<コース>
【往路】JR天王寺(6:49) → JR紀三井寺(7:58) → 徒歩10分 → 紀三井寺
JR紀三井寺(10:08) → JR和歌山(10:15→10:20) → JR岩出(10:41) → レンタサイクル20分 → ねごろ歴史の丘 → レンタサイクル5分 → 根来寺

一乗山 大伝法院 根来寺(新義真言宗総本山)
大塔と大伝法堂
御廟へお参りした後は、いよいよ根来寺の中心とも言うべき大塔エリアへ。
手前にこぢんまりと佇む大師堂は根来寺最古の建造物。それを過ぎると見上げるような大伽藍が。

明徳2年(1391年)建立の重文・大師堂
真言宗の開祖・空海を祀り、毎月21日に御影供の法要が行われる。

大塔入口から見た大師堂
綺麗な方形の屋根である。
根来寺のシンボルとも言うべき大塔は
『正式名は大毘廬遮那法界体性塔と言い大塔は略称。真言宗の教義を形の上で端的に表したもので、真言宗では「金胎不二」
の精髄を示す塔として最も重要とされる。
天文16年(1547年)に完成した高さ40mを誇る木造建築で日本最大、唯一無二の国宝。秀吉の紀州征伐でも焼失を免れた。
多宝塔としては塔内に入って参拝できるのは珍しい。

天文16年(1547年)建立の国宝・大塔

大塔の亀腹部と屋根

大塔内陣の大日如来に参拝
一方の大伝法堂は、根来寺の本堂に相当し、大日如来を本尊、金剛薩埵(こんごうさった)、尊勝仏頂(そんしょうぶっちょう)を
脇仏とする。これら大伝法堂三尊敬は応永12年(1405年)に完成し重要文化財。ここでは伝法大会、伝法灌頂など真言宗で
最も重要な修法を伝える道場で、僧侶が厳しい修行を行っている。』 とあります。

大塔から大伝法堂へ

大伝法堂遠景

文政9年(1826年)再建の重文・大伝法堂

大伝法堂正面
扉の向こうに三尊像が祀られている。
全国に多宝塔は多々ありますが、内陣に入って参拝できるのは私の知る限りここくらい。何事も大きな根来寺ですが、
この二つは一際威容を誇っています。境内奥に仲良く並んでいますが、大塔が一般の参拝場所、伝法堂が僧侶専用の
場所と棲み分けをしているようです。もう少し【ねごろ】な大きさにしても良かったのかもしれませんが、どちらかに偏らない
という心配りの結果がこのような【拡版】になったと言えます。
そういえば祀られているのはどちらも大日如来。拝受した大日如来の御朱印は一体、どっちだったのでしょうか?

大伝法堂の三尊像 ねごろ歴史資料館案内書より

平成5年に拝受した大日如来の御朱印

根来郵便局 ; 国宝・根来寺大塔、桜
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総本山根来寺本坊
御朱印と庭園拝観はこちらから。
光明殿の後は、廻廊を戻り本坊へと続く名草御殿へ。名草の名は紀三井寺の建つ山の名前から来ているのでしょうか?
『名草御殿は紀州徳川家の別邸を移築したもの。そこに面する書院庭園は、三段の滝や鶴亀島を配置した池泉式蓬莱庭園。
光明殿の南西にある聖天池と併せて国指定名勝庭園となっている。』 とあります。

光明殿から廻廊を通って本坊へ

廻廊から見た枯山水様式の庭園
左が光明殿、右が名草御殿。

本坊から光明殿を見る

御殿と南側の庭園見取り図

光明殿から正面の本坊、左の御殿を見る

御殿から廻廊方面を見る
36万坪もの敷地がある根来寺自体が庭園みたいなものですが、その本坊に鑑賞できる庭園が別途あるのは驚きですが、
厳しい学問に日々接している学僧にとっては、心の【なぐさ】めになったに違いありません。桂枝雀師匠ではないですが
「世の中は全て緊張と緩和!」、その効用が分かっていたとすれば流石です。

御殿内部の部屋

御殿に祀られている大黒様

御殿西側の庭園
こちらは池泉回遊式庭園。

御殿北側の庭園見取り図

御殿縁側に面する書院庭園
手前にあるのが筒形手水鉢。

池に配された鶴亀島

鶴亀島の奥にあるのが三段の滝

御殿から西を見る
名勝庭園を鑑賞した後は本坊を過ぎ、もみじ谷公園を流れる大谷川に沿って進むと奥の院。覚鑁上人の御廟所になります。
両側の木立に囲まれた静謐な場所。

木立の参道を進み奥の院へ

御廟所へと続く橋
この橋が結界に相当する?
新義真言宗宗祖・覚鑁上人は
『嘉保2年(1095年)、肥前の生まれ。13歳の時、京都仁和寺の寛助僧正について出家、京都・奈良で学んだ後に20歳で
高野山に入山。当時の高野山は衰退期にあり、弘法大師の真言密教を正しく伝える必要を痛感した覚鑁は鳥羽上皇の
庇護の下、伝法会を再興し教学の興隆に専心した。時に長承元年(1132年)、覚鑁38歳の時である。

奥の院説明

御廟所へ参拝
しかしその事が一部の高野山衆徒の反発を招き、保延6年(1140年)覚鑁は下山。根来の地で新たな教学の確立を目指した。
康治2年(1143年)12月12日、49歳を一期として円明寺にて入寂。遺骸は荼毘に付され、跡地には菩提院が建てられ、
本尊の阿弥陀如来、覚鑁の木像を安置している。』 とあります。

開祖の御朱印

覚鑁上人の木像 歴史資料館のパンフより
奥の院という扱いは宗祖・空海を髣髴とさせます。新義真言宗の開祖なので当然でしょうが、高野山と違い食事を運ぶ事は
ないようでした。僧兵で有名な根来寺であり、「かくばん」という名から、勝手に角張った人物像を想像していましたが、
今に残る像を見ると非常に繊細な顔立ちをされています。当時の真言宗の現状に満足せず、いってみれば宗教改革をした
ようなものですが、このような外見からは想像もつかないような強い意志があったのでしょう。覚鑁もまた日本史上の快僧の
一人でありました。そのため気苦労もあったようで、五十歳を前に亡くなったのは、その影響もあったと思います。

菩提院旧跡
覚鑁上人の遺体を火葬した荼毘所。江戸時代の築。

正面から見た菩提院
阿弥陀如来本尊と上人木像を安置とあるが、参拝は外からのみ。
しかし、後継者を得たとはいえ彼の教えがその後も発展し今日に至ったのを見ると、その遺志は大きく花開いたといえましょう。
朝廷より贈られた興教(こうぎょう)大師という号ほど彼の功績を表す言葉はありません。唯、現在の状況が覚鑁の望んだものと
同じとは思えませんが、停滞に入る頃に改革者が現われる事が世界宗教と新興宗教との境目の様な気がします。

覚鑁が入滅した円明寺
今残るのは本堂のみで、無住。しかも周囲を柵で囲まれている。

円明寺近影
[参考書]
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一乗山 大伝法院 根来寺(新義真言宗総本山)
根来寺へは大門を過ぎて入山受付へ向かうのが常ですが、この日は直接受付へ。大門は帰りに見る事になりました。
一乗山大伝法院根来寺(いちじょうざんだいでんぽういんねごろじ)は、
『平安末期の大治5年(1130年)、真言宗の中興の祖とされる覚鑁(かくばん)上人が高野山内に一堂を建て、伝法院と称した
のが嚆矢。覚鑁に深く帰依した鳥羽上皇は荘園を寄進するなど手厚く保護。長承元年(1132年)には上皇の院宣を得て、
高野山に大伝法院と密厳(みつごん)院を建立した。

石段の先に見える鐘楼門

境内から見た鐘楼門

根来塗発祥地の碑
勢力を得た覚鑁は長承3年(1134年)に金剛峯寺座主に就任、衰頽していた高野山を建て直し宗祖・空海の教義の復興を
試みるが、それが高野山内の宗徒の反発を招き、寺院を焼討ちされるに至った。覚鑁一門は高野山を下り、大伝法院の
荘園であった豊福寺に入山。更に新たに円明寺を建て道場とした。この二寺が根来寺の揺籃である。
覚鑁は康治2年(1143年)に円明寺で入寂するが、そこから1世紀以上経った正応元年(1288年)大伝法院の学頭・頼瑜(らいゆ)
は寺籍を根来に移すことになる。

聖天池と聖天堂

文化元年(1804年)建立の重文・常光明真言殿
通称「光明殿」。覚鑁上人の尊像を奉安する。紀州徳川家第8代藩主重倫公の生母・清信院の発願に拠り建立。

光明殿入口の唐破風
扁額には「密厳堂」とある。
戦国時代には寺領72万石、子院300余、僧侶と僧兵の総人数が3万と一大宗教都市を形成し、宣教師ルイス=フロイスの
記録にも「当時日本で最も栄えた寺院の一つ」として世界地図上でもNegraと記されている。
種子島に伝来した鉄砲をいち早く取り入れ、1万人を越える僧兵を抱えた軍事的集団の印象が強いが、中世を通じて
全国から学僧の集まる大学でもあり、教学復興の拠点としても重きをなした。今でも大伝法院では新義真言宗の僧侶達が
教学を学び、2年に1度「伝法大会」という法要が開催されている。

光明殿内陣

光明殿玄関から鐘楼門を見る

平成5年拝受の光明殿御朱印
しかしその繁栄が仇となり、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の雑賀攻めを招く事となった。その際、大塔、大師堂など数棟を残し
多くの堂宇は焼失。本格的な復興は紀州徳川家の庇護を受けた江戸時代まで持ち越された。』 とあります。
今でも境内は36万坪を誇りますが、全盛期はどれ程広かった事か想像もつきません。境内は川を挟んで光明殿・本坊地区と
大塔・大伝法院地区に分けられるように思いましたが、これだけ広いと一括りにするのが土台無理な話です。

光明殿の廊下を抜け行者堂(正面)へ

修験道の始祖・役行者を祀る重文・行者堂

今回拝受した行者堂御朱印

享保21年(1736年)建立の重文・聖天堂
聖天(歓喜天)を祀る。

聖天堂内陣
中央の壇、付属物は根来塗。

聖天堂(雨宝楼)説明

聖天堂から見た聖天池
本坊寺務所から光明殿に続く堂宇を内部から参拝しましたが、受付で御朱印を見ると3種類。
前回の参拝時には、大日如来と光明殿で拝受している旨を伝えると、
「それは随分前ですね。光明殿は廃止になって代わりに興教大師になっています。」 との事。
折角の参拝なので、興教大師と行者堂と二つ拝受しました。
書籍の場合は絶版ですが、根来寺の御朱印は【欠く版】と言うのでしょうか?

