<コース>
JR横浜 → JR鎌倉 → (京浜急行バス 鎌倉23・24) → 浄明寺 → 徒歩5分 → 杉本観音

大蔵山 杉本寺(天台宗 坂東三十三ヵ所第一番札所)
浄妙寺から鎌倉方面へ戻り、道路に面した場所が杉本寺入口。
お堂に至る石段は摩滅が進み現在は通行禁止。そこに生える苔がより一層の趣を添えます。
鎌倉の苔寺と言えば妙本寺が有名ですが、ここも中々のもの。
生物学的には三方を山に囲まれ、湿度と日照によって苔が育ち易い環境になっているのでしょう。
マイナスイオンも豊富に思えます。生えているのは、勿論杉苔でしょうね。
苔生した石段の横の急な石段を上ると杉木立に囲まれた苔むした茅葺の観音堂が正面に。
大蔵山杉本寺(だいぞうさんすぎもとでら)は、鎌倉最古の寺院。寺伝に拠れば
『天平6年(734年)に光明皇后の命で、藤原房前と行基により創建された鎌倉最古の寺院。
行基が関東を行脚した際に、大蔵山から町を眺め「こここそ観世音菩薩を安置する霊地である。」と、
霊木で等身大の像を彫り安置したのが始まり。
続いて仁寿元年(851年)には慈覚大師円仁が海上に浮かんだ霊木に十一面観音像を刻み安置、
更に寛和元年(985年)には花山法皇の命で恵心僧都源信が十一面観音を刻み安置した。
文治5年1189年、大蔵観音堂が火災で炎上した時、別当浄台坊は衣を少し焦がしただけで本尊を無事救出。
これが後の信仰に繋がった。
別の説では、三観音自ら杉の木の下に難を避けた事で杉本寺と呼ばれるようになったと言う。』
とあります。
仏教界の大立者が三名関係している上に、火災でも焼けなかったという有難いお話です。
何故、本尊の十一面観音が3体なのか?合計すると33面、これは札所の数と一致します。
加えて、花山法皇は三十三ヵ所を始めたとされる方。
坂東札所という事で、由緒記に後世付け加えたと思うのが無理がない気がします。
本尊が杉の下に自ら逃げたとなると【杉】たるは猶及ばざるが如し、の感があります。
杉木立の下の杉本寺で十分でしょう。
と、寺伝を否定する内容ばかりですが、ここが古代より寺であったのは明らか。
周囲を山に囲まれたお堂の前に立つと神秘的な感じがひしひしと伝わります。
恐らく古代人もここに信仰の息吹を感じたが故に御堂を建てたのでしょう。開山や中興の名を出さずとも十分です。

杉本寺山門の屋根
苔生した感じが古さを感じる。

杉本寺本堂
行基建立という鎌倉最古の寺。

杉本寺略縁起

杉本寺御朱印
こうして洋館の後は近所の報国寺、浄明寺と杉本寺と一転和風建築をはしご。
最後は、鶴岡八幡宮に御参りしたあと、わらび餅でちょっと一服。洋館に行ったあとは羊羹でしめる処ですが、
歯応えがあったのでよう噛んで食べた次第。建物も食べ物も和洋折衷となった一日でした。

若宮大路の「こ寿々」にて一服

名物わらびもち
[参考書]
新品価格 | ![]() |

![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

鎌倉の古寺 仏像と四季の花を訪ねる (楽学ブックス―古寺巡礼) 新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR横浜 → JR鎌倉 → (京浜急行バス 鎌倉23・24) → 浄明寺 → 浄妙寺

稲荷山浄妙広利禅寺(臨済宗建長寺派 鎌倉五山第五位)
報国寺続いて筋向いにある浄妙寺へ。寺名は浄妙寺で、地名は浄明寺と表記が異なりますが、
これは五山の格式に敬意を表したためで京都などでよくあるパターン。
重ねて京都にも敬意を表したと言えるでしょう。
稲荷山浄妙広利禅寺(とうかさんじょうみょうこうりぜんじ)は、
『源頼朝の家臣であった足利義兼が開基となり文治4年(1188年)に創建、
開山は退耕行勇で極楽寺という名の真言密教寺院であった。
義兼の子の義氏の時に蘭渓道隆の弟子の月峯了然が住職となり臨済宗に改宗、寺号も浄妙寺となった。
足利尊氏の父貞氏はここの中興の祖とされ死後、ここに葬られ浄妙寺殿と呼ばれた。
足利義満が五山の制を定めた頃は、七堂伽藍を備えた巨刹であったが、その後、衰退し、
現在の建物は宝暦6年(1756年)以降の再建である。』
となっています。
足利氏所縁の五山ですが、ここも戦乱を免れることはできませんでした。
寺域は広いですが、それが却って戦災を受けることになったとも言えます。
禅寺らしく簡素な造り、平成3年に復元された庭園「喜泉庵」もあって抹茶も楽しめますが境内には人は疎らでした。

本堂
寄棟造、銅板葺で方丈形式の六間取り。江戸中期の再建だが、室町期の材も一部用いられている。

浄妙寺境内にある茶室、喜泉庵
天正時代にあったものを平成3年復興。杉苔を主体とした枯山水の庭を見ながら、お菓子+抹茶が頂ける(¥600~1000)
奥には水琴窟も。

浄妙寺 略記

浄妙寺御朱印
丁度お昼時に、浄明寺境内に洒落た洋館を発見。
明治の廃仏毀釈時に貴族院議員の方がドイツ人に設計を頼んで建設したもの。
その後、元に帰属して浄明寺が経営する珍しいレストランとなります。
といっても精進料理ではなく、自家製パンが目玉の西洋料理、ここでも洋館見学となりました。
境内奥にある「石窯ガーデンテラス」というその店に行くと、打って変わった人出。
石窯で焼いたパンと、テラスでの食事が人気の店です。今日は寒いので殆どの人が屋内で食事でした。
11月末からはマントルピースで薪を燃やす風情も味わえるとか。年齢を問わず女性客が多いのが特徴でした。
この辺りは食事処も少ないので重宝されるのかもしれませんが、
禅宗の境内で洋食というギャップに惹かれる所もあるのでしょう。嬉しい【五山】と言えますね。

浄妙寺境内にある石窯ガーデンテラス
寺院が経営する珍しいレストラン。

石窯ガーデンテラスのテラス席
今日は寒いので、殆どの人が屋内で食事。

昼食
パンは自家製石窯焼き(残ったパンは持ち帰り可)、スープはサツマイモ。

これはメインディッシュ
パンにソースを付けたら絶品であった。
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

鎌倉の古寺 仏像と四季の花を訪ねる (楽学ブックス―古寺巡礼) 新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> JR・京浜急行バスは共に頻発
JR横浜 → JR鎌倉 → (京浜急行バス 鎌倉23・24) → 浄明寺 → 徒歩5分 → 報国寺

