<コース>
【往路】紀伊勝浦駅(6:45) → (熊野バス) → 那智山(7:11)
那智山 → 徒歩5分 → 青岸渡寺 → 熊野那智大社 → 徒歩10分 → 飛瀧神社 → 那智山(9:02) → (熊野バス) → 那智駅(9:19) → 徒歩3分 → 補陀落山寺 → JR那智駅(10:00) → JR紀伊天満(10:02) → 徒歩15分 → 勝浦漁港 → 徒歩5分 → JR紀伊勝浦
【復路】JR紀伊勝浦(12:09) → JR串本(12:46) → 徒歩10分 → 無量寺 → JR串本駅(14:01) → JR周参見(14:45→14:53) → (くろしお26号) → JR天王寺(17:33)

本州最南端の駅(JR紀勢本線)
二日間に亘った熊野三山巡礼を終え帰路へつく前に串本で下車。雨のため大島は×でしたが、
無量寺へは拝観して先ずは目的達成。その後、ゆっくりと駅へUターン。
列車の駅には日本最東端、最北端などの形容詞が付く駅がありますが、
形容詞の割には意外と見所の少ない場所が殆ど。そんな中に在って本州最南端の串本駅は、
潮岬や大島、橋杭岩などの観光名所を持つ紛れもない観光駅です。

串本駅スタンプ (昭和55年押印)
紛れもない国鉄時代。「わたしの旅」印が登場する少し前になる。

JR串本駅スタンプ
(上) 1990年代 (下) 2006年設置の和歌山支社印
『元は潮岬の半島も島であったが、長い年月をかけて幅500mの砂州で紀伊半島と繋がり、
そこに市街地が形成された。
紀伊半島沖は航海の難所なので、本州と陸繋島で繋がった潮岬には灯台が設置。
付近の航行の安全を図っている。それでも明治19年(1886年)のイギリス船ノルマントン号の遭難、
明治23年のトルコ軍艦エルトゥールル号の沈没など、いくつかの事故が起こっている。
昭和19年には航空母艦「信濃」が潜水艦の魚雷で沈没している。』 とあります。

駅前に建つエルトゥールル号記念碑

モニュメントは紀州青石
ノルマントン号事件は船長を初めイギリス人が先に逃げて助かり、乗客の日本人の多くが
遭難した悲惨な海難事故。後の裁判では「言葉が通じなかった。」という船側の言い分が通り、
日本人には納得いかない判決となりました。
この事故は我が国の不平等条約を見直す必要性を痛感させ、1994年の陸奥宗光に拠る
治外法権撤廃へと繋がります。
一方、エルトゥールル号は串本の漁師が命懸けで乗組員の命を救ったことで、オスマン・トルコの
スルタン・アブドゥール・ハミド二世から明治天皇へ感謝の手紙が届く等、日土友好の象徴になりました。

串本郵便局 ; 橋杭岩、船

参拝した無量寺はこのような細道の奥
同じ事件ながらノルマントン号事件が、話題にならないのは大英帝国のプライドなのか、
黒歴史のためかは分かりません。余談ですが、英国の教科書では阿片戦争に関する記述はないそうです。
雨のため橋杭岩が見えなかったのは悔いが残りましたが、スイーツを購入して帰路へ。
串本から乗車する手もありましたが、普通が来たので周参見まで乗車して特急に乗り換え。
無人化が進むJRですが、予想通り無人駅。こういう予想は当たらない方が良いですが…。

土産のスイーツは駅前の 「儀平菓子店」 にて
むかしは大阪にも出店していたが、最近は見ない気が…。

儀平と言えば、うすかわ饅頭
そこへ入線してきたのが「くろしおパンダ電車」。雨と無人化で【すさみ】がちになりそうな心に
晴れ間が見えた気がしました。パンダ列車は、南紀白浜アドベンチャーワールドに由来。
世界の動物園には多くのパンダが飼育されていますが、繁殖では白浜がダントツなようで、
最近も子供が中国へ里帰りしていましたっけ。
客寄せパンダとは使い古された謂いですが、この列車を目的に来るマニアも居るとか。
地域の活性化に貢献していますが非電化路線には駄目だそうで、
理由はパンタグラフが使えないからだとか(ホンマかいな!)。

「パンダ列車」 (くろしお26号)

車体に描かれたパンダとコアラ

他にもアドベンチャーワールドの動物たちが
こうしてパンダに載って、鉄道むすめ「黒潮しらら」に見送られて巡礼終了。
大願成就しなければ、熊野から補陀洛渡海ならぬ堕落渡海する所でしたが、
霙まじりの散々な天気の中、熊野三山詣も無事終了。唯、
・宿泊費 ¥4800
・飲食費 ¥5300
・朱印料 ¥6000
となったのは魔訶不思議でした。帰宅一番、家族からの第一声。
「こんな時期に、アホちゃうか!」
個人的には「ちゃうか」は不要な気もしますが…。

座席シートもパンダ

白浜駅ホームでは 「鉄道むすめ」 が御見送り
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
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【往路】紀伊勝浦駅(6:45) → (熊野バス) → 那智山(7:11)
那智山 → 徒歩5分 → 青岸渡寺 → 熊野那智大社 → 徒歩10分 → 飛瀧神社 → 那智山(9:02) → (熊野バス) → 那智駅(9:19) → 徒歩3分 → 補陀落山寺 → JR那智駅(10:00) → JR紀伊天満(10:02) → 徒歩15分 → 勝浦漁港 → 徒歩5分 → JR紀伊勝浦
【復路】JR紀伊勝浦(12:09) → JR串本(12:46) → 徒歩10分 → 無量寺 → JR串本駅(14:01) → JR周参見(14:45→14:53) → (くろしお26号) → JR天王寺(17:33)

錦江山 無量寺(臨済宗東福寺派別格寺院)
二日間に亘った熊野三山巡礼も漸く終えて帰路へ。そのまま帰っても良かったのですが、
ここまで来たからにはと、18きっぷでは行き難い串本で下車。
晴天ならば、自転車で潮岬か大島までと意気込んだ串本でしたが、午後になっても雨は止まず。
駅周辺を徒歩で散策するだけにとどまりました。
そんな中、見所でもあるのが徒歩10分の場所にある無量寺。

入口のカイヅカイブキの脇に建つ寺号碑

山門を抜け境内へ
山門右奥が応挙芦雪館。入山料は不要。

正面から見た山門
錦江山無量寺(きんこうざんむりょうじ)は、
『虎関禅師の開山に拠る臨済宗東福寺派寺院。
以前は袋と呼ばれる入江にあったが、1707年に発生した宝永地震に拠る津波で全壊・流出。
天明6年(1786年)京都東福寺から派遣された愚海(ぐかい)和尚に拠り現在の場所に本堂が再興。
その際、愚海は親交のあった円山応挙に襖絵を依頼。応挙は12面を描くが高齢であったので
高弟の長沢芦雪に後を託し、芦雪は京より串本に赴き「龍虎図」等の作品を残した。

山門の向こうに広がる境内

本堂正面に立つ
禅の修行もできそうな広さ。

本堂前面に掲げられた 「錦江山」 の扁額
昭和36年に日本一小さい美術館として「応挙芦雪館」が無量寺境内に開館。収蔵作品の中心は
円山応挙筆の重文「波上群仙図」や、長沢芦雪筆の重文「龍虎図」「猿廻図衝立」等の墨画襖絵55面であり、
本堂にあったと同じ配置に復元。畳の上に坐った視点で拝観できるように工夫がなされている。
他に明兆を始めとする探幽・白隠・若冲などの近代絵画・墨蹟96点。
現代絵画・書作品に加えて境内を中心に現代彫刻作品61点もある。』 とあります。

蘇鉄の奥にある書院入口
但し内部拝観はできず、参拝は外陣のみ。

こちらが庫裏

境内奥にある観音堂
朱塗りだが、辯天堂ではない。

少し高台に建つ慈光院は納骨堂
寺院と言うよりも、江戸時代の著名な画家の絵を展示する空間。
山号の通り駅からは【近郊】にありましたが、寺号と違って入館料は【無料】ではありませんでした。
今回、応挙芦雪館はスルー、境内参拝に留まりました。
津波の被害を受けたこともあって境内や伽藍を見ても古刹の印象はなし。
やはりここは小さな美術館のようです。

塀際に造られた庭園

拝観者もいないが庭園は綺麗に整備されている

山門脇の鐘楼
その奥には収蔵庫が建つ。

鐘楼近影

鐘楼脇の高台はかつての伽藍跡か?

平成6年拝受の御朱印
墨書ではなく判子であった。
当寺の住職が応挙に襖絵を依頼したのは知人である事に加えて、当代きっての名筆だったからで、
妥当なところでしょう。しかし応挙は来ずに代わりに来たのは弟子の芦雪。
応挙が高齢だったとありますが、当時の応挙は香住の大乗寺の襖絵に取り組んでいた筈なので、
どっちつかずの作品になるのを嫌ったからと思います。
大乗寺の密英上人は若き日の応挙に経済援助をしてくれた大恩人。
そちらを優先したのは人として当然、応挙が傲慢だった訳ではありません。
しかし派遣された芦雪も名作を残しその名を高めた訳ですから、
この件については三方良しで決着が着いたと言って良いでしょう。

入口にある応挙芦雪館の説明板
載せられた絵画は芦雪の「虎図」と「龍図」 の部分。

境内の彫刻群

何故かモアイ像を彷彿とさせる

「根」 と題した酒井良作の石彫
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【往路】紀伊勝浦駅(6:45) → (熊野バス) → 那智山(7:11)
那智山 → 徒歩5分 → 青岸渡寺 → 熊野那智大社 → 徒歩10分 → 飛瀧神社 → 那智山(9:02) → (熊野バス) → 那智駅(9:19) → 徒歩3分 → 補陀落山寺 → JR那智駅(10:00) → JR紀伊天満(10:02) → 徒歩15分 → 勝浦漁港 → 徒歩5分 → JR紀伊勝浦
【復路】JR紀伊勝浦(12:09) → JR串本(12:46) → 徒歩10分 → 無量寺 → JR串本駅(14:01) → JR周参見(14:45→14:53) → (くろしお26号) → JR天王寺(17:33)

紀伊勝浦漁港
那智駅で運よく電車に乗れた後は、一駅乗って紀伊天満で下車。
ここで郵便局に寄った後、歩いて紀伊勝浦駅へ。
元国鉄とはいえ駅間1.2㎞、大した距離ではありません。
紀伊勝浦駅は、
『地域の中心でもあり駅前から港までは商店街が続く。勝浦港は遠洋漁業の基地として知られ、
マグロやカツオの水揚げが多い。しかし以前はサンマの漁獲が多く、新宮出身の文豪・
佐藤春夫の 「さんまの歌」 の詩碑が駅前に建てられている。

紀伊勝浦駅スタンプ (昭和55年押印)

駅前の 「さんまの歌」 碑

歌碑の拡大

那智天満郵便局 ; 那智の浜海水浴場、ビーチパラソル
那智勝浦港郵便局 ; 紀の松島・ラクダ岩
勝浦は漁港に加え白浜と並ぶ温泉保養地としても知られる。
狼煙半島が延びる先には鶴島が浮かび、湾口を塞ぐような中ノ島が防波堤の役目を果たしている。
その結果、勝浦湾内は波が穏やかで、湾内に浮かぶ島や岬の汀からは温泉が湧出。
島にある温泉旅館に巡行船で渡る人など港は賑わいを見せている。』 とあります。

漁港に停泊中の漁船

港に隣接する 「にぎわい市場」

港に面して建てられた足湯 「海乃湯」
駅から港まで続く繁華街ですが、本当に賑やかなのは港周辺。港には漁船が停泊、
突堤には足湯もありました。漁港が町の発展を導いた証拠です。
特に仲ノ町と脇入通り、通称脇仲通りは役場・銀行・電報電話局・魚市場等の主要施設があって、
今も勝浦港郵便局はその建物を使用していました。やはりマグロの漁港にはレトロが良く似合います。

レトロな建造物を使用した那智勝浦港郵便局

郵便局前を走る脇仲通りの変遷

郵便局玄関

玄関上の装飾

郵便局を後方から見たところ
歩いていると昼前ながら市場での競りに遭遇。よく見るとマグロの様子。係の人に尋ねると、
係員 ; 「この線を越えなければ、どこで見て貰っても大丈夫です。」 との返事。
テレビ等では見ましたが、生マグロは初見でした。
私 ; 「クロマグロはありますか?」
係員 ; 「今日は1本も上っていません。」
私 ; 「あちらの大きいのは?」
係員 ; 「あれはキハダです。」
私 ; 「今日の水揚げはどれくらいなのでしょう。」
係員 ; 「50トンですね。」
私 ; 「多いのですか?」
係員 ; 「少ない方です。」
私 ; 「赤道を越えて遠くまで行かれるのですか?」
係員 ; 「かつてはそうでしたが、今は行っても仙台沖くらいです。」
私 ; 「採れないからですか?」
係員 ; 「いいえ、遠くに行くと支払う権利金が多くて。割に合わないので。」
と興味深い話を伺う事ができました。

