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阿星山 長壽寺(天台宗 湖南三山) 本坊
境内参拝を終えて帰路へ着きますが、山門の左手には現代風の建屋が。
寺務所か庫裏かと思い傍まで行くと玄関には長壽寺本坊の看板があり玄関が開放中。
さては、何かあるのかと気になって覗いて見ると、絵画作品が展示中。

正面の山門から左手へ進む

長壽寺本坊の看板が架かる玄関
本坊と言うからには居住空間の筈ですが、紅葉の時期にはゲージツの展示場に
早変わりするのでしょうか?入って直ぐの畳敷きの部屋の左手は、一連の鷹の襖絵。
鷹狩りの鷹が小屋に繋がれている様子から屋外で獲物を狙う場面までの一連を追った六隻。
一番右橋は鷹の舞う山野を描いた様。非常に写実的で実物を見て描いたに違いありません。
唯、美術史には疎いので、作者や時代を添えて貰うと助かるのですが…。

玄関から室内を眺める
左は一連の鷹の襖絵。

楓?の枝に止まる鷹

繋がれている鷹

繋がれていても眼は常に獲物を追う

狩りを待つ間

獲物を目掛けて飛び立つ瞬間?

戻って暫し休息

鷹が飛翔する幽谷
右手・正面・奥の部屋には切り絵が展示。正面は窓の部分に親小鹿が並び立ち、
足元は床紅葉。紅葉散り敷く地面を歩む親小鹿という宛ら古典の世界になっています。
最奥の部屋は切り絵を使った行燈で移り行く秋を表現。こちらはフクロウの絵柄でした。
【たか】が紙と言えばそれまでですが、されど紙。柔らかさの中に秘めた強さでしょうか。

右手の障子に掛けられた鳳凰の切り絵
因みに鳳凰は二文字で雌雄を表しているとか。

正面に置かれた親子鹿の切り絵
床に紅葉が写り床紅葉となっている。

近くで見た親小鹿と床紅葉

本坊奥の床の間

薄と秋を描いた切り絵の行燈
本坊の奥に廊下で繋がっているのが内仏堂。参拝者が本坊内から行く事はできませんが、
外陣からはお詣りできるようにはなっています。
その周囲も紅葉に囲まれていますが、ベンチが置かれ喫茶スペースが。
国宝や重文の周囲での飲食は無理なので、この場所になったのでしょう。
紅葉と国宝だけでも十分ですが、拝観者への呼び水になれば良いですが。

参道から見た本坊窓

本坊に続く内仏堂

内仏堂正面

紅葉越しに見る本坊

喫茶スペースの「こもれびの席」

地面の黄葉
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阿星山 長壽寺(天台宗 湖南三山) 重文・弁天堂
国宝の本堂の内陣拝観を済ませた後は、境内を一巡り。
古刹である長壽寺には本堂に加えて今も境内に諸堂が残っています。
『本堂前に建つ重文弁天堂は、桁行一間、梁間一間、屋根一重入母屋造、
唐破風付檜皮葺のほぼ真四角な堂で、小さいながらも本格的な構造である。
高さ1mの弁財天坐像が納められている。建立年代は詳らかではないが、
内部より‘十六、十二月’と記された刷毛書の墨書が発見され、また地中から出土した瓦に
「文明六年」の銘があり、「天文十九年三月手間参百人云々」の修理銘が見られる事、
更に建築様式から文明16年(1484年)の建立と言うのが建築史家の推論である。

正面から見た弁天堂

弁天堂の唐破風

檜皮葺屋根と垂木
本堂へ向かう参道の右手奥にひっそり建つのが石造多宝塔で湖南市指定有形文化財。
これは聖武天皇の菩提を弔うために鎌倉時代に建立したもの。
現在、相輪が欠けているが、この種の石像多宝塔の違例は極めて少なく、
全国に10基程度が残るのみである。

参道右手にある多宝塔入口

木々に囲まれて建つ多宝塔

正面から見た多宝塔

横から見た多宝塔
近江の主要な天台系伽藍配置では、三重塔を配するのが常であった。
長壽寺の三重塔は本堂に向かって左後方の叢林中にあったが、
天正3年頃織田信長の手に拠って安土城内の織田家菩提寺である摠見寺に移築された。
地中より鉄刀子、鎮壇具に用いられたと思われる素焼きの壺が発掘され、
壺の蓋には室町時代の作と見られる菊花双鶴文鏡が用いられ、
鏡の製作年代から享徳年間(1452~1454年)の頃、塔が建立されたと考えられる。

本堂の左奥、三重塔跡へ向かう

塔跡に残る礎石
平安時代以降、神仏習合が進み、寺院境内に鎮守社が設けられるのが常であった。
長壽寺にも創建時代は不明ながら、鎮守社として白山神社が建てられている。祭神は白山比咩。
重要文化財に指定されている拝殿の建築様式・手法は室町時代のものを伝えているが、
弘安十年(1287年)の「左衛門尉平某寄進状」に「社堂仏前」の語が見え、鎌倉時代には
社殿があったと推測される。四面に格子戸を備えるのは珍しい。
かつて内部には永享8年(1436年)の板絵三十六歌仙図が掲げられていたが、
今は長壽寺で保管されている。』 とあります。

参道を本堂へ向かわず左に行くと白山神社

重文・白山神社拝殿

白山神社本殿
木造では重文が二点残りますが、いずれも小さい建造物。
楼門・三重塔と言った大きなものは、持ち出されました。
常楽寺にあって長壽寺にないものは三重塔。解説にあるように信長が安土に持って行った結果です。
小さいものを残して大きなものを持って行ったのは、繊細よりも派手さを好んだ結果でしょうか?
楼門はなくなりましたが、幸いにも三重塔は摠見寺に今も健在。
しかし、もし【創建時】のまま建っていたらと思うのは私だけではない筈です。

参道脇の鐘楼
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阿星山 長壽寺(天台宗 湖南三山)
紅葉散り敷く参道を真っすぐ進むと正面に見えるのが国宝・本堂。
こちらは常楽寺と違って本堂前面から上がることができます。
阿星山長壽寺(あしょうざんちょうじゅじ)は、
『聖武天皇の天平年間(729~748年)、良弁僧正に拠って建立された勅願寺であり
現在国宝に指定されている。
聖武天皇が大仏造立のため紫香楽宮に遷都された折、世継ぎの誕生を良弁に祈請せしめた。
良弁は阿星山中瀑布に籠って祈り、間もなく皇女の降誕を見るに至った。
そこで天皇は皇女の生誕に因む子安地蔵尊を行基菩薩に刻ませて、
紫香楽宮の鬼門に当たる東寺に七堂伽藍・二十四坊の寺を建立し本尊とした。
そして皇女の長寿を願い長壽寺と言う寺号を授けたと伝えられる。
次いで鎮守社として境内の南に白山神社が建立されている。

国宝・本堂と重文・弁天堂の説明板

国宝・本堂全景
本堂は貞観年中(859~877年)に焼失するが、同年間に復興され現在に至る。
その後は、阿星山五千坊と呼ばれる程の天台仏教圏を形成した。
鎌倉時代には源頼朝、室町時代には足利尊氏が祈願所として諸堂を造改修したが、
戦国時代に織田信長の手に拠り三重塔は安土城中の摠見寺へ移築され現在は重要文化財。
楼門は栗東市の蓮台寺へ移築されたが、こちらは現存していない。
こうして主要な建物を失ったが、現在は国宝の本堂、重文の弁天堂、
同じく、釈迦如来座像、阿弥陀如来座像、十六羅漢図等が残されている。

本堂内陣を拝観する人達

本堂の内陣へ
本堂は貞観年中(859~877年)に焼失するが、同年間に復興され現在に至る。
桁行五間、梁間五間、屋根一重寄棟造、向拝三間、檜皮葺、四面廻廊と
天台伽藍にしては珍しい建築様式である。
中央三間は桟唐戸の入口、左右には連子窓、内部は内陣(正堂)と外陣(礼堂)とに分かれ、
奥行きの深い堂を構成し、化粧屋根裏や雄大な虹梁、その上の板蟇股等、
藤原時代の雰囲気を残し、建立時代が相当古い事を物語っている。

本堂向拝下にて
阿星山の扁額が掲げられ賓頭盧尊者の像が置かれる。

向拝の欄間

向拝屋根の垂木
また内陣・外陣がそれぞれ切妻型・寄棟型の船底天井となっているのは、内陣と外陣を
別棟とする双堂の形式を継承しているためであり、堂内には二つの建物が入り込んだような
この構造は国内に数例しか現存しておらず大変貴重である。
内陣正面にある春日厨子は、厨子中央に秘仏御本尊子安地蔵菩薩、脇侍に観世音菩薩と
毘沙門天を安置している。厨子内の様子は懸佛として祀られ、厨子の御開帳は五十年に一度である。
内陣に安置された重文の釈迦如来座像は像高177㎝、同じく阿弥陀如来座像は像高142㎝、
いずれも藤原時代、皆金色、檜の寄木造で仏師定朝の様式を踏襲したものであり、
特に阿弥陀如来座像の台座と光背は造立当時の物であり極めて貴重である。
本堂右の近年建てられた収蔵庫には高さ3mの重文・丈六阿弥陀如来座像が祀られており、
藤原時代、皆金色、檜の寄木造の堂々とした像である。』 とあります。

後方より見た本堂

これは本堂後方の入口

こちらは本堂側面の入口
右奥に建つのは重文収蔵庫。
寺号の由来は聖武天皇が娘の長寿を願った事に由来。
古代の帝王も子を思う親の気持ちに変わりはないと言う事です。
唯、元は光明皇后の安産を祈願した訳ですから場合に拠っては安楽寺となっていたかもしれません。
先に訪れた常楽寺と同じく国宝の本堂ですが、大きさは桁行で二間、梁間で一間だけ小さく、
こぢんまりとした印象は否めません。
その代り、建築年代は平安初期の貞観年間と常楽寺に遡る事500年。
珍しい建築様式が残っているのは古いからで貴重な証人と言えます。
大伽藍か古伽藍か、どちらを好むかは人それぞれではありますが…。

高みより見た本堂屋根

紅葉越しに見た伽藍

白山神社から見た本堂側面
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阿星山 長壽寺(天台宗 湖南三山)
西寺の集落から東へほぼ1㎞の山道を行き、広野川に架かる朱い欄干の
広野橋を渡ると長壽寺に到着。一般には東寺の名で呼び親しまれています。

JR石部駅スタンプ (2006年JR西日本京都支社印)
常楽寺(西寺)と長壽寺(東寺)のコラボ様式となっている。

朱い欄干の広野橋を渡ると目的の寺院は直ぐ右手奥

駐車場の奥に見える参道の紅葉

東寺バス停前から長壽寺方面を見る

長壽寺入口付近
但し、左は別の寺院。

入口付近からバス停を振り返るとこんな長閑な景色が
唯、周辺に食事処がないのは変わらず。そこで地元が中心となって、
期間中は駐車場脇に出店をオープン。値段も手頃なので早めの昼食に。
かやくご飯のおにぎり2個¥150、撞き立て餅2個¥150、豚汁¥150、
御飯つぶし¥100と、お腹いっぱい食べて¥550とは奇跡的。
紅葉の時期に地元食材の効用に出逢うことができました。

