<コース> 夏の青春18きっぷ、智頭線1日フリーきっぷ & 若桜鉄道フリーキップ
【往路】JR大阪(5:58) → JR姫路(7:30→7:31) → JR上郡(8:05→8:50) → (智頭急行・因美線) → JR河原(10:34) → 徒歩30分 → 船岡〒 → 因幡船岡(11:26) → (若桜鉄道) → 丹比(11:47→12:28) → (若桜鉄道) → 若桜(12:35)
若桜駅前 → レンタサイクル30分 → 岩屋堂・岩屋神社 → レンタサイクル30分 → 若桜神社→ 若桜の町並み
【復路】若桜(15:13) → (若桜鉄道) → 八東(15:27) → 徒歩20分 → 新興寺 → 徒歩10分 → 八頭〒 → 徒歩10分 → 安部(16:31) → (若桜鉄道) → JR郡家(16:45→17:14) → (因美線) → JR智頭(17:48→17:54) → (智頭急行) → 上郡(19:16→19:20) → JR姫路(19:52→19:56) → JR大阪(20:52)

若桜鉄道
ホームに停車中のSAKURA号
新興寺参拝を無事終えて、1時間後の列車に乗車すべく安部駅まで速足。
その甲斐あって10分前に駅到着。
『若桜鉄道は、大正11年(1922年)の改正鉄道敷設法に
「鳥取県郡家より若桜を経て兵庫県八鹿付近に至る鉄道」 として計画され、
昭和2年(1930年)1月に郡家~隼間、同年12月に若桜までの全線19.2㎞が開業した。

八東駅本屋正面
木造平屋建てで待合室、事務室からなり、正面に切妻の車寄せを持つ。

八東駅プラットホーム
貨物上屋が復元されている。

八東駅舎全景
半世紀以上を経て、人口の減少、基幹作業であった林業の衰退に拠り廃線が決定したが、
地元の熱心な存続運動の結果、昭和62年(1987年)10月に第三セクター若桜鉄道に引き継がれた。
平成20年(2008年)7月、鉄道路線として23もの関連施設が一括して国登録有形文化財に登録された。
これは全国初の事である。多くの施設は時代と共に使い続けられてきたもので、
全てが竣工当時の姿ではないものの、当時の鉄道文化を物語る遺産として今に伝えている。』
とあります。

八東川を渡り安部駅へ

安部駅本屋
入口が「二ヵ所あり、近隣の「安井宿」「日下部」に配慮したもの。駅名も字から一文字ずく採っている。
この日、乗降した若桜鉄道駅は全部で6駅でしたが、実にその全てが文化財になっていました。
特に最後に乗車した安部駅は「男はつらいよ」シリーズ43「寅次郎の告白」のロケに使用された駅舎。
偶々、翌日の13日にそのシリーズが放映されましたが、駅名は出ず仕舞い。
光景を見て分かりましたが、この日に訪れなければ気が付かなかったでしょう。

安部駅改札口

安部駅ホームへ
鉄道文化財と言えば、JR門司港駅、南海電鉄浜寺公園駅、水間鉄道水間観音駅等、
芸術的に建てられたものに目が向きますが、年代を経た普通の駅舎も重要さは同じ。
肥薩線の嘉例川駅舎が注目された嚆矢でしょうか。
最近はそれに加え、橋梁、転車台、車庫や給水塔も文化財に登録されています。

「男はつらいよ」のロケ地のプレート

映画の一場面の展示

ロケノートの内容

安部駅プラットホーム
花崗岩を三段に積んだ構造で、ホーム上に独立した待合所を設置。
かつて柳宗悦(やなぎむねよし)は日常生活で使用される器具に芸術性を見出す
「民芸運動」を提唱しましたが、これらの駅舎にも同じ事が言えそうです。
こうして当初の予定をすべてクリアしてJR郡家駅へ。
列車は更に鳥取駅に向かいますが、私は智頭方面へ乗換。
若桜鉄道ともしばし別れの夜汽車の窓よ、【郡家の駅よ、さようなら!】と帰路に着きました。

安部駅に入線するWAKASA号

八東郵便局 ; 若桜鉄道、八東川の徳丸どんど、遠見山
[参考書]
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若桜駅前 → レンタサイクル30分 → 岩屋堂・岩屋神社 → レンタサイクル30分 → 若桜神社→ 若桜の町並み
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波羅密山 新興寺(真言宗醍醐派 因幡薬師霊場十二番札所)
若桜巡礼を終えて後はJRまで戻るだけですが、途中に古刹があるので、もう一ヵ寺立寄り。
八東駅で下車して八東川を渡りバス通りを西へ1㎞行った先にあるのがその寺院。
参拝後は八東に戻らず一駅先の安部まで歩くというコース。
バス通りを進み新興寺と書かれたバス停から集落へ入るとやがて寺院の屋根が目に入ります。

こぢんまりとした新興寺境内
波羅密山新興寺(はらみつさんしんごうじ)は、
『因幡における金峯山信仰の中心地として和銅元年(708年)に開創された真言系修験寺院。
四十八坊、七堂伽藍が林立する因幡国で最初に出来た大寺で、歴代国司の祈願所。
京都の貴族にも広く知られていた。
修験者が修行した鷲倉寺、渡来人が住んだ唐人畑、奈良吉野に因む金峯山や金剛寺、
大法寺等、密教盛んな平安時代からの由緒ある地名が今も残る。

正面から見た本堂
薬師霊場とあるが御本尊は観音様。

由緒記
東西8㎞、南北4㎞という広大な寺領を有した当寺は国の庇護のもとに寺領不入権を持っており、
その頃が最盛期であった。
しかし武士の台頭と共に寺域の侵犯が多発し、幕府に保護を求める事も屡々。
今に残る後醍醐天皇の寺領保全指令書や名和長年の寺領権利確認書、
南北朝時代の1385年に造られた宝篋印塔はそれらの名残りである。
天正8年(1580年)の秀吉の鳥取城攻めに際し、兵火に罹り諸堂は灰燼に帰す。
その後、国家の庇護も薄れ寺運は一気に傾いたとされる。

本堂に掲げられた「波羅密山」の扁額

本堂内陣で参拝した御本尊の聖観世音菩薩

本堂の手前に建つのは大師堂

大師堂向拝の彫刻群
正保2年(1645年)、京都の沙門盛範が、由緒ある当寺の歴史を惜しみこの地に留まって再興。
寛文5年(1665年)、現在の御本尊平安仏聖観音像を荘厳。
嘉永年間の1846年頃には、保木本伊兵衛が銀7貫を納奉し本堂建設に尽力した。
大正11年(1923年)には大師堂を建立した。
また寛政7年の洪水で山地が崩壊した際に、石灰岩の鉱脈が発見され、
戦前まで新興寺の石灰産業として地域に貢献している。
地名だけを残して廃寺になる寺院が多い中で、地名と共に現存する古刹として
歴史の重みを今に伝えている。』 とあります。

