<コース>
JR大阪(5:55) → JR福知山(8:19→8:29) → JR東舞鶴(9:23→11:23) → JR西舞鶴(11:29→11:37) → (京都丹後鉄道) → 宮津(12:08) → 徒歩10分 → 道の駅 海の京都 → レンタサイクル → 知恩寺 → 天橋立 → 籠神社

籠神社(丹後国一宮 式内社 旧国幣中社)
知恩寺から3.3㎞の天橋立を渡った反対側にあるのが元伊勢籠(もといせこの)神社。
その創建は古く、
『上代の創建で、初め豊受大神を祀り、雄略天皇の時代に天照大神を伊勢に祀る前にここに祀った。故に元伊勢と呼ぶ。
大化の改新の後は籠神社と称し、10世紀以降は丹後一宮と呼ばれた事が六国史から分かる。
その間、養老3年719年に現在地に移転した。』
とあります。
伝説時代はさておき、古代から人々の崇拝の対象となっていたのは確か。
ここの神職は代々海部(あまべ)氏が務めており現代84代目。
断絶を避けるために今でも親子で同じ飛行機には乗られないという徹底ぶり。
その系譜が残っており国宝。海部氏はその字から想像するに海に所縁のある一族で、その首長が祭祀を行ったと考えられます。
鎮座される場所は天橋立を挟んで知恩寺の向かい側。宮津湾の入り口を抑える場所に当たります。
古代には更に高台の奥宮・真名井神社に豊受大神が鎮座されていたそうですから、港を一望できる場所だったでしょう。

廻旋橋が回って船が航行中

廻旋橋説明

廻旋橋上から阿蘇海、府中方面を見る

天橋立から見た知恩寺境内

天橋立から宮津湾方面を望む

天橋立の中を行く

傘松方面へ近づく

元伊勢籠神社一の鳥居

二の鳥居

二の鳥居近影
陸伝いにはやや不便ですが、海の移動を考えると立地条件は良好。
古来より海人族を率いた海部氏ならではの選択と言えそうです。
丹後半島の奥には舟屋で有名な伊根がありますが、そこには浦島伝説の神社もあるとか。
海を渡って来た民族の神が一旦この地に留まり、その後伊勢に移ったとすれば、元伊勢の由来も朧気ながら分かる気がします。
古代においては文化の一大中継地点だったのでしょう。
信州にも安曇という地名が残っていますが、この一族も海伝いに来た一族。
日本海は今以上に古代では交通の大動脈だったと考えられます。
その理由ですが、海岸沿いに対馬海流が規則正しく流れており風と異なり航海の時間が読める事が重宝されたと考えられます。
魏志倭人伝の邪馬台国に 「水行十日」 とあるのは瀬戸内海と考える事が多いですが、日本海と考えると全く別のルートが
浮かび上がります。とする途中の「ツマ」国は「イヅモ」の訛ったものかと想像が膨らみます。

神門前の阿形の狛犬
凝灰岩製の(神社には鎌倉時代とあるが…)桃山時代の作で重文。尚、この狛犬の右足には鉄輪がはめられているが、これは悪事を働いたために天正年間に石見重太郎に斬られた跡と伝わる。

狛犬説明

神門
ここより先は撮影禁止。

神社由緒

籠神社御朱印

宮津市マンホール蓋
神社の前の道に設置

天橋立駅前郵便局 ; 文殊山から見た天橋立・飛龍観、可動橋・廻旋橋、知恵の輪灯篭
天橋立郵便局 ; 天橋立
[参考書]
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【往路】JR大阪(5:55) → JR福知山(8:19→8:29) → JR東舞鶴(9:23→11:23) → JR西舞鶴(11:29→11:37) → (京都丹後鉄道) → 宮津(12:08)
宮津 → 徒歩10分 → 道の駅 海の京都 → レンタサイクル → 知恩寺

天橋山 知恩寺(臨済宗妙心寺派)
台風の影響で雨が多く家に籠る日が多かったですが、久しぶりの晴天予報を聞き夏場らしく丹後へ。
福知山から舞鶴線で終点の東舞鶴下車。
舞鶴湾は天然の良港ですが、西は城下町で漁船や客船が着く場所。東は役所と軍港と棲み分けができています。
戦前は旧帝国海軍の鎮守府が置かれた軍港で東郷元帥も日露戦争前は舞鶴鎮台の職にありました。
戦後は「岸壁の母」の舞台となった引揚船の港と歴史を刻んでいます。
今は、海軍ゆかりのカレーと海軍施設の赤レンガ倉庫群で町興しをしていますが、西と【とうごう】するのは難しそうです。

舞鶴赤れんがパーク
旧帝国海軍の倉庫として明治35~36年に建設された。今は記念館やレストランが入っている。

自衛隊桟橋付近にて

舞鶴市マンホール蓋
赤れんがパーク横の国道27号線付近に設置。

舞鶴市マンホールカード 配布場所はこちら

舞鶴北吸郵便局 ; 舞鶴引揚記念館、望郷慰霊の碑
中舞鶴郵便局 ; 海上保安学校校舎、舞鶴湾の戸島
赤れんがと軍港を見た後は西舞鶴からKTRで宮津へ。道の駅でレンタサイクルを借りて栗田半島方面へサイクリング。
途中、雪舟が国宝・天橋立図の構図にしたと言われる場所がありましたが、やや標高が足りず。
他にはそのような場所は無く、結局彼は想像であの絵を描いたのだろうと結論しました。
写実も勿論ですが、想像力も芸術家には不可欠だという事です。