魚市場の朝市

これはキハダマグロ
尾鰭を切っているのは脂の状態を見るためとか。

やや小振りなビンナガマグロ
長い胸鰭を鬢(びん)に見立てたもので、紀州産の備長炭とは無関係。

競り落としたマグロは氷漬け?
思いがけずまぐろ市場を見学できたので、誘惑に勝てず昼は「目はりマグロ定食」。
目を見張る値段ではないかと心配でしたが、リーズナブルな¥1200でした。
現在は第三次産業が花形で、一次産業は隅に追いやられていますが、
昔に比べて確実に進歩しているのは確か。漁獲量が減っているのも問題です。
唯、和歌山では白浜で近大がクロマグロの完全養殖目指して研究中。一部ではできたようですから、
今後は何処まで価格を下げることができるか?そこが頼みの【ツナ】と言えそうです。

昼食は駅前の 「めはり寿司 二代目」 にて
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【往路】紀伊勝浦駅(6:45) → (熊野バス) → 那智山(7:11)
那智山 → 徒歩5分 → 青岸渡寺 → 熊野那智大社 → 徒歩10分 → 飛瀧神社 → 那智山(9:02) → (熊野バス) → 那智駅(9:19) → 徒歩3分 → 補陀落山寺 → JR那智駅(10:00) → JR紀伊天満(10:02) → 徒歩15分 → 勝浦漁港 → 徒歩5分 → JR紀伊勝浦
【復路】JR紀伊勝浦(12:09) → JR串本(12:46) → 徒歩10分 → 無量寺 → JR串本駅(14:01) → JR周参見(14:45→14:53) → (くろしお26号) → JR天王寺(17:33)

那智駅(JR紀勢本線)
補陀洛山寺参拝で熊野三山も取り敢えずは終了。
後は紀伊勝浦に戻って昼食ですが、その前にJRの駅舎へ。
『JR那智駅は大正元年12月4日の開業で標高4.3mは新宮駅と同じである。
海岸に面したホームからはそのまま熊野灘の眺望を楽しむ事ができる。
熊野那智大社、青岸渡寺の最寄り駅で、駅舎は那智大社を模した社殿風の造り。
駅の看板も神社の扁額を模している。
無人駅となって久しく、停車するのは1日に9~12本の普通列車のみである。

社殿風の駅舎玄関

駅名プレートも神社の扁額様式
平成22年には隣接する場所に「道の駅なち」がオープン。
農産物直売所や温泉入浴施設「丹敷の湯」がある他、熊野那智世界遺産情報センター、
日本サッカーの父・中村覚之助の紹介コーナーがある。』 とあります。

JR駅舎に向かって左に建つ 「道の駅なち」
有名な寺社の最寄り駅には、それを模した建物が多く、当駅以外にも三島(静岡)・弥彦駅(新潟)・
出雲横田(島根)は今も現役。長野・奈良はかつての駅舎がそうでした。
観光地というのが一般に広まったのは高々戦後の事。
それまでの民衆は自分の村から出かける事は殆どありませんでした。
そんな中にあって寺社の巡礼だけは、家族・地域・為政者が認めた唯一の外出できる機会でした。
統計を取った訳ではありませんが、全国の駅スタンプの図柄で最も多いのは寺社ではないかと思う位です。
また各地には〇〇市という地名が残るのは、この日に市が立った名残りですが、
その日と言うのが寺院の御開帳に当たっていたというのは良く聞く話です。

かつて押印したJR那智駅スタンプ
シンプルだが、良いデザイン。

今は代わって道の駅スタンプ
JRに比べると幾分写実的になった印象がある。
そんな那智駅ですが、如何せん電車の本数が少な過ぎるのが最大のネック。
加えて駅周辺に商業施設がないのも影響しています。
今でも新宮駅から那智勝浦駅までは30分毎に路線バスが走っており、利用するのは専らそちら。
偶々10時に電車があったので私も乗車しましたが、そうでなければバスを利用していました。
唯、路線バスはほぼJR沿いを走るので、駅周辺の見るのはバスに乗車してもOK。
駅舎としても見所のある那智駅が素通りされるのは非常に残念でしたが、
傍に道の駅が出来た事に拠り復活がなるかどうか?これから注視していくことになりそうです。

「うーん!この本数では…。」 と唸りたくなる令和5年1月のJR那智駅時刻表

上りホームから見る那智駅舎
とそんなことを考えながら駅脇の御手洗いへ向かうと公衆トイレまでが神社仕様。
かつては立小便を防ぐために鳥居の絵を壁や塀に描いたので、これには驚きました。
急いで駆け込んで来た人もここに入ると思わず【しっこう】猶予となりそうです。
それとも神に見放されたら己で【ウン】を掴めという教えでしょうか?

こちらが公衆トイレ
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熊野山 補陀洛山寺(天台宗山門派) 本堂前に建つ渡海船の石碑
紀伊山地の霊場と参詣道の一角を占めるとは言え、補陀洛山寺は寺域も狭く古い建造物もありません。
それでもその名が知られるのは、偏に「補陀落渡海」の寺であったため。
生きながら船に乗り、補陀洛浄土へ往生するという強い信仰の賜物ですが、
自殺行為であることに変わりはありません。
我が国にある即身仏も同じ事。同じ宗教的自殺行為でありながら
補陀洛渡海 ; 海・紀州(南方)・天台宗
即身仏 ; 山・出羽越後(北方)・真言宗
とはっきりと分かれるのも不思議な話。その違いは今後の研究待ちでしょうか?

「補陀洛渡海とは」
補陀洛渡海とは、
『生きながら南海の観音浄土(補陀洛)を目指して行われた一種の捨身行である。
補陀洛とは梵語(サンスクリット語)で観音浄土を表す「ポタラカ」の音訳。
チベットのポタラ宮殿も同じ意味である。
貞観時代(859~877年)以降、南インドにあると言う補陀洛へ渡って入定する補陀洛渡海が
この寺の住職のみに許され、那智の海岸から17名の僧が渡海し“上人”の僧名を贈られている。
後には同行も許され136人が極楽浄土を目指し海上他界を果たした。
裏山の墓地にはそうした人々の供養塔が並ぶ。
『平家物語』には平維盛がここの浜から入水したと記され、墓地の一角には平時子と
維盛の墓と伝わる宝篋印塔と五輪塔が並ぶ。
僧侶以外では、平維盛の他に下河辺行秀という鎌倉御家人、万里小路冬房という公家が知られる。
弓の名手であった下河辺は頼朝の開催した富士の巻き狩りで、誤って同僚を射殺してしまい出奔。
出家して智定坊と名乗って渡海、十従一位・准大臣の冬房は応仁の乱で屋敷を焼かれた後の渡海とされる。

境内に建つ補陀落渡海記念碑

石碑に刻まれた渡海船
境内奥には「那智参詣曼荼羅」を基に平成5年に復元された補陀洛渡海船が置かれている。
入母屋造の帆船で、四方に発心門・修行門・菩提門・涅槃門の殯の鳥居が建つ。
船の上の船室に僧が入ると扉は全て釘付けされ、外へは出ることは出来ない。
死と直面した恐怖の中、17名の僧が渡海して行った。
平安・鎌倉時代には6名が渡海、この頃は純粋に信仰心に裏打ちされたものであったといえる。
それが室町・戦国時代になると9名に増加。背景には熊野三山への参詣者が減ったため、
新たな勧進の方法として渡海が利用された面があったと言われている。

境内奥の建屋内に置かれた復元渡海船

前方より見た渡海船
16世紀末に渡海した金光坊と言う僧は途中で船が岩礁に乗り上げたので、船から脱出。
浜へ戻った所を村人に見つかり、船に押し込まれて再度流されたと言う。
当寺の住職が遷化した際に、船に乗せて海に水葬する方針に変わるのは、この事件以後の事である。
勿論、今は補陀落渡海も水葬も認められていない。』 とあります。

記念碑に刻まれた渡海者名簿
中央やや左側に金光坊の名前も見える。

渡海船の前面に建つ鳥居と南無阿弥陀仏の幕
渡海が始まったのは世の中が乱れ自然災害も頻発した時代。そのような時、
人の心に最も訴えるのが宗教ですし、加えて宗教家にはそれだけの気概があったと言えます。
堕落した都会から補陀洛渡海に漕ぎ出すのもその一つでしょう。
尤もこれは東洋史学者宮崎市定の受け売りではありますが…。
人が宗教を生み出したのは、死と言う存在を知ったからと言われますが、
唯一人、次第に近付く死の影を前にする行為は、余程大胆な人間か、
狂信者にしかできる事ではありません。
逃げ出したとされる金光坊の名も渡海記念碑に刻まれていますが、
恐ろしくなって逃げだしたのは人間として当然の事。
井上靖の『補陀落渡海記』は彼を描いた短編の名作ですが、渡海年齢である還暦に近付く恐怖と
村人から仏様の化身と崇められる葛藤が見事に描写されています。
逃亡も困難な近世の村社会では、同調圧力も相当なものがあったでしょう。
人間は個人では左程残虐な生き物ではありませんが、群になるとそれが大きな威力を発揮します。
それは先の大戦だけでなく、ここ数年のコロナ下でも実証済です。

船内の入母屋の四方に建てられた鳥居

船内への入口と手前に置かれた供物?
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観音浄土に船出した人びと―熊野と補陀落渡海 (歴史文化ライブラリー) 中古価格 | ![]() |

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熊野山 補陀洛山寺(天台宗山門派)
朝一番のバス乗車と郵便局の方の有難い対応の甲斐あって、那智山発9時2分のバスで
勝浦方面へ下山しましたが、紀伊勝浦駅まで乗車せずに手前の那智駅で下車。
もう一つの世界遺産の寺院へ参拝するのが目的でした。

入口に建つ鳥居

鳥居脇にある浜の宮王子社跡由緒記
JR那智駅から道路を渡った場所の地名はハマ呑み屋もとい浜ノ宮と呼ばれています。
かつては浜の宮王子と呼ばれ1648年再建の本殿には三体の重要文化財の御神像を祀る由緒の古い神社。
境内には神武天皇頓宮跡の石碑も建ち、本殿脇の摂社には神武天皇に敗北した丹敷戸畔を祀っています。

頓宮跡碑

浜の宮王子本殿

王子本殿御由緒
今は熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)と呼ばれており、隣接するのが補陀洛山寺。
かつては千手堂、補陀落寺と呼ばれてこの王子社と一体でしたが、明治の神仏分離で別々に。
しかし今に至るまで神仏習合の信仰形態を色濃く残すことでも知られています。
熊野山補陀洛山寺(くまのさんふだらくさんじは)、
『寺伝では、4世紀前半にインドから漂着した裸形上人が開基とされ、熊野地方では屈指の古刹である。
斉明天皇の発願以来、歴代天皇の勅願所として栄え、今でも文武・一条両天皇の勅額を伝えている。

浜の宮を抜け補陀洛山寺へ

入口の奥に建つ本堂
本尊は木造の三貌十一面千手千眼観音像で平安後期の作と伝わる。高さ190㎝程で、国の重要文化財。
年に3回、1月27日、5月17日、7月10日に行われる法要の期間のみ御開帳される。
かつては熊野三山の一翼を担い大伽藍を有していたが、文化5年(1808年)の台風で消失。
その後、長らく仮本堂であったが、漸く1990年に現在の本堂が再建された。

本堂の正面に立つ

世界遺産の説明板

本堂前面に張出した向拝
五色の垂れ幕は東西南北と中央の大日如来(黄色)を表す。
寺院は太平洋に面して建てられ、南海の彼方にある観音浄土を生きながらにして目指す
「補陀洛渡海」の出発点であった。補陀洛とは梵語(サンスクリット語)で観音浄土を表す
「ポタラカ」の音訳。チベットのポタラ宮殿も同じ意味である。
現在では、子育延命、海上安全大漁満船の寺として信仰を集めている。』 とあります。

幸運にも御開帳の御本尊千手観音

補陀洛山寺御朱印(平成6年拝受分)

今回拝受の御朱印(平成6年と同一)
門前に建つと石の鳥居と世界遺産の看板が。
ここも熊野那智信仰の場所で、神仏習合の名残りがあるのは那智大社と同じでした。
説明板では神社の方が主のようですが、今は鳥居と社が残るのみで無住。
寺に重心が移っているようです。

本堂向拝下から境内を眺める

本堂側面と縁側

本堂脇の庭園
中央に置かれているのは紀州青岩か?
以前に参拝した際、観光客は皆無でしたが、この日は平日で悪天候にも拘らず参拝者がちらほら。
やはり世界遺産のネームバリューは大きいと見えます。
安易に世界遺産登録する事には個人的には反対ですが、観光客誘致や地域活性化には
大いに貢献している様子。地域が拘る理由も分かる気がします。
この日、御朱印を貰うべく本堂へ向かうと何と御本尊の御姿が。
伺うとこの日は年に3回の法要だそうで、不謹慎ですが1%の確率が見事に当たった事になります。

渡海船の刻まれた石碑

境内にある観音、地蔵の両菩薩像

手水社にも 「ふだらく水」 の札が
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<コース>
【往路】紀伊勝浦駅(6:45) → (熊野バス) → 那智山(7:11)
那智山 → 徒歩5分 → 青岸渡寺 → 熊野那智大社 → 徒歩10分 → 飛瀧神社 → 那智山(9:02) → (熊野バス) → 那智駅(9:19) → 徒歩3分 → 補陀落山寺 → JR那智駅(10:00) → JR紀伊天満(10:02) → 徒歩15分 → 勝浦漁港 → 徒歩5分 → JR紀伊勝浦
【復路】JR紀伊勝浦(12:09) → JR串本(12:46) → 徒歩10分 → 無量寺 → JR串本駅(14:01) → JR周参見(14:45→14:53) → (くろしお26号) → JR天王寺(17:33)

