【復路】JR長門湯本(12:46) → 厚保(13:29→13:46) → 於福(14:10) → 徒歩5分 → 道の駅おふく → JR於福(15:47) → JR厚狭(16:26→16:36) → (宇部線) → JR居能(16:55→17:02) → (小野田線) → JR雀田(17:11→18:10) → (小野田線) → JR小野田(18:26→18:31) → JR新山口(18:58→19:20) → (さくら568号) → JR広島(19:51→20:01) → (のぞみ64号) → JR新大阪(21:20)

復刻スタンプラリー台紙
8月最後の土曜日、新幹線&18きっぷを使って長門の国へ。
先般訪れた長良川鉄道と同じ復刻スタンプラリーが美祢線・小野田線で実施中。
合計9印ですが、過去に押印したものもあるので、今回の目標は
長門湯本・厚保(あつ)・於福(おふく)・雀田(すずめだ)の4駅。
どちらも列車の本数が少なく時刻表を駆使しての巡礼とはなりました。

山陽本線厚狭駅の朝の美祢線ホーム
ここから今日の旅はスタート。
美祢線で最初に下車したのが長門湯本駅。ここでは次の上りまで3時間以上待ち。
折角長門まで来て押印だけでは芸がないので、待ち時間の間に巡礼する事にしました。
長門湯本で2寺1社参拝の後は、本来の目的の復刻スタンプラリーに復帰ですが、
この時点で目標達成は4駅中1駅のみ。運行本数の少ない美祢線ではかなり厳しい状態ですが、
そこは事に調査済。上りと下りを駆使しての押印達成を目指します。

JR長門湯本駅ホーム

JR長門湯本駅スタンプ
復刻印は浸透式で、俗にいうシャチハタ印。
私が初めて美祢線に乗ったのは平成6年ですが、その時の有人駅は美祢のみで、
かつてスタンプ設置の長門湯本駅は無人化されて久しくスタンプは影も形もなし。
今回新たに設置の厚保(あつ)・於福(おふく)・雀田(すずめだ)は当時委託駅となってはいるものの、
人が居た記憶は皆無でした。
温泉地である長門湯本は兎も角、あとの3駅は周辺に観光地があるわけでもなく、
一体どのような図柄なのかと言うよりも、失礼ながら図柄があるのかしらん?と不思議でした。

JR美祢駅スタンプ
国鉄時代の最後を飾る「わたしの旅」印で、これは民営化後の1990年代に押印したもの。
12時46分の列車で厚保に向けて出発(上り)。そこで17分待ちで今度は於福駅へ(下り)。
スタンプは地元名産の厚保栗がデザイン。
無人駅ながら駅舎内は美祢市厚保町交流ステーションとなって居り地元の方が利用されていました。
押印には十分な時間でしたが、交流ステーションの方から
「こちらにもスタンプがありますのでどうぞ。」 と聞いて早速押印。
おまけに冷えた麦茶も頂きました。ホームで列車を待っていると向かいのホームには大きな栗の木が2本。
私 ; 「もしかして、あれが厚保栗ですか?」
担当者 ; 「そうです。駅で管理しています。」
私 ; 「と言う事は秋には収獲して売り出すのですね。」
担当者 ; 「いいえ、駅に見えた方に無料で分けていますよ。」
私 ; 「それは良いですね。是非秋に伺います。」
短い待ち時間に人情の【厚保】さを感じました。

厚保駅上りホーム

JR厚保駅舎

待合室に設置の厚保駅 復刻スタンプ

厚保駅 復刻スタンプ
と言っても以前の設置はなかったので、事実上の新規である。

交流ステーションスタンプ

厚保駅正面
於福では1時間37分待ち。駅舎内に交流ステーションがあるもの厚保と同じでした。
駅舎の利用法としては有効な方法。鉄道会社ももっと駅舎の有効利用に力を入れるべきでしょう。
駅近に 「道の駅おふく」 があったので、そこで遅めの昼食。この日は「萩むつみ豚ハンバーグ」。
道の駅なので値段もリーズナブルな上、大盛り・御かわり自由も魅力的。
食後は口直しに厚保栗のシャーベット。於福は口福な駅でした。

跨線橋の上から見た於福駅舎

待合室設置の於福駅スタンプ

於福駅スタンプと交流ステーション印

於福駅正面

駅前に掲げられた於福駅の由緒

道の駅おふく
マイクを持つカエルの石像。

萩むつみ豚ハンバーグ定食 ¥1000

厚保栗入りシャーベット ¥300

道の駅おふく スタンプ

於福駅ホームに入線する列車
昼食後は、再度上りで厚狭に向かい宇部線・小野田線を経て最終目的地の雀田駅へ。
乗換時間が僅かな駅もありましたが、遅れることなく定刻通りに到着。
ここでも1時間待ちなので周辺を散策。駅舎はモダンな造りですが無人。
「山口東京理科大学前の駅」と駅の案内にあるように踏切の向こうにはキャンバスが。
しかし大学の町という割には乗降客が少なく、大学周辺にありそうな飲食店も見当たらず。

JR雀田駅
左が長門本山行き、右が小野田行き。

雀田駅改札口

JR雀田駅スタンプ

押印したJR雀田駅スタンプ

サイケデリックなJR雀田駅入口

駅舎前の公衆トイレの壁には大学の案内が
そしてここから二駅、長門本山まで2.3㎞の小野田線の支線が出ていますが、なんと1日3本のみ。
歩いた方が早い距離です。終点の向こうは海が広がり昭和38年までは炭鉱があったらしいので、
石炭を積みだす路線だったのでしょう。
丁度、この日の最終の長門本山行きの電車が止まっていましたが、乗客は零。
「これでは、早晩廃線やな!」などと思っていると、連絡する電車がホームへ入ると、
結構な人数が乗り込みました。乗り過ごしたらこれらの人達はどうするのでしょうかね。

JR雀田駅 時刻表

停車中の長門本山行き最終列車

列車の行先表示板

ホームの案内板
こうして当初の目的を達成して小野田駅へ向かい、山陽本線・新幹線と乗り継いで無事帰宅。
交通費が¥3万円で、御朱印2印・駅スタンプ4個なので、1印当たり¥5000。
コスパとしては余り良いとは言えませんが、コスパなど気にしていたら巡礼などしませんわな!
唯、列車とバスを利用した上に、列車待ちの間に道の駅でゆっくり食事できたのは近年久しくなかったような…。
・あつ【厚保】い夏 長門湯本へ おうふく【於福】も 列車に乗って 結構すずめた【雀田】

夕食は広島駅で購入した「穴子飯」を のぞみ車中で
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【往路】JR新大阪(6:00) → (みずほ601号) → JR広島(7:25→7:35) → (こだま833号) → 厚狭(8:29→8:34) → (美祢線) → JR長門湯本(9:30)
長門湯本 → 徒歩10分 → 大寧寺・長門豊川稲荷 → 大寧寺バス停(10:26) → (サンデンバス) → 向名橋(10:38) → 徒歩10分 → 能満寺 → 向名橋(11:40) → (サンデンバス) → 大寧寺(11:52) → JR長門湯本(12:46)

悉知山 能満寺(真言宗御室派)
列車本数の少ない美祢線では、長門湯本での自由時間は3時間16分。
大寧寺だけでは持て余し、温泉に浸かって昼食を摂るには短い時間。
そこで下関まで行く路線バスで俵山温泉にある古刹能満寺に参拝する事に。
大寧寺前で乗車し向名橋(むかいみょうばし)で下車。俵山温泉から東に2㎞の田園地帯で、
周囲は疎らに家屋がある程度。帰りのバスの時刻は1時間後と丁度良い時間というのもラッキーでした。
34号線に沿って南下すると道路沿いに寺標が建ち、その奥に伽藍らしきものが見えます。

バス停周囲は田園地帯
奥に見えるのが目指す古刹。

道路沿いに建つ寺号の彫られた石標

同じく山号の彫られた石標

石標脇にある由緒記

参道の先に竜宮式山門が聳える
緩い上り坂を行くと正面の階段の先に竜宮を思わせる山門、
その先に本堂が建ちますが、それら堂宇の派手なピンク色に先ず圧倒されました。
悉知山能満寺(しっちざんのうまんじ)は、
『大同元年(806年)、弘法大師が唐から帰朝の折、この地に立寄って創建したのが嚆矢。
後に「西の高野」と呼ばれる程の隆盛を誇った。石段を登ると、鮮やかな朱色の山門や本堂が立ち並ぶ。

石段の先に建つ朱塗?の山門

山門近影

山門に掲げられた「悉地山」の扁額

山門越しに見た本堂

山門の装飾
中央は寺紋か?

境内側から見た山門
二階には鐘楼が吊るされている模様。

山門下から参道を見返る
花や鳥が描かれた本堂の天井画は雪舟の作と言う伝承。
宝物殿には木造聖観音菩薩立像、弘法大師が描いた不動尊像が寺宝として伝わる。
山頂には奥之院を安置し新四国八十八ヵ所の霊場となっているが、
裏山全体はシイノキ巨樹群の天然記念物である。
俵山にはシイノキ巨樹を神木とする聖地が散見されるが、これは森の信仰の名残りであると考えられている。
また山門の両脇には銀杏の巨樹が聳え、秋には朱色の山門と銀杏の黄色が見事なコントラストを成す。』
とあります。

寺を見守る大銀杏

山門と両脇に聳える大銀杏

山門正面に建つ極彩色の本堂

本堂の向拝と木鼻彫刻

御詠歌と本尊の虚空蔵菩薩の扁額
参拝は外陣のみで、伝雪舟の絵も拝観できず。

向拝の極彩色の欄間彫刻
図柄は二匹の龍と菊水。

向かい合う二匹の龍

柱の獅子と象の彫刻
当寺は小高い山の麓にあって、かつては広大な敷地を有していたのでしょうが、
今は普通の寺院規模。
それで山号が【失地】山なのかと思いましたが、後で御住職に伺うと
「しっち」とは成就を意味する外来語だそう。

本堂の右脇を抜けて高台へ

当寺で詠まれた村田清風の句

池に架かる橋を渡る

橋に続く門

門に続く石段とその先に建つお堂

階段先の権現堂

権現堂扁額

権現堂からの眺望
石州瓦の朱色と大銀杏の緑が映える。

石段途中より見た本堂屋根

境内全景
境内の原色の諸堂を最初目にした時は、
「これやったら、のうまんじやなくて、No!卍、危のうまん寺、アブノーマンジやで…」
などと不謹慎な事を思いながら参拝しましたが、これは修復等に拠るもので元の色調ではなさそうでした。
翻って考えると、今は国宝・重文になっている荘厳な堂宇も
できた当初は金色に輝いていた訳ですから、派手な原色が駄目と言うのは筋違い。
しかも、周辺の家屋の屋根はオレンジ色の石州瓦。
これらと色調を合せるためにあえてピンク(朱)色にしたように思えます。
少なくとも、地域のピン寺だったのでピンク色にしたのでは無いようでした。

境内の端に建つ不動堂

不動堂前面の扁額と札所案内

不動堂付近から見た本堂

境内のシイノキ巨樹群説明

本堂前の木は木斛か?

