<コース> 春の青春18きっぷ
JR水戸 → JR石岡 → 徒歩10分 → 常陸国分寺

浄瑠璃山東方院国分寺(真言宗智山派)
春の18きっぷ最初は茨城県へ。
早朝に出発したものの、強風で架線にビニールが巻き付いたため、70分足止めと出鼻を挫かれた感じです。
取り敢えず水戸で所用を済ましてから巡礼のため石岡下車。
常陸国分寺は聖武天皇の詔勅で建立された常陸國国分寺の後継寺院に当たります。
かつての国分寺は現在の場所、国分尼寺はその西北600mの場所にありましたが、
いずれも天正年間の佐竹・大掾の兵乱により焼失。
国分寺は慶長年間に近くの千手院の末寺となり再興を果たしますが、国分尼寺は廃寺となってしまいました。
大正年間には千手院と国分寺が合併し千手院は廃寺となり現在の姿になりました。
僧寺・尼寺の両遺構が残っているのは全国でも珍しいそうですが、
これも常陸國が上国として重要視されたからではないでしょうか?
尚、常陸國は親王任国ですので、武家で常陸守を名乗ることはなく、全て常陸介となります。

境内にある常陸国分寺址碑

山門 旧千手院山門を移築

本堂
旧本堂の焼失御、明治43年に筑波四面薬師の一つを移築。

国分寺跡の金堂の場所に建てられた薬師堂
境内には遺跡に加え、都々逸の祖である都々一坊扇歌の堂があります。
その風刺の強い作風から江戸を追放され、姉の嫁ぎ先であるこの地で嘉永五年(1852年)四十八歳で亡くなります。
奇しくも黒船来航の前年で、もし彼が生きていたら秀逸な都々逸を作ったかと思うと残念でなりません。
堂は昭和八年に地元の有志の手で建立されましたが、追放された人の堂を作るなど、その反骨精神も中々【堂に入った】もの。
泉下の扇歌もさぞ面白がっている事でしょう。

都々一坊扇歌堂
都々逸を確立した扇歌堂は、この地で最期を迎えたとか。

扇歌堂説明板

本日の御朱印 墨書ではなく判で押すタイプ
かつて国府があった場所も町ぐるみで雛祭り。
加えてメイン通りには大正期のレトロな建物が並び、お金を掛けずに観光する事が出来ました。
関東六県の中では唯一首都圏からの私鉄乗入れのない茨城県ですが、
弥生の時期には常陸の各地でこのようなイベントがあるようです。
これも雛祭りで有名な真壁に触発されたためかもしれませんが。

石岡のメイン通り
石岡の名前の様に重厚な造りの店が並ぶ。

メイン通りには蔵造の店も

石岡「まち蔵藍」
かつての染物屋「丁子屋」を改装した

石岡「まち蔵藍」に展示された人形

インスタ映え雛

去年話題の対局雛
藤井6段VSひふみん。判定は羽生名人

石岡市マンホール蓋

石岡市マンホールカード 配布場所は「まち蔵藍」

石岡郵便局 ; 初代都々一坊扇歌堂、史跡・国分寺碑、名産・栗
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島原大門 島原の東口にある
週末の急な関西出張の翌日の25日、京の冬の旅へ。
島原は大阪新町、江戸吉原と並ぶ日本三大遊郭、と思っていましたが、
吉原は遊郭で歓楽街、島原と新町は花街で歌舞を伴う遊宴の場と別の業種。
女性もOKで男の町吉原のような閉鎖的な町ではなく放火や足抜けも殆どなかったそうです。
寛永18年の移転騒動が当時起こった島原の乱に似ていたから島原と呼ばれるようになったとありました。

角屋から大門へ向かう路
銭湯の名も「誠の湯」。ここで一風呂浴びて銭湯態勢に入ったか?

角屋北側の塀
3月14日まで公開中の角屋(すみや)を見学。敷地700坪、建坪500坪の豪邸で唯一残る江戸期の揚屋で文化財。
昭和60年まで現役の料亭でした。今は当主の中川家15代目が理事長を務める財団法人。
祇園に移る計画だったが、土地がなくて断念したとか。
てっきり太夫・花魁・芸妓さんが居る場所と思って来ましたが、ここは揚屋で現在の高級料亭。
芸者さんが居てはるのは置屋と別物でした。いい加減な知識で危うく恥をかく所でした。

角屋表構え

角屋入口

角屋中戸口

玄関より中戸口付近を望む。
赤壁が特徴。
門脇には幕末長州藩士久坂玄瑞が密議に使った跡の碑があり、中戸口には新選組の刀傷もあります。
新選組は壬生寺に駐屯したのでここは至近、よくここで飲み食いしたようです。
京都の男とタイプが違ったので京女にも【新選】に映ったのかと想像します。
政治家の料亭好きは昔も今も変わらないとも言えますが、皆いつ死ぬか分からない状態で居るわけで、
酒を呑む事で不安を紛らわせるしかなかったのは【刃傷】と言うものです。
食事の値段は1両(幕末時は今の¥5万位)を下らなかったとか。
勿論、花魁・芸妓さんが居ての額でしょうが、今でも瓢亭や菊乃井だとそれくらいはするでしょうから、
江戸時代が特別高かった訳ではない様です。

幕末長州藩士が使った跡

中戸口にある新選組の刀傷

台所の竃
台所の天井は蝋燭の煤で真っ黒。

西郷隆盛が使ったという盥。
先の戦(応仁の乱ではなく太平洋戦争)で、軍部が類焼を防ぐため取り壊しに来た時に、これを見せて取り壊しを免れたという。以後、近隣でもこの手を使った。盥回しというのはそこから来たかどうかは定かではないが…。

中庭
左下の石は富士山を模ったとか。

松の間の襖絵

角屋臥隆松の庭(京都市指定名勝)
残念ながら臥龍松は枯れて、写真は新たに植えた松。この背後には山陰線が走る。

臥龍松の根元と茶室
角屋を出てからは少し歩いて輪違屋(わちがいや)へ。
元禄年間創業のこちらが本来の太夫・芸妓さんを派遣するお店、行って見れば人材派遣業の走りです。
今でも島原には大夫が居られるそうで、イベントに出るなど活躍されています。
中を見ようとすると門には観覧謝絶の文字が。下流の【おいらん】には【輪違】の場所ではありました。

