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高槻観音(大阪府高槻市) 街中にある古刹の札所

2019.12.14(20:49) 506

下部山から本山に行き安岡へ(2019.12.3)

<コース>
JR大阪 → JR高槻 → 高槻駅北 → 市営バス18分 → 神峰山口 → 徒歩10分 → 神峰山寺 → 徒歩45分 → 本山寺 → 徒歩45分 → 神峰山口 → 市営バス9分 → 浦堂 → 徒歩8分 → 安岡寺 → 浦堂 → 市営バス15分 → 高槻駅北 → JR高槻 → JR大阪

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南山 般若院 安岡寺(天台宗 新西国三十三ヵ所客番札所)

 本山寺参拝に続いて、かつて住職が隠居所としていた安岡寺へ。

神峯山寺、本山寺への最寄りのバス停は30分毎の運転でしたが、

安岡寺への最寄りのバス停は頻発。

それだけ街中にある訳ですが、バス停を降りて寺に向かうとこれが結構な上り坂。

坂を上った山の中腹にある境内からは市内を見渡すことができました。

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寺標の後方に勧進掛がある

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総門

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総門前の本尊御詠歌
・如意の輪は 願いのままに めぐり来て 身を安岡の 寺におかばや

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本堂へと続く長い石段
左は個人所有の竹林、右は新たに分譲を始めた墓地。

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石段上から総門を見返る
左下が御住職のお住まい。

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境内から市内を見渡す

 南山般若院安岡寺(なんざんはんにゃいんあんこうじ)は、

『宝亀6年(775年)、光仁天皇の皇子に当たる開成皇子がこの地に霊験を感じ、

自ら如意輪観世音菩薩を刻み堂宇を建てたのが始まり。

その後、弟子の開智が大般若経600巻を書写して寺の背後の岡に安置した。

それが般若院安岡寺の名前の由来である。全盛期には六坊を擁する大寺であったが、

戦国時代の領主高山右近がキリシタンであったため焼失。

寛文年間(1661~1673年)に良盛により復興、将軍家の拝領を受け巨刹となったが、

明治の廃仏毀釈で再び荒廃。無住の時期もあったが、漸く復興した。』 とあります。

 開山が役小角でなく本尊が毘沙門天ではないですが、それ以外は神峯山寺、本山寺と類似。

場所が山岳地域ではないので役小角は出てこないのでしょうが、

神峯山寺、本山寺と関係しているのは確かなようです。

ちなみにここの入り口にも勧進掛がありました。

 この日参拝した三ヵ寺の名前を並べると、本山寺、神峯山寺、安岡寺。

これを強引に、「本山、下部山、安い丘」とすれば、

元々山奥にあった本尊がだんだん人里近くに降りてきたイメージが湧いてきます。

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石段上から境内を眺める

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正面から見た本堂
秘仏・如意輪観音の他、両脇立ちに愛染明王、不動明王を祀り、更に地蔵菩薩、阿弥陀如来を安置している。

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鐘楼奥にある青梅観音堂
高槻真上村の安正寺(青梅寺)が廃寺になった際に本尊・十一面観音がここに移された。

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叶観音堂(旧阿弥陀堂)
裏参道口の石段を上にある。今は観世音菩薩を祀り人々の願いを叶える事からそう呼ばれる。

 本堂で参拝後、御朱印は階段途中の自宅へとあったので、

向かうと丁度御住職が本堂に来られる途中だったので本堂で拝受。

その間、御本尊にお詣りしました。

 拝受後、御住職にお話を伺いましたが、廃仏毀釈のために記録が少ないそうです。

一時期には無住でしたが、御住職の父に当たる先代が復興に尽力されたと伺いました。

 御住職は四天王寺の関係の方だったようですが、要請を受けてここに来られた様子。

宗派は異なりますが「和を以て尊しとなす」を実践されている事になります。

 本堂で1時間くらい話し込みましたが、非常に話し易い御住職でした。

「2月1日の大護摩供は盛大ですので、またいらして下さい。」

この言葉通りに来年は【あんこう】るで訪れようと思います。

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本堂前の紅葉と奥に見える大護摩壇

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弘紹不動明王
本堂東側の大護摩壇にあり、二月一日の節分会の本尊となる。

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境内から裏参道入口を見る
西向きのため「西方浄土極楽入口」と記されている。

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安岡寺説明書

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安岡寺御朱印

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本山寺(大阪府高槻市) 日本三毘沙門天

2019.12.13(23:33) 505

奥の院か本山か?(2019.12.3)

