<コース>
JR王子 → 王子神社 → 王子稲荷神社 → 名主の滝 → 徒歩10分 → JR王子
この日は天気も快晴、桜も満開という事で友人と飛鳥山でお花見。
集合時間までに時間があるので、少し早めに出て駅周辺を散策。
鎌倉時代にこの地方の領主であった豊島氏が元享二年(1322年)紀州熊野から若一王子を勧請し、
王子権現として祀ったのが地名の起こり。
王子権現は今の王子神社に当たります。
駅からすぐの場所にも拘らず広大な敷地があるのは領主の保護があったからでしょうが、
この神社を中心に町は発展していく事に。

王子神社鳥居

王子神社拝殿
昭和20年に戦争で焼失し、昭和39年、57年の二回の造営で再建された。

王子神社御朱印
王子神社を過ぎて線路に沿って行くと坂の上に鎮座するのが王子稲荷神社。
さして広くない境内に社殿があるので新しく勧進した神社と思っていましたが、意外にも王子神社よりも古い。
古くは岸稲荷と呼ばれ1060年頃には相当な規模であったらしく、この地が王子と呼ばれるようになって王子稲荷となりました。
岸稲荷という名からはかつては近くまで水が迫っていたのでしょうか?
稲荷の傍を通る岩槻街道は徳川将軍の日光社参の道。
この街道によって江戸市街と直結された王子稲荷神社は東国随一の稲荷神社として発展し、
付近には料理屋や茶屋が軒を連ねる状況だったとか。
「かつて稲荷神社の近くに1本の榎の大木があり、毎年大晦日の夜、関東一円の狐が集まり正装で参拝した」
という言い伝えもあります。
いまでの大晦日には関連行事があり、落語「王子の狐」もここから生まれたのでしょう。
庶民で賑わう町とはいえ、狐と共存するような状態だった事が伝わってきます。

王子稲荷神社拝殿

境内にあるお狐様の石像

狐の出入りする穴

穴の周辺に奉納されている狐様

王子稲荷神社御朱印
その後、江戸時代に徳川吉宗が「享保の改革」の一貫として飛鳥山に桜を植え、庶民の行楽地として整備しました。
「倹約財政を推し進め幕府の負債を減らしたものの、将軍としては今一つ江戸庶民には人気がなかった」
と言いますから人気取りでもあったのでしょうが、その思惑は当たり、現在まで庶民の行楽地となっています。
また安政年間にはこの地の名主畑野孫八が自邸内に滝と回遊式庭園を造り一般に開放。
その後の変遷を経て「名主の滝公園」として無料で公開されています。
時代劇に出て来る上層部は下々から収奪する悪人が多いですが、実際には自費で貢献することも多かったようです。
そうでなければ江戸時代が平和に260年も続かなかったでしょう。
明治期には渋沢栄一がこの地に住居を建て会社の設立に携わりました。
彼の作った製紙会社がこの地名を取って王子製紙と呼ばれるのは周知の通り、
それに続き政府の印刷局もここに拠点を置くことになります。
大蔵省印刷局と言えば切手収集にのめり込んだ世代には懐かしい響きがあります。
かつては神を勧請して発展した街は、後に紙を印刷して札を勘定することで更に発展。
狐に木の葉で化かされることはないとは思いますが…。

名主の滝公園入口にある薬医門
稲荷神社の北にある。

名主の滝の男滝
落差8mだが、この日は休み。

夏場の男滝の様子
マイナスイオンと涼を求めてくる人が多い。

公園内の池の様子

桜の花弁が花筏になっている

王子郵便局 ; 名主の滝、音無川流堰、石橋
[参考書]
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☆王子稲荷については、「筑摩書房PR誌ちくま」2018年12月号 No.573
<東京のぼる坂くだる坂 7> 王子稲荷の坂 ほしのさなえ に要を得た説明がある。
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】
御堂筋線梅田(8:49) → 御堂筋線天王寺(9:04) → 近鉄阿部野橋(9:14) → 近鉄富田林(9:44) → 金剛バス河内線(10:05) → 河内(10:25) → 徒歩2分 → 弘川寺
【復路】弘川寺 → 河内(11:30) → 富田林(11:55) → 徒歩5分 → 寺内町

竜池山弘川寺(真言宗醍醐派準別格本山)
夕方に梅田で同窓の集まりがあり、その前に少し足を伸ばして南河内まで。
弘川寺は名峰葛城山の麓にある古刹。由緒によれば
天智天皇四年(665年)役行者に拠り開創された葛城六坊の霊場。
白鳳五年(676年)天武天皇は請雨の祈願を命ぜられ、三年後の春に行幸され勅願寺となります。
その後、天平九年には行基が修行、宝亀年間には光意が修学、
弘仁三年(812年)には空海が嵯峨天皇の命で中興し密教の霊場と定められました。
寺に到着した時は丁度開館の時間で、私独りだったので御住職から話を伺いました。
住職「山桜に比べてソメイヨシノは70年位、人間の寿命と変わらないです」
鉄丈「意外と短いのですね。ところで表札は御住職のものですか?」
住職「ええ、そうですが」
鉄丈「あの苗字は行基さんと同じではありませんか」
住職「以前の住職が行基さんの法灯を受け継いだという事で氏を貰ったと聞いています」
こんな所で歴史の跡が見つかるとは驚きです。
役行者は葛城氏出身、行基は和泉国出身ですので強ち伝説でもないように思います。
後鳥羽天皇が病気になられた文治四年(1188年)には当寺座主空寂上人が宮中で病気平癒の祈願をして天皇は無事回復。
天皇の窮地を救ったことで奥の院「善成寺」建立と寺号の勅額を賜ったとか。
歴代の我が国仏教界のスターのパワーが効いたのでしょうか?
室町以降も天皇・皇族の行幸が度々ありますが、戦火にも晒されました。
南朝の忠臣で楠公の後胤弘川城主の隅屋(すや)与市正高卿は、この境内で奮戦しましたが最期は桜の下で自刃。
その後には「すやざくら」が咲いています。
寛正四年(1463年)、河内守護畠山氏の争いではこの寺に本陣が置かれたため伽藍は焼失。
応仁の乱の前哨戦で【全焼】の悲劇。唯、本尊・大師像・扁額は難を逃れたので現存しています。

護摩堂横に咲く隅屋(すや)桜
楠公の末裔で南朝の忠臣隅屋与一正高が自刃した場所にある。正面が本堂。

境内の説明板

本坊(拝観料必要)から見た海棠(天然記念物)

