<コース>
JR大阪駅(13:22) → (快速) → JR須磨駅(14:03) → 徒歩15分 → 須磨寺
或は
阪神梅田駅(13:25) → (特急) → 山陽電鉄月見山(14:12 → 14:20) → 山陽電鉄須磨寺(14:22) → 徒歩5分 → 須磨寺

上野山福祥寺(真言宗須磨寺派大本山) これは源平の庭
『人生五十年、下天の内をくらぶれば 夢幻の如く也』
言わずと知れた幸若舞の演目『敦盛』の一節。
織田信長が特に好み、桶狭間の戦いの前にもこの一節を待って出陣したと言われています。
本来は下天の一日が人間の五十年に当たるとの意味ですが、人間の寿命が五十年と解釈する人が多いとか。
かく言う信長も四十九歳で世を去っています。
50歳の最後の月になり、【こう若まい】と思い立って敦盛所縁の須磨にやって来ました。
須磨寺は、寺伝に拠れば
『仁和二年(886年)光孝天皇の勅願で聞鏡上人がここ上野の地に七堂伽藍を建立し、
上野山福祥寺(じょうやさんふくしょうじ)とした事に始まります。
このとき会下山の北峯寺に安置されていた聖観音を持って来て祀ったとされます。』
聖観音は以前に漁師が和田岬沖で引き揚げたもの、浅草寺等で見られる瑞祥ですが海で有名な須磨ならば
良しとなるのでしょうか。本尊については源頼政が安置したという説もあるようですが…。
寺は源平の一の谷の古戦場跡近く。なかでも源氏の熊谷直実に討たれた平家の十七歳の敦盛が人を惹き付けるようで、
境内にはその関連のものが目につきます。青葉の笛の展示が圧巻ですが、合戦の最中に良く残ったものだと感心します。

龍華橋と仁王門 仁王門は源頼政の再建に拠る

本堂 片桐且元を建築奉行として慶長七年(1602年)に豊臣秀頼が再建。

書院

宝物館にある伝・青葉の笛

須磨寺御朱印
ここでのもう一人の人物は在原行平。王朝の美男子在原業平の異母兄で、謡曲『松風』の主人公。
その内容は、
『光孝天皇に献歌した一首が天皇の怒りに触れ、須磨に配流された行平は汐汲みに来ていた二人の姉妹と知り合います。
姉の「もしお」に松風、妹の「こふじ」に村雨と名前を付け恋に落ちますが、三年後に行平は都に帰郷。
別れに際し、行平は烏帽子と狩衣を松の枝に掛けて形見とし、歌を添えました。
・たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む
(訳) 皆様方、私は今から因幡の国へ行って参ります。そこの峰に生える松ではないけれど、
私を待つと聞いたならばすぐにでも帰って来ますよ。
小倉百人一首にもある有名な歌。その後、松風・村雨の姉妹は行平を偲び生涯を送りました。』
というものです。

宝物館にある行平の肖像 尤も後世の作なので想像に拠る。
よく出来た話ですが、これは彼の歌から作られた全くの虚構。
行平は855年に因幡守に任じられており都での送別会での挨拶の歌というのが本当の所です。
実際、文徳天皇の時代に須磨に逼塞した時期がありましたが、そんな時でも
・わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ 侘ぶと答へよ
という具合に自身の境遇を逆手に採った歌を残すなど境遇を楽しんでいるように思えます。
須磨の配流も官僚としての地方務めだったと思えば大した事はないですが、
都から離れた場所が都人にそのような思いを抱かせたのでしょう。
須磨と言えば「源氏物語」での光源氏の流謫が思い浮かびますが、紫式部の頭の中にはモデルとして行平があったことは
間違いありません。現在も村雨・松風・衣掛という地名が残っています。

松風村雨堂の入口の標

標の側面には、「たちわかれ…」の歌が。

須磨区にある松風村雨堂
謡曲「松風」に基づく伝説の遺構。行平は都に帰る際、ここの松に烏帽子・狩衣を掛けたとか。行平の死を聞いた姉妹は尼となって、彼の旧居に庵を結んだと言われる。

松風村雨堂案内板
歴史上の行平は75歳と長命に恵まれたこともありますが、地方国司を歴任し中央では中納言に至り政界の一翼を担っています。
国司時代には対馬国での米不足問題の解消、肥前近海での唐人による密漁の防止と実務派官僚。
中央政界でも単なるイエスマンではなく、筋の通らぬことは関白基経にも反論するといった硬骨漢でもありました。
天皇の孫という自出ではありましたが浮いた噂のある弟の業平と違い堅実な生涯だったと言えましょう。
須磨寺には1枚の板に1本の絃を張った一絃琴と言うものが伝わりますが、これも行平が無聊を慰めるために造ったとか。
現在も演奏会は開かれているそうなので、真偽は兎も角、行平が琴の【遠祖かい】にされています。
余談ですが平安時代に朝廷で相撲部屋を作ることになりその長官に任じられた行平が優雅な名前を部屋名につけたものが
今に伝わっています。

宝物館にある須磨琴
須磨に蟄居中、流れ着いた木片から一弦の琴を作ったと伝える。それにしても青葉の笛と言い、この寺は物持ちが良い。

須磨郵便局 ; 須磨の浜、敦盛の兜、青葉の笛、千鳥

神戸南町郵便局 ; 須磨寺三重塔、紅葉、須磨ヨットハーバー
神戸衣掛郵便局 ; 松風村雨堂の衣掛松、須磨海浜水族園外観
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR大阪(10:06) → 鶴橋(JR10:22 → 近鉄10:24) → 区間準急 → 近鉄枚岡(10:42) → 徒歩3分 → 枚岡神社 → 近鉄石切 → 徒歩15分 → 石切神社

石切劔箭神社(式内小社)
枚岡神社参拝の後は、近鉄電車で生駒方面へ二駅の石切で下車。
ここから石切劔箭神社(いしきりつるぎや)まで1㎞余り下ります。
細い参道の両脇には93軒もの店が並び、
『古き良き「昭和」の人情と文化に触れる、こころが元気になれる通り』 というのが謳い文句です。
今では近鉄けいはんな線新石切駅が開業して駅から徒歩5分で神社に着きますが、
歩く距離は長くとも石切駅経由の方がノスタルジーに浸りながら参拝できるのでお勧めと思います。
食べ物や漢方薬の店以外に占いの店が十軒。大阪人として占いはあまり信用しない人が多いと思っていましたが、
ここは例外なのでしょうか?

