<コース> JR・阪急共に10分間隔で運転
【JRルート】JR大阪 → JR伊丹 → 徒歩8分 → 旧岡田家住宅
【阪急ルート】梅田 → 塚口 → 阪急伊丹 → 徒歩8分 → 旧岡田家住宅

旧岡田家住宅(国の重要文化財)
如月も末の六日、曙の空朧々として、ちと野暮用のために伊丹を訪問。
行先は旧岡田家住宅で、JRからも阪急からもほぼ等距離と駅近く。
10時の開館と同時に用事は無事終了。普通ならそのまま帰宅するところですが、
この時期 令和5年2月4日(土)~3月4日(土)
の期間で「ひなかざり」が無料で開催中。
これは見逃す手はないと、そのまま邸内を見学する事に。
JR西口から阪急へ向かう伊丹酒蔵通りから一本北にある東西の通り、
近代的なビルや住宅街の中にあってタイムスリップしたかのように
旧岡田家・旧石橋家と江戸時代の町屋が並びます。

通りから見た岡田家全景

重文・旧岡田家住宅

伊丹市マンホールカード 同市内では4種目
この日の野暮用はこの入手。

道路沿いに設置された同じ図柄のマンホール蓋
旧岡田家住宅は、
『上方から江戸へと酒を運ぶ江戸積酒造業を基幹事業として繁栄した伊丹の実業家。
その邸宅は延宝2年(1674年)の建築。現存するものの中では町屋は県内最古、
酒蔵が国内最古で、国の重要文化財となっている。

杉玉と看板の下がった入口から屋内へ
暖簾の三つ鱗は家紋?

店舗に置かれた雛飾り
明治時代の雛飾りは明治40年(1907年)頃のもので、平成7年に市民より
旧伊丹市立博物館に寄贈されたもの。現在は市立伊丹ミューゼアムが所有。
最上段には内裏雛が黒塗りの御殿に鎮座し、前には三人官女が並ぶ。
下段には嫁入り道具や台所道具のミニチュアが並ぶが、これは当時の風習と考えられる。

明治時代の雛飾り

手前に置かれた生活道具のミニチュア

最上段に置かれた内裏雛と三人官女
大正時代の雛飾りは当館の柿衛文庫の所蔵。
最上段に内裏雛・三人官女が並ぶのは明治期と同じだが、
建家は白木の神社拝殿を模した造りと変わっている。加えて下段には、
結婚式に使用する打掛、御付きの女性と思しき立ち姿の人形が置かれている。

大正時代の雛飾り

手前に置かれた立ち姿の人形

最上段の内裏雛と三人官女
旧岡田家住宅は、正面に店舗、奥に酒蔵、その間に釜屋・洗い場が並んでいる。
建設時期は店舗が江戸前期の延宝2年、酒造は少し遅れて正徳5年(1715年)頃と考えられている。
釜場・洗い場は江戸後期に建てられ、その後大きく改造されて今に至っている。
建立から酒造廃業までの310年間に五次に亘る変遷があり、酒蔵の増築や窯場の増改築等、
様々な改革が行われた。これは醸造技術の改良や酒造規模の拡大が原因と考えられ、
詳細は阪神淡路大震災後の解体修理に伴う建物調査と内部の発掘調査に拠り明らかになってきている。

これは酒米の洗い場

洗い場横の井戸
ここからの水で酒造りをするとか。

洗い場・井戸の解説

かつての竃
学芸員の方の話では、酒米は炊くと柔らかくなりすぎるので蒸すくらいが丁度良いにだそう。

釜場・竃の解説
建立者は江戸前期の酒造家・松屋与兵衛であった事が古文書等から推定される。
蔵の所有は享保14年(1729年)に鹿島屋清右衛門に渡り、明治に入り安藤由松を経て
岡田正造へと渡り、昭和59年(1984年)まで㈱大手柄酒造の北蔵として酒造りが行われて来た。
ここで醸造されていた酒は、江戸時代には松緑(まつみどり)、岡田家の所有となって以後は、
富貴長(ふきちょう)・大手柄(おおてがら)が主要銘柄であった。
この良質な酒造りの伝統と文化は2020年に『「伊丹諸白」と「灘の生一本」下り酒が生んだ銘醸地、
伊丹と灘五郷』として「日本遺産」に認定されている。』 とあります。

醪(もろみ)の絞り機

天上の造り
昭和の雛人形は自宅も含め何度も目にしていますが、明治・大正期はこのような展示で見るくらい。
雛壇を飾る経済的余裕がなかった家庭が多かったためでしょうが、
その分職人の技術を集めた秀作が多い様にも見えました。
伊丹の酒造は、戦国武将山中鹿介幸盛の子である新六幸元が大叔父を頼って伊丹の鴻池に逃れ、
この地で清酒醸造を始めた1600年頃まで遡ります。清酒は江戸に運ばれ莫大な利益を得ました。
当時江戸の醸造業はまだ開発途上で、伊丹の酒は上方からの下りものとして絶大な人気を誇ったようです。
反対に下って来ないものは人気がなかった訳でこれが後世 「下らない」 の語を生みます。

かつて醸造された銘柄を展示
勿論中身は空だろうが…。
新六幸元の八男善右衛門は大坂に出て酒造りで得た資金を元に両替商に進出、
江戸時代には鴻池家として西日本屈指の大商人に成長します。
鴻池の発展の基礎が酒造りなのは聞いた記憶がありますが、
祖先が尼子十勇士の山中鹿介と言う真偽は如何に?単に伝説と思っていましたが、
学芸員の方の話では信憑性は高いそうです。
中国地方の覇権は毛利氏に奪われましたが、その家臣が西日本の経済圏を牛耳った事で、
尼子氏も以て瞑すべしでしょうか?

伊丹清酒造りの沿革

鴻池家の始祖二人
清酒の製法は戦国末の大和の正暦寺が発祥ですが、その技術者を京の伏見・摂津の伊丹が
引き抜いて江戸時代に発展を遂げます。酒造りに欠かせない水に恵まれた事もありますが、
できた酒を販売する交通網を持った事が大きかったように思います。
その伊丹の発展も後には灘に移る事に。猪名川水系よりも兵庫の港の方が酒の大量輸送に
向いていたからでしょうが、それに伴い当時の杜氏も多くが移った事でしょう。
正暦寺と同じ運命ですが【伊丹】分けと言った所でしょう。

ミューゼアム2階からの眺望
左手奥が岡田家、手前が石橋家。
醸造家には文化芸術に造詣が深い人も多いですが、岡田家22代当主・岡田利兵衛は
その代表格。岡田利兵衛は
『国文学者として梅花・聖心で教鞭を採る傍ら、松尾芭蕉研究でも知られ、多くの俳諧資料を蒐集。
岡田家の庭には台柿という見事な柿の樹があったが、その柿を衛るという意味を込めて
柿衛(かきもり)を号とした。
そのコレクションは「柿衛文庫」として隣接する市立伊丹ミューゼアムが所蔵している。
後に伊丹市長、名誉市民にもなった。』 とあります。

ミューゼアム横の庭園
資料館の売店で、岡田利兵衛に関する冊子を¥500で購入。
そこには家族写真もありましたが、中には三男の節人(ときんど)氏の学生時代の写真も。
節人氏は発生生物学の泰斗、京大・岡崎基礎生物学研究所を経て文化勲章受章。
私も氏の岩波新書・ブルーバックスの著作や講義でその謦咳に接しました。
生物学者でしたが源氏物語や俳句など文学に関する発言も多かったのは、
この生い立ちを思うと納得です。
尚、節人氏も晩年伊丹名誉市民になったそうで、親子二代に亘る快挙になります。

購入した岡田利兵衛(柿衛)伝の冊子 ¥500

伊丹桜ケ丘郵便局 ; 重文・旧岡田家住宅、旧西国街道道標
伊丹船原郵便局 ; 重文・旧岡田家住宅、酒造り風景
[参考書]
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<コース>
梅田 → (阪急電鉄) → 花隈 → 徒歩3分 → モダン寺

本願寺神戸別院 兵庫教区教化センター(浄土真宗本願寺派)
朝からの健康診断が終了したのが11時前。今日は一日休暇なので
そのまま帰るのが筋ですが、またぞろ良からぬ考えが頭をもたげて三ノ宮へ。
ポートピアと下山手で野暮用を済ませたあとは、北区のお不動さんにお参りする積りでしたが、
神戸電鉄箕谷駅から3㎞で気温も30度越えの予想。
健康診断に行って倒れても洒落にならんので、今日ばかりは「北区はよそう」と帰宅することに。

ポートピアでの野暮用その壱

神戸下山手郵便局 ; 神戸ポートタワー、錨山、市章山
地下鉄の駅に向かう途中に「モダン寺」の看板が。
ハイカラな神戸らしい名前ですが、実は本願寺神戸別院の別称。
本願寺神戸別院は、
『浄土真宗に帰依した篤信者により摂津国八部郡二つ茶屋村に寺舎が築かれ、
寛永16年(1639年)に第13代良如宗主より寺号を授与された善福寺が前身。
その後、現在の地に移転し、更に明治41年(1908年)8月に別格別院となり、
貴族院議員や大臣を歴任した大谷尊由師を住職に迎えた。
当時の建物は従来の木造建築であったが、大正6年(1917年)1月の火災で焼失。
昭和5年に鉄筋の大寺院として復興。我が国初のインド仏教様式デザインの建造物である。

一見、大学と見紛う様な寺院正面

門前には宗祖・親鸞聖人像が建つ
本堂の内陣は昭和5年(1930年)の本堂造営に当り、
本願寺第22代大谷光瑞門主の指導で設計されたもの。
ルンビニーのアショカ王参拝記念の碑文をデザインした御戸帳、
ブッタガヤの大塔を模した宮殿の屋根、初転法輪の地・鹿野苑の大塔の模様を配した須弥壇、
サンチー大塔内の柱を組み合わせた宮殿柱の彫刻と、釈迦の一生を象徴するものとなっている。
5つの尖塔を持ち、正面左右のブロンズ像やステンドグラスの飾り窓等、
多くの異人館が点在する港町神戸にあって一際異彩を放っており、
モダン寺の呼称で親しまれている。
太平洋戦争でも戦災を免れた当寺は昭和35年(1960年)8月から
浄土真宗本願寺派(西本願寺)本山直属となり、本願寺神戸別院と命名された。
同年10月には兵庫教区教務所が併設され、伝道拠点として大きな役割を果たした。
近年になり老朽化が進んだため、かつての面影を強く残しつつ
平成7年9月に本願寺神戸別院・兵庫教区教化センターとして竣工。
多目的に使用できる施設となった。』 とあります。

一瞬、教会を連想させる正面の壁面に嵌め込まれた仏像のレリーフ

本館の4階にある絢爛たる本堂の内陣

上部の装飾は「二十五菩薩来迎図」か?

