【往路】JR横浜(5:22) → JR東神奈川(5:25→5:36) → JR八王子(6:30→6:33☆) → JR甲斐大和(7:39)
甲斐大和駅 → 徒歩45分 → 栖雲寺 → 天目(9:29) → (栄和交通 大菩薩上日川峠線) → 甲斐大和駅(9:45) → JR甲斐大和(10:22) → JR甲府(10:52) → レンタサイクル → 積翠寺 → 円光院 → 大泉寺 → 甲斐善光寺 → 東光寺

法蓋山東光寺(臨済宗妙心寺派)
甲斐善光寺の後は、近くの東光寺へ。東光寺は大きな伽藍がなく、道に迷った末に漸く到着。
善光寺の山門や伽藍は遠くからでも目につくので参拝の順序を間違ったと後悔。
法蓋山東光寺(ほうがいさんとうこうじ)は、
『保安2年(1121年)、甲斐源氏の始祖・新羅三郎義光が祈願所として釈迦如来を安置した興国院を建てたのが始まり。
鎌倉時代になり、建長寺の開山・蘭渓道隆は一時元のスパイ容疑で甲州の当山に配流。
その縁で密教系寺院から臨済宗になり、以後甲州の禅宗寺院の中心的存在となった。
室町以降は守護武田氏の、江戸時代は柳沢氏の庇護を受けた。
明治の廃仏毀釈で背後の法蓋山始め多くの寺域を失い、空襲でも被害を受けたが、
室町期の仏殿は残り庭園・伽藍が整備され今の姿になった。』 とあります。
今まで参拝した甲府市内の寺院は全て無料でしたが、ここの拝観は有料。
と言っても【法蓋】な値段ではなく、200円で重文の仏殿や池泉観賞式の庭が拝観できました。
禅宗の庭と言えば夢窓疎石が思い浮かびますが、ここは蘭渓道隆の作庭。
大和絵式とは違った北宋山水画式で、池を小さくする代わりに大小の石や奇石を用いるのが特徴とか。
美術の観点は良く分かりませんでしたが、京都や鎌倉に比べ樹木が少ないのは分かりました。素人にはこの程度です。
この寺院は、武田義信の墓があります。
信玄の嫡男でありながら謀反の疑いで廃嫡され非業の死を遂げた人。
義信の妻は今川氏の出身で、今川義元の死後の駿河侵攻を企てた信玄と対立したのが原因と言われます。
残された記録ではひとかどの人物だったとあり、もし彼が武田家を継いでいたら滅亡は回避できたかもしれません。
義信の墓の横には諏訪頼重の墓も。
彼は信玄の妹を妻としていましたが信玄の策略を見抜けず、領土は併合され家は取り潰されました(江戸時代には復帰)。
義信といい諏訪頼重といい、己に非がなかったとは言えませんが、
いかに戦国期でも信玄の謀略には素直に共感できない面があります。
東京駅丸の内は三菱が犇めいていますが、甲斐では四菱が至る所に…。
400年も統治したので無理もありませんが、実際統一したのは、信虎・信玄・勝頼の約60年間。
それでもインパクトが強いのは家康を翻弄したことや、武田の流れを汲んだ真田氏が活躍したことに拠ると思います。
2017年の大河の井伊氏も武田の遺臣を多く召し抱えたことで有名なので2年連続武田氏の流れ。
【甲斐】があったというものです。
これで甲府五山も無事参拝と思っていたら、五山は積翠寺ではなく長禅寺と帰宅後判明。
思わぬ【誤算】となりましたが、また参拝する楽しみが残りました。

山門

重文・仏殿
天文年間(1532~1554年)、信玄の援助で再興。信長による焼討ち、甲府大空襲も免れた。本尊の薬師如来も安置されており薬師堂とも呼ばれる。

仏殿の屋根
入母屋造、一重裳階付きで檜皮葺の禅宗様式。

庭園越しに見た仏殿

境内の植木
武田氏家紋の四菱をかたどる。

名勝・東光寺庭園
蘭渓道隆による作庭。本堂と庫裏背後の山斜面を利用した池泉観賞式庭園。

庭園
中国の「竜門瀑」を自然石で表し、前方の池には舟を象った人工石が並ぶ。

禅宗様式の砂模様

東光寺説明書(冊子)