栗田半島から見た天橋立

栗田半島から遠く伊根方面を見る

雪舟が描いた絵の場所とされる所にある稲荷社

社の高台から見た天橋立
後方の阿蘇海が辛うじて見えるくらいで、構図はもう少し高い場所か?
その後は知恵の文殊さまへお参り。
ここを訪れるのは5回目ですが、橋立観光の起点に近く宿泊・食事施設が集中しているので観光客が多いのはいつもの事。
唯、御朱印を貰う人は確実に増えておりブームが衰えていないのを実感しました。
天橋山知恩寺(あまはしさんちおんじ)は、寺伝に拠ると
『起源は神話時代に遡り、イザナギ・イザナミの二神が、この地に棲む悪龍を教化するために中国五台山より知恵の文殊菩薩を
迎えた事に始まるとされる。
歴史的には大同3年808年に平城天皇が悪夢により当地に来て勅願により建立したと言われ、山号・寺号は延喜4年(904年)に
醍醐天皇に拠るとされ勅額は醍醐天皇のものである。』
とあります。
天橋立は全長3.3㎞の砂嘴で『丹後国風土記』ではイザナギが天に渡るべく架けたとされるもの。
そうでなくともこの自然の驚異を目にする人は必ず神秘性を感じたに違いなく、昔から多くの人を惹き付けてきました。
天橋立を訪れる人は先ずこの寺に詣でるのが常で、寺伝もそのような歴史が堆積したものでしょう。
平安時代は国司が補修に携わっています。
鎌倉時代に禅宗となり、室町期には将軍・守護大名も保護に努め、明徳4年に足利義満、応永29年には足利義持が
参詣したと伝わります。

知恩寺山門(楼門)
明和5年(1768年)建造の禅宗様式で三間三戸二重門は丹後地方最大。楼上には釈迦如来、十六羅漢を安置する。

山門正面
上の扁額は「黄金閣」。

境内から見た山門

山門を入って左手の重文・多宝塔
一色氏の武将府中城主延永春信が病気全快を感謝して明応9年(1500年)に寄進したもの。塔内には大日如来を安置。

本堂前から境内を望む

山門正面にある宝形造の本堂(文殊堂)
文殊菩薩降臨の地と云われ、本尊は重文・木像文殊菩薩像。

本堂近影
内陣の四本柱を特に神建の柱と呼び、神代建立の伝説を持つ江戸中期の建築。

本堂側面
前面二間を吹放しの外陣、四囲は吹放しの化粧軒天井になっている。

庫裏に続く楼門

鐘楼

本堂側面

本堂横の無相堂

何故か扇子の形のおみくじが

境内にある石造宝篋印塔
何時の頃からか和泉式部の歌塚と伝えられる。
今でも観光客は多く、参拝者は海辺に建つ知恵の輪くぐりをする習わし。
尤も元来は港に入る船の燈台の役目をしていたそうですから、知恵者がいたのでしょう。
天橋立は知恩寺とは完全に陸続きにはなっておらず廻旋橋でつながっています。
その場所の切戸から寺の別名・切戸文殊堂が来ています。
山門前には「知恵の餅」の店が四軒。
真夏なのでスルーかと思っていたら、「知恵の餅付きかき氷」の看板が目に入ったので早速立ち寄り。
値段も¥500と良心的でした。
三島大社もそうですが、猛暑にはかき氷とコラボするのが良作。ここにも文殊の知恵が生きていました。

阿蘇海の岸に建つ 「知恵の輪」

「知恵の輪」 説明

知恩寺川と天橋立川を繋ぐ廻旋橋
船が通るときに動く仕掛けである。

知恩寺説明書

知恩寺御朱印
四半世紀以上前に拝受したものだが、現在までこれ一種類を守っているのが素晴らしい。

知恩寺オリジナル御朱印帳
今は同じ図柄でこれより一回り大きなタイプも販売されている事に時代の流れを感じる。

門前の彦兵衛にて一服
左の自転車がこの日の相棒。

知恵の餅入りかき氷 ¥500
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東急横浜 → (東急東横線・副都心線・東武東上線) → 東松山 → 徒歩20分 → 岩室観音堂・吉見百穴 → 東松山 → 朝霞台 → JR北朝霞 → JR新座 → 徒歩15分 → 平林寺

金鳳山 平林寺(臨済宗妙心寺派)
昼からは東武東上線とJR武蔵野線を乗り継いで新座市へ。
東京都に接した新座市ですが、市内には広大な樹木が茂り武蔵野の面影を留める場所があります。

JR新座駅前から続く野火止緑地散策路

水路には泥鰌も!

平林寺へ向かう

昼食は平林寺門前の「手のべうどん たけ山」にて

門前にしては珍しく蕎麦ではなくうどんが有名

昼食後のデザートは台湾風かき氷
金鳳山平林寺(きんぽうざんへいりんじ)は関東屈指の古刹で禅道場。寺伝では、
『天授元年(1375年)武蔵岩槻城主の太田道真(道灌の父)が石室善玖禅師を開山として岩槻在平林寺村に創建。
戦国時代に伽藍を焼失するが、徳川家康の庇護を受け天正20年(1592年)に鉄山宗純禅師により中興。
後の寛文3年(1663年)には川越藩主松平信綱の遺言に従いの嗣子輝綱が野火止の地に移し、一族の菩提寺とした。』
とあります。

平林寺総門付近
敷地総面積45haとか!

平林寺総門前にて
境内全体が平林寺境内林として天然記念物に指定されている。

拝観入口より見上げた総門
「平林寺専門道場」の看板が。

扁額「金鳳山」は石川丈山の揮毫
金鳳山とは開山の師が住まいした金陵(南京)鳳台山保寧寺に由来する。

350年以上の風雪に耐えた平林寺山門
岩槻から野火止に移転した際にも解体され運ばれた。左右の金剛力士像は電力の鬼と言われた実業家松永安左エ門の寄進。

山門脇の樹齢500年の高野槇

山門に続く仏殿
茅葺で本尊の釈迦如来像は創建時の物、脇侍は松平信綱の寄進に拠る。扁額は「無形元寂寥」。

仏殿の先にある中門
この向こうが明治13年再建の本堂で、総門から本堂まで一直線上に配置されている。

中門から見た仏殿裏側

仏殿の脇を抜け境内林に向かう

境内林への入口
松平伊豆守信綱は、大河内松平家初代。
3代将軍家光、4代将軍家綱に仕え幕政を支え「知恵伊豆」の異名をとった切れ者。島原の乱を鎮めた事でも知られます。
また川越藩主としても治政を上げましたが、水源が乏しい武蔵野の地に玉川上水から野火止用水を分水した事は
この地域の発展に貢献しました。今も町中を流れる野火止用水に沿って散策できます。
費用と年月のかかる大工事ですが、さぞかし知恵を絞ったことでしょう。
野火と言っても【ドラえもん】が助けてくれた訳ではありません。
菩提寺となった平林寺境内にも野火止用水が流れますが、加えて43ヘクタールにも及ぶ雑木林があり 「平林寺境内林」
として国の天然記念物に。境内に樹木があるのは珍しくありませんが、これだけの広さは稀。
松平伊豆守が将来に開発で自然が失われる事を想定して確保したとは思えませんが、
結果的に街中にあって武蔵野の自然を今に伝える貴重な場所になっています。