石切参道商店街を下り三之鳥居前へ

二之鳥居
けいはんな線の新石切駅から向かうとこちら

絵馬殿

三之鳥居
古社ながら大阪では「でんぼ(腫物)の石切はん」と庶民的な神社、御神体は剣(劔)と矢(箭)でどんな痛みも
この剣矢で治してくれると信仰されています。腫れ物に触るような扱いはないようです。
また本殿と神社前の百度石を回るお百度参りが有名で、参拝した時も大勢の方が右回りにお参りされていました。
石切劔箭神社は
『神武天皇二年に生駒山中に可美真手命(うましまでのみこと)が父である饒速日尊(にぎはやひのみこと)を祀ったのが始まり。
その後、崇神天王の御代に可美真手命を現在の本社に祀った。』
と社伝にはあります。
但し、歴史的には神話の時代で確実な記録は延喜元年に成立した『日本三大実録』が初めとなります。
その後の記録は足利時代に消失してしまったとそうです。
枚岡神社同様に生駒山の山岳信仰が母体にあって、後世になって創建の記録が加わったのでしょう。
そういえば交野市の山中にある岩船神社の祭神も饒速日尊ですので、河内東部には饒速日尊を崇拝する物部氏が
勢力を持っていたからと想像は膨らみます。

本殿 お百度参りの人々が

社務所ではお百度グッズも販売

本殿横の御神木の楠

本殿横の橋

後ろ側から見た本殿

神楽殿

授与所奥にある庭園

石切劔箭神社 参詣のしおり

石切劔箭神社御朱印 ¥300 二十代と思しき神職の墨書。

東大阪市マンホール蓋 市役所東側にある。

東大阪市マンホールカード 東大阪市下水道計画総務室 にて配布
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日本の神社 108号 (磐船神社・石切劒箭神社・譽田八幡宮) [分冊百科] 新品価格 | ![]() |

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JR大阪(10:06) → 鶴橋(JR10:22 → 近鉄10:24) → 区間準急 → 近鉄枚岡(10:42) → 徒歩3分 → 枚岡神社 → 近鉄石切 → 徒歩15分 → 石切神社

枚岡神社(河内國一之宮 旧官幣大社)
河内に長らく住んでいて各地の一之宮に参拝しながら地元の一之宮にお参りしないのは流石にどうかと思ったので
遅まきながら枚岡(ひらおか)神社に参拝しました。

金鉄枚岡駅を出て坂を上った所にある二の鳥居

参道広場

拝殿への階段入口

拝殿への階段
場所は河内東部の生駒西山麓に西向きに鎮座されています。頂いた御由緒によれば、
『神武天皇が即位された皇紀前三年。東征の砌、天児屋根命・比売御神の二柱を本殿背後の神津嶽に祀られたのが始まり。
その後、孝徳天皇白雉元年(650年)に中臣氏の一族枚岡連が現在の位置に移し、
更に宝亀九年(778年)に経津主命・武甕槌命の二柱を加えて四神となる。
和銅年間には藤原不比等によって天児屋根命・比売御神の二柱が春日大社に分祀された事から元春日とも呼ばれる。』
とあります。
皇紀前三年は縄文時代なので多分に伝説がかっていますが、神津嶽の名前から山岳信仰のあったものを
中臣氏が氏神とした時に結びつけたものでしょう。
当初は平岡神社であったのが後に枚岡となったようです。府下には枚方市もありますが、ここも「平潟」が由来とか。
枚数を数える時に「ひとひら、ふたひら」と呼ぶ雅語を持って来たのでしょう。
なかなか昔の河内人は優雅なセンスを持っていたようです。
その後、中臣氏・藤原氏の庇護を受け河内國一之宮として揺るぎない地位を築きました。
場所的には難波の外れですが高台にあるため大阪湾に至るまで一望に見渡せるのが利点。
為政者にとって人民の動きを把握するのは不可欠だったからでしょう。宗教の発展には権力と結びつくのが近道です。
尚、明治までの神官は中臣氏子孫の水走(みずはや)氏が務めていたそうです。

拝殿

社務所 御朱印はこちらで拝受

拝殿と奥にある本殿
四柱を祀るが工事の為、見えず。

巽参道を通り梅林へ

楠木正行公(小楠公)所縁の井戸
高師直の軍勢との四条畷の戦いの一部と言うが…。

梅林から市街地を望む

枚岡神社由緒記 ¥100

枚岡神社御朱印 ¥500

枚岡郵便局 ; 枚岡公園の桜、枚岡梅林、生駒山
東大阪花園郵便局 ; 花園ラグビー場、ラグビー選手、生駒山
[参考書]
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JR横浜(8:08) → JR国府津(8:59 → 9:10) → JR下曽我(9:17) → 徒歩15分 → 瑞雲寺 → 曽我梅林

龍珠山瑞雲寺(曹洞宗)
気温も上がり二月最初の散策となった今日は下曽我へ。
神奈川県内で東海道本線から御殿場線で一駅ですが、ここからはJR東海の管轄。
昭和九年に丹那トンネルができるまでは御殿場線が東海道本線で、貴人が東京から京都へ向かう際には
国府津の駅まで見送ったと言います。
太平洋戦争時にレールを供出して単線になり戦後もそのまま、本数も1時間毎でかつての面影はありません。

