JR柏崎(7:52) → JR米山(8:07→9:13) → JR柿崎(9:19→10:13) → JR鯨波(10:30→10:46) → 直江津(11:26→12:15) → 谷浜(12:22→13:20) → 名立(13:29→14:41) → 能生(14:53→15:53) → えちご押上ひすい海岸(16:06→16:21) → 梶屋敷(16:25→16:50) →
【帰路】JR糸魚川(16:55→17:29) → (はくたか569号) → JR金沢(18:20→18:42) → (サンダーバード44号) → JR高槻(21:08)

JR鯨波駅舎
鯨の絵が描かれている所に【ゲイ】がある。
越後巡礼三日目はJR柏崎から糸魚川まで移動した後、家路へ。車窓右手には日本海が間近に見え、
左手には山が迫るという景勝地で、漁港や海水浴場が点在しています。
北陸新幹線開通以前は直江津までが信越本線で、そこから先が北陸本線。
柏崎は信越と越後、直江津は信越と北陸、糸魚川は北陸と大糸が分岐する交通の要衝でした。

無人駅のホームに掲げられた駅名案内板

鯨波駅ホームの向こうには海水浴場が見える
北陸は富山市を境に西が上方、東が江戸文化圏なので、大阪や名古屋からの特急の大部分は富山止まり。
特急雷鳥で新潟まで運行しているのは1日2本きりで、県内の泊ですら行きませんでした。
関西人にとって富山以東は遥か彼方ですが、そこは良くしたもので夜行の 「急行きたぐに」 が毎日運転。

唯一、駅周辺を徘徊した名立駅

ホームに掲げられたご当地キャラ

名立駅スタンプ 無人駅になった今でも何故か設置されている
(上) JR北陸本線時代 (下) えちごトキめき鉄道の現在
大阪23時半頃に出発して直江津には翌朝6時着。冬場でも周囲が明るくなり始める頃に、
札幌からのトワイライトエクスプレスが入線するのが常でした。
その頃は随分お世話になりましたが、北陸本線が3セクに転換した今となってはもう復活は難しいでしょう。

名立駅待合室の飾り

名立マンホール蓋

名立駅から道の駅に向かう途中に見た看板

「道の駅 うみてらす名立」 のスタンプ
柏崎~直江津は36㎞、直江津~糸魚川は38㎞ですからフツーに普通列車で移動しても90分程ですが、
柏崎を8時前に出て糸魚川に着いたのは17時前。別段、駅から離れた巡礼に向かったわけではなく
専ら風景印がメイン、年末と異なりお盆は平日扱いです。
訪問した郵便局は全て駅から徒歩10分圏内でしたが、9時から17時の間で8局訪問は
普段に比べると少ない印象は拭えませんでした。

糸魚川駅前に建つ奴奈川姫像

姫の像の右手に置かれた巨石は翡翠原石?

駅の物産館に置かれた巨石は紛れもない翡翠原石
如何せん電車の本数が少ないのが最大のネック。特にえちごトキめき鉄道は1時間毎の運行ですが、
信越本線柏崎~直江津間は2時間待ちも普通。本線を名乗りながら三セクよりも少ないとは
何たる事をサンタルチアですが、これが地方鉄道の現実でした。直江津寄りの三駅分の局は
次回以降へ持越し。これも越の国だからかどうかは不明ですが、
これを【厭い側】にすることなく、【尚、悦】に入るように持っていきたいものです。

糸魚川市マンホール蓋 (その一)

その二 と言うより消火槽

この日押印した風景印

夕食は特急内にて
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】燕地場産センター(9:30) → (レンタサイクル10分) → 燕市産業資料館 → (レンタサイクル15分) → 粟生津〒・長善館史料館 → (レンタサイクル15分) → 分水〒・良寛資料館・国上〒 → (レンタサイクル10分) → 道の駅国上
道の駅 → 徒歩40分 → 国上寺 → 徒歩10分 → 五合庵 → 徒歩15分 → 乙子神社 → 徒歩30分 → 道の駅
【復路】道の駅 → (レンタサイクル40分) → 燕地場産センター → JR燕三条(15:12) → JR吉田(15:24→15:44) → (越後線) → JR柏崎(16:56)

JR吉田駅スタンプ
(上) 1990年代に押印したシャチハタ印 (下) 今回押印したゴム印
晴天に恵まれたとはいえ猛暑で汗がダークダックスになりながら、何とか予定の巡礼は終了。
15時にはレンタサイクルを返却し電車に乗ることができました。途中見落とした名所もありましたが、
余りの暑さで入手したガイドや冊子に十分眼を通すことがなかったのがその理由。
燕郵便局も地図を準備しなかったのが致命的で、受験依頼あらためて予習の重要さを悟りました。

越後吉田郵便局 ; 弥彦山、ヒマラヤスギ、隕石落下地記念碑
吉田駅で弥彦線から越後線へ乗換えましたが、20分の待ち時間があったので
駅前の吉田郵便局の風景印を入手、燕郵便局のリベンジと言えます。
図柄は弥彦山、ヒマラヤスギに加えて隕石落下の碑が。
「さて、隕石が落ちたニュースなんてありました?」
と局員の方に尋ねると、遥か昔の江戸時代の話で、知らなくて当然でした。
帰ってから調べると天保8年(1837年)7月13日に富永村(現燕市吉田地区)の田圃に落下。
米納津(よのうづ)隕石と呼ばれ、現在は国立科学博物館に展示中。
31.65㎏と日本では三番目の重さだそう。
これだけの重さの隕石ならば、相当な被害が出ても不思議ではありませんが、
気絶した人が出たくらいで死傷者はなし。
まさに奇跡の奇石で、駅のスタンプにも登場するも分かる気がします。
この日の宿泊地の柏崎には16時56分着。未だ時間があったので駅周辺でMHCを入手。
これが今回の最後を飾る2枚となりました。

JR柏崎駅スタンプ
(上) 1990年代に押印したシャチハタ印 (下) 今回押印したゴム印

柏崎市マンホールカード 2種
観光案内所で聴いた話では、「水球のまち柏崎」が今の売り。
MHCもその関連で、水球デザインのマンホール蓋は全部で12種類もあるのだとか。
それ以外にも海山をデザインした通常のものもあり、差し詰めマンホール博物館の感がありました。

観光案内所で入手したマンホール地図
『柏崎は旧北国街道の宿場町、今も信越本線と越後線が交わる交通の要衝である。
日本海に面して潮の香りが漂い、柏崎港を中心に日蓮所縁の番神岬、海水浴場の鯨波海岸、
奇岩の福浦猩々洞など変化に富んだ景観が続く。
南西方向に目を遣れば米山が低い山並みの中に独特な山容で聳える。
“米山さんから雲が出た…”で知られる三階節で知られる他、「佐渡おけさ」にも登場している。』
とあります。

従来の一般的な風景を描いたマンホール蓋 (その一)

同じく (その二)

同じく (その三)
我々の年代には港と民謡の町ですが、哀調を帯びた歌詞のせいか若い人には魅力薄なのか
今はスポーツに傾斜している模様。それはそれで良いのですが、
水球やマンホールよりも【歌詞は先】にあった事は忘れてはなりません。
尤も【ついきゅう】するような事ではありませんが…。

下水道課に展示中のカードの図柄のマンホール蓋

これは商店街にはめ込まれた水球デザインのマンホール蓋
柏崎のもう一つの目玉が鯛茶漬け。夕食はホテルで鯛のせいろ蒸し、
翌朝は鯛茶漬けと地元の鯛を使った食事を¥1000余りで頂きました。
前日の海鮮丼と合わせて【三味一鯛】。かつてはこんな日もアッタナシウスと思い出した次第です。

この日の夕食はホテルの食堂で 「鯛のせいろ蒸し」

翌朝は同じ場所で 「鯛茶漬け」
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道の駅 → 徒歩40分 → 国上寺 → 徒歩10分 → 五合庵 → 徒歩15分 → 乙子神社 → 徒歩30分 → 道の駅
【復路】道の駅 → (レンタサイクル40分) → 燕地場産センター → JR燕三条(15:12) → JR吉田(15:24→15:44) → (越後線) → JR柏崎(16:56)

雲高山 国上寺(真言宗豊山派 越後西国三十三観音第二十二番札所) 五合庵
国上寺に通じる西坂の中腹にひっそりと建つ。
国上寺寺務所で御朱印を拝受した後は、境内にある良寛所縁の五合庵へ。
受付の方に伺うと、「そこの裏門から15分くらいですかね。」 の答え。
「意外と距離があるな。」 と思いましたが、
由緒のある建物なのでここは通り過ぎる訳にはいきません。
方丈と寺務所の間の道を抜けると道は急な下り坂。良寛の月見坂と呼ばれるのがここかと思い
写真に撮りましたが、五合庵から更に下る坂がそうなのだとか。残念ながらツキがなかったようです。
その草生した坂道を10分程歩くと木立に囲まれた奥に本覚院と書かれた案内板が。
札所のようでもありましたが、今回は関係ないと思い素通り。
当院が良寛が五合庵に定住する前に仮住まいした真言宗の寺、と言うのは後で知った話。
これは見ておくべきでしたが後の祭り。本覚で不覚をとってしまいました。

