<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36)
大垣駅(9:08) → (養老鉄道) → 養老(9:30) → (レンタサイクル10分) → 養老寺 → 徒歩15分 → 養老神社 → 徒歩15分 → 養老の滝 → 徒歩30分 → 養老寺 → (レンタサイクル5分) → 大菩提寺 → (レンタサイクル50分) → 道の駅 月見の里 → (レンタサイクル10分) → 徒歩10分 → 行基寺 → (レンタサイクル10分) → 駒野駅
【復路】駒野(15:16) → 大垣(15:53→16:04) → JR米原(16:39→16:47) → JR大阪(18:13)

臥龍山 行基寺(浄土宗 西美濃三十三霊場第二十七番札所)
対面の間からの揖斐川、濃尾平野の眺望。
本堂参拝して西側に迫る岩肌に対面した後は、右側の廊下を進んで書院奥へ。
その東端にあるのが対面の間と呼ばれる部屋。
床の間には掛け軸や調度品が簡素な中にも上品に置かれています。
藩主の菩提寺なので【体面】を保つ必要があったのでしょうが、それにも増して素晴らしいのはここからの眺望。

廊下を東に進んだ先にある対面の間

床の間の観音様の掛け軸と香炉

対面の間へ渡る廊下を振り返る
『当山の庭園は、松平家菩提寺となった際に、緑山和尚に拠り作庭。書院西側には
自然の岩肌を活かした枯山水の庭園が、苔庭の奥には岩肌を伝って落ちる滝水がある。
一方、東側には南北に広がる雄大な濃尾平野を借景にした眺望の庭園があり、
百八個からなる飛石が周囲を囲んでいる。
各書院からは濃尾平野は元より、南は知多半島、北は日本アルプス連峰を眺めることが出来る。

揖斐川下流方面の眺め

正面に見える濃尾平野
その奥に建つビル群は名古屋市内。

揖斐川上流方面の眺め
高須藩は三万石の小藩ながら尾張徳川家の連枝、支藩で尾張藩に後継者が途絶えた場合に
相続人を出す役割を持った。尾張藩17代藩主の内、実に4代が高須藩の出身である。
御三家を除けば将軍家筆頭家門というべき家格を保ち、江戸城での格式は大大名と同格であった。
幕末から明治維新にかけて大きな役割を果たした尾張藩主徳川慶勝、茂徳、会津藩主松田容保、
桑名藩主松平定敬の四名は高須藩松平家の四兄弟である。』 とあります。

庭園に湧き出す水

揖斐川に架かる海津橋遠望
対面の間から東側を望むと遮るものがなく、「お月見の寺」と呼ばれるのはここからの眺望を言うのでしょう。
今でも旧暦8月15日には観月会が開催されているとか。今の暦では敬老の日前後でしょうか、是非見てみたいものです。

対面の間から北側に続く庭園を望む
その奥に見えるのが藩主の間。

北側の庭園
このように風雅な場所ですが、明治以前には一般人はこの部屋どころか境内も立入禁止。
と言うと殿様が庭で月見を独り占めしたというと優雅な感じですが、果たしてそうなのか?
一般の立ち入りを禁止したのは、この場でかなり政治的な会合等が行われた場所だった可能性が大。
蜜だんごではなく【秘密の談合】であったら、【きなこ臭い】気もします。思った以上に藩主は大変だったのでしょう。

庭園の向こうに建つ藩主の間

庭園を飾る巨石群

書院の廊下を渡って藩主の間へ向かう
それにしても幕末の藩主がここの四兄弟とは驚き。他藩に養子に行く位ですから暗愚ではなかったでしょうが、
皆、それなりの名を残しているのも高須藩の家訓が活きているように思えます。
御三家筆頭でありながら、唯一将軍を出せなかった尾張家ですが、江戸幕府の幕引きでの功績は流石、
【おわり】良ければ総て良しと言えます。尤も、そのために彼らが【談合四兄弟】と言われることはないようですが…。

廊下より庭園を見る

廊下から見る庭園と対面の間

藩主の間に向かう途中の濃尾平野の眺め
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臥龍山 行基寺(浄土宗 西美濃三十三霊場第二十七番札所) 本堂
山門を潜り境内を軽く一周した後は伽藍に参拝。
山門直ぐ左手に建つ小振りなお堂は、扁額では真影堂とありますが観音堂。
当寺は西美濃三十三ヵ所札所なので、このお堂に札所の御本尊が祀られている筈で、
先ずはここに参拝。開放されていたので内陣まで入って拝むことが出来ました。

山門左手の観音堂

観音堂内陣で御本尊に参拝
続いて山門の正面に建つ本堂へ。境内の拝観は自由ですが、本堂の内陣・書院・庭園は
入山料¥400を納めての参拝。
臥龍山菩提院行基寺(がりょうざんぼだいいんぎょうきじ)は、
『天平時代に行基が聖武天皇の勅願を得て建立した古刹であるが、その後、徐々に衰退。
当初の伽藍は延元元年(1336年)に結城友定の兵乱で焼失し、正平年間に再建された。

山門の正面に本堂が建つ

本堂とその後方に見える石垣

本堂の向拝前にて

本堂に続く書院玄関
拝観受付はこの左手にある。

臥龍山行基寺説明書

行基寺御朱印 (西美濃観音霊場)
元禄15年(1702年)、尾張二代藩主徳川光友の次男松平義行が美濃高須藩に封ぜられると、
当寺を菩提寺として再建に着手、宝永6年(1709年)に改修工事が完了した。
山門は文政3年(1820年)、本堂は天保3年(1832年)の再建である。
尚、明治維新に至るまで、一般庶民の登山参拝は禁止であった。

本堂向拝下にて

本堂前面に掲げられた扁額
菩提院とは当寺の院号か?

向拝と蝦虹梁

先端部の兎の彫刻

木鼻の部分はお馴染みの象
当寺は濃尾平野を見下ろす高台にあり、高い石垣を持つ城郭風の伽藍であるが、
これは緊急時には高須藩の城としての機能を持たせるためであったと言う。』
とあります。

本堂扉の浮彫はカラー版六つ葉葵?

本堂内陣にはこんなポスターが
当寺は浄土宗なので本尊に祀られているのは阿弥陀如来。徳川幕府は天台宗と浄土宗を
自身の信仰の柱に据えたので、当寺を菩提寺としたのは自然な流れといえます。
本堂の前面には菩提院の扁額が架けられ、扉等には三つ葉葵の紋が描かれているのは
藩主の菩提寺としての格式を表しているのでしょう。
内陣に吊るされた駕篭は当寺の住職が使用したのでしょうか?

内陣に架けられた 「行基寺」 の扁額

扁額の奥に鎮座する御本尊阿弥陀如来

内陣柱の極彩色装飾と黄金の三つ葉葵の家紋

内陣の閻魔様の掛け軸

内陣に吊るされた駕篭
本堂の左側(西側)は山肌が露出していますが、ここはTVでも紹介された場所。
山の中腹なので平地を最大限に利用した結果、このように山肌が間近に迫る構造になったのでしょう。
TVの説明でもありましたが、太古の昔に海底に堆積した岩が隆起してできたのが25㎞続く養老山地で
この付近は丁度断層地帯。濃尾傾動運動と呼ばれるものでできた地形だそうです。
露出しているのは砂岩を主体に泥岩が間に入ったもので、その続きに石垣を積み上げています。
天然と人口の交差と言うよりも、自然を上手く取り込んだもので、これなら左官職人の手を煩わすこともなく、
かつては【盛ん】に造られたのでしょう。別段、設計した人が地質マニアであった訳ではないようです。

本堂の前を通り西側の石垣へ向かう

本堂の間近に迫る石垣

砂岩に石垣を組合わせた独特の構造

砂岩と石垣の接する部分

本堂前から山門を見る
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臥龍山 行基寺(浄土宗 西美濃三十三霊場第二十七番札所) 山門
寺の黒塀に沿って進むと、やがて壮麗な山門が聳えます。これが駒野でも有数の古刹行基寺。
臥龍山菩提院行基寺(がりょうざんぼだいいんぎょうきじ)は、
『天平の頃、大仏建立のために諸国行脚していた行基が、聖武天皇の勅願で
美濃尾張伊勢三国の守護霊場として建立した菩提寺が嚆矢。
伝承では天平16年(744年)、地方を巡っていた行基が当地の洪水被害を目の当たりにし、
聖武天皇に懇願し人々のために建立したと言われる。

境内より山門を見上げる

山門欄間の龍の彫刻

扉の上は亀の彫刻

松平家菩提寺を示す三つ葉葵の浮彫

山門屋根の組物
開山である行基は、天智天皇7年(668年)に和泉国で生まれ、天平21年(749年)に菅原寺で入寂、
生駒の竹林寺に葬られたと一般的には知られているが、当寺には天平宝字元年(757年)にこの地で入滅、
当寺に埋葬されたとの伝承が残る。

山門脇から濃尾平野を遠望
下の駐車場からかなり登ってきたのが分かる。

山門の奥に建つ本堂

山門脇からの境内を一望
本堂の右手に書院が続く。
養老山地の中腹にあり、本堂・大書院・小書院・庫裏・松平家廟を有する。
高い石垣と黒塀に囲まれた城郭風の伽藍であり、一見すると小規模な城の様子を呈する。
一説には緊急時には美濃高須藩の城としての機能を有していたとされ、
そのため寺院と言うよりも城の御殿に近い構造である。
「お月見の寺」として知られる他、「隠れ城」の異名も持つ。
現在の本堂は天保3年(1832年)の再建、山門は文政3年(1820年)の建立である。』 とあります。

境内の一角にある石垣

石垣の後方の書院、というよりもお寺の方の住居か?
行基が開山というのも凄いですが当寺に葬られているのは更に驚き。
と言いたい所ですが、埋葬の地というのは恐らくは虚構。天皇に懇願して寺を創建して当地の人々に貢献した
行基に対する敬慕崇拝の気持ちがそのような伝承を生んだのでしょう。
【臥龍点睛を欠く】事になった訳ですが、民衆の行基への思慕という歴史的事実ではあります。

参道に並んだ石仏群

石仏近影
表情が豊かなので仏様よりも羅漢様にも見える。

参道脇からの眺め
その名の通り行基が創建した古刹ですが、何といっても7月1日の「ブラタモリ 木曽三川 暴れ川VS人間」に登場し、
タモリさんが庭を絶賛したお寺。TVでは庭園を絶賛されていましたが、境内には石仏や石垣が積まれ、
名古屋城の石垣に使用される予定であった刻紋(こくもん)石が置かれるなど地質的な展示も。
城マニアだけでなくジオマニアにとっても聖地のようです。

石垣の上に建つ石塔とその脇に置かれた刻紋石

刻紋石近影
約400年前の名古屋城築城の折、当山(臥龍山)一帯から採石された河戸石で、蜂須賀阿波守の紋が見える。

参道左手の滝
山腹の割には水が豊富な様子。

滝の左手にある観音像
私もその時TVで初めて知りましたが、かつて押印した駒野駅のスタンプには当寺が描かれていました。
このことは今回の巡礼に当たり、かつての記録を見返していて気付いた話。
スタンプ押印の【きそ】を疎かにした訳で【こまったのう!】です。

