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越知山 大谷寺 (天台宗)
大谷寺は山門の入口前に池があり蓮が葉を広げています。
仏教と蓮とは所縁があるので驚くには値しませんが、住職夫人の話では、
夫人 ; 「大師が十一面観音菩薩を感得された曼陀羅が蓮糸で織られているので。」
私 ; 「當麻寺の綴れ織り曼陀羅みたいなものですね。」
夫人 ; 「大きさは違いますが、蓮から繊維を採るので同じです。」

門前の池を覆う蓮
糸生の蓮の池は、
『当山の曼陀羅、泰澄大師御本尊感得の図が蓮から糸を採られた事から、この地を糸生(いとう)、
織られた場所が織田(おた)と呼ばれるようになったと伝わる。
当寺では現在でもその伝承を後世に伝えるべく、蓮糸紡ぎ織り体験学習を行っている。』
とあります。

池の端に建つ記念碑
そういえば途中の地名に下糸生・上糸生がありましたが、これは蓮糸に由来していると聞き納得。
福井は羽二重で有名なので、てっきり絹糸と思い込んでした己の先入観を反省しました。
またここから日本海方面へ行くと旧織田(おた)町ですが、そこも蓮糸に関係した場所でした。
その織田庄の荘官を務めたのが織田氏で、斯波氏に仕えながら15世紀初めまで当地にいましたが、
織田常昌の代に尾張守護代に任じられ尾張に移住。その後の経過は余りにも有名ですが、
この由緒からすれば「おだのぶなが」ではなく、「おたのぶなが」が正しいとは住職夫人の話。
余所者にはどちらでも良さそうですが、地元には拘りがあるようでした。
勝手な想像を巡らすと、泥の中に咲く蓮に由来する糸ゆえに、濁ったとも思われます。
縺れそうになりながら一本の糸で繋がりました。

泰澄蓮伝承 記念碑
継体天皇が越の国(越前三国)から大王家を継いだのは有名な話ですが、
福井から日本の歴史を動かす人物が出たのは、この時一度きりと思っていました。
中世から近世に移る時期に越前国が大きな役割を果たした事を見るにつけ、
越前の持つ底力を見た気がします。

糸生の蓮池の由来
[参考書]
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越知山 大谷寺 (天台宗)
本堂内陣に置かれた泰澄大師の木造。
本堂内陣の中央には開山の泰澄大師の木造が安置。
日本各地を廻って寺社を開き、86歳という当時としては異例の長寿を保った大師だけに、
宗教家というよりも探検家を思わせる風貌に見えます。

本堂右脇を抜けて廟所へ

横から見た本堂

本堂裏手と裏山
白山開山で知られる当寺の開山泰澄大師は、
『白鳳11年(682年)に越前国麻生津(現在の福井市三十八社町)に
豪族三神安角(みかみのやすずみ)次男として誕生。
14歳の時に出家し法澄と名乗り、越知山に登って修行を重ねた。
大宝2年(702年)文武天皇から鎮護国家の法師に任じられ豊原寺を建立。
養老元年(717年)には越前の白山に登り妙理大菩薩を感得、同年に平泉寺を建立した。
養老3年からは越前国を離れ、日本各地にて布教活動を行った。

参道の正面に建つ摂社・越知神社

越知神社本殿近影
養老6年には元正天皇の病気平癒を祈願した功に拠り神融禅師号を賜り、
天平9年(737年)には流行した疱瘡を収束に導く。
それらの功績に拠り称徳天皇即位の際に、正一位大僧正を賜りそれを機に泰澄と改名した。
平泉寺や那谷寺など200近い寺社を開く一方、白山の初登頂を果たすなど多くの事績を残した泰澄は
天平宝字2年(758年)、77歳の時に帰山して隠居。神護景雲元年(767年)86歳の生涯を終えた。

参道左手に立つ大師堂

右手の参道から見た大師堂正面

大師堂前面と扁額
参拝は外陣から。

大師堂側面
永い風雪に耐えた印象が…。

大師堂の先にある廟所へ

大師堂を見返る
手前は無縁仏か?
寺の背後の山中に泰澄の廟所があり、墓碑と伝える九重塔がある。
この石塔は凝灰岩製で総高4.4m、幅82㎝、角形の蓮華座に
「元享第三(1323年)癸亥三月四日願主金資行現大工平末光」
の刻銘がある重要文化財である。』 とあります。

泰澄大師御廟

大師の墓碑と伝える九重塔

九重塔の解説
というのが一般的な伝記ですが、最近新たな説を提唱する方が登場。
住職夫人が内陣に展示されている書籍を説明下さいました。その内容をかい摘むと
・泰澄は大津皇子の子供である粟津皇子である。
・皇子は大和から近江、越前と移動するが、その場所には粟津の地名が残る。
・泰澄の足跡は北は出羽三山から南は肥前長崎までに及ぶ。
と言うものだそうです。

境内に続く裏山

泰澄が隠棲した時代と変わら?ぬ裏山の竹林
非常に興味ある説ですが、出羽三山の開祖・蜂子皇子は蘇我馬子に暗殺された崇峻天皇の皇子。
大津皇子も後の持統天皇に謀反の罪で処刑されています。
開祖に中央の貴種、しかも悲劇的な英雄を持ってくるのは常套手段なので、更なる研究を待ちたい所です。

泰澄大師の関する新説
[参考書]
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越知山 大谷寺 (天台宗)
吉江藩城下町の後は南下して鯖江の市内を一巡が当所の予定でしたが、西へ方向転換。
日野川を越え、その先の和田川を越えると行政区も鯖江市から越前町へ変わります。
かつては丹生郡朝日町という山間の町でしたが、平成の大合併で越前海岸までを含む広大な範囲になりました。
ここへ向かったお目当ては、朝日・糸生(いとお)郵便局訪問ですが、
いずれの風景印にも描かれていたのが大谷寺(おおたんじ)。
「おおや」「おおたに」とは読まず「おおたん」と読むのがミソ。
手持ちのガイドで見ると古代まで遡る古刹のようで、これは参拝しない訳にはいきません。

糸生郵便局 ; 重文・泰澄大師廟所の石造九重塔、朝日町自然とふれあいの里・泰澄の杜、越知山
朝日郵便局 ; 重文・泰澄大師廟所の石造九重塔、大谷寺大長院、町木・杉
平日なので郵便局と古刹の二刀流を目指して鯖江駅からレンタサイクル。とは言うものの
左甚五郎の駆け出しの龍の彫刻がある誠照(じょうしょう)寺、すりばちやいとの中道院は駅から徒歩圏でしたが、
越の大徳と呼ばれた泰澄(たいちょう)大師所縁の大谷寺は駅から12㎞程はなれた隣の越前町の山中。
【体調】管理が大変でした。

漸く大谷寺門前に到着
朝日郵便局の風景印の図柄のアングル。
バス通りを西行すると道沿いにはかつての朝日町役場と朝日郵便局が。
ここで押印してから目指す寺院へ向かいますが、ここからが難所。
日野川の支流天王川を遡る事2㎞、その支流の越知川を遡る事3㎞ で下糸生の里。
「これは愛しい郷やなくて、厭う郷やで!」などとボヤキながら看板を目印に糸生郵便局を訪問し、
更に支流の大谷川を2㎞遡って漸く門前へ到着。
途中、山中や突然姿を見せる集落を目にしましたが、【おおたん】人はいませんでした。

朱色が鮮やかな山門
道に沿った蓮池の奥が山門。郵便局の図柄に使われ、ガイドにも載った写真ですが、どこか雰囲気が違う感じ。
建物の位置が一部変わっていたのと、山門が鮮やかな赤色に塗り替えられていたためでした。
そういえば、ここは丹生郡。朱の原料である水銀が採れた可能性も大です。

蓮池と階段を上った先の山門

階段の先に建つ山門

山門を潜り境内へ
山門を過ぎると本堂ですが、寺院と言うよりも神社の社務所に似ています。
それも道理で、ここは我が国古来の神と異国の仏の信仰を合わせた本寺垂迹神仏習合の聖地。
唐破風の入口には注連縄が張られ、神の域を示しています。
「扉が開いていたら御自由に参拝下さい。拝観は無料です。」 の案内を見て内陣へ。
見ると堂内には仏像群が安置、と言うよりも所狭しと並べられたと言った方が適切。

塀越しに見た本堂

境内側から見た山門と鐘楼

鐘楼近影
越知山大谷寺(おちさんおうたんじ)は、
『越の大徳と呼ばれた泰澄大師が開創した、1330年の歴史を誇る北陸屈指の古刹である。
当時11歳の泰澄の熱意を汲んだ大師の父・三神安角(みかみのやすずみ)がその財力で創建。
泰澄は我が国古来の神を尊崇し仏の信仰を併せて行う本地垂迹神仏習合の説を流布して山野を跋渉、
大いに道を開き民衆の教化に専念した。
彼はここを本拠として、越知山三所大権現の本地仏・地主大聖不動明王を自ら刻み安置し、
威験無双の廟社を創建した。時に持統天皇6年(692年)と伝えられ、故に北陸仏法最初の霊場とされる。
後に泰澄は西の越知山・日野山・文殊山・吉野岳・白山等に登峰し修行を重ね、諸国を巡錫した。
天平宝字2年(758年)、77歳の泰澄は帰山して隠居。神護景雲元年(767年)86歳で入寂したと伝わる。
以来、越知山三所大権現の別当寺として盛時には一山一千坊、大谷寺の本坊は大長院と呼ばれ
理想の日想観道場として栄えてきた。

朱塗りの山門とは対照的な本堂

本堂全景

本堂玄関の唐破風
中世には一乗谷城主朝倉氏の祈願所とされ、その保護もあって栄えたが、
天正2年(1574年)の一向一揆で一山焼失してから衰退の一路を辿り、
別当寺の院主大長院だけが明治まで残った。
神仏分離令の時、別当職大谷(おおたに)家は越知神社を守って神官となり大長院から分離。
大長院は大谷寺を名乗って延暦寺から住職を迎えた。
明治末期には越知山・大長院の寺宝財産の所属を巡る争いが10年に亘って続き、双方とも衰微した。
境内の山あいを50m程上ると泰澄の廟という九重塔があり、
台石に刻まれた銘文から元享3年(1323年)と知られる。
鎌倉時代の石塔構造の手法を知る上で貴重とされ、国の重要文化財となっている。

玄関の注連縄は神仏習合の名残り

本堂内陣へ向かう
寺宝には平安後期の不動明王立像、明応2年(1493年)銘の泰澄大師・清定行者・臥行者の3坐像があり、
泰澄大師像としては最古とされる。
本尊には平安末期の作とされる十千面観音・聖観音・阿弥陀如来の3像を祀っているが、
これが越知山三所大権現の本地仏で、白山本地仏の内現存最古の遺例である。
いずれも桧材、硬地漆箔仕上げの本格的なもので、その形態は中央における所謂定朝様式を踏襲する優品である。
境内地は約8万2千㎡、堂宇は本堂・庫裏・宝物殿・山門・開山堂・権現堂などを備える。
かつては境内裏山奥之院に白山遥拝所があり、本尊はそこに安置していたが現在は本堂前の宝物殿に収納。
かつては17年に一度の開帳とされた秘仏であったが、毎年万灯会の日に限り開扉されるようになっている。
近年、本坊の東方に宗旨・宗派を問わない人々の霊地として「大谷寺サンガパーク」が開設され、
近くにはふれあいの里、泰澄の杜もあり現代を生きる人々にとっての憩いの場所を目指している。』
とあります。

越知山大谷寺縁起の説明板

本堂内陣の様子

内陣左側の仏像群

左側奥の三仏近影

泰澄大師・清定行者・臥行者の3坐像
堂内には人の気配がありませんでしたが、呼びかけると年配の御婦人が出て来られました。
私 ; 「御朱印を御願いしたいのですが。」
夫人; 「分かりました。住職に頼んで参ります。」
と快く対応下さいました。
夫人 ; 「どちらから見えました?」
私 ; 「大阪からです。」
夫人 ; 「住職も数年前までは四天王寺に居りました。」
私 ; 「こちらには、どういった経緯で?」
夫人 ; 「住職はこちらの出身なもので。」
私 ; 「Uターンですね。奥様もですか?」
夫人 ; 「いえ、私は関西の人間です。」
と、思わぬところで同郷の話で盛り上がり。同郷の好か、堂内の仏像の詳細な説明をして頂きました。
仏像が多い事を尋ねると、
夫人 ; 「明治の神仏分離で広大な寺領が縮小してしまって、彼方此方から持って来たようです。」
との事。やはりそれなりの理由がありました。

頂いた大谷寺縁起
先程見た説明板と全く同じ記述であった。

大谷寺御朱印

御本尊三所大権現の写真パネル
本寺垂迹とは八百万の神々を信仰した日本らしい考え方と思いますが、明治維新が思わぬ逆風に。
別当家だった大谷家も越知神社に移りますが、国の庇護を考えると当然の対応。
寺としては比叡山から【別途】住職を迎えた【英断】で廃寺を免れたものの、
本地【衰弱】する憂き目になったようです。