本坊より庭を望む

本坊より見た庭園
それよりもここは漂泊の歌人西行法師が最期を迎えた場所で有名。
本名佐藤義清(よしきよ)、藤原秀郷の七代目で富豪、父康清も検非違使として活躍する武家の名門。
義清も徳大寺家の家人、北面の武士として鳥羽天皇に仕えるエリートでしたが、二十三歳で家督を弟に譲って突然出家。
妻と二人の子がいたが父を慕い寄って来た四歳の娘を縁側から蹴り落として家を出たと言われます。
彼の出家は当時も話題で、友人の頓死に無常を感じた、高貴な女性との叶わぬ愛のためであった、
というのが文学の立場から解釈されていますが、社会的な家を巡る争いから逃れるためという解釈が最近浮上しています。
当時は宗教家が輩出しましたが法然、栄西、重源など全て武家出身であることを考えると有り得る事だと思います。
彼の後,出家遁世をする人間が増えたのも事実ではありますが…。
出家以後は嵯峨野付近に庵を構え、四国・中国地方へ【西行】、陸奥へ東行しますが、
晩年の文治五年(1189年)にここを訪れます。空寂上人の徳を慕ったと言うことですが、草庵を結んで
・麓まで 唐紅に 見ゆるかな さかりしぐるる 葛城の峰
・訪ね来つる 宿は木の葉に 埋もれて 煙を立つる 弘川の里
・願わくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ
と詠を残しています。
そして翌文治六年二月十六日に七十三歳で入寂。都人の間では歌通りの生涯だったと噂になったとか。
江戸時代には西行を慕う歌僧似雲法師が西行の墳墓を発見。
西行堂も建立し西行を顕彰、今に至るまで、歌人・文人の訪問が跡を絶ちません。
役行者・行基・空海というスターよりも隠棲した西行を求めて訪れる人が多いとは、泉下の彼はどう思っているでしょうか?

西行記念館

西行記念館横のソメイヨシノ

本堂奥にある西行堂
実際に西行が棲んだのではなく、江戸時代に彼を慕う似雲法師が建立。似雲は藤原俊成の歌集『長秋詠草』によって西行終焉の地を知り、81歳で亡くなるまで西行の顕彰に尽くしたと言う。

西行堂を通り西行の墳墓へ向かう

西行法師古墳

墳墓奥の西行桜山付近からの眺め

弘川寺と西行記念館説明書

弘川寺御朱印

河南町マンホール蓋 中学校横に設置

河南町マンホールカード 配布場所はこちら

バス始発の富田林駅周辺を散策
写真は寺内町の中心寺院。

富田林寺内町の街並み
近畿では富田林と今井町(橿原市)がこのような地内町がよく保存されている。

富田林寺内町で唯一公開(有料)されている杉山家
明治半ば、この家の長女として生まれた杉山孝(タカ)が歌人石上露子。

富田林市マンホール蓋

富田林マンホールカード 配布場所は富田林市役所下水道課
[参考書]
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西行の出家を巡る経緯については上掲「岩波新書 シリーズ 日本中世史①」の84~87頁に記載がある
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 春の青春18きっぷ
【往路】JR横浜(5:22) → JR東神奈川(5:25→5:36) → JR八王子(6:30→6:33☆) → JR大月(7:19) → JR甲府(8:09)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
甲府駅(9:15) → 山梨交通バス → 昇仙峡口(9:44→9:51)→ 昇仙峡渓谷乗合バス→ 昇仙峡滝上(9:58) → 昇仙峡ロープウェイ → 山頂 → 昇仙峡ロープウェイ → 滝上 → 昇仙峡遊歩道 → 昇仙峡口(14:51) → 山梨交通バス → 甲府駅(15:21)
【復路】JR甲府(16:53) → JR八王子(18:52→18:54) → JR横浜(19:53)

御岳昇仙峡の主峰・覚円峰
晴天で気温が高くなる予報があったので、思い切って行く機会がなかった昇仙峡へ。
荒川の上流にある紅葉の名所として有名ですが、見所は何と言っても4㎞に及ぶ奇岩怪石の渓谷。
秋には木々の後ろに隠れてしまいますが、この季節は未だ葉も疎らなので、奇岩本来の美しさを楽しむ事ができました。
【祈願】した【甲斐】があったと言うべきでしょう。
昇仙峡で有名なのは写真にも載っている主峰・覚円峰。
昔、覚円という僧侶がこの頂の上の八畳の広さの所で修行したとか。
いまは危ないので通行止めですが、よくこのような場所で修行したものだと感心します。
また昇仙峡の中程には羅漢寺と言う寺院もあり、山岳宗教の修行場だった真言宗の古刹です。
そんな訳で仏教色の強い場所を創造していましたが、いざ行ってみるとロープウェイ山頂には和合権現、
滝上には夫婦木神社と寺よりも神社の方が隆盛。
羅漢寺は無住となっており、完全に立場は逆転している模様。
甲斐の国は水晶や金と鉱石が多いのでパワースポット的な魅力があるのでしょうが、時代の流れには逆らえないという事でしょう。
神社はどちらも和合に御利益があるようですが、【ほうとう】の郷だけに和合が重要視されるのでしょうか。
権現社には男性・女性に似た御神木、夫婦木神社には樹齢1000年を越えるトチの巨木の幹に似た空洞があり、
男女の参拝客がお参りしていました。
これで【神木】を図ろうと言うことでしょう。熾烈な【昇仙】を繰り広げているのですね。
お昼はロープウェイ乗り場の年配の男性に教えて貰った覚円峰を望む金渓館で昼食。
麺は手打ちで、まさに伝家のほうとう。岩魚の塩焼きも絶品で「こら、いいわな」と【水晶】の逸品でした。。

乗合バス終点の昇仙峡滝上からロープウェイで山頂へ
奥に見えるのが荒川湖。

昇仙峡ロープウェイ頂上から富士を望む
「浮冨士広場」の看板そのままだが、私の写真ではここまで。実物は遥かに迫力があった。

山頂から見た南アルプス(赤石山脈)
おそらく北岳付近か?

