<コース>
【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:49) → JR播州赤穂(8:24) → 徒歩7分 → 花岳寺 → JR播州赤穂(9:05) → JR伊部(9:44)

台雲山 花岳寺(曹洞宗 新西国三十三ヵ所第三十一番札所)
本堂参拝の後は、急ぎ足で境内を一巡。
『本堂に向かって左手奥には座禅堂が建ち、参道を挟んで南に建つのは報恩堂である。
報恩堂は明治初年に廃寺となった遠林寺から移設された庚申堂で、青面金剛尊を主に
稲荷大明神、塩竈大明神、秋葉大明神を祀り地域の信仰を集めた。
本堂と座禅堂を繋ぐ廊下の向こう側には、義士墓所・義士木像館・宝物館があるが廊下からは見えない。
廊下の正面に見えるものは浅野家廟所で、大正7年(1918年)に広島浅野家の寄進に拠って建立されたもの。
内部には浅野長矩の墓が建てられている。

座禅堂

報恩堂
内部には千躰観音像が祀られている。
境内東側には鐘楼が建ち、梵鐘は通称「鳴らずの鐘」。初め浅野家二代藩主長友が父長直のため鋳造。
元禄赤穂事件の後の元禄16年2月4日、四十六士は評定所の裁定に拠り切腹したが、
この知らせが赤穂に着くと、民衆は義士の死を悲しみこの鐘を延々と撞いたという。
そのため鐘が損傷を受け、「爾来音韻を失する事五十年」であったが、
寛政9年(1797年)に再鋳造され、再び鳴るようになった。
音を失った期間、誰が言うこともなくこの梵鐘を「鳴らずの鐘」と呼ぶようになったと言う。
先の大戦では全国の鐘は供出を命じられたが、この鐘は赤穂義士との所縁があるために供出を免れている。

本堂と座禅堂を繋ぐ渡廊下

渡廊下の向こうに見える浅野家廟所

鐘楼堂と 「鳴らずの鐘」
鐘楼の直ぐ横には「大石名残の松」が生え、標石は陸軍大将内閣総理大臣・林銑十郎の筆になる。
これは二代目で、初代は昭和3年に樹齢310年余りで枯死。現在は休憩所に祀られている。
また境内には昭和11年に赤穂を訪れた詩人野口雨情が
・春のあけぼの 花なら桜 武士の鑑ぢゃ 赤穂義士
の自筆の詩碑が建つ。』 とあります。

二代目 「大石名残の松」

松の傍らに建つ標石は林銑十郎の筆
元禄赤穂事件は、赤穂の人民にとっては一大事でしたが、
後世、義挙として称えられた事で、様々な恩恵を受けることになりました。
知名度や梵鐘もそうですが、初めは否定的だった政権側も後にはこれを利用するようになります。
このような赤穂事件ですが原因は今に至る迄謎。
① 朝廷の使者を迎える接待役を仰せつかった浅野長矩が指南役の吉良上野介に賄賂を贈らなかった。
② 吉良が赤穂の塩の製法を教わろうとしたが拒否された。
など諸説が喧々諤々ですが、①はほぼ否定されています。
②については一時有力視されましたが、事件当時吉良の領地には塩田が無かった事が判明し、これも論外。
今の所、諸説と小説が入り混じって、【えんでん!】となっている状況です。
中学生の頃、実際の吉良上野介は名君だったと聞き、
「それなら浅野内匠頭が暗君やったんかいな!」と思った記憶があります。

本堂正面に祀られている 「初代 大石名残の松」 の古株

「名残の松」解説

報恩堂前に建つ雨情詩碑

詩碑解説
結局、精神的に不安定だった浅野内匠頭が発作的に吉良上野介に切り付けたというのが、
最も無理の少ない解釈になりそうです。
唯、それだと面白みがないので、大名の領地を没収したい幕府が吉良上野介を使って
浅野家を改易に追い込み、秘密を知る吉良氏を赤穂浪士に拠って口封じさせた上で、
浪士も切腹させて知らんぷり、という解釈が出る余地があるようです。
などと考えていると9時前。宝物館は9時会館ですが、下りの電車を逃すと、
また1時間以上待つ破目になるので【名残りの待つ】事無く辞去。ここらが【塩時】と思った次第。
土産はいつもながら「赤穂の塩味(しほみ)まんぢう」。最近、生塩味が登場したのは「もみじ饅頭」の
影響でしょうが、分家としては本家の芸州浅野家を見習ったというところでしょうか?

メイン通りに面した「かん川本舗」本店
朝8時過ぎでもう営業中。

生しほみ(左)と従来のしほみまんぢう(白・抹茶・黄粉)
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台雲山 花岳寺(曹洞宗 新西国三十三ヵ所第三十一番札所)
「息継ぎ井戸」から50m程、道を【行きつぎ】ると塀に囲まれた伽藍が見えますが、
そこが義士所縁の花岳寺。
以前、寺に来た時は16時過ぎで既に閉門。蟄居謹慎ではないものの、
観光地としては早すぎるのではないか?とがっかりした記憶があります。
この日は8時過ぎの訪問で逆に早過ぎかと心配でしたが既に開門。
案内板を見ると年間通じて早朝6時からの開門との事で、逆に早すぎでは?
と思いましたが、【あさの】所縁という事で納得。立派な山門を潜ります。

粋な黒塀に見越しの松が見える伽藍全景

山門前に建つ石碑
『花岳寺山門は元、赤穂城の西惣門で、明治6年(1873年)に21世仙珪(せんけい)和尚が購入移築したもの。
材は栂を主体とし屋根は本瓦葺き、柱は当時よりも約三寸短くなっており、棟木と出桁が一支半継ぎ足しされている。
高麗門形式を採り西惣門の遺構であるため素朴武骨な武家門の風格を備え、
城郭付属建築として史的価値の高い貴重な門と言える。』 とあります。
明治初期の神仏分離は寺院にとっては相当の逆風でしたが、そんな状況下で城の惣門を買い取るとは、
時の住職は中々、【せんけい】の明があったのでしょう。

朝6時から開いている山門

境内側より見た山門
台雲山花岳寺(たいうんざんかがくじ)は、
『正保2年(1645年)、常陸国笠間より転封となった浅野長直が浅野家菩提寺として創建。
元禄14年(1701年)、浅野家三代藩主長矩が江戸城松の廊下で吉良義央に対する刃傷沙汰を起こし、
長矩は即日切腹、浅野家は改易となった。
その後一年は隣国脇坂家の赤穂在番に拠る瀑布預かりを経て永井氏が入部したが4年で転封、
宝永3年(1706年)には森家が赤穂藩主となり幕末まで続く。森家も花岳寺を菩提寺と定めた。

本堂正面

本堂の二階部分に掲げられた「花岳寺」の扁額
本堂は宝暦8年(1758年)の再建、天井画の虎は安政元年(1854年)の寅年に地元出身の絵師・
法橋義信(周得)の67歳の作。元は五月節句の幟として画かれたもので、一間半に五間の長さである。
幕末の志士とも交わるも名利を嫌い、都には住まず明治元年に赤穂でその生涯を終えた。
没後、その画風は高く評価されるに至った。この画は開山300回忌に義信の曽孫より寄進されたものである。

1階部分に掲げられた新西国霊場御詠歌

本堂外陣

本堂入口の天井画
赤穂浪士37回忌に当たる元文4年(1739年)には、森家家臣の小林貞真らの有志に拠って
義士塚が建立、義士達の遺髪が納められている。
また50回忌に当たる宝暦2年(1752年)には大石良金(主税)と関わりのあった
藤江熊陽(ゆうよう)の撰に拠る碑文が刻まれた義士塚が建立された。
観音堂内には千手観音尊像と四十七士の木像が安置され「義士木像堂」とも呼ばれる。
また浅野内匠頭、大石良雄の石塔をコの字型に囲んで四十七士の墓石が建つ忠義塚がある。
平成元年には市史跡に指定されるなど、元禄時代の姿を今に伝える貴重な建造物である。』 とあります。

本堂内陣の様子

遠目に拝む御本尊

花岳寺御朱印 (新西国札所)
これは平成4年12月13日(土)に拝受したもの。
早朝から境内に入山できるといっても、見る事ができるのは外観のみですが本堂だけは開放中、
中へ入ると天井には説明にあった虎の画が。江戸時代の人は生きた虎を見ることはなかったと思われるので、
この画は恐らく想像か別の絵画を見て画かれたものでしょう。
今の我々から見ると違和感があるのは否めませんが、猛獣としての迫力は十分伝わってきます。
やはり絵師としての力量があったのでしょう。

本堂横の書院入口

本堂入口からの境内の眺望
ふと目を下に落とすと、黒猫のキャラクターが目に入りました。
『The 47Black Cats』と銘打ったそれは黒猫を赤穂義士に見立てたキャラクター。
作者のマサミマエカワ氏は赤穂市出身、忠臣蔵の世界を表現し活躍中のデザイナーと説明にありました。
最初は天井画の虎に対して猫を描いたものと思っていましたが、“犬公方”と呼ばれた将軍綱吉に対して
猫を設定したそうで、赤穂義士を幕府に抗議する男たちと捉えています。
言ってみれば公儀に対する抗議ですが、為政者が思う以上に民衆は強かだったという事でしょう。

『The 47Black Cats』

宿命の二人、浅野内匠頭と吉良上野介

内匠頭切腹の場面

内匠頭正室・瑶泉院
それにしても人口では県下でも突出しているとは言い難い赤穂の地で、このように骨のある
人物が輩出するのは驚き。塩田のある場所だけにカルシウムも豊富だったのでしょうが、
何事も【赤穂におまかせ】できるのはちょっと羨ましいと思います。

赤穂城下町の様子 (いきつぎ広場に掲示)

赤穂塩の流通 (いきつぎ広場に掲示)
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JR播州赤穂駅前に建つ大石内蔵助像
備前市にある「山陽花の寺」を訪れるため朝一番の快速で西に向かいましたが、播州赤穂駅で40分待ち。
只管ホームで待つのも芸がないので、待ち時間で周辺をプチ散策。赤穂といえば塩や牡蠣が有名ですが、
何とっても忠臣蔵。観光名所もほぼこれ一色。歴代の駅スタンプの図柄もそうですし、
町中にある加里屋郵便局に至っては、何と赤穂忠臣蔵局に改称(2013年12月)しています。
「いくら町の【ちゅうしん】でもこれは…」と御注進に及ぶ人もいないようですが…。
といっても時間がないので、行先は駅最寄りの花岳寺一本に絞る事に。
メインの前の前菜みたいなものですが、紫陽花とは花蕚(かがく)繋がりになります。

歴代の駅スタンプ
(左) 国鉄時代の「わたしの旅」印、 (右) 1990年代のJR印、 (下) 2006年のJR神戸支社印

赤穂加里屋(忠臣蔵)郵便局 ; 赤穂城、大石内蔵助、浅野家と大石家の家紋
『赤穂は兵庫県の西端、千種川河口に開けた城下町。
15世紀半ば、赤松満祐の一族、岡豊前守が築城したのが嚆矢。
その後、戦国末期には宇喜多氏が、江戸初期には池田輝政が領有し城を修復。
日本三大水道の一つとされる赤穂水道が敷設されたのは池田輝政の頃であった。
正保2年(1645年)に常陸笠間から浅野長直が入封し、13年の歳月をかけて城を完成。
今に続く城下町の基礎が築かれた。
背後に海をひかえ、本丸を中心にこれと二ノ丸が同心円状に展開する「輪郭式」、
三の丸は本丸の正面(北側)のみに広がる「梯郭式」の所謂、変形輪郭式の形式を採っている。
但し天守閣は造られず、天守台が築かれたという。

駅前も忠臣蔵一色

忠臣蔵の一部に温泉の宣伝が
三代続いた浅野氏は長直の孫の長矩が有名な刃傷事件を起こして元禄14年(1701年)に断絶。
この時、江戸から国元に一大事を伝えるため、急使の早水藤左衛門と萱野三平が早打駕籠を仕立て東海道を下向。
3月14日午後5時に江戸を出立し、19日午前6時に赤穂に到着したのは当時の最速の記録であった。
入城の直前に、急使が息を整えるために水を飲んだ場所が「息継ぎ井戸」として今に残る。
以後、翌15年12月14日の江戸本所吉良邸討ち入りまでの事績は 『忠臣蔵』 として名高い。
赤穂城の受け取りは隣の龍野藩脇坂氏に拠り行われ、備中西江原から森氏が転封。
以後、明治維新まで続いた。城の主な建造物は明治になって廃棄されたが、家老大石家長屋門などが残り、
駅の南、赤穂義士ゆかりの花岳寺付近から城跡まで、加里屋(かりや)地区を中心に
城下町の面影を見る事ができる。』 とあります。