輪違屋。元禄年間創業。
最後は、歩いて今の花街祇園へ。賑やかさに加え最近は着物の人が増えており、なかには外国語で会話するカップルも。
これもグローバル化なのでしょうか?
「祇園は恋ひし」 と詠んだのは吉井勇ですが、私は 「祇園で珈琲し」 てから 「お京阪」 で帰宅と相成りました。

現在の花街祇園白川沿い

・かにかくに 祇園は恋ひし 寝る時も 枕の下を 水の流るる
吉井勇の歌碑。祖父は薩摩藩士で明治の元勲伯爵吉井友実。

お持ち帰りのコーヒーショップにて一服

京都島原郵便局 ; 島原大門、大夫
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<コース> 日中は10分間隔で運転
京阪電鉄淀屋橋(9:40) → 枚方市(10:01 → 交野線10:05) → 宮之阪(10:07) →徒歩5分 → 百濟王神社 → 徒歩20分 → 意賀美神社 → 枚方市(12:02) → 淀屋橋(12:23)

意賀美神社(式内社)
百濟王神社の後は、線路伝いに意賀美神社へ。線路横にある万年寺山への坂を上ります。
元来、ここには長松山万年寺があり、開祖の聖宝上人が貞観十四年(872年)に須賀神社を勧進。
意賀美神社はここより南の伊香色男・色女の邸内にあったと伝えられます。
字面を見ると凄い名前ですが、どんな夫婦だったのでしょうか興味が湧きます。
万年寺は明治三年に廃寺、その後明治四十二年に意賀美神社は手狭になったので須賀神社及び近隣の日吉神社を合併。
須賀神社のあったこの地に遷座しました。神社にもM&Aがある訳ですが、なぜ意賀美神社の名を採用したのかの謎は残ります。
拝殿に行きましたが境内は狭く山の上に乗っている感じ。
どうせならもう少し広い所を選んだ方が良かったのではと思いましたが、山上という立地が好ましかったのでしょうか?
意外と人が多いと思ったら 「食と暮らしのフェスティバル」 で出店が多く出ている模様。
自家製のパンやら小物やらで観梅よりも観買の方が多かったかもしれません。
お腹が空いたので何か買おうと思いましたが【完売】でした。
枚方市は五六市など集客できるイベントを率先して行っているようで、東海道五十七次の宿場で人気No.2になっただけの
ことはあります。
梅林を通り抜けて神社に参りましたが、専ら家族連れで【梅林ギャル】は居らず。
名前が 「若意賀美神社」 なら今度の 「おけいはん」 の様な女性が来るのでは?
などと【百濟】ない事を考えながらの巡礼とはなりました。

京阪本線横にある万年寺山参道

神社手前にある梅林 入園無料。




二の鳥居

長松山萬年寺石標と十三重石塔
この付近は『万年寺山の緑陰』として枚方八景になっている。

社殿
第一室戸台風で大破した旧殿に代わり昭和10年に建造された。

社殿奥の本殿

旧社殿
第一室戸台風で倒壊したものを立て直し神楽殿として使用したが、いまは旧社殿としてのみ残る。前は、衣類の販売。

旧社殿の彫刻
これだけでも残す価値はあった。

竜虎の彫刻

式内 意賀美神社略史

意賀美神社御朱印

梅林横にある秀吉築の御茶屋御殿跡から淀川を望む

枚方宿の面影を伝える「鍵屋資料館」

枚方公園駅前郵便局 ; 意賀美神社の梅、十三重石塔
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<コース> 日中は10分間隔で運転
京阪電鉄淀屋橋(9:40) → 枚方市(10:01 → 交野線10:05) → 宮之阪(10:07) →徒歩5分 → 百濟王神社

百濟王神社
「京阪沿線 梅の名所」というパンフが駅にあり貰って眺めると、枚方市駅の傍に梅園がある模様。
気候も良いので観梅がてらに出掛けました。
天野川近くに来ると百濟寺跡があったと思い出し、礎石でも見ようと言ったところ、そこは百濟王(くだらおう)神社がありました。
地元にいて全く知らずにいたのも情けない話ですが、早速御参り。

百濟王神社への階段 中宮交差点から直ぐの道路沿い。

階段を上った所に立つ鳥居
この神社の由緒を貰ったパンフで見ると、
『天智天皇二年(663年)白村江の戦いで日本・百濟の連合軍は唐・新羅に敗れて百濟は滅亡。多くの百濟人が日本に移住。
持統天皇七年(693年)に百濟第三十代義慈王の子・善光(禅広)は「百濟王(くだらのこにきし)」という氏族名を賜り、
百濟の亡命貴族等を率いて朝廷に仕えた。
聖武天皇の御代に陸奥守であった百濟王敬福(善光の曽孫)が東北で見つけた黄金を大仏塗金の為、900両献上。
その功績に拠り敬福は従三位・河内守に任ぜられ、河内國交野郡中宮に領地を貰い移り住み、
その後、百済寺と神社を建立した。』
とあります。恐らく事実を伝えているのでしょう。
平安京遷都の桓武天皇は母高野新笠が百済系で家臣にも百濟王の一族を取り立てており、
坂上田村麻呂も渡来人の系譜に連なります。この地を訪れることも度々で 『百濟王は朕の外戚なり』 との詔勅も発しています。
傍系から天皇の位に就いた事で宮中に気の許せる臣下が少なかったからでしょうか。

神社東側にある百濟寺跡の礎石
ここは西塔で金堂は左手と推定されている。

西塔跡から神社方面を見る
その後、嵯峨・仁明天皇の時代は一族の女性を天皇家に送り込みますが、藤原氏の時代となり百濟王氏も衰え、
平安中期には百濟寺も焼失。いまは神社を残すのみとなっています。
神社の御祭神は百濟王(くだらおう)と進雄命(すさのうのみこと:牛頭天王)。
唯、神社も古代から継続していた訳ではなく、江戸中期の1700年頃にこの辺りを新田開発した人々が土地神である
百濟王神(くだらおうがみ)と進雄命を祀ったと地元では考えられているとか。
百濟王族の誇りと、戦で国を失ったという意識からではないようです。