庫裏とその前に建つ弘法大師像と観音像

能満寺御朱印
御朱印には珍しく全て楷書。
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長門湯本 → 徒歩10分 → 大寧寺・長門豊川稲荷 → 大寧寺バス停(10:26) → (サンデンバス) → 向名橋(10:38) → 徒歩10分 → 能満寺 → 向名橋(11:40) → (サンデンバス) → 大寧寺(11:52) → JR長門湯本(12:46)

長門豊川稲荷禅宮(大寧寺霊場)
大寧寺境内に建つ一の鳥居。これより稲荷禅宮になる。
大寧寺の境内を歩くと西端にあるのが豊川稲荷。
長門豊川稲荷(ながととよかわいなり)は、
『昭和36年(1961年)に愛知県妙厳寺の守護神豊川稲荷が、
大寧寺境内の西方に当山鎮守として勧請祭祀されたもの。
御祭神は叱枳尼真天(だきにしんてん)と言い、仏法の興隆護持、国土の災禍を除き、
民衆の福徳成就させる大誓願を持つ御神体である。

一の鳥居近影

参道両側に並ぶ「千本のぼり」
明治維新の際、神仏分離令に拠って妙厳寺と豊川稲荷を分離しようとする権力に直面した時、
当山四十五世・簀運泰成(きうんたいじょう)和尚が、幕末長州七卿落ちの一人であった
三条実美卿を庇護し親交が深かった事から、卿を説得したという由縁で結ばれている。』
とあります。

千本のぼりの先に建つ朱塗の鳥居(二の鳥居)

境内の様子

三の鳥居?の奥に建つ社殿

鳥居の扁額は「大寧霊場」
明治の廃仏毀釈の危機を救ったのは、当山住職が新政府のトップ三条実美と親しかったから。
不遇時代の実美を庇護したことが、吉と出ました。
以前、愛知県の豊川稲荷に参拝した際、そこは神社ではなく
妙厳寺という曹洞宗寺院である事を知って驚きました。

社殿(本殿)

社殿の向拝と唐破風

社殿の向拝下にて

向拝の木鼻彫刻

向拝の彫刻群

破風の下に造られたスズメバチの巣
ここもそうなのかと思って御朱印を拝受する際に伺うと、
私 ; 「ここもどこかのお寺の管轄ですか?」
宮司 ; 「ええ、曹洞宗の大寧寺の下です。」
私 ; 「では本家の豊川稲荷と同じですね。」
宮司 ; 「全国の豊川稲荷は皆そうですね。違うのは都内の一社だったかな?」
との事。
これで謎が氷解。そして宮司さんをよく見ると頭を剃った法体姿。
宮司ではなく僧侶がここの稲荷を管理している訳で、全国の【そうとうすう】の豊川稲荷がその様子。
大寧寺説明書に長門豊川稲荷神宮ではなく、長門豊川稲荷禅宮と記載されている事でも明らかです。

狐の石像

マスクをつけた狐の像

豊川稲荷御朱印
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瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺(曹洞宗 大本山總持寺御直末)
境内の高台にある大内義隆公墓所。
600年の歴史を誇る大寧寺ですが、ここが一躍脚光を浴びたのが1551年の大寧寺の変。
名門大内氏が家臣の陶氏に討たれるという、下克上の典型にして戦国時代最大の悲劇の一つでもあります。
虎渓橋を渡った場所にあるのが義隆公「兜掛けの岩」と「姿見の池」。
かつての場所から移動されたものですが、公の悲劇を象徴しています。

朱い欄干の虎渓橋を渡った場所にある義隆公「兜掛けの岩」と「姿見の池」

「兜掛けの岩」と「姿見の池」の解説

「兜掛けの岩」近影

「姿見の池」近影
『守護大名から西国屈指の戦国大名となった大内氏の31代当主が大内義隆。
武門の大内家にありながら義隆自身は文化人として名高い戦国大名。厳島神社を保護し、
フランシスコ・ザビエルと接見。当時の都「京都」に匹敵する大内文化を山口に絢爛と花開かせた。
しかし天文20年(1551年)、重臣・陶隆房(のち晴賢)が突如謀反。山口を追われた義隆は
大内家に所縁の深い当寺に逃れ、十三世・異雪慶殊(いせつけいじゅ)和尚に示戒を請い、
9月1日に従った群臣と共に従容として自刃した。享年45歳。
・討つ人も 討たるる人も 諸共に 如露亦如電(にょろやくにょでん) 応作如是観(おうさにょぜかん)
が辞世として伝わる。

本堂脇の冷泉坂から墓所へ向かう

冷泉坂の場所はかつての経蔵跡
義隆家臣冷泉隆豊の壮絶な最期が伝わる。
当所、山口を追われた義隆は綾木を経て青海島に入った。
土豪の助けを受け、九州に落ち延び再起を計ったが悪天候で叶わず、大寧寺に入った。
義隆は境内に入る前、乱れた髪を整えようと参道脇の岩に兜を掛け、傍の池に顔を写そうとした。
しかし水面には自分の姿は映らず、己の運命を悟った義隆は寺の本堂へ入り潔く自刃したと言う。
連綿として栄えた名門大内氏も31代にして断絶。主従の墓は裏山、遊仙窟に眠る。』 とあります。

墓所への坂道

坂の途中から見下ろした庭園の心字池
本堂から西へ進み、冷泉坂を5分程上ると大内義隆公墓所。寺の高台ですが、
周囲を木々に囲まれ光が遮られたその場所に建つと、盛者必衰の理が胸を過りました。
一般には武を蔑ろにし、文に流れた主君を武断派の家臣が討ったと言う事で、
大内義隆は軟弱な君主の如く描かれ、大河ドラマ「毛利元就」でもそのように描かれています。

冷泉坂を上った場所にある大内義隆公墓所

墓所の説明石板
しかし考えて見るとおかしな点が散見されます。
① 軟弱な君主即ち凡将ならば、毒殺・謀殺等ができたのに、陶隆房は挙兵した。
② 大内義隆没後、隆房は自ら君主にならず義隆の甥義長を豊後大友家より迎えている。
暗君であれば傀儡も容易で、殺す必要もなかった。
③ 討たれた義隆は遠く長門湯本まで逃れ自刃したが、主君に従って討死した家臣もいる。
墓所には義隆親子に従って、共に死した三十三名の宝篋印塔が建ちますが、
それだけの数の家臣が最後まで付き従ったと言う事実。
中でも重臣の冷泉隆豊は、最後まで踏み止まったが力及ばず。
割腹自殺した際に、己の腸を隆房方に投げ付けたという壮絶な最期を遂げています。

33名の墓石配置図

大内義隆主従の墓所

大内義隆(左)と息子の義尊(右)の墓所

義隆主従の墓所に隣接する重臣達の墓
暗君ならば有事の際には家臣は皆逃げ出してしまうもの。
このような家臣を持った点から見ると大内義隆は凡将暗君などではなく相応の実力を備えた武将で、
陶隆房との間の権力闘争だったというのが真に近い気がします。
梵鐘を打つとその音色は遠くまで響きますが、凡将を討っても名声が伝わる事は皆無と言えましょうか。
しかし権力を手中にした隆房も、厳島の戦いで毛利元就に敗死。
主君を討った事が元就の戦に大義名分を与えた事は想像に難くありません。
義隆の死について元就が裏で糸を引いていたとは思えませんが、結局漁夫の利を得たのは毛利元就でした。

こちらも義隆に殉じた家臣達の墓所

冷泉坂の手前に建つ毛利家重臣墓群

坂の脇にある開山塔

境内に建つ大内義隆公追善和讃
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瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺(曹洞宗 大本山總持寺御直末)
本堂裏手の心字池と庭園。
西海屈指の禅窟、大寧寺はまた風光明媚な寺院でもあります。
『瑞雲山大寧寺は、その境内山紫水明の間にあり、
金剛嶺を後ろに大寧寺川を前にして奇巌屹立、清渓淙々たり。
その昔、中国の禅僧この地に来遊して風光の絶佳なるに驚き、称して東方の廬山と為す。
爾来文人墨客の詩文を賦する者枚挙に暇なく、就中、大江広保の「東廬山賦」、
山田原鉄の「廬山十景詩」は夙に有名である。
東廬山(とうろさん)十景とは、金剛嶺・獅子峰・遊仙窟・呼猿洞・虎渓橋・盤石橋・
深谷樵径・瀑布泉・白蓮池・三笑巌の勝区を指す。』 とあります。

本堂から渡り廊下を経て書院へ

紫雲閣と命名された書院(庫裏)

書院縁側

本堂から紫雲閣へと続く渡り廊下

渡り廊下から見た紫雲閣と前栽

石州瓦の赤が山の緑に映える
何やらややこしい熟語が並びますが、廬山は水墨画にも描かれる中国の名勝。
東廬山とは中国の東方にある廬山に匹敵する場所の謂い。
要はここを訪れた中国の僧侶が自国の風景に似たこの地を懐かしんだと言う事でしょう。

本堂の左手から奥の庭へ

本堂裏手にある心字池と庭園
正面には紫雲閣が建つ。

庭園は背後の山を借景にしている

心字池近影
本来なら境内を全て歩いて見るべきでしょうが、流石に3時間では無理。本堂周辺の散策に留まりました。
それでも紫雲閣と呼ばれる庫裏の前栽、渡り廊下を隔てた本堂との内庭は簡素な禅風の造りでした。
案内図に拠れば庫裏の奥に庭園があるようですが、本堂や廊下からは見えず。
これは無理かと諦めていたら本堂西側に入口があって、間近まで行って拝観。
山を借景にし、手前に心字池と石組みを配した景観を見て思わず、
「マジか!」と叫んだという落ちが付きました。

本堂左奥の智日堂

鬼瓦に施された大内菱

堂前に植えられた大内桜

智日堂とその奥に建つ開山堂

宝物を納める祠堂
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瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺(曹洞宗 大本山總持寺御直末)
山門跡を過ぎると放生池の正面に壮麗な本堂が建ちますが、階段の両側には楓や百日紅などの
木々が繁っているため、左程大きさを感じません。禅の教えに通じる話です。
瑞雲萬歳山大寧護国禅寺(ずいうんばんぜいさんたいねいごこくぜんじ)は、
『応永17年(1410年)、守護大内氏の一族で長門国深川城主であった鷲頭(わしのうず)弘忠が
能登国總持寺の石屋真梁(せきおくしんりょう)禅師を開山として迎え、城内に開創した康福寺がその前身。
禅師は18歳で中国に渡り20年修行、活達磨と称賛され、帰国後は南北朝に分かれていた皇室を、
後小松天皇の勅命に拠り元中9年(1392年)に合一。皇室より絶大な信頼を得た高僧である。

本堂全景
衆寮を元に造られた本堂は珍しく山口県の重要文化財。仏教寺院の本堂としては県下最大級である。

本堂前面の向拝

本堂入口に掲げられた「瑞雲山」の扁額
康福寺は人里に近かったため、石屋禅師の高弟・智翁永宗が来往した際に協力を仰ぎ、現在地に移転。
大寧寺と改称した。以後、大寧寺は總持寺の直末寺としての寺格を有する事になる。
三世・定庵殊禅(じょうあんしゅぜん)和尚の応永34年(1427年)、
長門一の宮の住吉大明神が和尚の徳を慕い大寧寺で参禅。
その際に温泉が湧出したのが、現在の長門湯本温泉である。