出店全景

豚汁とかやくご飯おにぎり

撞き立て餅、御飯つぶし が加わる

山門前に立つ寺号標

山門近影
出店を過ぎると直ぐ入口。「阿星山」の扁額が掛かる山門脇の受付で入山料を祓って入山。
入口から見渡した感じでは、西寺と異なり紅葉は参道に集中している様子。
私 ; 「寺名は違いますが、山号は西寺と同じなのですね。」
受付 ; 「いいえ、あちらは‘あせいざん’、こちらは‘あしょうざん’です。」
私 ;「あっ、しょうですか!」

阿星山の山号を掲げた山門

山門屋根に散った紅葉

山門脇を通り入山

入口を入って直ぐにある皇帝ダリア

参道は宛ら紅葉の絨毯

参道を覆う楓
奥に見えるのが山門。

赤い毛氈の上の猫の置物
参道を進むと右手に御朱印所が。本来は御本尊参拝後に拝受するものですが、
順番待ちもあり予め依頼してからお参り。後に頂いた墨書をみるとやはり平成4年字とは長足の進歩。
参拝者が増えると自然とそうなるのでしょう。個人的には良い傾向だと思います。

参道右手にある御朱印(納経)所

長壽寺説明書

長壽寺御朱印 (平成4年拝受分)

今回拝受の御朱印
尚、中央の墨書は「悲願金剛」 と変わらず。
ここ東寺は紅葉は参道に集中、紅葉の水盤も置かれています。
そのせいでしょうか堂宇を背景にした西寺とは異なった印象を受けました。
これも星と同じ拘りなのでしょうか?

更に参道を進み本堂へ

全体が朱く染まる参道

紅葉の水盤
京都の楊谷寺が発祥とか。

駐車場側に枝を伸ばした楓

紅葉の向こうに見える駐車場

色変わり行く楓

参道脇の紅葉が進んだ楓
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阿星山 常楽寺(天台宗単立寺院 近江西国霊場第一番 びわ湖百八霊場九十五番)
本堂脇の散策路入口
国宝二堂を見た後は、案内図に従って境内を散策。
本堂脇から境内の裏にある高台を巡り本堂や三重塔を眼下に見下ろすコースになります。

散策路入口付近からの眺望

本堂前の砂利道
この奥から散策路は始まる。

三重塔を右手にみて坂を上る

道沿いには西国札所の石仏が鎮座
これは第五番葛井寺の千手観音像。
『平成16年(2004年)10月1日、石部町と甲西町が合併し湖南市が誕生。
翌年、市内にある古刹で国宝を有する当寺、長壽寺と善水寺の三ヵ寺で
「湖南三山」を立ち上げ、同年の紅葉時期に初めて一斉公開「湖南三山めぐり」を開始した。
国宝の本堂・三重塔周囲に加え、境内を巡る散策路からは
赤く彩られた楓や満天星を目にすることが出来る。』 とあります。

参道脇の楓のグラデーション

満天星(ドウダンツツジ)の向こうに見える国宝二堂

周囲を朱色に囲まれた三重塔

道沿いの満天星

更なる高みから

塔と本堂の屋根

堂宇の向日に見える集落
説明を読む限り、湖南三山には偶々紅葉があったので「三山めぐり」が始まった訳で、
もし紅葉がなかったら巡礼自体の企画がなかったか、あっても随分と味気ないものになった気がします。
紅葉とありますが、当寺の特徴は楓と満天星。今流行りの二刀流ですが、
境内の低い場所は楓、高い箇所は満天星と棲み分けならぬ植え分け。
紅葉に堂宇が隠れてしまわないという配慮でしょうが、あくまで紅葉は従という扱いのようです。

紅葉に浮かぶ三重塔

散策路をそろそろと下る

紅葉のトンネルを抜けて本堂入口付近へ

散策路から見た境内の諸堂
実際、常楽寺の売りは並び立つ国宝の本堂と三重塔で、その他にも種々の堂宇が並び、
加えて室町時代の応永13年(1406年)銘の重文・石灯籠も健在。
仏像は盗難に遭いましたが、堂宇は盗まれる事はないでしょうから、
災害さえなければ心配は要りません。

散策路出口に建つ薬師堂

薬師堂解説
これに拠ると御本尊は盗難に遭ったとか。

薬師堂前から散策路を見上げる
正面の常緑樹は榧の木か?

薬師堂に隣接する普賢堂

普賢堂解説
こちらの御本尊は安全のため本堂内陣へお引越し。
しかし参拝者にとっては国宝以外はあまり興味がなく専ら紅葉鑑賞にあるようです。
京都市内の東福寺と言えば紅葉の名所ですが、その由緒は、時の住職が修行の妨げになる
花見客を遠ざけるために桜の代わりに楓を植えたのが始まりとか。
それが今では桜の時期よりも紅葉の時期の方が、期間が長い事もあって大勢の人が押し寄せます。
遷化した泉下の先達はどんな思いで見ているのでしょうか。

受付の向かいに建つ鐘楼

本堂前に立つ重要文化財の石灯篭
高さ268㎝、花崗岩製で室町時代の1406年の製作。

こちらは黄葉

紅葉の絨毯
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阿星山 常楽寺(天台宗単立寺院 近江西国霊場第一番 びわ湖百八霊場九十五番)
本堂に続き左手の高台に建つ三重塔へ。
『本堂の左から長い石段を上った山腹に建つのが国宝・三重塔、本堂と同じく東面する。
応永7年(1400年)の丸瓦と平瓦があるのでこの年に建立したと考えられる。
四方三間の和様、初層内部の四天柱内側の後方寄りに須弥壇が置かれ、
来迎壁を背に木造釈迦如来座像が安置される。

色鮮やかな木々に囲まれた三重塔

階段を上った先に聳える国宝・三重塔
内部は天井・柱・長押などに極彩色の文様が見られ、釈迦説法図・涅槃図が画かれ、
四方の板壁にも断罪図や地獄図が描かれ、多少落剝はあるが貴重な壁画である。』
とあります。

三重塔の正面
但し、内部は拝観できず。

三重塔の解説と断面図

三重塔全景

紅葉に囲まれた三重塔
高く枝を伸ばしているのが楓、低木が満天星。

塔の裳階と組物
ここも本堂と同じ時に落雷で焼失しましたが、本堂に遅れる事40年で再建されています。
本堂と異なり内陣は拝観できませんが、高さがあるため境内のほぼどこからでも
目にすることが出来ます。
階段の下側からは楓の紅葉を、上を通る散策路からは満天星の赤と、
場所によってその【効用】が異なるのが特徴。決して【同断】することはできません。

境内裏手の散策路からの眺望

満天星越しに見る二つの国宝、三重塔と本堂

高台より三重塔を見下ろす

紅葉の奥に垣間見える三重塔

三重塔遠望
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阿星山 常楽寺(天台宗単立寺院 近江西国霊場第一番 びわ湖百八霊場九十五番)
駐車所を過ぎて、いかにも急場拵えと見える受付で拝観料を払って入山。
すぐ正面には国宝の本堂が聳えます。
阿星山常楽寺(あせいざんじょうらくじ)は、
『和銅年間(708~715年)、元明天皇の勅命を受けた良弁僧正により開基した
阿星寺(あせいじ)五千坊の一つ。阿星(あぼし)山焼失の際、
阿星寺本尊千手観音像が常楽寺に飛翔し本尊となったと伝わる。

入口に建つ常楽寺縁起
市内に所在する長壽寺の「東寺」に対し「西寺」と呼ばれ、共に聖武天皇が離宮を造営した
紫香楽宮(742~745年)の鬼門鎮護の役目を担った。
延暦年間(782~806年)に天台宗に改宗、平安から鎌倉時代にかけては長壽寺と共に歴代天皇の尊崇が厚く、
鎌倉時代には亀山天皇の勅命に拠る雨乞秘法を行う等、鎮護国家の道場とされた。
延文5年(1360年)には落雷に拠り伽藍は全焼。同年に僧侶観慶らに拠って再興され、
その後、三重塔、山門が再建された。
元亀2年(1571年)、織田信長に反抗して野洲郡金森の一向一揆勢が集結した際には、
信長配下の佐久間信盛が当寺に本陣を置いている。

紅葉の向こうに建つ本堂

国宝・本堂近影
このアングルがよく写真に使われる。

本堂説明板
宝徳4年(1452年)に建てられた仁王門は、豊臣秀吉が伏見城築城の際に移築され城門となり、
次いで慶長6年(1601年)には徳川家康に拠って三井寺園城寺に移築され、現在は園城寺の大門として
重要文化財。当寺には本堂と三重塔が残り、いずれも国宝となっている。
国宝・本殿は桁行七間、梁間六間、入母屋造、向拝三間、檜皮葺。延文5年(1360年)に全焼するが
同年に僧侶観慶が再興した事が、その時の勧進帳に拠り分かる。室町時代和様本堂の遺構である。
東面し堂内は外陣・内陣・後陣から成り、内陣の両側に堂蔵がある。

側面より見た本堂

張り出しが著しい向拝

向拝は三間だが柵が置かれ散見できず
内陣の須弥壇中央には秘仏である御本尊千手観世音菩薩を祀る厨子がある。
寄棟造・板葺で唐様を主とした構造で国宝。御本尊千手観世音菩薩は千手千眼観音とも呼ばれ、
度重なる災難を逃れ、寿命を延ばし病気を治す後利益があるとして、江戸時代には
庶民観音巡礼の札所として、近江西国観音霊場一番となり庶民信仰を集めた。
普段は秘仏で33年に一度御開帳を勤める。像高さ63㎝、素地は榧材の寄木造、
四十二臂の座像で南北朝時代の重文である。

本堂正面の蔀戸

正面から見た向拝

本堂前面に掲げられた「常楽寺」の扁額
厨子の両脇雛壇には風神・雷神の二神と御本尊の眷族である二十八部衆が
千手観音を信仰する人々を護持する守護神として祀られておりいずれも重文。
仏像はみな三尺像で檜の寄木造、玉眼の入った彩色像で、鎌倉時代後期の
徳治3年(1308年)から正和3年(1314年)にかけて造立された事が勧進帳に記されている。
風神と二王が昭和56年に盗難に遭い、阿修羅王は後に見つかったが、
風神と摩睺羅伽(まごらか)王の二体は不明なままである。
本堂裏側の外陣に安置する重文・釈迦如来座像は寄木造・皆金色、藤原時代の
特色を示している。』 とあります。