鳥居正面にある拝殿 平成十四年の建築。

拝殿奥の本殿

神社の説明板

鳥居右手にあるかつての拝殿

旧拝殿内には地元の方々が不要の雛人形を奉納
対応して下さった妙齢の権禰宜の話では、
権禰宜:「神社の記録は氏子の家に保管されていましたが、戦時中の昭和14年3月1日の火薬庫の爆発事故で殆ど焼けてしまいました。」
鉄丈:「お寺を再建する話はあるのですか?」
権禰宜:「再建しようにも記録がないので難しく、また宗派の問題もあって遺跡のままにしています。」
鉄丈:「中宮や宮之阪の地名はこの神社由来でしょうか?」
権禰宜:「よくわからないのですが、桓武天皇はこの辺りの宮で祈祷を行っていたと言う話を聞いた事があります。」
修羅場を潜り抜けて皇位についたものの怨霊に悩まされ続けた帝らしい話です。
鉄丈:「埼玉県日高市に高麗神社というのがありますが。」
権禰宜:「時々、こちらにもお見えになります。それから韓国からの修学旅行生が結構ここを訪問する事が多いです。」
鉄丈:「色々と知って居られますね。」
権禰宜:「仕事ですからね。」
時代は移っても、歴史は【韓流】しているという事でしょう。
枚方・交野周辺には王仁博士の墓など渡来人の旧跡と、星・妙見信仰も見られます。
教団としての道教は日本では発達しませんでしたが、これは道教の影響ではないかと大昔に大学の講義で習った事を
思い出しました。

特別史跡 百濟寺跡 百濟王神社 説明書

百濟王神社御朱印

枚方郵便局 ; わが国初指定史跡公園・百濟寺公園、市花・菊
枚方宮之阪郵便局 ; わが国初指定史跡公園・百濟寺公園、桜
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日本古代史に止まらず広く東アジア全体の視野を持って書かれた碩学の著
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御堂筋線梅田(10:07) → 中百舌鳥(10:40 → 南海電鉄10:45) → 河内長野(11:05) → 南海バス3番乗場(11:15) → 観心寺(11:25) → 観心寺 → 徒歩30分 → 楠妣庵観音寺 → 金剛バス東條線 東甘南備(14:10) → 富田林(14:30) → 近鉄富田林(14:43) → 近鉄阿部野橋(15:17)

峰條山楠妣庵観音寺(臨済宗妙心寺派)
入麺を食べた後は入念に地図を見て、河内長野から山を越えて富田林へ徒歩30分。
峰條山楠妣庵(ほうじょうさんなんぴあん)観音寺の寺伝では、
『楠木正行(小楠公)が1339年に吉野の行宮で崩御した後醍醐天皇のために河内の峰條山の一角、
甘南備に帝の念持仏千手観音を祀ったのが始まり。
その後、四条畷の戦いで正行・正時が戦死した後、母親で正成正室の久子がここに草庵を結び余生を過ごした。』
と言われます。
久子は甘南備の豪族南江氏の出身。二十歳で正成に嫁ぐまで兄から厳格な教育を受けました。
嫁いでからは六子を設け、正成征戦の折は留守を預かり子供を教育してその功を称えられたと言います。
湊川の戦いで敗れた正成の首級が届けられた際には、自害しようとする正行を諭して留めた女性でもありました。
隠棲後は名を敗鏡尼と改め、一族の菩提を弔い在住十六年にして正平十九年(1364年)六十一歳で生涯を終えたと言われます。
現在と単純に比較はできませんが、当時としては長命であり夫に加え我が子も戦で亡くした後の十六年間の余生は
彼女にとって人生の半ばを過ぎるものであったのではと思います。

観心寺から歩くとこちらの裏門入口へ

甘南備バス停にある石標 こちらが正門

山門
山梨県恵林寺塔頭青松軒にあった四脚門を昭和39年の夫人六百年祭に移築。右にあるのは大楠公石像

山門前にある楠母子像
夫人久子が正行を持仏堂で訓戒の像で、大楠公六百年祭り(昭和10年)に竣工。久子の詠は
・世の憂きも 辛きも忍ぶ 思いこそ 心の道の 誠なりけり

境内の遠景

観音寺本堂 大正十一年に完成。
その後、明治六年に廃寺となりますが、大正時代に篤志家加藤鎮之助が購入。
建築家伊東忠太により南北朝様式の観音堂・草庵が再建されました。本堂から階段を上がった墓所の地です。

観音堂への階段

再建に尽力した加藤鎮之助像

階段上から本堂を望む

夫人久子が十六年隠棲した草庵
大正四年に伊東忠太により南北朝時代の様式で再建。大正六年には東宮であった昭和天皇が行啓された。

草庵横の庭

観音堂
草庵同様、伊東忠太により再建。

観音堂横の久子夫人の墓
近くには昭和天皇と秩父宮様が大正時代に植樹された楠がありますが、秩父宮様の楠の方が大きくなっているのが不思議。
天皇家にとって楠木氏は忠臣だからでしょうが、それでは足利氏とは不仲なのかというと、足利家先代当主の
足利惇氏(あつうじ)氏は学習院時代に昭和天皇の御学友だったそうです。
また氏の夫人は足利義教を弑逆した赤松氏の流れを汲む有馬家の姫ですので、高貴な方々の事は庶民には理解し難いです。
カーナビが無いと不便な甘南備にありますが、楠木氏に【観心】のある人にはお勧めの寺院です。

昭和天皇御手植えの楠

秩父宮様御手植えの楠 日当たりが良好か?

左が観音堂への石段

楠妣泉
裏門を出た所にあり、今も清泉が湧き出ているとか。

楠妣庵観音寺説明書 ¥100

観音寺御朱印
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槇尾山観心寺(高野山真言宗 遺跡本山 関西花の寺二十五ヵ寺第二十五番霊場)
二月も半ばを過ぎ世間の関心事は梅の開花。そこで南河内の観心寺へと繰り出しました。
河内長野にある槇尾山観心寺(まきおさんかんしんじ)は大宝元年(701年)役行者が開創した雲心寺が始まり。
その後、空海が大同三年(808年)に北斗七星を勧請し、更に弘仁六年(815年)に自ら彫刻した如意輪観音を安置し
寺号を「観心寺」としたとあります。

