<コース> 新快速は30分間隔、バスは60分間隔で運転
JR大阪(7:45) → (新快速) → JR近江八幡(8:56→9:15) → (近江鉄道バス) → 川守(9:31) → 徒歩10分 → 龍王寺
又は
JR近江八幡 → レンタサイクル45分 → 龍王寺

雪野山 龍王寺(天台宗)
竜王町は鉄道が通っていませんがバスの便は良く1時間毎の運転。ダイハツの工場があるからですが、昔から琵琶湖から東へ道が通じる要衝でもありました。
町はずれにある雪野山は標高308mのハイキングコースですが、東からはなだらかな稜線が見えます。
その麓、日野川近くにあるのが雪野山龍王寺(ゆきのさんりゅうおうじ)、町の名前にもなった古刹。
ぜんそくに効果がある「へちま寺」として【ぜんこく】に知られています。
創建は古く、和銅3年(710年)に元明天皇の勅願で行基が開山、当初は雪野寺の名で「野寺」とも呼ばれました。白洲正子「近江山河抄」でも雪野寺で登場しています。
境内からは奈良時代の遺跡が出土するのでここにあった事は確実。現在の本堂の奥がその跡地と考えられています。
境内には「野寺の鐘」として知られる梵鐘があり奈良時代の製造として重文。加えて次のような伝説が。
『この地に住む小野時兼が一人の美女と契ったが、女は平木(八日市)の沢の主であると言って玉の箱を残して姿を消した。
時兼が平木の沢を訪れると女は大蛇の姿で現れたので、驚いた時兼が帰って玉の箱を開けると鐘があったので雪野寺に寄進した。
そのためこの鐘の竜頭は白布で包まれ人目に触れさせない。』
梵鐘をどうやって箱に入れて持って来たかはさておき、これも竜神伝説の一種。
この梵鐘は火災時に水を放出したり旱魃時に雨乞いをすると慈雨に恵まれたりと霊験もあらたかだったようです。
そのため、寛弘4年(1007年)に一条天皇が「龍寿鐘殿」の勅額を下賜され、雪野寺から龍王寺に寺号も改められました。
境内を散策後、御朱印を拝受すべく呼び鈴を押すと御住職夫人が出て来られました。
和辻;「拝観¥400とありますが…。」
夫人;「住職が本堂内で説明するのですが、外出中で申し訳ありません。」
和辻;「御本尊が拝観できるのでしょうか?」
夫人;「御本尊の薬師如来は秘仏でお盆の日だけですが、脇立ちの十二神将像は御覧になれます。鎌倉時代の作で表面の彩色も残っています。一般の観光寺院とは違うので申し訳ありません。」
和辻;「戦火は無かったのでしょうか?」
夫人;「この付近は戦乱が多く伽藍は焼失しましたが、仏像は持ち出して何とか無事でした。」
御朱印は墨書済のものを購入。
納経所には十二神将の写真があり、それぞれ頭上に十二支獣を載せています。大きさも等身大よりも少し小さいので傍で見たらさぞ壮観だったでしょう。
「田舎なので全て自前です。」との話ですが、境内も綺麗に整備され杉苔が美しい状態。
拝観できなかったのは残念ですが、無人で廃寺にある寺院が多い中、今まで仏像が無事に守られている事は有難い事です。

龍王寺山門

山門から正面に本堂を望む

本堂近影
本尊は薬師如来。

本堂屋根瓦

本堂脇の宝篋印塔
この奥がかつての雪野寺跡

雪野寺跡地


重文の梵鐘を収める鐘楼と宝物館

鐘楼近影

重文・梵鐘
鐘楼手前の窓から撮影。

梵鐘の説明板

宝物殿付近から見た境内

境内の池から鐘楼と本堂を望む

御朱印を拝受すべく庫裏へ向かう

庫裏から本堂を見る

庫裏の前庭の杉苔と幼松

龍王寺御朱印 ¥300
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<コース>
JR上野 → JR北小金 → 徒歩10分 → 本土寺 → JR北小金 → JR松戸 → 徒歩10分 → 戸定邸

長谷山 本土寺(日蓮宗本山 東国花の寺百ヵ寺千葉二番)
梅雨入りしたとは【露】程も感じない晴天の土曜、北小金の本土寺へ。
今回は首都圏なので関東在住の同窓にも声を掛け紫陽花と菖蒲の花見となりました。
東京都松戸市と言われますが、JR常磐線北小金駅北口から商店街を抜けると喧騒が嘘の様に道の両脇に松杉の大木が。その参道を行くこと500mで目指す本土寺に到着。
ここは新羅三郎義光の流れをくむ源氏の名門平賀氏の邸跡で、建治3年(1277年)に領主の曽谷教信により領内の地蔵堂を移し法華堂としたのが始まり。
後に日蓮より長谷山本土寺の寺号を授かります。日蓮の直弟子の日朗が開山となりましたが彼は平賀長国の長男。
日朗の異母弟二人は日像(四条門流祖)・日輪(池上本門寺三世)といずれも日蓮に帰依したので、ここは三聖人御出生の聖跡となっています。
名門の子弟が出家する例は過去も多々あり受入側でも名門の庇護を受けるメリットはあったでしょうが、兄弟が揃って帰依するにはその教えが武家に魅力的だったからに他なりません。
政治が貴族から武士へと移ろう時代に宗教も武士をターゲットにした教えを説いた日蓮は時代の一歩先を見据えていたのだと思います。
東京・池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺と共に「朗門の三長三本」と呼ばれる名刹で、江戸時代には七堂伽藍に四院六坊を加え末寺百数十を統括する屈指の本山となります。
明治期の廃仏毀釈等で寺域は狭くなりましたが、現在では花を植えるなどで堂内を整備。
他派を攻撃した日蓮ですが、日蓮宗の寺院はどこも敷居が低く参拝し易い雰囲気なのはここも変わりません。
紫陽花は少し【アヤメ】もとい早目でしたが菖蒲は見頃、両方を見るには日程の【しょうぶ】所が肝心です。
いずれアヤメか杜若と区別がつかんのが情けなかったですが、美しさは十分堪能できました。
土木が専門の先輩が居られ地形等の詳細な解説も聞くことが出来、ブラタモリの生放送に立ち会った心境です。