東光寺御朱印

甲府東光寺郵便局 ; 重文・東光寺仏殿、甲州ブドウ、富士山

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定額山浄智院善光寺(浄土宗)
重文・山門は重層建築。
駅前で昼食を摂った後は、市内を東へ進むと非常に大きな朱塗りの門が出迎え。
定額山浄智院善光寺(じょうがくざんじょうちいんぜんこうじ)は、
『永禄元年(1558年)、川中島合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れた武田信玄は
御本尊始め諸仏を甲州に移し建立。本堂は信濃善光寺と全く同じ大きさとした。
武田氏滅亡後は、御本尊は織田・徳川・豊臣を転々とし、慶長3年(1598年)に信濃へ帰還。
甲府では新たに前立を御本尊とした。』 とあります。
戦場になったとはいえ御本尊を持ち出すとはけしからん話と思いますが、
上杉謙信も仏像を越後に持ち帰り堂宇を立てています。
移しただけでなく大きさもそっくりの【写し】なのは対抗心もあったのでしょう。
この辺りの感覚は現代人には分かりませんが、持ち帰った仏の場所には参詣者が訪れ
門前町ができたと言いますから、領国を繁栄させる意図があったのは明らか。
唯、折角建立した七堂伽藍も宝暦4年(1754年)の門前の失火で全焼。
現在の山門・金堂は寛政8年(1796年)に【完成】したもの。
戦国時代を生き延びて、平和な江戸時代に焼失とは皮肉です。
信玄も【善行】をしたと自負はあったでしょうが、大名武田氏は滅亡してしまったので、移動した【甲斐】はなかったようです。

重文・金堂
寛政8年の再建で、善光寺建築に特有の撞木造。総高27m、総奥行49m。

金堂正面
この下には「心」の字をかたどるお戒壇巡りがある。

金堂欄間の龍の彫刻

甲斐善光寺説明書

甲斐善光寺御朱印

甲斐善光寺門前にて信玄アイスを。
桔梗信玄餅と同じ、きなこ&黒蜜をトッピング。
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萬年山大泉寺(曹洞宗)
円光院から愛宕山の裾を少し南に行くと大泉寺へ到着。
萬年山大泉寺(まんねんざんだいせんじ)は、
『大永元年(1521年)、甲斐守護・武田信虎を開基、天桂禅長禅師を開山として招いて創建。
信虎実弟・吸江英心和尚が二代目を継ぐ。
武田氏の菩提寺として知られ、武田氏滅亡後は甲府城を築いた浅野家の菩提寺になり、
後には柳沢家も帰依した。』 とあります。
開基信虎の墓所でもあり、孫の勝頼もここに葬られました。
信虎は14歳で家督を継ぐや甲府に進出し甲斐一国を統一、戦国大名としての基礎を築きました。
その一方で、残酷な面もあったようで息子の晴信(信玄)の策謀で駿河に追放。
亡くなるまで甲斐に戻れませんでした。信虎の性格等について作為や誇張が見られますが、
追放後も甲斐で揉め事がなかった事実から領民に慕われる主ではなかったようです。
信玄も領国の為とはいえ、実父を追放したわけですから、褒められたことではありませんが。
寺は500年の歴史がありますが、空襲で焼失。戦後復興しました。
新しい中にも門や石垣に特徴的なデザインが見られます。
ここの重文は信虎肖像画。実物は拝見できませんが、御朱印を御願いすると、肖像画の絵葉書を頂きました。
信玄の弟信廉の作で晩年の法体姿を映したもの。
当時の肖像画としてはリアリティに富む、やや異形な顔でした。これを手紙で貰った人はさぞ驚くことでしょう。

大泉寺にある信虎肖像画(頂いた絵葉書から)

大泉寺略記

大泉寺御朱印

山梨といえば「ほうとう」
駅前の小作にて昼食。
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瑞岩山円光院(臨済宗妙心寺派)
続いて神社の方へ戻りその東にある円光院へ。
瑞巌山圓光護持禅院(ずいがんさんえんこうごじぜんいん)は、戦国期に武田信玄が制定した甲府五山の一つ。
始祖源清光が石和に創建した清光寺が前身で、種々の変遷を経て永禄3年(1560年)甲府に移った経緯があるようです。
境内や建物は新しく整備されており、甲府を見渡す特別な場所にありますが、
ここは信玄正室の三条夫人の墓所として知られます。
夫人は摂関家につぐ清華三条家の出身、戦国大名とはいえ信玄にとっては格上の女性だったでしょう。
子供に恵まれますが、嫡男義信は謀反の疑いで廃嫡、信之は夭折、信親は失明の為に家督を継げず、
今川氏に嫁いだ黄梅院は離縁と家庭的には恵まれませんでした。
家督は側室の生んだ諏訪勝頼が継ぎますから、夫人としては踏んだり蹴ったりです。
小説やドラマでの三条夫人は嫉妬深い女性として描かれていますが、
ここまで来れば後世の人がそう考えても不思議ではありません。
境内には「三条夫人のお人柄の真実」という看板があり、これでもかと美点を挙げて記入しています。
信玄としては内心忸怩たるものがあったのでしょうが、
死後褒められるよりももう少し生前になんとか手を打つべきだったでしょう。
因みにこの文は恵林寺の快川紹喜の作。「心頭滅却すれば火もまた涼し」で有名ですが、
本当に熱くなければこんな言葉は言わない筈。こちらもやや誇張された感じがします。
「心頭滅却すれば〇〇もまた美し」ではないでしょうが、
名僧と呼ばれるにはこれぐらいのコピーが必要と言うことでしょうか?