功臣山建忠報国禅寺(臨済宗建長寺派 東国花の寺百カ寺 鎌倉五番) 本堂
鉢の家紋は足利家の「丸に二つ引き紋」で通称「釜の蓋」。ライバルの新田氏は「丸に一つ引き」で「鍋の蓋」。
洋館に引き続いて報国寺へ。
功臣山建忠報国禅寺(こうしんざんけんちゅうほうこくぜんじ)は、寺伝に拠れば
『建武元年(1334年)、天岸慧広(仏乗禅師)を開山、足利家時を開基として創建。
慧広は死後、門弟に拠って境内に休耕庵という塔頭を建て開山と祀られている。
以後、足利・上杉家の菩提寺となり五山・十格に次ぐ地位を与えられた。
永享の乱(1439年)では室町将軍足利義教と敵対した鎌倉公方足利持氏と義久親子が敗北、
義久はここで自刃したと伝わる。』 とあります。
ところで開基とされる足利家時は足利尊氏の祖父。創建時は既に亡くなっており矛盾があります。
南北朝時代の上杉重兼が家時の屋敷を寺とし彼を開基に持って来たという説があり、そちらが真実に近いようです。
足利家時の母は上杉氏出身。それまでの足利家当主は北条家から嫁いだ母親出生の男子が継承するのが常でしたが、
家時の代に初めてその先例が破られました。息子・足利貞氏に嫁いだ上杉清子は尊氏・直義を生んでいます。
上杉氏は室町時代を通じて管領を務めるなど幕府で重要な地位を占めますが、
上杉を母とする足利家時が当主になった事が出世の糸口。繁栄の基礎を築いた始祖を祀ったとはあり得る話です。
そう見ると山号の「功臣山」に込められた意味も明らかでしょう。
建長寺や円覚寺の広さには及びませんが、禅寺らしく石庭や草花がある落ち着いた雰囲気。
最近は竹の寺として夙に有名ですが、
「竹林の七賢、竹を友とす」 とあるように知的なイメージを持つ竹。
これは塔頭休耕庵の跡に孟宗竹が生えて、現在の竹の庭になったとか。
観光客を呼び込むために休耕地に竹を植えたと思い込んでいましたが、それは妙竹林な【妄想】でした。

坐禅の行われる迦葉堂

ここは前庭
竹の寺で余りにも有名だが、それ以外の庭も見応えがある。

中庭
宅間ヶ谷の裏山を借景に取り入れたもので築山と池は禅宗風。

やぐらへの道は立入禁止

境内にある三つのやぐら
鎌倉公方四代目の足利義久が永享の乱(1439年)で敗れ、ここで自刃したと伝わる。

報国寺竹林
休耕庵という塔頭の跡に孟宗竹が生えて、現在の竹の庭になった。

境内を歩く

杉苔とホトトギス

報国寺御朱印
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

鎌倉の古寺 仏像と四季の花を訪ねる (楽学ブックス―古寺巡礼) 新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR横浜 → JR鎌倉 → 旧華頂宮邸

華頂邸庭園と薔薇
10月に入って二週連続土日の【雨ニモ負ケズ】、鎌倉へ。
鶴岡八幡宮から金沢八景に抜ける金沢街道は狭いながらも鎌倉と東国を結ぶ交通の要衝。
今も車の通行量が多いのは昔と変わりません。
街道沿いには古刹が並び、建長寺や円覚寺の様な広大さはありませんが、
鎌倉の初期の雰囲気が良く残っています。そんな古刹の中に佇む洋館から巡礼開始。
旧華頂宮邸は昭和4年(1929年)華頂博信侯爵邸として建てられ、持主の変遷の後、平成8年に鎌倉市が買い取り。
取り壊しの危機を乗り越えていまは地元の方のボランティアに支えられています。
華頂宮は伏見宮より明治元年(1868年)に分家し、大正15年(1926年)に臣籍に下り侯爵に叙せられました。
この鎌倉の邸宅で【華頂】風月を愛でられたのでしょうか?
邸内のフランス式庭園の薔薇が有名で、普段から庭園内は見学できますが、10月15~16日は年に2度の洋館の公開日。
これは是非、見ておくべきと足を運ぶと、雨で足場が悪いにも関わらず、開館と同時に多くの見学客が見えていました。
メルヘンチックな外観ですが、これは柱、梁などをそのまま外部に現し、
その間の壁を石材、土壁で充填したハーフティンバースタイルという様式と言うそうです。

門を過ぎて玄関へ

華頂邸玄関側全景

雨天にも拘らず開館と同時に見学者が

華頂邸内部の階段と証明

二回の窓から玄関先を望む

緑色の屋根が映える
玄関から1階、2階と見て回ると構造や調度品も西洋式。
当時の華族は西洋文化に憧れたのかと思いましたが、唯一畳の日本間も。
西洋式の中にも日本間がないと落ち着かなかったのでしょうか?
華頂邸奥には無為庵という茶室があって、「やはり日本家屋が恋しかったのか!」と思いましたが、
これは実業家松崎氏の上大崎の茶室と門を昭和46年に移築したもの。戦前の邸宅にはありませんでした。
これだけ見ても見学は無料。維持管理は大変でしょうが貴重な財産を後世に残そうという志が有難いですね。
今回だけでなく【二回どう?】と思うような場所でした。

華頂邸にある唯一の日本間

華頂邸南側
柱、梁などをそのまま外部に現し、その間の壁を石材、土壁で充填したハーフティンバースタイルという様式。

華頂宮邸庭園側全景
手前はフランス式庭園で薔薇が有名。普段は庭園内のみの見学。

華頂邸南側全景

華頂邸奥にある無為庵
実業家松崎氏の上大崎の茶室と門を昭和46年に移築したもの。

無為庵玄関

書院造りの部屋

無為庵茶室
天井は傘状になっている。茶室も六畳と広いので、一対一の抹茶ではなく、大人数に煎茶を振る舞うためのものだとか。

庭から見た無為庵
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR横浜 → JR鎌倉 → 江ノ電鎌倉 → 江ノ電長谷 → 徒歩5分 → 長谷寺・光則寺 → 江ノ電長谷 → 江ノ電江ノ島 → (湘南モノレール) → 西鎌倉 → 徒歩15分 → 鎖大師 → (湘南モノレール) → 大船 → 徒歩30分 → 今泉不動