石塔付近から山門を望む

駒野駅スタンプ
(上) 近鉄時代 (下) 養老鉄道の現在
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臥龍山 行基寺(浄土宗 西美濃三十三霊場第二十七番札所) 山門前からの濃尾平野の眺望
養老の滝を見て駅に戻った後は、海津市駒野にある行基寺へ。
かつては海津郡南濃(なんのう)町でしたが、海津はそのままで今は市に昇格。
美濃は海に面していませんが、海津と言うからには伊勢湾にまで続く河川交通の港があったのでしょう。
最寄りは二駅先の駒野ですが、電車は50分後。
レンタサイクルは駒野駅返却も可能なので自転車で向かう事にしましたが、
養老山系の麓は予想に反して土地の起伏が激しく、養老駅から11㎞先の道の駅に着いたのは60分後。
【なんのう】その!とはとても行かずに【よろよろ】状態でした。
道の駅の名称は「月見の里 南濃」。ここから向かう行基寺も「お月見の寺」として知られているそうです。
道の駅でスタンプを押印するとキャラクターが入浴しているデザイン。月見うどんの卵と見えたのは
当地の名産みかんのキャラで、月見は未完のキャラの様です。
道の駅で水分補給後、「しじみめし弁当」を食べて再び出発。終点の桑名ならハマグリ弁当でしょうが、
この辺りはシジミが名産なのかと【しみじみ】考えました。

「道の駅 南濃」 スタンプ

昼食は駅で購入した「しじみめし」 とスイーツは「みょうがぼち」
行基寺へは258号線を南東に5分程行った上野河戸から細い道路を南へ直ぐの距離ですが、
下の駐車場からは急勾配の坂が続き、「これは電動でなければ無理だわ!」と降りて歩く事に。
行く手に寺院の塀が見えた時には漸くホッとしました。

寺の下の駐車場に到着
向こうに見える平野部とは未だ高低差は少ない。

駐車場横の参道
この勾配を見て自転車は早々と諦め。

参道を行く事10分で寺の塀が
寺に近付くと右手に常夜灯ならぬ燈台が。こんな山の中腹に燈台が?と不思議でしたが、
説明板に「御山の燈台」と記されており、紛れもない燈台。
『当山伝記に拠れば天平の昔、この臥龍山に大寺院が建立された際、
この地に仏舎利塔と一丈余尺の石積みによる高燈籠が築かれた。
この高燈籠は常夜灯として遠方の人々から菩提山(臥龍山)の燈台、法燈様として崇められた。
戦乱時には狼煙台として使用された事もあるが、鎌倉末期南北朝の頃、兵火に拠り寺院と共に焼失した。

参道を登り切った場所に建つ 「御山の燈台」

燈台の伝記
その後、江戸の宝永年間の初め、当地高須藩初代松平義行公が行基寺を再建された際に、
再び燈台が築かれ、揖斐・長良・木曽の三大川を行き交う船の標識と夜間の目印を示す
御山の燈台(燈標)としての役割も果たした。
時を経て平成の今、先人の残した多くの文化遺産が消え行く事を惜しみ、
当時の資料・伝承に基づき、伊藤源一氏に拠って復元されたものである。』 とあります。

燈台の先には寺院の石垣と黒塀の端が

塀に沿って入口へ向かう

塀を右に曲がった先に見える山門
燈台の形をしていますが、常夜灯・狼煙台・燈台と一台三役。
というよりも時代の状況に拠って用途に変化があったと言うべきでしょう。
辿り着いたお寺は臥龍山の中腹に沿って建ち、石垣の上に黒塀がある要塞のような造り。
成程、寺の塀からは遥か濃尾平野が一望できます。この燈台の説明を見て
改めて当寺の重要性に気付きました。燈台下暗しとはまさにこの事です。

石垣前から揖斐川上流方面を見る
中央の青い橋は津谷川(手前)と揖斐川に架かる福岡大橋。

揖斐川下流方面の眺望
津谷川は当寺付近で揖斐川に合流、中央右に海津橋が架かる。

山門前から来し方を振り返る
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養老山 大菩提寺(臨済宗妙心寺派 西美濃三十三霊場第二十四番札所)
養老の滝所縁の寺社に参拝した後は、駐車場に停めたレンタサイクルで駅方面に戻りますが、
その途中、左手にあるのが西美濃札所の大菩提寺。
寺については滝への往路で気付いていたので、当寺へは復路への訪問。養老の〆となります。

養老の滝へ向かう道路沿いの寺号標と砂利の参道
道路に面した入口からは砂利道ながら広い参道が続き、石段を登った場所に建つのが本堂。
石段の左右は楓が植えられており、秋には紅葉の参道に変わるのでしょう。
いかにも札所の古刹と言った雰囲気です。

草生した石段の先には本堂がお出迎え

正面より見た本堂
養老山大菩提寺(ようろうさんだいぼだいじ)は、
『昭和3年(1928年)、彦根市の石頭山千手寺に祀られていた聖観音菩薩像を本尊として創建。
本尊は後に10万人を越える分量の信者の毛髪を集めて織り上げた如意輪観音像に変わった。
旧本尊の聖観音像と所蔵する曼荼羅は養老町の文化財として登録を受けている。
名称も創建当時は大悲閣と称していたが、昭和28年(1953年)に大菩提寺と改称。
現在は臨済宗妙心寺派寺院として西美濃三十三霊場第二十四番札所となっている。』
とあります。

横から見た本堂前に張り出した向拝

本堂内陣で御本尊に参拝
巡礼札所と言えば、昔から参拝者が訪れた場所と思っていましたが、当寺の創建は100年足らず。
各地の札所の中でも珍しい範疇に入るでしょう。加えて御本尊が聖観音から如意輪観音に交代した上に、
材質は信者の毛髪。大阪には遺骨で作った仏様が鎮座ましますが、これは【もう初】。
本地垂迹説で【かみ】と仏を一体化させた、に【ほんじ】んならではの考えでしょう。

本堂は廊下で庫裏と繋がる

本堂奥の庫裏で呼び鈴を押すも生憎不在
本堂も開放中で内陣にて御本尊に参拝。さて御朱印を拝受すべく寺務所へ伺い
呼び鈴を何度も鳴らしましたが、人の居られる気配はなし。
最近は札所でも不在のところが多く、御朱印は紅葉の頃に持ち越しになりました。

本堂左手に続く細道は墓地へ向かうか?
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伝説と奇談 第16集 東日本編 | 西行 / 平将門 / 関東の天狗 / 河童 / 養老の滝 / 加賀百万石 / 曽我兄弟 / 九尾の狐 中古価格 | ![]() |

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養老神社(元郷社)
こちらが正面。
順序は逆になりましたが、養老の滝に参拝した後、坂を下って神社へ参拝。
本来ならば、孝子坂から右手に入り、社号標脇の石段を登り境内へ向かいますが、
今回は脇の小さな鳥居を潜りいきなり拝殿横へ。
入口には手水鉢が置かれていましたが、水は瓢箪の形の蛇口から湧出。
養老ならではと言えます。

孝子坂にある案内板

滝からの帰路、渓流を見下ろす
手前にあるのは射干。

脇から小さな鳥居を潜る
養老神社は
『養老孝子伝説の源丞内所縁の神社とされ、創建時期は不明であるが奈良時代の養老年間以降と推測。
平安時代の美濃国神明帳には養老明神として記載されている。
永正元年(1504年)には菅原道真を合祀し、養老天神に改称。更に時代は下って明治初期には
近くの元正天皇・聖武天皇祭場を移転して合祀。その際、養老神社に改称している。

鳥居手前の手水鉢
瓢箪から駒ならぬ水。

手水鉢横の石碑は神職の作か
元正天皇の美濃行幸と醴泉については
「私は美濃国の行宮に至り留まる事数日、多藝郡の多度山の美泉(うましいずみ)を見て自ら手を洗うと
皮膚滑らかになる、また痛い所を洗うと癒えない事はなかった。
私の身にはこのような験が起こったが、この水を飲んで浴する者は白髪は黒く、
禿頭には毛が生じ、眼は明るく見えるようになり、疾患は悉く平癒した。
私は、後漢の光武帝の時に醴泉が出て、これを飲む者は皆痼疾が癒えたと聞いている。
この醴泉は美泉で恐らくは水の精なのであろう。これに拠って老を養え。
まことにこの醴泉は瑞祥であって、天下に大赦して霊亀3年を改め養老元年とすべし。」
と『続日本紀』には記事が伝わる。

正面から更に階段を上ると拝殿がお出迎え

参道脇の杉の巨木は御神木か?

正面より見た拝殿
当時の記録から元正女帝の足跡を辿ると、717年9月11日に平城京を出発され、
近江国を経て同17日に西美濃へ到着。養老の美泉を御覧になって大変喜ばれた天皇は、
同年11月17日に詔を出し元号を霊亀から養老へ改めた、となる。
元正天皇が浴された美泉は当社境内に湧出し、天皇が訪れた際に、その泉から菊の香りがした事から
菊水泉と呼ばれるようになった。
孝子源丞内が老父に飲ませたのも、滝ではなく境内から湧くこの水であったと言われる。

拝殿近影

拝殿の屋根
昭和60年7月には環境庁より「養老の滝、菊水泉」が名水百選の指定を受けた。
毎年、春分の日には、孝子・源丞内に扮した女性二人が泉の水を汲み取る
神事「若水取り」が執り行われる。』 とあります。

(右から) 拝殿に続く幣殿と本殿

覆いの内に鎮座する本殿

本殿近影
その名称からも立地条件から見ても、当社が滝を御神体として祀る神社として創建されたのは明らか。
孝子の酒伝説も、一般には滝の水と言われていますが、ここ菊水泉からのものと考える方が
無理が少ないと言えます。
現在は管轄が異なりますが、昔は滝も泉も一連の物として扱っていたので、滝伝説に置き換えられたのでしょう。

拝殿から一段下がった場所に湧く醴泉

菊水泉の前にて

醴泉の由緒記
元正天皇の行幸は、てっきり伝説かと思いましたが、詳細な日付の記録も残っており事実のよう。
そうなるとここの泉に身体や患部を浸したというのも俄然現実味を帯びて来ます。
菊水と言う呼び名も皇室に所縁がありそうですが、菊の御紋が皇室を表すようになったのは
遥か時代は下って後鳥羽天皇の時代なので、ここでは無関係。
菊の香りがしたかどうかは定かではありませんが、身体に【効く水】が菊水に変化したのでしょうか?
『続日本紀』には元正天皇の御言葉が記されていますが、いくら古代とはいえ、
このような【現象】はやや【誇大】広告。
しかし、美貌の女帝として知られた元正天皇の言葉であったからこそ、人々は争って醴泉を求めたとも言えます。
言ってみればモデルですが、それだけ古代の天皇の業務は【多岐にわたって】いたのでしょう。

