<コース> 夏の青春18きっぷ + 長良川鉄道1日フリーキップ(¥1,300)
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岐阜(8:53→9:09) → JR美濃太田(9:44→9:56)
美濃太田(9:56) → (長良川鉄道) → 美濃市(10:27→11:16) → (観光列車「ながら」1号) → 大矢(10分停車) → 郡上八幡(12:16→12:22) → 美濃白鳥(12:47) → 徒歩8分 → 白鳥神社 → 美濃白鳥(13:26) → (観光列車「ながら」2号) → 郡上八幡(13:51→14:13) → 関(15:15→15:32) → 美濃太田(15:50)
【復路】美濃太田(15:56) → JR岐阜(16:35→16:49) → JR米原(17:39→17:47) → JR大阪(19:13)

美濃白鳥駅ホームに停車中の観光列車「ながら2号」
白鳥神社参拝の後は駅まで戻り、観光列車「ながら2号」で美濃太田駅まで。
行きの1号が北濃で折り返したもののようです。
長良川では鮎釣りの太公望が犇めていましたが、郡上大和付近でいきなり対岸に巨大な恐竜が出現。
なんだろうと思っていると、CAさんの説明で恐竜模型を製造している会社だと分かりました。
郡上八幡には食品サンプルを最初に始めた会社がありますが、
長良川鉄道沿線は模型造りに適しているのでしょうか?

「ながら2号」車内
折り返しなので「ながら1号」車内と変わらないのは【しゃーない】か!

昼を過ぎても長良川には太公望の姿が

いきなり恐竜が対岸に出現!
帰りの列車では行き程、イベントがありませんでしたが、
美濃市駅のホーム停車中の車体には個性的なキャラが。
車内説明で、さくらももこさん作の「GJ8マン(ジー・ジェイ・エイトマン)」とか。
初めは不思議な名前と首を傾げましたが、【ぐじょうはちまん】をアルファベットと数字で表したものと分かり納得。
文字通りGood Jobです。説明では、作者が頼まれもしないのに勝手に考えてみたそう。
漫画家として多忙を極めた方だったと思いますので、勿論【さくら】などではなく、
余程この町が気に入られたのでしょう。故人となられたので確かめる術はありませんが、
それにしてもこれだけ思いが強いのは、さくらさんが【清水】出身だからと勝手に納得した次第。

「GJ8マン」のラッピング列車
そうこうしているうちに列車は関駅に入線して17分待ちの間に最後の押印が完了しました。
結局、観光は美濃白鳥駅で下車した白鳥神社だけで、他は車窓からの眺めだけでしたが、
様々な列車にも遭遇し全八駅こんぷりーと。
ラリー開催から2週間であったため、スタンプの摩滅・汚れ、インク切れもなく、
理想状態で押印でき15時50分に始発の美濃太田駅着。郡上でグッジョブでした。
沿線にある刃物の産地・関では「鉄は熱いうちに打て」ですが、今回は「テツは新しいうちに押せ」を実践。
唯一の名産・関のうなぎを食べ損なった事が心残り。
押印にかまけていたためで、思わず「私バカよね~♪」と呟いた次第です。

関駅のスタンプ台

関駅で関駅・富加駅の二印を押印
黒・四角は史蹟、文化財を表す。

関駅で押印したコンプリート(完全制覇)印 と記念の缶バッチ
赤・六角はレジャー、スポーツを表す。

記念品には¥500以上のグッズ購入が必要なので、カレー¥600 × 2個購入
[参考書]
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美濃太田(9:56) → (長良川鉄道) → 美濃市(10:27→11:16) → (観光列車「ながら」1号) → 大矢(10分停車) → 郡上八幡(12:16→12:22) → 美濃白鳥(12:47) → 徒歩8分 → 白鳥神社 → 美濃白鳥(13:26) → (観光列車「ながら」2号) → 郡上八幡(13:51→14:13) → 関(15:15→15:32) → 美濃太田(15:50)
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白鳥神社(旧郷社)
白鳥神社を特徴付けるもう一つのものは、天然記念物になっている社叢。
入口の石碑にもその記載があります。その中でも、群を抜いているのが大欅(おおけやき)。
『御神木の大欅は白鳥神社の杜の中に実生し、千五百年の歳月を生き続けていた。
その旺盛な時代には樹高35m余、胸高直径2m余の堂々たる巨樹であり、
注連縄の張られた姿は誠に神々しく、近郷近在何処へ行っても見る事のできない
立派な御神木であり白鳥神社の誇りでもあった。

本殿横にある大欅の後継の巨木

御神木紀文碑

大欅の由緒記
平成の初め頃から樹勢が急速に衰え初め、樹木医や総代・氏子の必死の努力も空しく、
平成10年5月に樹木医より枯死の判断が下された。
永年に亘り白鳥の里を見守った御神木であったが、平成12年11月に根元から若干の樹幹を残し伐採。
この時、切り倒す作業を始めると晴天が俄かに曇り激しい降雨となったが、
伐採が終了すると雨は上がり青空になった。人々はこの時、残された切り株に神が宿ったものと信じ、
その幹に鞘を掛け永久に敬いこの切り株で往時の英姿を偲ぶ事とした。
現在、本殿横には後継の欅の巨木があり、同じく神宿る木として崇拝されている。』 とあります。

本殿横に建つ白鳥稲荷神社

白鳥稲荷神社由緒

稲荷神社の奥に広がる社叢
大欅に限らず境内には巨樹が散見されますが、社叢が保たれたのは豊富な水に恵まれたから。
郡上八幡と同様、この白鳥町も水の街のようで境内にも池が満々と水を湛えていました。
御神木として地域の人々を見守った大欅も残念ながら寿命には勝てなかったようですが、
その後継木があるので、今後はその木が地域を見守り続ける光景が見られることでしょう。
唯、このような社叢を長良川鉄道の車窓から眺めることが出来ないのは残念ですが…。

境内にある池

豊富な水が育んだ社叢

拝殿、本殿と奥に続く社叢

稲荷への参道の両側から迫る巨樹
[参考書]
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白鳥神社(旧郷社)
昔ながらの町並みを抜け、清冽な水路を横に見ながら10分程歩くと、大きな鳥居が。
白鳥神社は、
『社伝に拠れば、仲哀天皇の時代この地に1羽の大きな白鳥が飛来。
数日に亘り上空を舞い飛んだ後、森の梢に1枚の羽を残して飛び去った。
村人たちはこの白鳥を日本武尊であったと考え、羽を祀ったのが嚆矢とされる。

入口に建つ木の鳥居と社叢

鳥居脇にある白鳥おどりと社叢の石碑

力石

帽子を被った貴婦人の様な常夜燈
また別の由緒には養老6年(722年)、都から美濃へ入った泰澄が白山に帰る途中、
この付近で空を舞っていた白鳥が舞い降りて天女の姿になり、
「これより北五十町に霊地あり、必ず伽藍を建てるべし。」 と告げて再び飛び去った。
此の地を霊地と感じた泰澄は白鳥寺を建立、その境内に白山頂上に祀る伊弉冉尊を勧請して
白鳥社を創祀したのに始まるとされ、日本武尊と伊弉冉尊を合祀したと言う。

鳥居の奥に見える拝殿

拝殿遠望

拝殿近影

拝殿前面の組物と彫刻

横から見た拝殿
その後、室町時代の足利義政の頃、当社永久保存のため地頭遠江佐倉は田7段を奉納。
慶長年間に白鳥寺は廃寺となったが神社は存続し、嘉永5年(1852年)に
越前志比の名匠大久保吉郎右衛門に拠り今の本殿が建立。
彫刻は尾張の名人瀬川治助重光の手になり、本殿裏手の欅の巨木1本から造ったとされる。
明治4年(1871年)に郷社に列し、同40年(1907年)には境内社として稲荷神社が創建されている。
同年の白鳥大火では拝殿焼失の被害を受けたが、
本殿は氏子と町内の人々の必死の努力で類焼を免れている。
焼失した拝殿は明治末年に越前志比の大工大久保作左右衛門が再建している。』
とあります。

後方から見た拝殿

拝殿の奥に建つ本殿

本殿と大欅

正面から見た本殿
但し、見えているのは本殿の覆い堂である。

本殿中門の欄間彫刻
由緒は仲哀天皇と泰澄と時代も人間も【たいちょう】的ですが、共通項は「白」。
歴史学で引用される加上説に従えば、より遅い泰澄の由緒が事実に近いとなります。
後に、中央との関りを持ちたいと願った人達が、白山を白鳥に変え、
御祭神を日本武尊にしたのではと想像を【かくちょう】してしまいます。

中門の屋根

本殿

本殿の彫刻

本殿

由緒記
[参考書]
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美濃白鳥駅舎
郡上八幡を出発して、美濃白鳥駅で下車。
駅スタンプは最北の北濃までありますが、無人駅のため、ここ美濃白鳥駅で管理。
この日の長良川鉄道での最北駅となりました。
ここで次の上り列車まで39分。観光らしき事を何もしていなかったので、白鳥神社へ参拝することに。
この日、唯一の観光を敢行しました。

待合室の天井

改札外に設置されたスタンプ台

押印した美濃白鳥駅スタンプ
黒・四角は史蹟、文化財を表す。

同時に押印した北濃駅スタンプ
黒・丸は自然景観を表す。
神社までは8分程度ですが、町を歩くと街道沿いに醸造元などの
昔【ながら】の町並みが残り、道路脇に水路が流れています。
これは単に郡上八幡の二番煎じではなく、この辺りの地形を有効活用した結果、
似た景観になったのでしょう。同じような事は飛騨高山と飛騨古川にも見られます。

美濃白鳥駅舎全景
駅前からは、JR九頭竜湖駅、郡上八幡、石徹白(いとしろ)方面へのバスが発着。

街道沿いの家屋

和風と洋風の建築

街道沿いの醸造元

醸造元玄関に掲げられた看板
時代を反映して右書き。

蔵元の脇にある門
ここからできた酒を運んだか?