境内にある掲示板
この語を作ったのは「心頭滅却すれば火もまた涼し」の快川紹喜。名僧と言われるためにはこれくらいできんとあかんと言う事か。

円光院御朱印
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万松山積翠寺(臨済宗妙心寺派)
甲斐大和から電車で甲府に着くと11時前。ここからの参拝は点在しているので、駅近くのレンタサイクルを利用。
最初に武田神社の更に奥にある信玄所縁の寺へ。万松山積翠寺(ばんしょうざんせきすいじ)は、
『行基のより開創された古刹。本堂の西側に清流が滝を作っていたため石水寺と呼ばれたが
中世以降は積翠寺という表記になった。
鎌倉末期に夢窓疎石の弟子・竺峰和尚により中興され臨済宗妙心寺派に改宗。
背後の要害山には武田信虎が要害城を築くが、大永元年(1521年)に今川との争いの最中、
信虎夫人は要害城に避難の途中、この寺にて男子を出産。その男子が後の武田信玄である。』
とあります。
駅から武田神社まで坂を1.5㎞、寺院は更に山側に1.5㎞程進んだ標高530mの場所にあり自転車20分で到着。
参道から見ると古刹の雰囲気がありますが、本堂を含め伽藍は比較的新しく【積翠ハウス】と言ったところ。
禅寺風の庭と伝世品でそれと分かるくらいでした。
御朱印を御願いすると
「住職が留守なので申し訳ございません」との事。
山梨では神様のように崇められている信玄誕生の寺という事で人出を想像していましたが観光客は私一人。
大勢の参拝者がいた武田神社とは対照的でした。

寺標と庫裏(書院)

積翠寺と背後に聳える要害山

境内にある信玄公産湯の井戸

書院から庭園を望む

夢窓疎石による築庭

積翠寺説明書
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甲斐大和駅 → 徒歩45分 → 栖雲寺 → 天目(9:29) → (栄和交通 大菩薩上日川峠線) → 甲斐大和駅(9:45)

天目山栖雲寺(臨済宗建長寺派)
久し振りの快晴の週末、「秩父プリン」の後は今年5度目の中央線で「ふーりん火山」の地へ。
以前に武田氏滅亡の地にある景徳院に参拝した折、その4㎞程先に勝頼所縁の寺院があると仄聞。
これは是非訪れなければと思いつつ今日まで伸びてしまいました。
駅から山道を数キロ歩く覚悟で、朝早く駅に着くと大勢の登山客がバス停に。大菩薩峠へのハイクングの人達でした。
「こちらの行先には関係ないな!」と歩き出して暫くすると満員のバスが横を通過。
このバスに乗ると目的の寺の前で留まると分かったのは寺に着いてから。出だしから調査不足を痛感しました。
「日川渓谷沿いを歩いて綺麗な景色が見れた」と負け惜しみを言いながら45分で標高1050mにある目的の寺へ到着。

天目山へ向かう竜門峡入口
ここから徒歩45分。

竜門峡にある炭焼窯跡

竜門峡の流れ


奇岩・平戸の石門

木賊の石割欅
欅が岩を割って生えている。木賊は天目山の古名。

日川渓谷の滝

天目山より見た富士山
遊歩道を終え門前のバス停付近から。
天目山栖雲寺(てんもくさんせいうんじ)は、
『貞和4年(1348年)、甲斐国守護武田信満公を開基、業海本浄を開山として創建。
業海は元の天目山にて普応禅師の教えを受け9年後に帰国。
この地にあった木賊山が天目山に似たという理由で創建したのが天目山護国禅寺、栖雲寺の前身である。
業海は室町期に主流であった夢窓疎石の一派を批判し、臨済宗幻住派として厳しい禅風を確立。
業海と共に元に渡った遠渓祖雄は丹波に高源寺を建て業海と同じ教えを実践。
栖雲寺を東天目、高源寺を西天目と呼ぶのはこのためである。
信満は死後ここに葬られ栖雲寺も武田氏の菩提寺として大いに栄えた。
戦国時代の武田勝頼は織田軍に敗北後ここを目指したが果たせず、寺も兵火で焼失した。
復興したのは江戸時代に徳川家の庇護を受けるようになってからである。』
とあります。
甲斐守護の武田氏が何故、栖雲寺を庇護したか?
武家として幻住派に対する共感もあったでしょうが、武田氏は新羅三郎義光を祖とする源氏の直系。
八幡太郎義家を祖とする足利将軍家に対する対抗意識もあったように思えます。
大名武田家最後の勝頼がここを頼ったのは理解できますが、
ここに逃げたからと言って次の戦略がなければ捲土重来は無理。
名門故に祖先の重みに押し潰された悲劇と言えます。
普段は公開されませんが寺には武田氏所縁の品々が。
また死の直前、勝頼公が住職に行った言葉が代々伝わっているようで、有料の法話で伺えるようです。
死後もお寺の運営に貢献しているとは菩提寺ならではでしょう。

栖雲寺本堂
武田勝頼が最後に目指し辿りつけなかった寺。右に続くのは庫裏。

本堂近影
本尊は釈迦如来

本堂の扁額

境内にある「蕎麦切発祥の地」の碑
それに加えて、ここを有名にしているのは石庭。
京都や鎌倉の禅寺の庭とは全く異なり、急斜面に巨石が並ぶ豪快なもの。
開山の業海が巨石に座り、同じく巨石で坐禅を組む弟子達をチェックしたとか。
相当な荒行で、こんなことが出来るのは巨石ならぬ奇石ですね。
と言う具合に境内と庭園を見た後、表に出ると丁度大菩薩峠からのバスが来る時間。
朝に乗らなかったバスが折り返してきたようです。9時台なので乗客は私一人。予定外に早く駅に戻れたのは【奇石】でした。