五合庵へと下る坂道
本覚院を過ぎると、五合庵と記された小さな案内板が目の前に。
その方向を見ると、静寂の中に樹間に隠れるような小さな建物が。広さは六畳一間くらいでしょうか?
こんな目立たぬ場所のこんな小さな草庵に著名な良寛が20年も住んでいたとは俄かには
信じられませんでしたが隠棲というのは本来そう言うものの筈。世間で言う【院政】とは違います。

木立の奥の五合庵
『国上寺に通じる西坂中腹にある五合庵は、貞享年間(1684~1688年)国上寺の中興開山である
萬元(まんげん)阿闍梨のために建立。大和国吉野の出身の萬元和尚は比叡山で修業した後、
26歳頃に諸国行脚に出た。佐渡へ渡ろうとしたが海が荒れたため断念、
旧知であった国上寺住職良長を訪ねて当寺へ至った。
萬元が訪ねた頃、寺は戦国乱世のために荒廃し本堂も焼失したままであった。
彼は伽藍再興のために越後国を30年に亘り隅々まで托鉢、その間に住まいしたのが五合庵で、
国上寺の良長住職は毎日五合の米を届けていた事が五合庵の名の由来となった。
萬元は新潟へ托鉢に向かう途中、病に倒れ本堂の完成を見る事はできなかったが、
その後、彼が托鉢した浄財を元に本堂が再建されている。萬元の遺言で墓は五合庵脇に建立された。

五合庵近影
現在のものは大正3年(1914年)に再建されたもの。
萬元の後、五合庵は歴代住職の隠居所となった。幕末にここに移り住んだのが良寛である。
良寛は宝暦8年(1758年)、越後出雲崎の名主の長男として生まれたが、安永8年(1779年)18歳の時に
家督を弟に譲り出家。偶々越後巡錫中であった備中国玉島の円通寺の国仙和尚に師事、
円通寺で13年間修行した。寛政3年(1791年)の師の没後は各地を行脚する生活を送るが、
寛政7年に父親が桂川で入水したと知り越後へ。戻った時は38歳になっていた。
越後でも居を定めない生活が10年程続いたが、40歳頃までに五合庵に来るようになり、
文化元年(1804年)47歳の折、国上寺の住職が亡くなった後を受け五合庵に移住。
漸くにして安住の地を得た。

まさに一間だけの五合庵内部
その後、文化13年59歳で乙子(おとご)神社の草庵に移るが、
五合庵への山坂の上り下りが老身にこたえるようになったためと言われている。
そこで10年過ごした後、文政9年(1826年)69歳の秋、島崎の木村元右エ門の小舎に移り、
天保2年(1832年)に74歳で亡くなった。
生まれ故郷の越後に戻った後の良寛は約20年間国上に居たので、
今日まで残っている詩・歌・書や逸話の大部分はこの時期のものである。
現在の庵は大正3年の再建である。』 とあります。

庵内の正面
ガイド等には良寛さんが隠棲した場所と記載がありますが、由緒を読む限り、
五合庵に最も所縁があるのは中興開山の萬元和尚。最初に住んだ事と言い、
五合庵の名前の由来にも直接関わっている事と言い資格は文句なしですが、
一般の知名度の高い良寛さまがクローズアップされてしまうのでしょう。
尤も良寛もこの偉大な先達には敬意を持って対したようで、毎日欠かさず墓参りをしたと伝わっています。
五合庵に住まいしたのも偉大な萬元に肖ろうとした面があったのは確実。
円通寺の国仙和尚に師事した事も含め、良寛はここぞとばかりに思いつめる性格であったようです。
それが非常に人間味溢れる魅力とも言えます。

庵に祀られている良寛像
面長の姿からは余り 【量感】 は感じないが…。

寺務所で拝受した五合庵御朱印 (季節仕様 ¥500)
庵の前には良寛の詠んだという句碑が。万葉仮名で書いてあるその句は
・焚くほどは 風がもてくる 落ち葉かな
良寛の名声を聞き及んだ長岡藩主牧野忠精公が五合庵に良寛を訪ね、
「立派な寺を用意するからどうか城下に来て欲しい。」 との願いに対して詠んだもの。
良寛は 「私には風が運んでくる落ち葉を焚く位のこの場所で十分です。」
とその要請をやんわりと断っています。
まさに老荘思想のような老僧の答えですが、自身に【くひ】はなかった筈。
その無欲な心境が伺える【ごこう】が差すような話です。

庵の手前に建つ句碑

句碑解説
こうして国上寺境内を参拝した後は道の駅に戻りますが、駐車所へは戻らずそのまま庵の下の坂を下山。
途中でハイキングコースに入りますが、往路に輪をかけた山道で何度も蜘蛛の巣を掃う羽目になりました。
精神的に無我の境地に達したと思われる良寛さんも、肉体的には強靭だった筈。
でなければこんな山道を行き来できません。途中、乙子(おとご)神社の札を横目に見ましたが、
59歳の良寛が移り住み10年間を過ごした草庵の場所だとか。本覚院に続く二度目の不覚でした。
地場産センターに戻った時は発車の15分前。途中、吉田乗換えで柏崎入りできました。
汗と土埃と草木にまみれた半日でしたが、目的の国上寺は【まぁ見れた】ので【良しだ】とすべきでしょう。
途中、見落とした箇所があったのは明らかに下調べ不足の影響。
燕なので季節が良くなったら戻って来ることになりそうです。

乙子神社草庵 (『良寛たずね道』より)
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雲高山 国上寺(真言宗豊山派 越後西国三十三観音第二十二番札所)
国上寺本堂を筆頭に大師堂、六角堂の建つ場所は、いわば歴史的文化財。
寺院としての一般的機能は、階段を下りて右側にある寺務所にあります。
そこに至ると山門が建ち、「越後一之寺 國上寺」 と刻まれた巨大な寺標が寺院の風格を表しています。
山門を抜けて右手奥に建つのが方丈講堂
『かつては住職・役僧・修行僧が住んだ場所で、一般の参拝者は入ることができなかった。
そこで義経・弁慶主従は本堂に身を潜めたとされる。一般に公開されるようになったのは明治以降である。

正面から見た方丈講堂
元文2年(1737年)の建立。
ここに安置されている千手千眼観世音菩薩像は、戦国武将上杉謙信公、長岡藩主牧野公も
信心された霊尊と伝えられる。国上寺は祈願寺として十万石の格式を賜る事となった。
講堂内には駕篭が四台置かれているが、うち二台が朱塗りで、
これは住職の乗る駕篭で当時は十万石以上の大名のみに許されたものであった。
現在の建物は元文2年(1737年)の建立。
越後西国三十三観音の第二十二番札所の観音様として知られる。』
とあります。

向拝の唐破風下の彫刻群

向拝下にて
当寺の法要等は全てこの講堂で執り行われると思いますが、講堂内も本堂同様に無料で参拝可能。
越後最古の古刹でありながら非常にオープンでした。方丈玄関には「上杉謙信公御祈願所」の札が。
長岡藩時代に比べると期間的には遥かに短い期間ですが、越後が最も天下に近づいた時。
謙信公に敬意を表した形で【献身】的とも言えますが、越後の人達にとっては、
未だに謙信公の時代を越えていないという恨みが今もあるのだとか。

講堂内陣へ参拝

正面厨子に祀られているのは御本尊の千手千眼観音菩薩

講堂内陣の襖絵(右側)

左側には酒処らしく四斗酒樽が奉納
さて、講堂の向かいにある寺務所で御朱印拝受。道の駅で伺った際には
「不在の時もあるので…。」
と言った話も聞き心配しましたが、関係者の方が居られて一安心。
御朱印はとみると、受付横に、レストランメニューの様に20数種が展示中。
折角の参拝なので、本堂の阿弥陀如来、方丈の千手観音、五合庵の3種を考えていましたが、
手書きのみの阿弥陀様は住職不在のため次回に持ち越し、千手観音と五合庵のみ書置きを拝受しました。
書置きは季節の草花をあしらったものが多いですが、
当寺では加えて本堂壁画の人物像が背景に描かれていました。
目を凝らして見なければ気付きませんが、イケメンはここでも活躍の様です。

寺務所前に展示されている20数種の御朱印群
直書きは左上の①~④ のみ

方丈講堂御本尊の御朱印
木村了子画伯の謙信像が背景に描かれている。

国上寺 ものがたり ¥500
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雲高山 国上寺(真言宗豊山派)
越後最古の名刹と銘打ちながら境内拝観は自由で無料。
日頃から京都・奈良の寺院に参拝する者にとっては信じられない話です。
整備された庭園があるそうですが案内はなく、後から知った話では精進料理を頂きながら眺めるそう。
流石【越後上人】だけに中々商売上手、次に訪れる機会があれば是非見てみたいものです。
境内随一の本堂へは内陣まで入って参拝しましたが、その後、本堂の周囲を一周してみて吃驚。
本堂は【極上寺】でしたが、障壁画はそれを凌ぐ越後屈指の古刹とはかけ離れた現代風極彩色絵画。