「島原の乱」供養塔
乱の200年遠忌に犠牲となった人々の為に建立。

境内を流れる野火止用水

大河内松平家廟所
三千坪の墓域に160基余りの一門の墓石が並ぶ。

境内林を散策
武蔵野の風景を象徴する雑木林

境内林内にある業平塚
東下りでここに来たとか来なかったとか。


境内林内にある野火止塚
ここから野火を見たとか。


水路は境内を巡る

仏殿脇の放生池
保全のためもあり、拝観料が必要。受付で御朱印を尋ねると住職夫人が
夫人;「以前はしていましたが、ある時他人の御朱印を間違って持って帰った人がいて、それ以降しなくなりました。」
との答え。関東第一の道場を期待していましたが残念。しかし、夫人の言われるには、
夫人;「入場券が御朱印の形なので、そのコピーを貼付して貰えれば大丈夫です。」 との事。
成程、そういえば御朱印に見えるので納得。25年間で初めての経験でした。
それから今でも大河内松平家の方が見えるそうで、生前は女優の河内桃子さんも毎年来られたそうです。
「すらっとした長身でお綺麗な方でした。」とは住職夫人の談。
当時の女性としては長身の170㎝、祖父である理化学研究所創設者大河内正敏氏はいつも一緒に連れて歩いたとか。
こうして今は農業だけでなく他では見られない武蔵野の自然に触れることができ巡礼も無事終了。
♪夏が過ぎ昼下がり♪
【用水】のお蔭で少年時代を思い出した一日でした。

平林寺説明書

御朱印の代わりにと言われた拝観券
「松樹千年翠」とある。

平林寺総門向かいにある睡足軒
江戸時代は高崎藩陣屋。昭和には財界人松永安左エ門が屋敷を建てる。現在は平林寺所有。

睡足軒の建屋
三茶人の一人だけに質素な造り。

野火止用水上流付近
ここは桜並木になっている。

野火止用水史跡碑

新座郵便局 ; 平林寺山門、楓、桜、梅

新座大和田郵便局 ; 平林寺山門、梨
新座片山郵便局 ; 平林寺山門、市花・コブシ、県蝶・ミドリシジミ、クヌギとノコギリクワガタ
[参考書]
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東急横浜 → (東急東横線・副都心線・東武東上線) → 東松山 → 徒歩20分 → 岩室観音堂・吉見百穴

岩室観音堂
週末も天気がいまひとつ。そこで2年前吉見観音巡礼の途中スルーした穴場を訪問する事に。
吉見町は比企の丘陵地帯。比企丘陵及び吉見丘陵は凝灰岩質で周囲には加工し易い場所が【比企】も切らず、
道脇には石仏などが鎮座されています。
岩室観音堂は弘仁年間(810~824年)に創建されたと言われ、歴代松山城主の侵攻もとい信仰を受けました。
88体の石仏が安置され四国八十八ヵ所と同じ功徳が得られると言われますが今は無住。堂だけがひっそりと残っています。
未だ崩壊してはいませんが、このままだと朽ち果てる運命なので、何某かの手を打つ必要があるのではないでしょうか?

東京駅を模したような東武・東松山駅
行先は吉身町だが、東松山市から東へ歩く。

岩室観音堂山門
風格はあるが風化が進んでいる様子。

岩窟内のお地蔵様群
境内という広さはなく、自然をそのまま利用したと言う表現がピッタリくる。
観音堂すぐ北側の吉見百穴(よしみひゃくあな)は江戸時代から知られていましたが、明治期になって本格調査。
帝国大学の坪井正五郎博士がコロボックル住居説を唱えましたが、いまでは古墳末期の墳墓というのが定説です。
百穴と言われますが、全部で219穴。長期に亘って使用されていた事から推測するに住み心地が良く、
【あなーきー】な状態ではなかったということでしょう。
古墳時代は墳墓として用いられた百穴も戦時中は軍需工場の一部として中島飛行機の地下工場に。
そのため数十基の穴が破壊されました。
工場は終戦後も稼働していたらしく、半島から出稼ぎに来ていた最後の人が辞めると同時に閉鎖。
国へ帰るので送別会を開き、その人が返礼に植えた木が今も残っています。戦時とはいえ心温まる話ではあります。
このように波乱万丈の変遷を経ていますが、いまは観光地として第三の人生?を歩んでいます。
古代の遺跡と現代の戦跡が共存しているのも奇妙なものですが、どちらも目を背ける事のないようにしないといけませんね。
見学後は、マンホールカード貰いましたが、これも穴繋がりでしょうか?

吉見百穴
実際は219穴ある。右下は軍需工場跡地への入り口

百穴説明板

地下軍需工場への入口
中島飛行機の大宮工場を移転したらしい。

軍需工場跡地
サスペンスドラマや仮面ライダー等の撮影で使われたとか。ああ、しょっかー!

百穴近影
穴の広さは3㎡程。大化薄葬令の影響か?