鐘楼脇に建つ経蔵
[参考書]
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吉江藩邸門
今は移築され、浄土真宗本願寺派・西光寺の表門に。
中道院参拝後は、福井鉄道に沿った旧北陸街道を北上。
鯖江本局、神明局、鳥羽町局と押印後は、浅水川を西へ遡って吉江局へ。
日野川との間に挟まれた地域ですが、町中を走ると趣のある家が三軒ならぬ散見。

吉江郵便局 ; 江戸時代の眼鏡枠に、左に西山公園のツツジ・階雲峡西山橋、右に吉江藩邸門・近松門左衛門
不思議に思いつつ局で押印し、局長さんに尋ねると、
局長 ; 「ああ、それは‘よしえはん’ですね。」
私 ; 「柏原芳恵はんですか?」
局長 ; 「いえ人名ではなくて、吉江藩というのがありまして。」
私 ; 「聞いた事ないですね。」
局長 ; 「小さな藩の上に、30年でなくなったので…。」
私 ; 「断絶したか、改易されたとか?」
局長 ; 「いいえ、吉江藩の殿様が福井の殿様になられたので。」
私 ; 「今でも城下町が残っているようですね。」
局長 ; 「城下町は知りませんが、藩邸門は小学校横の西光寺の門になっていますよ」
との事。という事は越前松平藩の分家。

東側から入ると最初に目に付く粋な黒塀の御屋敷
吉江藩は、
『正保2年(1645年)、松平昌親(まさちか)が異母兄の五代福井藩主・松平光通(みつみち)より
2万5千石を分知され立藩。但し、その所領は越前各地に分散しており、最終的に吉江に陣屋が置かれた。
その規模は100m四方とされるが、遺構も殆ど残っておらず謎も多い。
しかし延宝2年(1674年)光通の逝去に拠り福井藩主を継いだため、吉江藩は30年で廃藩になった。
同4年(1676年)には家督を甥の松平綱昌(つなまさ)に譲るが、後に改易に処せられたため
貞享3年(1686年)吉品(よしのり)と改名して再び福井藩主に就いた。

この左に続く道路沿いにかつての町並みが残る
正面の黒塀は日本酒醸造蔵元。

「七曲り通り」へ

通りの南側にある一際大きな武家屋敷
廃藩に伴い藩邸門は移築され、浄土真宗本願寺派・西光寺の表門となっている。
これは一間一戸の薬医門で、細部の彫刻は古式を留め近世中期の特徴を残している。
大きさは正面柱間3.0m、側面柱間1.9mで、二段に組まれた桁と梁に拠り規模に対して背が高く、
寺の薬医門としては得意な形式となっている。これは吉江藩に関わる唯一現存する建物であり、
当時の面影を伝える希少な資料である。』 とあります。

通りに建てられた看板

看板の建っている場所に建つ長屋門
通りを挟んで武家屋敷の向かいにある。

今も表札が掛かる長屋門入口

入口の柱には「伝統的民家群保存活用推進地区」 の札が
30年しか続かなかった藩も珍しいですが、その期間を一人の藩主が治めたというのも稀有の例。
鯖江藩同様、城郭のない城下町ですが、それで【良しえ】としたのでしょう。
城下町は陣屋を中心とした狭い領域であったと想像され、現在の「七曲り通り沿道地区」が
それに当たるようです。伝統的民家群保存活用推進地区と掲げられた場所には、
長屋門・長い黒塀に囲まれた武家屋敷門・日本酒醸造蔵などが集まって居り、しかも全て現役。
空き家や観光施設になっているものは皆無でした。
住民の方は観光地という意識は全くなさそうですが、それが却って町並みに輝きを添えているように感じました。

東側からの 「七曲り通り沿道地区」 眺望
右が長屋門、左が武家屋敷。

武家屋敷門

正面から見た屋敷門と中庭

西側から見た醸造蔵
藩の唯一の遺構である藩邸門は少し離れて寺院の山門に。
すぐ傍が小学校なので、地元の小学生は毎朝歴史を目の当たりにすることになります。
早起きは【山門】の徳と言いましょうか?
そういえば吉江局の風景印の図柄は藩邸門と近松門左衛門。「大坂に所縁の近松が何故」と思いましたが、
彼の父・杉森信義は吉江藩に仕えており、近松も鯖江市内の生まれとの説が有力で、
少年期は吉江藩内で過ごしています。それ故の図案起用ですが、偶々「門」繋がりにもなっていました。

藩邸門を移築した西光寺門前にて

藩邸門近影

西光寺表門と吉江藩主松平昌親の説明

福井藩主略系図
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霊地山 中道院(天台宗)
越の大徳・泰澄大師が開山し、元三大師良源が中興した名刹も、
時代が下るにつれて歴史の波に飲み込まれます。
『盛時には一山三十六坊を数えた長泉寺も、相次ぐ戦乱で次第に衰退。
加持の秘法も何時しか廃れて知る者もない有様となった。
元亀3年(1573年)の織田・朝倉の戦、天正2年(1574年)の一向一揆の争いに拠って一山は焦土と化した。

本堂の向かいに建つ元三大師堂

大師堂正面
当時の住職秀運法印は辛うじて白山権現(十一面観世音菩薩)像と元三大師像を背負い、
河和田の山中に難を逃れた。
折から戦乱に疲れた人々の間に疫病が流行、秀運法印は人々の難儀を救うべく、
大師像を安置して日夜祈願に務めた。するとある夜、夢枕に大師が現れて、
昔伝わっていた加持の秘法を秀運に授けた。この教えに従って一千日一千座の護摩供養を行い、
その灰を練って作った護摩炉で火焔を頂き加持した所、昔に変わらぬ霊験が出現。
人々は大師の奇瑞を尊んで、現在地に一宇を建立して元三大師像を安置した。

大師堂の扁額
摩滅しているが「元三…」と判読できる。

こちらは内側の「元三大師」の扁額

大師堂の内陣
以来、三十三年毎に本開帳、十七年毎に中開帳をすることに決定。
また頭痛を初め諸病を患う多くの人々が法の加持を受けたいと願ったため、
毎年2月20日と3月2日の両日に限って人々にこの法を授け、
元三大師の功徳を広く分け与える事とした。

元三大師御夢想灸の由来

中道院御朱印
この元三大師以来の千年の伝統に輝く加持の秘法は、正しくは御夢想灸と尊称されているが、
火焔を頂く護摩炉の形が擂鉢に似ているところから“すりばちやいと”と呼び習わされ、
今も盛んに行われている。』 とあります。

寺務所から元三大師堂方面を見る

鐘楼

梵鐘に刻まれた「元三慈恵大師」の銘
今も続く“すりばちやいと”の由来が、元三大師が時の住職秀運の夢枕に立ったという伝説。
戦国期の戦乱でお灸を据えられた寺院が“やいと”で復興するのも不思議な縁を感じますが、
衰運にあった当寺を中興の祖が嘆いたという事でしょうか?

福井鉄道沿いに建つ、宝篋印塔と地蔵様
[参考書]
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伝教大師最澄の寺を歩く―比叡山延暦寺を中心に、最澄ゆかりの地へ (楽学ブックス―古寺巡礼―古寺巡礼) 新品価格 | ![]() |

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鯖江観光案内所 レンタサイクル → 3分 → 植田家長屋門 → 旭町〒 → 誠照寺 → 3分 → 桜〒 → 西山公園 → 5分 → 中道院 → 鯖江〒 → 神明〒 → 鳥羽町〒 → 吉江〒 → 15分 → 朝日〒 → 20分 → 糸生〒 → 15分 → 大谷寺 → 吉川〒 → 10分 → 豊〒 → 10分 → 西山公園
【復路】JR鯖江(17:01) → (北陸線) → JR敦賀(17:36→17:49) → (新快速;北陸・東海道線) → JR大阪(20:13)

霊地山 中道院(天台宗)
誠照寺参拝後は西側の北陸街道を北上。
長泉寺山に広がる西山公園を左に見て、上り坂に差し掛かる頃に道を右にとって坂を下ります。
その先を走る福井鉄道の線路との谷間に佇むのが元三大師で親しまれている中道院。

道路沿いに建つ寺標とその奥を走る福井鉄道
霊地山中道院(れいちざんちゅうどういん)は、
『養老2年(718年)、越の大徳と呼ばれた泰澄大師が当地に一寺を建立して、
三嶺山玉林寺と名付けたのが嚆矢。
泰澄は白山姫神社の御本地十一面観音菩薩を招来し、一山の守護神とした。
延暦20年(801年)には桓武天皇から寺領2500石を賜り勅願所となった。
以後、三十六坊が甍を連ねて興隆したが、時代が下ると共に衰微した。

寺標脇の池とその上を走る福井鉄道

良源大師は門前の池を琵琶湖に見立てたというが…

池の東端からの眺望
貞元元年(976年)、正月の三日に亡くなったことから元三大師と呼ばれる
第16代天台座主良源(慈恵大師)が北陸道を巡教された時に当山に立寄り、
甚だしく荒廃しているのを見て驚き、再建修復のために9ヵ月滞在、天台の教えを広めた。

池中に建つ不動明王と元三大師と彫られた石標

寺へと向かう坂は「やいと坂」
良源は後方の山が比叡山に、前の池が琵琶湖に似ているのを喜び、霊地山長泉寺と改称した。
この滞在中、円融天皇の御病気平癒祈願の勅旨が派遣されたので、良源は護摩焚きをして
天皇の御病気平癒を祈願した。その頃、この地にも悪疫が流行したので、
参詣の人々の頭に護摩炉を被らせて灸をすえたところ御利益があり、この後、住職がこの秘法を伝えた。

池越しに見る中道院

境内東に建つ元三大師堂と宝篋印塔
盛時には一山三十六坊を数えた長泉寺も、天正の兵乱に朝倉方に味方した事や、
相次ぐ一向一揆、信長の越前計略などに拠って大半が失われ、
現在では宝永3年(1706年)建立の元三大師堂の上にある中道院のみが残っている。
かつては奥之院や参道・寺坊などの跡も残っていたが、国道8号線や市役所敷地造成工事などで
埋め立てられ現在に至る。』 とあります。

石段の先に建つ山門

階段下に置かれた石の不動明王

長泉寺山出土の五重塔部分品

山門近影
架かっているのは「霊地山」の山号が書かれた扁額。
幽谷な深山ではなく、かといって繁華な町中でもない中途半端な場所に建っているというのが第一印象。
しかし泰澄がここに堂宇を建立したり、再興した元三大師良源が長泉寺と名付けた事から、
清水の湧出する場所を選んで建てたと言うのが本当のところでしょう。
今、境内には泉は見当たりませんが、門前の池がその名残に思えます。

境内の様子
鐘楼と本堂。

本堂近影

正面から見た本堂
標高100mの長泉寺山を比叡山、門前の池を琵琶湖に譬えるというのは大袈裟かもしれませんが、
景色の良いのは事実。
今は東側を福井鉄道が走っているので「映えスポット」にもなっているようですが…。

本堂向拝下にて
「霊地山」の扁額と巨樹の断面

本堂に祀られた阿弥陀如来立像
但し、本堂参拝は外陣からなので、御本尊は拝めず。
[参考書]
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上野山 九品院 誠照寺(浄土真宗誠照寺派本山)
誠照寺(じょうしょうじ)御影堂内陣参拝の後は、境内の多くの伽藍を巡りますが、
その前に宗務所と呼ばれる寺務所へ向かい説明書を入手。
門徒以外にも門戸を開いているのは流石真宗寺院ですが、見ると書置き御朱印がある様子。
受付の方の話では、
「真宗は原則御朱印はなしですが、ここは希望者にお渡ししています。」 との事。
早速頂いた御朱印は、通常よりも二回り程の大きさ。真宗寺院は御朱印もビッグサイズなのでしょう。

境内北側に建つ宗務所(寺務所)
門徒以外にも門戸が開かれている。

誠照寺説明書

誠照寺御朱印
その後は説明書に従い、堂宇を堂々巡り。御影堂以外は全て外陣からの参拝。
南接する阿弥陀堂は御本尊の阿弥陀如来木像を安置しているものの、ここも入れず。
せめて阿弥陀堂位は入れないかと期待しましたが駄目でした。

御影堂に南接する阿弥陀堂

阿弥陀堂説明板
『御影堂の南に隣接する阿弥陀堂は御影堂と同じく、
江戸末期の文久2年(1862年)に焼失後、明治20年に再建された。
入母屋造、桟瓦葺で開山を安置する御影堂に対し、
本尊の阿弥陀如来の木造を安置する阿弥陀堂は小さい傾向にあるが、
それでも桁行12間、梁間10間の堂々たる大規模建築である。
組物は禅宗様で尾垂木付の二手先。向拝の組物は出三斗組で、
特に胴体をU字にくねらせた木鼻の龍は特徴的である。

阿弥陀堂正面

阿弥陀堂の向拝柱

胴体をU字にくねらせた木鼻の龍(左)