本堂前面(南面)の壁画
前日見た普光寺の壁画は江戸時代の作ですが、当寺は世界的アーティストである木村了子(りょうこ)画伯の作。
私は不勉強で知りませんでしたが、画伯は1971年生まれ、東京藝術大学壁画科を卒業された俊英で、
‘現代美男子画の巨匠’だそう。
画伯のHPはこちら 「木村了子」
「イケメンなら私も描いて貰おうかしらん?」
と言った冗談はさておき、本堂内には御住職が書かれた壁画の経緯が。それに拠ると
「国上寺は長い歴史の中で多くの偉人と縁を持って来た。古くは酒呑童子が稚児を務め、
義経・弁慶が平泉に逃れる途中に立ち寄った。戦国時代には上杉謙信の祈願寺となり、
幕末には良寛が30年間住いした。
・もし国上寺に縁のある5人の偉人が同じ時代に生まれていたら
・もし一堂に会したら、何を語り合い、どんな日常を過ごしたであろうか
と幼い頃からそんな空想をしながら、国上寺の住職を務めあげてきた。

本堂内に置かれた壁画の由緒

由緒(続き)
この度、世界的アーティストである木村了子先生とコラボレーションし、
圧倒的な画力とストーリー展開力をお借りして 『イケメン偉人空想絵巻』 を制作しました。」
と御住職の壁画制作に纏わる熱い思いが述べられていました。
壁画は2019年に描かれましたが、現在でも常設展示中。本堂の東西南北四面に描かれ
西面 ; 五鈷杵掛けの松 名手笛奏之絵巻
北面 ; 露天風呂湯浴之絵巻
東面 ; 龍乗遊戯之絵巻
との画題と画の説明書きがありました。残念ながら南面は失念してしまいましたが…。

南面の壁画
伝説では酒呑童子は外道丸という幼名でこの寺に預けられていましたが、
近隣の娘の注目となり自殺者も出る程の美男子だったとか。
水に映る己の顔が鬼になっているのを見た外道丸は寺を離れ、
全国で悪事を働きつつ大江山に籠ったとか。
伝説ならば何とでも言えますが、この辺りがイケメン絵巻の元になったと思えます。
【性癖画】ならぬ障壁画は甘美で官能的な画風で、
山岸涼子・魔夜峰央と共通するものがあるというのが私の印象でした。
観音堂で【かんのう】的は分かりますが、阿弥陀様を祀る本堂に描いた意図は何でしょう?

西面壁画 「五鈷杵掛けの松 名手笛奏之絵巻」 の解説

静御前を想い笛を奏でる義経

五鈷掛けの松で憩う良寛と酒呑童子

謙信を慰める弁慶
壁画制作の経緯の末尾に、
「歴史の長いお寺には現代的かつ過激すぎると思われる方がいらっしゃるかもしれません。
あるいは挑戦的すぎると批判される方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、日本のお寺は今のままでは衰退の一途をたどると思われます。
全国のお寺が檀信徒離れしている現在、古刹である当寺から新しいことに挑戦し、
変わっていかないといけない、そう思ったのです。」 と御住職の言葉が載ります。
そして最後に
「どうぞご自由に写真を撮って下さい。SNS上で意見を交わして下さい。ストーリーを自由に考えて見てください。」
と結ばれています。
お寺側は全国の寺院離れを食い止めたいという意図で製作したそうで、
お寺に「行けめん!」人をイケメンで呼び寄せようとの魂胆。

北面壁画 「露天風呂湯浴之絵巻」 の解説

良寛の背中を流す弁慶とすっと伸びた筍

露天風呂で戯れる酒呑童子・義経・謙信

二股の蛇尾を持つ猫又か?
この日の参拝者は少なかったそうですが、前日は大勢の参拝者で溢れたとはお寺の方の談。
不便な場所ながら参拝者【りょうこう】なのはこの画を目的の人も多い筈。
御住職の予想通り、壁画を巡ってSNS上では炎上も起こっているようですが、それも想定内。
当寺ではSNS炎上供養もしているそうですが、一体何をするのか不思議でしたが、このためなのでしょうか?
古いお寺に新しい画、と言う事に関しては反発する向きも多いでしょうが、考古学的遺跡ならば兎も角、
現在も寺として機能している場所ならば、時代と共に変わって行くのは当然の事。
国宝・重要文化財として今に残るものも、製作された当時は最先端のものだった筈。
御住職の言葉は、これからの寺院のあるべき姿を言い当てた名言と言えましょう。

東面壁画 「龍乗遊戯之絵巻」 の解説

龍の背で泰然自若とした良寛和尚

幼い酒呑童子と彼を支える弁慶

龍の背で一騎打ちする義経と謙信
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雲高山 国上寺(真言宗豊山派)
寺へと続く参道はアップダウンもあって予想以上の難所。イケメン社を潜らせた理由に納得が行きました。
雲高山国上寺(くがみさんこくじょうじ)は、
『眼下に広大な蒲原平野と大河津分水、遥かに望めば越後三山を見渡す事ができる越後最古の名刹。
創建は和銅2年(709年)、弥彦大明神の託宣を受け泰澄に拠って開山。
以来、弥彦神社の本地として崇拝を受け、代々の勅願所として『古事記』に分明。
また山中には閼伽井龍王水という霊泉が湧出している事も記録されている。
泰澄は修験道の僧侶であり、元来は修験道の寺院であったが、
その後、法相宗、天台宗、真言宗醍醐派へと変わり真言宗豊山派となり今に至る。

急なスロープを登りきると木立の向こうに本堂が

スロープを過ぎて石段を上ると正面に本堂が見える
孝謙天皇の時代に国上山に宝塔を建立しても雷神がその都度破壊。
それを聞いた泰澄は越知山から国上山へ登り、宝刀を以て雷神を鎮めた。
その折に雷神が掘った井戸が雷井戸として本堂脇に残る。
この事は『元享釈書』に記載されており、この霊水を以て国上寺の称号を念書し雷災害除の秘符とされた。
泰澄自作とされる像や役行者前鬼後鬼の像等が本堂に安置されている。
境内には五鈷掛の松と言う老木も存在し、弘法大師が唐より帰朝の折、三鈷と五鈷を投げられ、
三鈷は高野山の松に掛かり、五鈷は当山のこの木に掛かったため真言道場となった。
松の脇には松を詠った良寛の歌碑が建つ。

参道脇の鐘楼堂

本堂脇の雷井戸 (説明書から)
平安時代末には、兄頼朝に追われた義経と弁慶一行が、奥州に向かう途中に寺泊を経て当寺に参拝。
『義経記』に「その夜のうちに国上といふ所にあがりて」とあるのがそれである。
しかし密告する者がいて、一行は当寺を去り弥彦に向かった。
義経は無事を祈願し自作持仏の大黒天木像を寄進、
像の背には「治承庚子年正月朔日源義経華押」の文字が刻まれている。
文化13年(1816年)、当時の住職の夢枕に大黒天が現れ、
「招福利益の為に六角堂を建立せよ」
とのお告げに拠って建立し本尊として安置したのが、今ある六角堂である。

参道左手に建つ六角堂

六角堂内陣に祀られている開運大黒天
また仇討で有名な曽我兄弟の末弟の曽我禅司坊が16歳頃から国上寺にて出家し
仏道修行に励んだのも当寺で、その住まいの旧跡が本堂前に今も残る。
曽我禅司坊は討たれた工藤祐経の妻子の訴えで幕府に捕らえられ、
鎌倉に護送された後、18歳で自らの命を絶っている。

参道右手には曽我禅司坊跡が

これを元に謡曲 『曽我物語』 が書かれたという
戦国時代には当山の千手観音を信仰された上杉謙信公に拠って、
祈願寺として格別の配慮を賜り、十万石の格式と七堂伽藍の建立を見た。
最盛期には国上山山中に21ヵ寺、県内外を含めて130有余の末寺を有し、
常時千人以上の修行僧を置き祈祷寺として隆盛を極めた。
度重なる焼き討ちに遭いながらも、江戸時代中期に萬元上人(慧海阿闍梨)に拠って中興。
現在でも本堂、方丈講堂、大師堂、六角堂、一切経蔵等の数多くの伽藍を有している。

正面より見た本堂(阿弥陀堂)

向拝前から本堂近影
本堂は享保3年(1718年)の春、五合庵の開基である中興開山萬元上人が建立、
四度目の再建である。上品上生阿弥陀如来を祀るため阿弥陀堂とも呼ばれる。
この御本尊は行基菩薩の作、婆羅門僧正の御開眼で、
聖武天皇の皇后である光明皇后より賜った霊仏。国上山随一の建造物である。

本堂内陣へ参拝

向拝下より参道を振り返る
また本堂脇に建つ大師堂は宝永8年(年)の建造、弘法大師を安置するため御影堂とも呼ばれる。
享保3年(1718年)に本堂(阿弥陀堂)が再建されるまで、本尊及び脇侍がここに一時的に遷座。
そのため仮御堂の名でも呼ばれる。』 とあります。
越後最古の名刹と言うだけあって、歴史上の著名人や由緒が出るわ出るわ。
一通り読むだけでも【苦労汗顔】でした。
弥彦神社の託宣はさておき、ここに寺院が建立されたのは、山の中腹ながら
境内に湧き出る霊泉に拠った筈。古刹ならではの由緒と言えます。