飛瀧神社(熊野那智大社別宮)
那智の滝は華厳・袋田とならぶ日本三名瀑ですが、地元贔屓を割引いても、
歴史・規模・神聖といった面からも本朝第一と言って良いでしょう。
前回の参拝は昭和55年4月1日。この時にも青岸渡寺・那智大社にお参りしていますが、
鮮明に覚えているのはこの滝だけ。40年間薄れることのない記憶です。
何故、40年前の参拝日が分かるのか?
それは御朱印は拝受しませんでしたが、押印したスタンプが偶々日付入だったため。
40年前のスタンプをよく今まで持っていたものだと感心します。
また同時に押印したものは非常に繊細な図柄。記憶共々薄れる事はありません。

40年前に押印したもの
これで参拝日がはっきり分かる。

40年前の繊細なスタンプ
青岸渡寺と違い、現在は置かれていない。
前回は滝の手前で手を合わせましたが、今回は左手の社務所で入山料¥300を払って滝拝所へ。
熊野三山の中では、宝物館等を除けば唯一の入山料となりますが、大した値段でもないので、
神域に入って愚行に及ぶ人をシャットアウトするための様な気がします。
こうして熊野三山の最後を飾る滝遥拝も終了。
熊野灘は無理でしたが三重塔越しに滝を遠望できたのは幸運でした。

左奥の拝所に行く前に手水で浄め

こちらは延命長寿のお瀧水
どちらも龍の口から出ている。

飛瀧神社拝所
ここより先は×。

拝所から見た那智の滝全景

滝最上部とその上に張られた注連縄

滝中央付近
この辺りで崖にぶつかる。

滝壺付近
二日前の積雪で凍ったと聞いたが問題なし。

欄干越しの眺望
滝に参拝した後は順路に従いますが、途中には瀧本祈願所が鎮座。
祈願所に大己貴神・役小角・不動明王が安置されているのは驚きませんが、
御瀧行者の名前には花山法皇・弘法大師・伝教大師・安倍晴明・一遍上人・文覚上人の名前が。
いずれも教科書や小説に登場する人物で 「ほんまかいな?」 と思いますが、登場人物も【たき】に亘るのでしょう。
またその脇には神霊石(みたまいし)が安置。何でも平成23年の紀伊半島大水害の復旧作業中に
滝から出現した石だそうで、那智の御瀧で永年磨かれ球体になった霊験あらたかなものだそう。
何だか【旧態】依然とした説明ですが、祈願所の脇に【奇岩】を安置したのだと納得。
滝だけでは御利益が薄いと言う訳ではなさそうですが、滝行ができない人に用意された気もします。
復旧に向けて普及すれば何よりですが…。

拝所からの帰路には御瀧本祈願所が建つ

祈願所前の説明札には著名人の名がずらり

神霊石

石の解説
石に触れて御朱印を頂いたあとはバス停へ向かいますが、階段上り口左手にまたもや遥拝石が鎮座。
「これでは木の国やなくて石の国やで…。」
と思っていると参道脇に、亀山上皇御宸翰木牌(ごしんかんもくひ)建立地跡の碑が。
説明板に拠れば、中世以降、上皇・法皇が熊野詣でをした際には木製の牌を建てる慣で、
そこにあったのは亀山上皇が弘安4年(1281年)に建てられた碑の写し。
「随分と健脚な上皇様ですな。」 と思いましたが、その年は二度目の蒙古襲来(弘安の役)の年。
説明板からは判断出来兼ねますが、蒙古から国を護る或いは蒙古を撃退した事への
感謝の参拝だった可能性が高く、物見遊山旅ではなかった筈。中世の為政者には体力も必須だったようです。
今なら京都から和歌山経由、紀勢本線で下車してから5㎞。我々がこれしきの事でへこたれてはいけません。
尤も上皇様なら伊勢の亀山駅からの紀勢本線になりそうですが。

飛瀧神社御朱印
神社は有人なのでここで拝受できる。

再び来た道を上る
左の木の根元に遥拝石が。

光ヶ峯 遥拝石

遥拝石説明

亀山上皇御宸翰木牌(ごしんかんもくひ)建立地跡の碑

碑の解説
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飛瀧神社(熊野那智大社別宮)
熊野那智大社参拝の後は、再び青岸渡寺の境内を通り那智の滝へ。
路線バスでは終点の一つ手前の「那智の滝前」停留所で意外と距離がありましたが、
境内の石畳を下ると直ぐに石鳥居と石碑前へ。これを以てしても神仏習合だったのは良く分かります。
そこから雨に濡れた石段を下ると滝の正面へ。今は大社の別宮扱いですが、元来はここが元宮。
名勝那智の滝はそれ自体が神聖な御神体でもあります。

三重塔から滝への近道を行く

バス停前にある神社入口
飛瀧神社(ひろうじんじゃ)は、
『那智の奥、大雲取連山から流れ出る流水に拠って、全山に那智48滝と呼ぶ多数の滝があるが
最も高いのが那智の滝で別名・一の滝。
高さ133m、銚子口の幅13m、滝壺の深さ10m以上と日本一の落差を誇る。
この滝の上流には二の滝、三の滝があり国の名勝。下流には文覚滝がありこちらは滝修行で知られる。

入口に建つ石碑
社伝に拠れば、神武天皇が熊野へ上陸された際、那智の山に光が輝くのを見て探り当てたと言われる。
落下する水量は毎秒約1トン程度、御滝そのものを御神体として熊野那智大社の別宮飛瀧神社と申して
大己貴神(おおなむちのみこと)として祀っている。
水は生命の源で那智山信仰の根本であり延命長寿の信仰が篤く、修験道の開祖役小角の滝行以来、
数多の滝修行者や参拝者が出た。
宇多上皇を初め百十余度の御幸があり、花山法皇は千日間の山籠りをしている。
今日に至る迄この御滝の水は長生の霊水として尊ばれている。

参道入口の一の鳥居

御由緒
付近一帯は吉野熊野国立公園特別地域であり、那智の滝は国の名勝、
付近の山々は那智原生林として国の天然記念物となっている。
高浜虚子はその様子を
・神にませば まことうるはし 那智の滝
と詠んだ。
那智の扇祭の御火行事はこの参道で毎年7月14日の14時頃に斎行される。』 とあります。

未だ積雪の残る参道を下る

漸く先に御滝の拝所鳥居が見える

滝の正面に建つ鳥居
一般の参拝者はここで御滝を拝む。
麓から山を登って来た人が眼前にこのような滝を眼にした時、自然の神に対する畏敬の念を持ったのも当然でしょうし、
遥か熊野灘からも滝の雄姿を目にすることができるそうで、陸と海からの信仰に支えられた場所でもあります。
イワレヒコは飛瀧神社の滝を拝んでヒーローになりましたが当方は【疲労】神社。
・神にませば まこと張る脚 那智の滝
と詠みたい心境でした。

鳥居からの滝の眺望

那智の滝全景

滝の正面に置かれた岩
神事はここで執り行う?
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御縣彦社(熊野那智大社 摂社)
那智大社本殿の直ぐ手前に鎮座ましますのが御縣彦社。
御縣彦社(みあがたひこしゃ)は、
『八咫烏(やたがらす)の化身とされる賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)を御祭神とする。
八咫烏は神倭磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)を熊野の地から大和橿原まで
道案内したとされる鳥で、熊野の神の使いとされる。命はナガスネヒコを破り神武天皇として即位、
道案内を終えた八咫烏は熊野の地へ戻り、当社で石に姿を変え休んでいると言われ、
それが玉垣前の烏石である。
御祭神の八咫烏は導きの神様として、願い事を成就に導く御利益があるとして崇敬を集めている。
日本サッカー協会のシンボルマークには八咫烏が使われているが、これはその御利益に加えて、
日本サッカーの生みの親である中村覚之助氏が那智勝浦町出身である事から選定されたと言われる。』
とあります。

門前の柱の頂きに止まる八咫烏の像

御由緒
六つの社殿と鈴門以外では、境内唯一の重要文化財。唯、社殿の再建が嘉永7年(1854年)なのに対し、
こちらは慶応3年(1867年)と少し時代は下りますが…。
それにしても烏を祀る社というもの珍しいですが、八咫烏はイワレヒコを大和まで導き
神武天皇として即位させた功労者(鳥)。皇室の始祖だけに祀られて当然と言えます。
唯、現実的には烏が道案内するとは考え難いので、これはイワレヒコを道案内した
この地方の豪族を仮託したものと考えるのが普通。

神門に架けられた那智大社の神紋

門の向こうに建つ御懸彦社本殿
熊野から大和までは山を越えた様に 『古事記』 には記されていますが、熊野三山がいずれも
水に関わりは深い事、本宮・速玉大社が熊野川に面している事などから、
熊野川を遡上して大和へ入り、洞川から山を越えて吉野川に至ったと考えています。
古事記でもイワレヒコは日向の美々津から船で畿内へ向かっていますから。
そうなると何故カラスなのか、川なら鵜の方が相応しいのでは、
と地図を見ると熊野川を渡った場所の地名は鵜殿でした。
あくまで素人の勝手な想像ですが、そんなルートも【ありの】熊野詣でしょうか?

御懸彦社御朱印
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熊野那智大社(熊野三山 旧官幣中社 別表神社)
青岸渡寺への分岐点から見た那智大社。
西国一番札所に続くのは二番札所ではなく、熊野三山のフィナーレを飾る熊野那智大社。
本来ならば、階段の分岐点から左へ上りますが、札所参拝後は本堂前から神門を通り、
いきなり拝殿前へ。今に至る神仏習合時代の名残りです。

青岸渡寺本堂から見た那智大社への東門

東門を潜り境内へ
熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)は、
『神武天皇が東征の折、ここ熊野の地に上陸。那智の滝に大己貴神(おおなむちのかみ)を祀り、
八咫烏の案内で山を越え大和に入り皇室の始祖となった。
仁徳天皇5年(317年)に那智の滝から現在の地に社殿を遷し、主祭神として万物の生成・育成を司る
熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ=伊弉冉尊)を祀ったのが熊野那智大社の起源である。
この主祭神に加えて12柱を拝殿の後ろに並ぶ5棟の社殿に祀っている。

境内から正規の参道を見る

参道を上った場所に建つ二の鳥居
新宮市の熊野速玉大社、田辺市の熊野本宮大社と共に熊野三山の一社で、全国に約4千社あると
言われる熊野神社の御本社で、「日本第一大霊験所根本熊野三所権現」として崇敬が篤い。
熊野詣の最終目的地であり、那智山青岸渡寺と共に熊野信仰の中心地として栄華を極める。
後に仏教、修験道の隆盛と共に熊野権現として崇められ、上皇・女院・武将や庶民の参拝が増え、
継続して詣でる様子は「蟻の熊野詣」と称された。

境内の様子

御由緒

御案内
社殿は熊野造りと言う切妻妻入、妻に庇を付けた独特の様式で、豊臣の世に再興し、
享保・嘉永の大改修を経て昭和10年に修復。平成7年に国指定文化財となっている。
六棟から成る華やかな朱塗りの社殿と、その背後で美しいコントラストを成す社叢が
一体となった境内には神聖な空気が漂う。

参道の先に建つ拝殿

拝殿前から幣殿を見る

拝殿の隙間から見た幣殿の奥の六つの鈴門と更に奥に建つ六本殿
社前には後白河上皇御手植えと伝わる枝垂桜、拝殿横には平重盛の手植えと言う樹齢850年の大樟が繁り、
根元の空洞では無病息災を願って「胎内くぐり」を体験することができる。
御懸彦社の内庭には、神武天皇を大和へと道案内した八咫烏が大役を終えて石化したと言われる
「烏石」が残っている。』 とあります。

拝殿から見た宝物殿(左)と御懸彦社

宝物殿全景
三重塔を見た後なので驚きは少ないですが、青岸渡寺とは対照的な色鮮やかさ。
そのためか新築に見えますが、正真正銘の江戸時代の建築。六つの社殿、鈴門と
御県彦社は重要文化財の指定を受けています。
紀伊半島の南東は熊野地方と呼ばれますが、熊野とは奥深い処、隈るとも言う神秘性のある場所。
また那智とはこの地方の方言で「ナグチ」「ナギタ」と言う山の入口を表す言葉だそう。
また熊野は甦りの地という事で寺院では時折見られる胎内くぐりが神社にあるもの熊野ならでは。

平重盛御手植えと言う大樟

大樟解説

胎内くぐり入口

胎内くぐり出口
その様な場所には神々が集い、人々は畏敬の念を持って崇敬したのは想像に難くありません。
唯、余りにも奥にあると不便なので、少し行き易い場所に移したのが遷座の理由だった気がします。
勿論、私の勝手な想像ですが、熊野三山が全て元の場所から移っているのはそんな気がしてなりません。
などと考えながら熊野古道を行くと、古代人の鼓動が聞こえてくるようです。

