雛流しの郷と絶品鯛飯(2018.11.29)
<コース>
南海難波(10:20) → 特急サザン → 泉佐野(10:48→10:50) → 紀ノ川(11:29) → 加太(11:50) → 徒歩20分 → 淡嶋神社

淡嶋神社(式内小社)
南海本線に乗り終点の一つ手前紀の川駅から2両編成に30分ゆられて終点の加太へ。
鯛の一本釣りで有名な漁港ですが、南端に鎮座ましますのが淡嶋神社。
少彦名命、大己貴命、息長足姫命(神功皇后)が御祭神で、加太沖合の友ヶ島の内の淡嶋(神島)に祀られたことが名前の由来。
近くに淡路島が見えるからではなかった訳です。
海上鎮護、婦人病、安産の神として崇められ人形を奉納して祈願するのが習わし。
これは神功皇后が人形(ひとがた)を流した故事に由来するそうです。「ひとかた」から加太の地名になったのかどうか?
毎年3月3日には「雛流し」と言って人形を船に乗せて沖に流す行事で有名です。
人形なら何でもOKという訳ではなく、内裏様とお雛様に限られるとか。他の人形の【内裏】をして貰う訳です。
昔の流し雛ならいざ知らず、こんな大きな雛人形を海上投棄してはイカンだろうと思いますが、
海に流すのは初めだけで、後はきちんと処理するそうで安心しました。参拝する場所に【産廃】は駄目ですからね。
雛流しだけでなく、境内には約2万体を数える人形が置かれており異様な雰囲気。
これを見たら人形には持主の心が宿り粗末にしてはいけないというのが分かる気がします。
南紀には補陀落渡海というものがありますが、これも海に流す行為。
日本中で紀州だけにこのような事があるのは、黒潮に洗われる土地柄のなせる技でしょうか?
民俗学的にも興味が湧く話ではあります。

南海電鉄加太駅のプレート
何んとなく蒲鉾の板の印象を持つのは私だけ?

加太駅舎
明治45年に建てられたレトロな洋風駅舎。

中村邸
明治末建築の洋館。昭和39年までは警察署として使用、現在は個人宅。

加太大橋

役行者堂
ここに住み修験道の修行を積んだとされる。

役行者堂から見た友ヶ島

淡嶋神社本殿に置かれた人形群

本殿左の市松人形

本殿左奥の人形

地面に置かれた土人形

古い雛を納めた雛蔵

紀伊国屋文左衛門が寄進した紀文稲荷
彼はここ淡嶋の出身である。

昼食はゑびすやにて 鯛の刺身丼 ¥1,000

淡嶋神社御朱印 墨書はなし

南海電鉄加太駅スタンプ
南海電鉄は殆ど常設駅がないが、ここは例外。

加太郵便局 ; 沖の島からの神島、松
阪南郵便局 ; 和泉石の石灯籠、山中渓の街並み、紀泉高原自然休養林
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
駿河かんにん! (2015.11.29)
<コース>
【往路】JR横浜(6:36) → JR熱海(7:59→8:02) → JR興津(9:04)
JR興津駅 → 徒歩10分 → 清見寺 → 徒歩60分 → 薩埵峠 → 徒歩60分 → 由比宿 → 徒歩70分 → 蒲原宿
【復路】JR新蒲原(16:56) → JR熱海(17:42→17:51) → JR横浜(19:16)

巨鼇山(こごうさん)清見興国禅寺(臨済宗妙心寺派)
関東に来ると頻繁に目に入るのが富士山。
その姿が嫌いだ言う人には今まで会った事はないですが、何処の場所が好みかとなると各人各様。
廣重の薩埵峠の構図が気に入っている私は快晴の11月下旬、年賀状に載せる富士の写真を撮るべく興津まで繰り出しました。
ビューポイントの薩埵峠は興津から由比に向かう途中ですが、
在来線でこの辺りを通る度に気になっていた境内を線路が跨ぐという寺院を巡礼。
清見寺(せいけんじ)は、
『東北の蝦夷に備えてこの地に清見関という関所が設けられ、その傍らに仏殿が建立されたのを嚆矢とします。
白雉年間と言われる古い時代ですから伝説的なものではありましょう。
その後、1262年に関聖上人が京の東福寺開山の聖一国師を招き再興、足利尊氏、今川義元の帰依を受けます。
義元が若い頃にはここの住職太原雪斎に学んだ。』
とありました。
この辺りは山が海岸近くまで迫り、東海道本線、新幹線、国道1号が犇めく要衝の地であるのは今も変わりません。
そのため幾度も戦火に巻き込まれ、江戸時代には朝鮮通信使、琉球使節が滞在する場所にもなり、
その足跡が随所に見られます。
明治期になって東海道本線が開通する際に寺域の一部を提供したのが今日の姿です。
誘致の為に遊地を出すことは聞きますが…。

