<コース>
【往路】JR大阪(8:22) → JR京都(8:51→8:58) → JR亀岡(9:26)
駅前レンタサイクル → レンタサイクル30分 → 薭田野神社 → レンタサイクル20分 → 谷性寺 → レンタサイクル30分 → 金勝寺 → レンタサイクル15分 → 谷性寺 → レンタサイクル30分 → 薭田野神社 → レンタサイクル10分 → 穴太寺 → レンタサイクル20分 → 駅前レンタサイクル
【復路】JR亀岡(16:20)→ JR京都(16:49→16:59) → JR大阪(17:27)

薭田野神社(延喜式内)
長月も末の六日、10月からの消費税値上げを前に来年の大河『麒麟がくる』に所縁の【近隣】の亀岡へ。
京都の奥座敷と呼ばれる温泉街で、かつては雄琴・芦原と並ぶ歓楽街。
しかし今は雄琴と同様に女性客をターゲットとしたしっとり落ち着いた温泉に脱皮しています。
温泉街は駅から5㎞程離れていますが、今回の行先は更に7㎞奥にある修験道の古刹。
かつては駅からの移動手段はバスと徒歩のみでしたが、いまは駅前にレンタサイクルがあり早速利用。
最近はレンタサイクルを設置する駅が増えていますが、これも電動自転車の普及のお蔭。有難い事です。
その途中、大石酒造や立派な家屋が並ぶ街道を抜けると奈良時代創建の古社に到着。

京都の奥座敷 湯の花温泉
これは西側入口で奥に猪像が建つ。

駅から温泉へと続く街道には趣のある家屋が続く

㈱西田寒天商店とあったから、寒天を商う会社か?

これは佐藤医院とある

ここは大石家とあるから酒造の家か

大石酒造
丹波の地酒を造って居り、資料館併設、見学もできる。
温泉入口にある薭田野神社(ひえたのじんじゃ)は、奈良時代創建という古社。由緒記に拠ると、
『約三千年前に、この地に住み着いた人々が、現在の社殿の奥に土盛りをして食物の神、野山の神を祀ったと伝わる。
その後、和銅2年(709年)丹波国守大神朝臣狛麿が朝廷の命で、土盛りの前に社殿を造営。
佐伯郷の産土神として国家安泰と五穀豊穣を祀ったのが神社の起こりである。
更に貞観元年(859年)5月の大雪の際に清和天皇が勅使を遣わし稲の生育を祈らせ、
寛喜元年(1229年)には後堀河天皇が御所灯籠5基を下賜して豊作を祈らせた。
これが現在まで伝わる佐伯灯籠の起源になっている。』
とあります。
古来より、五穀豊穣の神として敬われた事が分かります。
御祭神は三柱ですが、筆頭は保食命(うけもちのもこと)。この名からも食物神であることは明白。
8月14日の灯籠祭りでは1基の台灯籠が町を練り歩き、雛人形のような小さな人形浄瑠璃が演じられるとか。
これはお盆の精霊送りの流れでしょうか?

平安神宮大鳥居に次ぐ京都府下で二番目に大きい鳥居

駐車場から見た境内

正面から拝殿を見る

神社由緒記

前拝殿(舞殿)

左から前拝殿、拝殿、本殿と続く

拝殿横の「石の環くぐり」
願い事を念じながらくぐると願い事を達成する体力を授かるとされる。

京式八角石燈籠
源義経奉納と伝わる鎌倉時代を代表する石像美術品。

必勝願掛石
自分が最後までやりきる気力を授かる。表面には大小の白蛇の図柄が見えるとか。

鎌倉時代の本殿の礎石

境内にある「癌封治瘤の木」
この瘤を一心こめて撫でると癌に罹病しないとの御利益があるそう。
午前中は、社務所は閉鎖でしたが、2カ寺巡礼後の昼過ぎに再訪すると神職が居られ、御朱印も拝受。
神職からも貴重なお話を伺うことができました。
「昔は、“日恵田神社”と記載したようで、五穀を祀ったのは間違いないでしょう」
稗田阿礼との関りを尋ねると、
「阿礼はこの地の生まれという事で、御祭神とは関係ないのですが、1300年記念に祀っています。」との事。
稗田阿礼の稗は神社と異なり草冠がありませんが、この字は奈良朝以降に登場するようです。
神社の名前に遠慮して変えたのかもしれません。
来る前は、神社と人名の漢字の違いに【あれ?】と思いましたが、これで疑問も氷解です。

境内奥の稗田阿禮社
古事記編纂に功績のあった稗田阿礼がこの地に住んだという伝説によりできたもの。

稗田阿禮社の祠

稗田阿禮の説明

和銅禊の池
創建当時の里人がここで禊して豊作と無病息災を祈ったと伝わる。

境内の大シラカシ

境内に広がる鎮守の森

薭田野神社由緒記

薭田野神社御朱印
書かれたものを拝受。

佐伯郵便局 ; 佐伯灯籠(人形浄瑠璃)、さくら石、湯の花温泉の街並み
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JR北鎌倉 → 徒歩15分 → 建長寺

