<コース>
JR浜田(8:00) → JR江津(8:25) → 徒歩10分 → 江津本町 → JR江津(9:23) → JR益田(10:44) → 観光協会レンタサイクル10分 → 医光寺 → 萬福寺 → JR益田(13:06) → JR津和野(13:37) → 津和野町並み → 弥栄神社 → 太鼓谷稲成神社 → 永明寺 → JR津和野(16:55) → JR新山口(18:51)

覚皇山 永明寺(曹洞宗)
パワースポットに参拝の後は、津和野の巡礼先の永明寺へ。
途中、線路を越えますが、遮断機が下りたままで、周囲には人だかり。
暫くするとSL山口号が駅から踏切へ向かい、バックして駅に戻るところでした。

踏切にてSLやまぐち号に遭遇
かつては貴婦人と呼ばれたC57型だったが、老朽化のためD51に交代。そのため車輪は3から4になった。
そのまま線路を越えて坂を上ると目的の寺院。町内では紅葉の名所としても有名です。
拙い記憶に拠れば、26年前の津和野訪問では訪れた寺社はここ一ヵ所。
街並みの散策に集中した事もありますが、ガイドに掲載されていたのがここだけだったのがその理由です。

寺標を抜け参道を進む

紅葉散り敷く参道

木々の先に山門が建つ
覚皇山永明寺(かくおうざんようめいじ)は、
『応永27年(1420年)、津和野城主であった吉見頼弘が創建したもので、曹洞宗の道元禅師の法孫月因和尚を開山とした。
以来、藩主は吉見氏、坂崎氏、亀井氏と移り変わったが、歴代津和野藩主の菩提寺として繁栄。
江戸時代には石見国一円の禅寺を統括して末寺七十余を擁し、加えて禅道場として雲水も二百人を越え、
寺領として虹ヵ谷村で百石を領していた。

深い木々に囲まれた山門

山門下から参道を振り返る

山門を過ぎて見る境内
中門、本堂、鐘楼が一望できるが、生憎改修中。
当寺は度々火災に遭い、現在のものは享保14年(1729年)の建築。仮普請のままながら畳数四百枚を数える巨刹である。
山門は殿町にあった町門を移築したもので、扁額「覚皇山」は明からの帰化僧心越禅師の揮毫である。
羅漢・涅槃像や藩主の木像、開祖の真筆など寺宝も多い。
殿様御成りの間からの庭園は明治の造園であるが、幽邃な中に四季折々の風情を楽しむことができる。
境内には森鴎外、坂崎出羽守の墓もあり、春の石楠花、秋の紅葉が趣を添える。』 とあります。

中門より見た茅葺の本堂

鐘楼の下をくぐり拝観受付へ

本堂前より中門方面を見る
中庭の綺麗な造りだが、改装中のため残念。

由緒記
吉見・坂崎・亀井氏の歴代藩主の菩提寺ですが、森鴎外の墓があることでも有名。唯、墓石には「森林太郎」とあるのみ。
政治的には陸軍軍医総監まで上り詰め、明治を代表する文豪として名を成した人物にしては余りにも簡素です。
医者でもあった鴎外には死ねば皆同じという意識であったのでしょう。藩主であった坂崎出羽守の墓石にも
「坂崎」と刻まれているだけだそう。生前の功績を考えると却って好感が持てます。

書院の部屋(御成りの間)にて
ここから庭園を眺める事ができる

部屋の襖絵(実際は板に描いてある)

襖絵

縁側からの庭園の眺め
改修中でもその幽邃な雰囲気は十分伝わる。

正面から見た庭園
26年前、御朱印を御願いすると対応されたのが94歳の女性であったのは鮮明に覚えていますが、庭や堂宇の印象は今一つ。
26年前に御朱印を書いて頂いた方は亡くなったそうですが、今回拝受したのはまた違った形式。
四半世紀の時の流れを実感することになりました。
今回の再訪で堂宇と庭園を確認するつもりでしたが、いざ訪れると境内や本堂は工事中。完成は3年後との事。
茅葺の本堂と紅葉の対比が鮮やかだっただけに残念でなりません。何か【用命】を拵えて再訪せねばなりませんが、
それまで【余命】があることを願うばかりです。

寺宝展示室

仏画と陶器

永明寺御朱印
(左) 26年前の94歳の女性の墨書 (右) 今回の拝受
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JR浜田(8:00) → JR江津(8:25) → 徒歩10分 → 江津本町 → JR江津(9:23) → JR益田(10:44) → 観光協会レンタサイクル10分 → 医光寺 → 萬福寺 → JR益田(13:06) → JR津和野(13:37) → 津和野町並み → 弥栄神社 → 太鼓谷稲成神社

太鼓谷稲成神社(郷社 別表神社)
弥栄神社参拝に続いて、津和野川の脇に立つ大鳥居を抜け、九十九折りになった千本鳥居を上る事10分。
市内を見下ろす境内に到着。
太鼓谷稲成神社(たいこだにいなりじんじゃ)は、
『安永2年(1773年)、津和野藩7代藩主亀井矩貞が領民の安寧のため、京都の伏見稲荷から勧進を受け、
城の鬼門に当たる太鼓谷の峰に社を創建したのに始まる。

一の鳥居
殿町通りを過ぎ津和野大橋袂に建つ。赤い橋はJR山口線橋梁。

弥栄神社を過ぎ川沿いを行く

津和野川沿いの二の鳥居
表参道はここから始まる。
元来は藩主のみの崇敬が許される社であったが、明治以降は庶民も参拝できるようになり、中国地方有数の稲荷社となった。
現在の参拝者は年間100万人を数え、最近では「日本五大稲荷」を称している。
日本の稲荷の中では唯一、稲成と表記するが、これは願いが叶う思いに由来。表参道には1047本の朱の鳥居が並ぶが、
その8割が願望成就の奉納、2割が将来への立願となっている。』 とあります。

二の鳥居から見た山腹に続く朱の鳥居

三の鳥居から千本鳥居が始まる

九十九折りの千本鳥居

千本鳥居途中から二の鳥居と津和野川を見下ろす

更に上を目指す

鳥居の並び
千本鳥居と聞くと尻込みしそうですが、鳥居の間隔が狭いのに加え、途中の眺望が時間を忘れさせるのでしょうか、
10分程度で境内に到着。神門を過ぎて正面に見えるのが本殿ですが、こちらは新築。
門の右にあるのが大正12年築の旧社殿。今は元宮となってここから参拝するようです。

朱の鳥居と紅葉と石州瓦

神門へ最後の鳥居

御由緒

神門に到着
海抜213m。
以前に訪れた時に比べると、訪れる観光客は各段に増えているのは確実。浅見光彦シリーズ等のTVドラマのロケ地、
山の斜面に続く鳥居がインスタ映えすると理由はいろいろですが、最も大きいのはパワースポットの地。
本家の伏見稲荷がそうですから、分家の津和野がそうであっても何ら不思議はありません。

境内の様子
正面が社務所、右が元宮。

元宮正面
途中から雨が降り出すという生憎の天気でしたが、境内には多くの参拝者が。
境内からは石州赤瓦の街並みと参道の紅葉も一望、朱塗りの鳥居と相俟って、
正に「赤い、紅いに、朱いなり【稲荷】」でした。

本殿前からの境内の眺め

本殿

境内から見た津和野の町

太鼓谷稲成神社御朱印
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弥栄神社(旧郷社)
街並みを見ながら歩くと、津和野川に架かる津和野大橋にぶつかります。その橋を渡らず、右折すると
城山に無数の鳥居が並ぶのが視界に入ります。そこへ向かっていくとその手前の大きな鳥居と御神木が目に入ります。
これが弥栄神社(やさかじんじゃ)で、社伝に拠ると、
『正長元年(1428年)、津和野城主であった吉見氏が京都祇園社の分霊を太鼓谷山に勧進したのが始まり。
永享9年(1437年)に吉見弘信が現在地へ遷座。城の鬼門を守る社とした。

朱塗りの鳥居
ここが正面になるが、駅から歩くと反対側に出る。

鳥居を抜け境内へ
御神木の向こうが津和野川
城主は吉見、坂崎、亀井と変遷するが、廃藩に至るまで歴代藩主の造営や寄進を受け、庶民の崇敬を集めた。
創建時は「滝本祇園社」と言う名であったが、幕末の慶應3年(1867年)に現在の名に改めた。
6月30日には「輪くぐり神事」が行われ、7月20日と27日に奉納される「鷺舞」は津和野を代表する神事で
国の重要無形文化財になっている。』 とあります。

正面から見た拝殿

拝殿に続く本殿

説明板
津和野の鷺舞は全国的に有名ですが、それに比べて境内の大きさは対照的。
拝殿横の御神木は立派で推定樹齢600年。正長元年(1428年)、吉見氏4代弘信が勧進した際に植えられたとか。
今や天然記念物で神社の【しょうちょう】。落雷で一部枯死したのが悔やまれます。
祇園社を勧進したのであれば八坂ですが、益々栄える“いやさか”の願いを込めて弥栄となったのでしょう。
元来、鷺舞は京都から山口に伝わったものを、津和野城主・吉見正頼が天文11年(1542年)に疫病鎮護のために始めたもの。
本家から見れば孫に当たりますが、今では孫が最も有名になっています。これもいやさか効果でしょうが、
京都も山口も別段【さぎだ~!】とならないのは【御親睦】の賜物とも言えそうです。

御神木 弥栄神社の大欅

弥栄神社御朱印
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殿町掘割付近の津和野を代表する景観
益田を後に、特急おきで山口線を南下。石見の小京都・津和野へ。
萩・津和野と観光で一括りにされますが山口県ではなく島根県。
場所的には石見の小京都ですが、山陰の小京都で通っています。

山口線津和野駅遠景
向こうに見えるのは乙女峠。

JR津和野駅スタンプ
(上) 旧国鉄「わたしの旅」シリーズ (下) 2008年JR西日本 広島支社印
『津和野は青野山の西麓に開けた山峡の町。“ツワブキの茂る野”から津和野と命名された。
戦国時代は大内氏・毛利氏に仕えた吉見氏が支配し、関ヶ原の戦いの時点では毛利支配下であった。
関ヶ原後、東軍に属した坂崎直盛が三万石で入部するが一代で断絶。
因幡鹿野より亀井政矩が四万三千石で入封し、明治維新まで続いた。』 とあります。