閼伽井

閼伽井説明

根来寺説明書
[参考書]
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楼門の後ろに立つ七鈴観音堂
前回、参拝に訪れたのは平成5年。あれから27年経つ訳で、記憶の衰えもさることながら、以前にはなかったものも、
目に付きました。
前回の巡礼では札所の他、身代わり大師の御朱印を拝受していますが、今は波切不動の御朱印もできていました。
そして驚いたのは階段を上がった右手に建つ仏殿。落慶法要が平成20年とあるので、27年前には確実にありませんでした。

石段の途中左にある波切不動

波切不動の向かいには大師堂が

身代り大師堂

身代り大師堂御朱印
『仏殿の御本尊は大千手十一面観世音菩薩といい総漆金箔張寄木造の木造の立像仏としては日本最大の12m。
京都西山の仏師・松本明慶師の作である。』 とあります。
御本尊があるのに更に何故となりますが、仏殿は納骨壇を有しているので、観音様の大慈悲の下で安らかにという
意図だそうでした。

石段を登った右手に聳える仏殿

仏殿に祀られている日本最大の観音様

大観音様の特別御朱印 書置きで ¥500
正式名は紀三井山金剛宝寺護国院ですが一般には紀三井寺。これは
『山内に湧き出す三つの霊泉、清浄水・吉祥水・楊柳水に由来。大津の三井寺との混同を避けるために「紀」の文字を冠した
とされる。唯、付近には毛見(けみ)という字が残っており、それが訛ったという説もある。』 とあります。

楼門の石段下の「懺悔と招福の水場」
この清浄水で罪を洗い流してから参拝。

水場の説明
語源は兎も角、紀三井寺の境内に清水が湧出するのは間違いなく、それだけ重要視された理由。寺紋にも法輪の中に
三つの井桁が描かれているのがその証と言えます。
罪業を洗い流すとされる清浄水が表坂中腹、楊柳水がその100m程南の山腹、吉祥天の内証より湧き出たとされる
吉祥水が山門から北へ500m程行った山腹と、今に残る井戸は、いずれも名草山麓の古道に沿って湧出。古くからの
井戸で民衆の苦難を救った事もしばしばあったのでしょう。古代人の【鼓動】が聞こえてくるようです。

身代り大師堂の脇に湧く清浄水

清浄水横の芭蕉句碑
・見上ぐれば 桜しもうて 紀三井中

楊柳見水

吉祥水

吉祥水説明

吉祥水の場所から
大津の三井寺は天智・天武・持統の三帝が産湯に使った境内の御井に由来し、三つの井があった訳ではありません。
三井寺には園城寺という名があり、強いて「紀」の文字を付ける理由もありませんし、清水寺の様に同じ名の寺院があっても
問題は無い筈。
これらを考えると、元の字であった「毛見」を井戸に因んだ「紀三井」の文字にしたのが無理の少ない気がしますが、
どうでしょう?泉に因んだ【名水】理ならばよいですが、迷推理とならないよう祈るばかりです。

吉祥地蔵

地蔵説明

吉祥地蔵
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紀三井山 金剛宝寺 護国院(救世観音宗総本山 西国三十三ヵ所第二番札所)
紀勢本線の紀三井寺駅から線路を越えて東へ。紀ノ川河口平野南部の名草山の西側中腹50mに建つ紀三井寺は、
境内から和歌浦や片男波が一望できますが、逆に和歌浦湾からも堂宇を見る事ができる巨札です。

和歌浦の観海閣から見た紀三井寺

門前の街道沿いの町並み

寺標に続く階段
楼門前が受付 朝8:00~

永正6年(1509年)建立の重文・楼門
三間一戸・入母屋造・本瓦葺きで桃山様式を残す。

楼門説明

楼門欄間の牡丹と蓮の彫刻
紀三井山金剛宝寺護国院(きみいさんこんごうほうじごこくいん)は、
『唐より渡来した為光(いこう)上人が宝亀元年(770年)に開創。上人が諸国巡礼中、たまたま宿泊した名草山の麓で、
山の中腹から金色の光を見る。登った先の袋谷の老松の下で千手観音像を感得した上人は、自ら一刀三礼の元に
等身大の十一面観音像を彫り草庵に安置したのが始まりとされる。

楼門前の閻魔大王像
令和元年の建立で、西国巡礼草創期の逸話を伝える33個の宝印を手にする。

逸話の図

楼門から続く231の階段
平成5年は記憶にないが、今は横にエレベーターも設置されている。

石段途中から見た楼門と両脇の桜
以上は寺伝であるが、平安末期の文献に名が登場する事から、その頃には観音霊場として広く知られていたと思われる。
現在、本尊の十一面観音像1体、秘仏の千手観音像1体に加えて藤原時代の木彫仏5体を有しており、十一面観音像が
最も古く様式は10世紀を下らないとされる。

石段を登り切った先に建つ六角堂

石段の先を左に進むと参道の先に本堂が建つ

天正16年(1588年)建立の重文・鐘楼
入母屋造・本瓦葺きで、腰板張りの下層である袴腰全体が軽快な感じを与える。

鐘楼説明
後白河法皇の時に勅願寺となるが、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の雑賀攻めで草創以来の堂宇の多くや文書は焼失。
49町あった寺領も全て没収された。楼門、鐘楼、多宝塔が往時の姿を留めている。

桜に囲まれた本堂

宝暦9年(1759年)建立の本堂
入母屋造・正面唐破風と千鳥破風・本瓦葺き・九間四面・総欅造り。

本堂前面
扁額「救世殿」は“ぐぜでん”ではなく“きゅうせいでん”と読むそうな。

本堂拝所
提灯に描かれているのは寺紋で法輪の中に三つの井戸を表す井桁が描かれている。

本堂納経所脇にある絵馬殿
本堂初め多くの建造物は紀州徳川家の発願で江戸中期の宝暦年間の再建。長らく真言宗寺院であったが、
昭和26年(1951年)救世観音宗総本山として独立した宗派となった。正式名は護国院であるが、境内から湧出する
三つの井戸から紀三井寺の名で呼ばれる事が多い。』 とあります。

本堂前の大師堂

大師堂脇の石段を上り多宝塔・開山堂へ

文安6年(1449年)建立の重文・多宝塔
嘉吉元年(1441年)倒壊した塔に代わって再建された。下層は四本柱の方形、上層は十二本配柱の円形で五智如来を祀る。

多宝塔説明

開山堂
西国札所の例に漏れず創建以来1200年を越える古刹。金色の光云々は伝説的なものがありますが、境内に三ヵ所湧水が
あるので、これが恐らく山腹に寺院が建立された理由。
最盛期には広大な寺領と勢力を有したようですが、それ故権力者に目を付けられたとも言えます。それでも廃寺にはならず
今迄続きているのは開基の御【いこう】と言えそうです。

開山堂から見た本堂屋根

本堂地下にある西国巡礼観音像
正面は奉納された杓文字の山。

紀三井寺の由緒を江戸時代に版画にしたもの

紀三井寺説明書

平成5年拝受の西国巡礼御朱印
救世殿と墨書。

今回拝受の西国巡礼御朱印
草創1300年の記念印が押印されている。

紀三井寺オリジナル御朱印帳

紀三井寺郵便局 ; 山門を隔てて紀三井寺
和歌山南郵便局 ; 重文・紀三井寺山門、片男波
[参考書]
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一乗山 大伝法院 根来寺(新義真言宗総本山)
紀三井寺で参拝と観桜した後は、和歌山線に乗っての一つの桜の名所の根来寺へ。
といっても、和歌山線は30毎の運転で、寺院は駅から5㎞と紀三井寺に比べると遥かに厄介。
JR岩出駅前からレンタサイクルを利用ですが、さて昼食は何処で?と悩んでいると、窓口の御姉様が
「根来寺の近くでも食事できますよ。インターを降りた場所にはラーメン店もありますし…。」
とアドバイス。お店の名前は不明でしたが、道沿いに「武者麺」の看板が…。濃厚と銘打ったにしてはさっぱり味。
つけ汁に入った柚子のせいでしょうが、和歌山ラーメンも色々バリエーションがあるようです。

JR岩出駅 歴代駅スタンプ いずれも国宝の根来寺大塔が描かれている
(左上) 国鉄時代最後の「わたしの旅印」 (右上) JR民営化以降に設置の和歌山支社印
(下) 2008年設置のJR西日本和歌山支社印

昼食は、インター下の「武者麺」にて 濃厚つけ麺 ¥900
前回は駅前しかなかった筈ですが、27年も経てば変わるのは当然。寺へは少し迂回路になりましたが、
教えて貰った店で昼食を摂った後は、道の駅で甘味で一服。
「ねごろ歴史の丘」と言うだけあって資料や遺跡も展示されており、しかも無料。参拝前の下調べができました。

道の駅に隣接する土産店にて「虹色パフェ」で一服

道の駅に隣接する重文・旧和歌山県議会議事堂
明治31年(1898年)に和歌山市一番町に建築されたものを移築した。

議場の内部
現在の根来寺の境内は36万坪。これだけでも大概広いですが、全盛期とされる戦国時代には、平地だけでなく、
和泉山脈から南へ延びる丘陵上や谷筋までが全て勢力範囲。寺領72万石、子院と呼ばれる坊が300余り、僧侶と
僧兵を併せた人数が3万人と、これは寺院を越えた一大都市勢力です。
これだけ勢力を持てば権力者が怖れない筈はなく、豊臣秀吉と対立したことが天正13年(1585年)の雑賀攻め、
主要伽藍焼失に繋がりました。
道の駅の傍には発掘された階段・排水施設、半地下式倉庫の遺構が展示されており、かつての隆盛が偲ばれました。

道の駅に隣接する「階段遺構」

こちらは半地下四季倉庫
根来寺へは大門を過ぎて入山受付へ向かうのが常ですが、この日は直接受付へ。大門は帰りに見る事になりました。
歴史の丘から道を東へ800m程下ると、いよいよ根来寺門前。途中からでも全体が白い桜の様子が見えます。
私の独断では、和歌山県の桜の名所は、和歌山城、紀三井寺、根来寺 の順。紀三井寺は早朝の事もあり
人出は疎らでしたが、根来寺は昼過ぎもあって駐車場待ちの状態。こんな時には自転車は本当に助かります。

根来寺大門
一山の総門で嘉永3年(1850年)の再建で左右には金剛力士像を配する。受付までは1㎞弱。

大門裏側
ここに駐車して観光する人も多数。

入山受付の横の駐車場に駐輪(無料)
奥に国宝・大塔が見える。
大門から続く桜並木、受付脇の大谷川沿いが桜の名所ですが、その他に境内の多くの建物を囲むように桜が
植えられています。しかし前の二ヵ所に比べると根来寺は桜以外の紫陽花や楓も豊富で四季の変化に合わせて
花を楽しむ事ができるのが特徴。これは単なる鑑賞目的ではなく、植物の薬効にも注目したためかもしれませんが…。

大谷川沿いではキャンパスを立てている人の姿も

大谷川沿いの桜

受付からの眺め
道路の向こうは古民家カフェレストラン「初花」

「初花」入口
今回はスルーだが、次回は期待。
戦国時代には寺領72万石、子院300余、僧侶と僧兵の総人数が3万と一大宗教都市を形成し、宣教師
ルイス=フロイスの記録にも「当時日本で最も栄えた寺院の一つ」として世界地図上でもNegraと記されています。

参道の先の鐘楼門

光明殿
開山・興教大師覚鑁の尊像を安置する。
それよりも気になったのは、どうしてこれだけの人数を養うことが出来たのか?荘園や関所の通行税だけでは難しそうです。
資料館の方の話では、種子島に伝来した鉄砲をいち早く持ち帰り、鉄砲体を組織した事が大きかったようです。
各地で戦乱に明け暮れた時代には、僧兵も重宝されたに違いありません。勝手な想像ですが、鉄砲や火薬も手広く
販売していたのではないでしょうか?

聖天池の周囲の桜と光明殿を配初めとする堂

本坊前の桜
「僧籍にある人間が、武器と傭兵で金儲けをしてどうすんねん!」と現代の考えで推し量るのは無理と言うもの。
己の身は己で守らなければならない時代にはそんなことは言って居れません。
早くに情報を得られたのは修験者の活動に加え、素破(すっぱ)・乱破(らっぱ)と呼ばれた諜報活動者の存在がありました。
忍者で有名な根来なら当然の事。スッパイ(素破)は成功の基を地で行く話です。情報を重視したのは信長にも通じるものが
ありますが、それが将来的に敵対する事になった気がします。

大師堂と桜

桜の向こうに見える国宝・大塔

大日如来を祀る大塔
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紀三井山 金剛宝寺 護国院(救世観音宗総本山 西国三十三ヵ所第二番札所)
“弥生も末の七日、曙の空朧々として、月は有明にて光をさまれるものから、紀伊の峰々かすかに見えて、
和泉紀州の花の梢またいつかはと心細し” と風雅な気分には程遠いですが、今年初めての桜を求めて紀州路へ。

寺院と早咲き桜が描かれているJR紀三井寺駅歴代スタンプ
(左上)国鉄時代最後の「わたしの旅印」 (右上)JR発足後の和歌山支社印
(下) 2008年JR西日本和歌山支社印

駅東側の街道を南下すると先ず裏門に至る
ここから参拝の可能だが、楼門へ回る事に。

楼門への途中から見た境内

楼門下に到着
石段右が受付(入山料¥200)で、朝8時に開門。

楼門から境内まで231の石段を登る
27年前はこれしかなかったが、今はエレベーターも設置されている。
『西国三十三ヵ所第二番札所として知られる紀三井寺は、境内から和歌浦湾一帯を見渡せる景勝地であるが、
「日本さくら名所100選」にも選ばれている観桜の名所。本堂に向かって左側の桜の木が和歌山地方気象台の
ソメイヨシノの標準木に指定されており、近畿地方では最も早く開花する。そのため、近畿に春を告げる寺として
知られる。』 とあります。

石段先を左折すると桜に覆われた参道の先に本堂が建つ

本堂前の標準木
幹の上にカメラが…。

標準木越しに見た本堂

標準木の満開のソメイヨシノ

本堂納経所横の絵馬殿から見た標準木

本堂前の満開の桜

絵馬殿から和歌浦方面を望む
赤い欄干の先にはエレベーターがある。

本堂前より桜の参道を見返る
前日の開花予想で確認。和歌山駅から二駅ですが、翌28日が雨の予報なので混雑を避ける為に朝8時に到着。
流石に混雑という程ではありませんでしたが、それなりに参拝客が来始めているのは桜の名所由縁。例年よりも
随分早い開花ですが、まだ散るには至っていませんでした。この分では来週末まで大丈夫でしょうか?