興津の名刹清見寺
この辺りを清見関と言った。寺の敷地を東海道本線が走る。

清見寺仏殿
天保年間の改築

清見寺庭園
江戸初期、山本道斉により築庭と伝える。家康が幼年時代を過ごした「手習いの間」から撮影。

五百羅漢石像
天明8年の彫造。

大方丈前の臥龍梅
徳川家康が来遊の砌、接樹したと伝える。

清見寺本堂
朝鮮通信使・琉球通信使が訪れ、扁額に残る。

三線は琉球使節の置き土産か

方丈の間より見た蘇鉄

清見寺パンフレット

清見寺御朱印

興津宿にある坐漁荘
元老西園寺公望が晩年を過ごした別荘
清見寺の後は薩埵峠を越え山岡鉄舟所縁の茶店を経て由比宿へ。
桜エビの産地で今が旬、どこかお店はないかと思っていると、女子大生と思しき3人が
「桜エビを食べさせる浜のかきあげやは何処ですか?」
と尋ねている所に遭遇。
ストーカーにならないように後ろに続きながらお目当ての食堂に到着。
漁港にある簡素な建屋ですが、ボリューム満点で値段も安く思わぬ昼食となりました。
まさか、女子大生はサクラではないでしょうね。

薩埵峠へと続く道
清見オレンジとはこの辺りのものを言うのか?

薩埵峠
山が海まで迫り、現在も交通の要である。道路の場所は、安政の大地震で隆起してできたとか。以前はこの峠道が東海道で歌川廣重も由比でここを描いている。

峠を下ったところにある望嶽亭藤屋
幕末山岡鉄舟がここの主の助けで、船で清水に渡り西郷隆盛と会見した。

いよいよ由比の宿場へ

浜のかきあげや ; 桜エビかき揚げ+釜揚げ丼 ¥1000
その後、本陣前にある正雪紺屋に。
江戸時代唯一の謀反、慶安事件の首謀者由比正雪の生家とあります。
謀反人の子孫がいるのかと不思議に思いお店の方に伺うと
女店主:一応、生家という事になっていますが、はっきりしません。
鉄丈:お名前は由比さんなんですか?
女店主:いいえ、家は吉岡です。
鉄丈:宮本武蔵と京都一乗寺下り松で決闘した吉岡一門の家業は染物屋と聴いていますが、御親戚ですか?
女店主:はい。どうも親戚らしいです。
という答え。意外な繋がりにびっくり。事実は【正雪】よりも奇なりです。
そのあと蒲原宿まで歩き、一日で東海道の15、16、17番目の宿場を踏破。
静岡県は宿場の整備に力を入れているとの事で「♪ 15、16、17と私の巡礼暗かった♪」という事は有りませんでした。
歌っているのがフジ圭子というのも何やら因縁めいていますが…。
・風吹けば 沖つ(興津)海鳥 去った見ね(薩埵峰) 宵(由比)には彼ら 河原(蒲原)で啼く

由比の町屋に見える「せがい造り」
長い軒先を補強し更に美観を添える。

説明書き

由比宿本陣跡
広重美術館も併設。

本陣前にある「正雪紺屋」
慶安事件の由比正雪が生まれたとか。職業柄、思想に【染まり易い】人だったのかも。

蒲原宿本陣佐藤家
静岡県は宿場の整備に熱心だが、蒲原は特によく整備されている。

蒲原宿の志田邸
昭和初期まで醸造を営む商家。現当主は元JR東海専務、まさに東海道一色の人生である。守口宿の人が2名来られていたのには驚き。

蒲原宿五十嵐医院

歌川廣重が描いた東海道五十三次蒲原 夜の雪
傑作の誉れが高いが、この辺りは雪が殆ど降らず、これが本当がどうかは【歌川】しい。

興津郵便局 ; 薩埵峠からの富士山、国道
由比郵便局 ; 薩埵峠からの富士山、桜エビ、枇杷
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春秋社の月刊誌「春秋」連載中から話題になった本。東海道を歴史・美術・風俗多方面から解説している。
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
お江戸に禊で急ぎ巡礼その三(2016.11.26)
<コース>
JR高田馬場駅 → 西武新井薬師駅 → 新井薬師

新井山梅照院薬王寺(真言宗豊山派)
国鉄時代、中野駅で押印したスタンプに『薬師様と青年の集う駅』 というロゴがありました。
青年はさておき、薬師様があったとは初耳でした。
その中野区で薬師様として知られるのが新井薬師、今回30年を経ての訪問となりました。
縁起に拠れば、
『相模から来てここ新井に草庵を結んだ行春という僧が1586年、庭の梅の古木から光が出て居るのを見ます。
その穴から出てきたのが御尊像様で、それを安置するために建立されたのが始まり。
何とその仏さまは源氏の武将新田氏の守護仏で戦乱の最中に消失、奇跡的に発見されたとか。
新井とは新たに井戸が掘られた事、梅の古木から光が出た事で梅照院というのが山号の由来。』
とあります。
霊験あらたかな由来ですが、
江戸時代の町人学者富永仲基の加上説ではないですが、古い寺社ほど由来が単純で、
後に成程、複雑な成り立ちになる傾向にあるようです。
元々ここには良い水が得られる場所があって、そこに仏さまを祀っていましたが、
有名になるにつれて、どんどん尾鰭が付いて行ったのではないでしょうか。
ここは南北朝時代に新田氏についた武将の地で徳川氏の祖先とされる新田氏を持ってきて箔をつけたのだと思います。
そんな薬師さんですが、駅前からは門前町の雰囲気を残しています。
都会が開発の波に飲み込まれる今、このような場所は貴重ですね。
これでお江戸の禊も〆。これで煩悩を【新井】落とすことができれば言うことなしですが。