松戸探検隊ひみつ堂
松戸駅西口徒歩5分、ここでパンフを貰う。元は米屋で、当主は原田重左衛門氏で今は道向かいの新ビルで営業中とか。

入手したパンフ類

本土寺へと続く欅並木
木陰を作ってくれるので有難い。

長谷山本土寺仁王門

五重塔

本堂への石段

本堂横の紫陽花

本堂に参拝

客殿から菖蒲池へ坂を下る
奥に見えるのは渡り廊下。

菖蒲池にて


杜若と黒揚羽


菖蒲池の奥にある宝物殿

像師堂に御参り
ここは源氏の名門平賀氏(新羅三郎義光の流れ)の邸跡で、平賀氏の三兄弟(日朗・日像・日輪)は日蓮に帰依したことに拠る。

柏葉紫陽花
葉っぱが柏の葉に似ていることから。

境内の紫陽花





長谷山 本土寺説明書

本土寺御朱印
御朱印帳は日蓮宗だけではないので「妙法」と記載。御朱印所は12~13時まで休憩で13時に行くと15人位待ち。昨今のブームは凄い。

拝観後の小休止は門前の赤門(東大ではない)にて
これは大豆ソフト¥350。
昼食は地元の先輩も合流され駅前のフレンチ Mon Lapinへ。少し筋を入るだけで閑静な雰囲気、女性に人気なのも分かります。今日も若い女性やかつての若い女性で一杯でした。
東京都松戸市と言われますが、やはり23区を離れると値段も手頃。プチランチ¥1980はお得、もって【きた小金】で十分満足できる上、デザート1品追加も¥150でOK。
その後、松戸の戸定(とじょう)邸へ行き、明治期の徳川将軍屋敷を見学。7万㎡の敷地ながら派手さはなく質素な造り、庭から富士山が見えるのが唯一の贅沢でしょうか?
今回の松戸観光で分かった事は、
① 東京のベッドタウンだが意外と見所がある。
② ラーメン激戦区ながら他の美味しい店がある。
③ 松戸から市川までバス1本で帰れる。
でしょうか。観光地としては発展【とじょう】ですが、今後を【まつど】ですね。

Mon Lapin(山のウサギの仏語とか)にて
これはオードブル

玉葱のスープだったか?

メインの豚バラ肉

デザートはキャラメルムースとバニラ

戸定邸中庭

戸定邸内蔵には葵の御紋が

昭和初期にできた浴槽にて
「語られぬ 湯殿に濡らす 背中かな」

座敷の葵の透かし彫り

蝙蝠の透かし彫り
蝙蝠は中国語で遍福と音が同じで縁起が良いとされる。

松戸市マンホール蓋 その1
松戸市の木がユーカリなのでコアラ。一体、どんなゆーかりが?

松戸市マンホール蓋 その2
矢切の渡し

松戸矢切郵便局 ; 矢切の渡し、「野菊の墓」文学碑
松戸二十世紀ヶ丘郵便局 ; 名勝・徳川昭武建造の戸定邸、矢切の渡し

国鉄民営化前後のJR北小金駅スタンプ
[参考書]
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<コース>
JR大阪(5:55) → JR草津(6:53→6:59) → JR貴生川(7:25→7:40) → (近江鉄道) → 桜川(8:23) → 徒歩35分 → 石塔寺 → 桜川(10:12) → 八日市(10:23) → レンタサイクル → 八日市(14:18) → 日野(14:41) → レンタサイクル → 日野街並み → 日野(17:08) → 貴生川(17:27→17:33) → JR草津(18:00→18:06) → JR大阪(18:57)

阿育王山 石塔寺(天台宗)
出張の谷間の火曜日、早朝から近江鉄道へ。石塔寺(いしどうじ)の山号は阿育王山「あいいくおう」ではなく「あしょかおう」と読みます。
寺伝によれば
『創建は推古天皇の御代で聖徳太子が近江に建立した48ヵ寺の満願寺として本願成就寺と呼ばれた。
その後、平安中期の長保3年(1003年)比叡山の僧寂照法師が入宋の折、清涼山の僧侶から次の様な話を聞いた。
・インドのマウルヤ王は仏教に帰依し八万四千の仏舎利塔を造り全世界に撒いた。その二基が日本に飛来し、一つは琵琶湖に沈み、もうひとつは近江の渡会山中に埋まっている。
と。寂照法師はこのことを手紙で日本に送り、三年後手紙を入手した播州随願寺の義観僧都が一条天皇に奏上。
帝が探索された所、現れたのが三重石塔で、喜んだ一条天皇は勅願寺とし、阿育王山石塔寺の山号を賜った。』
とあります。
天竺と日本の仏教界の大立者が登場する壮大な話ですが宋の僧侶が日本の詳しい地理を知っていたとも思えません。
近江のこの地域には聖徳太子の伝承が多いので、太子と何らかの繋がりがあったとは思えますが、所詮伝説の域を出ないと考えます。
伝説はさておき東近江は白村江の戦のあと鬼室集斯など百済人が700名余り移住してきた地。
この石塔も7世紀頃の作とされ日本の様式とは異なり朝鮮半島の様式に類似し渡来した百済人により建立されたというのが定説のようです。
唯、伝説の力は凄く鎌倉時代には、石塔・石仏が境内に多数奉納されることになりました。
この寺も戦国時代には兵火により全山焼失する憂き目を見ますが、石塔群は残り現在に伝わることになりました。
本堂には聖観世音菩薩が祀られますが秘仏、通常は御前立の十一面観音菩薩を拝みます。
石塔は本堂とは別の坂を上った場所にあり有料。本堂が無料なのとは対照的ですが、長い風説を耐えてきたことを想えば当然かもしれません。あ、しょーか!