胴体をU字にくねらせた木鼻の龍(右)
鐘楼は弘化3年(1846年)の築、当寺では数少ない江戸時代の建物。
四本柱形式の鐘楼で、袴腰形の切石積基壇の上に建つ特異な形式である。
柱間4.19mと四本柱形式では県下最大を誇る。
上部は四周に二手先の腰組で支えられた高欄付の切目縁を廻らし、
円柱上部には棕を設け台輪を回す。
この上に二手先組物を載せ、二軒扇垂木で入母屋造桟瓦葺の屋根を支えている。
全体的に禅宗様を基調とした折衷様で、細部には彫刻装飾もバランス良く配置され、
江戸時代後期の優れえた特徴を伝えている。

宗務所前から御影堂を見る

御影堂に北接する対面所

唐破風と千鳥破風を組合わせた対面所玄関

鐘楼全景

鐘楼説明板
鐘楼に吊るされた梵鐘は洪鐘とも呼ばれ宝暦6年(1756年)作の銘がある。
市内にある鐘の中で戦前からのものはこれのみで、戦時中に一時供出されたが、
門徒らの強い希望で返されたという経緯を持っている。』 とあります。

梵鐘(洪鐘)説明
境内には、御影堂・阿弥陀堂・対面所・大庫裏・無碍光堂・御経堂・鐘楼堂・
忠霊堂と諸堂が並びますが、説明があったのは阿弥陀堂と鐘楼堂のみ。
理由は様々でしょうが、この二堂以外は全て最近の建造物であると言うのが大きいと感じました。

近代的な無碍光堂

御経堂

忠霊堂
唯一の例外は、境内の塔頭の慈雲山法林院。これは建物と言うよりも、
明治期に住職を務めた小泉了諦師が鯖江を代表する宗教家だったためですが、不勉強で知りませんでした。
それよりも本堂に掲げられた扁額の末尾に袁世凱と書かれている方が気になりました。
了諦師にとっては【辛亥】でしょうが…。

塔頭の一つ、法林院

法林院本堂に掲げられた扁額

明治期に住職を務めた小泉了諦師
[参考書]
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上野山 九品院 誠照寺(浄土真宗誠照寺派本山)
四足門正面に建つ御影堂。
四足門を抜けて正面に建つのが本堂ならぬ御影堂。宗派の開山を祀っており、
当寺では宗祖親鸞上人の木像を安置。境内で最も大きな伽藍になります。
宗派に拘らず内陣に入って参拝できるのも他の真宗寺院と同じでした。
上野山九品院誠照寺(うわのさんくほんいんじょうしょうじ)は、
『承元元年(1207年)親鸞聖人が佐渡へ配流の際に、この地の上野ヵ原の豪族・波多野景之の屋敷に滞在。
阿弥陀本願の要法を説いた縁に始まると言う。景之は一族と共に聞法して念仏の行者となり、
出家して空然(くうねん)と称した。その後、屋敷跡が聞法の場「車の道場」となったと伝わる。

境内で最も大きな御影堂

宗祖親鸞聖人尊像
四足門とから御影堂へ続く参道の右に建つ。
蓮如上人が越前に入る以前から、この地は越前真宗三門徒派教団が宗教活動を展開していた。
この教団は本願寺三世・覚如(かくにょ)の頃、三河国から来た如道(にょどう)と、その弟子道性(どうしょう)、
その子如覚(にょかく)の三人が開いたもので、長年に亘り和讃勤行と消息文を宗教活動の中心としてきた。
この如覚が誠照寺の開基で、当初は後二條天皇より真照寺の寺号を賜り、
南越地方宗教活動の中心的役割を果たしてきた。
永享9年(1437年)第七代秀応上人の時に後花園天皇より改めて「誠照寺」の寺号を賜る。

正面より見た御影堂
しかし蓮如の吉崎進出以降は衰運に向かい、天文21年(1552年)織田信長に協力したため
越前一揆勢に打ち壊されたり、天正11年(1583年)には柴田勝家の側に立ったため、
秀吉に全山破却される悲劇に。
更に江戸時代初期の寺院法度を受けての常楽寺などとの本山争いなどでかなりの痛手を受けた。
やがて第十五代秀諴(しゅうかん)が厚い信徳と閻浮檀金手引阿弥陀如来の本尊としての勧請に拠り中興、
誠照寺教団として一躍再興した。福井藩主初め多くの帰依も得て、貞享4年(1687年)には伽藍も再建。
鯖江御坊の名で親しまれ門前町も賑わった。今に至る鯖江の町は当寺の寺内町として発展したものである。

御影堂前面と向拝

向拝下より四足門を望む
元禄年間には一時、日光の天台宗輪王寺に属していた事があるが、
明治11年(1878年)に本山となり今に至る。
現在は真宗誠照寺派の本山としての宗教活動に加え、市の中心部で誠市を始めとする
催しを通じて活動を行っている。』 とあります。

御影堂内陣の様子

いつでも法話ができるように椅子が並べてある
北陸と言えば蓮如上人がすぐ思い浮かびますが、それより200余年前から布教活動を行っていた古刹。
指導者も覚如・如道・道性と続き、法灯だけでなく名前も尻取りの様に繋がっており、信仰も筋金入り。
上野山の山号で、僧侶が空然とはいえ、決して【上の空】ではなかったようです。

内陣奥の祭壇

絢爛たる欄間とその奥の御影

祭壇中央に置かれた宗祖親鸞像
蓮如よりも越前では自分達の方が先達であった事に加え、宗祖親鸞の教えに忠実な
宗教活動を行っていると言う自負が、真宗当主の蓮如から一定の距離を取った理由と思います。
同じ真宗でありながら一向一揆側ではなく、信長側に付いたことからもそれと知れます。
しかし世の流れは純粋な布教活動よりも、信者を組織化した蓮如派に有利に働き、
誠照寺が衰退するのも致し方ない話と言えます。
しかし、当寺は寄らば大樹の陰とはならずプライドは持ち続けたようで、
後に本山を形成したのはそれ故と言えましょう。

御影堂前面近影

御影堂木鼻の龍と軒下の鳳凰彫刻

精巧に彫られた向拝の木鼻の龍
網が掛かけられているのは糞害を防ぐため?
[参考書]
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上野山 九品院 誠照寺(浄土真宗誠照寺派本山)
長屋門や武家屋敷を見た後、西に向かうと福井鉄道の線路の手前に塀越しに
見るからに大伽藍が聳えます。これがこの辺りの最大級の寺院。
東西に走る道路に面しても南に向いた門がありますが、これは小さく脇門。
正式には商店街を北に抜けた場所に広い入口と寺標が建ちます。

東西に走る417号線から塀越しに見える大伽藍

こちらは南に開いた脇門
これが誠照寺(じょうしょうじ)で、福井の専証寺・横越の證誠寺と共に、越前三門徒の中心寺院として繁栄。
現在に繋がる鯖江町形成の基となりました。この入口に東向きに建つのが一際大きな四足門。
伽藍の多くが明治の再建の中にあって、唯一の江戸時代の建築でもあります。

東に開いたのが正式な門

門前に建つ巨大な寺標
『この門は文正元年(1466年)、後土御門天皇の勅許に拠り建立されたが、
天正11年(1583年)北ノ庄落城の兵火に遭い焼失した。
現在の門は安永8年(1779年)の再建。一樹一材の総欅造りで全体のバランスも良く、
後世の改造も殆ど見られない。越前の近代寺社建築を代表する建造物である。
形式は一間一戸の四脚門で、正面柱間7.08m、側面柱間4.67mの規模を有し、
四脚門としては県内最大規模である。

四足門近影
当寺唯一の江戸時代建築である。

四足門説明
禅宗様を基調とする折衷様式を持ち、優れた彫刻装飾が各所に見られる。
特に本柱の紅梁南北の両端にある「駆け出しの龍」及び「蟇股の唐獅子」は
二代目・左甚五郎作と伝えられ、その見事さから北陸の日暮し門とも、鳥棲まずの門とも別称されている。
駆け出しの龍は文久2年(1862年)の大火災の際、水を吐いて門を守ったと伝えられている。』
とあります。

南側の彫刻装飾

南側の「駆け出しの龍」

北側の彫刻装飾

木鼻と象の彫刻

北側の「駆け出しの龍」

これが「蟇股の唐獅子」か?
真宗寺院では山門・御影堂初め巨大伽藍が犇めくというのが定番ですが、
こと当寺に関しては山門に当たる四足門が突出。
これは単に大きさだけでなく芸術性に拠るのでしょう。
左甚五郎は有名ですが実在も含めて伝説半ばする人物。左というのは左利きだったからと言われますが、
飛騨の匠の「ひだ」に由来するとの説もあります。飛騨の匠は都にも聞こえた大工集団。
飛騨と北陸は隣接地で街道で繋がっており、欄間で知られた井波は越中の南。
私には飛騨の一流の彫刻家が代々名乗ったのだと思います。
日暮し門は一日中見ても飽きないから、鳥棲まずの門とは鳥が龍を実物と誤って近寄らないという事が
恐らくは命名の由来。蜩が鳴いたり、取りすました人が通るからではありません。
それだけ写実的と言う事ですが、駆け出しの龍は駆け出しの彫刻家には彫れそうにないとは思いますが…。

四足門の天井と透かし彫り

門扉の彫刻

天井と欄間の彫刻
[参考書]
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鯖江市 西山公園
休暇が取れた重陽の節句ですが、全国的に天気は今一つ。
それでも午後から雨も上がるとの予報を信じて北陸路へ。
このところ、風雨で運休・遅延が多発していた北陸本線ですが、この日は正常通りの運行でした。
折角の平日なので郵便局と古刹の二刀流を目指して、鯖江駅からレンタサイクルの予定。
しかし9時過ぎには未だ雨が降っていたので、大土呂まで行って戻る事に。
1時間遅れでしたが、案内所も10時には開き、雨も上がって良い具合でした。
鯖江と言えば、地場産業の眼鏡フレームとツツジの西山公園しか知りませんでしたが、
町を走るとここかしこに昔の町並みが。訊く処に拠れば、鯖江藩5万石の城下町とか。初めて知りました。

JR鯖江駅スタンプの変遷
国鉄 → JR と変わったが、図柄は全て西山公園。

かつての城下町の町並みが残る南北の通り
『鯖江藩は、享保6年(1721年)に入部した間部氏5万石の城下町として整備・発展。
南北に細長く横たわる洪積台地の中央に北陸街道を通し、その沿道両側に町屋敷を配し、
更にそれを守る様に東西の端に藩主の館(屋形町)や藩庁・侍屋敷・長屋などを配置した。
城下町特有の鉤型道路に名残を留めている。
旭町に現存する植田家長屋門は家老職を代々務めた植田家の表門で、享保16年(1731年)頃の建築。
桁行13.5間・梁間2間の平屋瓦葺建物で、建築当初は茅葺で桁行10間・梁間2間の長屋と
2間四方の厩があり、その間に木を設ける構造であった。
この門は白漆喰壁に黒塗りの柱や下見板、4つの出格子を持つなど、
鯖江藩5万石の家老職に相応しい規模・形式を有している。

植田家長屋門

長屋門説明

長屋門近影

北側より見た長屋門

鯖江旭町郵便局 ; 江戸時代の眼鏡枠に、左に西山公園のツツジ・階雲峡西山橋、右に植田家長屋門
鯖江藩は県下の福井・丸岡・小浜等と異なり、天守に象徴される城郭を持たない城下町であったが、
天保11年(1840年)、幕府から築城の許可が下りている。
これは7代藩主・間部詮勝(あきかつ)が、文政9年1826年に22歳で奏者番を拝命して以来、
寺社奉行・大坂城代・京都所司代と昇進し、この年には西丸老中となって
大御所家斉に仕えるようになった功績に拠るものである。
藩は標高110mの長泉寺山を本丸とし、現在の西山公園一帯の12万坪に及ぶ城郭を計画したが、
敷地・水の便に加えて大飢饉が続いた事から、鯖江城は幻に終わった。』 とあります。

旧鯖江地方織物検査所

検査所説明
城郭はないものの、鯖江藩はれっきとした城下町。長屋門にも表札が掲げられており今も現役で、
付近には武家屋敷と思しき建物があります。いずれも門の傍にある松の木が特徴。
“粋な黒塀、見越しの松に”とはこの事でしょうか?

武家屋敷と思しき家屋

長い板塀と松の木が特徴
それらを少し北に向かうと風情ある建物が。江戸時代から続く料亭で文化財にもなっているそう。
こんな場所で食事をしたらさぞや美味しいだろうとは思いましたが、私的には敷居が高い場所。
ふと見ると入口の上には「天狗楼」と掲げられていました。
詮勝が出世したのは幕府の御【眼鏡】に叶ったからで、築城はその御褒美と言えるでしょう。
しかし諸般の事情で城は築かれず、無城のまま幕末へ。
恐らく当時の詮勝の力を持ってすれば築城は可能だったでしょうが、
敢てしなかった所に彼の非凡さが見えます。
また、現在の公園にも城がない所は、
【間部に学べ!】と彼の意志が尊重されているとも言えます。

天狗楼全景

料亭入口

入口に架けられた看板

料亭の道に面した部分
ここが勝手口か?

