<コース> 電車は日中15分間隔で運転
JR北新地(8:43) → JR京田辺(9:30) → レンタサイクル → 法泉寺

中嶋山 法泉寺(真言宗智山派)
夕方から京都市内で会合があり。午前中の合間を縫って京田辺市へ。
今は京都府に属する南山城ですが、古代においては平城京の北端という位置付け。そのため南都の影響を受けた古刹が木津川沿いに点在します。
平城京を建設する際に、近江の田上山から切り出した材木は宇治川から巨椋池、木津川を遡って、伊賀・笠置からの材木は木津川を下って都に近い場所で陸揚げ。そこが木津と呼ばれるようになりました。
現在の木津川は水量も周辺人口も少なくキャンプ場とカヌーのイメージですが、古代には暴れ川と言われる程で、交通の大動脈として活気に満ちていたようです。
中嶋山法泉寺(なかじまさんほうせんじ)の創建は明らかではありませんが、大きさ5~6寸の十一面観音の金像が付近の草叢から出現。
関東では海から出た例が多いですが、ここは海から遠いので草の中。以来、この付近は草内(くさうち)と呼ばれています。何故か郵便局だけ同じ漢字で「くさじ」の読みなのが不思議です。
天長年間(824~833年)の旱魃で本尊に祈願した所、清泉が湧出したので法泉寺と号したとか。雨乞い祈願の農耕守護仏として信仰されるようになりました。本堂は永禄2年(1559年)の戦火で焼失。元禄12年に再建されています。
門を入って左手にある十三重石塔は弘安元年(1278年)猪末行作の銘。法泉寺は室町時代までは奈良興福寺の支配下で、鎌倉時代に西大寺の叡尊に拠る水害対策・渡しの整備があり、その供養記念として建てられたと言われます。
作者の猪末行は東大寺再建に際し、中国より来朝した石工。本堂東隅の三宝大荒神石塔は明応7年(1498年)と、石造りの御蔭で戦火を潜り抜けたようです。
急な訪問で御住職は不在でしたが、夫人が本堂を開帳して下さり、御本尊を拝観できました。
和辻;「この御本尊が草叢から出た仏様ですか?」
夫人;「いいえ、初めの御本尊は明治の頃行方が分からなくなって、今は後世の仏様です。」
和辻;「本堂は江戸期の様ですが、御本尊はもう少し古い気がしますが…。」
夫人;「はっきりとは分かりませんが、鎌倉・室町期の様ですね。」
この場所も戦火を受けましたが、旧御本尊は廃仏毀釈のあおりでどこかへ行ってしまったのでしょう。本堂横の室町様式の枯山水庭園もやや荒れた気がします。
檀家も居られないとの話でしたし、観光寺院とは違うので、法灯を伝えていくには並々ならぬ苦労があったと思います。
御朱印を拝受して辞しましたが、
和辻;「これから大御堂観音寺に向かいます。」
夫人;「観音寺は住職の実家で、あそこは常駐されているので拝観は大丈夫です。」
との事でした。

草内小学校の北側にある法泉寺入口

重文・十三重石塔
花崗岩を加工した高さ6m、四方に石仏彫を配している。

長い戦乱を潜り抜けてきた法泉寺境内
右のカイヅカイブキ(コノテガシワ)はその生き証人?

法泉寺本堂

本堂右の三宝荒神王碑
元来神社のもので寺院の一角に祀られているのは珍しい。

復元された室町様式の枯山水庭園

中嶋山法泉寺略縁起

法泉寺御朱印

草内郵便局 ; 重文・法泉寺十三重石塔、山城大橋
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JR大阪 → (新快速) → JR京都 → JR東福寺 → 徒歩10分 → 東福寺 或いは
京阪電鉄淀屋橋 → (京阪特急) → 丹波橋 → 東福寺

雪舟庭園 芬陀院(臨済宗東福寺派 塔頭寺院)
天得院に続いて、通路を挟んでほぼ向かいにある芬陀院(ふんだいん)を拝観。
元亨年間(1321~1324年)に関白一條内経が東福寺開山聖一(しょういち)国師の法孫にあたる定山祖禅(じょうざんそぜん)を開山として創建、以来一条家の菩提寺として現在に至ります。内経の法号「芬陀利華院」を採って院号になりました。
その後、衰退しますが元禄年間に一条兼照により再興、宝暦5年(1755年)の火災で焼失しますが、桃園天皇の后・恭礼門院の計らいで御所の一部を移築。
更に明治には昭憲皇太后からの御内帑金により改築されたものが現在の建物です。恭礼門院は旧名一条富子、昭憲皇后は一条美子と共に一条家の出身。
江戸時代の京都の公家は経済的には幕府から冷遇されたと言いますが、これらを見る限りなかなかの物。腐っても鯛といっては怒られるでしょうか?