JR播州赤穂駅全景
関西アーバンネットワークの多くの列車はここで折り返し運転を行う。

大石内蔵助像近影
駅から南へ向かうと、「いきつぎ広場」に【行きつき】ますが、ここが急使が息を整えた場所。
駕籠とはいえ、心労と疲労は最高潮に達した筈で、そこで頓死したら【急使で一生を終える】ところ。
すぐ脇に建つ「からくり時計」の名前は「義士あんどん」とありますが、大石内蔵助が「昼行燈」と
呼ばれたための命名で、急使が【安堵】したからではないようです。

お城通り交差点にある 「いきつぎ広場」

からくり時計 「義士あんどん」
朝9時から夜8時までの毎正時に作動し、忠臣蔵の世界を再現している。
肝心の「息継ぎ井戸」は直ぐには分からず、気が付くと【行き過ぎた】状況でした。
赤穂がどこにあるかは、知らない人も多いでしょうが、赤穂の名前を聞いたことのない人は
日本人にはまずいない筈。それというのも全て『忠臣蔵』の賜物。『忠臣蔵』は元禄時代に起こった
史実「元禄赤穂事件」を題材として創作された人形浄瑠璃や歌舞伎演目の一つ。
刃傷松の廊下から四十七士に拠る吉良邸討ち入りの史実を全十一段に拠って演じており、
当時の武士社会における不条理な判決に対し、主人を亡くした浪士たちが自らの手で正し、
主君に対する忠義を最後まで貫き通した物語として知られます。

「息継ぎ井戸」
江戸の急使二名はここで口を潤してから大石内蔵助に報告したと言う。

井戸の内部を見ると今は水は湧き出していない様子
毎年、年末から正月には必ずと言って良いほど忠臣蔵が放映されますし、
歌舞伎でも忠臣蔵の時は観客が喜ぶとか。前近代の話ですが、
これ程までに繰り返し演じられるのは日本人の琴線に触れる所があるのでしょう。
唯、忠臣蔵はあくまでも史実を元にしたフィクション。刃傷沙汰を【人情】に訴える作品に変えた
作者の文章力の【内匠守】さに脱帽すべきでしょうね。

少し行くと黒塀の向こうに花岳寺の全景が視界に
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【往路】JR大阪(5:55) → JR福知山(8:19→8:54) → JR八鹿(9:47)
八鹿駅前(10:40) → (全但バス) → 高柳(10:55) → 徒歩5分 → 高照寺 → 徒歩8分 → 道の駅但馬蔵 → 但馬農高(12:59) → (全但バス) → 八鹿駅前(13:13) → JR八鹿(12:38) → JR和田山(13:50→13:56) → JR竹田(14:03) → 徒歩30分 → 竹田城址 → 表米神社 → 徒歩5分 → 法樹寺 → 徒歩8分 → 竹田駅
【復路】JR竹田(15:57) → JR寺前(16:42→16:46) → JR姫路(17:34→17:41) → (新快速) → JR大阪(18:43)

見星山 法樹寺(浄土宗知恩院派)
神社参拝の後、列車までまだ少し時間があったので、寺町を北上。
その北端に建つのが最後の竹田城主の供養塔のある法樹寺。
案内板が掛けられており、寺は竹田駅の真横になるので駅舎と列車を視界に見ることができます。

表米神社前から寺町通りを北上

通りに面した寺院
前を流れる水路と石橋が共通点。
見星山法樹寺(けんしょうざんほうじゅじ)は、
『天正6年(1578年)、円山川沿いの河原町(現在の東町)に創建された。
竹田城廃城後の慶長11年(1606年)、最後の城主であった赤松広秀の陣屋敷跡であったこの場所に
生野代官所の許可を受け移転。
元々あった薬師堂は竹田城の楼閣を用いて建立されたとされていたが、平成16年の台風被害で崩壊。
薬師如来像のみ本殿に安置され、同じく赤松広秀夫婦の御膳、位牌が残されている。
現在の本堂は六世住職の寛文7年(1667年)~貞享5年(1688年)に再建され、
門前の石橋は享保8年(1723年)に架橋されたと言われる。
境内裏手の高台には最後の城主となった赤松広秀公の供養塔があり、
途中の参道脇には竹田城登山道に建立されていた三十三観音も移設されている。
また竹田城を借景とした庭園も見事である。

山門前の案内板
向こうにはJR竹田駅と停車中の気動車。

門前に到着

山門の正面に建つ本堂
赤松広秀公は永禄5年(1562年)、播磨龍野城主赤松政秀の子として生まれ16歳で龍野城主になる。
天正5年(1577年)秀吉の軍門に降るが、後に秀吉の家臣となり四国征伐の功を認められ竹田城主に。
城主としては九州島津征伐、小田原北条攻めに参戦した他、文禄の役には但馬衆と共に渡海している。

山門下から見る播但線

境内から見た山門
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では西軍に属したため家康の怒りに触れ、
同年10月28日、鳥取の真教寺で自刃。享年38歳であった。
彼の死を以て、赤松則村(円心)に始まる南北朝以来の赤松家も大名としては滅亡、
同時に竹田城も廃城となった。』 とあります。

山門の向かいにある六地蔵

寺の周囲を巡る石垣と白壁
寺町付近は元武家屋敷だった場所。ここに寺を集めたのは他藩の例でも分かるように防衛上の理由だったと思います。
由緒が古い割に新しく見えるのは、移転してきた事と平成の台風被害の影響でしょうか。
法樹寺があるのは登山口の横。かつての陣屋跡ですが、竹田城に登城することを思えば
一番近い場所にあるのは当然。というよりも戦闘場所である城郭と住居である陣屋が完全に分離しています。
中世では両者は一致していた筈ですから、何時頃からそうなったのか興味あるところです。

本堂正面
平成の台風被害後の再建。

本堂向拝欄間の龍彫刻と「法樹寺」扁額
最後の城主赤松広秀は地元では名君と呼ばれているようで、地元贔屓を割引いてもそれなりの人物だったのでしょう。
司馬遼太郎が「街道をゆく 播磨の道」で述べているように、赤松氏は播磨作用の土豪からのし上がった一族。
戦国大名はどこも似たり寄ったりですが、非常に土の香りのするような素朴な面を感じます。

本堂前の鐘楼

三十三ヵ所石仏を抜け本堂裏手へ
一族の祖である則村(円心)は鎌倉幕府倒幕で功績を挙げますが、後醍醐天皇には気に入られず
さしたる昇進もなし。そのため自分を引き立ててくれた足利尊氏の側に着きます。
以後、尊氏が劣勢になっても裏切ったり寝返ったりすることはなかった気がします。
嘉吉の乱では当主赤松満祐は将軍義教を殺害して窮地に立たされますが、
義教が恐怖政治を布いて各地の大名を取り潰そうとしたためで、満祐側にも同情の余地があります。

境内の最も高い場所にある赤松広秀公墓所

赤松広秀公の解説
城主の子として生まれた広秀も秀吉に屈服しますが、取り立てられて以後は秀吉のために功績を挙げています。
こうして見ると、機を見て相手を乗り換える、裏で謀略を廻らすと言った権謀術数は採らない
素朴で正直な人物だったと想像できます。名君とされるのもそのためでしょうが、
結果として戦国大名としての赤松家は滅亡。山名宗全が赤松氏に対抗すべく築城した
竹田城の最後の城主が赤松の最後の大名だったというのも因縁でしょうか。

広秀公の墓所の奥には無縁仏が
木地師の墓石もあると聞いたが分からず。

墓所から本堂裏手の庭園を見下ろす
余談ですが、赤松家の支流有馬家は久留米二十万石の大名として、山名氏は但馬村岡に領地を持つ
旗本でしたが江戸末期には一万石に加増され大名として同じく明治維新を迎えます。
有馬家は伯爵、山名家は子爵になりました。我々が思った以上に、大名家も強かなようです。
平民がそんな事を言ったら叱られそうですが。

庭園の向こうに見える本堂と書院

庭園近影
ここだけでも一見の価値あり。
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表米神社(旧村社)
竹田城跡を巡った後は、行きで登った駅裏登山道ではなく、南側の表米神社登山道で下山。
観光案内所ではかなり急勾配との事でしたが、足場は駅裏よりも良かったので左程苦にならず。
ミツバツツジの花が満開なのは登りと同様。漸く下界まで降りると出たのは神社の境内。

下山始めの山道

下るにつれて町並みが視界に

登山道の出口になる神社境内
本来は線路に並行する寺町通りから参拝するのが作法の筈ですが、城から下山したので許して貰えるでしょう。
表米神社(ひょうまいじんじゃ)は、
『一の宮表米神社と称する。祭神の表米宿祢命(ひょうまいすくねのみこと)は、
初めて但馬国造に任ぜられた大多牟坂王(おおたむさかおう)の9代目。
丹後・白糸の浜に来襲した新羅の賊を討伐したと伝えられえる。

寺町通りに面して建つ一の鳥居

表米神社と竹田城跡の位置関係

階段の先に建つ二の鳥居

階段の先にある神門
左は舞台。

神門から上って来た参道を振り返る
表米宿祢命は赤淵神社(和田山町枚田)・俵米神社(和田山町久世田)の祭神であり、
宝永年間(1707~1711年)に久世田の俵米神社をこの地に勧請、
以来上竹田一円の産土神として崇められている。
本殿は三間社流造で千鳥破風を有しており、本殿の欄間と神門大扉の彫刻は
当時の京都の名工周斎(しゅうさい)に拠る作品。また干支を周囲に巡らせており、
その精巧さには目を見張るものがある。

境内から見た神門
その奥にもう一つの門が。

もう一つの門近影

神門の奥に見える社殿

神門に掲げられた扁額

神門扉の鳳凰の彫刻
表米宿祢命は格技を好んだとされ、境内には全国的にも珍しい半円形石積段型桟敷がある。
相撲座敷とも呼ばれ、土俵を囲み半円状に六段の石が積まれている。
山口県長門市の赤崎神社にも同様の桟敷があるが、全国的にも非常に珍しいものである。

一の鳥居脇の説明板

神門脇の説明板

神門から見た境内
1865~1870年の間で造られたとされる桟敷の座席割図も残されており、
かつては奉納相撲などで賑わった。現在でも10月の竹田秋祭りでは境内で子供相撲が行われる。
また土俵を越えた正面には舞台もあって、能や歌舞伎を見物するためにも使用されたと考えられる。』
とあります。

階段先に建つ社殿(拝殿)

拝殿近影

拝殿奥の本殿
説明板は一の鳥居脇と神門脇にそれぞれありましたが、御祭神に関しては、
但馬国造の9世の子孫、孝徳天皇の皇子と全く異なる由緒が記載されていました。
唯、孝徳天皇は大化の改新後に即位し有名な有間皇子しか皇子はいなかったとされるので、
但馬国造の子孫と言う方が無理がありません。何故、すぐに嘘と分かる事を書いたのか?
まさか「たじま」と「ありま」を間違えたなんて【ありま】せんね。

本殿向拝の彫刻群

小さいが本殿側面の干支の彫刻

これは中国に由来する題材か?

本殿後方の磐座
本殿の彫刻も素晴らしいですが、それよりも驚いたのは石段桟敷。
時代を考えるとこの桟敷を使ったのは、ここの町人達。年貢が四公六民の天領だった事もありますが、
士農工商と身分制が厳しかったとされる江戸時代も、案外融通性はあったという事になります。
尤も代官の立場からすれば一揆や直訴などされると己の首が危なかったと言うのも十分な理由でしょう。
土俵で相撲、舞台で舞を見るといった日常から【ひょうまい】神社と呼ばれた等と勝手な想像を巡らせてしまいそうです。

土俵と舞台

六段の相撲桟敷

相撲桟敷解説

手水舎と池

全く人気のない社務所
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八鹿駅前(10:40) → (全但バス) → 高柳(10:55) → 徒歩5分 → 高照寺 → 徒歩8分 → 道の駅但馬蔵 → 但馬農高(12:59) → (全但バス) → 八鹿駅前(13:13) → JR八鹿(12:38) → JR和田山(13:50→13:56) → JR竹田(14:03) → 徒歩30分 → 竹田城跡 → 表米神社 → 徒歩5分 → 法樹寺 → 徒歩8分 → 竹田駅
【復路】JR竹田(15:57) → JR寺前(16:42→16:46) → JR姫路(17:34→17:41) → (新快速) → JR大阪(18:43)

竹田城跡(国史跡)
竹田駅下車は今日で4回目ですが、雨だったり、台風被害で登山道が閉鎖されていたりと
竹田城跡は未踏でした。戦国の城跡としては全国屈指の山城遺構として有名で別名「虎臥城」、
「兵庫県の歴史散歩(下)」にもカラー口絵で登場しています。
しかし以前は、交通が不便という事もあって訪れる人は稀。竹田駅も無人でした。