向拝の向こうに見える紅葉群

右手奥から本堂の内陣へ
但し、内陣は撮影不可。

横から見た本堂入口
近年、紅葉の名所として人気の出て来た常楽寺ですが、一番の映えスポットは
本堂前から紅葉を入れて本堂と三重塔が並ぶ眺望。
紅葉と三重塔と紅葉は良くある構図ですが、ここでは本堂が中心に。
いずれも国宝建造物ながら、低くて横に広い本堂と、幅はないが高く聳える三重塔が
良いコントラストを出しているのでしょう。俗に言う凸凹コンビになります。

本堂脇の紅葉

紅葉と本堂屋根側面

檜皮葺屋根の向こうに見える三重塔
本堂が焼失したのは戦乱ではなく落雷に拠るもの。
戦の多かった近江では珍しい例と言えますが、それは織田信長に反抗しなかったから。
神仏を怖れなかった信長ですが、己に逆らわないものまでやたらと焼き討ちするような
人物ではありませんでした。その代り、秀吉に拠って山門は移築。
新築が大変だったのか、好みに合ったからかは分かりません。
その後も移築を経ますが、三井寺で今も残ったのは不幸中の幸いでした。

本堂脇から三重塔を眺める

本堂屋根越しに見える三重塔

満天星の向こうに見える本堂屋根
国宝のある常楽寺に、立派な山門がない理由は分かりましたが、今後再建されるのかどうか?
参拝者が殆ど居ない頃は、問題にも挙がらなかったでしょうが、今後はどうなるか?です。
尚、主要な仏像は全て本堂内陣に安置されていますが、説明にもあるように盗難防止のため。
戦国時代は白昼堂々と持っていきましたが、今は夜陰に紛れての持ち出し。
いつの世でも寺にとっての災難は尽きないようです。

高台から見た本堂檜皮葺屋根

今回拝受した常楽寺御朱印
平成4年に拝受したものからは長足の進歩と言える。
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【往路】JR大阪(7:30) → (新快速) → JR草津(8:20→8:37) → (草津線) → JR石部(8:48)
JR石部駅 → 徒歩5分 → 石部宿 → 吉御子神社 → 真明寺 → 本陣跡 → 徒歩5分 → 登り町(9:38) → (滋賀バス) → 西寺(9:45) → 徒歩5分 → 常楽寺 → 徒歩15分 → 長寿寺 → 徒歩75分 → 善水寺 → 徒歩5分 → 岩根(14:30) → (滋賀バス) → 甲西北口(14:50)
【復路】JR甲西(15:03) → JR草津(15:17→15:22) → (新快速) → JR大阪(16:13)

阿星山 常楽寺(天台宗単立寺院 近江西国霊場第一番 びわ湖百八霊場九十五番)
この日のお目当ては三ヵ寺巡礼。駅からは少し距離がありますが、
JR石部駅でレンタサイクルがあるようなので楽勝と思いましたが、
着いてみると駅舎改良中でレンタサイクルも休止中。
仕方なく石部宿を散策がてら東へ移動し、「登り町」バス停で50分後の
市内循環バスに乗車し7分で到着。バスの乗客は10名足らずで、
下車したのも5名程でしたが、門前の駐車場は10時前にも拘らず何台もの観光バスが既に停車。

JR駅で配布の「湖南三山紅葉めぐり」のパンフ

JR石部駅スタンプ (2003年押印)
京都線・嵯峨野線・奈良線・琵琶湖線・北陸線・草津線・湖西線とアーバンネットワーク京都支社管内のみの設置。

「登り町」バス停傍らの高札場跡にある常楽寺のレリーフ
駅スタンプと同じ構図
実は常楽寺・長寿寺は平成4年11月28日、善水寺は平成21年11月22日と
紅葉の時期に徒歩で参拝済。しかし当時は観光に全く力を入れておらず入山料もなし。
御朱印も御願いして漸く書いて頂いた記憶があります。
それが今では、入山¥600+御朱印¥300 とは時代の流れでしょうか?

バス停「西寺」で下車し右の道へ

10時前で早くもこれだけの観光バスが

駐車場から見た常楽寺の遠望
境内全体が朱く見える。

駐車場を抜け入口へ

山門というには余りにも簡素な入口
近江では以前から百済寺・金剛輪寺・西明寺の湖東三山が紅葉の名所として有名。
一方、常楽寺・長壽寺・善水寺も天台宗系の寺院で本堂が国宝、紅葉の名所と言う事では
湖東三山に比べ遜色はありません。そこで湖南三山として売出す事を企画した
アイデアマンが居たのでしょう。それが見事に当たったと言えます。
一ヵ寺では無理でも三ヵ寺ならば商機がある。
毛利元就の三本の矢の故事は戦に限らない真理のようです。
しかし三ヵ寺はいずれも奈良時代の勅願寺で、見応えあり。紅葉も見事でしたが、
楓に加えて満天星の赤が圧巻。何処も境内の水が豊富なようで、閼伽だけに赤なのでしょう。

簡易な受付が却って好印象を与える

入山時に貰った常楽寺説明書

平成4年に拝受した常楽寺御朱印
微かな記憶では筆も常備されておらず、あり合わせの筆での墨書だったような。
[参考書]
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吉御子神社(式内社 旧村社)
JR石部駅から南へ1㎞、東海道に沿って町並みの中へ入ると曲り角に
神社の案内があったので、そこを右折。
吉御子神社(よしみこじんじゃ)は、
『崇神天皇の68年創建と伝わる古社。垂仁天皇の2年に宇加之彦の子である
吉彦命と吉姫命を谷黒の御前に祀ったのが創祀と伝わる。
御神体は平安時代作とされる木造吉彦命坐像で国の重要文化財。
弘仁2年(811年)には災害に拠って町の東西に分社され当社は西側。
東側には南方約1㎞にある吉姫神社が相当している。

一の鳥居とその奥の見事な紅葉

一の鳥居から続く参道
両側は人家で道幅は狭いが参道は意外と長い。

二の鳥居の向こうに小さく社殿が見える

石橋を渡ると境内
御幸橋とあるので、かつては行幸があった?

社殿前に広がる境内

簡潔な由緒碑
現在の本殿は、元治元年(1864年)に社殿が大破したため、
翌慶応元年(1865年)に京都上賀茂神社の旧本殿を移築。
大正10年(1921年)に国の重要文化財に指定された。
三間社流造・檜皮葺で流造の基本的な建築として古い遺構を留める貴重なものである。』
とあります。

社殿遠望

正面から見た社殿
これは拝殿に当たる?

「吉御子神社」と書かれた扁額

拝殿からの眺め
左は社務所、右が参集所だが、人の気配は全くなし。

拝殿に寄り掛かるように聳える御神木

拝殿前は楓の黄・赤の絨毯
石部宿を中心に彦と姫の神社を東西に置いたもので、何やら七夕を想像しますが、
分祀自体は良く聞く話。創建時代から見て地元の氏神様だった事はほぼ確実と思います。
唯、私の他に参拝者は居らず社務所と思しき建家も留守。観光客が増えれば
【よし見に行こ】と言う人も出て来るのでしょうが…。

拝殿の奥、一段高い場所に建つ本殿

本殿前の中門

中門近影

中門から拝殿を振り返る
合併して湖南市に昇格したものの、氏子を始めとする神社の運営は【困難】なようです。
今回は次の予定のため東の姫神社は参拝できず。お姫様の怒りを買ったとは思いませんが、
次回は御朱印拝受も兼ねて両参りに【来なん】と思った次第です。

重文・本殿

常緑の杉と黄・赤色の楓

朱い彩
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東海道 石部宿
JRの駅の向かいに建つ。
勤労感謝の日に出かける予定が雨で流れたので、11月最後の土曜は近江路へリベンジ。
という訳で草津線の石部駅で下車。
草津線ながら石部は東海道51番目の宿場町。京から江戸へ向かう旅人が最初に泊まる宿で
「京立ち、石部泊まり」 「京で会い、石部で深い仲になり」 とも言われたそう。

国鉄時代の「Discover Japan 印」
廣重の浮世絵が元になっている。

改修中の石部駅舎
と言っても宿場に泊まる訳ではなく、この日のお目当ては三ヵ寺巡礼。
湖東三山の百済寺・金剛輪寺・西明寺は紅葉の名所として以前から有名ですが、
近頃は湖南三山として・善水寺が売出し中。
いずれも天台宗系の寺院で本堂が国宝、紅葉の名所と言うのが共通点。

駅の西側にある西縄手付近の宿場公園

西縄手の解説

公園奥に建つ東海道五十三次と浮世絵
駅からは少し距離がありますが、JR石部駅でレンタサイクルがあるようなので楽勝と思いましたが、
着いてみると駅舎改良中でレンタサイクルも休止中。市内循環バスも本数が少なく、
結局バス利用も最初と最後だけで、後は只管徒歩。困難散々のトホホ巡礼に。

石部マンホール蓋
未だMHCは出来ていない。

西から東海道の東を見る
中央奥は三上山。

西の見附跡は説明板のみが建つ

地元の祭り囃子に因んだ最中「石部太鼓」を扱う谷口長栄堂
思わぬ【今日立ち石部停まり】となりましたが、バスまでには50分あったので宿場を散策。
駅から西へ徒歩3分の場所に西縄手があるので、宿場の西端に国鉄の駅を作った事になります。
東海道は草津線に平行に南東方面に進む事に。

東海道の曲り角には道標が建つ

曲り角にある田楽茶屋

田楽茶屋の説明

街道から奥まった場所に建つ真明寺

青木山 真明寺 (浄土宗) 山門

真明寺 本堂

本堂に掲げられた「青木山」の扁額

境内に建つ芭蕉の句碑

句碑近影

句碑解説
『石部宿は現在、街道らしき雰囲気は残るものの、宿場時代の遺構は殆どない。
公園として整備された西縄手を過ぎて最初に現れるのが、西の見附跡と一里塚であるが、
桝形城門は残って居らず説明板のみ。そこを右に曲がった突き当りに田楽茶屋が建つ。
これは歌川広重の絵に登場する立場の田楽茶屋を再現する形で建てられたもので、
休憩や情報収集の他食事もできる。

境内の池

階段を上り高台へ

高台から境内の眺望

高台の鐘楼
突き当りを左に進んだ途中、右手の奥まった場所に浄土宗の青木山真明寺があるが、
そこには芭蕉が詠んだとされる句碑が残る。その先にあるのが小島本陣跡で、
説明碑に拠れば間口45間、建坪775坪の巨大な本陣であった事が分かる。
脇には明治天皇の聖跡碑も建つ。本陣は昭和43年に取り壊されたが、
その跡地の一角に無料休憩所「いしべ宿驛」が建てられている。

本陣跡碑と明治天皇聖蹟

本陣跡説明板

歌川廣重 東海道五十三次 石部宿(保永堂版)

いしべ宿驛

昔風の外観で建てられた街道沿いの家屋
その先の交差点付近が石部中央で宿場の半ば。そこを越えた場所にあるのが高札場跡で
今はポケットパークになっている。』 とあります。
解説にあるように宿場の雰囲気はあるものの目ぼしい文化財はなし。
目にしたのは、かつての跡を示す説明版と復元した町屋でした。
一つ京寄りの草津宿に本陣が残っているのとは対照的と言えます。
駅の開業は石部も草津も同じ明治22年ですが、その後の町の発展を見ると草津の方に軍配が。
こうして見ると町が開発されたから昔の景観が無くなると言った単純なものではなさそうです。