本願寺神戸別院参拝のしおり

しおりの裏面は別院の正面写真
正面に建つと築地の本願寺を彷彿とさせますが、あちらの設計は建築家伊藤忠太。
こちらは大谷光瑞師、本願寺第22代門主と言うよりも大谷探検隊で知られた方です。
仏教の本場を見たので、こんな造りになったのか、興味は【尽きじの本願寺】でした。
境内というよりも館内は拝観自由。職員の方の案内で3階の本堂を参拝。写真撮影もOKでした。
真宗は御朱印なしが普通ですが、尋ねると
「代わりにスタンプ押印になります。」 との事。
見ると「全国別院巡拝スタンプラリー」の冊子が。
一冊コンプリートすると、記念品+精進料理の特典があるそうで、
御朱印もここまで来たかの観がありました。
早速押印しましたが、果たして全国行脚するかどうかは思案中。
尤も全国別嬪巡拝ならば話は別ですが…。

スタンプラリー冊子

押印した神戸別院のスタンプ

ツーリングの特典
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【復路】JR明石(14:51) → (新快速) → JR大阪(15:28)

法榮山 本松寺(日蓮宗)
本松寺は別名「谷の妙見」「萩の寺」と呼ばれるだけあって、石段から山門、本堂へと続く配置に趣があります。
本堂前の山桃の古木もそうですが、何といっても一番の見どころは本堂裏手にある枯池式枯山水庭園。
当所、庭園は拝観なしと思っていましたが、本堂脇の細道を行くと板塀があって庭園入口の案内が。
樹齢300年のヒラドツツジの径を過ぎると庫裏の縁側に出て、その正面に庭園があるという
書院・離れ座敷を視点にした作庭になっています。

本堂前にある山桃の古木
丸く刈り込んだのを釈迦如来の頭に譬えて「聖僧樹」と呼ぶ。

庭園には本堂前の敷石に沿って進む

扉を開けて庭園に進む

樹齢300年のヒラドツツジ
『本堂と山門の間には樹齢数百年の山桃の大木があり、丸く刈り込んで釈迦仏の頭に擬えて聖僧樹と称している。
明石藩の最後の儒者橋本海関は「一樹千林を圧す」と詠んだ。海関は日本画家橋本関雪の父である。
また庫裏の庭園は明石城築城に当り、町割に携わった剣豪宮本武蔵の作庭と伝わる。
本堂を背に書院に面した枯池式枯山水庭園である。浅い枯れ池を穿ち軽い築山を二箇所に築いて、
二つの築山にはそれぞれ大小の枯滝を大滝小滝として組み、大滝には水分け石を据えている。
池泉は瓢箪型で枯れ池、手前の出島は亀出島である。

庭園への道

庭園入口の刈込

本堂を背にした庭園

庭園左側
手前の大きな石は礼拝石。
池は浅く一段の護岸石組で自然石の石橋が架かっているが、元は櫟の橋であった。
石組は小振りであるが平面構成を重視し、視点に拠る変化を持たせている。
旧明石藩下の圓珠院・福聚院の庭園とも共通する所が多い。』 とあります。
瓢箪型の池泉は降雨の時のみ水が溜まる様になって居り、説明書を読むと成程、圓珠院の庭に類似していました。
この日見た庭園は【二点一流】。宮本武蔵の【ほんしょう】は剣豪なのか作庭家なのか意見が分かれる所でしょう。

庫裏書院前からの眺望

枯池に架かる自然石橋
元はクヌギの橋であった。

枯池の向こうにある(上から)遠山石、蓬莱石、大滝

本松寺庭園の詳細
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法榮山 本松寺(日蓮宗)
人麻呂所縁の社寺を参拝したあとは、そのまま西へ下り寺の並ぶ一角へ向かいますが、
自転車は線路まで南下して再度北上することに。時の道と呼ばれる一角に建つのが本松寺。
法榮山本松寺(ほうえんざんほんしょうじ)は、
『慶長元年(1596年)、審理院日甫上人が舟上城下に建立した日蓮宗本正寺が嚆矢。
日甫上人は俗姓を藤井新右衛門勝介と言い、信長の近習を務め山崎の合戦で討死した藤井主計頭親秀の遺児。
父親の死後、母に拠って摂津住吉付近に隠れ住んでいたが、秀吉の知る所となり召し出され出仕。
明石舟上村に知行地を与えられ代官となっていた。
上人は秀吉に当寺への寄付を願い出た所、認められ8石が断絶することなく寄せられたと言う。

境内の躑躅と山桃の大木

正面から見た本堂
大坂夏の陣の後の元和3年(1617年)、信州松本から小笠原忠政(後に忠真)が十万石で明石に国入りし
舟上城に入るが、翌年将軍の命に拠り明石城を築城する事となり舟上城は廃城となった。
ここに近世明石藩は成立、忠政の客分となった宮本武蔵が城下の町割りを行い、
明石の中心は明石川を越えて東へ移った。
これに従い、当寺は檀頭であった明石藩家老の齋藤甚左衛門利政、美濃部九郎三郎の尽力で
元禄4年(1691年)現在の地へ移転。この地は旧東長寺跡で当時は空寺となっていたものである。
当山第七世浩岸院日芳上人の時代で、日芳上人は中興の祖とされる。

本堂前面と向拝部分
その後、宝暦9年(1759年)第十一世守本院日顕上人が入山し、明和4年(1767年)頽廃した本堂を再建。
宝暦11年(1761年)には戦国武将島左近が崇拝していた妙見大菩薩尊像を末裔より寄進されたのを受け、
鎮守妙見宮を建立した。
その後、幾度かの修復を経たが昭和16年(1641年)の火災で堂宇の殆どを焼失。
戦後の昭和23年になって本堂・庫裏等を修復再建。
更に阪神淡路大震災に拠る被害から堂宇を修復し今に至っている。』 とあります。

本堂前からの眺望
この縁起を見ると開山は信長の近習の遺児で、身分を隠して隠棲していたが秀吉の命で出仕。
しかし出家した人物となります。その理由が気になりますが由緒には記載なし。
想像するに、軍令違反等を犯したため一時的に身を隠したが、年月を経て秀吉の怒りも納まったので仕える事にした、
というのがありそうな話です。
では出家の経緯は何かというと、丁度朝鮮出兵の時期に重なるので、
秀吉の野望から距離を取ろうとしたのではないかと思います。

本松寺縁起

本松寺御朱印
[参考書]
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人麿山 月照寺(曹洞宗)
神社に続いて西隣の寺院へ参拝。神門前の道を西へ進み白塀に囲まれた場所が目的の寺院。
山門は西に開いていますが、これは表参道が西側にあるため。
神社から向かう道は裏参道となりますが、観光案内所で貰った地図には「明石の風情漂道」とあり、
徒歩でしか行けない細い階段ながら成程と思いました。

神社に続く白塀
奥に見えるのが神門。

塀の途中にある門から見える本堂

門の右手に刻まれた由来略記
人麿山月照寺(ひとまろさんげっしょうじ)は、
『弘仁2年(811年)に空海が明石の丘、赤松山に湖南山餘鵜楊柳寺を創建。
仁和3年(887年)楊柳寺の覚証(かくしょう)和尚は、大和国の柿本(しほん)山広安寺より
人麻呂念持仏であった海上波切船乗十一面観世音菩薩を勧請して奥の院に奉祀、寺名を月照寺と改めた。
この像は聖徳太子の御作、持統天皇の念持仏で人麻呂が天皇から賜ったもの。
波を切る船に乗った1.7mの立像で60年に一度開扉される秘仏である。

西向きの山門
かつて伏見城の薬医門が様々な流転を経てここに。

山門由緒の駒札

山門越しに見る境内
天正2年(1574年)には真言宗から曹洞宗に改宗。
元和7年(1621年) 藩主小笠原忠真が明石築城に拠って境内が城地となり、
翌8年に人丸社、月照寺の新殿が現在地に竣工。延享元年(1744年)には山号を人麿山と改め、
明治4年(1871年)の神仏分離令により人丸社は月照寺より分離して柿本神社となった。

山門下からの境内の眺望

庫裏と書院

庫裏前からの眺め
本堂は日本標準時子午線上にある。

正面から見た本堂

本堂入口の唐破風の龍と鳳凰の彫刻

本堂から山門方面を見る
枯山水庭園が禅宗らしい。

前栽から見た本堂

伽藍と前栽の間を行く

前栽の枯山水庭園
その間、江戸時代には太平が続き歌道が栄え、人麻呂信仰が高まった。
人麻呂の1000年忌に当たるとされた享保8年(1723年)には霊元上皇に拠って
石見国と播磨国の人丸社に正一位柿本大明神の神位神号の宣下が行われ、当寺は永代勅願寺となった。
霊元上皇から三十六歌仙色紙・桜町天皇宸翰短冊50葉・後桜町天皇宸翰短冊45葉・
仁孝天皇宸翰短冊49葉が奉納され今も保存されている。
その後も文人墨客の来訪が絶えず、書画の寄進も多く文化財の宝庫となっている。

本堂に東隣する観音堂
昭和54年再建で、人麻呂念持仏・海上波切船乗観世音菩薩を安置する。

御本尊の石碑と田中千艸女(ちぐさじょ)の句碑
・影清し 月は明石の うらなれや

観音堂前の鐘楼
従来の梵鐘は昭和18年に供出し、昭和53年に再建。日本標準時子午線上にあり830貫、県下随一の大梵鐘である。

前栽の壽祥(じゅしょう)松

壽祥松の説明

八ツ房の梅
赤穂四十七士の一人、間瀬久太夫正明が大石内蔵助と当寺に参詣した際に、持参の梅を手植えした。

八ツ房の梅説明
山門は伏見城の薬医門、明石城の切手門として二役を果たし、明治初年にここに移築された。
秀吉建立の歴史を刻んだ豪壮な風格の門である。
本堂・書院・庫裏は総建坪400余。この地に移転以来、桃山建築様式の遺構を伝えていたが、
平成7年の阪神淡路大震災で全壊。3年後の平成10年に再建を果たした。
また山上にも拘らず水に恵まれ、表参道右側にある亀の水は枯れる事のない霊泉で万病に効果があるとされる。
水盤は享保4年常陸国飯塚宣政の寄進、現在でも多くの利用者がある。』 とあります。

人丸観音と水琴窟

人丸観音、または洗心長寿の観世音
北村西望の作。

観音像説明

ふれ愛観世音
仏師・西村公朝の作。

西側、表参道の鳥居

鳥居に続く階段

参道右側にある「亀の水」

「亀の水」の説明

永井荷風が亀の水を記した石碑
柿本神社とは神宮寺との関係。人丸神社と人丸寺であればすぐ分かりますが、
明治の神仏分離で分かり難くなってしまいました。
平安時代の覚証和尚が果たして人麻呂の夢を見たのか【確証】はありませんが、
由緒を見る限り所縁はこちらの寺が強そうです。
もう一つの転機は江戸時代。太平の世とは言え藩主が中世以来の名門小笠原家だった事も
人麻呂崇拝には追い風になった気がします。
小笠原流と言えば礼儀作法・馬術・弓道ですが、歌道にもあるのかは分かりませんが…。

人麿山 月照寺 栞

月照寺御朱印
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柿本神社(旧県社)
天文館の横の道路を上ると、直ぐ階段と鳥居が現れる。
天文科学館で野暮用を済ませた後は近所にある社寺へ向かいますが、神社も寺院も天文科学館に隣接。
神社のある山は人麻呂山、地名も人麿町、神社の名前も人丸神社とまさに人丸づくしですが、
初めに神社の名前ができて、それが山名・町名になったというのが正式な流れです。