今も湧き続ける菊水醴泉

醴泉の水はやがて渓流へと合流する
ここならば汲むのも楽である。
境内には滝と同様に、岡山藩の儒者であった近藤篤の養老泉の詩碑の他、笠満誓の万葉歌碑も
沙弥満誓(しゃみまんせい)の名で建立されています。万葉集の歌の内容は養老とは直接の関係はなく不思議でしたが、
笠満誓は美濃守を務めた笠朝臣麻呂の事で、在任中に元正天皇の養老行幸と養老改元を実現させた人物、
満誓は出家後の名でした。出家後は、筑紫歌壇で大友旅人や山上憶良と共に活躍した歌人でもありました。
言ってみれば今に至る養老の大恩人でもある訳で、もっと注目されて然るべき人物の様に思います。

近藤篤に拠る養老泉碑

碑の解説

細川十州に拠る美泉詩碑 (七言絶句)

詩碑解説

本殿の脇には萬葉歌人・笠満誓の歌碑が建つ

歌碑解説
このように歴史を誇る養老神社も今は無住、辛うじて参道の売店で御朱印を扱うのみでした。
養老神社もそうですが、奈良時代から続いた社寺に吹く風は【まんせいてきに】厳しいものがある様子でした。

養老神社御朱印
孝子坂途中の土産店で購入。
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【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36)
大垣駅(9:08) → (養老鉄道) → 養老(9:30) → (レンタサイクル10分) → 養老寺 → 徒歩15分 → 養老神社 → 徒歩15分 → 養老の滝 → 徒歩30分 → 養老寺 → (レンタサイクル5分) → 大菩提寺 → (レンタサイクル50分) → 道の駅 月見の里 → (レンタサイクル10分) → 徒歩10分 → 行基寺 → (レンタサイクル10分) → 駒野駅
【復路】駒野(15:16) → 大垣(15:53→16:04) → JR米原(16:39→16:47) → JR大阪(18:13)

養老の滝(揖斐関ヶ原養老国定公園 日本の滝百選 名水百選)
養老寺から坂道を20分程登った先に滝はありますが、結構な人出と共に参道は
土産店・飲食店が並んでいるので不便はなし。殆どの店では「養老サイダー」が販売中。
中には顔ハメを置いた所もありました。

孝子とサイダーの顔ハメ
養老公園内にある観光案内所 「親孝行のふるさと会館」 前にて。
養老サイダーは公園内に会社と工場を持ち、養老の名水を使って製造されていましたが、
施設の老朽化や高齢化を理由に平成12年(2000年)12月に製造中止。
しかし有志の発案で別会社として復活、名前は以前のものをそのまま踏襲しています。
飲みたい衝動に駆られましたが、坂道を登る途中で息が上がるのを心配したので買い控え。
相当な坂道でしたが、木々と清流の御蔭か暑さそれ程でもなく、これはサイダーを飲んでも問題なかったようです。

渓流に架かる橋を渡り滝へむかう

渓流の両側には楓が
滝へは寺から渓流の左岸を西上。この辺りの道は養老孝子坂と呼ばれ、滝に至るまでに
渡月橋・妙見橋・もみじ橋・万代橋と四ツ橋が掛かりますが、もみじ橋の名前にあるように、
川の周辺は楓の木が生い茂る状態。秋には真っ赤なトンネルを進むことになります。

渓流添いの坂道を行く

来た道を振り返る

ようやく行く手に養老の滝が遠望
養老の滝は、
『木曽川水系に属する落差32m、幅4mの滝。岐阜県に拠り設置された養老公園内にあり、
揖斐関ヶ原養老国定公園に属する。
『古今著聞集』に記載されている滝の水が酒になったという親孝行伝説「養老孝子伝説」の故事で知られ、
日本の滝百選及び養老の滝・菊水泉として名水百選に選定されている。
その雄大な姿から多くの人々に愛され、江戸時代には葛飾北斎・歌川廣重も浮世絵に描いている。
また文人の関心も高く、梁川星巖は養老と改元した事を七言絶句に詠んだ石碑が滝入口に、
飛騨高山の国学者・田中大秀翁が養老の滝を美泉と弁じた石碑が滝の脇に建つ。

滝入口に建つ梁川星巖の石碑

間近で見る石碑

石碑の解説

石碑の建つ場所からの滝の遠望

滝の水は酒にならずに渓流に

山道途中で最も滝が近くに見える場所
田中大秀は安永6年(1777年)、高山に生まれる。本居宣長に師事し彼の学風を継承した。
文化11年(1814年)、大秀翁は「養老美泉録」を著し、これを機に尾張藩儒・秦鼎と
養老の美泉についての論争を繰り広げる。
翌文化12年には養老美泉碑を建立するものの、彼の死後、秦鼎の門弟が養老美泉録の版木を焼却、
養老美泉碑を打ち砕くと言う挙に出た。
明治31年(1998年)になって大秀の流れを汲む高山の山崎弓雄等社中の人々が碑の再建を図り、
殆ど原型に近い碑を再建し、現在に至っている。』 とあります。

いよいよ養老の滝に御対面

滝へは注連縄の張られた岩の間を抜ける

注連縄の張られた大岩

思ったより水量の多い養老の滝

岩から水飛沫をあげて落下する滝

滝壺近影
当たり前だが看板には禁泳とある。
文人墨客がこの名瀑の由来をどこまで信じたかは甚だ疑問ですが、
詩歌を作る格好の題材を提供したのは確か。
一人の有名人が詩歌を作ると、それに続いて或いはそれを凌ごうとする人が跡を絶たないからで、
各地の名所に歌碑や句碑が建つのは彼らの競争心の賜物と言えます。

滝の脇には滝不動尊が鎮座

更に奥に進むとこのように滝を祀る場所と東屋(休憩所)が

滝の近くには修験者の顔ハメ
中には行き過ぎた人も居る訳で、田中大秀の碑文を壊すなどはその典型。
詳細は分かりませんが、文学で勝負せずに碑を引き倒すなどは、相手の力不足を認めたようなもので、
却って贔屓の引き倒し。大秀の門下は碑を破壊した関係者が皆亡くなった頃を見て再建に取り組んでいます。
双方の行為を比べると大秀の方が遥かに大人の対応。何はともあれ、碑が【もとおり】に戻って何よりでした。

論争の元となった田中大秀の石碑

石碑の顛末
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瀧壽山 元正院 養老寺(浄土真宗大谷派 西美濃三十三霊場第二十五番札所)
源丞内墓碑
養老寺の奥の一角には開基の源丞内(げんじょうない)の碑がひっそりと建ちます。
当寺の由来となった人なので、ここは素通りする訳にはいきません。
『元正天皇の御代、養老山の麓に源丞内と言う貧しい樵(きこり)が住んでした。
朝な夕な山で薪を採っては年老いた父を養っていたが、父親の好む酒は十分に求める事は出来なかった。

横から見た不動堂とその奥にある丞内の墓碑
或る日、山に行った丞内は岩根を伝わる滝の水を眺めながら
「ああ、この水が酒であたらなぁ。」 と思った時、不覚にも転倒。その時、どこからともなく
酒の香りが漂い、不思議に思って辺りを見回すと付近の岩の間の泉から山吹色の水が湧出。
舐めてみると美禄の香りを放つ真の酒であり、「天よりの授け物だ」と喜んだ丞内は
ひさご(瓢箪)に詰めて持ち帰った。
始めは半信半疑であった父親も、一口飲んでうち驚き、二口飲んで額を叩き、
三口飲んでは手を叩き、二人の喜ぶ声は近隣にまで聞こえたという。

墓碑の脇には養老改元1300年記念碑が建立
やがてこの事は都の元正天皇の耳にも達し、
「これは源丞内の感心な孝行の行いを天地の神々がお褒めになったものである。」と仰せになり、
天皇自身も当地へ行幸。年号を養老に改め、源丞内を役人に取り立てた。』 とあります。

墓碑と石仏
今も参拝する人が多い?
養老の滝は、元正天皇の御代に、老父を養っていた美濃の貧しい木こりであった源丞内(げんじょうない)が、
酒の香りのした湧水を瓢箪に入れて持ち帰り父に飲ませたのが始まり。
後に現地を訪れた天皇もその霊泉で病が回復、養老と改元したのが由緒。
風邪に改源は効きますが、酒で改元は稀な話。

墓碑の周りには歌碑や句碑が建つ
いくら古代でも酒が湧き出るのを信じる程、民衆は愚かではありませんし、そんな事は【現状ない】もの。
しかし源丞内は『続日本紀』にも登場する実在の美濃国司なので、恐らく貧しい身から
立身出世し彼から伝説が生まれたもの。
奈良時代は皇位を巡る争いや疫病もあって社会不安が増大した時代。国家を救うために
聖武天皇が奈良に大仏を、諸国に国分寺・国分尼寺を建てるのは元正天皇に続く時代になります。
そんな時代にあって人心掌握するのに利用されたのが改元で、しかも普通に改元するだけではなく、
なにがしかの瑞祥を踏み台に行ったのが【随所】に見えます。
養老の前後は霊亀・神亀で、偶々甲羅に目出度い文字が見える亀が捕まったのが理由とか。

・多岐輪中 大垣輪中 夏に入る と読めるが…
甲羅の模様が文字化けするとは考え辛く、政権側がなにがしかの細工をしたのはほぼ確実。
これで社会不安が収まればよいですが、中々思い通りにいかないのが政治。その後も度々行われています。
これから半世紀後には宝亀が登場。再び亀にお呼びがかかった訳ですが、
人民は「懲りんやっちゃなぁ。」 と呆れていたに違いありません。
己の出世を上手く利用された源丞内ですが、彼がどこまで関わっていたのかは疑問。
しかし背景を思うと彼の周囲にも、酒臭さならぬ胡散臭さが漂うのもまた事実と言えそうです。

養老孝子御朱印
住職夫人の話では、こちらが本式だそう。
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瀧壽山 元正院 養老寺(浄土真宗大谷派 西美濃三十三霊場第二十五番札所)
駅で¥100のレンチャリで滝へ向かいますが、距離的には2㎞ですが上り坂で滝に近付くにつれて
勾配は急に道は細くなったので、止む無く1㎞手前の駐車場に停めて徒歩で滝に向かう事に。
その前に駐車場の向こうに寺院と寺号標が建っていたので、先ずはこちらに参拝する事に。

広い空き地の奥にひっそりと堂宇が見える

山門はないが代わりに寺号標が建つ
瀧壽山元正院養老寺(りゅうじゅさんげんしょういんようろうじ)は、
『寺伝に拠れば、奈良時代の元正天皇の御代に創建されたと伝わる。
後に美濃守となる源丞内(げんじょうない)の養老孝子伝説が平城京にまで聞こえ、
元正天皇は霊亀3年(717年)多度山に行幸。美泉に浴し痛んだ箇所を洗ったところ速やかに回復。
「醴泉は美泉であり、老を養う水である。」との言葉を賜り、年号を養老元年と改元、
天下の八十歳以上の老人に位一階を授け、孝子の節婦などを表彰した。