石塔寺への途中にて
刈り取った麦の跡を焼いている。

宮中新嘗祭献上穀斎田
江州66万石の面目躍如といった所か。

ようやく石塔寺前に到着

石塔寺門
下馬の碑がある程、格式が高かった。

山門前にて
本堂はこの左奥に。

本堂
江戸時代以降の再建である。

本堂正面
御本尊は聖観世音菩薩で秘仏。

山門を出て右手の石塔へ
屋根のあるのが受付 ¥400。

階段前の躑躅

阿育王塔へ続く石段

石段横の石塔

階段の石仏に止まるコオニヤンマ

石塔寺阿育王塔(重文)
高さ7.5m。写真で見ると分からないが実物はかなり威圧感がある。

重文・三基
左:宝塔 1302年、 中:五輪塔 1304年、 右:五輪塔 1349年。

近世以前に奉納された五輪塔と石仏

奉納された五輪塔

奉納された石仏

阿育王山 石塔寺説明書

石塔寺御朱印
親よりも年配の女性の墨書。
「茜さす…」の歌もこの蒲生の地で詠まれたと言われ、当時国際的な先進地域だったのでしょう。
後世、近江は我が国屈指の石高を誇りますが、その基礎はこの時代までに遡れるかもしれません。
このあと近江商人の故郷日野へ。駅からレンチャリで3㎞でしたが、生憎の休館日。
火曜なので大丈夫と【大海人】な考えが裏目、抜かったのう君【額田王】と萬葉人に笑われたでしょうが、ここが【蒲生】の為所と自戒の念を込めて【しめの】となりました。

近江鉄道八日市駅前レリーフ
・大海人皇子と額田王。「茜さす…」 の歌を表す。

八日市にある市辺押磐皇子の墓

日野まちかど感応館
かつての日野商人の行商の主力商品の合薬「万病感応丸」の創始者正野法眼玄三の薬店。いまもこの薬は日野製薬㈱で製造販売している。1粒:¥400~500と高価なので効果がありそう。

感応館内部

日野の街並み

近江日野商人館は休館

蒲生郵便局 ; 重文・石塔寺三重石塔、宮川けんけと祭り、布引山
近江日野郵便局 ; 蒲生氏郷像、町花・本石楠花、綿向山
[参考書]
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石塔寺三重石塔のルーツを探る―日韓文化交流シンポジウムの記録 中古価格 | ![]() |

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JR大阪(6:21) → JR近江八幡(7:39→7:45) → (近江鉄道) → 太郎坊宮前(8:00) → 徒歩20分 → 太郎坊宮 → 太郎坊宮前(10:17) → 近江八幡(10:31→10:52) → JR米原(11:19)

太郎坊・阿賀神社
この日は午後から米原で友人達と会合。その前に以前から気になっていた神社に参拝。
太郎坊宮の創建は今から約1400年前、鎮座する赤神山(太郎坊山)は遠くからでも露出した岩石が見え、神秘的な霊山として古代より祭祀が行われていたとあります。
本殿前にある夫婦岩を中心に一帯が磐座(いわくら)、奥宮・辺宮・里宮という古代信仰の形を完全にとどめているとか。
延暦18年(799年)にここを訪れた最澄は阿賀神社の霊験に感じ薬師如来を本尊とする成願寺を創建、阿賀神社の神宮寺としました。
神仏習合で60余坊を有する程、発展し薬師如来の縁日である八日に市が立つようになった事で八日市の町が発展してきます。
戦国時代には織田信長と六角義賢の合戦で炎上、阿賀神社は速やかに復興しましたが、成願寺は寛永17年(1640年)に漸く再興、かつての隆盛は戻らず明治になって阿賀神社と完全に分離しました。
赤神山から正式名は太郎坊・阿賀神社ですが一般には修験者を表す太郎坊天狗の名を取って太郎坊宮と呼ばれます。
太郎坊大権現は役行者の眷属48天狗の随一で勝運の神様として崇拝された事が影響しているのでしょう。
織田信長を狙撃したことで有名な杉谷善住坊も一時期ここに滞在していたとか。太郎坊宮の力にすがる気持ちがあったのでしょうが、その甲斐なく狙撃は失敗。
ギャンブルはさておき、囲碁・将棋やスポーツは神頼みよりも本人の努力のほうが大きいとは思うのですが、訪れた時にもオリンピック選手やボクシング世界チャンピオンの色紙がありました。

参道入口
近江鉄道駅からは約800m。

一の鳥居を過ぎた場所にある御神田
太郎坊宮に供えるお米を収穫する田圃か?

階段下まで到着
中腹に見えるのは参集殿

階段を上る

社務所へ近づく

社務所前の飯尾宗祇の句碑

御利益のある天狗さん

本殿前にある夫婦岩
高さ数十mの二つの巨岩。大神の神力で巨岩を左右に開いたと言われるパワースポット。

夫婦岩
高さ12m、幅80㎝の間を通る。

夫婦岩説明板

本殿への階

本殿から見た東近江市

本殿横の夫婦岩

本殿から裏参道(女坂)を下る途中にある弁財天

願かけ道にある天狗像

同じく願かけ道にある役行者像

太郎坊・阿賀神社説明書

太郎坊宮御朱印

赤神山成願寺(せきしんざんじょうがんじ) 天台宗
神宮寺として明治までは太郎坊宮と一体だったが、今は分離してひっそりとした佇まいである。

成願寺御朱印
墨書済を貼付するタイプ。

八日市郵便局 ; 無形民俗文化財・八日市大凧、太郎坊宮
八日市市辺郵便局 ; 裸まつり、市辺押磐皇子の陵墓
そのあとJRに戻りで米原へ、友人に訊くと彦根でブルーインパルスの飛行があるとか。
食事中に抜け出して皆で見学、轟音と高速の為、写真に収めるのが精一杯。空みたことか!といった感じでしたが早速勝機に恵まれました。
浜松自衛隊から飛来して帰るそうで、彦根の井伊家の発祥の地井伊谷から転封された地まで【龍潭】を飛んで来たようです。
30分程の飛行ショーの後、東へと帰還。強風で列が乱れたかも知れませんが、浜松に着くまでには【直虎】でしょうね。