眺望の良い休憩所

門前街の眺望

熊野那智大社説明書

熊野那智大社御朱印
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那智山 青岸渡寺(天台宗 西国三十三ヵ所第一番札所)
紀 南 冬 徒歩苦
万 里 烏 啼 緑 映 白
水 村 山 麓 神 武 風
本 朝 一 百 四 十 詣
多 少 楼 台 煙 雨 中
注)押韻と平仄は無茶苦茶です。
本堂参拝、御朱印拝受を無事に済ませた後は広い境内を一巡。映えスポットの三重塔にも向かいますが、
その途中にも歴史を感じる遺物が多数お出迎え。
『本堂脇に聳えるのが樹齢700年とされるタブノキ。クスノキ科タブノキ属の常緑高木で県指定天然記念物。
イヌグス(犬樟)の通称で呼ばれる。

本堂脇に聳えるタブノキの巨木

タブノキ(イヌグス)全景

樹木の説明板
その脇には、重要文化財の宝篋印塔と梵鐘があり、前者は元享2年(1322年)の造立、
後者は元享4年の鋳造といずれも鎌倉時代の作である。
梵鐘には「那智山執行法印権僧都道済滝本執行尊什河内介弘」の浮彫の銘が残る。
鐘楼堂は明治36年(1903年)に復興された。
その奥の石上に建つのは大黒堂(如法堂)。古来より有名な那智大黒天並びに六福神を祭祀している。
もと光明堂と称する回向堂だったが大正13年(1924年)に現地に移築。本堂修理中仮堂とした経緯がある。

文化財三連発

重文・宝篋印塔は鎌倉時代の作

明治36年復興の鐘楼堂

梵鐘は鎌倉時代の鋳造

坂の上の大黒堂と坂の下の那智黒の看板
境内から張出した場所にある鉄筋の建物は信徒会館。七宮殿下のお昼飯所の光栄に浴した
旧本坊跡地に建立、上階は法要の道場・壇信徒の研修・茶席として使用される。
階段下に見えるのが山内に唯一現存する塔頭の尊勝院。中世に天皇・皇族の宿泊所(行幸啓泊所)として
使われた宿坊跡で当山最古の執行職の屋敷である。
かつては開山裸形上人像及び不動明王像を安置していたが、今は本堂内に移されている。

タブノキの横に建つ信徒会館

張出した信徒会館とその下の尊勝院
更に進むと朱色の新しい堂宇が建つが、これは平成6年建立の阿弥陀堂。
本尊の阿弥陀如来坐像は仏師江里康慶の作。唯、阿弥陀堂と名乗るが
当山に納められた遺骨・遺髪を祀る納骨堂として使用されている。
「熊野参詣曼荼羅」に登場する建物の中でも最も目を惹くのが三重塔。
平安末期に建立されたものと推定され、500年前のこの絵では本堂付近に描かれている。
しかし他の建物と同様、戦国時代の1581年に焼失、一説では江戸時代に暴風で倒壊したとも伝わる。
現在の塔は昭和47年(1972年)に再建されたものである。

阿弥陀堂は平成6年建立と新しい

信徒会館前にも御詠歌の石碑が建つ
三重塔には地上階より上の各階に異なる仏像が安置されている。
一階にはかつて那智大滝で崇拝され、多くの伝説に登場する不動明王が、
二階には西方の極楽浄土へ住まう阿弥陀如来像を安置している。
那智大滝を望む最上階の三階には慈悲の菩薩である千手観音像が祀られている。
仏教ではこの滝の神である飛瀧権現は観音菩薩の化身とされる。
塔の各階は現代の仏教絵画で装飾され、林屋担養画伯の金剛界諸仏と
米良道博画伯の観音・不動明王が壁を彩っている。
ここからは那智大滝、太平洋の眺望を楽しむ事ができる。』 とあります。

石碑前から那智の滝方面の眺望
尊勝院、三重塔を経て那智の滝へ。

望遠で撮った遠望
本堂から三重塔までは種々の建造物が続きますが、巨樹もその一つ。
神宿る御神木なのでしょうがイヌグスとは意外。やはり南紀はクマクスでしょうか?
途中、大黒堂・塔頭尊勝院・阿弥陀堂と続きますが、参拝者の姿は見えず。
やはりメインは札所の本堂。建造物が新しいのもそれに拍車をかけています。
それよりも諸堂が様々な変遷を経て今の姿になっているのにはびっくり。
思うに明治の神仏分離の影響が大きかったのでしょう。呼び名が変わったとはいえ、
【そんしょう】される事無く今に残った事に感謝すべきかと思います。
しかし三重塔の前には早朝ながら人がちらほら。やはり映えスポットは違います。
塔の高さは25m、後方の那智の滝が133mなので、高さは五分の一に過ぎませんが、
迫力を以て迫るのは遠近法の影響でしょうか。

三重塔と那智の滝
写真によく撮られる構図である。

三重塔解説
最近、映えスポットとして人気の富士の忠霊塔も、似たような構図。
那智の滝だけ、富士山だけでも十分絵になりますが、視界内に人造物が移り込んでいる所がポイント。
それだけに塔の拝観が外陣だけというのは非常に残念。
内陣に参拝して極楽往生を願うというのは夢物語に終わりました。
これを自然の雄大さに対する人間の卑小さと見るか、それに少しでも近づこうとした努力の賜物と見るかは、
人それぞれですが、いずれも堂宇でなく塔であることから私の印象は後者に近いでしょうか。
尤も、その為に人々の言葉が各方言になったというバベルの塔現象はありませんでしたが…。
意外ですが塔自身は昭和47年の再建、前回の昭和55年時は8年しか経っていなかった事になりますが、
そう思わなかったのは、それだけ周囲に【なっち】していたからに他なりません。

下から見上げた三重塔

欄干、垂木、組物
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<コース>
【往路】紀伊勝浦駅(6:45) → (熊野バス) → 那智山(7:11)
那智山 → 徒歩5分 → 青岸渡寺 → 熊野那智大社 → 徒歩10分 → 飛瀧神社 → 那智山(9:02) → (熊野バス) → 那智駅(9:19) → 徒歩3分 → 補陀落山寺 → JR那智駅(10:00) → JR紀伊天満(10:02) → 徒歩15分 → 勝浦漁港 → 徒歩5分 → JR紀伊勝浦
【復路】JR紀伊勝浦(12:09) → JR串本(12:46) → 徒歩10分 → 無量寺 → JR串本駅(14:01) → JR周参見(14:45→14:53) → (くろしお26号) → JR天王寺(17:33)

那智山 青岸渡寺(天台宗 西国三十三ヵ所第一番札所)
階段を上ると道は左右に。左は朱色の鳥居も鮮やかな熊野那智大社、
右が朱色の仁王門の一番札所青岸渡寺となります。
那智山青岸渡寺(なちさんせいがんとじ)は、
『西国観音霊場発願の寺。茶店で貸し出す竹杖をひいて白衣の巡礼が坂を登る。
熊野那智大社の東門を挟んで青岸渡寺の境内となる。

本堂手前の清浄水で身体も心も浄める

ガラス越しに見る御由緒
明治7年に神仏分離されるまでは熊野那智大社と神仏一体で信仰されてきた
那智の大滝を中心にした一大修験道場で、最盛期には7ヵ寺、36坊を有したと伝えるが、
現在は本堂・庫裏・宝篋印塔・三重塔・如法堂・鐘楼・山門に加え、
中世に天皇・皇族の宿泊所として使われた宿坊尊勝院が残るのみである。

重文・本堂
一番札所で御本尊如意輪観音を祀る。

正面から見た本堂
朝の7時から参拝可能。
本堂は神仏習合時代には如意輪堂と呼ばれており、飛鳥時代から六度目の建造物。
天正9年(1581年)兵火に拠り焼失したが、天正18年に豊臣秀吉の発願で大工尼崎茂兵衛の
施工に拠って再建。桃山時代建築として熊野地方最古の建造物で国の重要文化財。
棟高18mの単層入母屋造杮葺き、風雪に洗われた回廊や柱は枯れた木肌を剝き出しにして居り、
那智大社の華やかさとは対照的な簡素な雰囲気を漂わせている。
正面奥には御本尊・如意輪観世音菩薩が厨子に納まっており国の重要文化財となっている。
また本堂内に吊るされている鰐口も同じく豊臣秀吉の寄進で、重量450kg、直系1.36mと
日本最大のもので、秀吉の願文が刻まれている。

本堂前に立つ観音様
但し、これは御本尊ではない。

向拝前から本堂内陣を見る

向拝柱に架けられた山号寺号の札

「那智山」の扁額
本堂東側境内からは昭和47年に再建された三重塔と那智滝が並んで遠望され、絵の様な風景を見せる。
駐車場からバス停大門坂へ下って行くのが熊野古道・大門坂で、その石畳参道には
樹齢800年の夫婦杉、町石なども残り、かつての熊野詣を偲ばせる。』 とあります。

青岸渡寺説明書

青岸渡寺オリジナル御朱印帳
昔ながらのシンプルなデザインと色調が好感をそそる。

青岸渡寺御朱印 (西国札所)
左上には草創1200年記念印。

本堂内陣に設置されたスタンプ
これは昭和55年押印だが、今も全く同じ印が置かれていたのは驚き。
雨天の平日とはいえ一番札所に静かに参拝できたのは、偏に早朝の7時から開いていたから。
一番札所は開門も一番札所でした。
全国に札所は種々ありますが、札所までの道が難所なのは私見では西国札所がぴか一。
その中でも青岸渡寺は都からの距離、二番札所紀三井寺までの道程が群を抜く遠方です。
交通の発達した現在でもそうですから、中世にはどれ程の苦労だった事か!

御本尊にお参り

本堂前面にて
年月を経た柱の木肌が美しい。

本堂側面の蔀戸
そんな苦労を厭わず人々が巡礼に向かったのは、神仏に頼るしか方法がない位、
世の中が棲み辛かったに違いありません。
物が周りに満ち溢れている現代でも、またぞろ巡礼が復活しているのは、
人々にとって未だ【請願途次】の活き辛い世になっているからでしょうか?

本堂を出て外からの眺め

本堂側面

側面に並んだ柱
[参考書]
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那智山 → 徒歩5分 → 青岸渡寺 → 熊野那智大社 → 徒歩10分 → 飛瀧神社 → 那智山(9:02) → (熊野バス) → 那智駅(9:19) → 徒歩3分 → 補陀落山寺 → JR那智駅(10:00) → JR紀伊天満(10:02) → 徒歩15分 → 勝浦漁港 → 徒歩5分 → JR紀伊勝浦
【復路】JR紀伊勝浦(12:09) → JR串本(12:46) → 徒歩10分 → 無量寺 → JR串本駅(14:01) → JR周参見(14:45→14:53) → (くろしお26号) → JR天王寺(17:33)

那智山 青岸渡寺(天台宗 西国三十三ヵ所第一番札所)
前日は天気にも恵まれ熊野三山の内、二山を無事制覇。
残る一山に参拝すべく、宿泊したのは紀伊勝浦駅前。
距離的に言えば那智駅が最寄ですが、宿泊・商業施設となれば町の中心の紀伊勝浦駅周辺。
最初に来た40年前と駅舎はそのままでしたが、跨線橋に使われている柱が朱色に。
熊野三山の駅という事を強調したいためでしょうが、出来たのは間違いなく世界遺産登録後。
朱に交われば赤くなるを地で行く話です。

JR紀伊勝浦駅ホームへの階段降り口

跨線橋にて

改札口へ
紀伊勝浦駅は、
『行政区では那智勝浦であるが駅は紀伊勝浦を名乗る。大正元年12月4日に三輪崎まで建設された
新宮鉄道と言う私鉄の起点となった駅で、昭和9年に国有化され紀勢中線となった。
戦時中の昭和19年に建てられた木造駅舎は昭和52年に建て替えられ、
新しい鉄筋コンクリート二階建ての駅本屋が落成。観光地としての体裁が整えられた。
大阪方面からの特急「くろしお」が全車停車する他、名古屋方面からのディーゼル特急「南紀」の終点でもある。』
とあります。

改札口には那智の扇祭(火祭)の松明が待つ

火祭りの解説

火祭に行けない人のために写真を展示
行政区や駅名などが同一の場合は、後の物に旧国名を付けるのが慣わし。
それで行くと紀伊勝浦は当然ですが、行政区はなぜ那智勝浦なのか?不思議で【奇異】な事。
余談ですが、千葉県の勝浦は市制を採っていますが起源は当地からの移民の町。分家が本家を凌いだと言えます。

火祭の切り絵

JR紀伊勝浦駅スタンプ
(上) 1990年代 (下) 2006年 和歌山支社印
二日目は前日とは打って変って朝から生憎の雨。夜中に【転機】があったのでしょう。
バスは駅前から終点の那智山まで26分の乗車。
那智勝浦駅~新宮駅には及びませんが、朝6時台から18時台までほぼ45分間隔で17本運行。
利用者を考えるとかなり恵まれていると言えます。

