設されえている他、北東には1・2号の古墳が存在。
6世紀の古墳時代後期の建造で、横穴式石室を持つ直径15mの円墳である。
この中でも、1号墳は遺言に基づいて葬られた聖徳太子の愛犬・雪丸の墓とされ、
太子が法隆寺から密かに通われたという地下道が伝わる。

達磨寺1号墳
雪丸塚と呼ばれる古墳時代後期のもので、横穴式石室を持つ直径15mの円墳である。

1号墳・2号墳の説明

1号墳の頂に続く石段
かつて雪丸像はこの上に建っていた。

達磨寺2号墳
こちらは石室等はなく、こんもりした丘状である。
また本堂背後に建つ達磨寺中興石幢は重要文化財、永享7年(1435年)に南禅寺惟肖が撰述した
当寺の中興記を、文安5年(1448年)に南峯禅師が建立したもので高さ185㎝の八角石柱である。
平成12年には地下から嘉吉2年銘のある石碑が発見され並べて置かれている。

達磨寺中興石幢(右側)
各面に当寺の由緒が刻まれているとあるが、摩滅もあって今一つ読めない。

達磨寺中興石幢の説明

九重達磨塔

達磨塔の説明

旧本堂瓦製露盤
かつては本堂の屋根を飾っていた。

露盤の説明
鎌倉時代に大塔宮護良親王を守って十津川村の玉置山で戦死した片岡八郎、その子孫で
筒井順慶の妹婿であった戦国武将の片岡春利も王寺町出身の偉人として境内に墓がある。
その横には松永弾正久秀の墓があり、天正5年(1577年)織田信長勢に包囲され信貴山城で自害した
久秀の首級を筒井氏がここに埋葬したとされる。』 とあります。

こぢんまりとした松永久秀の墓

松永久秀墓の説明

片岡八郎・春利の墓

雪丸塚と石像
全て何気なく置かれていますが、どれも由緒のある遺物。本来ならば博物館に収められてもおかしくありません。
そのようなものを何時でも見る事ができるのは、参拝者には嬉しい限り。しかも詳細な由緒書があり、
見ながら学習することが出来ます。観光施設としては必ずしも知名度が高いとは言えませんが、
ガイド等にも載っていない内容が記載されているのは、奈良ならではと言えるでしょう。
達磨大師が杖を地面に挿したところ、一夜にして竹が生えたというのは単なる【もうそう】竹ですし、
薬師石は抱きかかえる「扼し石」が薬師石に転化されたと考えられます。
寺の由緒が達磨大師の墓の上に建立とありますし古墳も墓ですから、寺院に相応しく境内は墓だらけ。
中世以降の墓は兎も角、古墳のある場所に寺院を建立するに際して、その由来を寺に結び付けたのが本当の処でしょうか?

達磨大師所縁の一夜(いちや)竹

一夜竹説明

方丈の北側に建つ薬師石
眼を閉じて両手で抱けば病気が全癒すると言う。

古墳周辺の紅葉
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片岡山 達磨寺(臨済宗南禅寺派 聖徳太子霊跡第十九番)
太子所縁の寺は王寺駅南口から葛下川を越えますが、そこに架かる橋の名は達摩橋。
そこから国道168号に沿って南下しますが、その道の名は雪丸ロード。
太子所縁の寺には太子の愛犬が道案内をしてくれます。
行く手に広い塀に囲まれた屋敷が見えてきますが、そこが目指すお寺。

王寺駅構内に置かれた達磨寺の合格祈願達磨

大和川の支流・葛下川に架かる達磨橋上にて
達磨寺へはこの橋を渡り真っすぐ南へ行くので迷う事はない。

国道168号線は「雪丸ロード」

左手に見える白壁に囲まれた場所が達磨寺
片岡山達磨寺(かたおかさんだるまでら)は、
『達摩大師、聖徳太子、千手観音菩薩の三尊を本尊とする臨済宗南禅寺派寺院。
推古天皇の21年12月1日、片岡の地に遊行された聖徳太子は、一人の異人が路上で飢餓に苦しんでいるのを見る。
憐れに思った太子は衣食を与え、一首の和歌を詠んでその場を去った。
翌日、その異人が亡くなっているのを見た太子は、側近に命じて厚く葬ったが、後日その屍は消え、
衣服のみが棺上に残されていた。世人はこれを達磨の化身と言い、その奇跡に驚いたと伝わる。
この棺上に達磨塚を整え、更に精舎を建立して、聖徳太子御自刻の達磨の木造を安置したのが、当寺の濫觴と伝えられる。

国道に面した西門
横は駐車場で、スロープがあり雪丸像がお出迎え

山門は南側にあり、こちらが正門に当たる

由緒記

山門から北を望む
正面が本堂。

池と鐘楼越しに見る本堂
境内には松や山茶花が植えられている。

戒壇の先に建つ本堂は平成16年(2004年)の再建
達磨寺3号墳の上に建ち、堂内は達磨寺資料展示室を兼ねる。

本堂前から南を望む
その後、荒廃するが建久年間に笠木の解脱上人が達磨の木像を繕い、荒堂を修め、
塚上に三層の塔婆を建て初めて達磨寺と称した。
嘉禎年間に興福寺僧の焼討ちに遭い再び荒廃に帰したが、延応年間に松尾の勝月上人が再興、
永享年間には建仁寺の南峯禅師が住持となり足利将軍の幕命に拠って中興された。
永禄年間には松永久秀の兵火に罹り多くの堂宇を焼失するが、正親町天皇の綸旨、
更に豊臣秀頼に拠って再建された。慶長7年には徳川家康から30石の朱印地が安堵された。』 とあります。