一の鳥居
柿本神社(かきのもとじんじゃ)は、
『柿本人麻呂は持統・文武の両朝に仕えた宮廷歌人。後に石見国に赴任して同地で没したとされる。
持統天皇は譲位に際し人麻呂に等身大の船乗十一面観世音尊像を賜り、
後に石見に赴任するに先立ち邸を柿本山広安寺と改め、本尊にこの観音像を安置した。
仁和3年(887年)、明石の丘にある楊柳寺の僧侶であった覚証(かくしょう)が、夢のお告げに拠って
大和国の柿本(しほん)寺より人麻呂の念持仏であった船乗十一面観音を勧請、寺名を月照寺と改めた。
この時、寺の裏にある古い塚が柿本人麻呂の墓と感得、歌聖柿本人麻呂を祀る祠を建て
寺の鎮守としたのが嚆矢である。

階段を上った先に建つ神門

神門に掲げられた「人丸山」の扁額
寺でもないのに山号とは神仏習合の名残りか?
明石と柿本人麻呂の関りについては、明石を詠んだ歌が萬葉集に複数ある事、
文明8年(1476年)の柿本寺の勧進帳に明石浦に人麻呂の墓所が在るとの記載があり
世間では知られた存在であったと思われる。
天正9年(1581年)には秀吉が別所攻めに当り住僧安室に戦勝祈願を依頼、
戦の後に明石で新たに開墾した田地30石を当社に寄進したと言う。
江戸時代になっても徳川家康は更に10石の加増を行っている。
元和6年(1619年)に藩主小笠原忠真が明石の丘に明石城を築城するに際し、
月照寺と共に当社も現在地へ移転、社領40石が寄進された。
以降、新たに鎮座した場所を人丸山と呼ぶようになり今に至る。

正面から見た拝殿

拝殿に掲げられた扁額

拝殿の更に内側にはこのような扁額も
人麻呂の1000年忌に当たるとされた享保8年(1723年)には霊元上皇に拠って
石見国と播磨国の人丸社に正一位柿本大明神の神位神号の宣下が行われ、
毎年3月18日の命日には例祭が挙行される事となった。
その後も、東山・後西・桜町・桃園・後桜町の歴代天皇上皇の勅願所となり、
霊元上皇の三十六歌仙色紙・桜町天皇宸翰短冊50葉・後桜町天皇宸翰短冊45葉・
仁孝天皇宸翰短冊49葉が奉納、加えて御供物・白銀等の奉納があった。

拝殿の屋根瓦に見える神紋

拝殿前に植えられえている盲杖桜(四代目)

盲杖桜の説明

神社由緒記

玉垣内にある御神木の筆柿(五代目)
一筆書きちゅうのはないのかしらん?

八房梅(二代目)
元禄年間に赤穂浪士間瀬久太夫主人の仇討を祈願して植えられた。

八房梅の説明
明治4年(1871年)の神仏分離令に当り、月照寺境内にあった人丸社は
柿本神社として分離され現在に至っている。歌聖としての和歌や文学は言うに及ばず、
ひとまろ → ひとうまろ で安産良縁の守護神
ひとまろ → 火止まろ で除火災祈願の守護神
として多くの信者の崇敬を集めている。
境内には人麻呂に因んだ多くの句碑・歌碑・碑文がある。
中でも亀の碑と俗称される播州明石浦柿本太夫祠堂碑は、
寛文4年(1664年)藩主松平信之が建立、文章は大学頭林春斎が作成した。
一息で読めば亀が動くと言う。
俳人松尾芭蕉も元禄元年(1688年)当社に参拝し、明石夜泊7句を作った。山門前には
・たこつぼや はかなき夢を 夏の月 の句碑が建つ。』 とあります。

一際、存在感のある亀の碑

碑は漢文で千数百字が刻まれている

境内参道西の御歌碑
(左) あまざかる ひなのながちゆ 恋ひくれば 明石の門より やまとしまみゆ 尾上柴舟筆
(右)大君は 神にしませば あまくもの 雷の上に いほりせるかも 金子薫園筆

山門前の芭蕉の句碑

蛸壺塚
人麻呂は九州・四国への旅の途中、明石海峡を往復して、瀬戸内海の美しさに惹かれ、
羇旅の歌8首を残しています。
唯、歌を詠んだからと言ってそこに墓があるとは限りませんが、
地元の伝説とうまく結びつけて社寺を建立したというのが真相ではないでしょうか?
明石の人の人麻呂に対する思い入れは強いようで、山陽電鉄には人麿前駅がありますし、JR朝霧駅は
・ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ
という三十六歌仙絵巻にある有名な歌に由来しています。萬葉のますらおぶりとは少し異なる詠と思っていましたが、
宮司さんの話では人麻呂の詠ではなさそう。
噓から出た実とも言えますが、それで人麻呂の価値が下がるものではありませんが。

山門前からの見た明石海峡大橋

人丸山柿本神社御由緒記

柿本神社御朱印 (平成5年拝受)

山陽電鉄・人丸前駅スタンプ
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【往路】阪神梅田(7:27) → (直通特急) → 明石(8:32→8:33) → 魚住(8:47)
魚住 → 徒歩10分 → 薬師院 → 徒歩8分 → 住吉神社 → 徒歩5分 → 魚住(10:50) → 明石(11:04) → 駅リン君 → レンタサイクル5分 → 無量光寺 → 善楽寺 → レンタサイクル5分 → 魚の棚 → レンタサイクル5分 → 天文科学館 → 柿本神社 → 月照寺 → レンタサイクル5分 → 本松寺 → レンタサイクル5分 → 明石
【復路】JR明石(14:51) → (新快速) → JR大阪(15:28)

明石市立 天文科学館
寺町で光源氏の須磨での生活を偲んだ後は、お昼時なので駅前の「魚の棚」へ。
観光地として有名になりましたが、元々は地元の人達が海産物を買い物する市場。
造りも庶民的ならば値段も庶民的。観光地化すると味が下がり値段が上がると言うのが常ですが、
ここはそのような事とは無縁でした。魚介類が豊富ですが、皆食事しているのは明石焼き。
明石名産の蛸が入ったたこ焼様のものですが、タコ飯付きセットで¥935円はリーズナブル。
やはり瀬戸内はセットに限ります。

駅から南に百m程行った場所にある「魚の棚」入口
‘うおのたな’ではなく、‘うおんたな’と謂うのが正しいそうな。

いつも人通りが絶えない魚の棚

商店街にはこんな顔ハメも
多幸を狙ったようで、他意はない様子。

お昼はここ「よし川」さんにて

明石焼き+タコ飯 セット
台が傾いているのがミソ。
グルメにはこの明石焼き以外にも明石鯛・明石だこ、文学では源氏物語、建造物では明石海峡大橋と、
明石の名を冠したものは多々ありますが、何と言っても明石と言えば子午線の通る町。
日本の標準時として教科書にも載ります。
駅のスタンプの図案、風景印も子午線を題材にしています。郵便局に至っては局名も明石子午線郵便局。
いくらなんでもやり過ぎの感がありますが、地図を見ると局の位置はものの見事に135度の子午線上にありました。

JR明石駅スタンプ
(上)国鉄時代の「わたしの旅」印の踏襲型 (下)2006年設置のJR西日本神戸支社印

明石子午線郵便局風景印

明石市マンホール蓋
風景印と瓜二つ、というよりも全く同じやないですか!

明石市マンホールカード 配布場所は天文科学館
『1884年の国際子午線会議で、イギリスのグリニッジ天文台を世界基準の0度とした。
そこから東側を東経、西側を西経とし経度15度毎に1時間の時差が生じる。
日本もそれに従い、明治21年(1888年)に統計135度の明石を我が国の標準時とした。
グリニッジよりも9時間早い。』 とあります。
小学校の社会科で習った時は、首都でも政令指定都市でもない場所を標準時の町にした
理由が分かりませんでしたが、世界標準から見て丁度9時間の差があるというのが採用された【経緯】。
明治の文明開化から時が経っていないとはいえ、【自国】の都合よりも世界標準の時刻に
合わせる事を優先した先見の明に敬意を表します。

明石市立 天文科学館

北側にある子午線表示柱

科学館入口にある漏刻?

子午線の説明

水平日時計
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法寫山 善楽寺 圓珠院(天台宗)
山門というより普通の門と言った雰囲気。正面は庫裏と言うよりも自宅兼寺務所。
戒光院参拝の後は、直ぐ横にある圓珠院へ。
道路に面して入口があるのも同じですが、境内はずっと狭くなり南向きの本堂と普通の家風の寺務所がある位。
しかし当院の見所は建物や仏像ではなく、門を入ってすぐにある庭園。
法寫山善楽寺圓珠院(ほうしゃざんぜんらくじえんじゅいん)は、
『天文年間(1532~1555年)に善楽寺の律院として定仁師が開基した天台宗寺院。
本堂前方に位置するのが枯池枯山水庭園。全体的に小規模ではあるが、
石組みを中心として立面構成を重視し、視点に拠る庭景の変化と遠近感を取入れ、
水墨画を思わせるような造りとなっている。

塀越しに見える本堂
但し、参拝は外陣から。

南に向いた本堂

本堂の「圓珠院」の扁額
書は三千院門主に拠るとある。
この庭は宮本武蔵に拠る作庭との伝承がある。
武蔵は元和4年(1618年)明石藩主小笠原忠真の客分として明石に迎えられ、
翌年明石城の築城が始まると、明石城下の町割りを担当すると共に、作庭にもその際を発揮し、
明石城の樹木屋敷やこの圓珠院の作庭に当たったと伝えられる。
旧明石藩下にある本松寺、福聚院は本庭と池泉の形、大小の滝から成る等共通する部分が多く、
同じ作者の可能性が高い。武蔵の技術を今に伝える貴重な一庭である。』 とあります。

西側からの庭園の眺め

入口にある枯池式枯山水庭園の説明

庭園全景
塀の向こうに見えるのが善楽寺山門

枯池に架かる自然石橋
前述したように本堂は立派ですが境内はこぢんまりとして居り、庭園がなければ古刹とは思えない雰囲気です。
当寺は密教系ですが庭園は禅宗風、このような造りを取入れた所にも懐の深さを感じます。
水墨画を思わせるとありますが武蔵は絵画も残しており、一瞬を捉える眼は確かなものがあったのでしょう。
剣術の二刀流で知られる武蔵ですが、剣術に加え芸術でも二刀流であった模様。
諺に‘二兎追うものは一兎も得ず’とありますが、【殊技】にかけては二刀を極めた天才として
現代の大谷翔平選手の大先達と言えましょうか。

池の中央が岩島、その奥に水分石(鯉魚石)、大滝と続く

大滝とその下にある水分石(縦)