鯖江桜郵便局 ; 江戸時代の眼鏡枠に、左に西山公園のツツジ・階雲峡西山橋、右に西山公園の桜
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敦賀駅交流施設オルパーク シェアサイクル → 10分 → 敦賀港 → 金前寺 → 金崎宮
【復路】JR敦賀(10:23) → (北陸線) → JR近江塩津(10:39→11:07) → (北陸線) → JR米原(11:42)

金崎宮(旧官幣中社)
金前寺に続いて石段を上り見晴らしの良い高台の社へ。
旧官幣中社金崎宮(かねがさきぐう)は、
『明治23年(1890年)、金崎城跡内に建立。御祭神は後醍醐天皇の皇太子恒良(つねよし)親王と
尊良(たかよし)親王で、建武の中興十五社の一つに数えられる。
神明造の本殿と中門は、藤原時代の建築様式を模し明治建築の粋を尽くしたもので優美である。
祭神を慰める花換祭が4月10日から7日間、例祭は5月6日、3月28日には鎮火祭。
10月20日の御船遊管弦祭は延元の役で、城の北の福浦湾に舟を浮かべて
両親王の無聊を慰めたのが始まりとされる。

金前寺脇の上り口にある城跡履歴

ここに所縁の在る武将と家紋
金崎城址・天筒城跡は市街地北東部の天筒山系に連なる南北朝(延元)・
戦国(元亀)時代共通の城跡であり古戦場跡。
標高90mの金崎山は、気比のお山と言う171.3mの天筒主峰西支脈で敦賀湾内に突出、
三方を海に囲まれた断崖絶壁上の金崎城は難攻不落の要害であった。
南朝方が兵庫湊川の戦いで敗れると、後醍醐天皇は南朝の勢力回復を図るため、
朝廷と縁の深い気比宮の莫大な交通税を軍資金にあて、敦賀津を拠点に
日本海の制海権を握って北陸山陰道から足利方への糧道を塞ぐ作戦に出る。

宮への階段
信長の「金ヶ崎の退き口」の看板が建つ。

金ヶ崎城跡説明

概略図
延元元年(1336年)、皇太子恒良(つねなが)親王(新天皇)、皇子尊良(たかなが)親王を奉じて
北陸に勢力を持つ新田義貞ら一族武将約1000騎を敦賀に下向。
気比大宮司・気比弥三郎大夫氏治軍と併せて1700騎が金崎山に点在した金前寺11坊に拠り、
御座所は観音堂をあてて金崎城とした。
新天皇の綸旨にも全国から兵は集まらず、延元2年(1337年)3月6日、足利方の
高師泰・斯波高経の総攻撃を受け、籠城6ヵ月、軍馬や人肉までも食するという極限状態で落城した。

階段を上り境内へ

一の鳥居

金崎宮縁起

一の鳥居から敦賀港を眼下に見る

引き込み線とコンテナ

金ヶ崎案内図

いよいよ境内へ
尊良新王・公卿・新田義顕(よしあき)・気比弥三郎大夫氏治等三百余名が自刃。
14歳の恒良新王は気比斉晴(なりはる)の計らいで小舟で逃れたが、
足利方に捕らわれ京都で毒殺されたと 『太平記』 は伝える。

桜に囲まれた金崎宮境内

手水舎

二の鳥居を抜け社殿へ向かう

二の鳥居近影

二の鳥居に続く拝殿(舞殿)

横から見た拝殿

中門前から見た拝殿
戦国時代の元亀の役でも、気比社家は朝倉方に味方して、延元の役に続く敗戦となった。
この戦では越前の朝倉義景を攻めるべく織田信長が出陣したが、
同盟者であった北近江の浅井長政が朝倉方に寝返ったため、急遽都へ退却する羽目に。
その時に見事な殿を務めたのが羽柴秀吉で、徳川家康がこれを助けたとあり、
それが後の天下取りに繋がった。
それに先立ち、長政の妻であったお市の方が兄信長の陣中見舞いに袋を紐で縛った小豆を贈り、
それを見た信長が長政の裏切りを知ったと伝わる。

これは祈祷所か旧社務所か?

神明造りの中門

中門の先に建つ本殿
こちらも神明造りである。

塀越しに見た本殿屋根

中門下に置かれた「恋の割符守」と「祈願絵馬」
摂社絹掛神社は、延元の役に殉じた新田義顕・気比弥三郎大夫氏治・気比斉晴・瓜生保ら将兵・公卿を祀り、
朝倉神社は昭和57年(1982年)金崎宮本殿修復時の仮本殿だが、
金崎城に関係ある敦賀城主朝倉教景(のりかげ)(宗滴)等、朝倉歴代の敦賀城主(郡代)を祀る。』
とあります。

本殿に隣接する摂社絹掛神社

絹掛神社の由来

正面から見た絹掛神社

絹掛神社本殿

二の鳥居の右手に建つ朝倉神社
本殿修復時の仮本殿。
軍事上の要衝だけに数多の戦乱を経ていますが、大きな戦は南北朝と戦国時代。
いずれも大きな戦禍を被りますが、気比神宮の宮司がいずれも敗者側に付いた事。
情報が不足していたのか、敗者側に付かねばならない柵があったのか、
恐らく後者の可能性が大だったのでしょう。
唯、不思議にも敗者となっても宮は消滅せず、今に伝わっています。
祟りを怖れた可能性は、比叡山を焼き討ちした信長にはありえない話。
残しておいた方が得になる何某かの理由があったのでしょう。
祟りよりも多利を失う事を怖れた結果と言えそうです。

御鎮座20年記念の時計台

社務所前にて
御祭神の恒良・尊良親王は、私の学生の頃は「つねなが・たかなが」と読んでいましたが、
南北朝の研究が進んだ今では「つねよし・たかよし」と読むのが一般的。
時代の流れとも言えますが、そういえば最近「建武の新政」は聞いても「建武の中興」とは聞きませんね。
このように悲劇の舞台となった金崎宮ですが、御祭神の尊良親王とその妻である西園寺公顕女・
御匣殿(みくしげどの)との恋愛伝説や、花換祭の風習のため「恋の宮」としても有名とか。
中門には恋の割符守がありました。その直ぐ横にある祈願守は、どことなく飴玉を包んだような形でしたが、
お市の方の小豆袋と漸く気が付きました。【あずき】桃山時代を象徴するエピソードです。

現在、4種の御朱印がある

金崎宮御朱印
平成5年拝受分。この時はこの1種のみ。

本殿の先に続く花換の道
桜並木を通り抜けると金ヶ崎城址に着く。
こうして敦賀港巡礼を無事終えて10:23分の電車で米原まで。
名古屋方面の列車には時間があったので、久し振りに近江牛の駅弁購入。
米原駅にて江州マイでマイ腹を満たす事ができました。

この日の昼食 ¥1,080 はリーズナブル。

駅弁の中身
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【往路】JR大阪(6:21) → JR京都(6:54→7:00) → (湖西線) → JR近江今津(8:06→8:14) → (湖西・北陸線) → JR敦賀(8:46)
敦賀駅交流施設オルパーク シェアサイクル → 10分 → 敦賀港 → 金前寺 → 金崎宮
【復路】JR敦賀(10:23) → (北陸線) → JR近江塩津(10:39→11:07) → (北陸線) → JR米原(11:42)

誓法山 金前寺(高野山真言宗 北陸観音霊場特番札所)
敦賀港で鉄道遺産を見た後は、高台にある金崎宮に参拝ですが、
その上り坂手前に一宇があったので、先ず参拝。
金前寺という名前から、金崎宮の手前にある神宮寺であろうとは、想像に難くありません。
誓法山金前寺(せいほうざんこんぜんじ)は、
『奈良時代の天平8年(736年)、聖武天皇の霊夢により勅を奉じた泰澄大師が十一面観音坐像を本尊として寺を建立。
天皇親筆による金光明経を賜り、その経を金櫃に封じて陵丘に埋めた。
それに拠りこの山を金ヶ崎と値付け、寺名を金前寺と号した。
寺伝に拠れば、金前とは金光を発する十一面観音に由来するとも言われる。

駐車場から見た全景

寺の前には金崎宮の社標が建つ

山門はないが、本堂へはこちらから参拝

金前寺々歴
弘仁2年(811年)には、弘法大師が留錫。当山は気比神宮の奥の院として伽藍十二坊を有し、
本尊・袴掛観音は縁結びの観音として霊験あらたかであった。その縁起は『今昔物語』に載る。
「昔、敦賀に両親と暮らす娘が居り、何度か結婚したが離縁となった。
両親は観音様に娘の幸せを祈ったが、両親が無くなると娘は困窮し、観音様に祈った。
すると夢に老僧が現れ、「明日、夫となる者が現れる。」 と告げた。

正面から見た本堂
平成元年の再建。

本堂内陣へ向かう

本堂向拝の下にて
翌日、美濃の豪族の息子が従者を引き連れて現われ宿を所望した。
息子は妻に先立たれ千個話も断り続けていたが、娘が亡くなった妻に生き写しである事に驚いた。
翌日、息子は若狭に所用で出かけ、娘は残った従者を満足にもてなすことができずに困っていた。
そこへかつて両親に仕えたという女が現われ、食べ物を運ぶなどの手伝いをした。
若狭から戻った息子は娘を美濃へ連れ帰る事にし、娘は世話になった女に紅の袴を与えることにした。
出発の際に観音様に参ると、女に与えた袴が観音様に掛かっていた。
娘は観音様が女に姿を変えて助けてくれたと気付き、感謝の涙を流したという。
後に、二人は美濃で幸せに暮らした。」 と言う。

本堂に掲げられた「誓法山」の扁額

本堂へ入ると「現在不在」の立て札が

本堂内観

五種類の御朱印が
全て¥300なのが良心的である。
この金前寺は南北朝の延元年間に入るや、北国の鎮護として下向された
後醍醐天皇の皇子恒良(つねなが)新王、及び尊良(たかなが)新王を迎える。
気比社の祠官気比氏治以下、幾多の忠勇義烈の士が足利軍を迎え一大決戦の本営となった。
延元元年(1336年)、新田義貞は金ヶ崎に城を築き、翌2年3月6日、足利尊氏軍に攻められて敗走。
後醍醐天皇の皇太子恒良新王は後に捉われ、皇子尊良新王及び、
新田義顕(義貞長男)は、金前寺の観音堂にて自害した。
敗走の際、義貞は陣鐘(じんしょう)を海に沈めた。その後、国守が海女に命じて探索したが、
鐘の竜頭が逆さに泥に埋まり引き上げることができなかったと伝わる。

金前寺説明書

北陸観音霊場特番御朱印

観音霊場お札

縁結び本尊 袴掛観音御朱印
江戸時代の元禄2年(1689年)8月14日、松尾芭蕉は等栽と敦賀に入り、唐人橋の出雲屋弥市郎方に宿泊。
夕食後、気比神宮に参拝、翌15日雨の中を天屋玄流らに案内されて、金前寺を訪れた。
そして延元の戦い、陣鐘の物語を聞き、詠んだのが、
・月いづこ 鐘は沈る うみのそこ はせを
である。
この句碑(鐘塚)は、宝暦11年(1761年)に敦賀の俳人、白崎琴路らが芭蕉の没後68年目に建立した。
芭蕉の真筆を刻んだと伝えられているが、その真筆は不明。鐘塚は県内に残る句碑の中で最も古い。

芭蕉翁鐘塚

芭蕉の句碑

鐘塚由緒
以後、寛文2年(1662年)に安孫子浄泉・打宅宗貞等が現在地に観音堂を再建。
鎮護国家・済世利人の祈願時として法灯を相続したが、昭和20年(1945年)7月12日の
米軍空襲に拠り、堂宇、寺宝の一切を焼失し灰燼に帰した。
位牌段に安置の十一面観音立像は当寺の末寺であった気比蔵寺の本尊で、
戦時中は美浜町の園林寺に疎開していたため、幸いにも空襲を免れた。
終戦直後の昭和21年4月より本堂再建に着手し、その年に本尊を迎えた。
その後は、昭和27年、37年に本堂の修復増築工事、平成元年には現在の本堂、庫裏を再建した。』
とあります。

金崎宮への参道から見た本堂

歓喜天堂(右)と納骨堂

歓喜天堂
本堂横の説明板では多くの霊場を兼ねている模様。【けんむ】しているのは後醍醐天皇との所縁でしょうか?
その中で御本尊の袴掛観音の奇瑞は寺にとっても瑞祥、【婚前】寺と言っても良い位です。
唯、それ以外は全て戦に関わる話。そもそも金ヶ崎宮が戦略上の要衝にあるので、
当寺も否が応でも戦禍を避けることは出来なかったのでしょう。
縁結びの御本尊も戦禍を免れる術は持っていなかったようです。
南北朝時代に激戦があり、南朝軍は敗走し多くの死者を出すと言う悲劇を生みますが、
不思議なのは新田義貞が陣鐘を海に沈めた行為。敗走の最中に、なぜわざわざ面倒な事をしたのか?
天皇から下賜された鐘を敵に奪われる屈辱を怖れたからなのかは分かりませんが、
後世に芭蕉が句を詠んでいることから、不思議とは思わなかったのでしょう。
今の私には【じんじょう】には思えませんでしたが。