むかしがたり

大師堂前にある宝篋印塔

宝篋印塔解説
古刹なのに新興寺とはこれ如何に、【わかさ】鉄道の沿線故でしょうか?
また薬師霊場と看板にあるのに観音様が御本尊というのも不思議な話。
今の狭い境内からは、かつては広大な寺領を有した大寺の姿は微塵も感じられませんでした。
しかし古代の地名や古文書からは、かつて強大な権力を有した古代寺院が
【新興】の武士階級に取って代わられる様子が伝わります。
その意味ではこの小さな境内は歴史の生き証人と言えるでしょう。
御朱印を御願いすると住職夫人が対応下さり、本堂内陣での御本尊参拝に加え、
書院裏手の庭園も無料で拝観。ガイドにも載っていない名勝と言えましょうか。
頂いた説明書は「新興寺ガイドブック」とありましたが、当寺だけでなく新興寺地域全体を包括。
今はほたるの里として売り出しているようです。
こうして寺院と庭園、若桜鉄道の二駅に加え郵便局も二局訪問というオマケが付きました。
これも【しんこう】の賜物と言えそうです。

新興寺書院の庭園

庭園右手

庭園中央部

庭園の池と石橋

新興寺説明書

新興寺御朱印

八頭郵便局 ; 中国山地、新興寺、菩提樹、二十世紀梨
[参考書]
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若桜地区(重要伝統的建造物群保存地区)
鬼ヶ城は時間的に無理でしたが、若桜の見所は一通り参拝。
しかし寺社以外にも、若桜は町自体が一つの博物館になっていて、
そこを見過ごす訳には行きません。観光案内所で聞いた所、
「メインは仮屋通りですが、ここから西に一本入った細い蔵通りが撮影スポットですよ。」
との事。駅近くなので、自転車返却前にちょっと一巡。
『若桜地区は若桜町の中心街に位置し、中世に鶴尾山に若桜鬼ヶ城が築かれて以後は
城下町として発展した。江戸初期に廃城となった後は、物資・人の交易で発展。
城下町時代の町割・街道を維持しながら宿場町に変貌を遂げた。
明治期に三度の大火に遭い、町は壊滅的な被害を被ったが、当時の住民が中心となり、
防火対策を盛り込んだ復興計画 「八東郡若桜宿宿会議決書」 を策定。
家の前には4尺の庇(仮屋)と2尺の川が義務付けられ、雨の日でも傘要らず、往来も容易だったと言う。
加えて本通りの直線化等が行われるなど、現在の町並みの基礎が築かれた。

メインの仮屋通り

仮屋通りは家と道路の間に4尺の庇が付いた私道がある

雨や雪の日でも傘なしで歩ける豪雪地帯ならではのアーケード
若桜地区は、本通り沿いを中心とした約9.5haの範囲で、明治期から昭和30年代までの
伝統的町屋が建ち、敷地背面側には土蔵、その北側には四ヵ寺が並ぶ。
若桜町内を流れる八東川から取水した用水は、本通りなどの街道沿い、
敷地の背面部を流れていき、地域住民の生活用水として利用されている。
敷地の間口は三間程度が多く、規模が大きいものは六間。
敷地配置は、主街道側に主屋、奥側に蔵もしくは離れを建て、
二つの建物の間に角屋と呼ばれる便所・風呂・廊下や中庭が設けられた。
主屋は二階建て、切妻造平入の瓦葺または鉄板葺で、正面には一階部分の庇を長く伸ばし、
風雨や雪を避けるための通行帯 「仮屋」 が一部残されている。
若桜地区は、若桜鬼ヶ城の城下町を起源とし、明治期の大火を経て復興した山陰地方の商家町として
歴史的な風致をよく伝えることから令和3年8月2日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。』
とあります。

仮屋通りから1筋東へ入った蔵通り(寺通り)
写真の絶好スポットとして観光客が多いとか。

通りの西側には黒塀の蔵が並ぶ

通りの北側から見た蔵の並び

南側からの眺望
町並みが残るのは若桜駅から僅かに200mの場所。
大火を機に町造りがされたのは川越・喜多方等でも見られる現象ですが、
若桜では町ぐるみで維持しているのが特徴的。
住民意識が高いのか、抜きん出た有力者が不在なのかは分かりませんが、
飛び抜けた家屋がなく全て平均的な造りに見えたのがそう感じた理由です。
特に蔵通りは火災から町を護るために人家を禁止してまで成立したもの。
商家群は【消火群】でもありました。個人の我を抑えるのは中々できる事ではありません。
今でも20の蔵を数えますが、それらは住民が私よりも公を優先した証拠でもあります。
城下町から商家町へ移行し、大火の後の町並みは大過なく今まで現役で使用。
若桜の家並みは建家だけでなく、その精神も美しいものでした。

通りの東側には寺院が並ぶ

道の駅 若桜のスタンプ
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若桜神社(旧郷社)
駅を東側に進み、若桜鬼ヶ城跡への登山口に鎮座するのが、その名も若桜神社。
二百数十段の石段を上った先が境内になります。
若桜神社(わかさじんじゃ)は、
『平安時代初期、在地領主であった矢部氏が鬼ヶ城築城に際し現在の地に創建したと伝わる古社で、
国常立命(くにのとこたちのかみ)を御祭神とする。当初は松神大明神と呼ばれた。

道路に面して建つ社標と一の鳥居

一の鳥居近影

一の鳥居脇の由緒記

二の鳥居

二の鳥居に続く朱塗りの橋
郡中の大社として若桜鬼ヶ城歴代城主初め、名和長年や因幡国守護山名氏が参拝する
など尊崇を集めた。当社には後醍醐天皇の短冊、名和長年の鉾、平盛継の陣笠、
平師盛の甲冑等、多くの寄進物があった事が宝物帳で確認できる。
鬼ヶ城廃城後も、鳥取藩主池田氏の庇護を受けた。

階段の途中に建つ神門

神門近影
寺院と異なり仁王像の代わりに神像が置かれる。

神門に掲げられた「若櫻神社」の扁額

境内側から見た神門
当社では隔年の5月3日に榊や神輿、大名行列で賑わう若桜神社大祭が挙行される。
武者や奴が旧若桜街道を練り歩き、顔を白塗りしたニワカが繰り出す。
夜、松明に先導された神輿が帰って来ると祭もクライマックスを迎える。
この日に欠かせない食物が「おやき」である。

神門から更に長い石段を上る

結界を表す?石柱の奥に漸く境内が見える

階段を上った先から見た境内
境内の約1.46haの社叢は、シラカシを中心にヒノキやモミの大木が混ざった
典型的な極相林の鎮守の森であり、「若桜神社社叢」として昭和57年に
県の天然記念物に指定されている。』 とあります。

階段の先に建つ社殿(拝殿)

拝殿内陣の様子

塀越しに見た本殿

本殿向拝の欄間彫刻

社殿全景
若桜の氏神様ですが、その場所から元は鬼ヶ城の鎮守として建立されたのが濃厚。
名前からは華やかな社を想像しますが、原生林に覆われた境内に入るとその重みに圧倒。
参拝者が少なかったのも理由の一つですが、神社の場所の持つ独特の雰囲気がそう感じるのでしょう。
矢部氏がここに鎮守社を建てたのは、土地の持つオーラに影響されたからだと思います。
廃城後は鳥取藩の庇護を受けたとありますが、位置的には少し遠距離。
そのため若桜地域の住民が主となって神社を盛り立てて行ったと思われます。
それでも古の雰囲気を保っているのはその地勢の故。
おらの神社になってもそのオーラは健在でした。