新井薬師本堂
御本尊は薬師如来(表)と如意輪観音(裏)の二仏一体の像。徳川秀忠息女東福門院(後水尾天皇中宮)が眼病を治したことから眼に御利益があるとか。

新井薬師御朱印

新井薬師パンフレット

中野郵便局 ; サンプラザビル、哲学堂公園、新井薬師
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お江戸に禊で急ぎ巡礼その二(2016.11.26)
<コース>
JR大塚駅 → 都電荒川線鬼子母神前 → 鬼子母神

雑司ヶ谷法明寺鬼子母神(日蓮宗)
関西ではあまり目にしない鬼子母神ですが、関東では色々とあるようです。
有名なのは「恐れ入谷の鬼子母神」ですが、今回は山手線西部の雑司ヶ谷へ。

大門けやき並木 鬼子母神への参道。池袋から少し入ったらこのような昔の街へ。
1561年に土中から掘り出された鬼子母神像を1578年に当地に祀ったのが始まりとか。
戦国時代とはいえ、当時は後北条氏の支配で安定していたと考えられますから、庶民にもこのような余裕があったのでしょうか?
日蓮宗の寺院は庶民的な雰囲気がしますがここもその例に漏れず。
上からではなく、皆で守っているという気持ちがそうさせるのでしょう。
『鬼子母神はインドの夜叉神の娘、子供が千人いましたが、その子供の為に近所の子供を攫って食べさせていました。
困った人々がお釈迦様に相談すると、お釈迦様は鬼子母の末子を呼び寄せて隠してしまいました。
子供を攫って帰った鬼子母は末の子の姿が見えないので狂乱状態になりお釈迦様に救いを求めます。
そこでお釈迦様は
「千人の子の一人を失ってもこれほどの悲しみがあるのだ。ましてや一人の子供を失った親の悲しみはいかばかりか分かるか」
と諭します。教えに帰依した鬼子母は子供を返して貰い、やがて子供を守る守護神となりました。
お釈迦様は
「もし子供を食べたいと言う気持ちが起こったら、代わりにこれを食べなさい」
と言って渡したのが柘榴の実、鬼子母神が柘榴を持っているのはこのためです。』
これは小学生の頃、お寺から貰って来た 『お釈迦様』 という漫画にあった話。
記憶は半世紀程前ですが、いまでもそれなりに覚えているのは子供を食べると言う事に強烈な印象があったからでしょう。
勿論フィクションではありましょうが、小さい頃に覚えた事は中々忘れないもの、幼いころからの学問?の大切さを感じます。

鬼子母神境内の大銀杏(大公孫樹)
樹齢700年、高さ33m、周囲11mという御神木。

雑司ヶ谷鬼子母神堂
左の駄菓子店上川口屋は1781年より創業とあるが、江戸時代の駄菓子ってどんなのでしょう?

鬼子母神堂

鬼子母神堂扁額
鬼の上の点がないのが正式な字

鬼子母神堂御朱印

鬼子母神堂パンフレット
ここでもう一つのお目当てが「すすきみみずく」。
江戸時代に母親の薬代に困った娘が鬼子母神の夢のお告げにより作って売ったのが始まりとか。
【おふくろう】孝行な事で感心です。
子供の頃、テレビ中継で見ましたが、当時はネットもなく入手法も分からずじまい。
大学生の時、初めて訪れたときも入手できませんでした。今回ようやくねぐらが分かっての対面でした。

すすきみみずく
東京都の代表的郷土玩具(お守り)。親子¥3000、大¥2000、中¥1500、小¥1000、今日は中を購入。

豊島郵便局 ; 桜外枠に千登世橋、都電荒川線、ススキミミズク
雑司が谷郵便局 ; 桜外枠に欅並木、ススキミミズク、面影橋、区花・ツツジ
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お江戸に禊で急ぎ巡礼その一(2016.11.26)
<コース>
JR横浜駅 → JR蒲田駅 → 東急池上駅 → 本門寺

長栄山大国院本門寺(日蓮宗大本山)
高校の先輩との会合の前日、禊と下見の意味を込めてお江戸を巡礼。
池上本門寺は
『日蓮上人入寂の地。身延山から常陸への湯治の途中、当地の豪族池上宗仲の館で逗留。
邸の裏手に堂を開堂したのが始まりです。
日蓮は翌月にここで没しますが池上宗仲は7万坪の土地を寄進、ここに寺の基礎が築かれます。
寺は弟子の日朗が継承、以降、池上本門寺と寄進者の名で呼ばれることとなります。』
今日も早朝から信者と思しき方々の姿が…。
生前は弾圧を受けた日蓮ですが、カリスマ性に富んだ人だったようで、いまでも熱狂的な信者が多いようです。
この様子をみたら彼も【本門】でしょう。

