<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:03) → JR大垣(8:37→8:40) → JR名古屋(9:14) → 近鉄名古屋(9:21) → (近鉄名古屋線) → 近鉄弥富(9:34) → 徒歩5分 → 歴史民俗資料館 → 徒歩8分 → JR弥富(10:08) → JR四日市(10:33→10:40) → JR亀山(11:07→11:14) → JR関(11:21)
関駅前 → 徒歩5分 → 関宿 → 関地蔵院 → 誓正寺 → 旧田中家住宅 → 會津屋・小万茶屋 → 旧落合家住宅 → 高札場跡・郵便局 → 深川屋 → 旅籠玉屋歴史資料館 → 旅人宿 石垣屋 → 橋爪家 → 伊藤本陣跡 → 三番町山車倉 → 鶴屋脇本陣波多野家 → 百六里庭(眺関亭) → 志ら玉前田屋製菓
【復路】JR関(13:21) → JR月ケ瀬口(14:12) → 徒歩5分 → 道の駅 → JR月ケ瀬口(15:13) → JR加茂(15:35→15:39) → (大和路快速) → JR大阪(16:54)

九関山 宝蔵寺 地蔵院(真言宗御室派)
鈴鹿山脈を控えた東海道の宿場として発展した関ですが、
元々は「関の地蔵さん」の門前町として発展したのが始まり。
・関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ
と言う俗謡もある程で、御本尊では日本最古の地蔵菩薩とか。
宿場のお雛様を見た後は順番待ちの昼食ですが、関の地蔵さんを素通りする訳にはいかず大急ぎで参拝。
実は平成5年5月1日に初めて関に来た際に「関の地蔵さん」は訪問済。
その時は拝観料を払って内陣も見ましたが、今回は外陣だけ。

国道1号線から東海道へと向かう道筋にて
白壁の向日が地蔵院。

塀の切れ目の向こうに本堂が
関の地蔵さんは、
『九関山宝蔵寺地蔵院(きゅうかんざんほうぞうじじぞういん)が正式名だが、
通常は地蔵院、関の地蔵さまと呼ばれる。
寺伝では天平13年(741年)、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、
僧行基がこの関の地にお地蔵様を刻んで安置したのが始まりである。
享徳元年(1452年)、愛染本堂の大修理に際し改めて開眼供養をしたのが一休禅師で、
禅師は自ら身に着けていた衣襟をお地蔵様の首に巻いて供養を行った。
これが後に、禅師の人柄と重なって次のような伝説を生む事に。

東海道西側から見た地蔵院築地塀と板塀
時は室町時代、この関に貧しい身なりの坊さんが通りかかる。
開眼供養をしようと思っていた村人は彼に依頼。すると坊さんは、
・釈迦はすぎ 弥勒は未だ 出でぬ間の かかるうき世に 目あかしの地蔵
と歌を詠んだかと思うと、いきなり地蔵菩薩の顔面に放尿して立ち去った。
怒った村人は、地蔵の身を拭い、改めて身なりの良い僧侶に読経を依頼、
僧侶は有難い説教も行い村人は涙を流して感激したと言う。
万事うまくいった、と喜んだのも束の間。村人の夢枕に地蔵が現れ
「折角、良い供養をして貰ったのに、何という事をしてくれた。」 と村人の口を借りて告げたという。
驚いた村人は、初めの坊さんを追い掛けてこの事情を話した。
すると坊さんは 「これを地蔵様の首に巻いて、儂の歌を三度唱えよ。」 と言って渡したのが自らの褌。
その坊さんこそ一休禅師で世間では褌を首に巻いて供養したと伝わる由縁である。
真偽の程は不明であるが、現在、地蔵様の首に涎掛けを掛けているのはこの開眼供養が始まりと言われる。

重文・地蔵院本堂

正面より見た本堂

手前に大きく張り出した向拝
ここを東海道の宿場に定めた家康も所縁があり、本能寺の変の直後、
伊賀越えで岡崎に戻る途中、関の瑞光寺に立ち寄っている。
今川時代の学友が住職を務めていたからだが、その時、
家康が食べた柿の種が生長した老木が今も境内に残ると言う。
江戸時代になるともう一つ有名な逸話が加わる。
或る日、ここに臨月の武家の奥方がやって来た。彼女は夫の仇討の旅の途中であったが、
俄かに産気づき旅籠会津屋で女の子を生むと間もなく他界。会津屋で育てられた女の子は
小万(こまん)と呼ばれ、後に見事父親の仇討を成就。その後は会津屋に戻って暮らしたと言う。
後世「関の小万の仇討」として知られるエピソードである。
会津屋は山田屋と変わったが、関の町並み保存地区の修景は旧山田屋(現・小万茶屋)から始まった。

地蔵院北側にある「会津屋」

会津屋東に隣接する小万茶屋
現在の本堂は四度目の御堂。徳川綱吉に拠って元禄13年(1700年)に落成した。
母親の桂昌院がこの地蔵菩薩を信仰された結果、綱吉の誕生を見たからと言われる。
本堂の天井画は元禄時代の絵師狩野永敬が十年の歳月をかけて描いたもので、
仏典に則って描いた174枚から成る。
本堂左手の愛染堂は文永4年(1267年)の建立で三重県内では最も古い建造物。
厨子は豊臣秀吉の寄進で、銀箔を押しその上から透かし彫りの模様を嵌め込んだ珍しい物である。
本尊の愛染明王は良縁と商売の神様で、古来より女性と商人の信仰を集めた。
毎年、8月26日の愛染祭りで御開帳される。

本堂に隣接(南側)にある重文・愛染堂

愛染堂近影
境内左手には鐘楼堂があり、建立は寛永11年(1671年)。
本堂・愛染堂とこの鐘楼堂が国の重要文化財に指定されている。
境内の奥に在るのが書院で、その中に一段高くなった部屋が行在所。
江戸時代には大名や公卿が参詣の折に休憩した場所である。
明治以降も明治11年、13年の二度に亘り天皇の行幸があり、
それ以後も皇族方が、休憩・宿泊されている。』とあります。

重文・鐘楼堂

鐘楼堂と内部の梵鐘

境内奥にある書院
前に「明治天皇行在所」の石碑が建つ。

書院の更に奥にあるここが行在所か?
開眼供養の逸話は、破天荒な僧侶であった一休和尚らしいエピソードですが、真偽の程は不明。
汚い袈裟を着て臨んだ法要で追い返されたので、煌びやかな袈裟で再訪。
出迎えた人々の前で、袈裟だけ置いて帰ったという逸話があるので、それが形を変えたとも言えます。
一方、家康が【随行】者と瑞光寺に立ち寄った話、小万の仇討は恐らく真実を伝えていると思えます。
このように三つもエピソードが残るのは珍しく、また古代の鈴鹿の関に由来する名前ではあるものの、
関と書けば岐阜県の関市と間違われ、関宿(せきじゅく)と書けば
千葉県の城下町の関宿(せきやど)と間違われる等、知名度は以前に比べるとやや低下。
関市は関孫六で知られる刃物の町、関宿は『潮来笠』の一節に登場するので無理もない気もしますが…。
30年前に伺った際には、拝観料¥800を払って内陣・庭園まで見学。
京都・奈良とは異なり¥800は高額と思いましたが、抹茶&御菓子付きを思うとりーずなぶる。
御朱印に対応下さったのは庵主様でした。
庵主 ; 「以前は京都に居て、こんな僻地は嫌なので御本尊を日夜拝みました。」
私 ; 「戻るように祈られてのですね。」
庵主 ; 「でも気が付いたら、ここにずっと居させて欲しいと祈っていました。」
私 ; 「それにしても、東海道でよくこれだけの町並みが残りましたね。」
庵主 ; 「お茶が枯れると猛反対があったみたいで。今思えば先見の明がなかったのかなぁ」
などと説法ならぬ世間話で盛り上がりました。
今ほど観光客もなく、丁度地元の檀家の方も同席されていたのも幸運でした。
抹茶&菓子付き拝観も、堂宇の内装を今風に改装したのも全て彼女の発案。
気さくで話し易い庵主様で、寺の営業に女性の目線を取入れるとお見受けしました。
また話を伺えるかと思っていましたが、以前に石薬師寺で聞いた話では、他所に移られたそう。
残念な話ですが、また何処かで思いがけなくお目にかかる気もします。

前回訪問で頂いた冊子型地蔵院パンフと拝観券

地蔵院御朱印 (平成5年拝受分)

関郵便局 ; 羽黒山、重文・地蔵院本堂
駆け足で地蔵院を見た後は昼食へ向かいますが、途中の長徳寺門前で何やら発見。
近付いて見ると御朱印自動販売機。墨書だけでなく書置きや判子タイプもあるので、
別段驚くに当たりませんが、遂にここまで来たかと言うのが正直な感想でした。

長徳寺山門前の御朱印販売機

販売中の御朱印一覧

御朱印の案内
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関駅前 → 徒歩5分 → 関宿 → 関地蔵院 → 誓正寺 → 旧田中家住宅 → 會津屋・小万茶屋 → 旧落合家住宅 → 高札場跡・郵便局 → 深川屋 → 旅籠玉屋歴史資料館 → 旅人宿 石垣屋 → 橋爪家 → 伊藤本陣跡 → 三番町山車倉 → 鶴屋脇本陣波多野家 → 百六里庭(眺関亭) → 志ら玉前田屋製菓
【復路】JR関(13:21) → JR月ケ瀬口(14:12) → 徒歩5分 → 道の駅 → JR月ケ瀬口(15:13) → JR加茂(15:35→15:39) → (大和路快速) → JR大阪(16:54)

関宿(東海道五十三次第四十七宿)
昔の町並みを活かした東海道のおひなさまは2月11日~3月5日まで開催中で、ギリギリセーフ。
東海道がほぼ東西に走り家は街道に面して建てられているので、街道を歩きながら素早く鑑賞。
鄙には稀な体験でした。
『地蔵院門前には関宿を代表する町屋が並ぶ。「会津屋」は関宿を代表する旅籠で、かつての名は「山田屋」。
仇討で有名な小万が育った家としても知られ、今は蕎麦屋となっている。
東に隣接するのは二階に洋風意匠の窓がある洋館屋、今は小万茶屋として営業し雛人形を展示。

旅館「あいづや」 は蕎麦屋として営業中

小万茶屋外観

小万茶屋内の展示

小万茶屋内の展示
同じ北側通りを東へ行くと、大きく間口の開いた落合家へ。
ここは街道からも見ることができますが、誘われるまま中に入ると、豪華な雛壇がお出迎え。
人形もここで【落ち合う】のでしょうか?

街道北側に建つ旧落合家住宅

旧落合家にて

内裏雛(落合家にて)

吊るし雛(落合家にて)
関宿を代表する銘菓「関の戸」を扱う深川家では内裏雛と宮中に運んだ菓子箱等を展示。
陸奥大掾と言うのは禁裏へ上がるに際し朝廷より下されたもの。
雛人形と御所への通い箱が並ぶのはどちらも内裏の所縁か?

銘菓「関の戸」を商う深川屋

内裏雛と内裏への通い箱

深川屋店内にて
二階の虫籠窓が白壁に映える玉屋は関宿を代表する大旅館の一つ。
「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われた。
今は江戸時代の貴重な建築に、当時使われていた道具類や、
庶民の旅に関係する歴史資料等を展示する資料館となっている。
ここと隣接する旅館石垣屋でも雛人形を展示。

白漆喰が一際目を惹く「玉屋」

いかにも旅籠らしい玉屋の店先

旅館「石垣屋」の展示

石垣屋の店先に立つ雛人形
橋爪家は代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商として江戸にも出店を持ち、
大坂の鴻池と並び称された豪商。江戸末期は芸妓の置屋として栄えた。
街道に面して手摺付き二階妻入建であるが、これは明治期の改造で元は平入屋根であった。
街道に面して三角形の屋根を見せるこの建物は関宿では珍しい。
ここでは江戸・明治・昭和に加え、昭和30年頃まで行われた掛け軸雛が展示されている。』
とあります。

橋爪家外観

橋爪家由緒

江戸時代の雛人形(橋爪家にて)

こちらは大正時代(橋爪家にて)

掛け軸雛(橋爪家にて)
途中、山車倉がありましたが、これはこの歴史ある町並みを舞台として7月末の二日間、
山車が巡行する祭礼に使用されるものでした。
かつて豪華な山車を見た村人が祇園祭を見てその豪華さに落胆したとか。
そこから「関の山」の諺ができたそうです。尤も日本三大祭りと比較するのも気の毒ではありますが…。

ショーウインドウ越しに見る雛飾り

格子越しに見る雛人形

はらや化粧品店にて

三番町山車倉
土産には「関の戸」と並ぶ銘菓「志ら玉」を8個購入。
「関の戸」に比べ賞味期限は短いものの1個¥100はお得でした。
ここの店内にもお雛様が飾ってあり「宝永雛」の表示が。
江戸の宝永年間の作かと驚きましたが、お店の方の話では娘さんに誂えたものとの事。
宝永とはきっと様式の事なのでしょう。放映されるかどうかは分かりませんが…。