山頂にある和合神社
奥に御神木が幽かに見える。

敬意を込めて御神木に参拝

遊歩道前にある夫婦木姫(めおとぎ)神社

夫婦木神社御朱印 神功皇后と墨書。

遊歩道初めにある仙娥(せんが)滝
仙娥とは中国の女仙人で月に行ったと言われる。落差30m

石門
巨大な花崗岩が歩道を囲む状態だが、先端は僅かに離れている。

石門付近の荒川渓谷

昇仙峡の主峰・覚円峰
その昔、覚円という僧侶がこの頂の上の八畳の広さの所で修行したとか。いまは危ないので通行止め。

左から夢の松島・覚円峰・天狗岩
訊く処、全て1枚岩(花崗岩)というのが凄い。

天狗岩
烏天狗に似ているとかいないとか

昼食は覚円峰を望む絶景の「金渓館」にて
甲州といえばこれ ¥1200。

渓谷で採れた岩魚 ¥800
一切れ残さず完食。

味噌田楽
お店を教えてくれた男性の名前で貰った。

再び荒川に沿って下る

途中で咲いていたミツバツツジ

夢のかけ橋を渡り羅漢寺へ

荒川の対岸にある羅漢寺
かつては隆盛を誇った古刹も今は無住。

えぼし岩
ここまで来ると昇仙峡口は近い。

昇仙峡郵便局 ; 昇仙峡の覚円峰、仙娥滝
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR浜松(9:19)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
JR浜松駅 → レンタサイクル → 三方ヶ原古戦場 → 浜松城 → JR浜松駅(17:00)
【復路】JR浜松駅(17:30) → JR熱海(20:14→20:17) → JR横浜(21:31)

浜松城天守閣
江戸時代は譜代大名が入った。水野忠邦もその一人。
桜も各地で満開を迎えている様子。桜の名所といえばお城なので、未訪の浜松城へ。
徳川家康が青春時代を過ごし、天下人への足掛かりとなったため出世城とも呼ばれます。
最終的には天下を取った訳ですが、途中結構負け戦も経験しています。
その代表が三方ヶ原の戦いで、武田信玄にクソミソに負けて、浜松城へ逃げ帰るときには脱糞もしたとか。
三方ヶ原から城までは10㎞。
自転車でもきつい位ですから、敗者には途轍もなく長い道のりだったのではないでしょうか?
しかし、帰路でお腹が空いたので茶店で小豆餅を買ったり農家に入って粥を所望するなど、意外と冷静な面も見せています。
尚、茶店付近は「小豆餅」「銭取」の字が残り、粥を振る舞った農家は「小粥」の苗字を賜りました。
その後にも、城近くの犀ヶ崖で武田勢に夜襲を掛け損害を与えていますから、やられっ放しではなかったようです。
この負け戦が家康を一回り大きくし、家臣団の団結を強めた訳ですから、何が幸いするか分かりません。
駅から古戦場往復は20㎞。幹線沿いとはいえ、食事処もなさそうでしたが、偶然にも浜松名物の店があり、そこで休憩。
小粥に比べると高額でしたが、レンタサイクルでの移動が【味方が腹】になったのではないかとの見方です。

三方ヶ原脇を通る姫街道の松並木
浜松(29宿)~御油(34宿)の間の脇街道。女性が多く通ったのでこう呼ばれる。

姫街道の説明板

三方ヶ原古戦場跡
周囲は霊園になっている

三方ヶ原古戦場碑
揮毫は徳川宗家恒孝氏

三方ヶ原から浜松城へ行く途中にある犀ヶ崖古戦場跡
この谷に布の橋を架け武田軍を誘き寄せて落としたとか。この辺の字も布橋として残る。

古戦場の碑

城南にある家康公鎧掛松
三方ヶ原の合戦から帰還した際に鎧を掛けたと伝わる。

城内にある家康公像
右手に持つのは羊歯印。

浜松城遠景

天守閣上から見た天守門
天守門は140年振りに復元。

天守門と桜

お昼は「うな吉」にて ¥3,200
焼き方は関西風で、お店の人の話では、浜松は関東風と関西風が錯綜しているらしい。

浜松市マンホール蓋 何種類かあるうちの1種。

浜松市マンホールカード 配布場所はこちら

浜松葵西郵便局 ; 姫街道の松並木、赤松・黒松、姫
浜松北郵便局 ; 鰻の外枠に姫街道の松並木、遠州大念仏
花川郵便局 ; 花川運動公園のテニス風景、姫街道の松並木、三方ヶ原合戦の兵士
浜松三方原郵便局 ; 三方ヶ原合戦の徳川家康、武田信玄、古戦場の碑、根洗の松
[参考書]
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【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR富士(7:29→7:45) → JR身延(9:01)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
身延駅(9:08) → 山梨交通バス → 久遠寺(9:20→9:45) → 山梨交通バス → 身延駅(9:57) → JR身延(10:33) → JR下部温泉(10:45→12:11) → JR西富士宮(13:30)→ 徒歩15分 → 富士浅間神社 → 徒歩10分 → JR富士宮駅
【復路】JR富士宮駅(16:42) → JR富士(17:00→17:03) → JR熱海(17:42→17:51) → JR横浜(19:16)

富士山本宮浅間大社(駿河國一之宮)
午後は身延線で富士宮に戻り、富士山本宮浅間大社に御参り。
全国に1300余ある浅間大社の本社。大宮司は代々富士氏が務め「日本三大宮司」の一つとされています。
浅間とは古では活火山の事だそうで、富士山を御神体とするのでこの名がつけられたのでしょう。
竹取物語にも登場する位有名ですが、それはその形が優雅で周囲に高い山がなく孤立して聳えている事が神々しく
人に畏敬の念を抱かせたのでしょう。
御祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)ですが、かつては浅間大神と呼ばれていました。
奥宮は富士山山頂で本宮と奥宮がこれほど離れている例は他にはないのではないでしょうか?
創建については十一代垂仁天皇の御代と言われますが、「富士山の山霊を鎮めるために大同一年(806年)に建立された」
というのが確からしい所。古代では噴火の度に朝廷より使者が遣わされたと言います。
その怒りを鎮めるために位を授けるそうですが、どれだけ効果があったものか。
現在の本殿は関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が慶長九年(1604年)に本殿・社殿をはじめ30余棟に及ぶ大造営を行ったもの。
一富士二鷹三茄子と言う位ですから、富士山に力を入れたのは当然でしょう。
その甲斐あっていまは重要文化財兼世界遺産となっています。
境内には湧玉池といって富士山の天然水が境内に湧き出している場所があります。
かつて訪れた阿蘇神社でも境内には水が湧き出しており、神社が水の権利を握って周辺を支配していたのではと想像します。
快晴に恵まれ、桜と富士山いう日本的な景色に振れた1日でしたが、同時に金と水の重要性を再認識した日でもありました。