バス通りにある参道入口
右手は那智山郵便局。

那智山郵便局 ; 那智の滝、青岸渡寺本堂

階段の先で那智大社と青岸渡寺の二手に分かれる
乗車したのは私を含めて二名のみ。平日の早朝、しかも雨天ならばそんなものでしょう。
バスはJR沿いに走り那智駅前で山側に左折、そこからは上り坂になります。
途中の停留所は乗降客もなさそうな場所ですが、大門坂には立派な停留所が。
周囲に見所もなさそうで、滝までは未だ距離があるのに何故?と思っていましたが、
ここから滝までの道が熊野古道の写真に登場する大門坂と後で知りました。
この日は誰も下車しませんでしたが、晴天ならば古道を歩く人も居たでしょう。
尤も私の場合は“晴天は事を仕損じる”なので歩く事はないでしょうが。

札所への階段を上る

上って来た階段を振り返る

反対側は熊野那智大社への参道
始発の6時45分に乗車したので朝7時11分に那智山へ到着。
これも青岸渡寺が朝の7時から拝観できるため。札所とはいえ巡礼者に対する気配りに感謝です。
バス停から少し下がった場所にある郵便局の脇の石段が寺社への山道。
2日前の積雪が未だ融けきれずに残っていました。

西国一番札所の御詠歌
・普陀洛や 岸うつ波は 三熊野の 那智の御山に ひびく瀧津瀬

階段の先に建つ山門(仁王門)

階段、山門と信徒会館
那智の滝は遠く熊野灘から遠望できるそうで、それならここからも熊野灘が見える筈でしたが、
雨天のために視界不良。しかし階段周辺は昔ながらの門前町が残っていました。
昔の巡礼者もここからの眺望で気を引き締めて巡礼に臨んだ事でしょう。
7時台の参拝、積雪を踏み分けての巡礼は経験済みですが、まさか南紀で【難儀】するとは思いきや!でした。

山門右手の仁王(阿像)

こちらは左手の吽像

山門の先に建つ本堂

階段先から山門を見下ろす
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紀伊田辺駅(10:15) → (明光バス) → 本宮大社前(11:50) → 徒歩5分 → 大斎原 → 産田神社 → 熊野本宮 → 本宮大社前(13:25) → 神倉神社前(14:17) → 徒歩15分 → 神倉神社 → 徒歩20分 → 浮島の森 → 徒歩10分 → 熊野速玉大社 → 徒歩15分 → 阿須賀神社 → 徒歩5分 → 徐福公園 → 徒歩5分 → 新宮駅
【復路】JR新宮(17:10) → JR紀伊勝浦(17:37)

徐福公園(徐福の墓)
阿須賀神社に参拝して、新宮駅に向かうと駅前に中国風の門が。
駅からも見えるこの建物が徐福の墓とされる徐福公園。
『古代中国の戦国時代に終止符を打った秦の始皇帝は、天台烏薬(てんだいうやく)と呼ばれる
不老長寿の霊薬を求めて、仙術師・徐福を東方海上にあると言う蓬莱島へ遣わす。
その徐福が長い航海の末に到着したのが熊野浦。
現在の阿須賀神社付近とも、熊野市郊外の波田須の浦であったとも伝えられる。
実際、阿須賀神社の裏の蓬莱山には天台烏薬が自生しており腎臓病やリューマチに効果があるとされる。

中華街の入口を彷彿とさせる大門

「徐福公園」 と書かれた扁額
霊薬を得た徐福は秦へ帰る事無く、熊野の地で農耕・漁法・捕鯨・紙漉き等の技術を
住民に教えた後、天寿を全うしたと言う。
実在したとされる徐福の渡来地伝承は日本各地に残るが、墓があるのはここ新宮のみ。
紀ノ川周辺で産出する緑色片岩の自然石に「秦徐福之墓」と刻まれて居り、
紀州徳川家初代頼宣の命で建立が計画、儒臣・李梅渓が揮毫したとの言い伝えがある。

石に彫られた徐福船出のレリーフ (想像図)

徐福石像 (想像図)

徐福の顔ハメ
巨大な楠の下に大きな墓碑が立ち、傍らには殉死した7人の家臣の墓も並んでいる。
また天台烏薬とされる木も植えられている。徐福墓周囲も栄枯盛衰を重ね、
大正時代に新宮鉄道が開設され新宮駅が開業するとこの付近も新開地として発展していった。
佐藤春夫の父がこの界隈に家を建てた事から、春夫もここで過ごしたり執筆する機会が増えた。
・若草の 妻とこもるや 徐福町
は、その頃の様子を詠んだものである。』 とあります。

公園反対側の裏門

公園中央付近にある不老の池
七本の石柱は北斗七星を表す?

駅前にある新宮鉄道100周年の碑

鉄道の沿革
天台烏薬とは聞き慣れない名前ですが、一説ではフロフキの方言名を持つカンアオイの事で、
フロフキが不老不死に繋がったとの説があるよう。薬効はあるそうですが、流石に不老不死は大【フロシキ】でしょう。
徐福については伝説とされてきましたが、中国での考古学的発見があり、実在はほぼ確実視されるようになりました。
始皇帝の命で海外に向かった事実はあったでしょうが、といって徐福がここに来たというのはまた別の話。
紀元前200年の日本は未だ弥生時代で国家もなかったと考えられます。

これは墓石ではなく、徐福の碑
事績を記しているようだが、漢文なのと摩滅のため良く分からず。

碑の内容の意訳
これがあるので大助かり。
それでは徐福伝説の真相は?となりますが、新宮には徐福の他、神武天皇、天竺の裸形上人という
海から来た伝説が残ります。
地理上は西方から熊野灘を横切って新宮に達する事には疑問を持つ向きが多いですが、
伝説が三つもあるとなると何某かの史実を反映していると考えるのが無難。
想像するに、海から来た事実があってそれが後世に種々の伝説に分かれたのでしょう。
その場合、歴史でよく使われる加上説を使えば、最も新しい天竺の裸形上人が事実で、
徐福・神武天皇と遡ったとなります。尤も、これは神武天皇が天竺から来たとはなりませんが…。

樹木に囲まれた徐福の墓

墓の解説
こうして初日も無事終了、当初の予定より【森沢山】の巡礼でした。
新宮駅から本日宿泊の紀伊勝浦まで紀勢線で移動し、駅前商店街で「まぐろ料理」に舌鼓。
うまい具合に電車があったからですが、今や新宮~勝浦間は専らバス移動。
60分間隔と30分間隔では勝負は明らかです。かつては新宮鉄道が敷設された要衝なので、
福を除いてお先【まっくろ】にならず【勝浦】になって欲しいものです。

熊野めぐりのレトロバス

JR新宮駅スタンプ
(上) 1990年代 (下)2006年 和歌山支社印

夕食は紀伊勝浦駅前商店街の まぐろ料理 「ますだや」 にて
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【復路】JR新宮(17:10) → JR紀伊勝浦(17:37)

阿須賀神社(村社)
拝殿とその後ろに聳える蓬莱山
速玉大社参拝で熊野三山の内、二社参拝が無事終了。後は翌日の一社を残すのみで
駅まで戻って移動するだけですが、線路を越えてちょっと寄り道。
目指すは更に河口に建つ阿須賀神社で、ガイドにも名前が載る程度ですが、
途中の看板に世界遺産と書かれていたのが足を向ける事になった理由です。

参道入口に立つ
阿須賀神社(あすかじんじゃ)は、
『熊野川河口近くに位置し、「浅州処」を守護し、航海・延命・生産・発育の霊力を持つと言われる。
創建は第五代孝昭天皇53年3月と伝わり、長寛元年(1163年)に書かれた古文書には
熊野権現は初め神倉山に降り、次に阿須賀之北に勧請されたと記されており、
早くから熊野信仰との関りが見られた。
平安時代には阿須賀王子とされ、熊野速玉大社から熊野那智大社への道中に当り、
熊野詣の人々が多数参拝に訪れた。

参道途中に建つ一の鳥居

御由緒
新宮が初めて書物に文字として登場したのは熊野神邑であるが、これは当社の古名であり
神威発祥の地として広く人々に敬われた。
『中右記』『平家物語』にも参詣記録が見えるなど熊野詣の隆盛に伴い当社も発展してきた。
歴代有力者達からも深い信仰を集め、元享2年(1322年)には阿須賀権現が
現在の東京都北区飛鳥山へ勧請されるなど、全国各地に当社の末社が見られる。
江戸時代には新宮城主の浅野家や水野家から社領の寄進を受けるなど、
熊野信仰の重要な拠点の一つであり、境内には多くの文化財が残されている。

二の鳥居とその奥に建つ拝殿

拝殿正面
当社の主祭神は事解男命とし、この他熊野三山の神々を祀っている。
境内からは弥生~古墳時代の住居跡や祭祀跡が発見され、社殿背後の蓬莱山からは
熊野の神々を仏として表現した12~15世紀の御正体(みしょうたい)が多数出土しており、
神道と仏教が融合した熊野最古の原始信仰形態を実証し権現発祥源として確認された。
また蓬莱山には中国秦の時代に始皇帝の命を受け、不老不死の霊薬を求めて旅立った
徐福伝説が残る。』 とあります。

拝殿近影

供えられえた御神酒の名も「熊野三山」
参拝前は小さな祠程度に思っていましたが来て見ると結構な規模。しかも社殿は朱色で綺麗に塗られていました。
と言うと新しそうですが、由緒を見ると熊野三山にも劣らない古社でした。
熊野三山の一角を担ったようですが、境内に徐福神社、裏に蓬莱山があるので、
徐福を神として祀った神社が後に熊野三山に取り込まれたと考えるのが良さそうです。

拝殿の奥に建つ本殿

塀越に見た本殿
駅からの距離は速玉大社とほぼ同じですが、参拝者は各段に少ない様子。
線路を挟んで反対側というのがネックでしょうか?社務所もありましたが生憎閉鎖中。
事前連絡が必要なようで独特の字体の御朱印も頂けず仕舞いでした。
と阿須賀神社に関してはこれで終了の筈ですが、意外な所に縁が。
東京の王子には当社が勧請されており、地名の王子も、
また字体は変わりますが飛鳥山という名も当社に由来しているそう。
熊野三山のどこかの王子だとは想像していましたが、新宮の当社とは知りませんでした。

拝殿の向かって右奥にある徐福之宮

宮の前には中国由来の樹木も
今の飛鳥山は花見の名所として有名ですが、ここに桜を植樹したのは徳川吉宗。
享保の改革で倹約を強いられた庶民への娯楽対策であったとされます。
言うまでもなく吉宗は紀州藩の出身。数ある江戸の場所の中で王子を選んだのは
故郷への愛着があったと考えるのが普通でしょう。
新宮にある阿須賀神社は江戸に移って飛鳥山になり、飛ぶ鳥を落とす勢いの
花見の聖地になった事を思うにつけ、熊野三山の奇縁を思わずにはいられません。
経済の世界ではスピンオフと呼ぶそうですが「すっぴんオフ」と言ったら怒られるでしょうか?

境内奥の社叢

蓬莱山と社叢の解説

社務所は残念ながら不在
[参考書]
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新宮市立佐藤春夫記念館
速玉大社の境内の一角にモダンな家屋がありますが、これは新宮の生んだ文豪・佐藤春夫の旧邸。
人国記にもあるように地域によって人物の特色が見られますが、私見では和歌山は文学の県。
思い付くだけでも佐藤春夫を始め、東くめ・有吉佐和子・中上健次・津本陽と全国区の作家が名を連ねます。
そんな中にあって文化勲章を受章したのは佐藤春夫のみ。

旧邸全景

移築の説明
『佐藤春夫は明治25年4月9日、新宮市船町の医者の家に生まれる。
慶応大学を中退後、与謝野鉄幹、永井荷風に師事。
抒情詩人として名を挙げたが、後に小説に転じ『晶子曼陀羅』等の作品を残す。
親友・谷崎潤一郎と不破になった彼の妻に同情、結婚した“事件”は文壇史上では
よく知られたエピソードである。「秋刀魚の歌」はその頃の作品で紀伊勝浦駅前に碑が建つ。
本記念館は東京文京区関口町にあった旧邸を、生誕地近くの熊野速玉大社境内に移築したもの。
庭には末弟秋雄のドイツ遊学の記念としてマロニエの樹が植えられて居り、
春夫はこの樹に夭逝した弟を偲んだという。

速玉大社境内に建つ春夫句碑
・秋晴れよ 丹鶴城址 児に見せむ と彫ってあるそう。

句碑解説
建物は昭和2年完成、文化学院創設者で新宮にも所縁の深い西村伊作の弟大石七分の設計になる。
木造一部鉄筋の二階建てで六角形の塔を付け、アーチ型の入口や窓を設けたモダンな造りである。
本記念館では生原稿5000点、書籍2000点を始め愛用した机やペン、筆などの文具類は
趣味の品8070点を収蔵。再現した客間に、いくつかのコーナーを設けて随時展示。
“近代的憂鬱”と言われた文豪を偲ぶ縁(よすが)としている。』 とあります。

境内の塀?にも春夫の作品が

『望郷五月歌』 と題された作品

速玉大社へ向かう道筋にあるうなぎ老舗 「鹿六」
佐藤春夫も通った名店だが、生憎「準備中」の札が…。
慶応大学進学後は、専ら関東を拠点に活躍したようですが、故郷への思いは続いていたようで、
しばしば帰郷していたようです。駅前にも碑が立ちますが、故郷の新宮ではなく紀伊勝浦駅前。
新宮は郷土の先達の東くめ女史に譲ったようなものでしょうか。
作品もさることながら、三千人とも呼ばれる門弟を育てたのは、他の作家にはない功績と思います。
谷崎の妻との事件は、世間の常識から見るとかなり疑問ですが、それによって作品の評価が
変わる訳ではありません。尚、妻を譲った谷崎も文化勲章受章者。
勲章は功績に対して与えられるものであって、人間性に対して授与されるものではないのは明らかです。