吉永米店
駅の東直ぐにあり、庭先の池には700尾の鯉が泳ぐ。

吉永米店の庭池
一声掛けて無料で見学できる。

駅前から殿町通りを望む
源氏巻の店、醸造元が軒を連ねる。

源氏巻の老舗、本町通りにある山田竹風軒本町店
政治的には紆余曲折を経ていますが、城下町は至って静か。掘割には鯉が泳ぎ花菖蒲が咲く。
武家屋敷や家老門が残り、文豪・森鴎外の旧宅があるかと思えば切支丹の聖堂もある。
最近では山腹に続く千本鳥居がパワースポットとして人気があるとか。
様々な見所がある上に、大部分が駅から歩いて見て回れる適度な広さが幸いしているようです。
加えて、うずめ飯・源氏巻といった独自の名物もあって観光地としては拮抗、若しくは萩・山口を凌いでいるように感じます。

津和野カトリック教会
石造りゴシック建築の教会だが、生憎改修中。

教会の由緒記

家老・大岡家の表門

表門の内側は町役場 勿論現役である

家老門と町役場の説明

かつての藩校であった養老館
若き日の森鴎外もここに学んだ。
石高では萩の36万9千石には遥かに及びませんが、藩祖・亀井玆矩(これのり)は山中幸盛(鹿介)の養女を妻にした人物。
尼子十勇士として大内・毛利氏と戦った矜持が町割りにも生きている気がします。尼子の執念とも言えましょうか?
このようにこの地方の中心的な津和野ですが、町役場は遥か向こうの日原に。案内所の方の話では、
平成17年(2005年)に隣接する日原町と合併した際、日原町は天領だったので役場は旧日原町役場になったとか。
いつの時代でも政治は複雑ですね。

旧家老多胡家表門

表門の説明

津和野マンホール蓋
殿町付近の掘割

津和野マンホールカード 配布場所は津和野町観光協会

列車の友は「源氏巻」 ¥300
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JR浜田(8:00) → JR江津(8:25) → 徒歩10分 → 江津本町 → JR江津(9:23) → JR益田(10:44) → 観光協会レンタサイクル10分 → 医光寺 → 萬福寺 → JR益田(13:06)

清瀧山 浄光院 萬福寺(時宗)
医光寺に続いての寺院は川を少し下った場所。自転車ならば数分ですが歩いても10分とは掛かりません。
清瀧山浄光院萬福寺(せいりゅうざんじょうこういんまんぷくじ)は、
『平安時代の建立になる古刹。当初は安福寺と号し益田川河口付近にあった天台宗寺院であった。
万寿3年(1026年)、大津波のため流出、その後、小庵を建てて法灯を守っていたが、
元応9年(1319年)に遊行4代呑海上人が入寺した際に、時宗の道場になった。

入口に到着
益田川右岸の堤防脇に建つ。

朱が鮮やかな山門
応安7年(1374年)、益田七尾11代城主・益田兼見(かねはる)が現在地に移築して萬福寺と改称、
寺領31石を与えて益田家の菩提寺とした。現在の本堂はその時の建築で、桁行7間梁間7間の寄棟造桟瓦葺。
鎌倉様式の建築物として国の重要文化財に指定されている。
重要文化財の「絹本着色二河白道図」ほか「観世音菩薩立像」など寺宝も多く「石見の法隆寺」とも呼ばれる。

重文・本堂
鎌倉様式の穏静簡古な手法で造られている。

本堂の「清瀧山」の扁額

本堂前の雪舟像

いよいよ堂内と庭園を拝観 ¥500

本堂内陣の様子

鎌倉時代作の重文・二河白道図
此岸(現世)の釈迦が往生者を送り出し、彼岸(浄土)の阿弥陀如来が迎える。現世と浄土を結ぶ白道を通って衆生が往生する様を描くのが一般的であるが、この図は現世や浄土を描かず、釈迦と阿弥陀如来が向かい合うという独特の構図となっている。

書院の部屋
ここから庭園を眺める事もできる。
文明11年(1479年)、15代城主・益田兼堯(かねたか)が画聖・雪舟を益田に招き、堂後に石庭を造営。
築山に池と泉を配した池泉回遊式庭園である。
本堂裏の430坪の地に、須弥山石を中央に、右にはやや暗い築山と枯滝を、左は明るく平坦な地と、
明と暗が巧みに使い分けられたもの。心字池を中心に須弥山側が彼岸(来世)、こちら側が此岸(現生)という
仏教の世界観を表した寺院様式庭園である。
慶應2年(1866年)の第二次長州征伐・益田口戦争の際には幕府軍の陣営となり、兵火のために総門は焼失したが、
本堂・庫裏には被害が及ぶことなく今に至っている。』 とあります。

国史蹟及名勝・雪舟庭園
書院の縁側からの眺め。手前の平石が礼拝石、その向こう池の手前が成就石。左の丘の頂が須弥山石、池の奥が枯滝。

ここが現世と浄土を繋ぐ場所
見る人は己の心に従って橋を架けるとの教えである。

本堂方面から庫裏と庭園を見る

本堂縁側より心字池と須弥山を眺める
こちらも雪舟庭園で有名ですが医光寺とは異なるタイプ。作庭はこちらが先ですが、故意に異なる様式を作った訳ではなく、
禅宗の医光寺には武家様式、時宗の萬福寺には寺院様式と使い分けたのが実情でしょう。
拝観を御願いすると住職夫人と思しき年配の御婦人が対応下さいました。
和辻;「庭園の写真はOKですね。」
夫人;「庭だけでなく、堂内どこでも大丈夫ですよ。」
これはまた、えらく鷹揚な寺院と驚きです。
夫人;「お庭を見る際には、池を挟んで現世と来世がありますが、その間に橋は架かっていません。
どのような橋を架けるか、どう進むかは見る人の心次第です。」
和;「行き方は自分で考える訳ですね。」
夫人;「そうです。時間をかけて考える事が大切になります。」
との事。寺院の庭を長時間眺めている人を見ますが、あれはそういう事だったのかと納得。

本堂より見た庭園遠景

本堂北側の庭

萬福寺説明書

萬福寺御朱印 (平成6年拝受)
・古大家の意匠になれる庭を前にして しばらく旅の時をおくる
とは文豪・島崎藤村の残した言葉。私は藤村の様に叙情的な言葉は到底浮かびませんでしたが、学生時代に
「古典は原本で読むように。訳だと訳者の眼を通して読んでしまうからです。」
と言われたのを思い出しました。
二ヵ寺共に雪舟作庭ですが、医光寺(臨済宗東福寺派)が武家様式なのに対して、萬福寺(時宗)は寺院様式。
違いはあっても雪舟作庭に違いはなく、87歳でこの地で亡くなった事を含めて益田には特別の思い入れがあったのでしょう。
石州益田は雪舟の町でもありました。

益田本町郵便局 ; 郷土芸能・石見神楽、萬福寺本堂

益田市マンホール蓋
駅前観光案内所にて。但し、カラーはここのみだそう。

益田市マンホールカード 配布場所は駅前の益田市観光協会
[参考書]
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JR浜田(8:00) → JR江津(8:25) → 徒歩10分 → 江津本町 → JR江津(9:23) → JR益田(10:44) → 観光協会レンタサイクル10分 → 医光寺

瀧蔵山 醫光禅寺(臨済宗東福寺派)
江津駅から9時台の列車で終点の益田まで移動。石見の西端で交通の要衝、鎌倉時代には城が築かれた城下町。
いまでも山陰本線から山口線が分岐する要衝には変わりませんが、列車の本数は少なく、
特に山陰本線の萩・長門方面は昼間休業状態。特急は全て益田から山口線に入ります。
同じ石見地方で津和野という観光地を控えているので、当然とも言えますが、
自家用車のない石見の人はどのように萩に移動するのでしょうか?

JR益田駅スタンプ
(上) 旧国鉄「わたしの旅」スタンプ (下) 2008年 JR西日本米子支社管内設置
到着して直ぐの列車が出発すると次の山口方面の列車は2時間後。程よい時間なので益田川沿いの二ヵ寺に参拝。
門前まではバスが頻発していますが、晴天のこの日は駅前観光案内所でレンタサイクル。

益田川に架かる大橋より
向こう岸に朱く見えるのが萬福寺、その先の新橋の向こうが医光寺。

終点のバス停から直ぐにある医光寺総門
島根県指定有形文化財で、高さ4m、幅4.5m。

横から見た総門
かつての益田七尾城大手門を移築した。

総門説明
医光寺、正式には瀧蔵山醫光禅寺(たきぐらさんいこうぜんじ)は、
『貞治元年(1363年)、瀧蔵山崇観寺(すうかんじ)として今の西方に創建された天台宗寺院が嚆矢。
斎藤長者の妻・直山妙超大姉の本願に拠って、東福寺の法系、竜門士源を開山とした。
寺領は1500石、領主益田氏9代兼弘の保護と援助を受け、菩提寺として栄えた。
11代兼見は「祥兼置文」で領内の寺院に示達を与えている。

総門より見た医光寺遠景

石段の上の中門

中門の装飾と彫刻
その後、17代益田宗兼が現在の地に医光寺を建立し保護を加えたので崇観寺は衰頽、
更に堂宇の火災もあって医光寺と合併した。
総門は七尾城の大手門であったものを関ヶ原の戦い後に移転。承応年間以降、竹田の番匠に拠り
屋根を竜宮造りに改造した。2本の太柱に2段の屋根を掛け、大扉を付けた手法である。
堂宇は享保14年(1729年)の大火で延焼。その後、再建され今に至っている。