木立に囲まれた拝殿と本殿

拝殿と摂社

摂社近影

神門の周囲に広がる社叢

社叢は県の天然記念物
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岩屋神社
不動院岩屋堂を柵越しに参拝しましたが、その手前右手に小さな社があり、その名も岩屋神社。
通常は神社と神宮寺の関係になるわけですが、規模や知名度から言って、
かつての大伽藍神光寺の境内に鎮守社を持って来たという方が正鵠を得ている気がします。

吉川川の対岸に建つ社

橋を渡った場所に建つ石鳥居

鳥居の先にある社殿

拝殿近影
神社は岩屋堂と同じく岩窟内に建てられ、拝殿と本殿は短い廊下で繋がっています。
拝殿屋根は千鳥破風で、柱の木材と相俟って時代を感じさせてくれます。
説明等は一切ありませんでしたが、文化財になっても不思議ではない年代物。
岩屋堂と異なり間近まで行って参拝できましたが、この社にお参りした後に
岩屋堂と言うのが正しい順番の様に思いましたが、順【不動】でも全く問題はなさそうです。

拝殿に掲げられた扁額

横から見た拝殿と本殿
本殿は岩窟にすっぽりと覆われている。

拝殿と本殿は短い廊下で繋がる

本殿近影

拝殿前から見た不動堂
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不動院岩屋堂(真言宗醍醐派)
鳥取県の三朝にあるのが国宝・投入堂。断崖絶壁の岩窟に建つ上に、
そこへ辿り着くまでが険しい断崖を上る事から、付いた名前が「日本で一番危険な国宝」。
巡礼者としては、命に拘らず是非とも訪れたい場所ですが、未だ家族の了承を得られていません。
と嘆いていると似た寺院があるらしく、場所も同じ鳥取県。
鳥取には絶壁に堂を建てる習慣があるのかどうかは知りませんが、
そこは道路から直ぐ見える場所に建つので、危険度も少なそう。

駅前から八東川を遡り南へ
若桜駅で下車して駅前観光案内所に行くと
私 ; 「岩屋堂に行きたいのですが…」
案内所 ; 「たった今、12時40分のバスが出ました。」
私 ; 「でも岩屋堂で下車しても、次のバスまでに時間がかかりませんか?」
案内所 ; 「いいえ、バスはもっと奥まで行くので、岩屋のバス停では30分待ちます。ですから不動堂も十分見れますよ。」
私 ; 「次のバスの時刻は?」
案内所 ; 「14時台ですね。」
と残念な返事。鉄印のツケがここに出ました。
そこでレンタサイクルで目的地に向かう事に。自転車がなければとんだ無駄足に終わるところ。
私 ; 「岩屋堂は無人と聞いているので、御朱印はないですね。」
案内所 ; 「ありますよ。ここで扱っていますが、今は品切れ中です。」
私 ; 「どこのお寺が書いているのでしょう」
案内所 ; 「お寺やなくて、岩屋地区の人達で対応しているようです。」
私 ; 「いつ入荷かは分かりませんね」
案内所 ; 「ええ、日時は不明です。」
私 ; 「申し訳ありませんが、カラーコピーを貰いませんか?代金は支払うので。」
案内所 ; 「それなら、対応可能です。」
私 ; 「じゃあ、帰るまでに御願いします。」
と、コピーながら御朱印を入手できる事に。バスを乗り過ごした分を帳消しにした感じです。
若桜宿から戸倉峠方面へ約5㎞、目指すお堂は八東川に支流の吉川川が合流する岩屋堂集落にあります。
合流点にある池田郵便局で岩屋堂の風景印を先ずは押印。
その後、吉川川を100m程遡った場所に建つお堂に参拝。

池田郵便局 ; 大同元年(806年)草創と伝わる岩窟内に建てられた重文・不動院岩屋堂
若桜郵便局 ; 重文・不動院岩屋堂、氷ノ山のスキーヤー、キャンプ場

吉川川を遡る
中央に見える赤い橋を渡った場所に御堂が建つ。

赤い橋の正面に御堂、右手には岩屋神社が建つ

橋の向こうに階段と岩屋堂が見える

岩屋堂神社橋から見た吉川川
不動院岩屋堂(ふどういんいわやどう)は、
『高さ13m、間口7m、奥行10mの天然の岩窟に嵌め込まれるようにして造られた修験道寺院建築で、
身舎は高さ6間、正面・奥行共に3間の平面規模で、天然の岩窟から迫り出す様に建つ懸造(かけづくり)が
大きな特徴である。屋根は前方が入母屋造、後方が切妻造の栩(とち)葺となっている。
床下を長い柱で支え、華頭窓があり、正面及び東側の廻縁に擬宝珠高欄を備えている。
縁起については、岩屋堂集落所有の『書上帳』等に拠ると、
「大同元年(806年)の創立にして、弘法大師彫鏨の不動尊体を安置し、
弘仁10年(819年)4月七堂伽藍を建設し…」 とある。

重要文化財・不動院岩屋堂

不動院岩屋堂の建築様式

不動院岩屋堂由緒
本尊不動明王坐像についても、弘法大師33歳の時に彫刻されたもので、因幡の黒川不動と呼ばれている。
これは東京にある目黒・目赤の両不動と共に日本三大不動と言われているが、
確証となる資料は発見されていない。また、伝承に拠ると大同元年飛騨の匠が建設したもので、
その後源頼朝が再興したのが現在の建物とされている。
岩屋堂の本寺は妙見山神光寺(みょうけんさんしんこうじ)と言い、150石の寺領を有する大伽藍であったが、
天正9年(1581年)羽柴秀吉の因幡侵攻の際に焼失し、岩屋堂だけが焼け残ったものだと言う。

階段下から見上げた岩屋堂
普段は柵が閉まって居り、参拝はここから。

岩屋堂遠望
江戸時代末期の岩屋堂の姿を描いた書物の一つとして、
「稲葉佳景 無駄安留記」〔逸處米質著安政5年(1858年)〕があるが、
そこには“崖堂 神光寺”の名で紹介され、岩屋堂を中心として
岩屋神社・敦盛社・平家一族の墓の位置などが克明に描かれている。
当時の岩屋堂の様子を今に伝える。

江戸末期の岩屋堂図
この堂は昭和30~32年まで解体修理が行われたが、この時の修理報告書には
柱や舟肘木、華頭窓及び須弥壇の形式から南北朝時代の建立とされている。
岩窟内は雨を凌ぐことが出来るが、通気が悪く建物軸部と屋根部の腐朽が進み易い。
修理ではその傾向も確認された。
また建立されてから幾度となく修理が行われており、特に安永2年(1773年)の修理は
軒廻り・屋根・舞台にまで及ぶ大規模なものであったという。
解体修理を機に一部、安永の修理以前の姿に戻された。

崖の窪みに嵌め込むように建築された岩屋堂

下側から見上げた岩屋堂
鳥取県内では数少ない中世の寺院建築であることから、昭和28年(1953年)国の重要文化財となった。
毎年3月と7月の第四日曜には護摩法要が行われ、本尊の不動明王坐像が一般公開される。』
とあります。
TV等で登場する三仏山投入堂と違い道路からも見える距離ですが、岩窟に建てられた堂は正に絶景。
土地の狭い山腹では懸造と呼ばれる建築法が時折見られますが、岩窟に建てた理由は何でしょう?
説明書きにあるように雪除けの可能性が高いですが、他の投入堂があるのは三朝と豊後。
前者は兎も角、後者は豪雪とは言い難いですし、他の日本海側の出羽や北陸に全くない理由が分かりませんでした。