栖雲寺庫裡東側にある石庭
京都・鎌倉と異なり、自然の巨岩からなる。通常¥300だが御朱印をお願いしたので無料で見学出来た。



栖雲寺説明書

栖雲寺御朱印
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<コース>
JR横浜 → JR鎌倉 → (京浜急行バス 鎌倉23・24) → 浄明寺 → 徒歩5分 → 杉本観音

大蔵山 杉本寺(天台宗 坂東三十三ヵ所第一番札所)
浄妙寺から鎌倉方面へ戻り、道路に面した場所が杉本寺入口。
お堂に至る石段は摩滅が進み現在は通行禁止。そこに生える苔がより一層の趣を添えます。
鎌倉の苔寺と言えば妙本寺が有名ですが、ここも中々のもの。
生物学的には三方を山に囲まれ、湿度と日照によって苔が育ち易い環境になっているのでしょう。
マイナスイオンも豊富に思えます。生えているのは、勿論杉苔でしょうね。
苔生した石段の横の急な石段を上ると杉木立に囲まれた苔むした茅葺の観音堂が正面に。
大蔵山杉本寺(だいぞうさんすぎもとでら)は、鎌倉最古の寺院。寺伝に拠れば
『天平6年(734年)に光明皇后の命で、藤原房前と行基により創建された鎌倉最古の寺院。
行基が関東を行脚した際に、大蔵山から町を眺め「こここそ観世音菩薩を安置する霊地である。」と、
霊木で等身大の像を彫り安置したのが始まり。
続いて仁寿元年(851年)には慈覚大師円仁が海上に浮かんだ霊木に十一面観音像を刻み安置、
更に寛和元年(985年)には花山法皇の命で恵心僧都源信が十一面観音を刻み安置した。
文治5年1189年、大蔵観音堂が火災で炎上した時、別当浄台坊は衣を少し焦がしただけで本尊を無事救出。
これが後の信仰に繋がった。
別の説では、三観音自ら杉の木の下に難を避けた事で杉本寺と呼ばれるようになったと言う。』
とあります。
仏教界の大立者が三名関係している上に、火災でも焼けなかったという有難いお話です。
何故、本尊の十一面観音が3体なのか?合計すると33面、これは札所の数と一致します。
加えて、花山法皇は三十三ヵ所を始めたとされる方。
坂東札所という事で、由緒記に後世付け加えたと思うのが無理がない気がします。
本尊が杉の下に自ら逃げたとなると【杉】たるは猶及ばざるが如し、の感があります。
杉木立の下の杉本寺で十分でしょう。
と、寺伝を否定する内容ばかりですが、ここが古代より寺であったのは明らか。
周囲を山に囲まれたお堂の前に立つと神秘的な感じがひしひしと伝わります。
恐らく古代人もここに信仰の息吹を感じたが故に御堂を建てたのでしょう。開山や中興の名を出さずとも十分です。

杉本寺山門の屋根
苔生した感じが古さを感じる。

杉本寺本堂
行基建立という鎌倉最古の寺。

杉本寺略縁起

杉本寺御朱印
こうして洋館の後は近所の報国寺、浄明寺と杉本寺と一転和風建築をはしご。
最後は、鶴岡八幡宮に御参りしたあと、わらび餅でちょっと一服。洋館に行ったあとは羊羹でしめる処ですが、
歯応えがあったのでよう噛んで食べた次第。建物も食べ物も和洋折衷となった一日でした。

若宮大路の「こ寿々」にて一服

名物わらびもち
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JR横浜 → JR鎌倉 → (京浜急行バス 鎌倉23・24) → 浄明寺 → 浄妙寺

稲荷山浄妙広利禅寺(臨済宗建長寺派 鎌倉五山第五位)
報国寺続いて筋向いにある浄妙寺へ。寺名は浄妙寺で、地名は浄明寺と表記が異なりますが、
これは五山の格式に敬意を表したためで京都などでよくあるパターン。
重ねて京都にも敬意を表したと言えるでしょう。
稲荷山浄妙広利禅寺(とうかさんじょうみょうこうりぜんじ)は、
『源頼朝の家臣であった足利義兼が開基となり文治4年(1188年)に創建、
開山は退耕行勇で極楽寺という名の真言密教寺院であった。
義兼の子の義氏の時に蘭渓道隆の弟子の月峯了然が住職となり臨済宗に改宗、寺号も浄妙寺となった。
足利尊氏の父貞氏はここの中興の祖とされ死後、ここに葬られ浄妙寺殿と呼ばれた。
足利義満が五山の制を定めた頃は、七堂伽藍を備えた巨刹であったが、その後、衰退し、
現在の建物は宝暦6年(1756年)以降の再建である。』
となっています。
足利氏所縁の五山ですが、ここも戦乱を免れることはできませんでした。
寺域は広いですが、それが却って戦災を受けることになったとも言えます。
禅寺らしく簡素な造り、平成3年に復元された庭園「喜泉庵」もあって抹茶も楽しめますが境内には人は疎らでした。