百穴にあるヒカリゴケ
関東では珍しいとされ、国の天然記念物に指定。

百穴の上から東松山市を望む

吉身町マンホールカード 配布場所は吉見百穴

東松山郵便局 ; 史跡・吉見百穴、箭弓神社境内の狐、牡丹
[参考書]
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【往路前半】JR横浜(5:22) → JR東神奈川(5:25→5:36) → JR八王子(6:30→6:33☆) → JR塩尻(9:53)
【木曽宿】塩尻駅前(10:05) → (塩尻市地域振興バス 楢川線) → 洗馬局前(10:26) → 徒歩10分→ JR洗馬駅(10:54) → JR贄川(11:05) → 徒歩5分 → 贄川関所(11:46) → (塩尻市地域振興バス 楢川線) →木曽くらしの工芸館(11:52) → 徒歩5分 → 平沢宿 → 徒歩20分 → 奈良井宿 → JR奈良井(13:32) → JR藪原(13:38→14:25) → JR宮ノ越(14:32→15:33) → JR大桑(16:17) → 徒歩30分 → JR野尻(17:32) → JR南木曽(17:43)
【往路後半】JR南木曽(17:56) → (ワイドビューしなの20号) → 名古屋(19:05→19:23) → (のぞみ247) → JR新大阪(20:13)

中央本線洗馬駅(無人)
木曽義仲が挙兵時に馬を洗ったというのは俗説で、平安時代に蓮華王院領として洗馬牧ができた事に拠る。
・木曽路は全て山の中である。 『夜明け前』 島崎藤村
週末に横浜から大阪に帰阪することとなり、金曜日に休暇を取得。
通常は新幹線ですが、今回は金曜日に休暇を取ったのでルートを変えて中央本線で西へ。
塩尻から名古屋方面はかつての中山道。江戸時代には東海道に次ぐ幹線でしたが、それも昔の話。
高尾~塩尻~名古屋は中央本線ですが、塩尻でJR東日本から東海へ管轄が変わるため直通は1本もなし。
しかも塩尻での乗り換えの便が悪く、木曽も3宿訪問が限度と想っていましたが、平日には塩尻市のコミュニティバスがある模様。
お蔭で塩尻から木曽福島まで7宿訪問できました。
最近は由緒ある駅名も現代風に「○○公園」「△△温泉」と変える所が多いと聞きます。
しかし、ここは宿場の名前をそのまま駅名にしており、洗馬・贄川などは字面を見ただけで由来が分かりそうです。
後世に残すのは必ずしも形あるものだけとは限らない例です。中津川から塩尻間では有人駅は南木曽と木曽福島のみ。
そんな利用客の少ない駅舎でも宿場に拘った外観をとっているのは鉄道ファンならずとも心惹かれるものがありました。
今は通過点となった感のある木曾ですが、それ故過去が息づいている感があります。

中央線贄川駅(無人)
古くは温泉があって「熱川」と書いたが、温泉が涸れると現在の「贄川」と記されるようになった。

贄川関所
「ここより南、木曽路」とある。奥に見えるのは中央線。

贄川関所正面
福島の副関で尾張藩の管轄。

関所の内部
常時駐在は2名。有事の際の武器類が展示してあるが、いかに江戸が平穏だったかが分かる。

木曾平沢宿下町付近(重要伝統的建造物群保存地区)
漆で栄えたので漆器店が軒を連ねる。

木曽楢川小学校
木材の町らしい校舎。
7宿の内では奈良井が有名で観光客も集中していますが、それ以外にも宿場の雰囲気があちこちに残ります。
木曽は高地のため耕地が少なく、江戸時代の石高制では絶望的な状況。しかし内情は裕福な所が多かったようです。
木曽の檜、木曽駒に加えて平沢の漆器、藪原の櫛と特産品も豊富。
宿場ごとに【木曽】った事が、良い結果に繋がった気がします。

中央線奈良井駅
無人駅扱いだが観光案内所を併設している。

奈良井川に架かる木曽の大橋
平成3年に完成した33mの太鼓橋。建築に当たっては樹齢250~300年の木曽檜を使用した。

奈良井宿北側 (重要伝統的建造物群保存地区)
中山道では人気が高く、人気投票でも一位となっている。二位は妻籠。

奈良井宿の中央付近
左にゑちごや(旅籠)の看板が。

奈良井郵便局
街道の松並みに【ならい】、このような造りに。

宮ノ越の本陣 (復元)

本陣内部

宮ノ越宿の義仲館にある木曾義仲と巴御前の像
京都では暴れたため評判が悪いが地元では英雄。館内では写真等でその生涯を追っている。巴御前の鉢巻きの展示はなし。

夕方の野尻宿
写真の建物はかつての旅館だったが今は営業していないとの話。

南木曽駅(妻籠をモデルにした駅舎)
ここからワイドビューに乗り帰路へ。

洗馬郵便局 ; おおたの清水碑、平出遺跡出土緑釉水瓶、追分道標、桔梗
贄川郵便局 ; 贄川関所跡、木曽路入口道標

平沢郵便局 ; 木曽漆器、漆の塗師、檜、御岳
藪原郵便局 ; 鳥居峠、木曽のお六櫛

野尻郵便局 ; 野尻宿、阿寺渓谷
大桑郵便局 ; 阿寺渓谷、のぞきど高原、アーチェリー、中央アルプス
[参考書]
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長野出身の近世史の泰斗による中山道の宿場ごとの詳細な解説。
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【往路】JR横浜 快速エアポート成田(5:39) → JR東京(6:09) → JR千葉(6:51→6:58) → JR五井(7:15→7:25) → (小湊鉄道) → 上総牛久(7:53)
牛久駅(8:25) → (小湊鉄道バス) → 笠森(8:40) → 笠森観音 → 徒歩30分 → 長南三叉(9:38) → (小湊鉄道バス) → 藻原寺バス停(9:51) → 徒歩5分 → 藻原寺 → 徒歩10分 → JR茂原(11:50) → JR三門(12:18) → 徒歩45分 → 清水寺
【復路】JR三門(15:45) → JR千葉(16:50→17:11) → JR横浜(18:26)

音羽山 千手院 清水寺(天台宗 坂東三十三ヵ所第三十二番札所)
入口にあるこの仁王門は老朽化のため平成5年に再建。
藻原寺の後はJRに戻って次の札所へ。外房線は1時間毎の運行。
それだけならまだしも、最寄りのJR三門駅及び長者町駅は無人で駅周辺も施設は皆無。
路線バスもないので、猛暑の中、ひたすら4㎞のアスファルト道を歩く事に。
音羽山千手院清水寺(おとわさんせんじゅいんきよみずでら)は、
『延暦年間(782~806年)、この地を訪れて道に迷った最澄に熊野権現が樵に化けて現れ宿を貸したのが始まり。
最澄はそこに庵を結んだが帰京したので弟子の円仁が大同2年(807年)に師の意思を継いで楠で千手観音を刻み安置。
東征中の坂上田村麻呂が堂宇を建立した』
とあります。
伝説の域ではありますが、由来が古いのは確か。
西国札所の京都清水寺、播磨清水寺と共に日本三清水と言われます。
清水と言う名は多いですが、この地には夏でも涸れない「千尋の池」があることが名前の由来。
加えて太平洋に注ぐ夷隅(いすみ)川河口岬町の山間にあって地形が京都に似ているから同じ山号を採っているようです。