エクジブ琵琶湖より眺めたブルーインパルス
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【往路】JR横浜 快速エアポート成田(5:39) → JR東京(6:09) → JR千葉(6:51→7:15) → JR成田(7:22→7:26) → JR佐原(7:58→8:10) → JR潮来(8:22) → レンタサイクル → 二本松寺
【復路】JR潮来(16:44) → JR佐原(16:55 → 16:58) → JR成田(17:29→18:14) → JR横浜(19:58)
あやめ祭りの後は常陸利根川に沿って北利根橋を渡り割烹清水屋へ。
ガイドブックにも載る安永3年創業の老舗、電話した時には前日採れた霞ケ浦の天然鰻があるとの事でしたが、大きさがまちまちで値段もまちまち。
悩んでいると実物を幾つか持って来て下さったので、それを見て決定。
大きいほど高額なのは当たり前ですが、売れるのも大きいものからだとか。
天然物を食べるのは人生でも4度目ですが養殖とはやはり味が違います。店まで片道5㎞をレンタサイクルした甲斐があったと言うものです。
唯、養殖よりも美味しいかと訊かれると、はっきり分からないのが何とも情けない状態。きっと一生分からずに終わるでしょう。

昼食は安永3年創業の「割烹清水屋」にて
昨日霞ケ浦で採れた天然ウナギ ¥5,600
昼食の後は、あじさいで有名な羽黒山二本松寺へ。
寺伝に拠れば、
『平安初期の天長年間(824年)に慈覚大師円仁により潮来市の茂木に創建し、
建久2年(1191年)に豪族嶋崎氏初代の高幹公が城の鬼門とするために現在地に移転。
その後、佐竹氏、水戸徳川家からも尊崇を受けた。』
とあります。
歴代の世俗勢力の庇護を受けた訳ですが、場所が良かったのと敵対的な態度を採らなかった事が大きかったと思います。
羽黒山、二本松とありますが東北とは関係ないようです。
境内には光圀公御手植えの槙があり、加えて「あじさいの杜」には約1万株の紫陽花が植えられており散策しながら楽しむ事ができます。
潮来といえばアヤメなので同じ時期に咲く紫陽花を植える事で集客効果を狙ったものでしょう。なかなか商売上手です。
拝観後に事務所で御朱印を拝受。小型サイズの御朱印帳で書き難いと思いましたが、
「これくらいの大きさは書くのが楽です。」との事。単なる外交辞令ではなさそうでした。
この時の御朱印は1種類でしたが、今は色々なバージョンが出来ており特に紫陽花時期の限定版が人気なのだそう。
御朱印帳も紫陽花のデザイン。寺院に似合う花は個人により違うでしょうが、各地の花の状況と訪れる人を見る限り、紫陽花と寺の組み合わせはベストの気がしました。

羽黒山 覚城院 二本松寺(天台宗) 入口

本堂
本尊は秘仏薬師如来。

境内にある光圀公御手植えの槇

あじさいの杜にて

二本松寺御朱印

北利根橋上から

「おんな船頭唄」歌碑
常陸利根川を渡った香取市与田浦にある。三橋美智也の最初のヒット曲だが、なかなかヒット曲に恵まれなかったのでキングレコードが春日八郎が歌う予定だった曲を回したという裏話が。

潮来市マンホール蓋

市内の町家では「あやめ祭り」に合わせて内部を公開

着物の展示

屏風と潮来花嫁さん

JR潮来駅スタンプ(千葉支社) と 道の駅いたこスタンプ

潮来郵便局 ; 水郷風景、アヤメ、筑波山
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【往路】JR横浜 快速エアポート成田(5:39) → JR東京(6:09) → JR千葉(6:51→7:15) → JR成田(7:22→7:26) → JR佐原(7:58→8:10) → JR潮来(8:22) → レンタサイクル10分 → 長勝禅寺

♪潮来の伊太郎 ちょっと見なれば♪
水無月最初は「あやめ祭り」の潮来へ。
高校生の橋幸夫さんが着流し姿で颯爽と歌ったのが59年前、
この一節のうしろに「あれぇ?」とつけてザ・ぼんち師匠がMANZAIブームの走りとなったのが38年前
と令和の世からは見ると遥か昔の昭和の話。
しかし潮来という難読名がポピュラーなのも「潮来笠」「潮来花嫁さん」という昭和歌謡のヒット曲のお蔭。
でも昭和30年に美空ひばり主演の映画と主題歌が潮来ブームのきっかけとか。やはり昭和歌謡の女王は一味違います。
昔は産業が少なく、女性は船頭が主な職だったそうで、「おんな船頭唄」「船頭小唄」など哀調を帯びた歌が多いのもそのような背景があるのでしょうか。
50年程前は、歌の通りサッパ舟が水郷の交通手段でしたが、その後衰退して【サッパ】り。いまは観光で再現しています。
アヤメ・杜若は薔薇と違って派手さでは【菖蒲】になりませんが、落ち着いた雰囲気が水無月には相応しいように思えてきます。ほんに潮来はイイタコどした。

JR潮来駅で特急あやめ号到着のお出迎え
あやめ娘とゆるきゃら「あやめ」。ポケットの鳥はヨシキリ。

水郷潮来あやめ園

黄色は杜若、紫は花菖蒲と説明が

前川に架かる水雲橋
このたもとから艪舟が出る。

潮来笠記念碑
どことなく銅像の顔が歌手に似ている気が…。

「潮来花嫁さん」記念碑

嫁入り舟
「潮来花嫁さん」そのままですが、バージンロードの水郷版と言ったところ。今年は5月28~6月26日まで、80組の応募から30組を選んだ。舟に乗るのは花嫁と両親と船頭。乗り場に戻るのは良くないので、丘に上がった後、車で新郎の家に向かう。

艪舟から見た景色
太鼓橋の向こうは思案橋で右に遊郭があったとか。長崎と同じ命名である。
海雲山長勝寺(かいうんさんちょうしょうじ)は市街地にほど近い稲荷山の麓にある寺院。
寺伝では、
『文治元年(1189年)源頼朝が武運長久を願って建立。
本堂は珍しい唐様建築で、本尊は運慶派仏師の作とされる阿弥陀三尊像。
その後、荒廃していたのを嘆いた水戸光圀が元禄4年(1691年)、妙心寺の253世太嶽祖清禅師を迎えて中興開山とした』
とあります。
大楠公の碑を出すまでもなく、光圀公は埋もれたもの、忘れられたものを発掘するのが得意だったようですが、これも『大日本史』編纂を始めた事がきっかけだったように思えます。
余談ですが「いたこ」の読みは徳川光圀公の発案とか。水郷だけに【閘門】さまの出番が必要だったのでしょう。