収受棟(受付)を抜け城跡への階段を上る

北千畳の石垣
かつて竹田郵便局に展示された城跡の写真を見た際に、局長が
「景色もいい場所なのですが、中々来てくれる人も少なくて…。」
と嘆いて居られたのも今は昔。ネットでの投稿が話題を呼んで今は大人気の城です。
出版関係の内容には左程変化がないので、これはひとえにネットの賜物。
「天空の城」「日本のマチュピチュ」を一目見たい人で土日の山頂は結構な混雑ぶり。
標高350mでは本家が気を悪くしそうですが、ひょうこう【兵庫】県なので良しとしましょう。
SNSの威力を目の当たりにした感じです。

大手虎口
ここから北千畳(右)と三の丸(左)へと向かう。

三の丸石垣
駅の観光案内所で伺うと、
「登り40分、山頂30分は見て置いて下さい。」との話。
次の列車までの時間は2時間足らずなので殆んど余裕はありませんが、
気を引き締めて線路を過ぎて寺町最北の法樹寺脇から駅裏登山道はスタート。
ここから収受棟(受付)までは900mの山道。尚、かつては受付もなく入山も無料でした。
登り40分は時間が掛かり過ぎと高を括っていましたが、足場が悪く急勾配もあって思った程進まず。
それでも20分で到達したのは出来過ぎでした。

北千畳にある桜の老木

北千畳から北側(和田山方面)を望む

同じく北千畳から東側(朝来山方面)を望む
眼下に見えるのは竹田の町並み。

朝来山中腹の立雲峡遠望
『竹田城は但馬守護の山名持豊(宗全)が、永享3年(1431年)に構築に着手。
13年の歳月をかけて嘉吉3年(1443年)に完成、家臣の太田垣光景を城主とした。
当時、山名氏と対立関係にあった赤松氏に対する最前線基地としての一つとしての築城であった。

三の丸、二の丸を抜けて本丸へ

二の丸付近からの南二の丸・南千畳石垣の眺望

二の丸石垣
その後、七代に亘り太田垣氏が城主を務めたが、天正5年(1577年)に羽柴秀吉が但馬を攻略。
翌年、弟の秀長を城代とした。その後、秀長家臣の桑山重晴の時代を経て、天正13年(1585年)に
赤松広秀が城主となったが、関ヶ原の戦いで西軍に属し敗北。広秀は自刃し城は廃城となった。

三の丸石垣

天守台へ
創建当時の姿は伝わっていないが、織豊期以降の竹田城は南北400m、東西100mの
規模の縄張りを持っていた。縄張りは最高峰の天守(353.7m)を中央に本丸、二の丸、三の丸、
南千畳、北千畳を築き、天守台の北西部には花屋敷と称する曲輪がある。
ここは主郭の中でも搦手の位置にあるため、南北には向かい合った石塁を築き防御性を高めている。
すべての曲輪は石垣で構成され「横矢」と呼ばれる石垣の折れを多用した複雑な平面構成となっている。

天守台本丸から南二の丸・南千畳を望む
遥か眼下を流れるのは円山川。

同じく本丸から見た三の丸・北千畳

本丸から見た西側を走る播但連絡道
竹田城跡の石垣は、自然石をあまり加工せずに積み上げた「野面積」で築かれており、
400年以上を経た現在でも当時の偉容を誇っている。これら石垣遺構周辺には
多くの石取場が確認され倭城の形態に類似している。』 とあります。

本丸(左)と平殿(右)を抜け南二の丸へ

南二の丸
今までは麓から見上げるだけだったので、山上は狭く石を投げれば端から端まで届く位に
思っていましたが、いざ到着してみると曲輪が五つ、広場が二つと結構な広さ。
野面積みの石垣も崩れずに残っており 「崩れしままの石垣に 哀れを誘う病葉」などありませんでした。
これなら兵糧米と飲料水を確保すれば、楼上での籠城にも耐え得るように思いました。

南千畳の虎口付近

南二の丸にて

南二の丸から天守台石垣を見る
境内の南北千畳には桜の老木が見られましたが、見所は駅を挟んで対面する
標高757mの朝来山中腹の立雲峡。
無数の奇石・巨岩が点在する中に樹齢300年以上と言われる老桜が群生し、
開花期間が長いのが特徴で、「但馬吉野」と呼ばれる程の北近畿の桜の名所となっています。

南二の丸と天守台石垣

南千畳から南二の丸・本丸を見る

南千畳からの竹田城跡遠望
城跡の桜はほぼ散っていましたが、天守台から遠望した立雲峡の上部には桜が白い雲のように開花。
吉野の名は伊達ではありません。出来れば竹田城跡から立雲峡を望み、続いて立雲峡から竹田城跡を
眺めるのが理想といえるでしょう。それには天候、時間と健脚が必要なのは言うまでもありません。
こうして城跡を一巡して下城へ。上って見ると思った程、観光客は居なかったのは意外でした。
コロナの影響か、ブームが一段落したのかは分かりませんが…。

南千畳端からの朝来山遠望

下りは南側の表米神社登山道で

登山道を彩るミツバツツジ
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播但線竹田駅
町並みにまっちした駅舎。後方の山の高峰に見えるのが竹田城址。
八鹿駅から13時台の電車で福知山方面へ戻りますが、この時間帯は福知山駅での乗り継ぎが悪く、
和田山で播但線乗換の方が大阪へ30分以上早く着きます。
するとまたどこかへ寄り道しようなどと言う魂胆が頭を擡げて、一駅だけ乗って竹田で下車。

駅舎の看板は頭山満書。

JR竹田駅スタンプ
2006年JR西日本福知山支社と同様のものを後に設置したものだが、回収されることなく今も現役。
竹田駅は
『明治39年(1906年)、播但鉄道の新井~和田山駅間の延伸と同時に旅客・貨物の取扱駅として開業。
竹田が但馬牛の市場として栄えた頃は、牛専用のヤードがあった。駅舎は当時の姿を残しており、
額は明治の思想家・頭山満の書。また彼は立雲峡の命名者でもある。』
駅ホームから線路の向こうを見ると寺院が並び、遥か山上に石垣が。
その寺院の横から続くのが駅裏登山道なので、距離にしては直ぐにも登れそうですが、
改札口はなく線路を越える踏切は南にあるので、少し遠回りする事に。

ホームから見た寺町とその北側(右)を通る登山口

駅舎の横から見ると虎臥山
暖簾の掛かっているのは御手洗い。

竹田城址遠望

竹田郵便局 ; 竹田城址、大将軍杉、立雲峡の桜
『駅を出て直ぐ前の通りを走るのが旧街道。竹田の町が整備されたのは竹田城が築かれた戦国時代。
旧街道周辺には町人、寺町通りには武家屋敷という町割りが出来上がっていった。
特に竹田には多くの木地師が住み着き、かつては漆器造りで隆盛を極めた。
今はその伝統を受け継いだ家具作りが盛んである。
慶長、宝永、明治と三度の大火に見舞われ歴史を語る建造物は少ないが、
線路に並行して所々趣のある家が並ぶ。

旧町屋を改装した喫茶店「寺子屋」
駅から東へ進んだ街道沿いに建つ。

旧街道の西側(左)に建つ町屋群

東側の家屋
交差点の右手に大きな白壁の家屋があるのが旧木村酒造。
木村家は武田信玄の家臣であった飯尾氏で武田家没落の後、播州加古川木村に移住。
姓を木村に改め屋号を加古屋とし、当主は代々木村新左衛門を襲名した。
寛永2年(1625年)頃に竹田に移り酒造業を開始。以後繁栄し銘酒「虎臥城」を世に送り出したが、
昭和54年(1979年)に休業、350年の歴史に幕を下ろした。
明治35~36年に建て直された主屋は宿場町の意匠が施された国登録有形文化財。
現在は宿泊施設、また一部を天空の城情報館として利用されている。

街道西側の白壁は旧木村酒造

こちらは線路沿いから見た旧木村酒造入口

木々に覆われた旧木村酒造説明板

旧街道西側に面した旧木村酒造玄関
今はホテルとして第二の人生?を歩んでいる。

線路沿いの顔ハメ
線路西側の寺町通りには水路に沿って一社四ヵ寺が並び、
特に寺院は立派な門構えと水路に架かる石橋を持つのが特徴である。
最も北に位置する法樹寺の北側から続くのが駅裏登山口。
寺院の脇より900m先に城址受付所がある。』 とあります。

線路西側の寺町通りを北上

寺院北側の登山口

登山口から少し上った広場から町を見下ろす
正面山左の中腹に白く見えるのが立雲峡の桜。

このような参道を900m
両脇の花はミツバツツジ。
竹田はCMでもお馴染みの家具が有名で、昔ながらの街並みも残りますが、
最近はホテルや旅館に転用されている場所も多いとか。
それはそれで良い事ですが 「果たしてそんなに宿泊者が居るんかいな?」 と言うのが素朴な疑問。
観光案内所の人の話では雲海を見る人が利用するとの事。
成程と納得しましたが、見れるかどうかは【運かい!】です。

漸く山上受付(料金収受棟)に到着

竹田城跡 観覧パンフ
これは駅の観光案内所では入手できずここだけ。

山上で押印した100名城スタンプ
各地で押印したが、このような台紙は初。
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栂尾山 高照寺(高野山真言宗 関西花の寺第五番霊場 但馬七花寺霊場) 本堂入口
御本尊参拝の後、花の寺境内を散策しましたが、本堂の内陣を飾っていたのは数々の仏画。
国宝、重文などの範疇ではありませんが、スルーするには惜しいものがあります。
本堂前面の上にあるのは十三仏絵画。本堂を囲むように掲げられ、
十三仏とありましたが十仏しか見つかりませんでした。額状に極彩色で描かれたもので、
全体的に平面的な日本画の特徴が見られますが、御本尊は陰影がある立体的な像でした。
奉納・椿野浩二と記されていたので檀越の方でしょうか?

薬師如来と虚空蔵菩薩

弥勒菩薩と勢至菩薩

阿閦如来と阿弥陀如来

本尊・大日如来

普賢菩薩と文殊菩薩

向拝下左の菩薩像の浮き彫り

同じく右の菩薩像の浮き彫り
本堂内陣へ入ると左奥には宗祖の生涯を表したと思しき畳1枚の大きさの絵画が3幅。
説明書きでは作者は小林礫川(れきせん)。江戸出身で幕末から明治に活躍した大和絵の画家。
勤王の志士とも交流があったため幕府に【拘留】され王政復古で釈放されたという【歴戦】の強者。
その後、当地高柳村の大庄屋の招きで当地に住み、明治37年(1904年)に没するまで但馬各地に絵を残しています。
全く初耳な人物ですが、幕藩体制時代には各地にこのような芸術家が居たのでしょうか。
今よりもグローバル化していたのかもしれません。

内陣左側の様子

三幅の掛軸に描かれた宗祖の生涯

作者解説

左側

中央

右側

拡大図
部屋の周囲を囲む襖には四天王、菩薩や明王像が。
名前の記載がなかったので、住職夫人に尋ねると
「これらは先々代住職の作品です。」と言う答え。
今の御住職は染織作家なので遺伝でしょうか?
それにしては素人の域を超えた【こうしょう】な趣味と言えます。

左側奥の襖に描かれた四天王像

欄間に彫られた飛翔する雁

同じく地上に降りた雁

本尊の向こうに見える内陣右側の様子
仏教が大陸から伝わった古代では僧侶は最先端の技術を持ったエリートで、今のキャリア官僚に相当。
中世以降も大陸からの文物を導入する橋渡しとなり、我が国の学問・芸術を牽引しました。
将軍や大名の教育に当たったのも主に禅宗の僧侶だったのは良く知られた話。
仏師の運慶・快慶、画家の了円・如拙・雪舟も全て僧籍にあった人物で、
僧侶が居なければ日本文化も随分と貧弱なものになっていたでしょう。

襖絵の仏たち

同上

これは菩薩様?

こちらは明王様?

鶴の欄間彫刻

兎の欄間彫刻
それが大きく変わったのは江戸時代の檀家制度。元来は切支丹禁教のためですが、
この制度のために寺院は、自らの努力を放棄した気がします。
明治になってキリスト教の禁が解かれ、神仏分離となった事で寺院は苦難の道を歩みますが、
その時も自ら積極的に何かを創造する具合にはなりませんでした。
徳川250年の泰平が生んだ鬼っ子と言えます。
一部の新興宗教を除き、宗教は人の心からますます離れつつあるのが大部分の宗教の姿。
こんな場合こそ、先人に学んで新たな創造に取り組むべき時なのかもしれません。

本堂花天井

本堂花天井は江戸時代の作
こうして拝観を終えて東へ少し歩いて道の駅ようか但馬蔵へ向かうと、40分後に始発のバスがある様子。
八鹿駅まで徒歩を覚悟しましたが、バス停一つ進むだけで運行本数も増えるようです。
待ち時間を利用しての昼食は、おばんざい定食「もくれん」。
高照寺に由来するのは間違いなさそうですが、味も但馬農高に隣接するだけに【濃厚】でした。
普通なら但馬牛重にする所ですが、それに眼【もくれん】かったのは、花の寺に目が【くら】んだ故でしょうか?