白鳥神社への道
道路脇を水路が流れる。
加えて駅舎を出ると「白鳥踊り」の垂れ幕が。郡上踊りは有名ですが、白鳥踊りとは初耳。
郡上踊りが有名なので真似をしているように思い勝ちですが、昔から行われている盆踊り。
辺りが盆地なので盆踊りという訳ではないですが、郡上八幡同様、地元に根差した文化です。
「白鳥の湖」を連想する人もいるかもですが、これは盆地ではなく谷間(バレー)でしょうね!

駅前商店街の幕

駅前に建つ「白鳥おどり」の像
郡上おどりと同じ、徹夜踊りだそう。
[参考書]
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郡上八幡駅舎
大矢駅で停車後は、ながら1号は郡上八幡駅までノンストップ。
ここで後ろの鮎号を切り離し、森号のみで更に北上。切り離しの時間が6分あったので、
すかさず押印して車両に戻りますが、ホームは一見の価値あり。

ホームでの切り離し作業
鮎号(左)と森号(右)。

改札外に設置されたスタンプ台
12時過ぎのため、郡上八幡駅&大矢駅 の2印が置かれていた。

押印した郡上八幡駅スタンプ
赤・五角は、風俗、祭、行事を表す。
長良川鉄道は本州最長の三セク鉄道で国鉄時代の古い駅舎が、
今も保存されている駅舎マニアには聖地のような場所。
特にここ郡上八幡は単に古びた駅舎ではなく、芸術性を持たせた入口や待合室、
駅長室にもそこはかとない郷愁を感じます。
唯、文化財になっているため改築はできないので、不便さは致し方ないのだそう。

跨線橋

1番ホームに停車中の列車

昔ながらの駅長室

駅長室前から美濃太田方面を見る
長良川鉄道をはじめ天竜浜名湖鉄道、若桜鉄道等古い駅舎が残っている路線は多いですが、
これは意図的に残そうとしたのではなく、失礼な言い方ですが駅舎を建て替える余裕がなかったからでしょう。
こんなお荷物とも言うべきものが、脚光を浴びるとは想像すらしていなかった筈。
JRではなく、3セクになったが故に改築できなかったのが幸いしたようです。

改札口

待合室

1両になった「ながら森号」で北濃に向けて出発
[参考書]
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観光列車「ながら1号」の車窓から
深戸~相生間、左に見えるのは東海北陸道。
ながら1号で移動し【ながら】押印する旅ですが、列車は清流長良川に沿って北上。
郡上八幡駅まで、美しい車窓を眺めながら合計6本の橋梁を渡ります。
ながら1号にはCA(カルシウムではない!)の方が乗車されて、沿線の見所を説明。
景色の良い場所では停車して写真撮影もできました。観光列車の特典と言えます。
川は北上するといっても蛇行している訳で、大きくU字型に曲がった岸には
前年の大雨で流された大木が未だに岩に引っ掛かっていました。
河口の岐阜市内と異なり、鉄道から見える長良川は川底まで見える透明度。
四万十川と並ぶ清流と呼ばれるもの納得です。

湯の洞温泉口を過ぎた最初の橋梁から

八坂駅を過ぎた第二橋梁上から
正面に見える赤い橋は勝原橋。

長良川が大きく湾曲する美並町白山付近
福野~美並苅安間。

U字に流れる長良川

岸に引っ掛かった大木

川は湾曲を過ぎ北上
長良川と言えば千年の歴史を誇る鵜飼の鮎が有名ですが、あれは下流での話。
太公望にとっては、やはり上中流での友釣りが醍醐味でしょう。鮎は1年で生涯を終える魚。
幼魚の時期は昆虫を主食としますが、成魚になると川底の岩に生えた藻類のみを食べます。
養殖した鮎と異なり天然鮎は釣った場所によって香りに違いがあるとか。
これも食用とする藻類の影響でしょうが、透明度が高い長良川では
藻類も盛んに光合成を行って成長する事が預かっているようです。

赤池付近

この辺りになると岸辺に岩場が目立つようになる

赤池駅を過ぎ橋梁を渡る

深戸駅を過ぎて
東海北陸道は川を通り山田トンネルへ。

深戸トンネルを抜けた東海北陸道

長良川に架かる東海北陸道橋脚

遠ざかる橋脚を見ながら列車は八幡町へ
丁度、解禁の時期なので川は鮎を狙う人達でいっぱいでした。
鮎は己の縄張りを持って行動しますが、釣り人も自分のエリアを守って竿を垂らしています。
縄張り式は魚も人も変わらんようで面白みを感じます。
こうして長良川に沿って景色を北濃ならぬ堪能しつつ郡上八幡駅へ。
現在ならばトンネルや高架を使ってもっと短い路線にするでしょうが、
国鉄時代に敷設された故に、古の街道に沿った形。
やはり長良川は【うかい】して見る価値がある川でした。

八幡に近付くと太公望もチラホラと

川が曲がる場所にも太公望の姿が

こちらは「ながら1号」を撮影するマニアの人達

郡上八幡駅の手前にて

郡上八幡駅の手前のこの場所からは白山が遠望できるそう
[参考書]
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大矢駅ホームでは円空仏(複製)がお出迎え
今は郡上市だが平成の大合併以前は郡上郡美並村であった。
ローカル鉄道は、全てではないものの単線・非電化が特徴。
大都市圏では会えない光景を目にする事ができます。
その一つが駅での行き違いの列車待ち。駅によってはタブレット交換がありマニアには垂涎の的。
また待ち時間に押印する事もでき、スタンプマニアにとっても重宝されます。
今回乗車した「ながら号」もその例に漏れませんが、
特急などは停車駅以外では行き違い駅でもドアを開けずに停車するだけ。
「ながら1号」も、途中の大矢駅での行き違い待ちがありましたが、
何と下車して駅舎を散策でき、停車中は「鮎号」の車内にも入れるとの事。
ここでの待ち時間は時刻表にも記載されておらず思わぬ収獲。
大矢駅には復スタンプが設置されていますが、マニアならずとも嬉しい話です。

ながら1号とホームで記念撮影

レトロな雰囲気の大矢駅舎
鉄道資料は建家の右側にある。
『大矢駅は国鉄時代には美濃下川と称し、一時は越美南線の終着駅であった。
3セク転換時に改称され、交換設備、木造駅舎も残るが駅員配置はない。
駅舎では時間を決めて鉄道関係資料を展示している。
駅の属する旧美並村は円空のふるさととして知られ、ホームには複製の円空仏が並ぶ。
また「日本真ん中の村」として売り出し、駅から800mの地点に人口重心碑が建つ。』 とあります。
先ずは下車して押印。図柄は長良川の鮎ですが、そういえば途中に観光簗があったのを思い出しました。
長良川と言えば鵜飼も含めて鮎ですが、スタンプ説明では農業遺産になっているそうです。
でも農業遺産って何でしょうか?
手元の鉄道関係の書には、無人の時期もスタンプ設置の記載が。
普通では考え難いですが、かつての終着駅だったので執着があるのでしょう。

ホームの円空仏近影
円空さんが入寂した寺院が沿線にあるとか。

押印した大矢駅スタンプ
赤・丸は動植物を表す。
続いて入った観光列車鮎号の内装は同じく水戸岡鋭治氏のデザイン、
私の乗車した森号との差と言えば、席が少ないのとカーテンで仕切られている事。
食事をする車両なので当然ではありますが。
さて鮎号スタンプの押印を終えると、そろそろ列車が出発する時間。
駅舎内の鉄道資料は見ることができませんでした。
押印にかまけていたので無理もありませんが…。

観光列車「ながら」鮎号

鮎号の車内の様子
列車行き違いの停車中に撮影。

水戸岡鋭治氏デザインの鮎号ボックス席
簾と暖簾は和室調となっている。
向かいの線路には気動車が停車中。長良川鉄道のHPではナガラ600形とありますが、
旧国鉄時代のキハ28系に類似しており、見ると汚れもなく新しい感じ。
説明では1年前に製造した車両だそうで、新たなデザインを導入する鉄道会社では珍しいパターン。
スタンプだけでなく列車も復刻したようです。
そういえば窓に架かっている暖簾も森号と同じ。
沿線の郡上八幡の染物を基調にしている貴重なものでした。
鯉に濃い青色のデザインとは不思議でしたが、ここが【ぐんじょう】市であると知って納得です。

大矢駅に停車中の気動車

鮎号に設置されたスタンプ

押印した鮎号と森号のスタンプ

鯉と濃い青色の暖簾
[参考書]
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【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岐阜(8:53→9:09) → JR美濃太田(9:44→9:56)
美濃太田(9:56) → (長良川鉄道) → 美濃市(10:27→11:16) → (観光列車「ながら」1号) → 大矢(10分停車) → 郡上八幡(12:16→12:22) → 美濃白鳥(12:47) → 徒歩8分 → 白鳥神社 → 美濃白鳥(13:26) → (観光列車「ながら」2号) → 郡上八幡(13:51→14:13) → 関(15:15→15:32) → 美濃太田(15:50)
【復路】美濃太田(15:56) → JR岐阜(16:35→16:49) → JR米原(17:39→17:47) → JR大阪(19:13)

観光列車「ながら1号」
美濃市駅から1両目の「森号」に乗車。
かつてJRに「快速ムーンライトながら」という列車がありました。
国鉄時代の東京駅~大垣駅間の夜行列車の流れを汲む列車で、
・1996年3月16日から、全車指定席の快速として毎日運行、
・2009年3月13日からは、春・夏・冬期の臨時列車として運行
上り;大垣(22:49) → 東京(5:05)
下り;東京(23:10) → 大垣(5:50) 2016年4月時刻表
と夜行バスよりも遅く出発して、早く着く。
しかも指定席代¥510を払えば、青春18きっぷで乗車できるとあって、
その時期は凄い人気で発売日に即完売するような状態だったようです。

美濃市駅ホームに入線する「ながら1号」

1両目の「ながら 森号」のロゴマーク
私も何度も利用しましたが、最近では平成31年3月20日の「上り」で関東へ向かい、
3月23日の「下り」で帰阪。
単身赴任にお世話になった関東在住の同窓と会った後、同期とお嬢さんの演奏会を
21時過ぎまで聴いても十分余裕がありました。
そんな列車も2020年3月29日をもって惜しまれつつ廃止。常に満席なのに廃止と言うのも妙ですが、
鉄道関係者の話では、乗車賃のみの列車では少々満席となっても黒字には程遠いそうです。
これも時代の【ながれ】でしょうか。