石部中央 交差点付近

高札場跡に建つ時計

高札場跡の説明板

問屋場跡説明板

常盤館跡説明板

三大寺本陣跡

上りに差し掛かるバス停「登り町」付近
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遠景山摠見禅寺(臨済宗妙心寺派)
天主跡からの帰り、左の大手道ではなく右に進む。
天主跡に登った後は来た道を戻りますが、途中の分かれ道を西へ向かうとかつての摠見寺跡。
寺の裏門跡を過ぎ石段を上った場所には本堂跡の石碑が建ち、
そこから西を眺めると琵琶湖が間近に望めます。
本堂跡から坂を下ると三重塔、仁王門から百々橋を通り城郭の外へ通じますが、
非常に急斜面なので参道は東へ向かい秀吉屋敷跡へでます。
仁王門の規模から見て、西からの攻め手を防ぎ止める働きを持たせたと見えます。

石段を上った先にある本堂跡

本堂跡碑と道標

摠見寺跡解説

近世の寺院の様子と現在の航空写真

本堂跡からの琵琶湖の眺望
『山の中腹に見える三重塔は三間三重の塔で屋根は本瓦葺、高さ20mで欄干付の回縁を持つ。
室町時代の建物で棟柱に享徳3年(1454年)建立、天文24年(1555年)修理の墨書きが残る。
当寺の創建時に信長が甲賀の長寿寺から移築したとされる。
慶長9年(1604年)には豊臣秀頼が一部修理している。
大正3年(1914年)9月には三層目の屋根と一・二層の軒が突然崩落する被害を受けるが、
直ぐに修復された。

参道から見た三重塔

重文・三重塔 全景

三重塔の裳階と組物
仁王門(楼門)は、棟木に 「元亀2年(1571年)7月甲賀武士山中俊好建立」 とある。
屋根は入母屋造、本瓦葺。門脇に安置される金剛力士像は像高2m余の檜の寄木造で、
眼は玉眼である。頭部の内側に応仁元年(1467年)仏師因幡院朝作の銘が残る。
仁王門・仁王像共に天正年間の安土城創建時に、甲賀郡柏木神社より移築したものである。
これに仁王門を加えた三点が国の重要文化財となっている。』 とあります。

表門跡に続く急な石段の先に建つ仁王門

境内側から見た仁王門

仁王門天井部分の構造

上りの参道から見た仁王門正面
これが正式な参拝順序。

右側の阿像

左側の吽像

仁王門の説明駒札
【創建時】で現存するのは離れた場所に建つ仁王門・三重塔のみ。しかも共に甲賀からの移築でした。
古くからの建造物の御利益を期待したとも言えますが、現実的な信長の事、
単に建築費用を抑える目的だったのかもしれません。
唯、場所的には城への門と天主の通り道にあるので、寺を重要視したのは間違いなさそうです。

仁王門を過ぎて帰路へ

参道の最後は大手道へ合流
向こうに見える屋根は摠見寺仮本堂
城跡散策の後は、2号線で近江八幡駅まで戻りましたが、途中偶然にも
「近江名物ひつまぶし」の店が目に入りL.O.ギリギリセーフで昼食。
唯、うなぎひつまぶし¥3200なので、近江牛ひつまぶし¥1900を注文。
牛肉より鰻が高価とは昭和の人間には俄かには信じられませんが、
「人生百年、支店の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」でした。
御飯は勿論、江州米の【あつ盛】。京都・大阪では【こうわいかまい】です。

昼食は「炭櫓」にて

「近江牛ひつまぶし」

食後は「石焼アイス」で〆
[参考書]
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遠景山摠見禅寺(臨済宗妙心寺派)
関所の様な受付に行くと「摠見寺(そうけんじ)特別拝観中」 の案内が。
織田信長の菩提寺ですが、確か焼失した筈と不思議に思って入城?すると、
徳川家康屋敷跡に仮本堂として拝観中。

受付の 「摠見寺」 の掲示

石段途中の右側から入る

石垣の上に建つ寺へ正面の階段を上る
遠景山摠見禅寺(えんけいざんそうけんぜんじ)は、
『天正4年(1576年)、安土築城の際、織田信長が従兄弟の正仲剛下座元(しょうちゅうごうかざげん)
禅師を開山とし、甲賀郡の江雲寺を移して本丸西方の峯に自らの菩提寺として建立した寺院で、
臨済宗妙心寺派に属する。
天正10年(1582年)の安土城炎上の際も焼け残ったが、安政元年(1854年)11月16日の
火災で仏殿・書院・庫裏など殆どの建物を焼失。
その後、昭和7年(1932年)に摠見寺は旧寺務所のあった大手口の徳川家康屋敷跡に仮本堂が建てられ現在に至る。

石段を上った先にある摠見寺
但し、仮本堂という扱い。

寺は旧徳川家康邸跡
ブルーシートは修理中か?

仮本堂入口
当時の建物としては仁王門と三重塔を残すのみで、本堂は礎石のみが三重塔の北側に残っている。
寺宝として信長公所用の永楽銭を散らした銀象嵌の鉄鍔(通称;負けずの鍔)、陣羽織が伝えられている。』
とあります。
安土城炎上の際に残ったのは不幸中の幸いでしたが、江戸末期の安政年間の焼失は痛恨の極み。
付近で争乱があった訳でもなさそうなので単なる失火だったのでしょう。

縁側から見た庭

庭の奥に建つ茶室

庭越しに見る茶室

廊下を進み茶室へ
その後、元の場所に再建でもなく、また廃寺でもなく別の場所への再建というのも珍しい対応。
家康邸跡の仮本堂は寺院と言うよりも、書院と言った方が適切な雰囲気でした。
御本尊の場所や襖絵は新しい作品でしたが、茶室からは昔ながらの庭を拝観。
家康もこうして一日を過ごしたのでしょう。
安土城+特別拝観=¥1500でしたが、茶室で御菓子+抹茶で、まったりできました。

手前の茶室

最奥の茶室

手前の茶室で、御菓子と御点前を頂く

手前の茶室からの庭の眺望

廊下からの眺め
お茶を運んで来られた方に伺うと、
私 ; 「仮本堂と言う事は、いずれ元の場所に再建ですか?」
受付 ; 「それも中々難しいですね。」
私 ; 「資金面ですか?」
受付 ; 「どちらかと言うと、水回りが問題ですね。」
何でも元の場所には水道がないようで、消防車も入るのが困難な場所。
幕末の焼失は、この事も原因だったのでしょう。
琵琶湖を望む場所にありながら水に苦労するというのも何とも皮肉な話です。

茶室の奥に広がるもう一つの庭
これは南の手水鉢。

庭中央部
茶室前とは異なる池泉回遊式庭園か?

庭北側

廊下北端から見た庭

安土城跡・摠見寺 拝観パンフレット

特別拝観券

摠見寺御朱印
受付にて拝受。左右見開きで1セット。
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安土城跡(特別史跡)
浄厳(じょうごん)寺にお参りして安土駅まで行くと12時過ぎ。
信長の建てた安土城の城下町で、歴史の教科書にも安土桃山時代で登場。
小学生以上ならば誰でも知っている名前ですが、駅は普通しか停車せず日中は30分毎の運行。
新快速の停車する能登川・近江八幡と比べてもその差は歴然。
駅周辺を見渡しても、駅前ビルや繁華街はなく田圃もチラホラ。
現在の主要都市は近世城下町から発展したものが殆どですが、安土はその恩恵を受けず。
その上、かつては蒲生郡安土町でしたが、今は近江八幡市の一部になっています。
信長の後に城が築かれなかったからと思いますが、
天下統一半ばで横死した信長の無念さの象徴でもあるのでしょうか?

JR安土駅スタンプ
(上) アーバンネットワーク印 旧・新 (下) 2006年JR西日本京都支社印
自転車を5分程飛ばしてそんな安土城跡へ向かい30年振りの登城。
駐車場にも自動車が並びこの日の行先では一番の混雑ぶりでした。
関所のような受付で入場料を払い石で舗装された大手道へ。以前は入場料も石段も記憶になかったので、
私 ; 「以前とは階段の雰囲気が違うようですが。」
受付 ; 「あの石段は、ここ10年位前です。」
私 ; 「今日は30年振りですわ。」
受付 ; 「先日、50年振りという方が来られました。」
20年後には、ここに来れるかと言うよりも、果たしてこの世にいるかどうか。

関所の様な受付

初めはこのような石段からスタート

先ず、右手に伝前田利家邸跡が

前田利家邸跡説明
『安土山は佐々木氏の家臣目賀田氏がよったため目賀田山と言った様であるが、
ここに築城を企てた織田信長は、天正4年(1576年)1月17日、重臣の丹羽長秀を総普請奉行に据え、
標高199mの安土山に築城させた平山城。
岐阜城よりも京都に近い利便性があり、北陸・東海の要所であった。
現在は四方とも干拓に拠り陸地となっているが、当時は琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽湖)に囲まれ、
南方のみが開けた地形であった。その僅か3年後の天正7年5月に一応の完成を見る。
高さ35m、外観は5層、内部は地階の石蔵を含めて7階、4階は八角形、5階は四角形で、
我が国で最初の本格的天守閣(天主閣)を有する城郭であったと言われる。
瓦には金箔を置き、華やかな狩野派の襖絵や異国の文物が飾られていた事は、
外国人宣教師フロイスの本国への書簡に拠り知られる。

前田邸より少し上った左手にある羽柴秀吉邸跡

羽柴秀吉邸跡説明

邸を支える石垣

更に上を目指す

石段途中から受付方面を見る

更に高台へ
しかしこの天下の名城も天守完成から3年目の天正10年(1582年)6月2日、
信長が本能寺の変で自刃するや、その混乱の中6月15日未明、天守などを焼失、一夜にして落城した。
焼失の原因については、明智左馬之助光春が一時占拠した後に空城となった時、
土民の放火に拠るもの、次男織田信雄が誤って炎上させた等があり、定説はない。

天主台への道標

ここからは両側に木立が迫る

並んで建つ 織田信澄邸跡と森蘭丸邸跡
受付で入場料を支払い、正面に続く大手道を上ると、直ぐ右手に前田利家邸跡、
左手に羽柴秀吉屋敷跡があり、少し上った場所にあった徳川家康邸跡は、現在摠見寺仮本堂となっている。
小石を積み上げた石垣が目を惹く。更に石段を上ると、織田信忠・森蘭丸邸跡の石柱が建つ。
その後、黒金門跡を抜けると天守閣下へ。天守跡西下の二ノ丸跡にあるのが信長公本廟。
天正11年1月、信長の嫡孫三法師に年賀を表すべく登城した羽柴秀吉が、
翌2月信長公縁の二ノ丸跡に太刀・烏帽子・直垂などの遺品を埋葬して本廟としたもの。
同年6月2日の一周忌には織田一族や家臣を集め、盛大に法要を行った。