本門寺参道
大田区の中に広大な敷地を占め、緑地や災害時の避難場所としても機能。

元禄年間建立の本門寺総門

本門寺総門扁額
熱心な日蓮宗徒だった本阿弥光悦の書。但し、これは複製で本物は霊宝殿に展示。

此経難持坂
本堂へと登る96段の階段。法華経に因み加藤清正が寄進。学生がクラブ活動で運動中であった。

本門寺仁王門
旧門が空襲で焼失したため1977年に再建。

本門寺大堂
祖師「日蓮」を祀るので祖師堂とも呼ぶ。1606年に加藤清正により建立されたが以降3度焼失。現在は1964年の4代目。9時に太鼓で時刻を知らせていた。やっぱり法華の太鼓は一味違う。

経蔵
1784年の建立。空襲による焼失を免れた。

重文の五重塔
1608年の建立。高さ31.8m、本門寺のシンボル的存在。

日蓮上人廟
弘安5年(1282年)とあるから二度の元寇を見届けての入寂であった。

本門寺御朱印
巡礼を終えた後、門前に戻ると「くずもち」の看板が目についたので小休憩。
この辺りはくずもちが名物のようで 『江戸時代より13代の味』 といったコピーが目につきました。
関西出身には「くず」といえば、葛粉から作った葛切りがすぐ頭に浮かびますが、
こちらのものは、小麦粉デンプンを発行させて作るものだとか。
ところ変わればですが初めて知りました。
見た目は胡麻豆腐か外郎のようですが、味はあっさりして暑い時だけでなく年中いけそうな感じでした。

門前の甘味処

本門寺門前の池田屋にて
くずもち(久寿餅)¥600他も店が多い激戦区で、「江戸時代より十三代の味」等のキャッチコピーが多かった。ここは「10時開店」だったので決まり。

門前で気になった甘味処
次回を期待したが平成30年に閉店となったのは残念。

千鳥郵便局 ; 光明寺の多聞天像、重文・本門寺五重塔、武家屋敷
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皆道を往く(2015.11.22)
<コース>
近鉄一分駅 → 徒歩10分 → 往馬大社 → 竹林寺 → 圓福寺 → 徒歩70分 → 暗峠 → 徒歩50分 → 近鉄枚岡駅

龍華山圓福寺(真言律宗)
霊山寺参拝の後は、行基さんの足跡を辿るコース。
往馬大社は458年の記述があるこの辺り屈指の古社。
現在は生駒と書きますが、昔の字を見ると、馬の往来が頻繁にあったのでしょうか?

往馬大社本殿
延喜式にも見られる古社
続く竹林寺は8世紀に行基が開き、行基の墓所がある由緒ある寺ですが、明治以降は廃寺同然となり現在も無住。
境内が整備されているのがせめてもの救いでした。
その後少し歩き生駒山中腹にあるのが圓福寺。
ここも行基が8世紀に開いた古刹ですが、度々火災に遭った為、本堂と庫裡を残すのみ。
現在、この辺りは人家も疎らですが、昔は主要道だったので兵火に見舞われたのでしょうか。

竹林寺
行基が開祖で境内には彼の墓もあるが無住。

圓福寺境内の宝篋印塔
鎌倉時代の作で重文

竹林寺同じく行基開祖の圓福寺
本堂は鎌倉時代の再建で本尊十一面観音像は藤原時代の作。

圓福寺御朱印
庭仕事中の住職夫人に書いて頂きました、感謝です。
その後は山道を行き暗峠へ到着。平城京三条大路から難波を結ぶ最短ルートであった暗越奈良街道の峠です。
暗峠とは暗い名前ですが、樹木が鬱蒼と茂っていたのでそう呼ばれたと【鬱蒼】のような本当の話。
唯、私には峠を越える際に馬の鞍を借りたので 「鞍借り」 が訛ったと言う異説に惹かれます。
事実ここは直線で勾配がきつく石畳が50mに亘り敷かれている国内唯一の国道。
生駒の名前も馬ですから峠も馬に関わりがあると考える方が無理が少ない気がします。
平城京の時代は奈良側から大阪に抜けるのが主流でしたが、平成の今は逆方向がメイン。
ハイキングコースなので人が多いと想像していましたが、意外に少ないのに驚き!
やっぱりランチやカフェが少ないのがネックなのかと考えた【信貴】です。

歩く事60分で到着の暗峠から見た大和側
手前から生駒市、矢田丘陵、奈良盆地。黒い建物は山小舎カフェ「遊友由」

遊友由での一服

暗峠
大和と難波を結ぶ最短の道で標高455m。手前の家のすぐ後ろが県境でよく写真に出て来る場所である。

暗峠の道標
このすぐ後ろが奈良県側になる。
13時過ぎの生駒越えは大阪側の坂には苦労しましたが最後は枚岡神社を通ってゴール。
急勾配の後には【紅梅】がお出迎え。暗を通り明るい内に無事に大阪側に到着できました。