西鳥居

楼門

重文・富士山本宮浅間大社本殿(拝殿)
徳川家康により1604年に造営

本殿の浅間造
三間社流造の二階を持つ檜皮葺建造物で高さ13m。

浅間大社境内

拝殿横の桜

湧玉池

湧玉池説明板

池の透明度

富士山を背景に
富士山に降った雨や雪は時間をかけ土中で濾過され湧水となる


湧玉池から市内に流れる神田川

湧玉池交差点より富士山を望む

富士山本宮浅間大社説明書

浅間大社御朱印

富士宮郵便局 ; 重文・富士山本宮浅間神社本殿、桜、富士山
富士宮宮町郵便局 ; 重文・富士山本宮浅間神社本殿、桜、富士山
[参考書]
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【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR富士(7:29→7:45) → JR身延(9:01)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
身延駅(9:08) → 山梨交通バス → 久遠寺(9:20→9:45) → 山梨交通バス → 身延駅(9:57) → JR身延(10:33) → JR下部温泉(10:45→12:11)

身延山 久遠寺(日蓮宗)
首都圏の桜もピークを迎えブログやFBでもアップされています。
私も開業90周年の身延線で富士山の麓まで出掛けてみよう思いましたが、どうせ行くならと早めに出て身延まで。
身延線は富士身延鉄道と言う私鉄が母体。
久遠寺はじめ寺院があるので巡礼者を目当ての開業でしょうが、私鉄なので駅間が短く、とにかく良く停車します。
鈍行だと甲府までの90㎞を2時間半、特急でも1時間45分。関西ならば新快速で60分の距離です。
日蓮宗総本山身延山久遠寺は路線名にもなった古刹。日蓮宗の総本山で文永十一年(1274年)、日蓮の開山。
日蓮宗の大本山は各地にありますが、ここは大本山より格上だそうで、
日蓮が生前に自分で選んだ場所だけに他の寺院も畏れ多いと言う事でしょう。
三門までは土産物屋が並びますが、三門をくぐると荘厳な雰囲気。ここが俗界と聖界の境でしょうか。
これに続いて標高差100m、287段の菩提梯を登って本堂へ、更に奥之院へと続いています。
四半世紀前に訪れた時は、菩提梯をやっとの事で登り本堂へお参り。
この山中にこれだけの伽藍を建てた事自体、深い信仰の証ではないかと思ったものでした。
本堂の枝垂れ桜を初め桜の名所ですが、この日は次の予定の為、門前で引き返し。
けれど桜に彩られた久遠寺を見ただけでも山梨まで来た【甲斐】があったと言うもの。
早起きは【三門】の得とはよく言ったものです。

JR身延駅周辺の桜と後ろを流れる富士川

バス停から徒歩3分で久遠寺三門へ

総欅造り、高さ21m、奥行き21mの三門

身延山扁額と桜

三門前の桜

久遠寺御朱印
日蓮宗以外の宗派の御朱印があると「妙法」と書く習わしだとか。これは25年前の2月訪問時で、翌二月十二日は雪で中央線が止まった記憶が。

三門前にある身延山郵便局

スイーツは身延駅前で購入した「みのぶまんぢう」¥65
次に向かった下部温泉は信玄の隠し湯。
駅周辺にホテル・旅館が並ぶ姿を見ると隠し湯と呼ぶのも変ですが、
ここは信玄がこっそり入浴した場所ではなく兵士の野戦病院として用いられていたようです。
戦上手として知られる信玄ですが、戦のフォローも抜かりがなかった訳ですね。
ここから徒歩1時間の山奥にある毛無山(1964m)は湯之奥金山があった場所。
信玄の軍資金であった隠し金山に相当するのでしょうか。
なんでも隠すとはセコい感じがしますが、『兵は詭道なり』と孫子の兵法にもあります。
信玄は戦に強い戦術家ではなくより広い視野を持った戦略家と言うのがより現実に近い姿かと思います。

5年前より無人となったJR下部温泉駅

桜の向こうに見える下部温泉郷

駅から徒歩10分の湯之奥金山博物館

湯之奥金山博物館の金山復元模型

駅前の下部郵便局
風景印の説明書きが表にあるのは珍しい。

身延山郵便局 ; 宗紋の枠内に祖師堂、奥之院思親閣、真骨堂
下部郵便局 ; 下部温泉郷、信玄公の隠し湯を表すマーク

昼食は駅前にて「桜」と「紅葉」の「馬鹿丼。「うまかどん」と読み「ばかどん」ではない。¥800
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図説 一度は訪ねておきたい!日本の七宗と総本山・大本山 (青春新書インテリジェンス) 新品価格 | ![]() |

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【往路】JR大阪(6:33) → JR米原(8:01→8:03*) → JR大垣(8:37→8:40☆) → JR名古屋(9:14) → JR豊橋(10:09) → 新豊橋10:15) → 三河田原(10:50)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
三河田原駅 → レンタサイクル → 田原城址 → 池ノ原公園 → 城宝寺 → 三河田原駅(14:02) → 新豊橋 → JR豊橋(14:50) → 蒲郡(15:01→名鉄15:11) → 東幡豆(15:27) → 徒歩5分 → はず観音 → 東幡豆(16:11) → JR豊橋(16:32→16:46)
【復路】JR蒲郡(16:46) → JR米原(18:41→18:47*) →JR大阪(20:12)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム

性海山 宝樹院 妙善寺(浄土宗西山深草派)
田原の後は東海道の蒲郡から名鉄で東幡豆まで。
私の持っているガイドには「かぼちゃ寺幡豆観音」とありますが、現地表記はハズとカタカナ。
「そんなハズは」と駅から歩くこと3分で到着。
ハズ観音こと性海山宝樹院妙善寺(しょうかいざんほうじゅいんみょうぜんじ)は三河湾が目の前に迫る海岸に建つ古刹。
なんでも寺伝によれば天平年間に行基が開創した寺院が始まり。
その後は天台宗の寺院でしたが、安土桃山時代の天文年間に利春僧都が再興して西林寺と名を変え、
更に江戸時代の寛政年間に妙善寺となり今に至ります。
政争に巻き込まれ易い土地柄だったので隆盛衰退を繰り返し、都度寺名や宗派が変わっていったのでしょう。
「ハズ」と表記する理由をお寺の方に尋ねると、「幡豆だとバンズとかハタマメと読まれるので…。」との事でしたが、
全国にはもっと難読の寺名もあるので、これくらいの読みは問題ないとは思いますがどうなのでしょうか?