各種霊場を兼務している

本堂前の五重塔、水子地蔵菩薩、鐘楼等

鐘楼とその前に立つ、弘法大師・観音・不動明王像

梵鐘

五重塔
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敦賀鉄道資料館
令和4年8月6日はマンホールカード第17弾が開始の日。
ばらばらに回っていたら収拾がつかないので、この日は収集に特化。
北陸から東海と計3ヵ所を目指します。
先ずは、早朝の電車を乗り継いで8時46分敦賀着。
そこでシェアサイクルを借りるのに手間取りましたが、
駅から敦賀港まで2㎞疾走して「人道の港 敦賀ムゼウム」へ。
ここは第二次大戦中、駐リトアニア大使だった杉原千畝氏がビザを発行したユダヤ難民、
ポーランド孤児の敦賀上陸の際のエピソードを紹介する施設。
命のビザが敦賀と関わっていたとは初耳でした。

人道の港 敦賀ムゼウム

敦賀市マンホールカード
(左) 鉄道資料館 (右)敦賀ムゼウム にて配布。
無事1枚目を入手出来た訳ですが、収集だけではつまらんので、
敦賀で残り1時間の間に観光を【敢行】する事に。
気比のみなと敦賀は、福井県のほぼ中央に位置。古代には北陸を抑える畿内の前進地。
奈良平安時代には渤海など対外関係の要津、中世から近世にかけては日本海側航路の要衝として発展。
要は港町ですが、意外と多いのが鉄道遺産。
ムゼウムの手前には再現された旧敦賀港駅舎が敦賀鉄道資料館として開館。
また現在は休止中ですが、敦賀駅からムゼウムまでは線路が伸びています。

敦賀鉄道資料館全景(旧敦賀港駅舎)

かつてはムゼウムまで伸びていた線路
『敦賀駅の開業は明治15年3月10日であるが、現在の場所ではなく気比神宮の近くにあり、
更に線路は進んで港に入り金ヶ崎という臨港駅を作っていた。
開通時には福井・金沢方面への延伸よりも敦賀港への連絡を重視した造りであった。
福井方面に延伸するとスイッチバックの必要が生じたので、明治43年(1910年)に駅は現在地に移転。
敦賀港への列車をスイッチバックさせた。その後、明治45年に新たな線路を東側に敷設して
米原方面から敦賀港に直通できるようにし、旧線は廃止された。』 とあります。

資料館横の金ヶ崎緑地に建つ巨大常夜燈
燈台の役目も果たしたか?

港に面した敦賀赤レンガ倉庫
1905年、外国人の設計に拠る、港町敦賀の象徴的建造物。

赤レンガ倉庫近影
内部にレストラン、喫茶店が入る。

倉庫の前では恐竜と一緒に記念撮影
恐竜王国福井ならでは。

かつて走っていた「急行わかさ」車両
敦賀~長浜間に鉄道が開通したのは明治15年。これは明治29年の福井、同31年の金沢はもとより
東海道線の米原の明治22年よりも早い時期になります。
この年代差から見て、敦賀駅は港に揚げられた物資を長浜まで運び、琵琶湖の水運を使って
京・大阪に送るという目的で作られたといっても過言ではないでしょう。
敦賀駅は度々移転を繰り返していますが、これは敦賀港の盛衰との関りに拠るもので、
明治期には今以上に日本海交通が重視された証拠といえます。

大正7年完成の敦賀港駅ランプ小屋
金前寺の手前に建つ煉瓦造りの貴重な鉄道遺産。

金崎宮への参道の途中から
そんな事を思いながら駅に戻ると建設中の北陸新幹線の敦賀駅舎が正面に出現。
2024年の開業を目指すようですが、開業後、敦賀以北は全て3セクに移行するとの事。
明治に開業し、かつては米原~直江津間353.9㎞あった路線も、新幹線の金沢延伸で
176.6㎞と約半分になり、今度は敦賀延伸で45.9㎞とかつての八分の一に縮小。
京大阪の人間にとっては福井金沢まで乗り換えなしに行くことができず不便になりますが、
ここまで路線を縮小してまで3セクにする必要があるのか、新幹線を延長する必要があるのか、
次々に疑問が浮かんできました。

建設中の北陸新幹線・敦賀駅舎
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大聖寺駅前 → レンタサイクル45分 → 安楽寺 → レンタサイクル20分 → 吉崎御坊 → 吉崎寺

吉崎寺(浄土真宗本願寺派)
蓮如の里 吉崎の三坊に参拝した後は、大聖寺へ戻りますが、道を隔てた場所に吉崎寺とあるので、そちらにも参拝。
吉崎寺(よしざきでら)は、
『浄土真宗本願寺派寺院。京都よりこの地に来た蓮如は吉崎の名主・大家彦左衛門吉久の館で布教。
吉久は本堂寄進のため千歳山を寄進、蓮如の弟子となって慶聞坊の法名を賜り寺の開基となった。
蓮如吉崎退去の際には小浜までお供し、見送ったとされる人物である。1474年の御山の大火の時は、
蓮如上人を背負い安全な場所まで避難したといわれ、門前には蓮如上人を背負った慶聞坊の銅像が建つ。

吉崎寺の説明

蓮如上人を背負った慶聞坊

像の説明
現在の吉崎寺は、蓮如が吉崎布教を始めた吉久の館跡に再建されたもので、宝物館には蓮如上人御自画像、
上人真筆の名号や、嫁おどし肉付き面などが展示されている。』 とあります。
年配の御婦人が対応下さいましたが、1階には宝物が展示され、2階が本堂。本堂で御本尊に参拝しましたが、
寺院と言うよりも真宗の開館といった雰囲気。歴史は古いのでしょうが、建物が新しいのでそう感じるのでしょう。
寺院の場所は正に越前と加賀の県境。少し先には「越前加賀県境の館」があり無料で見学。
館内に県境が通っているのが特徴でした。また庭先からは蓮如上人が好んだ鹿島の森も一望できます。

県境の館内にて

館の庭先から鹿島の森を望む
周辺には蓮如上人記念館があり七不思議館も見学可能。そのすぐ横に寺院風建物があり、伺うとレストランで
北潟湖と鹿島の森を眺めながらの喫茶が売りだそう。寺院と直接の関係はなく真宗の財団が経営。
蓮如の里吉崎と銘打つだけに表に出すのは当然でしょうが、余り元祖・本家と【あわら市】てしまうと
牽強付会に成り兼ねず、却って【県境不快】にならないか気になりました。

蓮如館

七不思議館

レストラン
[参考書]
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大聖寺駅前 → レンタサイクル45分 → 安楽寺 → レンタサイクル20分 → 吉崎御坊

本願寺 吉崎別院(浄土真宗本願寺派)
東別院に参拝の後は、階段を下りて山門へ。その直ぐ左手に見える門が西別院への入口。
本願寺吉崎別院(ほんがんじよしざきべついん)は、
『蓮如上人吉崎退去の後、弟子たちに拠って遺跡が守られ、また道場も設けられた。
その内、延享3年(1746年)に山下道場のあった場所に建立されたものが浄土真宗本願寺(西本願寺)の吉崎の別院。
表門は念力門と呼ばれ、豊臣秀吉が京都の本願寺に寄進したもので、元治元年(1864年)の「蛤御門の戦い」では
兵火から堂宇を守った「火消門」として有名である。昭和23年の福井大地震で倒壊した別院の門の代わりに本願寺より下附。
翌昭和24年(1949年)11月に百余名の念仏奉仕団に拠って、念仏の声を力に歩いて運ばれた事から「念力門」と名付けられた。
命名者は本願寺第23世勝如上人である。

吉崎御坊の御案内

駐車場に面した山門(念力門)

京都の本願寺より下附された念力門

念力門の由来
門を過ぎて右側に建つ中宗堂は、江戸時代に吉崎の隣村の豪商で門徒であった松下吉三郎が、この地に蓮如を
安置する御堂のない事に心を痛め、延享2年(1745年)自費で蓮如堂を造営寄進したのが始まり。
以後、数度の火災に見舞われるが、昭和45年(1970年)に正面14m、奥行17mの重層造りとして再建され今に至る。
昔から「御廟堂(おたまや)」と呼ばれ、蓮如上人が61歳で吉崎退去の際、上人自身の手で描かれた「御形見の御真影」
が安置されている。

中宗堂近影

中宗堂の説明

中宗堂内陣
正面に掲げられているのが「御形見の御真影」か?

中宗堂脇の唐破風の門
本堂は十一間四面、総欅による紫宸殿造。延宝6年(1678年)建立のものは寛政7年(1795年)に焼失、寛政9年に
再建されたものが現在の本堂。本尊は阿弥陀如来で、極彩色の彫刻に拠って荘厳されている。』 とあります。
東別院に比べると樹木に囲まれ鬱蒼とした雰囲気。かつての御坊もこのような感じだったのでしょうか?

寛政9年に完成した本堂

本堂前の向拝

本堂内陣

本堂からの眺望
説明書を頂こうと寺務所の呼び鈴を押すと、若い住職が対応。説明書に加えて、御朱印を拝受。
和辻:「こちらは御朱印をされているのですか?」
住職:「御朱印ではありませんが、参拝された方にお渡ししています。」との事。
通常、真宗寺院では御朱印はされませんが吉崎では三寺院全てで頂くことに。これも庶民目線の【別印】です。

東側にある門

門の彫刻
それから御住職からはここの歴史を拝聴。お仕事の手を止めて頂き有難い事でした。蓮如上人がここを退去した経緯、
本願寺の東西分裂に関しての詳しい話を真宗の立場で伺いました。
和辻:「政治的とはいえ、結果的に東西に分裂してしまいましたね。」
住職:「でもね、結果的にはそれが良かったと思います。」
和辻:「と言いますと…。」
住職:「石山本願寺のような強大な教団のままでは、徳川幕府に目を付けられきっと取り潰されたでしょう。」
和辻:「家康も一向一揆には手こずりましたからね。」
住職:「それから二派に別れてお互い切磋琢磨することも良かったと思います。」
和辻:「今の真宗は10派程、ありませんでしたか?」
住職:「あれは地方の分家のような感じで、大きくは東西の二派です。」
と質問にも的確に答えて下さいました。
話しぶりからは、政治的に分裂した事に対する後悔はないようす。尤も、西本願寺は石山本願寺を率いた
顕如の後継者とされた准如が祖なので、主流の矜持が大らかな気持ちにさせるのでしょう。
西本願寺と言えば、明治時代に西域探検で知られた大谷光瑞が門主を務めた寺院。
その後も東大で東洋史を専攻した門主が続くなど、政治的な東に対して学究的な西のイメージがありましたが、
この日の御住職の話を聞き、改めて納得した次第です。

本願寺 吉崎別院 説明書

御朱印の様なもの
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大聖寺駅前 → レンタサイクル45分 → 安楽寺 → レンタサイクル20分 → 吉崎御坊

吉崎東別院(真宗大谷派) 山門
かつての本坊の後は、最も奥にある別院へ。吉崎東別院(よしざきひがしべついん)は、
『延享4年(1747年)、吉崎山の麓に建立された浄土真宗大谷派(東本願寺)の吉崎の別院。境内には山門、本堂、
宝物館、鐘楼堂などがあり、本堂は1747年の再建。蓮如上人が船上で書いたという六字名号の掛け軸も所蔵している。

山門に続く石段
正面には本堂が建つ。

石段右手にある鐘楼堂
蓮如上人が布教のため京都から吉崎に向かった240㎞の道のりを門信徒が歩いて辿るのが「蓮如上人御影道中」
毎年4月17日に京都東本願寺を出発、湖西周りで一週間御下向の旅が続き4月23日夕刻に吉崎御坊に到着。
吉崎東別院で10日間の御忌法要を勤めた後、5月2日早朝に出発。湖東回りで280㎞を8日間かけて上洛し
5月9日に御帰山となる。これは340回以上続いている仏事である。』 とあります。

1747年再建の本堂

本堂正面

御由緒というよりも案内書
名前は東本願寺の別院だからで、御坊の東側にあるからではありません。本願寺が西と東に分かれたのは、
本願寺11世顕如の後を継いだ三男准如に反発した長男教如が京都堀川の本願寺の東へ寺を造り移ったから。
宗教よりも政治がらみの分裂でした。
東別院は本堂も立派ならば、信徒会館も鉄筋の見事な造り。多くの信者の寄進に拠るのでしょう、
今の東本願寺の実力を見るようでした。

本堂脇の書院玄関

境内から北潟湖と鹿島の森を望む
受付で説明書を頂き、申し出て内陣から本堂へ参拝。門徒以外にも門戸を開いているのは流石です。
御本尊と並び、開祖親鸞聖人と蓮如上人の御影が飾ってありましたが、歴史書で見た「鹿の子の御影」もありました。
道中をするだけの事はあり、立派な建物も単なる【みえ】ではなさそう。

本堂内陣の様子

内陣の欄間彫刻

展示コーナー法宝物 「鹿の子の御影」
尤もこれは説明書からの抜粋。
説明書に「参拝記念スタンプ」とあったので、受付嬢にスタンプ帳を渡し押印して頂きました。
御影のデザインかとも思ったのですが、押されたのは寺院の寺印。
和辻:「これは御朱印ですか?」
受付:「いいえ、スタンプです。御朱印は扱っていませんので。」
との事。しかし、どう見ても御朱印にしか見えません。
これなら御朱印帳に押しておけばと後悔しましたが、【別印】と言う事で納得しました。