本堂由緒記

山号と寺号の扁額

本堂内陣
文安5年(1448年)に大内教弘に拠って鷲頭氏は滅亡するが、当寺は大内氏の香華印として庇護を受けた。
足利学校・鎌倉文庫の再興で知られる関東管領上杉憲実は幕府内の政争に疲れ出家。
諸国行脚の末、享徳元年(1452年57年)当寺四世・竹居正猷(ちっきょしょうゆう)和尚の弟子になり、
寺域に小庵を構え安居参禅の晩年を送り、文正元年(1466年)入寂している。
天文20年(1551年)、大内家当主義隆は家臣・陶隆房の謀反に拠って山口を追われ、
ここ大寧寺にて戒名を授かり重臣と共に自刃。大内氏は滅亡、伽藍も焼失した。

賽銭箱に彫られた大内菱

内陣の緞帳にも大内菱が

向拝下からの眺望

本堂から山門跡を望む
その後、中国地方の覇者となった毛利氏の庇護を受け再建されるが、
寛永17年(1640年)火災に拠り山門・本堂が焼失。
延宝5年(1677年)に山門が、文政12年(1829年)に本堂が再建された。
6世紀になんなんとする寺史を有し、かつては全国に六百数十ヵ寺に及ぶ末寺を持つ
僧録寺として栄え、その壮麗美観は「西の高野」と讃えられた。
毛利家の香華院、又萩藩毛利家の上級家臣も挙って境内に墓地を建立した。』 とあります。

本堂軒下の吊るされた長門市指定文化財の梵鐘

梵鐘の由緒記
大寧寺は長門市を代表する曹洞宗の名刹。湯元温泉は当寺の門前町として発展しました。
といって長野市の善光寺のような賑やかな門前町ではなく、寺の周囲は静寂な林に包まれ凛とした雰囲気。
これも修行を主とする禅寺故でしょうか?

大寧寺説明書

大寧寺御朱印 (平成11年のお盆に拝受)
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【往路】JR新大阪(6:00) → (みずほ601号) → JR広島(7:25→7:35) → (こだま833号) → 厚狭(8:29→8:34) → (美祢線) → JR長門湯本(9:30)
長門湯本 → 徒歩10分 → 大寧寺・長門豊川稲荷 → 大寧寺バス停(10:26) → (サンデンバス) → 向名橋(10:38) → 徒歩10分 → 能満寺 → 向名橋(11:40) → (サンデンバス) → 大寧寺(11:52) → JR長門湯本(12:46)

瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺(曹洞宗 大本山總持寺御直末)
欄干のない盤石橋を渡り真っすぐ北に向かうと本堂ですが、
樹木が鬱蒼と茂る広い境内はそのまま通り過ぎるのは惜しい場所。
橋を渡って直ぐ左手には釈迦三尊像及び十六羅漢像が、
真っすぐ進み白蓮池を渡ると礎石が現れますが、これはかつての山門跡だとか。

虎渓橋を渡り木々が繁る境内へ
『石彫の釈迦三尊及び十六羅漢像は、大正初期まで前方の大寧寺川対岸にあった
大寧寺十景の一つ「三笑岩」に安置されていたが、県道取付工事のため山中に移動。
しかし風化が進み崩落の危険があったため平成17年5月にこの場所へ安置された。
造立年は刻まれていないが、後述の山門再建と同時期と考えられる。

橋を渡って大寧寺川沿いに建つ羅漢像

釈迦三尊像及び十六羅漢像 由緒

左側の十六羅漢

色々な表情の羅漢像
像の背面には近辺の村人たちの施主名が、灯籠には「益田」の刻字が判読され、
益田氏の関与が多大であったと想像できる。
釈迦三尊は中央に釈迦如来、脇侍に迦葉・阿難の二大弟子が控え、
その周囲は永くこの世に留まり正法護持の任に当たる十六阿羅漢像が並ぶ。

釈迦三尊像
阿難尊者(左)、釈迦牟尼仏(中央)、迦葉尊者(右)

右側の羅漢像

右側より全体を見る
当寺山門は天正年間(1570年代)に、毛利永代家老益田藤兼(全鼎)が
当寺十五世・関翁殊門禅師に帰依し寄進したもの。
後に寛永17年野火に拠って焼失した山門は、延宝5年(1677年)益田元堯に拠って再建された。
桁行五間、梁行二間五尺、檜皮葺入母屋重層の荘厳な山門であったが、
明治以降は藩の庇護も疎くなり維持困難を極め、明治末年に倒壊し、
今日に至っている。』 とあります。

山門跡へと続く境内

山門跡前にある白蓮池

山門の礎石

山門跡解説

本堂方面から見下ろした山門跡
戦乱や野火(失火)で焼失したなら諦めもつくでしょうが、
経済的に困窮して自然に崩壊したというのは何とも頂けない話。
明治以前は長州藩の益田氏が大檀越となっていましたが、明治以降はそれもなし。
余りにも一つの檀家に頼りすぎたのが原因と思えますが、
明治期により早く、方針転換をしていればと悔やまれます。

大寧寺 略案内

全体図
唯、遅まきながら、山門再建に向けて6億円の寄付を募っているので、
かつての山門を再び目にする日も来ることを祈りたいものです。
それにしても同じ益田氏が関わったにも拘らず、一つは今に残り、
もう一つは痕跡をとどめるだけというのも単に木と石の違いだけではない気がしますが…。

参道右手の準提観音堂

本堂前の放生池

放生池の向こうに見える本堂
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長門湯本 → 徒歩10分 → 大寧寺・長門豊川稲荷 → 大寧寺バス停(10:26) → (サンデンバス) → 向名橋(10:38) → 徒歩10分 → 能満寺 → 向名橋(11:40) → (サンデンバス) → 大寧寺(11:52) → JR長門湯本(12:46)

瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺(曹洞宗 大本山總持寺御直末)
8月最後の土曜日、新幹線&18きっぷを使って長門の国へ。
先般訪れた長良川鉄道と同じ復刻スタンプラリーが美祢線・小野田線で実施中。
合計9印ですが、過去に押印したものもあるので、今回の目標は
長門湯本・厚保(あつ)・於福(おふく)・雀田(すずめだ)の4駅。
どちらも列車の本数が少なく時刻表を駆使しての巡礼とはなりました。
美祢線で最初に下車したのが長門湯本駅。ここでは次の上りまで3時間以上待ち。
折角長門まで来て押印だけでは芸がないので、待ち時間の間に巡礼する事に。

JR美祢線 長門湯本駅舎
温泉街の玄関とはいえ、無人化して久しい。
駅は温泉街からは離れており、線路に沿って300m程南下して温泉街入口。
過去にプーチン大統領が宿泊したホテルもあります。更に南下すると温泉街ですが、
ここから右へ曲がり大寧寺(たいねいじ)川に沿って走る34号線で西へ。
川は清流で、木屋川・音信(おとずれ)川としてゲンジボタル発生地として国の天然記念物になっています。
また駅スタンプにあるように河鹿が鳴く川としても有名。
川テラスと呼ばれる川床が設置されているのも湯本温泉の特徴で、蛍だから【照らす】。
生憎、この日は蛍も河鹿も【おとずれ】ませんでしたが…。

長門湯本温泉街

大寧寺川岸に置かれたテラス

大寧寺川を遡り寺へ
左は源泉を管理する施設か?
初めはホテルが建ち並びますが、すぐに周囲は森に。と言うと単に僻地に思われがちですが、
34号線は俵山温泉を経て下関まで繋がっている主要道。
バスも1時間毎の運行なので、列車の本数を考えると多いと言えましょう。
長門湯本は大寧寺の門前町として発展したので、こちらの方が主となります。
道路沿いに広い駐車場が見えたら大寧寺入口。
多くの人はここから境内に向かいますが、旧参道は道路沿い。
徒歩巡礼者の私は旧参道を往く事に。朱塗りの欄干のある虎渓橋が見えたら境内入口。
ここから入るのも良いですが、更に先にある盤石橋が本堂正面になるので、今回はそこから入山。

大寧寺の向こうの木々の茂る場所が目指す寺院

道路沿いにある旧参道

清流で知られる大寧寺川

川沿いに建つ「ゲンジボタル発生地」の案内板
盤石橋(ばんじゃくばし)は、
『大寧寺川の清流に架かり、本堂正面に通じる参詣道の入口第一橋。寛文8年(1668年)に建築され、
後に宝暦14年(1764年)に再建架された事が橋石に刻銘された偈文に拠り判明している。
大小の石を巧みに組み合わせて橋梁及び橋脚を造り、長さ約14.2m、
高さ3mの小橋であるがその造形は素晴らしい。ドイツで開発されたゲルバー橋(1868年)
よりも以前に、この突桁式工法の架橋技術が日本にあった事が推測され、
盤石石は橋梁建築史上も価値が高い。防長三奇橋の一つに数えられる。』 とあります。

赤い欄干の「虎渓橋」
通常は、ここで川を渡る。

境内側から見た虎渓橋

虎渓橋の少し上流に架かる盤石橋

バス通りからの眺め

いざ、欄干の無い盤石橋を渡る
奥に見えるのが山門跡。
虎渓橋も盤石橋も寺の規模からすると狭くて短い橋ですが、これは禅宗の奥義にも通じる気がします。
虎渓も盤石も良い字を当てたと思いますが、そんな当寺が名門大内氏の終焉の地になったのは何とも皮肉な話です。
それにしても山口県は錦帯橋初め、橋に縁があります。これも本州の端、故でしょうか?

境内側から見た盤石橋

下流からの眺め

盤石橋解説
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城下町長府 → 徒歩5分 → 忌宮神社 → 乃木神社 → 覚苑寺 → 長府庭園 → 日頼寺 → 笑山寺 → 功山寺 → 長府毛利邸 → 城下町長府
【復路】城下町長府(12:08) → (バス) → JR長府駅(12:14→12:39) → (山陽本線) → JR岩国(16:12→16:20) → 宮島口(16:43→18:12) → JR広島(18:41)

長府毛利邸
功山寺に続いて壇具川に沿って下ると大きな門の前に出ます。
『長府毛利邸は、長府毛利家14代当主の毛利元敏(もととし)公が東京から下関に帰住し、
この地を選んで建てた邸宅。
明治31年(1898年)に起工し、明治36年(1903年)6月2日に完成した後、
大正8年(1919年)まで長府毛利家の邸宅として使用された。
明治35年11月には明治天皇が熊本で行われた陸軍大演習を視察された際に、当邸に御宿泊。
その当時の部屋の一部は当時のまま残されており、往時を偲ぶ事ができる。』
とあります。

邸宅の建つ場所の謂われ

長府毛利邸案内

重厚な屋敷門

門を通り入口へ向かう

長府藩祖 毛利秀元公銅像

秀元公伝
訪問前は江戸時代の藩主の庭園と思っていましたが、建築されたのは明治以降。
明治維新を主導した長州藩故の豪邸と思いましたが、主要な働きをしたのは下級武士。
藩主といえば、その場の流れに流される風で、幕末の藩主毛利敬親などは
親幕府が主力を占めるとその意見に「そうせい!」、倒幕派が政権を握るとまた「そうせい!」。
付いた綽名が「そうせい公」というのも頷けます。

母屋入口

かつての玄関に続く書院と襖絵

襖(実際は板)に描かれた竹林と丹頂鶴

反対側は松に白鷹

明治天皇御宿泊の間

ここは奥方の部屋

こちらが当主の間か?