今泉山 一心院 称名寺(浄土宗)
これは不動明王を祀る不動堂
大船から坂を上って行くと称名寺。
横浜市との境に近いですが、都会の喧騒とは全く無縁。秘境寺と言う表現がぴったりの寺です。
今泉山一心院称名寺(こんせんさんいっしんいんしょうみょうじ)は、
『鎌倉の金仙山 (こんせんさん) で老翁・老婆の仙人に会った弘法大師が、
すすめに従い彫った不動明王を本尊、大黒天を伽藍守護神として祀った。
その後、再び仙人から
「ここは水に乏しいので不動明王に御願いせよ」
とのお告げがあったので、
岩肌を掘ると男滝・女滝が湧き出た。』 とあります。
これが今泉不動で称名寺はその別当寺の扱い。
当初は密教系寺院で鎌倉時代には将軍・執権も訪れる八宗兼学寺院でしたが、その後は衰退。
再興したのは江戸時代。貞享元年(1684年)に堂宇を再建、元禄6年(1693年)には増上寺の末寺となって浄土宗に改宗。
「今泉山」の山号と「称名寺」の寺号もその時です。今泉山は空海の金仙山に由来でしょうか?
今も急な石段の先に不動堂が建ち、周囲には石像が並ぶ境内。
宗派は変わりましたが、修験道の流れは【不動】の様です。
こうして大船からJR → 江ノ電 → モノレール と一周して四カ寺巡礼。
近場と思い、軽く一蹴できると思っていたものの、終ったら夕方。
やはり【こうそく、鎖、不動】という名前が動きを妨げた気がします。

急な石段の先に或るお堂へ

称名寺の三十六童子石像
不動堂の後方に建つ。こちらは左側での18体。

今泉不動御朱印
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR横浜 → JR鎌倉 → 江ノ電鎌倉 → 江ノ電長谷 → 徒歩5分 → 長谷寺・光則寺 → 江ノ電長谷 → 江ノ電江ノ島 → (湘南モノレール) → 西鎌倉 → 徒歩15分 → 鎖大師

飯盛山 仁王院 青蓮寺(真言宗)
湘南モノレールの西鎌倉駅から高台に向かうと飯盛山仁王院青蓮寺(はんじょうざんにおういんしょうれんじ)
『開山は弘法大師空海、中興開山は善海という古刹。
中世の記録は不明だが、江戸時代には関東檀林34院の一つに数えられる格式があった寺。
空海が裏山で護摩の秘法を修行中、江ノ島弁天から力を借りて無事成就。
翌日、池には一面に青い蓮の花が咲いたという故事から、青蓮寺という寺号になった。』
と言われます。
別名「鎖大師」ですが、空海が鎖を使った修行をしたと思うとさにあらず。
本尊の木像弘法大師坐像が仏像としては珍しいからくり仕掛けで、両足の関節が鎖につながれて動くのでこの名が付きました。
元来この仏像は鶴岡八幡宮の等覚院にありましたが、明治の廃仏毀釈でここに移されたもの。
その時に一人で歩いて来たとか、青蓮寺の住職の夢枕に現れ「迎えに来るよう」 と言ったとか奇談が伝わっています。
廃仏毀釈で衰退した寺を盛り返すために、関係者が造ったものではと思いましたが、鎌倉時代作の重文でした。
開山の弘法大師については、神の手を借りたり花が咲いたりと、超人的な弘法大師にしては珍しいですが、
その代わりに本尊弘法大師像が超能力を発揮、寺は【はんじょう】しています。
境内を歩くと五輪塔童子像があってどこかで見たお顔。作者は薮内佐斗司氏とありました。
どうりで「せんとくん」に瓜二つな訳です。ゆるキャラの伝統は鎖の如く繋がっているようですが、
先達を疎かにすると大師様が【くさり】はしないかと心配です。

本堂
本尊は重文・木造弘法大師坐像。

境内から見た本堂
秋桜が盛り。

境内にある五輪塔童子像
作者は薮内佐斗司氏。

御願いの作法

鎖大師御朱印
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR横浜 → JR鎌倉 → 江ノ電鎌倉 → 江ノ電長谷 → 徒歩5分 → 長谷寺・光則寺

行時山 光則寺(日蓮宗)
長谷寺で御朱印帳を無事購入した後、そのまま帰宅も詰まらないので周辺を徘徊。
行時山光則寺(ぎょうじさんこうそくじ)は、長谷寺のすぐ北側。
本堂前にあるカイドウを筆頭に種々の花がある花の寺。由来に拠れば、
『日蓮の弟子の日朗が開山、北条時頼の近臣で幕府の有力御家人であった宿屋光則(やどやみつのり)が開基。
文永8年(1271年)の竜の口の法難では日蓮を初め他弟子の日朗等も捕らえられ、日蓮は佐渡に遠島。
日朗は光則の屋敷の裏にある土牢に幽閉され光則に監視させた。
光則は日朗を厚遇、後には日蓮宗に帰依し己の屋敷を寺とした。自分の名を寺号に、父行時の名を山号とした。』
とあります。
何か「木乃伊取りが木乃伊になる」ような話ですが、
行時は文応元年(1260年)に邸を訪れた日蓮より『立正安国論』を託され時頼に取り次いだ人物。
息子の光則にとって日朗は単なる罪人として見るべき人物ではなかったのでしょう。
幽閉も厳しいものではなく土牢と言うよりも【宿屋】に居るような感じだったとも思えます。
執権時頼も理由はどうあれ日蓮を遠島と極刑にはしていません。
『立正安国論』にために幾多の迫害を受けた日蓮ですが、有能な政治家であった時頼には
日蓮を政治的に利用できるという目算もあったのかどうか。
それを【立正】するのは【暗黒論】になってしまいますが…。

慶安3年(1650年)建立の本堂

本堂前の海棠の古木
樹齢200年で4月上旬に開花する。

こちらは秋海棠で今が盛り
光則寺は秋海棠が有名と勘違いしていたので今回の巡礼となった。

日朗が幽閉された土牢
私のように信心の無い者には理解し難いが、ここまで信仰を守る信念があったと言う事か?

光則寺縁起

光則寺御朱印
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR横浜 → JR鎌倉 → 江ノ電鎌倉 → 江ノ電長谷 → 徒歩5分 → 長谷寺

海光山 慈照院 長谷寺(浄土宗 坂東三十三ヵ所第四番札所)
ここが山門だが、ここからは入らず、左の拝観受付の横から入山する。
関東の御朱印帳も終わりに近づいたので、次の御朱印帳を買いに長谷寺まで。
坂東札所で紫陽花でも知られる長谷寺は鎌倉を代表する古刹。
正式名は海光山慈照院長谷寺(かいこうざんじしょういんはせでら)、由緒に拠れば、
『天平8年(736年)、藤原房前を開基、徳道上人を開山として創建。聖武天皇の御代に勅願所と定められた。
重文である梵鐘の銘に文永元年(1264年)とあり、その頃までには寺域が完成し、
同じ頃の成立とされる坂東三十三ヵ所の札所として栄え今日に至っている。
本尊の十一面観音は錫杖を持つ長谷寺式観音像と呼ばれ高さ9.18m、木造としては日本最大。
養老5年(721年)、大和長谷寺の開山である徳道上人の本願によって巨大な楠の霊木から彫られた二体の内の一つ。
一つは大和長谷寺の本尊となり、もう一体は海中へ投じられた後、相模の国に浮かび上がって出現。
藤原房前の手で鎌倉へ遷座された。』
とあります。