黒金門跡

黒金門跡説明

黒金門を過ぎ曲がった道を往く

仏足石
それに続く本丸御殿跡は、その後の調査で京都御所内の清涼殿に酷似した構造になっている事が判明。
天皇を招き入れる「御幸の間」があったと「信長公記」にある。
更に礎石上の柱跡からこの建物が高床式であった事、周囲の三ノ丸や天守取付台と
渡り廊下で繋がっていた事も明らかになった。
山頂付近にある天主跡は、背丈ほどの高さの石垣に囲まれた東西、南北28メートも台地。
今は礎石が1.2mおきに整然と並ぶだけであるが、この部分は天守の穴蔵(地階の部分)に当り、
その上に更に大きな天主が聳えていた。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスに拠れば、5層7階(地上6階地下1階)の天主は
ヨーロッパにもない程の壮大さであったと言い、高さ33mの木造高層建築は、我が国初のものであった。
内部は御用絵師狩野永徳の豪壮な障壁画や装飾を配していた。』 とあります。

二ノ丸跡と信長廟所

信長廟所

門の向こうにある廟所
手前の賽銭箱には「魔王殿」とある。

廟の門にある織田家の家紋・丸木瓜

廟所近影
かつては一気に登れましたが今回は休み休み。やはり四半世紀を超えるギャップは大でした。
石段を進むにつれ、前田利家・羽柴秀吉の屋敷跡が現れ、その上に徳川家康の屋敷跡。
更に上に上り天守閣に近付くと、一門と森蘭丸の屋敷跡が。
一般に、城下町は天守閣に近い程、身分が高い傾向にあって、前田・羽柴は信長の家来、
徳川は小さいながらも同盟者なので、このような扱いになったのでしょう。
一門の屋敷は兎も角、蘭丸の屋敷が近くにあるのは何か【こしょう】があっての事でしょうか?

本丸跡

本丸跡説明
山頂付近にあった天主閣は外国人にも驚きの目で見られた我が国初の本格的高層建築。
その【構想】については様々に言われますが、自らを神に擬えた信長は
キリスト教会の尖塔を取入れる事で神に近付こうと考えたとの説が有力です。
安土城には城下の住民は入場料を払って入る事ができたそうですが、
登城は寺社への参拝の様な心積もりだったでしょうか?

天主閣跡へ

天主閣跡説明

天主閣礎石
城のあった安土山は標高199mで、隣の繖(きぬがさ)山は433m。
普通に考えると高い方が築城には相応しいように思えますし、六角氏はここに観音寺城を築きました。
しかし安土山にはここから琵琶湖が間近に見えると言う他にはないメリットがあります。
これが築城の明暗を分けたようです。
尾張津島の水運で財を成してのし上がったリアリストの信長らしいですが、
自信の城の【衰運】は予想できなかったようです。

天主閣跡から南の眺望
遥か向こうに琵琶湖が見える。

天主閣跡から西の眺望

天主閣跡から北の眺望
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金勝山慈恩寺浄厳院(浄土宗知恩院派)
本堂を外陣から参拝した後は、広い境内を一巡。
不動堂・釈迦堂・茶所・鐘楼・観音堂と反時計回りに進んだ後は庫裏(本坊)へ。
「御朱印はしていません」 の貼り紙はガッカリでしたが、内部の拝観は以外にもできる様子。
左側の渡り廊下で本堂へも繋がっていたので、
「これなら御本尊も拝めるのでは…。」 と期待しましたが本堂扉は施錠状態。
盗難が多い【世情】を考えると無理もありません。
御本尊はぬか喜びに終わりましたが、庫裏の別の廊下から書院を見ることが出来たのは幸いでした。
御朱印拝受済にも拘らず敢て庫裏を訪れたのが【勝因】と言えます。

最も楼門に近い不動堂
案内板では位牌堂とある。

不動堂説明

釈迦堂
但し、参拝は外陣のみ。

茶所
休憩所に思えるが閉鎖中。

鐘楼
また浄厳院は『信長公記』にある仏教史上有名な「安土問答」が行われた事でも有名。
古典落語にある『蒟蒻問答』は知っていますが「あづき問答」はなし。その内容と言うと、
『安土問答(宗論)とは、天正7年(1579)年5月、信長の命に拠り、浄土宗の僧貞安(ていあん)・
霊誉(れいよ)らと、日蓮宗の日珖(にっこう)・日諦(にったい)らの間で行われた宗教論争である。
日頃、他宗を誹り事あるごとに他宗と衝突を繰り返し、かつ都を中心に勢力を伸ばす日蓮宗を憎み、
抑えようとした織田信長が、浄土宗側に有利な裁定をしたとされる。
そのため日蓮宗は敗れて処罰され、以後他宗への法論を禁じられたと言う。』とあります。

北側に建つ観音堂
右奥に見えるのは黒門。

本堂左手にある勅使門
塀の奥に見えるのが書院(左)と庫裏。

勅使門近影
比叡山焼討ちをした信長ですが、仏教自体を敵視した訳ではなく
仏教勢力が政治に介入するのを嫌ったのが本当の所でしょう。
日蓮宗に対してもその攻撃性を問題視したようです。
ならば政治力で弾圧をかければ済む話ですが、敢えて問答形式を【ていあん】。
弾圧すれば信者がより結束する可能性がありますが、問答で敗れると改宗する信徒も出ると言うもの。
リアリスト信長の真骨頂と言えますが、その後、日蓮宗の勢いは弱まったので効果はありました。

庫裏(本坊)入口

庫裏からの眺望
本堂へ続く渡り廊下の向こうに繖山が見える。

本堂へと続く渡り廊下

本堂縁側から勅使門を見る
落語に「あづき問答」はないですが 『宗論』 という題目はあります。その中で権助が大旦那を宥めた言葉が、
・宗論は どちらが勝っても 釈迦の恥
仏教経典や宗派の言葉ではなく、江戸時代の川柳に由来するもの。
かつて僧侶と言えば学者・文化人と言う側面がありましたが、
江戸時代になるとこのような川柳を詠むまでに庶民の知識も上った証拠。
却って僧侶が裸の王様だったようです。

書院大広間

書院の床の間
掛軸は中国の隠者?

竹に虎の襖絵

庫裏と書院の間の中庭
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金勝山慈恩寺浄厳院(浄土宗知恩院派)
沙沙貴神社に続いて、その南西に建つ寺院へ。
堂々たる本堂伽藍とありますが、周囲の人家に紛れて見つかるかどうか不安でしたが、
少し走ると田圃の向こうに大きな伽藍が。迷う事はありませんでした。

田圃の向こうに見える伽藍
安土駅から直ぐJR琵琶湖線(東海道本線)の線路の南側ですが、
線路を越えた場所にある黒門は裏門。
正式には南東に向いた楼門からの入山になります。
神社同様、中山道・安土街道に配慮した造りになっているのでしょう。
金勝山慈恩寺浄厳院(きんしょうざんじおんじじょうごんいん)は、
『当寺は正平年間に、近江守護六角氏頼が母の菩提のために建立した
威徳山慈恩寺と称する天台宗寺院であったが、その後、戦国時代の兵火で焼失。
天正5年(1577年)織田信長は安土築城の際に、近江栗太郡金勝山の
浄厳坊応誉明感(じょうごんぼうおんよみょうかん)上人を招き、
浄土宗金勝山浄厳院として再興。近江・伊賀両国の浄土宗総本山としたと言う。

正式な入山は南東に向いた楼門から

正面から見た楼門

楼門に掲げられた山号の扁額

楼門の金剛力士阿像(右側)

同じく金剛力士吽像(左側)
表門である楼門は室町時代後期の建立で重用文化財。
かつてこの地にあった慈恩寺の門をそのまま利用したもの。
正面の柱間三間、中央に板扉を構える三間一戸の二階建門で南向き、
左右に仁王像を配する。

境内から振り返った楼門

境内鳥観図

線路を越えた場所に建つ黒門

黒門脇に建つ由緒記

黒門近影
門の奥には鐘楼が見える。
本堂は桁行七間・梁間六間、入母屋造・本瓦葺で、重要文化財。
信長が近江八幡多賀村の興隆寺弥勒堂を移したもので、和様を主体とした古い形式を残しており、
太い丸柱と大きい屋根が重厚な構えを感じさせる。
本尊の木造阿弥陀如来坐像は像高273㎝、平安時代作の丈六定印で重用文化財。
台座の銘に拠ると、天正6年(1578年)愛知郡の二階堂から移されたものである。
光背も立派で、雲上に楽を奏し華蔓や幡などを捧げる十二飛天が
極楽浄土の雰囲気を醸し出しており、重厚な本堂に相応しい仏像である。
寺宝としては、鎌倉時代の厨子入銅製舎利塔・厨子入銀造阿弥陀如来立像・
絹本著色山王権現像・絹本著色阿弥陀聖衆来迎図等、計7点の重要文化財を有する。』 とあります。

楼門の向こうに見える本堂屋根

本堂近影

本堂説明

正面から見た本堂
朱塗りの楼門を過ぎると正面に建つのが本堂。広い境内でも一際目立ちますが、
向拝の下に吊るされた幕の織田家紋(丸木瓜)、徳川家紋(三つ葉葵)が目につきます。
御本尊の阿弥陀様は重文ですが、残念ながら内陣には入れず参拝は外陣のみでした。
前もっての予約が必要なようです。
戦国時代に南近江を支配した六角氏は足利幕府にも対抗しましたが、後に近江を追われます。
その後に入ったのが織田信長ですが、彼はかつての六角氏の寺院を再利用。
といっても伽藍は焼失していたので、新たに建立すると思いきや、
伽藍・仏像を始め各地からの寄せ集めで対応しました。
権力者は往々にして己の力を誇示するために大土木工事を行いますが、
そうしなかった所にリアリストとしての信長が垣間見えます。

本堂壁面

垂れ幕に描かれた織田・徳川の家紋

本堂側面

本堂脇から楼門を望む
中国には「三武一宗の法難」と呼ばれる四度に亘る仏教弾圧がありますが、
その最後が後周の世宗柴栄(さいえい)に拠るもの。
彼は勅許を得ない寺院の仏像を壊して銅銭に鋳造し貨幣経済を流通させました。
東洋史学者宮崎市定は、近世的な視野を持った点から柴栄を織田信長、
宋の太祖趙匡胤を秀吉、太宗趙国義を家康に擬えましたが、慧眼といえましょう。

浄厳寺御朱印 (平成4年拝受分)
現在、浄厳寺では御朱印を行っていないので貴重なもの。
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沙沙貴神社(式内社 旧県社)
沙沙貴神社と言えば、忘れてはならないのが近江源氏佐々木氏。
拝殿には近江源氏祭の幕が掲げられ、社務所には近江源氏全国佐々木会の看板が架かります。
『平安時代になると、宇多天皇の皇子敦実(あつみ)親王の子孫と称する
宇多源氏・源雅信(まさのぶ)の孫成頼がこの地に住み付き、佐々木を称した。
これが佐々木姓の始まりである。