芬陀院山門
元亨年間に関白一條内経が定山祖禅を開山として創建。ここは特別拝観ではない。

参道から続く参道

大玄関と唐門
唐門は恭礼門院の御所より移築されたもの。

屋内の屏風

内庭全景

手水鉢と崩家形灯籠

内庭と縁側
縁側は木と竹を交互に使用。
ここでもう一人有名なのが画僧の雪舟(1420~1506)。雪舟が幼年期を過ごした備中の宝福寺は東福寺の末寺で在京の折にはここへ逗留したと言われます。
当時の芬陀院の大檀徒は文人として著名な一条兼良、彼の所望により作庭されたのが南庭「鶴亀の庭」。寛正・応仁期の作で京都では最古の枯山水庭園と言われ、苔と石を【ふんだんに】採り入れたものです。
庭には石組の亀がありますが、出来上がった夜に和尚が傍を通るとその亀の石組みが動いたとか。涙で描いた鼠の絵の焼き直しですが、それほどリアルだったという事でしょう。
この庭も二度の火災で荒廃しますが、昭和14年(1939年)に作庭家重森三玲により復元、その時に新たに作庭されたのが東庭でした。
パトロンの一条家としては指図をしたかったかもしれませんが、作庭の名人に全て任せたのが、今に至るまで名声を保っている理由ではないでしょうか?まさに摂政と雪舟により完成した庭と言えます。
御朱印を拝受しましたが、帰宅して確認すると平成4年に拝観・拝受済。全く記憶にありませんでしたが、覚えていないのであれば拝観しても問題はないと悟った次第です。

東庭と図南亭
奥が鶴島、手前が亀島。

東庭は作庭家・重森三玲に拠る

図南亭(となんてい)
宝暦の火災で焼失したが、昭和44年に復元。一条家第十四代昭良公がここで茶を嗜んだとされる。

図南亭の内部

図南亭の窓から東庭を望む

「図南」の扁額は石川丈山の揮毫

雪舟の作庭による南庭

南庭の鶴島(左)と亀島(右)

雪舟庭園 芬陀院説明書

芬陀院御朱印
失念していた平成4年拝受の分

芬陀院御朱印
今回拝受したもの
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萬松山 天得院(臨済宗東福寺派 塔頭寺院)
大本山東福寺には多くの塔頭がありますが、この日は特別拝観の天得院へ。
萬松山天得院(ばんしょうざんてんとくいん)は南北朝時代の正平年間(1346~1370年)、東福寺第三十世住持・無夢一清(むむいっせい)禅師により開創、東福寺五塔頭の一つとして栄えます。
その後、一時衰退しますが、大機慧雄(だいきえゆう)禅師が中興の祖となり再興されました。
慶長十九年(1614年)には東福寺第二二七世・文英清韓(ぶんえいせいかん)長老が住持となり、五山の学僧として豊臣秀頼から優遇を受けますが、秀頼の依頼を受けて撰文したのがかの有名な方広寺の「国家安康、君臣豊楽」の一文。
これが徳川家康の怒りを買い大坂夏の陣で豊臣家は滅亡、天得院も取り壊される憂き目を見ます。
五山の僧侶にしては【誤算】があったと思いますが、もし家康の意を汲んで故意に銘文を選んだのであれば、とんでもない策士であった事になります。これは推理小説の世界ですが…。
その後、天明九年(1789年)に堂宇が再建され、明治元年(1868年)に山内の塔頭本成寺と合併したものが今に至っています。
栄枯盛衰も【天命】でしょうが、庭園は桃山時代の作庭とされる枯山水。杉苔に初夏の桔梗と秋の紅葉のコントラストが見事です。
桔梗は本来秋ですが、ここでは初夏から秋にかけて順番に開花する品種だそう。秋は紅葉で人が多いので、少ない時にも集客できるという事なので、なかなか商売上手です。これも天徳ではなく【天得】という名のなせる業でしょうね。

萬松山天得院山門
南北朝時代に創建。現在のものは1789年再建。

特別拝観入口

山門から見た前庭

いよいよ桔梗の庭へ

廊下より庭の桔梗を見る

天得院西庭の桔梗と杉苔

桃山時代作庭の枯山水庭園

青桔梗

青桔梗近影

青白乱れ咲き

白桔梗近影

西庭に続く北庭

華頭窓から見る庭
逆さに見ると花の形になるという。

廊下の突き当りにはこのようなものが

西庭を眺めながら一服 ¥800
お菓子は東福寺門前の鶴屋弦月の作と聞いたので買って帰ろうと思ったら休み。

室内から西庭を眺める人々

室内の飾り付け

天得院説明書

天得院御朱印
書かれたものを拝受
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慧日山 東福寺(臨済宗東福寺派大本山 京都五山第四位)
六波羅探題の遺構を移したとされる重文・六波羅門。寺内最古の建造物である。
京都市内で所用があって少し時間が余ったので東福寺へ。
鎌倉時代に摂政関白藤原(九条)道家が九条家の菩提寺として造営したのが始まり。京の都の「新大仏寺」として高さ15mの大仏立像を安置すべく1236年から19年掛けて仏殿を完成させた大寺院。
南都の東大寺と興福寺から「東」「福」の二文字を貰って寺号に。二ヶ寺の良い処取りを狙ったようですが、欠点ばかりだったら【くじょう】でも言ったでしょうか?
開山には宋から帰朝した聖一国師を招き、当初は天台・真言・禅宗の三宗兼学として壮大な堂塔伽藍を誇りました。中世から近世を通じて栄え、高僧も輩出しますが、度々火災に合い、諸堂を焼失。良い名前を持って来ても火災は防げなかったようです。
明治期には廃仏毀釈に会いますが、それでも25の塔頭寺院を擁する大本山。境内の散策は無料ですが、通天橋から開山堂へは有料。
紅葉のシーズンにはニュースでも取り上げられ、通天橋に上るのに1~2時間待ちはザラ。今回も境内の散策で済まそうと思いましたが、人も少ないので通天橋に入場。
紅葉ではなく、青紅葉と紫陽花でしたが、地面の苔とも相俟ってなかなかいい雰囲気でした。『秋は通天と誰か言いけむ』です。
途中、幼児を連れた夫婦に声を掛けられました。中国の方で10年以上前に京都で勉強していた縁での再訪だそう。
禅宗は中国から渡来しましたが、今本場では仏教も大っぴらに活動できないので、日本の方がかつての雰囲気を感じる事ができるのでしょう。「ここは静かでいいですね。」との言葉が耳に残りました。

本堂(仏殿兼法堂)
明治19年の焼失後、昭和9年の再建。重層入母屋造の大建築。

重文・東司(通称百雪隠)
禅僧には用便も修行だとか。室町前期の遺構。

東司の内部

境内の紫陽花

臥雲橋から見た通天橋

通天橋にある貼紙
ここは六甲か?

