坂上田村麻呂ゆかりの町と町ぐるみ博物館 (2018.8.26)
地蔵盆の名残の夏休み最後の日曜日は大阪市内で人口20万人と最多の平野区へ。
平野の歴史は古く聖徳太子がお堂を建てたのに始まり、平安初期に坂上田村麻呂の息子の広野麻呂が屋敷を構えて発展。
平野の名前は広野麻呂に由来しています。父親なら田村となったでしょうか。
中世以降は河内平野の産物の集散地、奈良街道の要衝として発展。堺と同じ町人自治権を持った環濠集落として発展しました。

京町筋にある坂上広野麻呂邸跡の碑
別名広野麻呂筋。
難読名として知られる杭全神社(くまたしんじゃ)の由来は古く、
坂上広野麻呂が杭全荘を賜り、その子当道が氏神として勧進したのが始まり。
その後、建久元年(1190年)及び元享元年(1321年)に熊野権現を勧進し熊野権現総社になり、明治期に杭全神社となりました。
平野は太平洋戦争で空襲を受けませんでしたが環濠の名残は杭全神社周辺に残るのみ。
遺跡を破壊するのは戦争よりも開発に拠るとはよく言ったものです。
杭全の名は残りましたが、環濠集落は【杭】の残る事となりました。
余談ですが、この辺りでは先の戦とは大坂夏の陣の事を言うのだとか!

杭全神社入口と大楠
坂上広野麻呂が杭全荘を賜り、その子当道が氏神として862年に素戔嗚尊を勧進したのが始まり。難読名で有名だが平野と並んで由緒がある。

杭全神社拝殿

杭全神社拝殿裏の第二殿
永正10年(1513年)修造。

環濠集落跡
杭全神社東側に僅かに残るのみ。右が杭全神社の境内。

杭全神社御朱印
府内で伝統的街並み建造物群は富田林一ヵ所ですが、平野にもかつての街並みがちらほらと残っています。
そんな場所にあるのが、王舎山長生院長寶寺(おうしゃざんちょうせいいんちょうほうじ)。
寺伝に拠れば、
『創建は大同年間(806~810年)で、桓武帝の妃であった広野麻呂の妹・春子が天皇崩御の後、
剃髪して慈心大姉としてここに庵を結んだのが始まり。
南北朝時代には後醍醐天皇がここに仮の皇居を置いたため、王舎山の山号を賜っています。
しかし、大坂夏の陣で総て焼失。本堂と庫裏は天保年間に再建されました。』
歴史ある真言宗の古刹ですが、物は新しい。その代わり、住職は代々坂上家の女性が務めるという伝統は続いているようです。

王舎山長生院長寶寺(高野山真言宗)

長寶寺本堂
本尊は十一面観音で秘仏。

本堂入口の閻魔様
一緒に撮影できるそうですが…。

長寶寺御朱印

藤岡家
江戸期は油商。200年前にここの領主だった土井大炊守の要請で播磨からここに移る。

藤岡家玄関
当主の御厚意で見学。100年以上前に作った扇子。

末吉(西)家
坂上氏の末裔で、平野七名家の一家。

江戸期には質屋を営んだ粕谷家

江戸期の豪農であった松下家

かたなの博物館;御刀研處 真澄庵

亀乃饅頭
創業300年、亀饅頭が有名。
大念佛寺は大治2年(1127年)創建の日本最初の念仏道場。
正式名は諸佛護念院大源山大念佛寺という念仏の様な名前で、融通念仏宗の総本山。
広大な敷地を持ち本堂は府下最大の木造建築。5月の「万部おねり」でも知られます。
この日は8月第四週の日曜日、年1回公開の幽霊を描いた十三の掛け軸を見学。
画家の名前は伝わっていないようですが、そのおどろおどろしい姿に汗も引きました。
見学者は結構居ましたが、拝観は無料。そのあたりが【融通】を効かせているようです。

大念佛寺遠景

諸佛護念院大源山大念佛寺(融通念仏宗総本山)
1127年良忍上人(聖應大師)創建。山門の扁額は霊元天皇皇女宝鏡寺宮徳厳尼真筆。

大念仏寺本堂
総欅造り銅板葺き、昭和13年の再建だが大阪府下最大の木造建築。

大念仏寺円通殿(観音堂)