北からの庭園遠景

圓珠院説明書
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法寫山 善楽寺 戒光院(天台宗)
無量光寺参拝後は駅前に戻りますが、寺町の入口付近に大きな寺院が。
当初の予定にはなく、ガイドブック掲載もありませんでしたが、明石最古の寺との記載が。
これは是非とも巡礼せねばと急遽立寄り。
法寫山善楽寺(ほうしゃざんぜんらくじ)は、
『孝徳天皇の大化元年(645)、天竺の高僧・法道仙人に拠って開創された天台宗寺院で明石最古の寺院である。

山門前に建つ善楽寺縁起の石碑

境内から見た山門
平清盛所縁の寺院であり、源氏物語の舞台にもなる程、知られた寺院であった。
平安中期の天貴元年(1053年)10月26日には当寺の住職であった源泉法師が第31代天台座主になる等、
有力な寺院であった。しかし元永2年(1119年)には火災で堂宇を焼失。
それから30年余り後の保元元年(1156年)、播磨守に任じられた平清盛は全ての堂塔伽藍を再興。
念持仏であった木造地蔵尊と寺領500石を寄進した。
当時この付近は当津と呼ばれる庄村で海路の要衝であり、清盛はこの地を重視したからとされる。

塔頭と呼ぶには広大な戒光院境内

幾度も戦禍に遭い、都度復興した本堂
現在のものは昭和63年に4度目の再建。

本堂近影

本堂二階に掲げられた「戒光院」の扁額
以来、この付近の中心寺院として栄え、平安末には17院を有し、寺域も樽屋町から材木町に及ぶ
1平方キロという広大なものであった。
その頃の当寺には清盛の弟である教盛の子・忠快法印が居り、養和元年(1181年)には亡くなった清盛の
供養のために巨大な供養塔を建立した。これは今も境内に残る。
戦国時代の天文8年(1539年)には、戦乱の中で本堂等を焼失。文禄2年(1593年)に再建された。

魚藍観世音菩薩
魚供養なので足元の魚だけに水を駈ける慣わし。

六地蔵尊
江戸時代になると明石藩主から黒印を与えられ、数々の寄進を受ける。
五代藩主松平忠国は源氏物語の世界をここに見出し、明石入道の碑を建立。
同時に境内の美しい松にも「光源氏明石浦之浜之松」の名が付けられた。
淡路島を前に見る美しい寺には全国から文人墨客が訪れ多くの書画を残したと言う。
昭和20年(1945年)7月7日の空襲で本堂を初め仏像、寺宝等は三度焼失。
漸く昭和53年(1978年)12月になって昭和の再建が始まり、先ず十王門が復活。
同63年3月30日に四度目の復興を成し遂げた。』 とあります。

前栽越しに見た本堂東側面

本堂二階からの東側眺望

本堂二階からの西側眺望
源氏の松、五輪塔、石碑が並ぶ。

光源氏古跡明石之浦之濱之松

明石入道之碑

碑の脇にある歌碑

平清盛五輪塔

五輪塔由緒

五輪塔近影
南北に走る道路に面して大きな山門が建ちますが、寺標には善楽寺の下に戒光院と圓珠院が併記。
残った二塔頭で寺を管理しているのでしょう。
しかし圧倒的に境内が広いのは戒光院。広いだけでなく本堂も二階建てで、
清盛の供養塔を初め、入道の碑や浜の松も全てこの境内にありました。
最古の寺院の証ではないですが、善楽寺の多くを引き継いだのはこちらの寺院と言えそうです。

本堂東側の前栽・阿弥陀来迎之庭

庭の菖蒲と池

菖蒲(あやめ)近影

本堂二階より見た前栽
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月甫山 無量光寺(浄土宗 明石西国第二番札所)
昭和20年の神戸大空襲を唯一免れた山門。
紫式部が書いた『源氏物語』、その中でも「須磨・明石の段」と言えば光源氏が流謫された事で、
哀愁を感じる人も多いでしょう。
そんな「明石の巻」に登場する社寺や史跡が今も市内に残っています。
明石駅からの巡礼は先ず中世文学の場所からスタート。
駅から西国街道を明石川方面へ向かいますが駅リン君で5分足らず、徒歩でも20分程度の距離。
樽屋町交差点を過ぎると、駅前の喧噪もなくなり南側には寺院群が並びます。
地元では明石の寺町と呼ばれる場所。
明石は城下町なので、藩が城下町整備の際に集中させたと考えるのが妥当でしょう。
広い塀で囲まれた寺院の間の細道を西に進み、突き当りに山門が見えたのが目指す寺。

寺院の間を東西に走る細道
突き当りが無量光寺。

山門の透かし彫り
これも左甚五郎?

山門扉の彫刻

山門下から境内を見る
月甫山無量光寺(がっぽさんむりょうくこうじ)は、
『阿弥陀如来を本尊とする浄土宗寺院で明石西国巡礼第二番札所でもある。
戦国時代には衰退していたものを慶長18年(1613年)に中興したと伝わる。
しかし昭和20年(1945年)7月6日の神戸大空襲で全焼。
その中で左甚五郎作とされる欅造りの山門のみ焼失を免れた。
境内の本堂と源氏稲荷は戦後の再建である。

境内の両側には蘇鉄を初め樹木が茂る

木々の向こうに見える本堂は戦後の再建
屋根の造りは東大寺に似ているような…。

本堂近影
当寺は「明石の巻」に登場する光源氏の屋敷であった「浜の館」のモデルであったと言う伝承があり、
門前にある細い道は「蔦の細道」と呼ばれ、光源氏が明石の君の住む岡部の館へと通った道のモデルとされる。』
とあります。
山門前に建つと正面に本堂が建ちます。参道両側には木々が植えられ広い印象はありませんが、
唯一空襲を免れた山門が境内全体を引き締めている印象を持ちました。
唯、境内の奥は広い墓地になっており、かつては種々の堂宇が立ち並んでいたと想像します。

本堂の「無量光寺」の扁額

本堂前面の様子
正面奥が墓地。

本堂内陣

本堂から山門方面を見る

境内には窯もある
お寺の人が焼いているのか?

無量光寺御朱印
遥か昔、平成5年拝受。恐らく観光ガイドに載っていた寺院なので貰った記憶が。
須磨での光源氏は悲劇的に描かれる事がありますが、【無量をかこつ】ことなく、
醜い都の争いから離れて鼻の下、もとい羽を伸ばしていたのが真相ではないでしょうか?
蔦の細道は現在、蔦もなく境内と墓地の間に挟まれ、どうと言う事はありませんが、
想像力豊かな人にはロマンス溢れるスポットに見えるのでしょう。
感【無量】と思う歴史巡礼にはまだまだ時間がかかりそうです。

山門脇にある「蔦の細道」

源氏物語の里の説明

寺院の塀に沿って細道は続く

細道の入口に祀られているお地蔵様
光源氏も祈願したかも。
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住吉神社(旧県社)
住吉神社境内奥には藤棚があり、当社は市内でも藤の名所として知られます。
御由緒にもあるように、
『住吉大明神は 「吾が居住はむと欲りする処は、播磨の国に渡り住はむ。」 とのお告げを出した。
そこで大きな藤を切って海に浮かべ神意を伺うと
「この藤の枝の流れ着く処に、我を鎮祀れ」 との御託宣があった。
藤は当地方の魚吹浜に流れ着いた。これは『住吉大社神代記』にある話であるが、この場所が今の藤江であると言う。
住吉大神は御祓の御神徳を有する神であり、藤は住吉大社の御神木とされる。
境内の藤は明治中期に宮総代である中尾村の西海音助が名木を探して献樹したものである。』 とあります。

神木祓除の藤の由来記

藤棚の下にて
中央の太い幹は藤ではなく、別の御神木。

北門付近にあるのが藤の木の根元

藤棚南側からの眺望

藤の近影
頂いた由緒記には当社は藤及び紫陽花が有名とあって、早めですが今の時期は藤。
由緒記に大藤を切って海に流したので、その由縁で植えられているのでしょう。
藤棚のあるのは本殿裏手。駅から南へ向かうと最初にくぐる北門を越えた場所になります。
見ると植えられているのは野田藤。
野田とは大阪の福島区の地名で、藤は区の花。かつて訪れた浦江聖天さんで聞いた話では、
「付近は淀川と古大和川が入組んだ場所で長年に亘って土砂が堆積し、
そこに流れ着いた藤が永い年月を経て繁茂。野田藤として知られるようになった。」
とあります。

こちらは拝殿脇の野田藤

藤の花近影
マメ科だけに、豌豆の花に似ている。

境内の藤を詠んだ歌碑

本殿と藤の鉢植え

拝殿脇には白牡丹も

花越しに見る本殿
マメ科の藤は枝を切っても別の場所から芽が出るほど生命力が強いので、
野田・魚住の由緒にあるように藤が流れ着いたというのは実際にあった話なのでしょう。
藤は「不死」にも通ずるので神社の由来としてはもってこいと言えそうです。

藤棚に続く境内の庭園

神社北門から藤棚を見る

西側の階段に建つ鳥居

西側にある紫陽花神苑
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住吉神社(旧県社)
この日のメイン訪問先が空振りに終わったので、次の目的地の明石駅へ戻る訳ですが、
駅前の県道沿いに「魚住庄総鎮守社 住吉神社 南へ300m」と看板があった事を思い出し、
予定を変更して急遽お参り。
ここに来るまでは全く気付きませんでしたが、手持ちのガイド「兵庫県歴史散歩 下」に中尾住吉神社と
1頁に亘り記載されているのがそれ。地名を冠して呼ばれることもある様です。

山陽電鉄魚住駅スタンプ
有人駅時代のもので、薬師院の牡丹と、住吉神社の鳥居と常夜燈がデザイン。

魚住駅前の案内板
ガイドでは駅から道路を渡り、中尾の村中を抜けて海岸まで出て楼門をくぐるとあります。
駅前へ戻っても良いですが、時間に余裕があったので海沿いを東行。
海岸に出ると西には高砂の工業地帯、東は明石港が遠望でき、
名勝・錦が浦の名に恥じませんが、ここ魚住も立派な港。
魚住の泊は古代から知られた港で、行基の築港と伝わっています。
平安時代の三善清行の『意見封事』に記述があり、重源の改修計画があったとも。
これが今の江井島港だそうです。
魚住の港付近に行くと、常夜灯と鳥居がお出迎え。大阪の住吉さんもそうですが、
ここも海から境内に向かうのが正式な参拝の様でした。

瀬戸川に架かる住吉小橋から
川の向こうは茨木酒造。

西の高砂工業地帯

名勝 錦が浦

魚住漁港

漁港に面した神社入口に建つ常夜燈

海に向かって建つ一の鳥居
住吉神社は、
『神功皇后が三韓親征の折、播磨灘で暴風雨に遭遇。
当地に上陸御滞泊された皇后は住吉大神に平癒を祈願された所、波風忽ち収まり、恙なく行軍された。
その時に皇后の着衣を松の枝に掛けて干された所、風に靡いて錦の様に見えたので、
当地を「錦ヶ浦」と名付けたとされる。
神功皇后に拠って摂津国住吉に御鎮祭された住吉大明神は
「吾が居住はむと欲りする処は、播磨の国に渡り住はむ。」 とのお告げを出した。
そこで大きな藤を切って海に浮かべ神意を伺うと
「この藤の枝の流れ着く処に、我を鎮祀れ」 との御託宣があった。
藤は当地方の魚吹浜に流れ着いた。
これは『住吉大社神代記』にある話であるが、この場所が今の藤江であると言う。
この御神慮に拠って雄略天皇の8年(464年)4月初卯日に此の地に勧請してお祀りしたのが当社である。
正応5年(1292年)に現在の地に遷座した。