観心寺山門

山門脇の梅

山門を通り左にある梅園にて


弘法大師も井戸や温泉を掘るだけではなく彫刻もして大忙しですが、本尊の国宝如意輪観音の製作年代は空海よりも
少し時代が下るので、これは伝説の域。
事実上の開基は天長四年(827年)空海の直弟子の実恵とされます。
但し観心寺には奈良時代の仏像も数体伝来するので、平安以前の開基というのは案外本当かもしれません。
古い由来にも増して、ここが有名なのは中世に政治の舞台に登場するようになった事。
金剛山周辺は楠木氏の勢力範囲で、観心寺は楠木氏の菩提寺でもあります。
境内には楠木正成(大楠公)の学問所跡もありました。
歴史上『悪党』と記録される正成ですが、千早城の興亡も孫子の兵法に通じた面があり学問を修めたひとかどの人物で
あった事が分かります。
正成は後醍醐天皇の命を受け金堂造営に着手、また建武の新政の成功を祈願して三重塔の建立を計画しましたが、
湊川の戦で討死。塔は建築が中断され建掛塔として今に伝わりました。
尚、正成の首級は足利尊氏によってここに届けられ境内に祀られています。

楠公学問所 中院
奥の中院では写経と土日には瞑想が開かれる。

金堂への階段

常夜灯にも菊水紋が

池越しに拝殿を望む

重文・訶梨帝母天堂(かりていもてんどう)

訶梨帝母天堂の裳階部分

重文・恩賜講堂

境内にある星塚
北斗七星を祀る日本で唯一の寺なので七つの星塚が境内にあり巡る習わしである。

国宝・金堂
正平年間(1346~1370年)の建立。和様と禅宗様の混在した折衷様式。

金堂前にある大師の礼拝石

本尊の国宝・如意輪観音は4月17・18日のみ特別開帳

金堂全景 よく写真に使われるアングルである。

建掛塔
三重塔の一重目だけが造られた未完成の建築。

建掛塔垂木部分

建掛塔と金堂

御影堂

開山堂

開山堂横にある大楠公首塚
また楠木氏との関係からここは吉野・賀名生に続く南朝の行在所(あんざいしょ)にもなり、境内には後村上天皇陵があります。
仮の都とは言えなぜここに行在所を持って来たかですが、高野山・吉野へは山伝いに行けば意外と近く、
修験者の勢力を恃んだものと思えます。
行を「あん」と発音するのは中国宋王朝時代の音で、鎌倉時代に禅宗と共に伝わった呼び方。
仏教伝来時は「ぎょう」、遣唐使時は「こう」と音読みも三通りあります。
『東方見聞録』でマルコ・ポーロが南宋の首都杭州を「キンザイ」と発音しており、長らく由来が不明でしたが、
桑原隲蔵(じつぞう)博士が仮の都の行在に由来する説を唱え定説となりました。
室町以降は管領畠山氏の庇護を受けますが、信長に拠り寺領没収。
豊臣秀吉・秀頼親子によって再度庇護を受けるという浮沈を経験します。
江戸時代には槇本院檀家の甲斐荘(かいのしょう)氏が中心となって伽藍を維持しました。
甲斐荘氏は徳川光圀に拠り旗本に取り立てられた楠木正成の子孫で、日本画家の甲斐荘楠音(ただおと)も一門に連なります。

後村上天皇御旧跡(旧惣持院跡)

後村上天皇陵への石段

後村上天皇陵

山門前の大楠公銅像

観心寺子院 旧槇本院
いまは「創作料理 KU-RI」 として使用され月・火・水 限定20食(¥2,500)の完全予約制。二か月前からの予約だが早々と完売になるようである。

旧槇本院

観心寺説明書 拝観料¥300を払うと頂ける

観心寺御朱印 梅の期間限定版
昼食は門前の「阿修羅窟」で入麺を注文。凄い店名ですが店内のも仏教や民族関係の品々が飾られていました。
会計の時に年配の女性に尋ねると
鉄丈:「こちらのお店の方は仏教に関係があるのですか?」
女性:「亡くなった主人がお寺の出なもので。」
鉄丈:「この辺りのお寺ですか?」
女性:「目の前です。」
鉄丈:「観心寺の方でしたか。」
女性:「兄が先々代の住職で、今は御孫さんがされています。六人兄弟で五人がお坊さんになり主人だけが違う道に進みました。」
鉄丈:「会社員をされていたのですか?」
女性:「仏教の研究をしていてよく印度を訪問していました。そこに晩年の著作がありますよ。」
と本を見ると佐藤任(たもつ)著とあり、空海や密教を研究された著名な方のようです。
唯、本の内容はまだ難しそうなのでもっと【入麺】に学ぶ必要がありそうです。

昼食を摂った「阿修羅窟」

店内の様子

入麺 ¥700

河内長野市マンホールカード 配布場所は「道の駅 奥河内くろまろの郷」

河内長野郵便局 ; 重文・天野山金剛寺多宝塔、観心寺建掛塔、天然記念物・夕照の楓
河内長野高向郵便局 ; 花の文化園・ピラミッド型大温室、梅、サクラソウ
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JR大阪(10:15) → 明石(JR10:53 → 山陽電鉄11:02) → 高砂(11:19) → 徒歩10分 → 高砂神社 → 高砂(12:40) → 伊保(12:45) → 徒歩45分 → 生石神社 → 徒歩15分 → JR宝殿(14:45) → JR大阪(15:43)

生石神社 詰所(手前)と本殿(奥)
高砂神社参拝の後は、JR宝殿駅の名前の由来となった神社まで山陽電鉄から新幹線を抜けてJR線までウォーキング。
生石(おうしこ・おいし)神社は宝殿山腹にある巨石を御神体とする社。
御祭神は大己貴命・少彦名命で、社伝に拠ると
『崇神天皇の西暦97年頃、播磨に疫病が流行した際、天皇の夢枕にこの両神が現れ祀るように仰せになり創建された』
と言われます。

法華山谷川からの遠景

生石神社鳥居
徒歩ではこの鳥居を過ぎ参道の急な石段を登る

石段途中より見上げた絵馬殿
文化十三年以降の建築。かつては拝殿であったが、今は絵馬殿として休憩所の様になっている。

本殿前にある詰所
江戸末期の建築で、通常御朱印はここで拝受するが生憎留守。

本殿(本社)
天保十五年の建築。この下から御神体へ向かう。
しかし神話時代の話なのでどこまで真実を伝えているかは疑問。
後世の 『播磨国風土記』 には 『聖徳王の御代に、弓削大連が造れる石なり』 と書かれていますが、
これも時代考証が合っておらず、古代の人にも何かわからない不思議な巨石としか判断できなかったのでしょう。
その代り知名度は高く、記録にも度々登場し幕末にはシーボルトもスケッチを残しています。
幅6.4m、高さ5.7m、奥行き7mの立方体に近い刳り貫いた岩、我々の世代にはブラウン管型テレビに似た印象を受けます。
周囲は人が通れる幅があり、ここで作業をしたのでしょう。
下には水があり浮石と呼ばれることもありますが、勿論浮いてはおらず、一部で下の岩盤と繋がっています。
誰が言い出したか 『四口の塩竃(鹽竈神社)』 『天之逆鉾(霧島神宮)』 と並んで日本三奇とか。
人口的に作ったものながらその目的が分からない事が想像を刺激するのでしょうか。

