<コース> 冬の青春18きっぷ
【往路】JR天王寺(6:45) → JR和歌山(7:49→8:06) → JR紀伊田辺(9:51)
観光案内所 → レンタサイクル → 高山寺

正南面山 高山寺(真言宗御室派)
冬の18きっぷ2回目は暖を求めて南紀へ。
吉野熊野国立公園の制定は戦前ですが、
近年高野山熊野が世界遺産になったため熊野詣の人が増えているようです。
紀伊田辺は和歌山からの普通電車の終点。
ここから新宮方面への普通は1日5本程度、特急を使わないと極めて不便です。
駅前から会津川を越え、紀勢線の線路を越えると目の前に小高い丘が。
ここはかつて縄文時代の貝塚があった場所ですが、
その丘の上にあるのが高山寺。飛鳥時代に遡る古刹です。
丘の麓に着くと山門は生憎修理中。
その下を潜り参道を上ると、開けた場所に堂宇が並びます。

紀勢本線の向こうに森があるのが高山寺
会津川に架かる切戸橋上からの眺め。

修復中の山門

山門の彫刻

山門を過ぎて石段を上る

階段を上り境内へ
正南面山高山寺(しょうなんめんざんこうざんじ)の由来は
『推古天皇の御世、牟婁の長者が飛鳥に出掛け聖徳(上宮)太子の教えに感動。
太子の御意を受けた長者は牟婁に戻ると
私財をもってここ南面山に御堂を建立し勧修問寺と名付けた。
御堂が完成した夜に長者は太子の愛馬「烏の駒」が
薬師如来と上宮太子の御像を運んで来る夢を見たが、
眼が覚めると薬師如来と太子の御像が目の前にあった。
驚いた長者は自らこの二像を御堂に祀ったという。
弘仁7年(816年)には弘法大師が熊野詣の途中、
この寺に立ち寄り密法を修し自らの像を彫って安置した。
これ以降、寺はこの辺りの文化の中心となり栄えた。
天正13年(1585年)の秀吉の紀州攻めで伽藍は灰燼に帰したが、
江戸時代になって高野山から空増上人が入山して復興、
江戸時代には寺名が興山寺、更に高山寺と名を変え現在に至っている。』とあります。

石段を上った左にある不動堂

高山寺のシンボル多宝塔と本堂

多宝塔正面
旅僧の悲願の末に文化13年完成。

多宝塔の裳階部分
扁額は聖徳太子所縁の「上宮閣」

大日如来を祀る本堂

本堂正面

本堂脇に佇む観音堂
聖徳太子が開基で、弘法大師が中興したというもの凄い話。
飛鳥時代から知られた牟婁の湯ですから歴史があるのは当然。
聖徳太子は伝説でしょうが、弘法大師の事績は高野山の記録にも残っているようです。
縄文時代の遺跡があるくらいですから、昔から人が居住した場所であるのは確実。
人々の信仰の拠り所だったと想像できます。
大日如来を祀る本堂の前には多宝塔が。
これは江戸中期の旅僧・阿涼は発願し托鉢行脚し、
彼の没後は後を継いだ僧侶に拠って漸く完成したというもの。
山内に多宝塔があるなら一層信仰が深まるという考えだったそうですが、
世代を越えて完成したのは売名行為ではなかったでしょう。
多宝塔以外にも本堂裏手には観音堂、大師堂、薬師堂が並び庭園となっています。
25年前には庭園にさえ気が付かずに通り過ぎたのは若気の至りではありました。

本堂裏手の諸堂

大師堂
言わずと知れた開祖弘法大師を祀る。

大師堂から池の上の弁天堂を見る

奥の薬師堂から弁天堂と池を望む

弁天池と日本庭園

庭園の紅葉は12月でも未だ見頃

一番奥にある薬師堂

日本庭園から見える弁天堂と本堂(左)

薬師堂と庫裏(右)

弁天池周辺の紅葉

高山寺由緒記

高山寺本尊御朱印(平成6年拝受)

高山寺観音様御朱印(今回拝受)
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【往路】JR大阪(6:51) → JR姫路(7:56→8:01) → JR岡山(9:29→9:31) → JR三原(11:09→11:30) → JR竹原(12:11)
竹原市観光案内所 → (レンタサイクル10分) → たけはら街並保存地区 → 西方寺 → 照蓮寺
【復路】JR竹原(14:06) → JR忠海(14:19→15:19) → JR三原(15:42→16:04) → JR倉敷(17:25→17:41) → JR姫路(19:25→19:26) → JR大阪(20:28)

龍頭山 照蓮寺(浄土真宗本願寺派)
西方寺参拝に続き、再び街並みに戻り北側へ。
両脇には重厚な造りの家が並びますが、一部はそれを生かした食事処にもなっています。
参道の入口にあるのが、お好み焼きの店。
家の造りとはギャップがあるようにも思いますが、広島県らしいとも言えます。
途中にある水色の建物は街並み唯一の洋風建築、いまは資料館になっています。
その横には竹鶴夫妻の銅像も。以前はなかったですが、これも朝ドラ効果でしょう。
近くには竹を使った工房もあり周囲には竹が植わっています。
竹原は名前の由来となった竹を町興しに使っているようで、竹の街路樹もありました。
後から植えたものと思っていましたが、観光案内所で伺った所、
元々、この辺りの裏山には竹が群生していたそうで、それが町の名の由来になったとか。
己の思い込みを反省しました。【しない】と竹は密接な繋がりがあるようです。

西方寺前から本町通南側を見る

参道前のお好み焼きの店
町家というよりも蔵を改装したものか?