通天橋へと続く

青紅葉と苔



通天橋から臥雲橋方面を眺める

通天橋から見た方丈
明治23年の再建。

開山堂への道


重文・開山堂(常楽庵)
聖一国師(1202~1280)を祀る。

開山堂近影

開山堂から方丈・書院を見る

開山堂前の庭園

普門院前から庭園を望む

庭園の杉苔

普門院廊下から開山堂山門を見る

東福寺説明書

東福寺御朱印
平成4年に拝受。墨書も印。

京都赤十字病院内郵便局 ; 紅葉、東福寺、十三重石塔
京都今熊野郵便局 ; 国宝・三十三間堂、国宝・十一面千手観音坐像
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<コース>
JR大阪 → JR三ノ宮 → 北神急行 → 谷上 → 徒歩60分 → 森林公園 → 徒歩60分 → 太龍寺 → 徒歩60分 → JR三ノ宮

再度山 大龍寺(東寺真言宗 別格本山)
今日の巡礼は神戸市内、と言っても再度山の中腹にある山の中の寺院。
再度山大龍寺(ふたたびさんだいりゅうじ)は、神護景雲2年(768年)和気清麻呂公の創建。
寺伝に拠れば、
『称徳天皇の勅を受けた公が摂津の国に寺院建立の地を求めて当地の山中に来た時、公を暗殺しようと付け狙っていた道鏡の刺客が忽然と現れた大蛇に驚き退散。
驚いた公が周囲を見ると大蛇が消えた後に如意輪観世音菩薩が居られ、ここに伽藍を立てて大龍寺と名付けた。
また延暦23年には入唐する空海が、この山に上って求法を祈り、帰国後に再びこの地に足を運んだので再度山の名が付いた。加えて空海が入唐の時には竜神大蛇が船を守り、帰国後には山中にも現れた。』
とあります。
寺号山号の由来ですが竜神が再び登場するのは文字通り【蛇足】、恐らく、空海の伝説が元にあって後で、和気清麻呂の伝説が加上されたのでしょう。あまり【過剰】な伝説も考え物です。
鎌倉時代の戦火で伽藍は焼失しますが、室町期には摂津守護赤松氏の庇護を受けます。赤松円心は観応2年善妙上人を山主として再興、続く赤松範資・則祐兄弟も尽力したのでかつての姿を取り戻しました。
乱世の梟雄である赤松氏が寺院を庇護するのも不思議ですが、近くには赤松氏の多々部城もあり軍事的拠点とする思惑もあったのでしょう。
この時代に後円融天皇が中風に罹られ、善妙上人が祈願したところ無事平癒されたので、中風除けの寺として知られるようになりました。
同窓がこの辺りを走って居られるので声を掛けると一緒に来て下さる事に…。通常は駅から山門前までバスですが、今回は北神急行の駅からハイキングコース。
ほぼ半日歩き通しでしたが、植物園&布引の滝もゆっくり見物、まさに「少しの事にも先達はあらまほしき事なり」でした。

谷上駅で鉄道むすめ「谷上弓子(きゅうこ)」がお出迎え

このようなハイキングコースを行く

60分歩いて神戸市立森林植物園に到着
これはクヌギの落ち葉で作った今年の干支

樹齢2000年のメタセコイアの標本された年輪

植物園内のハナマキ
ガラス器具洗浄ブラシに似ているということで見解が一致。

植物園内のレストランにて 売れ筋のスパイシカレー¥850

バス通り沿いにある山門(赤門)

仁王門前
後ろのバッグは何?

仁王門を過ぎて見た境内
正面の石段沿いに西国三十三観音が並び本堂へ、左手の鳥居は奥の院に通じる石段の入口。

本堂(大師堂)

毘沙門堂

左から毘沙門堂、本堂、護摩堂

弘法大師が彫ったと言われる亀の岩


奥の院から更に上った再度山頂上

更に歩いて布引の滝へ

再度山 大龍寺説明書

大龍寺御朱印
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<コース>
南海電鉄難波(6:29) → (急行) → 南海橋本(7:18→7:22) → 九度山(7:33) → 徒歩25分 → 慈尊院 → 徒歩15分 → 真田庵 → 九度山(11:48) → 南海橋本(12:00→12:11) → 南海電鉄難波(12:56)

伽羅陀山 善名称院(高野山真言宗)
九度山といえばスルー出来ないのが真田親子。
関ヶ原の戦いで敗れた信州の真田昌幸・信繁(幸村)親子は高野山に配流となりますが、家族を伴ったためにここ九度山に蟄居。
昌幸は1611年にここで亡くなりますが信繁はここを脱出して大坂城に入り、豊臣方として奮戦したのは有名な話。
真田庵は蟄居時代の草庵跡と思われる場所に、江戸時代の寛保元年(1741年)に大安上人という人が地蔵菩薩を祀ったのが始まり。
正式には伽羅陀山善名称院と言いますが真田庵で通っています。なにやら蕎麦屋のようですが、傍では蕎麦もあるので、満更間違いでもありません。
草庵の場所には諸説あるのでやや伝説の域。近くにある真田の抜け穴と言われるものも調べると古墳時代の横穴だったりします。判官贔屓故でしょうが、戦国時代の知将と言われる真田氏のロマンが人を惹き付けるのでしょう。
前日に【根津】に時刻表・地図を調べたのでほぼ予定通り回れたのは【海野】良い事。高野山の前哨戦とも言えますが、ここから【六連戦】になるかどうかは?です。