無人の名鉄東幡豆駅にある案内板

ハズ観音の門前に到着

山門

山門から外を見ると三河湾がすぐそこに迫る

境内遠景

本堂

本堂の扁額

境内のイヌマキの巨木
「かぼちゃ寺」の名前については門前の看板に由来があって、
『利春僧都が住職の時に観音様のお告げで門前の浜に打ち上げられたかぼちゃを得た。』
とあります。
かぼちゃの原産地は中南米で南蛮貿易の時代に日本に伝来。
1541年にポルトガル船が豊後の大友宗麟に伝えたのが最初とされます。
別名を唐茄子・南京瓜と言う位ですし「かぼちゃ」もカンボジアが訛ったものなので南から来たという意識があったのでしょう。
時代的には合致しますが、椰子の実と違って皮が柔らかいので遠くの海から流れ着くものかどうか?
人間は食文化に関しては保守的ですから、栽培が容易で栄養価も高いかぼちゃを広めるために観音様のお告げを持ち出した、
というのが真相ではないでしょうか。
そう言ってしまえば身も【ヘタ】もないですが、結果的にはこの作物の御蔭で人が救われるようになったのですから、
お告げは【ハズ】レではなかったと言えますね。
お寺も冬至の日に全国かぼちゃサミットを開催するなどカボチャを積極的に前に出しています。
本堂前には「かぼちゃ茶」なる接待も。成人病や中風の予防にも効果があると言うことなので、
これからの高齢化社会に向けて益々繁盛するのではと思います。
かぼちゃが馬車になることはないでしょうが、地元の檀家さんに還付金(パンプキン)があるかもしれません。

かぼちゃの由来記

本堂内から
右手に「かぼちゃ茶」の接待が。

冬至の日にはこの場所で「かぼちゃしるこ」の接待がある

庫裡(くり)の前にあるかぼちゃ

ハズ観音 説明書

ハズ観音御朱印

東幡豆郵便局 ; アサリ、槙の木、兎島と猿島、三河湾
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
【往路】JR大阪(6:33) → JR米原(8:01→8:03*) → JR大垣(8:37→8:40☆) → JR名古屋(9:14) → JR豊橋(10:09) → 新豊橋10:15) → 三河田原(10:50)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
三河田原駅 → レンタサイクル → 田原城址 → 池ノ原公園 → 城宝寺 → 三河田原駅

辨天山 長昌院 城宝寺(浄土宗)
最近は江戸の時代小説がブームで、出版社の宣伝月刊誌にも1冊に1~2話掲載されています。
そのなかで江戸後期の作品にしばしば渡辺崋山の名が登場します。
教科書で習った記憶では国宝「鷹見泉石」を描いた画家で、蛮社の獄に連座して悲劇的な生涯を終えた芸術家ですが、
調べてみると三河田原藩士で家老職まで至った政治家だそうです。
田原なら日帰りで行ける距離なのでその足跡を辿るべく繰り出しました。
が、生憎人身事故等で遅れ三河田原到着は11:50と予定より1時間遅れ。
しかし駅に無料のレンタサイクルがあったのでそれを利用、電車の遅れを自転車で取り戻すことができました。

豊橋鉄道新豊橋駅ホーム
日中は15分間隔で運転と旅行者には非常に便利である。
崋山は田原藩士の子として江戸で生まれましたが、子供の頃は家が貧しく勉学にも苦労したようです。
唯、絵画の才能があったので絵を売って家系の足しにしていたとか。
武士が絵を売って生活するのは幕藩体制から見るとあまり宜しくないですが、古い因習に捕らわれない考えがあったのでしょう。
その後は少しずつ出世し四十歳で家老に就任、藩政改革に乗り出します。
当時は江戸初期の米中心の経済がほぼ限界に達しており、商品流通を中心とした新たな経済を考える必要がありました。
が諸藩には【諸般】の事情があり思うようにはいきません。
そんな中、崋山は商品作物の導入や武士の内職を奨励しています。
特に報民倉と呼ぶ食糧備蓄庫を準備していたことで天保の大飢饉(1836年)では藩内に一人の餓死者も出さず、
全国で唯一幕府から表彰を受けるという栄誉を得ます。
鎖国についても否定的な意見で諸外国との交易で利益を得ようと考えていた節があります。
しかし絵画を通じて知り合った蘭学者とも交流があった事、著作『慎機論』が幕府批判と見做された事、
と悪いことが重なり田原藩に謹慎。謹慎中に絵画を描いて売った事が咎められそうになり自ら命を絶ちました。
何事にも先駆者には悲劇がつきものですが、崋山の切腹はペリー来航の僅かに十二年前。
もし存命であれば国の方針に寄与する事もあったでしょうが運が悪かったとしか言いようがありません。
後世、城の傍らに崋山神社ができますがこれは地元民の要望によったとか。
思うに単に【鷹見】に立って【譴責】するのではなく、領民目線を持って行動した事が偉い所であったように思います。

田原城惣門横にある報民倉(食糧備蓄庫)

報民倉の説明

大手公園にある渡辺小崋(崋山次男)の絵画の複製

渡邊小華の肖像
崋山が死んだ際には7歳であったが、兄の死を受け家督を相続、家老職に就いた。絵画でも才能を発揮。

公園内の宿木
常緑のため好まれるが、元来寄生植物である。

田原中部小学校横に立つ藩校跡の碑

田原城址
文明十二年(1480年)に戸田宗光により築城。当時は城の周りが海に囲まれその湾の形から「巴江城」と呼ばれた。江戸中期からは三宅藩1万2千石の居城。石垣・堀・土塁が残る。

復元された桜門(大手門)