大阪側の急な坂道を下る
向こうに見えるのは東大阪市

街道沿いにある芭蕉の句碑
・菊の香に 暗がり上る 節句かな はせを
この句の後、御堂筋沿いで亡くなったので絶句ではないにせよ最晩年の作。

生駒郵便局 ; 生駒山上飛行塔、テレビ塔、桜
南生駒郵便局 ; 暗峠の石畳、往馬大社、生駒山

枚岡郵便局 ; 枚岡公園の桜、枚岡梅林、生駒山
高山郵便局 ;茶筅と高山サイエンスプラザ
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地名も世につれ(2015.11.22)
<コース>
近鉄富雄駅 → 徒歩30分 → 霊山寺

登美山・鼻高山霊山寺(霊山寺真言宗大本山)
帰阪した翌日、【南都】なく思い【立田】ので紅葉を見に出掛けました。
登美山・鼻高山霊山寺(とみさん・びこうさんりょうせんじ) は奈良市西部の富雄にある古刹。
この辺りの地名は古事記では登美、日本書紀では鳥見と記載されており景色が美しく鳥の猟に適した場所だったと思われます。

富雄川に架かる霊山寺橋を渡った場所にて

正面入口にある朱塗の鳥居
寺院であるがこれは信仰の中心となっている大弁財天堂への入口を示すもの。
寺の由来には次のようになっています。
『小野妹子の息子の小野富人は壬申の乱で敗者側にあったため右大臣を辞職、この地に隠棲。
薬師如来を祀り、その地で薬草を栽培して薬湯を施した。そのため彼は登美仙人、鼻高仙人と呼ばれ尊敬を受けた。
その後、聖武天皇の皇女(後の孝謙女帝)の病がここに祈願して治癒した事から、聖武天皇の勅願を受け行基が創建。
来日した印度の高僧菩提僊那が故郷の霊鷲山に似ていることから霊山寺と名付け山号を賜った』
端的に言えば政争に敗れ負け組になった人が、別の事業を興し成功したという事ですが、
どこまで真実を伝えているのでしょうか?
小野妹子の遣隋使は607年、壬申の乱は672年ですから、年代的には長すぎる気はします。
それよりも小野富人と言う名は記録にはなく恐らく架空の人物。
鼻高仙人と呼ばれたという伝承から印度・波斯の出身で、医療に秀でた人が国際交流の先駆けの小野氏を使った
というのが、案外真相に近いのではないでしょうか。
創建時の事は多分に伝説のベールに包まれていますが、平安末期には確実に存在したと考えられ、
その後戦乱に会う事が少なかったので昔日の面影を伝えています。
現在ではバラ園・温泉・レストラン・ゴルフ練習場・宿坊と多角経営を展開。
寺院としては異色ですが、お寺の経営も厳しいと言われる昨今、生き残る術としては有効でしょう。
伝説の開祖の生き方を継承しているとも言えます。
現在の地名は富雄、近鉄沿線では高級住宅街として知られているので名も相応しくなったのでしょうかね。

薬師湯殿
左手が食事処「仙人亭」で、向かいには宿坊がある。

薬師湯の説明書

宿坊へと続く階段 左;天龍閣、 右;聚楽殿

本山寺務所の一角にて
御朱印はここで拝受

国宝霊山寺本堂
鎌倉時代1283年建立、入母屋造り・本瓦葺き、本尊薬師三尊像(重文)は秘仏。

富雄川支流の湯殿川を渡った所にある三重塔(重文)
高さ17m、檜皮葺き、谷を挟んで本堂の向かい側にある。

霊山寺境内の紅葉

霊山寺バラ庭園
1957年に開設、世界のバラを集めていることで有名。今回は少し時期が外れた。

霊山寺御朱印
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白洲正子 十一面観音の旅 奈良・大和路篇 (別冊太陽 太陽の地図帖 1) 中古価格 | ![]() |

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安積疎水物語;明治の史跡、グリーンカレーとフルーツ王国(2017.11.25)
<コース>
JR磐梯町駅 → JR郡山駅 → レンタサイクル → 如寶寺

高嶽山如寶寺(真言宗豊山派)
左から観音堂、光明殿、大本堂
恵日寺巡礼を終えて郡山に戻ると昼過ぎ。昼食のあとはレンタサイクルで市内を散策していると、立派な構えが視界に。
高嶽山如寶寺(こうがくさんにょほうじ)は市内最古の寺院。
縁起は古く、807年に土地の虎丸長者が平城天皇から馬頭観音を賜り祀ったのが始まり。
その後も、後三年の役で兵火に会うも郡山の発展と共に歩んでいます。
境内には石卒塔婆を始め遺跡がありますが、古刹の匂いが少ないのは周囲が開けて広々としている事、
建物が綺麗に維持されているからでしょうか?