「森号」入口付近の様子

入口に架けられた暖簾

郡上八幡の染物店で作成された鯉と濃い青のデザイン
JRの「ながら」は廃止されましたが、意外にも全く別の路線で「ながら」が復活。
国鉄時代の越美南線、民営化後は3セク「長良川鉄道」の臨時観光列車「ながら」がそれ。
今回は、青春18きっぷ+長良川鉄道1日乗車券(¥2700)で長良川に沿って北上。
私自身は観光列車に左程執着はありませんが、列車本数が限られているので、下り・上り双方を利用。

「森号」車内の様子
座席はボックス席で4人掛だが、密を避けてか2名利用となっていた。

窓は竹の簾と長良のロゴマーク

車内には沿線の特産品を展示
これは関の刃物。
観光列車は、食事付きというのが相場で、「ながら」でも
・ランチプラン ¥12,500
・スイーツプラン ¥5,800
となっており結構な出費。しかし乗車だけの
・ビュープラン ¥510
というのがあったのでこちらを予約。会社には殆ど貢献しないので心苦しいですが、
己の【身のおおた】選択だったと自負しています。

「森号」車内に設置されたスタンプ

「森号」スタンプと専用台紙

2両目レストラン車両「鮎号」のプラン

「鮎号」と「森号」のプラン
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<コース> 夏の青春18きっぷ + 長良川鉄道1日フリーキップ(¥1,300)
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岐阜(8:53→9:09) → JR美濃太田(9:44→9:56)
美濃太田(9:56) → (長良川鉄道) → 美濃市(10:27→11:16) → (観光列車「ながら」1号) → 大矢(10分停車) → 郡上八幡(12:16→12:22) → 美濃白鳥(12:47) → 徒歩8分 → 白鳥神社 → 美濃白鳥(13:26) → (観光列車「ながら」2号) → 郡上八幡(13:51→14:13) → 関(15:15→15:32) → 美濃太田(15:50)
【復路】美濃太田(15:56) → JR岐阜(16:35→16:49) → JR米原(17:39→17:47) → JR大阪(19:13)

越美南線 駅スタンプの旅 リーフレット
・荒波や 美濃の路線は 赤にしを 昔ながらの 駅の印かな 美濃の紙ただ糊
今回は、青春18きっぷ+長良川鉄道1日乗車券(¥2700)で長良川に沿って北上。
長良川鉄道の前身は国鉄時代の越美南線。今も福井県を走る越美北線からも分かるように、
かつては福井(越前)と岐阜(美濃)を結ぶ路線として計画されましたが、結局繋がらず。
鉄道マニアの間では婚約不履行型とされるものです。
その後、国鉄分割民営化に拠って、越美南線の方は第三セクター長良川鉄道に転換。
両者が繋がる機会は永遠に去りました。
元国鉄とはいえ、三セクとなった路線には18きっぷは使えませんが、
それでもここに向かう目的は7月16日に開始されたスタンプラリー。
通常のスタンプラリーは、図柄の無い駅名印やキャラクター印が主流ですが、
今回はなんと、越美南線時代の「わたしの旅」スタンプを二駅で復刻し、
加えて新たに主要六駅で同様の新印を設置するというもの。

越美南線時代の復刻印

3セク転換後の設置印
今は、小型・シシャチハタ化している。

美濃太田駅に設置された正式な「わたしの旅」印は高山本線

スタンプ帳付1日フリーきっぷ ¥2700
国鉄時代の駅スタンプ設置は戦前に遡りますが、大きな転換期は、
1970年に始まったDISCOVER JAPANシリーズ。全国の約2000駅にロゴ入りスタンプが設置され、
旅行ブームとも相俟って駅スタンプブームの火付け役となりました。
その後、1977年「一枚のキップから」が企画され歌も発売されましたが、前者程の人気は出ず。
続いて「いい日旅立ち」が企画されましたが、歌はヒットしたもののスタンプは更に輪をかけて不人気。
この低迷を打開するために1980年に始まったのが、「わたしの旅」シリーズ。
スタンプに「シンボルフレーズ」を導入、スタンプの色と形に意味を持たせる、
専門の押印スタンプ台を設置するという力の入れようでしたが、これが功を奏し、
以後は形を変えてもこの形が踏襲。国鉄時代の最後を飾るヒットと言えましょう。

美濃太田駅に設置された駅スタンプと押印スタンプ台

美濃太田駅スタンプ

押印した美濃太田駅スタンプ
黒・四角は史蹟、文化財を表す。

美濃太田駅で乗車した列車
これは二両目。
スタートの美濃太田駅で、フリーキップ購入と同時に専用スタンプ帳入手。
見ると直ぐ横にスタンプが設置されていましたが、驚くべきことにかつてのスタンプ台も復活。
美濃太田駅は越美南線ではなく高山本線の旅印が設置されていたので、再利用でしょうか?
とおもいつつ列車に乗って美濃市駅で下車すると、ここにも同じスタンプ台が。
美濃市は国鉄時代には無印だったので、これは間違いなく新たに製作した台と確信。
かつてこの台の製作には¥10万円程度費用がかかると聞いていたので、鉄道会社の意気込みを感じました。
過去に戻るとは【なんせん】すと言う向きもありますが、私は「なんとセンスの良い事!」と【えつみ】入った次第です。

美濃市駅では1両目から下車
クロネコヤマト宅急便と提携しているらしく、このようなラッピングに。

向かいのホームには上りの「チャギントン」列車が停車中

美濃市駅に設置の押印スタンプ台

設置された駅スタンプ

押印した美濃市駅スタンプ
紫・四角は伝統工芸、特産品を表す。

未だ真新しいスタンプ面
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR名古屋(9:14→9:24) → JR中津川(10:39)
中津川駅前 → 徒歩5分 → 中津川宿 → JR中津川(12:00)

中津川宿 (中山道第四十五番宿)
駅前に建つ石碑。
木曽路のスタートと並び中津川のもう一つの顔は「栗きんとん発祥の地」。駅前にも碑が建ちます。
『栗は縄文時代から重要な食用として知られ、萬葉集では山上憶良の長歌にも登場。
場所に拠っては年貢として納められたという記録も残る。
山間部であった中津川では山栗が多く収穫され、干栗・焼き栗・栗飯等の他、茹でた栗の中身を取り出し細かくほぐし、
茶巾で絞ったものを食べる事も行われた。これが栗きんとんの原型とされる。

石碑にある説明文

石碑脇にあるもう一つの説明文
加えてこの地方は煎茶が盛んで、近所付き合いに於けるお茶請けとしてこだわりの栗きんとんを出す様になって行く。
明治の中頃になって和菓子店が栗きんとんを商品化、現在に至るまで宿場を代表する銘菓となっている。』 とあります。
駅前の観光案内所「にぎわい特産館」に拠ると、コロナにも拘らずレジは行列。不思議に思って見渡すと、
三日前に今年の栗きんとんが発売となったばかりでした。

中山道沿いに建つ老舗和菓子店「すや本店」
右書きの看板に時代を感じる。

中山道沿いにある「栗きんとん」説明の駒札

西の横町にある「川上屋本店」
この季節になるとデパートにも並びますが、やはり産地の拘りがあるのでしょう。
街道沿いでは東新町の老舗「すや本店」が有名ですが、横町の御菓子処「川上屋」でも扱っていました。
唯、昼食には不向きなので特産館で栗おこわ(¥700)を購入、土産には「焼き栗きんとん」。
これを食べた後に、妻籠の庫裏に向かったのは言うまでもありませんが…。

昼食は「栗おこわ」

土産には「焼き栗きんとん」
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【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR名古屋(9:14→9:24) → JR中津川(10:39)
中津川駅前 → 徒歩5分 → 中津川宿 → JR中津川(12:00)

中津川宿 (中山道第四十五番宿)
四ツ目川橋上にて、本町から西新町方面を望む。
本町通りからは川を渡って西新町、東新町、淀川町を経て東入口の茶屋坂へと続きます。
宿場中央を流れるこの川の名は四ツ目川。
『この川は度々氾濫し、四度も川筋を変えたのでその名が付いたと言われ、そのため本陣は少し高い場所に建てられている。
江戸時代の宝暦元年(1751年)、寛政元年(1789年)、文化5年(1808年)に氾濫の記述が見られる他、昭和7年(1932年)には
中津川駅構内まで水が押し寄せ、街中を土砂が埋め尽くす程の被害を出した。しかしその時も本陣付近は被害を免れている。

四ツ目川の水害について

四ツ目川付近の道標

前田青邨画伯生誕之地の碑
東新町で、和菓子店「すや」の向かいに当たる。
東入口にある高札場は、かつては10m程坂道を上った北側に街道に面して建てられており、その規模は
長さ二間一尺、幅一間余りで8枚の高札が掲げられていたと享和元年(1801年)の記録にある。
中山道はここから大きく曲がり一里先の落合宿へ続く。』 とあります。

中山道淀川町から茶屋坂を見る

淀川町にある町屋を改装したカフェ

茶屋坂に建つ案内板

茶屋坂にある高札場
中山道はここで大きく曲がる。

高札近影
言うまでもないが、現代の復元。

高札場脇の常夜灯他の石塔群

高札場から中山道を西に見る

中津川宿概要
1時間余りの時間でしたが宿場の見所は一通り見学。近隣の馬籠妻籠に比べ宿場のイメージの希薄な中津川ですが
見応え十分。ここを過ぎると贄川宿まで木曽路が続きますが、藤村の言葉を借りるまでもなく街道は山の中。
街道を往還する人々は、中津川で英気を養ってから木曽路に挑んだに違いありません。そういった面では
東海道の小田原・三島に比肩するとも言えそうです。高札場で宿場全体を見渡しながら【考察】した結論です。

中津川市マンホール蓋

中津川市マンホールカード 「中津川市観光センター・にぎわい特産館」にて配布

中津川郵便局 ; 県重要民俗資料・恵那文楽の面、恵那山、落合大橋
中津川駅前郵便局 ; 中山道の石畳、水車の輪
[参考書]
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR名古屋(9:14→9:24) → JR中津川(10:39)
中津川駅前 → 徒歩5分 → 中津川宿 → JR中津川(12:00)