寺号標の後ろにある鐘楼

空き地から一段高くなった場所に建つ滝守不動明王堂
今や境内に残る唯一の堂宇でもある。
養老2年(718年)には七堂伽藍を創建、寺号を賜わり瀧壽山元正院養老寺と称する勅願所となった。
滝守護不動明王を勅納し、寺家30坊・寺領300石を賜り源丞内を開基に。当初は法相宗寺院で、
養老山麓は法相宗修業地として大規模な伽藍が営まれた。場所は現在より南東約1㎞の地点であったという。
一説では不動明王は鯰に乗って来たと言われ、そのため鯰を食べて参拝したり、
滝に浴したりすれば罰があたると伝わっている。
鎌倉時代初期に天台宗に改宗、十一面千手観音を本尊として当寺を永く護持した。
しかし永禄5年(1561年)織田信長の兵火に拠って堂宇は悉く焼失、寺領も剥奪された。
その際、滝守護不動明王・十一面千手観音等の寺の重要宝物は滝谷に避難しており難を免れることができた。

前方より見た不動堂

横から見た不動堂
堂の前で掃除されている方が、前住職夫人。左奥には孝子の奥津城がある。
その後、大垣城主伊藤長門守が帰依した事で、天正18年(1590年)2月に仮堂再建。寺領も寄付された。
更に慶長始め、高須城主徳永石見守が夢の霊告と当地が符合した事に感激し、再建の志篤く、
慶長元年(1596年)に再建に着手、同12年に諸堂坊舎悉く完成するに至った。
その時の住職が感謝の記に比叡山より雄松を持ち帰り植樹したが、三百年後の明治29年に枯死、
続く二代目の松も昭和63年に枯死した。今は徳永松として本堂前に名を留めるのみである。

堂前より内陣を見る

前に張り出した向拝
関ヶ原合戦の折には、徳川家康が当寺に戦勝を祈願、戦後成就を喜び、
新藤五国光の太刀を寄贈しており、今は国の重要文化財となっている。
この頃、真宗大谷派初代教如上人が揖斐郡春日谷で教化中に当寺の住職が帰依。
真宗大谷派に転派して阿弥陀如来を本尊とした。
享保11年(1726年)、霊元天皇が病になられた折、元正天皇の古事から、
菊水の霊水を取り寄せて薬湯として用いたところ病気は回復。
喜んだ天皇は父後水尾天皇の御宸翰懐紙を下賜されている。

向拝の木鼻の象の彫刻

不動堂扉の彫刻
当寺は創建より1300余年を経て堂宇の傷みも烈しく、400年前に建造された本堂は平成17年の豪雪で
屋根が損傷。応急措置で一事は凌いだものの平成26年に取り壊しを余儀なくされ、
現存するのは不動明王を祀った不動堂と宝物殿のみである。
このように幾変遷を経てはいるが、元正天皇の御病気平癒並びに孝子の遺跡霊場として
同帝の天牌を奉安し、宝祚萬寿天下泰平を祈ってきた勅願の古刹である事に変わりはない。』
とあります。

もう一つ残った宝物殿

寺宝一覧

在りし日の本堂と重文・十一面観音像
先代住職夫人から頂いた写真から。
寺標脇には広い空き地があり保育園予定地の看板が建ちますが、境内のお堂はその奥にひっそり建つのみ。
横の道を抜けて滝へ向かう人は多いですが、参拝者はほぼゼロ。
宝物殿は閉鎖中でしたが、不動堂は内陣へ入り参拝できました。
さて御朱印は?と思い手前に建つ家の呼び鈴を押すと年配の夫人が対応。御自宅が寺務所を兼ねたようです。
保育園に向かわれるとの話でしたが、時間を割いて頂きました。
夫人 ; 「最近、住職が亡くなったので、取り敢えず私が書かせて貰います。」
私 ; 「とんだ事でしたね。ここが本堂ですか?」
夫人 ; 「いえ、少し前までは本堂もあったのですが…。」
とかつて不動堂の横にあった本堂の写真も見せて頂きました。
私 ; 「子供さんは継がれないのですか?」
夫人 ; 「檀家が二軒しかないので、息子も他へ行って居りまして…」
との事。厳しい現実を目の当たりにしました。

不動堂に掲げられた扁額

御本尊は内陣の厨子の中に
御開帳は年に一度だとか。

不動堂前からの眺望
遥か眼下に街が遠望できる。
御朱印と同時にお寺の解説書も入手。それまで養老寺しか知りませんでしたが
「養老志」と記された表紙には山号院号も記載。山号の瀧寿は目出度い養老の滝から、
院号の元正は天皇の名前に由来するのは言うまでもありません。
奈良時代に由来する社寺も時代の流には逆らえないのでしょう。現在のお寺の経営は檀家(老)ではなく、
保育園(幼)に頼っているのが実情。【養老】の地だけに何とかして欲しいものです。

養老寺の概説冊子を拝受

養老寺御朱印 (西美濃三十三ヵ所札所)
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養老駅舎
9時8分の桑名行きに乗って、7駅先の養老で下車。
町の中心は一駅手前の美濃高田ですが、こちらは観光地である養老公園の玄関口。
有人駅で、電動ではないものの1日¥100でレンタサイクルもあります。
ホームに降りると風格のある駅舎がお出迎え。

養老駅スタンプ
(上) 近鉄養老線 (下) 養老鉄道の現在

近鉄養老線時代には、このように補助印?も設置
『現在の駅舎は、大正8年(1919年)全線開通時のもので、入母屋造・本瓦葺で棟が高く、
当時は二等・三等待合室もあり、立派な風格を備えている。駅舎に接したホームの天井には、
当地所縁のヒョウタンがぶら下がり、いかにも観光地の駅らしい。
駅西1.5㎞にある養老公園は日本三名瀑の一つ養老の滝を中心に養老さんの麓に作られた自然公園で、
滝水が酒に変わった「孝子物語」は有名である。
その酒を汲んだと言われることからヒョウタンが土産店に並び、
家族連れや学校の遠足等で一年を通して賑わう。』 とあります。

改札口からホームを見るとヒョウタンが吊るされている

駅名の看板も瓢箪を組合わせた文字

養老駅記念入場券
猫キャラは 「養老ひょうた」
大正モダンな駅舎は養老と言う名前とはまさに対照的。駅舎大賞を上げたいくらいですが、
既に文化財に登録済でした。古ければ良いとは一概には言えませんが、本当に良いものは
時代を越えて受け継いで行くべきでしょう。
ここの行政区は現在も養老郡養老町と平成の大合併にも近隣の市に編入されることはなかった様子。
日本三大名瀑については異論もありますが、どこの都道府県にあるかは知らずとも、
養老の滝の名は殆どの人が知っている筈。なにせ霊亀から養老に改元までした訳ですから。
風邪に改源は効きますが、酒で改元は後にも先にもこれ1一回きり。決して居酒屋だけの影響ではありません。

駅舎玄関近影

駅前にある国定公園案内もひょうたん型

駅前に建つ養老孝子 「源丞内(げんじょうない)」 石像
面白いのはヒョウタン(瓢箪)。駅で瓢箪を売りにしているのは私の知る限り御殿場線の
上大井駅くらいでしょうか?駅の看板文字もヒョウタンでしたし、滝の途中には瓢箪を扱う店も。
アフリカ原産のヒョウタンは昔から容器として重宝され、ケニアのマサイ族の水筒はヒョウタン製。
唯、あちらのものは筒形で全体に紐を掛けて持ち運ぶものが多いよう。
日本の様に真ん中が括れていれば、短い紐を掛けるだけで落ちずに済みますが、
この形に育てるには工夫がいるのだとか。

滝へと向かう途中で見かけた「安田ひょうたん店」

ショーウインドウに展示された瓢箪の工芸品

養老公園口郵便局 ; ひさご形の中に養老の滝、紅葉
酒の故事由来でしょうが『南総里見八犬伝』の網乾左母二郎(あぼしさもじろう)ならばいざ知らず、
今時、瓢箪に酒を入れて携帯する人が居るのでしょうか?
売られている瓢箪も芸術品と言う感じで、昔と違って 「酒を入れたら瓢箪が傷んでしまう。」 となるでしょう。
それより瓢箪漬を使った御飯が「養老飯」として販売、じわじわ人気が出ている様子。
ヒョウタンは昔から有毒とされますが、漬物にしたら毒が消えるのでしょうか?
町を挙げて「俺たちひょうたん族」をアピールしています。

駅舎に対面する孝子像

案内所に架けられた垂れ幕
土産は周囲に店がない駅前にあって唯一のお店でサイダーの代わりに「きびようかん」。
ガイドにも載る品ですが、前回は平日だったので閉店。二度目の訪問で漸くゲット。
酒や滝とは関係なさそうですが、お店の方の話では、付近は米には不向きなのでキビ(黍)を植えていたのだとか。
酒で知られた町にしては酒の販売は見かけませんでしたが、代わりに復活した養老サイダーが新たな目玉商品。
プラスチック製のヒョウタンに詰めて売れば人気が出そうにも思えますが、サイダーは振ると炭酸が抜けるので、
逆養老の滝になってしまいそうなのが難点です。

駅前の孝子像の向こうに建つ 「きびようかん本家」

お土産は「吉備羊羹」 を二棹
お店の方の話では、最近は凍らせて食べる若い人が多いとか。
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養老鉄道大垣駅ホーム
八月最初の土曜は、涼を求めて呑み屋ではない養老の滝へ向かいますが、大垣駅が旅のスタート。
揖斐川・杭瀬川・水門川に囲まれた水郷の町大垣は、中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点で
古くからの交通の要衝。天下分け目の関ヶ原合戦では西軍の石田三成は大垣城に本陣を置き、
江戸時代は戸田氏十万石の城下町として栄えました。
元禄2年(1689年)に江戸深川を出発した松尾芭蕉の「奥の細道」の結びの地としても有名です。

大垣駅スタンプ
(上) 近鉄時代 (下) 養老鉄道の現在
『大垣駅の開業は名古屋・岐阜よりも早い明治17年5月25日。当初は関ヶ原越えの補助機関車の基地として、
動力が近代化されると電車区が置かれた。現在、JR東海とJR西日本の境界は米原駅であるが
車両区が置かれるなど、ここを起点・終点とする電車は依然として多い。
国鉄時代から名門の大垣駅であるが、交通の要衝に相応しく、ここから樽見鉄道・養老鉄道が分岐。
前者は国鉄樽見線が昭和59年に第三セクターに転換したものだが、後者は大正2年(1913年)に
養老-池野間に開業した養老鉄道が前身。軌間1067㎜で、同8年に桑名・揖斐まで開業。
同12年に電化され現在に至っている。長らく近畿日本鉄道養老線として運行していたが、
平成19年(2007年)10月1日付けで近鉄傘下の養老鉄道株式会社となった。』 とあります。