長谷寺本堂(観音堂)
高さ9.18mの十一面観音を祀る。大和の長谷寺の本尊と同じ木で造ったとか。因みにここは浄土宗で、大和は真言宗。

境内の眺望散策路より由比ガ浜と相模湾を望む

境内にある良縁地蔵
道祖神にも見える癒し系。境内には千体を越える地蔵が参道に並ぶ。
非常に霊験あらたかな由緒ですが、創建年は大和長谷寺縁起に酷似。加えて本尊も長谷寺との兄弟仏とあれば尚更です。
このような由緒のために長谷寺と呼ばれるという事ですが、元々長谷と言う地名があって
それが寺号になった後、大和と結び付ける由緒ができたと想像しています。
墳墓のある場所を「おはつせ」と言ったので、この辺りもそのような場所だった可能性があります。
大和長谷寺は紀貫之、右大将道綱母、清少納言も参詣した名刹。鎌倉もその繁栄にあやかろうとしたのではないでしょうか?
お寺の本堂で
和辻;「大和は真言宗こちらは浄土宗ですが、本尊の由来が同じ事はあるのでしょうか?」
お寺;「そういう事は十分あり得ますよ。」
との答え。何事も信心。そうでなければ本尊も浮かばれません。
今まで二度参拝していたので御朱印帳購入だけにする積りでしたが、
拝観しないと買えなかったので、文字通り【三拝】となりました。

放生池

長谷寺オリジナル御朱印帳 ¥1,500

長谷寺説明書

長谷寺御朱印
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

![]() |

新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR北鎌倉 → 徒歩15分 → 建長寺

巨福山建長禅寺(臨済宗建長寺派大本山)
これは唐門。尚、唐門とは屋根が唐破風(湾曲した破風)になっている門の事で、中国風という意味ではない。
関西から来た人に少しの時間ですが、鎌倉を案内することに。
さて何処にしようかという事で、駅近で五山第一の建長寺へ。
正式名は巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)、鎌倉五山第一の格式を誇ります。
京都にも五山がありますが、お寺の人の話では五山の称号は鎌倉の方が先んじたそうで、それがお寺の誇りでもあるのでしょう。
『建長5年(1253年)五代執権北条時頼が南宋から招いた蘭渓道隆(大覚禅師)を開山として創建。
創建時の元号を寺号にした。創建した場所は地獄谷と呼ばれた刑場の地。
かつて心平寺という寺があったが、廃寺となり地蔵像を祀る地蔵堂だけが残った。
頼朝の家臣済田左衛門という人が地獄谷で処刑されそうになった時、日頃信仰していた一寸八分の地蔵立像に救われ、
その地蔵立像を地蔵の胎内に納めた。これが建長寺に移され本尊となった。
禅宗の大本山にしては珍しく地蔵菩薩が本尊なのはこのような理由に拠る。』
とあります。死者の魂を鎮魂する目的があったかどうかは分かりませんが、
名執権と言われた北条時頼も幕府御家人三浦氏を滅ぼすなど血腥い面があったのは否めません。
禅宗自体は以前にも日本に伝わっていましたが、総て他宗派との兼学寺院。禅宗単独はこの建長寺を嚆矢とします。
蘭渓道隆はその後、京都・甲斐と移りますが、再びか鎌倉に戻り弘安元年(1278年)66歳にて入寂。
死後、後宇多天皇より本朝初の禅師号、大覚禅師を賜りました。
二代目も南宋から招いた兀庵普寧(ごったんふねい)と中国からの住職が続きますが、
その頃の南宋は北のモンゴルに攻められ末期状態。
日本に新たな開拓の場を求めたか、南宋を救おうと来朝したかは謎ですが、尋常な状況ではなかったのは確かです。
余談ですが、兀庵普寧は論争好きで相手構わず論争を仕掛けたので「ゴタゴタ」の語源になりました。
伽藍と境内は鎌倉第一に恥じないもので、鎌倉文士であった澁澤龍彦氏も美しい物として建長寺の庭を挙げています。
しかし戦乱・天災で殆どが焼失。建造物が江戸時代以降のものとなっているのは、時代の流れは如何ともし難いと言う事でしょう。
ここで出された精進汁が「建長汁」で後の「けんちん汁」になりました。物は消滅しても名前は残る典型ですね。

庭園と方丈(龍王殿)
作庭は開山・大覚禅師で日本最古の禅庭園。

同じく庭園と得月楼

境内に咲いていた彼岸花
白色は珍しいので撮影。

鐘楼
国宝・梵鐘は建長7年の鋳造で、大覚禅師による建長禅寺の銘が浮彫りにされている。

建長寺説明書

建長寺御朱印
[参考書]
新品価格 | ![]() |

知れば楽しい古都散策 鎌倉謎解き街歩き (じっぴコンパクト新書) 新品価格 | ![]() |

図説 一度は訪ねておきたい!日本の七宗と総本山・大本山 (青春新書インテリジェンス) 新品価格 | ![]() |

鎌倉の古寺 仏像と四季の花を訪ねる (楽学ブックス―古寺巡礼) 新品価格 | ![]() |

![]() |

新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR北鎌倉 → 徒歩10分 → 明月院

福源山 明月院(臨済宗建長寺派)
これは拝観口を入った所にある茶室・月笑軒
円覚寺に続き明月院へ。
紫陽花寺で超の名が付く有名寺院ですが、戦後荒廃した境内に住職が紫陽花を植えたのが始まり。
その歴史は新しく紫陽花寺の呼び名も最近のものです。
福源山明月院(ふくげんさんめいげついん)の由来は複雑で
『元々は五代執権北条時頼が康元元年(1256年)に別邸に創建した持仏堂の西明寺が嚆矢。境内には時頼の墓があります。
時頼の死後廃絶していた寺を文永5年(1268年)息子の時宗が蘭渓道隆を開山として再興。名も禅興寺に改名します。
その塔頭として関東管領・山内上杉憲方が密室守厳を開山として創設したのが明月院。永徳3年(1383年)以前の事とされます。
塔頭としてスタートしますが、戦国時代は後北条氏の庇護もあり本寺を凌ぐ勢い。その後、数多くあった塔頭も消滅。
禅興寺も明治に廃寺となったため、明月院だけが独り勝ちになって残りました。』
と言うのが大まかな流れ。禅興寺の塔頭だったため山号はあっても寺号はないのはそのためです。
子寺が親寺をひっくり返したようなものですが、これはよくある話。
政治の世界でも関東管領が鎌倉公方を凌ぐことがあった訳ですから驚くに足りません。
北条時頼が登場する謡曲「鉢の木」はフィクションでしょうが、夜中に友人宅を訪れ皿に残った味噌で酒を楽しんだと
徒然草にある位ですから、質実剛健を地で行く人だったのでしょう。
彼も37歳で没。政治と言うものは、人の命を削るものだというのを実感します。
昼食は、近くの「鉢の木」にて。名前の由来は言うまでもありませんが、鎌倉を代表する食事処。
北条時頼のように質素という訳には行きませんが京料理に比べて質実な内容なのは鎌倉武士の影響でしょうか?