本堂から見た大師堂

太子堂正面
雷神云々は落雷に拠って堂宇が焼失した事が度々あったので、
消火用に掘ったものを雷井戸と呼んだのでしょう。
泰澄が宝刀を以て雷を鎮めたというのはもしかして避雷針の事でしょうか?
五鈷の掛かった松は枯死しましたが境内に展示中。似た逸話は他の場所でも聞いたことがあるので、
弘法大師との繋がりを持たせたのでしょう。
三鈷は高野山に飛来したので、ここは五鈷。本山に【三鈷の礼】を取ったことになります。
江戸末期の良寛は勿論、義経・弁慶主従や曽我兄弟の末弟が当寺に滞在したのは恐らく事実。
広大な寺域を誇り、不輸不入の権を有した寺社は、中央を追われた人が潜むには
格好の場所だったに違いありません。
唯、全てが真実という事は考えにくく、義経が自ら彫った大黒天木像は恐らく後世の作。
治承の年号と干支が刻んであるのが却って後世の作と知れます。
というよりも義経ならは九郎判官と書くことはあっても自ら源義経とは書きますまい。

五鈷掛け松の老木

松の傍らに建つ良寛歌碑
[参考書]
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道の駅 → 徒歩40分 → 国上寺 → 徒歩10分 → 五合庵 → 徒歩15分 → 乙子神社 → 徒歩30分 → 道の駅
【復路】道の駅 → (レンタサイクル40分) → 燕地場産センター → JR燕三条(15:12) → JR吉田(15:24→15:44) → (越後線) → JR柏崎(16:56)

雲高山 国上寺(真言宗豊山派)
道の駅には右へ進む
良寛資料館から目指す国上寺へは参道を含めると更に4㎞の道のり。
寺付近に駐車場があるものの、電動でなければ登るのが困難な道とか。
「蒲原平野の田圃が山に迫る道の駅まで自転車で行かれて、そこから参道を登るのが良いのでは?」
との郵便局員さんのアドヴァイスに【賛同】して、1㎞先の道の駅へ。
ここで気になった事が一つ。山・道の駅・郵便局は国上を 「くがみ」 と読みますが、
寺だけは 「こくじょう」 と読みます。

国上郵便局 ; 国上山、五合庵、夕暮れの岡碑
『この山は以前、古志郡こしの山と言う名所で、雲高山もしくは雲上山と言われていた。
飛鳥時代以来蒲原郡に属し、聖徳太子がこの山に登って「雲上記」を書かれたとか。
その折、大悲千手観音像を彫って、北海鎮護仏法の最初の霊地と定めた。
大悲千手観音像が雲上、雲高にある事から「くがみ」と言った。
今 「国上」 と書くのは孝謙天皇が御宇にて 「国中上一寺」 と詔勅されたのを略して
「国上」 とする様になった。『萬葉集』には 「久賀躬」 と書かれている。』 とあります。

「道の駅 国上」 駐車場から見る国上山
元は雲の上であったのが詔勅のために漢字が変わったわけで、天皇はそれに【貢献】したことになります。
寺だけが音読みなのは、仏教が中国経由で伝わったからに他なりません。
道の駅でもMHCを配布中だったので、スタンプ2種共々押印。
駅の裏手にある駐車場に自転車を停めいよいよ登山、参道と言うよりも登山道と言った方が良い道でした。
さて参道入口には朱色の鳥居と小さい五重塔があって酒呑童子神社と命名。

道の駅 スタンプ

この日入手した4枚目の燕市マンホールカード
道の駅にて配布。
『その昔、桓武天皇の第五子、桃園親王が越後に来た折、供をしていた石瀬善次俊綱と言う人物が
ここ分水砂子塚に住み城を築いた。
数代後の俊兼は子宝に恵まれなかったため、信州戸隠山の九頭竜権現に祈願した所、
妻が身籠り、十六ヵ月目に男児が生まれ外道丸(げどうまる)と名付けられた。
長じるにつれて外道丸は乱暴者となり、8歳の時に和納の楞厳寺に預けられたが収まらず、
続いて分水の国上寺へ預けられた。
その後、乱暴を心配した母親が亡くなったと聞いた外道丸は只管修行に励むようになった。

参道入口にある酒呑童子神社
外道丸は稀に見る美男子だったため近郷近在の娘から恋文が届けられたが、
それには目もくれず仏を拝む毎日が続いた。
ある日、返事が来ないことを悲観した娘が淵に身を投げて入水。
これを聞いた外道丸は恋文の詰まった葛籠を開けたところ、紫の煙が立ち上り気を失う。
目が覚めて己の異変に気付いた外道丸が、井戸に顔を写して見ると、そこには悪鬼の姿があった。

外道丸が己を写した鏡の井戸
国上寺と五合庵の間にある。
仏道修行を捨てた外道丸は自ら酒呑童子と名乗り、国上山の断崖穴に籠り数々の悪行を働き里人を悩ませた。
その後、無頼の徒を引き連れ信州戸隠山に移り、遂には丹波の大江山の千丈岳に籠ったと言う。
酒呑童子は平安京から遣わされた源頼光と四天王に退治されるが、
童子に連れ去られた娘は一条天皇の子供であったという。
後に、大江山に赴いた国上寺住職は
「源頼光に退治された酒呑童子は、少年時代は当院の稚児であった。」
と話したと伝えられる。』 とあります。

参道を登ると旧東大門へ出る
大江山の酒呑童子伝説は様々に伝わっていますが、その前半生について書かれた物は稀で、
その中に越後誕生説話があるそうです。
距離的にも越後から丹波は遠方ですし、桓武天皇から一条天皇までは200年。
伝説なので創作は自由ですが、敢えて共通点を挙げるとすれば、
偶々大江山の酒呑童子がイケメンだった事が、越後国上寺の稚児伝説に結び付いた、
というよりも結び付けたのでしょう。
唯、地元では有名人?のようで、幕末の長岡藩家老河合継之助は
「郷土の三大有名人は、謙信・良寛と酒呑童子である。」 と述べている事でも知られます。
そのための登山口の社ですが、まさか「ここから先は、行けめん!」 と言う訳ではないでしょうが…。

東参道から更に坂を上りいよいよ国上寺へ
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史料館の庭にある良寛像
地場産センターから自転車で10㎞、漸く分水に到着。【分水、盆に帰らず】は、
避けることができたものの、汗がダークダックスでした。
平成の大合併で燕市に編入されましたが、元は西蒲原郡分水町。最寄りの駅は越後線分水駅で、
開業は大正元年と古いですが、昭和58年4月1日に地蔵堂から改称。
1990年代に訪問した際は有人駅でスタンプも押印。しかし無人化された現在では、
駅周辺にタクシーが停まっている可能性も低いと思われたので今回はスルー。
代わりに立ち寄って押印した郵便局は、かつての集配局を思わせる立派な局舎でした。

JR分水駅スタンプ (1990年代に押印)

分水郵便局 ; 信濃川可動堰
『分水とは寺泊‐分水間で渡る信濃川の大河津(おおこうづ)分水路新信濃川の事。
この付近で信濃川は度々氾濫を繰り返してきたため、分水路の構想は江戸時代からあった。
しかし実現したのは大正11年(1922年)で、当時の金額で2300万円余の工費と
1千万人の労力を要したという。これは「越後鉄道唱歌」にも歌われている。』 とあります。
関東地域への送電のためにダムが建設され、流量が減った現在の川からは想像もつきませんが、
大河のそばは常に水との戦いがあったのも事実。
公共工事では槍玉に上がることの多いダムですが、もう一度考え直す必要もありそうです。

大河津分水路に架かる越後線鉄橋から見た国上山

この日3枚目の燕市(かつての分水町)のマンホールカード
良寛資料館にて配布。
駅スタンプにもあるようにここ分水は良寛さんの里としても有名。
郵便局から北へ向かい、線路沿いに建つのが燕市分水良寛資料館。
分水に住まいした時代の県連資料を展示しており、庭には良寛像や歌碑も建っています。
『越後で生まれ越後で遷化した良寛の足跡は越後各地に残るが、分水は国上山中の五合庵に20年、
乙子神社草庵に10年と良寛が30年に亘り定住した場所。托鉢修行で生活の糧を得て、
自然や子供たちを愛し、人の心に寄り添う簡素な暮らしの中で磨かれた感性は数々の詩歌や書を生み出し、
その芸術が円熟を迎えた地でもある。その神髄は今に残る遺墨や遺品に見る事ができる。』 とあります。

燕市良寛史料館
大河津分水路のそのまた分水の西川沿いに建つ。

史料館の庭に建つ良寛歌碑

歌碑の説明
入口の前庭には良寛像と石碑が建っていましたが、うち一基は
「良寛さまと地蔵堂、国上との縁を後世に伝えるために建立した」
との由緒書きがあり、しかも発案者は大阪高槻市の女性とありました。
遠く越しの国まで寄越した奇縁を思わずには居られません。

高槻市の女性に拠る石碑

燕市マンホールカードスタンプ
ここでもMHCを入手しましたが、燕市は全ての配布施設でマンホールスタンプを設置。
カードとの合わせ技で1本となりました。加えて良寛関係の冊子を無料で配布。
1冊はスタンプラリー台紙、残り2冊は所縁の地のガイドと逸話集ですがいずれも
詳細な内容が書かれています。入館しなかったので気が引けましたが、御厚意で快く入手できました。
ガイドブックが宿泊・グルメ・土産に特化した昨今では、現地で入手できる冊子が
何より巡礼には不可欠のアイテムと言えます。