本堂内陣の様子
中央ガラスケース内は境内から出土した宝篋印塔

正面に並んだ三本尊
聖徳太子像(左)のみは不在のため写真。

木造千手観音坐像
室町時代の作で王寺町指定文化財。

木造達磨坐像
室町時代の作で国指定重要文化財。

達磨大師画像

内陣の襖絵
片岡の飢人伝説は『日本書紀』に記載がある話。貴人が飢人を救ったという事実はあったかもしれませんが、
その飢人を達磨大師に結びつけたのは後世の創造。歴史的には達磨大師は聖徳太子よりも1世紀前の人。
天竺より中国に来朝し、南朝の梁の武帝と問答をしたと言う逸話が残ります。
武帝は仏教にのめり込み国を傾けたとされる程の熱烈な信者で、我が国の仏教界に重要な位置を占める
聖徳太子にも関りがあって欲しいと言う禅宗側の意図があった筈。
境内に太子と大師の問答石があるのはその表れと言えるでしょうか?

京都でよく見る禅宗寺院とは異なるが、綺麗に整備された庭

紅葉の向こうに建つ鐘楼

問答石の説明
太子と大師が互いに歌を詠み交わしたと言う伝承がある。

達磨石
・斑鳩や 富の小川の 絶えばこそ わが大君の 御名を忘れめ (達磨大師)

太子石とその向こうに見える達磨石
・しな照るや 片岡山の 飯に飢えて 臥せる旅人 哀れ親なし (聖徳太子)
我が国の仏教界と言うよりも古代史上の偉人に纏わる伝承のある当寺ですが、文化財の宝庫でもあります。
本堂内は資料展示室も兼ねており、平日は閉まっていますが、土日は王寺観光ボランティアガイドの会の協力で
本堂拝観が可能。しかも奈良では珍しく無料で【往時】を偲ぶ事ができます。これも太子の慈悲の賜物でしょう。
この日は祝日、ボランティアの方は居ませんでしたが堂内を拝観することができました。
本堂内陣にある三本尊は正面に並んで安置、直ぐ近くで拝観できます。
鎌倉時代の木造聖徳太子坐像と室町期の木造達磨坐像は国の重要文化財。
前者は建治3年(1277年)に院恵・院道が制作、後者は永享2年(1430年)に足利義教が命じて制作させたもの。
共に彩色が施され精緻な筆遣いで表現されていました。
中央の木造千手観音坐像は王寺町指定文化財ですが、現状は392手、かつては500手で構成されていたと
考えられています。しかも全ての手には玉眼が施され、当寺中興に当り室町幕府の支援があったとの説が有力。
国の重文でないのが不思議でした。
当寺は何度も焼討ちに遭い衰亡を繰り返しますが、都度支援を受けて復興。
それだけ人を惹き付ける要素があったのでしょうが、達磨だけに七転八起は当然の事。
太子の慈悲と大師の不撓不屈の精神を感じた寺院でした。

境内の(白)山茶花

こちらは(赤)山茶花

達磨寺略縁起

達磨寺御朱印
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達摩寺境内にある雪丸石像
信貴山から1時間に1本のバスで王寺駅前に戻ると13時過ぎだったので、駅にある食事処で遅めの昼食。
普通、巡礼では蕎麦か饂飩が主ですが、今回はトルコライス。
ここにトルコライスがあるのも不思議ですが、奈良はシルクロードの終着点。シルクロードの起点であった
コンスタンチノープル所縁のトルコライスを出しているのだろうと思って尋ねましたが、全く関係なく私の早合点でした。

昼食はトルコライス

しっかり別腹も…
食事後は、駅南側にある太子所縁の寺院へ。バスはありますが徒歩でも10分余りなので、
葛下川に架かる達摩橋を越えて168号線を南下する事にしましたが、駅構内や途中に白犬のキャラがお出迎え。
見ると王寺町のマスコットキャラクター「雪丸」と書かれています。そのモデルとなったのは聖徳太子の愛犬「雪丸」。

JR王寺駅構内に立つ「雪丸」

駅南出口にある看板
顔ハメではないので、念のため。
『達磨寺に伝わる略記に拠れば、雪丸は聖徳太子が飼っていた非常に賢い犬で、人の言葉が理解でき、
お経を読み、臨終に際しては「自分を達磨塚の丑寅(北東)に葬る様に遺言したと伝わる。
達磨寺境内には雪丸の像があり、江戸の寛政3年(1791年)刊行の『大和名所図会』には既に記載がある。
この雪丸像が元旦に鳴くと、その年は豊作になると言い伝えられている。』 とあります。
昨今の「ゆるキャラ」乱立状態では由緒など関係のないものも多いですが、雪丸は聖徳太子まで遡れるもの。
その意味では「ひこにゃん」と似通ったものがあります。
それにしても如何に古代の事とは言え、犬に人の言葉が分かり遺言したと言うのはあり得ない話。
想像を逞しくすれば、雪丸とは太子の側近の一人の名前で、密かに情報収集の仕事をしていたのではないか。
『史記』の孟嘗君列伝に鶏鳴狗盗の話があるので、それを太子が読んでいた可能性は十分。
後世の人達がその名前から愛犬に仮託したと想像しますが、どうでしょうか?

王寺駅南出口にある雪丸の説明板

達摩寺の「雪丸」

達摩寺にある説明板
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