大念仏寺境内の「わた博物館」
これは綿を紡ぐもの。

大念佛寺御朱印
天得如来とは阿弥陀如来と十菩薩の絵像を云う。
その他にも今では町ぐるみで昔の建物をそのまま使い街かど博物館としています。お店が殆どですが見学は全て無料。
その中心となって動いているのが、平野薬師で知られる野中山全興寺(やちゅううざんぜんこうじ)。
商店街の中に入口があり「平野の町づくりを考える会」事務局がある他、境内には「駄菓子屋さん博物館」「地獄堂」もあって
平野の町ぐるみ博物館はここが中心となっています。
このように遊び心を持った寺ですが、由緒は古く
『飛鳥時代に聖徳太子が野原だったこの地に堂を建て、薬師如来を祀ったのが始まりで、
その後、周辺に町が形成された。全興寺の名は杭全を興す寺に由来している。』
と文字通り平野と共に歩んだお寺。皆、【薬師に惹かれて全興寺】となったのでしょう。
参拝後も町の博物館を見ながら駅まで移動。老舗の和菓子屋で木型見&甘味となりました。
古刹でありながら敷居が低いのが如何にも大阪といった所です。

野中山全興寺(高野山真言宗)
聖徳太子が野中の地に建立した「平野」発祥の地。町ぐるみ博物館の中心。

全興寺の地獄堂入口

地獄堂に控える閻魔大王様

全興寺境内の駄菓子屋さん博物館

全興寺御朱印

全興寺脇にある町屋を改装した「おもろ庵」

新聞屋さん博物館;小林新聞舗
明治22年創業で、建物は昭和4年築。

和菓子作り体験博物館;梅月堂西店
これは干菓子の木型。

梅月堂にて「水まんじゅう入抹茶ミルク」
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
つはもの共が夢の跡、越前に花開いた朝倉文化 (2018.8.30)
<コース> 夏の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪 → JR京都(7:00) → JR近江今津(8:07→8:13) → JR福井(9:47)
福井駅東口(10:00) → (京福バス 一乗谷東郷線) → 復原街並(10:28)
一乗谷には上記路線バスに加え 「一乗谷朝倉特急バス」もある
【復路】JR一乗谷(12:06) → JR福井(12:22) → 市内散策 → JR福井(16:45) → JR敦賀(17:36→17:49) → JR大阪(20:13)

一乗谷朝倉氏遺跡 入場料¥210
復原町並の中央を南北200mに亘って続く道路。
8月最後は北陸へ。
戦国時代に都以外に栄えたのは、山口の大内文化、駿府(静岡)の今川文化と一乗谷(福井)の朝倉文化。
福井市街の東南10㎞、足羽川支流の一乗谷川に沿って幅500m、南北5㎞に亘り城下町が形成され
最盛期には1万人もの人が住んだと伝わります。
山に囲まれた要害の地で交通の便はそれなりに良いのですが城下町の規模としてはこれ以上の発展は難しい。
そんな場所に何故城下町を作ったかですが、守護大名の大内・今川と違い、朝倉氏は守護斯波氏、守護代甲斐氏から
下克上で支配者になった一族。周囲には豪族・一向宗が犇めく状況。一乗谷から徐々に制覇を狙ったのでしょうかね。
初代孝景(敏景)は家訓「朝倉英林壁書」を作り、5代目の義景は京都から将軍一族や文人を迎え文化的にも発展しますが、
守勢に入るとそれ以上の発展も難しくなるのもまた事実。1573年に織田信長によって滅亡。
一乗谷は信長方の平泉寺衆徒に拠り灰燼に帰しました。
1471年に初代孝景が一乗谷を築いてから義景まで103年の栄華ではありました。
一国の興亡は政治的な発展の後に文化が発達するというのが一般的パターン。
上記の3政権も全国統一を前に文化的爛熟を迎えたため、近世大名として残ることはありませんでした。
大内、今川文化は政権が変わってもその場所が近世城下町→県庁 と続きますが、
一乗谷は柴田勝家が北ノ庄に城を築いたため衰退。北ノ庄は勝家が滅んだ後も城下町として発展。
但し「北」の字には負ける・背くという意味があるため「福が居る」という福井に改められ今日に至ります。
一乗谷は江戸時代には農地となりましたがそのため保存状態も良好。日本のポンペイ遺跡みたいなもの。
城下町として残らなかったが故に、戦国の遺構が残ったとも言えます。