吉崎東別院説明書

受付で頂いた 「参拝記念スタンプ」
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR京都(6:24) → (ひかり634号) → JR米原(6:44→6:51) → JR敦賀(7:37→7:41) → JR福井(8:38→8:41) → JR大聖寺(9:14)
大聖寺駅前 → レンタサイクル45分 → 安楽寺 → レンタサイクル20分 → 吉崎御坊

吉崎御坊 願慶寺(浄土真宗大谷派)
山上の御坊跡に行った後は、階段を下った先に建つ願慶寺へ。順番としては駐車場に続く山門から参拝するのが
筋ですが、「吉崎御坊の本坊と御朱印はこちら」という案内に惹かれたのが理由です。

願慶寺山門
吉崎御坊願慶寺(よしざきごぼうがんけいじ)は、
『文明3年(1471年)、蓮如上人に拠る吉崎道場(坊舎)創建の際、和田重兵衛が吉崎三十人衆共々、蓮如の弟子に。
重兵衛は祐念坊霊空の坊号を賜り願慶寺の初代となった。蓮如の吉崎退去後は「道場」として道場跡を護持する。
享保6年(1721年)、願慶寺本堂を本山の御坊とし「吉崎御坊願慶寺」と称した。吉崎最古の旧跡である。
現在は山門、本堂から成り、本堂では嫁おどし肉附面の拝観と、その縁起を聴くことができる。

由緒記

境内から見た山門

本堂正面
肉附面の縁起は次のように伝わる。
細呂木の坂口の谷に住んでいた百姓与惣次夫婦は蓮如に帰依し、毎夜吉崎詣りに通っていた。それを妬んだ姑が
文明4年1472年3月21日夜、一人参詣に行った嫁を竹藪で待ち伏せ鬼の面を被って驚かせたが、嫁は少しも驚かない。
当ての外れた姑は面を外そうとしたが、顔にくっつき離れなかった。困った姑は蓮如の教化をうけ懺悔、すると漸く
面が外れた。後に嫁姑は共に吉崎に参詣するようになった。』 とあります。

拝観無料の宝物館

パンフにある嫁脅の面
肉附面は「牛に惹かれて善光寺」と同類の仏教に拠る教化譚。江戸時代には「雪国嫁威谷(ほっこくよめおどしだに)」
の題で戯曲化もされています。
一見、酷い姑のようですが、相手の命を奪ったり追い出したりしない分、まだ可愛げがあるとも言えます。
唯、面はここだけでなく吉崎寺にもあるそうで、もしかすると似た話があちこちにあって、それをお寺で纏めて【肉付け】
したのがこの話なのかもしれません。

宝物館での嫁脅しの場面の展示

伝説の説明
御朱印を御願いすると、御住職が対応。印は肉附面でした。
住職:「江戸時代ここは御坊として本山に準ずる格式でした。その本坊がここです。しかし明治の廃仏毀釈によって
御坊が廃止され別院に格下げされて、東と西の別院ができて三分されました。でも本家はここなんです。」
との話。
話し方もやや残念そうでしたが、他の寺院の手前、面を被る事も必要なのでしょう。

願慶寺縁起
御住職曰く、「江戸時代から同じものを渡しています」。

願慶寺御朱印

吉崎郵便局 ; 肉付き面、北潟からの吉崎御坊
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR京都(6:24) → (ひかり634号) → JR米原(6:44→6:51) → JR敦賀(7:37→7:41) → JR福井(8:38→8:41) → JR大聖寺(9:14)
大聖寺駅前 → レンタサイクル45分 → 安楽寺 → レンタサイクル20分 → 吉崎御坊

史跡 吉崎御坊址(浄土真宗)
安楽寺参拝後は、北潟湖を右に見て来た道を吉崎へ。湖にかかる開田橋を渡った場所にある小高い山上が旧吉崎御坊。
橋のある場所は浜坂漁港、橋を渡った先は「蓮如の里 吉崎」の看板と真宗の別院が建ちます。
日本で最大数の信者を擁する真宗らしく広い駐車場や商業施設が並びますが、いささか人が少なく活気がなさそう。
コロナの影響でしょうが、昨今は宗教離れで観光地も【かんこう】鳥が鳴いているのでしょうか?

305号線から見た北潟湖
船が停泊している付近が浜坂漁港か?

開田橋上からの北潟湖と鹿島の森
蓮如は開祖親鸞と並ぶ浄土真宗の指導者。小説にも取り上げられる他、親しみを込めて「蓮如さん」と呼ばれるように
民衆の中に溶け込んだ宗教家でした。
1415年本願寺七世存如の長男として生まれますが、当初は後継者から外され、八世として法灯を継いだのは
43歳という、当時としてはもう高齢に属する年齢でした。
活発な布教活動で本願寺の勢力を向上させた彼が、何故都を遠く離れた越前に赴いたのか?
彼の勢力に恐れを抱いた比叡山延暦寺衆徒に拠る執拗な攻撃から逃れるのが主な理由とされます。
寺院の建つのは、越前と加賀の国境近く北潟湖に面した吉崎の山上、通称「御山(おやま)」と呼ばれる場所でした。

開田橋から見た御坊方面

吉崎御坊の前の駐車場
『文明3年(1471年)吉崎に来た蓮如は坊舎「吉崎御坊」を建立、布教の本拠地とした。蓮如が生み出した「講」、
「御文章・御文」などに拠って、吉崎御坊には身分・階級・性別・職業等に拘らず多くの信者が集まり、
一帯には急速に本願寺教団が形成。親鸞の同朋思想が体現された一大宗教都市となり、やがて
一向一揆蜂起の基盤となった。
文明7年(1475年)頃になると、加賀国守富樫政親の圧力が吉崎御坊にも及ぶようになり、
蓮如は同年8月21日、僅か4年余りで吉崎を退出。御山の背後「七曲り」から乗船退去したと伝わる。
その後、蓮如は山科本願寺(京都)、石山本願寺(大坂)において、1499年に85歳で入寂するまで精力的に布教活動を続けた。

本願寺吉崎別院表門から御坊跡地に向かう
表門から徒歩5分。正面奥は願慶寺。

石段横の案内板

石段を上った先に広がる吉崎御坊跡
蓮如退去御、越前守護朝倉氏は永正3年1506年8月、越前に侵攻した加越の一向一揆を撃破。一向宗門徒を
加賀へ追放すると同時に吉崎の坊舎も破却。以後、廃坊となった。蓮如が吉崎に築いた町は寺内町の発祥とされるが、
1473年当時、多くの宿坊があった寺内町も、その面影もない。』 となっています。

かつての栄華の跡は
今に伝わる別院の間の細道を抜け海抜33mの山上へ。かつては伽藍が聳えた場所も今は跡が残るのみ。
中央奥に高村光雲作の行脚姿の蓮如像、その周りに本堂跡、腰掛石、蓮如第4子見玉尼の墓、
血染めの聖教で知られる本光坊了顕の墓等が残ります。
山上からは北潟湖、開田橋、浜坂漁港が至近に見え、その向こうの鹿島の森は石川県。
更に向こうには大聖寺川が日本海に注いでいます。

山上に建つ蓮如上人像

上人像近影
台座を含め12mの高さを誇り、高村光雲四大名作の一つに数えられる。

銅像の説明
都で迫害を受けた蓮如がこの吉崎の地に坊舎を立てたのは、母方の遠縁に当たる興福寺門跡経覚の所領であった事、
本願寺の末寺の住持が吉崎の代官を勤めていた事が主な理由とされます。
しかし現地に来てみて、もう一つの大きな理由に気付きました。ここは三方を北潟に囲まれた要害の地であることに加えて、
北潟湖と大聖寺川が日本海に注ぐ場所。素人目に見ても、交通の要衝、天然の良港であることが分かります。
蓮如の頃は古代の荘園制は崩壊途上、貨幣経済がようやく浸透し始めた時代。一方、土地の生産性が上がった結果、
各地で定住する町ができつつありました。吉崎のような場所は町として発展する要素を備えた場所と言えます。

吉崎御坊本堂跡

本堂跡説明
古代の寺社は、巨石・洞窟・瀧といった自然崇拝の対象となる場所に建てられましたが、当然人里離れた場所。
そこへ参拝するのが信仰でした。蓮如はその常識を180度転換。多くの人が集まる場所を選んで、そこを布教の
場所とすることで人々の間に信仰を広めるというもの。人が集まる場所は経済も活発で、お金も集まった事でしょう。
寺院としては信者からの寄付も多くあったと思われます。といってしまえば身も蓋もありませんが、後に越前の信徒は
守護の富樫氏を追放し、越前に一向宗の国を造ることになります。もし、蓮如の教えが収奪を目的とするだけであったら、
人々がここまで付き随うことはない筈。寄進・寄付に見合うだけのものを得たと感じたからに違いありません。
余談ですが、「地獄の沙汰も金次第」は、金が全国に流通するようになった戦国期に出来た諺という事です。

蓮如上人お腰掛けの石

石の説明

御坊跡にある上人次女見玉尼の墓

墓の説明
蓮如と同じ発想の人物が100年後に登場しますが、それが織田信長。
町の経済力に着目し、そこから得た金で最新兵器の鉄砲を量産。
それまで武士と言う一部の特殊階級が独占してきた戦の様式をひっくり返し、戦国乱世に終止符を打ちました。
蓮如も信長も同じ方向性を持っていたので、衝突するのは極自然の成り行きと言えます。
結局、宗教勢力は武士勢力に屈服することとなり、諸外国のような宗教政権は我が国では誕生しませんでした。
しかしそのために悲惨な宗教戦争を経験しなかったことは日本人にとり幸福だったと言えます。

御坊跡のビュースポットからの北潟湖と開田橋の眺望

鹿島の森とその奥に広がる日本海
鹿島の森は大聖寺川河口に位置し、江戸時代は独立した島、現在は石川県に連なっている。
[参考書]
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【往路】JR京都(6:24) → (ひかり634号) → JR米原(6:44→6:51) → JR敦賀(7:37→7:41) → JR福井(8:38→8:41) → JR大聖寺(9:14)
大聖寺駅前 → レンタサイクル45分 → 安楽寺

天王山 安楽寺(高野山真言宗)
長雨の合間を縫って、この日は越の国へ。以前から気になっていた一向一揆の拠点の吉崎御坊を訪問。
福井県あわら市で最寄りの駅は北陸本線牛ノ谷ですが。無人駅で駅周辺も施設がなさそうな雰囲気。
バスの便も悪くさてどうしたものかと悩んでいたら、大聖寺駅前にレンタサイクルがあることが判明。
大聖寺は石川県加賀市なので県境を越えての巡礼となりました。
駅から御坊までは5㎞程ですが、それに先立ち更に4㎞先の北潟に建つ古刹を訪問。計9㎞の道のりですが、
北潟湖は日本海に続く湖。波穏やかな湖面を眺めながらの湖畔のサイクリングとなりました。

北潟湖北岸の305号線からの眺め

北潟湖に架かるアイリスブリッジと湖畔荘hanaゆらり
その中程の北岸に建つのが安楽寺。国道305号線から北へ少し入ると巨大な銀杏が目に入りますが、
そこは脇門だったので、改めて正門から参拝。
天王山安楽寺(てんのうざんあんらくじ)は、
『養老2年(718年)、泰澄大師が白山から西北を望んだところ紫雲が棚引いていた。
それを奇異に思った大師がこの地を訪ねた所、一人の老翁が現われ、
「我は北天の守護の祇園牛頭天王である。衆生済度のため伽藍を建立すべし。」と勧めた。
そこで泰澄大師は薬師如来像を彫刻して本尊とし、一寺を建立したのが安楽寺の嚆矢とされる。
真宗の多い越前にあって白山信仰と真言宗の習合した寺院として法灯を現在まで伝えている。

脇門からの眺め

改めて正門から参拝する

境内から見た正門

正門の二階に吊るされた梵鐘
山門を潜った右手には樹齢300年の大銀杏が聳え、あわら市天然記念物となっている。また、体高3mの金剛力士像が
あり県指定彫刻文化財。阿形像と吽形像の対になっているのが本来の姿であるが安楽寺にあるのは吽形像のみ。
しかも山門ではなく本堂に置かれており、阿形像は顔の一部と足の一部が残っている。』 とあります。

本堂正面

本堂の向拝と垂木

本堂の内陣
中央が御本尊の薬師様。御住職の好意で撮影。
山号の天王山は牛頭天王に由来するのでしょう。大きな山門を潜ると、丁度若い御住職が境内を掃除中でしたが、
来訪の意を述べると、仕事の手を停めて御朱印と本堂内陣に案内下さいました。
本堂内に入ると、直ぐ左手に巨大な金剛力士像が。
和辻:「これが文化財の仁王様ですね。山門には置かれていませんね。」
住職:「はい。由来ははっきりしないのですが、元は二体あったようです。足元に御顔の一部と足首が残っています。」
和辻:「御本尊は薬師様ですが、内陣は真宗の様に煌びやかですね。密教系は全体的に黒っぽいものが多い気がしますが…。」
住職:「この辺は真宗が多いので、その影響もあったと思いますよ。」