中津川宿 (中山道第四十五番宿)
横町の桝形を曲がると宿場の中心にあたる本町。
『かつては街道の真ん中を用水が流れており、この用水は野中の黒沢川から取水した第三用水で
宿内の火災に備えて敷設されたもの。用水では物を流すことも洗う事も禁じられたと言う。
そんな用水も明治13年(1880年)、明治天皇の御通行の折に埋め立てられ今に至る。

本町通りから横町の桝形を見る

町並みと桝形の説明板

本町通りから少し南に入った場所にある井戸

宿場町の用水
中津川宿は江戸から四十五番目の宿場で、本陣・脇本陣・庄屋と問屋場二ヵ所が置かれていた。
明治天皇行在所跡碑の西には江戸時代中津川村の庄屋屋敷、旧肥田家がほぼ江戸中期のままの屋敷、庭園を今に伝える。
代々「九郎兵衛」を名乗る肥田家の屋号は田丸屋、島崎藤村の『夜明け前』にも登場している。江戸後期から旅館業を営み、
明治26年(1893年)には日本近代登山の父、ウォルター・ウェストンが宿泊。5月11日にここから恵那山登山に出発している。
明治30年代になると曽我家がこの家を譲り受け、中津川で最初の開業医院となった。

中津川宿 本町の説明板

明治天皇中津川行在所碑

中津川村庄屋居宅
旧庄屋の肥田家(田丸屋)の建物で明治中期に曽我家が購入し医院となった。

旧庄屋居宅正面

庄屋居宅説明駒札 その1

庄屋居宅説明駒札 その2

屋根の卯建

本町通り(中山道)から南へ延びる道に面した旧庄屋居宅
塀の向こうには江戸時代からの庭園が残るが、一般拝観はない様子。
庄屋屋敷の向かいが本陣跡。大名・公家など高貴な身分の人が宿泊するためか、宿内でもやや高台にある。
街道に面して六軒分の長屋が並び、非常の折には裏口から西側の大泉寺へ避難できるように作られている。
脇本陣跡地には平成16年開館の中山道歴史資料館が建つが、その裏手には復元された脇本陣が展示されている。』
とあります。

本町通りの北側に面した本陣跡

本陣跡説明

本町通りの南側に面した脇本陣跡
歴史資料館の東に隣接している。

復元された脇本陣
宿場のメインストリートとはいえ、他より道幅が広く感じたのは用水を埋め立てた故。
天皇の行幸に合わせての事ですが、幼少の頃は御所近辺の子供と遊び長じても質素な生活を忘れなかった明治天皇が
一時的な行幸のために用水を埋めたとは考え難い。思うに周囲の御付の者たちが権威付けの為にした事でしょう。
後の統帥権の萌芽が見えるとするのは大げさすぎるでしょうか?

道幅の広い本町通り
ここを用水路が通ったか?

中山道沿いの町屋
手前の段差が用水路の名残か?
先の下町と異なり桝形から東の高札場まで中山道はほぼ真っすぐに1㎞程伸びています。本陣を始めとする施設が
集まっているのもここですが、残っているのは庄屋居宅のみ。本陣や脇本陣が残っていればさぞ壮観だったでしょうが、
東海道・中山道を問わず本陣がそのままの姿を留めているのは極めて稀。歴史用語では【本陣衰弱】となりそうです。
それよりも庄屋邸が残っている方に目を見張ります。横町にあった杉本屋・白木屋もそうですが、曽我邸も所有者が交代。
それにも拘らず家屋を取り壊さずに今に伝えているのは、単に自分の家というだけでなく宿場全体の景観を考えての事。
宿場のプライドは健在のようです。

真っすぐに続く中山道
桝形から本町通りを望む。

本町付近の略図
[参考書]
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR名古屋(9:14→9:24) → JR中津川(10:39)
中津川駅前 → 徒歩5分 → 中津川宿 → JR中津川(12:00)

中津川宿 (中山道第四十五番宿)
中山道、横町~下町の桝形。左は間酒造。
この夏最後の18きっぷの旅は中山道へ。
古くは大化の改新の頃の東山道に始まり、江戸時代の万治2年(1659年)に五街道の一つとして整備されました。
日本の中間の山道という事で「中仙道」と記されたこともありましたが、1716年に徳川幕府が中山道に名称を統一。
今でも両方の漢字が使われるのはこのような経緯からです。

JR中津川駅スタンプ
上 ; 国鉄時代のわたしの旅シリーズ 下 ; JR東海名古屋支社印
その中山道の四分の一相当が美濃国、今の岐阜県。128㎞に十七宿がありますが、中津川宿は
『中山道と飛騨街道が交差した交通の要衝。東美濃地区で群を抜く大きな宿場で商業の町として栄えた。
町並みは1,100mに達し、旅籠屋は大小29軒であったと言われる。
現在では中津川を東に渡った下町付近から本町通り、四ツ目川を経て新町を抜け茶屋坂の高札場までの
2㎞がメインの宿場で、江戸時代からの老舗店が残る一方で、古民家を利用した新しい店も登場し賑わいを見せている。

廣重・英泉 木曽街道六十九次 「中津川宿」の浮世絵

中津川宿の西の入口 下町界隈

下町付近の説明板
宿場の西の玄関口に当たるのが下町界隈で、なだらかな坂を上った先に建つのが「はざま酒造」。
江戸中期からの醸造を始め、霊峰「恵那山」の伏流水を仕込み水に使用した銘酒「恵那山」の蔵元。
併設のギャラリー「酒遊館」では昔の酒造道具を展示している。
はざま酒造の前の道をそのまま東へ進むと恵那山への道標が建つが、街道はそこから北へ曲がり
横町に入り更に東へ向かい中町へ入る。この界隈には昔ながらの家屋が残っている。

下町にある丸三間家「間酒造」

間酒造玄関
銘酒「恵那山」の看板が掛かる。

玄関に吊るされた杉玉

桝形付近からの間酒造の眺め

中山道から恵那山へ向かう道に沿って建つ酒蔵と式内恵那山道標

「式内恵那山道標」の説明
旧中川家(杉本屋)は中津川村の庄屋であった中川萬兵衛の広大な屋敷の一部で、旧清水町の通りもその頃はなく、
かつては遥か南東まで広がっていた。歌舞伎絵で知られる中川とも画伯は当家の出身。
明治期になって当家は原作吉の手に渡り呉服商、荒物商となったが江戸時代の面影を残す帳場はずっと残り、
映画「青い山脈」のロケが行われた事でも知られる。

横町にある旧中川家(杉本屋)

旧中川家説明

中川家の卯建
向かいの白木屋(横井家)は山科屋遠山林蔵の依頼に拠り、当家の祖先である宮大工・横井弥右衛門が
天保13年(1842年)建築。中二階に四畳程の隠し部屋があることでも知られる。遠山家は明治末に駅前に移住、
家屋は横井家所有となって今に至る。尚、移住した遠山家は駅前でうなぎ屋「山科」を経営している。
この地区は防火壁である卯建(うだつ)が残る数少ない場所であるが、通の端はいずれも桝形で敵の攻撃に対する
防御や退却方法として人為的に造られた。
本陣や脇本陣のある宿駅の中心部が直線的に見渡すことが出来ない工夫である。』 とあります。

白木屋(横井家)

白木屋説明
現在でも名古屋から中津川までは中央線快速も30分毎に運転、特急「しなの」も停車します。
市内には地場産業に加え大企業も進出し、周辺の市町村から働きに来る人も多いとか。
長野県にあった馬籠が県を跨いで中津川市に合併されたのは話題になりましたが、これも中津川へ
通勤するサラリーマンで人口が増えたことが背景にあったようです。

横町にある中山道の看板

横町の町屋の並び
白木屋(奥)と和菓子店川上屋本店
江戸日本橋から埼玉・群馬・長野・岐阜・滋賀を経て京都三条大橋に至る道のりは五街道の中でも最も長く
六十九宿、532㎞。それにも拘らず主要街道として栄えたのは、平野で大河が多かった東海道と違い、
高地が多く川留めがなかったためと言われます。
江戸時代の参勤交代では、百万石の前田家が利用した他、幕末の和宮が将軍家に輿入れした時にも中山道経由。
この時は、先頭行列が上松宿で最後尾が恵那宿だったとか。維新に向けて天皇家も【威信】をかけての事だったでしょうが、
旅人【泣かせんどう!】であった事は想像に難くありません。

松霞堂(可児家)
横町から中町の桝形に建つ表具店。樹齢160年以上の松の木がある。

可児家前から中山道を東に見る
ここからは1㎞以上に亘り、中山道が真っすぐに続く。
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<コース> 春の青春18きっぷ
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岐阜(8:53→9:09) → JR坂祝(9:40) → 徒歩5分 → 宝積寺 → JR坂祝(10:15) → JR美濃太田(10:20)
駅前レンタサイクル20分 → 小山観音 → レンタサイクル8分 → 古井神社 → レンタサイクル5分 → 中山道太田宿 → 万尺寺 → 祐泉寺 → レンタサイクル20分 → 瑞林寺
【復路】美濃太田(15:55) → JR岐阜(16:35→16:49) → JR大垣(17:05→17:09) → JR米原(17:39→17:47) → JR大阪(19:12)

龍雲山 瑞林寺(臨済宗妙心寺派)
美濃西国三十三ヵ所を四ヵ所、中山道太田宿を一通り見学したので、美濃加茂の巡礼はひとまず終わりですが、
レンタサイクル返却には【だいぶつ】時間があるので、少し足を伸ばして大仏拝観。
JRの駅からは丘を越えていく事になりましたが電動なので無事到着。

参道の桜が満開の入口へ到着

参道の先に建つ寺院
龍雲山瑞林寺(りゅううんざんずいりんじ)は、
『室町時代後期に仁済宗恕(にんさいそうじょ)が、当時の美濃国守護の土岐成頼(しげより)の援助を受け創建。
仁済は土岐氏の支流蜂屋氏の出、小山観音の子授け伝説の人でもある。故郷の蜂屋に寺院を建立した仁済は
永正16年(1519年)に85歳で当寺にて死去し、ここに葬られた。
仁済は当地の特産品である蜂屋柿を室町幕府10代将軍足利義稙に献上し、その結果寺領十石と柿寺の称号を
授けられたとされる。