中門より見た境内
本堂の奥に開山堂が建つ。

正面から見た本堂

開山堂近影

中門右手の鐘楼

医光寺開基・益田宗兼墓
文明年間(1469~1487年)には画聖・雪舟が第5世住職として萬福寺より入山。
寺の裏山を利用して西南向き666坪の池泉鑑賞半回遊式庭園を築いた。
鶴を象った池の中に亀島を浮かべた鶴亀を主体とした武家様式庭園。寺院様式庭園の萬福寺とは対照的である。
現在の庭園は享保の大火後の再建であるが、蓬莱型山水様式の庭園として雪舟時代の特色を今に伝えている。
雪舟は晩年益田に戻り山寺東光寺(現;大喜庵)に入山し87歳で入寂。
医光寺で荼毘に付された遺骨は雪舟灰塚として境内にある。』 とあります。

本堂裏の縁側から眺めた雪舟庭園
鶴を象った池の中に亀島を浮かべる。

西側の丘にある須弥山石からは枯滝石組を造り、東の枝垂れ桜とバランスをとっている

亀島と枝垂れ桜
亀の背には中心石と三尊石を置く。枝垂れ桜が満開になるとTV放映される程有名であるとか。

本堂縁側と雪舟庭園

庫裏から見た本堂と庭園
益田は万葉の歌聖・柿本人麻呂ゆかりの町ですが、画聖・雪舟の故地でもあります。
どちらが偉大というのは野暮な議論ですが今に伝わるとなると1300年前と600年前ではどちらに軍配が上がるかは明らか。
我が国の山水画を大成した人物としての著名度が大ですが、雪舟は僧籍にあった人物でしかも禅僧。
作庭に秀でていても不思議ではありません。

本堂内部の書院
ここに座って庭園を眺める事もできる。

開山堂内陣の様子

開山堂の羅漢像

境内の外れにある雪舟灰塚
それよりも備中で生まれた彼が、何故ここまで益田に執着したのか?
周防の大内氏を頼った雪舟は47歳で明国に渡り、寧波で「四明天童第一座」に推された画力を持ちますが
修行の為に中国各地を訪れています。絵画以外にも得た情報は多かった筈。
大内氏の経済力は大陸交易が主ですから、雪舟には今風の商社駐在員の役目を期待していたのではないでしょうか?
連歌師飯尾宗祇や俳聖松尾芭蕉にもそんな話が伝わっているので、晩年まで益田を離れなかったのも
彼を重視した大内氏が外交顧問として手元に置いておきたかった気がします。
大内氏は近世大名としては生き残りませんでしたが、雪舟の残した遺構の威光が
現在まで人を呼んでいると知ったら、泉下の彼らはどう思うでしょうか?

雪舟和尚肖像画
安政12年(1856年)、350回忌法要に合わせて作成されたもの。

益田宗兼肖像画

庫裏にある金山西湖図屏風
江戸中期の雲谷派の手になるもの。

医光寺オリジナル御朱印帳 表と裏面

医光寺説明書

医光寺御朱印

益田郵便局 ; 雪舟庭園、雪舟廟大喜庵、柿本神社
益田染羽郵便局 ; 雪舟庭園、医光寺総門
[参考書]
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天領江津本町甍街道
この処、やたら「Go To」と言う掛け声があるので、西方巡礼2日目は石見の江津へ。
その名の通り中国地方第一の大河、江の川河口に開けた港町。初めて訪れたのは平成7年で広島の三次から三江線経由。
駅前のお好み焼き店でGの原選手の引退セレモニーをTV中継で見ながら昼食をとって13時台の列車に乗りましたが、
終点江津へ着いたのは18時過ぎで夜のとばりが下りていました。
二度目の三江線は、江津から始発列車で石見川本まで行き8時過ぎの列車で江津へ戻った2008年。
片道32㎞に1時間かかったのが強烈でした。その路線も二年前に廃線。今は山陰線が唯一の路線です。

山陰本線江津駅舎

JR江津駅スタンプ
(上) 旧国鉄時代の「わたしの旅シリーズ」 (下) 2008年設置のJR西日本米子支社印
三江線の本数の少ないのは有名(1日5本)でしたが、山陰線も御多分に漏れず。所用の後、
次の列車まで1時間あったので町を散策。なんでも江津は天領だったそうで、駅前観光案内書の方に伺うと、
本町付近には石州赤瓦の町屋が並び『天領江津本町甍街道』とネーミングされているとか。
「いらか街道」であって「いなか街道」ではありません。
かつては三江線で江津から1駅目に江津本町という駅がありましたが、廃線となったので徒歩で訪問。
尤も、始発6:00の次が12:34では乗る人もいないでしょうが…。

江の川左岸より見た郷川鉄橋
JR山陰本線が通る。その向こうには国道9号線の通る下江川橋。

鉄橋の直ぐ上流に架かる新江川橋
国道9号線バイパスが通る。

江の川左岸堤防に建つかつての上江川橋の碑
駅から東へ進み江の川沿いの堤防を南下。日本海側には国道9号線が走る下江川橋が架かり、
その横にはJR山陰本線の郷川鉄橋が。大正9年(1920年)に完成し全長480m。
鉄道開通に拠って町の中心は本町から駅周辺に移りました。
江の川の直ぐ上流には国道9号バイパスの新江川橋が。かつては二艘の渡船が連絡し、
初代の上江川橋は船橋で明治37年(1904年)の設置。
以降、洪水や劣化によって六度架け替えられ平成5年に設置されたのが現在の橋です。
その横にはJR三江線跡の線路が。大正15年(1926年)着工し昭和5年に開通。
江の川に沿ったとはいえ、高架橋や隧道など難工事だったと記録にあります。
江津本町駅は昭和33年開業した無人駅。廃線が平成30年ですから丁度還暦でした。

かつての三江線の線路のあった第二江津橋梁
江津本町駅はこの左側にあった。

第二江津橋梁にある説明

JR三江線石見川本駅スタンプ
2008年にJR西日本管内に設置された印の内、三江線にあった唯一のもの。まさか10年の寿命とはその時は夢にも思わず。
三江線の橋梁から西へ延びているのが天領江津本町、
『江津本町は、古くから江の川の舟運と日本海の海運の要所として栄え、寛文年間に上方航路が開かれると
北前船の寄港地、天領米の積出港として川岸には40~50隻の帆船が林立。
西の浜田で入港を待ち合わせる船がある程の混雑であった。
川岸から町中に向け多くの廻船問屋の蔵屋敷が軒を並べ、その中心を山陰道が貫き、東は大森銀山、
西は浜田へと向かう石見では大森銀山に次ぐ賑わいを見せた。

橋梁下から続く旧山陰道
ここからが甍街道のメインストリートになる。

国の登録文化財・旧花田医院
江津の瓦は赤色が主であったが、昭和9年にカーキ色が国防色となったため、この屋根瓦も黄色を基調としたものになった。

国の登録文化財・藤田家住宅(五島屋)
嘉永6年(1853年)の築で屋根の上の煙出しが特徴。江戸時代には「五島屋」として銑鉄を扱う回漕業を営んだ。

藤田家住宅の脇道からの眺め
奥には山辺神社が鎮座する。
幕末の慶應2年には大村益次郎を参謀とする長州軍振式隊450余名が進駐し、明治2年まで本陣が設置。
明治40年には東宮時代の大正天皇が宿泊する栄誉に浴した。
江津本町は郷田村、江津町、江津市と変遷する中で行政経済の中心として栄えたが、
昭和37年の市庁舎の移転に拠りその中心的役割を終えた。しかし江戸期から昭和初期にかけての繁栄ぶりは
役場、郵便局や数多くの商家土蔵などの歴史的建造物群で伺う事ができる。』 とあります。

藤田家住宅の脇を抜け裏手の本町川通りへ

横田家住宅(沖田屋)
江戸時代初期に当地へ移り、回漕業で財を成した。飢饉対策や開墾に私財を投じた事でも知られる。

藤田家住宅とその向こうに建つ高原家住宅
高原家住宅は元治元年(1864年)の築で、大工棟梁は松見屋角之助の記録が残る。主屋の格子が特徴である。

飯田家住宅(釜屋)
初代江津市長の家で、門前には御影石の橋が架けられている。

国の登録文化財・旧江津郵便局
三代目局長(明治17~28年)の飯田源之亟が建てた擬洋風建築物。郵便制度間もない頃の局舎として全国的にも貴重である。
下調べ不足と時間不足のため、十分に見る事は叶いませんでしたが、成程、世界遺産の石見銀山や
温泉津の街並みと共通するものがありました。現在の鉄道や道路事情からは想像できないような繁栄がありましたが、
その後の変遷でタイムカプセルになったようなものでしょうか?
大森銀山もかつては閑古鳥が鳴くような場所でしたが、世界遺産に認定されてからは観光客が押し寄せ
【銀座】状態だとか。江津もそうなれば集客できるでしょうが、落ち着いて見るにはもう少しこのままであって欲しい気もします。

本町川沿いの城構(とがまえ)
幕末、長州藩の陣営建設を命じられた庄屋であり酒造業を営んだ飯田六郎右衛門が築いたもの。現在は石垣と土塀が残る。

江津市マンホール蓋

江津市マンホールカード 配布場所は江津市観光協会

江津本町郵便局 ; 天領江津本町甍街道と旧江津郵便局
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<コース>
JR松江(7:24) → JR安来(7:52) → 駅前レンタサイクル25分 → 雲樹寺 → レンタサイクル10分 → 清水寺 → レンタサイクル40分 → 月山富田城址 → 城安寺 → 巖倉寺 → 城下町 → 洞光寺 → レンタサイクル40分 → JR安来(15:50)

金華山 洞光寺(曹洞宗)
昼食の後は、広瀬でこの日最後の巡礼。
川沿いから四筋内に入った道から少し山手に行った所が目指す場所。
金華山洞光寺(きんかざんとうこうじ)は、
『文中年中(1468年)、尼子清定公によって備後国高野山金尾に開創されたのが嚆矢とされるが、
清定公或いは経久公が月山富田城北麓の小山を旧地金尾を名付け
高野山より移築したのを文明年中(1469~1488年)に移築したという記録もある。
更に明応8年(1499年)経久公に拠り亡父清定公の墓地を寺内に設け、
洞光寺を尼子氏菩提寺としたとする説もある。