復元された二の丸櫓
この奥は田原市博物館となっているがこの日は展示替えのため休館であった。

城内に鎮座する巴江神社

桜門向かいにある田原市民俗資料館

城横にある崋山神社
昭和8年に地元の人によって創建。

池ノ原公園
崋山が晩年過ごした屋敷跡、東屋、散策路がある。

池ノ幽居跡
崋山が天保十一年(1840年)二月十六日より翌十二年十月十一日に切腹するまで家族と住んだ住居を1955年に復元。

公園内の崋山の像

公園にある椿の小径

田原まつり会館にて祭りの山車を展示

田原まつり会館にて大凧を展示
田原の凧は他と異なり横型長方形である。
田原散策の〆は駅近くの城宝寺へ。寺伝によれば
『ここには渥美半島最大の古墳があり、弘仁二年(811年)、空海がここに立ち寄った際に弁財尊天造りをその頂上の堂に祀った』
のが始まりとされます。
かつては田原城近くまで海が迫り、城の南のこの辺りも海があり所縁の弁天様を高い場所に祀ったと言えそうです。
しかし伝説の域で、『応永二年(1395年)に讃誉空山上人が浄土宗に改宗、同五年に幸徳法印により創設』
というのが実際のように思えます。
永禄七年(1546年)には徳川家康により田原城の鎮護の寺として城宝寺と改称。
この付近には四ヵ寺集まっており、有事の際には兵を駐屯させる意図があったのでしょう。
渡辺崋山もここを墓所としており、本堂奥には崋山の霊牌堂があります。
その天井には有名な日本画家による55枚の花の絵があります。
画家としての崋山に敬意を表したもので、¥200で名画を鑑賞することができました。
お寺の方に伺ったところ全て作者からの寄進との事、これも崋山の遺徳の一つと言えそうです。
彼のような生き方は我々凡人には真似できないでしょうが、これを【他山の石】にと言ったら泉下の崋山に怒られますかね?

城宝寺入口
樹木が生い茂っている場所が城宝寺古墳。

山門

山門近影

古墳の横穴石室

古墳の上に建つ弁天堂

弁天堂からの眺め

弁天堂を下りて本堂へ

城宝寺本堂

本堂より弁天堂を望む

本堂奥にある崋山霊牌堂

側壁の作品

天井画





城宝寺御朱印

田原郵便局 ; 田原城二の丸旧櫓、渡辺崋山像、田原凧祭の大凧
[参考書]
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<コース> 春の青春18きっぷ
JR大阪(6:33) → JR米原(8:00) → 徒歩30分 → 蓮華寺 → 徒歩30分 → 醒ヶ井
米原から旧中山道(1日中やまみちではない)を通り、JR醒ヶ井駅まで徒歩巡礼。
途中、名神沿いにある中山道番場宿に寄り道。
長谷川伸の戯曲「瞼の母」に登場する番場の忠太郎で知られます。
幼い頃に生き別れた母と再会をする話ですが、作者の長谷川伸自身も幼くして母と生き別れ、
作家として名が出て以後に母と再会するという小説宛らな数奇な運命を辿っています。
その忠太郎地蔵があるのが古刹蓮華寺。

米原駅東口付近からスタート

徒歩30分で番場宿に到着

八葉山 蓮華寺(浄土宗本山)
名神高速の傍に佇む。
その由来は古く、厄1400年前に聖徳太子に拠って創建され当初は法隆寺と称していましたが、建治二年(1276年)落雷で焼失。
その後、弘安七年(1284年)にこの地の地頭である鎌刃城主土肥三郎元頼が法然の法曾孫に当たる一向上人に帰依して再興。
以後、時宗一向派本山の念仏道場として栄え、後には浄土宗に宗旨替えして現在に至ります。
それに加えこの寺は鎌倉幕府滅亡時に六波羅探題の北条仲時以下430余名が進退窮まって自刃した所。
元弘三年(1333年)5月7日の京都合戦に敗れた北条勢は北朝の光厳天皇・後伏見、花園の二上皇を奉じて中山道を下りますが、
番場の宿で南朝方の京極(佐々木)道誉らに包囲されてその武運も尽きました。
太平記(第二巻)にはその名前が列挙してありましたが、
寺には時の住職同阿上人が彼らの姓名と年齢を記した過去帳が展示してあり、裏山には彼らの墓碑もありました。
戦乱の世にあってもこのような勇気ある行動を採った人が居た事を我々は忘れるべきではないでしょう。

山門(勅使門)

蓮華寺説明板

本堂
この前庭で、北条一門が自刃したと伝わる。本尊は阿弥陀如来と釈迦如来。

蓮華寺庭園

裏山にある北条仲時一行供養の墓碑
今でも、子孫に当る方々が供養されているとの事。その名簿を見ると、赤橋・土肥といった当時の御家人の名前があった。

番場の忠太郎地蔵
長谷川伸の「瞼の母」の主人公。親子を巡り合わせるべく昭和33年に建立。長谷川伸も幼い頃、実母と別れ後年数奇な再開を果たしている。

蓮華寺説明書
御朱印は住職不在の為、後日を期すことに。

番場宿の街並み
その後は歩いて醒ヶ井まで。
名前はその昔、日本武尊が伊吹の大蛇の毒気に苦しんでいるときに、その水を飲んだら治ったことに由来するとか。
番場も醒ヶ井も血腥い歴史を持っていますが、いまは想像もつかないような静かな町。
日本の名水にもなって居り、梅花藻やハリヨが泳ぐ姿も見られます。

醒ヶ井宿
地蔵川に架かる橋。

旧醒ヶ井郵便局
近江八幡の建築家ヴォーリズが設計。

醒ヶ井宿に残る問屋場
今の問屋ではなく、街道を行く大名等の事務的な仕事をしたところとある。

地蔵川と梅花藻(キンポウゲ科)
5月には水面に花が咲く。藻の周囲には水生昆虫が集まりそれを食べる「ハリヨ」が生息している。

醒ヶ井清水の源泉付近

説明板

日本武尊の像

醒ヶ井宿場の街並み
[参考書]
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<コース> 春の青春18きっぷ
【往路】JR東京(23:10) → 快速ムーンライトながら → JR岐阜(5:32→5:37) → JR高山(8:44→9:40) → JR飛騨古川(9:57)
JR飛騨古川駅 → 徒歩10分 → 三寺参り → JR飛騨古川(10:51) → JR高山(11:13) → 飛騨国分寺 → 桜山八幡宮 → 上三之町 → 高山陣屋 → 飛騨国分寺 → JR高山
【復路】JR高山(14:49) → JR美濃太田(17:32→17:35) → JR岐阜(18:07→18:21) → JR米原(19:09→19:18) → JR大阪(20:42)

醫王山 飛騨国分寺(高野山真言宗)
櫻山八幡宮に続き、街並みを見ながら飛騨国分寺へ巡礼。
上三之町から下二之町にかけて人が多いのは昔も今も変わりなく別段驚きません。
が、外国からの観光客が多く、中でもタイとイスラエルからの人が増えているのだとか。
街を行くとワイドビューならぬワールドビューと言った雰囲気。
杉原千畝さんが岐阜出身という事も理由だそうですが、それだけではなさそうです。
地道に観光誘致に努力してきた以外にも、日本に住んでいる人間には分からないこともまだまだあるような気がしました。