風神・雷神を祀る四天門
文政5年(1822年)建立、昭和54年に銅板葺に改修。
古刹・古寺と呼ばれる寺はなにがしか理由があって人が崇める場所に建立されたもの。
適当に建てたら人が来るようになったというものではありません。
古代にあっては、生活に必須な物、恐ろしく畏敬の念を持つ場所が相当するでしょうか。
清水観音も自然林の中にあり、ここも境内及び山林10ヘクタールは千葉県環境保全地域 「清水観音の森」。
笠森観音もそうですが自然と結びついた古代の人の信仰の様子が伺えました。
清水寺があるのは「いすみ市」。いすみは夷隅ですが、案外清水観音の「いずみ」に由来するかもと思った次第です。

本堂
文化14年(1817年)再建。本尊・千手観世音菩薩を祀る。

本堂前面の欄間彫刻

西国・坂東・秩父札所の御本尊を祀る百体観音と鐘楼堂(奥)
鐘楼堂の左手にあるのが由来となった「千尋の池」。

清水観音説明書

清水観音御朱印

岬郵便局 ; 清水寺山門、岬海岸、岬灯台
[参考書]
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【往路】JR横浜 快速エアポート成田(5:39) → JR東京(6:09) → JR千葉(6:51→6:58) → JR五井(7:15→7:25) → (小湊鉄道) → 上総牛久(7:53)
牛久駅(8:25) → (小湊鉄道バス) → 笠森(8:40) → 笠森観音 → 徒歩30分 → 長南三叉(9:38) → (小湊鉄道バス) → 藻原寺バス停(9:51) → 徒歩5分 → 藻原寺 → 徒歩10分 → JR茂原(11:50)

常在山 藻原寺(日蓮宗本山)
笠森観音参拝後は9時過ぎ。
次の訪問先ですがバスは14時台までなく、営業所の近くまで道を3㎞ばかり歩くことになりました。
札所ならばもう少し交通の便があっても良さそうなもの。
セミの鳴き声が「つくづく惜しい」と聞こえました。ちなみにこの辺りはヒメハルゼミの生息地です。
バスに乗り茂原駅手間で下車。行く手に竜宮城の様な門が見えたらそこが目指すお寺。

竜宮城のような仁王門
高さ22.7mの唐様と和様の折衷様式。禅宗ではこのような形を見かけるが日蓮宗では初見。
常在山藻原寺(じょうざいさんそうげんじ)は、略縁起に拠れば、
『建治2年(1276年)に、藻原領主・斉藤兼綱が法華堂を建立。日蓮を開山とし、本弟子の日向を遣わしたのが始まり。
それに先立つ建長5年(1253年)、日蓮は鎌倉への途上笠森観音堂に宿泊。
その夜に斉藤兼綱の夢枕に観音様が現れ
「我に日本無双の珍客あり。迎えて供養せよ」
とのお告げがあり、兼綱は日蓮上人を迎えた。』
とあります。
よくある夢のお告げですが、斉藤兼綱はじめ皆、日蓮の教えに従いお題目を唱えたことから、
ここは「日蓮門下お題目初唱之霊場」と呼ばれることになったとか。初唱の発祥の地という事です。
この辺りは湿地帯で「藻原」と呼ばれたので寺号になり、江戸時代に【もっぱら】茂原と書くようになったようです。
加えて、日向は身延山及び藻原寺の第二祖を兼務したので「東身延」と呼ばれる事になります。
日蓮宗の寺と言えばすぐに鎌倉が思い浮かびますが、日蓮は千葉の出身。
他国で活躍するよりも先に地元で勢力を蓄える意図もあったのでしょうか?
山号の常在山もそう考えれば納得です。出身地を大事にしないような人間は大成するのが難しいとは思いますが…。

「やくよけの祖師」を祀る大堂
ここも極彩色に彩られている。

藻原寺略縁起

藻原寺御朱印
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【往路】JR横浜 快速エアポート成田(5:39) → JR東京(6:09) → JR千葉(6:51→6:58) → JR五井(7:15→7:25) → (小湊鉄道) → 上総牛久(7:53)
牛久駅(8:25) → (小湊鉄道バス) → 笠森(8:40) → 笠森観音 → 徒歩30分 → 長南三叉(9:38)

大悲山 楠光院 笠森寺(天台宗 別格大本山 坂東三十三ヵ所第三十一番札所)
一都六県の中では海の印象の強い千葉ですが、意外と山深い所もあります。
この日は海水浴に行く人たちに混じってローカル線で房総半島横断の巡礼へ。
JR五井駅から小湊鉄道に乗って上総牛久で下車。
山中を走るのに小湊鉄道とはこれ如何にですが、十数年前と変わらぬ車体に感激。
ここもローカル線の宿命で大赤字なのでしょうが、小湊バスが頑張っているようです。残して欲しいですね。
駅前からバスに乗ること15分、暖帯林の中に目指す寺を発見。

JR五井駅に停車中の小湊鉄道

笠森観音への参道
延暦年間より保護されてきた天然記念物の森。

門前にある子授楠
この穴を通ると子宝に恵まれるという言い伝え、フロイト的解釈が可能?