真田庵(善名称院)は尼寺で牡丹が有名

真田庵御朱印

道の駅にある「真田幸村」の甲冑の復元

南海九度山駅前のトイレにも六連銭が

九度山町マンホール蓋

高野口郵便局 ; 庚申山、展望台、重文・三彩の壺、桜
九度山郵便局 ; 特産・富有柿、九度山橋、真田六文銭の旗印
[参考書]
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<コース>
南海電鉄難波(6:29) → (急行) → 南海橋本(7:18→7:22) → 九度山(7:33) → 徒歩25分 → 慈尊院

万年山 慈尊院(高野山真言宗)
好天に恵まれた6月下旬、新緑の紀州路へ。和歌山と言えば真言宗の総本山、高野山を擁する空海所縁の地ですが、今回は少し手前の九度山で下車。
今は南海電車終点の極楽橋からケーブル&バスで大門まで直ぐですが、昔は国鉄高野口駅からひたすら山道を20㎞歩いての巡礼でした。随分と楽になったものです。
九度山から徒歩20分の慈尊院(じそんいん)は高野山表参道にある寺院。
弘仁7年(816年)に空海が嵯峨天皇から高野山の地を賜った際に、この雨引山麓に表玄関として伽藍を創設したのが始まり。弥勒菩薩を祀り、寺務所・宿坊も兼ねた施設でした。
空海の母・阿刀氏(あとじ)は息子の開いた高野山を訪れようとしましたが、当時山内は七里四方が女人禁制。そのため麓にあるこの寺に滞在し弥勒菩薩を信仰する日々に。
それを聞いた空海は月に九度、20㎞を越える山道を越えて母に会いに来たと言われます。これが今に続く高野山町石道(ちょういしみち)。
母が承和2年(835年)に亡くなった際に、空海は弥勒菩薩と母親の霊を祭る廟堂を建立しますが、これが後に慈尊院と呼ばれる事になります。
慈尊とは弥勒菩薩の別名、九度山の由来は弘法大師が母親に会うため月に九度下りてきたことによると初めて知りました。
余りにも出来すぎた話ですが、空海の母の事も相まって女人結縁の寺・女人高野として知られるようになります。有吉佐和子の『紀の川』にも登場、境内には布で作った乳房のお守りが奉納されています。
願掛けも「乳癌治癒」「安産祈願」といった内容が多く、古来女性命が種々の危険に晒されたためでしょうか。寺院でこのようなものを見るのは珍しいですが、出家した空海も母親の恩は忘れがたいものであったという事でしょう。
この近くの名手から全身麻酔により乳癌の摘出をした華岡青洲がでたのも何かの奇縁を感じます。

JR和歌山線高野口駅前に立つ「葛城館」
かつては高野山巡礼の人々の宿泊施設だったが、今は営業せず文化財となっているのみ。保存を考えたらもう少し活用しても良いのでは?尚、いつの間にか和歌山線が1時間に1本になっていた。

大和街道に立つ前田邸宅
横は高野口郵便局。

重文・本堂(弥勒堂)
本尊は弥勒仏坐像で秘仏。因みに朝8時撮影。

1624年再建の多宝塔

慈尊院の絵馬
女人高野と弘法大師の母が住まれたことに由来。願掛けも「乳癌治癒」「安産祈願」といった内容が多い。

慈尊院奥にある丹生官省符神社
弘法大師が慈尊院創建時に建立したとされる。丹生は乳と音が一緒だが、古来、丹生は水銀の産地であることが多い。水銀は奈良の大仏の金鍍金に使用された。

慈尊院御朱印
弥勒佛の墨書。
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<コース> 電車は日中10分間隔、バスは30分間隔で運転
阪急電鉄梅田駅(7:27) → (急行宝塚線20分) → 池田(7:47) → 西のりば4番(7:53) → (阪急バス20分) → 久安寺(8:13) → 久安寺 → 久安寺バス停(10:58) → (阪急バス20分) → 池田(11:20) → 阪急電鉄梅田駅

大澤山 久安寺(高野山真言宗 関西花の寺二十五霊場第十二番)
未だ梅雨入り発表のない蒸し暑い6月下旬、涼を求めて摂津から丹波亀岡に抜ける街道沿いへ。
この付近は池田市街地からやや高台の伏尾台という場所。元来は山ですが、最近は山を開いて住宅地ができているので、阪急池田の駅前からは30分毎にバスが運行。比較的行きやすい場所です。
大澤山久安寺(だいたくさんきゅうあんじ)の歴史は古く、寺伝によれば
『神亀2年(725年)、聖武天皇の勅願を受け行基が開創した安養寺が前身で、天長年間(824~833年)に空海が真言密教の道場として中興。
保延6年(1140年)火災に拠り諸堂は焼失するが仏像は被害を免れ、久安元年(1145年)に近衛天皇の勅願所となり賢実上人が伽藍を整備、以後は久安寺と呼ばれる。
安土桃山時代には豊臣秀吉がここで月に茶会を開き、江戸中期には歌人平間長雅が移り住んだ。往時は49院の坊舎があったが、今に残るのは本坊の小坂院のみである。』
とあります。
畿内の寺院の例に漏れず、戦乱の被害を受けましたが、いまに至るまで【堅実】に時を刻んでいるようです。
バス停で降りると山越えの道沿いに優美な楼門が、寺内で唯一室町時代の建築で重要文化財。入山はここではなく横の扉からとなっています。