「志ら玉」を商う前田屋製菓

店先に置かれた「志ら玉」
6個は土産、2個は帰りの列車内のおやつに。

展示の宝永雛

最上段の御内裏様
一通り街道を見て歩くと丁度1時間。それからお店に向かうとほぼ待ち時間なしの昼食でした。
高三の同級生に教えて貰った「初音」は初値ではないものの、大阪よりも¥1000程安い¥3180。
亀山市なので【みえ】を張った訳ですが雛祭なので自ら納得。
まあ、庶民の贅沢としてはこれくらいが【関の山】でしょうが…。

行列のできる「初音」に向かう

番号待ちの電光掲示板

上うな重

蓋には廣重の東海道五十三次の関がデザイン
[参考書]
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東海道から地蔵院、西の追分方面を見る
普通、JR関駅で下車して宿場へ向かうと付近へ出ますが、今回は店で予約した後なので、
出たのは地蔵院付近。全体ではかなり西寄りになります。そこで西から東の追分を目指して散策開始。
『古代に鈴鹿関があった関は中世には関氏が城を構えたが、整備されたのは江戸時代。
徳川家康が五街道を整備し、関は東海道五十三次の江戸から47番目の宿場として
参勤交代やお伊勢参りの人々などで賑わった。
関宿の範囲は東西追分の間約1.8㎞、25ヘクタールに及び、
東の追分は伊勢街道、西の追分は大和街道との分岐点となっている。

遠くに鈴鹿山系を望む

西へ向かうと山が近づく
この1.8㎞の区間に江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町屋が200軒余残る。
現在、旧東海道の宿場町の殆どが旧態を留めない中にあって、名古屋の鳴海(有松)と共に
歴史的な町並みが残る事から昭和59年、国の伝統的建造物群保存地区に選定された。
関宿の町屋は、平入の二階建てが一般的であるが、二階前面を土壁で覆った塗籠もあり目を惹く。
庇の下に取り付けられた幕板は風雨から店先を守る霧除けである。
店の前にはばったり(揚げ店・店棚)と呼ばれる上げ下げできる棚が付けられており、
商品を並べたり街道を通る人が座ったりする機能がある。
座敷の出格子窓は明治以降に付けられたものである。

街道南側に建つ町屋
座敷の前に取り付けられた出格子。昔風に建築したものか。

これも南側の町屋
出格子と袖卯建(そでうだつ)が見える。

庇の下に取り付けられた幕板

内側から見た幕板
板穴は開閉できるようになっている。

街道北側の町屋
町屋の特徴がほぼ全て揃っている。
また商家には庵看板と呼ばれる瓦屋根の付いた立派な看板が挙げたれているが、
その文字は京都側が漢字、江戸側がひらがなと、旅人が方向を間違えない様に工夫されている。
また町屋には漆喰細工や瓦細工など細部の意匠に工夫が凝らされたものが多くあるが、
これは職人が子孫繁栄・家運長久などを願って技を競ったものである。

街道から見える場所に飾られた雛人形

地蔵院付近北側の町屋
「ANTIQUE 江戸屋」 とあるが何を商っているのかしらん?

同じ並びに建つ「ナガオ薬局」
右書きの看板も大概だが、株式会社塩野義商店特約というのが時代を感じる。
宿場の中央付近にはかつての高札場跡。
復元された高札が掲げられたこの場所は関宿のほぼ中央、今は郵便局になっており、
町並みに外観を合わせた建物と、黒色の集配ポストが目を惹く。

かつての高札場跡に復元された高札

高札場跡にある関郵便局

郵便局前の黒ポスト
単なる飾りではなく、今も現役で活躍中。
伊藤本陣(松井家)は川北本陣と共に関宿に二軒あった本陣の一つ。
大名・公卿・高僧など身分の高い人が宿泊した。
伊藤本陣は間口十一間、建坪69坪、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺。
現在残っている街道に面した部分は、家族の住居と大名宿泊時に道具置き場に供する建物である。

伊藤本陣址

本陣解説
もう一つの川北本陣跡の東に隣接して建つのは、鶴屋脇本陣(波多野家)。
玉屋・会津屋と並んで関を代表する旅籠の一つで、江戸時代後期には脇本陣も務めた。
鶴屋は代々西尾吉兵衛を名乗ったので西尾脇本陣とも呼ばれ、身分の高い人達の宿泊の用を務めたが、
平素は一般庶民も泊まる事が出来たと言う。二階避面に千鳥破風がその格式を示している。

鶴屋脇本陣

脇本陣解説
両本陣の傍に建つのが百六里亭(眺関亭)。
関宿の町並みの中にできた小公園で江戸から百六里あることからの命名である。
通りに面した眺関亭からは関宿の町並みが一望できる。』 とあります。
今までの関訪問は宿場中央から東追分が主。
雛祭の展示も西側は少ないとあって町屋をゆっくり見ることができました。

脇本陣前から東追分方面を見る

白漆喰が【しっくい】くる町屋
左の白漆喰の建物が眺関亭(ちょうかんてい)。

眺関亭2階からの眺め
大きな屋根が地蔵院。

関のマンホールカードと町カード
旧田中家付近で、パンフを見ながら写真を撮っていると
年配の御当主が家の外に出られていたので、説明を聞く事が出来ました。
当主 ; 「昔の家は、必ず玄関が江戸側、座敷が京側に造られてます。」
私 ; 「それはまたどうして?」
当主 ; 「昔の壁は薄かったので、座敷の話が隣にまる聞こえになるのを防ぐためですな。」
当主 ; 「二階の壁に付いている輪っかの用途はわっかりますか?」
私 ; 「1階部分は馬繋ぎの環金具ですけど、キリンでも繋ぐのですか?」
当主 ; 「あそこは祭りや行事の時に幕を掛ける金具ですわ。」
私 ; 「こちらは中庭がありますね。」
当主 ; 「東海道が東西に走っているので、入口が北向きか南向き。日光が入るためです。」
とガイドには載っていない話を伺うことができました。

旧田中家
旧と付くが現在の田中氏が居住されている。中庭と東側玄関が見える。

二階の壁に付けられた金属の輪

旧田中家付近の町屋
中庭と東側玄関は共通点。
[参考書]
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【往路】JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:03) → JR大垣(8:37→8:40) → JR名古屋(9:14) → 近鉄名古屋(9:21) → (近鉄名古屋線) → 近鉄弥富(9:34) → 徒歩5分 → 歴史民俗資料館 → 徒歩8分 → JR弥富(10:08) → JR四日市(10:33→10:40) → JR亀山(11:07→11:14) → JR関(11:21)
関駅前 → 徒歩5分 → 関宿 → 関地蔵院 → 誓正寺 → 旧田中家住宅 → 會津屋・小万茶屋 → 旧落合家住宅 → 高札場跡・郵便局 → 深川屋 → 旅籠玉屋歴史資料館 → 旅人宿 石垣屋 → 橋爪家 → 伊藤本陣跡 → 三番町山車倉 → 鶴屋脇本陣波多野家 → 百六里庭(眺関亭) → 志ら玉前田屋製菓
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JR関駅前にて
奥を走るのは国道一号線。
雛祭の翌日、春の18きっぷで鄙へとお出掛け。最寄りは関西本線の弥富駅ですが、
始発列車や運行本数の関係上、東海道本線で名古屋まで行き近鉄名古屋線で弥富へ。
地図上は遠回りですが時間的には30分以上早く到着し、野暮用を済ませたのは10時過ぎ。
そのまま来たルートを帰るのも芸がないので、ひたすら関西本線で大阪を目指す事に。

この日の目的、弥富市マンホールカード
配布場所は弥富市立歴史資料館にて。
関西本線は名古屋から難波までを結ぶ170㎞の路線。
国鉄時代は東海道本線と並んで名古屋~大阪のメインルートで集客のために
豪華列車を走らせる、土産を持たせるといった熾烈な争いがあったのは有名ですが、それも今は昔。
全線複線電化の東海道本線に対し、単線電化の名古屋~亀山区間、
単線非電化の亀山~加茂間を持つ関西本線は大きく水を開けられました。
それでも昔は急行「かすが」が名古屋~奈良間を運行していましたが…。

関駅跨線橋上から名古屋方面を見る

同じく跨線橋上から見た駅舎と鈴鹿山脈
降りたのは非電化区間の関駅。翌5日まで開催されているひなまつりと
昼食を摂るための下車でしたが、降りたのは私を含めて数名。
駅の待合室兼喫茶スペースでは祭に合わせて雛人形が展示中。

駅構内で展示中の親王雛

これは内裏雛
雛人形も色々な【ケース】がある模様。

吊るし雛の奥に走る関西本線
『関は古代からの交通の要衝、古代三関のひとつ「鈴鹿関」が置かれ、
関の名もこの鈴鹿関に由来している。
鈴鹿関が初めて歴史に登場するのは古代最大の内乱である壬申の乱。
大海人皇子が鈴鹿・不破関を固めたという記録が残る。
延暦8年(789年)、桓武天皇に拠って三関は廃止されるが、
その後は天皇の崩御や政変等が起こる度に儀式としての固関が行われた。
鈴鹿関跡の詳細な位置や規模などは分からなかったが、近年の発掘調査で
聖武天皇に拠って整備されたと見られる西限の城壁が確認されている。』 とあります。

町屋をイメージした駅舎

国鉄時代の駅スタンプ
中々立派な出来栄えだが、サイズも一辺102㎜と豪華。

現在の駅スタンプ 「わたしの旅」類似印

駅前に立つ関宿案内図
かつての鈴鹿の関があったことからの命名ですが、今でも旧東海道、国道1号線、
関西本線が北から100m程の距離に並ぶことからも分かります。
関所が置かれるのは山が両側に迫り通過するのが狭い所に限られますから、
当然ではありますが…。

国道1号線から東海道へと向かう道

宿場への案内板

案内板横にある歌碑
国道1号線沿いにあるお目当ての店に行くと昼時でもあり満席。
36番の順番カードを貰いましたが、お店の方の話では約1時間待ち。
その待ち時間で東海道と雛祭という二つの関の【町時間】を過ごすことになりました。

1号線沿いの行列のできる店に名前を書く

1号線を挟んで店の向かいに建つ石の地蔵様

家の間を抜けいよいよ東海道へ
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 近鉄3日間全線フリーきっぷ使用 \3,000
【往路】上本町(5:38) → (近鉄急行) → 伊勢中川(7:22→7:23) → 近鉄富田(8:17→8:49)
近鉄富田(8:49) → (三岐鉄道) → 山城(9:04) → 山城〒 → 徒歩15分 → あかつき〒 → 暁学園前(9:33) → 近鉄富田(9:43) → 徒歩8分 → 松原〒 → 川越〒 → 富洲原〒 → 川越富洲原(11:01) → 近鉄四日市(11:12) → 駅前観光案内所 → レンタサイクル → 四日市かすみ〒 → 四日市浜一色〒 → 赤堀〒 → 日永〒 → 四日市追分〒 → 四日市小古曽〒 → 小古曽神社 → 室山〒 → 駅前観光案内所
【復路】近鉄四日市(14:14) → 伊勢中川(15:01→15:12) → 名張(15:54→16:00) → (近鉄急行) → 上本町(17:14)

小古曽神社(式内社)
東海道沿いに社標が建ち細い参道を真っすぐ進む。右は観音寺。
内部まで行き郵便局で押印した後は、東海道を逆戻り。その途中、地名を冠した社があったので急遽巡礼。
東海道の直ぐ西側に社標が建ち、奥に進むと境内に。街道よりも少し高台になっているのが特徴でしょうか?
小古曽神社(おごそじんじゃ)は、
『醍醐天皇の延喜5年(905年)に編纂された延喜式に載る式内社で、伊勢の国には253の退社・中社・小社があり、
そのうちの小社として選ばれた。1100余年の歴史を誇り古来より地元民に崇拝されている古社である。

参道の先にある鳥居
ここからが境内になる。

御由緒
御祭神は大日霊貴尊(おおひるめのむちのみこと)・天宇受売命(あめのうずめのみこと)・
布刀玉命(ふとたまのみこと)他、十三神が祀られている。
小古曽神社には元来、東の宮・西の宮の二社の他に小社・祠・山神社があったが、
明治39年(1906年)の宮内庁合祀令を受けて西の宮に合祀された。これが現在の小古曽神社である。
昭和14年(1939年)には山の上(現高塚町)に祀られていた愛宕大権現も合祀される。

鳥居に続く参道
右は幼稚園。

参道の先にある拝殿

拝殿正面の千鳥破風

拝殿前から鳥居方面を眺める
当社の神事としては粥試し(筒粥)、宮当番に感謝する奉賛、宮当番の引継ぎである当渡しがあり、
正月中旬に行われる。
粥試しは小豆粥と細い女竹5本を用い、竹筒内に入った米粒の数で早期・早生・中生・奥生の稲作と
畑作の豊凶を占う神事である。』 とあります。

拝殿と本殿を結ぶ渡廊下

塀越しに見た(見え難い)本殿

拝殿脇に合祀された愛宕大権現
規模は小さいながらも、神々の本家ともいうべき伊勢国で千年を越える歴史を刻んだとは大したもの。
瀟洒な小社であった事が勝者に繋がったと言えそうです。
唯、ここも御多分に漏れず無住の様子。地名・駅名にもなっている【おごそ】かで由緒ある社だけに
残念だと思うのは私だけではないでしょう。