巨福山建長禅寺(臨済宗建長寺派大本山)
これは唐門。尚、唐門とは屋根が唐破風(湾曲した破風)になっている門の事で、中国風という意味ではない。
関西から来た人に少しの時間ですが、鎌倉を案内することに。
さて何処にしようかという事で、駅近で五山第一の建長寺へ。
正式名は巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)、鎌倉五山第一の格式を誇ります。
京都にも五山がありますが、お寺の人の話では五山の称号は鎌倉の方が先んじたそうで、それがお寺の誇りでもあるのでしょう。
『建長5年(1253年)五代執権北条時頼が南宋から招いた蘭渓道隆(大覚禅師)を開山として創建。
創建時の元号を寺号にした。創建した場所は地獄谷と呼ばれた刑場の地。
かつて心平寺という寺があったが、廃寺となり地蔵像を祀る地蔵堂だけが残った。
頼朝の家臣済田左衛門という人が地獄谷で処刑されそうになった時、日頃信仰していた一寸八分の地蔵立像に救われ、
その地蔵立像を地蔵の胎内に納めた。これが建長寺に移され本尊となった。
禅宗の大本山にしては珍しく地蔵菩薩が本尊なのはこのような理由に拠る。』
とあります。死者の魂を鎮魂する目的があったかどうかは分かりませんが、
名執権と言われた北条時頼も幕府御家人三浦氏を滅ぼすなど血腥い面があったのは否めません。
禅宗自体は以前にも日本に伝わっていましたが、総て他宗派との兼学寺院。禅宗単独はこの建長寺を嚆矢とします。
蘭渓道隆はその後、京都・甲斐と移りますが、再びか鎌倉に戻り弘安元年(1278年)66歳にて入寂。
死後、後宇多天皇より本朝初の禅師号、大覚禅師を賜りました。
二代目も南宋から招いた兀庵普寧(ごったんふねい)と中国からの住職が続きますが、
その頃の南宋は北のモンゴルに攻められ末期状態。
日本に新たな開拓の場を求めたか、南宋を救おうと来朝したかは謎ですが、尋常な状況ではなかったのは確かです。
余談ですが、兀庵普寧は論争好きで相手構わず論争を仕掛けたので「ゴタゴタ」の語源になりました。
伽藍と境内は鎌倉第一に恥じないもので、鎌倉文士であった澁澤龍彦氏も美しい物として建長寺の庭を挙げています。
しかし戦乱・天災で殆どが焼失。建造物が江戸時代以降のものとなっているのは、時代の流れは如何ともし難いと言う事でしょう。
ここで出された精進汁が「建長汁」で後の「けんちん汁」になりました。物は消滅しても名前は残る典型ですね。

庭園と方丈(龍王殿)
作庭は開山・大覚禅師で日本最古の禅庭園。

同じく庭園と得月楼

境内に咲いていた彼岸花
白色は珍しいので撮影。

鐘楼
国宝・梵鐘は建長7年の鋳造で、大覚禅師による建長禅寺の銘が浮彫りにされている。

建長寺説明書

建長寺御朱印
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JR北鎌倉 → 徒歩3分 → 円覚寺 → 徒歩10分 → 明月院 → 徒歩15分 → 江ノ電鎌倉 → 江ノ島 → 徒歩20分 → 江ノ島弁天

江島神社
朱塗りの大鳥居の奥にある瑞心門。ここが神社の入口になる。
彼岸の〆は江の島へ、17時閉門の直前ギリギリセーフでした。
今は橋で繋がっていますが、かつては陸続き。福岡の志賀島と同じ陸繋島と呼ばれる地形でしたが、
約2万年前の完新世(沖積世)の地殻変動で孤立した島となりました。
『江ノ島縁起』に拠れば、
『昔、五頭龍が人々を苦しめていた。欽明朝の頃、俄かに天地が揺れ暗雲から天女が、海中からは島が出現。
天女は龍の求婚を受け入れる代わりにおとなしくさせた。これが江の島明神の起源となった。』
とあります。
養和2年(1182年)源頼朝は平家追討を祈願し弁財天を勧請。江の島明神は神仏混交となりました。
厳島、竹生島と並ぶ日本三大弁天。弁天様は島が好きなようです。
建久元年(1190年)には鎌倉幕府初代執権の北条時政が参籠して子孫繁栄を祈願。すると美女が現れ願いを叶えると約束。
北条時政はその美女が竜神の化身であることに気付き、残した三枚の鱗を家紋にしたと伝わります。
これは『太平記』に載る話ですが、北条氏の家紋起原としては出来すぎた話。
恐らく鎌倉時代を通じて崇拝されていた江の島明神を家紋の由来に結び付け家門の格付けを謀ったのでしょう。
このように鎌倉幕府とも深い縁があった江の島明神はその後も崇拝を受け、江戸時代には庶民の江の島詣でに発展します。
江戸時代にあって参詣は手軽な旅行。現代に続くリゾート地江の島はこの時代に形作られたと言えるでしょうか。