歴史民俗資料館

資料館横にある竹鶴政孝・リタ夫妻像

まちなみ竹工房

本町通の北端から
町の外れの高台にあるのが、浄土真宗照蓮寺。
その手前にある井戸が酒造りの水に使用されているとありました。
龍頭山照蓮寺(りゅうとうざんしょうれんじ)は、
『古くは定林寺と称した曹洞宗寺院。
竹原小早川氏代々の子弟の学問所でその帰依も篤かった。
1603年に宗具が入山し浄土真宗となり江戸時代には
頼三兄弟(春水、春風、杏坪)もここで学んだ。境内には頼惟清夫妻、春風の墓もある。
重文である梵鐘は峻豊4年(963年)の銘が残る日本で三番目に古い高麗鐘で
小早川氏が中国貿易により寄進したとされる。』 とあります。

階段の先に建つ楼門

楼門の「龍頭山」の扁額

楼門下から街並み保存地区を見る

本堂正面

本堂前面の「照蓮寺」の扁額

本堂と宗祖の銅像

庫裏へ続く廊下

本堂に吊るされた鐘
重文の高麗鐘はこれではない?

南側の門
街並み散策ではこちらから入る事が多い。

酒造用井戸
南側門の階段下にあるが、現在は使われていない。
寺の前の街並みに今もあるのが、頼惟清(これすが)旧宅。
紺屋を営んだ頼兼屋の長男でしたが学問にも打ち込み、
子供の春水、春風、杏坪(きょうへい)も学問・詩文・書で名を挙げ「三頼」と称されました。
春水の子が山陽です。歴史では山陽とその子の三樹三郎が有名ですが、
ここに至るまでは四代に亘る流れがあった事になります。
学問自体は直接金儲けには繋がらないので、
学問に打ち込めるだけの経済的余裕があったか、
町全体でバックアップしたかのいずれか。
「金を使うのは稼ぐよりも4倍難しい。」とは松下幸之助の言葉だったと記憶していますが、
教育格差が言われる今、江戸期の教育を今一度振り返るのも必要ではないでしょうか?

本町通の端にある頼惟清旧宅
江戸時代後期、頼山陽の祖父・惟清が紺屋を営んでいた町家。紺屋用・家事用・書道用の三井戸がある。

旧宅の説明

旧宅脇に建つ胡堂(えびすどう)
地元の方の話では、商売繁盛を願って建てられたそう。広島出身の大林宣彦監督の『時をかける少女』(1983年)の舞台となった。

横から見た胡堂
屋根の長さが前後で大きく違うのが珍しい。

中ノ小路にある光本邸

板屋小路
緩く湾曲した路の両側に、漆喰で塗籠めた中二階、平入の町家が競い合うように並ぶ。

頼山陽銅像
本川に架かる新港橋の傍らにある。

本川岸にある雁木
かつての塩の積出に関わった跡。

竹原市マンホール その1
これは道の駅に展示しているもの。

竹原市マンホールカード その2
「たまゆら」タイプで、駅前商店街に設置のもの。

竹原市マンホールカード 配布場所は竹原市観光協会・道の駅たけはら

忠海郵便局 ; 大久野島、スナメリ
竹原郵便局 ; 頼惟清住宅、町のシンボル竹
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竹原市観光案内所 → (レンタサイクル10分) → たけはら街並保存地区 → 西方寺

引接山 西方寺(浄土宗)
冬の18きっぷの初日は頼山陽ゆかりの山陽路へ。
今まで大阪から日帰りの最西端は広島県。今日はその再現となりました。
竹原は三原から呉線で30分。平安時代には下鴨神社の荘園。
中世には竹原小早川氏の拠点となり、江戸時代には備後最大規模の塩田経営で栄えました。
本川沿いの東の上市・下市には今でも漆喰海鼠壁の古い町並みが残り安芸の小京都と呼ばれます。
竹原に入浜式塩田が出来たのは慶安3年(1650年)、赤穂の技術が導入されました。
その後の発展は目覚ましく、50年後の元禄12年(1699年)には25万俵を生産。
全国各地に送られました。その繁栄が竹原の町を造った訳ですが、
今に残る家は塩田経営から業種転換したものが多いようです。
本町通に面した竹鶴酒造もその一つ。
塩業から享保18年に酒造業に転じ「小笹屋」の屋号で知られます。
ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝の生家でもありました。
27年前には観光客も疎らでしたが今は結構な人出。
NHKの朝の連続ドラマの影響でしょうか?

JR呉線竹原駅舎
町のシンボル竹をイメージしたデザイン。

鳥羽町通りから左の本町通へ
右は旧笠井邸。

本町通の東にある竹鶴酒造
江戸中期に「小笹屋」の屋号で塩造りを行ったが、享保18年(1733年)に酒造業にも進出。現在に至るまで現役だが、工場見学はしていない。

本町通西側の松阪邸
唐破風の流れるような屋根と菱格子の塗り込め窓が特徴の商家。

町家を利用したカフェ

同じく町家を利用した宿泊所
1日1組限定というパターンか?屋根の向こうには普明閣の屋根も見える。

本町通りを南に向いた光景

旧郵便局の上吉井邸
右の坂を上ると西方寺へ。
街並み保存地区の半ばを山に向かうと西方寺。
引接山西方寺(いんしょうざんさいほうじ)は
『元々、東側の田中町にあった禅宗寺院であるが、慶長15年(1610年)の大火で焼失。
現在の場所へ移り浄土宗に改宗。本堂は元禄15年(1702年)に再建された。
本堂横を上っていくと高台に建つのが西方寺観音堂、一般には普明閣の名で知られる。
小早川隆景の創建で京都の清水を模したとされる舞台造りだが、
現在の建物は宝暦8年(1758年)の建築。
また本尊は平重盛の念持仏だったと伝わる十一面観音であるが
現在は普明閣ではなく収蔵庫に保管されている。』 とあります。