人の気配が全く感じられない社務所

四日市小古曽郵便局 ; 東海道一里塚、杖衝坂を登る「こにゅうどう君」とあすなろう鉄道
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 近鉄3日間全線フリーきっぷ使用 \3,000
【往路】上本町(5:38) → (近鉄急行) → 伊勢中川(7:22→7:23) → 近鉄富田(8:17→8:49)
近鉄富田(8:49) → (三岐鉄道) → 山城(9:04) → 山城〒 → 徒歩15分 → あかつき〒 → 暁学園前(9:33) → 近鉄富田(9:43) → 徒歩8分 → 松原〒 → 川越〒 → 富洲原〒 → 川越富洲原(11:01) → 近鉄四日市(11:12) → 駅前観光案内所 → レンタサイクル → 四日市かすみ〒 → 四日市浜一色〒 → 赤堀〒 → 日永〒 → 四日市追分〒 → 四日市小古曽〒 → 小古曽神社 → 室山〒 → 駅前観光案内所
【復路】近鉄四日市(14:14) → 伊勢中川(15:01→15:12) → 名張(15:54→16:00) → (近鉄急行) → 上本町(17:14)

東海道五十三次、四日市宿と石薬師の間の宿
令和4年に入って四日市では市内の郵便10局に新たな風景印が設置。
そこで休暇を取った17日に近鉄フリーきっぷを使って四日市入り。
現在、県庁の津を凌ぐ県下最多の人口を有する四日市は、江戸時代は東海道四十三番目の宿場。
多くの宿場の一つに過ぎず、発展したのは明治以降の工業化に拠ると思っていましたが、幕府直轄領で代官所が設置。
天保時代には旅籠が98軒もあり、四日市港からは尾張の宮宿まで海上十里の渡しがあったという交通の要衝。
東海道でも有数の宿場だったようです。尚、四日市の名前は既に16世紀には四の付く日に市が開かれていた事に由来。
県庁になっても不思議ではなかったですが、幕府直轄領と言う事が明治政府に嫌われたからでしょうか?

四日市から石薬師に向かう旧東海道
電車と徒歩で近鉄四日市駅の北側の局を巡った後は、昼前に駅前観光案内所でレンタサイクルを借りて市内を南下。
かつての近鉄内部線、いまは四日市あすなろう鉄道に沿って郵便局は点在していましたが、
丁度ここは東海道、国道一号線が並走しているので、局巡りをしながらにして東海道を走る事に。
東海道には昔風の家屋が残り、1本だけではあるものの街道沿いの松並木が「名残の松」として残っていました。

鹿化(かばけ)川に架かる橋上にある東海道案内

東海道の泊付近にある名残りの一本松

一本松の説明
四日市駅から終着駅内部までは6㎞。日永から泊に入って直ぐに道が左右に分かれるのが日永の追分。
日永(ひなが)の追分は、
『東海道と伊勢街道の分岐点。道路が現在の様に拡張される前は、伊勢街道の入口に道を跨いで
伊勢神宮の二の鳥居が建っていた。この鳥居は安永3年(1774年)、久居出身で江戸に居た渡辺六兵衛が、
江戸から京都へ行く時にここから伊勢神宮を遥拝するようにと思って建立したものである。
鳥居は皇太神宮の遷宮に合わせて20年毎に建て替えられる事になっており、
今の鳥居は平成28年(2016年)の建て替えで最初の鳥居から数えて十代目となる。

日永の追分

日永の追分の説明板

追分に建つ伊勢神宮の二の鳥居(現在十代目)
鳥居の奥が伊勢街道。

神宮遥拝御鳥居の標

遥拝鳥居の由緒
また追分は東海道五十三次の四日市宿と石薬師宿との間にある「間(あい)の宿」と呼ばれ、
神宮遥拝鳥居を中心に旅籠が軒を並べ茶店も多かった。
間の宿は本宿に比べ割安に宿泊することが出来、旅人からは歓迎されたと言う。
現在、日永の追分には遥拝鳥居を中心に、安永3年(1774年)建立の常夜灯、旧道標が日永神社に
移転した後の嘉永2年(1849年)に建てられた道標、人々がこぞって汲みに訪れた湧水などが残り、
昭和13年(1938年)に三重県史跡に指定され今に至っている。』 とあります。

鳥居の脇にある常夜燈と湧水

常夜燈と「左いせ参宮道」の道標
その奥が東海道で、道の向こう側に追分郵便局がある。

湧水近影
現在でも水を求めて多くの人が訪れる。
追分は道の分岐点を表す普通名詞で、それだけでは人が集まらないと思いましたが、間の宿が置かれたと知り納得。
人が【おおいわけ】も旅籠が四日市よりも安ければ当然と思えます。
追分の名前は日永ですが旧村の名は泊。これも宿泊者が多かったから付けられた名前と想像できます。
旅人は鈴鹿越えを控えて、【日永】一日ここで身体を休めたことでしょう。
尤も、逢いの宿・愛の宿として利用した人も居た事は想像に難くありませんが…。

あすなろう鉄道終点の内部駅の横を通る東海道

四日市追分郵便局 ; 史跡・日永の追分にある伊勢神宮遥拝鳥居、常夜灯、道標

四日市日永郵便局 ; 伝統の日永団扇、日永つんつく踊りと四日市市営のあすなろう鉄道
四日市赤堀郵便局 ; 赤堀地区キャラクター「ホリンくん」、堀を泳ぐ鯉と四日市市営あすなろう鉄道
[参考書]
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知多半田 → 徒歩3分 → 旧中埜家 → 徒歩8分 → 半田運河 → 半六庭園 → JR半田(11:14) → JR名古屋(12:03→12:06) → JR桑名(12:28) → 観光案内所 → レンタサイクル5分 → 七里の渡し跡 → レンタサイクル10分 → 照源寺 → レンタサイクル5分 → 勧学寺 → レンタサイクル7分 → 観光案内所
【復路】JR桑名(15:24) → JR名古屋(15:54→16:00) → JR米原(17:09→17:17) → JR大阪(18:42)

走井山 勧学寺(高野山真言宗 伊勢西国三十三ヵ所第三十一番札所)
藩主の菩提寺に参拝した桑名での巡礼は果たした様なものですが、少し南へ下った場所に
古刹があると案内にあったので、欲を出してそちらへも参拝。丁度、伊勢西国札所であったのも幸いでした。
走井山勧学寺(はしりいさんかんがくじ)は、
『聖武天皇の天平年間、東国巡化の折に当地を訪れた行基菩薩がその風景を愛でて、
自ら千手観音立像を彫刻し安置したのが嚆矢。境内にあった名水「走り井」に拠って山号とした。
付近の丘陵は観音山または走井山と呼ばれる突角の要地で、
元亀或いは天正年間に矢田半右衛門尉俊元が矢田城を築城した。
当主は観音を信仰し、これを城の北方に祀ったという。
矢田城は織田信長の家臣・滝川一益の勢州平定に拠り陥落、当主俊元は自害した。

由緒記

丈六の千手観音を祀る本堂
江戸の元和元年(1615年)に桑名城主・本多忠勝の家臣であった本多半弥が山麓にあった観音堂を
矢田城址走井山に移し、更に後の藩主松平定重がこれを再建修復した。
伊勢湾を一望できる景勝地で、石段から表門を入ると正面に本堂・太子堂、左手に鐘楼・庫裏と続き
右手に水茶屋があって常に遊山の人々で賑わったと言う。

本堂前面の様子

本堂に掲げられた「走井山」の扁額
本尊は県文化財の千手観音立像で約六尺、かつて西北にあった海善寺が廃寺になった際に本尊が移されたもの。
寺伝に拠れば弘仁年間の810年の作とされるが、破損が著しく、修復を経て今に至っている。
開帳は毎年8月10日でこれを十日観音と称し、前日の九日より山は人で埋まったと言われる。』
とあります。

本堂前から南を見る

本堂脇の聖徳殿・太子堂
成程、実際に来て見ると説明通り周囲を見渡す要害の地。
城址に寺を移転した訳で、有事の際にはここを陣地にも転用できる事を見越しての事でしょう。
そんな境内を見渡すと、寺務所、庫裏がなく人の気配もなし。参拝すべく本堂前に行くと、
・御朱印は大福田寺で行っております。
との記載が。札所では時折見かけるパターンですが、伊勢西国三十四ヵ寺では五ヵ寺がそうなっていました。
当寺は風景印にも記載されている名刹。歴史もあり、要衝ながら無住になってしまうのもまた運命。
今は立地よりもリッチなお寺が生き残る時代と言えそうです。

境内の白梅

大福田寺で拝受した勧学寺の御朱印 (伊勢西国札所)

桑名馬道郵便局 ; 走井山勧学寺本堂、千手観音立像、サツキ
[参考書]
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東海山 照源寺(浄土宗)
照源寺で創建当初から今に残るのは山門と墓所ですが、加えて境内に鬱蒼と生える樹木が一層の趣を添えます。
『本堂前に生える二本の黒松は、両方の根元からほぼ水平に出ている側根が互いに癒着して連立しており、
夫婦松(別名、連立の松)と呼ばれるもの。日本の名松・百選にも選定された桑名市天然記念物である。

境内に茂る樹木群

日本の名松百選の一つである「夫婦松」

夫婦松の説明
また境内にある金龍桜は定綱が摂津の天台宗金龍寺から分植したもので、
一重と八重の花が同じ枝で咲く珍しいものである。
その他、本玄関と書院と間に中庭が、書院奥・墓所前には「二十五菩薩来迎図」を
表現した書院庭園がある。』 とあります。

庫裏の玄関前からの境内の眺望

玄関から夫婦松と本堂を望む
寺務所で御朱印を御願いしましたが御住職が不在なので書置きを拝受。
通常の御本尊に加えて、松と桜の見開き御朱印があり3月なので桜を拝受。
但し、境内の金龍桜は蕾も膨らんでいない状態でした。

参道の左にある金龍桜
季節柄、このような状態。

金龍桜の見開き御朱印

金龍桜の説明と御好意で頂いた「アマビエの御札」
デザインは近隣のお寺の僧侶との話。
和辻;「藩主の墓所は見学できますか?」
夫人;「大丈夫です。本堂横を進むと案内がありますので。」
和辻;「中庭・書院庭園の見学は?」
夫人;「申し訳ないですが、庭は拝観していないのですよ。」
との事。早速、歴代藩主に敬意を表して墓所にお参り。

松平家墓所への石段

史跡 墓所の説明

五代藩主松平定綱墓所

右は白河藩主松平定信(楽翁)の墓所
明治維新まで改易・転封がなかったのは、松平氏の当地での統治が的確だったからでしょう。
加えて墓所の帰りに塀越しに書院庭園を見ることが出来たのも幸運でした。
松は青々と屹立していましたが桜は春を【まつ】状態。常緑だから当然ですが連理となったのは稀有の事だそう。
何故かと考えるに藩主が久松から松平に改姓したからだと納得した次第です。

本堂裏手にある書院庭園

「二十五菩薩来迎図」を表現した書院庭園
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東海山 照源寺(浄土宗)
桑名の町割りを定め、近世桑名藩の礎を築いた本多忠勝公に続き、嫡男忠政が藩主となりますが
大坂夏の陣の後、播磨姫路へ転封。
といっても10万石から15万石への加増で、しかも西国の要衝である姫路ですから栄転といえましょう。
代わって当地には徳川家康の異父弟であった松平定勝が入部。久松松平氏の統治が始まります。
東海山照源寺(とうかいさんしょうげんじ)は、
『桑名藩主松平隠岐守定勝の菩提を弔うため、子の定行が寛永元年(1624年)に遠州掛川より
伝挙三甫上人を開山として創建。当初は崇源寺と号したが、秀忠夫人の法号を憚り照源寺に改称した。

照源寺由緒

桑名指定文化財となっている寛永元年(1624年)建立の山門

美しい筆致で書かれた山門の説明

下から見上げた山門の屋根裏構造
松平定勝は徳川家康の異父弟、於大の方(伝通院)の再婚した久松氏の出である。
家康に仕えて小牧長久手の戦いや関ヶ原の戦いで武功を重ね、家康の信頼も厚く葵紋と松平氏を賜った。
元和3年(1617年)には二代将軍秀忠より桑名十一万石を与えられている。
定行は寛永12年(1635年)に伊予松山に転封となるが、桑名は実弟の定綱が継ぎ、
照源寺も歴代桑名藩主の菩提寺として寺領200石を安堵されている。
江戸時代には多くの僧侶を輩出する修行道場として隆盛を極めた。

山門前にある「仙台枝垂れ桜」
創建当時から残っているのは、山門と26基の松平家霊廟でいずれも市の文化財と県の史跡。
本堂は明治23年の改築で入母屋・桟瓦葺で内陣には本尊の阿弥陀如来を祀る。
当寺には家康公由来の仏舎利、二十五菩薩来迎図、楽翁公(松平定信)肖像等、寺宝が残されているが、
中でも「解体新書」挿画を書いた小田野直武に拠る日本風景図は日本絵画史上貴重とされる。』 とあります。