欄間の透かし彫り
そんな藩主が己の贅沢のためだけに邸宅を建てたとは考え難く、
天皇を含めた貴族への接待所として機能していたと思った方がしっくりきました。
こうして長府の観光も12時頃に終了。7時に着いたので5時間の散策でした。
昼時になったので、食事処を物色。案内所の傍には長府きての老舗旅館小串屋がありますが、
流石に敷居が【高杉晋作】なので【吉田松陰】。その周囲を探索して漸く見つけた場所は
「コロナのために御予約が無い方は1時間待ちになります。」 との事。

庭から書院を見る

書院庭園

枯山水庭園
庭園の置石と楓。

池泉回遊式庭園より屋敷方面を見る

老舗旅館「小串屋」
これは時間のロスが多いので、丁度来たバスで長府駅前へ移動。
駅前に手頃なレストランが何軒かあり安堵しましたが、
時刻表を見ると岩国方面の電車は10分後で、次は1時間なし。
仕方なく岩国行きに乗車して広島方面へ。
新幹線と違って3時間近く要しましたが、広島へ入るころは丁度夕方。
手前の宮島口で下車して「うえの」で少し早めの夕食。
今までは弁当購入だけでしたが、初めて店内で食事。結果オーライとはなりました。

宮島口駅にある「うえの」

「うえの」の穴子丼

宮島口駅構内に置かれた顔ハメ
[参考書]
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金山 功山寺(曹洞宗 中国三十三ヵ所観音霊場19番札所 山陽花の寺9番札所)
仏殿に隣接する法堂。
仏殿と墓所に参拝、庫裏で御朱印拝受した後は、入山料を払って書院と庭園を拝観。
書院は
『天保7年(1835年)、長府藩主11代毛利元義が建立寄進。
手前にある庭園は心字池の周囲に木々が聳え苔が地面を覆っている。
文久3年(1863年)8月の政変に拠り、尊王攘夷派の公家7名(七卿)は京都を逃れ長州に落ち延びたが、
その内、三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌ら5名は
同年11月中旬より功山寺書院に潜居していた。

法堂前面の向拝

法堂に掲げられた「選佛場」の扁額
これを好機と捉えた高杉晋作は、同年12月15日の大雪が降り極めて寒い夜、
周囲の反対を押し切り八十余名の同志を率い当寺を訪問。書院に居た五卿の前で、
「長州男児の肝っ玉をお見せ申す。」 と宣告。
下関新地の萩本藩会所を襲撃した。
揺れ動く長州の藩論を倒幕へと結束させる、この功山寺決起の成果は回天義挙と呼ばれ、
激動する日本近代史の起爆剤となって薩長同盟の成立と幕藩体制の終焉を齎した。
その意味で功山寺は明治維新と言う近代日本の扉を開いた場所と言える。』 とあります。

法堂の屋根瓦にある菊と桐の家紋
桐は豊臣家かと思ったが、毛利家でも使用された事があるとか。

法堂前の鐘楼

功山寺輪蔵(経蔵)
寛政11年(1799年)の完成。

輪蔵の解説

庫裏の前にある功山寺名水

名水の由来
松陰は安政の大獄で露と消えましたが、彼の意志は後継者に拠って開花。
その契機となったのが書院というのも歴史の面白みと言えます。
法堂内陣に参拝した後、廊下を渡って一番奥の書院へ。
書院は手前が12畳、奥が10畳、美しい庭の眺望も眺めることが出来る場所。
都落ちしたとは言え結構な暮らしとも思えますが、潜居した広さは計22畳。
これを5人で【占拠】するのは結構キツイ。都の公卿にとっては【苦行】だったに違いありません。
この苦労があったから維新が成就したとも言えますが、命懸けで戦ったのは武士で、
貴族は死なぬ様に逃げるか隠れるのが専ら。身分の違いと言えばそれまでですが、
維新になって貴族が出世したのを泉下の英霊はどう思っているのでしょうか?

書院説明
七卿潜居といわれるが、実際は五卿。これも御愛嬌?

書院と庭園
書院内は撮影禁止のため、これは説明書からの引用。

功山寺説明書

功山寺御朱印 (山陽花の寺)
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金山 功山寺(曹洞宗 中国三十三ヵ所観音霊場19番札所 山陽花の寺9番札所)
山門を潜ると正面に建つのが御本尊を祀る仏殿。
『寺伝では嘉暦2年(1327年)創建とあるが、南側柱の墨書に「此堂元応二年(1320年)卯月五日柱立」
とあり建立年代の明らかな建造物として貴重である。
典型的な唐様建築(禅宗様)で、方三間の身舎(主屋)に裳階を付けた入母屋造、檜皮葺。
扁額の「金山」は後醍醐天皇の勅願と言う。本尊は千手観音菩薩坐像、中国観音霊場の御本尊である。
檜の寄木造で仏殿建立と同時代の特徴を持ち、京都の仏師雲渓作と伝わる。

国宝・仏殿
檜皮葺の屋根は見事な曲線を描き、上昇感が抑えられた安定した美しい姿を見せる。

仏殿前面
外廻りの組物は詰組で、屋根を支える化粧垂木は放射状に広がる。

花頭窓と桟唐戸

仏殿内陣に安置された本尊・千手観音菩薩坐像
(内陣拝観はできないため説明書より引用)

仏殿の側面
この横を抜けて藩主の墓所へ。
仏殿右手の道を上ると毛利家墓所。
長府藩主毛利家墓所は、長府の功山寺・笑山寺・覚苑寺の三寺院に分かれて所在。
墓所には後に、萩藩に迎えられた2人の藩主を除いた12名の歴代藩主及び親族の墓がある。
当寺墓所には、藩祖秀元はじめ5代元矩・9代匡満・10代匡芳・11代元義・12代元運・14代元敏の
墓があるが、14代以外の藩主墓は遺骸を埋葬しない詣り墓で、埋葬墓は港区泉岳寺にある。
他、墓所にある宝篋印塔は最後の大内家当主義長の墓とされ、
毛利軍に追われた義長が当寺の客殿で自害した事に拠る。』 とあります。

墓所への道すがら仏殿を見返る

毛利家墓所への石段

墓所への扉

毛利家墓所説明板

塀越しに見た墓所

大内義長の墓所の説明

墓地から見た仏殿の檜皮葺
書院拝観は有料ですが、外陣ながら仏殿は自由に拝観できました。
特徴的なのは唐様という造り。
教科書では東大寺南大門を天竺様、円覚寺舎利殿を唐様と載せていますが、
同じ様式の建造物が各地にあっても不思議ではありません。
功山寺の仏殿、多治見の虎渓山永保寺、紀伊由良の興国寺等同じ様式が感じられます。
藩主の墓所は、扉が閉まって居り拝観できませんでしたが、墓所の一角に建つ
毛利に亡ばされた最後の大内氏当主義長の墓に、一抹の哀愁を感じた次第です。

功山寺御朱印 (中国観音霊場)

長府郵便局 ; 国宝・功山寺仏殿、土塀
下関中土居郵便局 ; 国宝・功山寺仏殿、土塀、長門鋳銭所跡、関門橋、イルカ
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金山 功山寺(曹洞宗 中国三十三ヵ所観音霊場19番札所 山陽花の寺9番札所)
笑山寺参拝の後は、門前の道を左へ両山橋を渡ると、突き当りに旧山陽道に面した総門が見えます。
ここが元の笑山寺である功山寺門前。
先の笑山寺とは打って変わって、総門には「海右第一峯」の扁額が掲げられ、紅葉の参道が続きます。
参道の先には壮麗な山門が控え、その正面には国宝の仏殿が垣間見えるという長府を代表する古刹。
金山功山寺(きんざんこうざんじ)は、
『嘉暦元年(1327年)、虚庵玄寂(こあんげんじゃく)の開基になる古刹。
当初は臨済宗で金山長福寺と称し、足利・厚東・大内氏など武門の尊崇篤く隆盛を誇ったが、
弘治3年(1557年)大内義長(大友宗麟の実弟)がここで自刃。
名門守護の大内氏はここに滅亡、この戦乱に拠って堂宇は一時荒廃する。

開山肖像画
丁度博物館で展示中のため掲示されていた。

階段の先に建つ総門

総門脇に建つ「高杉晋作回天義挙之所」の石碑

碑の説明

総門近影

総門に掲げられた「海右第一峯」の扁額

由緒記
その後、慶長7年(1602年)長府藩祖毛利秀元が修営。
旧観に復すると共に金岡用兼を招聘し曹洞宗に改宗、寺号も笑山寺とした。
更に慶安3年(1650年)、二代藩主光広は父秀元の霊位を当寺に安置。
以来、長府毛利家の菩提寺となり、秀元の法号「智門寺殿功山玄誉大居士」
に因み功山寺と改称した。
創建当時の山門は長享2年(1487年)の台風で倒壊、
安永2年(1773年)に長府藩10代藩主毛利匡芳の命で再建。
入母屋造、本瓦葺、三間三戸二重門の禅宗の様式を基調とし、
組物に和様の影響が見える。屋根は美しい反りを見せ、棟までは11m。
戸口に扉を建てず開放的であることから門前からは優れた景観を見ることが出来、
境内の歴史的景観を構成する主要な建築の一つとして価値が高い。』 とあります。

楓の向こうに見える壮麗な山門
安永2年(1773年)の再建。

山門近影
下関市指定文化財。

山門の解説

山門の組物

山門の扁額「護国場」は月舟の書
中国観音霊場と山陽花の寺を兼ねた札所は鎌倉時代創建という長府きっての古刹ですが、
ここも盛衰は避けられず、堂宇の再建に加え改宗・改称を経ています。
古寺の名前を【居士】に倣って改称とは思わず【笑山】ですが、これは各地の【故事】に見られる事。
山号が金山ならば寺号は鉱山寺が相応しいように思えますが…。

山門前から総門へと続く参道を見る

山門の向こうに見えるのは国宝・仏殿

境内側から見た山門全景
礎石の上に粽型の欅の円柱12本で構成される。
そんな事はさておき、功山寺が知られるのは幕末に高杉晋作がここで挙兵したからに他なりません。
山門を潜るとすぐ右手に大きな台座の上に高杉晋作騎馬像が。
晋作ファンならずとも見落とす事はない位目立ちますが、
ちょっと【高過ぎ】感があり【新作】が登場するかもしれません。
ふと台座に目を遣ると「岸信介書」の文字が。
これを維新の意志と採るか亡霊と見るかは人に拠って判断の分かれる所でしょうか。

高杉晋作騎馬像

高杉晋作像近影

台座部に嵌め込まれたプレート
岸元首相も長州の出身。

功山寺御朱印 (平成6年拝受分)
千手観音とあるので観音霊場のものか?
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【往路】新下関駅前(7:03) → (バス) → 城下町長府(7:19)
城下町長府 → 徒歩5分 → 忌宮神社 → 乃木神社 → 覚苑寺 → 長府庭園 → 日頼寺 → 笑山寺 → 功山寺 → 長府毛利邸 → 城下町長府
【復路】城下町長府(12:08) → (バス) → JR長府駅(12:14→12:39) → (山陽本線) → JR岩国(16:12→16:20) → 宮島口(16:43→18:12) → JR広島(18:41)

蓬莱山 笑山寺(曹洞宗)
日頼寺参拝後は、長府第一の名刹功山寺に向かって壇具川を遡ること10分。
川の両側も家屋から樹木に変わり、蛍が舞い飛ぶのに相応しい雰囲気に。
その名も飛蛍橋を過ぎ両山橋を渡った場所が功山寺ですが、橋の手前に建つのが笑山寺。
一字違いで発音も似ていますが、境内の印象は随分と異なります。
思うに境内の樹木が日光を遮っているかどうかの差でしょうか?