良寛さんに関する二冊子
逸話集(左)と良寛たずね道

こちらはスタンプラリー台紙で、使用はこれから
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JR燕駅と燕三条駅のスタンプ 弥彦線と越後線は紫色
新幹線駅は市の境界にあるのでこのような駅名に。燕は洋食器、三条は金物と両者譲らず。
越後二日目は燕三条駅前からスタート。
駅改札口には越後一宮の扁額が架かった朱色の鳥居がお出迎え。
燕三条駅の通る弥彦線の終点に弥彦神社があるためですが、
もう一つ、吉田で乗り換えた越後線の分水にあるのは越後最古の国上寺。

JR燕三条駅改札には越後一宮の鳥居がお出迎え
弥彦神社は駅から徒歩圏内、国上寺は駅から更に6㎞の山の中腹なので、
先ずは弥彦神社に参拝かと思っていると、
この日は境内で伊勢ケ浜部屋の奉納相撲が開催されるというニュースが。
「これは大勢の人出で参拝どころではないわ!」 と急遽、分水行きに変更。
大相撲が行き先を決める【分水】嶺となった訳ですが、後で聴いた話では、早朝から物凄い人出だったとか。

この日の目的地は向こうに見える国上山中腹の寺院
越後線からの眺望。
ところが分水駅から6㎞の国上(くがみ)山の中腹もさることながら、
越後線は2~3時間毎の運転と言うのが最大のネック。
前日の上越線の1時間毎など、これに比べると楽勝だったと痛感しました。
そこで朝から燕地場産センターで駅スタンプを押印した後、レンチャリを借りて目的地へ。
顔ハメも置かれていましたが、刃物と洋食器の町にしては花魁がデザイン。
どうしてなのかは【おいらん】にも分かりません。

「道の駅 燕地場産センター」 のスタンプ

地場産センターの顔ハメ
分水駅までは凡そ10㎞ですが、途中、中ノ口橋を渡った場所に建つ燕市産業資料館と
JR粟生津(あおうづ)駅近くの長善館史料館でMHCを入手。
どちらも駅から1㎞弱と歩いて行ける距離ではありますが、電車の本数が少ないうえに
無人化された駅の多い場所では、電車を使って収集する人は極めて稀なのでしょう。
駅前の観光案内所よりも道の駅が選ばれる訳です。

燕市マンホールカード 先ずはこの2枚を入手
前者は刃物や銀食器を、後者は天保4年(1833年)に鈴木文臺に拠って粟生津村に
創設された私塾の資料と一見の価値はありましたが、今回は巡礼目的なのでスルー。
次の機会に【会おうず】ですが、何時になることやら…。

長善館史料館

粟生津郵便局 ; 長善館史料館、稲穂
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浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04) → JR越後川口(11:24) → 道の駅・越後川口〒 → JR越後川口(13:08) → JR小千谷(13:14) → 徒歩15分 → 錦鯉の里 → JR小千谷(14:16) → JR長岡(14:32→15:33) → JR見附(15:46→16:29) → JR三条(16:41) → 三条寺町 → JR北三条(18:15) → JR燕三条(18:19)

三条寺町
三条別院に参拝した際に、当院周囲には念仏小路・寺町通り・実盛寺(じつじょうじ)新道と言った通りが
存在するのを発見。その名の通り、実盛寺を筆頭に福昌寺・宗政寺・極楽寺が立ち並び、寺町群を形成していました。
「寺町があるという事は、付近は城下町だったのか?それにしては城の事は聞かないし…。」
などと考えながら駅へ向かうと、脇に小さな公園があり 「三条城跡」 の看板が。

JR北三条駅前に建つ案内板には様々な通りが

三条別院南の念仏小路

別院前から南に延びる寺町通り
『三条城は三条藩4万1300石の初代藩主市橋下総守長勝が元和2年(1616年)に築城。
以前に城のあった場所が川欠したため現在の元町付近に移ったとされる。
会津街道を抑える地なので堅固にする様にと幕府が命じた事もあり、
本丸・二の丸・三の丸・外堀・内堀を備えた典型的な近世城郭であった。

寺町西側にある曹洞宗宗正寺は立派な構え

向かいの東側にある日蓮宗實盛(じつじょうじ)寺は通りに名を残す

寺の名が付いた実盛寺新道
しかし長勝を継いだ稲垣平右衛門重綱が大坂城番となったため三条藩は廃藩。
領地は幕府が収公し、長岡藩牧野忠成に在番が命ぜられた。
寛永19年(1642年)に破却の命が下り、悉く取り壊された。
三条城跡は江戸時代初期の城郭や城の破却の様相を知る貴重な遺構である。』
とあります。

駅の高架脇にある三条城跡

城跡の解説

北三条駅ホームの向こうに見えるのは大伽藍の屋根

この日の宿泊地の燕三条方面を望む
正面に見えるのは明日登る国上山か?
三条と言えば、長岡と新潟の間にある中堅都市のイメージしかありませんでしたが、
江戸時代に城があったとは初耳でした。街道の抑えの役目を持った【破格】な城だったそうですから、
もしも今まで残っていたら観光客を惹き付けたに違いありません。
城下町としての発展もまた違ったものになったでしょうが、破却されてはそれも台無し。
破却の様相を知る手掛かりになっているのが何とも皮肉な話です。

三条郵便局 ; 五葉松、六角巻凧、昭栄大橋
三条本町一郵便局 ; 六角巻凧、地震慰霊塔、宝塔院

燕三条にて夕食は海鮮丼

〆の抹茶パフェ
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浄圓寺(真宗大谷派別院旧地)
三条別院山門の右手に建つ。
三条別院へと続く山門の両側には、寺院が並びますが、その右側には
「真宗大谷派別院舊地」といわくありげな札が門前に。
「これは別院と関係があるのかな?」 と思い、門を潜ると、住職夫人と思しき方が、庭の手入中。

門に架けられた木札

山門の左手には輪寶寺の扁額が
私 ; 「別院旧地とありますが…。」
夫人 ; 「はい、もともとは当寺の境内だった場所を別院に譲りました。」
私 ; 「別院の方が新しいという事ですか?」
夫人 ; 「そうなりますね。」
私 ; 「開祖の銅像がないのもそのせいですか?」
夫人 ; 「親鸞聖人の像なら、そこにありますよ。」
と言われる方を見ると、木々の間に隠れるようにして開祖の銅像がありました。

門を潜り境内を望む

境内奥に本堂が見える

本堂前の木立に佇む親鸞聖人御姿
引き続き境内を拝観。「無量寿」の扁額の架かった本堂は閉まっており、外陣からの参拝でしたが、
向拝の欄間の端の龍の彫刻は非常に写実的。以前に見た鯖江の寺院を髣髴とさせました。
姿も似ていましたが、左甚五郎作ではないのでしょうか?

本堂近影

本堂前面に掲げられた扁額

向拝右手の龍の彫刻

同じく左側の龍の彫刻
普通、別院と呼ばれる場所は、院を中心に発展した場所が多いと思っていましたが、
逆の立場もあったようです。それならば、ここ浄圓寺を中心にした方が手っ取り早いと思いましたが、
色々と複雑な事情があったのでしょう。その真相は謎ですが…。

本堂の妻入部分
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東本願寺三条別院(浄土真宗大谷派)
この日、最後のMHCでこの日の入手は7枚、加えて郵便局も2局訪問。
電車の運行本数の少ない状況下では健闘した1日と言えます。
半面、寺社巡りは浦佐の毘沙門さまだけとはちと寂しいなと思っていると、
「越後三条良寛の道」 と書かれた道標の向こうに壮大な伽藍を有するのが
市民から 「御坊さま」 と呼ばれる東本願寺三条別院。

道路脇に建つ木製の道標

「良寛の道」 の奥に壮大な伽藍が見える

夕暮れの門前へ
石標には 「本寺小路」 とある。
JR北三条駅から東へ300m程進んでも大きな甍の屋根が目に入るのでそれと分かります。
東本願寺三条別院(ひがしほんがんじさんじょうべついん)は、
『元禄3年(1690年)、東本願寺第16代法主である一如(いちにょ)に拠り開山。
東本願寺の出張所として開創され、米山以北の越後国の所属寺院の管理に携わった。

門の正面に建つ壮麗な本堂
普通、真宗寺院は本堂に加え御影堂が建つが、ここは兼務?

正面から見た本堂

本堂の向拝
大きく前に張り出した向拝と屋根を支える太い柱は真宗伽藍共通。
毎年11月5~8日に宗祖親鸞の法要として執り行われる報恩講は 「お取越(とりこし)」 と呼ばれ
近郷の信者の参詣で賑わい、周辺では植木の露天市が開かれる。
寺務所前には、良寛が当地で詠んだ歌碑が立ち、
門前には明治天皇が行在所として滞在した石碑がある。』 とあります。

本堂左手は書院?