岩屋堂の足場を支える懸造り

拝見は出来ないが、通気のため蔀戸を開けている
拝観を終えて観光案内所まで戻り、御朱印のコピーを拝受、の予定でしたが、
案内所 ; 「3月に来る予定だった人がキャンセルされて、予約された御朱印が1枚だけ残っていました。」
私 ; 「では、それを頂きます。」
案内所 ; 「日付は3月ですが…。」
私 ; 「日付なら、こちらで書き換えますので大丈夫です。」
との嬉しい話。「残り物には福がある」を地で行く話でした。

不動院岩屋堂説明書
駅前観光案内所にて入手。

観光案内所で入手した御朱印
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 夏の青春18きっぷ、智頭線1日フリーきっぷ & 若桜鉄道フリーキップ
【往路】JR大阪(5:58) → JR姫路(7:30→7:31) → JR上郡(8:05→8:50) → (智頭急行・因美線) → JR河原(10:34) → 徒歩30分 → 船岡〒 → 因幡船岡(11:26) → (若桜鉄道) → 丹比(11:47→12:28) → (若桜鉄道) → 若桜(12:35)

若桜鉄道
丹比駅に入線した隼号。
昨今、鉄印なるものがブーム。専用の帳面を¥2200で購入して、3セクを中心とした地方鉄道の駅で
記入・押印して貰うもので、いわば御朱印帳の鉄道バージョン。
パワースポットの御利益を願った御朱印ブームに肖ったのは明らかで、先ずお城の御城印ができ、
続いて鉄印という流れであったと記憶しています。
後発ながら、「わたしたち鉄印帳はじめました。」というTV番組のお陰で、人気急上昇中。
モデル・女優の若い女性二人が名所・グルメを堪能しながら鉄印を巡ると言うもので、若い女性にも人気だとか。
「観光地に人を呼ぶには、若い女性を呼べば良い。」 とは誰の言葉かは忘れましたが、
企画者の狙いは見事的中したと言えましょう。

JR上郡駅から智頭急行線に乗車
この日、最初の3セク。
私は今の所、鉄印はしていませんが、この日はTVでも取り上げられた若桜鉄道へ。
別段【若さ】に惹かれた訳ではありませんが、JR西日本管内の3セクで唯一の未訪路線。
平日とも相俟って、もう一つの鉄印旅とはなりました。
智頭急行に乗った場合は、JR郡家駅で乗換が普通ですが、一駅手前の河原で下車し、
因幡船岡まで徒歩30分。若桜鉄道沿いは郵便局が駅周辺なので、そのための行脚でした。

船岡郵便局 ; 竹林公園の竹、隼駅とバイクの隼
この日、最初の風景印。隼は隣駅だが、図柄に使用されている。
列車待ちの因幡船岡駅はレトロな駅舎。そこへ現れたのは、緑基調の若桜号。
『若桜鉄道は八頭町から若桜町まで、経済と文化と人を結び、豊かなコミュニケーションを育む公共交通です。
利用する人にとっても運用する人にとっても無理のない、楽しく使いやすい車両デザインをハード・ソフト両面で展開しています。
若桜号は温もりのある木を可能な限り使う事で、人々を優しく迎え入れる心なごむ空間を表現しました。』
とは若桜鉄道の言葉です。

因幡船岡駅全景

駅前に嵌め込まれた「登録有形文化財」の板

レトロな因幡船岡駅入口

駅待合室

きっぷ売り場
但し、駅員さんの姿は見えず。

こちらもレトロな因幡船岡駅ホーム
車両の中は、サロン風な座席で、窓には簾に似せた日除けサッシが取り付けられていました。
以前乗った「ながら号」に似ていると思い、後で駅の方に尋ねると、やはり水戸岡鋭治氏のデザイン。
私はデザインについては素人ですが、氏のデザインには、移動空間というよりも
寛ぐ空間を基調にした貴重な存在と言えそうです。

船岡駅から乗車した若桜号
これは丹比駅で下車した際に撮影。

簾を基調にした若桜号車内の窓
その後、ここもレトロな丹比(たんぴ)駅で下車。
駅の佇まいと文化財になっているのは因幡船岡駅と同じですが、ここは駅舎の一角にモダンな美容室が。
レトロとモダンの共存ですが、駅舎の利用としては秀逸、落ち着いた気分で【りよう】できます。
まさか日本髪専門ではないでしょうが…。
加えてホームには台秤と開かずの金庫が展示。かつてここで使われたもので、TVで紹介されたとか。
金庫と言えばどうしても中身が気になりますが、おそらく重要書類の類でしょう。

丹比駅全景

丹比駅入口

駅待合室

丹比駅ホーム
天浜線でも見た鉄骨の柱が。マニアには垂涎の的と言う人も。

ホームに置かれた台秤と金庫

開かずの金庫

開かずの金庫由緒
駅前局で押印して次の列車を待つと、現れたのは隼号。
これは若桜線の隼駅が、スズキの大型バイク隼の愛好者の聖地とされていることから、
2016年3月20日からバイク隼のラッピングを施して運転している車両。
若桜号とは打って変わってモダンな車両ですが、こんな車両に乗車券だけで乗れるというのも魅力。
3セクは国鉄が経営難で手放した路線が元になっていますが、奮闘していると言えるでしょう。

丹比郵便局 ; 重文・矢部家住宅、扇の山、モミジ

丹比駅に入線する隼号

隼号ラッピング
こうして終点若桜駅に到着。ここは唯一の有人駅なので、鉄印に加えて駅スタンプも設置。
私的には、こちらが本家本元の鉄印。そのもう一つの鉄印も無事押印できました。

若桜駅に到着

若桜駅入口

若桜駅全景

駅待合室
奥にあるのは喫茶室。

智頭急行&若桜鉄道の1日フリーきっぷ

若桜駅に置かれた鉄道関連冊子

若桜駅スタンプ

こちらも駅スタンプ
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加茂川白壁土蔵群
米子に宿泊したお盆の二日目はレンタサイクルで市内を散策。
米子駅からは山陰本線の他、境港線が出ていますが、そのホームの名称は「ねずみ男駅」。
境港市出身の水木しげる氏に因んだ命名です。
高松駅は「讃岐うどん駅」とも呼ばれていますから、昨今の流行りなのでしょう。
境線の車両は鬼太郎のキャラクターがデザインされ、市内にはキャラクターの銅像もあります。
おまけに市内の郵便局の風景印は全て鬼太郎のキャラクターがデザイン。
漫画のキャラクターがそこまで使われるのは流石漫画王国鳥取と感心した次第。

境線ホームにて
米子駅だがここだけ「ねずみ男駅」。霊界への入口かしらん?