階段の先に山門が見える

西方寺は高台に建つので遠くからは城塞のような造りに見える

山門から街並みを見下ろす

山門近影

本堂正面

本堂前面の「西方寺」の扁額

本堂の欄間彫刻

本堂から山門方面を見返る

境内から竹原の古い町並みを一望

十一面観音像を納める守護堂(右)と庫裏の間を抜けて普明閣へ
街並み保存地区から直ぐの場所にあり、ここからは街並みが見渡せ、
また街並みからは寺が見えるという位密接な関係のある寺院ですが、
創建時と現在の間には【不明確】な点もあるようです。
四半世紀前に訪れた時には普明閣から街並みを見ましたが、
今回は修理中のため登楼できず仕舞い。
来年を目途に完成するようですので、それ以降に再訪する必要がありそうです。
尤も昔と違って高台に上って【マッサン】にならないとも限りませんが…。

京都の清水を模したとされる普明閣

本来ならば、この舞台から街並みが見渡せる

正面から見た普明閣

普明閣の扁額


北方面を見た所

登楼は修復中のため禁止

裏手の墓地から見た普明閣の屋根

普明閣へと続く廻廊

高台からの境内と街並み

西方寺御朱印(平成5年拝受)
今回、本堂前に3種の書置き御朱印があったが、このタイプはなかった。

今回、拝受した御朱印
日付は自身で押す。
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紫雲山 金戒光明寺(浄土宗)
真如堂の山門を出て左に進むとすぐに金戒光明寺の境内に。
学生時代の下宿から一番近い有名寺院だったので、
訪れたり通り過ぎたことは間々ありましたが、
【今回、紅葉時】は初めて。お蔭でじっくり拝観できました。

高麗門
真如堂からだと北門から入山するが通常は西にあるここが正門。

高麗門脇の石標
幕末に京都守護職会津藩の本陣となった。

参道から見上げた山門

万延元年(1860年)再建の山門
初めの門は先の戦(応仁の乱)で焼失した。この日は特別拝観なので楼上に上る人が多かった。

山門にある後小松天皇宸筆の「浄土真宗最初門」の勅額
「浄土の真なる宗」の意味で親鸞の浄土真宗とは関係ない。

山門下から境内を望む
良く時代劇のロケに使われる。

境内から見た山門

境内へと続く石段
紫雲山金戒光明寺(しうんざんこんかいこうみょうじ)は、
『法然上人43歳の承安5年(1175年)、比叡山の修行を終えてこの地で念仏をされた時に、
紫雲全山にたなびき、光明が辺りを照らした事から最初の念仏道場を開いた場所。
当初は法然の縁起によって紫雲山光明寺と呼ばれたが、
後に後光厳天皇に戒を授けた事から金戒の二字を賜り金戒光明寺となった。』 とあります。
山号寺号は説明できますが、黒谷とは何か?法然が比叡山を出たのが黒谷の地で、
庵を結んだこの場所も黒谷の所領だった事がその由来だそうです。
谷という名前ですが寺院の建つ場所は小高い丘。江戸時代には城郭構造を取っていたようで、
現代でも山門から御影堂へ至る間は時代劇ロケに使用されています。
幕末京都守護職となった会津藩が本陣を置いたのもそのような地形が好まれたのでしょう。
いまも境内に会津藩士の墓があります。

昭和19年再建の御影堂(大殿)
内陣正面には開祖法然上人の75歳の御影(坐像)を安置している。

御影堂
浄土宗では本堂よりも御影堂の方が大きい事が多いとか。

昭和19年再建の大方丈
通常はこのように外部のみだが、この日は内部まで拝観できた。

本堂脇の熊谷直実鎧掛けの松
これは2014年に植えられた三代目。

大方丈の前庭

大方丈廊下より開かずの門を見る
紅葉で有名な寺院ですが真如堂と同様に境内の紅葉は拝観無料。
唯、山門への登楼と本堂、方丈、方丈庭園のみが特別拝観。
¥800で本堂以下を拝観しましたが、圧巻は方丈庭園。
開祖法然上人の生涯を枯山水で表現した紫雲の庭と呼ばれますが、
幼少時代・修業時代・浄土宗興隆時代の三つに分けて構成されていました。
一見したところ普通の庭園と見てしまいますが、そこが【こうみょう】たる所以でしょうか?
拝観内容が馬の耳に念仏となったかどうかは定かではありませんが…。

大方丈の東に広がる「紫雲の庭」
法然上人の生涯と浄土宗の広がりを枯山水で表現したもの。

紫雲の庭の右側
法然上人の美作での幼年時代を表現。

紫雲の庭の左側
比叡山延暦寺の修業時代(左の石組)と金戒光明寺での浄土開宗(右の石組)を表現。

方丈北園の池と紅葉

池の北側から大方丈を望む

北庭にある竹林

庭園を巡りを終え大方丈へ

拝観出口にある清和殿と新清和殿
御朱印と土産は右の新清和殿にて。

阿弥陀堂
慶長10年(1605年)豊臣秀頼に拠り再建された山内で最も古い建造物。

阿弥陀堂の後ろを通り墓所へ向かう

蓮池に架かる極楽橋から山門を見る

重文・三重塔
徳川秀忠公の菩提を弔うために寛永10年(1633年)に建立。近年まで文殊菩薩を安置していたので文殊塔とも呼ばれる。

金戒光明寺説明書

金戒光明寺御朱印 その1
本尊阿弥陀如来

金戒光明寺御朱印 その2
浄土真宗最初門
[参考書]
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【織田信長・豊臣秀吉・黒田官兵衛ゆかりの京都を紹介】戦国時代の京都史跡を歩く13コース 新品価格 | ![]() |