おばんざい定食「もくれん」 \1,420
[参考書]
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栂尾山 高照寺(高野山真言宗 関西花の寺第五番霊場 但馬七花寺霊場)
本堂で御本尊と「なで弘法」に参拝しましたが、この日のメインは木蓮の花。あらためて境内を花巡り。
『高照寺は関西花の寺第五番霊場に加えて但馬七花寺霊場。
境内へ向かう坂になった参道から境内まで植えられているのが木蓮。
四月上旬にはハクモクレン(白木蓮)が真っ先に花となって、
枝一杯に小さなハンカチを結びつけた様に咲く。中頃には薄紅色、赤色、錦と咲き継ぎ、
五月上旬には珍しい黄色の木蓮がひと月にも及ぶ花逍遥を締め括る。その数300本。

参道の木蓮(左)と石楠花(右)

石楠花の向こうに見える鐘楼

反対側は本堂

桃色の石楠花

薄紅色の石楠花

赤い石楠花
木蓮の春が過ぎ、日盛りの夏には桔梗が紫の花を涼しげに咲かせる。
秋風が立つ頃には萩の花がぽつぽつと咲き始め、やがて境内には11種類もの萩が加わり
花群が秋天に映える。そして白萩祭でクライマックスを迎える。』 とあります。

石楠花近影

同上

石楠花各色揃い咲き
木蓮は字でも分かるように釈迦が座って居られる蓮の花弁を連想させます。
仏教に相応しい花と思いますが、意外と木蓮の寺と言われる寺院は少なく貴重な存在です。
当寺は4月の木蓮に加え9月の白萩が有名ですが、他にも多くの花が境内を彩ることで知られます。
この日は木蓮の目当ての参拝でしたが、参道には木蓮と並んで石楠花も花盛り。
解説書には記載がない花でも見応えあるのが花の寺の真骨頂とも言えそうです。

馬酔木の奥の本堂

木蓮越に見る本堂屋根

大きな木蓮の木の下で

白壁に映える木蓮の花
木蓮と似た白・薄紅・赤の花でしたが、それで【癪な気】にならないのが花の良い所。
まず以て木蓮と花の高さが違うので競合する事はありません。
全て受け入れる御仏の心の広さといえます。

木蓮近影

境内裏の木蓮

これが黄色花木蓮か?
昨日は天候不安定で「八日に八鹿で花まつり」は流れましたが、
160㎞の道を来た甲斐はありました。文字通り「花をたずねて四十里」の花巡礼。
『母を訪ねて三千里』はマルコ少年ですが、『花を訪ねて四十里』は〇・高照・蓮でした。

木蓮、石楠花以外にも

満開の桜

書置きの 「花の寺」 御朱印
[参考書]
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栂尾山 高照寺(高野山真言宗 関西花の寺第五番霊場 但馬七花寺霊場) 本堂前にて
入山を済ませて参道の上った先に建つのが本堂。
と言っても寺務所・納経所・書院・本堂はすべて一棟の建屋に連なっています。
先ずは納経所でベルを鳴らして御朱印拝受。
待っている間に住職夫人がお茶と御菓子を持って来て頂いたのには恐縮しました。
記念品付きでお茶まで頂いては入山料を払っても実際は無料のようなものです。
書院玄関の朱い毛氈に座り花を見ながら一服した後は、御本尊始め境内に祀られている仏様を順に参拝。

先ずこちらに伺う

納経所近影

最近できた御朱印らしい

高照寺説明書 (参拝記念品に含まれる)

「花の寺」に相応しい説明書裏面

墨書して頂いた御朱印 (御本尊)
栂尾山高照寺(とがのおさんこうしょうじ)は、
『元正天皇の養老4年(720年)、行基菩薩53歳の時の開基と伝わる。
承和年間、唐より密教を日本に持ち帰った空海が、住持する京都高雄神護寺で伝法灌頂を開き、
比叡山の最澄も弟子と共に灌頂を受けた。最澄の弟子で後継者と目されていた泰範(たいはん)が、
灌頂を受けたまま比叡山には帰らず、空海の弟子になるという事件があったのもこの時の事であった。

お茶と御菓子の接待

書院玄関前で庭の花を見ながらの一服
その泰範上人がこの寺の住職になり、都と但馬を往復する内に但馬の寺の名を
栂尾山神護寺と呼ぶ事を許されたと伝わっている。その後、栂山の北西の庵坂に移り、
栂尾山蓮華寺と改称、一時期禅宗寺院となった。

高照寺寺史

本堂正面は右近の木蓮、左近の馬酔木

石楠花の向こうに見える本堂

本堂の向拝
内陣へここから上がる。
江戸の明暦元年(1655年)、寺を観音堂屋敷に移し栂尾山高照寺と改称。
時の住職宥尊法印を以て再々中興第一世とした。観音堂屋敷にあること164年、
住職は21世に及んだが、この地は豊臣秀吉の八木城攻略の古戦場であり、
地相が悪しき故を以て第21世雄空法印は檀徒と相談の上、
文政2年(1819年)三十数年をかけて現在地に解体移築、今に至っている。

向拝下にて

本堂前面に掲げられた「栂尾山」の扁額

向拝下から庭を見る
正面には木蓮が花盛り。
本尊は胎蔵界大日如来であるが、「なで弘法」と呼ばれる弘法大師像を本堂内陣前に安置。
治したい所を撫でながら拝むと霊験があると言われる。』 とあります。
御本尊に加えて「なで弘法」にもお詣り。先般、善光寺で「なで仏・賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」像が
盗まれる事件があったばかりなので、気にはなりました。
TV等で放映されると、それに【便乗する不遜者】が出ても不思議はないので。

本堂内陣の様子

御本尊

内陣に置かれた「なで弘法」
歴史があるにも拘らず、本堂を初め境内の堂宇が真新しいのも特徴的。
本堂の左手に建つ観音堂は御堂の形をしていますが、右手にある白壁の建物は休憩所風。
気になって内陣へ入ると石に彫られたお不動様が鎮座。宝物庫と思ったのは不動堂でした。

本堂左手に建つ観音堂
丁度、法要が執り行われていた。

本堂と観音堂の間の庭園

参道右手にある建物
左は蔵、右は住居に見える。

蔵様の不動堂全景

不動堂内陣
千年以上の由緒を誇るだけあって何度も改名・改宗をしたようです。
中でも最澄の弟子の泰範が空海の元に走ったのは驚きを以て見られたようですが、
改宗は彼一人で【大半】の弟子は留まった事で最悪の事態は避けられたのだと思います。
そんな中に在って山号の「栂尾山」だけは不変。
枝葉は変えても、幹は変えないという意識の表れと言えましょう。
まさか改宗を【とが】めた訳ではないと思いますが…。

七福神の布袋尊を祀る堂

布袋尊というよりも七福神が浮き彫りにされている。

境内中程に建つ弘法大師供養塔

不動堂からの眺望
[参考書]
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栂尾山 高照寺 (高野山真言宗 関西花の寺第五番霊場 但馬七花寺霊場)
春の18きっぷの最後は先週に続いて「関西花の寺」と兵庫の養父へ。
大阪駅からは150㎞の八鹿(ようか)で下車して西へ6㎞行った場所、
文字通り「花をたずねて四十里」となります。
当初は前日の予定でしたが天候不安定で順延。
「八日に八鹿で花まつり」は流れましたが、この日は快晴で絶好の巡礼日和。
しかしバスが日曜ダイヤという事をすっかり忘れて駅でのバス待ちは50分。
駅は無人で周辺には売店もないので目的地まで徒歩。何とかバスよりも10分前に着くことができました。

今は無人となったJR八鹿駅
乗降客も少ない。

JR八鹿駅スタンプ (2006年 JR西日本福知山支社印)
八鹿駅は鉢伏や湯村温泉に向かう路線バスの始発駅で、駅の傍には全但バスの営業所もあります。
特急も停車する主要駅でしたが今は無人。代わりに寺の一つ手前にある
道の駅「ようか但馬蔵」に客足は向いている様子で、鉄路から道路への流は止まりません。
八鹿駅でスタンプを押す機会は最早ないのでしょうか。

対照的に多くの客が来る道の駅 「ようか但馬蔵」
右奥にあるのはバス停の名前にもなった但馬農高。

道の駅スタンプ
バス停から9号線を西へ行くと左手に寺への案内板が。
その方向を見ても大伽藍はみつかりませんが、花を付けた木々が生い茂っているのでそれと知れます。

9号線沿いに建つ案内板
奥に見えるのは高柳小学校体育館。

案内板の先に見える光景
木々のこんもりと茂った場所が目指す寺院。
坂の入口には山門はなく代わりに寺号標が建ち。脇には六地蔵様が鎮座。
別段、いまから冥途に行く訳ではありませんが、俗界と聖界の境界なのでしょう。
ここで禊を済ませていよいよ入山。

坂の上り口に建つ寺号標

寺号標脇の六地蔵

駐車場に建つ十三重石塔と赤木蓮
そこから緩やかな坂道を上って行くと左側には木蓮がお出迎え。
色に拠って咲く時期が微妙に違うらしく、春先から白、薄紅、赤ときて
最後を飾るのが黄色。いまは薄紅が見頃でした。

寺への坂道

ハクモクレン(白木蓮)は終盤?

薄紅色は花盛り
坂を登ると道は左右に分かれ左は車、右は徒歩の参道となっています。
その分岐点には入山料(¥300)を納める箱があって、入山者には参拝記念品が授与。
寺院説明書、般若心経等が入っていますが、面白いのは「高照寺十三仏木版画」。
毎年4月1日から先着1000名の来山者に授与される返礼品ですが、
図柄は年毎に変わるのでコンプリートするのに13年かかるという気の長い代物です。

坂を登った場所にある分岐点

左の車道を進むとこんな感じ

右の徒歩の参道はこちら

入山料を納める箱と白い紙袋に入った参拝記念品

参拝記念品(パンフ関係)

参拝記念品(十三仏木版画)
右下に 306/1000 とあるのは拝受した順番。
解説書では密祐快(みつゆうかい)住職は世界を放浪中に染織に魅了され、
その後、現代アート作品を発表されているアート作家。
宗教と芸術の二刀流と言えますが、今は休止して居られるとの事。版画はその分身なのでしょう。
私が頂いたのは306の番号が付けられており、4月9日で306ならばGW前にはほぼ完売?
になると予想できます。これから毎年4月に参拝するかどうかは未定ですが、
参拝者が【密】になりそうな【ゆうかい】な企画である事は確かです。

参道前の紅木蓮

参道から来し方を見返る
結構、高い場所まで来たのが分かる。

参道を上り切った場所には鐘楼堂が

鐘楼脇の道標と石楠花

鐘楼下の三猿
[参考書]
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<コース> JR・阪急共に10分間隔で運転
【JRルート】JR大阪 → JR伊丹 → 徒歩8分 → 旧岡田家住宅
【阪急ルート】梅田 → 塚口 → 阪急伊丹 → 徒歩8分 → 旧岡田家住宅

旧岡田家住宅(国の重要文化財)
如月も末の六日、曙の空朧々として、ちと野暮用のために伊丹を訪問。
行先は旧岡田家住宅で、JRからも阪急からもほぼ等距離と駅近く。
10時の開館と同時に用事は無事終了。普通ならそのまま帰宅するところですが、
この時期 令和5年2月4日(土)~3月4日(土)
の期間で「ひなかざり」が無料で開催中。
これは見逃す手はないと、そのまま邸内を見学する事に。
JR西口から阪急へ向かう伊丹酒蔵通りから一本北にある東西の通り、
近代的なビルや住宅街の中にあってタイムスリップしたかのように
旧岡田家・旧石橋家と江戸時代の町屋が並びます。

通りから見た岡田家全景

重文・旧岡田家住宅

伊丹市マンホールカード 同市内では4種目
この日の野暮用はこの入手。

道路沿いに設置された同じ図柄のマンホール蓋
旧岡田家住宅は、
『上方から江戸へと酒を運ぶ江戸積酒造業を基幹事業として繁栄した伊丹の実業家。
その邸宅は延宝2年(1674年)の建築。現存するものの中では町屋は県内最古、
酒蔵が国内最古で、国の重要文化財となっている。

杉玉と看板の下がった入口から屋内へ
暖簾の三つ鱗は家紋?