鬼太郎と目玉おやじ
ここでは脇役。因みに境港駅が「鬼太郎駅」。

境線二両の先頭は「目玉おやじ列車」

二両目は「ねこ娘列車」

境港竹内郵便局 ; 境水道大橋、砂かけ婆像
境港中浜郵便局 ; 境水道大橋、目玉おやじ像
米子市内に戻ってからは街歩き。「山陰の大阪」とも呼ばれる商都ですが、
鎌倉時代には加茂と呼ばれる小さな漁村にすぎませんでした。
米子が大きく飛躍するきっかけは慶長6年(1601年)に中村一忠が伯耆十八万石城主となり
米子城を築城してから。
中村は断絶しますが、その後入部した鳥取藩主池田家の家老荒尾氏が一万五千石でここを統治。

旧加茂川と白壁土蔵群
米子駅から1㎞強。米子港から荷物を載せた船が行き交っていた往時を偲ばせる。

この先で川は左に直角に曲がる

「加茂川と土蔵」の説明

土蔵前のかっぱの三平

よなごのかっぱ像
水が汚い頃は日野川上流に避難していたが、最近水が澄んできたので加茂川に戻ったらしい。

加茂川に架かる天神橋
領主は変わっても海陸の要衝として繁栄し、米子港に近い旧加茂川の畔には白壁土蔵群や豪商の屋敷、
各種寺院が軒を連ね、江戸から明治にかけての佇まいを今に伝えています。
これほど商売に励んだ背景には、城の維持に多額の税金を掛けられた事実があったようです。
【加茂】にされても【伯耆】せず、これだけのものを造った商人パワーにも関心します。

回船問屋後藤家住宅
加茂川に架かる京橋の袂に建つ。1700年代初頭に建築された母屋・一番蔵・二番蔵が重文。

後藤家住宅説明
但し、内部見学はできず外観のみ。

後藤家近影
本瓦葺きは民家では米子でここだけであるとか。

京橋を渡った先にある寺町通り
約400mに亘って9寺院が通りに並ぶ。

寺町通り案内

心光寺山門
鳥取県指定名勝の江戸時代の庭園が有名だが、生憎留守なのでスルー。

鉄砲小路の蕎麦店にて昼食

米子市マンホールカード
配布場所は米子市観光センター

米子天神町郵便局 ; 天神橋、後藤家住宅、大山
米子加茂町郵便局 ; 米子城址、山陰歴史館、大山
[参考書]
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<コース>
大阪なんば → (高速バス) → JR米子駅前

JR米子駅からスタート
世間はお盆ですが、御先祖の霊を弔うために伯耆・出雲路へ。
出雲は全国の神々が集う出雲大社の鎮座する神々の国ですが、
今回はなぜか寺院参拝。日本神話ならぬ【古寺記】と相成りました。
出雲入りに先立ち伯耆の国へ。鳥取は東が県庁鳥取のある因幡、西が商都米子のある伯耆と二分され
中央付近に古都倉吉と都市が山陰本線沿いに一直線に並んだ県。
市では他にも境港市がありますが、この四市以外は町で駅も委託や無人が目立ちます。

歴史を感じさせる御来屋駅舎

御来屋駅ホーム
山陰最古の駅舎とは驚き。

待合室

文化財のプレートも
展示にはかつての駅スタンプもあったが、押印はできず。
では見所がないのかと言うとさにあらず。歴史上の重要な出来事も起こっています。
特に鎌倉末期の後醍醐天皇を中心とした倒幕で大きな働きをしています。
一度は破れて隠岐に流された後醍醐天皇ですが、地元の豪族・名和長年の助力を得て幕府に抵抗。
それが呼び水となって各地の豪族が立ち上がり幕府を滅ぼした訳ですから、
歴史のターニングポイントとなったと言えます。
後鳥羽上皇が承久の変で敗れて隠岐に流された事で権力基盤を確立した鎌倉幕府が、
同じく隠岐に流された後醍醐天皇に拠って瓦解したと言うのも因縁めいたものを感じますが、
敗れても【ほうき】しなかった事が成就に結び付いた、歴史の【はくび】ともいえるでしょうか?

赤碕港
JR赤碕からJR浦安駅までは線路沿いを徒歩。

御来屋郵便局 ; 隠岐の島、御来屋海岸、桜
赤碕郵便局 ; 船上山の屏風岩、赤碕港、港祭、赤碕神社の龍の彫刻

琴浦町マンホール

道の駅で展示されているマンホール

琴浦町マンホールカード
「道の駅 琴の浦 琴浦町観光協会」 にて配布
と言っても遺跡や文化財の駅舎を訪れる人は稀。人が訪ねるのは名探偵コナン所縁の場所。
作者の青山剛昌氏が東伯郡北栄町出身だからですが、海外からの観光客も多いとか。
列車にも「まんが王国とっとり」のロゴが描かれており、水木しげる氏のDNAは受け継がれているようです。

八橋郵便局 ; 一畑薬師寺、桜、八橋海水浴場
東伯郵便局 ; 三本杉の盆踊り、大山滝

夕食は米子で「のどぐろ茶漬け」
コロナの影響で閉店が多かったのには閉口。
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<コース> 春の青春18きっぷ&智頭線1日フリーきっぷ
【往路】JR大阪(6:51) → JR姫路(7:56→8:01) → JR上郡(8:34→8:50) → (智頭急行) → JR鳥取(10:55)
鳥取駅前 → レンタサイクル20分 → 宇倍神社 → レンタサイクル10分 → 因幡国府跡 → レンタサイクル5分 → 因幡国分寺
【復路】JR鳥取(16:59) → JR智頭(17:48→17:54) → (智頭急行) → 上郡(19:09→19:20) → JR姫路(19:52→19:56) → JR大阪(20:52)

最勝山 国分寺(黄檗宗)
・新たしき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事
(萬葉集 巻二十・四五一六) 大伴家持
一の宮に続いて国府の遺跡へ。
かつての国には全て国府がある訳ですが、ここ因幡は単なる国府ではなく万葉の郷。
萬葉集は天皇・貴族から防人、名も知られぬ庶民までの歌を集めたものですが、
舞台はやはり都のあった奈良が中心。そのなかにあって万葉の郷と呼ばれるのは
太宰府、越中国府(高岡市)、因幡国府(鳥取市)の三箇所。
いずれも大伴旅人・家持親子が赴任した場所です。
彼らは朝廷の役人として赴任しましたが、そこで自ら歌を詠むだけではなく
現地での人を含めた独自の歌壇を形成したと言えるでしょう。
単に歌を詠むのではなく、政治的意向を確かめる、不満を漏らす目的もあったとは思いますが。

国府にある案内板
歌碑は細い道を入った場所にある。

国府を流れる袋川に架かる「さくら橋」にて

庁の大五輪塔
歌碑に向かう途中にある。

大五輪塔の説明
ここは大伴家持が因幡守として赴任した場所。天平宝字2年(758年)、家持41歳。
そして翌年ここで詠んだ文頭の新年の賀歌が萬葉集四千五百余首の末尾を飾る歌となりました。
家持はその後も各地の国主を歴任。最終的に征東将軍となって
多賀城で没したのは延暦4年(785年)、68歳でした。
42歳から亡くなる26年間全く歌を詠まなかったとは思えませんが、
萬葉集には残っていません。彼の心情は想像しかないですが、
政界での地位が上がるにつれて詠む余裕も無くなったのでしょうか?
大伴氏と言えば古代からの名族ですが、
この頃は藤原氏に押されてかつての威光にも陰りが見えた状況。
大伴氏の長として一族を束ねる苦労は並大抵ではなかったでしょう。
結局、家持の最終キャリアは中納言。旅人は大納言でしたので、父には及びませんでした。
しかも死後には陰謀の首謀者として官位を剥奪されるという憂き目に。
「にほふがごとく」奈良の都も水面下では熾烈な争いがありました。