参道脇の松林

山門近影

山門の向こうに見える一の鳥居

山門に続く楼門は明石市指定文化財

楼門の説明駒札
当社は山門・楼門・能舞台・拝殿・本殿が一直線に並ぶ東播磨地方の典型的な様式を供えている。
また能舞台は市内に残る唯一の能舞台で初代明石藩主小笠原忠政が寛永年間に建立した事が棟札から判明している。
境内は播磨灘を見晴るかす景勝の地屛風ヶ浦西端の丘陵地で、広さ三万三千㎡。
社頭の松林から播磨灘・小豆島・淡路島を眺める事ができる。

楼門に続く能舞台
奥に見えるのが拝殿。

能舞台の説明駒札

舞台近影

舞台天井

参集殿から能舞台に続く渡廊下

参集殿、能舞台近影
神亀3年(726年)、聖武天皇が当地に行幸され邑美(おおみ)の頓宮に七日間滞在。その時の随員歌人・笠金村朝臣が
・往きめぐり 見とも飽かめや 名寸隈の 船瀬の浜に しきる白波
とその景観を讃えた。
以後、魚住庄の総鎮守社として住民に崇敬されてきた由緒ある古社である。
境内には南北朝動乱期の文和4年(1355年)の銘を持つ石造灯籠があり、
拝殿には円山応挙や石田遊汀等の筆になる絵馬が奉納。
また航海の安全を守るために奉納された19世紀の和舟の模型も展示されている。』 とあります。

正面から見た拝殿

住吉神社拝殿近影

住吉神社御由緒

拝殿入口

拝殿東側面
干支の寅絵馬、藤の鉢植え。

拝殿内に掲げられた円山応挙筆の「神馬」奉納絵馬の写し

同じく石田遊汀筆の「加茂競馬の図」奉納絵馬

奉納された江戸文化文政期の大和型船模型

絵馬と和船の説明
予定外に参拝した社は予想以上の広さと規模を持った社。この地域の総鎮守というのも頷けます。
雄略天皇は‘倭の五王’の‘武’に比定される人物なので、由緒記の真偽はさておき、
相当な歴史を持った古社であるのは確かなようです。
初めて住吉大神が祀られた場所なので「住吉大社発祥の地」とされますが、
住吉大明神が「播磨に移りたい」と言う筈もなく、難波の港で力を蓄えた住吉大明神が、
その勢力を播磨まで伸ばしたという事実が脚色されたものでしょう。
住吉大明神が「住み良し場所へ」と言ったのは洒落っ気でしょうが、魚住という名前は
住吉さんが祀られた漁港に由来するとは言えそうです。

拝殿奥の本殿
第一から第四まであり、御祭神は住吉神社の三神と神功皇后の四柱。

後方より見た本殿

本殿東側に建つ社務所
御朱印はこちらで拝受。

住吉神社 御由緒

住吉神社御朱印
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】阪神梅田(7:27) → (直通特急) → 明石(8:32→8:33) → 魚住(8:47)
魚住 → 徒歩10分 → 薬師院 → 徒歩8分 → 住吉神社 → 徒歩5分 → 魚住(10:50)

清冷山 閼伽寺 薬師院(高野山真言宗 播磨八薬師第一番霊場)
御本尊の御薬師様と境内社に参拝した後は、もう一つのメインの牡丹へ。
『明治10年(1877年)には住職が薬用にするために牡丹を植樹。
昭和30年(1955年)には牡丹園及び前庭が拡張整備された。
平安時代以来の臥龍松は昭和20年(1945年)に枯死したが、
現在は2千㎡の庭園に50種、2000株の牡丹が咲くボタン寺として知られる。』
とあります。

境内の前庭の牡丹

白牡丹

ピンクの牡丹

牡丹とは違う花も彩を添える
芍薬では聞いたことがありますが、牡丹も薬用にするとは寡聞にして知らず。
外見も似ているので、根に同じような効用があるのでしょう。
薬用にするのであれば、もっと古い時代から植えられていても良さそうですが、
本格的に植えられたのは明治になってからというのも驚きでした。

前庭全景

境内の北西にある納経所が庭園への入口

納経所脇に建つ不動堂
境内を一巡して牡丹園拝観に向かいましたが、何と入口には開園中止の貼り紙が。
お寺の方が、境内を掃除されていたので尋ねると、
夫人;「コロナが未だ収まらないので、3年続きで中止です。」
和辻;「開花状況はどうでしょう?」
夫人;「丁度、今が見頃です。残念ですが…。」
との事。播磨まで足を運んだものの閉園と聞きがっくり。
境内に植えられた少しの牡丹と塀越しに僅かに見える牡丹園でお茶を濁すしかありませんでした。
お薬師様も外来のウイルスには効き目が薄いのでしょうか?
事前にパソコンで調べた積りでしたが、チェック漏れがあったのでしょう。
とんだ【ボタンのかけ違い】で、来年以降の再訪になりました。

無念の貼り紙

塀越しに見る牡丹園

山門の西側にある牡丹園への門

牡丹園への門から見た牡丹園

牡丹園の西側

牡丹園の東側

山門前の池の睡蓮
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【往路】阪神梅田(7:27) → (直通特急) → 明石(8:32→8:33) → 魚住(8:47)
魚住 → 徒歩10分 → 薬師院 → 徒歩8分 → 住吉神社 → 徒歩5分 → 魚住(10:50)

清冷山 閼伽寺 薬師院(高野山真言宗 播磨八薬師第一番霊場)
春の青春18きっぷと共に桜も終了。次に開花するのは牡丹か藤ですが、今年は牡丹に的を絞って訪問する事に。
関西には牡丹で知られた場所は何ヵ所かありますが、自宅からの交通費が片道2千円を越えない場所となると
明石、五条、長岡京くらいのもの。
開花状況はその年の気温に左右されますが、先ずは気温が高いだろうと思われる山陽路の魚住へ。
牡丹の寺・薬師院として歴代の駅スタンプにも描かれている花の寺ですが、付近一帯は住宅地なので
観光地が少ない事もあるのでしょう。
今回は阪神梅田駅から快速特急を利用。JRに比べて時間は掛かり、明石で普通に乗換えなければなりませんが、
寺へはJRより近く乗換時間も1分なので、時間のロスは殆どなしでした。
駅から県道718号に沿って西へ向かい、瀬戸川付近にある案内板に従って少し南へ行くと、
酒造メーカーや地元の工場先にお目当ての寺院が。

JR魚住駅スタンプ
(上)1990年代の神戸支社印 (下)2006年設置の神戸支社印

県道、瀬戸川付近にある案内板

このような細い道を西へ
清冷山閼伽寺薬師院(せいれいざんあかでらやくしいん)は、
『寺伝に拠れば天平2年(730年)、行基が開基。
この地を訪れた行基が錫杖を地面に突き立てると霊水が湧き出し、そこから薬師如来が出現。
そこでその像を祀るために薬師院を創建し、祀ったのが嚆矢とされる。

山門前に到着

門前の池と睡蓮
亀に餌をやらないで!とあるが、飼っていたミドリガメをここに捨てる人も多いのでは?

山門近影

山門の奥に見える本堂
延喜年間には仁和法親王、阿頂僧正がここに止宿。七堂伽藍を整備し、坊舎は二十余りを数えた。
天喜5年(1057年)には臥龍松が植えられ、養和8年(1181年)には天王神社が勧請されるなど隆盛を迎えた。
しかし応仁2年(1468年)に兵火に罹り、堂宇は炎上。
その時に焼けた経類を埋めたのが現在境内に残る経塚とされる。
その後、再建されるが天正7年(1579年)の三木合戦で再び堂宇は炎上。
唯、その際に本尊は天王林に飛び難を逃れたとされる。

山門を潜った先に見える境内

正面から見た本堂

本堂前にも少しの牡丹が…

本堂由緒

本堂に掲げられた「清冷山」の扁額

本堂向拝の欄間彫刻

向拝下部分
江戸時代の元和5年(1619年)に朱印寺となり、明暦3年(1657年)には中興開山の舜恵及び
舜雄法印に拠り再建が始まり、明暦5年に舜雄法印が現在の本堂を建立。
延宝4年(1676年)には舜算法印が本堂屋根を瓦葺とし、鐘楼堂も建立。
元禄8年(1695年)には門前の蓮池に石橋が架けられ今に至る寺容が整えられた。』
とあります。

四国八十八ヵ所御砂踏霊場

鐘楼と石地蔵群

経塚と五輪塔

経塚の説明

臥龍の松

臥龍の松の根元部分

境内にある「閼伽井の庭」

閼伽井の庭
中央奥の井戸が閼伽井か?

御手水も龍吐ではなく牡丹
行基の開創は伝説的ですが、観音信仰・浄土信仰に比べると薬師如来は古い寺院に多いので、
播磨の古刹であることは確実。
山号寺号の清冷・閼伽は霊水に由来する名前で、衛生状態も良くない時代にあって人々に清冽な水を供給した
と考えるのが普通でしょう。信心深い人が聞くと【冷水を浴びせられた】様に思うかもしれませんが…。

本堂から石段を上り天皇神社へ

天王神社の鳥居

天皇神社御由緒

天皇神社拝殿

天王神社から当寺境内を望む

薬師院説明書

薬師院御朱印
[参考書]
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<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:31) → JR岡山(9:08→9:11) → JR倉敷(9:28→9:52) → JR相生(11:18→11:21) → JR網干(11:30)
駅前レンタサイクル → 50分 → 室津入口 → 室津漁港 → 浄運寺 → 賀茂神社 → 見性寺 → レンタサイクル15分 → 道の駅みつ → レンタサイクル10分 → 綾部山梅林 → レンタサイクル30分 → JR網干駅前
【復路】JR網干(16:58) → JR姫路(17:08→17:11) → (新快速) → JR大阪(18:13)

ひと目二万本 海の見える梅林
室津を一巡した後は、この日のもう一つのメインである綾部山梅林まで。
室津からJR網干に戻る途中にありますが、お昼を食べそびれたので、どこかで腹ごしらえする必要が…。
国道250号線はそれなりの交通量がありますが、皆のお目当ては途中にある水産物販売所の様子。
時期的にはいかなごですが、近年の不漁で牡蠣が主流になっており、播磨灘には牡蠣筏が多く浮かんでいます。
イートインも可能ですが牡蠣を大量に買い込む人が大部分。殻付き牡蠣は重いので自家用車が必須。
路線バスが極端に少ないのも、バスで買いに行く人など皆無だからでしょう。
大阪市内に比べるとどこも随分安価ですが、混雑していたので、岩見港手前の道の駅みつに立寄り。
レストランがあり丼物はテイクアウト・イートイン何れも可だったので、穴子丼¥1200+柚子シャーベット¥300をイートイン。
密を避けた積りでしたが、15時前とはいえ結構な混雑ぶり。やはり駅の名が「みつ」だったからでしょうか?