御殿場線JR下曽我駅
国府津から1駅だが、ここからはJR東海管轄。駅舎・車両・スタンプ全てタイプが変わる。

下曽我駅(JR東海静岡支社) 及び国府津駅(JR東日本横浜支社)のスタンプ
龍珠山瑞雲寺(りゅうずさんずいうんじ)は、
『明応元年(1492年)大井山功雲寺5世の仁忠継儀大和尚を開山、相州黒岩城主本多豊前守信親を開基として創建されました。
当初は東200mの丘にありましたが文化年間に現在地に移転、関東大震災で倒壊した本堂は昭和二年に再建されています。』
この寺院は曽我梅林の中心、中河原梅林の中に建っており、境内はもとより周辺には梅が【曹洞宗】植えられています。
梅林は中河原・別所・原と三ヶ所ありますが、ここの梅は実を獲る白梅が主体で規模は45ヘクタールに3万5千本、
梅酒用の白加賀、梅干用の十郎、両者兼用の杉田が御三家です。
紀州のような山ではありませんがなだらかな丘陵に植えられており、やはり【紅梅】がよいのかと改めて思った次第です。
梅まつり期間で梅の香り漂う中、地元の農産物が販売され食事処も併設されていました。
温州ミカンもスーパーの半値程でしたので、1㎏購入というおまけ付。

中河原にある瑞雲寺
曽我兄弟が願文を納めたとか。

本堂 昭和二年の再建。

本堂の扁額

本堂内にある曽我兄弟仇討の浮世絵

瑞雲寺のしおり

瑞雲寺御朱印 墨書でなく印字なので少し滲みが。

梅林と富士山 ポスターの様には上手くいかない。

中河原梅林

別所梅林

藤牡丹という品種

枝垂梅(紅梅)
ここの地名は曽我ですが、日本三大仇討で有名な曽我兄弟が育ったところとか。
曽我十郎祐成と五郎時致の幼い兄弟が工藤祐経を富士の裾野の巻狩りで討ち父親の無念を晴らすわけですが、
背景には領地や政治的なものがあったらしく、政治の道具に利用されたとも言えます。
工藤祐経が一方的に悪者だった訳ではなく、彼の子孫は伊東氏を名乗り後世に日向の戦国大名・飫肥藩主となりました。
因みに日本三大仇討のあと二つは赤穂浪士の討ち入りと伊賀越え鍵屋の辻の仇討だそうです。

曽我氏の邸跡はいまは畑の中

曽我兄弟旧跡

発願の地に建つ兄弟像

本日の昼食は「梅の香うどん」¥500

下曽我郵便局 ; 梅の外枠に市花・梅、傘焼き祭、富士山
[参考書]
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<コース>
阪急梅田(7:37) → 阪急茨木(7:55) → 阪急バス忍頂寺線(8:10) → 忍頂寺(9:01) →徒歩5分 → 忍頂寺 → 徒歩45分 → 阪急バス 団地入口(10:48) → JR茨木(11:15)

賀峰山寿命院忍頂寺(高野山真言宗)
大阪府下には面積が広く端の方は山間地という市が幾つかあります。摂津地区では茨木・高槻がそうですが、
その茨木市に忍頂寺(にんちょうじ)というバス停があって調べてみるとその名前の寺もある模様。
一体どのようなお寺なのか気になって訪れることにしました。
阪急茨木駅からのバスは朝という事もあって渋滞もありましたが、市街地を抜けると人家も少なくなり
すれ違いも難しい細い道路を50分、目的地に到着。
賀峰山寿命院忍頂寺(かぶさんじゅみょういんにんちょうじ)は、
竜王山(別名忍頂寺山、標高510m)の麓に位置する高野山真言宗の古刹。寺伝によれば
『聖武天皇の御代に行基が創建した。』
とありますが、百年後の仁寿元年(851年)勝尾寺三世の証道上人の弟子三澄が開基したと言うのが実際の所のようです。
当初は神岑山寺(かぶさんじ)と言っていましたが、貞観二年(860年)に清和天皇より忍頂寺の名を贈られ勅願となりました。
いまでも山号は賀峰山(かぶさん)ですし、高槻市郊外には神峰山寺がありますから名前が【かぶさん】ように変えたのでしょうか?

山門への階段 途中に栗が落ちていた。

山門 忍頂寺の山額が架かる

境内から見た山門
全盛期には23もの寺坊を有する山岳修行の聖地で、付近の地名や山の名前にも残る位でしたが、
今は支院の一つであった寿命院が忍頂寺として残っているだけでした。
栗は落ちていましたが庫裡はなく寺務所も見当たらないので本堂脇にある御自宅と思しき場所を訪問。
住職夫人と思われる年配の女性が対応して下さいました。
夫人「よくこんな所まで見えられましたね。」
和辻「かつては大きな寺院だったと聞いたもので。檀家は居られるのでしょ。」
夫人「いいえ、この寺は檀家はなしです。」
和辻「境内にお墓がありますが…。」
夫人「あれはこの辺り一帯に散らばっていたものをここに集めただけですから」
和辻「お寺も大変ですね。」
夫人「この辺りは皆大変です。幼稚園と中学も無くなって1時間に1本のバスで市街地に出ています。
小学校も全校27人ですから、どこまで続くか…。」
御朱印を拝受して御礼を述べて失礼しましたが、このような場所まで限界集落になってしまうのかと唖然とした気持ちでした。
路線バスが1時間来ないので道路を市街地に向けて下る事40分、目の前に住宅地が出現。
一戸建てでしたが丘を切り開いて大規模に造営した様子。
バス停に行くと駅へ向かうバスは20分毎で乗客も多く主要な路線と思われます。
徒歩で40分なので大した距離ではないのでもう少しバスを延長するとか方法はないものでしょうか?