海雲山 長勝寺(臨済宗妙心寺派) 正門

山門(楼門)
元禄13年(1700年)に水戸光圀の命で普門院から移築された。解体時、柱にお布施をした遊女の名前が多数書かれていたのが見つかったと言う。二重二階門で、入母屋造・杮葺型の銅板葺。

唐様建築の本堂
元禄年間頃の建築とされる。棟上には源氏の定紋「笹竜胆」が。

鐘楼
元徳2年(1330年)の銘にある銅鐘は重文。

長勝寺庭

長勝寺御朱印
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<コース>
南海電鉄難波(10:25) → 泉佐野(11:02→11:10) → (南海バス21~24系統) → 犬鳴山(11:44) → 徒歩40分 → 七宝瀧寺 → 徒歩40分 → 犬鳴山(16:50) → (南海バス21~23系統) → 泉佐野(17:24→17:38) → 南海電鉄難波(18:21)

犬鳴山 白雲院 七宝瀧寺(真言宗犬鳴派 役行者霊蹟札所)
猛暑の中、涼を求めて和泉まで。犬鳴山は府内唯一の温泉郷のある大阪の奥座敷で、パワースポットとしても知られます。
寺院は宿坊もありますが途中食事処はないので、バス停付近にある温泉旅館で昼食。
本来はゆっくり宿泊すべきなのでしょうが日帰り入浴は果たしました。

昼食は「み奈美亭」で夏の懐石コース

和泉は海の幸が豊富

これは「猪豚」?
目指す寺院はJR日根野からバス34分の終点から犬鳴川に沿って山道を1.5㎞。
犬鳴山白雲院七宝瀧寺(いぬなきさんはくうんいんしっぽうりゅうじ)は、寺伝によれば
『661年、修験道の祖である役小角により開山、これは大峰山開山の6年前であり元山上と呼ばれる。』
とあります。
この辺りは古くは葛城と呼ばれ、その中でもここは根本道場。役行者は奥の滝を神聖なものと見たのでしょう。
歴史を【かいざん】したのではないようです。
山中には大小48滝があり、その中でも両界の滝、塔の滝、弁天の滝、布引の滝、古津喜の滝、千手の滝、行者の滝の
七滝が有名で、それぞれを宝として七宝瀧寺と淳和天皇が命名されました。
一時衰えますが、正平17年(1362年)に紀州粉河寺の渓閑和尚が土丸城主橋本正督の援助を受け再興、
隆盛を極めるも天正13年(1585年)秀吉の根来攻めで諸堂は焼失、寺領も失いました。
江戸時代の1652~1662年にかけ諸堂再建、1667年に岸和田藩主岡部氏より寺領が寄進され漸く旧に復しました。
明治初年度には修験道禁止となったため明治7年(1874年)に高野山金剛峰寺末寺となりますが、
戦後は葛城系修験道の復興を目指して真言宗犬鳴派として昭和25年(1950年)に独立して今に至ります。
紆余曲折を経ましたが、ようやく【今後無事】となりそうです。
犬鳴山とは燈明ヶ岳や天狗岳などの峰々の総称ですが、ここが犬鳴山と呼ばれる様になったのには次のような伝説が…。
『寛平年間の頃、紀州の猟師が獲物の鹿を追ってこの辺りに来た時に、猟犬が頻りに吠え立てました。
どうしても止めないので、怒った猟師は鉈で犬の首を切ったところ、首はそのまま猟師の頭を越え、
猟師を呑もうとしていた向こうの木に居た大蛇に噛み付きそのまま息絶えたとか。
猟犬の心根に打たれた猟師は修行者となり自分の田地を不動堂に寄進し猟犬の供養をしました。
このことを伝え聞いた宇多天皇から山号を犬鳴山とするように勅を賜りました。』
昔話で聴いた幽かな記憶がありますが、大阪の話だったとは。
一時の怒りに任せて【良犬】である猟犬を殺すとは【料簡】の狭い話、我々にも教訓になる話です。
遠いこともあって山道を行く人は疎ら。尤も行者堂の近くまで自家用車で行けるので多くの人はこのルートのようです。
路は貴船のような雰囲気ですが、温泉もあって【秘湯】味違った場所でした。

参道入口
バス停徒歩5分の一の橋を過ぎた大師堂の先からは霊域に入る。

犬鳴川に沿って山道を行く

修験道なので所々にこのようなものが

途中の滝

両界の滝

瑞龍門(行者迎えの門)

犬鳴山の謂れの義犬の墓

塔の滝

社務所の庭にたつ不動明王
本尊は倶利伽羅大滝不動明王で本堂内。

終点の不動堂
滝に打たれる人はこのお堂の下で白衣に着替える。

着替えた人は赤い橋を渡り行者の滝へ

行者の滝遠景

行者の滝横の役行者像

行者の滝

鎖を伝って上まで行くことが可能

七宝瀧寺御朱印

駅まで戻って英国屋にて一息
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
東武東上線池袋(7:10) → 高坂(8:00) → バス → 大東文化大学前 → 徒歩3分 → 岩殿観音 → 高坂(9:20) → 東松山(9:23) → 徒歩60分 → 吉見観音 → 東松山(11:20) → 小川町(11:36→11:45) → (ときがわ町路線バス) → せせらぎバスセンター(12:05→12:13) → 慈光寺前(12:22) → 徒歩30分 → 慈光寺 → 小川町(16:30) → 池袋(17:47)