家持の歌碑の建つ一角

万葉仮名で彫られた「新たしき…」の歌

平仮名で彫られた家持の歌

万葉の歌碑

脇にある佐々木信綱の歌碑
彼は萬葉集研究でも有名である。第一回文化勲章受章。

佐々木信綱の歌碑の説明

道を挟んで家持の歌碑の向かいには在原行平の歌が
百人一首にも採られた有名な歌だが、因幡で詠んだ訳ではない。

行平の歌碑説明

因幡万葉歴史館の庭にて

歴史館庭に建つ家持歌碑
犬養孝先生の揮毫。
因幡万葉歴史館の後は国庁跡へ。礎石が残り史跡として整備されていますが人は疎ら。
やはり近世城下町から外れた場所というのがネックになったのでしょう。
古代・中世と近世以降の大きな差異は物流と貨幣経済ではありますが、
拠って立つ基盤が違うことが場所の遷移になったと考えられます。

因幡国庁跡
今は公園となっている。

国庁の礎石
国分寺は国庁跡から数百m南にいった場所。境内に礎石が残るので場所は昔のまま。
最勝山国分寺(さいしょうざんこくぶんじ)は、
『天平13年(741年)、聖武天皇の勅願に拠り因幡のこの地に建立。
本尊は行基作と伝わる薬師如来で、七堂大伽藍と七重塔を備え近隣の崇拝を集めた。
しかし平安末期以降仏教が衰え、戦国時代には戦火に遭うなどして衰退の一途を辿った。
江戸時代の鳥取藩主池田侯の延宝2年、
名刹の衰頽を悲しんだ興禅寺の活禅和尚が黄檗宗最勝山国分寺として再興。
明治29年に地元民の悲願により今の寺院となった。』 とあります。
国分寺で黄檗宗とは珍しいですが、再興に尽力した興禅寺の宗派を採用したのでしょう。
門前に建つと本堂はありますが、いたって簡素。御朱印を御願いすべくベルを押しても不在。
どうもお寺の方は常駐されてはいないようです。
各地の国分寺でも寺院は無くなり跡だけの場所も多いので、
寺が現在まで続いているだけでも凄いですがやはり衰頽の波は如何ともし難いようでした。

因幡国分寺入口
山門はなし。

国分寺縁起

国分寺境内遠景

本堂正面
屋根は因州瓦で、津ノ井付近が産地だそう。

本尊は薬師如来坐像

本堂脇に残る国分寺礎石

礎石の説明

礎石横に建つ十三重石塔

国府郵便局 ; 大伴家持歌碑、因幡の傘踊り、麒麟獅子舞

JR鳥取駅ホームに停車中の若桜鉄道車両
因美線の郡家までは18きっぷで乗車可。
[参考書]
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国分寺の誕生: 古代日本の国家プロジェクト (歴史文化ライブラリー) 新品価格 | ![]() |

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鳥取駅前 → レンタサイクル20分 → 宇倍神社

宇倍神社(因幡国一の宮 式内社 旧国幣中社)
以前に鳥取市内を巡礼しましたが、国府は駅から南東へ行った場所。
そこには因幡政庁跡を始め一の宮や国分寺もあるようですが、興味を引いたのは麒麟獅子舞。
『麒麟が来る』が大河ドラマで放送されている時期でもあり、これは是非とも参拝せねばと。

鳥取駅前にある麒麟獅子舞のモニュメント
いまは動物園にキリン(麒麟)がいますが、あれは正しくはジラフという種類。
麒麟は元々中国で生まれた架空の動物でビールの商標になっているのが真の麒麟。
また仁徳のある王の治世に姿を現す霊獣の第一位とされています。
古代に麒麟が捕まった事を嘆いた孔子が 『春秋』 の筆を折ったという話は有名で、
以後、文章を終える事を「獲麟」と呼ぶようになりました。

麒麟獅子舞のポスター
余談ですが、ジラフを麒麟と呼ぶようになったのは、明の永楽帝以降。
アフリカ東海岸のマリンディまで航海した鄭和が、
現地で「ギリ」と呼ばれていたジラフを中国まで持ち帰ったのが始まり。
記録には『頸長鹿』とありますが、発音が似ていた事、明が興隆期にあった事で
民衆が「麒麟が来た」と騒いだ事で麒麟と呼ばれるようになったとか。
リアリストの永楽帝は最初相手にしませんでしたが、余りにも民衆が騒ぐので見たくなり、
引見すると麒麟がお辞儀をしたとあります。ここまでくると眉唾物の気もしますが…。
この麒麟が日本に入ってきたのは天平時代。
その時代の政庁があった国府の神社に麒麟獅子舞があるのは偶然とは思えません。
唯、麒麟獅子舞は国府だけではなく因幡や但馬の【きんりん】の町にもあるようですが…。
そう思いながら自転車を走らせていると、目的の神社に到着。

道路から見た社標と一の鳥居

神社石段下へ到着
稲葉山の西麓に鎮座する宇倍(うべ)神社は、
『孝徳天皇の大化4年(648年)の創建と伝わる因幡国の一の宮。
平安時代には県下唯一の明神大社、明治4年には国幣中社となるなど古くから信仰された。
御祭神は武内宿禰(たけのうちのすくね)命。
第十二代景行天皇より成務・仲哀・応神・仁徳天皇の五朝に仕え、
東奔西走して国家統一に尽力。我が国初の「大臣」の称号を賜った。
仁徳天皇五十五年、因幡国にて三百六十余歳で薨去。
その故、長寿の神、お金に御縁の神として知られる。
江戸時代の承応元年(1652年)、鳥取藩初代藩主・池田光仲に拠って
麒麟を獅子舞の頭にすることが創設された。これが現在に伝わる麒麟獅子舞であり、
曾祖父である家康の麒麟崇拝と仁徳ある為政者の出現を宣伝したものである。』 とあります。

二の鳥居

二の鳥居から石段を登り境内へ

境内前の幕

石段を上った先から境内を見渡す

拝殿脇の杉の巨木

正面から見た拝殿

拝殿前の門
向こうに見えるのが社務所。

拝殿の扁額

拝殿脇の飛翔の鳥

横から見た拝殿

拝殿奥の本殿
明治31年の再建で、三間社流造。
武内宿禰は戦前に1円・5円等、5回も紙幣の肖像にもなった人物。
その際に社殿も紙幣の図柄に初めて採用されました。お金に御縁があった所以でしょう。
五朝に仕えた事は兎も角、人間が三百歳まで生きる事は生物学的には不可能。
唯、全くの虚構と言うのも言い過ぎで、季節や月を年度と数えた、
或いは一族が五朝に仕えた事を一人の人物に仮託したと言うのが本音でしょうか?
後世の名族の多くも宿禰を始祖としていますが、これも彼の名声に肖っての事だと言えます。
本殿の奥の小高い亀金岡には宿禰が双履(そうり)を残し昇天されたと言われる場所が。
階段を上ると、聖域として囲まれた場所に石が二つ。
これが「双履石(そうりせき)」と呼ばれるこの神社の原点でした。

本殿奥の御祭神終焉の地へ
後方の亀金山にある。

終焉の地へ石段を上る
元は古墳時代の円墳であったと判明。

続く石段の先に御祭神が

木の柵で囲まれた御祭神の地

御祭神終焉の地にある「双履石」

双履石の説明

双履石から本殿と拝殿を見る

上から見た本殿
屋根は檜皮葺で千木・鰹木を置く。

境内にある「七宝水」

社務所横の池
この石のために大臣の長を【そうり】と呼ぶのかは知りませんが、
【総理席】と言うからには、出世の御利益もありそうです。
御朱印を拝受すべく伺うと神社の総代に地元出身の石破茂氏の名が。
彼が【総理席】を狙うのは当然でしょうが、麒麟の効果はどうでしょう?
神社が宇倍ではなく【安倍】だったらなかなか難しいとは思いますが…。