寺務所前に建つ良寛の歌碑

入口脇には明治天皇行在所址の石碑も
三条市には国道8号線の南側に本成寺(ほんじょうじ)という壮大な法華宗総本山があって、
30年程前に参拝済。かつて押印した北三条駅のスタンプに 「越後の仏都の玄関口」 とあったのは、
同じ市内という事もあり同じ寺院とばかり思っていましたが全くの別院。
図柄を見ても三条別院の本堂を写したのは明らかでした。

JR北三条駅スタンプ (JR東日本新潟支社印)
弥彦線・越後線は紫色で統一。デザインは三条別院の伽藍。

JR三条駅のデザインは別院伽藍とは明らかに別
壮大な伽藍を有し、幼稚園も経営している様子は真宗寺院に共通。
だとすると本堂内陣は自由に拝観できる筈ですが、流石に17時過ぎは時間切れ。
【別に参上】と持ち越しになりました。

本堂向拝下にて

本堂前面の扉

本堂屋根の妻部分
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JR新大阪(6:00) → (のぞみ200) → JR東京(8:23→8:52) → (とき309号) → JR浦佐(10:32)
浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04) → JR越後川口(11:24) → 道の駅・越後川口〒 → JR越後川口(13:08) → JR小千谷(13:14) → 徒歩15分 → 錦鯉の里 → JR小千谷(14:16) → JR長岡(14:32→15:33) → JR見附(15:46→16:29) → JR三条(16:41) → 三条寺町 → JR北三条(18:15) → JR燕三条(18:19)

JR見附駅スタンプ (JR東日本新潟支社印)
この日の移動もほぼ終盤、長岡駅を出発して見附駅で下車。
ニットの町として知られ駅員さんも配置されていますが、駅は住宅の中にあるだけ。
新潟県の旧国鉄駅が町の中心を避けたのがここでも同じ。
MHCの配布先ネープル見附へは曲がった道を1㎞程先。【見付け】るのは容易でしたが、
45分では更に先の郵便局訪問はお預け。【にっと】笑うことは叶いませんでした。

見附市マンホール蓋
MHCを入手し1㎞を往復して、今宵の宿のある三条へ【参上】。三条市でもMHC配布中でしたが閉館は17時。
JRの駅では信越線に三条・東三条、弥彦線に北三条・燕三条の四駅ありますが、配布先は北三条の駅前。
途中、乗り換えては完全にタイムオーバーなので最も手前の三条駅で16時41分に下車して歩くことに。
一か八かの賭けでしたが、何と駅前には小型タクシーが1台停車中。目的地までは1㎞余りだったので迷わず乗車。
閉館10分前に到着してこの日最後のMHCも無事入手。金物の町でしたが、料金は¥990と苦にならない額でした。

三条市マンホール蓋

この日のMHCの 〆 はこの二枚
三条市は市内を流れる五十嵐川が信濃川に合流する場所で、隣接する燕市も似た状況下でした。
そのためかつては氾濫が絶えず、農耕にも不向きで住民は貧しい暮らしを強いられる事に。
それを見かねた代官が、和釘作りを奨励したのが、金物の町に飛躍するきっかけになり、
やがて農具・大工道具・金物食器へと発展し、国内有数の金物都市が出来上がりました。

三条市にある駅スタンプでは金物の町をアピール

隣接する燕市は洋食器を全面に
金のない状態から金物へと移り変わった訳ですが、その元となったのが代官の助言だったというのがミソ。
一般に言われる悪代官などと言うものは小説やフィクションの世界の事だと分かります。
為政者は、庶民の【かじ】取りにも気を配らねばなりませんでした。

市内で見かけたもう一つのマンホール蓋
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<コース>
JR新大阪(6:00) → (のぞみ200) → JR東京(8:23→8:52) → (とき309号) → JR浦佐(10:32)
浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04) → JR越後川口(11:24) → 道の駅・越後川口〒 → JR越後川口(13:08) → JR小千谷(13:14) → 徒歩15分 → 錦鯉の里 → JR小千谷(14:16) → JR長岡(14:32→15:33)

花火の街で火花を散らす
小千谷から北へ向かい長岡で下車。この日初めて駅前に繁華街のある駅です。
上越線は宮内で信越線に合流しますが、そこが終点ではなく全ての列車は更に一駅先の長岡まで。
かつては旧街道の分岐点という交通の要衝は今も健在。
次の列車までの1時間でMHCと風景印を各々2種類ゲット。
その関係ではありませんが長岡は県下で二番目の都市。
というよりも江戸時代は長岡藩の城下町で新潟はその外港という位置付けでした。

JR長岡駅スタンプ (JR西日本新潟支社印)
信越線は朱色で統一。火焔土器は県下初の国宝に認定された。
両者が逆転するきっかけは幕末。外国に対して開港した新潟と、
戊辰戦争で戦場になった長岡というのが明暗を分けたと言えます。
幕末の長岡藩家老・河合継之助は有能な人物で、北上する新政府軍に対して果敢に戦いを挑みますが、
結局城は奪われ城下は火の海に。自身も負傷して会津へ抜ける只見線添いの八十里で亡くなります。
その辺りの様子は司馬遼太郎の歴史小説 『峠』 で述べられています。

長岡市マンホール蓋 (その一)
最初に登場したもので、長岡を代表する事物がデザイン。
焦土と化した長岡藩の窮状を見て、近隣の三根山藩は米百俵を送ってきましたが、
長岡藩大参事であった小林虎三郎は、この米を換金して子弟の学校設立資金に回しました。
「食うに困っているのに何が教育か!」 と藩内からは非難を浴びましたが、
「食べられない状況下にあるからこそ教育が大切だ。今日の米百俵は将来一万俵にもなる。」
と藩士を納得させたとか。この後、旧長岡藩は有能な人材を輩出することになります。
この史実をもとに山本有三は『米百俵』を戯曲化、
小泉純一郎首相が度々引用したことで、再び脚光を浴びました。

長岡市マンホール蓋 (その二)
小林虎三郎は幕末の佐久間象山に学んだ俊英、吉田松陰と同門になります。
というよりも松陰は虎三郎の紹介で象山に入門した経緯があり、
この優秀な先達を常々立てていたそうです。
松陰といえば言うまでもなく幕末長州藩の精神的支柱になった人物。
同じ師に学びながら、敵味方となって争わなければならなかったのも悲劇ですが、
単に思想だけでは片付かない政治の複雑さを感じる話です。

駅周辺で入手したマンホールカード
佐久間象山は
「我が門下で、国家の行く末とその経綸を語らせたら吉田松陰の右に出る者はいない。
私が死して後、幼少の子の教育を託すには小林虎三郎に勝る者はいない。」
と周囲に語っていたとか。象山の炯眼は後の歴史の流れを見抜いていたと言えます。

長岡日赤町郵便局 ; 三尺玉の輪郭に配水塔、花火と花火の妖精なっちゃん
長岡呉服町郵便局 ; 呉服の外枠に長岡花火、長生橋
[参考書]
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JR新大阪(6:00) → (のぞみ200) → JR東京(8:23→8:52) → (とき309号) → JR浦佐(10:32)
浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04) → JR越後川口(11:24) → 道の駅・越後川口〒 → JR越後川口(13:08) → JR小千谷(13:14) → 徒歩15分 → 錦鯉の里 → JR小千谷(14:16)

小千谷市錦鯉の里
当初の予定より遅れて小千谷駅で下車しましたが、ここからは信濃川が北流。
駅の開業は大正9年(1920年)と100年前ですが、駅は右岸で町の中心は左岸。
どうせなら町の中心に乗り入れてくれると有難かったのですが、
目的の場所は右岸にあるので橋を渡って対岸へ。

JR小千谷駅舎

JR小千谷駅スタンプ (JR東日本新潟支社印)
新潟県内を走る上越線は、新幹線の停車する越後湯沢・浦佐には支線がなく、
新幹線の停車しない六日町・小出・越後川口に支線があるのが特徴。
小出 ; 破間川が魚野川に合流し、会津へ只見線が分岐
越後川口 ; 魚野川が信濃川に合流し、信州へ飯山線が分岐
となるので、素人目にはどちらかに新幹線の駅を作るのが普通と思うのですが、
一体どんな事情があったのでしょう。

駅前の地下道入口
こっちへ来い!と言っているのか?

信濃川を渡り市街地へ
左岸の本町付近の施設でMHCを2種ゲットしましたが、その一つは「錦鯉の里」で配布。
小千谷といえば縮と闘牛ですが、それに加えて錦鯉。
『小千谷の錦鯉は江戸時代に始まった小千谷の主要な地場産業。
食用鯉の突然変異を起源として鑑賞用に交配を繰り返し現在の錦鯉の品種が生まれた。
錦鯉が生まれた背景にはこの土地の水の成分が鯉の色素源になる
水藻の繁殖に適しているからとされる。』 とあります。

小千谷市マンホール蓋
これは通常バージョン。

カラー版も設置

小千谷市マンホールカード
配布場所は 「こちら」。
有料の観賞棟からは悠々と泳ぐ錦鯉の群れを間近に見ることができますが、
無料でも遠目で群れを堪能できました。
隣接する信州も佐久鯉が有名ですが、こちらは食べる鯉で、
隣県ながら味覚と視覚で大きく異なるとは【みかく】認でした。

「錦鯉の里」 前に置かれた顔ハメ

門を潜るとモニュメントがお出迎え
亀仙人なら知っているが鯉仙人は初耳。

玄関前の碑
その昔、新潟出身の田中角栄元首相が目白の御殿で一匹数百万から数千万円の錦鯉を
飼っていた様子がテレビで放映されました。一部では「贅沢だ!」という意見もあったようですが、
今にして思えば越後の地場産業の宣伝・振興があったようで、単なる贅沢ではなかった筈。
むしろそんなことはおくびにも出さなかった姿勢の方が立派と言えます。