階段脇に建つ寺標

由緒記

山門近影
蓬莱山笑山寺(ほうらいさんしょうざんじ)は、
『功山寺の前身寺院で長府初代藩主毛利秀元の開基。
初めは祖母乃美大方(のみのおおかた)の菩提寺として建立されたが、
続いて父元清(元就四男)を祀り、寺号は元清の法号 「洞雲寺笑山常快」 に因んだものである。
更に秀元は長府亀の甲にあった廃寺潮音院をこの地に移して妙寿寺とし、元清の室を祀った。
現在、境内に建つ十三重石塔もこの時に移されたと考えられる。

境内側より見た山門

正面に建つ本堂

本堂前面と向拝

本堂の扁額

十三重石塔

石塔解説
秀元没後は二代藩主光広が秀元を祀るため、笑山寺を功山寺とし、
笑山寺を妙寿寺のあったこの地に移し、妙寿寺から笑山寺とした。
境内の墓所には二代藩主光広、七代藩主師就(もろなり)の巨大な五輪塔が建つ。』 とあります。
寺号に「笑」という文字を使用するのは寡聞にして知りませんが、
“山笑う”は草木が芽吹く春の季語なので、それを意識したのでしょうか?
当寺は長府毛利家の墓所である三寺院の一つ。将軍家でも特定の宗派に偏らない様に、
寛永寺(天台宗)と増上寺(浄土宗)に墓所を分けましたが、ここは三分。
その上、曹洞宗と黄檗宗の違いはあるもののいずれも禅宗、
特定の宗派に偏らないという理由ではなさそうです。
もしかすると毛利元就の三本の矢の教訓に従ったのかもしれません。

裏山にある毛利家墓所

二代藩主光広の巨大な五輪塔
高さ4.13mは県下最大。

石柵で囲まれた七代藩主師就墓

師就墓の門扉に陽刻された「五三桐」と「一文字三星」の家紋
[参考書]
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大雲山 日頼寺(臨済宗東福寺派)
長府庭園を見た後は、国道9号線を北へ戻りますが、途中西へ向かう細道から丘の上の寺院へ。
大雲山日頼寺(だいうんざんにちらいじ)は、
『元は小比叡山極楽寺と称した天台宗寺院で瑞雲上人が開基とされるが、創建年代等は詳らかではない。
その後、慶長年間に長府藩初代藩主毛利秀元が再興。京都京福寺から仏智大照国師を迎えて臨済宗とし、
祖父元就の法号「日頼洞春(にちらいどうしゅん)」に因み大雲山日頼寺と改称。彼の菩提寺とした。

寺院入口の階段

階段先に見える山門

由緒記
明治2年の神仏分離令で廃寺となったが、同4年に復興して大雲山常楽寺と改称。
同22年に再び日頼寺の旧名に復した。
寺宝として足利・大内・毛利等諸公の古文書を有するが、境内北面に当たる
小高い丘の一角は仲哀天皇の殯斂地(ひんれんち)と伝えられる遺跡があり、
観応2年(1351年)の仲哀天皇聖跡地綸旨が今に伝わる。』 とあります。

山門近影

山門正面に建つ本堂

本堂の向拝と虹梁

本堂前面の「大雲山」の扁額

本堂内陣の様子

御本尊の阿弥陀如来と脇侍の日光・月光両菩薩
由緒から見て、仲哀天皇の殯斂地に後世、寺を建立したと考えるのが筋。
参道の両側に楓があるのは本山の東福寺を彷彿とさせますが、
境内へ入ると白砂の上に堂宇が建つ場所。随分と明るい印象ですが、
左手に寺院が経営する幼稚園があったので教育的配慮が働いたのかもしれません。
幼稚園名が 「もみじ幼稚園」 と言うのも気が利いています。
さて御朱印を頂くべく、ベルを鳴らしましたが生憎不在。
たまたまお墓参りの人が来られたので尋ねましたが、
「住職は居られるようですが…」 との答え。
大雲山日頼寺という名前ですが、大運もなく日を改めて来る事になりました。

本堂前の白砂に描かれた渦巻(波紋)
知らずに歩いたので、靴跡が付いた。

斜め前から見た本堂

本堂脇の観音堂?
左は「もみじ幼稚園」。

奉納された石灯籠
施主は殿様の末裔かしらん?
[参考書]
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長府庭園(廻遊式庭園)
覚苑寺参拝を終えたのは丁度9時前。
ぼちぼち観光施設も開く時間帯なので壇具川と国道9号線が交わる長府観光協会へ。
事前に調べた段階でレンタサイクルがあったからですが、尋ねてみるとコロナのためまさかの停止中。
「これは予定が狂ったな」と思いながら、城下の南端にある長府庭園からスタート。
距離があるかと思いましたが歩いても10分足らず。
受付でクジラの描かれたMHCを貰い、¥210の入園料を払って園内を散策。

下関市マンホールカード 庭園受付にて配布

庭園由緒
長府庭園(ちょうふていえん)は、
『長府毛利藩の家老格であった西運長(にしゆきなが)の屋敷跡で、
小高い山を背にした約31,000㎡の廻遊式庭園。敷地には滝と池を中心に
書院・茶室・東屋・蔵が点在し、かつての静かな佇まいが今日まで保たれている。
園内には桜・松・躑躅・菖蒲・金木犀・楓が植えられており、四季折々の庭園美を楽しむ事ができる。
その中でも有名なのが孫文蓮で、大正7年(1918年)に来日した孫文が、
長府在住の彼の支援者田中隆に贈った中国古蓮の実を、
蓮の泰斗の大賀一郎博士が育成し発芽させたもの。
7月中旬から8月にかけて、白地に淡いピンクの花を付ける。

正門を過ぎた場所から書院方面を望む

書院遠望

書院脇の池に架かる橋

池全景

池越しに見る書院と蔵

孫文蓮の説明
西家は藤原北家の房前を祖とし、関東に於いて荘氏を名乗っていた。
源平合戦で武功を挙げた荘家長は領地を与えられ備中に移住し、戦国時代には徳田と改名。
毛利元就の配下となって元就四男の元清の家臣となった清房が西を名乗るようになった。
江戸時代に入ると西家は元清の次男である毛利秀元が興した長府藩家老となり、
藩主の居館近くのこの場所に屋敷を構えた。
庭園を造った運長は天保13年(1842年)に児玉家から養子に入り、幕末動乱の文久年間から
慶応年間まで長府藩政を統括する当職として藩内外の難局に当たった。
明治以降も豊浦藩の要職を務めた後、明治8年(1875年)に当地にて没。
以後の、屋敷地は実業家中部幾次郎の邸宅などを経て、現在は長府庭園として整備公開されている。』
とあります。

池の反対側から見た書院

池越しに見た書院縁側

園内に植えられた芍薬

茶室
今でも時折使用されている様子。

竹林を抜け高台へ

旬の筍が顔を出す

園内の高台から見える瀬戸内海
ここへ来るまでは殿様の屋敷と思っていましたが、家老格の人物の【楼閣】でした。
幕末の動乱期にこのような庭園を作庭し維持するのは大変だったでしょうが、
長府藩にはそれだけの余裕があったのでしょう。
加えて、西家を離れた後は後継者にも恵まれました。中部幾次郎は大洋漁業(現マルハニチロ)の創始者、
明石出身で今も明石駅前には銅像が建っています。ゴルフの中部銀次郎も一族。
幾次郎がここを購入した昭和4年(1929年)は拠点を下関に移した時期。
日本三大捕鯨会社の筆頭としてのプライドもあったでしょうが、
個人の趣味というよりも関係者を招くのに使った場所の気がします。
昭和4年と言えば世界恐慌の始まった年ですが、思い切った事をしたものです。
それ程、儲かったと言う事でしょうが、20年以上も前に博物館で聞いた話では、
15m程のナガスクジラ1頭が当時の金額で2億円程。それなら庭園くらい買えたかなと思います。
捕鯨基地を下関に移した事が、庭園には吉と出た話。MHCのクジラのデザインの理由も納得しました。

池の畔に建つ一の蔵(売店)、二の蔵(展示室)

展示室の内容

展示されているセミクジラの髯
[参考書]
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法輪山 覚苑寺(黄檗宗)
長府では紅葉の名所として知られる覚苑寺ですが、参道に加えて本堂の周囲には
楓が繁り境内は青紅葉状態。その奥に建つ庫裏を訪問。
玄関に木魚の原型となった開梆(かいぱん)があるのも黄檗宗の特徴。
『当寺の庫裏として使われている建物は、元来勝山御殿本丸の玄関部分として
建てられたもので、明治6年の御殿解体後ここに移築された。
幕末期に関門海峡を通る外国船に砲撃を加えた長州藩は、報復措置を怖れて藩邸を
海側にあった豊浦付近から内陸の勝山へ移す必要に迫られ、僅か五ヵ月で城を完成させた。
総石垣造りの本格的な城郭であったが、幕府の築城禁止令に触れない様に勝山御殿と称したと言う。

本堂の横に建つ鐘楼
矢印 ← に従い寺務所へ向かう。

庫裏の玄関部分
勝山御殿玄関を移築したもの。

庫裏の説明

入口から庫裏の内部を見る

庫裏の庇部分

木魚の原型となった開梆(かいぱん)

開梆(かいぱん) のいわれ

覚苑寺由緒

覚苑寺御朱印 (平成6年拝受分)
庫裏の背後に営まれる墓地の一角には長府毛利家の墓所が
二ヵ所に分かれて所在し県の文化財に指定されている。
長府毛利家墓所は功山寺・笑山寺・覚苑寺の三寺院に分かれるが、
当寺は全て埋葬墓であり功山寺や笑山寺の詣り墓とは異なっている。
また創建より更に900年遡った奈良時代初期には、
境内と周辺一帯で古代の貨幣「和同開珎」が鋳造されており、
長門鋳銭跡として国の史跡に指定されている。』 とあります。

境内の青紅葉
庫裏玄関から本堂裏手を見る。

本堂裏手の青紅葉を抜けて裏山の墓所へ

土塀の朱に青紅葉が映える
本殿は他寺院の移築でしたが、庫裏も御殿の移築。言ってみれば借り物だらけの寺院ですが、
仏師は居ても物資の少ない我が国では少しでも節約するのが常道。
王朝の代わる度に全て一から築く中国などとは根本的に異なります。
しかしそのために昔のものが今に伝わったのも事実。これからはこのような見方も必要でしょう。
長門鋳銭跡なので境内を見回りましたが、それらしきものは見つからず。
その代りに現代の窯跡がありました。
開珎が開梆に、鋳物跡が窯跡になるくらい長い年月を経たという事でしょう。