麒麟獅子舞の説明書

宇倍神社説明書

宇倍神社オリジナル御朱印帳
麒麟獅子舞説明書と同じデザイン。御朱印込みで¥2,000。

宇倍神社御朱印

国府宮ノ下郵便局 ; 絵馬の外枠に宇倍神社、麒麟獅子舞、神社社紋である亀崩し紋
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【往路】JR大阪(6:51) → JR姫路(7:56→8:01) → JR上郡(8:34→8:50) → (智頭急行) → JR鳥取(10:55)
鳥取駅前 → レンタサイクル10分 → 大雲院 → レンタサイクル5分 → 観音院 → レンタサイクル10分 → 興禅寺
【復路】JR鳥取(16:59) → JR智頭(17:48→17:54) → (智頭急行) → 上郡(19:09→19:20) → JR姫路(19:52→19:56) → JR大阪(20:52)

龍峰山 興禅寺(黄檗宗)
観音院に続き県庁のある城跡に向かいましたが、
途中にあった寺の案内板に従い、県庁脇の道を400m奥に。
入口の山門は大本山萬福寺に似た中国様で、また本堂前面の格子にも中国様式が見られました。

途中見えた久松山の鳥取城址

街道沿いの家屋

中国様式の山門
龍峰山興禅寺(りゅうほうざんこうぜんじ)は、
『由来は天正年間の池田輝政が岐阜城主だった頃に、
妙心寺の宿老を迎えて開山した「広徳山龍峰寺」まで遡り、
その後の池田氏の国替えに従い都度移転した。
寛永9年(1632年)、池田光仲が幼少を理由に岡山から鳥取に転封になった際に、
初代岡山藩主で伯父に当たる池田忠継の菩提寺を国清寺跡に移したのが始まりである。
万治2年(1659年)に第四世・提宗慧全和尚は黄檗宗開祖の隠元禅師を訪ねた後、
寛文8年に黄檗宗に改宗。光仲もそれを認めたが、妙心寺は認めず二十五年に亘り紛争が続いた。
元禄6年(1693年)、光仲が逝去し、翌年に寺号を妙心寺に返納するに及んで
ようやく和解が成立。以後は光仲の院号を採り龍峰山興禅寺の名称となる。
寺領二百石を有する池田藩菩提寺で、伊達家「大年寺」、毛利家「東光寺」と並ぶ
黄檗三叢林の筆頭である。ただし墓所は異なり国府にある。
また書院の北側には蓬莱山水・池泉鑑賞式庭園があるが、
これは池田光政の時代の作庭である。』 とあります。

境内の様子

本堂
池田家の菩提寺の御霊屋(位牌堂)として文化11年(1814年)に建立。

本堂正面
格子などが黄檗様式に見えるが…。

本堂の扁額

本堂参拝に続いて書院拝観へ

書院の扁額

書院玄関へ
妙心寺派は全国で3,500ヶ寺もある最大級の派なので、
1ヶ寺くらい他宗派に変わってもどうという事はないと思うのですが、
【こうぜん】と反旗を翻したと思ったか、やはり縄張り意識があるのか、
藩主菩提寺なので上納金を失いたくなかったのか、
いずれにせよ院号まで返上させるとは【因業】な話。
隠元は停滞していた江戸初期の禅宗に新風を吹き込んだと言われますが、
この当たりが改宗した原因ともいえそうです。
受付でお願いして庭園拝観。黄檗宗寺院で池泉回遊式庭園は珍しい気もしますが、
元は妙心寺派に属した時代の作庭と知り納得。
観音院に比べると狭いですが、背後の山を取り入れた美しいもの。
昭和の作庭家・重森美玲氏が 「山陰を代表する名園の一つ」 と賛美したのも頷けます。
書院から観賞している時に、お茶とお菓子を持ってきて頂いたのには恐縮しました。
御朱印を拝受したとはいえ、拝観料¥200では、元が取れないのではないか
と非常に世俗的な心配をしながらの庭園鑑賞ではありました。

書院内部
庭園は左側にある。

お茶とお菓子を頂きながら庭園鑑賞

庭園左側
端に手水鉢と灯籠がある。

手水鉢と灯籠

手水鉢と灯籠近影

切支丹灯籠
形式は織部灯籠だが、上部の陰影はラテン語で父を、胴部のアーチ内に神の子を、左右の漢詩は聖霊と三位一体を表す。

築山と池

石は高級とされた紀州産青石

池の出島は亀島を表す

池の右側には築山に渡る太鼓橋が

太鼓橋の近影

築山の背景は裏山の樹林

縁側下の杉苔
境内には伊賀の仇討で知られる渡辺数馬、剣豪・臼井本覚、猪多伊折佐の墓があり、
藩主の墓所がないのを補っています。興味を持ったのは尾崎放哉(ほうさい)の句碑。
中学国語の教科書に
・咳をしても一人
という句も載っていた自由律の俳人。同じ様な句は種田山頭火も作っています。
初めて聞いたときは不思議な印象で、随分変わった人だと思った記憶があります。
しかし放哉は帝国大学を卒業して生命保険会社に勤め支店長まで務めた超エリート。
意中の女性との結婚が認められず、別の女性と結婚したものの退社。
各地を放浪して最後は小豆島で寺男のような仕事をしながら極貧の内に世を去った人間です。
一方の山頭火も防府の大地主の子供に生まれながら幼少期に母親が自殺。
その影響か、一生を放浪で過ごした人です。
二人とも、因幡、防府と中国地方の生まれというのは単なる偶然なのでしょうか?
放哉自身は「金にだらしなく、酒癖が悪く、その上口も悪い」という
三拍子揃った人間だったようで、周りからは白眼視されたようです。
この辺りは石川啄木にも通じるものがあります。
文学作品というのは普通の日常からは生れ難いものとは思いますが、
恵まれた境遇に生まれながら何か一つ歯車が狂ったために
尋常でない生涯を送った人が異端とも言える作品を生んだ事に興味を覚えます。

本堂脇に続く伊賀の仇討・渡辺数馬、剣豪・臼井本覚、猪多伊折佐の墓

境内の桜も満開

これは修行堂か?


境内の尾崎放哉の句碑

・春の山のうしろからけむりが出だした 辞世

興禅寺説明書

興禅寺御朱印
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【往路】JR大阪(6:51) → JR姫路(7:56→8:01) → JR上郡(8:34→8:50) → (智頭急行) → JR鳥取(10:55)
鳥取駅前 → レンタサイクル10分 → 大雲院 → レンタサイクル5分 → 観音院

補陀落山 慈眼寺 観音院(天台宗 中国三十三観音霊場第三十三番札所)
大雲寺巡礼の後は少し北にある観音院へ。
自転車で5分足らずですが歩いても10分程度。
中国地方に点在する観音札所ですが、これほど近いのも珍しいのではないでしょうか?