寺の駐車場から見た全景
城塞の如く石垣の上に建つ。

階段を上り境内へ

入口正面にある本堂

本堂の「金華山」の扁額
左にあるのは尼子氏の四ツ目紋。これは主家の京極家(近江源氏佐々木氏)と同じである。
経久は伯耆国定光寺第四世大拙真雄和尚に帰依し、軍務の暇を見ては参禅し教えを乞うていた。
洞光寺開創に際し、経久は大拙和尚に請い開山第一世とした。以後、尼子義久公が
毛利の軍門に下り富田城を明け渡すまで四代に亘って定光寺より住持僧を迎える事となった。
慶長16年(1611年)、堀尾吉晴の時代に富田から松江に移城の際、洞光寺も移転。
松江松平家初代藩主・直政公の次男近栄公が広瀬藩を開く際に、
再び金尾の地に移り清定・経久両公の墓所を護ることとなった。

寺務所から見た本堂と向こうに見える坐禅堂

同じく寺務所前に広がる庭と鐘楼

本堂からの眺め
正面の遥か向こうに聳えるのが月山富田城跡。

境内に建つ尼子氏歴代追悼碑

碑の由緒記
金尾洞光寺は度重なる大洪水に被害を受け、寛永年間(1624~1643年)に現地へ移転を余儀なくされた。
明和6年(1769年)の火災に拠って伽藍・古記録を全て焼失。その後、寛政元年(1789年)に現在の本堂が落慶。
八代広瀬藩主・松平直寛公に『山陰の禅窟』と謳われる程、曹洞の禅風を今に伝えている。』 とあります。

裏手の墓地の中央にある尼子清定・経久両公の墓所

墓所の説明

墓所から見た本堂と坐禅堂
この寺も移転を繰り返していますが、それも城主の変遷の余波。
本堂正面からは遥かに富田城が見渡せます。色々と理由はあるでしょうが、
富田城に拠り山陰一帯を支配下に置いた尼子氏に敬意を表したとも言えましょうか。
難攻不落と言われた名城も遂には毛利に下る事になりましたが、
まさか【投降時】という名前のせいではないでしょうが…。

墓所から遥か月山富田城跡を望む

城跡遠望

洞光寺説明書

洞光寺御朱印
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JR松江(7:24) → JR安来(7:52) → 駅前レンタサイクル25分 → 雲樹寺 → レンタサイクル10分 → 清水寺 → レンタサイクル40分 → 月山富田城址 → 城安寺 → 巖倉寺 → 城下町

飯梨川沿いの道路から見た月山富田城跡遠景
月山富田城は標高190mの月山を中心に、飯梨川(富田川)に向かって
馬蹄形に伸びる丘陵上に多数の防御施設を配した戦国屈指の山城。
戦国大名となった尼子氏居城として栄えた後は、毛利・吉川氏が在城し、
関ヶ原合戦の後に入城した堀尾氏が慶長16年(1611年)に松江に移るまで出雲の中心として栄えた。
寛文6年(1666年)に未曾有の大洪水に見舞われるが、同時期に松江藩支藩の広瀬藩が置かれ陣屋町として再び蘇った。
創業300年の酒蔵や老舗の割烹、伝統工芸品や和菓子の店が今も面影を留める場所となっている。』とあります。

富田橋の上から富田城跡を望む
欄干の彫刻は山中鹿介に所縁の三日月。

城下町南端の新町付近
右の建物は創業300年の老舗割烹「荒島屋」。山菜料理が自慢であるが要予約。

レトロな街並み
中央は明治3年から続く藍染の紺屋。要予約で藍染体験も可能。
城下と街並みが離れているのは普通ですが、飯梨川を挟んで右岸が城、
左岸が町屋と綺麗に分けられているのも戦国時代の特徴でしょうか?
町屋を走るとレトロな街が続きます。ここに富田城が築かれたのは、
山城として要害の地であった事に加え、飯梨川の水運が大きかったと思えます。
城下町が松江に移った後、普通ならば、旧城下町は衰頽するものですが、
江戸時代になって陣屋が置かれたのは、未だに広瀬が重視されたからに相違ありません。
地理的には出雲ではかなり山間になりますが、江戸時代には
中国山地からの物資の集散地としても役割が大だったのでしょう。

城下の中央にある吉田酒造
文政9年創業の老舗蔵元で、煉瓦の煙突が目印。

吉田酒造脇の「お茶の水井戸」
島根名水百選の一つで、毎日やかんを持った人が水汲みに訪れる。

吉田酒造入口
杉玉と銘酒「月山」の名前が。

石州瓦と海鼠壁

酒造前のレトロな街並み

酒造の看板「月山」の向こうに月山富田城跡が見える
正午を過ぎましたが、ここで昼食。ところが、案内図にある食事処は軒並み閉店かテイクアウトのみ。
お盆なのか、コロナなのかはわかりません。
唯一、開いていたショッピングセンター内の食堂「川西屋」でチャーシュー麺を注文。
汗だくで走ったので、これで生き返りました。〆はフルーツパフェ。
和菓子で有名な松江なので、塩分と糖分を両方補給。
【あまご】所縁の場所なので当然ですが、これで【とうぶん】いけそうです。

城下町で糖分補給

安来駅まで戻って老舗料亭前にて

国登録有形文化財「山常楼」
明治の頃から現在まで続く老舗料亭。

趣のある山常楼玄関
昼の定食「鰻」とあったが、今回は断念。

山常楼説明

安来市マンホール蓋

安来市マンホールカード 配布は安来市観光協会(JR安来駅構内)
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睡虎山 巌倉寺(高野山真言宗 出雲観音霊場第十八番札所)
月山富田城の入口に建つ赤門
城安寺巡礼を終えて、富田の町に移動すべく道を行くと、富田橋の袂に赤門が。
と言っても東大ではなく、城へ登城する菅谷口にある城安寺に対し、
もう一方の御子守口にあるのが巖倉寺。
こちらの方が急斜面、境内も狭く城を守る位置にあるのが分かります。
ここを寺で守れば城に【おこもり】するのも容易なのでしょう。
睡虎山の扁額を通り、車も通れない参道を上ると石垣の上にお寺が。

坂を上り仁王門を潜るといよいよ境内

参道から見上げる石垣
この上に本堂がある。
睡虎山巌倉寺(すいこさんいわくらじ)は、
『神亀3年(726年)、行基菩薩に拠って開かれたのが嚆矢。当初は山佐の地にあったが、
出雲・隠岐の守護となった佐々木義清が現在地に移転、祈願所とした。
守護の祈願所となった事で最盛期には十五ヵ寺を有する大寺となったが、
その後度重なる兵火で衰頽した。
本尊の聖観音像は平安時代初期の作で脇立ちの帝釈天像と共に重文。
檜の一木造で出雲様式と呼ばれるものである。
境内には初代松江藩主・堀尾吉晴の墓碑と尼子忠臣・山中鹿介の供養塔がある。
加えて、第十九番札所観音寺の御堂も同じ境内にある。』 とあります。

巖倉寺本堂
鄙びているが風格を感じる造りである。

本堂の「睡虎山」の扁額

本堂からの眺め

横から見た本堂

巖倉寺御朱印
出雲観音巡礼札所。冊子形式なので次の札所の説明と御詠歌の頁が付いている。
寺号はかつての磐座信仰の名残でしょうが、山号は睡虎山。酔虎ならば酔っ払いですが、
睡虎と言うからには、この城は普段は眠っているが怒ると恐ろしいという意味も含めたのでしょう。
権謀術数で出雲守護にまでのし上がった尼子氏らしいと言えますが、
そんな月山富田城も近世城郭として残る事は出来ませんでした。
そんな城を思ってか、寺院は庭園等もなく本堂が佇むのみ。
寺務所で御朱印を御願いすると、御住職が書置きを出して下さいました。
場所柄、あまり訪れる人もいないと思いますが、準備万端なのは流石。
やはり札所だからでしょうか?私の方も、抜け目なく十八&十九と二ヵ寺拝受しましたが。

泰平山観音寺
巖倉寺本堂の奥にひっそりと建つ。札所と言ってもこの観音堂のみ。

観音寺御朱印
[参考書]
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雲龍山 城安寺(臨済宗南禅寺派)
清水寺参拝を終えるとお昼前。ここから安来に戻っても、夕刻の米子からの高速バスにはちと早すぎ。
もう一つの観光地月山富田城は駅から15㎞、清水寺からでも12㎞位あります。
お盆の炎天下に自転車はきつそうですが、えいままよ!と城址へ。今は安来市内ですが、
かつては広瀬町として独立した行政区。松江に城が移るまで、ここが出雲の中心地でした。
清水寺から伯太川を渡り飯梨川にぶつかった所で川に沿って南下。
しばらく走ると川の左手山上に山城らしきものが見えたら広瀬地区。
城の様子は播但線から見える竹田城や平福の利神山城に酷似。これも戦国時代の山城に共通する造りなのでしょう。

広瀬地区から見た月山富田城
雲龍山城安寺(うんりゅうざんじょうあんじ)は
『正和年間(1312~1317年)、古愚(こぐう)和尚が創建。創建時は現在の福祉センター付近にあった。
慶長5年(1600年)月山富田城主となった堀尾吉晴は春龍和尚を招き寺を再興、菩提寺とした。
三代・忠晴の時に城が松江に移ると城安寺も松江に移転した。
堀尾家断絶後、松江を治めた松平家の寛文6年(1666年)、松平近栄が本藩から広瀬藩を分知。
元覚和尚に拠り城安寺を菩提寺として尼子氏居館跡に移転。かつての寺跡には広瀬藩邸が建設された。

由緒記

石段の先にある山門

境内から見た山門
広瀬松平家九代・直涼の寄進に拠るもの。

山門から見た境内

本堂正面
重文・広目天、多聞天を祀る。内陣拝観は可能だが、生憎修理中のため拝観できず。
更に明治19年には火災や洪水の被害を受け、隣接する現在地へ移転。寺跡は墓地となった。
唯一被害を免れた山門は、広瀬松平家九代・直諒(なおあき)の寄進に拠るもので、扁額も彼自身の書。
また本堂に安置されている木造・多聞天像と広目天像は鎌倉時代の作で重文。彩色された像として有名である。
その他、絵巻物等も所有するが、書院奥の日本庭園は明治中頃の作庭で有名。
益田にある万福寺の庭園を似せたとも伝わり、「雪舟写しの庭園」と呼ばれる。』 とあります。