御神体の石の宝殿に御対面

石の宝殿の正面

御神体下には水が溜まり決して水位が【推移】しないと言われる

後方からの御神体

本殿横の御神体の一部の岩
これを力一杯押して祈願するという事で早速実践。

本殿横から山上公園へ

石の宝殿から南を望む

山上の行幸碑

山上から高砂方面を望む
この地域は竜山山地に連なり、白亜紀の凝灰岩層で出来ています。
花崗岩に比べ加工し易かったので、古墳時代には石材として使われていました。
墳墓として造営されたものが未完成に終わったと考古学では言われていますが、古墳の石棺を切り出した名残にも見えます。
ここまで加工した岩ならば、後世の誰かが利用しても良さそうですが、結局そのまま。
神社の祟りを恐れたこともあるでしょうが、石質が需要に合わなくなってきたこともあるでしょうか。
今も周囲では採石が行われていますが、年々縮小しているのもそのためかもしれません。
生憎、人が不在のため御朱印はなし。文字通り、高砂から生石まで河口の砂から山手の石まで遡る巡礼になりました。

御神体と竜山石採石場

御神体の上には草木が繁茂

帰路は駐車場への道を下る

駐車場前の鳥居 今はこちらが正門か?

播磨國石乃寶殿 生石神社略記
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR大阪(10:15) → 明石(JR10:53 → 山陽電鉄11:02) → 高砂(11:19) → 徒歩10分 → 高砂神社

高砂神社(県社) これは大鳥居で海に向かって立つ。
今日は播磨まで行く用事があり、少し寄り道して高砂へ。
かつては加古川駅から高砂港まで国鉄が走っていましたが1984年に廃線。
それなりに需要はあったと思うのですが、幹線から港へ行く盲腸線は距離も短く廃止の方向でしょうか。
静岡の清水港、姫路の飾磨すべて然り。現在残っているのは兵庫から和田岬に行く線くらいですが、ここも廃線の話があるとか。
かつて造船・運輸で地域の発展に寄与したものの、時代の波は厳しいようです。【盲腸】っと頑張って欲しいものです。
尚、兵庫~和田岬は山陽本線扱いとなっています。
高砂神社は大己貴命・素盞嗚尊が御祭神、素盞嗚尊の別名から牛頭天王社と呼ばれました。
池田輝政が播磨入部の際には、神社を西に移し高砂城を築城しますが、「元和の一国一城令」で廃城になり
再び戻るという歴史を辿ります。

鳥居をくぐった先にある表門

裏門 山陽電鉄から歩いて向かうとこちらから入る事に。

拝殿

拝殿奥に鎮座する本殿

本殿手前にある能舞台 能・謡曲が開催されるか?
それよりもこの神社を有名にしたのは「高砂の松」。
根が一つで幹が左右に分かれている松があり、そこへ伊弉諾尊(尉)と伊弉冊尊(姥)の両神が現れ
『神霊をこの木に宿し、余に夫婦の道を示さん』
と言った事から、相生の霊松として崇められる事になり、後に能・謡曲 『高砂』 の舞台にもなります。
付近は名前の様に砂浜で松も繁茂していたでしょうから、このような松があっても不思議はありません。
それを上手く目出度いことに結び付けた所に先人の才覚があったと言えるでしょう。

霊松殿
寛永二年(1625年)の遷宮の際に植えられ昭和12年に枯死した三代目相生の松を【まつ】る

霊松殿に保管されている三代目の幹

五代目相生の松

幹の分岐した部分

境内にあるもう一つの神木カイヅカイブキ
別名コノテガシワ、中国では松と並んで松柏と呼び常緑で目出度いとされる。柏餅の葉とは全く別種である。

尉姥神社 夫婦の神を祀るので縁結びスポットとされる。

境内にある高砂城跡碑

境内奥にある左から稲荷社・三社・住吉社

尉姥神社御朱印(今回) と高砂神社御朱印(平成5年2月14日)
近世には加古川の付け替え工事により河口に港が開かれ、町は発展。現在の工業地帯の基礎が築かれたと言えます。
町を歩くとその面影が偲ばれますが、なかでも工楽松右衛門(くらくまつえもん)旧宅は圧巻。
家業の海運業に加え、従来の綿布に比べ丈夫で耐久性のある帆布を発明し財を成しました。
価格は従来品よりも高額でしたが、品質が良いとの評判で良く売れたとか。
評価する人はいつでも居る訳で、薄利多売では駄目だったのでしょう。
最近の価格破壊を見たらどう思うか尋ねてみたいものです。
高砂神社は縁結びのパワースポットと言うことで訪れる人も多いようですが、縁結びができてもそこがスタート。
尉と姥まで行くにはお互いの努力が必要で、【工楽】を共にできる事が不可欠。
・誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに [藤原興風 古今集]
という境地にはなかなか辿り着けそうもありません。

加古川から引かれた堀川 ここの港に船がつけられた。

工楽松右衛門(くらくまつえもん)旧宅の外観

旧宅に展示している初代松右衛門(1743~1812)年が発明した松右衛門帆

旧宅の取引・商談の間
手前の床は「名栗式」と呼び、独特の削り跡を残す様式。

旧宅前にある南堀川遺構 従来はここまで船を寄せた。

旧宅の近くにある三連蔵 かつての米蔵だったとか。

高砂神社境内に建つ初代工楽松右衛門の銅像

高砂市マンホール蓋

旧宅前に1ヵ所だけあるマンホール
高砂市ゆるきゃら「ぼっくりん」と謡曲

高砂市マンホールカード 配布場所はこちら

高砂郵便局 ; 高砂神社、相生の松、翁の面、播磨灘
高砂塩市郵便局 ; 宮本武蔵・伊織生誕地碑、五輪の書
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 近鉄電車は日中10分間隔で運転
JR大阪 → JR鶴橋 → 近鉄鶴橋 → 近鉄八尾 → 徒歩5分 → 八尾地蔵尊