本堂内の金剛力士像
御顔の一部と足首は左足の奥に。

境内には観音像も
和辻:「あの大銀杏はここの御神木ですね。」
住職:「一応、防火対策のようですが、毎年実を付けてくれます。でも一昨日の大雨で枝が折れて片付け中です。」
見ると、境内に銀杏の枝が置かれてありました。御本尊が薬師様なので【いちょう】とは縁が深いようです。
和辻:「ここへ来る前にネットで見ましたが、HPを作られていますね。」
安楽寺HP
住職:「安楽寺という名前は多く、間違って来られる方も多いので…。」 との事。

山門脇の大銀杏

御住職が片付けて居られた、大雨で折られた銀杏の枝
頂いた説明書を見ると、
「未来へ。変わり、ゆく。」の題で、宿坊の案内、動物性の材料を使わずにスイーツを作る「ナチュラルスイーツ教室」、
SHOGOさんのバイオリンをBGMに本堂で仏画の切り絵をする「仏活ワークショップ」とお寺の新たな取り組みが掲載。
御住職が若いことも理由ですが、安楽にしていてはお寺も立ち行かないので、日々精進されているようでした。

安楽寺説明書

安楽寺御朱印

北潟郵便局 ; 白山連峰、県指定文化財・安楽寺の金剛力士像、北潟湖の釣風景
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 休日フリーきっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR京都(6:28→6:37) → JR綾部(8:25→8:51) → JR西舞鶴(9:13)
JR西舞鶴 → 徒歩5分 →田辺城址 → 徒歩5分 → 桂林寺 → 徒歩5分 → 朝代神社 → 徒歩2分 → 円隆寺
JR西舞鶴(10:58) → JR東舞鶴(11:04→11:06) → JR青郷(11:19) → 徒歩30分 → 中山寺 → JR青郷(14:07)

青葉山 中山寺(真言宗御室派)
西舞鶴散策の後は舞鶴線の終点東舞鶴で舞鶴線から小浜線に乗換え福井県に入ってすぐの青郷駅で下車。
舞鶴線と小浜線は連続しており、どちらも電化区間ですが、東舞鶴から小浜方面への乗換となると途端に本数が半分に。
電化の際には京都や大阪から直通の特急が出るかと期待しましたが、それもなし。
若狭方面は関西でも海水浴や釣りのメッカ。大半の人は自家用車ですが、もうちょっと何とかならんのでしょうかね?

JR小浜線青郷駅
列車本数は少ないが、ロッジ風駅舎の有人駅である。
正面に見える標高699mの青葉山は別名「若狭富士」。丹後と若狭の境界をなす秀麗な容姿ですが、
この西の中腹にあるのが西国三十三ヵ所第二十九番札所松尾寺。そして東側の中腹にあるのが今回訪問する中山寺。
共に同じ青葉山の山号ですが、御本尊が馬頭観音というのも同じ。
山の中にあって中山寺とはそのままですが、私も【若さ】には縁遠くなって来たので躊躇していました。
今日は他に所用もあり、駅から坂道を30分。

青葉山雄姿

山門前に到着

山門近影

山門(仁王門)に安置される重文・金剛力士像 (境内の説明板)
平成3年にロンドンの大英博物館で一般公開され西洋の人々に絶賛されたとか。
青葉山中山寺(あおばさんなかやまでら)は、
『天平8年(736年)、聖武天皇の時代に白山開山で名高い泰澄(たいちょう)が開創。
創建当時は釈迦・阿弥陀・観音の三尊像を安置していたと縁起にある。
鎌倉時代になり天台僧の覚如法印が寺名を一乗寺と改め、馬頭観音坐像を本尊として再興。
室町時代になって今の中山寺に改称した。

山門から石段を上り境内へ

石段の先に本堂が見える

境内の様子
本堂の奥の道路を進むと直ぐに野外施設「青葉山ハーバルビレッジ」がある。

由緒記
本堂は桁行・梁行共に5間の入母屋造檜皮葺で内部を内陣・外陣・脇陣に分けた
密教系本堂の構成を持つ重要文化財。室町時代の康永2年(1343年)の建立である。
本尊馬頭観音は秘仏。檜の寄木造で79.3㎝、鎌倉時代の重文とされ湛慶の作と伝わる。
境内からは若狭湾が一望でき、このような場所に寺院が建立されたのは、
当時の若狭と大陸との交易の産物であったと考えられる。』 とあります。

重文・本堂

本堂拝観は左の扉から

本堂前面の蔀戸
北陸観音霊場では発願、若狭観音霊場では結願の名刹である。

本堂の檜皮葺と木鼻、垂木
山門から中に入り石段を上ると重文の本堂が正面に。成程、中世の構造というのがぴったり来ます。
見学した後、御朱印を拝受すべく寺務所へ向かうと、「拝観受付」の文字が。
伺うと本堂内陣で参拝できるそうで、¥400を支払って御住職夫人から説明を受けました。
本尊の御開帳は2029年だそうですが、脇立ちの不動明王・毘沙門天は間近で拝観できました。
山門前、境内の端に立つと由緒通り若狭湾が手に取るように見て取れます。
小浜が貿易港として発展したのは南北朝時代以降ですが、港としての機能は随分昔からあったようです。
その理由の一つが若狭富士という呼び名。古代では陸地を見ながらの航海ですが、
富士と呼ばれる秀麗な姿は遠くからでもはっきり見えたに違いありません。

重文・馬頭観音像 (境内の説明板)

本堂前の鐘楼と杉や椎の巨木群

御朱印は本堂横の持仏堂にて
阿弥陀如来坐像、曼荼羅、孫文・魯迅の書など所有しているが、内部は拝観できず。

境内から見た若狭湾

中山寺説明書 (拝観時に拝受)

中山寺御朱印
もう一つは馬頭観音。中山寺はじめ青葉山西側の松尾寺、東の高浜町の馬居寺、
上中町の天徳寺と馬頭観音を本尊とする寺院が犇めきます。本堂拝観時に伺った話では、
「高浜の奥にいた漁師が海で遭難した際に、材木にしがみついて命を救われました。
その木が馬になって漁師を陸地まで運んだという伝説が残っています。」との事。
同じ本尊を祀る寺院が点在するのは、同じような信仰形態が付近に存在した証左でもあります。
材木が馬に変わったかどうかどはどちらでも良い話です、と言っては観音様に【罵倒】されそうですが…。

高浜町マンホール蓋

高浜町マンホールカード
配布場所は高浜町上水道センター

旧丹後街道沿いに建つ菓子司「大次郎」
看板と店の造りに惹かれて立寄り。

帰りの車中でのおやつ
「六方焼」「大次郎餅」が売れ筋の双璧だそう。いずれもサッパリした甘さ。

青郷郵便局 ; 重文・中山寺本堂、馬頭観音坐像、青葉山
[参考書]
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三方五湖を見下ろす梅丈岳
敦賀宿泊の翌日は西に向かいレインボーラインから梅丈岳山頂へ。
山頂からは三方五湖が一望できます。この辺りは福井でも有名な梅の産地ですが、
五湖の中の淡水湖三方湖は「口細青鰻」と呼ばれる天然鰻の産地。
両方ならば食い合わせとなってしまうので、今回は「徳右ェ門」で昼食。
しかし近年の不漁で値段は庶民の【みかた】とはいきませんでした。

左が日本海。右奥に久々子湖、手前に日向湖が見える

右は、最大の水月湖、その奥は菅湖

水月湖と奥に見える三方湖
三方湖は淡水で、そこで採れる鰻は「口細青鰻」のブランド名がある。
その後は、鯖街道の宿場町熊川を散策。
南北朝時代から小浜は港として栄え、小浜から京の都に物資を運ぶ道となりました。
行き交った品物の中で有名になったのが鯖。
小浜で塩処理をすると京都に着くころには丁度いい塩梅になっていたそうで
それが街道の別名になったと言います。
西国巡礼で丹後から近江へ向かう道もここを通ることになりますが、
巡礼街道とは呼ばれなかったようです。信仰よりも食い気でしょうか?
かつて浅野長政によって交通の要衝とされた熊川は鯖街道の起点小浜から15㎞。
鯖は腐り易いので、ここで宿泊はしませんが、荷物を受け渡して京へと向かったようです。
鯖街道きっての宿場町として栄えますが、明治になって鉄道敷設から外れたため
発展が遅れ奇跡的に街並みが残りました。東海道の関も同様です。
20年以上前には殆ど訪れる人もいませんでしたが、今は道の駅やら、
宿場の古民家を改装した土産物店やらカフェができており、観光客も増えました。
俗化したとも言えますが廃村にならずに済んだのは幸いとも言えます。
熊川の名産は和紙と葛。どちらも水が欠かせませんが、
宿場内を流れる前川は小さいながらも平成の名水百選。
家ごとに「かわと」と呼ばれる水利施設を設けており、
野菜や食器を洗う場所があるのは近江の針江地区と似ています。
1990年代に訪れた際には宿場を歩く人も疎らでしたが、いまはそれなりの人通り。
丁度宿場の入口に道の駅があるのも追い風にはなっているようでした。

熊川宿入口にある説明板

宿場東端にある「熊川番所」
かつては「入り鉄砲に出女」の統制と物資への課税が行われた。

番所にある役人の復元人形

中ノ町付近
左は旧逸見勘兵衛家住宅。伊藤忠商事二代目社長・伊藤竹之助の生家。文化財だが見学の他、カフェとしても利用できる。

下ノ町付近

小浜寄りの下ノ町から今津方面を見た所

宿場内を流れる前川
平成の名水百選。水流を利用した里芋の皮剥き車。

小浜線三方駅、上中駅スタンプ
2006年にJR西日本管内で一斉に新調された際には設置されなかったが、その後、支社独自に設置。しかし、すぐ回収されたといういわく付きの幻のスタンプである。

三方郵便局 ; 三方五湖、しば舟、三方梅
熊川郵便局 ; 熊川宿、鯖街道
[参考書]
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<コース>
JR大阪 → (新快速) → JR敦賀 → 徒歩15分 → 気比神宮

気比神宮(官幣大社 若狭國一之宮)
正保2年(1645年)建立の重文・大鳥居。高さ11m、幅7.5m。佐渡の気比領から献上されたムロの大木から作った。
家族で敦賀の民宿に行くことになり、チェックイン前に市内を散策。
先ずは町の守護神気比神宮へ。伝説では仲哀天皇の頃の創建と伝わりますが、
上代から信仰されたのは確実。
仏教伝来前は後背の天筒山を磐座(いわくら)として愛発の関まで管理下に置いていました。
中世には越前平泉寺と並ぶ勢力を誇ったと言います。
南北朝時代の1337年には北朝方に敗れ、戦国時代の1570年には織田信長に敗北。
24万石の領地を没収され衰退しますが、江戸時代には復興され松尾芭蕉も訪れました。
交通の要衝のため戦災は絶えませんでしたが、明治期には官幣大社となります。
不死鳥の如く蘇ったのは流石といえます。
いまの社は幹線道路に面していますが、かつては港に入る船の
目安にもなったのではないかと思われる場所でした。
奥の細道に記された社は港で人を【待つ御場所】だったのかもしれません。

戦後再建された外拝殿

境内にある芭蕉像
元禄二年八月に訪れ、”月清し 遊行の持てる 砂の上” の句を残す。

気比神宮御朱印
墨書が日付だけというもの古社の特徴か?
古代においては唐、新羅、渤海との交流は、
① 九州 → 瀬戸内海 → 畿内
② 敦賀 → 近江 → 畿内
のルートがあり、現代に比べて遥かに日本海側の役割が重要視されました。
特に中間に琵琶湖があることで物資の輸送が容易であったのでしょう。
継体天皇は越の国から大和に入りましたが、
背景には交通ルートを抑えて実力を蓄えたのだと思われます。
江戸時代には西回り航路の発達で衰退しますが、明治になると外国航路が開通。
また日本海側初の鉄道が敷設された場所でもあります(明治15年長浜~金ケ崎開通)。
新快速も大阪から直通なので便利な穴場といったところでしょか。
杉原千畝の「命のビザ」所縁の地であり、当時の施設等を活かした街づくりが進行中でした。
尤も子供たちは、市内観光よりも釣った魚を天麩羅にして食べたのが一番楽しかったようですが。

港に停泊中の巡視艇

旧敦賀港駅舎
かつての駅舎を平成11年に再現し、現在は敦賀鉄道資料館。欧亜国際連絡列車が走ったというのも驚き。

メインストリートにある銀河鉄道999のメーテル像

子供たちが釣ったカタクチイワシの天麩羅

敦賀市マンホールカード 配布場所はこちら

敦賀結城郵便局 ; 気比神宮大鳥居、境内の芭蕉像、色ヶ浜の芭蕉句碑
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週刊 神社紀行 40 気比神宮 気多大社 若狭彦神社 北陸道の古社をめぐる 中古価格 | ![]() |

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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
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【往路】JR東京(23:10) → (快速ムーンライトながら) → JR大垣(5:45→5:53) → JR米原(6:27→6:50) → JR敦賀(7:36→7:41) → JR福井(8:38→9:08) → JR越前大野(10:05)
(駅レンタサイクル) → 善導寺 → JR越前大野(11:29) → JR福井(12:22→13:12) → JR武生(13:32) → レンタサイクル → 寺町・越前国分寺 → 今立・越前和紙の里
【復路】JR武生(17:06) → JR敦賀(17:36→17:49) → JR大阪(20:13)