新宮駅前に建つ東くめの「鳩ぽっぽ」歌碑

東くめ 略歴
東京音楽学校で滝廉太郎と同窓だった記憶が。夭逝した廉太郎の分まで活躍したと言えそう。

紀伊勝浦駅前に建つ佐藤春夫の「秋刀魚の歌」 歌碑

歌碑近影
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】JR天王寺(6:43) → JR和歌山(7:47→8:07) → JR御坊(9:09→9:13) → JR紀伊田辺(9:54)
紀伊田辺駅(10:15) → (明光バス) → 本宮大社前(11:50) → 徒歩5分 → 大斎原 → 産田神社 → 熊野本宮 → 本宮大社前(13:25) → 神倉神社前(14:17) → 徒歩15分 → 神倉神社 → 徒歩20分 → 浮島の森 → 徒歩10分 → 熊野速玉大社 → 徒歩15分 → 阿須賀神社 → 徒歩5分 → 徐福の墓 → 徒歩5分 → 新宮駅
【復路】JR新宮(17:10) → JR紀伊勝浦(17:37)

熊野本宮大社(全国熊野神社総本宮 式内社 旧官幣大社 別表神社) 境内に建つ世界遺産の石碑
世界遺産に登録された速玉大社ですが社殿自体は新しい再建。
しかし熊野信仰の歴史的資料を多く伝え境内の神宝館に保管・公開されています。
『毎年10月16日に行われる御船祭は熊野速玉大社例大祭で、
神霊を遷した神輿を乗せた美しい神幸船と勇ましい9隻の早船競漕に拠るもので、
国指定重要無形民俗文化財。世界遺産の熊野川で行われる。

神門前の参道右手にある熊野神宝館
入口では地元の英雄・武蔵坊弁慶の木像がお出迎え。

新宮市のパンフレットからの抜粋した御船祭の様子
広い境内には巨木が聳える事でも知られる。
参道にある梛(なぎ)は平重盛の御手植えと伝え、高さ18m、幹廻り5m、
樹齢千年を数える御神木で国の天然記念物。
葉脈が強く切れ難いことから、縁結び、道中安全の印として熊野詣を果たした参詣者が持ち帰った。
またこの木の実から作るナギ人形は、縁結び、家内安全の御守りとして珍重される。
梛は凪(なぎ)にも通じ、平和・和合の証でもあり、沖縄の本土復帰の年に、
当社から御神木の苗が沖縄に運ばれ、県下の学校に平和の記念樹として植樹された。

御神木「梛の木」
神宝館の向かいに聳える。

注連縄が巻かれた御神木の幹

御神木の石碑

御神木の解説
社殿前にあるオガタマノキは南方系の常緑高木で、古くから神の霊を招く神木として知られた。
オガタマの名は招霊に由来する。
またこの葉を食草として育つ南方系の蝶も飛来し、ミカドアゲハの名で知られる。』 とあります。

神門を潜った場所にあるオガタマノキ

オガタマノキ解説
また形のある宝物ではないものの、ここは熊野御幸の聖地。
平安末期には鳥羽法皇、後白河上皇、後鳥羽上皇等が幾度も熊野三山に足を運び、大いに賑わっている。
熊野御幸(くまのぎょうこう)とは、
『延喜7年(907年)の宇多上皇から嘉元元年(1303年)の玄輝門院までの396年間に
上皇・女院・親王を合わせて御23方、140回に及ぶ皇室の参詣を熊野御幸と言い、
熊野三山史上に不滅の光彩を放っている。
熊野御幸には陰陽師に日時を占定させて、斎館で心身の精進を数日行った後に出発。
天永元年9月の白河上皇の御幸には総人数814人、一日の食糧16石2斗8升、
傳馬185匹であったと『中右記』に記されている。

掲示板にある熊野参詣曼荼羅

熊野御幸を記した石屏風

後白河法皇御撰により梁塵秘抄に載った今様
御幸の道順は京都・住吉・和泉・紀伊半島を海岸沿いに南下して田辺へ。
その後、中辺路・本宮・熊野川を下って当大社へ参拝。那智山・雲取・本宮を経て
往路コースを逆行して帰京されるまで凡そ二十数日に及ぶ難行苦行の旅であった。
熊野御幸に拠って熊野信仰は公卿・武士・庶民の間に流布し、熊野水軍を持つ熊野三山の
忠誠心を助長、京都と熊野との文化交流、有名な熊野懐紙、幾多の名歌が詠まれる等、
各方面に大きな影響を残している。』 とあります。

境内に置かれた「さざれ石」

神門左手の大禮殿

熊野速玉大社説明書 (無料)
境内には熊野御幸の記録が掘られた石板が鎮座しています。
それに拠れば後白河上皇(33度)、後鳥羽上皇(29度)、鳥羽上皇(23度)というのが御幸の上位三名。
いずれも歴史の教科書に登場する天皇で、武士が政治の表舞台に登場する時代というのが共通点。
本宮大社もそうですが、これだけ天皇がここに参詣されたのは、物見遊山や信仰心だけではなく、
熊野三山を拠点とする新宮一族を自分たちの側に繋ぎ止めておくという思惑があったに違いありません。
源平合戦として知られる治承寿永の内乱で熊野水軍が源氏の勝利に貢献しましたし、
その流れを汲む九鬼水軍が織田信長の天下統一に大きな役割を果たしたのも事実。
唯、日本史上の海戦と言えば、源平合戦を除くと厳島の戦い(毛利VS陶)・
木津川河口の戦い(織田VS毛利)があるくらいで、原則として戦は陸上で行うもの。
水軍はあくまで物資補給などの兵站で活躍したようです。
海戦ならぬ廻船ですが、水軍の歴史も【平坦】ではなかったという事でしょう。

熊野速玉大社御朱印 (平成6年拝受)

今回拝受の熊野速玉大社御朱印
世界遺産となって格が上がった?

新宮横町郵便局 ; 熊野速玉祭、熊野速玉大社御燈祭
新宮郵便局 ; 徐福、熊野速玉大社御燈祭
[参考書]
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浮島の森(国の天然記念物)
川の奥が浮島の森。
神倉神社に続いては遷座した新宮にお参りするのが筋ですが、近くにある天然の森にちょっと寄り道。
市街地のほぼ中央、住宅地の中にあるのが浮島の森。昭和2年(1927年)に
「新宮藺沢(しんぐういのそ)浮島植物群」として国の天然記念物に指定されました。
『浮島の森は面積5000㎡の小島であるが、沼の深さは32mに及ぶとされ、
かつては神倉聖の修行場とされていた。島が浮遊した時期は江戸中期の
18世紀前半と言う事が、ボーリングに拠る泥炭層の年代測定で明らかになった。

森の西側の入口に建てられた石柱

入口の句碑
・浮島や やまもも熟れて 落つるまゝ と読める。

浮島の森 説明板
一般的な浮島が草本植物が主であるのに対し、この森は天然杉が優先種。
10mを越える樹木が生えている浮島は我が国では唯一であるが、
かつては300本あった杉も現在では70本程度に減少している。
浮島は泥炭化した植物や倒れた木が筏状に積み重なって島全体を浮かせており、
世界的にもこのような浮島は珍しく貴重である。
森の主な植物は寒帯のヤマドリゼンマイやオオミズゴケ、亜熱帯植物のテツホシダのほか、
この辺りで一般的に見られる温帯植物が混生している。

西日を受ける浮島の森

森の東西断面図

上から見た浮島と植生分布
浮島の森には「おいの伝説」がある。
修験者の神聖な場とされる浮島には、普段は人が入る事はなかった。
その頃、近くに「おいの」と言う美しい娘がいた。
或る日、父に連れられて薪を採りにこの島に来たおいのは昼になり弁当を食べようとしたところ
箸を忘れた事に気が付いた。そこでアカメガシワの枝を探すため、島の奥深くに入っていった。
暫く経っても戻らないので心配した父親が探しに入った所、今まさに大蛇に引き込まれて
「蛇の穴(がま)」に沈んでいくところで、その姿は二度と見る事はなかった。
この伝説は後世「おいのみたけりゃいのどへござれ、おいのいのどの蛇のがまへ」という俗謡になって
今に伝わり、これを元に上田秋成は『雨月物語』に「蛇性の淫」という小説を書いたと言う。』 とあります。

「おい」の石像

おいの伝説
今回は入場せず外観だけでスルーしましたが、前回の訪問時は入場。
その時、島の中を通る道を歩く時に力を入れると島が動くのを身体で感じました。
浮島と言うのは正しい表現でした。「おいの伝説」は【老い】のためか記憶にありませんが、
実際にあった行方不明事故が伝説になったのでしょう。
若しくは神聖な場所に立ち入らないための教訓だったようにも思います。
池に【はめる】事からは和製「ハメルンの笛吹き男」は生れませんでしたが、
これを【修正】して「雨月物語」を書いた筆力は流石と言えます。

新宮中央通郵便局 ; 天然記念物・浮島の森、おいの像
[参考書]
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神倉神社(熊野速玉大社飛び地境内摂社)
神経を集中して石段を上るとやがて視界が開けます。その先にあるのがゴトビキ岩。
本当は前日の25日に参拝してゴトビにゴトビキ岩といきたかったのですが、
雪のためにそうはゆきませんでした。
でも気を取り直して先へ進む事に。御神体に行くのに進退窮まることはありません。

御神体への最後の上り
『中ノ地蔵堂と大神社の建つ場所を過ぎて暫く往くと上の鳥居。そこから少し上った場所には
満山社があり、鳥居をくぐった右手には手水鉢が。この手水鉢は新宮二代藩主水野重良が
自らの姉妹にあたる下野那須城主大関高増の母親の延命と繁栄を祈願して寄進したもの。
黒雲母花崗斑岩の巨大な石を加工して作られており、正面には「寛永八年(1631年)二月」
と刻まれている。同様のものは阿須賀神社にも奉納されている。

参道の先には上の鳥居が建つ
真っ直ぐ進むと岩、右へ上ると満山社。

右の石段を上った場所にある満山社
本宮大社にも同じ社が鎮座している。

愈々、頂上の社殿へ
右には手水鉢。

巨大な花崗斑岩を加工して造られた手水鉢
その先にあるのがゴトビキ岩。
熊野の神々が最初に降臨したとされる熊野信仰の原点。山頂付近にある巨大な岩が
神々の降臨したとされるゴトビキ岩で、ゴトビキとは熊野地方ではヒキガエルの事。
その形が似ている事から名付けられたとされる。
そこに掛けられた注連縄は毎年、御燈祭の1週間ほど前に張り替えられる。

石段の先に社殿と御神体が鎮座

下から見上げた社殿とゴトビキ岩(御神体)
ここに降り立った神々を熊野速玉大社の地に祀り、新たに社を建てたことから「新宮」の名の由来とされる。
『日本書紀』に神武東征の際「熊野神邑に至り、天磐盾に登る」と記されているのが神倉山である。
実際、ゴトビキ岩の周辺からは弥生時代の銅鐸も見つかって居り、古くから信仰の場であった事が覗える。
社殿の建つ場所からは太平洋、熊野川河口、新宮市街地が一望でき、最近はパワースポットとしても
多くの人々が訪れる。』 とあります。

社殿への石段からの眺め
山頂付近が大きな一枚岩の様にも見える。

石段の先にある社殿

社殿前面
参拝は外陣から、と言うよりも御神体は社殿を圧し潰す様に真横に鎮座。
市街地から岩が見えるという事は、岩に立てば市街地が一望できる訳で、
神武天皇や源頼朝などの為政者が重視したのはそれ故と言えましょう。
先般、参拝した救馬渓観音もそうですが、ここも山頂の大きな岩が御神体。
そもそも紀伊半島自体が花崗岩の上に土砂が薄い層を成しているそうなので、巨石が彼方此方に散在。
特にここは市内から一望できるので信仰の対象になったに違いありません。
また岩の形がヒキガエルに似ていたのも「帰る」に通じることで、信仰に追い風になった筈です。
そう言えば、紀勢線の印南・切目付近にはカエルがデザインされたカエル橋というのが架かっています。
紀州の人はカエルが好きなのか、今も昔も人の思考・嗜好?は変わらんようです。

御神体ゴトビキ岩近影

海側から見た社殿とゴトビキ岩

社殿前から見た熊野川河口と熊野川

新宮市街地を一望できる
前回の新宮訪問時には神倉神社は未訪、加えてガイドやパンフの記事も全く記憶に残っていません。
神社自体は前からあったので、世界遺産に登録された事、パワースポットとして取り上げられた事が
大きかったのでしょう。唯、ゴトビキ岩までの石段のために参拝者は他に比べると遥かに少なめ。
駐車場に眺望スポットがあるのも、ここまで登らないで遥拝する参拝者向けなのかもしれません。
令和になっても仁和寺の法師は健在のようです。
神倉神社は無住なので、この後参拝した速玉大社で御朱印を拝受。書置きでしたが一目見るなり
その派手さにドン引き。紙にクラっと来たので、神社がそう呼ばれる訳ではなさそうですが…。

神倉神社パンフ
これは観光案内所で入手したもの。

神倉神社御朱印
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神倉神社(熊野速玉大社飛び地境内摂社)
熊野三山の巻頭を飾る本宮大社参拝の後は、次の目的地新宮を目指して13:25発のバスに乗車。
次のバスでは新宮市内散策が厳しいためですが、本宮での滞在時間は90分。
昼食も含め、もう少し滞在したかったというのが本音でした。乗車時に運転手さんに確認、
私 ; 「イワクラ神社近くに停まりますか?」
運転手 ; 「イワクラ神社ですか?」
私 ; 「山の上に大岩がある神社ですけど。」
運転手 ; 「カミクラ神社なら停留所がありますよ。」
名前もあやふやな旅行者にきちんと対応して頂き感謝です。

バス通りに立つフォトスポットの看板

フォトスポット(駐車場)からの遠望
バスは熊野川に沿って50分で神社前のバス停へ。昔の巡礼者も通った道でしょう。
この道筋を見る限り、絶対に川下りで参拝した人が多かったと確信します。
下車すると早速山の頂上付近に社殿が見え、傍の駐車場には撮影スポットの看板が。
写真でよく見る光景ですが、ここで拝んで済ます人も多いのでしょうか?