養老鉄道ホームの標識
奥に停車中の車両は東海道本線のもの。

ホームから西方面を見る
(左) 桑名行 (右) 揖斐行
鉄道ファンにはかつての東京発の東海道線下りの夜行、更には「快速ムーンライトながら」の
終点であったことを懐かしむ方も多いでしょう。今でも重要性は変わらんように思えます。
目指す滝の最寄りは養老鉄道で大垣から少し南下した同名の養老駅。
かつては近鉄養老線だったので株主優待券1枚で上本町から大阪線・名古屋線経由で行けましたが、
今は養老鉄道なので別料金が必要。
しかしその後も多度など養老鉄道沿線は今でも桑名から行くことが【多度】。
18きっぷでJR大垣から南下したのは今回が初めてでした。

桑名行車両のラッピングはシナモンロール

大垣駅記念入場券
キャラクター猫は 「大垣しろ」
乗換えに30分あったので、見回っていると記念入場券セットが販売中。
管内の有人7駅の駅舎の写真や猫のキャラクターが描かれたものですが、
入場券¥210にしては、お値段高めの¥2940。
さてどうしようかと悩んでいると、1日フリーキップ¥1500が含まれた値段。
それならフリーキップを使えば良い訳で、無事出発前に購入。
行き先から判断して、左程【不利】にはならず、【人の振りして我がフリー使え!】との教訓でした。

養老鉄道入場券セット ¥2,940

養老線1日乗車券
通常は枠内にペンで書きこむが、今回は改札でスタンプを裏面に押印。
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<コース> 夏の青春18きっぷ + 長良川鉄道1日フリーキップ(¥1,300)
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岐阜(8:53→9:09) → JR美濃太田(9:44→9:56)
美濃太田(9:56) → (長良川鉄道) → 美濃市(10:27→11:16) → (観光列車「ながら」1号) → 大矢(10分停車) → 郡上八幡(12:16→12:22) → 美濃白鳥(12:47) → 徒歩8分 → 白鳥神社 → 美濃白鳥(13:26) → (観光列車「ながら」2号) → 郡上八幡(13:51→14:13) → 関(15:15→15:32) → 美濃太田(15:50)
【復路】美濃太田(15:56) → JR岐阜(16:35→16:49) → JR米原(17:39→17:47) → JR大阪(19:13)

美濃白鳥駅ホームに停車中の観光列車「ながら2号」
白鳥神社参拝の後は駅まで戻り、観光列車「ながら2号」で美濃太田駅まで。
行きの1号が北濃で折り返したもののようです。
長良川では鮎釣りの太公望が犇めていましたが、郡上大和付近でいきなり対岸に巨大な恐竜が出現。
なんだろうと思っていると、CAさんの説明で恐竜模型を製造している会社だと分かりました。
郡上八幡には食品サンプルを最初に始めた会社がありますが、
長良川鉄道沿線は模型造りに適しているのでしょうか?

「ながら2号」車内
折り返しなので「ながら1号」車内と変わらないのは【しゃーない】か!

昼を過ぎても長良川には太公望の姿が

いきなり恐竜が対岸に出現!
帰りの列車では行き程、イベントがありませんでしたが、
美濃市駅のホーム停車中の車体には個性的なキャラが。
車内説明で、さくらももこさん作の「GJ8マン(ジー・ジェイ・エイトマン)」とか。
初めは不思議な名前と首を傾げましたが、【ぐじょうはちまん】をアルファベットと数字で表したものと分かり納得。
文字通りGood Jobです。説明では、作者が頼まれもしないのに勝手に考えてみたそう。
漫画家として多忙を極めた方だったと思いますので、勿論【さくら】などではなく、
余程この町が気に入られたのでしょう。故人となられたので確かめる術はありませんが、
それにしてもこれだけ思いが強いのは、さくらさんが【清水】出身だからと勝手に納得した次第。

「GJ8マン」のラッピング列車
そうこうしているうちに列車は関駅に入線して17分待ちの間に最後の押印が完了しました。
結局、観光は美濃白鳥駅で下車した白鳥神社だけで、他は車窓からの眺めだけでしたが、
様々な列車にも遭遇し全八駅こんぷりーと。
ラリー開催から2週間であったため、スタンプの摩滅・汚れ、インク切れもなく、
理想状態で押印でき15時50分に始発の美濃太田駅着。郡上でグッジョブでした。
沿線にある刃物の産地・関では「鉄は熱いうちに打て」ですが、今回は「テツは新しいうちに押せ」を実践。
唯一の名産・関のうなぎを食べ損なった事が心残り。
押印にかまけていたためで、思わず「私バカよね~♪」と呟いた次第です。

関駅のスタンプ台

関駅で関駅・富加駅の二印を押印
黒・四角は史蹟、文化財を表す。

関駅で押印したコンプリート(完全制覇)印 と記念の缶バッチ
赤・六角はレジャー、スポーツを表す。

記念品には¥500以上のグッズ購入が必要なので、カレー¥600 × 2個購入
[参考書]
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美濃太田(9:56) → (長良川鉄道) → 美濃市(10:27→11:16) → (観光列車「ながら」1号) → 大矢(10分停車) → 郡上八幡(12:16→12:22) → 美濃白鳥(12:47) → 徒歩8分 → 白鳥神社 → 美濃白鳥(13:26) → (観光列車「ながら」2号) → 郡上八幡(13:51→14:13) → 関(15:15→15:32) → 美濃太田(15:50)
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白鳥神社(旧郷社)
白鳥神社を特徴付けるもう一つのものは、天然記念物になっている社叢。
入口の石碑にもその記載があります。その中でも、群を抜いているのが大欅(おおけやき)。
『御神木の大欅は白鳥神社の杜の中に実生し、千五百年の歳月を生き続けていた。
その旺盛な時代には樹高35m余、胸高直径2m余の堂々たる巨樹であり、
注連縄の張られた姿は誠に神々しく、近郷近在何処へ行っても見る事のできない
立派な御神木であり白鳥神社の誇りでもあった。

本殿横にある大欅の後継の巨木

御神木紀文碑

大欅の由緒記
平成の初め頃から樹勢が急速に衰え初め、樹木医や総代・氏子の必死の努力も空しく、
平成10年5月に樹木医より枯死の判断が下された。
永年に亘り白鳥の里を見守った御神木であったが、平成12年11月に根元から若干の樹幹を残し伐採。
この時、切り倒す作業を始めると晴天が俄かに曇り激しい降雨となったが、
伐採が終了すると雨は上がり青空になった。人々はこの時、残された切り株に神が宿ったものと信じ、
その幹に鞘を掛け永久に敬いこの切り株で往時の英姿を偲ぶ事とした。
現在、本殿横には後継の欅の巨木があり、同じく神宿る木として崇拝されている。』 とあります。

本殿横に建つ白鳥稲荷神社

白鳥稲荷神社由緒

稲荷神社の奥に広がる社叢
大欅に限らず境内には巨樹が散見されますが、社叢が保たれたのは豊富な水に恵まれたから。
郡上八幡と同様、この白鳥町も水の街のようで境内にも池が満々と水を湛えていました。
御神木として地域の人々を見守った大欅も残念ながら寿命には勝てなかったようですが、
その後継木があるので、今後はその木が地域を見守り続ける光景が見られることでしょう。
唯、このような社叢を長良川鉄道の車窓から眺めることが出来ないのは残念ですが…。

境内にある池

豊富な水が育んだ社叢

拝殿、本殿と奥に続く社叢

稲荷への参道の両側から迫る巨樹
[参考書]
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白鳥神社(旧郷社)
昔ながらの町並みを抜け、清冽な水路を横に見ながら10分程歩くと、大きな鳥居が。
白鳥神社は、
『社伝に拠れば、仲哀天皇の時代この地に1羽の大きな白鳥が飛来。
数日に亘り上空を舞い飛んだ後、森の梢に1枚の羽を残して飛び去った。
村人たちはこの白鳥を日本武尊であったと考え、羽を祀ったのが嚆矢とされる。

入口に建つ木の鳥居と社叢

鳥居脇にある白鳥おどりと社叢の石碑

力石

帽子を被った貴婦人の様な常夜燈
また別の由緒には養老6年(722年)、都から美濃へ入った泰澄が白山に帰る途中、
この付近で空を舞っていた白鳥が舞い降りて天女の姿になり、
「これより北五十町に霊地あり、必ず伽藍を建てるべし。」 と告げて再び飛び去った。
此の地を霊地と感じた泰澄は白鳥寺を建立、その境内に白山頂上に祀る伊弉冉尊を勧請して
白鳥社を創祀したのに始まるとされ、日本武尊と伊弉冉尊を合祀したと言う。

鳥居の奥に見える拝殿

拝殿遠望

拝殿近影

拝殿前面の組物と彫刻

横から見た拝殿
その後、室町時代の足利義政の頃、当社永久保存のため地頭遠江佐倉は田7段を奉納。
慶長年間に白鳥寺は廃寺となったが神社は存続し、嘉永5年(1852年)に
越前志比の名匠大久保吉郎右衛門に拠り今の本殿が建立。
彫刻は尾張の名人瀬川治助重光の手になり、本殿裏手の欅の巨木1本から造ったとされる。
明治4年(1871年)に郷社に列し、同40年(1907年)には境内社として稲荷神社が創建されている。
同年の白鳥大火では拝殿焼失の被害を受けたが、
本殿は氏子と町内の人々の必死の努力で類焼を免れている。
焼失した拝殿は明治末年に越前志比の大工大久保作左右衛門が再建している。』
とあります。

後方から見た拝殿

拝殿の奥に建つ本殿

本殿と大欅

正面から見た本殿
但し、見えているのは本殿の覆い堂である。

本殿中門の欄間彫刻
由緒は仲哀天皇と泰澄と時代も人間も【たいちょう】的ですが、共通項は「白」。
歴史学で引用される加上説に従えば、より遅い泰澄の由緒が事実に近いとなります。
後に、中央との関りを持ちたいと願った人達が、白山を白鳥に変え、
御祭神を日本武尊にしたのではと想像を【かくちょう】してしまいます。

中門の屋根

本殿

本殿の彫刻

本殿

由緒記
[参考書]
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美濃白鳥駅舎
郡上八幡を出発して、美濃白鳥駅で下車。
駅スタンプは最北の北濃までありますが、無人駅のため、ここ美濃白鳥駅で管理。
この日の長良川鉄道での最北駅となりました。
ここで次の上り列車まで39分。観光らしき事を何もしていなかったので、白鳥神社へ参拝することに。
この日、唯一の観光を敢行しました。

待合室の天井

改札外に設置されたスタンプ台

押印した美濃白鳥駅スタンプ
黒・四角は史蹟、文化財を表す。

同時に押印した北濃駅スタンプ
黒・丸は自然景観を表す。
神社までは8分程度ですが、町を歩くと街道沿いに醸造元などの
昔【ながら】の町並みが残り、道路脇に水路が流れています。
これは単に郡上八幡の二番煎じではなく、この辺りの地形を有効活用した結果、
似た景観になったのでしょう。同じような事は飛騨高山と飛騨古川にも見られます。

美濃白鳥駅舎全景
駅前からは、JR九頭竜湖駅、郡上八幡、石徹白(いとしろ)方面へのバスが発着。

街道沿いの家屋

和風と洋風の建築

街道沿いの醸造元

醸造元玄関に掲げられた看板
時代を反映して右書き。

蔵元の脇にある門
ここからできた酒を運んだか?