本堂前の欄間の彫刻と扁額

本堂から見た庭と山門

書院入口に掛かる松平家の家紋
寺は城へ上る菅谷口手前にあります。由緒から城の変遷に伴い数々の引っ越しをしていますが、
これは城を安んずるという名前が好まれたのでしょうか?
火災を免れた山門を越えると本堂が正面に。御朱印を御願いすると、御住職夫人が対応されて、
夫人;「住職は所要で外出して居りまして…。」
和辻;「書置きなどはあるでしょうか?」
夫人;「そういったものも置いてなくて、申し訳ございません。」
和辻;「彩色された四天王像は何処でしょう?」
夫人;「これも修理中で、見れないのです。」
とすべて空振り。

書院奥の日本庭園へ
屋根の石州瓦が映える。

庭園全景

庭園左側
唯、庭園は拝観可能。通常、予約と拝観料が必要なようですが、お金は取られませんでした。
御朱印と四天王像が駄目だったので、気を遣われたのでしょうが、却ってこちらが恐縮。
すべてを【がっさん】すると【とんだ】事にはなりませんでした。

池と築島の見える庭園中央

庭園右側

樹木に彩られた庭園
[参考書]
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瑞光山 清水寺(天台宗 中国観音霊場第28番札所)
27番札所に続き28番札所へ。雲樹寺の前の道路を走り四つ角を右折して細い道を進むと大門下の駐車場へ。
観光地らしく広い駐車場に自転車を停めて参道へ。
晴天のため強烈な日差しを怖れましたが、参道の両脇の樹木が日除けとなってくれました。

駐車場に停めて参道へ向かう

108の石段を上り大門へ

大門に到着
樹木には千年杉もありますが主流はモミジ。昨日訪れた鰐淵寺同様、紅葉の名所としても有名です。
本堂に向かう途中には松琴館・紅葉館と二軒の料理旅館があり精進料理が目玉。
手頃な値段でもあり期待しましたが開店は11時過ぎ、今回は素通りとなりました。
参道を上り少し広い場所に出ると石垣の上に根本堂が聳えます。

木々に囲まれた参道を抜け本堂へ向かう

境内の老舗旅館・紅葉館
参道を右に入った場所にあり、境内を通した三重塔の眺めと精進料理が自慢の宿。

石段を上った先にある開山堂
瑞光山清水寺(ずいこうざんきよみずでら)は、
『用明天皇2年(587年)、尊隆上人が開基。その後、衰頽するが
大同元年(806年)平城天皇の勅旨を受け盛縁上人が再興した。
承和14年(847年)には入唐から帰朝した円仁が立ち寄り光明真言会が創設、天台宗に帰依した。
その後、火災と復興を経て、現在の寺域が定まったのが明徳4年(1393年)頃。
最盛期には四十八坊を有する山陰屈指の天台宗寺院となった。

石段の上から見た境内全景
中央の高燈籠の向こうが根本堂、奥が三重塔。左手の店が休憩所の黒田千年堂。

高燈籠を左に下りた場所に建つ光明閣
清水寺寺務所を兼ね、松江藩歴代藩主が参拝の折に使った「お成りの間」、広大な庭園がある。

光明閣の庭を囲む塀

塀の隙間から見た光明閣庭園

光明閣からの眺め

石段を上り根本堂へ
しかし戦国時代の尼子・毛利氏の兵火に遭遇し根本堂を除く建物を焼失。
後に毛利氏・松江松平氏に拠り復興が計られ、安政6年(1859年)には三重塔が建立された。』
とあります。
場所は山腹ですが、ここに清水が湧き出ていたのが名前の由来。
根本堂で平成3年に井戸が見つかり今も聖水が湧出。
その奥にある三重塔に向かう右手にあるのが薩雲若(そうにゃ)池で明礬水が湧き出ると言われます。

石段を上った先にある護摩堂と根本堂

護摩堂前にある千年杉
境内屈指のパワースポットとして有名。

明徳4年(1393年)建立の重文・根本堂
「黒馬」「弁慶のねじり桜」「尼子十勇士」の絵馬が奉納されている。

根本堂近影
平成3年に井戸が見つかり今も聖水が湧出している。

根本堂前の清水寺縁起

根本堂脇から見た千年杉
用明天皇時代の創建は多分に伝説的なものがありますが、
境内から湧く清水に目を付けた僧がここに創建したのはほぼ確実と思われます。
四十八坊には及びませんが、今も二十を超える坊が立ち並ぶ大伽藍。
根本堂下の蓮乗院・光明閣は書院・庭園が有名で是非とも拝観したいと思いましたが今は拝観停止。
訊いたところコロナの影響ではなさそうでした。拝観できなかったのは残念ですが、
重文・根本堂から三重塔に続く境内は見応え十分。しかも拝観料不要というのも魅力的でした。

根本堂脇の毘沙門堂
慶長年間に米子藩主の寄進に拠るもので、弓で射た金剛仏を納めた毘沙門天を奉納したと伝えられる。

根本堂と毘沙門堂の間を抜け三重塔へ

薩雲若(そうにゃ)池
池の水に二人の姿を映せば、二人の未来はハッピーになるという縁結びスポット。ハート型で明礬水の湧き出る池である。

石垣の上に建つ三重塔
山陰唯一の三重塔で、清水寺のシンボルでもある。

登楼することもできる三重塔
安政6年(1859年)から住職二代・大工三代が心血を注ぎ33年の歳月をかけて完成した。

三重塔の木鼻と垂木部分

三重塔の垂木と彫刻
御朱印拝受を終え一服。見ると西村堂・黒田千年堂・深田豊隆堂と休憩所が三軒あり、いずれも清水羊羹の看板が。
伺った所、羊羹は清水寺名物だそうで今でも四店舗が製造販売しているとか。
隣接した黒田千年堂・深田豊隆堂で二個ずつ購入。いずれも素朴な味でした。
巡礼者が糖分補給するのに丁度良いというのが理由でしょうか、帰りには土産に購入。
安来節と違って荷物にはなりましたが、値段が【安来】なので良しとした次第です。

土産に購入した清水羊羹

清水寺説明書

清水寺御朱印

安来中郵便局 ; 清水寺三重塔、十神山、安来節踊り
安来郵便局 ; 清水寺三重塔、十神山、安来節踊り、桜、温泉マーク
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瑞塔山 雲樹寺(臨済宗妙心寺派 中国観音霊場第27番札所)
巡礼四日目の最終日は、安来市内を散策。
安来と言えば、どこの県かは知らない人でも「どじょう掬い」は知っています。
ドジョウはほぼ全国に棲息し、左程珍しい魚でもありません。
それなのにここ安来でのみドジョウ掬いが生まれたのか?
ドジョウ掬いは男踊りと女踊りがあり、有名なのは男踊り。で男がザルを持ってドジョウを追い駈ける訳ですが、
この動きは、たたら製鉄に従事する人が砂鉄を選り分ける動きが元になったという説があります。
出雲地方は長らく日本のたたら製鉄の伝統が続いた場所。
それならば、どじょう掬いが安来で生まれたのにも頷けます。

JR安来駅前にて
石像はドジョウ掬いのキャラ「あらえっさ」君。小学生とか。
♪出雲名物荷物にゃならぬ♪と謳われた安来節ですが、市内には荷物にならない名物がまだいくつか存在しています。
唯、名所は駅から徒歩圏内とはいかないので、駅前でレンタサイクル。
八時半からの営業ですが、御好意で早めに借りる事が出来ました。
巡礼先は足立美術館と並ぶ安来の観光名所清水寺ですが、
同じく中国観音札所が傍にあると言う事なので、先ずはそちらから巡礼。
駅で教えて頂いたように9号線を伯太川に沿って南下すると、交差点に大きな「雲樹寺」の案内が。
松に彩られた参道を行くと重文・四脚門。鎌倉末期から室町前期の禅宗様式を留めた貴重な文化財だそう。

伯太川沿いの交差点に建つ寺標石
左奥が雲樹寺境内になる。

坂を下り松に彩られた参道を行く

重文・四脚門

木鼻、肘木の近影

四脚門説明

四脚門の各部位の説明
瑞塔山雲樹寺(ずいとうざんうんじゅじ)は、寺伝に拠れば
『元享2年(1322年)に孤峰覚明(こほうかくみょう)禅師が開山。覚明は元に渡り天台山で修業、帰国後、雲樹寺を創建。
元弘の役で後醍醐天皇は船上山に禅師を招き受戒、雲樹寺は勅願寺となり、国済国師の号を賜る。
後に後村上天皇からも三光国師の号を賜り、晩年は和泉に大雄寺を建てて隠棲した。
南北朝を代表する名僧を開山に持ち、南朝所縁の寺院と言う事で隆盛を誇り、
最盛期には塔頭二十余院、僧侶500人が居住した山陰を代表する禅寺となった。

参道から四脚門を振り返る

参道から見た山門
ここから山門・仏殿・方丈と伽藍が一直線上に並ぶ。

山門近影

仏殿側から見た山門
江戸文政年間の火災の被害も免れた。
周辺は木々に囲まれた湿地帯であったが、開山は湖沼を干拓し参道を整備。
江戸の天文から元禄年間に伽藍の修復が行われ枯山水庭園も整備された。
文政3年に火災に遭うが、四脚門・大門・薬師堂・庭園は難を逃れた。
江戸末期より仏殿・方丈・開山堂を再建し今に至る。』 とあります。
参道を左折すると山門・仏殿・方丈が一直線に並んでいます。禅宗寺院としては典型的な様式ですが、
この地期では珍しいとの事。山陰屈指の禅寺の名に恥じませんでした。
仏殿に向かう途中の右手に小さな祠が。見ると中国観音霊場の観音堂で
祀られているのは「子授け・子育て観音」。札所の割には小さいのが印象的でした。