初日山常光寺(臨済宗南禅寺派)
大阪府は旧国名では摂津・河内・和泉の三国。河内に住んで随分になりますが、本来の河内と呼ぶのはどの辺りでしょうか?
いまはJR環状線周辺が栄えていますが、江戸時代以前は大阪湾に続く巨大な内陸湖があったようで中心は現在より東側。
藤井寺に旧国府跡があって、誉田山古墳(応神天皇陵)などの古市古墳群もあり古代より重視されたのが分かります。
この日は藤井寺の北の八尾に所用があり、空き時間を見つけてちょっと立ち寄り。
初日山常光寺(しょにちざんじょうこうじ)は近鉄八尾駅から直ぐにあります。
寺伝によると、聖武天皇の勅願で行基が創建。
奈良時代の弓削道鏡は河内の出身なので開祖にしても良いとは思いますが、政治的に微妙な立場にあり、
【道鏡】の人よりも【行基】の良い人に軍配が上がったのでしょうかね?

外から見た常光寺三門(楼門)
江戸時代末期から明治初期にかけ建築

境内から三門を見る

境内の様子
弘仁年間(810~824年)には六道の辻でお地蔵さまに出会ったと言う小野篁が木造等身大の地蔵菩薩を作り安置した
と言われます。お地蔵さまに会うのもなかなかのものですが、現世と冥界を行き来した篁ならではの伝えと言えましょう。
狂言の演目に『八尾』というものがあって、地獄に落ちる筈の人間が八尾のお地蔵様の力で極楽にいく話です。
これも篁の伝説からの発送でしょうか。誰も【冥界】な答えは見つけていないようですが…。
平安時代の寛治二年(1088年)には白河法皇が熊野詣の途中に立ち寄るなど、都にも知られた寺でしたが、
南北朝時代に南朝方になったため兵火で焼失。
その後、至徳二年(1385年)に藤原盛継の手で復興し翌年には将軍足利義満から「初日山」「常光寺」の扁額を寄進されています。
尚、現在の地蔵菩薩はこの頃に造られたもののようです。

本堂 天明二年(1782年)築の入母屋造り。

阿弥陀堂 明和九年(1772年)築の宝形造り。

庫裡と方丈 御朱印はここで拝受。
1615年の大坂夏の陣では一帯は激戦地になりましたが、寺は家康の政治顧問の以心(金地院)崇伝の配下にあったため無事。
南北朝の教訓が生きたと言えますが、家康が『寺を荒らすな!』と言った事が【以心伝心】伝わったのが大きかったと思います。
唯、ここでは藤堂高虎と長曾我部盛親の激戦があり多くの死傷者が出ました。
勝者の藤堂側も一門や多くの家臣を失いましたが、これは徳川方に二心のない事を示す為だったとか。
主君を渡り歩いた事で戦国武将としての評判は芳しくない高虎ですが、家臣を抱える身としては辛い所があったのでしょう。

方丈横の庭園
禅宗らしく砂で波紋が描かれている。この奥に藤堂藩の戦死者の墓がある。
以後、江戸時代は平穏で特に後半は河内木綿の一大産地として栄えます。
その肥料が蝦夷地のニシン粕でしたので、北前船を通して全国に繋がっていました。
どこの人も【北前】という開放的な町となります。
大阪人にとって八尾といえば河内音頭ですが、その原型は南北朝時代に再建された常光寺での木遣り歌
「流し節正調河内音頭」とされています。お盆の供養の時に関係者の間で歌われたものが、外に広がったものです。
『こんなオモロイもの、寺だけに独占させる事あらへん!』 と言った感じでしょうか。
その後、歌詞に色々な要素を取り入れることで全国的に。
大坂夏の陣以降、大阪人は徳川嫌いなので、御政道批判の歌詞などが一層拍車をかけた様です。

山門脇にある河内音頭発祥の碑
塩川正十郎書というのが時代を感じる。
今でも8月23・24日に地蔵盆踊りが開催されていますが、お寺の方に伺った処、
『常光寺は檀家がなく、どなたでも参加OK』
との事でした。
地域の活動が衰退している昨今ですが、有り余った力を発散できる場としても見直す必要があるのではないでしょうか。
何事も【木綿】ないのが一番と思った次第です。

盆踊りにはこの境内が人であふれる

本堂前の大楠 盆踊りではこの辺りが櫓か?

常光寺説明書

常光寺御朱印

駅近くにある「與兵衛桃林堂」
代々河内木綿の問屋で、大正期に板倉家が移り住み、菓子屋を営む。

八尾市マンホール蓋

八尾市マンホール蓋(市制70周年)

市役所西館にある説明

八尾市マンホールカード 配布場所はこちら

八尾郵便局 ; 河内音頭、高安山気象レーダー観測所
八尾駅前郵便局 ; 府天然記念物・楠、綿、高安山
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】
浅草(6:19) → 館林(7:51 → 7:59) → 足利市(8:19 → 9:18) → 太田(9:27)
東武太田 → 徒歩20分 → 子育て呑龍さま
【復路】
東武太田(12:21) → 館林(12:47 → 13:58) → 久喜(14:27 → 14:34) → 押上(15:28)

義重山大光院新田寺(浄土宗)
寒さも少し緩んだ二月半ば、ストーブ列車ならぬ東武電車でぶらりと上州路へ。
後三年の役で有名な八幡太郎義家の三男義国が下野の足利荘に封ぜられて、その子の義康から足利氏が、
義重から新田氏が出ます。この両氏意外に仲が悪い。
足利氏が北条氏と縁組する位の有力御家人であったのに比べ、新田氏は低空飛行。
建武の新政では新田義貞が鎌倉幕府を攻め落とす功績を挙げたものの、時代は足利氏の室町幕府となり、
新田氏は守護にもなれず再び苦難の道を歩む事に。

足利市にある史跡足利学校

東武鉄道太田駅北にある新田義貞像
このまま行くかと思いきや、家康が新田氏の流れを汲む徳川(得川)氏を名乗ったので江戸時代には子孫の岩松氏は旗本に。
徳川の源氏は疑問もありますが出身地三河の名門吉良氏(足利氏分家)を味方につけ系譜に連なりました。
清和源氏直系の名門佐竹氏などは「源氏で徳川など聞いたことが無いが」と言ったと言いますが、
天下人になれば強いものです。
足利氏も江戸時代は旗本でしたが、大日本史で南朝が正統とされたため、戦前までは逆賊扱いになったとか。
戦後は復権しましたが、両氏の仲はどうなのでしょうか?
因みにお互いの出身地は接していますが、足利市は栃木県、新田氏の太田市は群馬県となっています