境内にある石像

奉安殿(弁天堂)
弁財天が安置される。

境内から見る江ノ島大橋

江島神社御朱印

早目の夕食は江ノ島にて二色シラス丼

江ノ島大橋からの夕暮れ

江ノ島郵便局 ; 江ノ島、ヨットハーバー、ヨット、カモメ、富士山
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JR北鎌倉 → 徒歩10分 → 明月院

福源山 明月院(臨済宗建長寺派)
これは拝観口を入った所にある茶室・月笑軒
円覚寺に続き明月院へ。
紫陽花寺で超の名が付く有名寺院ですが、戦後荒廃した境内に住職が紫陽花を植えたのが始まり。
その歴史は新しく紫陽花寺の呼び名も最近のものです。
福源山明月院(ふくげんさんめいげついん)の由来は複雑で
『元々は五代執権北条時頼が康元元年(1256年)に別邸に創建した持仏堂の西明寺が嚆矢。境内には時頼の墓があります。
時頼の死後廃絶していた寺を文永5年(1268年)息子の時宗が蘭渓道隆を開山として再興。名も禅興寺に改名します。
その塔頭として関東管領・山内上杉憲方が密室守厳を開山として創設したのが明月院。永徳3年(1383年)以前の事とされます。
塔頭としてスタートしますが、戦国時代は後北条氏の庇護もあり本寺を凌ぐ勢い。その後、数多くあった塔頭も消滅。
禅興寺も明治に廃寺となったため、明月院だけが独り勝ちになって残りました。』
と言うのが大まかな流れ。禅興寺の塔頭だったため山号はあっても寺号はないのはそのためです。
子寺が親寺をひっくり返したようなものですが、これはよくある話。
政治の世界でも関東管領が鎌倉公方を凌ぐことがあった訳ですから驚くに足りません。
北条時頼が登場する謡曲「鉢の木」はフィクションでしょうが、夜中に友人宅を訪れ皿に残った味噌で酒を楽しんだと
徒然草にある位ですから、質実剛健を地で行く人だったのでしょう。
彼も37歳で没。政治と言うものは、人の命を削るものだというのを実感します。
昼食は、近くの「鉢の木」にて。名前の由来は言うまでもありませんが、鎌倉を代表する食事処。
北条時頼のように質素という訳には行きませんが京料理に比べて質実な内容なのは鎌倉武士の影響でしょうか?

山門をくぐった正面にある本堂(方丈)・紫陽殿
中に入って参拝可能。本尊・聖観音菩薩、脇に釈迦如来が祀られている。

明月院方丈の悟りの窓
窓の向こうの後庭園には花菖蒲が咲く。

開山堂・宗猷殿
開山の密室守厳像が安置されているが密室ではなく開放している。

開山堂横の切通

明月院やぐら
平治の乱1159年で戦死した豪族を弔ったもので、間口7m・奥行6m・高さ3mと鎌倉では最大。二仏像と十六羅漢が浮彫りされた仏殿的な墳墓堂である。

明月院説明書

明月院御朱印
年配の男性の書。字体に加え全体の構図も芸術的な墨書である。

昼食は北鎌倉の「鉢の木」新館にて
[参考書]
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JR北鎌倉 → 徒歩3分 → 円覚寺

瑞鹿山 円覚興聖禅寺 佛日庵(臨済宗円覚寺派 塔頭寺院)
お彼岸最終日、遠隔地はきついので近隣の鎌倉へ。
鎌倉五山第二位の円覚寺は元寇の死者を弔うために八代執権北条時宗が建長寺の無学祖元を招き弘安5年(1282年)に建立。
弘安の役の年ですが、時宗は二年後に死去。円覚寺に葬られますが、その廟所が塔頭の佛日庵となりました。
後の9代執権貞時、14代執権高時もここに合葬されます。二人は時宗の子と孫で北条得宗家。
他にいくらでも場所はあったでしょうに、わざわざ同じ塔頭に入ったのは、それだけ時宗の功績を評価しての事だったのでしょう。
平均寿命が短いとはいえ、34歳は如何にも早い。
有史以来の国難に向かったので心身ともに疲労困憊だったに違いありません。
まるで元寇のために生まれてきたような走馬灯の様な生涯でした。
元寇では神風が強調されがちですが、国内の世論をほぼ統一させ外敵に当たったのが一番の勝因でしょう。
無敵と言われたモンゴルも爪哇・越南・埃及では敗退、事前の内部切り崩しが功を成さなかった例ですね。
700年以上前の話ですが、今の困難な御時世にも当て嵌まるのではないかと、過去の英霊の前で思ったお彼岸ではありました。

佛日庵入口

北条時宗の廟所・開基廟
文化8年(1811年)の改築。十一面観音と時宗・貞時・高時の木像を安置する。

開基廟の屋根裏部分

佛日庵の苔庭

林家木久蔵師匠の作庭
拉麺だけではなく作庭もできるとは!