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鈴聲山 真正極楽寺(天台宗)
白川通から今出川通を越えて真如堂へ。洛東というよりも京都屈指の紅葉の名所。
以前は紅葉とは無関係な季節に訪れたので、今回は紅葉を見るべく参拝。
北門から入りましたが、改めて総門へ回ると三重塔へと至る参道や本堂裏手は紅葉づくし。
赤いライトを浴びたような感じでした。加えて総門も朱色で通称赤門。
吉田神社の神様が夜にお参りに来る際に躓かないように敷居がないそうです。
東大に赤門があるのは知っていましたが、兄弟の近くにも赤門があるとは初耳でした。
尤もこちらは敷居が高そうですが…。
入口から総門を過ぎ、三重塔を右手に見て進むと正面が本堂。
移転を繰り返したためか、建物に国宝はなく本堂のみが重文でした。
この間、参道には紅葉が彩を添え、本堂裏手まで続いていました。
紅葉の名所ながら境内の紅葉拝観は全て無料。京都市内の寺院では珍しい例に思えます。
この日は特別拝観で本堂内と渡り廊下で繋がった書院と庭の拝観が可能。
¥1000は高額でしたが、年一回の事でもあり【後学】の為に拝観しました。

寺標と総門
元禄8年(1695年)完成。

総門近影
正面に本堂が見える。

総門前の楓

本堂へと続く参道の両脇も紅葉

石段横の青銅の灯篭

真如堂由緒

参道右の脇道

脇道は紅葉のトンネルと苔と紅葉の絨毯

脇道を上るにつれて紅葉から銀杏へ移り変わる

脇道の上からの眺め

銀杏越しに見る三重塔

参道上から総門を振り返る

文化14年(1817年)再建の三重塔
多宝塔を祀った本瓦葺で高さ40m。写真のスポットでもある。


享保2年(1717年)再建の重文・本堂
七間三面の総欅、本瓦葺の入母屋造。

本堂前面の「真如堂」の扁額

本堂前面の造り
鈴聲山真正極楽寺(れいしょうざんしんしょうごくらくじ)は、
『永観2年(984年)、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を、
この近くにあった一条天皇生母・東三条院の寝殿に安置したのが始まり。
戒算(かいさん)上人を【開山】とする。その後、一条天皇の勅願寺となり
不断念仏の道場として【普段】から女人の深い帰依を受けた。
しかし応仁文明の内乱で堂宇は焼失。本尊は比叡山、穴太と遷座した。
その後、日野富子の帰依を受け旧地に戻るが、室町、西洞院、今出川と
移転&焼失を繰り返し、元禄6年(1693年)になって漸く現在の地に落ち着いた。』 とあります。
本尊を勝手に持ってきたらアカンやろうと思いますが、
そこには謂れがあって、戒算上人と東三条院の夢枕に立った老僧のお告げに拠るとか。
その際に、「都に下って、総ての人々、特に女性を御救い下さい。」と願うと、
阿弥陀様が三度頷いたので「頷きの阿弥陀」と呼ばれるようになったと言います。
「仏の顔も三度まで」の諺は無関係のようですが…。
恐らく、天皇の御生母のために比叡山から本尊を移設しようとした際の理由付け。
御生母か天皇か、いずれの望みかは分かりませんが
叡山としても朝廷の意向は無視できなかったものと思えます。

本堂廊下を巡り渡り廊下を通って書院へ

本堂裏手の紅葉の林

地面は紅葉の絨毯

紅葉の向こうに見える薬師堂
書院の間には四条派の絵画が描かれえていましたが、
珍しいのは「涅槃の庭」と「隨縁の庭」。前者は大文字山を背景に、
釈迦が入寂されその周りを弟子が囲んで悲しんでいる様子を石で再現したもの。
後者は、幾何学的な文様の小さな庭。なんでもここは三井家の菩提寺だそうで、
三井家家紋の「四つ目紋」に因んだデザインだそう。勿論、大檀家に違いなく、
寺が気を効かせたというよりも三井家が全面的に費用を負担したのでしょう。
平安時代も、現在も財産に余裕のある人はこの世に極楽を再現したいと思うのでしょう。
お釈迦様がそれを【れいしょう】するかどうかは分かりませんが…。

書院を拝観して「涅槃の庭」へ

涅槃の庭
1988年、曽根三郎氏による作庭。後ろの大文字山を借景とし、北(向かって左)を頭にしたお釈迦様が入寂し、周囲を弟子たちが囲んで嘆き悲しんでいる様子を表したもの。

「涅槃の庭」右側

燈明寺石灯籠
鎌倉時代に山城の国燈明寺に伝わり、三井家を経て当寺に寄進された。

隨縁の庭
2010年、重森三玲氏の孫・千青氏によって作庭された。

庭は三井家家紋「四ツ目」に因んでデザインされた

庭の背後の仏殿の蟇股に付けられた三井家家紋

書院の中庭

中庭には特別名前が付けられていないが、茶室を控えて優美な造りである

朱と黄色の実が映える

本堂裏手の階段
但し、ここからは入れない。

本堂の廻廊から見た紅葉の林
見頃も過ぎて樹木よりも地面の紅葉の方が多い。

紅葉のトンネル

本堂を回って出口へ

本堂より三重塔を見る

本堂裏手に進む

裏手から本堂を見る

真如堂説明書

真如堂御朱印(平成9年拝受)
墨書も印も流麗だが、右上の印が逆になってしまったのが残念。

真如堂御朱印
今回は上下の向きは問題なし。
[参考書]
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佛日山 金福寺(臨済宗南禅寺派)
北山別院の後は、案内板に従って細い道を行く事5分。
以前にこの辺りを巡礼した際には見過ごしてしまいましたが、
今回は無事に行き着くことができました。
佛日山金福寺(ぶつにちざんこんぷくじ)は、
『貞観6年(864年)、安恵僧都が慈覚大師・円仁の遺志により創建。
大師自作の観音像を本尊として安置した。始めは天台宗寺院であったが一時荒廃。
江戸中期に圓光寺の沢雲長老の法嗣・鉄舟和尚が再興し、
臨済宗南禅寺派となり今日に至っている。』 とあります。