山門を潜りすぐ左手にある鐘楼堂

参道から山門を振り返る

参道の先に建つ本堂

左側より見た本堂

本堂に掲げられた「東海山」の扁額
宿場町である東海道沿いは海に近く庶民のエネルギーを感じますが、菩提寺の建つ線路の西側は
木々に囲まれた静寂の地。
同じ東海でも海と山ではこれだけ違うと言う事ですが、歴代の名将の眠る【名勝】と言えましょう。
家康の異父弟とはいえ、入部した時には家康は既に泉下の人。
それでもこの要地に封じられたのは、幕府の信頼が厚かったために他なりません。
本多忠勝に比べると知名度は低い久松松平家ですが、勤勉実直な人だったのでしょう。
桑名藩も幕府の信頼に応え、幕末に於いて最後まで幕府に忠誠を尽くしたのが、会津藩、庄内藩とここ桑名藩でした。

本堂前からの境内の眺望

本堂と庫裏前の枯山水庭園

照源寺説明冊子

照源寺御朱印 (御本尊)
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東海道五十三次桑名宿
七里の渡が有名ですが、桑名は松平家の城下町、かつ東海道五十三次42番目の宿場町でもあり、
旅籠数120軒を数える賑やかな場所でした。今でも町のそこかしこには宿場の雰囲気が残ります。
ここ桑名の町割に功績があったのが、本多忠勝公。
『本多忠勝公は関ヶ原の戦いの戦功により、慶長5年(1600年)上総大多喜より伊勢桑名十万石に転封になった。
入部した忠勝公は木曽三川の水運で栄えた港町を、城を中心とした城下町に造り変えるという
大胆な都市再開発事業を断行。これを「慶長の町割」と呼び、桑名で計画的に町造りが行われた最初とされる。
城下町・港町・宿場町という三機能を併せ持つ桑名の町は公の第一の功績である。
慶長15年に63歳で没した忠勝公は、城下の浄土寺に葬られている。

九華公園にある本多忠勝像

忠勝公像近影

像の下にある忠勝公事績

蟠龍櫓内に展示されている忠勝公の肖像画(複製)
旧東海道は七里の渡から南に向かいますが、渡跡から八間通までの川口町・江戸町付近が
宿場らしい場所で、案内図ではかつては花街であったと言う。
渡付近にはかつて大塚本陣、脇本陣駿河屋があったが、現在前者は料理旅館船津屋に、
後者は料亭山月となっている。
明治42年桑名に講演に来た泉鏡花は船津屋に宿泊、その時の印象を基に小説『歌行燈』を書いた。』
とあります。

渡跡から八間通りの旧東海道
桑名宿では旧東海道はベージュでカラー舗装されている。かつては花街であったと言うが、今は、はまぐり専門店が多い。

大塚本陣跡
かつては裏庭から直接乗船できたと言う。現在は料理旅館・船津屋として営業。

船津屋の東に隣接する船番所・脇本陣の駿河屋跡
こちらも今は料理旅館・山月として営業中。

駿河屋跡に建つ石碑
本多忠勝公と言えば「槍の平八郎」の異名を取った徳川四天王の一人。
関ヶ原では軍鑑を務めるなど武人の印象が強いですが、桑名の町割を造った事など武辺一本槍ではなかったようです。
船津屋脇には歌行燈句碑が建ち、戯曲『歌行燈』を書いた久保田万太郎の作。
てっきり作者が詠んだとおもいましたが説明を見て【行燈】。作者ならやはり【狂歌】になるでしょう。

船津屋脇に建つ「歌行燈」句碑
但し、摩滅しているためか読み辛いのが難点。

句碑の説明
丁度昼時でしたが、船津屋や山月は敷居が高くて敬遠。街道沿いにあるその名も「歌行燈」で昼食。
明治10年創業の老舗のうどん屋さんですが、鏡花の作品に由来する名前。
「うどん」に「たあん」を加えると「うたあんどん」。他案の入り込む余地はなかったのでしょう。
巡礼で饂飩は定番ですが、またこの付近は弥次喜多道中でも有名な蛤の店が多くあり、
名物「蛤歌行燈御膳」を頂きました。もし半田で昼食ならば【す】うどんだったでしょう。
昨今、漁獲量が激減し価格が高騰気味の蛤ですが、それなりのリーズナブルな値段で頂くことができました。
もっと安くなれば、焼き蛤を頂きたい所です。勿論、【しちりん】で…。

旧東海道沿いにある「歌行燈」

正面から見た「歌行燈」

名物「蛤歌行燈御膳」

桑名郵便局 ; 名産・白魚、蛤、七里の渡碑、揖斐川堤の桜
桑名城南郵便局 ; 旧東海道沿道の安永の常夜燈、町屋川、町屋橋

JR桑名駅スタンプ
(上) わたしの旅 シリーズ (下) 関西本線 名古屋~亀山電化記念

JR桑名駅スタンプ 2008年JR東海名古屋支社印
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七里の渡跡
半田運河を巡った後は武豊線・東海道本線で名古屋まで戻り、関西本線で伊勢の桑名へ。
JR東海道本線は名古屋から北上して関ヶ原・米原方面へ向かいますが、
江戸時代の東海道はほぼJR関西本線コース。国道一号線もこれを踏襲しています。
唯、線路や道路で行ける現在と異なり、江戸時代は名古屋(宮宿)から桑名までは唯一の海路でした。
理由は色々とあるでしょうが、この付近は木曽三川が複雑に入り混じって伊勢湾に流れ込んでおり、
大きな橋を架ける事に抵抗があった幕府が、川ごとの渡しではなく一気に海を渡る事にしたと思えます。

七里の渡跡に建つ伊勢国一の鳥居
ここから伊勢国という意味合いか?

七里の渡の案内板

七里の渡跡付近の地図
太い赤線が旧東海道。

七里の渡跡説明
『宮宿と桑名宿の間は東海道唯一の海路で、その距離が七里(約28㎞)であった事から七里の渡と呼ばれる。
七里の渡は丁度、伊勢国の東入口に当たるため、伊勢国の一の鳥居が天明年間(1781~1789年)に建てられた。
渡の西側には舟番所、高札場・脇本陣・駿河屋・大塚本陣が、南側には船会所・人馬問屋や庭本陣があり、
東海道を行き交う人々で賑わい桑名宿の中心として栄えた。
昭和33年(1958年)に三重県指定史跡になるが、翌34年の伊勢湾台風でこの付近は甚大な被害を受けた。
その後、渡跡の前には堤防が築かれたため、江戸時代とは異なる景観となっている。

渡跡の前に築かれた堤防
堤防の向こうには揖斐川が流れる。

少し高みから見た堤防

堤防の上から見た揖斐川
更に向こうが長良川で遠くに長良川河口堰が見える。

堤防の上から見た七里の渡跡

七里の渡跡にて鳥居を仰ぐ
また渡の東には蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が建つ。桑名城には元禄大火後の再建時にも51の櫓があったが、
川口にある七里の渡に面して建てられた蟠龍櫓は東海道を行き交う人々が目にする桑名の象徴的存在であった。
廣重の東海道五十三次(保永堂版)でも描かれている。』 とあります。

渡跡の先に続く蟠龍櫓

渡跡から南へ伸びる水路
今でも多くの船が停泊する場所である。

陸側から見た蟠龍櫓全景

揖斐川側から見た蟠龍櫓

櫓の屋根の鬼瓦
藩主本多家の家紋「立ち葵」と蟠龍。

櫓内部に展示されている蟠龍

櫓の狭間から七里の渡跡を望む
七里の渡は伊勢湾を横断しますが、尾張の宮の渡も伊勢の桑名の渡も海でなく
川で少し内陸に入った場所にあったとは今回初めて知りました。
内海とはいえ荒波を防ぐ意図があったようですが、海に棲むフナクイムシの被害を防ぐためでもあったのでしょう。
現代の感覚からすれば途中に海路を挟むのは能率が悪いように思えますが、
陸上の移動では徒歩が主流であった時代には、船の移動は時間的・物量的にも効率の良い方法でした。
外海と異なり伊勢湾では海難事故も殆どなかったと思えます。
それを思えば海の字を持つ東海道と言う呼び名は相応しいといえましょう。

歌川廣重 東海道五十三次 桑名「七里の渡し」 (保永堂版)
蟠龍櫓に展示されているもの。

桑名市マンホール蓋

桑名市マンホールカード(B) 配布場所はこちら

桑名八幡郵便局 ; 歌川廣重 東海道五十三次 桑名「七里の渡し」 (保永堂版)
[参考書]
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【往路】JR天王寺(6:35) → JR加茂(6:53→6:55) → JR亀山(8:16→8:23) → JR伊勢市(9:56)
近鉄伊勢市(11:12) → 斎宮(11:28) → 平安の杜 → 斎宮(12:28) → 松阪(12:41→12:48) → 四日市(13:25) → 近鉄四日市(14:54) → 東一身田(15:28)
【復路】高田本山(16:28) → 伊勢中川(17:21) → 近鉄桜井(18:31→18:43) → JR王寺(19:22→19:29) → JR大阪(20:08)

さいくう平安の杜
通常ならば正月に初詣ですが、巷は分散型を推奨しているので、一足早く初牛鳴(モー)出に伊勢国へ。
といってお伊勢さんは三密でしょうから、松阪と伊勢の中間の明和(めいわ)町。
とりたてて寺社はありませんが、かつての斎宮(さいくう)跡。近鉄山田線の東側にある広大な空間が
斎宮跡で公園になっており、平城京跡にも通じるものがあります。

近鉄電車斎宮駅ホームより東を望む
遥か向こうに「斎宮」の看板が見える。

神社を象った斎宮駅舎
現在は無人駅。

斎宮駅スタンプ
四半世紀以上前の有人駅時代に押印したもの。
古代(天武天皇)から中世の室町期まで、天皇の代行者として未婚の皇女の斎王(さいおう)が伊勢神宮へ奉祀した場所。
斎宮の役所であった斎宮寮の長官の元、儀式や饗宴に使用されたとされる正殿・西脇殿・東脇殿の三棟が復元されていました。
年末なので当然休館だったので、外から遥拝。来年は町名に肖って【めいわくなく明るく和やか】になって欲しいものです。
周りからは寒風と牛の鳴き声が聞こえてきました。

駅から続く平安時代の復元道路

道路から見た復元建物

正面に建つ正殿
斎宮寮の中心的な建物で、入母屋造・檜皮葺。床面積 94.5㎡、高さ 7.97m。

西脇殿
大人数の儀式などに使用した建物で、切妻造・檜皮葺、東面庇板葺。床面積 162㎡、高さ 7.59m。

東脇殿
儀式の準備等に用いられ、切妻造・檜皮葺、東面庇板葺。床面積 89.86㎡、高さ 5.86m。
参拝を終えて帰阪しようとすると紀勢線が強風でまさかの運転見合わせ。
近鉄の駅まで歩いて、伊勢中川から大阪線で帰阪となりました。18きっぷは使えませんでしたが、
代行輸送があったので、余分にかかったのは¥1000円程度。関西本線経由より却って帰宅は早くなりました。
「人生万事【斎王】が丑」です。皆様、どうか良いお年を…。

明和郵便局 ; 竹の都へいあん斎宮の杜、町花ノハナショウブ、めい姫
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高田山 専修寺(浄土真宗高田派本山)
寺内町散策の後は、いよいよその中心へ。本丸ならぬ本山です。
高田山専修寺(たかださんせんしゅうじ)は、
『浄土真宗十派の一つである高田派の総本山。
元々の専修寺は、嘉禄元年(1225年)開祖・親鸞聖人が関東各地を教化中に
下野国芳賀郡(真岡市)に一宇を建立し、専修念仏の根本道場としたのが始まり。
起源については、明星天子の夢のお告げと伝わるが、実際は真岡城主・大内氏の依頼に拠るとされる。

西の桜門跡から寺内を望む

西口から寺内町通りを見る

寺内町通り西にある重文・唐門
如来堂正面に建つ四脚門で、檜皮葺屋根の正面・背面共に大きな唐破風があるのが由来。天保15年(1844年)の建築で、完成までに35年を要した。

唐門説明

境内から見た唐門の組物と彫刻

唐門扉の牡丹の彫刻
その管理を任されたのが親鸞直弟子二十四輩の第二座にあった真仏(しんぶつ)上人であったため、
真岡を中心とした教団は関東でも有力となり「本寺」として全国から崇拝を受けた。
この教団は高田専修寺の第十世の真慧(しんね)上人の時代に一段と飛躍する。
寛正5年(1464年)、真慧がこの伊勢の一身田に無量寿院を建立。
戦火で焼失した高田専修寺に代わり、東海北陸地方の布教の中心とした事が、
高田派の、強いてはこの町の発展に繋がった。記録に残る最古の資料は天正20年(1592年)のものである。
唯、下野の専修寺も元寺と言う事で本寺、一身田は本山と呼ぶのが定着した。

唐門下から見る国宝・如来堂

御影堂の正面に立つ重文・山門
宝永元年(1704年)築の入母屋造・本瓦葺の二階建ての門で専修寺の総門。寺院の門としては最高の格式で楼上には釈迦三尊像を安置する。

山門の説明

山門脇には明治天皇行在所の碑が

境内から見た山門
「指肘木」などの大仏様の建築様式を取り入れている。

山門下から見た国宝・御影堂
その頃の寺域は現在の半分位であったが、天正8年(1580年)、正保2年(1645年)と
二度に亘り伽藍が焼失。
万治元年(1658年)津藩二代藩主・藤堂高次の四女・いと姫が専修寺の門主に輿入れする際に
土地の寄進を受けたことで約9万㎡の広大な寺域を得、
町へ入る赤門・黒門・桜門を整備するなど寺内町の形成を行った。