本堂 薬師如来を本尊として祀る。

観音堂 聖観音が本尊。

説明板

鐘楼 梵鐘には「寛文四年三月三日鋳鐘」の銘が。右脇は小織姫明神の碑が。

本堂裏手にある五輪塔 花崗岩製2.3mで元亨元年(1321年)の建立。

五輪塔の説明

五輪塔から境内を望む

本堂東にある鎮守社の八所神社 勿論、無住である。

階段を上った所にある八所神社本殿

忍頂寺と竜王山はみどりの百選に選ばれている
忍頂寺も寺院の例に漏れず時代の動乱を受け焼失を繰り返しますが、キリスト教の影響で寺院を焼かれ、キリシタン大名の高槻城主高山右近に寺領を没収されたのが痛手だった気がします。
江戸の寛永年間には石橋院栄尊が復興を図り、領主も支援したようですが再び衰退。江戸時代には禁制の切支丹でしたが周辺の千提寺・下音羽地区は隠れ切支丹の里と呼ばれた場所、住民が仏教に冷淡であったのが影響したのだと思います。
文化的遺物が破壊されるのは戦争よりもそこで生活する人間に拠る方が多いとは洋の東西を問わず言われる事です。尚、教科書にも載っている有名な「聖フランシスコ・ザビエル肖像画」はここ千提寺の旧家から大正時代に発見されたものである事も付け加えておきます。

忍頂寺御朱印

見山郵便局 ; 竜王山、龍仙の滝、忍頂寺スポーツ公園のテニス
大岩郵便局 ; 伝統芸能・大岩太鼓、竜王山
[参考書]
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JR加茂(13:45) → JR奈良(14:00) → 徒歩15分 → 近鉄奈良(14:23) → 大和西大寺(14:29→14:35) → 近鉄橿原神宮前駅(15:13) → 徒歩5分 → 橿原神宮

橿原神宮(旧官幣大社)
山城巡礼を昼過ぎに終えて奈良方面へ。
折角の建国記念日なので関西在住ながら今まで未訪だった橿原神宮へお参り。
橿原神宮は皇室初代の神武天皇と皇后が祭神。皇室所縁の神社で格式も高い訳ですが創建は新しく明治二十三年(1890年)。
記紀に記載の神武天皇の宮があった畝傍橿原の地に陵墓を指定し、ここに神社を営んだとの事。
紀元二千六百年もこの地で盛大に執り行われました。唯、考古学的には神武天皇陵とされる墳墓は時代が新しいとされており、
また神武天皇の実在についても疑問視する向きも多くあります。
概して、戦前は皇国史観で記紀の記録は真実、戦後は唯物史観のため神話時代は全て虚構、これも時代の【畝傍】のようです。
確かに在位76年、崩御127歳と言うのは生物学的に見ても疑問ですが、全く何の関係もない人名や数字を記載したとも
思えません。
古代中国王朝の殷・周でも史記に記載された系譜は疑問視されていましたが、
甲骨文字の出現で実在が確認された人物もいます。文献学的には既に限界ですが、
考古学的には今後資料が出現する可能性もありそうです。
尚、建国記念日を二月十一日とする理由ですが、記紀にある辛酉一月一日を現在の暦に換算した日。
かつては紀元節(きげんせつ)と呼ばれていましたが、こちらの方が意味が分かり易いと思います。
記紀の記載を信じる、建国記念を祝う、は個人の自由ではありましょうが、
少なくとも建国記念日の【磐余】くらいは知らないといけないと思った次第です。

大和棟の建物を模した近鉄橿原神宮前駅

参道の最初の鳥居

参道から本殿へ向かう

橿原神宮本殿
祭神は神武天皇と皇后で明治期に創建。境内15万坪。

廻廊の灯 ¥100万円の寄進で1個。

境内にある「さざれ石」
建国記念日ということで境内では記念揮毫が行われており、力強い筆遣いを間近で見て感激。
御朱印の墨書もこうあって欲しいと思いましたが、神社なので押印と日付のみ。
しかし禊をすませた気分になって夕方の会合に向かう事ができました。

境内での記念揮毫が開催
これは「以和為貴」で欧陽絢の書体

揮毫が終わり最後の仕上げ

終了の法螺貝の合図

完成図
「以和為貴」;欧陽絢書体
「掩八紘而為宇」;王義之行書体
「世界平和」;北魏の書体

橿原神宮御朱印 紀元が燦然と輝く。

隣の近鉄畝傍御陵前駅
こちらも大和棟の造り。畝傍御陵が神武天皇陵に当たる。

今井郵便局 ; 今西家、駒繋
畝傍郵便局 ; 橿原神宮、埴輪、畝傍山
[参考書]
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【往路】大和路快速加茂行は日中30分間隔で運転
JR大阪(8:12) → (大和路快速) → JR加茂(9:31)
JR加茂 → 徒歩45分 → 海住山寺 → 徒歩25分 → 恭仁京跡 → 徒歩25分 → JR加茂