郡山市内最古の如寶寺
道路から山門を望む。手前にあるのは庭園隈上苑。

大本堂
本尊は金剛界大日如来坐像。

大本堂の扁額と欄間

如宝寺書院
白河の迎賓館(陽春館)を移築。いまは法事等で使用

如寶寺説明書

如寶寺御朱印
郡山は明治に入り、水不足を解決するために猪苗代湖から水を引き(安積疎水)、合わせて田野も開墾。
そのとき明治政府が雇ったオランダ人技師の影響もあったのでしょうか、市内には洋館が目立ちました。
「白河以北、一山百文」 と新政府からは見下された東北地方ですが、
地元民には「中央なにするものぞ」という気概があったのかもしれません。それが今まで守られているのにも感心しました。
疎水を計画したのは初代内務卿大久保利通。冷徹な政治家ですが、国の将来を見据えての事だったと思います。
志半ばで凶刃に斃れますが、死後は莫大な借金が残ったとか。
政府からの予算が足りない時は私財を使ったと言われています。
西郷隆盛とは袂を分かちましたが、「子孫の為に美田を買わず」の精神は同じと言えましょう。

麓山公園の滝
明治15年に完成した安積疎水の分水路から引かれた。

郡山市開成館 明治7年建設の擬洋風三層楼。区会所、宿泊施設等を経て今は記念館に

郡山市マンホールカード ; 郡山市開成館にて配布

安積歴史博物館
明治22年の旧安積中学の本館で今は市が管理。朝河貫一、久米正雄、中山義秀等を輩出。卒業生で芥川賞3名は国内最多。玄侑宗久氏もここのOB。記念館の玄関は開智学校、登米小学校と共通の印象を受ける。

最初にできた金透小学校の記念館

郡山公会堂
大正13年に郡山市制施行の記念に竣工。中之島公会堂を模したと言われる。

お昼は郡山でグリーンカレー¥1200
歌手のグリーンに肖って。店によりバージョンが異なるが緑はホウレンソウなのは共通。

帰りの「やまびこ」まで駅の内山製作所cafeにて フルーツ王国らしくあっぷるしなもんパンケーキ ¥1024
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会津磐梯山が仏都んだ話(2017.11.25)
<コース>
JR郡山駅 → JR磐梯町駅 → 徒歩15分 → 史跡慧日寺跡&恵日寺

慧日寺へと続く道
♪エイや~会津磐梯山は宝の山よ♪
福島県三日目の25日は仏都会津の発祥の地、磐梯町の慧日寺(えにちじ)へ。
地図で見ると史跡慧日寺跡とすぐ横に恵日寺と似た名前が並んでいますが一体どちらが本物なのでしょうか?
慧日寺は平安初期の807年に法相宗の僧・徳一により創設されたと伝わります。
徳一は南都興福寺の学僧で布教の為に会津を訪れ、慧日寺の他に勝常寺、柳津円蔵寺を建立するなど
仏教文化を広めた功労者、当時の新興宗派だった最澄や空海と大論争をした事でも有名です。
両者と論争を繰り広げた位なので学識があったのは確実ですが、
その後、最澄・空海が天台・真言の開祖となった事や、徳一が体制派だった事などで歩が悪くなった感は否めません。
彼自身も藤原仲麻呂の息子と言われますが確証はなく、その知名度と共に生涯も謎に満ちています。
徳一が何故この地に寺を作ったか?
ここは北東に磐梯山を控えた地。活火山の磐梯を望む山岳信仰が根底にあった事は確かでしょう。
磐梯山は慧日寺開基の前年806年に大噴火を越しており、それが直接のきっかけになったとは十分考えられます。
この地域の伝説では
『この地方は魔物の所業により霧が立ち込め、作物も実らず、人々は病気に苦しめられた。
朝廷は人々を救うために弘法大師をこの地に遣わし薬師を祀ったが、
大師は開眼直前に命により帰都したので、後を徳一上人に任せた』
というもの。
論争した相手に任せる程、空海もお人好しではないでしょうから、これは恐らく作り話。
磐梯山噴火後の困窮を救うために徳一が寺を建立したという事実が反映されたものでしょう。
弘法大師を持って来たのは、仏教界のスターにあやかりたいと言う庶民の願望でしょうか?
徳一の見込みは当たり、彼の死ぬ842年には寺僧300、子院3,800を数えるほどの隆盛となりました。
その後は幾度も兵火に巻き込まれて復興衰退を繰り返し明治2年に廃寺となり、明治37年に復興となります。
復興後の寺名は恵日寺で、かつての伽藍があった場所は慧日寺跡として史跡扱いになっています。
慧日寺跡では復元された中門や金堂を見学。
いずれ本尊も設置する予定だそうで、駅前の工房では仏像が作製されている御姿を間近に見ることができました。
慎重に製作されて居り、間違っても【工房も鑿の誤り】とはならないでしょう。
この日は30㎝を越える積雪で、除雪をしながらの巡礼。12~3月は拝観中止とは言え、もう少し【ええ日時】を選ぶべきでしたね。

朝8時台の参道の除雪作業

参道左手にある恵日寺本堂(真言宗豊山派)
旧慧日寺本坊で元禄年間の建立。徳一が開基の慧日寺は廃寺となったが、明治37年に恵日寺として復興。近世の慧日寺と法灯を伝えている。御朱印も拝受。