バス停から楼門へ
入山は横の格子扉から

重文・仁王門
応永時代の建築で、「水平のない軒反り」という技法を用いている。

楼門から参道を見る

楼門を振り返る

紫陽花が通路まではみ出ている参道

参道の紫陽花



参道から楼門を見返る

本坊横の参道を通り受付へ

本坊前にて
かつてあった49坊の内、唯一残った小坂坊が本坊になった。明治以降、住居・寺務所を兼ねる。

本坊薬医門

本坊前庭
茶室「雅千庵」「住心庵」「喜楓亭」を持つが拝観不可。

水盤越しの本坊

水盤に入れられた紫陽花
花の日持ちは3~4日程度らしい。

水盤の向こうの受付
右は榧の老木。

受付正面の榧の老木
秀吉が茶会の際に手植えしたもので、今でも実を多く付ける。

受付横の手水場
ここにも紫陽花が。

紫陽花越しに受付を望む

鐘楼前にて

鐘楼の周辺にて

品種「スミダノハナビ(墨田の花火)」

品種「ウズアジサイ」

御影堂(遍照殿)への石段

御影堂前の紫陽花

御影堂から本堂へ

久安寺本堂
本尊は秘仏・千手観音。

本堂より境内を見る

本堂から見た三十三所堂
西国観音霊場を祀る。奥は阿弥陀堂。

三十三所堂前にある普供養の庭

普供養の庭

本堂から三十三所堂前に至る回廊

三十三所堂前の紫陽花

三十三所堂前から本堂を望む

紫陽花の細道を抜ける

行く手に本堂が見える

紅葉が美しい本堂と回廊付近

回廊から見た本堂裏庭

裏庭から回廊を見る

バン字池と本堂

両果の道へ

境内最奥の舎利殿へ続く両果の道
左が庭園・虚空園、右はア字山

虚空園の顎紫陽花



前方に舎利殿が見える

寺の発祥となった朱雀池と地蔵堂

開基行基像

舎利殿涅槃堂(仏塔)
大正時代まで本堂のあった地で、6.4mの涅槃石像を祀る。

舎利殿脇の沙羅双樹
天竺の沙羅とは別所で和ナツツバキと呼ばれるもの。

地面に落ちた沙羅双樹の花

両果の道を戻る

朱雀池畔にて


豊臣秀吉が茶会で腰掛けた石

薬師堂(瑠璃光殿)前にて

本堂前

本堂前の「カシワバアジサイ」

カシワバアジサイの向こうにある薬師堂

カシワバアジサイ(柏葉紫陽花)

鐘楼横の顎紫陽花

受付の榧の老木前に戻る

本坊の塀と石垣

ウズアジサイ(渦紫陽花)

楼門前の塀

久安寺説明書

久安寺御朱印(関西花の寺)
華菩提と墨書。但し、菩提は梵字。

4年前の御朱印(本尊)

池田市マンホール蓋

池田市マンホールカード 配布場所はこちら

新たに登場した池田市マンホール蓋
秋にはカードが発行されるという話も…。

池田伏尾台郵便局 ; 重文・久安寺楼門、市マスコット・ウォンバット
池田郵便局 ; ウォンバット、五月山の大文字、大一文字
[参考書]
大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊能・三島 (歴史散歩 27) 新品価格 | ![]() |

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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース>
JR天王寺(5:35) → JR奈良(6:19→6:39) → JR加茂(6:54→6:55) → JR亀山(8:19→8:40) → JR河曲(8:54) → 徒歩40分 → 石薬師寺 → 徒歩60分 → 庄野宿 → 徒歩20分 → JR加佐登(11:58) → JR亀山(12:09) → 徒歩20分 → 亀山宿 → JR亀山(13:14) → JR関(13:21) → 徒歩5分 → 関宿 → JR関(15:21) → JR加茂(16:35→16:45) → JR大阪(18:09)

高富山 瑠璃光院 石薬師寺(真言宗東寺派)
国道1号は東海道沿いですが、国鉄東海道線は宮(熱田)からはかつての中山道回り。
当時は鈴鹿の山脈を貫く技術がなかったからと言われます。その後、旧東海道は
関西本線+草津線となりますが幹線から外れたためか、却って昔の雰囲気を残しています。
石薬師(44番)と庄野(46番)はわずか4㎞ですが、どっちも駅からちょっと遠い。
なんでも駅を誘致する際に「お茶が汽車の煙で枯れる!」といって地元が猛反対したのが理由とか。
鉄道が通れば駅があろうとなかろうと結局は同じことですが…。
無人駅の多い関西本線の河曲で下車して石薬師宿まで徒歩40分。
途中、本陣や佐々木信綱生家を見て国道1号線沿いに下ると、
自動車がひっきりなしに通る直ぐ脇に寺院が。

石薬師小沢本陣跡
宿帳には浅野内匠頭の名もあるとか。

石薬師宿にある佐々木信綱生家
萬葉集の第一人者で第一回文化勲章受章。俵万智さんもこの流れを汲む。

生家内部

生家横にある佐々木文庫
石薬師寺は宿場の名前にもなった古刹。歌川廣重の保永堂版東海道やゴッホの絵にも描かれています。
高富山瑠璃光院石薬師寺(たかとみざんるりこういんいしやくしじ)の寺伝に拠れば、
『聖武天皇の神亀3年(726年)、白山開山で知られる泰澄が、
この地で大地が鳴動し巨石が出現する事象に遭遇。
これは薬師如来が衆生利益にため「金輪際」から示現されたと悟り、草庵を設けたのが嚆矢。
その後、空海が巨石に薬師如来を刻み開眼法要を行ったので、人々の信仰が篤く、
嵯峨天皇は勅願寺とし高富山西福寺瑠璃光院と称した。
その後、天正年間には織田氏の兵火に会い焼失。
漸く江戸時代になって神戸城主一柳氏により諸堂が再建。
元和2年(1616年)には東海道の宿駅の名から石薬師寺と改称した。』 とあります。

1号線沿いにある石薬師寺裏門

本堂へ向かう参道

廣重が描いた寛永6年(1629年)再建の薬師堂(本堂)
石に薬師さんを彫ったとか。薬師さんだけに医師には関りがある?