白鳥神社への道
道路脇を水路が流れる。
加えて駅舎を出ると「白鳥踊り」の垂れ幕が。郡上踊りは有名ですが、白鳥踊りとは初耳。
郡上踊りが有名なので真似をしているように思い勝ちですが、昔から行われている盆踊り。
辺りが盆地なので盆踊りという訳ではないですが、郡上八幡同様、地元に根差した文化です。
「白鳥の湖」を連想する人もいるかもですが、これは盆地ではなく谷間(バレー)でしょうね!

駅前商店街の幕

駅前に建つ「白鳥おどり」の像
郡上おどりと同じ、徹夜踊りだそう。
[参考書]
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郡上八幡駅舎
大矢駅で停車後は、ながら1号は郡上八幡駅までノンストップ。
ここで後ろの鮎号を切り離し、森号のみで更に北上。切り離しの時間が6分あったので、
すかさず押印して車両に戻りますが、ホームは一見の価値あり。

ホームでの切り離し作業
鮎号(左)と森号(右)。

改札外に設置されたスタンプ台
12時過ぎのため、郡上八幡駅&大矢駅 の2印が置かれていた。

押印した郡上八幡駅スタンプ
赤・五角は、風俗、祭、行事を表す。
長良川鉄道は本州最長の三セク鉄道で国鉄時代の古い駅舎が、
今も保存されている駅舎マニアには聖地のような場所。
特にここ郡上八幡は単に古びた駅舎ではなく、芸術性を持たせた入口や待合室、
駅長室にもそこはかとない郷愁を感じます。
唯、文化財になっているため改築はできないので、不便さは致し方ないのだそう。

跨線橋

1番ホームに停車中の列車

昔ながらの駅長室

駅長室前から美濃太田方面を見る
長良川鉄道をはじめ天竜浜名湖鉄道、若桜鉄道等古い駅舎が残っている路線は多いですが、
これは意図的に残そうとしたのではなく、失礼な言い方ですが駅舎を建て替える余裕がなかったからでしょう。
こんなお荷物とも言うべきものが、脚光を浴びるとは想像すらしていなかった筈。
JRではなく、3セクになったが故に改築できなかったのが幸いしたようです。

改札口

待合室

1両になった「ながら森号」で北濃に向けて出発
[参考書]
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観光列車「ながら1号」の車窓から
深戸~相生間、左に見えるのは東海北陸道。
ながら1号で移動し【ながら】押印する旅ですが、列車は清流長良川に沿って北上。
郡上八幡駅まで、美しい車窓を眺めながら合計6本の橋梁を渡ります。
ながら1号にはCA(カルシウムではない!)の方が乗車されて、沿線の見所を説明。
景色の良い場所では停車して写真撮影もできました。観光列車の特典と言えます。
川は北上するといっても蛇行している訳で、大きくU字型に曲がった岸には
前年の大雨で流された大木が未だに岩に引っ掛かっていました。
河口の岐阜市内と異なり、鉄道から見える長良川は川底まで見える透明度。
四万十川と並ぶ清流と呼ばれるもの納得です。

湯の洞温泉口を過ぎた最初の橋梁から

八坂駅を過ぎた第二橋梁上から
正面に見える赤い橋は勝原橋。

長良川が大きく湾曲する美並町白山付近
福野~美並苅安間。

U字に流れる長良川

岸に引っ掛かった大木

川は湾曲を過ぎ北上
長良川と言えば千年の歴史を誇る鵜飼の鮎が有名ですが、あれは下流での話。
太公望にとっては、やはり上中流での友釣りが醍醐味でしょう。鮎は1年で生涯を終える魚。
幼魚の時期は昆虫を主食としますが、成魚になると川底の岩に生えた藻類のみを食べます。
養殖した鮎と異なり天然鮎は釣った場所によって香りに違いがあるとか。
これも食用とする藻類の影響でしょうが、透明度が高い長良川では
藻類も盛んに光合成を行って成長する事が預かっているようです。

赤池付近

この辺りになると岸辺に岩場が目立つようになる

赤池駅を過ぎ橋梁を渡る

深戸駅を過ぎて
東海北陸道は川を通り山田トンネルへ。

深戸トンネルを抜けた東海北陸道

長良川に架かる東海北陸道橋脚

遠ざかる橋脚を見ながら列車は八幡町へ
丁度、解禁の時期なので川は鮎を狙う人達でいっぱいでした。
鮎は己の縄張りを持って行動しますが、釣り人も自分のエリアを守って竿を垂らしています。
縄張り式は魚も人も変わらんようで面白みを感じます。
こうして長良川に沿って景色を北濃ならぬ堪能しつつ郡上八幡駅へ。
現在ならばトンネルや高架を使ってもっと短い路線にするでしょうが、
国鉄時代に敷設された故に、古の街道に沿った形。
やはり長良川は【うかい】して見る価値がある川でした。

八幡に近付くと太公望もチラホラと

川が曲がる場所にも太公望の姿が

こちらは「ながら1号」を撮影するマニアの人達

郡上八幡駅の手前にて

郡上八幡駅の手前のこの場所からは白山が遠望できるそう
[参考書]
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大矢駅ホームでは円空仏(複製)がお出迎え
今は郡上市だが平成の大合併以前は郡上郡美並村であった。
ローカル鉄道は、全てではないものの単線・非電化が特徴。
大都市圏では会えない光景を目にする事ができます。
その一つが駅での行き違いの列車待ち。駅によってはタブレット交換がありマニアには垂涎の的。
また待ち時間に押印する事もでき、スタンプマニアにとっても重宝されます。
今回乗車した「ながら号」もその例に漏れませんが、
特急などは停車駅以外では行き違い駅でもドアを開けずに停車するだけ。
「ながら1号」も、途中の大矢駅での行き違い待ちがありましたが、
何と下車して駅舎を散策でき、停車中は「鮎号」の車内にも入れるとの事。
ここでの待ち時間は時刻表にも記載されておらず思わぬ収獲。
大矢駅には復スタンプが設置されていますが、マニアならずとも嬉しい話です。

ながら1号とホームで記念撮影

レトロな雰囲気の大矢駅舎
鉄道資料は建家の右側にある。
『大矢駅は国鉄時代には美濃下川と称し、一時は越美南線の終着駅であった。
3セク転換時に改称され、交換設備、木造駅舎も残るが駅員配置はない。
駅舎では時間を決めて鉄道関係資料を展示している。
駅の属する旧美並村は円空のふるさととして知られ、ホームには複製の円空仏が並ぶ。
また「日本真ん中の村」として売り出し、駅から800mの地点に人口重心碑が建つ。』 とあります。
先ずは下車して押印。図柄は長良川の鮎ですが、そういえば途中に観光簗があったのを思い出しました。
長良川と言えば鵜飼も含めて鮎ですが、スタンプ説明では農業遺産になっているそうです。
でも農業遺産って何でしょうか?
手元の鉄道関係の書には、無人の時期もスタンプ設置の記載が。
普通では考え難いですが、かつての終着駅だったので執着があるのでしょう。

ホームの円空仏近影
円空さんが入寂した寺院が沿線にあるとか。

押印した大矢駅スタンプ
赤・丸は動植物を表す。
続いて入った観光列車鮎号の内装は同じく水戸岡鋭治氏のデザイン、
私の乗車した森号との差と言えば、席が少ないのとカーテンで仕切られている事。
食事をする車両なので当然ではありますが。
さて鮎号スタンプの押印を終えると、そろそろ列車が出発する時間。
駅舎内の鉄道資料は見ることができませんでした。
押印にかまけていたので無理もありませんが…。

観光列車「ながら」鮎号

鮎号の車内の様子
列車行き違いの停車中に撮影。

水戸岡鋭治氏デザインの鮎号ボックス席
簾と暖簾は和室調となっている。
向かいの線路には気動車が停車中。長良川鉄道のHPではナガラ600形とありますが、
旧国鉄時代のキハ28系に類似しており、見ると汚れもなく新しい感じ。
説明では1年前に製造した車両だそうで、新たなデザインを導入する鉄道会社では珍しいパターン。
スタンプだけでなく列車も復刻したようです。
そういえば窓に架かっている暖簾も森号と同じ。
沿線の郡上八幡の染物を基調にしている貴重なものでした。
鯉に濃い青色のデザインとは不思議でしたが、ここが【ぐんじょう】市であると知って納得です。

大矢駅に停車中の気動車

鮎号に設置されたスタンプ

押印した鮎号と森号のスタンプ

鯉と濃い青色の暖簾
[参考書]
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【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岐阜(8:53→9:09) → JR美濃太田(9:44→9:56)
美濃太田(9:56) → (長良川鉄道) → 美濃市(10:27→11:16) → (観光列車「ながら」1号) → 大矢(10分停車) → 郡上八幡(12:16→12:22) → 美濃白鳥(12:47) → 徒歩8分 → 白鳥神社 → 美濃白鳥(13:26) → (観光列車「ながら」2号) → 郡上八幡(13:51→14:13) → 関(15:15→15:32) → 美濃太田(15:50)
【復路】美濃太田(15:56) → JR岐阜(16:35→16:49) → JR米原(17:39→17:47) → JR大阪(19:13)

観光列車「ながら1号」
美濃市駅から1両目の「森号」に乗車。
かつてJRに「快速ムーンライトながら」という列車がありました。
国鉄時代の東京駅~大垣駅間の夜行列車の流れを汲む列車で、
・1996年3月16日から、全車指定席の快速として毎日運行、
・2009年3月13日からは、春・夏・冬期の臨時列車として運行
上り;大垣(22:49) → 東京(5:05)
下り;東京(23:10) → 大垣(5:50) 2016年4月時刻表
と夜行バスよりも遅く出発して、早く着く。
しかも指定席代¥510を払えば、青春18きっぷで乗車できるとあって、
その時期は凄い人気で発売日に即完売するような状態だったようです。

美濃市駅ホームに入線する「ながら1号」

1両目の「ながら 森号」のロゴマーク
私も何度も利用しましたが、最近では平成31年3月20日の「上り」で関東へ向かい、
3月23日の「下り」で帰阪。
単身赴任にお世話になった関東在住の同窓と会った後、同期とお嬢さんの演奏会を
21時過ぎまで聴いても十分余裕がありました。
そんな列車も2020年3月29日をもって惜しまれつつ廃止。常に満席なのに廃止と言うのも妙ですが、
鉄道関係者の話では、乗車賃のみの列車では少々満席となっても黒字には程遠いそうです。
これも時代の【ながれ】でしょうか。

「森号」入口付近の様子

入口に架けられた暖簾

郡上八幡の染物店で作成された鯉と濃い青のデザイン
JRの「ながら」は廃止されましたが、意外にも全く別の路線で「ながら」が復活。
国鉄時代の越美南線、民営化後は3セク「長良川鉄道」の臨時観光列車「ながら」がそれ。
今回は、青春18きっぷ+長良川鉄道1日乗車券(¥2700)で長良川に沿って北上。
私自身は観光列車に左程執着はありませんが、列車本数が限られているので、下り・上り双方を利用。