庭で見た紫式部

開基廟のしおり

佛日庵御朱印
佛日庵参拝の後は境内を一巡。
向かいの岸壁にある白鹿洞は開山の日に白鹿の大群が現れ祖元の説話を聞いたとか。
【そげん】な事があるのかと思いますが、山号の瑞鹿山(ずいろくさん)はこれに由来するのでしょうね。
因みに寺号は寺の起工の時に地中から円覚経が出土した事が由来。
どちらも偶々出てきたものが名前になった訳ですが、出て来なかった場合はどのような名を付けたのか興味をそそられます。
続いて未訪の高台へ。以前に見た番組で高台にある甘味処を紹介していたという不純な動機ですが、行って見ると店はなし。
その代わり塔頭龍隠庵から方丈他の全景を始めて見渡すことが出来、足を運んだ甲斐がありました。
北条氏家紋「三つ鱗」は龍の鱗を表わしたもの。円覚寺には龍の名の付く塔頭が多いのもそのためでしょう。
円覚寺訪問は4度目ですが今回はゆっくり回ったがために様々な新発見があり、まさに眼から鱗でした。

佛日庵の向かいにある白鹿洞(はくろくどう)

塔頭龍隠庵から方丈他を望む

円覚寺方丈横の彼岸花

円覚寺唐門の彫刻
東洋の龍は翼がないが、ここは持っている。ドラゴンと言った感じ。


大方丈への唐門
天保10年(1839年)再建の向唐門。

円覚寺方丈と庭園
本来は住職の居間であるが、今は多目的に使用されている。

方丈廊下より見た心字池を中心とする禅宗式庭園

白い彼岸花

天井の龍画

国宝・円覚寺舎利殿
唐様の代表的建造物として教科書にも載っているが、この日は拝観していないので外観のみ。

円覚寺説明書と拝観券

円覚寺御朱印
[参考書]
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【往路】秋葉原(7:00) → (つくばエクスプレス) → つくば(7:45)
つくばセンター(8:00) → (シャトルバス) → 沼田(8:29) → 徒歩40分 → 大御堂 → 徒歩5分 → ケーブルカー → 筑波山頂 → ロープウェイ → つつじが丘(14:00) → (シャトルバス) → つくばセンター(14:50)
【復路】つくば(15:11) → (つくばエクスプレス) → 秋葉原(15:56)

筑波山大御堂(真言宗豊山派 坂東三十三ヵ所第二十五番札所)
彼岸の二日目、悲願のつくば山詣でに行きました。
西の富士、東の筑波と称賛され古より信仰の対象。
標高は千に満たないですが関東平野の広い場所から見えるという事が根底にあるのでしょう。
「山高きが故に尊からず」 がピッタリくる山です。
雄岳・雌岳があることから古代にはここで歌垣が行われたとか。
端的に言えば古代のナンパですが、そのような開放的な面も人気の所以でしょう。今はないとは思いますが…。
いまはつくばエクスプレスがあるため都内からも直ぐ、しかも「筑波山きっぷ」なるバス・ケーブル込みの切符もありすかさず利用。
関東から手軽に行けるハイキングコースであることが理由でしょうね。
筑波神社までのシャトルバスもありましたが、早く着いたので手前で降りて歩くことに。
時間は掛かりましたが、その分景色を堪能できました。

筑波山口から筑波山を望む

地酒の稲葉酒造の酒蔵
男女川という銘柄で百人一首からの命名。

つくば参道から見た筑波山

道端に咲く曼珠沙華

参道脇にある旧筑波山郵便局

登って来た参道を見返る
筑波山大御堂(つくばさんおおみどう)は、
『延暦年間、法相宗の徳一により開創された古筑波山寺が始まり。その後、空海が入山し知足院中禅寺と号した。
筑波山神社との神仏習合により繁栄し、江戸時代は広大な寺領を有したが、明治の神仏分離で破却。
昭和5年(1930年)に再建された。』
とあります。
徳一上人は関東・東北に多くの寺院を建立した僧侶。
その場所は、人々が崇めるような自然の場所が多く、筑波山を選んだのも頷けます。
納経所では尼僧の方がマスクをかけて一人で対応。なんでも煙草に対する強度のアレルギーだそうで
「喫煙される方は、御朱印帳を渡して外で待って下さい。」との事。
アレルギーを抱えながら御朱印される姿には頭が下がりましたが、他に代わってあげる人は居ないのでしょうか?
筑波山神社に参拝する人は多いですが、大御堂にお参りする人は少数。
歴史のある寺ですがロープウェイが神社の境内横にあることを差し引いても廃仏毀釈は痛手だったようです。
尚、大御堂と寺の名を冠さないのは、ここが文京区の護国寺の別院という扱いだそうですが、
随分遠い別院もあったものです。文京区からも筑波山は見えますが…。