都幾山 一乗法華院 慈光寺(天台宗 坂東三十三ヵ所第九番札所)
坂を上った所にある山門。奥には阿弥陀堂(本堂)が見え、御朱印はここで拝受。
吉見観音から徒歩で東松山駅に行き東武電鉄で小川町まで。
そこからは町営バスになり、直接山門まで行くバスはごく僅かですが、入口までは意外に本数がある模様。
バス停から坂道を上る事30分で到着。
途中で参拝を済ませ下ってきた若い人とすれ違ましたが、路線バスで来る若者も居るのかと感心しました。
都幾山一乗法華院慈光寺(ときさんいちじょうほっけいんじこうじ)は、寺伝に拠れば
『白鳳元年(673年)に興福寺の慈訓がこの地に千手観音を祀ったのが始まりで、宝亀元年(770年)に鑑真の弟子釈道忠に拠り開創。
貞観13年(871年)頃に天台別院となり以後、天台宗道場として発展。源頼朝の奥州遠征では祈願寺となり、徳川家康からは朱印100石を賜った。』
とあります。
今は交通の幹線から外れ、バス停からも更に坂道を上るなど、山奥のイメージがありますが、昔は鎌倉街道が近くを通る要衝。歴代の政権に帰依されたのも分かるような気がします。
日本国宝三大装飾経の一つ国宝・紙本法華経一品経や重文・大般若経があり、後者には貞観13年(871年)の奥書が。
これだけの経を製作する素地がこの寺にあったと言うことでしょう。その他銅鐘など重文も多数ありますが、境内はいたって簡素。
いかにも山奥の古刹という雰囲気でした。
山門の正面には本堂の阿弥陀堂があって御朱印はそこで拝受するのですが、『12~13時は昼休』との案内が。
訪れる人が少ないからかとも思いましたが先客が3名。札所にしては珍しく、時間に追われる今の時代を再考しなさいとの教えでしょうか?

本堂奥にある観音堂
札所の本尊木造千手観音像を祀る。縁起では開祖慈訓の作とされるが、解体修理の際に天文18年の墨書があったという。

慈光寺御朱印
今回の巡礼はいずれも平地ではなく山の岩場。いわば僻地ですが、古代人から見て岩窟内に宗教的なものを感じたのでしょう。
壮大な伽藍という訳ではありませんが、信仰の心に触れた気がします。
御朱印拝受後は坂を下りてバス停までの予定でしたが、御朱印待ちで一緒の年配の方が小川町駅まで車で送って下さいました。
乗せて頂いた方はこれから群馬の長谷寺に向かわれるそうで、私も来月には行くつもりですと話が弾みました。元気で巡礼できるのは何よりです。
小川町に早く戻ったので遅めの昼食。いつもならパンで済ますところですが、今日は川魚料理にした鼓を打ちました。
鰻で有名な小川町ですが今回は福助で。横浜朝五時台の電車に乗った甲斐があったというもの。
まさに早起きは【山門】の得ですが、その分歩いた距離も長く「武蔵、歩き疲れたぞ!」となりました。

昼食は小川町にある「女郎うなぎ 福助」にて
安政年間、「友人に頼まれて」吉原の花魁を引き取って面倒をみた先代に、花魁が実家に伝わる秘伝のたれを教えたからとか。

本日のお昼の鰻丼 ¥2,620
肉厚でさっぱりした味付。

初挑戦の鯰の天麩羅 ¥1,000
淡泊と聞いていたが意外としっかりした味。

小川町の割烹旅館「二葉 本店」
こちらは15年以上前に出張時に食べた山岡鉄舟所縁の忠七飯が有名。この日は貸し切りで入れず。

都幾川郵便局 ; 山女魚、重文・慈光寺銅鐘、堂平山の天文台
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東武東上線池袋(7:10) → 高坂(8:00) → バス → 大東文化大学前 → 徒歩3分 → 岩殿観音 → 高坂(9:20) → 東松山(9:23) → 徒歩60分 → 吉見観音 → 東松山(11:20)

岩殿山 光明院 安楽寺(真言宗智山派 坂東三十三ヵ所第十一番札所 東国花の寺百ヵ寺埼玉第五番)
安楽寺へは高坂駅の次の東松山駅で下車ですが、駅からの距離が6㎞。コミュニティバスも1日数本なので、これはもう徒歩しかありません。
この付近は吉見百穴もあるように丘陵地帯の柔らかい地盤を穿ったものが多く、途中でも石仏が多くありました。
岩殿山光明院安楽寺は行基が聖観世音菩薩を岩窟内に安置したのに始まり、大同元年(806年)に坂上田村麻呂が堂宇を建立したのが開創とされます。
この岩窟は「天の岩戸」として【うずめ】られる事無く保存されているとか。いずれも伝説の域ですが平安時代末には大勢の参拝客が訪れていたようです。
平治の乱(1159年)に敗れた源義朝は尾張で殺されますが、生き残った遺児は各地に潜み源氏再興の機会を待ちました。
六男の範頼は稚児僧に身をやつして安楽寺に潜み、その間に48mにも及ぶ三重塔や45m四方の大講堂を寄進したと伝えられます。
身を隠しながら寄進などと目立つ行為をするのもどうかと思いますし、一体どこから資金を調達したかの問題もあります。
それよりも範頼は母の出身地である遠江で成長したという説が有力。
幕府創設後、頼朝に疎まれて伊豆に幽閉されますが、そこで亡くならず吉見に逃れて余生を送ったという伝説があります。
範頼の妻の祖母は頼朝乳母の比企尼、そのため息子たちはこの地へ移り吉見氏を名乗ったとか。
寺から1㎞程南東に範頼館跡があり、範頼の後は吉見氏を名乗った4代の子孫が居館を構えていたと言われるので、幼少の頃に身を潜めたというよりも晩年にここに逃れたと言う方が真に迫っていると思います。
範頼については義経の陰に隠れて知名度は低いですが、武将・政治家としてもかなりの力量のあった人のようです。
身内を切れない政治家は三流といわれますが、頼朝の身内に対する酷薄さは少々度が過ぎた感があります。
その点は新居白石も『読史世論』で述べているようで、源氏の将軍が3代で滅び北条氏の世になったのも仕方のないことでしょう。

吉見百穴
古墳時代後期の横穴式墳墓だが、今回巡礼主体の今回はスルー。

吉見町マンホールカード 配布場所はこちら

仁王門

聖観世音菩薩を祀る本堂
本堂への石段脇はツツジ・サツキが咲き誇る。

本堂前面の修飾

「野荒しの虎」
本堂の欄間にある左甚五郎作とされる彫刻。

蒲冠者源範頼が建てたとされる三重塔
寛永年間の再建。

吉見観音御朱印
少し年配の御住職の墨書。東松山駅から60分歩いて来たと言うと「それは健脚ですね」と感心された。

吉見郵便局 ; 史跡・吉見百穴、吉見観音三重塔、市野川の橋
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東武東上線池袋(7:10) → 高坂(8:00) → バス → 大東文化大学前 → 徒歩3分 → 岩殿観音 → 高坂(9:20)