広大な境内

寛延元年(1748年)建築の国宝・如来堂
隣接する御影堂の半分の広さだが教義上はここが本堂で、「証拠の如来」と呼ばれる重文・木造阿弥陀如来立像が本尊。

側面から見た如来堂の外部組物
御影堂とは右側の通天橋で繋がっている。完成2年(1800年)建築の通天橋も重文。

寛文6年(1666年)建築の国宝・御影堂
親鸞聖人の木像、歴代上人の画像を安置する。入母屋造・本瓦葺の純和様で内部は780畳の広さを誇る。

御影堂前面の組物

御影堂前面にある欄間の麒麟の彫刻

横から見た御影堂と屋根の装飾
寛文6年(1666年)には全国屈指の大きさを誇る御影堂が、同12年(1672年)に御廟、
宝永元年(1704年)に山門、寛延元年(1748年)に如来堂と、幕末に至るまで
境内には種々の建物が造営され伽藍の形式を整えた。
明治以降は廃仏毀釈の余波で多くの寺域を失うが、環濠がほぼ完全な形で残り、
多くの寺院や古民家の佇まいを今に伝える。
平成29年には御影堂と如来堂が国宝に指定された。』 とあります。

山門を入ってすぐ右手にある重文・茶所
入母屋造で西側正面に唐破風造りの向拝を設けている。今でも茶の接待が受けられる。

重文・鐘楼
梵鐘は慶安5年鋳造の銘が残る。今は御堂の勤行前に撞かれるのが習わし。

鐘楼と梵鐘の説明

御影堂から続く進納所

御影堂の北東に位置する重文・大玄関
天明3年(1783年)の火災後再建。明治11年に現在地に移転した。

重文・御対面所
大玄関の東に続く。大正元年までは法主が檀信徒に対面する場所であった。
真宗は派が多いのは知っていましたが、派に拠り特色があるのには吃驚。
【十派一絡げ】にするわけにはいかないようです。栄枯盛衰は世の習いとはいえ、
廃れた元寺を本寺として敬意を表している?事には感心。
このような懐の深さも民衆には受け入れられた理由にはなったかと思います。

食堂(じきどう)
僧侶が食事するのか、檀家が食事をするのか?

婦人会館
それよりも境内の広大さと伽藍は壮大の一言。かつて訪問した京都の西本願寺に似た印象でした。
それでも観光客の違いは雲泥の差。駅で降りた人も地元の人が数人、観光バスも入山している様子はなし。
観光よりも檀家の方々の場所と言った所。
25年前には気付かなかった店もちらほらと…。早速食べる処ですが、時刻が15時過ぎだったため殆どの店が閉店。
県庁所在地の津駅から一駅ですが、鉄道が1時間おきというのがネックなのでしょう。
これだけ国宝と重文が多いと今回で【じゅうぶん】とはいかず。次はもう少し早く来ようと
一日【専修】の思いに。お寺も【三重へどう?】と言ってくれる気がしますが…。

寺の東にある重文・太鼓門
左右に長屋が付く四重の楼門で、かつては町の人々に時刻を知らせる太鼓が打たれた。

太鼓門説明

外から見た太鼓門

境内の蓮池

専修寺説明書

専修寺御朱印(平成7年拝受)
現在では真宗寺院は御朱印をしない所が多いが、専修寺は例外的に多種類を行っている様子。
[参考書]
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一身田寺内町散策マップ
伊勢の寺巡りを終えた後は紀勢本線で亀山まで戻りますが、
夕刻には1時間程度余裕があったので一身田駅で途中下車。
ここは浄土真宗高田派の大本山専修寺があり平成7年に訪問済。
なんでも最近国宝に指定されたそうで、これは再訪しないといけません。
当時は有人駅でしたが、今は無人化。県庁所在地の津から僅か1駅下っただけですが、
最寄りのJRの運行も1時間に1本というのがネックで乗降客も殆どなしでした。

JR一身田駅舎(JR東海)
大正12年(1923年)建築。瓦葺の屋根の前面に回廊のような庇を持ち寺院を連想させる造りとなっている。

平成7年押印のJR一身田駅スタンプ
下は国鉄時代の「わたしの旅」シリーズ、上はそれ以前のもの。
寺院参拝に先立ち町内散策。ここは専修寺の門前町として寺内町が形成されています。
一身田寺内町は
『奈良時代の723年に発令された『三世一身の法』の中にある、
その身一代に限って与えられた田と言うのが一身田の地名の由来。
以降は農村地帯として発達したが、大きく変わる契機になったのは戦国時代。
栃木県にあった高田専修寺の第十世の真慧上人がこの地に無量寿院を建立。
戦火で焼失した高田専修寺に代わり、東海北陸地方の布教の中心とした事が、
高田派の、強いてはこの町の発展に繋がった。記録に残る最古の資料は天正20年(1592年)のものである。

環濠に架かる朱の橋を越えて寺内町へ
町の西口に当たり桜並木があったため桜門と呼ばれた。左奥にあるのが専修寺。

寺内町全図

専修寺のすぐ南を東西に走る寺内町通り

玉保院
通りを隔てて専修寺山門前に立つ。通称「東院」

智慧光院
同じく山門前に立つ。こちらは通称「西院」。
その後、正保2年(1645年)に伽藍が焼失したが、伊勢藤堂藩より土地の寄進を受けたことで
万治元年(1658年)伽藍を復興。それに伴い専修寺を中心に環濠を巡らし、
町へ入る赤門・黒門・桜門を整備するなど寺内町の形成を行った。
濠で囲まれた範囲は東西500m、南北450mであり、幅は狭くなってはいるものの、
総延長は江戸時代の記録に一致している。

石橋と釘抜門
専修寺山門の南にあり、これを境に寺内(聖域)と地下(庶民の生活域)に区切られた。

説明文
寺内町は三つの門で管理されており、明け六つ(午前6時)に開き、
暮れ六つ(午後6時)に閉門されたと伝えられる。
明治以降は、境内と墓地以外の多くの寺領を失い、
明治7年には山門も売りに出された記録が残る。
しかし現在でも、環濠がほぼ完全な形で残り、専修寺を中心に
多くの寺院や昔の人家の街並みを残している。』 とあります。

寺町通りに面した下津家長屋門

慈智院
専修寺の東に建つ。一身田で最も古い建築とされる。

慈智院説明
25年前の訪問では専修寺の大伽藍は覚えていますが、街並みは殆ど記憶になし。
大きく変わってはいない筈ですから、自身に興味と知識がなかったからでしょう。
商業施設の記憶もないですが、門前には洒落た喫茶・食事のできる店ができており、
そこそこの繁盛ぶり。私のように鉄道を利用する人は殆どいませんが、
自家用車やマイクロバスでの来場が多いようです。
寺内町の東には案内所があったので早速訪問。
係の方が居られたので、パンフ類は頂きましたが、15時閉鎖のため見学はできず。
一般の観光地は16時まで開いている施設が多いので、油断してしまいました。
環濠は残っているものの、観光はまだ途上のようです。

道標

環濠に架かる橋
この付近がかつての黒門跡

環濠の説明

寺内町通りから一筋南の通り
商家が軒を連ねる。
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龍池山 松尾観音寺(単立寺院 伊勢西国三十三ヵ所第三番札所)
中山寺参拝の後は参宮線沿いに東へ向かい、神宮徴古館を過ぎ、
倉田山と呼ばれる丘陵地を上り野球場を過ぎた所にあるのが目指す寺院。
赤い橋を目印に左折すると、山門はなく石段の上に堂宇がありました。

朱い橋がお寺の目印

石段の上に境内が広がる
龍池山松尾観音寺(りゅうちざんまつおかんのんじ)は、
『和銅4年(712年)、行基が伊勢参宮の折に、夫婦の龍神が棲むと言い伝えられる「二つ池」を訪ね、
自ら十一面観音菩薩、毘沙門天、地蔵菩薩の三尊像を刻み池の畔に堂宇を建立し安置したのが始まり。
その後は、伊勢国司北畠家の祈願所として崇拝され、末裔の木造(こつくり)家が代々守護し現在に至る。
創建以来、本山も末寺も檀家も持たず、いずれの既成宗派にも属さない単立寺院という立場を守り続けている。

境内全景

鉢植えの蓮の向こうにある納経所
コロナのため書置きで対応との事。

本堂
本尊は十一面観音坐像だが、秘仏。火災に遭ったから火仏か?
応永10年(1403年)、寺院が火災に遭った際には二つ池から夫婦の龍が現れ、
雄龍は炎を飲み込みながら観音様を自らの体で幾重にも巻き付け、
雌龍は何度も池の水を吹きかけ三尊像と本堂を守った。
それ以来、厄除け・縁結び・子授け等の祈願で多くの参拝者が訪れるようになった。

本堂正面

本堂前面の造り

写経を納めた本堂屋上の擬宝珠
昭和29年の大改修の際に、一万巻の般若心経が発見された。
昭和57年(1982年)には龍神伝説に因み、本堂脇に300本のキリシマツツジを昇龍の形に植えた。
これは龍神庭園として春には紅白の花を咲かせ親しまれている。

本堂横を抜け龍神庭園へ

昇龍の形に植えられたキリシマツツジ
頭と思いきやこちらは尻尾

龍神庭園説明

境内の最奥に建つ聖観音堂(護摩堂)
宝を授けて下さると言う聖観音様を祀る。
また平成18年(2006年)に本堂の床板を新しくしたが、
1年ほどしてから龍に似た模様が現れるようになった。
今では床龍神(撫で龍)として新たな龍神名所となっている。』 とあります。

本堂正面欄間の彫龍(説明書より引用)
欅の一刀彫。

本堂床の床龍神

床龍神の説明
子授け祈願は木造(こつくり)家の故でしょうか?厄除けに限らず、あらゆるご利益がありそうですが、
これも葬儀・供養等を一切行わない「祈願寺」という特異な形態をとっていることもあるようです。
龍は架空の動物ですが、寺院の東側に二つ池が仲良く並んでいる事、
家事の際にはそこから水を汲んで消火活動を行ったことが、龍神伝説になったので【しょうか】?
地元の夫婦が消火活動に当たったとも言えますが、二人ではやや不足の感があります。
庭園は人工的なものですが、床板は偶然の要素が強いでしょう。
本堂内陣は撮影禁止ですが、ここだけはOK。近くで見ると龍に見えるから不思議です。
犬にも見えますが、そこは見る人の心掛けに拠るのでしょう。龍もここまで揃うと圧巻です。

松尾観音寺説明書

松尾観音寺御朱印
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神護峯 中山寺(臨在宗妙心寺派 伊勢西国三十三ヵ所第五番札所)
鳥羽から伊勢市まで列車で戻ると丁度昼過ぎ。
今日は土用の丑なので「う」で始まる三文字で腹ごしらえ。
美味し国と呼ばれる伊勢ですが、美食は多いものの値段もそれ相応。
こんな時には、出来上がりも早く財布にも優しいものは貴重と言えます。
食後に立ち寄った観光案内所には「伊勢なのに寺巡りツアー」のパンフがあり、
伊勢市内の札所三ヵ寺をバスで巡るもの。伊勢市に来る観光客の大部分は伊勢神宮参拝でしょうが、
これからは違った趣向も準備しているようです。この後、レンタサイクルで札所巡り。

JR伊勢市駅舎
落ち着いた和風の造りだが新しい。

近鉄宇治山田駅舎
もう一方の伊勢路の玄関で、こちらはレトロな洋風建築。文化財指定。

JRの直ぐ前にある店にて昼食

伊勢うどん&松坂牛しぐれ巻(4貫) ¥1,200

寺巡りツアー案内
神護峯中山寺(しんごほうちゅうざんじ)は、
『慶安4年(1651年)、伊勢亀山藩主・石川昌勝が願主となり、神宮の外宮・内宮の中間の地に創建。
妙心寺第137代住持の愚堂東寔(ぐどうとうしょく)を招き開山とした。
明暦2年(1656年)創建とされる本堂は、本瓦葺・寄棟造で古式方丈建築の
様式を残しており、堂内には開山、二代目の木像及び円空仏4体を祀る。

中山寺入口
外宮前の御木本道路から少し中に入るとこの静けさ。

中山寺沿革

文化財である山門

山門前の仁王像

山門に掲げられた山号の扁額
山門正面にあるのは釈迦八部衆の一人である乾達婆神(けんだつはじん)
を祀る乾達婆堂で、小児の疳封じに300年の伝統を誇る。
本堂と乾達婆堂の間にあるのが観音堂と地蔵堂で、明治初期に廃寺となった
蓮台寺の十一面観音菩薩を迎えたことから伊勢西国第五番札所となった。
本堂と山門、経堂が文化財に指定されており、宗派県下第一の古刹である。』 とあります。