墓所への坂を上る

坂の途中、右側にある墓所

墓所への門から

墓所説明板

境内の一角にある和銅窯

和銅窯の登り窯

名工・藤本尚己の遺作を展示する和銅陶苑
当寺は長府毛利家の墓所である三寺院の一つ。
坂本龍馬を高く評価し、衣類や活動費を下賜した13代藩主毛利元周(もとかね)と
彼の正室智鏡院千賀子の墓がここにあるそうで、敬意を表して参拝して辞去しました。
境内には乃木大将像があるものの、いたって穏やかな寺院。
幕末の動乱もここまでは及ばなかったのかと思いましたが、
幕末の攘夷戦の際には長府藩主が当寺に布陣。元治元年(1864年)11月、
萩藩より解散命令を下された諸隊が救援を求めて三条実美らと長府に入った際には、
奇兵隊の駐屯地にもなりました。
これは当寺境内ではなく、全く離れた別の場所の案内板に記述があったもの。
別段隠す必要もないとは思いますが、激動の時代をあらためて思った巡礼とはなりました。

境内の寂光堂前に建つ乃木大将像

山門脇にある長府出身の狩野芳崖像
狩野派の流れを汲み橋本雅邦と共に近代日本画確立に功績があったが、美術学校開校前に逝去。
[参考書]
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法輪山 覚苑寺(黄檗宗)
乃木神社に続いて北側の道を西へ。途中の門に国分寺跡の碑が建ちます。
周防国分寺は元の場所にありますが、長門の国分寺は別の場所に移転。
同じ山口県下でもこれだけ差があります。
その先の山裾に建つのが紅葉の名所として知られる覚苑寺。

寺への途中にある国分寺跡の礎石と碑

国分寺跡の説明
法輪山覚苑寺(ほうりんざんかくおんじ)は、
『市内の綾羅木村にあった元亨山利済寺がその前身。その古寺を元禄11年(1698年)、
長府藩三代目毛利綱元が当地へ移し替え法輪山覚苑寺と改称。
悦山道宗(えつざんどうしゅう)禅師を招き勧請開山とした。
以後、功山寺・笑山寺と共に長府藩の菩提寺となる。
禅師は福建省出身で黄檗宗萬福寺七世を務めた高僧、以来学僧相次ぎ
藩士の中から従学するもの多く、長府藩文教興隆の拠点となった。
また黄檗宗別格寺院の格を有し、地域における黄檗宗寺院の中心的存在になった。

覚苑寺入口

入口の石灯籠

階段脇の楓とその先に建つ山門

朱色が鮮やかな山門

由緒記
江戸時代には七堂伽藍を有していたが、明治になり寺禄を失い寺勢は急速に衰え、諸堂は取り壊された。
現在の本堂は周防三田尻にあった黄檗宗寺院海蔵醍醐寺の本堂として寛政6年(1794年)に建てられたもの。
明治8年(1875年)に廃寺となっていた醍醐寺から当寺へ移築された。
以後、当寺の本堂・大雄宝殿(だいおうほうでん)として利用されている。

正面から見た本堂(大雄宝殿)

本堂側面の花頭窓と連子窓

本堂前面の向拝部
本堂は乱石積の基壇上に建ち、入母屋造、本瓦葺。桁行三間、梁間三間の身舎に
裳階が付き、前面の裳階は吹放ちとしている。これらの建築は紅梁、台輪などに
見られる禅宗様の形式や細部の大斗肘木等に和洋の影響が見られるものの、
江戸時代の黄檗建築の特徴が現れており建築史上高い価値を有している。』 とあります。

向拝柱と花頭窓
薄っすらと道場と書かれた札が見える。

本堂に掲げられた「覚苑寺」の扁額

本堂内の御本尊
長府藩の菩提寺、文教の中心寺院でありながら維新後衰頽したのは
明治初年度の神仏分離令の影響。維新を主導した長州といえども、
というよりも主導したが故に仏教を冷遇せざるを得なかったのでしょう。

本堂内部の柱と梁の部分

軒下に吊るされた鐘
ところで、何時鳴らすのでしょうか?

本堂の説明板
[参考書]
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乃木神社(旧県社)
長府の中心にある忌宮神社ですが、その北側に隣接するのが乃木神社。
長州出身の陸軍大将乃木希典を祀った神社であることは容易に想像できます。
各地に分社もあって東京の乃木坂はそこに鎮座する乃木神社に由来。
古社ではありませんが、敬意を表してちょっと立ち寄り。
この辺りは城下町長府で最も古くから開けた場所で、
周囲の横枕小路は町を代表する景観。
そのために神社が創建されたのかと思いましたが、
乃木大将の生家がこの付近にあった事が主な理由のようでした。

神社の左側の路地は横枕小路
樹葉に覆われた土塀の空間にタイムスリップした様である。

乃木神社入口
忌宮神社北側の乃木神社参道の突き当りに建つ。

神社沿革
『大正元年(1912年)12月、有志が相謀って郷里の長府に乃木記念会を発足。
乃木が幼少時期を過ごした旧家を復元、幼少期の像や遺品などを展示する乃木記念館を開設。
大正8年(1920年)12月には記念館に隣接して神社が竣工。
明治天皇に殉死した乃木希典と夫人静子を祀っている。
昭和天皇を初め皇族の参拝は十数回に及ぶ。地元では学問の神様としても知られる。』
とあります。

正面より見た拝殿

拝殿前面の向拝

南側より見た拝殿とそれに続く本殿
明治になって軍制が敷かれて以降、階級の最高位は大将。
その中でも功績のあった人が元帥になっています。
従って大将・元帥と呼ばれる人は多々居る訳ですが、日本で大将と言えば乃木希典、
元帥と言えば東郷平八郎というのが一般的。
二人共、神社に祀られている事に加え、乃木大将が陸軍で長州閥、東郷元帥が海軍で薩摩閥。
戦前に乃木大将は3銭、東郷元帥は4銭の普通切手と、明治維新を主導した薩長にうまく振り分けられています。

参道右手の社務所
生憎、留守で不在。

御朱印見本を掲示中
これには本人の意向とは別に国家が軍神として両者に白羽の矢を立てたといった方が適切。
徴兵制度を採った軍部にとって、兵士の鑑となる人物を必要としたからに他なりません。
唯、選ぶに当り単に戦勝に拠ったものではなさそうです。
確かに乃木大将は旅順の攻防、東郷元帥は日本海海戦と勝利に繋がる戦を指揮しましたが、
東郷元帥はさておき、乃木大将の旅順での被害は甚大で名将と呼ぶには疑問があります。

拝殿の奥にある乃木夫妻の像

乃木大将と静子夫人

境内に復元された生家

反対側から見た生家

乃木旧邸(生家)説明
兵の模範としたのは、私心のない生き方であったのでしょう。
生家を見ても質素な生い立ちですが昇進した後も贅沢をした様子はありません。
旅順では多くの戦死者を出しましたが、乃木の二人の息子も前線で戦死。
身内だからといって特別扱いはしていません。
彼は日露戦争後に学習院院長に就任しましたが、後の昭和天皇初め
秩父宮・高松宮殿下への御教示が至誠の人という評判を高めたと言えます。
そして最期は夫婦揃っての明治天皇の殉死。そんな時代とも思えませんが、
逆に軍神として祭り上げられた事で、引くに引けない立場になったとも思えます。
その意味では乃木大将も時代の被害者であったとも言えるでしょうか?

旅順でのステッセル将軍との会見の歌碑
この時、乃木大将は敗将のステッセルに帯剣して会見に臨む事を許している。

乃木大将の御言葉

境内に祀られている「さざれ石」

参道脇にある演武場

塀越しに見る社殿
[参考書]
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乃木希典:予は諸君の子弟を殺したり (ミネルヴァ日本評伝選) 新品価格 | ![]() |

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忌宮神社(式内社 旧国幣小社 長門国二ノ宮)
城下町長府で下車して、9号線を渡ると商店街の行く手に大きな鳥居が。
そこは城下町エリアのほぼ中央、町は神社と共に発展してきました。
忌宮神社(いみのみやじんじゃ)は、
『仲哀天皇元年(192年)、天皇が熊襲征伐のために訪れ、翌2年に行宮を建立。
その後7年間に亘り仮の皇居とした豊浦宮跡と言われ、
宮に附属して斎宮を建てられたのが忌宮の起こりとされる。

城下町長府バス停から続く鳥居前通り
向こうに鳥居が見える。

通りを示す道標
また仲哀天皇9年(199年)、天皇が崩御され、その御遺体をここより南方の
土肥山に仮埋葬(殯斂)し、神霊を鎮祭し豊浦宮と称した。
仲哀天皇4年(195年)には始皇帝11代の末裔・功満王(こうまんおう)が渡来して蚕の卵を奉献、
そのため当社が蚕種渡来の地と 『三代実録』 は伝える。

東側に建つ一の鳥居
但し、南側が正式の様。

鳥居の「忌宮神社」の扁額
征東大将軍となった有栖川宮熾仁(たるひと)親王の書。長州の歴史の生き証人の一つである。

東の階段を上った先に建つ摂社・荒熊稲荷神社

荒熊稲荷神社由緒
後に聖武天皇の神亀5年、筑前国橿日宮から神功皇后の神霊を勧請して忌宮と称し、
更に応神天皇を祀り豊明宮と称した三殿別立の古社であったが、
中世の火災で豊浦宮、豊明宮を焼失。忌宮に合祀し一殿となったと言う。

南側に建つ一の鳥居
階段の広さ、拝殿との位置関係からこちらが正門。

階段を上った先から見た境内

忌宮神社由緒記
延元元年(1336年)には足利尊氏が戦勝祈願を行い、翌年に法楽和歌を奉納したとの記録が残る。
その後、数度の兵乱や火災に拠り社殿の焼失を見たが、大内・毛利氏の崇敬篤く
都度社殿の造営改築が行われた。
現在の社殿は明治10年6月に造営されたものを改修したものである。
古来より、文武・勝運の神として歴代朝廷の尊崇篤く、また安産の神として庶民の信仰を受けた。』
とあります。

神門の前にある鬼石

数方庭の起源と鬼庭

神門

神門の正面に建つ拝殿

拝殿の奥に建つ本殿

宿祢の銀杏
境内、巨大石灯籠の脇にある。
仲哀天皇は住吉三神の託宣を疑ったため神罰を受け、筑紫で崩御。
それを引き継ぐ形で神功皇后が三韓征伐をしたというのが 『日本書紀』 に載る話ですが、
歴史学会では伝説とされています。
倭国の力が半島まで及んだという事を言いたいためでしょうが、
当社には仲哀天皇7年に新羅の塵輪(じんりん)が熊襲を率いて豊浦に来襲。
皇軍は大きな被害を出しながらも天皇の活躍で漸く撃退したとあります。
倭国側には余り名誉ではないので、こうなると新羅との間に実際は戦があったと考えるのが無難。
今でも関釜フェリーがあるくらいなので、意外と日本海を挟んだ往来は頻繁にあったのかもしれません。