二天門
大悲山楠光院笠森寺(だいひざんなんこういんかさもりじ)は、寺伝に拠れば
『延暦3年(784年)、開祖の最澄が楠の霊木に十一面観音を彫って山上に安置したのが始まり。
その後、長元元年(1028年)後一条天皇の勅願により観音堂が建立。本尊により笠森観音と呼ばれる。』
とあります。
それよりもここの圧巻は観音堂の造り。巨岩の上に何十本も柱を組みその土台の上に堂を造ったもので、
見るだけでその特異な姿に圧倒されます。
岩の凹凸の上には長さの異なる61本の柱を建て平面床を造る「四方懸造」という手法で重要文化財。
鳥取県の国宝・投入堂も岩の上に柱を建てていますが、中世にそのような技術があったことに改めて驚きました。
石段12段、木の階段65段を上ると観音堂で、周囲は樹海が広がりジャングルの中の展望台から眺めている気分になります。
御朱印もここで拝受。
まさに樹海を見ながら【受戒】し、奇岩の上で【祈願】する訳ですが、元来はこの岩が信仰の対象だったのが、
後に上に寺院が建てられたというパターンの気がします。

二天門を進むと観音堂へ

重文・笠森観音堂近影
残念ながら創建時の物は焼失し文禄年間1592~95に再建。

真下から見上げた観音堂

四方懸造

階段の基礎部分

岩の上に長さの異なる柱を建てた構造

観音堂の床下

観音堂へ上る
御朱印もここで拝受。

観音堂より境内を見下ろす
また周囲の山々は創建当時から伐採が禁じられており今も「県立笠森舞鶴自然公園」として保護されています。
ここの森はスダジイを主体とした関東では少ない残存林。
寺だけではなく周囲も含めて守られてきた訳ですが、結果的に周辺を含んだ大きな生態系が維持されることに繋がりました。
先見の明があったのですね。
暖帯林に囲まれながら団体さんには遭遇せず静かな巡礼。唯、セミの声だけが響いていました。

観音堂から見た笠森寺自然林

笠森観音説明書

説明書裏面
観音堂は歌川廣重も浮世絵で描いている。

笠森観音御朱印

帰りの道
両側が切り立った崖となっている。

長南郵便局 ; 重文・笠森寺観音堂、熊野の清水、蔵持ダム
市原鶴舞郵便局 ; 重文・笠森寺観音堂、鶴、桜
[参考書]
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建築学から見た観音堂について記述した著書
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横浜 → (京浜急行) → 金沢八景 → (シーサイドライン) → 野島公園 → 徒歩5分 → 伊藤博文別荘 → 徒歩20分 → 称名寺 → 徒歩10分 → 金沢文庫 → (京浜急行)→ 横浜

金沢山 称名寺(真言律宗 別格本山)
横浜長浜検疫所見学の後、昼からは海沿いを南下して野島へ。
野鳥園が有名ですが、伊藤博文公の別荘があり、ここで明治20年に明治憲法を起草したのは有名な話。
我々には千円札の肖像と初代内閣総理大臣で覚えていますが、お札から外れた今の知名度はどうなのでしょうね?

帰帆橋を渡り野島へ

旧伊藤博文金沢別邸(横浜市指定有形文化財) 入口
茅葺寄棟屋根で明治31年築。明治期の金沢は東京周辺の海浜別荘地として栄えた。見学は無料。
長州閥の中ではさして目立たぬ下位の人だったようですが、維新の三傑が舞台から去ったことにより、トップに上り詰めます。
運が良かったこともあるでしょうが、人に対する好悪がはっきりしている明治天皇から最も信頼されたという事ですから、
やはりひとかどの人物だったことには違いありません。
策士の陸奥宗光や山県有朋、猛将の黒田清隆には良い感情を持っていなかった明治天皇も、伊藤博文の率直な点を
気に入られたとか。その陸奥等とも伊藤博文は上手くやっています。バランス感覚に長けた人物だったように思います。
明治維新以降では殆どの職務の初代を歴任し初代朝鮮総督になった後、哈爾濱で凶弾に斃れます。
本人も周囲に漏らしていたそうですから覚悟の上だったのでしょう。
尚、李氏朝鮮の王族は併合後、準皇族の待遇を受けましたが、それにも伊藤公が関わっていたそうです。

伊藤邸客間

客間にある揮毫
宋学の周敦頤の文章らしいが、なかなかの達筆。

金屏風の解説

これは金沢八景の海が見える居間

伊藤邸浴場

廊下から見た中庭

庭から眺めた伊藤邸

庭から屋敷を見る

伊藤邸居間棟より見た湾内
右奥は八景島シーパラダイス。

今日のお昼は野島公園前のカリビアンにてアナゴ天丼。
値段は¥750、まさにトレビアン!
野島の近くでコスパの良い昼食の後は、称名寺までウォーキング。
金沢山称名寺(きんたくさんしょうみょうじ)は、鎌倉幕府の評定衆・引付衆を歴任した北条実時が正嘉2年(1258年)に
金沢の別邸内に持仏堂を設けたのが始まり。
この地は六浦荘金沢と呼ばれ、鎌倉と房総を結ぶ要地として北条氏が支配していました。金がたくさん出たのではないようです。
弘長2年(1262年)の 『関東往還記』 に「称名寺と号する不断念仏の寺」と記されているように、当初は念仏寺でした。
しかし、鎌倉に下向していた西大寺の忍性に帰依した実時は称名寺を真言律宗に改宗、文永4年(1267年)には下野薬師寺
から審海を迎えて開山としました。
実時の後、顕時・貞顕・貞将と4代に亘る金沢北条氏の保護により繁栄し、貞顕の元享3年(1323年)には大伽藍が完成。

入口に当たる称名寺赤門
桜の時期にはここから出店が続くが、普段は静かなもの。

称名寺塔頭の光明院表門

説明板

堂々たる称名寺仁王門
左右の金剛力士像は1323年に仏師院興が造立した関東最大の像。

阿字ケ池に架かる朱色の反橋

反橋、平橋の向こうにある金堂
稲荷山を背景に建つ。
それよりもここを有名にしたのは金沢文庫の存在。実時が晩年の建治元年(1275年)頃に別邸に集めた蔵書が始まり。
その後、金沢北条氏や称名寺の住職により充実が図られ、各地の武士・僧侶に利用されました。
『徒然草』の兼好法師も来遊したとあります。
この文庫も幕府滅亡後は衰退、金沢文庫の蔵書印のあるものが各地に流失しています。
特に後北条氏や徳川家康による持ち出しが多かったらしく、民政に気を配った彼らにしては汚点を残すことになりました。
現在の金沢文庫は昭和30年(1955年)に旧阿弥陀堂の跡地に復興され平成2年に(1990年)に現在地へ移転したもの。
残った文書をようやくまとめたことになります。
長い衰退時期に散逸・流出したとはいえ、『文選詩注』や金沢北条氏4代画像など国宝も残っているのは有難い事です。
尚、金沢文庫の駅名は「かなざわぶんこ」ですが、文庫の場合は「かねさわぶんこ」と読むのが正しいようです。
境内は「称名寺境内」として国指定史跡に。関東最大の仁王像や、鎌倉時代随一の浄土庭園があり、
後者は平安中期以降の浄土庭園の末尾を飾るものです。
由緒と言い広さといい鎌倉の寺院にも遜色なしですが、場所故かいつも人は疎ら。
観光ガイドに載ってないのがネックなのでしょうか?
鎌倉時代に文化が花開いた地で明治憲法の礎が築かれた訳ですから、政治と文化は継承されたと言えるでしょう。
一方でかつての景勝地は見る影もない状態。乱開発に警鐘を鳴らす必要がありそうです。