本堂前にて
右の庇の下に見えるのがドローン。

大師堂脇の石段を上り多宝塔へ
遥か向こうには和歌浦が見える。

石段途中から桜に囲まれた本堂を見る

境内で最も高い場所に建つ多宝塔
楼門を過ぎ231段の石段を上り左に向かうと本堂。参道には桜が咲き本堂に近付くと囲まれる状態。その先に、
よくTVで見る標本木がありました。固定カメラが設置されているのは、時間を追ってチェックするためでしょうか?

石段の右手に平成20年落慶の仏殿

桜越しに見た仏殿

仏殿前から北側、本堂方面を見る
手前の桜は234の石段脇のもの。

仏殿前から西方、和歌浦方面を見る

仏殿前の桜
本堂前ではテレビ局のスタッフと思しき人達が撮影の準備中、ニュースで開花状況を放送するのでしょう。
ふと上から音がしたので見上げると境内にドローンが。通常は駄目ですが特別に許可されているのでしょう。
上空からの眺めは気になりますが、【空見た事か!】とはならないように注意が必要。好天に恵まれたので
問題はなさそうです。やっぱりドローンは【太陽がいっぱい】に限ります。

和歌浦の眺望

和歌浦干潟を望む

仏殿前の正博桜と和代桜

正博桜と和代桜の説明
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【往路】なんば → (南海特急・急行) → 和歌山市
南海和歌山市駅 → (和歌山バス) → 玉津島神社前 → 徒歩3分 → 玉津島神社 → 鹽竈神社 → 徒歩5分 → 海禅院多宝塔 → 徒歩15分 → 和歌浦天満宮 → 徒歩3分 → 紀州東照宮 → 徒歩8分 → 五百羅漢寺 → 秋葉山 → (和歌山バス) → 日赤医療センター前 → 徒歩5分 → 報恩寺 → 徒歩5分 → 真砂町 → (和歌山バス) → JR和歌山駅
【復路】JR和歌山 → (紀州路快速) → JR天王寺

白雲山 報恩寺(日蓮宗 由緒寺院)
五百羅漢に対面した後は和歌山城まで戻りますが、少し手前の赤十字病院前で下車。バス通りを東に進むと
寺院が犇めく一角が。地元では寺町と呼ばれているそうですが、城の南を防御する役割があったのでしょうか。
観光寺院はありませんが、紀州家菩提寺があるというので敬意を表するために参拝。

国道42号から東に1筋入った道に面した入口
白雲山報恩寺(はくうんざんほうおんじ)は、
『慶長14年(1609年)に建立された要行寺が嚆矢。その後、寛文6年(1666年)に紀州徳川家藩主頼宜公夫人・
瑤林(ようりん)院の追善菩提のため、息子の二代藩主光貞公が要行寺を報恩寺と改名。
一ヵ所本山として寛文9年に寺領250石を寄進、小西檀林化主・日順上人を招き開山導師とした。
日順は朝廷より権大僧都の位を賜り参内を許された高僧であった。
以来、紀州徳川家の菩提寺として、また和歌山城下唯一の『武士寺』として繁栄。最盛期には末寺六ヶ寺、
寺域2万5千坪を有する紀州随一の日蓮宗寺院であった。

山門近影

山門から続く参道
中央は御成門なので左に進み境内へ。

門扉に三つ葉葵のある参道正面の御成門
紀州徳川家藩主を始めとする貴人が参詣された際に使用された。現在は当山貫主の入山及び葬送の際のみ開門される。
しかし明治元年(1868年)の勤皇運動に拠って諸堂が破壊され、時の貫主で当山17世の日偵上人も佐幕藩士に
惨殺されるなど、苦難の時代を迎えた。
20世紀に入っても昭和20年(1945年)7月の和歌山大空襲で伽藍は焼失。第25世日環上人が再興を果たすが、
昭和36年の放火に拠って焼失と厄災が続いた。現在の本堂は平成11年に大改修を経て落慶したものである。
しかし紀州徳川家御廟所や鐘楼は焼失を免れ紀州の歴史を今に伝えている。』 とあります。

平成11年落成の本堂
鉄筋製の白亜の殿堂である。外陣より参拝。

戦災を免れた梵鐘
開山・日順上人が寛文12年(1672年)に二代藩主・光貞公の娘、光姫の供養の為に寄付したもの。

本堂脇を抜けて御廟所へ
周囲に森や山がないので門前に建つと非常に明るい印象。参道を抜けた本堂も鉄筋製と古刹という雰囲気はありませんが、
矢印に従って坂道を上った先の御廟に来ると流石に歴史に圧倒されます。唯、御廟の説明板がなかったので、どれが
誰やらサッパリ分からず。取り敢えず参拝だけして本堂へ戻ると、御住職が歩いて来られたので御朱印を拝受出来ました。

御廟所への階段

紀州徳川家御廟所入口
和辻;「ここは紀州藩菩提寺とありますが、下津の長保寺もそうですよね。」
住職;「あちらは藩主の菩提寺。ここは藩主の奥方の菩提寺になります。」
和辻;「宗派も違いますよね。」
住職;「向こうは天台宗で、ここは日蓮宗になります。」
和辻;「瑤林院さんは加藤清正公の娘と説明にあったので、それで日蓮宗ですか?」
住職;「実を言うと初代・頼宜公の御生母・養珠院さまが非常に熱心な日蓮宗の信者で、
「我が家の嫁は尽く日蓮宗に帰依せよ!」との御遺言がありましたので…。」との事。
奥方故に寺の奥に御廟がある訳ではありませんが、藩主と奥方で菩提寺が別とは思いませんでした。
昨今、夫と同じ墓に入りたくないという女性も多いようですが、これはその走りでしょうか?

御廟所奥の三基
手前から初代頼宜夫人・瑶林院、二代光貞夫人・天真院、五代吉宗夫人・寛徳院の墓。

北の駐車場から全体を見る
同じ家で宗派が異なるのは西洋の王侯貴族では先ず考えられませんが、日本では結構ある話。
徳川将軍家でも歴代将軍は、天台宗の寛永寺と浄土宗の増上寺に墓所が分かれています。これを寛容と見るか、
いい加減と見るかは各人各様ですが、特定の宗派の政治的影響力を排除する目的があった事は否めません。
我が国では近世以降、宗教が政治に容喙することは非常に少なかった気がします。

報恩寺説明書

報恩寺御朱印
養珠院とは徳川家康の側室・お万の方で紀州頼宜、水戸頼房の生母。御三家の内二家の始祖の実母ですから
大したものです。お万の方は義父・蔭山氏の影響で熱烈な日蓮種の信者だったようで、宗論を巡って日蓮宗僧侶・日遠が
家康から死罪を命じられた際には、己の命を懸けて助命を勝ち取ったほどの人物。これには後陽成天皇も感激し
「南無妙法蓮華経」の文字を下賜されています。
てっきり初代藩主の奥方の信仰と思っていましたが、実母では従わざるを得なかったのでしょう。
これ程の人物ならば、子孫にこんな遺言を残しても「そんなこともお万なぁ」となりそうです。

報恩寺の直ぐ北にある吉宗公誕生の地

昼食は城北橋の北側にある「麺屋ひしお本店」にて
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護國山 五百羅漢寺(曹洞宗 大本山永平寺直末)
和歌の浦で四社参拝の後は城下まで戻る事に。東照宮の傍には権現前という停留所がありますが、
多方面からのバスが合流する和歌浦口までバス通りに沿って北上。そのバス停の少し先に五百羅漢寺の案内が…。
車が1台辛うじて通れる道に面して重厚な仁王門が聳えます。左右の仁王様は阿吽像ですが、面白いのは
その前にある足型。説明では仁王様の足跡だそうで、その上に乗ると足腰が丈夫になりますとありました。
仁王像は今まで山のように見てきましたが、足跡は初めてでした。

バス通りに建つ案内石標

細い道の向こうに壮麗な仁王門が

仁王門近影
「護國山」の扁額が掛かる。道が狭いので全体が写る場所はなさそう。

左側の仁王様(吽像)

仁王様の前の力石
護國山五百羅漢寺(ごこくさんごひゃくらかんじ)は、
『明和元年(1764年)、紀州徳川家八代藩主・重倫(しげのり)公の祈祷寺として建立。初代住職には
大本山永平寺の46世・真空妙融禅師を招き、その縁で永平寺の直系寺院となった。
堂内には重倫公の像が安置されている他、公が使用した座布団や御膳、木沓、菓子台を収蔵。
本尊の釈迦如来は公の母・清信院が寄進したものである。

仁王門の正面に建つ本堂
一応、内陣から参拝可能。

本堂向拝の龍の彫刻
本堂を取り巻く多くの羅漢像は1837年から4・5年の歳月を掛けて、西浜御殿の女中や商人が祖先供養のために
再興奉納された仏像である。本堂には御本尊、十六羅漢、五百羅漢とお釈迦様の四人の弟子が祀られている。』
とあります。

本堂内に並ぶ羅漢様
極彩色のものは修復済。

境内の梅越しに見た本堂
寺の裏にあるのは秋葉山。これは城下を火災から守るために防火の秋葉三尺坊大権現を祀る鎮守堂が建立された
事に由来します。建立の経緯や壮大な仁王門・本堂を見るにつけ、建立当時は広大な寺域を有したと想像できますが、
時代と共に衰微したのでしょう。
仁王門と本堂とは対照的に境内は狭いですが、樹木を始め綺麗に整理されていました。
特に目に付いたのが石碑や滝に見立てた多数の石組み。良く見ると粉河寺の蓬莱庭園で見た紀州青石の様子。
戦国以降、庭石として珍重され高値で取引されたものですが、地産地消の走りとも言えそうです。

梅越しに見た仁王門

本堂前から見た境内

青石で組まれた龍門の滝

境内には青石の石碑が多く建つ
御朱印を御願いしている間に本堂に参拝。「堂上には上がらないで下さい。」と記載されていたので遠くからの拝観。
有料拝観している様子もありませんが、折角の作品を間近で見られないのは残念。対応して頂いた重職夫人の話では
少しずつ修復中なので完成待ちといった所でしょうか?次回は「どうじょう、御覧下さい。」となれば良いですが…。
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紀州東照宮(県社)
天満宮から道を戻り、御手洗池横に大きな駐車場のあるのが紀州東照宮。その前には「令和3年400年」の幕が
掲げられています。駐車場の奥には鉄筋の紅白の派手な建物が。社務所かと思いましたが実は東照宮会館、
結婚式やイベントが行われる場所でした。が受付があったので御朱印はここで拝受できました。

東照宮入口

東照宮会館正面

開館階段の奉納石碑
紀州家の奥方かと思ったが、「宗家のお嬢様です。」とは社務所の方の談。
本殿は右奥にある参道を抜けて石段を登った先。急勾配ですが、先程の天満宮と異なり両側には樹木が
迫っているので怖さは感じませんでした。石段は108段、神社ですが煩悩の数にしているのでしょうか?