山門から仏殿方面を見る

参道左手の薬師堂

参道右手の観音堂
札所の御本尊はここ。

正面に建つ仏殿は江戸後期の再建

仏殿側面

仏殿の先にある御成門

御成門近影
正面に建つ仏殿は、本来本尊を祀る場所ではなく説法をする場所ですが、ここは拈華微笑仏が鎮座。
本堂を兼ねた形式になっています。
その上にあるのが寺務所と方丈・開山堂。ベルを押して御朱印を拝受しました。
コロナ感染者には縁のない出雲地方ですが、対策はここでも大変なようでした。
枯山水の庭と新羅時代の梵鐘があるようですが見当たらず。
そのまま次の巡礼に向かいましたが、後で調べると¥500で有料拝観があった様子。
どこにも案内表示がなかったので、ついうっかり見過ごし。
京都・奈良の寺社ではこのようなことは決してなかったでしょう。
観光化していないと言えばそれまでですが、非常におおらかな気質でした。

仏殿脇を抜け寺務所・方丈へ

方丈の建つ境内

方丈(右)と開山堂(左)

開山堂近影

寺務所前の庭

雲樹寺御朱印
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松江しんじ湖温泉駅(6:26) → (一畑電鉄) → 雲州平田(7:11→7:17) → (平田生活バス鰐淵線) → 鰐淵小学校(7:37) → 徒歩30分 → 鰐淵寺 → 鰐淵寺駐車場(9:43) → (平田生活バス鰐淵線) → 雲州平田(10:18) → 徒歩10分 → 木綿街道・神社 → 雲州平田(11:40) → 一畑口(11:51→12:08) → (平田生活バス一畑薬師線) → 一畑薬師(12:20) → 徒歩5分 → 一畑薬師 → 一畑薬師(13:15) → (平田生活バス一畑薬師線) → 一畑口(13:26→13:34) → (一畑電鉄) → 松江しんじ湖温泉駅(14:02) → 駅レンタサイクル10分 → 普門院 → 月照寺 → 松江しんじ湖温泉駅(17:15)

歓喜山 月照寺(浄土宗)
かき氷で熱気を冷ました後は、この日最後の参拝をすべく月照寺へ。
国宝松江城や武家屋敷では有名な松江ですが、城周辺の寺院で名の知られたのは普門院とこの月照寺になります。
歓喜山月照寺(かんぎさんげっしょうじ)は、
『かつてこの辺りにあった洞雲寺(とううんじ)という禅林があった。その後、寺は荒廃するが、
寛文4年(1664年)、松江藩松平家初代藩主・松平直政が生母月照院の霊牌を安置するため、
浄土宗の長誉上人を開基とし、蒙光山(むこうさん)月照寺として改称復興したのが始まり。

入口にある不昧公御愛用「茶の湯の水」
但し、直接飲んではいけないと但し書きがある。

月照寺由緒と松江松平家系譜

参道脇の雷電為右衛門碑

雷電の碑の説明

唐門
入口の正面にあるがここからは入場できず、通用門から入る。

通用門から唐門方面を見る
直政公の没後、二代藩主・綱隆公が遺命に拠り境内に廟を造営し、山号を歓喜山と改めた。
以来、九代に亘る藩主の菩提寺として繁栄した。
境内の九代に亘る藩主の墓所は保存状態も良好で、「松江藩主菩提所」として国指定史跡となっている。
その中で一際目を引くのが初代直政公と七代不昧公の墓所で、前者は境内で規模が最大。
後者は西の左甚五郎と言われた松江の名工・小林如泥の作とされる廟門の葡萄の透かし彫りが見事である。

右の受付で手続きをした後、先ずは境内と墓所へ向かう

現在の本堂
江戸時代の本堂は維新の際に取り壊された。

本堂の扁額「蒙光摂」
本尊は阿弥陀如来。

本堂参拝の後、歴代藩主の墓所へ
右手の礎石の場所が旧本堂跡。

右の池は石の大亀が水を飲みに来たという蓮池

境内から鐘楼と唐門を望む
紫陽花が至る所に見られる。
唐門の前には江戸時代の力士雷電為右衛門の碑が建つが、
これは不昧公が雷電を松江藩のお抱え力士にした事に由来する。
また六代宗衍公の廟門内には寿蔵碑と呼ばれる碑が建つが、それを支えるのが石の大亀。
故郷を恋しがる余り夜な夜な松江の町を徘徊したと小泉八雲は『知られざる日本の面影』で紹介している。
今は、碑を支える事で徘徊はせず、この頭を撫でると長生きすると言い伝えられている。』 とあります。

初代・直政公の廟門

廟門の説明

直政公の墓所
境内で一番大きな墓である。

七代・不昧公の廟門
西の左甚五郎と言われた小林如泥の作。

廟の説明

初代直政公生母・月照院供養塔
高校生の時の家族旅行は、雷電と亀の石碑しか覚えていませんが、その二つが観光の目玉なのは今も変わらず。
拝観料¥500で境内と書院内を巡りましたが、境内の広大さに比較して本堂は非常に小さい。
江戸時代の本堂は明治維新の際に取り壊され、現在のものはそれ以降の再建。
神仏分離の影響もあるでしょうが、寺と言うよりも藩主の墓所と言った位置付けが正しいと思います。
境内は山陰でも屈指の紫陽花名所。水無月にはさぞ壮観だろうと思いますが、
その他も四季折々の花が咲き誇る場所でもあります。

五代宣維(のぶずみ)公の墓所

墓所を巡る
正面奥は二代綱隆公廟。

六代廟門の中にある寿蔵碑(大亀)
小泉八雲の随筆にある「月照寺の大亀」。

寿蔵碑説明

御霊屋(おたまや)
藩主や奥方の位牌を納める。8月16日のみ公開。
初代を英雄視するのは当然ですが、それに続くのが七代不昧公というのも松江藩の特色を表しています。
適当かどうかはわかりませんが、米沢における上杉謙信と鷹山に相当するでしょうか?
初代直政の父は家康次男であった結城秀康。武人であった秀康の血筋ですが、
時代が下るにつれて武から文に移行します。不昧公は茶道「不昧流」を大成させた茶大名。
茶会で用いられた和菓子や茶道具は「不昧公好み」として現在まで受け継がれています。

書院入口

書院奥の茶室

茶室から見た織部灯籠と棗形手水鉢

灯籠と手水鉢の説明

書院から見た庭園

庭園を見ながら抹茶で一服すると大名気分?
松江を京都・金沢と並ぶ日本三大菓子・茶処とした功労者は正しく不昧公。
大茶人として不昧流を創設した彼は、茶道に加え書画にも秀でた一大文化人でした。
松江では武士階級に限らず庶民に至るまで茶道が浸透していますが、
今に続く松江の気質を造ったのも不昧公と言えるでしょう。
境内には不昧公愛飲の名水があり、書院「高真殿」ではその名水で淹れた
抹茶と銘菓「路芝」が頂けるそうですが、閉館間近だったので泣く泣く断念。
次は4月の茶筅供養か紫陽花の季節に参拝してほっこりしたいものです。

縁側から庭園左側を見る


庭園右側を見る

藩主の座る上段の間の天井

上段の間の金色の釘隠し
一部の家臣には、軟弱と思われたようですが、
「茶道具を買い漁ってどうなさる御積りですか?」 との問いに関しては、
「藩財政が逼迫した折には、集めた著道具を売れば少しは足しになるであろう。」
と仰せられたとか。何とも捌けたお殿様でした。

月照寺縁起

月照寺御朱印

松江城西郵便局 ; 松江城、茶所松江を表す茶碗、茶筅と茶杓
月照寺参拝の後は駅に自転車を返却してホテルまで。
宍道湖の畔に建つ食事処が開いていたので早めの夕食。店名は「味処なにわ本店」ですが宍道湖名産が自慢の店。
八珍が有名な宍道湖ですが、八珍は欲張り過ぎなので一珍の「御うなめし膳」。
藩政時代から上方に重宝された出雲うなぎをイメージしたもの。汁掛御飯風ですが、
ひつまぶしとはまた一味違った味わい。不昧所縁の地で【不味】ではなく【美味】で締める事ができました。

宍道湖畔の「味処なにわ本店」

御うなめし膳 ¥2500
松江の味五品つき。

メインのうな飯
海苔と出汁を掛けて頂く。
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松江しんじ湖温泉駅(6:26) → (一畑電鉄) → 雲州平田(7:11→7:17) → (平田生活バス鰐淵線) → 鰐淵小学校(7:37) → 徒歩30分 → 鰐淵寺 → 鰐淵寺駐車場(9:43) → (平田生活バス鰐淵線) → 雲州平田(10:18) → 徒歩10分 → 木綿街道・神社 → 雲州平田(11:40) → 一畑口(11:51→12:08) → (平田生活バス一畑薬師線) → 一畑薬師(12:20) → 徒歩5分 → 一畑薬師 → 一畑薬師(13:15) → (平田生活バス一畑薬師線) → 一畑口(13:26→13:34) → (一畑電鉄) → 松江しんじ湖温泉駅(14:02) → 駅レンタサイクル10分 → 普門院

松高山 普門院(天台宗)
当初は夕方まで掛かると思っていた今回の主要参拝を無事終えて松江に戻ると14時過ぎ。
水都松江は松江城を中心に観光施設が広がっていますが、
駅から遠い事も含めレンタサイクルが充実しているのが特徴。
この日も松江しんじ湖温泉駅で¥300の普通自転車を借りる事ができ、急遽市内を参拝。
5年前に国宝に制定された松江城の北堀を通り、短い普門院橋を渡ると目指す寺院。

松江城を巡る水路の向こうに見える普門院
母衣町から北方面を見た所。

水路に架かる普門院橋

水路を巡る遊覧船
40年前にはなかった。
松高山普門院(しょうこうざんふもんいん)は、
『慶長年間、初代松江藩主となった堀尾吉晴公が城下町松江を築き造成した時に開創された寺院。
当初は市内の西川津町市成に豊国神社と松江山願応寺を建立し、
300石と賢清上人を別当としたのが嚆矢である。
その後、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると禄を没収されるが、第三代藩主・堀尾忠晴公が
白潟寺町の下屋敷を寺領とし、願応寺を移転し松高山普門院と改称。併せて30石を寄進した。
延宝4年(1676年)大火に遭うが、元禄2年(1689年)松江松平家三代綱近公が、
この地が城の鬼門に当たる事を以て再建し、現在に至っている。
境内にある観月庵は享和元年(1801年)時の住職恵海法印の建立に拠るもので、
9七代藩主・松平不昧公の好みにあい、不昧公も度々当庵に親臨し茶席を催した。』 とあります。