本堂
寄棟造、銅板葺で方丈形式の六間取り。江戸中期の再建だが、室町期の材も一部用いられている。

浄妙寺境内にある茶室、喜泉庵
天正時代にあったものを平成3年復興。杉苔を主体とした枯山水の庭を見ながら、お菓子+抹茶が頂ける(¥600~1000)
奥には水琴窟も。

浄妙寺 略記

浄妙寺御朱印
丁度お昼時に、浄明寺境内に洒落た洋館を発見。
明治の廃仏毀釈時に貴族院議員の方がドイツ人に設計を頼んで建設したもの。
その後、元に帰属して浄明寺が経営する珍しいレストランとなります。
といっても精進料理ではなく、自家製パンが目玉の西洋料理、ここでも洋館見学となりました。
境内奥にある「石窯ガーデンテラス」というその店に行くと、打って変わった人出。
石窯で焼いたパンと、テラスでの食事が人気の店です。今日は寒いので殆どの人が屋内で食事でした。
11月末からはマントルピースで薪を燃やす風情も味わえるとか。年齢を問わず女性客が多いのが特徴でした。
この辺りは食事処も少ないので重宝されるのかもしれませんが、
禅宗の境内で洋食というギャップに惹かれる所もあるのでしょう。嬉しい【五山】と言えますね。

浄妙寺境内にある石窯ガーデンテラス
寺院が経営する珍しいレストラン。

石窯ガーデンテラスのテラス席
今日は寒いので、殆どの人が屋内で食事。

昼食
パンは自家製石窯焼き(残ったパンは持ち帰り可)、スープはサツマイモ。

これはメインディッシュ
パンにソースを付けたら絶品であった。
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<コース> JR・京浜急行バスは共に頻発
JR横浜 → JR鎌倉 → (京浜急行バス 鎌倉23・24) → 浄明寺 → 徒歩5分 → 報国寺

功臣山建忠報国禅寺(臨済宗建長寺派 東国花の寺百カ寺 鎌倉五番) 本堂
鉢の家紋は足利家の「丸に二つ引き紋」で通称「釜の蓋」。ライバルの新田氏は「丸に一つ引き」で「鍋の蓋」。
洋館に引き続いて報国寺へ。
功臣山建忠報国禅寺(こうしんざんけんちゅうほうこくぜんじ)は、寺伝に拠れば
『建武元年(1334年)、天岸慧広(仏乗禅師)を開山、足利家時を開基として創建。
慧広は死後、門弟に拠って境内に休耕庵という塔頭を建て開山と祀られている。
以後、足利・上杉家の菩提寺となり五山・十格に次ぐ地位を与えられた。
永享の乱(1439年)では室町将軍足利義教と敵対した鎌倉公方足利持氏と義久親子が敗北、
義久はここで自刃したと伝わる。』 とあります。
ところで開基とされる足利家時は足利尊氏の祖父。創建時は既に亡くなっており矛盾があります。
南北朝時代の上杉重兼が家時の屋敷を寺とし彼を開基に持って来たという説があり、そちらが真実に近いようです。
足利家時の母は上杉氏出身。それまでの足利家当主は北条家から嫁いだ母親出生の男子が継承するのが常でしたが、
家時の代に初めてその先例が破られました。息子・足利貞氏に嫁いだ上杉清子は尊氏・直義を生んでいます。
上杉氏は室町時代を通じて管領を務めるなど幕府で重要な地位を占めますが、
上杉を母とする足利家時が当主になった事が出世の糸口。繁栄の基礎を築いた始祖を祀ったとはあり得る話です。
そう見ると山号の「功臣山」に込められた意味も明らかでしょう。
建長寺や円覚寺の広さには及びませんが、禅寺らしく石庭や草花がある落ち着いた雰囲気。
最近は竹の寺として夙に有名ですが、
「竹林の七賢、竹を友とす」 とあるように知的なイメージを持つ竹。
これは塔頭休耕庵の跡に孟宗竹が生えて、現在の竹の庭になったとか。
観光客を呼び込むために休耕地に竹を植えたと思い込んでいましたが、それは妙竹林な【妄想】でした。