東照宮ヘはこの石の鳥居を進む

境内案内図

木漏れ日の参道を行く

楼門へ続く108段の侍坂
紀州東照宮は、
『元和7年(1621年)、南海道(現在の和歌山・三重の一部・四国)の総鎮守として紀州徳川家初代・頼宜に拠って創建。
風光明媚な和歌の浦を鎮守地として徳川家康公を東照大権現として祀り、国や人々の安寧と平和を祈念する聖地とした。
翌年には、家康公の御霊を慰め天下泰平を願う和歌祭も開始された。

重文・朱塗りの楼門

楼門下から和歌の浦方面を望む

境内から見た楼門と廻廊
右にあるのが社務所で、拝観料はここで。
楼門の朱塗極彩色は関西随一。権現造の社殿廊下は本漆塗りで左甚五郎作とされる欄間彫刻が、
本殿は狩野・土佐の両派に拠り荘厳な佇まいが描かれている。』 とあります。
東照宮があるのは雑賀山。和歌の浦を眼下に見下ろし、西に天満宮、東に玉津島神社を控えた要衝の地。
私見では見晴らしは天満宮に譲りますが、目の付け所は流石といえましょう。

楼門の正面にある唐門とその奥に建つ拝殿
唐門から先は撮影禁止になっている。

唐門前の青銅製の燈籠

社殿にある左甚五郎の鶴亀の彫刻
これは案内板の写真を引用。

社殿正面の左甚五郎作と伝わる龍の彫刻
拝観時にチケット代わりに貰った絵葉書から。
楼門より先は有料(¥300)で、唐門より内側は撮影禁止。写真は残念でしたがゆっくり鑑賞できたのは幸いでした。
左甚五郎の作品は龍。初代・頼宜が南龍公の神号で呼ばれた事に由来するそうです。
日光、久能山もそうですが東照宮はどこも豪華絢爛。関西でここまで派手なものは見た記憶がありません。
苦労人の家康にしては以外な気もしますが、戦乱のない世にしたという矜持でしょうか?

境内にある吉宗公所縁の楓の木

東照宮の案内

紀州東照宮御朱印
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和歌浦天満宮(天満神社)
妹背山から和歌の浦を眺めた後は、再び三断橋を渡り次なる参拝へ。鹽竈神社、玉津島神社を横に見て
市町川を遡りますが、途中にはレトロな旅館や食事処が並んでいます。景勝地なので宿泊所は当然ですが、
それに加えてお洒落なカフェやスイーツの店が多いのが特徴。観光客だけではなく地元の人も利用しているとか。
右手に古民家らしき建物がありましたが、地元の大学で教鞭を執っている同級生に拠れば、純喫茶リエールといって
地元でも評判の店。前もって訊いておればと思いましたが、後の祭りでした。
川の突き当りの御手洗池公園の横に大きな朱の鳥居と紅い柱の建物が見えますが、そこは東照宮。
天満宮は池の横の道を更に200m奥に行った場所でした。

天満宮に到着

一の鳥居
和歌浦天満宮は、
『延喜元年(901年)、菅原道真が太宰府に配流の途中、風雨を避けここ和歌浦に立寄った。
その際、地元の漁民が急拵えの座で公を迎えたとされる。道真は船出の時に
・老いを積む 身は浮き船に 誘われて 遠ざかり行く 和歌の浦波
・見ざりつる いにしえまでも 悔しきは 和歌吹上の 浦の曙
の二首の歌を詠じたと伝わる。

鳥居からみた石段と楼門

石段前の木製牛もコロナ対策

急勾配の石段

石段と石垣
どちらも紀州青石か?

急勾配が苦手な人には左に緩い坂がある
康保年間(964~968年)になり文章博士・橘直幹が和歌浦を訪れ道真を追慕して御神霊を勧進したのが嚆矢とされる。
その後、江戸時代の慶長5年(1600年)に紀州の藩主となった浅野幸長が慶長6年頃から造営を始め
慶長11年に社殿が完成、現在に至る。本殿や楼門は紀州根来の塀内吉政・正信親子の建築である。』
とあります。

慶長10年(1605年)建立の重文・楼門
入母屋造・本瓦葺き。

楼門の説明板

楼門からの眺望
鳥居の奥に御手洗池、更に先には和歌の浦が広がる。

楼門から見た前拝殿
天満宮と名の付く神社は全国に多々ありますが、ここは福岡の太宰府、京都の北野と並んで菅公所縁の場所。
単なる【かんこう】地ではなく三菅廟と呼ばれるのも故なしとはしません。
鳥居から楼門までは紀州青石が敷かれた急な石段を登りますが、楼門に立つと遠く和歌の浦まで見渡せます。
ここに立った道真公は己の将来よりもこの国の行く末を憂いたのでしょうか?
彼の死後、ここに社を建てたのはそんな菅公の思いを忖度したからに違いありません。

境内から見た楼門
左側は社務所で、御朱印はここで拝受。

本殿の説明

前拝殿とその奥に建つ重文・本殿
慶長11年(1606年)の建立。

前拝殿近影

前拝殿の唐破風と本殿の千鳥破風
どちらも檜皮葺である。
江戸時代に建てられた東照宮はこの東側。眺望を考えると天満宮の方に軍配が上がりますが、
移転させなかったのは天神信仰の賜物。社殿も一流の作となっています。
説明書によれば子の塀内正信は寛永9年(1632年)に江戸幕府の作事方大棟梁に就任。全国の大工の頂点に立ちます。
ここの作品はまさにその【とうりょう門】だったと言えましょうか。

本殿の脇に建つ重文の多賀大社本殿(末社)

末社天照皇太神宮前の御神木

和歌浦天満宮 参拝のしおり

和歌浦天満宮御朱印
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海禅院(日蓮宗)
二社を参拝した後は、唯一残った島へ渡ることに。玉津島の六の岩山の先頭にあるのが妹背山。
『慶安2年(1649年)、紀州徳川家初代・頼宜の母の養珠院(お万の方)が家康33回忌の供養に山内に経石を埋納。
暦元年(1655年)には頼宜が母親を偲びその上に多宝塔を建立。また民衆が自由に干潟の景色を楽しめるように
三断橋と観海閣を設け妹背山を整備した。』 とあります。

あしべ橋上より妹背山遠望

頼宜が建設した三断橋
妹背山に続く県内最古の石橋である。現在修復中なので右の仮橋を利用。
養珠院が唯一残った島に経石を埋めたのは、この世と冥界を繋ぐという位置付けでしょうか?
紀州徳川家初代の頼宜は家康の十男。和歌の浦の北西にある権現山の中腹に父を祀る東照宮を、
干潟に浮かぶ妹背山に母を偲ぶ多宝塔を建立しています。“父の恩は山よりも高く、母の恩は海よりも深し”と
思ったかどうかは知りませんが、バランスの取れた配置であることは確かです。
島に続く三断橋は県内最古の石橋。優雅な造りは中国景勝地の西湖堤を模したものだとか。
島に渡り観海閣に行くと真東には和歌の浦越しに紀三井寺を望むことができます。

和歌の浦に面して建つ観海閣

観海閣から東の遠望
山腹にあるのは紀三井寺。

海禅院多宝塔
妹背山の中腹に建つ。

多宝塔近影

多宝塔屋根瓦にも三ツ葉葵が
それよりも墓域に一般人も入れるようにしたのは非常に画期的。紀州藩は親藩のため近隣の諸藩より
年貢がきつかったとはよく聞く話ですが、これなどは庶民の目線に立った政治と言えます。
島を巡ると寺らしき建物が。海禅院多宝塔というからにはここが寺院なのでしょうが、人の気配は全くなし。
入口にも集会所とありました。無住なのでしょうが折角の景勝地なので【かいぜん】の余地があるかと思った次第です。

多宝塔の横から山頂に向かう

妹背山山頂から不老橋・あしべ橋方面を望む

山頂から見た和歌の浦
浦とあるが干潟、遥か向こうに見えるのは海南の和歌山マリーナシティ。

海禅院?
山頂から多宝塔の反対側に降りた場所に建つ。掃除はされている様子だが、人気はない。
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鹽竈神社
玉津島神社参拝に引き続き鹽竈神社へ。歩いても150m程度ですが、玉津島神社のある奠供山ではなく、
別の鏡山の麓にあります。

鏡山と神社遠景
鹽竈神社は
『玉津島山の一つ鏡山の麓、波に削られた洞窟に潮の満ち干や製塩から安産・子授けを司る鹽槌翁尊(しおづちおじのみこと)
が祀られている。尊は古事記の「海幸彦・山幸彦」に登場する鹽椎神で、山幸彦に海神の所へ行くようにと教えた神。
その結果、山幸彦は龍宮の豊玉姫と結婚し御子を授かったと伝わる。

洞窟への入口にある拝殿

拝殿の脇にある和合の松
潮の満ち引きが出産に関係し、また塩が人々の食生活に不可欠であることから全国を巡り十三ヵ所に製塩法を伝授。
和歌浦の鹽竈はその内の一つとされる。かつては紀ノ川上流の丹生都比売神社から、浜降り神事で渡った神輿が
置かれたため輿の窟(こしのいわや)と呼ばれた。』 とあります。
山の麓とありますが波をもろにかぶりそうな場所。岩に空いた洞窟を胎内と見做して崇拝したのでしょう。
玉津島神社の祓所から神社に昇格したとも言われます。

洞窟の奥にある拝所

鹽竈神社御朱印
これは玉津島神社で拝受した。

洞窟の上にも山部赤人の歌碑が建つ
神社の向かいにあるのが不老橋。嘉永4年(1851年)に十代藩主・治宝の命で和歌祭の御成橋として建造されたもの。
和歌祭とは家康を祀る東照宮の例大祭で徳川家や東照宮の人々が通るためだそうです。
アーチ形の石橋でアーチ部は肥後熊本の石工が、勾欄部の雲をあしらった彫刻は紀州湯浅の石工と当時の一流を
集めたようです。当時は幕末で黒船来航の2年前。国難に対して家康に頼ろうという心情は分かりますが、
その後17年で幕府が終焉した事を考えると、あまり効果はなかったとも言えます。

不老橋の北側にて

あしべ橋上から見た不老橋全景
下を流れるのは市町川、朱の鳥居は玉津島神社の西参道口。

あしべ橋から見た鹽竈神社全景
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<コース> 南海電鉄は20分間隔、JRは15分間隔で運転
【往路】なんば → (南海特急・急行) → 和歌山市
南海和歌山市駅 → (和歌山バス) → 玉津島神社前 → 徒歩3分 → 玉津島神社

玉津島神社(旧村社)
この日は気温も上がる予想なので「梅も開花するやろ。」と思い立って和歌山まで【きしゅう】攻撃。
行先は和歌浦。市内というよりも県下を代表する景勝地。電車の駅からはやや離れていますが、
JR・南海の駅からはバスが頻発しているので不便はありませんでした。
バスを玉津島神社前で下車すると東参道口で鳥居が見えます。もう一つ先の不老橋で下車して
市町川に面した鳥居を行くのが西参道口。大回りにはなりますが、どうもこちらからの参拝が正式な様でした。

西参道口に建つ鳥居

二の鳥居
正面に見えるのは拝殿。
玉津島神社は
『神功皇后が海外出兵の際、玉津島の神である稚日女尊(わかひるめのみこと)が霊威を表された事で篤く尊崇。
後に皇后自身も卯の年・卯の月に因み合祀された。
その後、五十八代・光孝天皇の夢枕に第允恭天皇の后である衣通姫尊(そとおりひめのみこと)が現われ
和歌の浦を詠まれたので勅命により合祀。三柱となった。

由緒略記

二の鳥居に続くのは小野小町の袖掛けの塀
ここに服を掛けると美心になるという噂があり実行する人が後を絶たないとか。

和歌浦状
神亀元年(724年)、聖武天皇は若ノ浦に行幸。その景観に感動し玉津島と明光浦の霊を祀る詔を発したのが
玉津島の初見である。当時の紀ノ川は河口を和歌の浦に大きく開き六つの小高い島山があり、引き潮時には
陸続きであるが満潮時には恰も玉のように海中に存在していたことから玉津島六山と呼ばれたのが由来である。