東海道五十三次石薬師(保永堂版)
山号の高富山は廣重の絵で寺の後方に描かれている山。
昔は高飛山と書き、これは当地で亡くなった日本武尊が白鳥となって飛び立った事に由来します。
三重の語源も日本武尊が疲労から足が三重になったことから来ていますから、
三重県は日本武尊には縁があるようです。
尤も皇室の祖先神の天照大御神を祀るのが伊勢神宮ですから不思議ではありません。
寺の名前から宿場名が出来たと思いましたが実際は逆。本尊は巨石に刻んだ薬師如来なので、
こちらの方が断然分かり易く良いと思います。
石でできたため兵火にも耐え今も秘仏として祀られており年に一回御開帳されているとか。

本堂と石塔

本堂より見た石薬師寺境内

境内の植え込み
新緑に覆われた境内を散策して御朱印を拝受。
ここのオリジナル御朱印帳は廣重の図案でしかも刺繍製 (¥1,700)。
御朱印帳も残り少なくなってきたこともあり購入しました。

石薬師寺説明書

石薬師寺オリジナル御朱印帳 ¥1,700
布製・大判で見開きにすると廣重の絵になる。

石薬師寺御朱印
そのあとは庄野までウォーキング。石薬師同様、駅からの距離がネックです。
庄野は廣重の作品では傑作の呼び声が高いですが実際は簡素な宿場町。
廣重の浮世絵で有名になったとも言えましょう。
鉄道が敷設されなかった故に都市化しなかったと言えますが、国道1号が通って居り
宿場町の雰囲気を残すのは資料館周辺くらいでした。

東海道沿いにある造り酒屋
銘柄も庄野

庄野宿資料館
江戸時代の油問屋だった旧小林家の主屋の一部を創建当時の姿に復元。

廣重の傑作とされる「庄野宿・白雨」

高札の内容
麻薬や毒を売るなとか、贋金を作るなとか、今も昔も変わらない。
庄野宿から歩いて加佐登駅まで行き電車で亀山まで。
江戸時代は鈴鹿越えを控えた東海道の要衝で、譜代大名が代々治めた城下町。
城址や武家屋敷が残っているので、観光客が多いかと思いましたがさにあらず。
街並みでは次の関が余りにも有名なので、亀山は通過点なのでしょうか?

亀山お城見庭園
駅からは坂を上る。

加藤家屋敷跡
江戸後期亀山城主石川家の家老職、前の道が東海道。

現役で居住されているここも武家屋敷?

亀山城隅櫓
廣重の絵でも描かれている。
亀山に続いて列車で一つ先の関へ。
関の名前は古代に設置された鈴鹿の関に由来しますが、現在まで交通の要衝は変わらず。
鉄道では一駅ですが、名古屋~亀山までは電化でJR東海の管轄。
一方、関は非電化でJR西日本管轄と亀山が分岐点になります。
関は有松と並んで旧東海道伝統的建造物群が残る場所。
何度も訪問しているので、今回も軽い散策でしたが、同期に教えて貰った名店「初音」にて遅めの昼食。
2時間待ちが出る程の店ですが、平日なのですぐOK。
30℃を越える暑さのせいでバテ気味でしたが、これで蘇りました。
値段も首都圏よりも安く特製でも¥3,600。わたしにはその程度の贅沢が関の山。
余談ですが「関の山」とはここ関宿の山車を都のものと比べた事に由来しています。

非電化区間のJR関西本線関駅

関宿街並み
中央は東海道。

関宿にある山車の蔵
「関の山」の語源である。

関の銘菓「関の戸」

銀行も街並みに合わせて。
平成9年度三重県まちづくり賞を受賞。

かつての高札場は今は郵便局に

関宿眺関亭より見た西側
大きな屋根は地蔵院。

関宿1号線沿いの「初音」にて ひつまぶし¥3,600

汽車を待つ間に…。
カキ氷¥200、白玉2個¥180

駅スタンプ

鈴鹿石薬師郵便局 ; 歌人・佐々木信綱生家、歌川廣重「東海道五十三次・石薬師宿」
鈴鹿庄野郵便局 ; 歌川廣重「東海道五十三次・庄野宿」
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 電車はいずれも頻発
阪急梅田 → (阪急神戸線) → 西宮北口 → (阪急今津線) → 門戸厄神 → 徒歩10分 → 東光寺

松泰山 東光寺(高野山真言宗 別格本山)
午前中に伊丹に所用があり、終わった後の空き時間を使ってのプチ巡礼。阪急今津線の駅から北西に徒歩10分。
門戸厄神(もんどやくじん)は阪急の駅名では知っていましたが訪問は初。正式には松泰山東光寺(しょうたいさんとうこうじ)と言い関西人には初詣や十九日の厄除祭でよく知られた場所です。
商売熱心なので新しい寺と思っていましたが由来は古く
『嵯峨天皇の勅願で弘法大師が開山。
嵯峨天皇が41歳の天長6年(829年)、愛染明王と不動明王が一体化して諸々の厄災を打ち平らげる夢を見た事を空海が聞き愛染明王と不動明王が一体となった厄神明王を三体彫刻。
一体は高野山麓の天野明神へ国家安泰を、次の一体は男山の石清水八幡宮へ皇家安泰を、残る一体は摂津の東光寺へ庶民守護を祈願して祀ったが、現存するのは東光寺のみである。』
とあります。
合体して強くなるのはウルトラマンエースやバロム1に限ったことではありませんが、庶民の安泰という事と唯一残った事を強調して多くの人々の信仰を得たのでしょう。
でも国家も皇室も安泰な訳ですから、ここだけ御利益があった訳ではないと思います。まあ細かい事を云っても仕方がありませんが…。