上三之町付近

上三之町付近

上三之町付近

下二之町付近
右が老舗和菓子の「分隣堂」

おやつはみたらし¥90×2本
高山は【屋台】が有名。
最後は駅近くの国分寺へ。
高山市内の寺院は東山山麓に集中していますが、国分寺だけは駅の近く繁華街のド真ん中にあります。
それだけ歴史が古いという証でしょう。寺伝に拠れば、
『天平十三年(741年)、聖武天皇の国分寺建立の詔勅が出された後の天平十八年(746年)に行基により建立された』
と言われます。
当初は七重塔を持った壮大な伽藍でしたが、その後焼失と再建を繰り返す中で三重塔になりました。
半分以下の高さになった訳ですが、文化四年(1807年)に再建した塔は高山の名工・水間相模の手になるもの。
新しいからと言って価値が下がるものではありません。
また境内の大銀杏には孝女八重菊の悲話が伝わっています。
『天平の大塔が建った時、大工の棟梁は誤って柱を短く切ってしまい困っていたところ
、娘の八重菊が桝組で塔を補うことを教えたので塔は無事完成した。
後になって棟梁は秘密を守るために娘を殺し境内に埋め、傍らに銀杏を植えた。
銀杏は薄命の八重菊に代わって樹齢1200年経った今でも生き続けている。』
と言うもの。
柱の寸法を間違えるとは匠とは思えない失敗ですが、京都の千本釈迦堂にも「おかめさん」にまつわる似た話があり、
時代的には飛騨の話が前ですが実際はその焼き直しのような気がします。
『地獄変』ではないのですから秘密のために娘を殺すというのはどうしたものか。
実際に早世した娘がいて、それを哀れに思った人が作り上げた伝説といった所でしょうか?
また戦国時代に焼失した本堂は、元和元年(1616年)金森氏が三上郷山田村から薬師堂を移築して再建。
鐘楼門は高山城からの移築と経費を抑えながら再建に着手しています。
近世以前は記録が殆どない飛騨地方でさえ、戦乱の波は押し寄せたと言うことでしょう。
開創当初のものは七重塔の礎石、行基作と言われる本尊薬師如来、本堂前の大銀杏くらいですが、
各地の国分寺跡を見ているだけに法灯を今に伝えた事に敬意を表したい思いです。
ここにも飛騨の【巧み】な手腕を感じます。

飛騨国分寺入口

山門

鐘楼門
重層入母屋造りで下層は高山城から移築。

重文・本堂
室町時代の建築様式を誇る単層入母屋造りで、内部には行基作とされる重文・薬師如来と春日仏師作の重文・聖観世音菩薩がある。

樹齢1200年とされる大銀杏
乳の出ない婦人に授乳の効果があると信仰される。

寺務所 御朱印はここで拝受。

三重塔

三重塔の垂木部分
飛騨の匠の技術が生きる。

山門横の庚申堂

高山と言えばやはりこれ

飛騨国分寺 説明書 拝観券を兼ねる。

飛騨国分寺オリジナル御朱印帳
四半世紀前は青色だけだったが今は赤系列もある。

飛騨国分寺御朱印

高山郵便局 ; 重文・国分寺三重塔、屋台、中部山岳
[参考書]
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【往路】JR東京(23:10) → 快速ムーンライトながら → JR岐阜(5:32→5:37) → JR高山(8:44→9:40) → JR飛騨古川(9:57→10:51) → JR高山(11:13)
JR高山駅 → 徒歩10分 → 桜山八幡宮

櫻山八幡宮
飛騨古川巡礼の後は高山に戻って街並みを散策。
一般には飛騨高山として知られますが、市名・駅名共に高山。同じ名の行政区がなかったからでしょうね。
古代より飛騨地方の中心、1970年代国鉄のディスカバー・ジャパンでは多くの旅行者を引き寄せました。
飛騨の小京都の威力は今も健在。
今回来て駅舎の変貌ぶりに先ず驚きましたが、海外からの観光客に備えての事でしょうか?
そんな高山ですが、古代から中世にかけて公の記録に「何もなし」という記載が長く続いたとか。
目ぼしい産業がなかったからでしょうが、山に囲まれた立地条件が逆に「飛騨の匠」を生む素地になったとも言えます。
高山祭は屋台が町を廻りますが、屋台に仕掛けられた 「からくり」 が見物、紛れもなく飛騨の匠の技です。

JR高山駅舎
かつては平屋で瓦だった気が。

下二之町
布引橋を北に渡った通り。

吉島家住宅
右上部に立ち上がっている袖壁は防火用の塗塀で火垣と言うもの。一般には「卯建(うだつ)」と呼ばれる。

宮地家住宅

宮地家での雛祭の展示
宮川の東側にある三町筋は黒光りする連子・千本格子飛騨の匠の伝統が生きた街並み。
その下二之町を通って向かった先が櫻山八幡宮。
秋の高山祭で知られ、鬱蒼とした森を背景に桜山の麓に鎮座しています。宮前橋を渡って鳥居をくぐる事3回。
総檜造りの社殿に至ります。社伝に拠れば、
『その昔、飛騨地方を支配していた両面宿儺を誅伐した武振熊命が応神天皇を祀った』
というのが始まり。
神話時代に近いですが、1000年以上の伝統があるのは間違いないようです。
その後、江戸時代に領主だった金森氏が高山城の北の守護神として再興、天領時代を経て今に至ります。

宮前橋を渡った所にある三の鳥居

八幡宮表参道

二の鳥居

八幡宮境内へ向かう

一の鳥居

神門を通りいよいよ社殿へ

櫻山八幡宮拝殿
総檜造りで本殿はこの奥に鎮座。

神門にある桜の神紋

拝殿から見た境内 分社がある。

神門前の庭

櫻山八幡宮御朱印

昼食は駅前の蕎麦「小舟」にて

飛騨牛せいろ蕎麦 ¥1,550

〆は山菜御飯 ¥230 と蕎麦湯

高山祭で屋台が通る中橋から陣屋方面を見る

高山市政記念館

高山陣屋

高山市マンホール蓋

高山市マンホールカード 配布場所はこちら

高山上一之町郵便局 ; 高山祭神楽台、古い町並
高山八幡郵便局 ; 高山祭の屋台・布袋台、重文・旧日下部家住宅
[参考書]
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JR飛騨古川駅 → 徒歩10分 → 三寺参り → JR飛騨古川(10:51)