慧日寺史跡
開館4月1日~11月30日、時間9:00~17:00。右の建物が受付だが除雪が追い付かず拝観は後回しに。

説明版

史跡慧日寺跡
明治の廃仏毀釈で廃寺となったが、平成20年になってかつての跡に金堂(右)を翌年中門(左)を復元。今は宗教法人ではなく町が管理する史跡扱い。

慧日寺中門

中門のカエル股

金堂屋根裏

金堂内部
このように本尊を納める予定。

復元に使用した機材
赤色;弁柄+漆、 緑色;緑青+漆、 釘;竹製

JR磐梯町駅前の工房にて製作中の阿弥陀如来像
東京芸大薮内教授(せんと君作者)研究室が中心となって復元中。平成30年8月には納める予定。

史跡慧日寺跡のパンフレット

恵日寺御朱印

磐梯郵便局 ; 磐梯山、慧日寺資料館、徳一廟五重石塔、町花・竜胆
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観音とソースカツ丼に「ころり」(2017.11.24)
<コース>
JR七日町(13:10) → JR新鶴(13:39→13:57) → JR根岸(14:01) → 徒歩10分 → 中田観音 → 徒歩40分 → 下荒井(15:20) → バス20分 → JR会津若松

普門山弘安寺(曹洞宗)
一日6本の只見線で会津若松に戻って市内を散策した後は、午後の只見線で仲田観音まで巡礼。
普門山弘安寺は1279年(弘安2年)に建立され年号で弘安寺と称されますが、中田観音の呼び名の方が有名です。
本尊十一面観音菩薩は土地の長者江川常俊が娘の菩提を弔うために鋳造、運んでいる途中で牛が動かなくなったこの地に観音堂を建てたと言われます。
伝説では娘は恋煩いで亡くなったとの事ですが御利益は恋愛成就ではなく、ころり信仰。
観音経で言う貪・瞋(しん;怒り)・痴の三毒を巡礼に拠って消滅させて貰いやがて安らかに極楽往生するもの。
ころりとは突然死ではなく安らかに死ぬ事と初めて知りました。野口英世の母シカも息子の火傷の治癒と立身出世を祈願されたとか。
博士のその後の活躍を見ると願いは【シカ】と実を結んだ事になります。高齢化社会ではこのような晩年は理想でしょうが、なかなか難しいのが現実です。
私も御参りしましたが鳥追観音だけは巡礼できずじまい。三毒の内、二毒は消滅できたでしょうが、残りの一毒は戒めとして心に留めなければと思った次第です。

只見線七日町駅 無人であるが駅内に土産物屋店とカフェが入っているので便利。

只見線根岸駅から徒歩10分で中田観音に到着

中田観音本堂 改修工事の為、御本尊は拝観できず。御朱印は左の仮本堂?で拝受

本堂の前屋根

中田観音御朱印

新鶴郵便局 ; 中田観音、町花・菊、吹上公園テニスコート
北会津郵便局 ; 白山沼、イトヨ、ゲンジボタルマスコットのピカリン
若松七日町郵便局 ; 郷土玩具・赤ベコ、元鶴ヶ城内の御三階
若松本町郵便局 ; 市花・タチアオイの外枠と花、鶴ヶ城、若松城下発祥の地標柱

会津若松市マンホールカード ; 会津若松市役所にて配布

夕食はJR会津若松駅前のまるたか食堂にて 会津若松B級ぐるめのソースカツ丼¥1000
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会津ころり三観音その一(2017.11.24)
<コース>
JR郡山(5:55) → JR会津若松(7:09→会津バス7:25) → 坂下営業所(8:10) → 徒歩20分 → 立木観音 → 徒歩20分 → JR会津坂下(9:55) → JR会津若松(10:34)

金塔山恵隆寺(真言宗豊山派)観音堂
会津といえば、幕末の戊辰戦争・白虎隊と明治期の艱難がすぐに思い出されますが、意外にも東北地方の仏教発祥の地。
会津と言えば柳津の虚空蔵さんしか御参りの実績がなく、どこにあるかと調べると意外にも会津盆地の周辺に
点在していることが判明。
今年の巡礼を締め括りとして盆地に点在する古刹を1日がかりでレンタサイクルで巡る計画でしたが、まさかの雪。
「まだ11月やのに!」とボヤキながら、公共機関を駆使しての巡礼とはなりました。

24日の巡礼はここがスタート
立木観音は会津盆地の西の端、会津坂下にあります。
2時間おきの路線バスと雪道の徒歩で8時過ぎに目的地に着きましたが、拝観は9時から。
境内を歩いていると門の直ぐ横に『別れの一本杉』の歌碑が。春日八郎さんは坂下の出身。
昔、昼のプレゼントという番組に出演された時に、地元の住職が
「子供の頃から体格が良く腕白だったので、地蔵さんの頭で砲丸投げしていましたわ!」
と言っていたのを思い出しました。とするとお寺はここだったのでしょうかね?
駐車場に売店があったので雪宿り?しながら年配の店の女性と昭和歌謡で盛り上がり、
暑いお茶と饅頭を頂くと言うおまけ付でした。