道路にある標識に従い巡礼

阪急門戸厄神駅から北西に歩くと道標が

関所のような南門に到着

表玄関
正門はこちらから

表門

中楼門

中楼門の天井の彫刻

中楼門を通り境内を見る
左は厄神堂で、右が薬師堂。

境内中央に位置する厄神堂
厄神明王を祀る。
お寺の本尊は薬師如来で薬師如来の住む東方浄土から光が発せられるとの意味から東光寺と名付けられました。
しかし厄除祈願が由来なので薬師如来ではなく、厄神明王にお参りする人が圧倒的、門の正面にあるのも厄神堂です。私も自身の事と地震の事もあり、厄除を祈願しました。
平日なので納経も少なめ(以前はいつもそうでしたが…)で直ぐに頂け、中々の達筆。日本三筆の内、二筆が関わった寺院なので当然と言えば当然ですが…。
門前なのに予想に反して店は殆どなし。高級住宅街なので規制でもあるのでしょうか?もうちょっと【門戸】を開いてくれればと思った次第。唯一あった饅頭屋さんでの甘味とはなりました。

薬師堂瑠璃光殿
本尊の薬師如来を祀る。

厄神堂から見た中楼門

納経所から見た市内

厄神堂裏の奥の院に向かう

奥の院の不動明王像

延命魂(根)
高野山の大師廟のた傍らにあった樹齢800年の杉を持ってきたもの。

説明板

南から薬師堂方面を望む

不動堂と大師堂(右奥)

表門と中楼門の間にある庭園
なぜか狸が多い。本物が寄ってくるかも。

庫裡では素人が1泊研修できる

門戸厄神説明書

門戸厄神御朱印

甘味は門前にて ¥130/個

帰り道も道標に随って

神戸女学院の校門
ヴォーリズが設計した校舎があったと記憶していたが見学はできず。
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 電車は日中1時間毎に運転
JR京都(6:37) → JR石原(8:33) → 徒歩15分 → 丹州観音寺 → JR石原(10:58) → JR福知山(11:03→15:54) → JR園部(17:12→17:16) → JR京都(17:53)

補陀落山 観音寺(真言宗 関西花の寺の二十五ヵ所霊場第一番札所)
世間では紫陽花が見頃を迎えているので花を求めて丹波へ。
地元の人と思しき3人のみ下車した無人の石原(いさ)駅から東へ徒歩15分。古刹の多い丹波地方ですが大部分は駅から5㎞以上の場所。ここは未だ近い方かと思いつつ目的地に到着。
補陀落山観音寺(ふだらくさんかんのんじ)、寺伝に拠れば、
『養老4年(720年)、天竺の渡来僧法道上人が十一面千手観音菩薩を刻んで祀ったのが始まりで、応和元年(961年)に空也上人が七堂伽藍を整え再興。
平安末には塔頭十余を数え、鎌倉時代には執権北条氏の、室町時代には将軍足利氏や丹波守護細川氏の庇護を受け繁栄するが、明智光秀に逆らったため天正4年(1576年)に仁王門を残し全山焼失。3年後に再建された。
江戸時代には歴代福知山藩主の庇護を受けるが徐々に衰退した。』
とあります。
法道上人は丹波地域の寺を創建したとされる伝説的な僧侶。真偽は兎も角、古くから信仰を集めた寺院であったのは間違いないようです。
情け深い君主と言われる光秀ですが戦略のためには容赦しませんでした。ここも時代の荒波を受け浮沈を繰り返しますが、関西花の寺二十五ヵ寺の第一番札所になった事が上昇の契機に。
関西には西国及び新西国三十三ヵ所がありますが、花を前面にアピールしたのが功を奏したと言えます。山号の補陀落山は西国一番の青岸渡寺と同じなので一番になったのでしょうか?