山門をくぐった正面にある本堂(方丈)・紫陽殿
中に入って参拝可能。本尊・聖観音菩薩、脇に釈迦如来が祀られている。

明月院方丈の悟りの窓
窓の向こうの後庭園には花菖蒲が咲く。

開山堂・宗猷殿
開山の密室守厳像が安置されているが密室ではなく開放している。

開山堂横の切通

明月院やぐら
平治の乱1159年で戦死した豪族を弔ったもので、間口7m・奥行6m・高さ3mと鎌倉では最大。二仏像と十六羅漢が浮彫りされた仏殿的な墳墓堂である。

明月院説明書

明月院御朱印
年配の男性の書。字体に加え全体の構図も芸術的な墨書である。

昼食は北鎌倉の「鉢の木」新館にて
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

![]() |

新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR北鎌倉 → 徒歩3分 → 円覚寺

瑞鹿山 円覚興聖禅寺 佛日庵(臨済宗円覚寺派 塔頭寺院)
お彼岸最終日、遠隔地はきついので近隣の鎌倉へ。
鎌倉五山第二位の円覚寺は元寇の死者を弔うために八代執権北条時宗が建長寺の無学祖元を招き弘安5年(1282年)に建立。
弘安の役の年ですが、時宗は二年後に死去。円覚寺に葬られますが、その廟所が塔頭の佛日庵となりました。
後の9代執権貞時、14代執権高時もここに合葬されます。二人は時宗の子と孫で北条得宗家。
他にいくらでも場所はあったでしょうに、わざわざ同じ塔頭に入ったのは、それだけ時宗の功績を評価しての事だったのでしょう。
平均寿命が短いとはいえ、34歳は如何にも早い。
有史以来の国難に向かったので心身ともに疲労困憊だったに違いありません。
まるで元寇のために生まれてきたような走馬灯の様な生涯でした。
元寇では神風が強調されがちですが、国内の世論をほぼ統一させ外敵に当たったのが一番の勝因でしょう。
無敵と言われたモンゴルも爪哇・越南・埃及では敗退、事前の内部切り崩しが功を成さなかった例ですね。
700年以上前の話ですが、今の困難な御時世にも当て嵌まるのではないかと、過去の英霊の前で思ったお彼岸ではありました。

佛日庵入口

北条時宗の廟所・開基廟
文化8年(1811年)の改築。十一面観音と時宗・貞時・高時の木像を安置する。

開基廟の屋根裏部分

佛日庵の苔庭

林家木久蔵師匠の作庭
拉麺だけではなく作庭もできるとは!

庭で見た紫式部

開基廟のしおり

佛日庵御朱印
佛日庵参拝の後は境内を一巡。
向かいの岸壁にある白鹿洞は開山の日に白鹿の大群が現れ祖元の説話を聞いたとか。
【そげん】な事があるのかと思いますが、山号の瑞鹿山(ずいろくさん)はこれに由来するのでしょうね。
因みに寺号は寺の起工の時に地中から円覚経が出土した事が由来。
どちらも偶々出てきたものが名前になった訳ですが、出て来なかった場合はどのような名を付けたのか興味をそそられます。
続いて未訪の高台へ。以前に見た番組で高台にある甘味処を紹介していたという不純な動機ですが、行って見ると店はなし。
その代わり塔頭龍隠庵から方丈他の全景を始めて見渡すことが出来、足を運んだ甲斐がありました。
北条氏家紋「三つ鱗」は龍の鱗を表わしたもの。円覚寺には龍の名の付く塔頭が多いのもそのためでしょう。
円覚寺訪問は4度目ですが今回はゆっくり回ったがために様々な新発見があり、まさに眼から鱗でした。

佛日庵の向かいにある白鹿洞(はくろくどう)

塔頭龍隠庵から方丈他を望む

円覚寺方丈横の彼岸花

円覚寺唐門の彫刻
東洋の龍は翼がないが、ここは持っている。ドラゴンと言った感じ。


大方丈への唐門
天保10年(1839年)再建の向唐門。

円覚寺方丈と庭園
本来は住職の居間であるが、今は多目的に使用されている。

方丈廊下より見た心字池を中心とする禅宗式庭園

白い彼岸花

天井の龍画

国宝・円覚寺舎利殿
唐様の代表的建造物として教科書にも載っているが、この日は拝観していないので外観のみ。

円覚寺説明書と拝観券

円覚寺御朱印
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

図説 一度は訪ねておきたい!日本の七宗と総本山・大本山 (青春新書インテリジェンス) 新品価格 | ![]() |

鎌倉の古寺 仏像と四季の花を訪ねる (楽学ブックス―古寺巡礼) 新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
京浜急行横浜 → 新逗子 → 徒歩5分 → JR逗子 → JR鎌倉 → 徒歩10分 → 海蔵寺

扇谷山 海蔵寺(臨済宗建長寺派 東国花の寺百カ寺鎌倉七番)
本堂前に咲く萩の花。
彼岸の入りに近場の鎌倉の扇ガ谷へ。
観光シーズンのため横須賀線の下りは混雑するので、京急新逗子からJR逗子と逆方向で鎌倉入り。
西口から線路に沿って歩き、住宅地を通り扇ガ谷の谷間にあるのが海蔵寺。
扇谷山海蔵寺(せんこくさんかいぞうじ)は、
『建長5年(1253年)宗尊新王の命で藤原仲能が開山となり七堂伽藍が建立された事に始まる。
元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡と共に灰燼に帰したが、
応永元年(1394年)鎌倉公方足利氏満の命により上杉氏定が源翁(げんのう)禅師(心昭空外)を開山に招き再興した。』
とあります。

山門へ続く石段
両側には萩の花が。

海蔵寺仏殿(左)と本堂
正面には本殿、その左には浄智寺の宝殿を安永6年(1777年)に移築した仏殿が薬師堂としてあります。
薬師堂の本尊は薬師三尊像。
中興した源翁禅師が裏山から子供の泣き声が聞こえるので、掘ったところ薬師様の頭が出土。
それを祀ったところから啼薬師の名で呼ばれるとか。
また禅師は那須野の人々が白狐が霊となった殺生石に苦しめられているのを聞き、
杖で石を砕いて人々を救ったとも伝わります。
その杖の先が金槌に似ていたので、「金槌の別名を禅師の名をとって玄能と言うようになった。」
とはいささか行き過ぎた話ですが、それだけ禅師が才能に恵まれていたという事でしょう。
今は、伝説よりも東国花の寺としての方が有名。丁度萩が見頃な時期に当たっていました。
四季折々の花が咲き誇りますが有名なのは4月の海棠だそう。
ですが、そのために【カイドウ】寺となった訳ではないので念のため。

本堂(龍護殿)
関東大震災で倒壊したので大正14年(1925年)の再建。扁額は延宝9年(1681年)霊芝の筆になる。

木々越しに見る仏殿(薬師堂)

正面から見た仏殿(薬師堂)
安永5年(1776年)浄智寺から移築。薬師三尊像を本尊とする。

茅葺が印象的な庫裡
御朱印はこちらで拝受。

十六井戸
境内南隅の岩窟中にあり今でも湧き出している。この井戸があったために寺院を建てた?