坐禅の行われる迦葉堂

ここは前庭
竹の寺で余りにも有名だが、それ以外の庭も見応えがある。

中庭
宅間ヶ谷の裏山を借景に取り入れたもので築山と池は禅宗風。

やぐらへの道は立入禁止

境内にある三つのやぐら
鎌倉公方四代目の足利義久が永享の乱(1439年)で敗れ、ここで自刃したと伝わる。

報国寺竹林
休耕庵という塔頭の跡に孟宗竹が生えて、現在の竹の庭になった。

境内を歩く

杉苔とホトトギス

報国寺御朱印
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JR横浜 → JR鎌倉 → 旧華頂宮邸

華頂邸庭園と薔薇
10月に入って二週連続土日の【雨ニモ負ケズ】、鎌倉へ。
鶴岡八幡宮から金沢八景に抜ける金沢街道は狭いながらも鎌倉と東国を結ぶ交通の要衝。
今も車の通行量が多いのは昔と変わりません。
街道沿いには古刹が並び、建長寺や円覚寺の様な広大さはありませんが、
鎌倉の初期の雰囲気が良く残っています。そんな古刹の中に佇む洋館から巡礼開始。
旧華頂宮邸は昭和4年(1929年)華頂博信侯爵邸として建てられ、持主の変遷の後、平成8年に鎌倉市が買い取り。
取り壊しの危機を乗り越えていまは地元の方のボランティアに支えられています。
華頂宮は伏見宮より明治元年(1868年)に分家し、大正15年(1926年)に臣籍に下り侯爵に叙せられました。
この鎌倉の邸宅で【華頂】風月を愛でられたのでしょうか?
邸内のフランス式庭園の薔薇が有名で、普段から庭園内は見学できますが、10月15~16日は年に2度の洋館の公開日。
これは是非、見ておくべきと足を運ぶと、雨で足場が悪いにも関わらず、開館と同時に多くの見学客が見えていました。
メルヘンチックな外観ですが、これは柱、梁などをそのまま外部に現し、
その間の壁を石材、土壁で充填したハーフティンバースタイルという様式と言うそうです。

門を過ぎて玄関へ

華頂邸玄関側全景

雨天にも拘らず開館と同時に見学者が

華頂邸内部の階段と証明

二回の窓から玄関先を望む

緑色の屋根が映える
玄関から1階、2階と見て回ると構造や調度品も西洋式。
当時の華族は西洋文化に憧れたのかと思いましたが、唯一畳の日本間も。
西洋式の中にも日本間がないと落ち着かなかったのでしょうか?
華頂邸奥には無為庵という茶室があって、「やはり日本家屋が恋しかったのか!」と思いましたが、
これは実業家松崎氏の上大崎の茶室と門を昭和46年に移築したもの。戦前の邸宅にはありませんでした。
これだけ見ても見学は無料。維持管理は大変でしょうが貴重な財産を後世に残そうという志が有難いですね。
今回だけでなく【二回どう?】と思うような場所でした。

華頂邸にある唯一の日本間

華頂邸南側
柱、梁などをそのまま外部に現し、その間の壁を石材、土壁で充填したハーフティンバースタイルという様式。

華頂宮邸庭園側全景
手前はフランス式庭園で薔薇が有名。普段は庭園内のみの見学。

華頂邸南側全景

華頂邸奥にある無為庵
実業家松崎氏の上大崎の茶室と門を昭和46年に移築したもの。

無為庵玄関

書院造りの部屋

無為庵茶室
天井は傘状になっている。茶室も六畳と広いので、一対一の抹茶ではなく、大人数に煎茶を振る舞うためのものだとか。

庭から見た無為庵
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【往路】南海難波(6:29) → (南海高野線) → 橋本(7:18→7:24) → JR笠田(7:43)
笠田駅前(8:10) →(かつらぎコミュニティバス 天野コース) → 丹生都比売神社 → JR笠田(9:48) → JR粉河(10:01) → レンタサイクル5分 → 粉河寺・十禅律院 → JR粉河
【復路】JR粉河(14:27) → 橋本(14:58→15:06) → (南海高野線) → 南海難波(15:55)

十禅律院(天台宗安楽律院派)
粉河寺巡礼を終えましたが、本堂の奥に庭の綺麗な寺院があると聞き引き続き巡礼。
十禅律院(じゅうぜんりついん)は、由来に拠れば
『正暦元年(990年)の春、石崇上人が日吉山十禅師の勅を受け創建。
その後、当地に移住した峯覚上人が土中から銅鐸を発見。古の遺跡としてこの地に堂宇を建立し千手観音を安置。
宝鐸地十禅院として粉河寺の塔頭となった。
江戸時代の寛政12年(1800年)、紀州十代藩主徳川治宝によって安楽律院に改宗した。』 とあります。
竜宮城のような門をくぐると正面に本堂、左に護摩堂。紀州公真筆の扁額と菊の御紋に敬意を表して参拝しました。