拝殿近影

拝殿前に建つ紀州頼宜公寄進の石灯籠

境内にあるオオタニワタリ
南方系のシダ植物である。
その行幸に従った宮廷歌人の山部赤人は若ノ浦と玉津島の神々を讃えた長歌と二首の反歌を詠んだが、その反歌が
・若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 芦辺をさして 鶴鳴き渡る
である。 紀貫之が『古今和歌集』で赤人を取り上げた事から、和歌の聖地となって神が祀られる事となった。

拝殿奥にある山部赤人の万葉歌碑 これは右側に建つ長歌
・やすみしし わご大君の 常宮と 仕へ奉れる 雑賀野ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に
風吹けば 白波騒ぎ 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ尊き 玉津島山

左側の反歌二首 (揮毫はいずれも犬養孝)
・沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠り行かば 思ほえむかも
・若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る
天正13年(1585年)、紀州平定した豊臣秀吉が当社に参詣、1606年には紀州に入部した浅野幸長により社殿が修復、
それに続いた紀州徳川家初代・頼宜に拠って本格的な整備がなされた。
頼宜は和歌名人36人を描いた「三十六歌仙額」を奉納している。
古は「若の浦」だったのが「和歌の浦」となって今の県名にまで続くことになった。』 とあります。

拝殿横の根上がり松
中世の頃、玉津島に根上がり松の巨木があった事に因み、大正10年に和歌山市高松から移されたもの。

拝殿の右を抜けて奠供山登り口へ
隣県ながらこれまでゆっくり見た記憶はありませんが、来てみると成程、詠われるだけあって風光明媚な場所。
それよりも和歌の浦は干潟で、かつては六島あったとは初耳でした。現在、妹背山、鏡山、奠供(てんぐ)山、雲蓋山、
妙見山、船頭山と呼ばれていますが、妹背山のみを海上に残して後は全て陸地化しています。
『奥の細道』にもあるように松島や象潟など海に島々が点在する姿が詩情を生むのでしょう。
和歌の聖地はかつての島々の場所でもあったようです。

山道の途中から見た本殿

奠供山頂上に建つ遥拝所の碑

頂上から南方を望む
不老橋の向こうに和歌浦干潟が広がる。

頂上から東方を望む
山腹に見えるのは紀三井寺。

頂上から西方を望む
和歌浦漁港と奥に見える雑賀崎。
付近は寺社が多く「距離的に近いのに何故?」と思ったのは、かつての島毎に祀った名残でしょうか。
玉津島神社があるのは奠供山(てんぐさん)。聖武天皇の詔勅の文に由来する名前です。石段を登った先からは
和歌の浦が一望でき、紀州10代藩主・治宝(はるとみ)は遥拝所を造営。明治43年(1910年)には眺望のため
30mの昇降機が設置されたそうですが、今に残るのは碑のみ。何事も【てんぐ】になってはいけないという教訓でしょうか?

玉津島神社由緒記

玉津島神社御朱印
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日前神宮・國懸神宮(紀伊國一之宮 旧官幣大社)
竈山駅から電車に乗って三社巡りの最終は日前宮(にちぜんぐう)駅で下車。
神社は駅から石を投げると届く程の距離で、神話時代まで遡る創建2600年を数える日本有数の古社。
日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)の二社からなります。

貴志川線日前宮駅ホーム

濠に架かる太鼓橋を渡り境内へ
社伝に拠れば
『神武天皇の2年、紀国造家であった紀氏の祖神である天道根命が、
八咫鏡に先立って鋳造された日像鏡(ひがたのかがみ)・日矛鏡(ひぼこのかがみ)を賜り、
前者を御神体として日前神宮を、後者を御神体として國懸神宮を創建。
一つの境内に二社が鎮座しており、両社を総称して日前宮或いは名草宮と呼ぶ習わしである。
御神体の鏡は伊勢神宮内宮の八咫鏡と同等とされ、日前神宮・國懸神宮は準皇祖神の扱いであった。
当初は名草郡に祀られ、垂仁天皇16年に現在地へと遷座されたとされる。

石鳥居前の常夜灯

石鳥居から境内を見る
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の根来寺攻めで社殿が破壊、社領も没収された。
江戸時代になって紀州徳川家初代頼宣によって社殿は再興されたが、敷地は大幅に縮小している。
大正8年(1919年)国費に拠り改修が始まり大正15年(1926年)に完成。現在の形になった。』 とあります。

由緒記

神楽殿?
日没の方角で日前というのも不思議ですが、この付近の呼び名は向陽。
日前と同じ意味でしょう。社の西にあるのも向陽高校と言う名前。
ある程度の年齢の人には戦前の海草中学という校名の方がしっくり来るでしょう。
夏の中等野球大会で戦前連覇をした名門ですが、一之宮に肖って改名したのでしょうか?

参道の紫陽花

日前神宮

國懸神宮
大和から見て伊勢は日の出の方向、紀伊は日の沈む方向に当たります。
八咫鏡は天照大神の御神体なので、この神社も同等の格式があったと思われます。
天照大神は日神と呼ばれる事もあるので、この神社の日前社という名も
その重要性を表していると考えられます。
こうしてこの日の目標の三社参りは無事終了。最後は二社だったので実質は四社巡り。
いずれも【かかす】ことの出来ない神社でした。
それにしても紀州は一之宮が三ヵ所、うち一社は二社併祀と誠に【紀伊】な場所でした。

日前宮御鎮座略記

日前宮御朱印
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竈山神社(旧官幣大社 式内社)
貴志川線は三社参りで知られるように沿線に大社が多いですが、
いずれも駅から近い上に駅名もでもそれと分かります。
この日二社目は、竈山駅で下車。三社のうち唯一駅から1㎞以上ありますが、
道は真っすぐなので迷う事はありません。道路を過ぎて大きな堀に囲まれた森が目指す神社。

竈山駅に建つ神社への道標

丈夫(ますらお)橋の向こうに見える一の鳥居
橋は駅から5分程度だが、ここから10程歩く。

竈山の御陵
神社手前にある彦五瀬命の墳墓。勿論宮内庁管轄。

御陵の説明
竈山神社(かまやまじんじゃ)は由緒に拠れば
『御祭神は第一代神武天皇の兄君の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)。
命は大和平定の途中、長髄彦との戦いで負傷、雄水門で亡くなられて竈山に葬られた。
命の墓は神社後方にある古墳とされており、墓の造営後直ちに社を奉斎したので
墓と祠が一緒にあると言われる。
延喜式にも名の載る式内社であり、中世以降は鵜飼家が神職を世襲した。

木々に囲まれた二の鳥居

二の鳥居前の石の狛犬

本殿へと続く参道
しかし天正13年(1585年)の豊臣秀吉の根来寺征伐に拠って社地社領を没収され、
社殿・宝物・古文書一切を焼失。慶長5年(1600年)紀州に入部した浅野幸長により小祠再建、
寛文9年(1669年)初代紀州藩主・徳川頼宣に拠って社殿が再建され、歴代の尊崇を受けた。

参道脇の神池

参道脇にある拝所

参道正面にある神門
茅の輪が設置されている。
明治18年(1885年)に官幣中社、大正4年(1915年)に官幣大社に昇格。
昭和13年(1938年)には国費及び崇敬者の献費に拠って社殿及び境内を整備し今に至る。』
とあります。

拝殿

拝殿前面の造り

拝殿から神門を見る
皇室の縁者なので墳墓は宮内庁の管轄。
神武天皇の長兄という事は、もし亡くならなければ天皇になったかもしれない方ですが、
初代天皇には末弟であった神武がなります。
当時に長子相続性があったかどうかは疑問で実力主義の可能性も大です。
北アジア遊牧民では末子相続があるので、騎馬民族説に従えばその影響も考えられますが…。

境内社の奥に見える本殿

神門前の幣殿

竈山神社由緒

竈山神社御朱印
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伊太祁曽神社(紀伊國一之宮 旧官幣中社)
和歌山から乗った電車は9駅目の伊太祁曽止まり。
貴志行きが来るまでに時間があったので、先ずはここに鎮座する紀伊國一之宮にお参り。
駅名も神社と同じ伊太祁曽ですが駅は「いだきそ」、神社は「いたきそ」と清濁の違いがあります。
単純に考えて神社の名前が古く、地名に用いる際に畏れ多いので読みを変えたという事でしょう。
余談ですが和歌山電鉄本社も伊太祁曽駅舎に入っており、畏敬の念を【いだきそ】うな雰囲気です。

伊太祁曽駅舎
ここは有人駅。

駅から南に5分、朱い橋の向こうに一の鳥居が

一の鳥居近影

大鳥居の由緒

参道の紫陽花

御由緒
伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)は、由来に拠れば
『最古の歴史書『日本書紀』に、高天原より新羅に降り立った素戔嗚尊と
その子の五十猛命(いたけるのみこと)は、そこから日本に移動し、
持ってきた木種を五十猛命に蒔くように命じた。
五十猛命は妹神である大屋津(おおやつ)姫命・都麻津(つまつ)姫命と共に
日本国中に種を蒔き、最後にこの場所に鎮座された。
それが木の国で伊太祁曽神社は木の神を祀る神社として広く知られるようになった。

朱い太鼓橋の向こうに割拝殿が見える

拝殿へと続く二の鳥居

池に架かる太鼓橋

手水舎

太鼓橋、二の鳥居を振り返る

割拝殿

五十猛命を祀る本殿

本殿の屋根

妹神の都麻津(つまつ)姫命を祀る社

同じく妹神の大屋津(おおやつ)姫命を祀る社
具体的な年号の初見は『続日本紀』の702年。神代の事は不詳であるが、
現在の地に鎮座する以前には日前神宮・國懸神宮の社地に祀られていた。
垂仁天皇16年に日前神宮・國懸神宮が現在の地に鎮座される事になり、
今の場所から500m程南東にある亥の森に遷座。和銅6年(713年)に今の場所へ移った。

本殿前にある本居大平の歌碑
大平は宣長門弟で後に養子となった国学者。

こちらは本居宣長の歌碑

御神木「梛(なぎ)の木」

梛の木の説明

本殿脇の遥拝所
橿原神宮を拝む。

遥拝所前から割拝殿(左)と本殿(右)を見る

一番奥にある参集殿?

境内の紫陽花
延喜式では紀伊國一之宮とされ、中世には根来寺とも深い繋がりを持った。
明治18年(1885年)には国幣中社に、大正7年(1918年)には官幣中社に列せられた。
昭和9年の台風で社殿が著しく損傷したが御下賜金で復旧。昭和12年に竣工した。』 とあります。

本殿脇の氣生神社
毎年12月12日に例祭が行われる。

蛭子神社前の龍神の木彫り

霊石 お猿石
猿の頭の形をしており、首より上の病に霊験があるとか。

木の俣くぐり
割拝殿にあり、大屋毘古神が木の俣を利用して大国主命を助けた神話に因む。

チェンソー・カービングによる十二支

二階建ての社務所

社務所前にある御神木の杉の木
残念ながら昭和37年の落雷で枯死したが、上部は木の俣くぐりとして生まれ変わった。

境内至る所に樹木が…。
紀伊半島は花崗岩質の地盤の上に薄い土砂が覆われ、気候と多雨の影響で樹木が繁茂した場所。
日本三大美林の吉野杉は最も有名ですが、紀の国は元々木の国であった事が分かります。
境内の奥には山中より湧く水が「いのちの水」として祀られていました。
面白いのは4月第一日曜に行われる「木祭り」。熊野の火祭りは知っていましたが、
木祭りは初耳。日頃の木々の恩恵に感謝する祭ですが、面白いのはチェンソーを使った芸術作品。
チェンソーアートと呼ばれるそうですが、境内には干支を始め、作品が奉納されていました。

奥にある御井の社へ向かう

社への参道、と言うより山道

御井社 「いのちの水」
山中の井戸より湧く水は病人が飲むと活力を得ると伝えられる。

御井社近影

伊太祁曽神社説明書

伊太祁曽神社御朱印

山東郵便局 ; 自然観察の森のネイチャーセンター、タケノコ
[参考書]
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和歌山駅ホームに停車中の「うめ星電車」
関西二府四県の内、私鉄のイメージが最も希薄なのが和歌山県。
かつての国鉄も敷設されたのは海岸沿いと紀ノ川沿いと限られた場所。
山が多く鉄道を通すには困難が伴ったためでしょう。五条と新宮を結ぶ
五新線が開通していればまた違った発展があったでしょうから残念です。
私鉄では和歌山駅には大阪から南海電車が乗入れていますが和歌山駅以南はなし。
もう一つの和歌山駅から東に向かう和歌山電鐵貴志川線も14.3㎞で終点と
いずれも和歌山を起点とした近距離のみです。