恭仁京
・みかの原 わきて流るる いづみ川 いつ見来とてか 恋しかるらむ
[中納言兼輔 新古今集]
(訳) みかの原から湧き出て二つに分れて流れるいづみ川。いったい私は貴女をいつ見たというのだろう。
いや未だ逢ってもいない。それなのに何故それほど貴女の事を恋しく思ってしまうのだろう。是非とも逢いたい、貴女に。
海住山寺巡礼の後は、駅方面に戻る途中の恭仁京跡へ。
この地域の旧名は藤原兼輔(紫式部の曽祖父)が歌に詠んだ瓶原(甕原;みかのはら)、
そこに埋めた甕(みか)から水が湧き出て泉川(木津川の古名)になったと言われますが、
扇状地地形が瓦に似た事が由来というのが本当の様です。
古代の都は自然災害の少ない場所が第一条件で、木津川の水運という利点も重なったのでしょう。
天平十二年(740年)9月、大宰府で藤原広嗣の乱が勃発すると聖武天皇は東国行幸に出て12月には遷都を決定。
橘諸兄を恭仁京へ派遣しました。翌年741年2月にはここから国分寺造営の詔を出し、平城京の人や建造物も移動させます。
しかし745年には近江紫香楽に宮殿の造営を開始したので恭仁京は放棄、その後、
紫香楽宮→難波→平城京
と遷都し元の状態へ戻りました。
広嗣の乱は11月に終っていたので、遷都の理由については色々と憶測されています。
藤原四兄弟と藤原氏出身の光明皇后の影響から逃避したかった、身内の不幸のため精神的に不安定な状態であった
などと取り沙汰されていますが、天皇が孤独であったのは間違いないでしょう。
今に残る天皇の真蹟を見るとふとそんな感じがします。
しかし水運の利点もありますから、そうなると天皇は交通の便も考える程、経済効果を狙っていたのでしょうか?歴史の謎です。
その後、恭仁京には山城国分寺が建立されますが882年に焼失、再建されたものの衰微し、
今では後だけが空しく残っています。都の近くにありながら国分寺が今はないというのも歴史の酷薄さを感じます。

恭仁京跡の碑

山城国分寺跡 昔は山背と記載。

説明版

恭仁京大極殿跡 春は桜の名所。

説明板 この状態を見れば訪れる人が少ないのが分かる。

大極殿跡に建つ恭仁小学校
文化財保護法以前の創設なので、この場所に堂々とある。
以後、恭仁京は歴史の舞台には登場しませんが、昭和初期になってここに一人の学者が隠棲します。
京都帝国大学名誉教授の内藤湖南。我が国東洋史学の創設者というより、もっと幅広い支那学を確立した人と言うべきでしょう。
秋田師範学校卒業後はジャーナリストとして大阪朝日新聞・万朝報で文筆を振るいましたが、
明治42年に新たに創設された京都帝国大学に狩野亨吉総長の招きで着任。
教授として教壇に立つ筈でしたが、当時の文部省が難色を示したため講師を2年務めての後の就任でした。
文部省の役人は
『たとえお釈迦さまや孔子さまでも帝大卒でない人間は帝大教授には認めぬ!』
と宣ったと伝えていますが、逆に湖南の実力を示す言葉の気がします。
東京帝国大学の白鳥庫吉と共に東洋史学の双璧と呼ばれますが、一校・帝国大学卒の白鳥とはなにかにつけて対照的。
邪馬台国でも畿内説、中国の時代区分でも古代を後漢で区切るなど、学説でも学会を二分する事が多々ありました。
これは単に対抗意識だったのではなく実証学と文献学という立場の違いでもあったのでしょう。
それには本人の意識しない所で住む場所が影響を与えた気もしますが…。
隠棲後は読書と著述に浸り、後になって講義ノートを元に個人全集が編纂され筑摩書房から出版。
白鳥庫吉全集が岩波書店というのも対照的です。余談ですが、古書での価格は湖南全集の方が高額となっているそうです。

内藤湖南旧宅
京大東洋史創設者の湖南は定年後、瓶原に居を構えた。現在は関西大学恭仁山荘として管理。

恭仁京口畑にある内藤湖南旧宅碑

塀越しに撮影した恭仁山荘
[参考書]
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国分寺跡を巡る ~色なき風に誘われて 僧寺・尼寺全国一三七ヶ所の記憶~ 新品価格 | ![]() |

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『日本の歴史を知るには応仁の乱後を学べば良い。それ以前は異国の歴史である。』との名言を残した湖南の日本史研究の総括。
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厖大なボリュームだが内藤湖南の全業績を知るには不可欠の書。明治期の日本語は難解であるが口述した記録をまとめたものもあるので比較的読み易い。
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【往路】大和路快速加茂行は日中30分間隔で運転
JR大阪(8:12) → (大和路快速) → JR加茂(9:31)
JR加茂 → 徒歩45分 → 海住山寺 → 徒歩25分 → 恭仁京跡 → 徒歩25分 → JR加茂

補陀落山海住山寺(真言宗智山派)
この日は夕方から奈良市内で会合があったのを幸いに、早めに家を出発。
関西本線加茂駅は大和路快速の終点でここから上り方面は非電化。行政区では奈良県ではなく京都府になります。
加茂駅から行く寺院といえば南にある浄瑠璃寺と岩船寺。
国宝九品仏・吉祥天や花の寺で観光客が多い場所ですが、今回は駅の北側。
加茂は1300年前聖武天皇が恭仁京を置いた処。今でこそ山城国の中心は京都市ですが、当時はここが中心で国分寺もここ。
国分寺は無くなりましたが、南側の住宅地と違って家が点在する道をひたすら山に向かって3㎞登る事45分
の場所にその寺はありました。