十禅律院入口
粉河寺本堂横を通った先にある。

入口の寺標

石段の先にある塗上門(築地門)
竜宮造りと呼ばれる様式。

塗上門の扁額「宝鐸墜」
紀州十代藩主徳川治宝公の真筆。

門横のカイヅカイブキの古木

門から見た境内

本堂
総欅造りで五間四面の入母屋造、本瓦葺。阿弥陀如来を祀る。

本堂前面の菊の御紋の彫刻と扁額
扁額「薦福殿」は塗上門と同じく紀州十代藩主徳川治宝公の真筆。

本堂上の欄間彫刻
司馬温公の甕割り(上)と龍

本堂扉の唐獅子彫刻

本堂左の護摩堂
宝形造りで、千手観音、子安地蔵、不動明王を安置している。屋根の宝珠は粉河鋳物師蜂屋正勝作。
その後は庭園拝観のために庫裏へ。ベルを押すと作務衣姿の御住職が境内から見えました。折しも作業中だったようです。
伺った話では、
「元は粉河寺の塔頭で学問所の扱いでしたが、いまは独立して宗派も寺域も別です。」 との事。
「庫裏は紀州藩主がお見えになった際に滞在されました。」 とあるように藩主着座の間もある書院造り。
二百余畳ですが、武士らしく落ち着いた佇まいでした。その先にあるのが洗心庭。
この庭は徳川治宝が御用庭師に拠って築庭した借景枯山水式庭園。
縁側に座れば北には和泉山脈の高峰成高山、南には紀伊山脈の主峰竜門山を一望できる庭園です。
紀州初代藩主徳川頼宣は南龍公と呼ばれたそうですから、
紀州富士と呼ばれる竜門山には格別の思い入れがあったのでしょうか。
借景と言えば京都の東山に様に寺院から遠くの景色と思っていましたが、
御住職の話では庭園的には隣接する背景を云うのだそう。
書院の庭園の後は境内を散策。庭にも種々の草花が植えてありますが管理に手が足りないと仰ってました。
札所から独立し、檀家も少ない事で、今は喘息封じの「糸瓜加持」がメインですが維持管理は大変。
なかなか【安楽】とはいかないようです。

庫裏
正面に見える御成り玄関をはじめ、武家屋敷風の遺構を持つ。

書院から洗心庭へ

「洗心庭」越しに本堂を望む

洗心庭と遠くに和泉山脈が見える
借景とは左の竹林辺りを云うそうな。

本堂前から見た境内

参道脇の花
これは自然に生えたもの。

十禅律院案内記

十禅律院御朱印
判子が磨滅しているので現在作成中との事。

巡礼スイーツで休憩
大門橋の前の「観光物産センター こかわ」にて。三番札所なので、スイーツが3種類あるとか。谷汲ならどうなる!?
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笠田駅前(8:10) →(かつらぎコミュニティバス 天野線) → 丹生都比売神社 → 笠田駅前(9:39) → JR笠田(9:48) → JR粉河(10:01) → レンタサイクル5分 → 粉河寺

風猛山 粉河寺(天台宗系粉河観音宗 西国三十三ヵ所第三番札所)
一之宮の後は、和歌山線を和歌山方面に向かい粉河で下車。ここからは電車も1時間に2本になります。
以前に参拝した平成6年は和歌山~橋本間は30分毎の運転。
和歌山~粉河間は15分間隔だったように記憶していますからほぼ半減。
盲腸線ではないので廃線とはならないでしょうが、【もうちょう】っと何とかならないのかと思います。
風猛山粉河寺(ふうもうさんこかわでら)は、西国三番札所。
縁起に拠れば、というよりも『粉河寺縁起絵巻』は『信貴山縁起』と並ぶ国宝縁起絵巻。それに拠れば
『宝亀元年(770年)、紀州の猟師・大伴孔子古(おおとものくじこ)は山中に光る場所を見つけて庵を結ぶ。
その後、そこに現れた一人の童子が宿泊の礼として千手観音を刻んで姿を消した。
童子が千手観音の化身と知った孔子古は堂宇を建て観音を祀った。これが粉河寺の開創である。
更に、河内の長者の娘が思い病床にあった所、どこからともなく現れた童男行者の祈祷で平癒。
長者は多くの御礼を差し出したが、行者は小太刀と緋色袴だけ受け取り立ち去った。
去り際に「私は紀伊国那賀郡に居ります」と言ったので、家族が訪れると千手観音の手に小太刀と袴があった。
長者一家は観音に帰依し、粉河寺は繁栄した。
鎌倉時代には七堂伽藍、東西南北4㎞の敷地、寺領4万石を誇るが、天正13年(1585年)の秀吉の紀州攻めで焼失。
江戸時代になって紀州藩や信徒によって再建された。』
とあります。
言ってしまえば霊験譚ですが、史実かどうかは不明。唯、『枕草子』『梁塵秘抄』『山家集』にもその記述があるので、
平安時代には都にも知られていた名刹であったのでしょう。なにがしかの史実を反映しているとは思います。
因みに、河内の長者の末裔が大臣を務めた塩川家と言われています。
粉河寺は駅から15分程北に歩いたどんつきにあって、大門、庭園、拝観無料は覚えていますがそれ以外は記憶になし。
今回の再訪で境内の広さに改めてビックリ、人間の記憶などはいい加減なものであると実感しました。