扇谷山 海蔵寺略縁起

海蔵寺御朱印

朝比奈切通からの眺め
JR北鎌倉へ向かう途中の景色。
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
京浜急行横浜 → 新逗子 → 徒歩15分 → 岩殿寺 → 徒歩30分 → 安養院 → 徒歩60分 → 常楽寺 → 徒歩10分 → 大船観音 → JR大船 → JR横浜

粟船山 常楽禅寺(臨済宗建長寺派)
三番札所あとは北鎌倉から常楽寺を経て大船まで行脚。
鎌倉から北鎌倉まではよく歩くので【大船】に乗った気で始めましたが終いには足に【逗子】りと来る羽目に。
JR三駅分でしたから【常楽寺】とはいきません。
途中、住宅街の先にあったのが常楽寺。
御成敗式目を制定した北条泰時が夫人の母の追福のために嘉禎3年(1237年)建立した粟船御堂がその前身。
粟船とは大船の古名で開山供養は退耕行勇。
仁治3年(1242年)に泰時が没するとここに葬られる事になり、泰時の法名を採り常楽寺と呼ばれる事になりました。
初めは密教系、浄土宗系の寺院でしたが、五代目執権北条時頼の時に宋の蘭渓道隆が招かれて住持となり一気に禅宗色が強まることに。
後に建長寺が建立されると中心はそちらに移りますが、建長寺の根本という事で重きを置かれることになりました。
北条泰時は三代目執権、父義時の後を受け幕府の基礎を固めました。
神皇正統記で承久の乱を暴挙と記載した北畠親房も義時・泰時の手腕をほめています。
政治家として多忙を極めたようで、名前のような【泰時】はなかったようです。
・こと繁き 世の習いこそ ものうけれ 花の散るらむ 春も知られず
というのが彼の辞世。
後ウマイア王朝のカリフ、アブドル・ラフマーン三世も同じようなことを残しています。
本来政治は花を愛でる暇もないようなものなのでしょう。政治に携わる方々には知って貰いたい話です。

山門脇の説明板

山門
十七世紀の建立の茅葺四脚門

常楽寺の仏殿(右)と文殊堂(左)
仏殿は元禄4年(1691年)の建立で、天井には狩野雪信による「雲龍図」が描かれている。

常楽寺庭園

粟船山 常楽禅寺誌

常楽寺御朱印
後は、大船駅から電車に乗るだけでしたが、いつも電車の窓から見える白衣観音様が気になり再び横道へ。
昭和35年に世界平和を願って建立された新しい仏様ですが、私も平和を願って参拝・御朱印を頂きました。
政治家の力だけでは平和は維持できるものではないですから。

大船観音寺(曹洞宗)の観音様

観音様は内側も参拝できる

大船観音寺御朱印
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
京浜急行横浜 → 新逗子 → 徒歩15分 → 岩殿寺 → 徒歩30分 → 安養院

海雲山 岩殿寺(曹洞宗 坂東三十三ヵ所第二番札所)
関東への単身赴任も一段落。坂東三十三ヵ所なるものがあるので早速行こうと思いましたが、1番札所杉本寺は既に参拝済。
当時は坂東札所巡りなど OUT OF 眼中だったのでしょう。それでは正攻法でという事で順番通りに行くことに。
曇天のため昼前に家を出て京急新逗子から徒歩で2番札所へ。
海雲山岩殿寺(がんでんじ)は養老5年(年)徳道上人が開基、行基が十一面観音を作って安置したと言われる古刹ですが、駅からの道がよくわからず迷った挙句にようやく到着。
かつては源頼朝が参詣し、徳川家康に拠って再興されましたが、明治の廃仏毀釈で衰退。
拝観も入口の無人の箱に志納¥100を入れるだけ。
安価なのはありがたいですし、お寺自体は閑静な佇まいですが、裏を返せば人が来ないという事で、すぐ隣の鎌倉の賑わいとは対照的でした。
本堂の観音堂へは少し高台に上りますが、そこからは市内が見渡せるので建造したと言うことでしょう。
尤も海雲山とは言うものの、雲海が見える程の高さではありません。
その後は逗子駅に戻るのも面倒なのでそのまま歩いて法性寺の奥から。
法性寺は日蓮ゆかりの寺で、扁額は「猿畠山」で二匹の白猿が支えています。
帝釈天の使いである白猿に日蓮が助けられたことに由来するとか。
帝釈天なら猿やなくて【寅】だろう等と考えているうちに鎌倉の3番札所安養寺へ。
名越切通で【湘南】することなく疲れも【猿】事ができました。

海雲山岩殿寺山門
坂東二番札所、逗子の山の麓にある静かな寺。

境内から観音堂方面を望む

岩殿寺観音堂
階段を上った先にある。

観音堂から見た逗子市内

岩殿寺御朱印(坂東第二番札所)

日蓮ゆかりの法性寺。
扁額は「猿畠山」で二匹の白猿が支える。

法性寺本堂

名越の切通し
祇園山安養院は坂東三番札所で前身は尊観が創建した善道寺。
北条政子が頼朝の菩提を弔うために長谷笹目に建てた律宗の長楽寺が鎌倉攻めで焼失、善道寺に移ることになり、寺号を長楽寺、院号を北条政子の法名の安養院に改めたとされます。
本尊は浄土宗なので阿弥陀如来ですが、その後ろの千手観音は比企ヵ谷の田代寺にあったもの。
江戸時代に統合され移ってきました。良縁・出世に御利益があると昔から信仰されています。
坂東の札所も本尊ではなく、この十一面観音。後から来たのに追い越すとは【先住】観音の名は伊達ではない模様。
執権北条氏の世になって源氏が【ちょうらく】したとは言えども幕府創設期の立役者、皆から【あんよう】に思われているのが伝わってきます。
安養院はツツジの花でも知られ、意識して来た訳ではありませんが、ツツジの花盛りに遭遇することができました。
これで、1~3番札所が終了ですが帰って確認すると以前に田代観音として拝観していたことが判明。
ツツジではなくボケが咲き始めたかと【木になった】次第。

祇園山 安養院 田代寺(浄土宗 坂東三十三ヵ所第三番札所)

説明板

安養院本堂
本尊は阿弥陀如来。

安養院境内
ツツジの寺として知られる。

重文・宝篋印塔
徳治3年(1308年)の銘がある。

樹齢700年のイヌマキの大樹

安養院御朱印(坂東第三番札所)
[参考書]
新品価格 | ![]() |

鎌倉謎とき散歩〈古寺伝説編〉 (広済堂文庫―ヒューマン・セレクト) 新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR横浜 → JR藤沢 → 徒歩10分 → 遊行寺 → 小田急藤沢 → 片瀬江ノ島 → 徒歩5分 → 龍口寺 → 徒歩20分 → 満福寺