店舗に置かれた雛飾り
明治時代の雛飾りは明治40年(1907年)頃のもので、平成7年に市民より
旧伊丹市立博物館に寄贈されたもの。現在は市立伊丹ミューゼアムが所有。
最上段には内裏雛が黒塗りの御殿に鎮座し、前には三人官女が並ぶ。
下段には嫁入り道具や台所道具のミニチュアが並ぶが、これは当時の風習と考えられる。

明治時代の雛飾り

手前に置かれた生活道具のミニチュア

最上段に置かれた内裏雛と三人官女
大正時代の雛飾りは当館の柿衛文庫の所蔵。
最上段に内裏雛・三人官女が並ぶのは明治期と同じだが、
建家は白木の神社拝殿を模した造りと変わっている。加えて下段には、
結婚式に使用する打掛、御付きの女性と思しき立ち姿の人形が置かれている。

大正時代の雛飾り

手前に置かれた立ち姿の人形

最上段の内裏雛と三人官女
旧岡田家住宅は、正面に店舗、奥に酒蔵、その間に釜屋・洗い場が並んでいる。
建設時期は店舗が江戸前期の延宝2年、酒造は少し遅れて正徳5年(1715年)頃と考えられている。
釜場・洗い場は江戸後期に建てられ、その後大きく改造されて今に至っている。
建立から酒造廃業までの310年間に五次に亘る変遷があり、酒蔵の増築や窯場の増改築等、
様々な改革が行われた。これは醸造技術の改良や酒造規模の拡大が原因と考えられ、
詳細は阪神淡路大震災後の解体修理に伴う建物調査と内部の発掘調査に拠り明らかになってきている。

これは酒米の洗い場

洗い場横の井戸
ここからの水で酒造りをするとか。

洗い場・井戸の解説

かつての竃
学芸員の方の話では、酒米は炊くと柔らかくなりすぎるので蒸すくらいが丁度良いにだそう。

釜場・竃の解説
建立者は江戸前期の酒造家・松屋与兵衛であった事が古文書等から推定される。
蔵の所有は享保14年(1729年)に鹿島屋清右衛門に渡り、明治に入り安藤由松を経て
岡田正造へと渡り、昭和59年(1984年)まで㈱大手柄酒造の北蔵として酒造りが行われて来た。
ここで醸造されていた酒は、江戸時代には松緑(まつみどり)、岡田家の所有となって以後は、
富貴長(ふきちょう)・大手柄(おおてがら)が主要銘柄であった。
この良質な酒造りの伝統と文化は2020年に『「伊丹諸白」と「灘の生一本」下り酒が生んだ銘醸地、
伊丹と灘五郷』として「日本遺産」に認定されている。』 とあります。

醪(もろみ)の絞り機

天上の造り
昭和の雛人形は自宅も含め何度も目にしていますが、明治・大正期はこのような展示で見るくらい。
雛壇を飾る経済的余裕がなかった家庭が多かったためでしょうが、
その分職人の技術を集めた秀作が多い様にも見えました。
伊丹の酒造は、戦国武将山中鹿介幸盛の子である新六幸元が大叔父を頼って伊丹の鴻池に逃れ、
この地で清酒醸造を始めた1600年頃まで遡ります。清酒は江戸に運ばれ莫大な利益を得ました。
当時江戸の醸造業はまだ開発途上で、伊丹の酒は上方からの下りものとして絶大な人気を誇ったようです。
反対に下って来ないものは人気がなかった訳でこれが後世 「下らない」 の語を生みます。

かつて醸造された銘柄を展示
勿論中身は空だろうが…。
新六幸元の八男善右衛門は大坂に出て酒造りで得た資金を元に両替商に進出、
江戸時代には鴻池家として西日本屈指の大商人に成長します。
鴻池の発展の基礎が酒造りなのは聞いた記憶がありますが、
祖先が尼子十勇士の山中鹿介と言う真偽は如何に?単に伝説と思っていましたが、
学芸員の方の話では信憑性は高いそうです。
中国地方の覇権は毛利氏に奪われましたが、その家臣が西日本の経済圏を牛耳った事で、
尼子氏も以て瞑すべしでしょうか?

伊丹清酒造りの沿革

鴻池家の始祖二人
清酒の製法は戦国末の大和の正暦寺が発祥ですが、その技術者を京の伏見・摂津の伊丹が
引き抜いて江戸時代に発展を遂げます。酒造りに欠かせない水に恵まれた事もありますが、
できた酒を販売する交通網を持った事が大きかったように思います。
その伊丹の発展も後には灘に移る事に。猪名川水系よりも兵庫の港の方が酒の大量輸送に
向いていたからでしょうが、それに伴い当時の杜氏も多くが移った事でしょう。
正暦寺と同じ運命ですが【伊丹】分けと言った所でしょう。

ミューゼアム2階からの眺望
左手奥が岡田家、手前が石橋家。
醸造家には文化芸術に造詣が深い人も多いですが、岡田家22代当主・岡田利兵衛は
その代表格。岡田利兵衛は
『国文学者として梅花・聖心で教鞭を採る傍ら、松尾芭蕉研究でも知られ、多くの俳諧資料を蒐集。
岡田家の庭には台柿という見事な柿の樹があったが、その柿を衛るという意味を込めて
柿衛(かきもり)を号とした。
そのコレクションは「柿衛文庫」として隣接する市立伊丹ミューゼアムが所蔵している。
後に伊丹市長、名誉市民にもなった。』 とあります。

ミューゼアム横の庭園
資料館の売店で、岡田利兵衛に関する冊子を¥500で購入。
そこには家族写真もありましたが、中には三男の節人(ときんど)氏の学生時代の写真も。
節人氏は発生生物学の泰斗、京大・岡崎基礎生物学研究所を経て文化勲章受章。
私も氏の岩波新書・ブルーバックスの著作や講義でその謦咳に接しました。
生物学者でしたが源氏物語や俳句など文学に関する発言も多かったのは、
この生い立ちを思うと納得です。
尚、節人氏も晩年伊丹名誉市民になったそうで、親子二代に亘る快挙になります。

購入した岡田利兵衛(柿衛)伝の冊子 ¥500

伊丹桜ケ丘郵便局 ; 重文・旧岡田家住宅、旧西国街道道標
伊丹船原郵便局 ; 重文・旧岡田家住宅、酒造り風景
[参考書]
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梅田 → (阪急電鉄) → 花隈 → 徒歩3分 → モダン寺

本願寺神戸別院 兵庫教区教化センター(浄土真宗本願寺派)
朝からの健康診断が終了したのが11時前。今日は一日休暇なので
そのまま帰るのが筋ですが、またぞろ良からぬ考えが頭をもたげて三ノ宮へ。
ポートピアと下山手で野暮用を済ませたあとは、北区のお不動さんにお参りする積りでしたが、
神戸電鉄箕谷駅から3㎞で気温も30度越えの予想。
健康診断に行って倒れても洒落にならんので、今日ばかりは「北区はよそう」と帰宅することに。

ポートピアでの野暮用その壱

神戸下山手郵便局 ; 神戸ポートタワー、錨山、市章山
地下鉄の駅に向かう途中に「モダン寺」の看板が。
ハイカラな神戸らしい名前ですが、実は本願寺神戸別院の別称。
本願寺神戸別院は、
『浄土真宗に帰依した篤信者により摂津国八部郡二つ茶屋村に寺舎が築かれ、
寛永16年(1639年)に第13代良如宗主より寺号を授与された善福寺が前身。
その後、現在の地に移転し、更に明治41年(1908年)8月に別格別院となり、
貴族院議員や大臣を歴任した大谷尊由師を住職に迎えた。
当時の建物は従来の木造建築であったが、大正6年(1917年)1月の火災で焼失。
昭和5年に鉄筋の大寺院として復興。我が国初のインド仏教様式デザインの建造物である。

一見、大学と見紛う様な寺院正面

門前には宗祖・親鸞聖人像が建つ
本堂の内陣は昭和5年(1930年)の本堂造営に当り、
本願寺第22代大谷光瑞門主の指導で設計されたもの。
ルンビニーのアショカ王参拝記念の碑文をデザインした御戸帳、
ブッタガヤの大塔を模した宮殿の屋根、初転法輪の地・鹿野苑の大塔の模様を配した須弥壇、
サンチー大塔内の柱を組み合わせた宮殿柱の彫刻と、釈迦の一生を象徴するものとなっている。
5つの尖塔を持ち、正面左右のブロンズ像やステンドグラスの飾り窓等、
多くの異人館が点在する港町神戸にあって一際異彩を放っており、
モダン寺の呼称で親しまれている。
太平洋戦争でも戦災を免れた当寺は昭和35年(1960年)8月から
浄土真宗本願寺派(西本願寺)本山直属となり、本願寺神戸別院と命名された。
同年10月には兵庫教区教務所が併設され、伝道拠点として大きな役割を果たした。
近年になり老朽化が進んだため、かつての面影を強く残しつつ
平成7年9月に本願寺神戸別院・兵庫教区教化センターとして竣工。
多目的に使用できる施設となった。』 とあります。

一瞬、教会を連想させる正面の壁面に嵌め込まれた仏像のレリーフ

本館の4階にある絢爛たる本堂の内陣

上部の装飾は「二十五菩薩来迎図」か?

本願寺神戸別院参拝のしおり

しおりの裏面は別院の正面写真
正面に建つと築地の本願寺を彷彿とさせますが、あちらの設計は建築家伊藤忠太。
こちらは大谷光瑞師、本願寺第22代門主と言うよりも大谷探検隊で知られた方です。
仏教の本場を見たので、こんな造りになったのか、興味は【尽きじの本願寺】でした。
境内というよりも館内は拝観自由。職員の方の案内で3階の本堂を参拝。写真撮影もOKでした。
真宗は御朱印なしが普通ですが、尋ねると
「代わりにスタンプ押印になります。」 との事。
見ると「全国別院巡拝スタンプラリー」の冊子が。
一冊コンプリートすると、記念品+精進料理の特典があるそうで、
御朱印もここまで来たかの観がありました。
早速押印しましたが、果たして全国行脚するかどうかは思案中。
尤も全国別嬪巡拝ならば話は別ですが…。

スタンプラリー冊子

押印した神戸別院のスタンプ

ツーリングの特典
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【復路】JR明石(14:51) → (新快速) → JR大阪(15:28)

法榮山 本松寺(日蓮宗)
本松寺は別名「谷の妙見」「萩の寺」と呼ばれるだけあって、石段から山門、本堂へと続く配置に趣があります。
本堂前の山桃の古木もそうですが、何といっても一番の見どころは本堂裏手にある枯池式枯山水庭園。
当所、庭園は拝観なしと思っていましたが、本堂脇の細道を行くと板塀があって庭園入口の案内が。
樹齢300年のヒラドツツジの径を過ぎると庫裏の縁側に出て、その正面に庭園があるという
書院・離れ座敷を視点にした作庭になっています。

本堂前にある山桃の古木
丸く刈り込んだのを釈迦如来の頭に譬えて「聖僧樹」と呼ぶ。

庭園には本堂前の敷石に沿って進む

扉を開けて庭園に進む

樹齢300年のヒラドツツジ
『本堂と山門の間には樹齢数百年の山桃の大木があり、丸く刈り込んで釈迦仏の頭に擬えて聖僧樹と称している。
明石藩の最後の儒者橋本海関は「一樹千林を圧す」と詠んだ。海関は日本画家橋本関雪の父である。
また庫裏の庭園は明石城築城に当り、町割に携わった剣豪宮本武蔵の作庭と伝わる。
本堂を背に書院に面した枯池式枯山水庭園である。浅い枯れ池を穿ち軽い築山を二箇所に築いて、
二つの築山にはそれぞれ大小の枯滝を大滝小滝として組み、大滝には水分け石を据えている。
池泉は瓢箪型で枯れ池、手前の出島は亀出島である。

庭園への道

庭園入口の刈込

本堂を背にした庭園

庭園左側
手前の大きな石は礼拝石。
池は浅く一段の護岸石組で自然石の石橋が架かっているが、元は櫟の橋であった。
石組は小振りであるが平面構成を重視し、視点に拠る変化を持たせている。
旧明石藩下の圓珠院・福聚院の庭園とも共通する所が多い。』 とあります。
瓢箪型の池泉は降雨の時のみ水が溜まる様になって居り、説明書を読むと成程、圓珠院の庭に類似していました。
この日見た庭園は【二点一流】。宮本武蔵の【ほんしょう】は剣豪なのか作庭家なのか意見が分かれる所でしょう。

庫裏書院前からの眺望

枯池に架かる自然石橋
元はクヌギの橋であった。

枯池の向こうにある(上から)遠山石、蓬莱石、大滝

本松寺庭園の詳細
[参考書]
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法榮山 本松寺(日蓮宗)
人麻呂所縁の社寺を参拝したあとは、そのまま西へ下り寺の並ぶ一角へ向かいますが、
自転車は線路まで南下して再度北上することに。時の道と呼ばれる一角に建つのが本松寺。
法榮山本松寺(ほうえんざんほんしょうじ)は、
『慶長元年(1596年)、審理院日甫上人が舟上城下に建立した日蓮宗本正寺が嚆矢。
日甫上人は俗姓を藤井新右衛門勝介と言い、信長の近習を務め山崎の合戦で討死した藤井主計頭親秀の遺児。
父親の死後、母に拠って摂津住吉付近に隠れ住んでいたが、秀吉の知る所となり召し出され出仕。
明石舟上村に知行地を与えられ代官となっていた。
上人は秀吉に当寺への寄付を願い出た所、認められ8石が断絶することなく寄せられたと言う。