山門前にて
松平藩の三つ葉葵の紋が。

山門からの境内の眺め
左が本堂で、右が庫裏。

由緒記
不昧公好みの茶室もありますが、前の橋は小泉八雲の怪談『小豆磨ぎ橋の怪談』の舞台。
また寺の門の天井には幽霊の足跡とされるものが伝わっており、風流と物の怪が混在しています。
一見すると不思議ですが、橋というのは異界への入口ともされる場所。
また、おいてけ堀でもあるように堀は物の怪の登場する場所。堀ならぬホラーと言えます。
抑々、寺の成り立ちが霊気や神秘を感じた場所に建てる事が多いですから、切っても切れない縁となります。
以前に拝観はしていますが、お盆に怪談と洒落込みましたが、お寺は行事の為に拝観できず。
お寺に盆休みは無い筈ですが、書き入れ時なので仕方がありません。

茶室の説明
見学できなかたので、せめて説明なりとも…。

本堂正面

本堂前面と「不動堂」の扁額

普門院御朱印
余りの暑さに冷たいもので体温を下げようと思い、徘徊すると松江歴史館内に喫茶がある模様。
和菓子の実演もされており、それを眺めながらの休憩。
小豆磨ぎは×でしたが、宇治金時で仇を討った感じ。拝観できなかったのも【普門】に付すことにしました。

松江母衣郵便局 ; 小泉八雲の怪談の舞台である普門院

松江歴史館前にて
普門院橋を渡って西へ行き、松江城の東堀の向かいにある。

「喫茶きはる」にて
[参考書]
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醫王山 一畑寺(臨済宗妙心寺派 一畑薬師教団総本山 中国観音霊場第二十六番札所)
平田で木綿街道を見た後は、再び一畑電鉄に乗って一畑口駅で下車。
一畑電鉄の名は、沿線にある古刹一畑薬師に由来。と言うよりも
一畑薬師に参詣するために敷設された鉄道と言った方が、適切でしょう。
現在の一畑口駅は無人、しかもスイッチバックですべての電車はここで向きを変えます。
なぜこのような造りになっているのかと言えば、かつては一畑薬師の直ぐ下まで線路が
延長されていたからだそうで、この辺りの事情は北海道の遠軽駅の線路の構造にも似ています。

一畑口ホーム
一畑薬師はこのレールの先

ホームにある「目玉おやじ」の一畑まいり像

一畑口駅舎
雲州平田と共に途中下車可能駅だが、広い割りに無人である。
駅に着いて平田生活バスで一畑薬師まで。かつての駅は薬師の下までですが、
そこから200mの山腹にある薬師さんまで1130段の階段を上らなければなりません。
一方、バスは上にある駐車場まで運んでくれるので、歩く距離は極僅か。
バスになって便利になったとは思いましたが、行きも帰りも乗客は私一人でした。

一畑薬師バス停から駐車場を抜けて薬師さんまで

途中の石灯籠
丸に一文字は一畑薬師の紋だそうで、目玉おやじではない、とは茶店の方の談。

参道にある「目玉おやじ」像
境内には合計5体あるそうな。

百八基の石灯籠を抜けて山門へ

山門前へ到着
右が法堂(坐禅堂)、石段上に見えるのが観音堂。

山門前から千三百段の石段を見下ろす
といっても一直線に続くのではない。
バス停から山上商店街を抜けると宍道湖が遥か眼下に見渡せます。
更に進むと山門が聳え法堂、本坊・書院が。法堂は坐禅堂を兼ね、一般方が坐禅会を行う場所。
本坊・書院の庭園は宍道湖や中国山地を借景にした雄大なものですが、
いずれも予約が必要なので今回はスルー。更に石段を上って本堂へ向かいました。

山門近影
この奥に本坊・法堂があるが、観光客は疎ら。

法堂(坐禅堂)
ここで坐禅会・研修会が開催される。

本坊書院と薬師堂へと続く廻廊

山門前から階段を上り仁王門へ

「醫王山」の扁額が架かる仁王門

仁王門から見た法堂屋根

更に石段を上り境内へ
醫王山一畑寺(いおうざんいちばたでら)は、
『寛平6年(894年)、与一という漁師が日本海から引き揚げた薬師如来を祀ったのが始まり。
その時に与一の母親の眼病が治癒した事から「目のお薬師さま」として信仰された。
尚、与一は後に出家して補然と称し開基となった。また戦国時代には
幼児が救われた事から「子供の無事成長の仏さま」としても知られるようになった。
当初は天台宗に属したが、石雲本竺が臨済宗南禅寺派寺院として再興し成徳寺と名乗る。
承応2年(1653年)に一畑寺に改称、寛政年(1790年)には妙心寺派に改宗した。
戦後の昭和28年には教団が設立され総本山になり現在に至っている。』 とあります。

石段を上った先にある境内

階段脇の鐘楼堂

正面から見た薬師本堂

観音堂前から見た薬師本堂

薬師本堂前面
薬師如来を祀るので瑠璃光殿。
階段を上って右正面が御本尊を祀る薬師本堂。流石に堂宇の中では最も大きい造り。
御本尊は秘仏ですが、両脇には日光・月光菩薩。十二神将が祀られています。
その手前にあるのが観音堂で、瑠璃観世音菩薩が御本尊。薬師様から見れば脇役ですが、
中国・百八観音霊場はここにお参りするので、参拝者は本堂よりもむしろ多く感じました。

薬師本堂前面の欄間彫刻

前面の庇部分

鳳凰の彫刻

薬師本堂側面

観音堂
本尊は瑠璃観世音菩薩、多くの巡礼・参拝者がある。

観音堂横から見た本坊と法堂
山の向こうに見えるのが宍道湖。

上から見た本坊庭園?
眼に御利益の薬師様だけに、境内にはゲゲゲの鬼太郎の目玉おやじの像が各所に。
水木しげるさんは隣県の境港市出身ですから地元のようなものですが、説明書に拠ると、
少年時代の水木しげるさんに妖怪への興味を植え付けたのが、お手伝いさんの「景山ふさ」さんで、
彼女は熱心な一畑薬師の信者だったそうです。その辺りの事情は『のんのんばあとオレ』にありますが、
一畑薬師から目玉おやじが創造されたとすれば、ここが日本の妖怪漫画に与えた影響も大きいものがあります。
鰯の頭も目玉も、何事も【しんじん】です。
いまはバスですが、のんのんばあの時代は下から1300段を上らなければなりませんでした。
不便ではありますが、階段上れば、怪談の亡霊も顔を出すのでしょう。

鐘楼堂前にある「のんのんばあ」と水木しげる少年の像

「のんのんばあ」と一畑薬師の由縁

薬師本堂脇にある八万四千仏堂
八万四千とは仏教での法門(教え)の数とされる。

十六羅漢堂を通り総受付のある下生閣(あきんかく)へ

下生閣にある「お茶湯」
一畑山の清水で沸かし御祈祷をした伝統の「お茶湯」は、ここで徳利を購入して持ち帰るのが習わし。

一畑薬師説明書

一畑薬師御朱印
左 ; 中国観音霊場 右; 御本尊薬師如来

下生閣から石段を下りバス停へ
写真は石段脇にある「結縁の椨(たぶ)の木」。二本が見事に結合している。

平田郵便局 ; 一幡薬師
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宇美神社(式内社)
始発電車に乗った甲斐あって、鰐淵寺参拝の後は午前中のバスで雲州平田駅まで帰還。
次の目的地へと電車に乗る訳ですが、降りた駅でのバスは1時間待ち。
そこで、平田駅周辺を少しばかり散策することに。
今は市町村合併で出雲市に編入されましたが、かつては平田市という独立した行政区。
かつては綿花で栄えた町。加えて一畑電鉄の本社もあり、駅構内には列車が停まっていました。

一畑電鉄雲州平田駅構内
大正3年4月に運転開始。途中下車可能で、駅構内では電車の運転体験もできる。

雲州平田駅スタンプ

駅待合室にある平田一色飾り
江戸時代に始まった陶器など日用品で人形や景色を作るもの。写真は「しまねっこ」。
『宍道湖と日本海に囲まれたこの地は、1700年代初頭から綿花栽培が始まり
後半には諸国に販売するに至る。
藩が品質管理を徹底したために、大坂三井は当地へ買方を派遣するなど、
雲州木綿の名は全国的に高評価を得た。
綿花はここに集荷され、船で運搬。市内を流れる運河「平田船川」は宍道湖に繋がり、
多数の帆船が往来。昭和26年位までは松江との定期便もあった。
当時の街道は木綿街道と呼ばれ、間口が狭く奥行きの長い「切妻妻入塗屋造り」の家屋や、
白壁の土蔵が並び、当時の繁栄を偲ぶことができる。』 とあります。

駅から北へ向かい雲州平田船川に架かる橋を渡ると木綿街道

橋を渡って最初に目に付く加藤醤油店
明治8年創業の典型的な切妻妻入塗屋造りの町屋。七宝模様の海鼠壁、左流れの出雲瓦など保存状態も良好。

加藤醤油店の向かいにある旧石橋酒造
本石橋家から分家し、江戸中期に創業した造り酒屋。1750年頃の建築。

国登録有形文化財の本石橋邸
1750年頃建築の切妻妻入塗屋造りの町屋。

本石橋邸玄関
街道の東端へ向かうと本石橋邸。奥座敷は松江藩主の御成座敷として造られた格式ある邸宅。
そこから西へ向かうと、加藤醤油店、酒持田本店、持田醤油店と趣のある家々が続きます。
街並みが途切れる所に立つのが来間屋生姜糖本舗。1715年創業の生姜糖元祖。
てっきり京都が発祥と思っていたので驚きました。やはり【ジンジャー】所縁の場所だけの事はあります。