道の駅「みつ」スタンプ

穴子丼 ¥1200

ゆずシャーベット ¥300
その後は、快調に走って綾部山へ。
『綾部山は瀬戸内海に面した標高144mの山で、山頂部からは播磨灘が望める。
山には5~6世紀の16基の古墳が点在し古代より栄えた場所であった。
御津町の梅林は菅原道真まで遡るとされるが、本格的に整備されたのは戦後。
昭和43年(1967年)に土地改良付帯事業として国有林24ヘクタールを開墾し梅を植樹。
昭和49年(1974年)より観梅事業を始めた。

綾部山麓の菜の花畑

菜の花畑の後方に綾部山が見える

菜の花近影

梅林入口

入口に建つ造成記念碑

記念碑周りの海

入園券
現在は農事組合法人黒崎梅園組合が16軒の農家が栽培する梅林を管理。
「ひと目二万本、海の見える梅林」として知られ、梅の産地は日本国内に数々あれど、
海の見える梅林はここだけである。
現在は、西側に「世界の梅公園」、麓には休耕田を利用した菜の花畑が広がり、
春には多くの観光客が訪れる。』 とあります。

売店
「梅かしわ餅」と言うのはどんなもの?

山の中腹から播磨平野を見下ろす

紅梅と白梅

白梅の向こうの播磨平野

播磨平野
令和4年の観梅期は、2月11日~3月21日まで。建国記念日から春分の日までの間になります。
国道250号線から南へ1㎞足らず行くと空地を利用した駐車場が。
自動車は¥500ですが、自転車は無料でした。
入口を進み受付で¥500を払って入山。リーズナブルな価格ですが、
梅ジュースの引換券付きという心遣いが嬉しかったです。
山を登ると梅林越しに姫路の町と播磨灘を望むことができ、1本毎に鑑賞するのではなく、山全体を観梅する趣向でした。

白梅

紅梅

蝋梅
梅の多くは白梅。ジュースの引き換えの売店の女性に尋ねると
和辻;「ここの梅は南高梅ですか?」
女性;「いえ、玉英(ぎょくえい)という品種が主です。」
和辻;「やはり梅干しですか?」
女性;「梅干しもありますが、メインは梅ジュースやジャムですね。」
和辻;「紅梅は、やはり交配用ですか?」
女性;「そうです。良くご存じで…。」
実がなるという子孫を残す行為は、様々な遺伝子が混ざった方が効果的なのは遺伝学の基礎。
以前に和泉の金熊寺梅林で伺ったのと同じでした。決して勾配の急な場所に植えた訳ではないようです。

梅林に置かれた蜜蜂の巣箱
受粉に活躍してくれる。

斜面の梅林

引換券で「梅ジュース」を入手

こちらは自宅への土産
梅はそのまま食べずに全て加工するので産地によって利用法が異なるのは当然でしょう。
梅と聞くと全て南高梅と短絡する己の浅薄さに反省です。土産には梅干しが好まれますが、
今回は梅ジュースの方が重宝。観梅途上での乾杯となりました。
唯、梅は未だ五分咲きで残り1週間で満開となるのかは神のみぞ知り給う【秘御津】でしょう。

綾部マンホール蓋

島津久子氏の歌碑
佐土原島津家の方で、日本保護司協会会長も務めた。
[参考書]
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駅前レンタサイクル → 50分 → 室津入口 → 室津漁港 → 浄運寺 → 賀茂神社 → 見性寺

仏通山 見性寺(臨済宗相国寺派)
賀茂神社から港へ戻る途中、民俗館に隣接するように建つのが見性寺。
仏通山見性寺(ぶっつうざんけんしょうじ)は、
『平安時代初期、室津の長者の娘に花漆(はなうるし)と言う美女が居り、教養に加え諸芸にも達し
「室の君」と呼ばれ崇められていた。
この家の客である上流貴人をもてなしたのが室の君で、これが本朝の遊女の発祥とされる。
室の君花漆は唐船の貴人からの贈り物を朝廷に献上し、多くの金子を賜った。
その金で五ヵ精舎を建立し、その内現存する唯一の寺が見性寺である。
古くは正法寺と称する天台宗寺院であったが衰退、弘安6年(1283年)に玄海和尚が再興。
その後、在中和尚の時代に臨済宗に改宗し寺号も見性寺と改称。今は臨済宗相国寺派に属している。
古来より文人墨客が室津に寄港した際には必ず訪れたと言われる。

街道に面して建つ山号石碑

本堂への参道

本堂近影
不在のため外陣より参拝。
当寺には藤原期の作とされる毘沙門天立像があり国の重要文化財。
像高182㎝、楠の一木造で守護神としての猛々しさはなく、穏やかで静的印象を受ける作。
また通常と異なり宝塔を持たない事でも知られる。
参道入口には石仏群があり、北前船で財を成した豪商嶋屋の三木半四郎が奉納したものである。』
とあります。

毘沙門堂
こちらも閉館中。

重文・毘沙門天像

参道の石仏群

石仏群は豪商嶋屋が奉納

石仏近影
室津では真っ先に名前が挙げられる古刹ですが、堂宇は最近の再建なので古刹の雰囲気は希薄でした。
生憎、お寺の方が不在のため、御朱印・由緒等を聞けず仕舞い。
寺の発祥については多分に伝説的。室の君が建立した以外に、書写山を開いた性空(しょうくう)上人が
開基という説があり、【しょうくう】はありませんが、どうもこちらの方に真実味がありそう。
また毘沙門天も室津の海から出現したと、奇瑞に纏わる話が伝わっています。
本朝遊女の発祥の地となっていますが、室の君は客人である貴人を親切にもてなしただけで、
これが【真説】ならフランスで宮廷サロンを主催した貴婦人と何ら変わる所はありません。
謝礼を受け取った点が職業としての遊女と見做されたようですが、江戸時代の遊女とはかなり異なった印象です。
その真偽については【けんしょう】する必要がありそうですが…。

境内の様子

境内の奥にある庭園
梅の木が多く植えられている。
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駅前レンタサイクル → 50分 → 室津入口 → 室津漁港 → 浄運寺 → 賀茂神社

賀茂神社(室明神社)
文化財の社殿で知られる賀茂神社ですが、忘れてならないのが境内にある植物群。
『石鳥居と表門の中間参道に沿って群生しているのが蘇鉄で、玉垣で囲まれている。
株数は大20株でそれぞれ分岐を持ち、雄株7割、雌株3割。最大のものは高さ6mで15本の分岐を持つ。

県指定文化財 賀茂神社のソテツの説明板

玉垣で囲まれた蘇鉄群

玉垣の後側から
崩れた塀の向こうに蘇鉄が見える。

蘇鉄群
温暖な気候のため、冬季でもむしろ等の防寒は不要。野生状態の群生林としては日本列島の北限に位置する。
また境内には二本の榊が途中から1本に結ばれている「連理の榊」があり、
「賀茂の愛の榊」と称されており、夫婦・良縁に御利益があるとされる。』 とあります。

蘇鉄群近影

「賀茂の愛の榊」
五社殿西側の旧多宝塔跡にある。

連理の榊の説明板
瀬戸内の温暖な気候を受けて、南方系の植物が繁茂したのでしょう。
蘇鉄や榊などの樹木以外にも檝取社への道脇には南方系の羊歯類と思しきものが地表に。
神道では山岳・磐座信仰として、名峰・巨石・瀑布・洞窟を御神体とする事が【浸透】していますが、
樹木もその範疇に入ります。多くの社には御神木がありますが、多くは神の憑代として信仰されています。
重文の社殿とは異なる意味で、こちらも天然記念物と言えるでしょう。
元は自然に対する畏敬の念だと思いますが、今では金運・恋愛・合格など現世利益を結びつける事が多く、
その方が参拝者にも受けるようです。まさか参拝者を【かも】にしている訳ではないでしょうが…。

檝取社への道

羊歯類と思われるが…
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賀茂神社(室明神社)
浄運寺で友君の御墓に参拝した後は港の方へ戻りますが、室津漁港の南岸の明神山に鎮座するのが賀茂神社。
道すがら海に突き出た岬にこんもりとした森が見えるのがその場所です。
最初に訪れた海駅館で「室津では一見の価値がありますよ。」との話。
地元なので割り引いて聞きましたが、実際来て見ると小さな港町には不釣り合いなぐらいの広大な社でした。

岬の上に建つ神社

階段を上った先に建つ石鳥居
姫路藩主本多忠国の寄進である。

広い境内の案内図

石鳥居下から上って来た階段を見返る
賀茂神社(かもじんじゃ)は別名を室明神社(むろみょうじんしゃ)と言い、
『奈良時代の『播磨風土記』にも登場する室津は古代より良港として知られ、
平安時代には京都の北賀茂神社の神領となり分社が設けられ、そこから門前町が発達した。
御祭神は賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)である。
治承4年(1180年)、平清盛が厳島詣の際にこの神社に立寄り、海上祈願を行った。
そのとき、古びた5・6棟の社殿が立ち並んでいた事が「高倉院厳島行幸記」に見える。
表門をくぐると社殿の脇に出、正面に唐門を持ち回廊内に書く社殿が並ぶ。
表門は四脚門と呼ばれ龍の彫刻で有名。両側の上段にある龍の足の部分が馬の蹄で「馬足の龍」と呼ばれる。

鳥居の先の表門(四脚門)
平清盛参拝の杜の札が架かる。

境内側からみた表門

表門にある龍の彫刻
本殿と両脇の二棟を合せた五棟の社殿は、いずれも屋根が流麗な檜皮葺の流造で、
本殿は元禄12年(1699年)の再建、他の建物も江戸中期の建物である。
古代様式の清楚で荘厳な佇まいを今に伝える。
そして五棟の社殿と唐門、両脇の回廊を含めた八棟が国の重要文化財に指定されている。
奉納されている神馬図は狩野元信の筆になるもので重文、神社入口の石鳥居は姫路城主本多忠国の寄進である。

北側にある唐門、東西回廊とその奥に並ぶ五社殿
全て国の重要文化財に指定されている。

西回廊と唐門

正面から見た唐門

唐門の奥に建つ本殿の説明

東回廊から西回廊を見る

賀茂神社本殿

本殿東に続く摂社・片岡社太田社本殿と榲尾社本殿
文化元年(1804年)に出版された『播州名所巡覧図絵』には境内と周辺の様子が描かれているが、
五棟の社殿に加え、御祖(みおや)社・参籠所・拝殿・絵馬堂・表門(四脚門)・蘇鉄の群生等今と変わらぬ姿を見る事ができる。
また急な石段を上る参拝者や境内の商人、室津港に浮かぶ帆船や檝取(かじとり)社からの参拝道も描かれ、
室津と賀茂神社の殷賑が描写されている。かつては多宝塔、藤棚の他、御祖社に拝殿があった事も分かる。
江戸時代の室津には多くの外国人が上陸。オランダ商館長に同行したシーボルトも文政9年(1826年)に
室津を訪れており、参籠所からの播磨灘を絶賛している。
この図絵はその時に描かれたもので、彼の紀行文と併せ当時を知る貴重な資料となっている。
室津は海上交通の要衝として栄え、西国大名の参勤や外国人の参府にも関り人・物・情報が行き交った。
当社はこのような港湾都市室津の要となる歴史文化遺産である。』 とあります。

播州名所巡覧図絵

江戸時代の室津の説明

(続)江戸時代の室津の説明

唐門の向かいにある拝殿
とび拝殿という極めて特色のある配置となっている。

拝殿近影

拝殿の唐門にある葵紋
葵紋は賀茂神社の社紋である。

拝殿西側の絵馬堂と神馬舎

更に西にある参籠所(社務所)

社殿西側を囲む土塀
港の発展は賀茂神社と共にあったようですが、神社の場所も港を扼する或いは出入り口に当たる岬の突端の高台。
社殿の奥から坂を下った場所にある檝取社は正に港に出入りする船を監視する位置で、
更に進むと湊口御番所と単なる精神的な鎮護だけではなく、地勢的にも港を護る要の場所にあると言えます。
室津が神領になったのは平安時代で、その後分社が成立。
その歴史的意味を考えると、港として繁栄した室津が国家の税から逃れるべく権門の社寺に土地を寄進。
不輸不入の権を得たことで町は一層発展し社寺は分社を建てて己の勢力下にある事を示した、と言う事でしょうか?
平安時代の格差社会と言えますが、権門もその利益の一部を荘園の民に還元しているので、
今の格差とは格差があるようです。

岬の西突端へ下る坂道

坂を下った場所にある檝取社

檝取社正面
但し、崖っぷちに建つので注意!