境内の躑躅と山桃の大木

正面から見た本堂
大坂夏の陣の後の元和3年(1617年)、信州松本から小笠原忠政(後に忠真)が十万石で明石に国入りし
舟上城に入るが、翌年将軍の命に拠り明石城を築城する事となり舟上城は廃城となった。
ここに近世明石藩は成立、忠政の客分となった宮本武蔵が城下の町割りを行い、
明石の中心は明石川を越えて東へ移った。
これに従い、当寺は檀頭であった明石藩家老の齋藤甚左衛門利政、美濃部九郎三郎の尽力で
元禄4年(1691年)現在の地へ移転。この地は旧東長寺跡で当時は空寺となっていたものである。
当山第七世浩岸院日芳上人の時代で、日芳上人は中興の祖とされる。

本堂前面と向拝部分
その後、宝暦9年(1759年)第十一世守本院日顕上人が入山し、明和4年(1767年)頽廃した本堂を再建。
宝暦11年(1761年)には戦国武将島左近が崇拝していた妙見大菩薩尊像を末裔より寄進されたのを受け、
鎮守妙見宮を建立した。
その後、幾度かの修復を経たが昭和16年(1641年)の火災で堂宇の殆どを焼失。
戦後の昭和23年になって本堂・庫裏等を修復再建。
更に阪神淡路大震災に拠る被害から堂宇を修復し今に至っている。』 とあります。

本堂前からの眺望
この縁起を見ると開山は信長の近習の遺児で、身分を隠して隠棲していたが秀吉の命で出仕。
しかし出家した人物となります。その理由が気になりますが由緒には記載なし。
想像するに、軍令違反等を犯したため一時的に身を隠したが、年月を経て秀吉の怒りも納まったので仕える事にした、
というのがありそうな話です。
では出家の経緯は何かというと、丁度朝鮮出兵の時期に重なるので、
秀吉の野望から距離を取ろうとしたのではないかと思います。

本松寺縁起

本松寺御朱印
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人麿山 月照寺(曹洞宗)
神社に続いて西隣の寺院へ参拝。神門前の道を西へ進み白塀に囲まれた場所が目的の寺院。
山門は西に開いていますが、これは表参道が西側にあるため。
神社から向かう道は裏参道となりますが、観光案内所で貰った地図には「明石の風情漂道」とあり、
徒歩でしか行けない細い階段ながら成程と思いました。

神社に続く白塀
奥に見えるのが神門。

塀の途中にある門から見える本堂

門の右手に刻まれた由来略記
人麿山月照寺(ひとまろさんげっしょうじ)は、
『弘仁2年(811年)に空海が明石の丘、赤松山に湖南山餘鵜楊柳寺を創建。
仁和3年(887年)楊柳寺の覚証(かくしょう)和尚は、大和国の柿本(しほん)山広安寺より
人麻呂念持仏であった海上波切船乗十一面観世音菩薩を勧請して奥の院に奉祀、寺名を月照寺と改めた。
この像は聖徳太子の御作、持統天皇の念持仏で人麻呂が天皇から賜ったもの。
波を切る船に乗った1.7mの立像で60年に一度開扉される秘仏である。

西向きの山門
かつて伏見城の薬医門が様々な流転を経てここに。

山門由緒の駒札

山門越しに見る境内
天正2年(1574年)には真言宗から曹洞宗に改宗。
元和7年(1621年) 藩主小笠原忠真が明石築城に拠って境内が城地となり、
翌8年に人丸社、月照寺の新殿が現在地に竣工。延享元年(1744年)には山号を人麿山と改め、
明治4年(1871年)の神仏分離令により人丸社は月照寺より分離して柿本神社となった。

山門下からの境内の眺望

庫裏と書院

庫裏前からの眺め
本堂は日本標準時子午線上にある。

正面から見た本堂

本堂入口の唐破風の龍と鳳凰の彫刻

本堂から山門方面を見る
枯山水庭園が禅宗らしい。

前栽から見た本堂

伽藍と前栽の間を行く

前栽の枯山水庭園
その間、江戸時代には太平が続き歌道が栄え、人麻呂信仰が高まった。
人麻呂の1000年忌に当たるとされた享保8年(1723年)には霊元上皇に拠って
石見国と播磨国の人丸社に正一位柿本大明神の神位神号の宣下が行われ、当寺は永代勅願寺となった。
霊元上皇から三十六歌仙色紙・桜町天皇宸翰短冊50葉・後桜町天皇宸翰短冊45葉・
仁孝天皇宸翰短冊49葉が奉納され今も保存されている。
その後も文人墨客の来訪が絶えず、書画の寄進も多く文化財の宝庫となっている。

本堂に東隣する観音堂
昭和54年再建で、人麻呂念持仏・海上波切船乗観世音菩薩を安置する。

御本尊の石碑と田中千艸女(ちぐさじょ)の句碑
・影清し 月は明石の うらなれや

観音堂前の鐘楼
従来の梵鐘は昭和18年に供出し、昭和53年に再建。日本標準時子午線上にあり830貫、県下随一の大梵鐘である。

前栽の壽祥(じゅしょう)松

壽祥松の説明

八ツ房の梅
赤穂四十七士の一人、間瀬久太夫正明が大石内蔵助と当寺に参詣した際に、持参の梅を手植えした。

八ツ房の梅説明
山門は伏見城の薬医門、明石城の切手門として二役を果たし、明治初年にここに移築された。
秀吉建立の歴史を刻んだ豪壮な風格の門である。
本堂・書院・庫裏は総建坪400余。この地に移転以来、桃山建築様式の遺構を伝えていたが、
平成7年の阪神淡路大震災で全壊。3年後の平成10年に再建を果たした。
また山上にも拘らず水に恵まれ、表参道右側にある亀の水は枯れる事のない霊泉で万病に効果があるとされる。
水盤は享保4年常陸国飯塚宣政の寄進、現在でも多くの利用者がある。』 とあります。

人丸観音と水琴窟

人丸観音、または洗心長寿の観世音
北村西望の作。

観音像説明

ふれ愛観世音
仏師・西村公朝の作。

西側、表参道の鳥居

鳥居に続く階段

参道右側にある「亀の水」

「亀の水」の説明

永井荷風が亀の水を記した石碑
柿本神社とは神宮寺との関係。人丸神社と人丸寺であればすぐ分かりますが、
明治の神仏分離で分かり難くなってしまいました。
平安時代の覚証和尚が果たして人麻呂の夢を見たのか【確証】はありませんが、
由緒を見る限り所縁はこちらの寺が強そうです。
もう一つの転機は江戸時代。太平の世とは言え藩主が中世以来の名門小笠原家だった事も
人麻呂崇拝には追い風になった気がします。
小笠原流と言えば礼儀作法・馬術・弓道ですが、歌道にもあるのかは分かりませんが…。

人麿山 月照寺 栞

月照寺御朱印
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【往路】阪神梅田(7:27) → (直通特急) → 明石(8:32→8:33) → 魚住(8:47)
魚住 → 徒歩10分 → 薬師院 → 徒歩8分 → 住吉神社 → 徒歩5分 → 魚住(10:50) → 明石(11:04) → 駅リン君 → レンタサイクル5分 → 無量光寺 → 善楽寺 → レンタサイクル5分 → 魚の棚 → レンタサイクル5分 → 天文科学館 → 柿本神社 → 月照寺 → レンタサイクル5分 → 本松寺 → レンタサイクル5分 → 明石
【復路】JR明石(14:51) → (新快速) → JR大阪(15:28)

柿本神社(旧県社)
天文館の横の道路を上ると、直ぐ階段と鳥居が現れる。
天文科学館で野暮用を済ませた後は近所にある社寺へ向かいますが、神社も寺院も天文科学館に隣接。
神社のある山は人麻呂山、地名も人麿町、神社の名前も人丸神社とまさに人丸づくしですが、
初めに神社の名前ができて、それが山名・町名になったというのが正式な流れです。

一の鳥居
柿本神社(かきのもとじんじゃ)は、
『柿本人麻呂は持統・文武の両朝に仕えた宮廷歌人。後に石見国に赴任して同地で没したとされる。
持統天皇は譲位に際し人麻呂に等身大の船乗十一面観世音尊像を賜り、
後に石見に赴任するに先立ち邸を柿本山広安寺と改め、本尊にこの観音像を安置した。
仁和3年(887年)、明石の丘にある楊柳寺の僧侶であった覚証(かくしょう)が、夢のお告げに拠って
大和国の柿本(しほん)寺より人麻呂の念持仏であった船乗十一面観音を勧請、寺名を月照寺と改めた。
この時、寺の裏にある古い塚が柿本人麻呂の墓と感得、歌聖柿本人麻呂を祀る祠を建て
寺の鎮守としたのが嚆矢である。

階段を上った先に建つ神門

神門に掲げられた「人丸山」の扁額
寺でもないのに山号とは神仏習合の名残りか?
明石と柿本人麻呂の関りについては、明石を詠んだ歌が萬葉集に複数ある事、
文明8年(1476年)の柿本寺の勧進帳に明石浦に人麻呂の墓所が在るとの記載があり
世間では知られた存在であったと思われる。
天正9年(1581年)には秀吉が別所攻めに当り住僧安室に戦勝祈願を依頼、
戦の後に明石で新たに開墾した田地30石を当社に寄進したと言う。
江戸時代になっても徳川家康は更に10石の加増を行っている。
元和6年(1619年)に藩主小笠原忠真が明石の丘に明石城を築城するに際し、
月照寺と共に当社も現在地へ移転、社領40石が寄進された。
以降、新たに鎮座した場所を人丸山と呼ぶようになり今に至る。

正面から見た拝殿

拝殿に掲げられた扁額

拝殿の更に内側にはこのような扁額も
人麻呂の1000年忌に当たるとされた享保8年(1723年)には霊元上皇に拠って
石見国と播磨国の人丸社に正一位柿本大明神の神位神号の宣下が行われ、
毎年3月18日の命日には例祭が挙行される事となった。
その後も、東山・後西・桜町・桃園・後桜町の歴代天皇上皇の勅願所となり、
霊元上皇の三十六歌仙色紙・桜町天皇宸翰短冊50葉・後桜町天皇宸翰短冊45葉・
仁孝天皇宸翰短冊49葉が奉納、加えて御供物・白銀等の奉納があった。

拝殿の屋根瓦に見える神紋

拝殿前に植えられえている盲杖桜(四代目)

盲杖桜の説明

神社由緒記

玉垣内にある御神木の筆柿(五代目)
一筆書きちゅうのはないのかしらん?

八房梅(二代目)
元禄年間に赤穂浪士間瀬久太夫主人の仇討を祈願して植えられた。

八房梅の説明
明治4年(1871年)の神仏分離令に当り、月照寺境内にあった人丸社は
柿本神社として分離され現在に至っている。歌聖としての和歌や文学は言うに及ばず、
ひとまろ → ひとうまろ で安産良縁の守護神
ひとまろ → 火止まろ で除火災祈願の守護神
として多くの信者の崇敬を集めている。
境内には人麻呂に因んだ多くの句碑・歌碑・碑文がある。
中でも亀の碑と俗称される播州明石浦柿本太夫祠堂碑は、
寛文4年(1664年)藩主松平信之が建立、文章は大学頭林春斎が作成した。
一息で読めば亀が動くと言う。
俳人松尾芭蕉も元禄元年(1688年)当社に参拝し、明石夜泊7句を作った。山門前には
・たこつぼや はかなき夢を 夏の月 の句碑が建つ。』 とあります。

一際、存在感のある亀の碑

碑は漢文で千数百字が刻まれている

境内参道西の御歌碑
(左) あまざかる ひなのながちゆ 恋ひくれば 明石の門より やまとしまみゆ 尾上柴舟筆
(右)大君は 神にしませば あまくもの 雷の上に いほりせるかも 金子薫園筆

山門前の芭蕉の句碑

蛸壺塚
人麻呂は九州・四国への旅の途中、明石海峡を往復して、瀬戸内海の美しさに惹かれ、
羇旅の歌8首を残しています。
唯、歌を詠んだからと言ってそこに墓があるとは限りませんが、
地元の伝説とうまく結びつけて社寺を建立したというのが真相ではないでしょうか?
明石の人の人麻呂に対する思い入れは強いようで、山陽電鉄には人麿前駅がありますし、JR朝霧駅は
・ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ
という三十六歌仙絵巻にある有名な歌に由来しています。萬葉のますらおぶりとは少し異なる詠と思っていましたが、
宮司さんの話では人麻呂の詠ではなさそう。
噓から出た実とも言えますが、それで人麻呂の価値が下がるものではありませんが。

山門前からの見た明石海峡大橋

人丸山柿本神社御由緒記

柿本神社御朱印 (平成5年拝受)

山陽電鉄・人丸前駅スタンプ
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明石市立 天文科学館
寺町で光源氏の須磨での生活を偲んだ後は、お昼時なので駅前の「魚の棚」へ。
観光地として有名になりましたが、元々は地元の人達が海産物を買い物する市場。
造りも庶民的ならば値段も庶民的。観光地化すると味が下がり値段が上がると言うのが常ですが、
ここはそのような事とは無縁でした。魚介類が豊富ですが、皆食事しているのは明石焼き。
明石名産の蛸が入ったたこ焼様のものですが、タコ飯付きセットで¥935円はリーズナブル。
やはり瀬戸内はセットに限ります。

駅から南に百m程行った場所にある「魚の棚」入口
‘うおのたな’ではなく、‘うおんたな’と謂うのが正しいそうな。

いつも人通りが絶えない魚の棚

商店街にはこんな顔ハメも
多幸を狙ったようで、他意はない様子。

お昼はここ「よし川」さんにて

明石焼き+タコ飯 セット
台が傾いているのがミソ。
グルメにはこの明石焼き以外にも明石鯛・明石だこ、文学では源氏物語、建造物では明石海峡大橋と、
明石の名を冠したものは多々ありますが、何と言っても明石と言えば子午線の通る町。
日本の標準時として教科書にも載ります。
駅のスタンプの図案、風景印も子午線を題材にしています。郵便局に至っては局名も明石子午線郵便局。
いくらなんでもやり過ぎの感がありますが、地図を見ると局の位置はものの見事に135度の子午線上にありました。

JR明石駅スタンプ
(上)国鉄時代の「わたしの旅」印の踏襲型 (下)2006年設置のJR西日本神戸支社印

明石子午線郵便局風景印

明石市マンホール蓋
風景印と瓜二つ、というよりも全く同じやないですか!