撮影の後、神社へ向かう

参道に続く朱塗りの太鼓橋
市街地の西に聳える権現山は世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部に登録されています。
その権現山の南端100m程の断崖絶壁の上に、高倉下命(たかくらじのみこと)と天照大神を祀るのが岩倉神社。
岩倉神社(いわくらじんじゃ)は、
『熊野の神々が最初に降臨したとされる熊野信仰の原点。山頂付近にある巨大な岩が
神々の降臨したとされるゴトビキ岩で、ゴトビキとは熊野地方ではヒキガエルの事。
その形が似ている事から名付けられたとされる。

太鼓橋の右に建つ「下馬標」

境内から太鼓橋を見る
ここに降り立った神々を熊野速玉大社の地に祀り、新たに社を建てたことから「新宮」の名の由来とされる。
『日本書紀』に神武東征の際「熊野神邑に至り、天磐盾に登る」と記されているのが神倉山である。
実際、ゴトビキ岩の周辺からは弥生時代の銅鐸も見つかって居り、古くから信仰の場であった事が覗える。
神倉神社入口の太鼓橋の右手には、乗り物はここで降りるように示した「下馬」標石があり、
表面には寛文12年(1672年)奥州の大銀与兵衛盛道が、熊野三山に七度参詣した記念に寄進した
と記されている。

橋を渡って右手にある社務所
「無人なので対応は速玉大社にてお願いします」 の貼り紙が。

御由緒
下馬標石の右手数十メートルには戦国時代から江戸時代にかけて熊野曼荼羅を携えて全国を巡り
熊野信仰を布教した熊野比丘尼の妙心寺があったが今は廃寺である。
明治に入り廃仏毀釈、修験道廃止令などに拠りゴトビキ岩を覆う社殿は荒廃し、明治13年の台風で倒壊。
今は礎石だけが残る。現在の社殿は昭和初期に建てられたものである。
太鼓橋を過ぎた右手には社務所と思しき建家がみえるが無人。貼紙には「対応は速玉大社で」と記載されている。

石段への参道の右手に並ぶ石碑

天磐楯の碑

天磐楯由緒
太鼓橋から左手に進むと社殿への石段の参道へ至るが、その右手には、
・神武天皇紀「到熊野神邑且登天磐盾」
・見せてやりたい神倉山のお燈まつりの男意気
の野口雨情の歌碑が建ち、石段手前には
・みくまのの 神くらやまの いはだたみ のぼりはてても なほおいのるかな
入道前太政大臣 (続古今集) の歌碑が建つ。この歌には
「入道前太政大臣、熊野にまうで侍りける時、かむのくらにて太政大臣従一位きはめぬることをおもひつづけてよみ侍りける」
という詞書があり、
「高い神倉山に登りつめて祈った。しかし信仰とはいわだたみ以上に高く、まだまだ祈らなければいけない」
というのが大意である。

野口雨情の歌碑

解説はないが 「御燈祭り」 を読んだものか?
・火となりて 走る男や 御燈祭り と読めるが…

入道前太政大臣歌碑
朱い鳥居の先に続く参道は、源頼朝が寄進したと伝わる538段の鎌倉積みの石段で、
登り口から中ノ地蔵堂までは最高傾斜角45度の急峻が続く。』 とあります。
新宮という名前から熊野本宮を新たに遷座したと思い込んでいましたが、実は遷座したのは当社。
しかも新宮と言うからには江戸時代頃かと思っていたのに遷座は景行天皇の御代の西暦128年。
遥か神話時代の話で、今回初め知る内容でした。

朱の鳥居の先の石段へ

権現山の写真付き解説

登り口に置かれた善意の杖は必要なしと思ったが…。
早くに遷座されたとはいえ、今まで多くの参拝者があったことは境内に残る歌碑で理解出来ます。
中でも太政大臣の歌碑は秀逸。信仰はこの山よりも高くなければ、と詠んでいますが、
私にはまだまだ出世したいと祈っているように思えてなりません。
朱の鳥居から自然石の石段を行きますが、その手前には登山用の杖が。
「高々538段で杖など…。」と高を括っていましたが、上り始めると結構急な事に加え、
自然石特有の不安定さがあって、いつ足を踏み外してもおかしくない状況。
疲労よりも神経を集中する事に疲れた上りでした。
「538段は誤算や!」、やはり「転ばぬ先の杖」は大切です。

正面から石段を見る

意外とキツイ石段を行く

石段途中にある火神社(左)と中ノ地蔵堂
ここらでちょっと一休み。
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熊野本宮大社(熊野本宮大社末社) 本宮前の白河上皇御製碑
中世には庶民の間に流行した熊野詣ですが、忘れてはならないのが上皇を始めとする貴人の参拝、
所謂熊野御幸です。皇族や貴嬪を同行して行列を組み、途中で歌会をするとは言うものの、
平安京からは一ヶ月かけての長旅。

秩父宮勢津子妃殿下(会津松平家)の御筆に拠る解説
一生に一度お詣りすれば御の字の恥ですが、それを何度も実践した方が居られたには驚き。
『熊野御幸は古くは景行・応神・仁徳・天智・天武の諸帝の崇敬を受けたが、
平安時代に入ると皇室の崇敬が高まり国史に重きを成すに至った。
宇多法皇より亀山上皇までの歴代の上皇、女院の熊野行幸は百余度の多きに達し、
宇多・花山法皇の一度、白河上皇十度、鳥羽上皇二十一度、崇徳上皇一度、
後白河上皇三十四度、後鳥羽上皇二十八度、後嵯峨上皇三度、亀山上皇一度など、
明らかなものだけでも百度の多きに及び他社にその例を見ない。
熊野行幸の内でも本宮のみの参拝も度々であった。

神門前の後鳥羽上皇御製

御製解説

平成4年5月27日 皇太子殿下(今上天皇陛下)参拝記念植樹
今はエコ或いはSDGsの影響か御製に代わって植樹となっている。
加えて女院鳥羽后待賢門院、同妃美福門院、御嵯峨后大宮院を始め、平清盛、平重盛、源実朝、
北条政子、藤原定家、徳大寺実能、藤原師通、和泉式部等の権門勢家の参詣も多く、
古より男子と生まれたものは、先ず熊野へ参詣して初めて一丈夫になると言われ、
出世、家門繁栄の守護神として尊崇されている。
平清盛も未だ若い頃に熊野へ詣でた結果、太政大臣に至ったと 『平家物語』 にある。

和歌山県らしく創建記念植樹は南高梅

和泉式部の祈願塔

月のさわりにも熊野権現は優しいと言うお話
その他庶民も全国から参詣絶えず、文覚上人、西行法師、一遍上人らの宗教人も参詣している。
特に一遍上人は文永11年夏、本宮の大前で神宣を受け開教の契機を得たと言われ、
この因縁で相模遊行寺の歴代上人は、継嗣の際には特に本宮に参詣するのが慣わしになっている。』
とあります。

築地塀前のオガタマの木

オガタマの木 解説
参拝の多い皇族を眺めて先ず気付くのは、いずれも歴史の教科書に登場するような有名人。
それだけ事績も多い方々なので、単なる旅行好きではなく、有り余ったエネルギーを発散する場でもあったのでしょう。
それでは何しに熊野へ向かったか?
熊野水軍を味方に付ける意図も勿論あったでしょうが、それ以上に祖先の功績を辿る意図が重要。
というのも天皇家の始祖の神武天皇が熊野から大和へ入って即位した事に由来します。

イワレヒコ(神武天皇)を大和に導いた八咫烏
その正体は水軍の水先案内人?

八咫烏の由来

シンボルマークの八咫烏は熊野三山で三様

境内の黒ポストも八咫烏
伝書鳩は聞くが、伝書烏は初耳。
ここで神武東征を考えると、『日本書紀』が完成したのは720年、天武天皇の系列の元正天皇の御代でした。
天武といえば、近江朝から出家して吉野へ逃れ、後に「壬申の乱」で都へ攻め上って天皇位に就いた人物。
壬申の乱を制したといっても別の言い方をすれば簒奪者。彼にとって自分を正統化し人心掌握するためには、
同じような事績を持つ神武天皇を強調する必要がありました。
極論を言えば、神武東征自体が、天武朝に拠る創造の産物だったとも言えるのではないでしょうか?

神門左手の黎明殿
神事はここで行うそう。

黎明殿前のタラヨウ(多羅葉)の木

タラヨウの木 説明

黎明殿の向かいに建つ社務所
こうして三山のトップを切って本宮参拝終了。昼食は山内にある「茶房 珍重庵」。
ここは和菓子の「もうで餅」が定番ですが、バスが【もうで】る時刻なので「もうで蕎麦」をかき込み。
これで無事終了と思いきや、真名井社の御朱印を貰い損ねた事が判明。
どうももう一度、ゆっくり参拝する必要がありそうです。
といっても、参拝回数で上皇方を上回る畏れ多い事はしませんが…。

帰りは参道脇の「祈りの道」へ

茶房の入る瑞宝殿前から見た参道の杉並木

茶房 珍重庵 にて「もうで蕎麦」
大根と梅干が入っている。

本宮郵便局 ; 世界遺産・熊野本宮大社社殿、大鳥居と八咫烏
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紀伊田辺駅(10:15) → (明光バス) → 本宮大社前(11:50) → 徒歩5分 → 大斎原 → 産田神社 → 熊野本宮 → 本宮大社前(13:25) → 神倉神社前(14:17) → 徒歩15分 → 神倉神社 → 徒歩20分 → 浮島の森 → 徒歩10分 → 熊野速玉大社 → 徒歩15分 → 阿須賀神社 → 徒歩5分 → 徐福の墓 → 徒歩5分 → 新宮駅
【復路】JR新宮(17:10) → JR紀伊勝浦(17:37)

熊野本宮大社(式内社 旧官幣大社 別表神社)
石段を上るといよいよ本宮。幟の立つ参道の石を踏みしめて進むと厳かな気分はいやが上にも高まります。
古の参拝者は分かりませんが、この日は融け残った雪を踏み分けての参拝。気が引き締まる思いでした。
熊野への道筋は、王子が点在する山中を行く中辺路、海岸沿いを進む大辺路、高野山から向かう小辺路、
伊勢神宮からの伊勢路と幾通りかありますが、最初の参拝は全てここ本宮から。
その後、熊野川を下り速玉大社、那智大社を巡るのが所謂区熊野三山。
本宮の樹木、新宮の巨岩、那智の大滝と言う人知を超えた自然を祈りの対象とし、
神仏習合が盛んになる平安以降は、本宮は阿弥陀如来、新宮は薬師如来、
那智では千手観音を熊野権現として祀るようになりました。
総門前に建つ授与所で御朱印拝受。御朱印は何種類かあって通常と正月版を頂きました。
併せて参拝の栞も購入。入山料は不要だったので、これくらいの出費は楽勝。

本宮由緒記

授与所全景

御朱印に付帯の説明書

説明書裏面には案内図と御朱印の場所が

参拝の栞 (有料)

本宮御朱印 (通常版)

本宮御朱印 (正月版)
熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)は、
『御鎮座の年代は文献等では定かでないが、神武東征以前には既に御鎮座になったと言われている。
第16代崇神天皇65年に熊野川中洲の大斎原の地に社殿が創建されたと
「神社縁起」「帝王編年記」「皇年代略記」等に記載されるのが文献上の嚆矢である。
主祭神の家津御子大神(けつみみこのおおかみ)は熊野坐大神(くまぬにいますおおかみ)とも呼ばれ
素戔嗚尊にも例えられるがその詳細な素性は不明。一説には唐の天台山から飛来した神ともされる。
中洲に鎮座した故、水を司る神、紀の国であるから木の神と諸説あるが、
大神の神遣である八咫烏が太陽の化身である事から始元は日神であったというのが有力である。