うめ星電車の内部
たま駅長グッズが…。

うめ星電車の内部
さながら観光物産のショーケース。
貴志川線は和歌山電鐵ですが、これは南海電鉄が所有し廃線予定だったものを
2006年に両備グループが引取り和歌山電鐵の名で継承した路線。
沿線は宅地化が進んでいますが、それよりも昔から沿線に鎮座する
三社へ参詣する「三社参り」という風習が今も残っています。
紀の国の一の宮は三社ありますが、その内の二社がここ貴志川沿線。
三社巡りのための1日乗車券も発売されて居り、巡礼路線と言ってもよさそうです。

一日乗車券 ¥820

駅で入手した 『三社参り便利帳』
この経緯からも経営難なのは予想できますが、御多分に漏れず経営難。
それでも意外な所から救世主が出現。貴志駅で飼われていた猫が
新聞紙上やマスコミで取上げられてブームに火が付きました。
これがタマ駅長で、猫に駅長が務まるか否かはさておき、
NETでの猫画像も追い風になったと思います。
貴志駅舎も猫の顔のデザインとなっていました。

貴志川線終着駅 「貴志駅」
たまミュージアム貴志駅。猫の顔をモチーフにした檜皮葺で名誉駅長たまの他、たまカフェもある。
初代タマ駅長は天寿を全うしましたが、二代目のニタマ駅長、四代目のヨンタマ駅長に
引継がれています。この日、貴志駅で会ったのはヨンタマ駅長。駅で飼っている訳ではなく、
一般家庭で飼われている猫を時間決めで駅に連れてきているとの話。
すべて三毛猫だそうですが、それならば「タマ」ではなく
「ミケ」にしなかったのか疑問に残ります。たまたまでしょうか?

貴志駅で出会った「ヨンタマ駅長」

伊太祁曽駅前の顔ハメ
もう一つは南海電鉄から譲渡された車両の模様替え。
2006年以降、いちご電車、おもちゃ電車、たま電車、うめ星電車を導入。
通勤・通学にも使われており、社内には周辺の見所や特産物が展示されています。
まさに観光列車の感がありますが料金は通常と変わらず。
「日本一豊かなローカル線」が貴志川線のキャッチフレーズだそうですが、
如何にお金を掛けずに行うかという点は大いに見習うべきでしょう。

ホームに停車中の「たま電車」

伊太祁曽駅で見た「いちご電車」

文化財となった伊太祁曽駅舎

プラットホーム及び上屋の説明

貴志川線の説明

貴志川郵便局 ; 貴志川、屋形船、川辺の蛍
桃山郵便局 ; 紀ノ川、荒川の桃、竜門山、最初ヶ峰
[参考書]
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<コース> 紀州路快速は15分間隔、紀勢本線は30分間隔で運転
JR大阪(7:05) → (紀州路快速) → JR和歌山(8:27→8:41) → (紀勢本線) → JR海南(8:55) → 海南市物産観光センター → レンタサイクル40分 → 善福院 → レンタサイクル20分 → 長保寺 → レンタサイクル45分 → JR海南(14:21) → (紀勢本線) → JR和歌山(14:35→14:39) → (紀州路快速) → JR大阪(15:58)

慶徳山 長保寺(天台宗)
国宝の釈迦堂を拝観した後は、もう一つの国宝のある紀州徳川家菩提寺・長保寺へ。
紀州の観光名所は駅から距離がある所が多いので、レンタサイクルは【重宝】されます。
最寄りはJR下津駅から東へ2㎞程ですが、自転車ならば善福院から20分程度。
山裾に壮大な伽藍が見えるのが目指す場所。

大門前の駐車場から

国宝・大門
室町時代の嘉慶2年(1388年)の再建。

大門の説明

大門金剛力士 阿像

同じく吽像
鎌倉時代の弘安9年(1286年)、湛慶の作と伝わる。

大門の欄間と垂木

境内から見た大門
慶徳山長保寺(けいとくざんちょうほうじ)は、
『平安時代の長保2年(1000年)、一条天皇の勅願により慈覚大師円仁の弟子・性空が創建。
年号を取って寺号とした。
寛仁元年(1017年)には七堂伽藍と子院十二坊があったと記録に残る。
創建時は現在よりも西にあったが、鎌倉時代末に現地へ移転。
今に残る国宝・大門、本堂、多宝塔は南北朝時代までに建築された中世を代表する建築物である。

受付から本堂へ続く石段
左の受付はコロナのため閉鎖中。

石段脇の紫陽花

国宝の本堂と多宝塔

国宝・本堂
鎌倉時代の1311年の建立。

本堂前面の庇

本堂の「世雄殿」の扁額

紫陽花越しに見る本堂側面

本堂裏の高台から
戦国以降は衰頽するが、寛文6年(1666年)に当寺を訪れた紀州徳川家初代
頼宣によって菩提寺に定められ、背後の山の斜面に約1万坪の藩主廟が造営された。
ここには将軍となった5代吉宗、13代慶福(後の家茂)を除く歴代藩主が葬られている。』 とあります。

境内の紫陽花

本堂西側の建物

鐘楼

阿弥陀堂

護摩堂

国宝・多宝塔
室町時代の1357年の建築。

紫陽花越しに見る多宝塔

多宝塔の壁面の装飾
先に訪れた善福院に比べて広大な境内。
「周囲が山に囲まれ要害堅固の地である。」という頼宣の言葉が残っていますが、
これは万が一の際にはここを陣屋として使う意図があったようです。
幕府成立から半世紀を経たとはいえ、未だ戦国の気風が残っていたのでしょう。
幸いにも戦禍に遭遇することもなく、今まで残ったのは幸運でした。
そう見ると山号「慶徳山」は、最後の将軍・徳川慶喜から二字を取った
とも見えますが、彼は水戸家の出身でしたね!

多宝塔横を通り歴代藩主の御廟へ

途中から多宝塔を見返る

御廟の手前にある重文・鎮守堂
鎌倉時代の1295年の建築。

鬱蒼とした木々に囲まれた御廟所

二代・光貞卿の墓所

頼宣卿の墓所
今はそんな思いはどこへやら、花の寺として癒しの空間となっています。
有名なのは春の桜。江戸に桜を植えるように指示したのが吉宗というのも所縁を感じます。
今は桜の時期ではありませんが、参道や堂宇周辺には紫陽花が花盛り。
歴代藩主に【重宝】された故でしょうか?

廟門

納経所
この日は休み。

客殿横を通り受付へ戻る

長保寺説明書

長保寺御朱印

下津郵便局 ; 国宝・長保寺多宝塔
[参考書]
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<コース> 紀州路快速は15分間隔、紀勢本線は30分間隔で運転
JR大阪(7:05) → (紀州路快速) → JR和歌山(8:27→8:41) → (紀勢本線) → JR海南(8:55) → 海南市物産観光センター → レンタサイクル40分 → 善福院

宝遊山 広福寺 善福院 釈迦堂(天台宗)
梅雨の合間に梅の里の紀州へ。世界遺産となった熊野古道・高野山が有名ですが、
何故か和歌山市のすぐ南の海南市下津地区には国宝が二ヵ寺。
最寄駅はJRの加茂郷と下津ですが、どちらも駅から数キロある上に電車は30分毎。
それならばとJR海南駅構内の観光センターでレンタサイクル。
和歌山は起伏のある場所が多いですが、それも考慮して電動式。
二駅分の移動でトンネルも何ヵ所かありましたが、途中休憩することなく到着。
加茂郷駅手前を川に沿って東へ行き少し上った所が目指す寺院。

道路沿いの案内板

入口に到着
宝遊山広福寺善福院釈迦堂(ほうゆうざんこうふくじぜんぷくいんしゃかどう)は、縁起に拠ると
『1214年、日本に臨済宗を伝えた栄西禅師により創建された広福禅寺が嚆矢。
室町時代後期にはこの地の豪族であった加茂氏の菩提寺に指定され、
七堂伽藍を有する大寺院として繁栄するが、豊臣秀吉の征伐に拠って加茂氏は没落。
広福禅寺も次第に廃れたので、高野山に頼って真言宗に改宗し寺の再興を計った。
更に江戸時代、紀州に徳川家が入り、紀州徳川家の菩提寺候補になった際に、
紀州徳川家の命により真言宗から天台宗に改宗した。
明治の廃仏希釈により衰頽し、子院であった善福院が広福禅寺の本尊及び釈迦堂等、
山内全てを管理する事となり、それ以降、善福院と呼ばれるようになった。
釈迦堂は嘉暦2年(1327年)に建てられた禅宗様式の仏殿で、
全国で二番目に古く国宝に指定されている。』 とあります。

石段を上る

石段の先に見える寺院

国宝・釈迦堂

釈迦堂説明
木々に囲まれた石段を上ると、釈迦堂が正面に。御朱印を御願いすると、
堂内の拝観と御住職が説明して下さいました。(拝観料¥200)
元々、禅宗様式の建物ですが、他の禅宗様式の仏殿と異なる箇所が多い。
その理由として、日本に禅宗様式が定着する以前の、
中国直系に近い建物なのではないか? というのがその理由でした。
内外観ともに妙心寺や大徳寺の仏殿に似ていますが、他宗派ながら
萬福寺に似たイメージがあるのはそのせいかと納得した次第。

釈迦堂前面

連子格子

釈迦堂側面
普通は密教系から禅宗・浄土系に改宗するのが多いですが、ここは逆。
加えて高野山の影響が強かった紀州で禅宗初期の大伽藍が建てられたのも不思議です。
御住職から伺った話では、
住職;「紀伊由良にある興国寺を高野山が再興させる際に、宋から帰朝した法燈国師に依頼したのですが、彼は禅宗の寺として再興しました。」
和辻;「裏切られたようなものですが、よくそれで揉めませんでしたね。」
住職;「むしろ高野山は禅宗を庇護していたようで、敵対はしていなかったようですね。」
和辻;「その影響で、ここにも禅宗の大伽藍ができた訳ですね。」
住職;「ええ。唯、当初は今の和歌山城付近にあったようで、寺名のある瓦が出土しています。」
和辻;「お城からここは離れていますね。辺鄙ですし…。」
住職;「中世以前の和歌山市内は紀ノ川の蛇行で湿地も多かったようです。それにこの下津地区は港として古くから栄えた場所だったので選ばれたのでしょう。」

釈迦堂の垂木部分

「廣福禅寺」の文字を表した瓦

釈迦堂内部の床
禅宗様式の礎盤上に立つ柱。床は石ではなく瓦製である。

釈迦堂内部の天井
奥に見えるのが火打梁
宗派が異なると争いばかりしていると考えたのは浅薄。
改宗しても建物を【改修】しないのは寛容さの表れ。【ぜんぷく】の信頼を置いていたのでしょう。
また紀伊国屋文左衛門が船出したのも下津港。今の交通事情で考えてはいけないと言う事です。
ここに国宝が二ヵ寺残っているのも理由がありました。
和辻;「この辺の字は梅田ですか?梅はなくて蜜柑ばっかりですが。」
住職;「昔は梅もあったようです。蜜柑はこの東にある場所が発祥の地で、橘本(きつもと)神社はお菓子の神様として田道間守(たじまもり)を祀っていますよ。今でも菓子メーカーがお参りに来ます。」

境内からの眺め

善福院の歴史

善福院御朱印
田道間守は垂仁天皇の御世に常世の国から非時香菓(ときじくのかくのみ)を持ち帰った人物。
これが橘の木で蜜柑と言われます。
田道間守は但馬出身ともされ但馬にも菓子を祀る神社がありますが、
気候的に考えて但馬は蜜柑栽培にはやや不向き。
ここ下津になったのは【お菓子】くも【紀伊】でもないと【すいにん】できます。

加茂郷郵便局 ; 国宝・善福院釈迦堂、国宝・長保寺多宝塔、ミカン畑

塩津港

昼食 しらす丼 ¥650
郵便局で教えて貰った地元塩津のしらす加工工場 「魚与水産」にて。
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カラー版 日本の古寺100選 国宝巡りガイド (宝島社新書) 新品価格 | ![]() |