巌殿山 正法寺(真言宗智山派 坂東三十三ヵ所第十番札所)
坂東三十三カ所も相模がほぼ完了して次の埼玉県へ。埼玉は旧武蔵国で関東平野の続きですが、今回訪れる場所は平野から丘陵にかけての地域。
広い埼玉ですが坂東札所は県下で4か所、うち3ヵ寺までがこの地区に集中。
場所から比企三ヵ寺と呼ばれていますが、何故この場所なのか?そのこともこの目で確かめる巡礼になりました。
神奈川と違って駅から遠いうえにバスが少なくウオーキング主体は覚悟の上。と言っても昔は皆歩いていたのですから弱音を吐いてはいけません。
巌殿山正法寺(いわどのさんしょうぼうじ)は坂東第十番札所、岩殿観音の通称で知られます。
山号と通称で【いわ】の漢字が異なるのが特徴でこれは次の十一番札所と区別するためでしょうか?
名前通り岩殿丘陵の端にあるお寺で、さぞ不便だろうと思っていましたが東武高坂駅から直ぐ傍までバスが頻発。
巡礼者の便を図っての事かと思いましたが、傍に大学があるため。学生の恩恵を受けることになりました。
バス停から寺まではすぐですが脇から入ることになるので巡礼の雰囲気を出すために参道へ回り道して門前へ。
かつての旅籠や屋号の看板のある家を抜けると石段の先に山門が現れます。
養老2年(718年)、逸海と言う沙門が岩窟に千手観音を安置し傍らに正法庵という草庵を結んだのが始まり。
桓武天皇の延暦15年(796年)に勅命で伽藍が整えられました。山号寺号は本尊の場所と草庵由来のようです。
その後衰微しますが源頼朝の命に拠り比企能員が再興、坂東札所の命を受けます。
能員は不運にも政争に拠り自死しますが息子は出家してこの寺を守りました。地名にもあるように比企氏はここに勢力を持っていた可能性が大です。
室町期には岩殿山一帯に66坊を数える大伽藍に発展しますが、永禄10年(1567年)の松山合戦で全て焼失。
天正2年(1574年)に焼失を免れた本尊を元に三度目の復興を果たし、江戸時代には坂東三十三ヵ所第十番札所として繁栄。
いまでも寺の東側の参道には当時の門前の雰囲気が濃厚に残っています。
これで安泰となれば良かったのですが、寛永年間の火災で諸堂を焼失、明治に入っても観音堂焼失と幾度となく火災に見舞われることに。札所の割には新しく文化財が少ないのはそのためでしょう。
戦乱時代はともかく、平和時に火災が多いのは何とかできなかったのかと思います。寺号の【しょうぼうじ】も火災には効果がなかったのでしょうかね?

表参道から仁王門前へ
岩殿丘陵の端にある。左のうどん屋と右の旅館がかつての建造物の姿を伝える。

旅館丁子屋
門前で江戸時代から昭和初期まで営業していた。

仁王門と扁額
本堂はこの右手にある。

仁王門から観音堂へは長い石段を上る
紫陽花が丁度見頃であった。

石段途中から仁王門方面を望む

観音堂へ到着
場所も狭く急斜面を切り拓いたといった所か?

坂東札所の本尊千手観音を祀る観音堂
養老年間の創設だが、寛永・天明・明治と3回再建された。

石段を上った右手にある鐘楼と銅鐘
銅鐘は元享2年の銘。鐘楼は元禄15年(1702年)に地元の山田茂兵衛の寄進により建立。

観音堂から見た表参道
参道の家の表札脇にはかつての屋号が記載してある。

岩殿観音御朱印
年配の住職夫人の墨書。横浜市の南太田から嫁いで来られたとの事で、しばらく京急沿線の話題で盛り上がった。
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JR大阪(6:46) → JR加古川(8:01→8:15) → JR小野町(8:38) → 徒歩50分 → 浄土寺 → コミュニティバス → 神戸電鉄小野(12:15) → 湊川公園(13:14) → 市営地下鉄名谷 → バス10分 → 太山寺

三身山 太山寺(天台宗 新西国三十三ヵ所第二十五番)
日本で国宝を一番所有している都道府県は東京都。意外な気もしますが博物館等もあるので大都市に多くあるのも頷けます。
そんな中で県下には姫路城、一乗寺等を有しながら直ぐに浮かばないのが神戸市。そんな神戸市に唯一国宝建築があるらしい。
一体どこにどのようなものがあるのか、国宝浄土寺の後は、神戸電鉄と市営地下鉄を乗り継いでの国宝を訪ねる巡礼となりました。
三身山太山寺(さんしんざんたいさんじ)は神戸市西区にある古刹。
【さんしん】とか【たいさん】とか某プロ野球ファンには縁起でもない名前ですが別段関係はなし。縁起に拠れば
『霊亀2年(716年)、藤原鎌足の長男定恵(じょうえ)和尚を開山とし、藤原不比等の三男宇合(うまかい)が建立。
宇合が明石浦の温泉療養中、夢に薬師如来が現れ「ここより北東に定恵和尚結縁の地があり定恵は願望を果たせず示寂した。
お前はその遺志を果たせ。」と伝えた所、それに従って七堂伽藍を建立した。』
とあります。
定恵は不比等の兄で出家後入唐した人物、その生涯は謎に包まれています。
不比等が朝堂のトップとして活躍したので、もし存命ならばそれなりに功績が残っているでしょう。恐らくは夭逝したと思われます。
寺の創設も考古学的には平安前期頃とされるので、藤原氏の権威を使って箔を持たせたのでしょうか?
元正天皇の勅願時となり後白河・後宇多・崇光の三天皇の行幸もあり僧兵を擁する大伽藍でした。
唯、創世記の建造物は弘安8年(1285年)の火災で全て焼失、永仁年間(1293~1299年)に再建されています。
建武の新政では護良新王の令旨に応じて挙兵、以降南朝方の拠点として活躍。丁度この時期が寺の最盛期で坊も50を越えましたが今は5坊のみ。
本堂は当時の繁栄を偲ぶ大規模な造りで神戸市にある唯一の国宝建築物。その他、令旨や武具等この時代のものが重文として残っています。重文17件は兵庫県下随一。
周囲は「ひょうごの森百選」にもなった風致地区ですが、地下鉄駅から市バス明石行が頻発しているので非常に便利。
ガイド等には余り載っておらず観光客も疎らでしたが、寺院・周囲の自然と見応え充分。
御朱印を墨書して頂いたお寺の年配の御婦人の話では紅葉の頃に人が多いとか。
神戸にもこんな穴場があったのかと、【たいさん】せずしばらく境内で見入る事となりました。