筑波山神社への大鳥居に到着

鳥居前から見た関東平野

大御堂本堂
御朱印はこの左手で拝受。

本堂脇の鐘楼
大御堂の境内は非常に狭く目につく建造物は本堂とここくらいである。

大御堂御朱印

筑波山神社の山門

筑波山神社の山門と本殿
札所参拝の後は山頂まで上り雄岳・雌岳にお参り。
山頂には食事処もありガマの油売りの口上も聞くことができました。
山頂から見渡す関東平野はまた格別。ここが宗教的に崇拝されたのは分かる気がします。
往復はケーブルとロープウェイだったので
・筑波嶺の 嶺より落ちて 捻挫して 疲労積りて 不治となりぬる
とならずに済みました。
これで坂東三十三カ所も三十二ヵ所の巡礼を終了。
残すところは最難関の八溝山日輪寺、山道6㎞の往復が待っています。

男体山山頂

男体山山頂からの眺め

山頂の店での昼食
筑波地鶏丼、要は親子丼。

蝦蟇油の口上
演者は保存会の方。

御幸ヶ原にある男女川源流
百人一首の陽成院の歌で有名。

水源横にある紫峰杉

ブナの大樹。
ブナは橅と書くように柱にも薪にもならないが保水力が著しいので自然界には大いに貢献している。

ガマ石

女体山から男体山頂を見る
初めは男体山(871m)の方が高いと思っていたが、女体山(877m)の方が高かった。蝦蟇はメスのほうが大きいからか、女体が男体に見下ろされるのがイヤなのかは詳らかではない。

女体山頂からの眺め
奥にかすんで見えるのは霞ケ浦。

筑波山郵便局 ; 筑波山、筑波神社、つくばね
つくば田井郵便局 ; 日本の道百選・神郡街道、筑波山マユ、蚕影山神社の灯籠
[参考書]
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【往路】京阪電鉄淀屋橋 → 中書島 → 京阪六地蔵 → 徒歩5分 → 地下鉄六地蔵 → 石田
石田駅 → 徒歩15分 → 日野薬師 → 徒歩5分 → 日野誕生院 → 徒歩15分 → 一言寺 → 徒歩20分 → 石田駅
【復路】石田 → 地下鉄六地蔵 → 徒歩5分 →京阪六地蔵 → 中書島 → 京阪電鉄淀屋橋

金剛王院(真言宗醍醐派 別格本山)
日野の地でお参りを済ませて地下鉄の駅に向かいましたが、一言寺という案内板があり、名前に惹かれてまたもや寄り道。
一言寺(いちごんじ)は、
『平安末期、藤原信西の娘で、建礼門院に仕えた阿波内侍の創建になると言われる。
後には衰退したが、明治8年に醍醐寺の塔頭の金剛王院が移され復興した。』
とあります。
由緒のある寺院ですが、ここも衰退の波は避けられなかったようです。
近くに醍醐寺という名刹があった事が、復興の後押しにもなったのでしょうか?
今後大い【金剛王院】に繁栄するかどうかは、お寺次第でしょう。
一言寺とは一風変わった名前ですが、御本尊にお参りする際には願い事を一言だけ言うのが習わしとか。
大和にも一言主神社があり 『過ぎたるは猶及ばざるが如し』 で、欲張ると水の【阿波内侍】になってしまうという戒め。
本堂には観音様の御詠歌
・ただたのめ 仏にうそは なきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな
の額が掲げられています。それでも守らない人がいるのでしょうね。
尚、『ただたのめ』とは一心に頼めという事で、無料でという意味ではありません。

道路沿いの寺標

門前下に到着

山門

山門前より町を見下ろす

山門脇の説明板

山門から見た境内

本堂伽藍
屋根の勾配が美しい。

本堂前面の彫刻

本堂横にある観音様の御詠歌

本堂前から境内を望む

本堂横

山門横のヤマモモの古木

ヤマモモ幹部の空洞


紫陽花の碑

周囲は竹藪
「明智藪」とは呼ばないそうであるが。

昼食はJR六地蔵駅前の「しお富」にて
これは半切重定食 ¥1,750

八幡巻と出汁巻も付く
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石田駅 → 徒歩15分 → 日野薬師 → 徒歩5分 → 日野誕生院 → 徒歩15分 → 一言寺 → 徒歩20分 → 石田駅
【復路】石田 → 地下鉄六地蔵 → 徒歩5分 →京阪六地蔵 → 中書島 → 京阪電鉄淀屋橋

本願寺 日野誕生院(浄土真宗本願寺派)
法界院に行く途中に誕生院という寺標もあり、すぐ横にあるとの事で予定外ですが、こちらも参拝。
日野誕生院は親鸞聖人所縁の寺。
『承安3年(1173年)、皇太后宮大進正五位日野有範を父に、八幡太郎義家の孫の吉光女を母として法界寺で誕生。
9歳で得度するまで幼年時代を過ごした。
文政11年(1828年)には西本願寺20代門主がここに有範堂を建立。
明治11年(1878年)には21代門主が日野別堂と改名。更に23代門主は昭和に大改築を実施。
昭和6年(1931年)に完成した際に日野誕生院と再び改称した。』
とあります。
開祖親鸞聖人が生まれた法界寺は真言宗。
浄土真宗としては開祖生誕の地に自宗の寺を建てたいという悲願があったのでしょう。