西側に建つ重厚な雰囲気の社務所

境内にある食事処 その名も「宮の内茶寮」

忌宮神社御朱印 (平成6年拝受分)
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】新下関駅前(7:03) → (バス) → 城下町長府(7:19)
城下町長府 → 徒歩5分 → 忌宮神社 → 乃木神社 → 覚苑寺 → 長府庭園 → 日頼寺 → 笑山寺 → 功山寺 → 長府毛利邸 → 城下町長府
【復路】城下町長府(12:08) → (バス) → JR長府駅(12:14→12:39) → (山陽本線) → JR岩国(16:12→16:20) → 宮島口(16:43→18:12) → JR広島(18:41)

城下町長府(長府毛利家5万石)
周防の国府である防府を巡礼した翌日は、長門の国府の長府巡り。
山陽本線には長府駅がありますが、町の中心に歩くにはちと遠く、駅前に宿泊施設もなさそう。
そこで新下関駅前に宿泊しましたが、城下町へはどのように行くか?
JRで長府まで行き、バスで城下町に行くのが筋ですが、どちらも本数がそれ程多くなく、接続も問題あり。
そこで新下関駅前からバスで直接城下町入り。6時30分の朝食を終えて7時8分のバスに乗車。
所用時間は15分程度なので随分早く着きますが、観光施設は9時頃から。
ですが町並みを見るのは7時でもOK。未だ観光客もいない静かな町を散策できました。

JR山陽本線 長府駅
一応、城下町への最寄駅ではあるが…。

JR長府駅スタンプ
(上) 国鉄時代の「わたしの旅」印 (下) 2006年 JR西日本広島支社印

下関市(長府) マンホール蓋

下関市 マンホールカード
配布場所は長府観光協会。
長府は
『西暦193年、仲哀天皇が、現在の忌宮神社付近に仮の皇居「豊浦宮」を置かれた時に始まる。
その後、国府がここに置かれた事から「長門の国府」で長府と呼ばれるようになった。
古代貨幣「和同開珎」の鋳銭所が覚苑寺付近に置かれ、また壇ノ浦合戦では源氏が長府沖に本陣を置いた。
関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった毛利氏は山陽九ヵ国から防長二ヵ国に減封。
石高も120万石から30万石に大幅減となった。毛利氏の嘆願も空しく、
本藩は瀬戸内ではなく山陰の萩に置かれ長府は5万石の支藩として近世城下町の歴史が始まった。

道に面して建つ長屋門
扉が開いているが、この奥は松嘯館跡で公園となっている。

城下町を代表する横枕小路
乃木家もこの通りの右手にあった。

西側から見た横枕小路
古江小路よりも幅は狭いが、落ち着いた趣がある。乃木邸は左側にある。
長府が歴史の表舞台に登場するのは幕末。
元治元年(1864年)12月15日雪の夜、長州藩士高杉晋作は周囲の反対を押し切り、
功山寺に潜居していた三条実美ら公卿5名に面会し己の決意を述べた後に挙兵、
僅か80名で萩本藩会所を襲撃した。
これがやがて幕府を倒す事に繋がり、長府は明治維新発祥の地とされる。
毛利氏支藩の城下町は戦災に遭わなかった事もあり、土塀や屋敷門、
侍町、小路等が至る所に昔のままの姿を留めている。
小路としては練塀の続く横枕小路と古江小路が知られるが、前者は幅2m程で、
これは武士が一対一で勝負できるよう、この道幅になったと言う。
古刹古社時に加え、邸宅庭園も残り、1800年の歴史を感じながら
静かに巡る事ができる街並みである。』 とあります。

横枕小路から古江小路へと続く道
長府を代表する朱色の壁が一際目を惹く。

道に面した壮麗な武家屋敷門
今でも人が住んで居られる現役の御屋敷。

西側から見た古江小路

かつてはここまで海が来ていた事を記した石碑

小路入口にある切通し

古江小路(ふるえしょうじ)に面した菅家(かんけ)長屋門
菅家は侍医兼侍講職を務めた格式ある家柄。

長屋門と練塀の説明

古江小路には武家屋敷を改装した食事処も

食事処のメニュー
近寄らないとそれとは分からないが、それがまた趣を添える。

新緑の古江小路を往く
防長ならぬ早朝だった事もあり、観光客も少ない散策でした。
毛利氏の城下町として先ず挙げられるのは萩。
どちらも訪問した身としては、共通点と相違点に目が向いてしまします。
長い土塀越しに家が見えるのは同じですが、曇り空が多く日本海の荒波が覆う萩と
晴天が多く瀬戸内の穏やかな波の長府は陰と陽の対比と言えるでしょう。
長府の川沿いの景観などは大内の城下町山口と共通するものを感じます。

集童場設立の地

集童場の説明

城下町を流れる壇具(だんぐ)川に架かる壇具橋
蛍の名所でもある。

壇具川の南側は侍町

川の南に面して建つ長府藩侍屋敷長屋
中央に出入り口を配した一見、長屋風だが、重厚な構造、仲間(ちゅうげん)部屋格子窓の造りは上級藩士の住居を示す。

長屋の説明
加えて長府の町の特徴は今も人が住んで【ふるえ】が来るほど綺麗に整備されている事。
観光地に在りがちな土産物店・食事処が林立している様子は希薄です。
地元の方の話では、武家屋敷には今も子孫の方が住んでいる所が多いとか。
先祖から受け継いだ屋敷ならば心掛けも違うでしょうが、それを可能にしたのは
やはりこの地域が経済的に恵まれていた事も大いに影響したと言えそうです。

都会で蛍が鑑賞できる壇具川

壇具川の由緒

壇具川から少し北に入った場所にある菅原道真公、御影の井戸

道沿いには、このような昭和チックな琺瑯看板を掲げた家屋も
[参考書]
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【往路】JR新大阪(6:00) → (山陽新幹線) → JR新山口(8:18→8:28) → JR防府(8:44)
防府駅観光案内所 → レンタサイクル30分 → 阿弥陀寺 → レンタサイクル15分 → 周防国分寺 → レンタサイクル3分 → 防府天満宮 → レンタサイクル10分 → JR防府駅(12:23) → JR新山口(12:39→13:13) → (宇部線) → JR宇部新川(13:57) → 徒歩15分 → 宗隣寺
【復路】JR宇部新川(15:34) → JR宇部(15:45→16:03) → (山陽本線) → JR新下関(16:40)

松江山 宗隣寺(臨済宗東福寺派 中国観音霊場第十八番札所 山陽花の寺第七番札所) 龍心庭
花の寺として有名な宗隣寺ですが、更に当寺を有名にしたのがその庭園。
『庭園は本堂の北側にある築山泉水庭園で「龍心庭」と呼ばれる県下一の古い庭園。
鎌倉南北朝時代の遺構を残す貴重な書院庭園で昭和43年に古態を復元。
改修に当たっては昭和を代表する作庭家・重森三玲が携わった。

山門脇に建つ庭園の案内碑

宗隣寺庭園由緒

龍心庭石碑

本堂東側の廊下を通り龍心庭へ

本堂東側の前栽

本堂廊下から見た前栽
本堂裏の山畔に広がる龍心庭には二つに区切られた池泉が配され、絶妙の曲線を描いている。
横長の大きな池中で目を引く八個の立石は夜泊石(よどまりいし)と称され、
港に船が停泊している様子を表すとか。
その船は仙人の住む蓬莱山から不老不死の妙薬を積んで帰った宝船とも言われ、
苔寺として知られる京都の西芳寺や、金閣寺、大覚寺等の庭園でも見られる。

いよいよ龍心庭へ

龍心庭手前の庫裏に接した庭

横長の池泉と夜泊石

池中に建つ八個の立石
夜泊石は池の浅い部分に配列されている。
この浅瀬は平安時代に書かれた最古の庭園書とされる『作庭記』に記された
「干潟様」の特徴とされ、「東の毛越寺(平泉)と西の宗隣寺」のみに現存するとされる。
参道のサツキで知られる当寺であるが、龍心庭の苔、池畔の楓、睡蓮と
その時々の植物が一層の彩を添えている。』 とあります。

池の東側

池の中央付近

池の西側

池とその向こうの山畔

山畔の近影

石組みの間に見える蘇鉄・サツキ・楓

池の西端にある大楓

大楓の根元にはセンリョウとツワブキが
本堂・観音堂は外陣ながら自由に拝観できますが、庭園は受付で¥200を払って入園。
本堂脇を抜けて裏にある庭園に向かうと、作務衣姿の青年が庭の手入れをされていました。
掃除も立派な修行の一つとは言え、¥200で庭園の維持は大丈夫なのかと気になります。

池の奥に続く石段

本堂北側の縁側から見た龍心庭
奥の建物は茶室。

龍心庭とモミジ新緑

本堂に連なる茶室

茶室に掲げられた扁額
「栄休庵」と書かれたか?

茶室からの眺望
庭園は本堂縁側に沿って長く伸びた形。立石から京都の寺院が類例に挙げられていますが、
私的には益田の医光寺・萬福寺の庭園に似たものを感じます。
龍心庭の命名は中国で吉祥とされる龍を用いたと思いますが、紀三井寺には為光上人が龍宮に行き、
龍神から七宝を貰ったという説話が伝わっているので、それに関連した命名のようにも思えます。

茶室から見た龍心庭

宗隣寺御朱印 (山陽花の寺)

夕食はホテルのレストランで「瓦蕎麦」
変わらぬものは、庭園だけではなかった?
[参考書]
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【復路】JR宇部新川(15:34) → JR宇部(15:45→16:03) → (山陽本線) → JR新下関(16:40)

松江山 宗隣寺(臨済宗東福寺派 中国観音霊場第十八番札所 山陽花の寺第七番札所)
防府市内の参拝に続いて宇部市内へ。
山陽本線には宇部駅がありますが、市内の中心は宇部線の宇部新川駅。
支線なので本線に比べて運行本数が少ないのが普通ですが、今はどちらも1時間毎の運行。
四半世紀前の山陽本線は15~20分毎の運行だったので、えらく減便ですが却って不便は感じませんでした。
駅の東側にある宇部市文化会館でMHCを入手した後は、もう一つの目的地の寺院へ。
有名な寺院ですが、これと言った目印がないので東へ向かい真締川を上流へ。
山口大病院を通り10分程歩くと道沿いに小さく寺の看板が。

新山口駅に停車中の宇部線経由宇部行電車

宇部市マンホールカード
配布場所は宇部市文化会館1階。

道路沿いに掲げられた案内板

観音霊場札所案内
桜並木の参道を奥へ進み石段を上ると山門。一瞬木造に見えますが凝視するとコンクリート製。
【うべ】なるかなと言う所ですが、隣接する小野田ならば石炭で造るのでしょうか?
山門より本堂への道はサツキの参道と呼ばれています。
山門を過ぎると正面には本堂、無量壽仏を本尊として平成10年に再建。
左手には如意輪観音を祀る観音堂があり、中国観音霊場札所として参詣するのはここになります。