総門前に建つ旧社号標

社号標解説
熊野本宮を祀った神職の熊野国造(くまのこくぞう)家は、天照大神の孫の饒速日尊の子孫を名乗り
物部氏と同祖。孫の味饒田命(うましにぎたのみこと)が熊野連を名乗った。
その子孫の高倉下(たかくらじ)は熊野の地にあって、東征してきた磐余彦命(いわれひこのみこと)に
天剣布都御魂(ふつのみたま)を献じて迎え、時を同じくして高御産巣日神(たかみむすびのかみ)は
天より八咫烏を遣わし大和橿原の地まで導いた。磐余彦命はそこで即位して神武天皇となった。

総門を潜り本殿へ

総門の注連縄と菊の御紋の入った垂れ幕

塀越しに見える社殿屋根
第10代崇神天皇は大和民族の主旨として神を祀る事を考え、神宮(伊勢)や本宮(熊野)が奉祀された。
第13代の成務天皇の御代には国々の境が決められ、紀伊半島の南半分に当たる熊野の国造には
高倉下の子孫の大阿斗足尼(おおあとのすくね)が就任。
以来この子孫の和田氏が代々神職として江戸末に及んだ。

本殿側から見た総門

熊野本宮本殿

本殿の参拝順序の説明板
奈良朝の頃から本地垂迹説が行われ、熊野本宮では御祭神を阿弥陀如来の化身として
熊野大権現として仏名を配する様になった。寛治4年の白河上皇の行幸では初めて僧鋼三人が供奉、
その一人法印僧都増誉上人は導師を務めた功に拠り熊野三山検校に補された。
その下に三山を管理する熊野別当職が置かれたが、多くの荘園を支配するその権限は大きく、
特に田辺別当である本宮別当湛増はその機略で熊野水軍を率い源平合戦に参加、
その勝敗を左右したのは有名である。

第一殿(左)と第二殿

熊野造の重文・第一殿 西御前
夫須美大神を祀り、本地仏は現世を司る千手観音。

重文・第二殿 中御前
速玉大神を祀り、本地仏は前世を司る薬師如来。

仲御前の神門近影
平安時代になり、清和天皇の御代に従二位を、醍醐天皇の延喜の制では熊野三山中では
唯一の名神大社に列した。その後、宇多上皇の本社行幸、朱雀天皇の天慶3年には
西国海賊平定(純友の乱)の御奉幣に拠り正一位の極官に至った。
中古以後は諸国に造営料地が寄進され、三公もしくは将軍が造営奉行として
国家規模の事業として造営が執り行われた。近世になり、
光格天皇の享和2年に本社・第一殿・第二殿が、文化7年には第四殿が造営されている。
明治維新に入り、明治4年5月には国幣中社に、大正4年11月には官幣大社列せられている。
終戦後の昭和21年には官制は廃止、一宗教法人となり現在に至っている。』 とあります。

第三殿と第四殿

重文・第三殿 証誠殿
家津御子大神を祀り、本地仏は来世を司る阿弥陀如来。

熊野造による証誠殿
総門を潜ると正面に五社殿が鎮座。樹木を祈りの対象とするだけあって木肌を前面に出した建造物でした。
社殿前には社殿の上に数字が記してあり、この順番に参拝するのかと思いましたが、
ややこしかったので左から右へ順次参拝。後で確認するとその順番で良かったようでホッと一安心しました。

重文・第四殿 若宮
天照大神を祀り、本地仏は十一面観音。

四本殿の右にひっそりと鎮座する満山社
人と人の縁を結ぶ玉石を祀る。

第四殿の屋根
当宮への道筋は何通りかあるようですが、ふと気になったのは熊野川を利用する方法。
大斎原の段にも記したように、飛鳥の都、紀州の和歌山から川を遡れば、
陸路を極力抑えて本宮まで辿り着くことが可能。参拝は己の力で苦労して行く事が重要視されますが、
何時の時代でも怠け者もとい要領の良い者は居る訳で、川を使ってのお詣りが出来た事が、
これほどまでに熊野詣が流行した背景にあったと想像しますが、どうでしょう?

本殿を囲む社叢
手前は御製の歌碑。

総門に続く築地塀

境内側から見た黎明殿
[参考書]
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熊野本宮大社(式内社 旧官幣大社 別表神社)
御幸道から168号線を渡った場所に鎮座ましますのが熊野本宮大社。
御幸道(参道)から見える小高い山が明治24年(1891年)に遷座した場所。
熊野川大洪水被害のためですが、近場に高台があったのは何より。
入口の看板には「甦りの地」とありますが、社も見事に蘇りました。
入口は全国の総本宮にしては狭い印象ですが、これは移転も影響している筈。
参拝者には開かれた広い門戸であります。

御幸道から見た新たな遷座の丘

道路を渡ると本宮入口

世界遺産の案内板
『本宮大社は熊野三山の中心で、全国に4700余社を数える熊野神社の総本宮。
主祭神は素戔嗚尊(家津御子大神)で、本地仏は阿弥陀如来とされている事から、
極楽浄土の聖地と見做されて来た。
かつては大斎原と呼ばれる中洲に鎮座していたが、明治22年(1889年)の水害を受け、
免れた上四社三棟を現在の地に移築・再建され遷座。

いよいよ鳥居をくぐり本宮社へ向かう

鳥居脇に建つ社標

鳥居の奥に続く参道

鳥居の扁額 「熊野大権現」 は北白川房子筆
中辺路・小辺路、そして大峯奥駈道と言ったいくつもの参詣道の交差点に鎮座する本宮大社は、
熊野詣の最初の目的地であり、ここから熊野川を下り、熊野速玉大社から熊野那智大社へと
参詣するのが一般的と言われている。
鳥居をくぐると杉木立の参道が真直ぐに延び、そこから158段の石段参道を上ると社務所前。
正面に総門が控える。』 とあります。

鳥居の直ぐ後ろは砂利道

砂利道に続く158段の石段

参道左手に建つ功霊社
本宮出身で日露戦争(四柱)、第二次世界大戦(五十八柱)で戦没された御柱を祀る。

功霊社に続く祓戸大神
参拝者はここに参拝してから本宮に進むのが慣わしとなっている。
大斎原の大鳥居を見た後では、小振りに見えてしまう鳥居ですが、扁額は北白川房子謹書。
明治天皇第七皇女で戦後、女性初の神宮祭主となった方。本宮の格式の高さをあらためて感じます。
それに続く道にも功霊社、祓戸大神、手水舎が鎮座。参道を行くのに三度立ち止まる訳ですが、
お詣りすることで、本宮への畏敬の念はより高まります。昔ながら、精神的効果を狙ったしくみと言えそうです。

参道右手の手水舎

手水舎から先は八咫烏が道案内?

参道左手には神職の住居が

参道の先に建つ宝物館は残念ながら休館中

石段を上り切ると社務所前
正面に総門が見える。
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産田社(熊野本宮大社末社)
大斎原参拝の後は、来た道を引き返して本宮へ。参道と書いていますが、
地図の記載は御幸道(ごこうみち)。その昔、歴代上皇や法皇が参詣した事に拠る命名でしょう。
我々庶民には無縁の話ですが、知ってから通ると何か【後光】でも差した気分になるから不思議です。

御幸道からの産田社遠望
その向こうは熊野川。

敢て必要もないが案内板が建つ
本宮大社前に堤防脇にある社へ参拝。産田社(うぶたしゃ)は、
『本宮大社の主祭神・素戔嗚尊の母神・伊邪那美命の荒魂(あらみたま)を祀る社で、女性の守護神。
八百万の神々を始め、全てを生み出された産土の神と仰がれる命はここ産田社に鎮まる。』 とあります。

産田社正面

鳥居の先の祠?

これが御神体になるのでしょうか?
格式で言えば本宮大社の摂末社に過ぎませんが、祀られているのは主祭神の母神様。
というよりもこの社も御朱印があるので立寄ったというのが真実に近いでしょうか。
母親を敬う大切さを思い出させてくれる神社です。簡素な造りではありますが、
父神(ふしん)は社の普請すらない不振な状態なので、余程優遇されています。
まさか祀らなければ荒ぶる魂の御怒りがあるとは思いませんが…。

御守の御案内

産田社御朱印 (本宮大社で拝受)
[参考書]
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大斎原(熊野本宮旧社地)
巡礼する際には常にお祈りしていますが、この度無事大願成就。
「成就した暁には熊野三山に御礼参りします!」と誓った手前、
行かないと罰があたりそうなので早速紀州路へ奇襲作戦。
当初の25日出発は豪雪で1日遅れ。紀伊田辺まで電車、そこから中辺路をバス1時間半で
雪の残る本宮参拝後、熊野川を新宮までバス1時間下って速玉大社。
紀伊勝浦で一泊の後、雨の那智大社に参宮という強行軍。
速玉は平成6年、那智大社は40年前の高校時代に家族旅行で参拝しましたが、
一度に三社は初。これも【加持場】の馬鹿力でしょうか?

バスで60分のなかへち美術館付近の光景

杉木立も雪を被った車窓からの風景
なんでも皇祖イワレヒコが日向から東征する際に、八咫烏の導きで熊野地方から大和へ入って
神武天皇になったそうで、中世以来、皇族中心に計百四十回もの参詣で栄えたのはそのための様です。
僻地の難所を想像していましたが、道路は整備され、途中の平地にはレストラン・宿泊施設や道の駅があって、
平日ながら結構な賑わい。皇族に【後続】する人々が多かったためでしょうが、世界遺産になった影響も大でした。

約90分のドライブで熊野川に遭遇
本宮大社前で下車して愈々参拝。ガイド等では先に本宮に参拝する仕来りですが、
私は創建の時代に従い、元あった大斎原(おおゆのはら)からスタート。
『神代の時代、大地の荒れ果てている事を嘆いた素戔嗚尊(家津御子大神)は、
自ら木を植えて木の国と名付けた。これが紀の国の名の由来である。
熊野本宮は紀元前33年、熊野牟婁郡(むろごおり)音無里(現在の本宮町本宮)の大斎原に創建。
この地は、熊野川・音無川・岩田川の三川の合流する中洲である。
中世には庶民にまで広まった熊野詣は、先ずこの大斎原を目指した。

バス停脇に建つ道標

看板に従って目的地へ
最盛期には五棟十二社に能舞台まで立ち並ぶ壮麗な境内があったとされ、古文書・宝物等も
多かったと記録されている。そんな当社も寛正・永禄・明和年間の三度に及ぶ大火、
就中明治22年(1889年)熊野川大洪水の際に甚大な被害を被った。
その時に流出を免れた上四社は明治24年3月に現在の本宮の地に遷座、従来の地を別社地とした。
また流出した社については、そこに石祠二殿を造営し、西方に中四社下四社、東方に元境内摂末社を合祀している。
平成12年5月11日には高さ34mの日本最大の大鳥居が竣工した。』 とあります。

堤防上からの熊野川河原を眺める

大鳥居への真っ直ぐな参道

参道脇の水田の用途を記した立て札
バス停から案内板に従って進むとすぐ目の前に大鳥居が見え周囲は田圃で障害物はなし。
そこの水田では本宮に伝わる餅菓子用の糯米と作っているそうです。
写真等でお馴染みのスポットですが、建立は平成12年と本宮の歴史から見ればほんの最近でした。
社殿は移転しましたが、木立に囲まれた跡地に入ると荘厳さで気が引き締まりました。
古代人もここにパワースポットを感じたのでしょう。

参道の先には日本一の大鳥居が建つ

高さ34m、幅42m の大鳥居
ここで以前から気になった疑問が。
洋の東西を問わず古代都市は自然災害の少ない場所を選んで造られます。
いくら古代で情報が少なかったとはいえ、何故このような川の中州に社を建てたのでしょうか?

大鳥居建立の由緒記

大鳥居に記された「本宮の」八咫烏神紋

こちらはリアルな八咫烏
この一つの解答は、大斎原と言う名前。字体からはここで祭祀をしたと想像できますが、
それが何故 「おおゆのはら」 なのか。そこでこの辺りを見渡すと湯の峰温泉をはじめとする温泉が湧出。
今でこそありませんが、かつてはこの場所には温泉が湧き禊をした場所だった可能性も大。
熊野は「くまの」ですが音読みなら「ゆうや」。元来は湯屋と記していたのが熊野に変化した
というのが案外真実を伝えているのかもしれません。

大鳥居の先に建つ世界遺産の石碑

旧社地へと続く杉並木参道

旧社地 「大斎原」
今一つの解答は、川の合流点という古代水上交通の拠点だった事。
神武東征は八咫烏の導きで大和を平定したという神話ですが、どのような道筋を採ったのか?
もし川を遡るとすれば、熊野川から十津川、天の川を経て洞川へ。そこから一山超えると吉野川で、
川を下ると橿原神宮は目と鼻の先。普通には熊野から山を越える事を考えますが、
川を上手く遡上すれば行軍の距離は相当短縮できそうです。
地形的には九州から紀伊半島を回り熊野へ至るルートは考え難いとされますが、
イワレヒコは日向の美々津から船で畿内に向かっています。
神話の世界と言ってしまえばそれまでですが事実との【親和】性を持たせるためにも
現代人が考えるよりも、古代には水上交通を重視する必要がありそうです。

大斎原の解説

旧社地へ階段を上る

荘厳な雰囲気の大斎原

大斎原御朱印 (本宮大社で拝受)
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