「森号」車内の様子
座席はボックス席で4人掛だが、密を避けてか2名利用となっていた。

窓は竹の簾と長良のロゴマーク

車内には沿線の特産品を展示
これは関の刃物。
観光列車は、食事付きというのが相場で、「ながら」でも
・ランチプラン ¥12,500
・スイーツプラン ¥5,800
となっており結構な出費。しかし乗車だけの
・ビュープラン ¥510
というのがあったのでこちらを予約。会社には殆ど貢献しないので心苦しいですが、
己の【身のおおた】選択だったと自負しています。

「森号」車内に設置されたスタンプ

「森号」スタンプと専用台紙

2両目レストラン車両「鮎号」のプラン

「鮎号」と「森号」のプラン
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<コース> 夏の青春18きっぷ + 長良川鉄道1日フリーキップ(¥1,300)
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岐阜(8:53→9:09) → JR美濃太田(9:44→9:56)
美濃太田(9:56) → (長良川鉄道) → 美濃市(10:27→11:16) → (観光列車「ながら」1号) → 大矢(10分停車) → 郡上八幡(12:16→12:22) → 美濃白鳥(12:47) → 徒歩8分 → 白鳥神社 → 美濃白鳥(13:26) → (観光列車「ながら」2号) → 郡上八幡(13:51→14:13) → 関(15:15→15:32) → 美濃太田(15:50)
【復路】美濃太田(15:56) → JR岐阜(16:35→16:49) → JR米原(17:39→17:47) → JR大阪(19:13)

越美南線 駅スタンプの旅 リーフレット
・荒波や 美濃の路線は 赤にしを 昔ながらの 駅の印かな 美濃の紙ただ糊
今回は、青春18きっぷ+長良川鉄道1日乗車券(¥2700)で長良川に沿って北上。
長良川鉄道の前身は国鉄時代の越美南線。今も福井県を走る越美北線からも分かるように、
かつては福井(越前)と岐阜(美濃)を結ぶ路線として計画されましたが、結局繋がらず。
鉄道マニアの間では婚約不履行型とされるものです。
その後、国鉄分割民営化に拠って、越美南線の方は第三セクター長良川鉄道に転換。
両者が繋がる機会は永遠に去りました。
元国鉄とはいえ、三セクとなった路線には18きっぷは使えませんが、
それでもここに向かう目的は7月16日に開始されたスタンプラリー。
通常のスタンプラリーは、図柄の無い駅名印やキャラクター印が主流ですが、
今回はなんと、越美南線時代の「わたしの旅」スタンプを二駅で復刻し、
加えて新たに主要六駅で同様の新印を設置するというもの。

越美南線時代の復刻印

3セク転換後の設置印
今は、小型・シシャチハタ化している。

美濃太田駅に設置された正式な「わたしの旅」印は高山本線

スタンプ帳付1日フリーきっぷ ¥2700
国鉄時代の駅スタンプ設置は戦前に遡りますが、大きな転換期は、
1970年に始まったDISCOVER JAPANシリーズ。全国の約2000駅にロゴ入りスタンプが設置され、
旅行ブームとも相俟って駅スタンプブームの火付け役となりました。
その後、1977年「一枚のキップから」が企画され歌も発売されましたが、前者程の人気は出ず。
続いて「いい日旅立ち」が企画されましたが、歌はヒットしたもののスタンプは更に輪をかけて不人気。
この低迷を打開するために1980年に始まったのが、「わたしの旅」シリーズ。
スタンプに「シンボルフレーズ」を導入、スタンプの色と形に意味を持たせる、
専門の押印スタンプ台を設置するという力の入れようでしたが、これが功を奏し、
以後は形を変えてもこの形が踏襲。国鉄時代の最後を飾るヒットと言えましょう。

美濃太田駅に設置された駅スタンプと押印スタンプ台

美濃太田駅スタンプ

押印した美濃太田駅スタンプ
黒・四角は史蹟、文化財を表す。

美濃太田駅で乗車した列車
これは二両目。
スタートの美濃太田駅で、フリーキップ購入と同時に専用スタンプ帳入手。
見ると直ぐ横にスタンプが設置されていましたが、驚くべきことにかつてのスタンプ台も復活。
美濃太田駅は越美南線ではなく高山本線の旅印が設置されていたので、再利用でしょうか?
とおもいつつ列車に乗って美濃市駅で下車すると、ここにも同じスタンプ台が。
美濃市は国鉄時代には無印だったので、これは間違いなく新たに製作した台と確信。
かつてこの台の製作には¥10万円程度費用がかかると聞いていたので、鉄道会社の意気込みを感じました。
過去に戻るとは【なんせん】すと言う向きもありますが、私は「なんとセンスの良い事!」と【えつみ】入った次第です。

美濃市駅では1両目から下車
クロネコヤマト宅急便と提携しているらしく、このようなラッピングに。

向かいのホームには上りの「チャギントン」列車が停車中

美濃市駅に設置の押印スタンプ台

設置された駅スタンプ

押印した美濃市駅スタンプ
紫・四角は伝統工芸、特産品を表す。

未だ真新しいスタンプ面
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR名古屋(9:14→9:24) → JR中津川(10:39)
中津川駅前 → 徒歩5分 → 中津川宿 → JR中津川(12:00)

中津川宿 (中山道第四十五番宿)
駅前に建つ石碑。
木曽路のスタートと並び中津川のもう一つの顔は「栗きんとん発祥の地」。駅前にも碑が建ちます。
『栗は縄文時代から重要な食用として知られ、萬葉集では山上憶良の長歌にも登場。
場所に拠っては年貢として納められたという記録も残る。
山間部であった中津川では山栗が多く収穫され、干栗・焼き栗・栗飯等の他、茹でた栗の中身を取り出し細かくほぐし、
茶巾で絞ったものを食べる事も行われた。これが栗きんとんの原型とされる。

石碑にある説明文

石碑脇にあるもう一つの説明文
加えてこの地方は煎茶が盛んで、近所付き合いに於けるお茶請けとしてこだわりの栗きんとんを出す様になって行く。
明治の中頃になって和菓子店が栗きんとんを商品化、現在に至るまで宿場を代表する銘菓となっている。』 とあります。
駅前の観光案内所「にぎわい特産館」に拠ると、コロナにも拘らずレジは行列。不思議に思って見渡すと、
三日前に今年の栗きんとんが発売となったばかりでした。

中山道沿いに建つ老舗和菓子店「すや本店」
右書きの看板に時代を感じる。

中山道沿いにある「栗きんとん」説明の駒札

西の横町にある「川上屋本店」
この季節になるとデパートにも並びますが、やはり産地の拘りがあるのでしょう。
街道沿いでは東新町の老舗「すや本店」が有名ですが、横町の御菓子処「川上屋」でも扱っていました。
唯、昼食には不向きなので特産館で栗おこわ(¥700)を購入、土産には「焼き栗きんとん」。
これを食べた後に、妻籠の庫裏に向かったのは言うまでもありませんが…。

昼食は「栗おこわ」

土産には「焼き栗きんとん」
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【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR名古屋(9:14→9:24) → JR中津川(10:39)
中津川駅前 → 徒歩5分 → 中津川宿 → JR中津川(12:00)

中津川宿 (中山道第四十五番宿)
四ツ目川橋上にて、本町から西新町方面を望む。
本町通りからは川を渡って西新町、東新町、淀川町を経て東入口の茶屋坂へと続きます。
宿場中央を流れるこの川の名は四ツ目川。
『この川は度々氾濫し、四度も川筋を変えたのでその名が付いたと言われ、そのため本陣は少し高い場所に建てられている。
江戸時代の宝暦元年(1751年)、寛政元年(1789年)、文化5年(1808年)に氾濫の記述が見られる他、昭和7年(1932年)には
中津川駅構内まで水が押し寄せ、街中を土砂が埋め尽くす程の被害を出した。しかしその時も本陣付近は被害を免れている。

四ツ目川の水害について

四ツ目川付近の道標

前田青邨画伯生誕之地の碑
東新町で、和菓子店「すや」の向かいに当たる。
東入口にある高札場は、かつては10m程坂道を上った北側に街道に面して建てられており、その規模は
長さ二間一尺、幅一間余りで8枚の高札が掲げられていたと享和元年(1801年)の記録にある。
中山道はここから大きく曲がり一里先の落合宿へ続く。』 とあります。

中山道淀川町から茶屋坂を見る

淀川町にある町屋を改装したカフェ

茶屋坂に建つ案内板

茶屋坂にある高札場
中山道はここで大きく曲がる。

高札近影
言うまでもないが、現代の復元。

高札場脇の常夜灯他の石塔群

高札場から中山道を西に見る

中津川宿概要
1時間余りの時間でしたが宿場の見所は一通り見学。近隣の馬籠妻籠に比べ宿場のイメージの希薄な中津川ですが
見応え十分。ここを過ぎると贄川宿まで木曽路が続きますが、藤村の言葉を借りるまでもなく街道は山の中。
街道を往還する人々は、中津川で英気を養ってから木曽路に挑んだに違いありません。そういった面では
東海道の小田原・三島に比肩するとも言えそうです。高札場で宿場全体を見渡しながら【考察】した結論です。

中津川市マンホール蓋

中津川市マンホールカード 「中津川市観光センター・にぎわい特産館」にて配布

中津川郵便局 ; 県重要民俗資料・恵那文楽の面、恵那山、落合大橋
中津川駅前郵便局 ; 中山道の石畳、水車の輪
[参考書]
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR名古屋(9:14→9:24) → JR中津川(10:39)
中津川駅前 → 徒歩5分 → 中津川宿 → JR中津川(12:00)

中津川宿 (中山道第四十五番宿)
横町の桝形を曲がると宿場の中心にあたる本町。
『かつては街道の真ん中を用水が流れており、この用水は野中の黒沢川から取水した第三用水で
宿内の火災に備えて敷設されたもの。用水では物を流すことも洗う事も禁じられたと言う。
そんな用水も明治13年(1880年)、明治天皇の御通行の折に埋め立てられ今に至る。

本町通りから横町の桝形を見る

町並みと桝形の説明板

本町通りから少し南に入った場所にある井戸

宿場町の用水
中津川宿は江戸から四十五番目の宿場で、本陣・脇本陣・庄屋と問屋場二ヵ所が置かれていた。
明治天皇行在所跡碑の西には江戸時代中津川村の庄屋屋敷、旧肥田家がほぼ江戸中期のままの屋敷、庭園を今に伝える。
代々「九郎兵衛」を名乗る肥田家の屋号は田丸屋、島崎藤村の『夜明け前』にも登場している。江戸後期から旅館業を営み、
明治26年(1893年)には日本近代登山の父、ウォルター・ウェストンが宿泊。5月11日にここから恵那山登山に出発している。
明治30年代になると曽我家がこの家を譲り受け、中津川で最初の開業医院となった。

中津川宿 本町の説明板

明治天皇中津川行在所碑

中津川村庄屋居宅
旧庄屋の肥田家(田丸屋)の建物で明治中期に曽我家が購入し医院となった。

旧庄屋居宅正面

庄屋居宅説明駒札 その1

庄屋居宅説明駒札 その2

屋根の卯建

本町通り(中山道)から南へ延びる道に面した旧庄屋居宅
塀の向こうには江戸時代からの庭園が残るが、一般拝観はない様子。
庄屋屋敷の向かいが本陣跡。大名・公家など高貴な身分の人が宿泊するためか、宿内でもやや高台にある。
街道に面して六軒分の長屋が並び、非常の折には裏口から西側の大泉寺へ避難できるように作られている。
脇本陣跡地には平成16年開館の中山道歴史資料館が建つが、その裏手には復元された脇本陣が展示されている。』
とあります。

本町通りの北側に面した本陣跡

本陣跡説明

本町通りの南側に面した脇本陣跡
歴史資料館の東に隣接している。

復元された脇本陣
宿場のメインストリートとはいえ、他より道幅が広く感じたのは用水を埋め立てた故。
天皇の行幸に合わせての事ですが、幼少の頃は御所近辺の子供と遊び長じても質素な生活を忘れなかった明治天皇が
一時的な行幸のために用水を埋めたとは考え難い。思うに周囲の御付の者たちが権威付けの為にした事でしょう。
後の統帥権の萌芽が見えるとするのは大げさすぎるでしょうか?