鐘楼

山門前にて

由緒記
またここには約5mの木造弥勒菩薩坐像が祀られており蜂屋大仏として知られる。これは元々、末寺であった大興寺にあった
ものだが、織田信長の侵攻があった際に首を抜いて土中に埋めて難を逃れたとされるもの。後に山手にあった大興寺が廃寺
となった際に当寺が譲り受け、江戸時代に胴部を復元したものである。
大仏の他にも絹本着色涅槃図や紙本着色釈迦図など文化財は多く、本尊である木造聖観音坐像からは胎内仏が発見された。』
とあります。

境内全景
正面が本堂。

大仏の安置された(坐禅)堂前から見た枯山水庭園

本堂正面
御本尊は胎内仏を持った聖観世音菩薩坐像で、腹籠観音で知られる。

本堂前の庭園

本堂より見た坐禅堂
一番奥には枝垂桜が咲く。

本堂と大仏を繋ぐ渡り廊下
遠く平安時代から伝わる蜂屋柿は聞いた事がありましたが、ここの地名に由来する名前。唯、正式名称は堂上蜂屋柿だ
そうなので、これは瑞林寺から将軍に献上された故の謂いでしょう。将軍様に【どうじょ!】と差し上げる訳はないので…。

蜂屋大仏を祀る坐禅堂

本堂から渡り廊下を行く
尚、拝観料は受け取られなかった。

蜂屋大仏
正しくは弥勒仏。

枝垂れ桜
大仏様は481㎝、これは仏教で言う所の丈六(一丈六尺)仏。戦乱の時代とはいえ、首だけ抜いて地中に埋めたのは
関係者の好判断。無理して運んで全体が焼けてしまったら、それこそ首ならぬ悔いが残る事になったでしょう。
大きさは丈六でも波瀾万丈の大仏様でありました。
間近で大仏様を参拝しましたが、首と胴との繋目に違和感はなく【胴】に入ったものでした。
一般には蜂屋大仏で通っていますが、由来を考えると【胴上】蜂屋大仏と呼ぶべきでしょうね。

書院玄関

瑞林寺御朱印

美濃加茂蜂屋郵便局 ; 瑞林寺の木造弥勒仏坐像(蜂屋大仏)、蜂屋柿
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駅前レンタサイクル20分 → 小山観音 → レンタサイクル8分 → 古井神社 → レンタサイクル5分 → 中山道太田宿 → 万尺寺 → 祐泉寺

龍興山 祐泉寺(臨済宗妙心寺派 美濃西国三十三ヵ所第二十七番札所)
太田宿の上町付近には桝形が残りますが、そこに建つのが祐泉寺。境内から堤防を上ると木曽川の絶景が間近に。
寺は中山道に面していますが山門があるのは堤防側。このことからも中山道を通って参詣するよりも木曽川を下って
参詣する方が正式であったと言えそうです。

上町の桝形付近から東を望む
中山道を行く人々はここから境内へ入る。

由緒記

木曽川の堤防から見た全景

堤防から見た木曽川
龍興山祐泉寺(りゅうこうざんゆうせんじ)は、
『文明6年(1474年)、東陽英朝禅師(大道真源)がこの地に来り「ゆせな」と称した一草庵を「祐川庵」と命名。地蔵菩薩を
本尊に迎え修法の道場としたのを嚆矢とする。その後、永正年間(1504~1520年)に八百津大仙寺の末寺となり同寺領
太田郷賀茂県主神社神田の経営を任され、在地代官役として年貢の徴収に当たった。

山門近影

境内の様子
左から、観音堂、本堂、庫裏。
その後、寛永5年(1628年)庵号を改め法地の寺に昇格。第一世に広雲和尚を勧請開山、さおの弟子の徹禅和尚を
創建開山として中興した。更に寛文年間(1661~1672年)、本尊に聖観世音菩薩を祀り、龍興山祐泉寺と改称し現在に至る。

明治39年再建の本堂
5年の歳月を要して再建したが、屋根は平成元年に葺き替えている。

本堂より見た鐘楼と山門

本堂前の枯山水庭園
境内の西には滝場観音があり、その本尊である観音像は木曽川の川底から引き上げられたという伝承を持つ。
明応10年(1501年)、東陽禅師の霊夢に白衣の老翁が現われ、
「我は木曽川の松ヶ瀬に沈む運慶作聖観音菩薩なり。探して祀られよ。木曽川の交通安全と火伏の守りとならん。」
と告げた。目覚めた禅師は村人一同と早瀬より“聖観音菩薩”を迎え、堂宇を建立。滝場大悲閣として境内に祀った。
時代は下り享保元年(1716年)2月の火災に拠って村内の殆どは灰燼に帰したが、西からの火勢は不思議にこの
堂前にて鎮火、東の民家は火難を免れる。この霊験に感じた村人は堂宇の改築を発願、享保3年(1719年)に竣工。
元は本堂西南にあったが今は北に移されている。以来、美濃西国二十七番札所滝場観音として親しまれ、本尊は
厨子に納め秘仏。十七年毎の御開帳となっている。

観音堂(滝場観音)

平成元年の大改修に拠り文政年間の礎材・様式で改築した庫裏と大正5年新築の玄関

鐘楼前の庭
また創建以来、当寺は寺子屋として児童の教育に力を注ぎ、明治初年に義務教育の「明道義校」として、
後の太田小学校に繋がった。境内には播隆上人、日本ラインの命名者・志賀重昴の墓碑、北原白秋、
坪内逍遥の歌碑、松尾芭蕉の句碑などが立ち並ぶ。』 とあります。

芭蕉の句碑
・春なれや 名もなき山の 朝かすみ

坪内逍遥「椿の歌」碑
逍遥は太田代官所坪内平之進の三男として太田宿に生まれる。
・やま椿 さけるを見れば いにしへを 幼きときを 神の代をおもふ
・この木の実 ふりにし事し しのばれて 山椿ばな いとなつかしも

北原白秋の歌碑
・細葉樫 秋雨ふれり うち見やる 石燈籠の あお苔のいろ
日本ラインの命名者の墓碑があるのは木曽川沿いに建つ寺院に相応しいと言えます。境内には他にも句碑・歌碑や
墓碑が並びますが、これはここが教育機関であった事と関係がありそうです。
東の桝形付近にあって境内に辻堂やお地蔵様が多く祀られているのは、江戸から来る旅人の道中往来の安全を祈願した
からで、当時の人々の旅の様子が偲ばれます。禅宗寺院らしく境内に枯山水庭園がありますが、全体的に明るく感じるのは
周辺に木々がなく陽が降り注ぐからでしょうか?
滝場観音の由緒は伝説的ですが、火事が収まった事に感謝した村人の感謝の気持ちが伝わります。今の境内には全く
見当たりませんが、祐泉・祐川という名前からかつては豊富な水が湧出してそれが火事を防いだのではないかと勝手な
想像を巡らしています。

地理学者 志賀重昴の墓

槍ヶ岳開山播隆上人の墓

祐泉寺説明書

祐泉寺御朱印
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恵昌山 万尺寺(臨済宗妙心寺派 美濃西国三十三ヵ所第二十二番札所)
太田宿の上町から少し北へ向かい本町交差点の北西隅にあるのが美濃西国札所の寺。旧中山道沿いではないものの、
前を207号線が東西に走り、北に向かうとJR美濃太田駅前。西側には市役所があるという市街地の真ん中にありました。

207号線に面した入口
恵昌山万尺寺(えしょうざんまんしゃくじ)は、
『鎌倉初期の正治年間に鎌倉幕府の有力御家人であった畠山重忠に拠って菩提寺として太田城房の地に創建。
天台宗寺院として七堂伽藍を備えた大寺であったが、その後兵火で焼失。文明3年(1473年)に妙心寺六世・雪江宗深の
高弟・景川宗隆禅師が現在地に移転、禅宗寺院として規模を縮小して再建された。

入って左側に建つこぢんまりとした薬師堂

正面には観音様を祀る本堂

本堂からの眺め
右奥は薬師堂。
江戸時代の寛文8年(1668年)に実性和尚によって臨済宗妙心寺派寺院として再興。伽藍は元禄5年(1692年)に火災で
焼失したが、2年後に再建を果たしている。現在の本堂は昭和50年の築。
美濃西国観音霊場に加え中部薬師霊場でもあり、観音菩薩、薬師如来、阿弥陀如来、荼枳尼天が祀られているが、
なかでも観音菩薩は子育て観音として篤く崇敬を集めている。』 とあります。
坂東武士の鑑とまで称えられた畠山重忠の所縁の地が遠く離れた美濃の地にあるもの不思議な縁を感じました。
決して【万尺】に合わない訳ではありません。

本堂前に建つ子育て観音石像

境内の椿

万尺寺御朱印
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中山道太田宿
重文・旧太田脇本陣林家住宅前にて。前の自転車はこの日の相棒。
小山観音、古井神社と参拝した後は、飛騨川沿いの371号、木曽川沿いの207号と走って神明堂の交差点で一筋南に
入るとそこは旧中山道。中山道太田宿は、
『69あった中山道の宿場の中で、太田宿は江戸日本橋から数えて51番目の宿場。飛騨街道と郡上街道の分岐点でも
あった事から大いに栄えた。
「木曽の桟(かけはし)、太田の渡し、碓氷峠がなくば良い」 と俗謡に歌われたように、木曽川を越える太田の渡しは、
旅人達にとって中山道三大難所の一つであった。

旧街道沿いにある看板

このような案内板も

飛騨街道追分に建つ法華経塚
伏見宿から二里(8㎞)、鵜沼宿まで二里の太田宿は、開幕当時には大久保長安が奉行として治めていたが、
長安没後は尾張藩が支配した。太田宿は中山道の宿駅の機能だけでなく、後に尾張藩太田代官所が設置される
など木曽川筋の軍事、政治、経済の重要拠点として位置付けられた。

上町の桝形
左は祐泉寺、中央は旧小松屋吉田家住宅。

明治40年建設の十六銀行旧太田支店
内部には金庫も残されている。現在は個人宅。

登録有形文化財・吉田家住宅主屋
江戸時代は「小松屋」の名で営まれた旅籠で、明治期には質屋と油搾り業、大正期には煙草の売り捌きを行った。
天保14年(1843年)の記録に拠れば、宿内の町並みは上町・中町・下町と、その長さは6町14間(約680m)。
戸数は118軒、505人が生活しており多くの人々は農商を兼ねた生活をしていた。
現在でも上町・下町の二ヵ所に桝形が残り、旧脇本陣林家住宅、本陣門や旅籠等の古い町並みが残っている。』
とあります。

街道沿いの御代桜酒造
明治期に始めた醸造元で、建家は旧病院だとか。

御代桜酒造の奥行

旧太田脇本陣林家住宅
主屋は明和6年(1769年)の建築で、裏の質蔵・借物蔵及び表門と共に重文となっている。

脇本陣説明

脇本陣の表門と卯建(うだつ)
中山道は東海道に比べて距離は長いですが、大河がないので川留めがなかったと聞いていましたが、この話を見る限り
太田宿でも川留めはあったようです。中山道と言えば、奈良井・妻籠・馬籠等山の宿場が有名ですが、山でない平地に
残っているのは珍しく、大井川を控えた島田宿に似たように思えたのが大河効果でしょうか?