金光明四天王護国寺(天台宗)
今は合併で越前市と言う名前ですが、以前は武生市。近世城下町の前は越前国府でした。越路の入口として古くから栄え、弥生時代の遺跡も見つかっています。
平安時代には紫式部が父親の関係で一時期居住した事があり、式部の町としてアピール。
当時の越前は今の加賀まで行政区に含んだ大国で、国分寺の規模も国内屈指のものだったようです。
当時の名は金光明四天王護国寺と呼ばれ、聖武天皇御宸筆の金光明最勝王経を七重三塔に納めたと言われます。
薬師如来は行基菩薩の一刀三礼の御作で、聖武天皇御礼拝の故事により天拝と称されました。
行基も古代史上の仏教界のヒーローですが、その姓は高志。越の国に所縁があったと考えるのが普通なので越前国分寺に仏像があっても荒唐無稽とは言えません。
駅の西方に寺町が集中していますが、その一角に非常に狭い敷地を持った場所が探す国分寺。すぐ南には総社があります。

駅西側の寺院が林立する地区

道路から見た国分寺
往時の面影はない程に小さくなっていますが、紛れもなく律令時代の後継寺院で越地域の文化に寄与したのは明らか。
若い御住職の話では、度重なる火災で堂宇は烏有に帰した上に場所も移動しているようでした。現在の本堂と庫裏は大正末期の建築との事。
それでも行基作の薬師如来が難を免れたのは奇跡的。今も本堂中央に祀られていますが50年に一度の御開帳なので目にする機会は少ないでしょう。
寺内町の一番奥にあるのが一際大きな引接寺(いんじょうじ)。天台真盛(しんせい)宗の別格本山で江戸時代の武生はこの寺の門前町として発展をしてきたとの話でした。
同じ天台宗ながら国分寺を差し置きトップにのし上がった訳ですが、天台真盛宗の本山西教寺に次ぐ格式を有したことが大きかったのではないでしょうか。

本堂近影

由緒書

本堂の扁額

国分寺説明書

越前国分寺御朱印
年配の御住職の書。

越前市東方にある岡本郵便局
越前和紙の里の中にあり街並みにならった造り。

越前市マンホール蓋

越前市マンホールカード 配布場所はこちら

今立郵便局 ; 桜の名所・花筐公園、越前和紙手漉き風景
岡本郵便局; 重文・紙祖神の大滝神社、越前和紙手漉き風景

武生深草郵便局 ; 市花・菊の外枠に日野山、龍泉寺越前東照宮の三木像、菊の花
武生桂郵便局 ; 市花・菊の外枠に松並木、町用水
[参考書]
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国分寺の誕生: 古代日本の国家プロジェクト (歴史文化ライブラリー) 新品価格 | ![]() |

国分寺跡を巡る ~色なき風に誘われて 僧寺・尼寺全国一三七ヶ所の記憶~ 新品価格 | ![]() |

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【往路】JR東京(23:10) → (快速ムーンライトながら) → JR大垣(5:45→5:53) → JR米原(6:27→6:50) → JR敦賀(7:36→7:41) → JR福井(8:38→9:08) → JR越前大野(10:05)
(駅レンタサイクル) → 善導寺 → JR越前大野(11:29) → JR福井(12:22)

光明山 悟慎院 善導寺(浄土宗知恩院派)
東京から臨時快速に乗って帰阪。大垣着5:45と早朝なので米原から北陸に抜けて10時過ぎに越前大野へ。
土井氏の城下町として知られる奥越の小京都、金森長近が天正4年(1576年)に城郭と街づくりを開始。長近転封後の天和2年(1682年)には土井利房が城下町を整備しました。

JR越美北線越前大野駅舎
奥越の小京都に相応しい落ち着いた造り。

駅清水
駅を出てすぐ右手にある名水スポット。散策の始めはここで喉を潤す。
70mの亀山に聳える越前大野城は宛ら空に浮かぶ城。天空の城と言えば但馬の竹田城が独占していますが、ここと備中高梁の松山城もその名に恥じません。
唯、35℃を越える気温のため今回は断念。霧が発生する秋が見頃でしょうか?

空に浮かんだ大野城
このあたりでは「おしょうず」と呼ばれる清水が湧出。町を歩くと至る所に水場があって猛暑の時期にはありがたい存在です。
イトヨの里を訪問した後、七日町通り、寺町通と巡礼。武家屋敷は城の周囲に、寺は東側に南北方向に配置。その間に町家がある構造になっています。
有事の際には境内に兵を駐屯させる防衛上のためでしょうか?
そのうち外堀にある旧内山家と旧田村家は大野藩家老の屋敷。
幕末時点ではどこの藩も借金を抱えていましたが大野藩は無借金。これは全国250余りの藩でも唯一だそうで、藩政に携わった人間に人材を得たといえるでしょう。

七間通り(七日町)
大野城に続く大手道でかつての街並みが残る。また400年続く朝市が開催される場所でもある。

七間通りの南部酒造場
登録文化財の造り酒屋で「奥越前の水」も販売

南部酒造脇の七間清水
ここでも一服。

大野藩札両替所と郵便発祥の跡

石碑

武家屋敷近くにある水舟清水
奥に見えるのは平蔵。

武家屋敷旧内山家

内山家門

武家屋敷旧田村家

田村家住宅

内山家裏手を流れる水路
市内にはこのような水路があちこち流れる。
観光ガイドに載っている寺院は市街地から5㎞以上離れており、今回は街中巡礼。街並みに溶け込んだ伽藍が並びますが、藩主の菩提寺に敬意を表して参拝。
光明山悟慎院善導寺は寺町の北方面の寺院。寺町の寺院はどれも広い敷地と門が特徴ですが、ここは一際立派で上級武士の屋敷のような感じでした。

寺町通り
北から南を眺めた所。両側には9宗派16カ寺が並ぶ。

長勝寺(浄土真宗)
石灯籠通りと寺町通りの交わる場所にあり長い塀が特徴的。

長勝寺門前にある親鸞聖人像

善導寺山門
長勝寺と寺町通を挟んだ向かいにある。
御住職に伺った話では、はじめ筑後に開かれた善導寺が嚆矢で名前を貰ったようです。
善導の名は唐時代に浄土宗を開いた善導大師に由来すると思っていましたが、生半可な知識は怖いですね!
縁起に拠れば、
『室町時代の永禄元年(1558年)、筑後の善導寺より布教に来た大誉鏡山(だいよきょうざん)和尚が大野で説法を行った所、
地元の領主土屋正明の帰依を受け、逗留するために堂宇を建てたのが始まり。』
とされます。
創建の地は本願清水付近でしたが、その後現在地に移転。殿様の寺として親しまれましたが、奥越で浄土宗はこの一ヵ寺のみ。
北陸は曹洞宗や浄土真宗が強い土地柄だからでしょうか?
為政者が信仰する宗派を人民に押し付けたり、人民が殿様の宗派に改宗したりすることはありませんでした。
これが日本で悲惨な宗教戦争が殆ど起こらなかったとすればこれも御仏の【善導】と言えるでしょう。

山門近影

山門から見た善導寺境内

善導寺本堂

本堂正面

本堂の扁額

一際大きな境内の梵鐘

境内の開祖法然上人像

善導寺説明書
自家製の由。

善導寺御朱印

大野市マンホールカード 配布場所はこちら

おやつは名産「水まんじゅう」

大野元町郵便局 ; 天然記念物・イトヨ、名水百選・御清水、市花・コブシ、大野城
大野春日郵便局 ; 天然記念物・イトヨ、イトヨ生息地碑、市花・コブシ
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
つはもの共が夢の跡、越前に花開いた朝倉文化 (2018.8.30)
<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪 → JR京都(7:00) → JR近江今津(8:07→8:13) → JR福井(9:47)
福井駅東口(10:00) → (京福バス 一乗谷東郷線) → 復原街並(10:28)
一乗谷には上記路線バスに加え 「一乗谷朝倉特急バス」もある
【復路】JR一乗谷(12:06) → JR福井(12:22) → 市内散策 → JR福井(16:45) → JR敦賀(17:36→17:49) → JR大阪(20:13)

一乗谷朝倉氏遺跡 入場料¥210
復原町並の中央を南北200mに亘って続く道路。
8月最後は北陸へ。
戦国時代に都以外に栄えたのは、山口の大内文化、駿府(静岡)の今川文化と一乗谷(福井)の朝倉文化。
福井市街の東南10㎞、足羽川支流の一乗谷川に沿って幅500m、南北5㎞に亘り城下町が形成され
最盛期には1万人もの人が住んだと伝わります。
山に囲まれた要害の地で交通の便はそれなりに良いのですが城下町の規模としてはこれ以上の発展は難しい。
そんな場所に何故城下町を作ったかですが、守護大名の大内・今川と違い、朝倉氏は守護斯波氏、守護代甲斐氏から
下克上で支配者になった一族。周囲には豪族・一向宗が犇めく状況。一乗谷から徐々に制覇を狙ったのでしょうかね。
初代孝景(敏景)は家訓「朝倉英林壁書」を作り、5代目の義景は京都から将軍一族や文人を迎え文化的にも発展しますが、
守勢に入るとそれ以上の発展も難しくなるのもまた事実。1573年に織田信長によって滅亡。
一乗谷は信長方の平泉寺衆徒に拠り灰燼に帰しました。
1471年に初代孝景が一乗谷を築いてから義景まで103年の栄華ではありました。
一国の興亡は政治的な発展の後に文化が発達するというのが一般的パターン。
上記の3政権も全国統一を前に文化的爛熟を迎えたため、近世大名として残ることはありませんでした。
大内、今川文化は政権が変わってもその場所が近世城下町→県庁 と続きますが、
一乗谷は柴田勝家が北ノ庄に城を築いたため衰退。北ノ庄は勝家が滅んだ後も城下町として発展。
但し「北」の字には負ける・背くという意味があるため「福が居る」という福井に改められ今日に至ります。
一乗谷は江戸時代には農地となりましたがそのため保存状態も良好。日本のポンペイ遺跡みたいなもの。
城下町として残らなかったが故に、戦国の遺構が残ったとも言えます。

福井駅構内にある写真撮影用のモニュメント
国鉄時代より福井駅といえば「永平寺」であったが、今は寺よりも恐竜の方が集客を見込めるからか?ちなみに恐竜博物館があるのは勝山市。

巡礼スタートの福井駅西口
駅前には恐竜のモニュメントがあり、北陸新幹線開通を見越してか以前に比べて広く綺麗になった。

一乗谷入口付近の下城戸跡
長さ38m、高さ4m。石を組合せ見通せないように矩折状に造られている

一乗谷川の流れ
この川に沿って城下町が築かれた。

復原町並入口よりの眺め
これまでの発掘調査により町割りが復元した。

町並北橋より南を望む
左に有るのが武家屋敷。

復原街並武家屋敷の庭

復元甲冑の展示

武家屋敷の復元内部
将棋をしている図。遺跡から将棋の駒(酔象)が出土したと「街道を往く」にあった。武将が床几に腰掛けるのならばいざ知らず、将棋に夢中とは無精な…。

武家屋敷での炊事の様子(台所)

復原町並
これは小規模な職人等の町屋の復元

復元町家と庭

武家屋敷に比べ質素な町屋内部

町屋外観
屋根は板葺きでごろた石を置く。

諏訪館跡庭園
5代義景が妻の「小少将」のために造ったと言われる一乗谷で最大の池泉回遊式庭園。

諏訪館跡庭園近影

中の御殿跡
義景の母高徳院の屋敷跡と伝わる。土塁に囲まれ山側には2mの空堀も。

湯殿跡庭園
高台にあり4つの庭園のうち、最古とされる。やや荒々しい造りに特徴がある。

上から見た義景館跡
敷地6,500㎡、奥には唐門が見える。三方が土塁、残りが山という要害の地。主殿の他、茶室・厩・花壇まであったとか。

朝倉館跡と庭園

朝倉館跡庭園
京都の庭園の影響があるとされる。

朝倉館跡を巡る土塁

朝倉館跡入口にある唐門(朝倉館跡西門)
江戸中期に、朝倉義景の菩提を弔うために建てられた松雲院の三門

滅多に来ない越美北線の列車
これは12:05の福井行。次の登りは15:46。

JR一乗谷駅前のマンホール蓋
朝倉遺跡唐門から顔を出す「朝倉ゆめまる」。

福井市一乗谷マンホールカード 配布場所はこちら

東郷郵便局 ; 一乗谷朝倉氏遺跡の松雲院山門、諏訪館跡庭園
一乗谷郵便局 ; 一乗谷朝倉氏遺跡の松雲院山門

一乗谷の後の越前の中心は北ノ庄・福井へ移る。
現在の城址は県庁。

福井市内大通りのマンホール蓋
空襲と戦後の地震から奇跡的の復興を遂げた福井を表すフェニックスをデザイン。

福井市マンホール蓋 配布場所はこちら
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