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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 冬の青春18きっぷ
【往路】JR天王寺(6:45) → JR和歌山(7:49→8:06) → JR紀伊田辺(9:51)
観光案内所 → レンタサイクル → 高山寺 → 闘鶏神社
【復路】JR紀伊田辺(13:19) → JR御坊(14:09→14:32) → JR和歌山(15:34→15:36) → JR天王寺(16:53)

闘鶏神社(県社)
高山寺の後は、紀伊田辺駅方面に戻り東に向かうと闘鶏神社。
闘鶏神社(とうけいじんじゃ)は由緒に拠れば、
『十九代允恭天皇の419年、熊野権現をこの地に勧進し、
田辺の宮として祀ったのが起源。その後、天武天皇の684年、
白河法皇の1100年、近衛院の1147年と三度に亘り熊野三山の各社を勧進。
熊野権現の三山参詣に替えるという別宮的存在となった。
以来、熊野街道の大辺路・中辺路の分岐点として
皇族・貴族は熊野参詣に際し当社に祈願することとなった。
社名も田辺の宮、新熊野権現社、新熊野雞合大権現と変遷を経て
明治以降は闘鶏神社となった。』 とあります。

JR紀勢本線紀伊田辺駅前
世界遺産を祝福する垂れ幕が…。

駅前にある武蔵坊弁慶像
弁慶は田辺の出身。

木の一の鳥居に続く石の二の鳥居

二の鳥居にある「闘鶏神社」の扁額

闘鶏神社の境内にある馬場
幅11m、長さ230m。江戸時代から流鏑馬や競馬が開催されたが危険防止のため昭和39年に中止。残念。

鳥居から境内を見る

拝殿

拝殿の背後にある本殿

本殿に続く御殿

右から八百御殿、下御殿、中御殿、上御殿と続く

上御殿の屋根部分
闘鶏神社の名を高めたのは源平合戦。
この社の別当であった熊野湛増が紅白の鶏を戦わせ、
白が勝った事から熊野水軍が源氏方に付いたと言うもの。
鶏占いは以前から行われていたようですが、湛増の息子が弁慶とも伝わるので、
源氏側に付くのは既成路線だった可能性も。
唯、熊野水軍内でも意見の不一致があったので神託によって反対意見を封じたと思われます。
古代ローマでも戦時には鳥占があり、鶏が餌を啄む様子で吉凶を占っています。
指導者が己に都合の良いように鶏を空腹にしていたと言いますから、
熊野でもそのような操作はあったのかもしれません。
神社や駅から数百mですが、仮庵山(かりほやま)を背景にしたちょっとした密林になっています。
田辺に居住した南方熊楠はここの植生で生態学の研究を行ったのでしょうか?
境内には天然記念物の楠の巨木が。宮司さんに尋ねた処、
和辻「熊楠の楠はこれでしょう。」
宮司「いえ、熊楠の楠は海南の藤白神社のものです。田辺には晩年に移ってきたので。」
和辻「それでは熊は熊野から採ったのではないのですか?」
宮司「それもはっきりとはしないようです。」
田辺に住んでいたことから、てっきりここだと思いましたが、とんでもない思い違い。
やはりデータを元に【とうけい】を取る必要がありそうです。

境内にある湛増・弁慶の像

源平合戦の記

拝殿前の闘鶏の像

境内の奥に広がる樹木

池の畔の弁天様

祠の背後が仮庵山

南方熊楠と仮庵山

境内にある御神木の大楠
市指定天然記念物で、樹齢約1200年。高さ14m。

闘鶏神社由緒略記 ¥50

闘鶏神社オリジナル御朱印帳

闘鶏神社御朱印(平成6年拝受)

田辺郵便局 ; 天神崎、弁慶像
[参考書]
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【往路】JR天王寺(6:45) → JR和歌山(7:49→8:06) → JR紀伊田辺(9:51)
観光案内所 → レンタサイクル → 高山寺

正南面山 高山寺(真言宗御室派)
冬の18きっぷ2回目は暖を求めて南紀へ。
吉野熊野国立公園の制定は戦前ですが、
近年高野山熊野が世界遺産になったため熊野詣の人が増えているようです。
紀伊田辺は和歌山からの普通電車の終点。
ここから新宮方面への普通は1日5本程度、特急を使わないと極めて不便です。
駅前から会津川を越え、紀勢線の線路を越えると目の前に小高い丘が。
ここはかつて縄文時代の貝塚があった場所ですが、
その丘の上にあるのが高山寺。飛鳥時代に遡る古刹です。
丘の麓に着くと山門は生憎修理中。
その下を潜り参道を上ると、開けた場所に堂宇が並びます。

紀勢本線の向こうに森があるのが高山寺
会津川に架かる切戸橋上からの眺め。

修復中の山門

山門の彫刻

山門を過ぎて石段を上る

階段を上り境内へ
正南面山高山寺(しょうなんめんざんこうざんじ)の由来は
『推古天皇の御世、牟婁の長者が飛鳥に出掛け聖徳(上宮)太子の教えに感動。
太子の御意を受けた長者は牟婁に戻ると
私財をもってここ南面山に御堂を建立し勧修問寺と名付けた。
御堂が完成した夜に長者は太子の愛馬「烏の駒」が
薬師如来と上宮太子の御像を運んで来る夢を見たが、
眼が覚めると薬師如来と太子の御像が目の前にあった。
驚いた長者は自らこの二像を御堂に祀ったという。
弘仁7年(816年)には弘法大師が熊野詣の途中、
この寺に立ち寄り密法を修し自らの像を彫って安置した。
これ以降、寺はこの辺りの文化の中心となり栄えた。
天正13年(1585年)の秀吉の紀州攻めで伽藍は灰燼に帰したが、
江戸時代になって高野山から空増上人が入山して復興、
江戸時代には寺名が興山寺、更に高山寺と名を変え現在に至っている。』とあります。

石段を上った左にある不動堂

高山寺のシンボル多宝塔と本堂

多宝塔正面
旅僧の悲願の末に文化13年完成。

多宝塔の裳階部分
扁額は聖徳太子所縁の「上宮閣」

大日如来を祀る本堂

本堂正面

本堂脇に佇む観音堂
聖徳太子が開基で、弘法大師が中興したというもの凄い話。
飛鳥時代から知られた牟婁の湯ですから歴史があるのは当然。
聖徳太子は伝説でしょうが、弘法大師の事績は高野山の記録にも残っているようです。
縄文時代の遺跡があるくらいですから、昔から人が居住した場所であるのは確実。
人々の信仰の拠り所だったと想像できます。
大日如来を祀る本堂の前には多宝塔が。
これは江戸中期の旅僧・阿涼は発願し托鉢行脚し、
彼の没後は後を継いだ僧侶に拠って漸く完成したというもの。
山内に多宝塔があるなら一層信仰が深まるという考えだったそうですが、
世代を越えて完成したのは売名行為ではなかったでしょう。
多宝塔以外にも本堂裏手には観音堂、大師堂、薬師堂が並び庭園となっています。
25年前には庭園にさえ気が付かずに通り過ぎたのは若気の至りではありました。

本堂裏手の諸堂

大師堂
言わずと知れた開祖弘法大師を祀る。

大師堂から池の上の弁天堂を見る

奥の薬師堂から弁天堂と池を望む

弁天池と日本庭園

庭園の紅葉は12月でも未だ見頃

一番奥にある薬師堂

日本庭園から見える弁天堂と本堂(左)

薬師堂と庫裏(右)

弁天池周辺の紅葉

高山寺由緒記

高山寺本尊御朱印(平成6年拝受)

高山寺観音様御朱印(今回拝受)
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【往路】南海難波(6:29) → (南海高野線) → 橋本(7:18→7:24) → JR笠田(7:43)
笠田駅前(8:10) →(かつらぎコミュニティバス 天野コース) → 丹生都比売神社 → JR笠田(9:48) → JR粉河(10:01) → レンタサイクル5分 → 粉河寺・十禅律院 → JR粉河
【復路】JR粉河(14:27) → 橋本(14:58→15:06) → (南海高野線) → 南海難波(15:55)

十禅律院(天台宗安楽律院派)
粉河寺巡礼を終えましたが、本堂の奥に庭の綺麗な寺院があると聞き引き続き巡礼。
十禅律院(じゅうぜんりついん)は、由来に拠れば
『正暦元年(990年)の春、石崇上人が日吉山十禅師の勅を受け創建。
その後、当地に移住した峯覚上人が土中から銅鐸を発見。古の遺跡としてこの地に堂宇を建立し千手観音を安置。
宝鐸地十禅院として粉河寺の塔頭となった。
江戸時代の寛政12年(1800年)、紀州十代藩主徳川治宝によって安楽律院に改宗した。』 とあります。
竜宮城のような門をくぐると正面に本堂、左に護摩堂。紀州公真筆の扁額と菊の御紋に敬意を表して参拝しました。

十禅律院入口
粉河寺本堂横を通った先にある。

入口の寺標

石段の先にある塗上門(築地門)
竜宮造りと呼ばれる様式。

塗上門の扁額「宝鐸墜」
紀州十代藩主徳川治宝公の真筆。

門横のカイヅカイブキの古木

門から見た境内

本堂
総欅造りで五間四面の入母屋造、本瓦葺。阿弥陀如来を祀る。

本堂前面の菊の御紋の彫刻と扁額
扁額「薦福殿」は塗上門と同じく紀州十代藩主徳川治宝公の真筆。

本堂上の欄間彫刻
司馬温公の甕割り(上)と龍

本堂扉の唐獅子彫刻

本堂左の護摩堂
宝形造りで、千手観音、子安地蔵、不動明王を安置している。屋根の宝珠は粉河鋳物師蜂屋正勝作。
その後は庭園拝観のために庫裏へ。ベルを押すと作務衣姿の御住職が境内から見えました。折しも作業中だったようです。
伺った話では、
「元は粉河寺の塔頭で学問所の扱いでしたが、いまは独立して宗派も寺域も別です。」 との事。
「庫裏は紀州藩主がお見えになった際に滞在されました。」 とあるように藩主着座の間もある書院造り。
二百余畳ですが、武士らしく落ち着いた佇まいでした。その先にあるのが洗心庭。
この庭は徳川治宝が御用庭師に拠って築庭した借景枯山水式庭園。
縁側に座れば北には和泉山脈の高峰成高山、南には紀伊山脈の主峰竜門山を一望できる庭園です。
紀州初代藩主徳川頼宣は南龍公と呼ばれたそうですから、
紀州富士と呼ばれる竜門山には格別の思い入れがあったのでしょうか。
借景と言えば京都の東山に様に寺院から遠くの景色と思っていましたが、
御住職の話では庭園的には隣接する背景を云うのだそう。
書院の庭園の後は境内を散策。庭にも種々の草花が植えてありますが管理に手が足りないと仰ってました。
札所から独立し、檀家も少ない事で、今は喘息封じの「糸瓜加持」がメインですが維持管理は大変。
なかなか【安楽】とはいかないようです。