本石橋邸全景
巨大な庭石を配した出雲流庭園や茶室、座敷など見学可能。

酒持田本店
明治10年創業、建物は国の登録文化財で見学可能。銘柄は「ヤマサン正宗」。

酒持田本店の向かいの町屋「古民家あかり」

持田醤油店
醤油蔵見学と醤油のスイーツが目玉。

西側から見た木綿街道の街並み

來間屋生姜糖本舗
創業1715年の我が国生姜糖の元祖。建物は明治9年の大火で焼失したが、再建し150年を誇る妻入商家。
街並みを過ぎて少し行った場所に社が鎮座。宇美神社(うみ)とあります。
『天平5年(733年)、出雲国風土記に記されているのが嚆矢。社号は御祭神が出雲国御来臨の際に
海上から上陸された事に拠り、元来は日本海沿いにあったとされる。
現在の地には応永元年(1394年)、本領小村家、杉原家の祖により紀州熊野三山から分霊を勧請。
その後の天正16年(1588年)に本領長廻家の氏神である七社をここに合祀した。
松江と出雲大社のほぼ中間に鎮座。周辺七社を合祀した神社で十七柱の神が祀られている。
宇美神社と改称したのは明治5年の事である。

宇美神社入口の石鳥居

神門

神門から境内を見る

由緒略記
本殿の主祭神は布都御魂命(フツミタマノミコト)であるが、配祀神として祀られているのが
事解男命(コトサカノヲノミコト)で、縁切りの神として悪縁消除の御利益があるとされる。』 とあります。
川沿いにある「うみ」神社というのもこれ如何にですが、縁結びの出雲で縁切り神社というのも不思議な感じ。
しかし縁切りといっても他人との縁だけではなく、病気・悪癖・借金等もあるようです。
縁切りと聞くとネガティブな印象ですが、縁結びとは表裏一体で、
より向上するためのステップと捕えるべきものだそう。
もめんの地で縁切りに出会ったのも何かの縁でしょうか?

拝殿

拝殿前面の装飾と注連縄

本殿

本殿脇にある境内社「縁結神社」
本殿で悪縁を断ってから縁結びのお参りをするのが習わし。ハートの絵馬を奉納。
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
松江しんじ湖温泉駅(6:26) → (一畑電鉄) → 雲州平田(7:11→7:17) → (平田生活バス鰐淵線) → 鰐淵小学校(7:37) → 徒歩30分 → 鰐淵寺 → 鰐淵寺駐車場(9:43) → (平田生活バス鰐淵線) → 雲州平田(10:18)

浮浪山 一乗院 鰐淵寺(天台宗 中国観音霊場第25番札所)
巡礼三日目は、松江しんじ湖温泉駅から一畑電鉄で出雲の古刹へ。
宍道湖の南を走るのは旧国鉄のJR。反対に北側を走るのは地元の一畑電鉄。
初めて乗ったのは、家族旅行の高校一年の時。
なぜここに電車が通り一畑電鉄と言う名前なのか不思議でしたが、
後で聞いた話では沿線に一畑薬師という古刹があり、それが名前の由来。

向こうに見えるのが「松江しんじ湖温泉駅舎」
JR松江からは徒歩20分と遠いが、温泉が出るため宿泊施設は多い。

始発の6:26分電鉄出雲市行きに乗車

車内に鎮座するゆるキャラ「しまねっこ」
写真撮影用なのか、一緒に撮る人が多かった。

松江しんじ湖温泉駅スタンプ
左は40年前と同じデザインであった。
それ以来、気になって仕方がありませんでしたが、漸く巡礼実現。40年越しの恋が実った感じです。
調べると薬師さんの西にも鰐淵寺という名の古刹があってどちらも札所。
共に駅から離れた山中にありますが雲州平田駅から目指す寺までは9㎞。
しかも山中にあるので駅レンタサイクルは無理。唯一の交通手段は平田生活バス。
土日祝日は1日3本ですが、平日は8本に増便。これはお盆でも変わらなかったのは幸運でした。
駅からは始発のバスに乗車しましたが、何故か寺までは行かず2㎞程手前の小学校前で下車。
【がくえんじ】やから小学校前かいな!
などと思いながら鰐淵寺川を遡る事30分で駐車場前へ。更に15分で漸く門前へ到着。
朝の7時台とはいえ気温は30℃越えでしたが、木々に囲まれた幽谷の地なのが幸いしました。

鰐淵小学校前で下車
左の鰐淵寺川を遡り寺へ向かう。

歩く事30分で駐車場前へ
全山案内図と弁慶修行の地の碑が建つ。

深山静寂の道を行く

仁王門に到着

鰐淵寺由緒

川に架かる朱橋を越えると入口
浮浪山一乗院鰐淵寺(ふろうさんいちじょういんがくえんじ)は、
『推古天皇2年(594年)、この地に旅して来られた信濃国の智春(ちしゅん)上人が、
推古天皇の眼病を治すために浮浪の滝で祈ったところ眼病が平癒。
それに報いるため天皇の発願により建立された勅願寺である。
上人が浮浪の滝の畔で修業中、誤って滝壺に落としてしまった仏器を
鰐が鰓に引っ掛けて上人に返した。これが寺号の由来である。
平安時代以降の鰐淵寺は比叡山延暦寺との関係を深め、
円仁が当寺を訪問した際に改宗したとされ天台宗初の末寺となった。

右が本坊、左が受付
受付で入山料¥500と御朱印を拝受する。滝は左方向へ。

勅使門と本坊
ここは拝観の対象外。

本堂への百八段の石段を登る

両側の石垣の杉苔
日陰で湿度が高いからこのような生長をするのか?

石段途中から受付を振り返る
両側の木々は葉が小さく切れ込みが深いイロハモミジという品種。

右折して更に上を目指す

石段の向こうに本堂(根本堂)が見える
これらはあくまで伝承の域だが、平安時代の『梁塵秘抄』にも記録が残り、修験行場として全国に知られる存在であった。
また山を隔てた南西に鎮座する出雲大社との関係も深まり、出雲大社の別当寺とを務めたとされる。
源平時代に活躍した武蔵坊弁慶は、ここに多くの逸話を残す。仁平元年(1151年)に松江に生まれた弁慶は
18歳から3年間、鰐淵寺で修業。その後、比叡山に上り都で源義経に出会った。
壇ノ浦で平家滅亡後は再びこの地へ戻り、伯耆の大山寺にあった釣鐘を一夜にして担いで持ち帰った。
これが今に伝わる重文の梵鐘である。

狛犬と灯籠を支える亀

根本堂(本堂)
薬師如来と千手観音を本尊とする。

根本堂説明

本堂前面の鰐淵寺の扁額と御詠歌

根本堂前面の造り
柱の一部は傷んでいるがそれが長い年月の風格を与えている。

根本堂の天井部
南北朝時代には薬師如来を本尊とする南院が後醍醐天皇を支持、
薬師如来を本尊とする北院が北朝側に立ち対立するが貞和3年(1347年)に和解している。
戦国時代の出雲では尼子氏と毛利氏の対立が深まるが、鰐淵寺は毛利を支持。
これが契機となって毛利氏の庇護を受ける事となった。現在の根本堂はその時代の建立である。』
とあります。

根本堂の垂木と木鼻

根本堂屋根部

根本堂から手水舎を見る
駐車場から仁王門へは徒歩で15分、そこから本坊、根本堂へも長い石段を登るという
只管鰐淵寺川を遡るという山道でした。更に入口から川筋を遡って10分程度行った先が滝と蔵王堂。
水量は減ったものの今でも霊水「龍眼水」が岩盤より湧出。寺伝からもここが当山発祥の地であるのは明らかで、
このような深山幽谷の地に寺を建立したのはこの滝の存在故と【すいりょう】できます。
受付横に立つ本坊は新しい感じですが、それ以外の建物は歴史の風雪を感じさせる古色蒼然としたもの。
寺院というよりも山に堂宇が点在すると言った方が適切でした。

根本堂横の釈迦堂

鐘楼

銅鐘の説明
山奥の寺にしては珍しく入山料¥500が必要。宝物殿があるわけでなし、境内は至る所で改修中だったので、
少し高いとも思いましたが、これだけ広大な寺域を維持することを思えば納得。
由緒は伝説的なものが多いですが、浮浪の滝の水が清潔で眼病予防に効果があった事が、
推古天皇の平癒を生んだと言えます。昔は劣悪な衛生状態に起因する眼病が多発した事に拠るのでしょう。

杉木立の向こうに建つ摩陀羅神社

神社説明

摩陀羅神社拝殿
明治政府の神仏分離令を免れ、天台宗の秘神「摩陀羅神」を祀り続けている。

摩陀羅神社本殿

摩陀羅神社拝殿前より根本堂を見る
弁慶に関しては全く無関係とは思いませんが、やや贔屓の引き倒しの感が…。
「提灯と釣鐘」の諺は、ここの梵鐘を夜中に担いだ事に由来するとありますが、これも怪しい。
やはり弁慶は紀伊田辺の可能性が高く、紀州と出雲では「提灯と釣鐘」の気がします。

神社付近からの遠望

このような道を通り浮浪の滝へ

漸く浮浪滝へ到着

開山修行の地で当山発祥の場所で奥之院
左の穴が鰐が出た場所か?
もう一つの鰐とは?有史以前は兎も角、今の日本には鰐は棲息していません。
因幡の白兎でも鰐鮫が出てきますし、いまでも中国山地の山奥では海で採れた鮫を「鰐」と呼んで食べます。
ならば、ここで言うところの鰐も鮫ですが鮫は淡水には居ません。
「神話でも足で歩いた」とあるそうですから、別物の可能性大。
想像を巡らすならば、ここで言う鰐とは「オオサンショウウオ」のような気がします。
かつて帝釈峡でも1mを越えるものが店で飼われていましたし、中国山地ではよく見かけます。
加えて凶暴性はないので滝壺から仏器を持って来ても不思議はありません。
確証はありませんが、【参照】にはなるかと思って記載してみました。

滝は18mの流水
霊水「龍眼水」は堂右側の巌窟より今も湧出している。

浮浪滝の蔵王堂近影
修験道の守護神「蔵王権現」の聖地とされ弁慶も修業したとされる。

鰐淵寺説明書

鰐淵寺御朱印(御本尊) ¥500

鰐淵寺御朱印(中国観音霊場) ¥300
複雑な方が安いというのはどういう訳だろう?
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