境内の様子

山門正面にある乾達婆神(けんだつはじん)を祀る乾達婆堂

乾達婆堂に架かる「降魔殿」の扁額
小児の疳封じに300年の伝統を誇る。

横から見た乾達婆堂
場所は駅から南へ行った小高い丘にありますが、地図を見ると外宮と内宮のほぼ中間。
寺号は中間の山由来、山号は宮を守護する寺だからでしょう。
金胎寺が荒れて少し寂しいのに対し、中山寺は整備されて落ち着いた印象。
鳥羽と伊勢の差に拠るのか、立地条件に拠るのかは不詳です。
西国巡礼札所なので観音様が居られる筈ですが、観音様は間のお堂にひっそりと祀られていました。
外宮と内宮の中間にある寺院ですが、西国御本尊も本堂と乾達婆堂の中間にある中間づくしの札所でした。
中庸という仏の教えでもあるのでしょうか?中途半端なら困りますが…。

正面から見た本堂
円空仏もここに祀られているはずだが、年1回しか拝観できず。

本堂前から観音堂・地蔵堂を見る

観音堂(左)と子安地蔵堂

一番奥に建つ天神堂

境内の桔梗

中山寺御朱印
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慈眼山 金胎寺(真言宗御室派 伊勢西国三十三ヵ所第六番札所)
コロナの影響で近場にある河内西国札所を巡礼していますが、
以前に三重で貰ったパンフに伊勢西国札所もある様子。
調べてみると平安時代前期まで遡り、その後、再編成を経て今に続いています。
神の宿る地として有名な伊勢ですが、そのような古刹があるのも意外でした。
大阪から伊勢へは近鉄電車を利用するのが定石ですが、
この日は夏の青春18きっぷで大回りしながら終点の鳥羽からスタート。
リアス式海岸で知られる海の街ですが、駅から徒歩で15分程南西に歩き、
道路沿いの案内板に従って細い石段を上った山麓に札所は鎮座。

道路から続く細い石段が入口

不安になりつつも幟に従って更に奥へ

最後の石段を上ると境内へ

石段を上った先から市内を見下ろす
慈眼山金胎寺(じげんざんこんたいじ)は
『天長年間、弘法大師が伊勢両宮、朝熊山金剛證寺に参禅された後、この地に杖を留めたのが嚆矢。
天正年間には鳥羽領主であった九鬼嘉隆が鳥羽城築城の際に鍋ヵ崎から観音堂を移築。
観音山に堂宇を建立した。朝鮮出兵の際には武運・航海安全の崇拝篤く、
江戸時代の寛文5年(1665年)には領主・内藤忠政に拠り二の丸余材を用いて本堂が再建された。
慈眼山観音院と名が改められたのはこの時である。
明治維新後は大山祇神社にあった金胎寺、潮満寺を当院に合祀。
名も慈眼山金胎寺と改称。本尊は黄金の秘仏を腹蔵した一丈一尺の千手観音である。
しかし平成7年に原因不明の火事で本堂、仏像、古文書等を悉く焼失。
再建に向けて現在は仮本堂で参拝を行っている。』 とあります。

石段正面に立つ仮本堂

仮本堂前面と扁額
御朱印の書置きはここで拝受。

かつての本堂の跡地
再建に向けて準備中との事。

仮本堂の奥を抜けて八十八ヵ所巡礼へ

高台にある八十八ヵ所
境内では年配の男性が清掃中。御住職かと尋ねると、地元のボランティアの方で、
御住職は他寺と掛け持ちなので常駐ではありませんでした。
焼失した本堂跡は再建に向けて準備中との事でしたが、雑草が生えており
もう少し時間が掛かりそう。代わりに仮本堂と裏手の新四国八十八ヵ所を巡って来ました。
寺域は山に続いていますが、境内はむしろ狭い状態。
しかし境内からは鳥羽湾を見渡すことが出来、海の寺という印象を強めました。
真珠と海女さんで有名な鳥羽ですが、金胎寺と言う名は真珠を育むアコヤガイの姿を現すような気がしました。

高台から見た仮本堂

高台から見た本堂跡

お大師様の石像もマスク姿

境内から見た市内と鳥羽湾

金胎寺御朱印
右が伊勢西国巡礼のもの。
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 近鉄大阪線急行は1時間毎、名古屋線急行は15分毎に運転
【往路】上本町(6:00) → (近鉄大阪線急行) → 伊勢中川(7:53→7:59) → (近鉄名古屋線急行) → 桑名(8:58→9:25) → (養老鉄道) → 多度
多度駅レンタサイクル → 10分 → 多度大社 → 多度(12:02) → 桑名(12:18) → 観光案内所レンタサイクル → 5分 → 大福田寺 → 市内散策
【復路】桑名(15:42) → 伊勢中川(16:38→16:42) → (近鉄急行) → 上本町(18:36)

神宝山 法皇院 大福田寺(高野山真言宗)
多度大社の後は桑名まで戻って市内散策。それに先立ち聖天さまにお参り。
神宝山法皇院大福田寺(じんぽうざんほうおういんだいふくでんじ)は、縁起に拠れば、
『飛鳥時代に聖徳太子が南勢山田に創建。
その後、天武・持統・聖武・淳和天皇の御臨幸を仰ぎ、聖武天皇に拠り勅願寺と定められた。
平安時代には弘法大師が修行、宇多法皇が延喜年間に閑居されるなど
皇室との所縁が深く、今に至るまで菊の御紋の使用を許されている。
その後、衰微するも後宇多天皇の建治年間(1275~1278年)に勅命に拠り
忍性上人、額田部実澄公が桑名市大福に再興。
赤須賀の浜に所縁の阿弥陀如来を本尊としたが、戦国時代に殆ど焼失。
漸く江戸時代の寛文2年(1662年)に桑名松平家の援助で現在の尾野山に移り堂宇を造営。
文政年間に松平定信公の念持仏の歓喜天の寄進を受け聖天堂を建立。
以来神宝聖天尊として日本三大聖天の一つとなっている。』とあります。

道路に面した大福田寺入口
左が聖天堂、右が本堂へ続く門

山門前にて
ここを潜ると本堂へ。

山門近影

縁起

山門から本堂を見る
三重四国八十八ヵ所の第一番札所だそうな!

庫裏と玄関
山門を入った右手にある。
多分に伝説的な面もありますが、この縁起には
山号・院号・寺号のすべての謂れが描かれています。
尤も寺号は地名由来の福田寺に足利尊氏が大の字を加えたとの説もあるようですが…。
寺が飛躍したのが宇多法皇の時で、衰退後に再興したのが
後宇多天皇というのもなにやら因縁めいています。
本尊は阿弥陀如来で鎌倉期、歓喜天は江戸期と後塵を拝していますが、
現地では聖天さまの方が人口に膾炙しています。
本尊より他の仏様が有名になった寺院は各地にありますが、
それだけ実際的な御利益があった故。
なんでも昭和20年のアメリカ軍の空襲で70ポンドの焼夷弾が聖天堂に落下しましたが、
御厨子の宝珠が発火栓を塞ぎ爆破を免れたとか。近辺の人々の喜びは想像に難くありません。

境内から見た本堂と聖天堂(奥)

本堂前の大銀杏

江戸時代に再建された本堂

本堂正面
阿弥陀如来を祀る。

本堂の扁額「神宝山」

南側の門から見た聖天堂
両脇に石灯籠が並ぶ。

聖天堂近影

聖天堂の扁額

聖天堂前から
奥に見えるのが本堂。

大福田寺略記

大福田寺御朱印
参拝の後は市内を散策。
江戸時代には蛤で全国的に有名でしたが、最近は漁獲高が年間1トン程度に激減。
代わりに泉鏡花の『歌行燈』由来のうどんで町興しをしています。
店を探していると思わぬところに炭焼き「新城」の看板が…。
三重県では津や志摩が有名ですが、これは【くわな】い手はありません。
どちらも「う」で始まる長いものなので問題はないでしょう。
シラスウナギの漁獲減で価格がうなぎ登りですが、
昼間には¥2300とリーズナブルな値段の「ひるまぶし」「新城丼」のメニューがあり丼を注文。
甘いタレと関西風のパリッとした食感が絶妙でした。
支払いの時に、若い店員さんが
店員:「大阪の方ですか?」
和辻:「そうですが、どうして分かりました。」
店員:「株主優待券が見えましたので。私も淀屋橋で働いていました。」
和辻:「すると板前修業で?淀屋橋なら柴藤・志津可が有名ですね。」
店員:「いいえ、全然別の仕事で。」
和辻:「ご出身がこの近くですか?」
店員:「いえ、この店が実家です。」
和辻:「跡を継がれる訳ですね。それは素晴らしい!」
価格高騰の為に長く続いた老舗を閉める話が多いですが、
鰻料理の伝統を守り続ける店があるのは心強い次第。
いつかその手は桑名の…となる日が来るのを祈りたいと思います。

「新城」前にて
桑名駅の南、市役所東にある。

新城丼 ¥2300

食後は和菓子処「寿恵広」にてアイス饅頭を購入
尚、ここの御店の奥様も大阪出身というのも奇縁。

桑名市マンホールカード 配布場所はこちら

桑名市マンホール蓋(その1)

桑名市マンホール蓋(その2)
[参考書]
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<コース> 近鉄大阪線急行は1時間毎、名古屋線急行は15分毎に運転
【往路】上本町(6:00) → (近鉄大阪線急行) → 伊勢中川(7:53→7:59) → (近鉄名古屋線急行) → 桑名(8:58→9:25) → (養老鉄道) → 多度
多度駅レンタサイクル → 10分 → 多度大社 → 多度(12:02)

多度大社(式内社 旧国幣大社)
青春18きっぷが仕えない時期ですが、近鉄株主優待券で三重県へ。
多度駅は二度目ですが、前回はここも近鉄だったので1枚の切符でOK。
しかし今回は桑名以遠が養老鉄道になったので別料金が必要となったのは
【ようろう】しくありません。しかし路線が残った事は感謝すべきでしょう。
余談ですが前回は多度町だった行政区も今は桑名市。
鉄道は分割されたが市町村は合併したと言う訳です。
多度駅から格安¥100のレンタサイクルで多度川を5分程遡ると目指す神社。
途中、道の両脇には昔ながらの家屋が並び、清めの池もあり、
古より人々の信仰の場所だった事がひしひしと感じられます。

多度駅ホームの駅名表示板

養老鉄道多度駅舎
神社を模した造りとなっている。

多度川に沿った道路を西へ
行く手に見えるのが養老山系の多度山。

道路の左側にある宮川清めの池

池の説明板

道に沿って昔の家並みが続く

東の鳥居に到着

鳥居前の太鼓橋
多度大社は伊勢の北端、養老山系の多度山の麓に鎮座。
1500年の歴史を有する古社です。
神が宿る神体山として信仰を集めたものでしょう。略記に拠れば、
『雄略天皇の時代に社殿が造営。天平宝字7年(763年)には神宮寺も創建。
延喜式にも登場し、後一条天皇の御代には東海道六社の内の一社に数えられた。
南北朝時代の暦応年間には上げ馬神事も始まり、皇室からも度々幣帛が献ぜられた。
平安末には伊勢平氏の、中世には伊勢国司の北畠氏の庇護を受けたが、
元亀2年(1571年)織田信長の兵火に拠り焼失。美濃の赤坂山に御動座になり、
江戸時代になり桑名藩主本田忠勝の寄進を受けこの地に再興した。
また伊勢神宮との関係も深く、近世以降は
「お伊勢参ればお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」
とも言われる程賑わった。』 とあります。
桑名市に編入されたとはいえ、それ程人口の多い場所ではありません。
それでも古代より信仰の場所となったのは、
御神体の多度山と境内を流れ多度川に注ぐ宮川があった故。
大河である揖斐川からどんどん川を【たど】り行き着いた先に宮を建てたのでしょう。
それで多度大社と呼ばれるようになったかは知りませんが…。
伊勢神宮との関りですが、多度の他にも近江の多賀大社、伊勢朝熊山にも
同じような事が伝わっているので伊勢との関係を強調する意向だったのでしょう。

正面入り口より境内方面を見る
左にあるのが上げ馬神事に使用する上げ坂。

上げ坂脇にある楠の御神木

石段を上った光景
左の参道を行くと本宮へ至る。

参道右手の神楽殿

奥の本宮への参道
行きは左、帰りは右の道を行くそう。

左の参道を行く

石灯籠の向こうに鳥居と門が見える

於葺門
この門を過ぎると本宮・別宮へ。

於葺門の扁額「多度両宮」
本宮と別宮があるため。

於葺門から来た道を振り返る

神橋を渡った場所から於葺門を見る

神橋上から宮川の源流を見る

本宮 多度神社
天津彦根命(天照大御神の御子神)が御祭神。

別宮 一目連神社
天目一箇命(天津彦根命の御子神)が御祭神。

於葺門脇の美御前社

帰りの参道
左が宮川で奥に見えるのが神楽殿。

参道右の松尾芭蕉句碑
それよりもここを有名にしたのは毎年5月の御礼祭に行われる「上げ馬神事」。
以前に見たニュースでは、学生が武者姿で馬に跨り、
石段横の坂を駆け上がり最後に土壁を乗り越えていました。
祭りと言うのは若者の有り余ったエネルギーを発散させる目的もあり、
全国には結構荒っぽい危険な祭りも多いですが、ここの祭りもその例に漏れません。
さて実際に神事の場所に来て見ると思ったよりも坂が急。
しかも土壁が2m程もあり、人や馬が怪我をする事もあるとか。
まさに壁高く馬越える春です。
階段の先には神馬舎があり「錦山号」という白馬がいました。
普通は神馬の模型ですが、ここは本物。
御朱印を拝受する際に神職に伺った所、
神職;「血統書付きの名馬ですが、怪我をしたのでここへ来ました。そのままだと、馬刺しになってしまうので…。」
との話。神事で乗る馬ではないようです。
怪我をしたのは不運でしたが、御蔭で良い場所で余生が送る事が出来ました。
万事塞翁が馬ですね。

多度祭の説明

石段左の上げ坂
奥の建物は多度祭御殿。ここで見学するのか?