福井駅構内にある写真撮影用のモニュメント
国鉄時代より福井駅といえば「永平寺」であったが、今は寺よりも恐竜の方が集客を見込めるからか?ちなみに恐竜博物館があるのは勝山市。

巡礼スタートの福井駅西口
駅前には恐竜のモニュメントがあり、北陸新幹線開通を見越してか以前に比べて広く綺麗になった。

一乗谷入口付近の下城戸跡
長さ38m、高さ4m。石を組合せ見通せないように矩折状に造られている

一乗谷川の流れ
この川に沿って城下町が築かれた。

復原町並入口よりの眺め
これまでの発掘調査により町割りが復元した。

町並北橋より南を望む
左に有るのが武家屋敷。

復原街並武家屋敷の庭

復元甲冑の展示

武家屋敷の復元内部
将棋をしている図。遺跡から将棋の駒(酔象)が出土したと「街道を往く」にあった。武将が床几に腰掛けるのならばいざ知らず、将棋に夢中とは無精な…。

武家屋敷での炊事の様子(台所)

復原町並
これは小規模な職人等の町屋の復元

復元町家と庭

武家屋敷に比べ質素な町屋内部

町屋外観
屋根は板葺きでごろた石を置く。

諏訪館跡庭園
5代義景が妻の「小少将」のために造ったと言われる一乗谷で最大の池泉回遊式庭園。

諏訪館跡庭園近影

中の御殿跡
義景の母高徳院の屋敷跡と伝わる。土塁に囲まれ山側には2mの空堀も。

湯殿跡庭園
高台にあり4つの庭園のうち、最古とされる。やや荒々しい造りに特徴がある。

上から見た義景館跡
敷地6,500㎡、奥には唐門が見える。三方が土塁、残りが山という要害の地。主殿の他、茶室・厩・花壇まであったとか。

朝倉館跡と庭園

朝倉館跡庭園
京都の庭園の影響があるとされる。

朝倉館跡を巡る土塁

朝倉館跡入口にある唐門(朝倉館跡西門)
江戸中期に、朝倉義景の菩提を弔うために建てられた松雲院の三門

滅多に来ない越美北線の列車
これは12:05の福井行。次の登りは15:46。

JR一乗谷駅前のマンホール蓋
朝倉遺跡唐門から顔を出す「朝倉ゆめまる」。

福井市一乗谷マンホールカード 配布場所はこちら

東郷郵便局 ; 一乗谷朝倉氏遺跡の松雲院山門、諏訪館跡庭園
一乗谷郵便局 ; 一乗谷朝倉氏遺跡の松雲院山門

一乗谷の後の越前の中心は北ノ庄・福井へ移る。
現在の城址は県庁。

福井市内大通りのマンホール蓋
空襲と戦後の地震から奇跡的の復興を遂げた福井を表すフェニックスをデザイン。

福井市マンホール蓋 配布場所はこちら
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歌人藤原家隆が愛した夕陽丘と骨仏寺 (2018.09.13)

夕陽丘の伝藤原家隆墓
ここで西方を拝んで入寂したと伝わる
谷四での所要が昼過ぎに終わり、チョット足を伸ばして天王寺区まで。
天王寺の名前は聖徳太子が建てた日本最古の寺に由来するのは言うまでもありません。
時代は下って鎌倉初期の1236年。歌人藤原家隆が病の為79歳で出家してここに「夕陽庵」を結んで隠棲。
翌1237年4月9日、夕日に向かって端座合掌して逝ったと伝わります。
それが現在の夕陽丘の地名になったそうですから、昨今の「~丘」と違い時代の重みを感じます。
その時に「夕陽は、遥かっす!」と言ったかどうかは定かではありません。
この後は愛染堂・清水寺・一心寺と巡礼。
上町台地付近はアイゼンを履く程ではないものの、アップダウンが多く良い運動になりました。
新清水寺は正式名・有栖山西光院清水寺(ありすやませいこういんきよみずでら)と言い、市内唯一の滝の勤行ができる場所。
元は有栖寺(うすじ)と呼ばれたそうですが、創建年代は不明。江戸の寛永17年(1640年)に延海阿闍梨により中興されました。
この辺りは大坂の陣の激戦地だったので漸く復興できたのでしょう。
延海は京都の清水を模した本堂を造り、本尊の十一面観音も清水寺から迎えました。寺号が清水となったのはそのため。
ここは市内で唯一の自然の滝・玉出の滝があり、また三方が崖になっていることから京都の清水を手本にしたのでしょう。
本堂も高台に造られましたが、老朽化と地盤沈下で撤去する羽目に。本家のようには行かなかったようです。
ここにも舞台があるとは初めて知りましたが、下は墓地なので飛び降りるのでしょうか?