龍護山 医王院 満福寺(真言宗大覚寺派)
龍口寺の後は江ノ電で一駅先の腰越ですが、近くなので海沿いに歩いて10分。
龍護山医王院満福寺は天平16年(744年)行基が開山という古刹。
東国で疫病が流行した際に、自ら薬師如来を彫って祀ったら疫病が収まり聖武天皇の勅令で建立したと言われます。
龍護山の山号も龍口寺同様、冥界との境を意味したとも取れそうです。
この辺りは鎌倉の西端で旅人・芸能者が集まる場所だったので疫病がひろがるのも早かったのでしょうか?
唯、この寺伝も定かではなく平安末期の高範が中興開山とされているのが歴史上の本格的な初見のようですが…。
線路の向こうに境内に通じる石段があって鉄道写真にはよく撮られるスポット。
折よく電車が通ったので私も1枚撮影してから参拝。
満福寺は平家を壇ノ浦で滅ぼした義経が讒言を受け、1185年兄頼朝との和解のため鎌倉に来た際に手紙を書いた場所。
この地の名を取って「腰越状」と呼ばれます。
内容は起請文で己の潔白を訴えるものですが、讒言にたいして【懺悔】の甲斐なく対面できずに京へ取って返しました。
その後、義経は頼朝に追われる身となり奥州で非業の死を遂げる事になります。日蓮は助かりましたが、義経は助からず。
龍の守は効果がなかったようです。
結局役に立たなかった「腰越状」ですが、その内容は義経の一代記となって居り 『吾妻鏡』 『義経記』 『平家物語』 にも引用され後世に伝わります。
その過程で義経伝説が育まれ「悲劇の九郎判官源義経」に結実する訳ですから、文学史上で大きな貢献をした事になります。
「平家物語同様に琵琶法師の語りを通して広まったのではないか」 と言うのがお寺の方の話。
頼朝は兄弟に酷薄だったと言われ異母弟範頼も非業の死を遂げています。
義経程知名度は高くないのは、こういった所に原因があると言えるでしょうか。
寺に残る下書きは家来の武蔵坊弁慶の書と言われるもの。
僧兵とはいえ書には通じていたでしょうから書いても不思議はありません。
唯、何故自身で書かなかったのか悪筆だったのか等疑問は残ります。大した事ではありませんが…。
義経所縁の寺なので寺宝も多くありましたが、彼の人生を鎌倉彫の技法を取り入れた漆画で描いた襖絵が圧巻でした。
現世では【九郎】しましたが後世に名を残すことで【義経】ではないかと【判官】しているかもしれません。

満福寺本堂
左には弁慶腰掛の石があり、その前には腰越状の石像も立つ。

義経、弁慶の襖絵

静御前の旅立ち

観音様の官能的な後ろ姿

満福寺説明書

満福寺御朱印
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)

鎌倉宮(旧官幣中社)
荏柄天神に続き鎌倉宮を参拝。御祭神は大塔宮(おおとうのみや)護良(もりよし)親王。
護良親王は御醍醐帝第一皇子、僧となり門室を大塔(おおとう)と言ったので大塔宮と呼ばれます。
天台座主にもなりますが、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐を計画すると還俗して護良と名乗り、楠木正成らと呼応して幕府を翻弄。
その後、足利や新田により幕府は滅亡します。
親王は当初から討幕に加わった功労者で建武の新政では征夷大将軍・兵部卿になりますが、父帝にあまり愛されず、
足利尊氏・直義との政争に敗れて鎌倉配流となり東光寺に幽閉。
その後、建武二年(1335年)北条時行が鎌倉に乱入した中先代の乱の際に、足利直義の命で淵辺義博により殺害されました。
唯、剛毅な親王も容易くは討たれず相手の太刀を咥えて折ったなどと言う伝説も残しています。
尤も太平記は中国の古典からの引用がやたら多く、これも干将莫邪(かんしょうばくや)の剣の故事を踏まえたものと思えます。
武士に生まれていればまた違った道も開けたでしょうに、皇族という身分が足枷になるとは。
その悲劇的生涯は親王の思慮不足とも言えますが、功績があった実子を見捨てるようでは
建武の新政が数年で破綻するのも当然な気がします。
鎌倉宮は明治二年(1869年)に明治天皇によって創建された新しい神社。明治天皇の御代に唯一創建されたお社だそうです。
北朝の系譜を引く天皇が南朝方の護良親王を祀るのも奇妙ですが、後の南北朝正閏論でも南朝を正統とした天皇の事、
自身の系譜ではなく己の意志で時代を切り開こうとした人間に共感したのかもしれません。
或は薩長による明治維新が始まったばかりで自分の政治位置を歯痒く思われたのでしょうか。

鳥居前の桜

鎌倉宮本殿
護良親王に因み獅子頭が飾ってある。丁度、雪が降って来たところ。

鎌倉宮御守り獅子頭 これは中型¥1200。
護良親王が戦に際し、これに似たものを兜に付けたことに由来するとか。類似のものが鶴岡市にあるので、そちらが由来という説も。災いの方角に口を向けて災難を食べる。

鎌倉宮説明書

鎌倉宮御朱印 20代の神職の書。

御成町にある甘味処「雲母(きらら)」の庭
住宅街にあり、普通の住宅を店にしている雰囲気。

抹茶白玉クリーム餡蜜¥850
普段食べている白玉とは食感が全く違い、コシはあるが柔らかい感じ。また冷たくなく温かいこと、漬物と昆布茶があるのもGood。
[参考書]
新品価格 | ![]() |

御朱印でめぐる神奈川の神社 週末開運さんぽ (地球の歩き方 御朱印シリーズ) 新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

大塔宮の記述があるのは全六冊の内、一、二分冊まで。
幕府を相手に戦った記述は、第五巻(第一分冊)
・大塔宮大般若の櫃に入り替はる事
・大塔宮十津川御入りの事
最期の様子は、第十三巻(第二分冊)
・兵部卿親王を害し奉る事
・干将莫邪の事
に詳しい。
ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)

荏柄天神拝殿横にて
平成29年は祝日のうち4日が土曜日。その第一弾が建国記念日。
一日損した気分で梅も雛祭りも未だ早いですが、晴天なので昼食後散歩を兼ねて早梅の咲く鎌倉の二階堂へ。
荏柄(えがら)天神社は社伝に拠ると、
長治元年(1104年)、雷雨と共に黒い束帯姿の天神画像が下り、里人が社殿を建てて画像を納め、
銀杏を植えて神木としたのが始まりとか。画像が下ったから【絵柄】天神となった訳ではないでしょうが…。
治承四年(1180年)源頼朝はここを幕府の鬼門として社殿を造営、以後鎌倉幕府の尊社として崇拝されます。
太宰府天満宮、北野天満宮とともに三天神社とされるとありますが、前二社と違って道真は鎌倉に無縁。
やや贔屓の引き倒しの感がします。
しかし創建当初からの銀杏は鶴岡八幡宮の大銀杏(公暁の隠れ銀杏)に次ぐ大木、
鶴岡八幡宮の銀杏が台風で倒壊した今となっては鎌倉随一なのは間違いありません。
本殿は元和八年1622年に八幡宮の若宮社本殿を移築した最古の木造建築、14世紀の様式を残しています。