JRから海住山寺への道 中央に見える木々が国分寺跡

海住山寺への道は急な坂道が約1㎞

看板を過ぎた巡礼道から見た加茂方面 右は茶畑。

漸く境内に到着
補陀落山海住山寺(ふだらくさんかいじゅううせんじ)は、
天平七年(735年)、聖武天皇の勅願により東大寺の初代別当良弁が十一面観音を祀った藤尾山観音寺が始まりとされます。
平城京の鬼門に当たるこの地に寺を建てれば大廬舎那仏造営が成就すると聖武天皇に夢のお告げがあったとか。
恭仁京造営に先立つ6年前、大仏造営の10年前ですが、何分夢の様な話。
寺は保延三年(1137年)に灰燼に帰し、七十余年後の承元二年(1208年)に笠置寺の解脱上人貞慶によって再興。
記録が残るのはこれ以降というのが実際の所の様です。
貞慶はまた寺を補陀落山海住山寺と改名。
補陀落山は観音様の住むとされる南海上の浄土、海住山はその意味からの命名でしょう。
このような内陸で海というのも変ですが、本尊が十一面観音であること、
当時盛んになってきた観音信仰の影響があったと思われます。
尚、補陀落は梵語のポタラカで拉薩(ラサ)のポタラ宮の名前にもなっています。【チベット】関係があるのですね。

海住山寺の本堂(右)と五重塔(左) 境内¥100、本堂拝観¥400
観音浄土の補陀落を山号としたので、海に縁の海住山寺となった。

本堂
御本尊の十一面観音像は湖北で見た観音様に似た雰囲気。

本堂の扁額 御朱印は本堂で拝受。

本堂前から五重塔を見る
その後、貞慶の弟子の覚心(俗名藤原長房、後鳥羽上皇側近)により発展。
最盛期には塔頭58を数えましたが、太閤検地により寺領が削られ衰微。
いまでも栄えているとは言い辛い状況ですが、1万坪の敷地を持ち多くの文化財があります。
特に国宝・五重塔は建保二年(1214年)に覚心が貞慶の一周忌法要に建立したもので、
後鳥羽上皇から下賜された仏舎利を納めているとか。
高さ17.7mと小振りで室生寺に次ぐ日本で二番目に小さい五重塔。
似た雰囲気がするのは大きさからくるものもあるのでしょうか?
山道と霙が降ると言う天候でしたが、朝に出たおかげで昼前には巡礼終了。まさに【健脚記念日】でした。

五重塔は鎌倉期の創建で国宝

五重塔と良弁杉

重文・文殊堂

本堂横から遙拝所へ向かう

寺の遥拝所から見た市街地
右端に見えるのが木津川 で霙交じりの雨が降っていた。

本坊
ここの庭園は見応えがあるが、通常非公開。

本坊前の山茶花

補陀落山 海住山寺説明書

海住山寺御朱印
[参考書]
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鎌倉宮(旧官幣中社)
荏柄天神に続き鎌倉宮を参拝。御祭神は大塔宮(おおとうのみや)護良(もりよし)親王。
護良親王は御醍醐帝第一皇子、僧となり門室を大塔(おおとう)と言ったので大塔宮と呼ばれます。
天台座主にもなりますが、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐を計画すると還俗して護良と名乗り、楠木正成らと呼応して幕府を翻弄。
その後、足利や新田により幕府は滅亡します。
親王は当初から討幕に加わった功労者で建武の新政では征夷大将軍・兵部卿になりますが、父帝にあまり愛されず、
足利尊氏・直義との政争に敗れて鎌倉配流となり東光寺に幽閉。
その後、建武二年(1335年)北条時行が鎌倉に乱入した中先代の乱の際に、足利直義の命で淵辺義博により殺害されました。
唯、剛毅な親王も容易くは討たれず相手の太刀を咥えて折ったなどと言う伝説も残しています。
尤も太平記は中国の古典からの引用がやたら多く、これも干将莫邪(かんしょうばくや)の剣の故事を踏まえたものと思えます。
武士に生まれていればまた違った道も開けたでしょうに、皇族という身分が足枷になるとは。
その悲劇的生涯は親王の思慮不足とも言えますが、功績があった実子を見捨てるようでは
建武の新政が数年で破綻するのも当然な気がします。
鎌倉宮は明治二年(1869年)に明治天皇によって創建された新しい神社。明治天皇の御代に唯一創建されたお社だそうです。
北朝の系譜を引く天皇が南朝方の護良親王を祀るのも奇妙ですが、後の南北朝正閏論でも南朝を正統とした天皇の事、
自身の系譜ではなく己の意志で時代を切り開こうとした人間に共感したのかもしれません。
或は薩長による明治維新が始まったばかりで自分の政治位置を歯痒く思われたのでしょうか。

鳥居前の桜

鎌倉宮本殿
護良親王に因み獅子頭が飾ってある。丁度、雪が降って来たところ。

鎌倉宮御守り獅子頭 これは中型¥1200。
護良親王が戦に際し、これに似たものを兜に付けたことに由来するとか。類似のものが鶴岡市にあるので、そちらが由来という説も。災いの方角に口を向けて災難を食べる。

鎌倉宮説明書

鎌倉宮御朱印 20代の神職の書。

御成町にある甘味処「雲母(きらら)」の庭
住宅街にあり、普通の住宅を店にしている雰囲気。

抹茶白玉クリーム餡蜜¥850
普段食べている白玉とは食感が全く違い、コシはあるが柔らかい感じ。また冷たくなく温かいこと、漬物と昆布茶があるのもGood。
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大塔宮の記述があるのは全六冊の内、一、二分冊まで。
幕府を相手に戦った記述は、第五巻(第一分冊)
・大塔宮大般若の櫃に入り替はる事
・大塔宮十津川御入りの事
最期の様子は、第十三巻(第二分冊)
・兵部卿親王を害し奉る事
・干将莫邪の事
に詳しい。
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荏柄天神拝殿横にて
平成29年は祝日のうち4日が土曜日。その第一弾が建国記念日。
一日損した気分で梅も雛祭りも未だ早いですが、晴天なので昼食後散歩を兼ねて早梅の咲く鎌倉の二階堂へ。
荏柄(えがら)天神社は社伝に拠ると、
長治元年(1104年)、雷雨と共に黒い束帯姿の天神画像が下り、里人が社殿を建てて画像を納め、
銀杏を植えて神木としたのが始まりとか。画像が下ったから【絵柄】天神となった訳ではないでしょうが…。
治承四年(1180年)源頼朝はここを幕府の鬼門として社殿を造営、以後鎌倉幕府の尊社として崇拝されます。
太宰府天満宮、北野天満宮とともに三天神社とされるとありますが、前二社と違って道真は鎌倉に無縁。
やや贔屓の引き倒しの感がします。
しかし創建当初からの銀杏は鶴岡八幡宮の大銀杏(公暁の隠れ銀杏)に次ぐ大木、
鶴岡八幡宮の銀杏が台風で倒壊した今となっては鎌倉随一なのは間違いありません。
本殿は元和八年1622年に八幡宮の若宮社本殿を移築した最古の木造建築、14世紀の様式を残しています。