立木観音山門にて

山門脇にある「別れの一本杉」歌碑
作詞:高野公男(茨城)、作曲:船村徹(栃木)、歌:春日八郎(会津坂下)というトリオによる、戦後を代表するヒット曲。
伝承では
『540年、中国六朝の梁国の僧青岩が高寺山に庵を結び、634年に南岳恵志の弟子恵隆がそこを恵隆寺と名付けたとか。
その後、蝦夷の反乱で焼失しますが、804年に空海と坂上田村麻呂により再興。
一時期は大伽藍と36坊もの堂宇を有していましたが、今は仁王門、本堂と観音堂だけが残っています。』
とあります。何れも伝承ではっきりとした証拠はないが、古刹であったのは間違いなさそうです。
本尊は十一面千手観音菩薩で808年に開眼、立木を彫ったものと言われます。
1190年に寺が高寺から現在の場所に移転したので根は掘り出された筈ですが、今でも床下には根があると言われます。
残念ながらその場所は見えませんでしたが…。
緞帳の中から姿を見せた御本尊は神々しいというよりも凄い迫力で迫る印象。
立木観音といえば日光中禅寺のものが有名ですが、ここは一本彫りで高さ8.5mと日本最大。
決して劣るものではありませんでした。会津に古くから仏教文化が花開いた証拠と言えるでしょう。
拝観後は、雪道を只管歩いて1日6本しかない只見線JR会津坂下駅へ。
「赤いランプの終列車」ではありませんが、9:55発車ギリギリで滑り込みセーフ。もう少しで「別れの一分過ぎ」になる所でした。

立木観音境内 三重塔は後世の建立。

立木観音本堂

本堂の扁額

観音堂から境内を見る

立木観音堂にて

只見線会津坂下駅に入る9:55の会津若松行き列車(1日6本)
これが最終ならば思わず♪さらばと告げて手を振る君は赤いランプの終列車♪と口ずさみそうな雰囲気。

立木観音説明書

立木観音御朱印

坂下郵便局 ; 奇祭・初市大俵引き
若松一箕町郵便局 ; 三角縁神獣鏡外枠に伝統玩具会津天神、会津五桜・石部桜
若松南町郵便局 ; 会津塗り椀外枠に鶴ヶ城、南走長屋千飯櫓 若松旭町郵便局 ; 鶴ヶ城、さざえ堂
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
秋風ぞ吹く三春の地(2017.11.23)
<コース>
JR東京(6:20) → やまびこ201号 → JR新白河(7:44→8:18) → JR白河(8:21→10:53) → JR郡山(11:30→13:13) → JR三春(13:24) → 駅レンタサイクル20分 → 真照寺

日乗山真照寺(真言宗智山派)
・都をば 霞と共に 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関
と詠んだのは平安時代の能因法師。
京都から白河まで歩いても半年かかるとは思いませんが、都の人にはそれほど遠い地という思いがあったのでしょう。
今は東京発とはいえ、
・都をば やまびこ乗りて 立ちしかど 八時には着く 白河の関
となりますから随分早くなったものです。
勤労感謝の日から郡山に二泊して会津巡礼を目指しましたが、それに先立ち三春を散策。
樹齢千年の三春滝桜と三春駒、デコ屋敷で有名でピークは春。
梅・桃・桜が一斉に咲くという事ですが、流石にそれはちょっと欲張りと言うもの。
郡山出身の先輩も「それはないだろうな」と話されていました。

三春町の料亭前にて
三春駒は坂上田村麻呂伝説に由来

城下町巡りの初めはここ馬頭観音堂から

馬頭観音堂
坂上田村麻呂が愛馬供養の為に建立したと去れる。三春駒育成の中心的古社。
日乗山真照寺(にちじょうざんしんしょうじ)は藩主秋田氏の祈願寺、1231年で津軽の十三湊に創建されました。
領主の秋田氏は安東水軍の流れを汲む陸奥の名門。伊達政宗の正室愛姫(めごひめ)も秋田氏です。
その移動に伴い真照寺も秋田、笠間と移転。
随分と忙しい話ですが、海に関わる安東氏だけに宗教崇拝には強いものがあったのでしょう。
真照寺も1649年にようやくここに落ち着き【安東】したのではないでしょうか。
本堂初め、建物全体が簡素な印象なのは豪雪への対策のような気がします。
境内は水芭蕉が有名ですが、今は季節外れ。
花の盛りではなかったものの城下町、宿場町の面影が残る所も多く、春だけではないと改めて目を【三春】ものがありました。

真照寺境内にある古四王堂

説明書き

三春では寺と和菓子屋さんが目についた
ここは真照寺門前の蒼龍庵。

おたりまんぢうで一服¥80
「おたり」は作った御婆さんの名前だとか。

藩学校明徳門
いまは三春小学校の校門として活躍

三春町の旧遠藤眼科

三春町文化伝承館の庭
生糸の商売で財を成した吉田誠次郎氏が明治28年に建てた自宅。

伝承館の間

真照寺御朱印
書置きを購入するセルフ型。

三春郵便局 ; 桜の外枠、滝桜、三春駒
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