駅の南にある龍門山

駅前にある「創 HAJIME-cafe」 でレンタサイクル
かつて綿織物の取引で財を成した家屋。現在は地域活動の拠点。

中津川に架かる大門橋
駅北1㎞、奥に大門が見える。

西国第三番札所粉河寺境内入口へ到着

重文・大門
宝永4年(1707年)建立の総欅造り。入母屋造、本瓦葺きの楼門で、和歌山県下では高野山、根来寺に次ぐ威容を誇る。

大門の金剛力士像
仏師春日の作と言われ、用材は桂の巨木。

境内から大門を見返る

境内案内図

不動堂
大門を過ぎて最初にある建造物。弘法大師が爪で彫った不動尊があるとか。秩父の札所にも似た話が…。

不動堂から本堂方面を望む
右奥の高い堂宇が本堂。

延宝7年(1679年)建立の童男堂
江戸時代の廟建築を模した正堂と礼堂から成り、粉河寺本尊の千手観音の化身・童男大士を祀る。

仏足石
文久3年(1863年)の作。

出現池
童男大士が柳の枝を手に持ち、白馬に乗ってこの池から出現したと伝わる。

出現池上の三角堂
千手観音像を安置、右の祠に安置されているのは童男大士石像。

江戸後期建立の念佛堂(光明殿)
総欅造りで阿弥陀如来を安置する。

参道横を流れる粉河
念佛堂の横からの景色。

太子堂

中門前にある盥漱盤(かんそうばん)
荷葉鉢とも呼ぶ。安永4年(1775年)粉河鋳物師・蜂屋正勝の作。

左から本堂、盥漱盤、中門

重文・中門
天保3年(1832年)建立の三間一戸の楼門で四天王を祀る。

中門の扁額「風猛山」
扁額は紀州十代藩主徳川治宝の直筆。

中門の四天王像

中門から参道を振り返る

名勝・粉河寺庭園
桃山時代の枯山水観賞式蓬莱庭園。本堂の前庭と下の広場との約3mの高低差を処理する方法として石組を築いている。

庭園左端
石は雑賀崎の青石(緑泥片岩)を主とし、琴浦の紫石(紅簾片岩)、龍門石(蛇紋岩)など紀州の名石を使用している。

庭園中央付近から見た本堂
石組全体は左から右に向かって扱いが軽くなる。

本堂への石段左側の庭園
石も疎らになり間隙をビャクシン・ツツジ・蘇鉄で埋めている。

石段の右側の庭園

庭園越しに見る本堂
大門を過ぎ参道にならぶ堂を過ぎて更に中門を過ぎるとようやく本堂。西国札所最大級の大きさだそうです。
本尊は絶対秘仏でお前立が置かれていますが、それも秘仏。
秘仏は拝めませんが、本堂内で左甚五郎の虎、粉河寺縁起の模本は拝観できました。
何のためのお前立なのか。「お前たち、考えなさい!」という御仏の問いかけでしょうか?
山号は風猛山。駅の南には龍門山が聳えますが、これは山号とは別。寺の北側にある山の事を云うそうです。
これは本堂前に食事処を出している「あこ茶屋」の御主人から伺った話。作務衣を着て居られたので、
和辻「お寺の関係者ですか?」 と伺うと、
御主人「私は先代住職の友人で、その縁でここに店を出させて貰っています。」 との事。
御主人「店の東側を流れているのが粉河で、白い粉が流れて来たことが寺名の由来です。」
和辻「白い粉!何か危ない世界ですね。」
御主人「上流で磨き砂を採取していたらしいですが…。」
説の一つではあるでしょうが、ネットや説明書にも載っていなかった寺の由来の謎が解けました。
このような生き字引の方が居られるのは、大切な事。
・少しの事にも先達はあらまほしき事なり。
・ちちははの恵みも深きこかは寺
を身に染みて感じました。

名勝庭園の向こうに見える重文・本堂

本堂は中門の先、3m程高くなった敷地に建つ

本堂正面
創建以来、造営と改築を繰り返し現在のものは享保5年(1720年)の再建。欅材による建築で西国三十三ヵ所の中では最大の大きさを誇る。

斜前より見た本堂
本尊を安置する正堂と礼拝のための礼堂を前後に並べた形式で、外観は高さの違う入母屋屋根を前後に並べている。

本堂前面部分
入母屋造単層、本瓦葺で千鳥破風の前に唐破風造りの向拝を加えた複雑な構成。

礼堂部分
西国札所として参詣者のために礼堂部分が広くなっている。柱間は正面9間、側面4間で前2間は建具を設けない吹き放しとしている。

礼堂前の彫刻群

宝暦10年(1760年)建立の重文・千手堂
本堂左にある宝形造りの三間堂。本尊は秘仏の千手観音。

六角堂
西国三十三ヵ所の観音像を配している。

文化3年(1806年)再建の丈六堂
丈六(一丈六尺)の阿弥陀如来を安置している。

本堂前の湯浅櫻
紀州湯浅の藤原宗永が御本尊の千手観音のお告げにより本堂の巽(東南)に植えたもの。

本堂裏の大楠

中門を過ぎた場所にある若山牧水歌碑
粉河出身の早稲田大学の友人を訪れた際に詠んだもの。歌の「遍路」は四国のみに使われるため、牧水が知らなかったか、故意に使ったか学会でも議論が分かれるらしい。

本堂正面にある「あこ茶屋」にて昼食

店お勧めの「風猛そば」
ボリュームと紀州の柑橘系が特色?

粉河寺説明書
¥50 だが堂内拝観(¥400)すると無料で貰える。

粉河寺御朱印

粉河郵便局 ; 名勝・粉河寺庭園、ハッサク
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