庫裏
正面に見える御成り玄関をはじめ、武家屋敷風の遺構を持つ。

書院から洗心庭へ

「洗心庭」越しに本堂を望む

洗心庭と遠くに和泉山脈が見える
借景とは左の竹林辺りを云うそうな。

本堂前から見た境内

参道脇の花
これは自然に生えたもの。

十禅律院案内記

十禅律院御朱印
判子が磨滅しているので現在作成中との事。

巡礼スイーツで休憩
大門橋の前の「観光物産センター こかわ」にて。三番札所なので、スイーツが3種類あるとか。谷汲ならどうなる!?
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風猛山 粉河寺(天台宗系粉河観音宗 西国三十三ヵ所第三番札所)
一之宮の後は、和歌山線を和歌山方面に向かい粉河で下車。ここからは電車も1時間に2本になります。
以前に参拝した平成6年は和歌山~橋本間は30分毎の運転。
和歌山~粉河間は15分間隔だったように記憶していますからほぼ半減。
盲腸線ではないので廃線とはならないでしょうが、【もうちょう】っと何とかならないのかと思います。
風猛山粉河寺(ふうもうさんこかわでら)は、西国三番札所。
縁起に拠れば、というよりも『粉河寺縁起絵巻』は『信貴山縁起』と並ぶ国宝縁起絵巻。それに拠れば
『宝亀元年(770年)、紀州の猟師・大伴孔子古(おおとものくじこ)は山中に光る場所を見つけて庵を結ぶ。
その後、そこに現れた一人の童子が宿泊の礼として千手観音を刻んで姿を消した。
童子が千手観音の化身と知った孔子古は堂宇を建て観音を祀った。これが粉河寺の開創である。
更に、河内の長者の娘が思い病床にあった所、どこからともなく現れた童男行者の祈祷で平癒。
長者は多くの御礼を差し出したが、行者は小太刀と緋色袴だけ受け取り立ち去った。
去り際に「私は紀伊国那賀郡に居ります」と言ったので、家族が訪れると千手観音の手に小太刀と袴があった。
長者一家は観音に帰依し、粉河寺は繁栄した。
鎌倉時代には七堂伽藍、東西南北4㎞の敷地、寺領4万石を誇るが、天正13年(1585年)の秀吉の紀州攻めで焼失。
江戸時代になって紀州藩や信徒によって再建された。』
とあります。
言ってしまえば霊験譚ですが、史実かどうかは不明。唯、『枕草子』『梁塵秘抄』『山家集』にもその記述があるので、
平安時代には都にも知られていた名刹であったのでしょう。なにがしかの史実を反映しているとは思います。
因みに、河内の長者の末裔が大臣を務めた塩川家と言われています。
粉河寺は駅から15分程北に歩いたどんつきにあって、大門、庭園、拝観無料は覚えていますがそれ以外は記憶になし。
今回の再訪で境内の広さに改めてビックリ、人間の記憶などはいい加減なものであると実感しました。

駅の南にある龍門山

駅前にある「創 HAJIME-cafe」 でレンタサイクル
かつて綿織物の取引で財を成した家屋。現在は地域活動の拠点。

中津川に架かる大門橋
駅北1㎞、奥に大門が見える。

西国第三番札所粉河寺境内入口へ到着

重文・大門
宝永4年(1707年)建立の総欅造り。入母屋造、本瓦葺きの楼門で、和歌山県下では高野山、根来寺に次ぐ威容を誇る。

大門の金剛力士像
仏師春日の作と言われ、用材は桂の巨木。

境内から大門を見返る

境内案内図

不動堂
大門を過ぎて最初にある建造物。弘法大師が爪で彫った不動尊があるとか。秩父の札所にも似た話が…。

不動堂から本堂方面を望む
右奥の高い堂宇が本堂。

延宝7年(1679年)建立の童男堂
江戸時代の廟建築を模した正堂と礼堂から成り、粉河寺本尊の千手観音の化身・童男大士を祀る。

仏足石
文久3年(1863年)の作。

出現池
童男大士が柳の枝を手に持ち、白馬に乗ってこの池から出現したと伝わる。

出現池上の三角堂
千手観音像を安置、右の祠に安置されているのは童男大士石像。

江戸後期建立の念佛堂(光明殿)
総欅造りで阿弥陀如来を安置する。

参道横を流れる粉河
念佛堂の横からの景色。

太子堂

中門前にある盥漱盤(かんそうばん)
荷葉鉢とも呼ぶ。安永4年(1775年)粉河鋳物師・蜂屋正勝の作。

左から本堂、盥漱盤、中門

重文・中門
天保3年(1832年)建立の三間一戸の楼門で四天王を祀る。

中門の扁額「風猛山」
扁額は紀州十代藩主徳川治宝の直筆。

中門の四天王像

中門から参道を振り返る

名勝・粉河寺庭園
桃山時代の枯山水観賞式蓬莱庭園。本堂の前庭と下の広場との約3mの高低差を処理する方法として石組を築いている。

庭園左端
石は雑賀崎の青石(緑泥片岩)を主とし、琴浦の紫石(紅簾片岩)、龍門石(蛇紋岩)など紀州の名石を使用している。

庭園中央付近から見た本堂
石組全体は左から右に向かって扱いが軽くなる。

本堂への石段左側の庭園
石も疎らになり間隙をビャクシン・ツツジ・蘇鉄で埋めている。

石段の右側の庭園

庭園越しに見る本堂
大門を過ぎ参道にならぶ堂を過ぎて更に中門を過ぎるとようやく本堂。西国札所最大級の大きさだそうです。
本尊は絶対秘仏でお前立が置かれていますが、それも秘仏。
秘仏は拝めませんが、本堂内で左甚五郎の虎、粉河寺縁起の模本は拝観できました。
何のためのお前立なのか。「お前たち、考えなさい!」という御仏の問いかけでしょうか?
山号は風猛山。駅の南には龍門山が聳えますが、これは山号とは別。寺の北側にある山の事を云うそうです。
これは本堂前に食事処を出している「あこ茶屋」の御主人から伺った話。作務衣を着て居られたので、
和辻「お寺の関係者ですか?」 と伺うと、
御主人「私は先代住職の友人で、その縁でここに店を出させて貰っています。」 との事。
御主人「店の東側を流れているのが粉河で、白い粉が流れて来たことが寺名の由来です。」
和辻「白い粉!何か危ない世界ですね。」
御主人「上流で磨き砂を採取していたらしいですが…。」
説の一つではあるでしょうが、ネットや説明書にも載っていなかった寺の由来の謎が解けました。
このような生き字引の方が居られるのは、大切な事。
・少しの事にも先達はあらまほしき事なり。
・ちちははの恵みも深きこかは寺
を身に染みて感じました。

名勝庭園の向こうに見える重文・本堂

本堂は中門の先、3m程高くなった敷地に建つ

本堂正面
創建以来、造営と改築を繰り返し現在のものは享保5年(1720年)の再建。欅材による建築で西国三十三ヵ所の中では最大の大きさを誇る。

斜前より見た本堂
本尊を安置する正堂と礼拝のための礼堂を前後に並べた形式で、外観は高さの違う入母屋屋根を前後に並べている。

本堂前面部分
入母屋造単層、本瓦葺で千鳥破風の前に唐破風造りの向拝を加えた複雑な構成。

礼堂部分
西国札所として参詣者のために礼堂部分が広くなっている。柱間は正面9間、側面4間で前2間は建具を設けない吹き放しとしている。

礼堂前の彫刻群

宝暦10年(1760年)建立の重文・千手堂
本堂左にある宝形造りの三間堂。本尊は秘仏の千手観音。

六角堂
西国三十三ヵ所の観音像を配している。

文化3年(1806年)再建の丈六堂
丈六(一丈六尺)の阿弥陀如来を安置している。

本堂前の湯浅櫻
紀州湯浅の藤原宗永が御本尊の千手観音のお告げにより本堂の巽(東南)に植えたもの。

本堂裏の大楠

中門を過ぎた場所にある若山牧水歌碑
粉河出身の早稲田大学の友人を訪れた際に詠んだもの。歌の「遍路」は四国のみに使われるため、牧水が知らなかったか、故意に使ったか学会でも議論が分かれるらしい。

本堂正面にある「あこ茶屋」にて昼食

店お勧めの「風猛そば」
ボリュームと紀州の柑橘系が特色?

粉河寺説明書
¥50 だが堂内拝観(¥400)すると無料で貰える。

粉河寺御朱印

粉河郵便局 ; 名勝・粉河寺庭園、ハッサク
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西国三十三ヵ所を歩く旅―千年の歴史を秘める観音巡礼 (エコ旅ニッポン) 新品価格 | ![]() |

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語りだす絵巻―「粉河寺縁起絵巻」「信貴山縁起絵巻」「掃墨物語絵巻」論 新品価格 | ![]() |

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【往路】南海難波(6:29) → (南海高野線) → 橋本(7:18→7:24) → JR笠田(7:43)
笠田駅前(8:10) → (かつらぎコミュニティバス 天野コース) → 丹生都比売神社前(8:39) → 徒歩3分 → 丹生都比売神社 → 丹生都比売神社前(9:10) → (かつらぎコミュニティバス 天野コース) → 笠田駅前(9:39)

丹生都比売神社(紀伊國一之宮 世界遺産)
晴天に恵まれた神無月、南海高野線で橋本まで行き和歌山線沿線を巡礼。
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)は、紀の川を渡り標高450mの天野盆地にある古社。その由緒は古く、
『1700年以上前の創建の天照大御神の御妹神に当たる丹生都比売大神を祀る総本社。
御妹神様は、紀州・大和を巡って農耕を広めこの天野の地に鎮座。
後に応神天皇が紀伊山地の広大な土地を寄進したと言われる。
空海がこの神社の社地の一部を借り受け、高野山を開山。神と仏が共存する神仏習合はこの地に於いて形成された。
高野山に上る際には先ず当社に参拝するのが習わしである。
元寇の際には幕府がこの神社に祈願を掛けたところ、神風が吹き国難を救った事から紀伊国一之宮となった。』
とあります。

バス停から見た鏡池と輪橋

輪橋(りんきょう)
神様が渡られるための神橋で、反り橋の形状は淀君が寄進したと言われる。

外鳥居
屋根と台輪、前後に稚児橋が付属しているのは神仏習合の特色。

外鳥居右にある社号標

輪橋を渡る

輪橋上から見た鏡池と天野の集落
池は不老長寿を得た八尾比丘尼が池に姿を映し、老いない己を嘆き鏡を投入れたという。

輪橋上から禊橋と中鳥居を望む

輪橋袂部分近影

禊橋から中鳥居とその先の楼門を見る
中鳥居も外鳥居と同じ神仏習合の形式である。
御祭神の「丹」とは水銀化合物の朱砂から採れる朱を表し、古代より魔除け・染色として重宝されて来ました。
鳥居、輪橋、拝殿、本殿と総て朱塗りが出迎えてくれますが、丹の産地であれば当然。
朱は魔除けの意味を持つそうですが、腐敗や虫を避ける効果のためというのが本当のところ。
全国にある丹生神社は総数百八十社余りを数えますが、それだけ朱が重要視され祀られた事の証でしょう。
高野山もそうですが、伊勢の丹生大師も空海所縁。
空海は遣唐使として入唐しましたが、現地では仏教だけでなく、様々な技術を習得した可能性があります。
各地に残る弘法大師の湯や溜池もそうですし、讃岐名産のうどんも空海が中国から伝えたもの。
唐王朝では丹から造られた丹薬が不老不死の効果があるとされ、歴代の皇帝がそれにより、悲惨な最期を迎えています。
丹薬は主として道教の道士が製造に携わりましたが、空海は彼らから製法だけでなく、
鉱脈を見つける技術も習得したのではないでしょうか?
丹生都比売神社は容易に行けない山中に鎮座されているので、ここに丹の鉱脈があったと考えるの方が脈のある気がします。
最近は、御神犬すずひめ号も登場。最近しわじわ人気が出ている紀州犬ですが、
前身真っ白のすずひめ号で【紀州】戦法を狙っているようです。
駅から11㎞の山道、加えてコミュニティバスも少ないとあっては自家用車以外では【比売】が出そうですが、
バスは終点で30分待ち。運転手さんが親切な方だった事もあり、時間のロスも無く乗って来たバスで駅に戻ることができました。
駅名が【かせいだ】だったからでしょうかね?

1499年建立の重要文化財・楼門
入母屋造、檜皮葺、三間一戸の室町中期の代表的な形式。

楼門正面
この奥に本殿が鎮座する。

楼門横から見た本殿・第二殿

重文・本殿
楼門左の佐波神社横の空き地より望む。左から右に第一、二、三、四殿と並ぶ。

重文・本殿
室町時代の再建で、檜皮葺。一間社春日造では国内最大規模。

楼門前から境内の木立を望む

境内から見た神饌所(しんせんしょ)と楼門

楼門前から中鳥居を見返る

参道右手にある社務所
御朱印はここで拝受。

丹生都比売神社御由緒

丹生都比売神社御朱印

かつらぎ郵便局 ; 富有柿の外枠に重文・丹生都比売神社楼門
かつらぎ笠田郵便局 ; 船岡山、万葉の歌碑
[参考書]
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