西から見た清水坂

有栖山西光院清水寺(和宗総本山四天王寺支院 新西国三十三ヵ所客番札所)
右の清水坂は清水寺に上る参道で、北側にはかつて高級料亭「浮瀬(うかむせ)」があった。

清水寺境内の玉出の滝への入り口

幕には「玉出の滝」の文字が

清水寺にある玉出の滝
四天王寺金堂本尊下の青竜池から流れ出る。

正面から見た滝

滝奥にまします「お不動様」

大阪にもある清水の舞台
左奥に通天閣が見えるのが京都と違う。ここを飛び降りると墓地に直行。

境内にある平和の鐘

清水寺御朱印
一心寺は納骨で阿弥陀如来を造る骨仏の寺として有名。
その現代的な造りから新しい寺院と思っていましたが、由緒は平安末期。
文治元年(1185年)、四天王寺の別当であった慈円の要請で法然が「源空庵」を結んだのが始まり。
慈円自身は摂関家出身で天台座主を務めた体制派の人間ですが、能力のある人間は取り立てたと言われ、
鎌倉時代に新仏教が広がる一因ともなったのでしょうか。
その後、慶長元年(1596年)三河出身の存牟上人が一心寺の名で再興。
慶長5年には家康が八男の葬儀をここで執り行い、坂松山の山号と高岳院の院号を賜ったとされます。
大阪夏の陣では家康の本陣が置かれ、その後も徳川の庇護を受けますが、昭和20年の大阪大空襲で全焼。
戦後復興しますが、現代的な外観はそのためです。
ここに隠棲する事はないにせよ、一心に巡礼していれば極楽に行けるでしょうか。

坂松山高岳院一心寺 (ばんしょうざんこうがくいんいっしんじ 浄土宗)

一心寺仁王門
創建は1185年だが空襲で焼失 今は美術館風の造りとなっている。

一心寺納骨堂
この中に骨仏が祀られている。

一心寺開山堂
1185年、四天王寺の慈円に請われて法然がここに草庵を構えたのが始まり。

一心寺御朱印
日想観とは西方に沈む太陽に向かい念仏を唱え極楽往生を願う修行の一つ。
この後は、坂を巡って二ヵ寺巡礼。四天王寺と愛染堂は以前に貰ったので、御朱印はスルー。
唯、聴く所では四天王寺の御朱印は現在10種類程あるとか。
最近は谷根千はじめ東京の坂の人気が高いですが、大坂もテニス以外でも頑張りを見せて欲しいものです。

愛染堂本堂
愛染明王は秘仏で御開帳は年に10日。

愛染堂境内の多宝塔

愛染堂御朱印
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大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊能・三島 (歴史散歩 27) 新品価格 | ![]() |

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藤原定家と小倉山 (2018.09.19)
<コース>
阪急梅田 → 阪急嵐山 → 徒歩15分 → 常寂光寺 → 徒歩5分 → 二尊院