錦鯉の里の池

悠々と泳ぐ錦鯉

小千谷郵便局 ; 船岡公園、スキーヤー、小千谷縮、錦鯉
新潟城川郵便局 ; 錦鯉、錦鯉の里会館
[参考書]
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浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04) → JR越後川口(11:24) → 道の駅・越後川口〒 → JR越後川口(13:08)

JR越後川口駅構内
上越線ホームから飯山線ホームを見る。
浦佐の毘沙門様を駆け足で拝観した後は、この日の宿泊先の燕三条駅前まで移動。
新幹線では僅か二駅分ですが、平日であることもありMHCと郵便局に寄り道しての移動。
電車はほぼ1時間毎の運行ですが、駅から目的の施設までの距離を考えると程良い時間でした。
先ずは越後川口駅で下車。改札を出てまっすぐ進むと川にぶつかりますが、これは信濃川ではなく魚野川。
魚野川は越後川口と小千谷の間で信濃川に合流するので、川口はその地形からの命名でしょう。
この駅からは飯山線が分岐、魚野川を渡って信州へと続くので合流点は交通の要衝でもあります。
飯山線は駅本屋寄りのホームですが、上越線に比べて格段に本数が少ないので、
上越線との間には雑草が生えていたのが印象的でした。

JR越後川口駅スタンプ (JR東日本新潟支社印)
上越線は緑色で統一、これは1990年代の押印。
改札を出て川沿いを少し遡ると郵便局。
実は平成17年に訪局して押印済ですが、最近デザイン変更されたのが再訪の理由。
より写実的になっていましたが、内容はどちらも鮎簗とキャラクター、
日付は8月15日と1日違い。何かの奇縁を感じました。

川口郵便局 ; 魚野川の簗場、町のマスコット (平成17年押印)
川口郵便局 ; 川口簗場、鮎と越後川口PRキャラクターかわぐっち (令和5年押印)
続いて1㎞弱歩いて道の駅へ。
面積は左程ではないものの、あぐりの里と言うだけあって農産物が豊富で、
それを目当ての来客が多く見られました。ここでもう一つの目的のMHCも無事ゲット。
デザインには花火が描かれているのは、ここが長岡市だからですが、
途中に小千谷市を挟む典型的な飛び地でした。

道の駅 越後川口 あぐりの里

越後川口 (長岡市) マンホールカード
配布場所はこちら
電車に遅れまいと駆け足で駅に向かいますがホームには誰もなし。時刻になっても電車が来る気配がないので
ホームの時刻表をもう一度よく見ると、何と土日祝日のみの運転。次の電車は1時間後。
次の下車駅は隣駅の小千谷ですが、6.6㎞の距離は炎天下で歩くには過酷でした。

道の駅 スタンプ

スタンプの脇には今では珍しいダイヤル式の公衆電話
どうしようかと悩んでいると、さっき通った場所に「まるじゅう」と言う蕎麦処があったのを思い出し入店。
お昼時でしたが一人なのですぐ昼食にありつけました。味は勿論、値段も手頃とまさに【にじゅうまる】。
涼しい場所でお腹を満たせレジに向かうと「こころ旅」の暖簾が。
お店の方に伺うと火野正平さんとスタッフがこの店で食事をされたそうで、
日頃テレビで見ている場所に自分も行くとは思いも寄りませんでした。
食事処があったから良かったものの、JRの駅周辺にもう少し施設があってもよさそうなもの。
道の駅に寄ったので余計にそう思うのでしょう。道の駅に人が多いのは物産を販売しているからで、
JR駅も国鉄時代の柵(しがらみ)から自らを解き放つ時期に来ている気がします。
先立って施設を【しょうへい】しなければなりませんが…。

道路に面した 「まるじゅう」 入口

冷やしとろろ蕎麦 ¥780

レジに架けられた 「こころ旅」 の暖簾
こうして1時間遅れで無事乗車とまりましたが、駅に着くと何と1番ホームに
13時11分発戸狩野沢温泉行きの列車が入線。とうちゃこに続き列車がとうちゃくです。
1時間遅れのお蔭で滅多にお目に掛かれない飯山線と遭遇できた訳ですが、
そうでも思わないと1時間遅れは取り戻せなかったもの事実です。

1番線に入線中の飯山線列車
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浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04)

吉祥山 多門院 普光寺(真言宗豊山派)
毘沙門堂前から本堂と庫裏を望む。
毘沙門堂から境内の建物はいずれも回廊で繋がっています。
本堂外陣の縁側から右に連なった回廊を進むと、白壁・赤いトタン屋根の建物と続きます。
『本堂に続く白壁の建造物は別行殿(宝物殿)。中央には運慶作と伝わる真言教主大日如来を安置し、
その四隅には東西南北の方角を護持する四天王像を配置。作者・製作年代不詳の四天王は
仏教の守護神である持国天・増長天・広目天・多聞天から成り、立体曼荼羅を形成する。
いずれも甲冑を身に着け武器を持つ。頭部にある兜飾りは希少である。
単独で祀られる時には多聞天は毘沙門天の名で呼ばれる。

毘沙門堂から右手へ続く回廊

白壁が映える別行殿(宝物殿)
別行殿に続く赤いトタン屋根の建物は普光寺本堂。承久3年(1221年)鎌倉幕府将軍・源実朝が
地頭・平繁基をして毘沙門堂に堂領を献ずると共に、僧道乗坊辨覚を天王堂 (毘沙門堂) 別当に任じ、
浦佐川西地区に境を定め「永代伐木殺生禁断」の令を下した。
辨覚はこの令を広まるため、また寺務執行のため、この地に大伽藍を建立。これが普光寺の創始と言われる。
慶長年間に火災に拠り普光寺が焼失、二十世賢弘和尚が延宝8年(1680年)4月、
檀信徒の協力を得て再建したのが現在の普光寺である。』 とあります。

本堂全景

本堂前から見た毘沙門堂側面

お堂の前は盆踊りの準備中
浦佐の毘沙門様で知られる当寺ですが、寺の本堂はこちらで大日御如来が御本尊。
しかし由緒記に拠れば、平安初期に建立された毘沙門堂の別当寺として
鎌倉初期に出来たのが普光寺なので、時代的には400年も後。
加えて「裸押し合い祭」が開催されることで、対外的には毘沙門堂が前面に出るのでしょうが、
本堂も江戸時代17世紀末の建立。毘沙門堂が火災によって昭和の再建となった現在では、
歴史的建造物の資格は十分に思えます。
唯、本堂は観光客の拝観はしていない様子。本堂前の境内には盆踊りのライトが準備されていましたが、
あくまで地元の方々の寺院を全面に出しているのでしょう。

回廊脇の鐘楼

御朱印 (普光寺御本尊)

同時に頂いた越後新四国八十八ヵ所霊場の御札
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吉祥山 多門院 普光寺(真言宗豊山派) 毘沙門堂
山門を拝観したあとは、いよいよ目的の毘沙門堂へ。
山門からは参道ならぬ屋根付きの回廊が続いていますが、豪雪に対する配慮でしょうか?
お堂へは回廊途中で右折しなければなりませんが、そのまま直進すると正面には不動明王が鎮座。
毘沙門様に先立ってこちらへお参り。
『当山の不動明王は石像仏としては日本最大と言われており、明治初年に六日町の石工富八郎に拠り作製。
うがい鉢は当地大崎の坊谷山産出の大石を刳り貫いて作られた。

山門から毘沙門堂まで続く回廊

回廊の途中から山門を見る

回廊を直進した場所に鎮座する不動明王石像
右折する左側に建つのは古山門、江戸初期の高田城主松平越後守が修造したと伝わる。
元来、現在の山門(仁王門)の位置にあったが仁王門が新たに建立されるに当たり、
文政9年(1826年)にこの場所に移築。中央に聖徳太子、左右に白山権現・蚕天尊、
お堂に向かい左右には大黒天・愛染明王が祀られている事から太子堂と呼び習わされている。
長年の傷みに拠り屋根にトタン工事が施された他は、ほぼ当時の原形を留めて居り、
毘沙門堂境内に残る最古のお堂である。』 とあります。
境内最古の建造物がこのような形で残されているとは普通なら見落とす所でした。
その脇には欅の巨木が二本聳えますが、御神木でしょうか?