荏柄天神拝殿
左右の梅は鎌倉で一番の早咲梅(紅白)とか

荏柄天神社大銀杏
樹齢900年。鶴岡八幡宮の公暁の大銀杏が倒壊した現在では鎌倉で最大では?
境内には天神社らしく梅が多数ありますが、ここの梅が鎌倉で最初に咲くとされています。
又かっぱ筆塚や絵筆塚も境内に建立。これは清水崑・横山隆一氏の発案よるとか。
清水崑氏は「かっぱ天国」「かっぱえびせん」の漫画で有名。横山隆一氏は私が幼い頃「フクちゃん」を新聞連載されていました。
連載終了に当たり各界の著名人の方が文章を寄せて居られましたが、
最終回には川端康成氏が
『鎌倉の若葉の色も濃く成りてフクちゃんの名残匂いつつ』
と書いて居られたのを読んで子供心に凄いと感じた記憶があります。
漫画家というよりも鎌倉文士と言った方がよいでしょう。学問の神様道真公の影響が現代まで続いている気がします。
余談ですが、毎年年末になると横山隆一氏デザインの干支のスタンプが鎌倉郵便局に設置。
何回か押させて頂いた事も懐かしい思い出です。

境内にある筆塚
漫画家の清水崑・横山隆一氏が崇拝されたので筆塚を建立。清水崑氏の作品に因み「かっぱ筆塚」と言う。清水崑は朝日の漫画批評(1コマ漫画)が有名だが、「かっぱ天国」やカルビーかっぱえびせんの絵も手掛けた。

筆塚側面
これは大御所の作品。左から加藤芳郎(まっぴら君)、横山隆一(フクちゃん)、田川水泡(のらくろ)

大御所の次世代
岡部冬彦(ベビーギャング)、サトウサンペイ(フジ三太郎)、やなせたかし、藤子不二雄の諸氏

次世代(続き)

荏柄天神社説明書

荏柄天神社御朱印 20代の巫女さんの書。
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JR横浜(5:48) → JR小田原(6:42→7:04) → ひかり501号 → JR豊橋(7:59→8:06) → こだま697号 → JR三河安城(8:19→8:25) → JR大府(8:46→8:50) → JR武豊(9:28) → 徒歩10分 → 名鉄武豊(9:47) → 名鉄野間(10:03) → 徒歩10分 → 野間大坊

鶴林山無量寿院大御堂寺(真言宗豊山派)
週末の帰阪に一日休暇を取って、途中下車で知多半島へ。
野間にある野間大坊、鶴林山無量寿院大御堂寺(かくりんざんむりょうじゅいんおおみどうじ)は、
『天武天皇の時代に役行者が開いたと言伝えのある古刹。
承暦年間(1077~1081年)には白河上皇の勅願で「大御堂寺」の名を賜った。』
と言われています。
但し正確な記録はなく、多分に伝説的な面が濃厚。
昔から港で栄えた地にあった寺院に後世箔を付けたというのが実際の所でしょうか?

大御堂寺大門
源頼朝により建久元年(1190年)に創建。父義朝の法要に伴い境内に伽藍が建立されたのに伴う。

大御堂寺本堂
大御堂寺一山の根本堂で宝暦四年(1754年)に鎌倉様式に則り再建。本尊は阿弥陀三尊像。

鐘楼堂
鎌倉幕府五代将軍源頼嗣寄進の梵鐘で、建長二年の銘がある。

客殿へと続く道にあるお砂踏み

客殿とお砂踏み
伏見桃山城の一部を寛永年間に移築したもの。御朱印と「源義朝公最期の絵解」はここで。

客殿前の庭園
野間は源頼朝の父、義朝の最期の地で境内には彼の墓が残っています。
平治の乱に敗れた義朝は随行した家臣鎌田政清の舅である野間の長田忠致・景致を頼りますが、
平家の恩賞に目が眩んだ長田忠致は助けると見せかけて入浴中の義朝を謀殺しました。
『我に木太刀の一本なりともあらばむざむざ討たれはせむものを』
が最期の言葉と伝わっています。
長田忠致は恩賞に与りましたが、義朝の墓は荒れ放題の状態だったとか。
丁度、尾張国に赴任していた平康頼は余りのひどさに見かねて、堂を建て土地を寄進し、僧侶に供養させたと言います。
平家の世にあって義朝は謀反人ですが、この行為には清盛初め平家一門も『武士の鑑である』と褒め称え、
後白河上皇もこれを良しとして康頼を近重に取り立てました。
後に康頼は平家に対する陰謀「鹿ケ谷の変」に関わったとされ鬼界ヶ島に流されますが、後に許され帰京。
理由は様々に言われますが、義朝の墓を弔った行為があった事は否めません。
その後、鎌倉幕府を開いた頼朝は康頼を阿波国の在庁官人に任命し、その恩に報いています。
一方、恩賞の為に主君を売った長田忠致・景致は後に頼朝によって野間の地で磔にされました。
古今東西、主君を裏切った輩に碌な末路はありません。
こうして戦乱の世に生きた康頼は承久二年(1220年)に74歳で大往生しました。
戦乱の世にあっても己の信ずる所に従った生き方をした康頼が頼朝、清盛よりも長生したのも運命だったのでしょうか?