朝の渡月橋
・来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ [権中納言定家 新勅撰集]
(訳) 私はひたすら来ぬ人を待っている、この松帆の浦で…。夕凪時に焼く藻塩のようにこの身を恋い焦がしながら。
(解説) 詞書に建保六年内裏の歌合とある。
萬葉集にある笠金村の長歌
・名寸隈(なきすみ)の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に 藻塩焼きつつ 海未通女(あまをとめ) ありとは聞けど 見にゆかむ よしの無ければ ますらをの 心はなしに たわやめの 念ひたわみて たもとほり 吾はぞ恋ふる 船梶を無み
を本歌取りしたもので、身を焦がすのは若い海女である。
四季の歌で知られる定家にしては珍しい恋の歌であるが、自身も認める自信作である。
藤原定家が選んだ「小倉百人一首」。その誕生の経緯は、僧侶蓮生(宇都宮頼綱;定家の息子為家の妻の父に当たる)の
依頼で嵯峨野の山荘の襖の色紙として選んだ「百人秀歌」が始まりで、後に少し修正したのが「小倉百人一首」となります。
当初の呼び名は「小倉山荘色紙和歌」でした。定家については
『万葉の柿本人麻呂、古今集の紀貫之と並ぶ和歌史上の大立者。新古今和歌集、新勅撰和歌集と二つの勅撰集の撰者。
父俊成が唱えた幽玄を確立し、後世の和歌の規範を築く。
家集・歌論書も著し、中でも18~74歳まで書き続けられた日記「明月記」は有名で史料的価値も高い。』
と言うのが一般的解釈。
芸術家としての反面、激しい性格で強情な面を持ち、若いころは殿上人との乱闘沙汰で出仕を止められたことも。
年を経てもその性格は変わらず、歌の第一人者として後鳥羽上皇からは目を掛けられますが、
歌の良否を巡って対立し、謹慎を食らったとあります。
ただ謹慎期間中に酒に溺れることもなく、古典の筆写・注釈や著述に従事したことは後世への遺産となりました。
もし定家が周囲に気を配るような性格であったなら、日本の古典文学はそうとう貧弱なものになった事でしょう。
今回は、その事績を訪ねて小倉山へ。定家は山荘「時雨亭」を建て隠棲しますが、その跡と言われるものが残っています。

天龍寺横の竹林を通り小倉山へ

野宮神社にある定家の歌碑

常寂光寺への道と小倉山
小倉山常寂光寺(おぐらやまじょうじゃっこうじ) は、山号の通り小倉山中腹にある日蓮宗寺院。
『平安末期には藤原定家の「時雨亭」があったとされる地で、
慶長元年(1596年)に、今は山科にある日蓮宗本山本圀寺の十六世日禎上人が隠棲地として建立。
角倉了以に土地を、小早川秀秋に伽藍の寄進を受けた。
小倉山は都の西にあるので、そこに仏の理想郷「常寂光土」を求めたというのが、寺号の由来。』
と言われます。
と言うと政財界に強い影響があったのかと思いますが、歌人でもあった日禎は藤原日野氏流、広橋家の出身。
それくらいの人脈があっても不思議ではありません。貴族的な思考は先達定家に通じるものがあるのでしょうか?

常寂光寺山門(日蓮宗) 1595年(文禄4年)の創建だが、山門は江戸後期の作

常寂光寺仁王門 本圀寺客殿南門として貞和年間(1345~49)に建立されたものを1616年に移築した

紅葉の向こうに見える常寂光寺本堂

常寂光寺本堂裏庭園

元和6年(1620年) 建立の重文・多宝塔
高さ12m、方三間、檜皮葺

時雨亭跡 多宝塔の南にある。江戸期には建物が存在していたとあるが推測の域を出ないらしい

常寂光寺御朱印
ここでは書置きを拝受。
続いて北に少し歩いて二尊院へ。
本尊に釈迦如来と阿弥陀如来を安置する事が院号の由来。
『正式名は、小倉山二尊教院華台寺(おぐらやまにそんきょういんけだいじ)、
天台宗寺院だが天台・真言・律・浄土の四宗兼学の道場でもある。
承和年間に嵯峨天皇の勅願で円仁が創建し、鎌倉時代に法然の弟子により再興。
そのため浄土宗嵯峨門徒の拠点となり、法然上人の画像が収められている。』
ここにも境内を上った場所に藤原定家の「時雨亭」があったとされる地が。
亭跡からの眺めはここからの方が良いですが、本尊も二体あるくらいですから、
時雨亭も一ヵ所に固執する事も無く、両寺院にあったとすれば別段問題はないのかと考えた次第です。