檝取社から見える瀬戸内海

賀茂神社御朱印
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駅前レンタサイクル → 50分 → 室津入口 → 室津漁港 → 浄運寺

清涼山 浄運寺(浄土宗知恩院派 法然上人霊跡)
手前の石碑が友君の墓。
突端の藻振鼻から坂を下って戻る途中の小高い丘に建つのが浄運寺。
港から行くと石垣を持った城門風の山門が見えますが、これは北門。
正式には海に面した西門から入るのが筋のようです。
清涼山浄運寺(せいりょうざんじょううんじ)は、
『文治元年(1185年)、法然上人の高弟信寂上人が播磨国教化の道すがら、
室津の長者十川氏の帰依を受けて建立されたのが嚆矢。
当初は西方寺と呼ばれたが、慶長年間に浄運寺と改称された。

海側に開いた浄運寺西門

西門脇に掲げられた縁起

正門に当たる西門から入山

西門近影
奥に見えるのが本堂。

城門風の北門
室津港から向かうとこちらから入山になる。

境内から見た北門
上は鐘楼になっている。
当寺は法然上人25霊場の一つ。建永2年(1207年)上人が後鳥羽上皇の怒りに触れて
讃岐に流される際に、この地に立寄った。その時、以下の伝承が伝わっている。
室津は我が国で遊廓発祥の地とされ、土地の長者の娘であった「室の君」は容姿・品格・芸妓に
抜きんでていたが、他に「友君」と呼ばれた遊女が居た。
彼女は木曽義仲の側室「ふき」で義仲討死後は播磨に留まり、遊女となって義仲を供養していた。
自らの罪深さに苦しんだ友君は、法然上人が室津に居ると聞くと船を出して、将来の不安について法然に問うた。
「今の生業を変えることが出来ぬのなら、卑下することなく、ただ唯阿弥陀仏の本願を深く信じ、念仏を唱えなさい。」
と説いた。
それを聞いた友君は法然に拠って得度し出家。後に許され配流先から戻る途中に当地へ立ち寄った法然は、
友君が念仏往生を遂げたと伝え聞いた、と言われる。
海側の門前には友君の墓があり、寺には彼女に纏わる遺物があるという。
これらの話は浄土宗の広まりと共に、女人往生の説法に用いられたものであろう。』
とあります。

浄運寺から海側に下りた道にある「法然上人 貝堀の井戸」

法然上人が貝殻で掘ったという井戸の由緒
海辺なのに淡水が湧く不思議。

南側から見た境内
左が西門、正面が北門。

北門から見た庫裏(手前)と本堂

本堂正面

北門脇にある観音堂

書院玄関

玄関に置かれた鬼瓦
山門を抜けると正面に本堂。その手前には枝垂梅、山門脇には見事な貝塚伊吹(柏槙)がありました。
初め本堂は外陣から拝観しましたが、御朱印を御願いすると住職夫人が対応。
内陣まで案内して頂いた上、説明までして頂くという幸運に。
御本尊の阿弥陀如来は運慶の作。
その右奥には賀茂神社の旧仏であった多宝如来像、法然上人像、友君像と並びます。
上人の頭部は木造で法然作、胴体は粘土で友君の作。
友君の像は彼女の没後、配流先から戻った法然が彫ったものだそう。
随分と複雑な由来ですが、どこまで真実を伝えているのでしょう。

本堂前の枝垂れ梅

西門脇の貝塚伊吹

本堂入口

本堂に掲げられた「浄運寺」の扁額

本堂前からの眺望

本堂内陣

伝運慶作の御本尊・阿弥陀如来像

御本尊右側の多宝如来像

法然上人像

友君像
友君の墓と思って境内でお参りしたのは、実は「室の君」の供養塔。訊かなければ、スルーする所でした。
友君の塚は海を見下ろす場所、せめて墓所なりとも眺めの良い場所にという心遣いでしょうか。
遊女念仏往生はあくまでも伝説の域。親鸞聖人の悪人正機説もあるように、
浄土の教えはどのような人も極楽往生できる事を簡潔に伝えるところに主眼があったようで、
それが後世に信者の数が増える原因だった気がします。
キリスト教でもマグダラのマリアの説話があるように、洋の東西を問わないようですが…。

境内にある「室の君」供養塔
普賢菩薩の化身となっている。

西門の外に在る遊女・友君の塚
室津の海を見下ろす立地である。

友君の墓石

浄運寺御朱印
[参考書]
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室津の町並み
港町室津の町並みは、歩いても15分程度ですが、ここかしこにかつての繁栄が偲ばれる家屋があります。
『入口の坂を下った先に建つ家屋は「嶋屋」の遺構。嶋屋は近世から近代にかけて廻船問屋として活躍した豪商で、
現在の建物は嶋屋(三木)半四郎が江戸後期に建築。明治6年(1873年)に増築している。
切妻平入本瓦葺二階建てという室津の町屋の特徴を良く残しており、座敷回りの意匠が優れている。
二階建てが許されなかった当時としては珍しく、嶋屋の繁栄振りが偲ばれる。
現在は「たつの市立室津海駅館」として、海の宿駅として栄えた室津の歴史を展示、研修所としても利用されている。

室津港へ向かう坂道からの眺望

坂を下った先に建つ「たつの市立室津海駅館」
近世に豪商として活躍した廻船問屋「嶋屋」の遺構。

海駅館の案内板

港側に面した「海駅館」の部分

海駅館の内部

海駅館の向かいの建物
今は商店のようだが、二階の張り出しを見るとかつては旅籠だったような…。
さらに海岸線に沿って進んだ左側にあるのは旧魚屋。海藻類や生活物資を主に扱った。
江戸時代には名字帯刀(豊野家)を許され、姫路藩の御用達を務めた豪商の遺構である。
建物に対面する海側には惣会所や高札場を始め、本陣肥後屋や筑前屋が軒を連ねていた。
本陣が手狭な時は豪商の家にも分宿したので、魚屋には大名専用の入口、1階の奥座敷、
2階の上段の間があり、20室150畳を超える規模の建物であった。
建物は大型町屋であるが、一階入口の吊り上げ式二重戸、一階裏側の隠し階段など、
他の室津の町屋にはない仕組みがある。また二階の土間上は室津では珍しい虫籠窓となっている。
今は「たつの市立室津民族館」として江戸時代の古地図、漁業関係資料の展示を行っている。

海岸に沿った街道沿いに建つ「たつの市立室津民俗館」

「民俗館」近影
かつての豪商「魚屋」を改修したもの。

民俗館の二階部分
張出し武と虫籠窓が見える。
室津には、肥後屋・肥前屋・紀伊国屋・筑前屋・薩摩屋・一津屋の六つの本陣があったが、
昭和40年代にこれらの建物は姿を消し、かつてあった場所に石柱が建つのみである。
これらを含めかつてあった旧跡には計21本石柱が建っている。』 とあります。

街道沿いに建つ「本陣 紀伊国屋跡」

「清十郎生家跡」
西鶴作の「お夏清十郎」の清十郎の生家があったとされるが、今は名残を留めていない。

街道を隔てた民俗館の向かいの建物
普通の民家であるが、昔風の造りとなっている。

民家の側面は舟板塀か?
民族館・資料館に加えて、たつの市室津出張所・室津診療所など旧町屋を使用したものは多く、
室津派出所も新しいですが、古い町並みに考慮した造りとなっています。
空き家あるいは公共施設として残すよりも実際に生活する場所として残す方が遥かに大変ですが、
その辺りを上手く対応したと言えるでしょう。

室津診療所

室津駐在所

たつの市室津出張所
左の自転車はこの日の相棒。

出張所は姫路藩 御茶屋跡、朝鮮通信使宿舎跡に建つ

駐在所の向かいにある町屋を利用した料亭
町並みは港入口から賀茂神社への参道付近までの1㎞余りで、その先に建つのが室津小学校。
立派な校舎は室津の豪商からの援助もあったのでしょう。明治5年(1872年)開校の伝統校ですが
2021年3月末で御津小学校に統合され150年の歴史に幕を下ろしました。
最近まで伝統ある校舎が使用された小学校は、室津の他にも開智(長野)・吹屋(岡山)・登米(宮城)等がありますが、
老朽化と言うよりも生徒数の減少が主な原因。
しかし中には滋賀県の沖島小学校の様にそこでの教育に憧れて校区外から入学する人も居るとか。
教育というものの根本に立ち返る必要がありそうです。
室津に今に残ったものを見る限り、鞆の浦と似た状況ですが、観光客の数は雲泥の差。
映画の舞台になった云々もあるでしょうが、やはり公共交通機関の少なさがネックなのでしょうか?
町としてはより多くの観光客が望まれますが、この静かな姿を保って欲しいと思う気もします。

賀茂神社への参道の曲り角の町屋

町屋の間から見える港

今は閉校となったなった室津小学校
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室津港
瀬戸内の穏やかな海を眼前に控える室津は1300年の歴史を持つ港町。
『室津は『播磨国風土記』に、室のように風を防ぐ泊であったと記され、
行基が定めたと伝える摂播五泊の西端の港で、奈良時代から栄えた港である。
平安時代には京都の北賀茂神社の神領となり分社が設けられ門前町が発達、
室町時代には室山城の城下町が成立した。

室津の沿革

観光案内板

港に停泊中の漁船

漁師町室津は賀茂神社の建つ岬に守られた自然の良港
江戸時代には姫路藩の港となり、一番の栄華を迎える。慶安2年(1649年)には港の入口に湊口御番所を設置。
西北の隅に灯籠堂を建て、姫路藩の侍が昼夜に亘り港を監視した。
西国大名は参勤交代の時、殆んどがここ室津で船から上陸、陸路を江戸へ向かった。
室津は海と陸の接点、宿場町として賑わい、薩摩屋をはじめ6軒の本陣があった。
明治以後、交通手段と交通路の変化に伴い、「室津千軒」と言われ殷賑を極めた港町も急速に衰退していった。
しかし今でも町内には町屋が残り、かつての繁栄を物語っている。』 とあります。