明石市マンホールカード 配布場所は天文科学館
『1884年の国際子午線会議で、イギリスのグリニッジ天文台を世界基準の0度とした。
そこから東側を東経、西側を西経とし経度15度毎に1時間の時差が生じる。
日本もそれに従い、明治21年(1888年)に統計135度の明石を我が国の標準時とした。
グリニッジよりも9時間早い。』 とあります。
小学校の社会科で習った時は、首都でも政令指定都市でもない場所を標準時の町にした
理由が分かりませんでしたが、世界標準から見て丁度9時間の差があるというのが採用された【経緯】。
明治の文明開化から時が経っていないとはいえ、【自国】の都合よりも世界標準の時刻に
合わせる事を優先した先見の明に敬意を表します。

明石市立 天文科学館

北側にある子午線表示柱

科学館入口にある漏刻?

子午線の説明

水平日時計
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法寫山 善楽寺 圓珠院(天台宗)
山門というより普通の門と言った雰囲気。正面は庫裏と言うよりも自宅兼寺務所。
戒光院参拝の後は、直ぐ横にある圓珠院へ。
道路に面して入口があるのも同じですが、境内はずっと狭くなり南向きの本堂と普通の家風の寺務所がある位。
しかし当院の見所は建物や仏像ではなく、門を入ってすぐにある庭園。
法寫山善楽寺圓珠院(ほうしゃざんぜんらくじえんじゅいん)は、
『天文年間(1532~1555年)に善楽寺の律院として定仁師が開基した天台宗寺院。
本堂前方に位置するのが枯池枯山水庭園。全体的に小規模ではあるが、
石組みを中心として立面構成を重視し、視点に拠る庭景の変化と遠近感を取入れ、
水墨画を思わせるような造りとなっている。

塀越しに見える本堂
但し、参拝は外陣から。

南に向いた本堂

本堂の「圓珠院」の扁額
書は三千院門主に拠るとある。
この庭は宮本武蔵に拠る作庭との伝承がある。
武蔵は元和4年(1618年)明石藩主小笠原忠真の客分として明石に迎えられ、
翌年明石城の築城が始まると、明石城下の町割りを担当すると共に、作庭にもその際を発揮し、
明石城の樹木屋敷やこの圓珠院の作庭に当たったと伝えられる。
旧明石藩下にある本松寺、福聚院は本庭と池泉の形、大小の滝から成る等共通する部分が多く、
同じ作者の可能性が高い。武蔵の技術を今に伝える貴重な一庭である。』 とあります。

西側からの庭園の眺め

入口にある枯池式枯山水庭園の説明

庭園全景
塀の向こうに見えるのが善楽寺山門

枯池に架かる自然石橋
前述したように本堂は立派ですが境内はこぢんまりとして居り、庭園がなければ古刹とは思えない雰囲気です。
当寺は密教系ですが庭園は禅宗風、このような造りを取入れた所にも懐の深さを感じます。
水墨画を思わせるとありますが武蔵は絵画も残しており、一瞬を捉える眼は確かなものがあったのでしょう。
剣術の二刀流で知られる武蔵ですが、剣術に加え芸術でも二刀流であった模様。
諺に‘二兎追うものは一兎も得ず’とありますが、【殊技】にかけては二刀を極めた天才として
現代の大谷翔平選手の大先達と言えましょうか。

池の中央が岩島、その奥に水分石(鯉魚石)、大滝と続く

大滝とその下にある水分石(縦)

北からの庭園遠景

圓珠院説明書
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法寫山 善楽寺 戒光院(天台宗)
無量光寺参拝後は駅前に戻りますが、寺町の入口付近に大きな寺院が。
当初の予定にはなく、ガイドブック掲載もありませんでしたが、明石最古の寺との記載が。
これは是非とも巡礼せねばと急遽立寄り。
法寫山善楽寺(ほうしゃざんぜんらくじ)は、
『孝徳天皇の大化元年(645)、天竺の高僧・法道仙人に拠って開創された天台宗寺院で明石最古の寺院である。

山門前に建つ善楽寺縁起の石碑

境内から見た山門
平清盛所縁の寺院であり、源氏物語の舞台にもなる程、知られた寺院であった。
平安中期の天貴元年(1053年)10月26日には当寺の住職であった源泉法師が第31代天台座主になる等、
有力な寺院であった。しかし元永2年(1119年)には火災で堂宇を焼失。
それから30年余り後の保元元年(1156年)、播磨守に任じられた平清盛は全ての堂塔伽藍を再興。
念持仏であった木造地蔵尊と寺領500石を寄進した。
当時この付近は当津と呼ばれる庄村で海路の要衝であり、清盛はこの地を重視したからとされる。

塔頭と呼ぶには広大な戒光院境内

幾度も戦禍に遭い、都度復興した本堂
現在のものは昭和63年に4度目の再建。

本堂近影

本堂二階に掲げられた「戒光院」の扁額
以来、この付近の中心寺院として栄え、平安末には17院を有し、寺域も樽屋町から材木町に及ぶ
1平方キロという広大なものであった。
その頃の当寺には清盛の弟である教盛の子・忠快法印が居り、養和元年(1181年)には亡くなった清盛の
供養のために巨大な供養塔を建立した。これは今も境内に残る。
戦国時代の天文8年(1539年)には、戦乱の中で本堂等を焼失。文禄2年(1593年)に再建された。

魚藍観世音菩薩
魚供養なので足元の魚だけに水を駈ける慣わし。

六地蔵尊
江戸時代になると明石藩主から黒印を与えられ、数々の寄進を受ける。
五代藩主松平忠国は源氏物語の世界をここに見出し、明石入道の碑を建立。
同時に境内の美しい松にも「光源氏明石浦之浜之松」の名が付けられた。
淡路島を前に見る美しい寺には全国から文人墨客が訪れ多くの書画を残したと言う。
昭和20年(1945年)7月7日の空襲で本堂を初め仏像、寺宝等は三度焼失。
漸く昭和53年(1978年)12月になって昭和の再建が始まり、先ず十王門が復活。
同63年3月30日に四度目の復興を成し遂げた。』 とあります。

前栽越しに見た本堂東側面

本堂二階からの東側眺望

本堂二階からの西側眺望
源氏の松、五輪塔、石碑が並ぶ。

光源氏古跡明石之浦之濱之松

明石入道之碑

碑の脇にある歌碑

平清盛五輪塔

五輪塔由緒

五輪塔近影
南北に走る道路に面して大きな山門が建ちますが、寺標には善楽寺の下に戒光院と圓珠院が併記。
残った二塔頭で寺を管理しているのでしょう。
しかし圧倒的に境内が広いのは戒光院。広いだけでなく本堂も二階建てで、
清盛の供養塔を初め、入道の碑や浜の松も全てこの境内にありました。
最古の寺院の証ではないですが、善楽寺の多くを引き継いだのはこちらの寺院と言えそうです。

本堂東側の前栽・阿弥陀来迎之庭

庭の菖蒲と池

菖蒲(あやめ)近影

本堂二階より見た前栽
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月甫山 無量光寺(浄土宗 明石西国第二番札所)
昭和20年の神戸大空襲を唯一免れた山門。
紫式部が書いた『源氏物語』、その中でも「須磨・明石の段」と言えば光源氏が流謫された事で、
哀愁を感じる人も多いでしょう。
そんな「明石の巻」に登場する社寺や史跡が今も市内に残っています。
明石駅からの巡礼は先ず中世文学の場所からスタート。
駅から西国街道を明石川方面へ向かいますが駅リン君で5分足らず、徒歩でも20分程度の距離。
樽屋町交差点を過ぎると、駅前の喧噪もなくなり南側には寺院群が並びます。
地元では明石の寺町と呼ばれる場所。
明石は城下町なので、藩が城下町整備の際に集中させたと考えるのが妥当でしょう。
広い塀で囲まれた寺院の間の細道を西に進み、突き当りに山門が見えたのが目指す寺。

寺院の間を東西に走る細道
突き当りが無量光寺。

山門の透かし彫り
これも左甚五郎?

山門扉の彫刻

山門下から境内を見る
月甫山無量光寺(がっぽさんむりょうくこうじ)は、
『阿弥陀如来を本尊とする浄土宗寺院で明石西国巡礼第二番札所でもある。
戦国時代には衰退していたものを慶長18年(1613年)に中興したと伝わる。
しかし昭和20年(1945年)7月6日の神戸大空襲で全焼。
その中で左甚五郎作とされる欅造りの山門のみ焼失を免れた。
境内の本堂と源氏稲荷は戦後の再建である。

境内の両側には蘇鉄を初め樹木が茂る

木々の向こうに見える本堂は戦後の再建
屋根の造りは東大寺に似ているような…。

本堂近影
当寺は「明石の巻」に登場する光源氏の屋敷であった「浜の館」のモデルであったと言う伝承があり、
門前にある細い道は「蔦の細道」と呼ばれ、光源氏が明石の君の住む岡部の館へと通った道のモデルとされる。』
とあります。
山門前に建つと正面に本堂が建ちます。参道両側には木々が植えられ広い印象はありませんが、
唯一空襲を免れた山門が境内全体を引き締めている印象を持ちました。
唯、境内の奥は広い墓地になっており、かつては種々の堂宇が立ち並んでいたと想像します。

本堂の「無量光寺」の扁額

本堂前面の様子
正面奥が墓地。

本堂内陣

本堂から山門方面を見る

境内には窯もある
お寺の人が焼いているのか?