法界寺の土塀横を通り誕生院へ向かう

日野誕生院遠景
手前にあるのは誕生院保育園で、丁度運動会の練習中。

門前の碑

日野誕生院説明板

石段を上り藤棚奥の本堂へ
因みに藤は浄土真宗の家紋。

境内の様子

境内にある親鸞聖人誕生地の碑

境内にある聖人幼少の頃のお姿を模した童形像

親鸞が得度に当たって詠んだとされる歌碑
・明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の ふかぬものかは

いよいよ本堂へ
丁度、寺の方が本堂を片付けて居られたので、伺った所、
「出来たのは新しいですが、建立に際しては平安時代の建築様式を取り入れました。」
とあって納得。今まで見てきた真宗寺院とは趣が異なり、聖人の育った家を復元する目的もあったように思えます。
門徒の方々には聖地ですが、一般の観光客が訪れることはあまりなさそうに思えます。
それでも参拝者への対応はきちんとされていて、こちらから御願いする前に、説明書を持って来て下さいました。
今回は予備知識なしでの参拝。親鸞の父方が日野氏、母方が清和源氏と初めて知りました。
紛うことなく貴種の出ですが、聖人の目線には常に庶民があったと言う事でしょう。
現在、日本の仏教宗派で最大門徒数は浄土真宗ですが、それも理由のあることだと思った次第。

廻廊の奥に本堂が

本堂正面

本堂内陣の様子
鶴は日野家の家紋。

廻廊横から本堂を望む
丁度、若い僧侶の方が片付け中。

平安様式で再建した本堂

廻廊の構造

本堂への上り口


本堂前の白砂


日野誕生院説明書
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【往路】京阪電鉄淀屋橋 → 中書島 → 京阪六地蔵 → 徒歩5分 → 地下鉄六地蔵 → 石田
石田駅 → 徒歩15分 → 日野薬師 → 徒歩5分 → 日野誕生院 → 徒歩15分 → 一言寺 → 徒歩20分 → 石田駅
【復路】石田 → 地下鉄六地蔵 → 徒歩5分 →京阪六地蔵 → 中書島 → 京阪電鉄淀屋橋

東光山 法界寺(真言宗醍醐派 別格本山)
彼岸の三連休にまたもや台風が襲来しそうな彼岸の入りの日に思い立って京都市伏見区にある日野に巡礼。
東光山法界寺(とうこうざんほうかいじ)は、
『弘仁13年(822年)、藤原北家の流れを汲む家宗が領地であったこの地に、
慈覚大師円仁より贈られた最澄自刻と伝わる薬師如来の小像を祀ったのが嚆矢。
一門は代々この薬師如来を信仰するが、永承6年(1051年)に子孫の資業が薬師如来像を造って従来の小像を胎内に収め、
薬師堂を建立して氏寺とした。
これが法界寺の始まりで資業以降は、家名も日野と名乗るようになった。』
とあります。
日野氏は平安から鎌倉室町と中央で活躍した名族。
応仁の乱の頃に活躍した日野富子が有名ですが、他にも日野俊朝や俊基など一癖のある人物が出ています。
法界寺の由緒は家宗まで遡るのは難しいですが、資業から以降はほぼ確実でしょう。
平安末期には浄土思想の影響で阿弥陀堂も建立され阿弥陀如来も祀られました。
本尊が胎内仏であるため子供を宿す婦人の姿として日野薬師、乳薬師とも呼ばれますが、
他にも多くの堂宇が並ぶ壮大な伽藍だったようです。

道路沿いにある寺標
ここから更に徒歩10分。

門前に到着
白壁の向こう側が境内。

山門

山門から見た境内
竹柵の向こうから拝観料¥500が必要。

阿弥陀堂(手前)と本堂・薬師堂

阿弥陀堂遠景
ところが後世まで残ったのは阿弥陀堂で、阿弥陀堂は鎌倉時代の建築。
阿弥陀如来坐像は平等院と同じ定朝様式で共に国宝となっています。
本尊の薬師如来と薬師堂は小ぶりで重文、薬師堂は室町時代の作ですが、
明治37年に奈良県竜田の伝燈寺本堂を移築したものなので、ここでは外様。
大きさでも製作年代でも阿弥陀堂が薬師堂を凌いでいます。
それでも開創以来の御本尊とあって、お詣りする人は本堂へ行くのが習わし。
私が訪れた時も、薬師堂には赤ん坊の前掛けを模った願掛けが至る所に奉納されており、
女性の方が熱心に参拝されていました。
願掛けする人にとっては国宝であろうがなかろうが、御利益があることが大切というごく当たり前の理由でした。