下から見た上げ坂

上げ坂近影
近くで見ると急勾配が分かる。

先の土壁は高さ2m程もある

土壁の上から見た上げ坂

境内から石段を見返る
これだけの高さを馬で一気に駆け上がる。

神馬舎の錦山号

これは購入しなかったが、代わりにニンジンをあげた

入口右手にある重厚な門

道路から見た長屋風家屋
神職の住居か?

入口左手の家屋
表札が上がっていたので現在の住居はこちらか?

多度大社略記

多度大社御朱印

御朱印とオリジナル御朱印帳の案内
その後、訪れた南多度郵便局でも
局員;「神事の馬は、時期になると地区ごとに借りてきて世話をしています。」
和辻;「ニュースでは中高生が参加していましたが、おっさんは?」
局員;「若い人だけですね。」
和辻;「女性は参加しないのですか?」
局員;「女人禁制で、我々女性は馬の世話もさせて貰えませんね。」
との事でした。
ジェンダーであるとか、外部からは動物虐待という苦情もあるようですが、
地元の方の話からは別段それを気にもしていない様子でした。
色々な意見もあるでしょうが、それも祭りの一つの在り様とも言えます。

参詣後は南へ
多度川沿いにある大鳥居と「だるまうなぎ」の店。生憎開店前だった。

桑名市(多度)マンホール蓋
かつては多度町だったのでオリジナルがある。

多度郵便局 ; 多度祭・上げ馬神事、千本松原、イヌナシ

南多度郵便局 ; 多度祭・上げ馬神事、多度山、多度峡みそぎ滝
七取郵便局 ; 多度祭・上げ馬神事、町木・梅
[参考書]
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神社百景DVDコレクション再刊行 25号 (多度大社・丹生官省符神社・丹生都比売神社) [分冊百科] (DVD付) (神社百景DVDコレクション 再刊行版) 新品価格 | ![]() |

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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 冬の青春18きっぷ使用
JR天王寺(5:35) → JR奈良(6:19→6:39) → JR加茂(6:54→6:55) → JR亀山(9:18→9:23) → JR松阪(9:23) → 徒歩5分 → 継松寺

岡寺山 継松寺(高野山真言宗)
令和最初の正月は、お伊勢さんに行くべきだろうと、自分勝手な解釈で伊勢路へ。
と言っても伊勢市ではなく少し手前の松阪で下車。
蒲生氏郷公が城下町を整備した伊勢商人の発祥の地。
本居宣長の出身地で、今も町中には当時の面影が残ります。
加えて最高級の牛肉とされる松阪牛の産地でもあります。
こんな風に観光客には人気のスポットですが、寺院は意外に知られていません。
この日は駅から徒歩圏内の古刹にお参り。

駅から向かうと本堂裏手に出るがここの朱塗門は閉鎖。

岡寺観音山門
参宮道に向かって門が開いている。

説明板

山門の「岡寺山」の扁額
岡寺山継松寺(おかでらさんけいしょうじ)は、
『天平15年(743年)創建と伝わる古刹。聖武天皇の命に拠って
行基が大仏建立の祈願のために伊勢地方に四箇所建てた中で今に残る唯一の寺院。
場所は今より海岸線に2㎞程行った飯高郡石津郷にあった。
本尊の如意輪観音は聖武天皇が厄年の際に宮中で祈願した後、
行基に命じてここに戻し「如意輪院」の勅額を下賜した。
岡寺観音は日本最初の厄除霊場として今に至るまで信仰が絶えない。
天平勝宝2年(750年)には洪水で堂宇が流出。
二見ヶ浦の住人が出家して継松法師と名乗り寺を再興した。これが後に寺号になる。
延暦21年(802年)には弘法大師が岡寺観音に逗留し本尊の脇立ちを刻み祀った。
当寺院が真言宗になった経緯はこれに拠る。
後に蒲生氏郷公の城下町整備に伴い現在の場所に移転した。』 とあります。

山門下から境内を見る

境内から山門を見返る

境内中央の香炉堂とその向こうに見える本堂

本堂拝殿中央の「継松寺」の扁額

拝殿奥には「如意輪院」の扁額が
右手は納経所。
毎年3月の初午大祭は人手で賑わうようですが、普段はいたって静寂な場所。
駅から5分が信じられないくらいです。尤も周辺の牛の店は賑わっていますが…。
駅から向かうと朱塗りの門が迎えますがここは閉鎖。反対側にあるのが正門になります。
駅からは大回りになるので不便ですが、御住職の話では
「この辺りの寺院は全て参宮街道に向かって正門が開いていますよ。」
との事。現代の感覚で考えては駄目ですね。
御朱印帳を開くとここは平成5年の9月に参拝。
同じ御朱印を二度貰うのも芸がないので不動尊を拝受しました。
平成5年に拝受したものは御本尊の「厄除観音」。これを見た納経所の方は
「これは先代の書ですよ!写真に撮っても良いですか?」
と興奮気味。
何でも、今と異なり御朱印がマイナーだったので先代の御朱印はないそうです。
正月早々思わぬ邂逅となった様でした。
今回の御朱印を墨書された御住職は私と同年。
人は変わってもきちんと【継松】されている事を改めて感じた年の初めでした。

拝殿は人手を考慮して広くとられている

庫裏の唐門と書院

岡寺山継松寺案内

岡寺観音御朱印(本尊の如意輪観音で平成5年拝受)

岡寺観音御朱印(お不動様で今回拝受)

松阪市マンホール蓋

松阪市内マンホールカード 配布場所はこちら

松阪朝日郵便局 ; 岡寺観音、旧国道松阪大橋
[参考書]
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<コース>
【往路】大阪上本町(7:10) → (近鉄急行) → 松阪(9:14)
松阪市観光情報センター → レンタサイクル35分 → 伊勢国分寺 → 岩内瑞巌寺 → レンタサイクル60分 → 朝田寺
【復路】松阪(16:33) → (近鉄急行) → 大阪上本町(18:40)

光福山 延命院 朝田寺(天台宗延暦寺派)
本日、参拝したなかで唯一の有人寺院。
山沿いの無人の古刹を参拝したあとは、町まで下り更に線路を通過。
田畑の中にこんもりと森が見えて来たのが目指す寺院。
光福山延命院朝田寺(こうふくさんえんめいいんちょうでんじ)は、縁起に拠れば、
『延暦15年(796年)、練公(ねりきみ)長者の発願により弘法大師が創建。
鎌倉時代には伏見院の院宣により七堂伽藍を建立されるが、信長の伊勢攻めで焼失。その後現在地に移転した。
本尊の地蔵菩薩は空海の作とされ重文、世間では朝田の地蔵さんと呼ばれる。
江戸時代には曽我蕭白が来訪し、作品を残している。』
とあります。
近寄りがたい雰囲気がないのは本尊が地蔵菩薩さまだからでしょう。菩薩の中では最も人間に近いとされる所以。
いまは境内に牡丹の花が700株程植えられているので、季節になると訪れる人で賑わいます。
松阪市内最古の寺と呼ばれるだけの事はありますが、駅からは少し不便な田圃の中。
昔はこの辺りが栄えていたのでしょうが、国分寺や瑞巌寺のように無人にならずに済んだのは幸いです。

目指すお寺が彼方に見える

山門

本堂(左)と庫裏

正面から見た本堂

境内の様子

朝田寺御朱印
住職夫人から悪筆なので日付は書いて欲しいといわれたので、この箇所は私の自筆。
その後は駅に戻り街並みを一巡。
三井家・松坂屋に代表される伊勢商人ですが、質素倹約など厳しい家訓も【かくんあるんか】と思いました。
また国学者本居宣長の故郷でもあります。
かつて賀茂真淵との松阪の一夜は師弟関係のエピソードとして教科書にも載っていましたが、今はサッパリ見ませんね。
なんでも昔が良いとは言えませんが、残すべきものは【本居】残してほしいものです。
松阪といえば松阪牛ですが、休日で混雑していたのと、伊勢商人の家訓に従い、駅弁という質素倹約なものとはなりました。

本町通の旧長谷川邸

本町付近にある三井家発祥の地

本居宣長旧宅

本居宣長旧宅内部

松阪商人の館(小津家)

金物店

本町通にある「牛銀 本店」
松阪牛の店では和田金が有名だが、ここも老舗。すき焼き・ステーキは諭吉さんが1人要るが、「洋食屋 牛銀」では英世さんが2~3人でOK。でも1時間待ちなのでスルー。

昼食の松阪牛ステーキ弁当¥1350

松阪のマンホール蓋
カードの図案は見当たらず、ほとんどがこの駅鈴タイプ。

松阪市マンホールカード 配布場所はこちら
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【往路】大阪上本町(7:10) → (近鉄急行) → 松阪(9:14)
松阪市観光情報センター → レンタサイクル35分 → 伊勢国分寺 → レンタサイクル10分 → 岩内瑞巌寺

伊勢国分寺
台風一過、ようやく出歩けるようになったので巡礼再開し伊勢の松坂へ。
松阪は本居宣長の出身地で商人の町。駅から城跡にかけては、武家屋敷や商人町が残っています。
が、今回は駅前から西の山麓にある古刹まで片道8㎞の道のり。
途中、国分寺があって敬意を表してお参り。
古代に於いては海沿いを避けて自然災害の少ない場所が選ばれたのはここも同じ。駅からは随分遠い場所にありました。
説明板に拠ると聖武天皇により建立されたものを受け継ぐ寺院。本堂の屋根の形はいかにも時代を感じるものでした。
ところが寺務所が見当たらず。山門の横にある家で伺うと、ここは無住で地元の皆さんの好意で維持されているとの話。
御朱印もなしでした。
全国に設置された国分寺ですが、廃寺になった寺院も多く、残っているだけでも良いと言えますが、
やはり維持管理は難しいものです。

駅の観光案内所にて

伊勢国分寺入口

国分寺本堂
屋根の形に時代を感じる。
そこから更に山に向かって上ると益々人家が減り、三重塔、本堂が目に入りました。
妙法山瑞巌寺(みょうほうざんずいがんじ)は、その場所から岩内(ようち)瑞巌寺とも呼ばれ、
『空海が開基とされる真言宗の古刹。本尊は石仏十一面観音。堀坂山麓にあり境内を観音川が流れる。
戦災や地震で荒廃したが、江戸の寛政年間(1789~1801年)に門超上人が再興し、浄土宗知恩院派に改宗。
本堂、庫裏、三重塔は江戸後期に再建された。
境内には文化9年(1812年)から15年かけて造園された瑞巌寺庭園があり国の名勝に指定。
またここには江戸時代は松阪を領していた紀州藩主が絶賛した紫蘇飯が有名である。』
と手持ちのガイド(1993年度版)にはあります。
唯、どこを見ても人気はなし。自転車で周囲を回ると農家の方が作業されていたので「瑞巌寺」の場所を尋ねると
「朱塗りの建物があったでしょ。あれがそうです。だいぶん前から寺の人は居ませんね。」
との事。
先に訪れた国分寺と同じ。三重塔からは市内から伊勢湾まで見渡せますが、周囲の人家もはるかに少ない状況でした。
名勝庭園もありましたが、荒れるにまかせた感じで知らなければ通り過ぎてしまいそう。
ガイドは20年程前ですが、時代が移るとこうなってしまうのかと仏教の行く末も楽ではないなと
無住の寺院に無常を感じた次第です。

三重塔から伊勢湾を望む

瑞巌寺三重塔
三重にあるから三重ではないと思うが…。

妙法山岩内瑞巌寺(浄土宗知恩院派)
市内西の堀坂山麓にある。空海が開基で、真言、浄土と変わった。が今は荒廃している。

瑞巌寺庭園
国の名勝という事だが、ここも荒れた印象。

庭園内部
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JR天王寺(5:35) → JR奈良(6:19→6:39) → JR加茂(6:54→6:55) → JR亀山(8:19→8:40) → JR河曲(8:54) → 徒歩40分 → 石薬師寺 → 徒歩60分 → 庄野宿 → 徒歩20分 → JR加佐登(11:58) → JR亀山(12:09) → 徒歩20分 → 亀山宿 → JR亀山(13:14) → JR関(13:21) → 徒歩5分 → 関宿 → JR関(15:21) → JR加茂(16:35→16:45) → JR大阪(18:09)