回廊の曲がり角に立つ古山門(太子堂)

太子堂前にて

太子堂を囲む様に聳える欅の巨木
古山門の正面に建つのが毘沙門堂。
『毘沙門堂は、大同2年(807年)平城天皇の御代、征夷大将軍坂上田村麻呂が東夷征伐の折、
国家鎮護の為に建立。インドの仏工・毘首羯麿作とされる本尊毘沙門天を奉祀したのが草創と言われる。
承久3年(1221年)鎌倉幕府は地頭・平繁基をして堂領を献じ、道乗坊弁覚を毘沙門堂別当に任じた。
これに拠って付近一帯は「永代伐木殺生禁断地」と定められ、毘沙門堂の威徳は高まる。
永徳2年(1382年)には八名の武将が毘沙門堂造営のために田を寄進したという古文書が残っており、
室町前期には各地の武将・豪族が競って田地を寄進。
その結果、桁行五間・梁間五間・入母屋造・茅葺の壮大な伽藍が建立されたと言われる。

回廊を右折し毘沙門堂へ向かう

毘沙門堂向拝前にて (内陣は撮影禁止)
戦国時代に入ると上杉謙信や景勝が当寺を訪れ、彼らの文書が残されている。
江戸時代には坂戸城主堀丹後守直寄が30石を寄進、従前と合わせ50石を領した。
慶安年間には三代将軍家光から御朱印50石・10万石の格式で遇され、緒役免除の特典も得た。
八代将軍吉宗以後は堂宇の修復は魚沼全郡に公課できることとなり明治維新まで続いた。
江戸時代には古義真言宗(醍醐派)に属していたが、明治に入ると新義真言宗(豊山派)に改宗している。
大正6年(1917年)に国の特別保護建造物に指定された毘沙門堂は、昭和6年(1931年)に火災のため焼失。
その後、5年の歳月を費やして再建されたのが現在に残る毘沙門堂である。
設計は当時の日本建築界の重鎮伊東忠太が担当した。

回廊入口から毘沙門堂を遠望

毘沙門堂全景
回廊があるためお堂の全景が撮れる場所は少ない。
毘沙門堂が多くの人で賑わうのが毎年三月の第一土曜に開催される「裸押合い大祭」。
日本三大奇祭の一つに数えられる。春を待ちわびた雪国の人々の熱気が伝わるこの祭りの由緒は古い。
江戸時代の記録では、正月三日、近くの村々から老若男女が立願のため、男は裸、
女は単(ひとえ)或いは袷(あわせ)を着て集まり、稲刈りの姿をして踊っては左右に分かれて押し合う。
これを「一踊り一押し」と言い7回繰り返す。
5回目の時、酒を堂上に注ぎ、7回目が終わると肩車に乗りささらをすりながら歌う。
この時、童子は堂にぎっしり立つ人々の頭の上を踏んで縦横に歩き回ったという。

堂前に掲げられた 「多聞天王」 の扁額

向拝下にて
正面に建つのが不動明王を祀る祠。
現在は近郷から奉納された30~50㎏の巨大蝋燭が照らす中を、不動尊前のうがい鉢の湧水で
身を清めた褌一つの男衆が堂内に入り、「サンヨ、サンヨ」の掛け声で激しく押合う。
この間に年男が人馬に乗って現れ、櫓に登って群衆に福盃を撒く。
これを拾えば幸運を得られるという五穀豊穣を願う奇祭。「堂押し」とも呼ばれ、
押し合う信者の熱気溢れる祭りは古式そのままの祭事として、
国の重要無形民俗文化財に指定されている。』 とあります。

「裸押し合い大祭」 の写真 (説明書より)
境内では先述した山門と並ぶ壮麗な建造物で間違いなく江戸時代以前の建築と信じていましたが、
それが昭和一桁の建築で未だ百年に至っていないとは驚きでした。
そんな新築を感じさせないのはさすが近代建築の巨匠と言えます。
尤も、積雪のために劣化が早いことは考えられますが…。
火災の原因について説明はありませんでしたが、奇祭のロウソクの火の不始末だけはあって欲しくありません。
銀杏を筆頭に樹木は延焼を防ぐ効果がありますが、境内には古山門脇にある欅の巨木が目立つくらい。
その意味でも今以上に樹木を増やしてほしいもの。越後の樹木は【植え過ぎ】くらいが丁度良いでしょう。

浦佐 毘沙門堂 説明書

御朱印 (毘沙門堂)
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吉祥山 多門院 普光寺(真言宗豊山派)
道路添いの入口を抜け石橋を渡ると正面に壮麗な山門(仁王門)が。
そのまま山門を進むと毘沙門堂、右の坂を上ると普光寺に至りますから、
山門は毘沙門堂楼門も兼ねています。
石橋は短いながらも下に水が流れておりいかにも古刹の雰囲気。
橋の石の欄干は裸祭りで使用されるロウソクを模っています。

石橋を直進すると山門へ
石橋は 「参禅橋」 とあるか?

右の坂を上ると普光寺へ
『吉祥山の参号を記した山門は文政3年(1820年)に起工し、天保2年(1831年)に完成。
12年の歳月と10万余の信者の奉仕によって建立された。総欅造りで日光東照宮陽明門を模したと言われ、
釘は1本も使われていないのが特徴である。

石橋上から渓流を見下ろす
左手にも寺院があったが、下調べ不足のため今回はスルーする。

裸祭りの蝋燭をデザインした石橋欄干
天井には江戸後期を代表する絵師・谷文晁作の双龍図が力強く描かれ、
「八方睨みの龍」として知られる。
山門二階には東方に向かい金箔の段々を背に毘沙門天二十八使者像と
賢空和尚・内藤棟梁の像が奉安されている。
作者は京屋政五郎・六右エ門満昭の共作で、天保2年より天保7年の間に作られた。

山門の欄間彫刻の象と龍

山門の組物も見所の一つ
また山門二階の壁面に8枚の板絵と、格天井には23枚の天女の絵図がある。
約170年前に描かれた「天女・十六羅漢・釈迦出山絵図」と呼ばれ御用絵師の作と伝わっていた。
平成21年に板谷家が東京国立博物館に一万点程の文書を寄贈したが、
その資料の中に浦佐普光寺山門の「天井画配置図下絵」と「天井画・板絵下絵」を発見。
山門の天井画は年代から、板谷家5代目・板谷桂舟弘延の描いた作と結論された。』
とあります。

八方睨みの龍と毘沙門天二十八使者像 (説明書より)

山門下では天井画の案内が
普光寺境内では最も古く荘厳な建造物であるのは外見からも判断できますが、
説明にあるような天井画・壁画があると知ったのは初めて。
しかも令和2年より修復していた天井画・壁画が今回山門に戻ったそうで、
8月14~16日のお盆の期間に限り¥300の見学料で拝観可能。
これ以降は¥500で電話での予約制とか。
電車の時刻の関係で見学は短時間でしたが、期間ぎりぎりで間に合いました。
この日は幸運にも終了ギリギリで滑り込みセーフが何ヵ所かありましたが、
これも上杉謙信公が【義理】の人だったからに他なりません。

釈迦出山絵図

天女図 (その一)

天女図 (その二)
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR新大阪(6:00) → (のぞみ200) → JR東京(8:23→8:52) → (とき309号) → JR浦佐(10:32)
浦佐駅 → 徒歩5分 → 普光寺 → JR浦佐(11:04)

JR東京駅に入線する「とき309号」
8月16日は台風7号が近畿中国地方を直撃。陸海空の公共交通が軒並み運休したので、
お盆の帰省・旅行の計画変更を余儀なくされた方々も多かった事と思います。
かく言う私も乗車予定の15日の夜行サンライズ出雲が運休、折角1月前に並んで取った切符も使用できませんでした。
といって盆休みはそのままなのでイチかバチかの16日始発のぞみ200号で東京へ着いた後、上越新幹線へ乗車。
運休明けでしたが、のぞみ指定席、とき自由席も余裕で遅れることなく越後入り。
台風一過と安心していましたが、7時半頃から大雨のため東海道新幹線が運転見合わせと知ったのは後の話。
問題の時刻には静岡を過ぎた頃だった筈でギリギリセーフでした。

自由席ホームもこんな状態
新潟へ入って二駅目の浦佐で時刻通り下車。新幹線停車駅とはいえ、
新潟や長岡のような交通の要衝でもなく取り立てて観光地でもありませんが、
上杉謙信公所縁の普光寺があり浦佐の毘沙門さまとして知られています。

駅前では裸祭りの蝋燭のモニュメントがお出迎え
実は浦佐で下車するのは今回で三度目。最初の1994年には群馬県から移動して駅前へ宿泊。
当時新調された駅スタンプのデザインは毘沙門さまで行われる「裸押合い祭」。
非常に興味が湧いたものの当時はネットも普及せず、結局行かずじまい。
後で思えば駅員さんに尋ねるべきでした。
次に訪れた平成17年8月には場所は分かっていましたが、夕方だったためスルー。
結局、三度目の正直の訪問となりました。

最初の訪問時(1994年)に押印した浦佐駅スタンプはシャチハタ式
上越線内は緑色で統一されていた。

大和郵便局 ; 越後三山、スキー場、裸押合い祭
二度目の訪問時(平成17年)は風景印を押印するために下車。
浦佐駅スタンプはシャチハタ式からスタンプ台式へ、図柄も「裸押合い祭」から「山門」へと
変更されていましたが、毘沙門さまがメインは変わらず。
駅前には巨大なロウソクのモニュメントがありましたが、これは祭りを表したもの。
前回は気付きませんでしたが、最近できたのでしょうか?

今回押印したJR浦佐駅スタンプ
インク式だが、インクがやや薄め。

駅前のマンホール蓋
「やまと」とあるが奈良ではない!
新幹線からは伽藍屋根が望めましたが、駅西口を出て通りを真っすぐ進むと
毘沙門通りにぶつかり、右折するとすぐに門前。
新幹線も含め電車の本数は1時間に1本程度ですが駅近くであった事で【不幸時】は回避できました。

毘沙門通りに掲げられた案内板

この石標の奥に毘沙門堂が建つ
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