国宝・阿弥陀堂
御住職に開けて頂き、この扉から内陣に参拝する。

阿弥陀堂入口付近
周囲の廂は一間である。

四面の蔀戸
天井からの鉤型は戸を引っ掛けるため。

阿弥陀堂の廊下から境内を望む

国宝・阿弥陀如来坐像 (説明書からの引用)
平等院鳳凰堂の本尊に最も近い定朝様式。丈六、寄木造で光背の透彫の飛天や天蓋も当初の物。

国宝・阿弥陀堂
平等院鳳凰堂と同時代の建築。五間五面の檜皮葺、宝形造。

阿弥陀堂近影
屋根の勾配が緩やかな事が軽妙温雅な印象を与えるとある。

奥の薬師堂への道

重文・薬師堂
重文・薬師如来を祀る。内陣に架けられた白布は前掛けを模したもの。

阿弥陀堂廊下より見た薬師堂
棟木に康正2年(1456年)の銘がある室町期の作で、明治期に奈良より移築された。

薬師堂から見た阿弥陀堂

薬師堂から見た阿弥陀堂と奥に見える庫裏
御朱印はここで拝受。

境内の様子

苔庭の向こうに見える阿弥陀堂

蓮池越しにみた阿弥陀堂

境内の説明

法界寺説明書
こうして参拝を終えましたが、御朱印は平成6年に拝受済なのでなし。
御朱印帳を見るとその日は山科方面で七ケ寺巡礼ですが、法界寺は殆ど記憶に残っていませんでした。
当時はほぼ徒歩での移動、若さ故の体力があったからでしょうが、
訪れた場所の内容を碌に覚えていないのは若気の至りとしか言いようがありません。
今回は、体力が衰えたがために却ってじっくり見ることができました。齢を重ねるのも悪い事ばかりではありませんね。

法界寺御朱印

道路から塀越しに見る阿弥陀堂

道路から見た薬師堂

京都石田郵便局 ; 国宝・法界寺阿弥陀堂及び阿弥陀如来坐像
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飯泉山 勝福寺(真言宗東寺派 坂東三十三ヵ所第五番札所)
鎌倉の後は、神奈川県で唯一残った札所へ。
小田原市ですが、JR小田原駅ではなく普通しか止まらない鴨宮駅で下車したのち、徒歩20分。
飯泉山勝福寺(いいずみさんしょうふくじ)は、奈良時代に道鏡が開山という古刹。
孝謙女帝の側近であり中央政界で活躍した道鏡が何故となりますが、
女帝死後の政争に敗れた彼は下野薬師寺に左遷される事に。
その下向時に女帝から下賜された十一面観音を足柄郡千代台に弓削寺を建て安置したのが始まり。
平安の世になって本尊のお告げで現地へ移ったとされ、室町以降は勝福寺と号しています。
一説では、観音像は鑑真和上が唐から招来したものともいわれ、由緒の正しい御本尊。今は秘仏となっています。
ここには曽我兄弟が仇討ちに際して日参して成就したとか、
二宮金次郎が14歳のみぎり、僧侶の読経を聞いて発心したと言った話も伝わっています。
結構、【同郷】の人たちに【孝謙】していることになりますね。
弓削道鏡といえば皇位を狙った日本史上の大悪人ですが、孝謙女帝に振り回されただけで
彼自身は政治的に策を弄した事はなかったと思います。
奈良時代の権力闘争は激烈で敗者が死を賜る事もごく普通にありました。
そんな中で下野国に左遷位で済んだことは大した政治力がなかったという証拠。
皆さんに【勝福】されるかどうかは?ですが…。
この日は駅からは1~2㎞ですが、途中の山道が適度なハイキングコースとなりました。
でも帰宅してからは背筋が痛く、足がズシりとしたので、やはり自分もシルバーになってきたのを改めて実感した一日でした。

人家を抜けると立派な仁王門が眼前に

朱塗りが鮮やかな本堂
宝永3年(1706年)の再建で江戸初期の様式をとどめる密教寺院独特の建造物。

境内にある地元出身の二宮金次郎像
薪と読書スタイルが有名だが、これは14歳でお経を聞いて発心した像。尚、彼の読んでいる本は四書の大学だそう。

飯泉観音御朱印
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日本史上の大悪人と言われた弓削道鏡の真実
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京浜急行横浜 → 新逗子 → 徒歩5分 → JR逗子 → JR鎌倉 → 徒歩10分 → 海蔵寺

扇谷山 海蔵寺(臨済宗建長寺派 東国花の寺百カ寺鎌倉七番)
本堂前に咲く萩の花。
彼岸の入りに近場の鎌倉の扇ガ谷へ。
観光シーズンのため横須賀線の下りは混雑するので、京急新逗子からJR逗子と逆方向で鎌倉入り。
西口から線路に沿って歩き、住宅地を通り扇ガ谷の谷間にあるのが海蔵寺。
扇谷山海蔵寺(せんこくさんかいぞうじ)は、
『建長5年(1253年)宗尊新王の命で藤原仲能が開山となり七堂伽藍が建立された事に始まる。
元弘3年(1333年)の鎌倉幕府滅亡と共に灰燼に帰したが、
応永元年(1394年)鎌倉公方足利氏満の命により上杉氏定が源翁(げんのう)禅師(心昭空外)を開山に招き再興した。』
とあります。