バス停から直ぐの重文・仁王門
室町中期の建造で入母屋造・本瓦葺・棟高8mの八脚門。元来重層の楼門であったが上層部を撤去し改装、当初の軒組物を復元したものが、写真右のものである。

太山寺へと続く参道
かっては41の塔頭があったがいまは5つのみ

中門を過ぎ正面に国宝・本堂を見る

国宝・本堂
創建時の物が焼失後、永仁年間(1293~1299年)に再建。正面20.82m、側面17.76mと大きく、仏教の大衆化に伴う新しい仏殿の形式が成立した初期の数少ない遺構である。

本堂正面部分
蔀戸の開閉の様子、本尊は薬師如来と十一面観音。

三重塔
貞享5年(1688年)の建立で、屋根は本瓦葺、水煙は火焔型。

貞享5年再建の阿弥陀堂
本来は天台宗の修法である常行三昧の修行堂であったが、堂の本尊である阿弥陀如来信仰が高まるにつれて阿弥陀堂として人々の礼拝の対象となった。

阿弥陀堂から見た本堂側面

太山寺川に架かる閼伽井橋
橋を渡ると奥の院で稲荷社・地蔵堂があり地蔵堂下から水が湧き出している。

塔頭龍象院の前庭

太山寺説明書

太山寺御朱印
両親位の年配の女性による達筆。

伊川谷郵便局 ; 国宝・本山寺本堂、渓流、原生林
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カラー版 日本の古寺100選 国宝巡りガイド (宝島社新書) 新品価格 | ![]() |

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極楽山 浄土寺(高野山真言宗 新西国三十三ヵ所客番)
薬師堂から浄土堂を望む。
出張の翌日、播磨の東端にある国宝2件を見るため西方へ。
小野市と言えば関西人には算盤・金物が先ず頭に浮かぶ一柳氏の城下町。
JR、神戸電鉄共に1時間毎の運転の落ち着いた街ですが、市街地から北東に4㎞に素晴らしい国宝があるらしい。コミュニティバスも少ないので歩くこと50分で到着。
かつて小野市の大部分は鹿野原と呼ばれる原野、名前からして鄙びた感じですが、平安末12世紀半ばに東大寺所有の大部庄(おおべのしょう)と言う荘園になりました。
それから半世紀後の建久3年(1192年)に、東大寺の重源が弟子を派遣し荘園経営が始まりましたが、その経営の拠点となったのが播磨別所と呼ばれたここ浄土寺。
紀季重の子として生まれた重源は出家後、東大寺再建の勧進聖として活躍。入宋経験のある建築・工芸にも習熟した技術者でもありました。
紀氏出身だったから【木】に詳しかった訳ではなく、中央での政争に敗れたあとの紀氏は任地での経営に専念することで財力・人間関係を築き上げたと思われます。歌を詠んだだけではなかったという事ですね。
境内に入って拝観と御朱印のため受付を探したものの、どこも無人。あきらめて浄土堂に行くとやっと入口に人が。
このあと直ぐに観光バスで団体が見えたのでギリギリセーフでした。
重源は浄土寺に浄土堂・薬師堂の二堂を建立。
浄土堂には阿弥陀三尊を、薬師堂には荘園内で荒廃していた広渡寺はじめ9ヵ寺から仏像を持って来て安置しました。
浄土堂、別名阿弥陀堂は東大寺南大門と並ぶ大仏様建築(かつての天竺様)の双璧で国宝。
重源が東大寺再建に当たり用いた手法をここにも応用しました。
本尊の阿弥陀三尊も国宝ですが、算盤の町だけに快慶【会計】の作でした。
堂内は撮影禁止ですが、本尊の後方から夕陽が差し込む様子はさながら西方浄土の様に見えるとか。
重源の設計演出の才能は大したもので、今の世に生まれても経営者として大成したに違いありません。
宗教家とはこーでぃねーとアカンと実感した次第です。極楽山浄土寺の名は伊達ではありませんでした。
拝観を終え表に出ると、滅多に来ないコミュニティバスがタイミングよく到着。大幅な時間短縮となりました。

駅から歩くこと50分道路からの浄土堂遠景

国宝・浄土堂(阿弥陀堂)
1192年創建の大仏様(天竺様)建築。外からみると狭く感じるが、柱間が広く屋根に反りがないので内部空間は広く感じる。

浄土堂にある国宝・阿弥陀三尊像
浄土寺本尊で創建当時に造られ安置されたもので鎌倉時代を代表する名仏師快慶作。本尊530㎝、脇立370㎝の堂々たる木造仏。実物は撮影禁止なので、これは資料館のパネルを撮影したもの。実際の堂内はかなり暗い。

資料館にて浄土堂細部の三手先挿肘木の再現

浄土堂断面の説明

重文・浄土寺本堂(薬師堂)
浄土堂と同じく重源により建立された大仏様建造物であったが、惜しくも室町中期に焼失し永正14年(1517年)に再建された。

後方の八十八ヵ所霊場うつしから本堂、浄土堂を望む
池を中心に西に西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来、東に東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来を配する。

境内後方の紫陽花

極楽山浄土寺説明書

浄土寺御朱印

かつての一柳藩陣屋跡、後ろは小学校
最後の藩主の姫は建築家ヴォーリズの奥方。

陣屋跡に建つ小学校
陣屋をモデルにした立派な造り。

小野市郷土館

小野市マンホール蓋
算盤と刃物をモチーフに。

加古川線粟生駅スタンプ(神戸支社印)
小野郵便局 ; 国宝・浄土寺、鉄塔、鴨池、特産の算盤・鋸・鉋
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週刊ニッポンの国宝100 32 浄土寺/彦根屏風(ジョウドジ ヒコネビョウブ)[分冊百科] (2018年5/15号) 新品価格 | ![]() |

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浄土堂を建築学から記述した著書
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