林家住宅全景
右は当主の隠居所として建てられた場所で、内部見学可。

林家座敷?

林家庭へ続く場所

林家の庭の「一部」
塀の向こうに銀杏の大木が見える。
昼食は、宿場らしき建屋が並ぶ一角にある魚徳商店にて川魚を。御主人が話されたのは
「この辺りは、昭和58年の木曽川大水害で背丈まで浸水して昔の街並みで再建したものです。」 との事。
てっきり江戸や明治の家屋が残っていたので再建と知って驚き。しかし木曽川水害は江戸時代もあった、
というよりも江戸時代の方が被害が大きかったと思われるので、その時代の建屋が残る可能性は極めて小さいと言えます。

旧太田宿本陣門
文久元年(1861年)皇女和宮が江戸の将軍家茂に嫁ぐ際に新築された。

本陣門の説明

宿場の西端にある虚空蔵堂
付近は「承久の乱古戦場(大井戸の戦い)」と伝わる。

昼食は宿場半ばの「魚徳」にて

軽めの鰻定食(半尾) ¥1700

昔の旅籠風家屋だが、ここも水害後の再建だそう

美濃加茂郵便局 ; 日本ライン下りの中濃大橋、重文・旧太田宿脇本陣林家住宅
美濃加茂太田本町郵便局 ; 重文・旧太田宿脇本陣林家住宅、坪内逍遥顕彰碑、市花・紫陽花
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古井神社(全幣社)
小山観音参拝後、再び駅方面に戻りますが、途中、桜の参道が目に入りました。ふと見ると古井神社、高山線の
駅名でもあり付近の字でもあるので予定を変更して急遽参拝。
古井神社(こびじんじゃ)は、
『天暦5年(951年)、美濃国の古井に中富神社が創設され牛頭天王社・須佐之男神社と記録されているのが嚆矢。
安元2年(1176年)には領主源頼政が社地を寄進し社殿を造営した。
文永年間(1264~1275年)、この地に流行した疫病に氏子は牛頭天王の神霊を柳に託し日夜祈願した結果、病は平癒。
以後、柳は御神木として保護される事となった。牛頭天王社別当として護国寺が建立されたのもこの時代である。

石灯籠、一の鳥居に続く桜の参道

参道から一の鳥居を見返る

太多線の向こうに見える二の鳥居
しかし永禄3年(1560年)の兵火で天王社・護国寺は焼失。社殿は慶長2年(1597年)に地頭伏屋左衛門佐の祈願で再建。
翌3年には八王子神社、同12年には津島神社も創建された。文政10年(1827年)には中富神社を西方400mに移転、
文殊院を別当として神事を執行させた。
明治42年(1909年)には「一村一社運動」に拠り、中富・八王子・津島・清水神社を合祀して古井神社を創設。昭和8年
(1933年)には参道の延長と桜の植樹を行い、現在の参道が飛騨街道と結ばれた。平成26年(2014年)には本殿・祝詞殿・
社務所を建立、脇本殿を解体し、境内三社等を建立した。』 とあります。

二の鳥居を過ぎ境内へ

鳥居越しに見た参道

御由緒

境内全景
由緒は古く、地元の信仰も篤かったようですが、兵火や政治的なM&Aで今の状態になったようです。全体として
古社の印象がないのはそのためでしょう。
太多線の線路越しに見る境内、参道や社殿の整備を見ても、地元の方の神社を護る熱意は伝わって来ました。
病気平癒が主な御利益ですが、名前が古井なので“こい”に御利益があればと思いましたが“こび”と読むのが
正しいので出世に御利益があるかもしれませんが…。

拝殿正面

拝殿に続く祝詞殿とその奥にある本殿

古井神社説明書

下古井郵便局 ; 国定公園の標識と日本ライン下り、太田橋、鮎、
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仁慈山 小山寺(臨済宗妙心寺派 美濃西国三十三ヵ所第二十九番札所)
坂祝での巡礼を終えて高山線で一駅。美濃太田駅からレンタサイクルで巡礼再開。
以前入手の「御朱印巡りin 岐阜(岐阜新聞社)」を見ると36ヵ所の寺社が掲載されていますが、その中で一際目を引くのが
二ヵ寺。一つは崖造りの舞台の高澤観音、もう一つが小山観音でした。飛騨川にある奇巌の小島に佇む写真でしたが、
「海は兎も角、河川の島に建てられた寺院は珍しい。」
「島にあったら小山でなく小島観音では?」
などとどうでも良い事を思いながら、これは是非見に行かねばと、今日の巡礼になりました。
自転車を借りた駅前のカフェのマスターも「水の中に浮かんで幻想的ですよ。」 と地元の方にも知られた名所のようでした。

飛騨川に架かる青柳橋上から
中央、橋で繋がった先が小山観音。川の向こうで木曽川と合流している。

飛騨川左岸から小山観音への入口

小山観音へと続く「かんのん橋」

橋上から観音堂を望む
仁慈山小山寺(じんじさんしょうざんじ)は、
『平安末期、朝日将軍木曽義仲が、下米田町山本で病没した母の若名御前の菩提を弔うためにこの地を訪問。ところが
飛騨川が荒れて渡れず困惑していた所、荒波の中から龍神が現われ、捧げ持った馬頭観音を祀るように勧め波を鎮めた。
喜んだ義仲がその観音像を奇巌の小島に奉安し供養したのが始まりとされる。
尚、一説にはその観音像は一寸八分の御姿で若名御前の護持仏でもあったとも伝わっている。

橋の袂にある由緒記

観音堂近影

観音堂向拝の龍の彫刻

観音堂内陣
但し、本尊の馬頭観音は秘仏である。
小山観音には以下の子授け観音の伝説も残る。
室町時代の永享6年(1434年)頃、上蜂屋のお島御前が子供を授かるように小山観音に百日の願掛けを行った。満願の夜、
夢に白髪の老人が現われ、一枚の唐銭を飲むように告げた。御前がそのお告げに従うと願い通り男子を出産。
しかしその赤子は左手の拳を開かなかった。お七夜に子が自ら手を開くとそこにあったのは満願の夜に飲んだ唐銭で、
その霊験に母親のお島御前は、その子を僧侶にする。
後にその子は岐阜市瑞龍寺の悟渓宗頓(ごけいそうとん)禅師に師事し、門下八哲の一人、仁済宗恕(にんさいそうじょ)
禅師として故郷蜂屋に瑞林寺、西脇に光徳寺を開き、後に京都大徳寺住職も務めた高僧である。
お島御前と仁済禅師の親子二代に亘り、唐銭「周元通宝」300枚を集めて高さ1尺の馬頭観音を鋳造しお前立とし、
義仲由来の馬頭観音は秘仏となった。

観音堂前からの飛騨川の流れ

観音堂参拝後は、御堂の周囲を巡る
これは堂左側の身代わり地蔵。

身代り地蔵横から見た飛騨川
観音堂の建つ島自体は非常に狭い場所である。

観音堂側面
小山観音は元々住職不在で、地元の人々が護った寺。必要な時のみ他所から呼んできた経緯がある。
漸く明暦3年(1657年)に仁慈山小山寺が開創し小山観音堂はその傘下に入った。
当初の観音堂は飛騨川左岸と河原で繋がり、参拝者は河原を歩いた後、岩場を上って参拝した。昭和14年に木曽川に
今渡ダムが完成すると周囲は水没。以後は昭和13年に完成した「かんのん橋」に拠って飛騨川左岸の下米田より参拝する
のが正式ルートになった。』 とあります。
駅から飛騨川に架かる青柳橋を渡って左岸に向かうときは欄干が低く感じ、「こんな川中によくお堂を建てたものだ」
と思いましたが、かつては左岸と陸続きと知って納得。

かんのん橋越しに左岸を望む
右手奥が本坊。

小山観音遠景

かんのん橋周辺は桜の名所
かんのん橋周辺は桜が多く、もう1週間遅ければ花見もできたでしょうが、この日はお堂に参拝してから岸部に建つ小山寺に
向かい御朱印拝受。対応頂いた御住職も夫人も非常に気さくな方で、待ち時間に御茶菓子まで頂いたのには恐縮しました。
住職;「元々、島の観音堂があって、後からこの寺が出来ました。」
和辻;「源平の頃ですね。」
住職;「寺は350年ですが、観音堂は800年以上の歴史があります。」
和辻;「木曽義仲の母の若名御前を弔ったとか。」
住職;「一般には母親となっていますが、実際は側室の一人だったようです。」

左岸に建つ小山寺本堂へ

仁慈山 小山寺 門前より

小山寺境内
本堂の左奥に見えるのが小山観音堂。
和辻;「お寺の名前は“こやまでら”ですか?」
住職;「正式には“しょうざんじ”ですが、“こやまかんのん”の方が通りがいいので“こやまでら”と言っています。」
和辻;「よくあんな場所に建てましたね。」
住職;「あの島は周囲に比べ岩盤が固く、川の流れであそこだけ削り残ったようです。」
和辻;「海では松島の五大堂などありますが、淡水は見かけませんね」
住職;「わたしの知る限り、竹生島位でしょう。」
和辻;「お参りは一苦労ですね。」
住職;「昭和になってダムができるまで、こっちとお堂は河原で繋がっていました。参拝の人は河原を歩いて、最後は
岩をよじ登ってお参りしたそうですよ。」