阿字ケ池越しに見る金堂と釈迦堂(右)
緑の屋根は「称名の晩鐘」で知られる梵鐘のある鐘楼。

阿字ケ池越しに見る反橋

池越しに反橋と仁王門を望む

金堂近影
本尊の重文・弥勒菩薩立像は建治2年(1276年)の銘がある宋風彫刻。

金堂右手の釈迦堂
本尊は特異な波状衣文を持つ清凉寺方式の重文・釈迦如来立像で実時三十三回忌の徳治3年(1308年)の作。屋根の上には北条氏の三つ鱗紋が。

称名寺境内案内書

称名寺御朱印

称名寺門前の「ふみくら茶屋」
アナゴと甘味が有名だが、残念ながら臨時休業。

金沢八景に2軒ある鰻屋 の内 「鰻松」 にて早目の夕食

金沢文庫駅前郵便局 ; 鎌倉時代の書籍文庫、称名寺庭園
横浜金沢文庫郵便局 ; 称名寺、北条実時の肖像
横浜片吹郵便局 ; 称名寺庭園
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阪急梅田 → 清荒神 → 徒歩15分 → 清澄寺

蓬莱山 清澄寺(真言三宝宗 大本山)
お盆の帰省を直撃した台風も過ぎ、大文字の送り火も無事終了。翌日の17日は、近場へと巡礼に繰り出しました。
阪急宝塚線に乗って終点の1駅手前で下車。そして参道を15分。両脇には門前町らしく店が並びますが、
参拝客も少ないせいか閉店している所が多い。正月は物凄い人出ですが、お盆は意外と少ないようです。
猛暑の中を歩き中国道を過ぎたあたりから山が迫り幾分涼しくなった模様。そこから5分で門前に到着。

阪急清荒神駅から徒歩5分にある一の鳥居

一の鳥居前には有馬街道が通る

閑散とした商店街を行く
目的地まで950m。

中国自動車道を越えると大きな石灯籠がお出迎え
ここまで来ると気温も幾分下がる。

禊祓橋(みそぎばし)を通って急ぎ足に

山門に到着
向こうには大銀杏が見える。
蓬莱山清澄寺(ほうらいさんせいちょうじ)は、寺伝に拠れば
『寛平8年(896年)に宇多天皇の勅願で創建。
叡山の高僧静観僧正を開基、東寺の長者益信僧都を導師とした。
益信は荒神尊を祀ったところ、社前の榊に御影が現出。
宇多天皇はこれに感銘を受け、「日本第一清荒神」の称号を下賜された。』
とあります。
天台・真言の有力者を引っ張って来て、しかも霊験により天皇から称号を受ける等、政治的な経緯が見えます。
事実、善隣友好・平和社会・万民豊楽を祈願して作られた所があり、当時の世相を反映しているのでしょう。

山門近影

清澄寺略沿革

山門を過ぎ境内を見る
正面が本堂、左手が荒神さんを祀る天堂へ続く。

講堂と2本の大銀杏
銀杏は樹齢400年。

正面から見た講堂

銀杏を背に石段を上り天堂へ

天堂(拝殿)
荒神さまを祀る本社の拝殿と浴油堂が続きになったもの。何人たりとも入座は許されない。

天堂の奥にある神殿造りの護法堂(本社)

護法堂の奥にある「荒神影向の榊」

天堂前の鐘楼付近から本堂を望む
当初は山の尾根に清澄寺が、西の谷に荒神社が置かれました。神仏習合の寺だったようです。
そんな寺も源平合戦、戦国期の荒木村重の合戦で炎上となりますが、荒神社のみは兵火を免れました。
場所的に火災を逃れただけのような気もしますが、その霊験のためか今では清荒神という呼び名で通っています。
但し、ここはあくまで寺院で境内に社がある扱いで、宮司はいないとの事でした。
いまは「火の神」「台所・かまどの神」荒神さんとして庶民の信仰を集めています。
もっとも台所が火の車になってはいけませんが…。

天堂から宝稲荷への階段を過ぎて本堂へ

安政年間に棟上げされた本堂

本堂正面
正面に大日如来、向かって左に不動明王、右に弘法大師を祀る。

寺務所から本堂へ続く廻廊

本堂前の石段下の一願地蔵尊
水を掛けながら心に一つだけ御願いすれば叶うとか。

寺務所
但し、御朱印は本堂受付所で拝受。

池苑
本堂前の池泉回遊式庭園で江戸時代の作庭。

池苑
池泉を中心に「蓬莱山」を形象した石組を配した観賞式庭園となっている。

池苑前から本堂を望む

境内の百日紅

清荒神 説明書

四半世紀前に拝受した御本尊の御朱印

今回拝受した荒神さまの御朱印
参拝の後は電車で終点の宝塚へ。言わずと知れた歌劇の街。
駅前にはスミレの花のマンホールがあり、これは宝塚歌劇の歌に拠るのでしょう。
落ち着いたデザインで【カゲキ】なものではないようです。
尤も、舞台の様子をデザインにしたら、ヅカファンからはクレームが殺到する気もしますが。
私にはやや?場違いだったので写真だけ撮って早々と退散となりました。