観音院入口へ到着

参道の桜

山門正面

山門の「補陀落山」の扁額

山門下から参道を振り返る

境内から見た山門
二階部分は鐘楼になっている。
補陀落山慈眼寺観音院(ふだらくさんじげんじかんのんいん)は、
『寛永9年(1633年)、岡山藩主・池田忠雄が死去し、嫡男・光仲が3歳で家督を継承。
しかし幕府は 「備前は手先の国なれば幼少にて叶うべからず」 との政策から
池田宗家の光政を備前岡山藩へ、光仲を因幡・伯耆の鳥取藩へと国替えした。
この時、岡山・露月山光珍寺の四世・宣伝法印は光仲に従って鳥取に移住。
城山に近い栗谷に寺地を与えられたのが嚆矢。
当初は雲京山観音院と呼ばれたが、栗谷が御用地になった事に伴い
寛永16年(1639年)に現在地に移転。その際に現在の号に改めたと言われる。
宝永6年(1709年)には池田藩の祈願所となり繁栄。
今に残る庭園は慶安3年(1650年)から10年を費やして作庭された池泉回遊式庭園。
明治以降、祈願所は無くなったが檀家の努力で今に至っている。
御本尊の聖観音は久松山の岩窟から光を発しているのを発見されたもので、
伝説では行基作。時代を経る毎に大きな寺院に移るので出世観音とも呼ばれる。』 とあります。

山門より見た境内

本堂と書院玄関の唐破風

本堂正面
御本尊は聖観音菩薩。

本堂前面の庇

本堂前から境内を見る

境内の石庭
始まりは藩主の転封。幼少の藩主に交通の【要衝】を任せられないという事情ですが、
石高は31万石から32万石になったので左遷ではなし。
加えて宗家から独立した藩として徳川家からも認められた訳ですから、
結果的には良かった転封。
観音様の出世が、光仲公の一門の出世も導いたと言えます。

書院玄関の唐破風

破風前面の三つ葉葵の彫刻

藩主・池田家の揚羽蝶の紋は破風の後側に彫刻
参拝の後は書院の庭園を拝観。
¥550でしたが、御朱印を御願いすると¥500にまけて頂きました。
観音院庭園は池泉回遊式庭園で書院から眺めるのが習わし。
太閤ヵ平、本陣山が連なる丘陵地を背景に、前に広い池をとっています。
池には鶴島・亀島がありますが、仏像を象徴するようなこともなく、
明朗でわだかまりのない書院の池庭として親近感があります。
と、説明書に記載していました。
抹茶とお菓子を頂きながら縁側で鑑賞。
伺うと背景の山まで寺域だそうで、この広大さが名勝とされる所以でしょう。
無用の用というのはこのようなものを言うのでしょうか?

書院にて庭園を鑑賞
庭は左側にある。椅子に腰掛けて鑑賞も出きるが今回は縁側で。

書院にて

縁側から庭園を鑑賞

抹茶とお菓子
お菓子は二十世紀梨ゼリー

庭園左側

丘陵地を背景に池に亀島(左)、鶴島を配す

庭園中央

庭園右側

亀島近影

書院正面の対岸には滝の石を組み水を落としている

鶴島近影
出島として石を組んでいるが鶴島と見られるほど明瞭には区別されていない。

築山中央部の樹木を植えない逆扇形の芝生地

庭園右端

境内の椿



観音院説明書

観音院御朱印

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他の天台宗寺院でもある?
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鳥取駅前 → レンタサイクル10分 → 大雲院

乾向山 東隆寺 大雲院(天台宗山門派 中国三十三観音霊場第三十三番札所)
かつては全国各地で使用できた18きっぷですが、
整備新幹線ができたことで在来線が三セクに移行するものが続出。
北陸三県で18きっぷが殆ど使えないのも遠いことではなさそうです。
大阪からは鳥取もJRでは行き難い場所。ほとんどの場合は高速バスになります。
ところでネット検索すると智頭急行がこの時期全線フリー切符を発売している模様。
上郡から智頭まででも¥1320なので往復すれば非常に得。
そこでJRと智頭急行のコラボで因幡まで観光を敢行する事に。
コロナの影響で施設の閉鎖は多いですが寺社は無関係。
却って病気平癒の御参りの人が増えるかと思いましたが通常よりも少な目。
やはり観光で行く人が多いという事でしょう。
駅から線路沿いに東へ向かい鳥取立川郵便局へ。
丁度、道路を挟んだ向かいに建つのが大雲院。
中国観音霊場の三十三番と看板にあるので結願寺。

境内全景

大雲院由緒

境内に建つ道標

庫裏の前の松の巨木

境内の椿も見頃
乾向山東隆寺大雲院(けんこうざんとうりゅうじだいうんいん)は、
『慶安3年(1650年)、初代鳥取藩主・池田光仲公の開基に拠り創建。
徳川家康の曽孫に当たる公は鳥取に東照宮を勧進。
その祭礼を司る別当寺として東照宮に隣接して建てたのが嚆矢。
当初の名は乾向山東隆寺大雲院と称し、藩政時代は徳川将軍位牌安置所と
藩主祈願所として寺領五百石、内坊四ケ寺を持つ大寺院として繁栄。
江戸後期の文化11年(1814年)に大雲院となった。
享保2年(1717年)に末寺の雲光院として現在の場所に建てられたのが今の本堂。
明治時代の神仏分離で別当寺の役を解かれ、
現在の地に移転して大雲院の名を今に伝える。』 とあります。
現在の寺域からは想像できませんが、かつては因伯二州の頂点に立った寺院。
江戸時代には藩主の庇護を受けた訳ですから、
如何に明治以降が苦難の時代であったかが分かります。

本堂正面
ここに千手観音菩薩と阿弥陀如来を祀る。

本堂前面

本堂の木鼻

本堂から見た境内

元三大師堂
樗谿の地にあった東照宮別当寺の唯一の名残の建物。
御朱印をお願いすると年配の住職夫人が対応され本堂を開けて下さり、御本尊に対面。
和辻;「阿弥陀様が御本尊ですが、観音霊場なのですね。」
夫人;「阿弥陀様はここにあった大寺院の御本尊、千手観音様は大雲寺の御本尊になります。」
続いて元三大師同、御霊屋も案内頂きました。
和辻;「徳川将軍の位牌が七基しかありませんね。」
夫人;「ここは上野の寛永寺に墓所にある七将軍の御位牌を祀っています。」
和辻;「他の八将軍の分は?」
夫人;「八将軍は芝の増上寺にあるので、ここにはお祭りしていません。」
和辻;「将軍毎に、お寺が分かれているのですか!」
夫人;「ええ、家康公は天台宗と浄土宗を崇拝されましたが、勢力を均衡にしたようです。」
私も増上寺、寛永寺共にお参りしましたが、このように位牌を分けていたとは気付きませんでした。
一つの宗教に肩入れしないバランス感覚は戦国の動乱を勝ち抜き、一向一揆に手古摺った家康ならでは。
御霊屋には将軍家と共に藩主の御位牌もありましたが、将軍に比べると小さく場所も下座。
家康の曽孫とはいえ外様の大藩には、幕府に色々と気を使わなければならない事もあったのでしょう。

御朱印拝受するために庫裏へ

庫裏玄関前から池越しに本堂を見る

大雲院説明書

大雲院御朱印

鳥取市マンホール蓋

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立川郵便局 ; 大雲院、三つ葉葵の家紋、麒麟獅子舞、しゃんしゃん傘
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