楼門から拝殿を見る
提灯には四ツ目紋が描かれている。

社務所に掲げられた全国佐々木会の看板

神殿側から見た楼門

楼門から続く西廻廊

東廻廊
右の楼門下にあるのは御神酒。

東廻廊の前に広がる御祓所
その奥には社務所が建つ。
平安末期には佐々木秀義が源為義の娘を娶る事で、源氏と婚姻関係を結び、
源頼朝の平家追討の挙兵に加わって武勲を建てたので、鎌倉幕府成立と共に近江守護に任ぜられた。
『平家物語』の宇治川先陣争いの主人公、佐々木四郎高綱は秀義の息子である。
その後、佐々木氏は近江にあった山門領の荘園を蚕食して、山門と抗争しつつ勢力を拡大。
その過程で、古代の豪族狭々城山君の子孫を包含、同化していったと考えられる。

拝殿近影
弘化5年(1848年)、丸亀藩主・京極高朗に拠り再建。桁行・梁間ともに三間方形。

拝殿前面の様子

拝殿左手の庭園 「呑月の庭」

「呑月の庭」説明

呑月の庭 全景
ここから眺める繖(きぬがさ)山は観音寺山・佐々木山とも呼ばれるが、
大和の三輪山を連想させる神奈備型で、元は神体山であったとされ、
霊山の名に恥じない山容を誇っている。
現在、佐々木氏の子孫は全国に300万人いるとされ、京極・黒田の旧大名家、
旧財閥の三井氏、日露戦争の乃木希典大将なども一族で、
社頭にはこれらの人々の奉納した石灯籠や寄進札が三間される。
また境内社には乃木将軍も祀られている。』 とあります。

幣殿と奥に建つ本殿

御祭神の説明碑

塀越しに見た本殿
拝殿と同じく、弘化5年(1848年)の再建。五間社流造で、向拝三間。

奥から見た本殿

少彦名命を祀る磐境
源平藤橘と言われる程、国民の大部分はどこかに属すると言えますが、
中でも近江源氏佐々木氏は多士済々。
本流からは六角・京極、京極から尼子。支流から黒田と大名が出て
京極・黒田の両家は幕末まで続きます。
経済界では財閥の三井氏、軍人では乃木大将と各界の逸材を輩出していますが、
その理由は何か?

権殿

権殿御祭神
神様と歴史上の人物が一緒に祀られている。

権殿正面

西側より見た権殿
佐々木高綱は源頼朝に仕えて守護職を得、佐々木(京極)道誉は足利尊氏に協力して
幕府の四職に取り立てられました。
こうして見ると決して自らはトップ立とうとせず、トップに付く事で地位を得ています。
ここで重用なのは必ずと言って良い程、勝ち組に乗っている事。
一族の浮沈が掛かっている時の的確な判断。これも優れた才能と言えます。

本殿裏側の様子

裏手に置かれた干支の石像

権殿前にある「乃木大将お手植えの松」

乃木さんのお言葉

西廻廊前に建つ絵馬殿
何故か休憩所として利用されている。
佐々木氏は宇多源氏に由来するとされる源氏の名門なので、清和源氏とは同格と言ってよいでしょう。
しかし敢えてトップを争わなかった故に滅亡することなく後世まで続いたと言えます。
その原動力となったのは、一族の持つネットワークだった気が。
江戸時代に近江商人として全国に名を轟かせた源流はここにあった気がします。

縁起、佐々木氏系図、クリアファイル がセットとなって¥500

沙沙貴神社御朱印
(左) 平成4年拝受 当時はこれ一種 (右) 今回の拝受分、花の印は月毎に変わる。

御朱印の説明書
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沙沙貴神社(式内社 旧県社)
長光寺参拝の後は、東海道新幹線に沿って北東へ。
細い道に懐かしい家並みが散見されますが、ここはかつての中山道。
今の東海道本線は旧街道よりも大分北を通っています。2㎞程走り道を北に採りますが、
いずれも車が行き違えるのがやっとの幅ですが、これが往時の安土街道。
中山道・安土街道と歴史的な道を往くと行く手に大きな森が見え、これが目的地の沙沙貴神社。
JR安土駅の南側に当たりますが、神門は駅方向ではなく安土街道に向いています。
神門を潜ると佐々木家の家紋「四ツ目」が神紋として至る所に見られます。

中山道、蛇砂川に架かる西生来大橋にて
奥に架かるのは近江鉄道鉄橋。

安土街道の行く手の森が目指す神社

南側の参道と鳥居
沙沙貴神社(ささきじんじゃ)は、
『神話の頃から、この地に鎮座する古社で、「ササキ」の地名は
ササゲの豆の鞘に乗って海を渡って来たという少彦名神に由来。
神域は2000㎡に及び、沙沙貴の杜として近江「百華苑」と呼ばれている。
この社は、奈良・平安時代に蒲生・神崎両郡の大領を務め、この地に君臨した
狭々城山君(ささきやまぎみ)という豪族の祖神である大毘古(おおひこ)神を祀ったのが
その起こりとされる。狭々城山君の子孫は佐々木の庄の地名に繋がった。

南側の鳥居と狛犬

鳥居に掲げられた「佐佐木大明神」の扁額

扁額の説明には源頼朝の書とある

こちらは北側の参道入口
何故か道標には東参道とある。

北側の参道

北側参道の鳥居とその先にある拝殿
大毘古神は古代、都からの北陸道・東海道・西海道・丹波道を守護した四道将軍の一人として
北陸道を守護した神である。
その他に、少彦名神・仁徳天皇・宇多天皇・敦実親王と四座五柱の神々を祀り、「佐々木大明神」と総称する。
南側の参道の石鳥居の「佐佐木大明神」の扁額は源頼朝の書、
楼門に掲げられた「沙沙貴神社」の扁額は有栖川宮熾仁新王の書である。』 とあります。

境内の杜 「百華苑」

百華苑 看板

杜は奥まで続く

南側参道から来た鳥居を見返る
鳥居の向こうの山は繖(きぬがさ)山か?

参道奥にある由緒記の碑
いっそ「笹木」が繁る場所と言う方が、それらしいですが、
興味を引くのが「ミササギ(御陵)」に由来すると言うもの。
白洲正子の著作にあったと記憶していますが、万葉の時代から栄えた場所だったので、
古墳があっても不思議ではありません。墳墓に由来する名前なので、
それをネガティブに思った後世の人が少彦名神に結び付けた様に思えます。
そういえば神社の扁額は、源頼朝と有栖川宮熾仁親王の書。
独自性というよりも時の政権との結び付きを重視した神社と言えます。

南側参道を右に曲がった先には楼門が

延享4年(1747年)再建の楼門
平安時代の様式の茅葺、二層門。

楼門の扁額は有栖川宮熾仁親王の書

扁額の説明

楼門回りの組物
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補陀落山 長光寺(高野山真言宗)
山門前に建つ「花ノ木」石標と奥に見えるハナノキ。
聖徳太子所縁の霊蹟として知られる長光寺ですが、もう一つの顔が「花ノ木」の寺。
堂宇建立に際し、太子が植えたのが花ノ木と伝わります。
『寺の縁起に拠れば、聖徳太子が当時建立の証として栴檀香木の余枝を御宝前に植えたとあり、
別名「ハナカエデ」とも言う。当寺では「おたふくの木」と呼び習わしている。

本堂左に建つ不動堂

前面窓から見た不動堂内陣

本堂右には大師堂
右手前は修行大師像。
通常、湿地帯に自生する落葉喬木であるが、当寺のように丘の上にあるのは、
人為的な移植か実生に拠るものと考えられる。
高さ15m、周囲約3m、樹齢凡そ五、六百年を経ているもので、日本固有の樹木である。
寒帯植物に属し、日本での最南限に生育している事に植物学上貴重な価値がある。
近江八幡市の天然記念物に指定されている。
三月下旬から四月上旬にかけて、葉に先立って花が咲く。
花は枝に群がるように出て、色は淡紅色である。
春の新芽、秋の紅葉が見事な樹木である。』 とあります。

大師堂奥には四国八十八ヵ所参詣道が

参詣道は「発心の道」

鐘楼堂

長光寺御詠歌碑
私も植物分類学は履修しましたが、ハナノキは初耳。正式名ではなく通称と思っていましたが、
調べてみると図鑑にもハナノキ・ハナカエデとあり正式な名称。
カエデ科の落葉喬木で葉の写真を見ても同一種でした。

境内のハナノキ遠景

ハナノキ全景

長光寺 ハナノキ解説

根元にある碑
聖徳太子に限らず、弘法大師が杖を刺した場所から大木が生えたと言った
逸話には事欠きませんが、ここで問題なのは木の種類。
寺伝では栴檀香木の枝を植えたそうですが、栴檀はセンダン科、香木栴檀はビャクダン科と全くの別種。
故事に登場する栴檀の大部分は香木栴檀であるビャクダン(白檀)で、‘栴檀は双葉より芳し’もこの樹。
しかも南方系なのでハナノキとは全く別なのは明白。何故このようになったかですが、
山門脇のハナノキの古木に箔を付けるためでしょうが、どうせならもう少し【木】を効かせて欲しかったものです。

ハナノキ近影

ハナノキ根元部

ハナノキの奥に見える本堂

ハナノキの葉

境内の庭
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聖徳太子の寺を歩く―太子ゆかりの三十三カ寺めぐり (楽学ブックス―古寺巡礼―古寺巡礼) 新品価格 | ![]() |

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補陀落山 長光寺(高野山真言宗)
体育の日を含めた行楽の秋の三連休ですが、台風の影響かで、晴天は8日のみの予想。
体育の日は東京オリンピック開催日で、過去の気象情報から快晴の日を選んだ筈ですが…。
この日は先週に続いて東近江地域へ。
意外に思えますが、ここは全国で最も多く聖徳太子に関する伝承が残る地域。
この一帯の社寺は聖徳太子が開創した事が語り継がれ、近江の風土の中で
人々が創造・伝承した太子像が今なお生き続けている場所です。
令和4年は太子薨去1400年、そこで近江では令和3年から5年にかけて
「聖徳太子1400年 悠久の近江魅力再発見委員会」が発足。
近江発、聖徳太子の足跡めぐりが企画されました。

近江聖徳太子案内板
この日最初の巡礼先は中山道武佐宿にある長光寺。
山門脇の花の木が有名ですが、近江八幡観光案内所で貰ったパンフでは
秘仏の御本尊が11月26~27日に特別開帳との事。当方の情報不足で再訪になりそうです。

特別御開帳のパンフ
(左) 長光寺 (右) 近江八幡観光案内所 にて配布。
近江鉄道の駅から徒歩圏内ですが、列車本数が少ないので近江八幡駅にて駅リン君。
近江鉄道に沿って一駅進み武佐駅を過ぎて東海カーボンの広い敷地を過ぎた場所に鳥居が。
そこを潜った先にあるのが長光寺。典型的な神仏習合寺院です。