小倉山二尊教院華台寺(天台宗)
この総門は伏見城の薬医門を移築したものとされる。

二尊院寺標と小倉餡発祥の碑
小倉餡は、小倉山→ 紅葉→ 鹿→ 鹿の子饅頭 という連想からとか。

総門を抜けた紅葉の馬場

紅葉の馬場 黒門近く

紅葉の馬場脇の西行の碑

黒門を過ぎた境内にて 後ろは小倉山
左;二尊院本堂 右;九頭竜弁財天堂

境内の貞信公(藤原忠平)の歌碑

定家の歌碑

二尊院本堂
永正18年(1521年)、三條西実隆により再建。

二尊院本堂内には法然上人御影も

後柏原天皇筆の二尊院扁額

九頭竜弁財天堂
この横を通り時雨亭へ向かう。

二尊院の時雨亭跡
弁財天堂横の階段を上った左手に佇む

時雨亭説明書き

時雨亭跡(二尊院)からの眺め 市内を見渡す事ではこちらに軍配か?

二尊院御朱印
通常は御朱印帳に頂くが、季節限定の薄版を頂く。次は紅葉とか。
二寺の参拝を終えて周囲を歩くと、定家の別荘「厭離庵」の案内が。
期間限定の拝観のため外観だけでしたが樹木に囲まれた異空間。
時雨亭以外にも別荘があったとは、定家はいったい何軒別宅を持っていたのでしょうか。
武家の事は自分には関係ないと言い切った彼の事、世間に邪魔されずに文学に浸れる場所があったと
考えるのは当然と己の浅学を反省する旅とはなりました。

もうひとつの定家の山荘という厭離庵
但し、拝観は期間限定。(11~12月)

厭離庵門には拝観謝絶の看板が…。

塀越しに撮影した厭離庵の敷地内
厭世気分に浸るならこちらか?

中院山荘跡
定家に百首の色紙を依頼した僧蓮生の山荘跡で、前は民宿となっている。

中院の説明書き
この辺りの字も中院。

慈眼堂(中院観音)
定家の念持仏の千手観音が安置されているが、現在修理中。

慈眼堂の説明

京都桂西口郵便局;桂離宮書院
京都西郵便局;嵐山渡月橋
[参考書]
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彼岸と御萩 (2018.09.23)
<コース> 電車は日中10分間隔で運転
阪急梅田 → 阪急曽根 → 徒歩10分 → 東光院

仏日山吉祥林東光院(曹洞宗 新西国三十三ヵ所第十二番霊場)
これは山門(薬医門)
秋のお彼岸の今日、墓参りは夕方なので、午前中に近場に参拝。
阪急曽根駅北、徒歩8分。仏日山吉祥林東光院(ぶつにちさんきっしょうりんとうこういん)は
は新西国三十三ヵ所第十二番霊場、寺伝に拠れば
『天平年間に行基が創建、天和元年(1681年)に曹洞宗に改宗。本尊の薬師如来に加え、札所本尊の十一面観音があり、
法華経の紙を紙縒りにして衣に仕立てて掛けたことからこより観音と余呼ばれる。』
とありますが、境内に植えられた萩から萩の寺で知られます。
正岡子規もここの萩を詠んでおり、境内の萩園に「萩露園」と命名したのは北大路魯山人と文人好みの寺と言えそうです。
古今集以降、詠まれる花は桜がNo.1ですが、萬葉集では萩が142首と第一位。そんなにあったか?と言うのが正直な所。
小さいながらも寄せ集まって大きく咲き生命力が強い事が好まれた理由でしょうか。
はぎの語源は「生える木」と書いてありました。

山門の説明板

山門付近から境内を見る

山門脇の魯山人観音像

あごなし地蔵堂(仏舎利殿)