阪急宝塚駅前モニュメント

宝塚市マンホール蓋
銀行前にあり劣化が進んでいるので交換の予定とか。

宝塚市マンホールカード 配布場所は宝塚市上下水道局下水道課
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【往路】JR横浜 快速エアポート成田(5:39) → JR東京(6:09) → JR千葉(6:51→6:58) → JR木更津(7:38)
木更津駅東口(8:20) → (日東バス 高倉線) → 高倉観音下(8:44) → 徒歩5分 → 高倉観音 → 徒歩10分 → かずさアーク(9:34) → (鴨川日東バス急行 鴨川~木更津線) → 木更津駅西口(10:00) → 徒歩15分 → 證誠寺 → JR木更津(11:14) → JR本千葉(11:52) → 千葉寺
【復路】JR本千葉(16:26) → JR横浜(17:45)

海上山 千葉寺(真言宗豊山派 坂東三十三ヵ所第二十九番札所)
この仁王門は文政11年(1828年)の建立。
続いて海上山千葉寺(かいじょうざんせんようじ)へ。
この場合は「せんようじ」と音読み、「ちばじ」だと「ちでじ」と間違いそうなのでそのような読みは【せんようじ】です。
由来は古く、
『和銅2年(709年)にこの地を訪れた行基が十一面観音を祀ったのが始まり。聖武天皇の命により千葉寺となった。』
とあります。
千葉市は加曾利貝塚もあり昔から人が住んでいた場所。寺の歴史も古いものがあるでしょう。
場所も千葉の中心付近、浅草寺を思わせ、山間の札所のイメージはありません。
鎌倉初期から戦国にかけて活躍した千葉氏の居城亥鼻城に近かったため千葉氏の祈願所となりました。
永禄元年(1160年)に焼失するまでは、126m四方の大伽藍があったと言われます。
その後何度か再建されますが、太平洋戦争の空襲で焼失。戦後再建されました。
一方の千葉氏も平家の流れを汲む名門でしたが、近世大名としては残れず、地名のみが残っています。まさに
・夏草や 兵どもが 夢の跡
といったところでしょうか。
今日は終戦の日、今後無謀な戦を【せんよう】、御本尊に【ちば】らくお祈りを捧げた次第です。

千葉市立郷土博物館
昭和42年に復元された4層5階の城郭で市街地の中心の高台にある亥鼻公園内に建つ。公園は中世千葉氏の居館跡。

郷土資料館近くの店「いのはな」にて

「いのはな」にて一服

千葉寺本堂
扉には千葉氏の家紋の九曜紋が。

千葉寺境内の大銀杏
和銅2年(709年)に行基が植えたと伝わる樹高30mの古木。

千葉寺御朱印
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【往路】JR横浜 快速エアポート成田(5:39) → JR東京(6:09) → JR千葉(6:51→6:58) → JR木更津(7:38)
木更津駅東口(8:20) → (日東バス 高倉線) → 高倉観音下(8:44) → 徒歩5分 → 高倉観音 → 徒歩10分 → かずさアーク(9:34) → (鴨川日東バス急行 鴨川~木更津線 ) → 木更津駅西口(10:00) → 徒歩10分 → 證誠寺 → JR木更津(11:14)

護念山 證誠寺(浄土真宗本願寺派)
高倉観音からバスの連携が良かったので、昼前に木更津駅前へ。
そのまま次の札所へ行っても良かったのですが、木更津と言えば是非立ち寄りたい寺が。
護念山證誠寺(ごねんさんしょうじょうじ)は、童謡 『証城寺の狸囃子』 の舞台の地。
駅に着くと歌が流れる位、有名ですが、私も童謡のお寺が実在したとは大人になるまで知りませんでした。
駅から徒歩10分程度の海に近い場所にありますが、付近には木々が生い茂りそこだけ異空間になっています。

JR木更津駅前に建つキャラクターのきぬた君
狸が逆立ちしてキヌタだが、最近は 「きさポン」 というゆるキャラも出たらしい。

きぬた君の腹側

橋の上から證誠寺を望む

證誠寺入口
海の近くにある簡素なお寺で、かつては木々が茂って狸達が出没していたのかも?

入口脇の鐘楼
狸囃子の伝説は次の様、
『お寺に新しく来た和尚に、ここに住む狸達が化けて脅かすが和尚は一向に驚かない。
そこで狸達は驚かせようと皆で腹鼓を打つと、和尚も三味線で応酬。
これが三夜続いたが、四夜目には音がしなくなった。和尚が見に行くと一番大きな狸が腹の皮を破って死んでいた。
可哀そうに思った和尚は懇ろに弔ってやった。』
というもの。「カチカチ山」もそうですが、昔話は結構残酷な結末です。
寺の周囲を見ると狸が出てもおかしくないので、或る日自然死していた狸を弔った事が伝説を生み、童謡になったのでしょう。
狸は腹鼓を打ちませんし、鳴きもしません。何故、狸と言えば腹鼓になったのか、そちらの方が気になります。
さて、境内を一巡すると狸塚や童謡の碑があります。
観光寺院とは言えませんが、童謡の舞台なので訪れる人に対する親切でしょう。
寺務所へいくと、玄関には「御朱印はしていません」の貼紙が。
真宗本願寺派は御朱印がないので当然ですが、依頼する人も多いのでしょうね。
童謡では「証城寺」ですが正しい表記は「證誠寺」だそうで、化かされないように気を付ける必要がありそうです。

本堂への参道の左手にはこのような森が

昼間でも薄暗い境内

境内にある童謡碑
野口雨情(作詞)・中山晋平(作曲)の直筆が見つかった事で、狸囃子顕彰会により昭和31年に建立。

更に奥へ進む

狸塚
童謡「證城寺の狸ばやし」の流行を記念し、昭和4年に木更津町南町盛年会が建立。
狸が横になった様な岩には狸愛好家だった政治家中橋徳五郎による「狸」の文字がある。

狸塚の説明板

筆小塚
寺子屋の師であった当山六代住職を偲び、教え子(筆子)達が文政年間に建立。

森を抜けて本堂へ

木々の向こうに見える本堂の屋根

寺務所はこの先
狸の巣穴に向かうような感じである。

開祖親鸞上人像

木更津市マンホール蓋 その1

木更津市マンホール蓋 その2

木更津市マンホールカード 配布場所は木更津市観光案内所
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