金福寺入口

寺標と山門

山門屋根の紅葉

山門正面の庫裏
ここで御朱印を拝受する。

由来書

受付後、中門をくぐる
古刹であり借景を取り入れた庭園は見応えはありますが、
境内はそれ程広くはありません。
それでも有名な観光寺院になっているのは二つの理由があります。
一つは俳句の聖地として。
再興した鉄舟和尚と親交のあった松尾芭蕉が、京都を訪れた際に
本堂裏の草庵で俳諧を語ったと言われ後世に芭蕉庵と呼ばれました。
その後、庵は荒廃しますが芭蕉を敬愛する与謝蕪村とその一門が安永5年(1776年)に再興。
蕪村は42歳以降68歳で亡くなるまで京都に居住したので、
京都俳諧に与えた影響は大だったと思えます。境内には句碑や蕪村の墓もあり、
芭蕉と蕪村の所縁の寺ということで俳句の聖地となりました。

中門を振り返る

中門脇の満天星

庭園越しに見る本堂

本堂内にある蕪村が描いた芭蕉翁の画
芭蕉が描いた蕪村の画ならば途轍もない宝物になるが…。

本堂拝観後は庭園を見ながら石段を上る

石段途中の庭園

石段上部の庭園
向こうに見えるのが芭蕉庵

石段上から見た道を振り返る

蕪村が再興した芭蕉庵

芭蕉庵内部
利休作の待庵に似た三畳台目の茶室である。

芭蕉庵由来

庵を過ぎ山手へ

高台にある蕪村の墓

芭蕉句碑
・憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥

こちらは蕪村の句碑
今一つは、幕末の村山たか女。
多賀大社の寺坊の娘として生まれた彼女は祇園の芸妓を経て
彦根藩主井伊直弼の側近となり、長野主膳と共に直弼の「安政の大獄」に協力しました。
そのため勤王方からの恨みを買い、桜田門外の変の後は捕らえられ
京都三条河原で生晒にされました。しかし三日後に助けられ、
たか女は文久2年尼として金福寺に入り、明治9年に67歳の生涯を終えたと伝わります。
歴史の教科書には登場しませんが舟橋聖一『花の生涯』、
諸田玲子『奸婦にあらず』のヒロインとして登場。
舟橋作品では稀代の悪女として、諸田作品では反悪女として
全く逆の面で描かれているのもミステリアスです。
『花の生涯』は第一回NHK大河ドラマだった事もあり
悪女の印象が未だに付き纏いますが、今後は復権しそうな気もします。
『花の生涯』は井伊直弼が主人公ですが、脇役であったたか女が『花の生涯』を送ったとも言えそうです。

本堂内にある、村山たか女の関連資料
掛け軸は長野主膳の肖像画。

山門脇のたか女創建の弁天堂

弁天堂由緒

金福寺説明書

金福寺御朱印
[参考書]
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
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京阪淀屋橋 → (京阪電鉄) → 出町柳 → (叡山電鉄) → 一乗寺 → 徒歩8分 → 詩仙堂 → 徒歩5分 → 北山別院

聖水山 北山別院(浄土真宗本願寺派)
詩仙堂拝観の後、南側の寺に向かって歩いていると大きな山門の手前に見事な紅葉が。
当初予定にはありませんでしたが、そのまま通り過ぎるのは惜しいので寄り道参拝。
聖水山北山別院(しょうすいざんきたやまべついん)は
『元々は養源庵と称した天台宗寺院であったが、
門信徒の力によって延宝6年(1678年)本願寺に属し北山養源寺と称した。
延宝8年には本山別院となり、天和3年(1683年)には木仏御本尊、
親鸞・蓮如上人の御影を安置して別院の体裁が整った。
ところが享保17年(1732年)、山科別院の興隆支援のため本堂は山科に移動。
当地には小庵を残すのみになった。
その後、明和2年(1765年)に再興が図られるが、安永2年(1773年)に全焼。
文政5年(1822年)に本堂が再建された。幕末の安政年間から
庫裏・鐘楼の移設が始まり明治4年に堂宇全体が整備された。
その後も大正・昭和にかけて改装・新築を経て今に至っている。』 とあります。

階段横の見事な紅葉

山門へ到着
左側は保育園。

山門近影

山門の向こうには本堂が

門扉にある下り藤の紋

山門からの眺め

本堂
寺の由来は古いですが真宗に改宗したのは江戸以降。
歴史的には古いとは言えません。しかしこの地と親鸞聖人には深い縁があります。
比叡山で修行した上人は、29歳の時、万人の救われる道を求め
聖徳太子の創建された六角堂に百日間参籠。
そこで示現を得た上人は東山吉水の法然上人の弟子となり他力本願の教えを受けます。
参籠に先立ち清水が湧出していた北山の地で喉を潤し、
御身体を拭い休息したとされるのが境内奥にある「御聖水」。
これが別院の山号にもなっています。また聖徳太子が童の姿となって
親鸞を励ましたという伝承が清水の脇の「影向石(ようごうせき)」として残っています。
聖徳太子の伝承は兎も角、日野に生まれ叡山に上った親鸞聖人の伝説は信憑性が高いと思われます。
観光客が訪れる寺院ではありませんが、その奥には様々な歴史の【盛衰】が重層しているようです。

本堂にある「聖水山」の扁額

本堂前から山門を見る

鐘楼

保育園の脇の道を通った先にある御聖水と影向石

御聖水説明

今でも水が湧き出ている

上宮太子(聖徳太子)影向石

北山別院説明書
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京阪淀屋橋 → (京阪電鉄) → 出町柳 → (叡山電鉄) → 一乗寺 → 徒歩8分 → 詩仙堂

六六山 詩仙堂 丈山寺 凹凸窠(曹洞宗)
この日は夕方、京都市内で会合があるので、
少し早めに出て叡山電鉄一乗寺駅で下車して北白川付近を散策。
古くは宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場所、最近はラーメン街道で知られますが、
この付近は寺社が多い事でも有名です。
詩仙堂は江戸初期の文人・石川丈山の山荘跡。
文人らしい家屋と庭園が有名な観光名所ですが、
正式には永平寺の末寺の曹洞宗の寺院です。
詩仙堂と書かれた石標の後ろにある竹の小さな門を潜り、
樹木に囲まれた石畳を進むと小さな茅葺の門の向こうに
楼を持った三階建ての家屋が出迎えます。

京福電鉄一乗寺駅の改札を出ると直ぐにこの石標が

途中にある「一乗寺下り松」の跡

詩仙堂入口へ到着

小有洞の門
入口に建つ竹で出来た門。「文人は竹を友とす」に拠るのか?