呑龍さんへの参道の門
徳川家の先祖を祀るので立派にしている

基礎には三つ葉葵の紋が…。
義重山大光院は慶長十八年(1613年)、徳川家康が祖先の新田義重を祀るために創建。
新田義重は法然に帰依し、城内に大光院と言う寺を建立した故事に倣い山号寺号としたようです。
招聘したのは浄土宗の僧侶呑龍。
日本酒の様な博徒のような名前ですが、この呑龍は当時貧しく捨てられたり殺されかけたりした子供を引き取り
弟子として育てた人物。なかには国禁を犯そうとした子供も居て幕府から譴責を受けたこともあったとか。
そのため人々からは「子育て呑龍様」と慕われ、いつしか寺の呼び名にもなりました。
境内は広く道も整備され、この付近では初詣に訪れる人も多いといいます。
権力に結び付くと己の栄達を図る輩が跡を絶ちませんが、家康の庇護があったとはいえ、
呑龍の行為はなかなかできる事ではありません。

大光院吉祥門
大坂城落城の日に落成したためこの名が付いた。

大光院境内

大光院境内の臥竜の松

大光院本堂 阿弥陀如来を祀る。

本堂破風

本堂から渡り廊下と講堂を望む

大光院講堂

講堂の扁額

大光院御朱印
予め書かれたものを拝受 ¥200。
参拝を終えると昼前だったので、来る時に見かけた参道「元祖呑龍 山田屋本店」へ。
看板に掲げてある呑龍まんじゅう(1本¥190)を注文すると、
「4~5本はいけますよ!」 と店員さんの言。
1本¥190は安いですが一見五平餅に似ているので、
「これを5本はきついですね。」と言いながら口に入れると、意外とふわふわ。
なんでも小麦粉を元に作ったパンのような生地に醤油と砂糖を付けたものだそうで1個は1口でOK。
急ぎ追加注文しました。大きいまんじゅうをたくさん食べる姿は人目に呑龍に見えたでしょうか。

参道脇にある「元祖呑龍 山田屋本店」

大光院前の山田屋にて呑龍まんじゅう(1本¥190)を注文
帰りも同じく東武に乗り、館林で途中下車して駅前にある日清製粉を見学。かつての社屋を使って博物館にしています。
創業者は正田家、美智子皇后様の御実家ですが、三代目の文右衛門が明治6年に醤油の醸造を始め、
孫の貞一郎が分家して明治33年に製粉事業を創業したとあります。
日本では珍しく群馬県は小麦の生産が多かったからでしょうか。
地元の人達の間では「子供を育てられなかったら、正田様の家に行けば何とかして下さる」との謂いがあるとか。
呑龍の意志は後世まで受け継がれていると言えましょう。

東武館林駅は洋風駅舎

博物館本館は、かつての日清製粉事務所

本館内部

ミュージアムの日本庭園
石は北海道のトラピスト修道会で小麦粉を碾いた臼だとか。

東武太田駅スタンプ

太田郵便局 ; 桜の外枠に、金山、史跡・金山城址、大光院開山堂、国宝・甲の武人埴輪、八瀬川の桜
木崎郵便局 ; 町花・ツツジ、新田義貞とゆかりの生品寺、鳥居
[参考書]
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御朱印でめぐる関東の百寺 坂東三十三観音と古寺 (地球の歩き方御朱印シリーズ) 新品価格 | ![]() |

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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR横浜(6:51) → JR大宮(7:51) → 東武大宮(8:10)→ 岩槻(8:22 → 9:44) → 大宮公園前(9:53) → 徒歩5分 → 盆栽村 → 徒歩15分 → 氷川神社

氷川神社(武蔵國一之宮 旧官幣大社)
これは二の鳥居で両側にあるのは欅並木。ここから参道らしくなる。
この日午後からさいたま副都心で研修があったので、早めに現地に入りちょっと巡礼。
木曽街道大宮宿は氷川神社の門前町。氷川神社は武蔵國一之宮、関東にある280余の氷川社の総本宮です。
社記に拠ると創建が第五代孝昭天皇の御代三年四月、歴史的には縄文か弥生になるのでしょうか?
社名は出雲の簸川(現在の斐伊川)に因むと言う説が有力。
肥沃な河川として農作物に恵みを与える一方で水害を惹き起こした荒川を簸川に見立てたと略記にはありますが、
簸川の杵築大社をこの地に移し見沼の水の霊を氷川神として祀ったのが実際の様です。
見沼は江戸時代までこの地にあった大きな沼ですが【見沼】に消えてしまいました。
氷川神社の御祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の三柱、いずれも出雲由来の神様なのがその可能性を高めます。
出雲神が来たルートですが、日本海から中山道経由で来た可能性が高いのではないでしょうか。
今は瀬戸内・太平洋側がメインですが、日本海沿いは常に対馬海流が北上しており、古代の航海にはより適していたと言えます。
越後の糸魚川の奴奈川姫伝説や信州の安曇には出雲との交流が感じられますね。

氷川神社三の鳥居
ここが境内入口になる。

楼門
古代の武蔵国は凡そ今の東京都と埼玉県、東京都は海に面した湿地のため内陸に中心を置いたのでしょう。
都市は自然災害の少ない場所に置くのは洋の東西を問わない古代の鉄則です。
中世以降も源頼朝・足利尊氏・太田道灌・後北条氏・徳川家康と時の政権と深く結びつき繁栄、
明治天皇も3度参拝されているとか。広大な境内と社殿の壮大さには圧倒されます。
関東での初詣は明治神宮が最多で氷川神社は約210万人ですが、周辺人口の差を考えると立派な数字ではないでしょうか。
大宮の名前も氷川神社由来で、かつての県庁所在地の浦和よりも交通の要衝。
平成の大合併に際して市名も大宮か氷川にする動きもあったそうですが、浦和や与野が「やだねったら、やだね!」と
言ったせいで「さいたま市」になったと言われています。
因みに「さいたま」とは行田市にある「さきたま古墳」が由来。
この辺りとは関連がなさそうなのでもう少し検討する余地があったと思うのは私だけでしょうか?