荏柄天神拝殿
左右の梅は鎌倉で一番の早咲梅(紅白)とか

荏柄天神社大銀杏
樹齢900年。鶴岡八幡宮の公暁の大銀杏が倒壊した現在では鎌倉で最大では?
境内には天神社らしく梅が多数ありますが、ここの梅が鎌倉で最初に咲くとされています。
又かっぱ筆塚や絵筆塚も境内に建立。これは清水崑・横山隆一氏の発案よるとか。
清水崑氏は「かっぱ天国」「かっぱえびせん」の漫画で有名。横山隆一氏は私が幼い頃「フクちゃん」を新聞連載されていました。
連載終了に当たり各界の著名人の方が文章を寄せて居られましたが、
最終回には川端康成氏が
『鎌倉の若葉の色も濃く成りてフクちゃんの名残匂いつつ』
と書いて居られたのを読んで子供心に凄いと感じた記憶があります。
漫画家というよりも鎌倉文士と言った方がよいでしょう。学問の神様道真公の影響が現代まで続いている気がします。
余談ですが、毎年年末になると横山隆一氏デザインの干支のスタンプが鎌倉郵便局に設置。
何回か押させて頂いた事も懐かしい思い出です。

境内にある筆塚
漫画家の清水崑・横山隆一氏が崇拝されたので筆塚を建立。清水崑氏の作品に因み「かっぱ筆塚」と言う。清水崑は朝日の漫画批評(1コマ漫画)が有名だが、「かっぱ天国」やカルビーかっぱえびせんの絵も手掛けた。

筆塚側面
これは大御所の作品。左から加藤芳郎(まっぴら君)、横山隆一(フクちゃん)、田川水泡(のらくろ)

大御所の次世代
岡部冬彦(ベビーギャング)、サトウサンペイ(フジ三太郎)、やなせたかし、藤子不二雄の諸氏

次世代(続き)

荏柄天神社説明書

荏柄天神社御朱印 20代の巫女さんの書。
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

御朱印でめぐる神奈川の神社 週末開運さんぽ (地球の歩き方 御朱印シリーズ) 新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
武将としての新田義貞(2016.1.16)

内裏山九品寺(浄土宗)
昼食後、再び材木座まで戻り九品寺へ。
1333年新田義貞の鎌倉攻めに際し、亡くなった北条方の霊を弔う為に建立したのが内裏山九品寺(だいりさんくほんじ)。
開山には京都から風航順西を迎え、阿弥陀如来を本尊として祀りました。
鎌倉幕府滅亡に際しては多数の人々が亡くなったと有ります。事実、今でも市内で土台から家を新改築する場合など
人骨が多数出現するそうです。それだけ悲惨だったと言えますが、古今東西勝敗に拘わらず死者を10%以下に抑えるのが名将。
その点武将としての器量不足は否めません。
義貞は南朝方の主力として各地を転戦しますが北陸で最期を迎えます。
その時も無理に深追いをして伏兵に討たれました。
最後まで南朝方に忠節を尽くした事、生涯側室を持たなかった事等からは真面目で一本気な人柄が伺えますが、
それだけでは多くの配下を束ねるのは困難。源氏の名門に生まれたが故の悲劇と言えるでしょうか。

九品寺本堂 1336年建立。

扁額 この字は義貞の直筆を写したもの。

九品寺御朱印
材木座の補陀洛寺・九品寺から鶴岡八幡宮に詣でてから1月末で閉館する近代美術館と盛り沢山の半日となりました。
日曜美術館で放送後は、訪れる人も増え出したとか。マスコミの影響は凄いですね。
それに釣られて見に行く私もミーハーですが…。

神奈川県立近代美術館正面
池に張り出したテラス。閉館は八幡宮からの借地権の期限切れのためだとか。勿体ない話ですが。

1階にある彫刻

神苑の池にいたユリカモメ
古典では都鳥だが、現在のミヤコドリはアジサシの仲間の別種。

鶴岡八幡宮の神苑ぼたん庭園
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新田義貞―関東を落すことは子細なし (ミネルヴァ日本評伝選) 新品価格 | ![]() |

![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村
和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
土曜の午後の鎌倉 (2016.01.16)
センター試験の初日、仕事の荷物が来るので7時30分出社。
昼前に仕事は終了しましたが、そのまま帰るのも芸がないので一路鎌倉へ。
人家の間の細道を行くと寺に着きますが、ここが補陀落寺。
源頼朝が文覚上人を開山として養和元年(1181年)に建立したとされます。

南向山帰命院補陀落寺(真言宗大覚寺派)
文覚は京都神護寺の僧侶でしたが、伊豆に配流中の頼朝に父義朝の髑髏を見せ挙兵を後促した人物。
乱世とはいえ殺伐とした話ですが、文覚は俗名遠藤盛遠と言い摂津源氏の渡辺党に属す武士でした。
出家の原因については色々と取り沙汰されますが、従兄弟の渡辺渡の妻袈裟御前に横恋慕し誤って彼女を殺めてしまった
ためとも言われます。恐らくフィクションでしょうが、そのような伝説が言われるような人柄だったのでしょう。
慈円の愚管抄 『学は無く、粗暴である』 と記されています。
結局、政治の世界に首を突っ込み過ぎたせいで政争に巻き込まれ、配流の途上の鎮西で最期を迎えました。
本人は本望でしょうが先を読む目がなかったのは否めないと思います。
尚、袈裟御前との経緯は黒澤明監督が『地獄門』で映画化しカンヌ映画祭でグランプリを受賞。
文覚役は当代の名優長谷川一夫が演じました。
補陀落寺は当初は七堂伽藍を持った広大な寺院でしたが、度々の竜巻の被害を受け縮小。
そのため「竜巻寺」の異名を取りました。荒法師文覚の寺には相応しい名とも言えますが。
いまはそんな昔とは裏腹に住宅地にひっそりと佇んでいます。
遅めの昼食は若宮大路の「こ寿々」で。わらび餅が有名ですが、隣では蕎麦もOK。食べたのは山芋そば、となりのトロロでした。

補陀落寺本堂

補陀落寺御朱印

昼食は若宮大路の「こ寿々」にて

とろろそば

〆はやっぱりわらび餅で
[参考書]
新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

新品価格 | ![]() |

ランキングにポチっと応援頂ければ嬉しいです!

神社・お寺巡りランキング

御朱印ランキング

にほんブログ村

にほんブログ村