参道から小有洞を見返る

この石段を上ると山荘に

参道を上り詰めた場所に建つ「老梅関の門」

玄関前の庭

玄関から見上げた嘯月楼
詩仙堂は正式名・六六山詩仙堂丈山寺凹凸窠(ろくろくざんしせんどうじょうざんじおうとつか)、由緒に拠ると
『石川丈山は父祖代々徳川譜代の家臣で、松平正綱、本田忠勝は親族に当たる。
自身も十六歳で家康に仕えた。三十三歳の時、
大坂夏の陣で先登の功名を立てたが、それを家康に叱責されたため出奔。
京都にて藤原惺窩に朱子学を学び、広島の浅野家に十数年出仕。
五十四歳の時に母が亡くなったのを機に京都に戻り、
寛永18年(1641年)五十四歳の時に詩仙堂を造営し、
九十歳で没するまでの三十余年、文人として隠棲生活を送った。
近世における隷書、漢詩の大家として知られ、煎茶道の開祖でもある。
邸内には「嘯月楼」という家屋があり、そこの一室に中国の詩人三十六人の
肖像を狩野探幽が描き、漢詩を丈山自身が書き四方の壁に掲げた。
これが詩仙堂の名の由来であり、建屋や庭園が山の斜面の
凸凹した場所に建てられたため凹凸窠と呼ばれた。』とあります。

嘯月楼の1階から見た庭園(右側)

嘯月楼の1階から見た庭園(左側)

詩仙の間の前庭

読書室であった「至楽巣(猟芸巣)」と前庭

庭園から山荘を見る

庭への降り口にある杉苔と紅葉

左から嘯月楼、詩仙の間、至楽巣

堂上の楼の近影

紅葉の向こうに見える山荘屋根

嘯月楼の前庭

前庭から下の庭に向かう
徳川譜代の臣が一度叱責された位で武士を捨てて隠棲するとは
信じがたい気もしますが、本人は【じょうだん】ではなかったのでしょう。
「先駆けをするような猛者は平時の能吏には向かない。」
大坂の陣で戦国の世の終焉を見届けた丈山は
己の役目は終わったと【脳裏】に悟ったのかもしれません。
大名屋敷には及びませんが、隠棲するには贅沢な環境。
波乱万丈の凸凹人生を送り死線を潜り抜けた武将の
終焉の地が【詩仙】堂というのも因縁を感じます。

石垣に繁茂する羊歯類

下の庭に百花を配したという「百花塢(ひゃっかのう)」

百花塢の前の池と残月軒

残月軒近影
茶室の扱いか?

残月軒横の藤棚と紅葉


更に下って坐禅堂へ

途中は苔の絨毯

坐禅堂である「十方明峰閣」

庭の最も奥まった場所から

山茶花

洗蒙瀑
庭に下り蒙昧を洗い去る滝の意味。

一般には鹿威しと呼ばれる添水・僧都(そうづ)
山荘内の静寂の中で唯一大きく響く音で、丈山も好んだと言われる。

至楽巣の脇の井戸「膏肓(こうこう)泉」
丈山自身が「病膏肓に入る」からか?

詩仙堂説明書

詩仙堂御朱印

京都一乗寺郵便局 ; 詩仙堂嘯月楼、決闘の地・一乗寺下り松の碑 (2003年以前)
京都一乗寺郵便局 ; 詩仙堂、宮本武蔵と吉岡一門決闘の地・一乗寺下り松、宮本武蔵像
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週刊 日本庭園をゆく19 曼殊院 円通寺 詩仙堂 京都洛北の名庭 (小学館ウィークリーブック) 中古価格 | ![]() |

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阪急梅田 → 桂 → 上桂 → 徒歩10分 → 浄住寺 → 徒歩5分 → 地蔵院 → 徒歩10分 → 月読神社 → 徒歩5分 → 松尾大社 → 松尾大社駅 → 桂 → 阪急梅田

松尾大社(旧官幣大社)
桂巡礼の最後は松尾大社。この日は月読神社から北に歩きましたが、
阪急松尾大社駅の西側には大鳥居が建ち、百m余り歩くと二の鳥居。
如何にも門前の駅という雰囲気です。

阪急の駅からは大鳥居が見える

大鳥居を過ぎた先に二の鳥居が見える

二の鳥居正面

鳥居には脇勧請が掛けられている

脇勧請の説明
松尾大社(まつのおたいしゃ)の由緒に拠れば
『太古の昔、この地域の住民が松尾山の磐座に神霊を祀って生活守護神としたのが起源。
その後、五世紀になると朝鮮半島から渡来した秦氏がこの地に移住し、
山城・丹波を開拓。河川を治めて農林産業を興した。
同時に松尾の神を氏族の神とし、大宝元年(701年)に社殿を現在地に移した。
以後、皇室の崇敬も篤く正一位を授けられ、山城屈指の古社と格式を誇る。』 とあります。
二の鳥居を潜ると楼門に続き広い境内に拝殿、中門と廻廊に囲まれた本殿が鎮座しています。
下鴨大社と並ぶ古社ですが、一般には酒の神様として知られています。
伏見ならいざ知らず、桂で酒とは意外でしたが、西山一帯は古来より良質の水に恵まれた場所。
ウィスキー・ビール工場もあることをすっかり失念していました。
境内には松風苑という庭が三つあり、昭和の庭園学の第一人者重森三玲氏の最晩年の作。
上古の庭、曲水の庭、蓬莱の庭と時代の沿った動と静を表現しています。