無量光寺御朱印
遥か昔、平成5年拝受。恐らく観光ガイドに載っていた寺院なので貰った記憶が。
須磨での光源氏は悲劇的に描かれる事がありますが、【無量をかこつ】ことなく、
醜い都の争いから離れて鼻の下、もとい羽を伸ばしていたのが真相ではないでしょうか?
蔦の細道は現在、蔦もなく境内と墓地の間に挟まれ、どうと言う事はありませんが、
想像力豊かな人にはロマンス溢れるスポットに見えるのでしょう。
感【無量】と思う歴史巡礼にはまだまだ時間がかかりそうです。

山門脇にある「蔦の細道」

源氏物語の里の説明

寺院の塀に沿って細道は続く

細道の入口に祀られているお地蔵様
光源氏も祈願したかも。
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住吉神社(旧県社)
住吉神社境内奥には藤棚があり、当社は市内でも藤の名所として知られます。
御由緒にもあるように、
『住吉大明神は 「吾が居住はむと欲りする処は、播磨の国に渡り住はむ。」 とのお告げを出した。
そこで大きな藤を切って海に浮かべ神意を伺うと
「この藤の枝の流れ着く処に、我を鎮祀れ」 との御託宣があった。
藤は当地方の魚吹浜に流れ着いた。これは『住吉大社神代記』にある話であるが、この場所が今の藤江であると言う。
住吉大神は御祓の御神徳を有する神であり、藤は住吉大社の御神木とされる。
境内の藤は明治中期に宮総代である中尾村の西海音助が名木を探して献樹したものである。』 とあります。

神木祓除の藤の由来記

藤棚の下にて
中央の太い幹は藤ではなく、別の御神木。

北門付近にあるのが藤の木の根元

藤棚南側からの眺望

藤の近影
頂いた由緒記には当社は藤及び紫陽花が有名とあって、早めですが今の時期は藤。
由緒記に大藤を切って海に流したので、その由縁で植えられているのでしょう。
藤棚のあるのは本殿裏手。駅から南へ向かうと最初にくぐる北門を越えた場所になります。
見ると植えられているのは野田藤。
野田とは大阪の福島区の地名で、藤は区の花。かつて訪れた浦江聖天さんで聞いた話では、
「付近は淀川と古大和川が入組んだ場所で長年に亘って土砂が堆積し、
そこに流れ着いた藤が永い年月を経て繁茂。野田藤として知られるようになった。」
とあります。

こちらは拝殿脇の野田藤

藤の花近影
マメ科だけに、豌豆の花に似ている。

境内の藤を詠んだ歌碑

本殿と藤の鉢植え

拝殿脇には白牡丹も

花越しに見る本殿
マメ科の藤は枝を切っても別の場所から芽が出るほど生命力が強いので、
野田・魚住の由緒にあるように藤が流れ着いたというのは実際にあった話なのでしょう。
藤は「不死」にも通ずるので神社の由来としてはもってこいと言えそうです。

藤棚に続く境内の庭園

神社北門から藤棚を見る

西側の階段に建つ鳥居

西側にある紫陽花神苑
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住吉神社(旧県社)
この日のメイン訪問先が空振りに終わったので、次の目的地の明石駅へ戻る訳ですが、
駅前の県道沿いに「魚住庄総鎮守社 住吉神社 南へ300m」と看板があった事を思い出し、
予定を変更して急遽お参り。
ここに来るまでは全く気付きませんでしたが、手持ちのガイド「兵庫県歴史散歩 下」に中尾住吉神社と
1頁に亘り記載されているのがそれ。地名を冠して呼ばれることもある様です。

山陽電鉄魚住駅スタンプ
有人駅時代のもので、薬師院の牡丹と、住吉神社の鳥居と常夜燈がデザイン。

魚住駅前の案内板
ガイドでは駅から道路を渡り、中尾の村中を抜けて海岸まで出て楼門をくぐるとあります。
駅前へ戻っても良いですが、時間に余裕があったので海沿いを東行。
海岸に出ると西には高砂の工業地帯、東は明石港が遠望でき、
名勝・錦が浦の名に恥じませんが、ここ魚住も立派な港。
魚住の泊は古代から知られた港で、行基の築港と伝わっています。
平安時代の三善清行の『意見封事』に記述があり、重源の改修計画があったとも。
これが今の江井島港だそうです。
魚住の港付近に行くと、常夜灯と鳥居がお出迎え。大阪の住吉さんもそうですが、
ここも海から境内に向かうのが正式な参拝の様でした。

瀬戸川に架かる住吉小橋から
川の向こうは茨木酒造。

西の高砂工業地帯

名勝 錦が浦

魚住漁港

漁港に面した神社入口に建つ常夜燈

海に向かって建つ一の鳥居
住吉神社は、
『神功皇后が三韓親征の折、播磨灘で暴風雨に遭遇。
当地に上陸御滞泊された皇后は住吉大神に平癒を祈願された所、波風忽ち収まり、恙なく行軍された。
その時に皇后の着衣を松の枝に掛けて干された所、風に靡いて錦の様に見えたので、
当地を「錦ヶ浦」と名付けたとされる。
神功皇后に拠って摂津国住吉に御鎮祭された住吉大明神は
「吾が居住はむと欲りする処は、播磨の国に渡り住はむ。」 とのお告げを出した。
そこで大きな藤を切って海に浮かべ神意を伺うと
「この藤の枝の流れ着く処に、我を鎮祀れ」 との御託宣があった。
藤は当地方の魚吹浜に流れ着いた。
これは『住吉大社神代記』にある話であるが、この場所が今の藤江であると言う。
この御神慮に拠って雄略天皇の8年(464年)4月初卯日に此の地に勧請してお祀りしたのが当社である。
正応5年(1292年)に現在の地に遷座した。

参道脇の松林

山門近影

山門の向こうに見える一の鳥居

山門に続く楼門は明石市指定文化財

楼門の説明駒札
当社は山門・楼門・能舞台・拝殿・本殿が一直線に並ぶ東播磨地方の典型的な様式を供えている。
また能舞台は市内に残る唯一の能舞台で初代明石藩主小笠原忠政が寛永年間に建立した事が棟札から判明している。
境内は播磨灘を見晴るかす景勝の地屛風ヶ浦西端の丘陵地で、広さ三万三千㎡。
社頭の松林から播磨灘・小豆島・淡路島を眺める事ができる。

楼門に続く能舞台
奥に見えるのが拝殿。

能舞台の説明駒札

舞台近影

舞台天井

参集殿から能舞台に続く渡廊下

参集殿、能舞台近影
神亀3年(726年)、聖武天皇が当地に行幸され邑美(おおみ)の頓宮に七日間滞在。その時の随員歌人・笠金村朝臣が
・往きめぐり 見とも飽かめや 名寸隈の 船瀬の浜に しきる白波
とその景観を讃えた。
以後、魚住庄の総鎮守社として住民に崇敬されてきた由緒ある古社である。
境内には南北朝動乱期の文和4年(1355年)の銘を持つ石造灯籠があり、
拝殿には円山応挙や石田遊汀等の筆になる絵馬が奉納。
また航海の安全を守るために奉納された19世紀の和舟の模型も展示されている。』 とあります。

正面から見た拝殿

住吉神社拝殿近影

住吉神社御由緒

拝殿入口

拝殿東側面
干支の寅絵馬、藤の鉢植え。

拝殿内に掲げられた円山応挙筆の「神馬」奉納絵馬の写し

同じく石田遊汀筆の「加茂競馬の図」奉納絵馬

奉納された江戸文化文政期の大和型船模型

絵馬と和船の説明
予定外に参拝した社は予想以上の広さと規模を持った社。この地域の総鎮守というのも頷けます。
雄略天皇は‘倭の五王’の‘武’に比定される人物なので、由緒記の真偽はさておき、
相当な歴史を持った古社であるのは確かなようです。
初めて住吉大神が祀られた場所なので「住吉大社発祥の地」とされますが、
住吉大明神が「播磨に移りたい」と言う筈もなく、難波の港で力を蓄えた住吉大明神が、
その勢力を播磨まで伸ばしたという事実が脚色されたものでしょう。
住吉大明神が「住み良し場所へ」と言ったのは洒落っ気でしょうが、魚住という名前は
住吉さんが祀られた漁港に由来するとは言えそうです。

拝殿奥の本殿
第一から第四まであり、御祭神は住吉神社の三神と神功皇后の四柱。

後方より見た本殿

本殿東側に建つ社務所
御朱印はこちらで拝受。

住吉神社 御由緒

住吉神社御朱印
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】阪神梅田(7:27) → (直通特急) → 明石(8:32→8:33) → 魚住(8:47)
魚住 → 徒歩10分 → 薬師院 → 徒歩8分 → 住吉神社 → 徒歩5分 → 魚住(10:50)

清冷山 閼伽寺 薬師院(高野山真言宗 播磨八薬師第一番霊場)
御本尊の御薬師様と境内社に参拝した後は、もう一つのメインの牡丹へ。
『明治10年(1877年)には住職が薬用にするために牡丹を植樹。
昭和30年(1955年)には牡丹園及び前庭が拡張整備された。
平安時代以来の臥龍松は昭和20年(1945年)に枯死したが、
現在は2千㎡の庭園に50種、2000株の牡丹が咲くボタン寺として知られる。』
とあります。

境内の前庭の牡丹

白牡丹

ピンクの牡丹

牡丹とは違う花も彩を添える
芍薬では聞いたことがありますが、牡丹も薬用にするとは寡聞にして知らず。
外見も似ているので、根に同じような効用があるのでしょう。
薬用にするのであれば、もっと古い時代から植えられていても良さそうですが、
本格的に植えられたのは明治になってからというのも驚きでした。

前庭全景

境内の北西にある納経所が庭園への入口

納経所脇に建つ不動堂
境内を一巡して牡丹園拝観に向かいましたが、何と入口には開園中止の貼り紙が。
お寺の方が、境内を掃除されていたので尋ねると、
夫人;「コロナが未だ収まらないので、3年続きで中止です。」
和辻;「開花状況はどうでしょう?」
夫人;「丁度、今が見頃です。残念ですが…。」
との事。播磨まで足を運んだものの閉園と聞きがっくり。
境内に植えられた少しの牡丹と塀越しに僅かに見える牡丹園でお茶を濁すしかありませんでした。
お薬師様も外来のウイルスには効き目が薄いのでしょうか?
事前にパソコンで調べた積りでしたが、チェック漏れがあったのでしょう。
とんだ【ボタンのかけ違い】で、来年以降の再訪になりました。

無念の貼り紙

塀越しに見る牡丹園

山門の西側にある牡丹園への門

牡丹園への門から見た牡丹園

牡丹園の西側

牡丹園の東側

山門前の池の睡蓮
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魚住 → 徒歩10分 → 薬師院 → 徒歩8分 → 住吉神社 → 徒歩5分 → 魚住(10:50)

清冷山 閼伽寺 薬師院(高野山真言宗 播磨八薬師第一番霊場)
春の青春18きっぷと共に桜も終了。次に開花するのは牡丹か藤ですが、今年は牡丹に的を絞って訪問する事に。
関西には牡丹で知られた場所は何ヵ所かありますが、自宅からの交通費が片道2千円を越えない場所となると
明石、五条、長岡京くらいのもの。
開花状況はその年の気温に左右されますが、先ずは気温が高いだろうと思われる山陽路の魚住へ。
牡丹の寺・薬師院として歴代の駅スタンプにも描かれている花の寺ですが、付近一帯は住宅地なので
観光地が少ない事もあるのでしょう。
今回は阪神梅田駅から快速特急を利用。JRに比べて時間は掛かり、明石で普通に乗換えなければなりませんが、
寺へはJRより近く乗換時間も1分なので、時間のロスは殆どなしでした。
駅から県道718号に沿って西へ向かい、瀬戸川付近にある案内板に従って少し南へ行くと、
酒造メーカーや地元の工場先にお目当ての寺院が。

JR魚住駅スタンプ
(上)1990年代の神戸支社印 (下)2006年設置の神戸支社印

県道、瀬戸川付近にある案内板

このような細い道を西へ
清冷山閼伽寺薬師院(せいれいざんあかでらやくしいん)は、
『寺伝に拠れば天平2年(730年)、行基が開基。
この地を訪れた行基が錫杖を地面に突き立てると霊水が湧き出し、そこから薬師如来が出現。
そこでその像を祀るために薬師院を創建し、祀ったのが嚆矢とされる。

山門前に到着

門前の池と睡蓮
亀に餌をやらないで!とあるが、飼っていたミドリガメをここに捨てる人も多いのでは?

山門近影

山門の奥に見える本堂
延喜年間には仁和法親王、阿頂僧正がここに止宿。七堂伽藍を整備し、坊舎は二十余りを数えた。
天喜5年(1057年)には臥龍松が植えられ、養和8年(1181年)には天王神社が勧請されるなど隆盛を迎えた。
しかし応仁2年(1468年)に兵火に罹り、堂宇は炎上。
その時に焼けた経類を埋めたのが現在境内に残る経塚とされる。
その後、再建されるが天正7年(1579年)の三木合戦で再び堂宇は炎上。
唯、その際に本尊は天王林に飛び難を逃れたとされる。

山門を潜った先に見える境内

正面から見た本堂

本堂前にも少しの牡丹が…

本堂由緒

本堂に掲げられた「清冷山」の扁額

本堂向拝の欄間彫刻

向拝下部分
江戸時代の元和5年(1619年)に朱印寺となり、明暦3年(1657年)には中興開山の舜恵及び
舜雄法印に拠り再建が始まり、明暦5年に舜雄法印が現在の本堂を建立。
延宝4年(1676年)には舜算法印が本堂屋根を瓦葺とし、鐘楼堂も建立。
元禄8年(1695年)には門前の蓮池に石橋が架けられ今に至る寺容が整えられた。』
とあります。

四国八十八ヵ所御砂踏霊場

鐘楼と石地蔵群

経塚と五輪塔

経塚の説明

臥龍の松

臥龍の松の根元部分

境内にある「閼伽井の庭」

閼伽井の庭
中央奥の井戸が閼伽井か?

御手水も龍吐ではなく牡丹
行基の開創は伝説的ですが、観音信仰・浄土信仰に比べると薬師如来は古い寺院に多いので、
播磨の古刹であることは確実。
山号寺号の清冷・閼伽は霊水に由来する名前で、衛生状態も良くない時代にあって人々に清冽な水を供給した
と考えるのが普通でしょう。信心深い人が聞くと【冷水を浴びせられた】様に思うかもしれませんが…。

本堂から石段を上り天皇神社へ

天王神社の鳥居

天皇神社御由緒

天皇神社拝殿

天王神社から当寺境内を望む

薬師院説明書

薬師院御朱印
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