近江鉄道南側を通る道路に建つ案内板

参道に建つ石鳥居

駐車場から見た境内全景
左の自転車はこの日の相棒。
補陀落山長光寺(ふだらくさんちょうこうじ)は、
『聖徳太子建立四十九院の一つで、当時にあっては七堂伽藍を備えた壮麗な寺院であった。
寺伝に拠れば、聖徳太子が老蘇の森に仮宮していた時、高階の妃が急に産気づき難産となった。
そこで太子は妃に仏法を信じ仏の加護を祈る様、諭された。
妃がひたすら諸仏の慈悲を仰がれたところ、西南の方より仏の使者である童子が現れ、
「汝が願いは、正しく観世音が救い給う」 と告げて飛び去り、妃は速やかに安産された。
不思議に思った太子が早速、童子の行く先を探させた所、この地に八尺の香木と霊石が見つかった。
霊石は五色に輝き、光明の中より千手観音の尊像が現れ、感激された太子は霊石の上に堂宇を建てられた。
これが当寺の嚆矢であり、霊石は今も安置されている。

石垣に囲まれた堂宇

正面より見た山門

長光寺縁起

山門正面に見える本堂
扉には何故か御朱印が…。
この時、太子は出現された千手観音の尊像を香木に刻み腹部に法華経・維摩経・勝鬘経の
三部経を納め本尊とした。それ故、今日に至る迄安産の仏様として崇拝を受けている。
後に弘法大師が中興し、高野山金剛峰寺を本山とする真言宗寺院となった。
文明7年(1475年)の戦乱で堂宇は灰燼に帰し、足利将軍家の尽力で再建するも再び兵火で焼失。
漸く江戸の宝暦年(1753年)に玄廣木食上人に拠って再興され、寺域は今の一小区域に定め現在に至る。
この地を記念するため、太子が栴檀香木の余枝を御宝前に植えたのが花ノ木。
4月上旬には赤い花が咲き、11月中旬には紅葉が見事である。』 とあります。

本堂正面

本堂前面

向拝下から内陣を見る

前面に掲げられた「子安観世音」の扁額
参詣したのは太子のお妃が産気付いたという寺院。古代日本史上の英雄で、
また我が国仏教界の礎を築いた人として超人的な逸話が残る人物ですが、これなどは非常に人間的な話。
太子自身も母の間人皇后が馬小屋の傍で産気付き生まれたので厩戸皇子と名付けたとか。
太子の偉大さを強調する内容ではないので、真偽の程はさて置き似たような実話があったのでしょう。
今回は外陣からの参拝でしたが、太子が建立した時の石が今も残っているのは驚き。
近くの石馬寺もそうですが伝説の霊石が伝わるのも東近江の霊蹟の特徴と言えそうです。
科学的に調査すれば色々と分かるでしょうが、確実なのは【あんざん岩】である事でしょうね。

蔀戸より見た内陣の様子

厨子の前にある御本尊の御前立

本堂屋根の亀?の鬼瓦

長光寺御朱印
(左) 御本尊 (右) 聖徳太子霊蹟
[参考書]
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手原駅(8:30) → (こんぜめぐりちゃんバス) → 金勝寺(9:10) → 金勝寺 → 徒歩20分 → 道の駅こんぜの里りっとう(11:40) → (こんぜめぐりちゃんバス) → 手原駅(12:10)
栗東市観光協会 → (レンタサイクル7分) → 鈎の陣跡 → (レンタサイクル5分) → 安養寺 → (レンタサイクル10分) → 萬年寺 → (レンタサイクル5分) → 旧和中散本舗・六地蔵尊 → (レンタサイクル5分) → 新善光寺 → (レンタサイクル10分) → JR手原
【復路】JR手原(16:12) → JR草津(16:17→16:21) → JR大阪(17:12)

九品山 新善光寺(浄土宗知恩院派)
旧法界寺の地蔵尊から直ぐ直角に曲がって北へ300m行くと左手に「新善光寺道」と彫られた道標が見えます。
そこを左折し草津線を越えると眼前に近江富士と呼ばれる三上山が迫り、壮大な楼門が目に入ります。
その門を潜ると八棟造の堂々とした本堂が。ここがかつては如来堂と呼ばれた新善光寺。

楼門前の寺標

正面より見た壮大な楼門

楼門欄間の彫刻

楼門軒回り組物
扁額は擦れているが「九品山」と読める。

楼門の天井部

境内側より見た楼門
九品山新善光寺(くほんざんしんぜんこうじ)は、
『寺伝に拠れば平清盛の長子小松内府重盛の末裔、小松左衛門尉宗定がこの地へ逃れ住み、
当地の名を採って高野宗定と称した。
宗定は平家一門の菩提を弔うために信濃善光寺へ48度の参詣を発願。
12年を経てこの願を成就するが、その満願の未明、夢の中で
「江州一円の衆生済度のため、我を連れ帰れ」
との善光寺如来のお告げを賜る。
夢から覚めると分身の如来が眼前に立っており、喜んだ宗定は分身の如来を頂き、この地に請来した。
時に建長5年(1253年)1月13日の事とされる。
開山上人となった宗定の御影は50年に一度の秘仏として奉安されている。

楼門から本堂へ続く参道

参道左手の石塔
五輪塔が主か?

こちらは石地蔵

参道右脇に置かれた「佛使の牛」
牛が鎮座するのは天神様だけではない。
江戸時代の寛文元年(1661年)になると、膳所城主本多俊次が善光寺如来に深く帰依し、
三間四面の本堂を寄進。
寺域を整備し略縁起を著し奉納するに及んで新善光寺と称するようになったという。
城主の庇護を受けるようになって以降、一円に当寺の名が広まり
中でも1月13日の御判日・春秋彼岸・盂蘭盆会には多くの参詣者で賑わった。
明治元年(1868年)、有栖川宮殿下の三回忌に当り、宮家より追善のため御尊牌が当寺に奉安。
この際、宮家から御幕と提灯の寄進と各種証文を賜っている。

善光寺様式の本堂

本堂正面

向拝欄間の龍の彫刻

唐破風下の彫刻
多くの信者が集まる湖南屈指の名刹となり、明治22年(1889年)には本堂・楼門を再建。
その後、風雪に拠る傷みが生じたので、昭和54年(1979年)から1年9ヵ月掛け解体大修理を実施。
昔日の威容を取り戻した。この際に1億数千万円の巨費が投じられたが、
「御本尊の霊夢を受けた」と多額の寄付をした篤信者もあったと言う。
本堂の御本尊は信濃と同じ一光三尊善光寺如来であるが、当寺には加えて
慈覚大師円仁作とされる木造阿弥陀如来を御内仏に安置している。』 とあります。

本堂向拝下

本堂前面に掲げられた「善光寺」の扁額

本堂隅の尾垂木と二手・一手の組物

木鼻の獅子像

本堂内陣の様子

内陣に掲げられた「九品山」の扁額
山門と伽藍が一際目立つのは善光寺の特徴。規模は同じではないものの、
信州善光寺と類似の造りになって居り戒壇巡りがあるのも信州と同じ。
寺紋の立葵も善光寺と同じですが、江戸時代に当寺に帰依した膳所本多家の家紋も立葵。
これも仏縁でしょうか。参道脇に置かれた「佛使の牛」は青銅製で日本最大とか。
‘牛にひかれて善光寺まいり’ゆえでしょうが、栗東では馬にひかれてとなりそうですが。
枯山水の庭園は拝観できませんでしたが、受付で御朱印は無事拝受。
月毎に季節の植物をあしらったものが用意されていますが、この日は1日なので10月の準備は未だ。
一般的な御朱印拝受となりました。

本堂より楼門を見る

側面より見た本殿(二棟造り)

後方より見た本殿

新善光寺説明書

新善光寺御朱印
こうしてこの日の巡礼も無事終了。
土産には昔ながらの「善光寺ういろ」なるものがあると聞き、自転車を飛ばして157号線沿いの店へ。
信州や他の善光寺では類似のものはなかったので近江のオリジナル。江州米の産地だけの事はあります。
阿波屋清重は江戸時代の文化年間創業の老舗で現在七代目。
黒砂糖の適度な甘さにしっとりとしたコクのある逸品とありますが、残念ながら時刻が遅く売切れ。
考えが甘かった訳ですが、店主の方の御好意で切れ端を分けて頂く事に。
足りない分は最中で補充しました。帰ってから食べると評判通りの味。
栗東なので、牛ではなく馬にひかれてと思いましたが、実際はういろに惹かれた善光寺でした。

御菓子司 阿波屋清重

名物「善光寺ういろ」
[参考書]
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旧法界寺(曹洞宗)
旧和中散本舗から東海道に沿って更に北東へ100m程行くと、
左手に「国寶六地蔵」と彫られた石碑が建っています。
『旧法界寺の本堂には六体の地蔵があり、この辺りの六地蔵の地名はそれに由来する。
今は無住寺で本堂に木造地蔵菩薩立像が1体だけ安置されている。

地蔵菩薩立像の解説

山門と国寶地蔵尊の石碑

山門から見た境内
この本尊は僧形の丸顔で半眼・閉口し、衲衣(のうえ)の端を右肩に懸け、
偏衫(へんさん)と裳(も)を着けて直立する。現状では右手に錫杖、左手に宝珠を執る。
像高96.5㎝、檜の一木造り。平安時代の10世紀頃の作とされ重要文化財となっている。』
とあります。

入口付近にある石

地蔵堂

地蔵堂正面

地蔵堂向拝下にて

地蔵堂の扁額
六地蔵の内、唯一残ったのがこれ。寺は崩壊しましたが、
地蔵様だけは地元の方の努力で今に残り小さいながらも御堂に祀られています。
堂内には入れず外陣より参拝。寺務所と思しき建物も閉まっており
「どうないしよ!」と言う状態ですが、こちらも和中散本舗の見学とリンクして開帳するとの事。
次の春が待ち遠しく思われました。

地蔵堂内の様子

地蔵堂に続く庫裏

庫裏の前庭

前庭の風景
[参考書]
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旧和中散本舗(国重要文化財)
安養寺、萬年寺と参拝を済ませた後は名神高速・草津線を越えて次の寺院へ向かいますが、
途中通るのが東海道。その街道沿いにあるのが旧和中散本舗。
「ワハハ本舗なら知っとるけど、旧和中散本舗は初耳やで」
などと冗談を飛ばす事勿れ。
手原駅のスタンプにもデザインされている市内では寺社よりも知名度の高い一番の観光地です。

JR手原駅スタンプ
手原駅から旧東海道を東へ1.5㎞行くと六地蔵のバス停。ここを少し過ぎ、
やや下り坂になった場所にあるのが旧和中散本舗(きゅうわちゅうさんほんぽ)である大角(おおすみ)家住宅。
『ここは旧東海道の草津宿と石部宿のほぼ中間にあり「間の宿」として栄えてきた。
この付近には旅人のため道中薬を売る店が数軒あり、大角弥右衛門家は
「和中散」を売る「ぜざいや」本舗として栄え、間の宿の茶屋本陣も務めた。
慶長16年(1611年)野洲郡永原に滞在中の徳川家康が腹痛を起こし、
この薬を典医が持ち帰って献じた所、忽ち治ったので「和中散」の名を与えた。
そのため一躍その名を知られる事となった。