円光寺・真宗寺・本光寺(浄土真宗西本願寺派)
関西在住だと、同じ岐阜県でも美濃は近いけれども飛騨は遠い所。
青春18きっぷのみで行くと乗り継ぎの悪さもあって高山は15:27着となり現実的ではありません。
ところが東京から「ムーンライトながら」に乗った場合、早朝に現地に行けることが判明。
利用しない手はないと夜行の疲れを気にしながら一路飛騨路へ。
高山の先の飛騨古川は高山を一回り小さくした街。
16世紀に金森可重(ありしげ)が増島城主となり、高山に似せた町割りをしたので似ているのも道理。
古い町並みが三町筋あるのも同様です。
街を流れる瀬戸川には白壁土蔵が影を落としていますが、ここは町人と武士の住まいの境界でもありました。
優雅な眺めの中にも厳しい現実があるようです。
かつてJR大阪駅から通勤する時に向かいのホームに急行「たかやま」飛騨古川行というのがいつも止まっていました。
四半世紀前に行った時は、水路と土蔵が映える街並みでしたが観光客は殆ど居らず。
今回は映画「君の名は」の舞台になったとかで聖地になって居りましたが、それでも観光客は少ない方。
やはり東京や大阪から行き難いのがネックなのでしょう。

白壁土蔵を模した飛騨古川駅舎
四半世紀前と変わらず。

まつり広場にある飛騨古川起し太鼓
¥100で打つのが可能

瀬戸川と白壁土蔵群
円光寺横にある渡辺酒造店の土蔵。瀬戸川は400年前に増島城の濠を利用し水田開発のために引かれたもの。川の西側が町人街に当たる。
街中には大きな寺院が三ヵ所あるので、急ぎお参り。
照曜山円光寺(しょうようざんえんこうじ)は駅から最も近く瀬戸川沿いにあるお寺。
開基は1514年で山門は増島城の城門の移築、本堂は寛文七年(1667年)の再建で室町様式の名残を留めています。
本堂の軒下には水呼びの亀の彫刻があって明治37年の大火の際には類焼を防いだとか。

瀬戸川を通り円光寺へ

円光寺山門 朝市の様子。

円光寺本堂
「水呼びの亀」の彫刻がある。

瀬戸川の続きにある蒲酒造場
続いて宮川と荒城川の合流付近に行くと朝光山真宗寺(ちょうこうざんしんしゅうじ)に。
開基は1502年ですが、1589年に国守金森氏から境内地が寄進され現在の場所に移りました。
当初は東本願寺系でしたが、宝永二年(1705年)西本願寺派へ転派しました。
藩主所縁の寺ですが、明治の古川町大火で経蔵のみを残して全焼したのが惜しまれます。亀の彫刻がなかったせいでしょうか。

真宗寺

真宗寺山門

山門近影
平成の建造だが飛騨の匠の技は健在。

真宗寺本堂

麒麟・龍・亀が素晴らしい本堂の彫刻

真宗寺鐘楼

荒城川に架かる今宮橋から見た真宗寺
赤い欄干の宮川橋を眺めつつ、荒城川を遡ると次の橋の袂に佇むのが、白豹山本光寺(はくひょうざんほんこうじ)。
1532年開基となっていますが、一説では親鸞聖人開基と言う故事のある古寺。
そのためか山門脇には開祖の銅像が建っています。こちらは宝永三年(1706年)大谷派から西本願寺派への転派です。
境内を囲む玉垣には野麦峠を越え信州へ出稼ぎに出た女工さん達の寄進の名前が刻まれています。
そして川向いの八ツ三旅館は彼女達の宿泊した宿だとか。調査不足で今回はスルーしてしまったのが悔やまれます。

本光寺

本光寺山門

ここにも飛騨の匠の技が

本光寺山門横にある開祖親鸞聖人像

本光寺鐘楼

本光寺本堂 明治37年の大火で焼失後の再建。

本光寺屋根の装飾
三寺共に浄土真宗西本願寺派、大きな山門と大伽藍の本堂と鐘楼が特徴の大きな寺院でした。
真宗寺でたまたまお寺の方が、境内に居られたので話を伺いましたが、北陸の浄土真宗との関連は分かりませんでした。
浄土真宗なので御朱印はなし、玄関には「御朱印対応は致しかねます」の張り紙も。昨今のブームで来る人も多いのでしょう。
立ち去ろうとすると門前の「飛騨古川さくら物産館」に三寺参り朱印¥520の張り紙が。
印刷したものに判を押したものですが、折角なので購入。これも【円結び】でしょうかね。

三寺まいり 御朱印録
真宗寺横の「飛騨古川さくら物産館」にて

飛騨古川三寺の御朱印セット
但し、縦に長いので下を切らないと御朱印帳に貼れないのが難点。
それよりもここは二百年続く1月15日の三寺(みてら)参りが有名です。
この日は開祖親鸞聖人の遺徳を偲び参拝する訳ですが、通りには蝋燭が灯されるのが習わし。
『嫁をみたての三寺参り、髷を結わせて礼まいり』
と唄われたように明治・大正期には信州に出稼ぎに行った女工さんが一年の奉公を終えて年末に帰省、
お参りしたので良縁が多く生まれたと言われます。
蝋燭の明かりの効果もあったでしょうが、男たちが【見てら】と思った女性たちは精一杯着飾った事でしょう。
古川は勇壮な起し太鼓でも有名ですが、これも男女の出会いの場だった可能性が大。
古代の歌垣で男女の恋が芽生えたように、近世でもそのような出会いは地域で積極的に作っていたように思います。
映画の聖地の背景にはこんな歴史もあったのですね。
女工さんと聞くとすぐ女工哀史が思い浮かびますが、繊維は国家の基幹産業で農家の副業としては換金性が最も良いことで有名でした。
彼女たちが宿泊した宿も当時とは内容が変わってはいるでしょうがネットで調べると「飛騨古川 料理旅館 八ツ三館」として今も運営しています。
そのことを考えると野麦峠・女工哀史も割引いて考える必要があるのではないでしょうか?
こうして1時間足らずでしたが三寺参り完了。尤も私の場合は「嫁をみたての」ではなく【余命見立ての】ではありましたが…。

飛騨市マンホール蓋

飛騨市マンホールカード 配布場所はこちら
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