あごなし地蔵堂前にて

道了大権現を祀る堂
小田原大雄山の道了尊から勧進。団扇の印も全く同じ。

お堂の本尊に代わり前に置かれた道了尊

あごなし地蔵堂から本堂を望む

本堂(吉祥林)
薬師如来と後醍醐天皇所縁の宮女こより十一面観音を祀る。

永代塔
ここに御参りされた人が多かった。

お寺の書いた萩の鑑賞法

境内にある萩露園

赤萩の近影
「おはぎ」はこの花を小豆に見立てた事に由来するとか。

奥へ進むと白萩が

白萩近影
9月16~24日は萩まつり。お彼岸とあって祭神の道了大権現の式典も開催。
地元や仏教関係のお偉方の姿に混じって、スリランカの高僧の姿も。
伺った所、本家のインドでは仏教は衰退していますが、
マウルヤ朝アショカ王のマヒンダ王子が布教したスリランカでは今でも仏教徒が7割を超えるとか。
加えて仏典も元々現地語で書かれているので、スリランカでは子供でも経典の意味が分かるそうです。
あっ、しょーか。せいろんですね。
式典の後は大護摩祈祷を見学。お寺は曹洞宗なので密教系の修験道の祈祷をするのも不思議な気がしますが、
これもお彼岸ならではでしょう。
家への土産は「おはぎ」となる所ですが、彼岸価格のため安めの赤福を購入。
まあ、似たようなものですから「ええじゃないか」と納得して帰路についた次第です。

本堂前にて式典
金峯山修験本宗の方々による法螺吹き

山門前では大護摩祈祷に向けて準備中

式典の後の大護摩祈祷

鏑矢で邪気を払う?

点火された状態
朱色衣が東光院管主。

東光院御朱印 本尊は薬師如来

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かくありし時過ぎて、世の中いともの憂く、兎にも角にもつかで世に経る男ありけり。
かたちとても人にも似ず、こころ魂もあるにもあらで、かう物の要にもあらであるも理と思ひつつ、
唯終日明かし暮らすままに世間に多かるぶろぐ、ほおむぺいぢの端などを見れば、世に多かる旅行記などあり。
人にもあらぬ身の上まで書き記して珍しき様にもありなむ、天下の人の閑を過ぐしたるやと問はん試しにもせよかし、
と思ゆるも、過ぎにし年月の事共覚束なかりければ、さてもありぬべき事なむ多かりける。
<超訳>
昨今、御朱印がブームになっています。有名な寺社では御朱印待ちの行列ができる所も珍しくありません。
期間限定のオリジナル御朱印を出している寺社もあり一層の拍車がかかっています。
このブームですが若い女性を中心に神社のパワースポットを巡るという事が嚆矢になった様です。
最近では御参り先で若いカップルが仲良く御朱印を拝受している姿を見る事も多くなってきました。
御朱印は写経の証としてお寺が授与するのもですから若干違うと言う意見もあるでしょうが、
きちんと御参りしている訳ですから目くじらを立てる程の事もないでしょう。
書店では御朱印や巡礼に関する書籍が並び御朱印帳も販売されています。かつては巡礼先で購入しようとしても
御朱印帳がなく書いたものを購入して貼付した事もしばしばでしたが今ではそんな心配は無用。
今から御朱印を始めようとしても方法に迷う事もないでしょう。『少しの事にも先達はあらまほしき事なり』ですね。

平成30年に入手した御朱印帳
私が御朱印を始めた平成4年には御朱印をするのは年配の女性、いわゆる御婆さんばかりで
不思議と御爺さんはいませんでした。
納経所で出会う事があると「若いのに偉いわねぇ!」と感心され、お茶を御馳走になった事もあります。
今、自分がその年になってみると「若いのに偉いね!」と言うより先に、
向こうから「その年で偉いですね」と反対に声を掛けられそうな状況。
やはり四半世紀は大きいと言う事だと実感しています。
ネットでも皆さんが拝受された御朱印の印影がアップされており家に居ながらにして楽しむことが出来ます。
これも通信技術のお蔭でしょうが、いま己の来し方を振り返ってみると色々と紆余曲折がありました。
御朱印の意味も分からずにお金ばかり掛かった初期、巡礼に行ったものの仏教に無知で頓珍漢な対話しかできずに
冷や汗をかいた事、今では良き思い出になっています。
朧気な記憶と御朱印を見返しての回想ですが、皆さんの巡礼の一助になれば幸甚です。

平成4年に開始した時の御朱印帳 左;近江編、 右;京都編
[参考書]
発売して3年経ちますが御朱印のバイブル的存在。御朱印の意味や各地の拝受できる場所の一覧、オリジナル御朱印帳も掲載。
入門はこれ1冊で事足りますが、巡礼先での未知の御朱印を期待している人には不向き?
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