寛文7年(1667年)建造の楼門
三間一戸入母屋造、檜皮葺である。

境内から振り返った楼門

楼門の先にある入母屋造の拝殿

拝殿側面
大祓式等の神事で使用される。

拝殿の奥にある中門と本殿

中門近影
脇には清酒の樽が奉納されている。

中門横の社務所から庭園に入る

平安風の曲水の庭
御手洗川の清水が七曲りして丘麓を流れる。

高見から見た曲水の庭

神像館(宝物殿)前の即興の庭

磐座風の上古の庭
松尾山中の神蹟に因み山下に造られた。地面のミヤコザサは高山の趣を表す。岩石は四国吉野川の緑泥片岩。

本殿裏の山道
かつての磐座に至る道だが、現在は通行止め。

御手洗川上流の霊亀の滝
左の岩は烏天狗に見える。
秦氏は大陸の進んだ技術をもたらしましが酒の製法もその一つ。
本殿横の庭園の奥に「亀の井」という霊泉が。
延命長寿、よみがえりの水として醸造の際にこの水を加えると酒が腐らないといわれ
酒造業者の信仰を集めています。これが酒の神様の由緒でしょう。
秦氏は長岡京・平安京遷都に当たっては技術に加え、その経済力でも貢献したと言われます。
秦氏の【はたし】た役割は大きく、彼等なかりせば【はたし】て遷都が上手く運んだかどうか?

滝の下にある「亀の井」の霊泉

庭園入口の亀と鯉

拝殿前の一ノ井川
両岸には山吹が咲き誇る。

鎌倉風の蓬莱の庭
古典の手法の石組

蓬莱の庭
現代の手法の池

蓬莱の庭
三玲が形を指示し、長男の完途が完成させた。

酒の神社らしく樽占いが…。
あ【たる】かしらん?

楼門左の「酒の資料館」 無料

松尾大社説明書

松尾大社御朱印
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阪急梅田 → 桂 → 上桂 → 徒歩10分 → 浄住寺 → 徒歩5分 → 地蔵院 → 徒歩10分 → 月読神社

月読神社(式内社 松尾大社境外摂社)
朝から寺院の参拝が続きましたが、今度は神社。
地蔵院から北へ500m程ですが、道が曲がっていたので10分掛かりました。
月読神社(つきよみじんじゃ)は、由緒に拠れば
『顕宗天皇3年(487年)、任那への使者に月神からの神託があり、
この地に社を賜ったのが始まり。祭神はイザナミから生まれた
月読尊、天照大神や素戔嗚尊の兄弟に当たる。
当初は桂川左岸にあったとされるが、斉衡3年(856年)にここ松尾山麓に遷座。
同時に祠官の名も松室に改めた。
鎮座以来皇室の崇敬を受け、貞観元年(859年)には正二位、
延喜6年(906年)には正一位に叙せられた。
京都では最も古い歴史と格式を持った神社である。』 とあります。

地蔵院から西芳寺川を渡り月読へ

神社入口へ到着

鳥居を過ぎ石段を上る

石段脇の紅葉

神門

由緒記
但し月読神社は壱岐が本社で上記の内容は壱岐氏の由緒、
山城には分社が勧進されたと言われます。
壱岐県主は中国から亀卜の技術を伝え中央に伝播した一族で、
神祇官にあって卜占に関与していたとされます。
壱岐は大陸からの文明が伝わる要衝にあったので
その重要性から畿内に分社されたのでしょう。
そうならば都のあった大和に祀られる筈ですが、
山城という事はここを本拠にした秦氏が与ったと思われます。
御祭神の月読尊は天照大神、素戔嗚尊の兄弟ですが知名度は今一つ。
本来の神は大和の神とは別系統の大陸由来の神でしたが、
後に大和と結び付けるために月読尊を持って来たと考えても
【月読】ならぬ深読みにはならないでしょうが…。

入母屋造、銅板葺の拝殿

流造、檜皮葺の本殿

本殿右の聖徳太子社と月延石
背後の山はかつての磐座か?

安産の神として信仰されている月延石

天鳥舟命を祀る御船社

願掛け陰陽石

解穢の水で清める

月読神社由緒記

月読神社御朱印
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阪急梅田 → 桂 → 上桂 → 徒歩10分 → 浄住寺 → 徒歩5分 → 地蔵院

衣笠山 地蔵院(臨済宗系単立寺院)
浄住寺に続いて少し北に向かうと地蔵院。
竹の寺で知られますが、紅葉の季節は境内も真っ赤に彩られます。
この日は南から北上しましたが、通常は苔寺バス停で下車して
坂を上って南下するのが正統派。こちらの方が雰囲気はありますが、
北上して住宅地にいきなり紅葉が現れるのもまた一興です。

苔寺バス停から南へ向かう道

上り坂の向かいにある「かぐや姫御殿」
西山は竹で有名なのでこのような施設も。但し、閉館している様子。

途中の道から見た洛西

住宅地の中にある地蔵院
竹で有名だが境内には紅葉も多い。

地蔵院由緒

中門近影
拝観はここから。

中門から入口を見返る

中門を過ぎて本堂へ向かう参道

参道脇の竹林
衣笠山地蔵院(きぬがさやまじぞういん)は、
『この地は鎌倉時代の歌人で衣笠内大臣藤原家良が山荘を営んだ場所。
南北朝時代の貞治6年(1367年)、室町管領細川頼之が宗鏡禅師を招聘して伽藍を建立。
但し、開山は宗鏡の恩師夢窓疎石とし、伝教大師作と伝わる地蔵菩薩を本尊としている。
その後、北朝系の三天皇崇光・後光厳・後円融の勅願寺に準じた一大禅刹となったが、
応仁・文明の乱で悉く焼失。しかし、皇室と細川家の援助によって復興し、
明治になり竜済・延慶の両寺を合併し現在に至っている。』 とあります。
南北朝時代は一休禅師がこの付近で生まれ、
6歳で安国寺に移るまでこの寺で養育されたと伝わります。
子供の性格は幼少期に形成されると言いますから、
ここでの生活が彼の一生を決めたとも言えます。