高富山 瑠璃光院 石薬師寺(真言宗東寺派)
国道1号は東海道沿いですが、国鉄東海道線は宮(熱田)からはかつての中山道回り。
当時は鈴鹿の山脈を貫く技術がなかったからと言われます。その後、旧東海道は
関西本線+草津線となりますが幹線から外れたためか、却って昔の雰囲気を残しています。
石薬師(44番)と庄野(46番)はわずか4㎞ですが、どっちも駅からちょっと遠い。
なんでも駅を誘致する際に「お茶が汽車の煙で枯れる!」といって地元が猛反対したのが理由とか。
鉄道が通れば駅があろうとなかろうと結局は同じことですが…。
無人駅の多い関西本線の河曲で下車して石薬師宿まで徒歩40分。
途中、本陣や佐々木信綱生家を見て国道1号線沿いに下ると、
自動車がひっきりなしに通る直ぐ脇に寺院が。

石薬師小沢本陣跡
宿帳には浅野内匠頭の名もあるとか。

石薬師宿にある佐々木信綱生家
萬葉集の第一人者で第一回文化勲章受章。俵万智さんもこの流れを汲む。

生家内部

生家横にある佐々木文庫
石薬師寺は宿場の名前にもなった古刹。歌川廣重の保永堂版東海道やゴッホの絵にも描かれています。
高富山瑠璃光院石薬師寺(たかとみざんるりこういんいしやくしじ)の寺伝に拠れば、
『聖武天皇の神亀3年(726年)、白山開山で知られる泰澄が、
この地で大地が鳴動し巨石が出現する事象に遭遇。
これは薬師如来が衆生利益にため「金輪際」から示現されたと悟り、草庵を設けたのが嚆矢。
その後、空海が巨石に薬師如来を刻み開眼法要を行ったので、人々の信仰が篤く、
嵯峨天皇は勅願寺とし高富山西福寺瑠璃光院と称した。
その後、天正年間には織田氏の兵火に会い焼失。
漸く江戸時代になって神戸城主一柳氏により諸堂が再建。
元和2年(1616年)には東海道の宿駅の名から石薬師寺と改称した。』 とあります。

1号線沿いにある石薬師寺裏門

本堂へ向かう参道

廣重が描いた寛永6年(1629年)再建の薬師堂(本堂)
石に薬師さんを彫ったとか。薬師さんだけに医師には関りがある?

東海道五十三次石薬師(保永堂版)
山号の高富山は廣重の絵で寺の後方に描かれている山。
昔は高飛山と書き、これは当地で亡くなった日本武尊が白鳥となって飛び立った事に由来します。
三重の語源も日本武尊が疲労から足が三重になったことから来ていますから、
三重県は日本武尊には縁があるようです。
尤も皇室の祖先神の天照大御神を祀るのが伊勢神宮ですから不思議ではありません。
寺の名前から宿場名が出来たと思いましたが実際は逆。本尊は巨石に刻んだ薬師如来なので、
こちらの方が断然分かり易く良いと思います。
石でできたため兵火にも耐え今も秘仏として祀られており年に一回御開帳されているとか。

本堂と石塔

本堂より見た石薬師寺境内

境内の植え込み
新緑に覆われた境内を散策して御朱印を拝受。
ここのオリジナル御朱印帳は廣重の図案でしかも刺繍製 (¥1,700)。
御朱印帳も残り少なくなってきたこともあり購入しました。

石薬師寺説明書

石薬師寺オリジナル御朱印帳 ¥1,700
布製・大判で見開きにすると廣重の絵になる。

石薬師寺御朱印
そのあとは庄野までウォーキング。石薬師同様、駅からの距離がネックです。
庄野は廣重の作品では傑作の呼び声が高いですが実際は簡素な宿場町。
廣重の浮世絵で有名になったとも言えましょう。
鉄道が敷設されなかった故に都市化しなかったと言えますが、国道1号が通って居り
宿場町の雰囲気を残すのは資料館周辺くらいでした。

東海道沿いにある造り酒屋
銘柄も庄野

庄野宿資料館
江戸時代の油問屋だった旧小林家の主屋の一部を創建当時の姿に復元。

廣重の傑作とされる「庄野宿・白雨」

高札の内容
麻薬や毒を売るなとか、贋金を作るなとか、今も昔も変わらない。
庄野宿から歩いて加佐登駅まで行き電車で亀山まで。
江戸時代は鈴鹿越えを控えた東海道の要衝で、譜代大名が代々治めた城下町。
城址や武家屋敷が残っているので、観光客が多いかと思いましたがさにあらず。
街並みでは次の関が余りにも有名なので、亀山は通過点なのでしょうか?

亀山お城見庭園
駅からは坂を上る。

加藤家屋敷跡
江戸後期亀山城主石川家の家老職、前の道が東海道。

現役で居住されているここも武家屋敷?

亀山城隅櫓
廣重の絵でも描かれている。
亀山に続いて列車で一つ先の関へ。
関の名前は古代に設置された鈴鹿の関に由来しますが、現在まで交通の要衝は変わらず。
鉄道では一駅ですが、名古屋~亀山までは電化でJR東海の管轄。
一方、関は非電化でJR西日本管轄と亀山が分岐点になります。
関は有松と並んで旧東海道伝統的建造物群が残る場所。
何度も訪問しているので、今回も軽い散策でしたが、同期に教えて貰った名店「初音」にて遅めの昼食。
2時間待ちが出る程の店ですが、平日なのですぐOK。
30℃を越える暑さのせいでバテ気味でしたが、これで蘇りました。
値段も首都圏よりも安く特製でも¥3,600。わたしにはその程度の贅沢が関の山。
余談ですが「関の山」とはここ関宿の山車を都のものと比べた事に由来しています。

非電化区間のJR関西本線関駅

関宿街並み
中央は東海道。

関宿にある山車の蔵
「関の山」の語源である。

関の銘菓「関の戸」

銀行も街並みに合わせて。
平成9年度三重県まちづくり賞を受賞。

かつての高札場は今は郵便局に

関宿眺関亭より見た西側
大きな屋根は地蔵院。

関宿1号線沿いの「初音」にて ひつまぶし¥3,600

汽車を待つ間に…。
カキ氷¥200、白玉2個¥180

駅スタンプ

鈴鹿石薬師郵便局 ; 歌人・佐々木信綱生家、歌川廣重「東海道五十三次・石薬師宿」
鈴鹿庄野郵便局 ; 歌川廣重「東海道五十三次・庄野宿」
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
伊勢は津で持つ津は伊勢で持つ(2018.10.22)
<コース>
【往路】近鉄上本町(6:00) → 伊勢中川(7:57→7:59) → 津(8:16)
JR近鉄津駅 → 徒歩5分 → 四天王寺 → 徒歩15分 → 津観音 → 徒歩20分 → JR近鉄津駅

塔世山(とうせざん)四天王寺
津といえば日本で一番短い名前で有名ですが、津とは元来は港を持った町の意味。
中世には安濃津の名で、筑前の花旭搭(博多)津、薩摩の坊津と並ぶ日本三津と呼ばれる賑わいだったとか。
しかし明応18年(1498年)の大地震と津波で壊滅的な打撃を受け衰退。
更に20世紀の戦災があり往時を偲ぶものは殆ど残っていません。「安濃」もどさくさでどこかに消えたのでしょうか?
津から少し南に行くと四天王寺があります。
若き日の聖徳太子が戦陣で「四天王を祀るお寺を四寺建立する」 と誓願されたものの1つと伝わります。
大阪以外にあったとは驚きですが、境内からは奈良時代の古瓦も出土しているので古代からあるのは間違いなさそうです。
唯、中世に曹洞宗に宗旨替えしたのが昔と違う所でしょうか。

入口から山門を望む
山門(総門)は寛永18年建立。昭和20年の空襲でも焼失せずに残った。

四天王寺本堂
空襲により焼失したものを再建。

境内より山門を望む

本堂より見た四天王寺境内

四天王寺御朱印

津塔世橋郵便局 ;四天王寺山門と塔世橋
その後は四天王寺の山号を冠した塔世橋(とうせばし)を過ぎて安濃川を渡り10分で津観音へ到着。
和銅2年開創の古刹、何でも御本尊は阿漕浦で漁師の網にかかった聖観音とか。
浅草寺はじめこういった謂れは多い気がします。まさか阿漕な考えからではないでしょうけれど…。
朱塗の柱が映えますが人は少なくひっそりしていました。けれど門前町の雰囲気はあり縁日にはさぞ賑わうだろうと思います。
四天王寺に比べやけに明るい感じでしたが、境内を見渡し樹木が殆どない事に気付きました。
お城へも徒歩5分位なので、津の市民の心の拠り所なのでしょう。お寺のパンフにもそう書いてありました。
・伊勢は津で持つ津は伊勢で持つ
というのは有名なフレーズですが、ここではその後に「津観音に詣らねば片参り」と続くのだとか。
いかにも商才に長けた伊勢の人々だけの事はあります。

門前町の先に山門が見える

恵日山観音寺(津観音)山門(真言宗醍醐派)

津観音本堂と五重塔

本堂正面

本堂の屋根の反り

本堂の天井画
昭和30年代の作。

五重塔

護摩堂

津観音御朱印
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
お伊勢参りのフィナーレを飾る伊勢神宮の鬼門眺望絶景の寺(2018.10.21)
<コース>
近鉄上本町駅 → 近鉄五十鈴川駅 → 参宮バス25分 → 朝熊山金剛證寺 → 徒歩10分 → 奥の院 → 参宮バス25分 → 近鉄五十鈴川駅 → 近鉄上本町駅

朝熊山金剛證寺(臨済宗南禅寺派)
秋晴れの空の下、心の故郷のお伊勢さんへ巡礼。地下鉄5時の始発に乗り、上本町6時の近鉄宇治山田行急行で五十鈴川へ。
といっても伊勢神宮は何度も参っているので、今回は朝熊山金剛證寺(あさまやまこんごうしょうじ)。
伊勢志摩最高峰の朝熊山にあって伊勢神宮の鬼門を守る寺院。伊勢参りはここが終着点。
金剛證寺は6世紀半ばが創建。その後空海が真言密教道場として中興、1392年には臨済宗南禅寺派寺院となります。
正式名は朝熊岳勝峯山兜率院で本尊は福威智満虚空蔵大菩薩。
会津柳津、茨城東海村と並ぶ三大虚空蔵とか。
今回で全て制覇ですが、何れも由緒が古く規模が大きいので三大〇〇はハッタリではなさそうです。
伊勢神宮の丑寅(北東)に位置する為、伊勢神宮の鬼門を守るとなったようで、伊勢志摩最大の寺院となりました。
・伊勢へ参らば 朝熊を駆けよ 朝熊駆けねば 片参り (伊勢音頭)
と言われる程で、お伊勢参りが盛んだった戦前にはケーブルカーが開通(大正14年)して賑わいました。
が戦時中の金属供出で廃線、2013年にやっと土日祝日のみバスが運行されるようになりました。
今の方が不便というのはどうゆうわけでしょうかね?

近鉄五十鈴川駅にて
右後方が朝熊山。

バス時刻表

伊勢志摩スカイラインから伊勢湾を望む

金剛證寺山門
バス停で降りこちらから入る。

1979年再建の金剛證寺仁王門

仁王門の垂木

境内の杉と苔

弘法大師が掘ったとされる連間(つれま)の池

1672年創建の連珠橋とその向こうに見える本堂

連間の池に架かる連珠橋

説明板

石段を上り本堂へ

重文・金剛證寺本堂摩尼殿
1609年 池田輝政により再建、本尊は虚空蔵菩薩で秘仏。

本堂前の様子

本堂前の牛と虎の像
伊勢神宮の艮(丑寅)の方角にあるからか?

本堂横の明星堂
国土安穏智慧成就の明星神を祀る。

明星堂説明
奥之院への参道に卒塔婆が林立する脇に戦国武将の九鬼嘉隆の五輪塔があります。
嘉隆は関ケ原の戦いで西軍、子の守隆は東軍に付き家名存続を図ります。
嘉隆自身は鳥羽城を奪う功績を挙げましたが、西軍が敗れたため答志島へ逃れ自刃。
守隆に迷惑が掛からぬ様にと家臣の勧めに従った訳ですが、守隆が家康から嘉隆助命の許しを齎したのはその後の事でした。
怒った守隆は直ちに家臣を斬首したと伝わっています。
少しの時間のずれが悲劇を生んだ訳で、他にもこのような事は結構あったでしょう。【九鬼一髪】と言うのはドラマの話です。
このような心配のない時代に生まれた幸せを【神占める】旅とはなりました。

奥之院入口の「極楽門」

参道の卒塔婆群

奥之院への参道に並ぶ卒塔婆
関東圏に比べ西は卒塔婆が少ないのでここは珍しい。海の交通の関係か?

九鬼嘉隆の五輪塔
嘉隆三男の有慶は父の菩提を弔うため金剛證寺にて出家し、後に第12世となった。

卒塔婆と参道の先に見える奥之院

奥之院(呑海院)
右が地蔵堂で地蔵菩薩を祀る。

奥之院庭園

奥之院にある富士見台
残念ながら富士山は見えず。

金剛證寺から伊勢湾を望む

左 ;金剛證寺奥之院御朱印 右 ;金剛證寺本堂御朱印

朝熊郵便局 ; 金剛證寺本堂と連珠橋を描く

伊勢市マンホールカード ; 伊勢市観光案内所にて配布
[参考書]
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