楼門を過ぎた所にある舞殿、奥が本殿

拝殿 本殿はこの奥に鎮座。

武蔵一宮 氷川神社略記 二種類ある。

氷川神社御朱印
それから大宮地区は盆栽で有名だそうで、何でも関東大震災後に江戸から盆栽業者が移り住んで、町づくりをしたとか。
町を歩くと数百坪の豪邸があちこちに。
成城・松濤では見かけましたが、さいたま市にこのような場所があるとは吃驚。
盆栽と言うのは金のかかる趣味ですから、当然と言えば当然です。
大宮盆栽郵便局の窓口の若い女性が言われるには
「この辺はお金持ちが多くて。私もここまで歩いて通っているのですが、時々馬を散歩させている人もいますから…。」との事。
更に驚きですが、良く考えたら徒歩通勤する位だから、この人の家もお金持ちに違いないと、後で気が付いた次第です。

岩槻区芳林寺境内にある太田道灌騎馬像
岩槻城の築城は彼による。

街道沿いにある高札場
人形の町岩槻は日光街道の宿場町。奥は青果店。

東武大宮公園のすぐ北にある盆栽町の地図
関東大震災の後、東京の盆栽業者が移転してきたのが始まり。

もみじ通り
両側には豪邸が続き、自動車も殆ど通らない。右手前は無料休憩所の盆栽四季の家。

盆栽町しで通りにて
盆栽に関しては門外漢だが、眺めて大木に見える作品が良いと聞く。

盆栽町にある漫画会館
現代漫画の祖、北沢楽天は晩年をここで過ごし、大宮市名誉市民第一号となった。これは晩年の部屋を再現したもの。

楽天の作風
政治風刺漫画が主流。河鍋暁斎やビゴーの系譜か?

東武鉄道アーバンライン線の駅スタンプ
設置されて20年以上経つが、保管が徹底しているため良好な印影。

大宮郵便局 ; 氷川神社、盆栽
大宮盆栽町郵便局 ; 日本盆栽村の盆栽、大宮公園
[参考書]
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<コース> 日中15分間隔で運転
JR北新地(13:29) → JR河内磐船(14:00) → 徒歩40分 → 獅子窟寺

普見山獅子窟寺(高野山真言宗)
節分に磐船神社に参拝しましたが市内にはもう一ヵ所岩で有名な寺院があり、画竜点睛を欠くので2週間後に再び交野市へ。
平成5年の正月にJR河内磐船駅で押印したスタンプの図柄が獅子窟寺。この寺の名を知ったきっかけですが、
どのような所か気になったので平成6年10月10日に訪れています。今回はそれ以来の再訪となりました。
JR河内磐船駅から徒歩10分で案合板の前。後は勾配のきつい山道を20分歩いて境内に到着。

JR西日本アーバンネットワークのスタンプ
平成5年1月3日押印。スタンプマニア(押し鉄)の間では評判は今ひとつだが、個人的には気に入っている。

獅子窟寺案内板

このような坂を20分只管登る 因みに自動車通行可能。

約15分で寺の道標に到着

かつての仁王門跡 再建予定はなさそう。

仁王門を過ぎて左手にある「お大師さまの水」
普見山獅子窟寺(ふけんざんししくつじ)は、伝承に拠れば
『文武天皇の頃に役行者が開き、聖武天皇の勅命で行基が諸堂を建立。
獅子窟とは獅子の咆える口に似た岩窟のことで山岳信仰の場であった。
更に平安時代には空海がここで修法を行った。』
とあります。
獅子の口の岩窟の前で 「喰うかい?」 と言ったかどうかは知りませんが、仏教界の御三家が関わっているのも凄い話です。
全国に足跡のある三名ですが、役行者は葛城、行基は和泉、空海は讃岐出身で都に東寺を開いていますから、
信憑性は高いと思います。
中世は多くの伽藍が並んでいましたが、大坂夏の陣で豊臣方につくのを拒否したため焼き払われます。
日本仏教史上のスーパースター3人の力も通じなかったのでしょうか。
本尊の薬師如来坐像は大和に難を逃れ寛永年間に戻って来ました。1m足らずですが榧の一木造りで平安時代の作で国宝。
収納庫にしまわれて拝観できないと聞いていましたが、予約すれば拝観できるとの事、調査不足が悔やまれます。
御参りの人は少なく、すれ違ったのは殆ど年配のハイキングの人々でした。

境内の様子

本堂(瑠璃殿) 江戸時代の再建。薬師如来を祀るが国宝なので収蔵庫に保管。

本堂横の天福岩
災い転じて福となすとの謂いで、この岩に抱き着いて1回だけ願いをする習わしだそう。天福ではなく転福と思うが福が転んで逃げるのを防ぐためか?
本堂横の階段を上がっていくと巨石群がありますが、石段が崩落の危険があり上から迂回して参拝。
斜面が急なのと高い所にあるので、ここに籠る修行は厳しいと感じました。
生駒山系には巨石が多く、磐船神社も獅子窟寺も同じような起源でしょうか?
またこの道を登って行くと奈良県に入るので、大和と河内を結ぶルートとして栄えたとも思えます。
25年前に訪れた時は河内森駅から徒歩30分以上歩いた記憶はありますが、ここまで坂道が急だった記憶はなし。
やはり四半世紀は体力の衰えを感じるのは十分な時間でした。

本堂横の石段を登ると巨石群へ至る

横から見た獅子の岩(女岩)
左の石段が崩壊寸前なので、岩の上を過ぎて獅子の口に行く

獅子の岩の丁度上を通過

獅子の岩に到着
岩の下は丁度人が籠れる位の広さである。

正面から見た獅子の岩

巨石群へ向かう山道から見た本堂

巨石群の中で最大とされる八丈岩

境内に戻って市街地を見渡す
標高は200m余りだそう。

獅子窟寺御朱印 25年前のもの

交野市立教育文化会館(市内の見所その1)
昭和四年に交野無尽金融株式会社の社屋として建造。現在国の登録文化財。

北田家住宅表門(市内の見所その2)
通常、代官屋敷と呼ばれる。北田家は南朝北畠氏の子孫で江戸時代にはこの辺りの代官を務めた。1714頃の建築。

山野酒造株式会社(市内の見所その3)
交野に二つある酒蔵の一つで「片野桜」が有名。

JR河内磐船駅にある交野市マンホール蓋
カラー版はここだけ。

交野市マンホールカード 配布場所は交野市役所

交野郵便局 ; 国宝・獅子窟寺薬師如来像、源氏の滝
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