道幅の広い本町通り
ここを用水路が通ったか?

中山道沿いの町屋
手前の段差が用水路の名残か?
先の下町と異なり桝形から東の高札場まで中山道はほぼ真っすぐに1㎞程伸びています。本陣を始めとする施設が
集まっているのもここですが、残っているのは庄屋居宅のみ。本陣や脇本陣が残っていればさぞ壮観だったでしょうが、
東海道・中山道を問わず本陣がそのままの姿を留めているのは極めて稀。歴史用語では【本陣衰弱】となりそうです。
それよりも庄屋邸が残っている方に目を見張ります。横町にあった杉本屋・白木屋もそうですが、曽我邸も所有者が交代。
それにも拘らず家屋を取り壊さずに今に伝えているのは、単に自分の家というだけでなく宿場全体の景観を考えての事。
宿場のプライドは健在のようです。

真っすぐに続く中山道
桝形から本町通りを望む。

本町付近の略図
[参考書]
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<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR名古屋(9:14→9:24) → JR中津川(10:39)
中津川駅前 → 徒歩5分 → 中津川宿 → JR中津川(12:00)

中津川宿 (中山道第四十五番宿)
中山道、横町~下町の桝形。左は間酒造。
この夏最後の18きっぷの旅は中山道へ。
古くは大化の改新の頃の東山道に始まり、江戸時代の万治2年(1659年)に五街道の一つとして整備されました。
日本の中間の山道という事で「中仙道」と記されたこともありましたが、1716年に徳川幕府が中山道に名称を統一。
今でも両方の漢字が使われるのはこのような経緯からです。

JR中津川駅スタンプ
上 ; 国鉄時代のわたしの旅シリーズ 下 ; JR東海名古屋支社印
その中山道の四分の一相当が美濃国、今の岐阜県。128㎞に十七宿がありますが、中津川宿は
『中山道と飛騨街道が交差した交通の要衝。東美濃地区で群を抜く大きな宿場で商業の町として栄えた。
町並みは1,100mに達し、旅籠屋は大小29軒であったと言われる。
現在では中津川を東に渡った下町付近から本町通り、四ツ目川を経て新町を抜け茶屋坂の高札場までの
2㎞がメインの宿場で、江戸時代からの老舗店が残る一方で、古民家を利用した新しい店も登場し賑わいを見せている。

廣重・英泉 木曽街道六十九次 「中津川宿」の浮世絵

中津川宿の西の入口 下町界隈

下町付近の説明板
宿場の西の玄関口に当たるのが下町界隈で、なだらかな坂を上った先に建つのが「はざま酒造」。
江戸中期からの醸造を始め、霊峰「恵那山」の伏流水を仕込み水に使用した銘酒「恵那山」の蔵元。
併設のギャラリー「酒遊館」では昔の酒造道具を展示している。
はざま酒造の前の道をそのまま東へ進むと恵那山への道標が建つが、街道はそこから北へ曲がり
横町に入り更に東へ向かい中町へ入る。この界隈には昔ながらの家屋が残っている。

下町にある丸三間家「間酒造」

間酒造玄関
銘酒「恵那山」の看板が掛かる。

玄関に吊るされた杉玉

桝形付近からの間酒造の眺め

中山道から恵那山へ向かう道に沿って建つ酒蔵と式内恵那山道標

「式内恵那山道標」の説明
旧中川家(杉本屋)は中津川村の庄屋であった中川萬兵衛の広大な屋敷の一部で、旧清水町の通りもその頃はなく、
かつては遥か南東まで広がっていた。歌舞伎絵で知られる中川とも画伯は当家の出身。
明治期になって当家は原作吉の手に渡り呉服商、荒物商となったが江戸時代の面影を残す帳場はずっと残り、
映画「青い山脈」のロケが行われた事でも知られる。

横町にある旧中川家(杉本屋)

旧中川家説明

中川家の卯建
向かいの白木屋(横井家)は山科屋遠山林蔵の依頼に拠り、当家の祖先である宮大工・横井弥右衛門が
天保13年(1842年)建築。中二階に四畳程の隠し部屋があることでも知られる。遠山家は明治末に駅前に移住、
家屋は横井家所有となって今に至る。尚、移住した遠山家は駅前でうなぎ屋「山科」を経営している。
この地区は防火壁である卯建(うだつ)が残る数少ない場所であるが、通の端はいずれも桝形で敵の攻撃に対する
防御や退却方法として人為的に造られた。
本陣や脇本陣のある宿駅の中心部が直線的に見渡すことが出来ない工夫である。』 とあります。

白木屋(横井家)

白木屋説明
現在でも名古屋から中津川までは中央線快速も30分毎に運転、特急「しなの」も停車します。
市内には地場産業に加え大企業も進出し、周辺の市町村から働きに来る人も多いとか。
長野県にあった馬籠が県を跨いで中津川市に合併されたのは話題になりましたが、これも中津川へ
通勤するサラリーマンで人口が増えたことが背景にあったようです。

横町にある中山道の看板

横町の町屋の並び
白木屋(奥)と和菓子店川上屋本店
江戸日本橋から埼玉・群馬・長野・岐阜・滋賀を経て京都三条大橋に至る道のりは五街道の中でも最も長く
六十九宿、532㎞。それにも拘らず主要街道として栄えたのは、平野で大河が多かった東海道と違い、
高地が多く川留めがなかったためと言われます。
江戸時代の参勤交代では、百万石の前田家が利用した他、幕末の和宮が将軍家に輿入れした時にも中山道経由。
この時は、先頭行列が上松宿で最後尾が恵那宿だったとか。維新に向けて天皇家も【威信】をかけての事だったでしょうが、
旅人【泣かせんどう!】であった事は想像に難くありません。

松霞堂(可児家)
横町から中町の桝形に建つ表具店。樹齢160年以上の松の木がある。

可児家前から中山道を東に見る
ここからは1㎞以上に亘り、中山道が真っすぐに続く。
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<コース> 春の青春18きっぷ
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR岐阜(8:53→9:09) → JR坂祝(9:40) → 徒歩5分 → 宝積寺 → JR坂祝(10:15) → JR美濃太田(10:20)
駅前レンタサイクル20分 → 小山観音 → レンタサイクル8分 → 古井神社 → レンタサイクル5分 → 中山道太田宿 → 万尺寺 → 祐泉寺 → レンタサイクル20分 → 瑞林寺
【復路】美濃太田(15:55) → JR岐阜(16:35→16:49) → JR大垣(17:05→17:09) → JR米原(17:39→17:47) → JR大阪(19:12)

龍雲山 瑞林寺(臨済宗妙心寺派)
美濃西国三十三ヵ所を四ヵ所、中山道太田宿を一通り見学したので、美濃加茂の巡礼はひとまず終わりですが、
レンタサイクル返却には【だいぶつ】時間があるので、少し足を伸ばして大仏拝観。
JRの駅からは丘を越えていく事になりましたが電動なので無事到着。

参道の桜が満開の入口へ到着

参道の先に建つ寺院
龍雲山瑞林寺(りゅううんざんずいりんじ)は、
『室町時代後期に仁済宗恕(にんさいそうじょ)が、当時の美濃国守護の土岐成頼(しげより)の援助を受け創建。
仁済は土岐氏の支流蜂屋氏の出、小山観音の子授け伝説の人でもある。故郷の蜂屋に寺院を建立した仁済は
永正16年(1519年)に85歳で当寺にて死去し、ここに葬られた。
仁済は当地の特産品である蜂屋柿を室町幕府10代将軍足利義稙に献上し、その結果寺領十石と柿寺の称号を
授けられたとされる。

鐘楼

山門前にて

由緒記
またここには約5mの木造弥勒菩薩坐像が祀られており蜂屋大仏として知られる。これは元々、末寺であった大興寺にあった
ものだが、織田信長の侵攻があった際に首を抜いて土中に埋めて難を逃れたとされるもの。後に山手にあった大興寺が廃寺
となった際に当寺が譲り受け、江戸時代に胴部を復元したものである。
大仏の他にも絹本着色涅槃図や紙本着色釈迦図など文化財は多く、本尊である木造聖観音坐像からは胎内仏が発見された。』
とあります。

境内全景
正面が本堂。

大仏の安置された(坐禅)堂前から見た枯山水庭園

本堂正面
御本尊は胎内仏を持った聖観世音菩薩坐像で、腹籠観音で知られる。

本堂前の庭園

本堂より見た坐禅堂
一番奥には枝垂桜が咲く。

本堂と大仏を繋ぐ渡り廊下
遠く平安時代から伝わる蜂屋柿は聞いた事がありましたが、ここの地名に由来する名前。唯、正式名称は堂上蜂屋柿だ
そうなので、これは瑞林寺から将軍に献上された故の謂いでしょう。将軍様に【どうじょ!】と差し上げる訳はないので…。

蜂屋大仏を祀る坐禅堂

本堂から渡り廊下を行く
尚、拝観料は受け取られなかった。

蜂屋大仏
正しくは弥勒仏。

枝垂れ桜
大仏様は481㎝、これは仏教で言う所の丈六(一丈六尺)仏。戦乱の時代とはいえ、首だけ抜いて地中に埋めたのは
関係者の好判断。無理して運んで全体が焼けてしまったら、それこそ首ならぬ悔いが残る事になったでしょう。
大きさは丈六でも波瀾万丈の大仏様でありました。
間近で大仏様を参拝しましたが、首と胴との繋目に違和感はなく【胴】に入ったものでした。
一般には蜂屋大仏で通っていますが、由来を考えると【胴上】蜂屋大仏と呼ぶべきでしょうね。

書院玄関

瑞林寺御朱印

美濃加茂蜂屋郵便局 ; 瑞林寺の木造弥勒仏坐像(蜂屋大仏)、蜂屋柿
[参考書]
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