正面から見た本堂(地蔵堂)
本尊の地蔵菩薩を中央に、夢窓疎石・宗鏡禅師・細川頼之の木像を安置する。

地蔵院近影

本堂南にある墓に向かう

細川頼之・宗鏡禅師の墓
自然石を用いた簡素な造りである。

お墓の横にある一休禅師母子像
2017年の建立。一休さんは生誕から6歳までここで過ごしたと伝わる。

細川頼之公の碑

本堂周辺の景色



本堂前を通り方丈へ

方丈遠景

方丈玄関より入口を見る
両側は苔の参道。
境内に残る方丈は貞享3年(1686年)の再建ですが、
庭園は十六羅漢の庭と呼ばれる平庭式枯山水庭園。
宗鏡禅師が作庭し、細川頼之が遺愛したと伝わります。
応仁の乱の一方の旗頭は細川勝元。
己の関わった戦で寺が焼けた事による罪悪感があったかどうかは不明ですが、
先に訪れた浄住寺もそうですが、地蔵院もよい檀家に恵まれたと言えます。
方丈内には細川ガラシャの肖像画、元首相の細川護熙氏の書画も展示されており、
細川家所縁の寺という印象が伺えます。
細川家は足利支流、一門の中の家格は際立って高い訳ではありませんでしたが、
戦国乱世及び江戸時代を大名として生き残った事で存在がクローズアップされたと言えます。

方丈の内部

細川ガラシャ殉節之経
幸野義画伯の奉納とある。

細川護熙 元首相の書と滝の図
洞庭湖に注ぐ川の源流の瀧を想像して描いたものである。

茶室全景
左は御朱印タイプの写真撮影か?

猪目文様を象った窓のある茶室
日本古来の文様だが、ハート型のため近年人気がある。

肥後細川家の九曜

縁側より庭園を見る

十六羅漢の庭 説明板

十六羅漢の庭 左側

十六羅漢の庭 中央

十六羅漢の庭 右側

十六羅漢の庭 玄関からの光景

地蔵院説明書

地蔵院御朱印
書かれたものを拝受。
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葉室山 浄住寺(黄檗宗)
北摂に続いて洛西に紅葉狩りへ。阪急京都線に乗り、桂で嵐山線に乗換え。
終点の嵐山は年中観光客でごったがえしていますが、
手前の上桂、松尾大社はぐっと人が減ります。その上桂で下車。
昔は桂離宮、最近は洛西ニュータウンと関西では閑静な住宅街。
その中を東に抜けて特別拝観の浄住寺へ。
観光ガイドにも載っていない穴場ですが、それもその筈、通常は非公開。
2015年以降、茶道や坐禅の体験と共に特別拝観が行われ、
紅葉の参道と庭園に徐々に人気が出ています。
こちらとしては有難い事ですが、門前では地元の人達が
「むかしは自由に散歩できたんやけどね。私らも拝観料が要るのやろか?」
と話していました。良い面だけではないようです。

入口にある山号寺号の石標

山門前にて
紅葉のトンネルと敷き紅葉

説明板

山門から続く参道には敷き紅葉が

本堂への石段

石段の先にある本堂

正面には中国風の釈迦牟尼仏が

斜め前から見た本堂

本堂側面
葉室山浄住寺(はむろさんじょうじゅうじ)は、
『弘仁元年(810年)、嵯峨天皇の勅願寺として慈覚大師円仁が開創。
開創寺は常住寺と号した天台宗寺院であった。
弘長元年(1261年)、藤原家の流れを汲む葉室定嗣が奈良西大寺の叡尊を招き中興。
天台宗から真言律宗に転じ、葉室家の菩提寺として栄えた。
鎌倉時代以降は正慶2年(1333年)、応仁・文明の乱、永禄10年(1567年)と三度焼失。
荒廃したが、元禄2年(1689年)に葉室頼孝が黄檗宗の鉄牛禅師を中興開山として
三度復興。宗派も黄檗宗になった。』 とあります。

廻廊にある魚邦

方丈入口にて

方丈庭園

方丈縁側より庭を望む

方丈庭園の向こうには位牌堂、開山堂、寿塔が並ぶ

中庭の池
左の岩は鬼が盗んだとされる釈迦の歯を象ったもの。

廻廊から見た方丈庭園
平安京から離れた桂にあるとはいえ、ここも兵火は免れなかったようです。
再興に尽力した葉室家は名家の家格。ここに荘園があり【常住】したことが理由でしょうが、
有力な檀家を持つことが寺には重要なのがここでも言えそうです。
江戸時代再建の建物は規模が小さいながら中国風の堅実な造り。
本堂に続いて位牌堂、開山堂、寿塔が階段状、一列に並ぶのが特徴です。
本尊の釈迦牟尼仏は衣を纏い、前結びの帯を締めた【無二】のお姿。
これは黄檗宗に改宗して以降なので当然ではありますが、
京都では宇治の萬福寺以外にこのような建築を見る事ができるとは思いませんでした。

方丈入口にて

境内の木々

紅葉の巨木

杉苔の上の落ち葉

本堂への石段から山門を見る

石段上の紅葉

孟宗竹の変異種「亀甲竹」

同じく「四方竹」

境内の紅葉

山門にて

浄住寺説明書

浄住寺御朱印
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