道路から道を中に数百m入ると観音寺

簡素な山門

仁王門前にて
9時前なのでテレビ局(関西TV)の方が撮影中。

寺標

仁王門近影
創建当時の物は明治29年(1896年)に倒壊し、昭和6年(1931年)に鎌倉様式で再建。

仁王阿像

仁王吽像

仁王門を過ぎ受付(右奥)に向かう

紫陽花越しに仁王門を振り返る

受付から仁王門を望む
拝観¥350 は9時からであるが15分前でも入れて貰えた。

参道を通り庫裏(右手)へ

庫裏への階段前から入口を望む

正面の庫裏へ向かう

石段下で清める

庫裏への門

庫裏にある大聖院(左)と寺務所(右)
御朱印はここで拝受し、その間に山内を巡礼。

大聖院の縁側から紫陽花の咲く庭に対す

紫陽花の間の七観音霊場を通り「嘆きの展望台」へ

霊場途中からみた大聖院

「嘆きの展望台」に到着
書かれた文には思わず笑ってしまう。

展望台から本堂へ向かう道にて

かっぱ池の周囲にて


境内には至る所に紫陽花が植えられていますが、歴史は新しく戦後になって植えられたもの。本堂で伺った話では、眼病平癒を願って回復した人がそのお礼に紫陽花を植えたのが嚆矢で、その後植える人が続いたとか。紫陽花は挿し木で増えるので選ばれたのでしょうか?吉野山の桜に通じる話です。そういえば眼病に御利益のある長岡京市の楊谷寺も紫陽花寺。観音寺の説明書では、眼病が治り再び光明を得た御礼に七色に変化する光の花・紫陽花を植えたとありますが、偶然ならば目をみはる話です。
本尊の御利益で面白いのは「財宝観音」。大金持ちではなく日々の小遣い銭を得るには効果があるとか。「西方観音」がいつしか訛って「財宝観音」になったそうですが、老後資金¥2,000万円は難しいですが、日々の小遣いがあれば何とか【至近】のやりくりはできると言うもの。「人生に必要なのは少々のお金」とはチャップリンの言葉だったでしょうか?大金を持つと碌な事にはならないようなので私もしっかり御願いしてきました。

寛政7年(1795年)に完成した本堂(観音堂)

本堂前面の垂木に「一番札所」の看板が

本堂前から弁天池を見る

本堂内陣の欄間彫刻
作者は中井権次。丹波氷上の出身で柏原藩の宮大工。神社仏閣の彫刻を得意とした。初代から9代に亘るが、6代目以降は権次を名乗ったのでだれに相当するかは分からず仕舞い。

本堂前の慈母観音

本堂右手の「観音杉」

観音杉越しに見た本堂

本堂前の紫陽花

弁天池畔にて

不動堂脇にて

本堂境内の紫陽花






本堂から向かいの庫裏へ
ここの小藪実英住職は高野山で教務について居られたそうで、境内には自作の絵や言葉が掲げてあります。決して上から目線ではありませんが読むと妙に納得するのが不思議。庫裏の前庭には珍しい紫陽花も栽培されて居り、訪れる人が熱心に見入っていました。企業に勤めても企画や営業で業績をあげたのではないでしょうか?
どこのお寺も待っているだけでは駄目で、人を呼び込む努力をしないといけないとの教えでしょう。

寺務所前にある「あじさい園」

あじさい園には珍しい品種が植えられている
一般に比べて、小ぶりなものが多い。








あじさい園を散歩する「小国鶏」のつがい
餌を貰おうと出てきたところ

拝観を終えて入口へ






仁王門を出る

仁王門前の畑にある紫陽花
地元の農家により育成されており、観音寺の紫陽花が枯死したらここのものを移植するとか。

観音寺説明書

観音寺オリジナル御朱印帳
紫陽花が刺繍されている

23年前に拝受した関西花の寺の観音寺御朱印

今回拝受した紫陽花期間の御朱印
小藪住職に拠るデザイン

福知山石原郵便局 ; 福知山城、戸田橋、アジサイ
福知山郵便局 ; 福知山城、福知山おどり、三岳山、由良川
[参考書]
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関西 花の寺二十五カ所―四季の花とみ仏をたづねて (歩く旅シリーズ―古寺巡礼) 中古価格 | ![]() |

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<コース>
JR横浜(6:37) → JR宇都宮(8:58) → 宇都宮西口(9:20) → 関東バス大谷立岩線 → 大谷観音前(9:46) → 大谷資料館・大谷観音 → 大谷観音前(11:43) → 関東バス大谷立岩線 → 宇都宮西口(12:09) → JR宇都宮(13:33) → JR大宮(14:41→14:45) → 東武豊春(15:01) → 徒歩20分 → 慈恩寺 → 徒歩20分 → 東武豊春(16:15) → 東武大宮(16:32→16:40) → JR横浜(17:49)
宇都宮の後は都心に戻りますが、少し時間があったので埼玉県で唯一残った札所へ巡礼。
華林山最上院慈恩寺(かりんざんさいじょういんじおんじ)は県庁のさいたま市の東の岩槻区。他の三ヵ寺が比企にあるのにここだけ外れています。
県庁といってもそれほど繁華ではなく山奥でもなく、不思議な場所です。寺伝では
『天長元年(824年)慈覚大師に拠り開創、大師が入唐求法の折に学んだ長安にある大慈恩寺に因み名付けたとされる。』
とあります。慈覚大師は下野の出身で関東・東北に所縁があるので、ここの開基というのも真実味があります。
かつては十三万坪の敷地と六十六ヵ坊を有する大寺でしたが、江戸・明治期に三度の火災により多くが灰燼に帰しました。
訪れた時は丁度本堂の工事中で、壮大な本堂は足場に覆われて見えず。御朱印は拝受できましたが、御朱印だけに寄った形になってしまいました。
そのまま帰るのはつまらんので境内を歩くと、奥に玄奘塔がありました。寺名の由となった大慈恩寺は唐の太宗李世民が天竺から帰朝した玄奘のために建立した寺。そこで大日般若経の漢訳を行ったと言われます。
仏教経典の漢訳といえば鳩摩羅什と玄奘三蔵が双璧ですが、鳩摩羅什の法華経が意訳であるのに対し、玄奘のものは一字一句丁寧に直訳したことが特徴。
その遺骨は永らく不明でしたが昭和17年に南京郊外で偶然発見され一部が日本に贈られましたが、同じ名ということで昭和25年に奉安されたようです。
札所の現状は工事中でしたが、代わりに仏教界の大立者玄奘三蔵所縁の史跡を見た事で良しとしました。

華林山 最上院 慈恩寺(天台宗 坂東三十三ヵ所第十二番札所)
玄奘塔の入口。

玄奘塔

慈恩寺説明書

慈恩寺御朱印
[参考書]
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