岬側から見た室津港

防波堤

湊口御番所跡碑

御番所跡公園の巨石

巨石の説明
時代と共に町の盛衰があるのは珍しい事ではありません。
交通路が変わったのは事実ですが、漁港としての室津は昔のまま。この日も港には多くの漁船が停泊していました。
播磨は瀬戸内の魚介類が豊富なことで知られますが、この付近は、いかなご・穴子・牡蠣が夙に有名。
しかし地元の方の話では、近年いかなごの漁獲高が激減、若い人も町を出ていく人が多いそうです。
いまは牡蠣の養殖に力を入れているようで、室津への途中にあった道の駅・地元販売所はどこも車で満車状態。
いかなごに代わる目玉商品になるよう【釘煮】を刺さないといけませんね。

もやい石

もやい石の説明

御番所跡公園から坂を上ると賀茂神社へ続く

御旅所
漁港の北側、漁協の上に建つ。
[参考書]
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室津の海
この日は、晴天で気温も上がるという天気予報を聞き、朝一番の電車で山陽本線の倉敷へ。
そこでの野暮用は直ぐに片付きましたが、そのまま帰宅するのも芸がないので港町と梅を見るべく、早春の播州路へ。
室津・綾部には山陽本線終点の網干が最寄り駅。
バスもありますが、一日の本数が余りにも少なく非現実的なので、JR網干駅前からレンタサイクルを利用。
地図上では12㎞程に見えましたが、南下して山陽本線網干までもそこそこの距離でした。
山陽網干駅の直ぐ南を通る国道250線をひたすら西へ。揖保川とその分流の中川・元川を渡ると旧御津町になります。

倉敷市マンホール蓋
配布場所はホテル グラン・ココエ倉敷 3階フロント。

倉敷市マンホールカード (E)
早くも倉敷市のMHCは5種類目に。
『室津までの道筋には海水浴や潮干狩りで知られる新舞子浜が、
また綾部山には梅林があって春から夏にかけて、阪神・姫路方面の多くの観光客を迎えている。
国道が南に向かう場所には岩見港があり、そこから室津までの3㎞の海岸は七曲りと呼び、断崖絶壁と屈曲した道が続く。
ここは海上に家島群島や唐荷(からに)島を望む景勝地で、瀬戸内海国立公園の一部となっている。

国道から見た岩見港

港の向こうの山肌には露出した岩が…
これが岩見港の語源では?

岩見港から室津まで続く七曲り
七曲りの終わる場所が室津への入口で、町へは国道の左側にある細道を海岸まで緩やかに下っていく。
海岸に出た場所が室津漁港で、更に道を南にいった先が藻振鼻。
その沖合い2㎞に浮かぶのが唐荷島。三つの島の総称で、それぞれ地の唐荷・中の唐荷・沖の唐荷と呼ばれる。
その昔、唐土の船が難破してその積み荷がこの島に流れ着いたことからこの名が付いたとされ、
古くから多くの歌人に詠まれている文学の島でもある。藻振鼻には
・玉藻刈る 辛荷の島に 島廻する 鵜にしもあれや 家思はざらむ
と詠んだ山部赤人の万葉歌碑が建っている。』 とあります。

室津への入口
右が国道250号線。

岬の西側を藻振鼻へ
中央に見えるのが賀茂神社の杜。

藻振鼻から見た沖合に浮かぶ唐荷島

かつてここに在った観音堂跡
250線を西行している間は道も広く気になりませんでしたが、そろそろ坂道に差し掛かったら七曲りの入口。
岩見漁港から南を見ると七曲りの道が遥か向こうまで続いています。
思わず【太陽に吠えろ】と言った気分でしたが、進んでいくと意外にも勾配は緩く自転車を押す事はありませんでした。
途中、振り返るとおおきな岩肌が山の中腹に。これが岩見の名の由来なのでしょう。
室津の入口からは岬の突端まではすぐ。徒歩でも15分程度でしょうか。
藻振鼻と呼ばれる場所にはかつて観音寺があったそうですが今は無く石碑のみ。
唐荷島の由緒は唐土の船の積み荷とありますが、赤人の歌に「辛荷」とある【からに】は、
海に投げ出された積み荷が塩辛くなった事例が、後に「辛→唐」と文学的に変化したように思いますがどうでしょうか?
由緒は兎も角、ここからの瀬戸内の眺望は素晴らしく、地元の年配女性3人が展望所のベンチに腰掛け談笑中。
周囲には梅もあり、塩と梅の香りが混ざっていい【塩梅】でした。

沖に三つ並んだ唐荷島

突端では磯釣りに興じる太公望の姿も

山部赤人歌碑
万葉仮名は犬養孝揮毫。

藻振鼻にある白梅

白梅近影
萬葉の里には桜より梅が似合う。
[参考書]
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金剛山 徳證寺(浄土真宗本願寺派)
国分寺があれば国分尼寺がある筈ですが、播磨国分尼寺跡は国分寺跡の北方600m付近に比定されています。
唯、住居表示がないので辿り着けず。その代りと言っては何ですが、後継寺院を訪問。

寺標とその先にある山門

山門近影
但し閉鎖中なので、左奥から境内へ入る。
金剛山徳證寺(こんごうさんとくしょうじ)は、
『播磨国分尼寺の後継寺院。当初は真言宗であったが、明応5年(1496年)に浄土真宗に改宗。
天文年間(1532~1555年)初年に御着城主小寺氏の帰依を受け御着城内に移転した。』 とあります。

正面に建つ御影堂
但し、外陣からの参拝であった。

鐘楼と多宝?塔

塔近影
唐破風の付いた珍しい形。
説明通り、国道南の城址から歩いて直ぐの場所。南の山門前に建つと、綺麗に整備された境内が見えました。
大きな御影堂と開祖の銅像が建ち真宗寺院の特徴を備えています。
唯、由緒書などは一切なし。ベルを押して尋ねましたが、説明書等も作っていないとの事でした。
天平の衣鉢を継ぐ寺院としては聊か寂しい気もしますが、盛者必衰の理は俗界も聖界も関係ないようです。

漢文で記された由緒記

開祖の像

御影堂前からの眺望
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【復路】JR御着(13:08) → (快速) → JR加古川(13:20→13:22) → (新快速) → JR大阪(14:13)

黒田家廟所
御着城址の奥に佇むのが黒田家廟所。
ここの墓所には黒田孝高(官兵衛のちに如水)の祖父重隆(しげたか)と生母(明石氏)の二人を祀っています。
城主小寺氏よりも注目されているのが黒田官兵衛。駅のホームにも「官兵衛の育った地」と看板が上がっています。
大河ドラマの主人公にもなった豊臣秀吉の軍師として竹中半兵衛と並ぶ参謀。
戦一辺倒ではなく知略を用いた点が人気の理由でしょう。

JR御着駅上りホームに掲げられた看板
『黒田家は近江源氏佐々木氏の流れで、近江国伊香郡黒田村(現・長浜市木本町)の出身。
官兵衛の祖父重隆の代に播磨に入り御着城主小寺政職に家老として仕え、城主として姫路城を護った。
姫路城主は子の職隆(もとたか)、孫の孝高(よしたか)と続くが、天正8年の羽柴秀吉の播磨平定の時、
孝高は姫路城を秀吉に譲り自らは父と共に国府山城(妻鹿)に移った。職隆の墓所は妻鹿にある。
後に黒田家は筑前福岡藩主となったので、どちらの墓所も地元では「ちくぜんさん」と呼ばれている。
この墓所は享和2年(1802年)に資材を九州から運んで造られた。廟屋を有する立派なもので、
周りの龍山石の石塀から内部は昭和56年(1981年)に姫路市指定史跡となっている。』 とあります。

御着城址にある黒田官兵衛顕彰碑

顕彰碑と共に建つ説明文
一般的には官兵衛一人に焦点が当てられますが、彼に至る迄には何代にも亘る助走期間があったと言えます。
元、近江の土豪であった黒田氏が遠く播磨まで移ったのは、そこで一旗揚げる意志があったからでしょうが、
それなりの勝算もあった筈。琵琶湖の水上交通で賑わった近江には各地の情報が集まったからではないでしょうか。
播磨では薬の販売で財を成し、周囲の人々の信用を集め、ここぞという時に投資する。
三代かけて大名にまでのし上がった訳ですが、そこには近江商人の強かな計算があった気がします。
関ケ原の後の引き際も見事という他ありません。もし今に官兵衛が居て
「本当に天下を狙う積りはなかったのですか?」と訊けば、
「それはもう【かんべえ】して下さい。」と否定するか、【知らぬ顔の官兵衛】を決め込むでしょうが…。

城址北側に在る墓所入口

黒田家廟所

廟所説明

廟所入口からの眺望
右手の城郭風建物は市役所東出張所。
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御着城址
国分寺参拝に後は、国道2号線を東へ。天川を渡った北側にあるのが御着城址。
『御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城である。
永正16年(1519年)、姫路城主小寺政隆が築城してここに移り、以後、則職・政職と三代60余年続いた。
天正7年(1579年)、羽柴秀吉の三木城攻めの時、別所長治に味方したため攻略されて滅亡した。
築城は永正年間とあるが、嘉吉年間(1441~1444年)には既に構居が設けられていたとされ、
明応年間(1492~1501年)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能を持つ城郭として機能していたとされる。

国道2号線沿いに建つ案内板

城址入口に建つ石碑

本丸跡

御着城跡説明
昭和50年代の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに
本格的な縄張りが行われた事が判明。中世の人々の生活に関わる土器・木製品も多数出土した。
宝暦5年(1755年)の絵図には、城の中核に本丸と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の堀、
北と東は四重の堀、外郭部に家中屋敷や町屋の記載があり、惣構えの城が描かれている。
現在の御着城址は中央に国道2号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館が、
道路を挟んだ南側に城主と関係者を祀った小寺大明神が建つ。』 とあります。

本丸跡に建つ姫路市役所東出張所
城郭を模した造りとなっている。

2号線を挟んで南側に建つ朱の鳥居

小寺大明神説明

小寺大明神
小寺氏は守護赤松氏の庶流。国分寺のある御着に拠ったので小寺を称したと思いましたが、
小寺と称したのは政隆の五代前なので、それはあり得ませんでした。
姫路から御着に移ったのも現在の考えでは?ですが、古代より国分寺等が置かれたという地勢に着目したのでしょう。
戦国時代の領主としては取り立てて無能とは言えません。
唯、周囲に流され易い性格だったようで、それが下に着く相手を間違えた遠因になったと想像します。

小寺城主奥都(津)城と歌碑

奥津城碑の手前にひっそりと置かれた五輪塔と石仏
小学校発掘調査の際に出土したものを祀ったもの。

御着郵便局 ; 黒田家廟所、御着城址碑、天川橋
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