唐破風の小山寺玄関
内陣へはここから参拝。御朱印は右の納経所で拝受。

本堂の扁額

本堂内陣
禅宗の祖・達磨像と正面にある布袋尊。布袋尊は弥勒菩薩の化身とか。

本堂前から見た庭園
わざわざ、船に乗ってお参りする人も珍しいですが、陸続きならば在り得る話。
当初、「小山ではなく小島やろ!」と思いましたが、河原伝いに歩き岩盤を攀じ登ったのならば小山観音と呼ばれたのも
理解できます。
最近の安易な地名改変には問題があると指摘する声は多いですが、深い歴史が刻まれている寺名を後世に伝えるのも
我々の役目と言えます。

小山観音説明書

小山観音御朱印

古井郵便局 ; 飛騨川にある小山観音、日本アルプス
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大祥山 宝積寺(臨済宗妙心寺派 美濃西国三十三ヵ所第二十一番札所)
この日は美濃太田駅から巡礼の予定ですが、一つ手前の駅前にも札所があったので下車して先に参拝。難読駅名で
有名な“さかほぎ”ですが、織田信長の東美濃攻略所縁の猿啄(さるばみ)城が築かれた場所と初めて知りました。
駅の跨線橋からは遠く山頂に城址が望めますが、城址からは一円が隈なく見渡せます。

JR坂祝駅跨線橋から猿啄城跡を望む

駅前の説明板
大祥山宝積寺(だいしょうざんほうしゃくじ)は、
『宝徳年間に犬山瑞泉寺の住持であった雲谷玄祥が自身の隠居所として犬山から木曽川を挟んだ向かいの鵜沼の
宝積寺山に開創したのが始まり。後に玄祥が武芸川汾陽寺に居を移した際にはその塔頭となるが、彼の没後は衰微する。

木曽川に向いて建つ山門

正面から見た山門

寺務所前から見た境内

禅寺らしい造りの本堂
外陣より参拝。

本堂の「大祥山」の扁額

本堂の軒下
正徳2年(1712年)になって美濃上有知清泰寺の泰嶺和尚がここ取組に中興した。昭和50年(1975年)に堂宇を改修し
今に伝わる。』 とあります。
堂宇は新しいですが、境内にある山門脇の杉・銀杏・椿が彩を添えます。元は犬山の瑞泉寺から川を隔てた場所に
ありましたが、時代の流れで木曽川の流れを遡って現在の地に至ったようです。

本堂前の椿の巨木

山門脇の杉の巨木

御朱印はこちらで拝受

宝積寺御朱印

坂祝郵便局 ; 坂祝神社、猿啄城展望台、サルビア、南天
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郡上八幡駅 → 駅観光案内所レンタサイクル5分 → 城下町 福よせ雛展示場 → 城下町プラザ→ 徒歩10分 → 郡上八幡城 → 秋葉三尺坊 → 善光寺 → 安養寺 → レンタサイクル10分 → 郡上八幡駅
【復路】郡上八幡(15:03) → (長良川鉄道) → 美濃太田(16:38→17:01) → JR岐阜(17:32→17:51) → JR米原(18:39→18:47) → JR大阪(20:13)

遠郷山 安養寺(真宗大谷派)
駐輪場まで戻ってきましたが、城の登り口に聳える巨札が安養寺。
通常、真宗寺院は御朱印がないのでスルーが多いのですが、ここは敬意を表して参拝する事に。
遠郷山安養寺(おんごうざんあんにょうじ)は、
『近江源氏佐々木高綱の三男・高重が親鸞聖人の弟子となって西信の法名を賜い、康元元年(1256年)江州蒲生郡に
一宇を建て安要寺と称したのが始まり。佐々木高綱は宇治川の先陣争いで有名であるが、その相手の梶原景時の
乗馬磨墨(するすみ)は郡上の気良の産と伝わっている。

城下町プラザの正面に建つ安養寺

石段を上り境内へ

堂々とした山門
正面向こうに見えるのが宝物館。
安要寺六世の仲淳の時に美濃安八郡大榑へ移転し、蓮如上人の命により安養寺と改称。ここを中心に越前穴馬や
郡上方面へと布教するが、この時に仲淳は本願寺より正信偈の一部、蓮如上人の五男で本願寺九世の法統を継承した
実如直筆の裏書のある親鸞聖人御影を授かっている。その後、再び越前国穴場(現在:大野市)へ移転する。
文明3年(1471年)に本願寺八世・蓮如上人が吉崎に道場を開くと、郡上から吉崎に赴き法弟となり帰国後は真宗を伝える
ものが多くなった。このため郡上では真宗の勢力が急速に拡大。これを重く見た領主の東氏は安養寺を白鳥に招く事とし
安要寺七世・了淳の天文5年(1536年)に越前穴場から白鳥(大島村野里)へ再び移転する事となった。

山門脇の鐘楼

山門を過ぎた場所からの境内眺望
大きな伽藍など真宗の特徴を備えている。

安養寺ご案内(由緒)
安養寺は朝倉氏、三木氏が領内に侵攻した際には末寺門徒千余人を集め撃退する功を挙げ、また織田信長との
石山合戦には武田信玄・朝倉義景・浅井長政等の反信長勢力結集のために奔走した。当寺にはその時の文書が残り
文化財に指定され宝物館で展示されている。
天正6年(1588年) 郡上城主稲葉定通の入部の際には八幡中坪村園野へと移った。本堂焼失後の明治14年(1881年)には
八幡城三の丸跡地であった現在地へ移転。明治23年(1890年)には本堂を再建した。大正8年の大火で再び焼失したが
昭和11年(1936年)に再建、これが現在の本堂で郡内随一の雄大な寺観を誇る。

昭和11年再建の本堂

八幡城への登山道から見た壮大な本堂

本堂屋根の装飾
明治19年(1886年)の佐々木家廃絶まで20代の住職が法統を護り、寛文6年(1666年)昇級院家、天保8年(1837年)御坊分に
昇格した。佐々木家の後を本山は蒲郡の専覚寺から楠潜竜を住職に任命今に至っている。』 とあります。
八幡城への登城口は寺院が集中していますが、その中で一際大きな威容を誇るのがこの寺院。それだけ城下でも影響力が
あったという事でしょう。開山が近江源氏の佐々木氏だった事に加えて本願寺の門主とも密な関係。現在、越美北線と長良川
鉄道(旧越美南線)は未通ですが、かつては越前と郡上は指呼の間。吉崎御坊の一翼を担う重責を果たしたと言えます。

書院玄関の唐破風

書院脇の池と庭園
戦国時代に民衆の生活を守るために蓮如が教団を組織したことが、今日の浄土真宗の繁栄の基礎となった訳で、その目の
付け所が慧眼。宗教が政治に関わる事には否定的な日本では一向一揆に関しては否定的な意見もありますが、何度にも亘り
外部からの干渉を撃退し独立を護った点は正当に評価すべきでしょうね。
境内は広大ですが、その東一角にある宝物殿を訪問。御朱印を拝受するためですが、
和辻;「真宗の寺院で御朱印は珍しいですね。」
受付;「ここは宝物殿がありますので対応しているのですわ。」 との事。
本来の趣旨から外れると言えばそれまでですが、昨今のブームと¥300とはいえ経済効果を考えると良い傾向と思います。
御朱印にも「寛恕」とあるようですし…。

安養寺説明書

安養寺御朱印
参拝の後は博覧館まで北に向かいましたが、安養寺の西側の小径には水路が流れて居り、湧水の場所も。
丁度、喉が乾いていたので一服できました。
この付近は柳町と呼ばれるそうですが、観光メインの鍛冶屋町に劣らず古い町並みが残っています。中心から少し外れた
だけで静かな歴史空間にタイムスリップした感じです。水利を考えるとここに巨札や町が出来た訳も【推理】できそうです。

安養寺西側を流れる水路
手前には飲用の湧水も。

水飲み場にある石地蔵様

水路から見上げた安養寺本堂

柳町通りの古い町並み

柳町にあるかつての会所跡
今は集会所となっている。

柳町での雛人形展示
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郡上八幡駅 → 駅観光案内所レンタサイクル5分 → 城下町 福よせ雛展示場 → 城下町プラザ→ 徒歩10分 → 郡上八幡城 → 秋葉三尺坊 → 善光寺

鞍馬山 善光寺(天台宗)
秋葉山から少し下ると善光寺の看板が。道路沿いから見るとお堂はあって寺院の様ですが、寺カフェ、民宿の看板の方に
目がいってしまいます。
鞍馬山善光寺(くらまやまぜんこうじ)は、
『養老7年(722年)、泰澄大師が加賀白山中宮の社坊として創建。その後、白鳥町長滝にあって長滝寺の持善坊として
永く栄える。長滝寺は白山信仰の美濃馬場であった。しかし当地で真宗が盛んになるに従って衰微。明治初年の
廃仏毀釈の変革に拠って廃寺に等しい状態となっていた。

入口にある看板

左手に建つ本堂
そこで当院の真誠はその子・真静と共に、許可を得て私財を投じて八幡城跡の一部であるこの地を取得。堂宇を建てて、
泰澄作とされる長滝寺の地蔵菩薩を安置した。
明治34年(1904年)には信州善光寺より分身体を勧請して郡上八幡善光寺と称した。昭和25年(1950年)には京都総本山
鞍馬寺より尊天毘沙門天の分霊を奏請し、鞍馬郡上別院として現在に至っている。』 とあります。

本堂内陣の善光寺分身の御前立

正面にあるのが寺務所、カフェ兼民宿
丁度、女性が表に出て来られたので伺うと、
夫人;「左手が本堂で善光寺からの分身のお前立を祀っています。」
と言われたので本堂に上がって参拝。善光寺のお前立が御開帳の年度が決まっていますが、ここはいつでも参拝できました。
参拝を終えて御朱印を尋ねると、ある様子。
和辻;「こちらの寺院は無住ですか?」
夫人;「いいえ、主人が住職を務めて居ります。」
と御夫婦で分業されているようでした。