山門へ続く石段
両側には萩の花が。

海蔵寺仏殿(左)と本堂
正面には本殿、その左には浄智寺の宝殿を安永6年(1777年)に移築した仏殿が薬師堂としてあります。
薬師堂の本尊は薬師三尊像。
中興した源翁禅師が裏山から子供の泣き声が聞こえるので、掘ったところ薬師様の頭が出土。
それを祀ったところから啼薬師の名で呼ばれるとか。
また禅師は那須野の人々が白狐が霊となった殺生石に苦しめられているのを聞き、
杖で石を砕いて人々を救ったとも伝わります。
その杖の先が金槌に似ていたので、「金槌の別名を禅師の名をとって玄能と言うようになった。」
とはいささか行き過ぎた話ですが、それだけ禅師が才能に恵まれていたという事でしょう。
今は、伝説よりも東国花の寺としての方が有名。丁度萩が見頃な時期に当たっていました。
四季折々の花が咲き誇りますが有名なのは4月の海棠だそう。
ですが、そのために【カイドウ】寺となった訳ではないので念のため。

本堂(龍護殿)
関東大震災で倒壊したので大正14年(1925年)の再建。扁額は延宝9年(1681年)霊芝の筆になる。

木々越しに見る仏殿(薬師堂)

正面から見た仏殿(薬師堂)
安永5年(1776年)浄智寺から移築。薬師三尊像を本尊とする。

茅葺が印象的な庫裡
御朱印はこちらで拝受。

十六井戸
境内南隅の岩窟中にあり今でも湧き出している。この井戸があったために寺院を建てた?

扇谷山 海蔵寺略縁起

海蔵寺御朱印

朝比奈切通からの眺め
JR北鎌倉へ向かう途中の景色。
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【往路】大阪上本町(7:10) → (近鉄急行) → 松阪(9:14)
松阪市観光情報センター → レンタサイクル35分 → 伊勢国分寺 → 岩内瑞巌寺 → レンタサイクル60分 → 朝田寺
【復路】松阪(16:33) → (近鉄急行) → 大阪上本町(18:40)

光福山 延命院 朝田寺(天台宗延暦寺派)
本日、参拝したなかで唯一の有人寺院。
山沿いの無人の古刹を参拝したあとは、町まで下り更に線路を通過。
田畑の中にこんもりと森が見えて来たのが目指す寺院。
光福山延命院朝田寺(こうふくさんえんめいいんちょうでんじ)は、縁起に拠れば、
『延暦15年(796年)、練公(ねりきみ)長者の発願により弘法大師が創建。
鎌倉時代には伏見院の院宣により七堂伽藍を建立されるが、信長の伊勢攻めで焼失。その後現在地に移転した。
本尊の地蔵菩薩は空海の作とされ重文、世間では朝田の地蔵さんと呼ばれる。
江戸時代には曽我蕭白が来訪し、作品を残している。』
とあります。
近寄りがたい雰囲気がないのは本尊が地蔵菩薩さまだからでしょう。菩薩の中では最も人間に近いとされる所以。
いまは境内に牡丹の花が700株程植えられているので、季節になると訪れる人で賑わいます。
松阪市内最古の寺と呼ばれるだけの事はありますが、駅からは少し不便な田圃の中。
昔はこの辺りが栄えていたのでしょうが、国分寺や瑞巌寺のように無人にならずに済んだのは幸いです。

目指すお寺が彼方に見える

山門

本堂(左)と庫裏

正面から見た本堂

境内の様子

朝田寺御朱印
住職夫人から悪筆なので日付は書いて欲しいといわれたので、この箇所は私の自筆。
その後は駅に戻り街並みを一巡。
三井家・松坂屋に代表される伊勢商人ですが、質素倹約など厳しい家訓も【かくんあるんか】と思いました。
また国学者本居宣長の故郷でもあります。
かつて賀茂真淵との松阪の一夜は師弟関係のエピソードとして教科書にも載っていましたが、今はサッパリ見ませんね。
なんでも昔が良いとは言えませんが、残すべきものは【本居】残してほしいものです。
松阪といえば松阪牛ですが、休日で混雑していたのと、伊勢商人の家訓に従い、駅弁という質素倹約なものとはなりました。

本町通の旧長谷川邸

本町付近にある三井家発祥の地

本居宣長旧宅

本居宣長旧宅内部

松阪商人の館(小津家)

金物店

本町通にある「牛銀 本店」
松阪牛の店では和田金が有名だが、ここも老舗。すき焼き・ステーキは諭吉さんが1人要るが、「洋食屋 牛銀」では英世さんが2~3人でOK。でも1時間待ちなのでスルー。

昼食の松阪牛ステーキ弁当¥1350

松阪のマンホール蓋
カードの図案は見当たらず、ほとんどがこの駅鈴タイプ。

松阪市マンホールカード 配布場所はこちら
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