道路から続く桜並木の参道

山門への階段

木目を出したコンクリート製の山門
一見、木製に見えてしまう程、良く出来ている。

山門に掲げられた「松江山」の扁額
松江山宗隣寺(ずんごうさんそうりんじ)は、
『宝亀8年(777年)、唐から来朝した為光(威光:いこう)和尚が創建した
松江山普済寺(ずんごうざんふさいじ)が嚆矢。
当時、この周辺は入海で唐の太湖(南湖)の支流にある名勝「松江」を思わせる景観であったと言う。
松江は観音菩薩の聖地であり、この地を訪れた為光和尚は故国に似た風景を気に入り、
山懐に抱かれた湧泉に霊感を受けて寺を開創したと伝わる。
戦国時代には廃絶していたが、寛文10年(1670年)、長州藩永代家老で宇部領主であった
福原氏十五代広俊が菩提寺として再興。亡き父元俊の法号「宝嶺宗隣居士」に因み宗隣寺と改称した。

山門から本堂へ至るサツキの参道

本堂と観音堂(奥)
江戸中期の元文年間(1736~1740年)の境内整備で発見された朝鮮鐘には
「長門州厚狭郡宇部郷松江山普済禅寺永和五年1379年己未仲呂日」
と刻まれており、毛利氏から大阪の鶴満寺に寄進され現在は国の重要文化財に指定されている。
永和4年は足利義満に拠って室町幕府の権威が確立した時代で、守護大名も大いに伸長。
山陽道の要衝に居を構えた厚東氏の庇護があったと考えられている。』 とあります。

本堂前の桜の巨木

本堂入口
但し、参拝は外陣から。

本堂前面より庫裏を望む

本堂からの境内の眺望
松江山と書いて「しょうこうざん」とは読まず「ずんごうさん」。
この音を聞いただけでも由緒がありそうな雰囲気ですが、
開山の為光が故郷の名勝に因んで名付けたと聞き納得。
現在のこの辺りの様子からは想像もつきませんが、太古の昔には太湖の支流に似ていたのでしょう。
【しょうこう】がありませんが、そう信じるしかありません。
為光とはどのような人物か?説明書等には一切記載がありませんが、
調べると紀三井寺の開山が同名同時代(770年)なので、
かれが全国行脚の途中に立ち寄って建立したと考えるのが無難。
紀三井寺開山の【威光】も与ったに違いありません。

本堂より見た観音堂

観音堂全景

観音堂入口
但し、こちらも参拝は外陣のみ。
では彼の来朝の目的は何だったのか?
唐は安易な出国を認めていません。そこで777年という年代に注目すると、
その20余年前に鑑真が苦労の末日本に辿り着いています。
揚州で既に高僧だった鑑真が一人で来たとは考え難く、
彼に従った若い弟子の一人に為光がいたのではないかと想像できます。
紀三井寺や当山の開創もスムーズに行ったのは、
彼自身と言うよりも鑑真和上の威光だったのかもしれません。
記録には【かんじん】な事は記されていませんが、その真偽は【以降】の研究になりそうです。

宗隣寺説明書

宗隣寺御朱印 (中国観音霊場)

高台に建つ鐘楼

鐘楼に吊るされた梵鐘
但し、これは重文の朝鮮鐘ではない。

鐘楼から境内を見渡す
[参考書]
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防府天満宮(旧県社 別表神社)
東側から見た天満宮全景。
我が国最初の天満宮だけあって、天満宮には創建時から明治維新まで
境内に九つの社坊と呼ばれる僧侶の詰め所があったようです。
これらを統括していたのが大専坊。毛利元就が本陣を置き、
禁門の変で総大将の来島又兵衛と出兵を止める高杉晋作が激論を交わした場所。
その他、維新の志士が足跡を残した由緒を持ちますが、
今は楼門の石段左手に山門と玄関が残るのみになっています。

東門外に建つ観音堂
典型的な神仏習合か?

大専坊跡
楼門に向かう階段の左側に建つ。

大専坊説明板

唯一残った大専坊の山門と玄関
その代りというのも変ですが、参道の向かいに建つのが茶室「芳松庵(ほうしょうあん)」。
『道真公は勅命を受け、お茶に関する故実を調査・研究して正史に記した。
その結果宮中に喫茶の習慣が復活し、道真は「茶聖菅公」と称せられた。
この芳松庵は道真公とお茶の深い関りを後世に顕彰するために
御神忌千百年式年大祭の記念事業として平成13年に建築。
庭内の一角には勤皇の志士が密議を交わした建物である
史跡暁天楼(ぎょうてんろう)もある。』 とあります。

防府天満宮茶室 芳松庵
天満宮表参道に面した芳松庵表門。

芳松庵由緒

芳松庵は今は無き圓楽坊跡に建つ
門を潜ると建家の後方に巨木が。
境内にはほぼ等間隔に並んだ楠の巨木が三本あって、その中心とされるのがこの御神木。
見上げれば天に向かって伸びる梢と四方に広がる太枝は威風を備え、思わず【仰天】。
パワースポットとしてエネルギーを貰えそうです。
茶室として利用しない場合も、無料で庭園の拝観はできるようで
池の畔の茶室を眺めながら新茶ならぬ新緑の香りを体験できました。

楠の御神木

御神木説明 (今風)

御神木説明 (昔風)

幕末の志士が密談した暁天楼

暁天楼由緒

暁天楼入口

池の向こうに見える茶室
見えている部分は30畳の大広間。
参拝後は防府駅に向かいますが、電車の時間を考えると昼食を摂る時間はなさそう。
と思っていると参道脇に「天神餅」の看板が。
太宰府の梅ヶ枝餅はよく聞きますが、天満宮は餡の入った餅が名物なのでしょうか?
値段も¥130と手頃なので、白・蓬・梅の3種を1個ずつ購入。
昼食も含めて【菅公】所縁の観光は無事終了。MHCも入手したのは言うまでもありません。

参道脇にある天神餅の店舗

購入した天神餅3種

防府市マンホール蓋

防府市マンホールカード
配布場所は防府市地域交流センター「アスピラート」。
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防府天満宮(旧県社 別表神社)
春風楼(通称・通夜堂)全景
天満宮自身は多々良山を後ろに控えた高台に建ちますが、境内の西側に建つ楼閣が春風楼。
春風楼(しゅんぷうろう)は、
『長州藩十代藩主毛利斉熙(なりひろ)が文政5年(1822年)に五重塔として工事に着手したが、
天保2年(1831年)に藩の財政難で工事は中断。幕末の動乱期もあって五重塔は寛政しなかったものの、
明治6年(1873年)に現在の二層の楼閣様式として完成した。
以前の塔建築の組物を利用する形を採り、床下部分には当初の塔建築の規模の様子を伺うことができる。
完成当初は祈願社の通夜堂(宿泊所)として利用されたが、
現在は剣道や柔道などの奉納行事や防府市を一望できる展望台として
市民の憩いの場所となっている。』 とあります。

春風楼説明書き(昔風)

春風楼説明書き(今風)

内部の鏝絵

楼上南側からの防府市内眺望
広い境内にあって拝殿と共に国の登録有形文化財。
当初は日清戦争後の講和会議の場所と同じ名前ではと思いましたが、あちらは春帆楼。
他人に話したら【噴飯】物となるところでした。
春と楼は共通で風と帆が異なりますが、どちらも貿易と関連性があるので、
藩主の意向が反映されているのでしょうか?
元来は五重塔になる筈だったものですが、様々な理由で二層の楼閣として復活。
財政難のためだそうですが、本来は取り壊しになっても不思議ではありません。
当社にとっては明治の神仏分離令が【春風】になったと言えそうです。
面白い所では、受験生のために合格マンホール蓋が天神ならぬ展示。
落ちないというゲン担ぎでしょうが、未だカード化されるには至っていない様子でした。

楼から北側に建つ灯明台(左)と演舞場

合格マンホール蓋
[参考書]
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防府天満宮(旧県社 別表神社)
初めに駅から離れた阿弥陀寺に行ったため、ようやく天満宮に参拝。
防府市内の観光地では国分寺、毛利邸と並ぶ御三家。
人に拠って好き嫌い、行く行かないと差はありますが、防府と言えば先ず天満宮。
城下町ではない防府は天満宮を中心に栄えた都市。
駅スタンプ、風景印にもデザインされているのがその証拠とも言えます。

JR防府駅スタンプ
(上) 国鉄時代の「わたしの旅」印 (下) 2006年JR西日本広島支社印

防府郵便局 ; 防府天満宮、天然記念物・エヒメアヤメ
防府天満宮(ほうふてんまんぐう)は、
『日本で最初に創建された天神さまを名乗る。
菅原道真は太宰府へ配流の途中、周防国国司である同族の土師氏を頼り、
本州最後の寄港地として防府の勝間浦に着船した。その時に、
「此地未だ帝土を離れず願わくは居をこの所に占めむ」
との願いを残し九州へ向かった。

県道54号線に面して天神商店街入口がある
天満宮はここを北上。

萩往還・旧山陽道の北に建つ防府天満宮

歴史の道「萩往還」説明板

社標と一の鳥居(石鳥居)
道真が太宰府で薨去されたその日、防府勝間浦に神光が出現。
酒垂山(現天神山)に瑞雲が棚引き人々を驚かせた。
国司は翌年の延喜2年(904年)、道真公の願いに従い、
御霊魂の居をこの松崎の地に建立して「松崎の社」と号した。
この創建を以て「扶桑菅廟最初」、本朝最初の天神とし、京都の北野天満宮、
福岡の太宰府天満宮と並ぶ日本三大天神とされる。

参道に並ぶ石灯籠

二の鳥居(青銅鳥居)
手前に建つのは幕末史跡「萩の狛犬」。
承安2年(1172年)には周防国の鎮護を担う神社との記録が記され、
東大寺再建の重源上人は建久6年(1195年)に社殿を改築。
中世以降は守護大名大内氏、戦国大名毛利氏の庇護のもと社殿境内が整備された。
社殿は今まで三度の火災に遭い、その都度再建。現在の建物は昭和27年の火災の後、
昭和38年に複合社殿として再建されている。
社号は古くから「松崎天満宮」「宮市天満宮」と呼ばれてきたが、
明治6年(1873年)に近代社格制度に拠り臣下を祀る神社の宮号禁止令が出たため
「松崎神社」と改称。
その後、昭和28年(1953年)に禁止令廃止に拠って「防府天満宮」となり今に至っている。』
とあります。

二の鳥居に続く階段
インスタ映えするように鉢植えの花がハート型に並べられている。

更に階段を上る

花に飾られた階段を上り楼門へ

階段上から参道を振り返る
天神さまと言えば、先ず真っ先に思い浮かぶのは北野と太宰府の天満宮ですが、
何とここ防府が最初の天満宮というから驚きです。
配流の途中で道真公がここに立寄った事と公が薨去の際に
ここに神光が出現したのが創建された理由。
立寄ったのは周防国司が同族の土師(はじ)氏だったからですが、
配流の身とはいえ中央政界で右大臣まで務めた人物が一国司に会うのも稀有な事。

天満宮楼門
駅スタンプや風景印にデザインされているのはここ。

楼門近影

楼門の唐破風と扁額

境内から見た楼門

楼門前の青銅製燈籠

防府天満宮拝殿
家柄ではなく学問のみで高位まで上った道真には、
味方とすべき人物が周囲に居なかったからだと想像します。
学問で上り詰めた人物が最後の拠り所としたのが一族だったと言うのも、
非常に人間的な感じがします。別段、【はじ】を忍んで会った訳ではないでしょうが…。

防府天満宮説明書

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