ここの境内にも「およし観音堂」が

寺カフェの様子
壁には善光寺縁起の押絵が掛かる。
夫人;「宜しければ、お雛様や善光寺縁起の押絵もご覧になって下さい。」
と言われたので、カフェに注文もしないのに中を見る事ができました。
心遣いに感謝ですが、カフェは簡素ながら落ち着いた様子。値段もリーズナブルなので、次回には是非ここで一服したいもの。
今時はお寺のバーもあるくらいですから、カフェなどは健全なものです。
中部地方は善光寺の影響が強いですが、ここもその例に漏れず。その寺院が京都の鞍馬寺の別院になったのはどういった
経緯があったのでしょうか?まさか儲けに目が【くらま】山になったとは思いませんが…。

カフェに展示の京雛

数ある押絵の中から「牛に惹かれて善光寺」

善光寺御朱印
墨書は鞍馬寺と同じ「尊天」。
[参考書]
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香厳山 悟竹院(曹洞宗)
天守閣に登って魚の形の町を見たあとは町へ下りますが、途中に寺院の看板が。
秋葉三尺の名前に惹かれ、三尺下がってちょっと寄り道。

案内板に沿って行くと石段下へ
香厳山悟竹院(きょうげんざんごちくいん)は、
『大永元年(1521年)、謹甫嵓公(きんほかんこう)和尚が五町に開基。その後、永禄12年(1569年)に福井県心月寺七世・
才應惣芸(さいおうそうげい)和尚を開山に迎えて曹洞宗に改宗。現在まで23代を数える。本尊は釈迦牟尼仏、脇侍に
阿弥陀如来、弥勒菩薩が鎮座する。
明治12年(1879年)十八世・惠了一元和尚の時、静岡県袋井の秋葉総本殿可睡斎から秋葉三尺坊大権現の分身を勧請、
明治15年(1882年)に威徳堂を建立した。昭和7年(1932年)十九世・定山活元和尚の時に、五町より現在地に移転。

石段の先に建つ秋葉三尺坊真殿

真殿の扁額と天狗扇の紋
境内には威徳堂の他、聖徳太子堂・豊川堂・賽の河原地蔵堂・六地蔵堂・鐘楼堂・稲荷堂、更に八幡城内に秋葉三尺坊
奥の院がある。鐘楼堂の鐘は明治29年(1896年)から先の大戦の供出3年間を除き、時の鐘として毎日四度鳴らし続けている。』
とあります。
さして広い境内ではありませんが堂宇が多いのには驚き。本堂は悟竹院ですが石段を登った先に建つ秋葉三尺坊真殿が
正面に当り、こちらが本殿のような扱いです。かつて参拝した袋井の可睡斎で秋葉三尺坊は火防の神様とは知っていましたが、
今から1200年前に戸隠で生まれた修験者とは初めて知りました。

真殿からの眺望
左は受処、水屋と石段の先には城下町の町並みが見える。

悟竹院由緒

石段下に建つ賽の河原地蔵

地蔵の横にある聖徳太子堂
中では地元の方々が、一仕事終って昼食中。
御朱印を御願いすべく境内を彷徨っていると、御住職が別堂から登って来られ無事拝受。
住職;「この辺は人家が密集して火事が多く、各地区で秋葉山を祀っていました。それを明治になってここに統合した訳です。」
和辻;「この辺が旧城下町だと、吉田川の向こうはどうだったのですか?」
住職;「私の幼い頃でも、あちらは田圃や畑が多かったですね。」
城から魚の形に見える町割りも歴史は浅いようでした。
和辻;「山号は何と読むのでしょうか?」
住職;「“きょうげんざん”と読みます。僧侶の名前ですね。」
和辻;「江戸時代の人ですか?」
住職;「いいえ、唐の人です。由来は本堂に記載しています。」
と本堂に案内して貰って由緒を確認。

石段の右手にある本堂
悟竹院・達磨堂も兼ねる。

本堂の扁額「香厳山」
左書きなので新しい。
唐代末期の禅僧・香厳知閑(きょうげんちかん)は師の問いに答えられず師の元を去ったが、ある日掃除をしていた時に、
飛んだ小石が竹を打った音で悟ったと言うもの。伝説ではありますが【きょうげん】ではないでしょう。
その頃の唐は武宗による会昌の廃仏の時期に重なるので、仏教側も対抗措置を考える必要があった筈。ひたすら人や
書物を読んで理解する顕教は為政者には魅力が薄いもの。達磨大師が開いた禅宗は己の経験から悟りに達する教え
だったと理解しているので、そんな僧侶は【そうとうすう】居たに違いありません。

本堂に掲げられた香厳智閑の説明

秋葉三尺坊郡上威徳堂略縁起

秋葉三尺坊御朱印
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山内一豊とお千代の像
お城へ上る遊歩道を少し上がった場所にあるのが城山公園。その一角に、戦国武将・山内一豊と妻千代の像があります。
『関ヶ原後の土佐藩主・山内一豊の妻千代は賢夫人として知られ、一般的には近江の出身とされるが、郡上には
「初代郡上八幡城主・遠藤盛数の娘が山内対馬守室。」とする系図が各所に残っている。また近年には高知県から
家系図、陣立図等の資料も新たに発見され郡上説を裏付ける。昭和60年には市民有志に拠って「山内一豊夫人顕彰会」
が設立され、この銅像を建立した。』 とあります。

八幡上を仰ぐ場所に建つ一豊と妻の像

千代と郡上の繋がりについて
賢夫人の代名詞のように称えられ、大河ドラマにもなった千代の出身地となれば郷土の誇り。新たな資料も追い風に
なっている様子です。歴史は常に書き換えられるものですから、定説が覆るのは驚くに当たりませんが、どうぞ【検証】
だけはきちんとしないといけません。

八幡城天守閣に展示の遠藤・山内氏家紋
山内一豊の出世の糸口は、千代から貰った小判で名馬を買い信長の馬揃えで目に留まった事。銅像もそれを表してか
夫婦と馬になっていますが、それは若い頃の話。後に土佐一国の大名になったのは、関ヶ原の前夜、上方での石田勢の
様子を詳細に記した密書を会津征伐に向かった夫の元に送った功績に拠ります。一豊もそれを開封することなく家康に届けた
そうですから、大したもの。場合に拠ってはひとつの情報が戦場での勝ちに勝るほどの価値のある場合があるようです。

千代の肖像画(複製)
博覧館にて。

山内一豊肖像画(複製)
博覧館にて。
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検証・山内一豊伝説 「内助の功」と「大出世」の虚実 (講談社現代新書) 新品価格 | ![]() |

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郡上八幡城
今回の目的は城下町の雛祭り見学ですが、時間に余裕があったので、郡上八幡城まで登城する事に。
春の桜・夏の新緑・秋の紅葉と季節を通じて観光客が訪れる場所ですが、最近は夙に人気が上がっている様子。
奥美濃きっての山城であり、司馬遼太郎『街道をゆく』でも日本で一番美しい山城と称えていますが、人気急上昇の
理由は「天空の城」ブーム。但馬の竹田城がネット上で人気沸騰したのを皮切りに越前大野城、備中松山城、
郡上八幡もターゲットに。泉下の司馬さんはどう思って居られるでしょうか?

八幡城登城口
城下町プラザ、安養寺の横にある。

坂道、石段を上りいよいよ本丸へ

石段の先に見える郡上八幡城
郡上八幡城は
『戦国末期の永禄2年(1559年)、郡上領主、東常慶(とうのつねよし)と遠藤盛数(もりかず)の間に支配権を巡って赤谷山城
の戦いが勃発。その際、盛数がここに陣を敷いたのが郡上八幡城の創始である。盛数の後は子の慶隆が郡上を統一、
城下街を整備する傍ら信長・秀吉に従い全国を転戦したが、天正16年(1588年)加茂郡小原に転封、代わって城主となった
稲葉貞通は天守台等を設け本格的な山城として大改修を行った。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に付いた慶隆は郡上八幡の戦いを起こし、戦後、郡上八幡藩主として返り咲いた。
慶隆の孫・常友は城や城下町の大改修を実施、寛文7年(1667年)に幕府から城郭として認められた。

山頂に聳える郡上八幡城

入口にある力石

力石の説明

人柱となった「およし塚」

およし塚由緒
遠藤氏が近江三上に転封後は井上・金森氏が相次いで入部するが、宝暦年間に起こった郡上一揆(1754~1758年)のため
金森氏は改易。代わって入部した青山氏に拠って100年以上の治世が続くが、明治4年(1871年)の廃藩置県に拠って
郡上八幡四万八千石は終焉。城郭も取り壊された。現在の天守は昭和8年(1933年)に再建された模擬天守で、
木造の天守としては日本最古である。』 とあります。

八幡上正門

郡上八幡城沿革

正門正面

復元天守閣
天空の城は竹田城以外すべて小京都に登録されている町。城だけでなく町と一体になった場所で、小藩ながら
交通の要衝であった事が築城の理由でしょう。坂を上った先からは城下が一望できますが、よく知られているように
町は魚の形。「ウォーっ」と思うか「ギョっ」とするかは人それぞれです。

奥の院
天守閣前に建ち「およし」を祀る。

城からの眺望
城下町が魚の形に見える。

天守閣から正門を見る

天守閣から西方を見る
城下町の魚の尻尾に当たる。

天守閣から東方を見る
右を流れるのは吉田川。
お城の例に漏れず、ここも力石や首洗いの井戸がありましたが、変わった所では「およし」を祀る祠の存在。急斜面の
修復が困難を極めた際、大和村の農民の娘であった17歳のおよしが自ら志願して人柱になった事を讃えたもの。
強制ではなく志願したそうですが、古代ならいざ知らず、江戸時代にもなって人柱と言う行為の効果を信じた人が
何人いたのかが気になります。「およし!」と言ってやる人はいなかったのでしょうか?

天守閣での甲冑展示
左より遠藤氏、井上氏、青山氏甲冑。

郡上本染「鯉のぼり」の展示

天守閣裏側にある首洗い井戸
[参考書]
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