本堂横にある義朝公墓所

説明板

墓所には木太刀を供える習わし
といっても木太刀など簡単には手に入らないのでちゃんと売っている。

木太刀が供えられた墓所
木太刀は時期が来ると焼却して供養すると思うが、表面を少し削ると再利用できそう。

大門横にある血の池
主君を討った長田忠致は義朝の首をこの池で洗ったと伝える。又、国家に一大事があると池の水が赤くなると言い伝えられている。

義朝の墓所を供養した平康頼の供養塔
平家物語の『鹿ケ谷の変』の平判官康頼である。

大御堂寺 野間大坊 説明書

野間大坊と大御堂寺御朱印

野間大坊から野間駅に行く途中にある「長田父子磔の松」

松の説明

野間郵便局旧庁舎
洋風と和風建築を組み合わせた様式で昭和六年の築。

野間郵便局 ; 野間海岸、史跡・源義朝墓
美浜郵便局 ; 野間崎灯台、重文・大御堂寺梵鐘、カワウ
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現在、東京国立博物館で顔真卿の特別展が開かれています(2019.1.16~2019.2.24)。国宝級の真筆も展示されており、日本だけでなく台湾・中国からも多くの人が来ているとか。

副題「王羲之を超えた名筆」でも分かるように顔真卿と言えば我が国では書道家として知られており、空海を筆頭に大きな影響を及ぼしています。今回、博物館での展示と時を同じくして顔真卿の伝記が出版されたのは偶然ではない気がします。御朱印を拝受している身としては彼の生涯に触れることも意味のある事ではないでしょうか。

旧中国では詩人・画家・書家というのはそれで食べるプロではなく、士大夫と呼ばれる高級官僚が己を高めるために或は余技として行ったもの。因みに王羲之も東晋では大臣まで登った人でした。
顔真卿は唐の玄宗皇帝の時代に科挙に合格し官僚としての道を歩んだ人。それだけでもエリートですが、加えて彼の一族が尋常ではありませんでした。遠祖が孔子の最も有能な弟子だった顔回というのはあてになりませんが、五代前の先祖が顔之推。彼は南北に分裂していた中国の梁に生まれましたが戦乱の為、北に逃れ北斉・北周・隋に仕えました。戦乱の世の苦渋を嘗めた訳ですが、その体験を『顔氏家訓』という書に纏め子孫の為の戒めとします。
『私は少しではあるが学問をしたおかげでどうにか職にありつけることができた。乱世にあっては財産があってもそれが亡くなれば何も役には立たず奴隷のように人に使役されて終わるものだ。だからくれぐれも学問を疎かにしてはならぬ』
と言うのがその書の骨子だったかと記憶しています。この書は後世まで伝わり重んじられ中国で家訓と言えばこれを指すようになりました。実際、顔之推の子孫からは漢書の注釈を行った顔師古初め学問に優れた人物が輩出。中国の家族主義はよく言われる所ですが、顔之推はそれを実践したと言えましょう。
顔真卿もその例に漏れず、書家としては王羲之以来の流麗な書法と異なる楷書体を確立。また剛直な性格でもあり高級官僚でありながら度々上司と衝突、左遷・降格の目に遭います。家訓の著者の末裔と言う意識があったのは事実でしょうが、性格でも楷書そのものと言えましょうか。
このままで行けばそれなりの役人人生を全うできたでしょうが、755年に安史の乱が勃発。玄宗皇帝と楊貴妃の泰平の夢は破れて唐王朝は坂道を下り始めます。各地で反乱軍が猛威を振るう中、顔真卿は従兄弟の顔杲卿と共に反乱軍に立ち向かいます。顔杲卿は反乱軍によって悲劇的な死を遂げますが、顔真卿は生き残り皇帝粛宗に見える事となります。
乱後は官僚として復帰しますが、その性格は変わらず上司に睨まれ地方勤務が続きます。その間、腐ることなく書に打ち込んだのは流石と言えましょう。後に都に戻りますが、またしても上役に睨まれたため、当時反乱軍の長であった李希烈を説得するために遣わされ、そこで反乱軍の手で処刑されると言う悲劇的な最期でした。
まさに剛直な忠臣を絵に描いたような生き様で後世には崇拝を受けるようになります。唯、残念なのは彼も家訓を書いた顔之推の末裔、生き残る術は学んでいた筈。己が大志を成就させるためには小事に拘る必要はないと言う考えにどうして至らなかったのか。妥協を許せない性格が災いしたと悔やまれます。
中国には彼の様に科挙に合格して官僚になったものの、政争に明け暮れて目的を果たせず、その鬱憤を晴らすために打ち込んだ文学などで後世名を挙げた人が多くいます。本人はそれで本望でしょうが、本来の目的が達成できなかった事は否めません。余りにも過酷な受験を経た事で自分の能力を過信したか、柔軟な考えが出来なくなったのでしょうか。日本は中国から様々な物を取り入れましたが、科挙と宦官だけは入れませんでした。日本の文人からは絶賛されることが多い科挙ですが、功罪は相半ばするもの。それがなかったが故に国内を二分するような政争がなかったとも言えましょうか。
著者は中国史家で京大名誉教授、新唐詩選で有名な吉川幸次郎氏は父君になります。後漢書の訳で知られますが、私が初めて著作に接したのは四半世紀前の「劉裕」の伝記。以後、「侯景の乱始末記」「王羲之◎六朝貴族の世界」と中世中国の人々の伝記に接してきました。その卓越した人物描写は「劉裕」以来変わりません。顔真卿の書の奥深さを知るためにも一読を勧めたい著作です。
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