六地蔵バス停付近に建つ古絵図

旧東海道(江戸方面)からの眺望
街道を挟んで左が店舗、右が住居。
現在の建物は寛永年間(1624~1644年)の建物をそのまま残したもので、
高塀造で両端に防火用の卯建壁を建て本瓦葺とし、一際大きな白壁が目を惹く。
本家の仕事場には直径4mの木製の動輪と歯車で操作される製薬用の石臼が
そのままの姿で保存されている。
大角家では本舗に隣接して座敷を増築し、そこを「梅の木小休み本陣」とした。
因みに梅の木とは付近の旧地名である。公家・大名などが休泊しただけあって、
書院・奥座敷には曽我蕭白の襖絵があり、蜀山人もその書を残している。
幕末にはシーボルトもここに滞在した。

店舗全景

本家「ぜざい」と書かれた看板

1・2階の庇部分

武家屋敷風の門
店舗入口ではなく、屋敷への入口。

塀越しに門屋根を見る
旧和中散本舗庭園は日向山を借景にした落ち着いた庭園である。
また本舗の向かい側には旅人の馬繋ぎの場や隠居所等も昔の姿をそのまま今に留めている。
全国的に見ても珍しい貴重な史跡である。』 とあります。
現在でも大角家の所有で子孫の方が住まわれているので、拝観は外観のみでした。
但し、春と秋の季節限定で内部と庭園が公開されており、秋は9月30日までがその期間。
僅か鼻の差程度に後悔する事頻りでした。

庭園説明
但し、拝観は季節限定。

店舗の向かいにある住居
今も大角氏が住まわれている様子。

住宅解説
近代以前の旅は、移動に時間がかかる上、食事や水も普段と異なるため体調管理が不可欠。
道中薬は必須でした。そんな中で街道沿いにある薬屋は重宝されましたが、ここは横綱格。
私見では中山道柏原宿の亀屋左京店との双璧でしょうか?
特に薬・健康マニアであった家康の腹痛を治したのが宣伝効果になったと思えます。
現在、製薬メーカーが多い府県は、富山・奈良・滋賀の三県。
いずれも修験道や忍者などと関りの深い場所で、滋賀では甲賀地区がその中心だそうな。
昔から薬料は高価でしたが、その分儲けも大きかった筈。
それを貯めこまないで店の造りや庭園に投資したのは、社会に還元する意図もあった筈。
薬販売を止めたあとも、この場所で生活を続けて居られるのは、地域への貢献度が高かった事もあるでしょう。
近江商人風に言えば和中「散本舗」良しとなるでしょうか?

住居の脇に建つ御堂
個人的に祀っているものか?

塀越しに見た住居

住居近影
ここから次の巡礼先までは暫く東海道を行きますが、道沿いには麹屋など昔ながらの家も。
弁柄格子が鮮やかですが、町の端には「ぜざいや東店」の看板が。
表札もあったので大角家の分家と思えますが、間の宿の両端に店を構える程、需要が多かったのでしょう。
今なら「ぜんざいや」と読み違えて入る人が居そうですが…。

東海道沿いに建つ家屋

これは本舗より東側にある大角家
「ぜざい」の看板が上がる。

同じく街道沿いの旧家
表札の横に説明板が。

かつて糀を商った事を示す札

弁柄格子が美しい家屋
[参考書]
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石場山 萬年寺(黄檗宗)
安養寺に続き、名神高速に沿って栗東インターを越えて東へ行った所が萬年寺。
石場山萬年寺(いしばさんまんねんじ)は、
『奈良時代の和銅3年(710年)、小野光房に拠って金勝寺別院の栗太六坊の一つとして
建立された小野寺が前身。その後、兵乱で伽藍は炎上。御本尊の観音菩薩は小堂に安置していた。
天和3年(1683年)、黄檗宗の僧侶祐堂(ゆうどう)が来住。石場山萬年寺と号し、彦根藩等の援助を受け再興した。
祐堂禅師は彦根藩井伊家の家臣木俣氏の出身で、後に出家して慧極(えごく)禅師に師事した。
尚、本尊の観世音菩薩立像は聖徳太子が栗の木を彫って造ったという伝承が残る。

名神の傍に建つ寺標

門前にある由緒記

所有する文化財一覧

句碑
白壁に朱色の柱を持つ山門は中国風。山門の上には元禄15年(1702年)鋳造の洪鐘が吊るされ、
その銘文には当時の中興の由来が刻されていたが、惜しくも太平洋戦争に供出。
その後、当時の写真と記録を基に平成14年に再鋳されたものである。
山門を潜ると奥に重層屋根の本堂が見える。ここには聖観世音菩薩が三体、
白衣観音一体の他、延命地蔵菩薩、聖徳太子木造、布袋さんが祀られている。

中国風の山門

山門上に吊るされた洪鐘

山門から真っすぐに伸びる参道と奥に見える本堂

正面から見た本堂

本堂前面に掲げられた「萬年寺」の扁額

本堂内陣の様子

本堂屋根の上層部
本堂に向かって左の建物は、開山祐堂禅師はじめ歴代の和尚の位牌を祀る開山堂。
右手は永代供養のための観音様、水子地蔵を祀っている。
更に右側の北向きの建物は齋堂と言い食事をする場所であるが、堂の中央には大日如来を祀る。
また当山には大きな涅槃像や、古くから伝わる頂相(ちんそう)と呼ばれる禅州特有の肖像画があるが、
とりわけ宗祖隠元禅師及び開山の師である慧極禅師の頂相は市指定の文化財となっている。』 とあります。

本堂前より山門を見る

本堂と開山堂

開山堂入口
この日、参拝した古刹とは一線を画す近世的な造り。
近江には珍しい黄檗宗というのもその印象に拍車をかけます。
御朱印を拝受すべく寺務所へ伺うと、生憎御住職は不在。
奥様に詳細な参拝のしおりを頂いただけに残念でした。
「次は、居られる時に伺います。」と述べて辞去しましたが、そう上手くいくかどうか?
ここで会ったが【萬年目】とならない事を祈るばかりです。
現在の行政区は栗東市ですが、以前は栗太郡栗東町。
栗東とは栗太の東にある命名ですが、どちらも栗が使われています。
伝説では、かつてここには栗の巨木があった事に由来するといいますが、
当寺の御本尊は栗の木から彫られたもの。意外とこれが地名の由来になったようにも思えます。

参拝のしおり
[参考書]
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東方山 安養寺(真言宗泉涌寺派)
方丈の前の廊下を進むと眼に飛び込んでくるのが当寺の庭園。
『安養寺山の山裾を築山として巧みに利用した池泉鑑賞式庭園で、
江戸時代末期の庭園、また栗東八景の「泉面の雪花」として登録されている。
琵琶湖を模った池の周りに近江八景を配し、松・皐などの刈込がきめ細かく植えられている。
四季それぞれの草木と山が織りなす景観は非常に素晴らしい。

名勝庭園へは観音堂前の廊下を直進

名勝庭園説明
当山中興の祖、戒山慧堅(かいざんえけん)律師が江戸時代に安養寺を再興した時、
寺の後ろには緑豊かな林があり、前は湖に面して、朝は朝日が輝き、
夕方には霧が立ち込める豊かな自然環境であったと言われる。
それでこの清らかで風雅な様子がよく伝わるように、池を掘って白蓮を植え、
気風を望み見る事が出来るようにしたと伝わる。』 とあります。

廊下より見た庭園

琵琶湖を模った池

瀬田の唐橋を模した石橋
住職夫人の案内で、観音堂前の廊下を進むと現れたのが名勝庭園。
夫人 ; 「この池は琵琶湖を模って作られています。」
私 ; 「珍しいですね。」
夫人 ; 「県内の寺社では多いです。」
私 ; 「池に架かる石橋は琵琶湖大橋ですか?」
夫人 ; 「いえ、瀬田の唐橋です。琵琶湖大橋は江戸時代にはなかったので」
私 ; 「ひょっとして、池の右側の島は…。」
夫人 ; 「はい。竹生島です。」
といった会話で盛り上がりました。

これは竹生島

池の奥の木々は比良山系か?
広大とまではいきませんが、一定の範囲に見所を網羅したと言えば良いでしょうか?
石組みや草木に加えて、地面の杉苔が目に映えます。伺うと手入れは殆どされないとの事で、
周囲に山が迫り霧や湿度に恵まれているのが、庭園を保つ条件と言えそうです。
寺院の庭で近江全体を表すと言うのは、芸術性に加えて遊び心の一種とも言えそう。
中興の祖と言われる律師も意外とユーモアセンスのある人だったようです。

縁側からの眺望
左の木は木斛?

庭園の端にある蹲
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東方山 安養寺(真言宗泉涌寺派)
薬師堂参拝の後は、渡り廊下を戻って観音堂へ。
と言うよりも内拝の際に参道の先にあるのがここ。正面の扁額には「方丈」とあるので、
かつて方丈であった場所に観音像を祀るようになり観音堂と呼ばれるようになったのでしょう。

参道の奥に建つ観音堂

観音堂正面に掲げられた「方丈」の扁額
『正面には観音像が控えるが、加えて毘沙門天立像があり、穏やかな中にも量感を失わず、
その古様な構造から平安時代後期の12世紀の作とされる。
寺伝では当時の高僧であった興正菩薩叡尊の作とも言われる。
また阿弥陀如来坐像は12世紀の作とされる。』 とあります。

観音堂前面

堂前に植えられた萩

観音堂と渡廊下の間にある池
観音堂と言うものの市の文化財になっているのは、毘沙門天と阿弥陀如来立像。
御本尊よりも脇侍が有名になったパターンと言えます。
それを言えば奈良時代に開創時の御本尊は御薬師様ですが、
平安後期になって浄土信仰が盛んになると観音様に信仰が集まります。
安養寺もその例に漏れなかったという事でしょう。

渡廊下から観音堂方面を見る

池と庭越しに見る観音堂

渡廊下から見た庭
夫人の説明を聞きながら仏様の脇に目を遣ると、先年に遷化された先代の遺影が。
私 ; 「今は、子供さんがお寺を継がれているのでしょうね。」
夫人 ; 「いえ、息子は泉涌寺に行って居りますので、ここへはたまに戻る程度です。」
当寺の本山でもあり皇室縁の御寺とも呼ばれる泉涌寺ですが、ここも聖武天皇勅願の古刹。
京都市内に比べ、参拝者は少ないですが、そんな状況下でここを護る姿勢には頭の下がる思いでした。

観音堂内陣の様子

御本尊の観音様

山号&寺号が書かれた提灯
亀甲に三松は寺紋か?
[参考書]
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