<コース>
JR大阪 → JR高槻 → 高槻駅北 → 市営バス18分 → 神峰山口 → 徒歩10分 → 神峰山寺 → 徒歩45分 → 本山寺

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北山 霊雲院 本山寺(天台宗)

 神峯山寺参拝の後は、更に山道を3㎞程奥へ。

車道が途中で終わった後は、車も行き違いも困難な東海自然歩道を歩いて標高520mの山間に。

神峯山寺で聞くと「片道105分みておいて下さい。」との話でしたが、

ひたすら歩いたら45分で着きました。

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神峯山寺の東から本山寺への道を進む

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途中、台風で倒壊した木々を見る

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寺の入口にある勧進掛
元来は参道脇の老松樹の間に12本の注連縄を掛け神の来光を乞うものだが、後にはその長短で豊作と物価の高低を占った。

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中の門に到着

北山霊雲院本山寺(きたやまりょううんいんほんざんじ)は、

『696年、役小角が葛城山で修行中、この辺りに五色の彩雲がたなびくのを見て、

榧の木に毘沙門天を刻み草庵を結んだのが始まり。

その後、宝亀年間(770年頃)に光仁天皇の第一皇子・開成阿闍梨が堂宇を建立した。

戦国時代は松永久秀が所領を寄進、三好長慶や高山右近が安堵状を出したが

天正10年(1582年)の山崎の合戦で焼失。慶長8年(1603年)に豊臣秀頼により再建された。

江戸時代には高槻城主永井氏や皇室の崇敬を受け、

宝暦年間(1705年頃)には将軍綱吉生母・桂昌院により大修理された。』 とあります。

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中の門近影

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中の門から境内方面を見る

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右は石垣、左は崖という参道を進む
参道には楓と銀杏が敷かれている。

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石垣に繁茂する杉苔と羊歯

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庫裏の前から本堂を望む

 細かい箇所は異なりますが、内容は先程訪れた神峯山寺と酷似。

本尊も毘沙門天で入口に勧請掛があったのも同じでした。

 寺院は崖に沿って歩き更に階段を上った場所。本堂にお参りする前に寺務所に伺う事に。

幸い御住職が居られたので御朱印拝受。梵字を割り箸の様な変わった筆で書かれたので、

尋ねると筆ではなく刷毛との事でした。由緒を伺うと

住職;「かつては神峯山寺の奥の院という扱いで、神峯山寺が中の院。

ここの住職は年配になると麓の安岡寺に隠居しました。」

との事。この後、参拝予定の寺が隠居所とは初耳。

安岡寺の山号が南山、ここが北山と対応しています。

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庫裏入口

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庫裏近影
御朱印はここで拝受。

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本山寺御朱印
この梵字が刷毛で書いたもので、毘沙門を表す。

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急な石段を上った先に本堂が見える

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石段を上った先から
本堂へ続く廻廊。

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十三重石塔と本堂

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本堂正面

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本堂の扁額

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本堂右奥の道を通ると京都府との県境ポンポン山(標高678m)に

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本堂から庫裏へ続く廻廊

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本堂脇の開山堂

 本堂への階段を上ると眼下に市内が見えます。

境内には楓や銀杏が彩を添えていますが、神峯山寺ではそれなりに居た観光客も殆どいない状態。

やはり山奥にあるのがネックなのでしょう。

 参拝を終えて降りて来ると鐘楼の脇で御住職が落ち葉を集めて居られました。

和辻;「境内は楓と銀杏が多いですね。」

住職;「殆どが楓で、銀杏はここにある雄株と雌株1本だけですよ。」

和辻;「銀杏は食用に植えているのですか?」

住職;「いいえ、防火です。葉っぱも湿気を含んで燃えにくいし、火に囲まれて幹が爛れても蘇生しますわ。」

和辻;「銀杏(ぎんなん)が周囲に落ちてますけど、ここから芽は出ないのですか?」

住職;「銀杏は周辺に新たな木が成長するのを抑える物質を出すようですね。」

以前、熊本城に銀杏が多いのは籠城の際の食糧と訊いていたので、

防火のためとは初めて知りました。御住職の自然に関する知識も相当なものでした。

 御住職は御夫婦でここに居住されているそうで、

買い物時のみ町に買出しに行かれるそうです。

御家族だけの生活となれば、色々な知識も自然と身に着くのでしょう。

今は別の寺院となっていますが、元々は同祖であったようです。

神峯山寺が有名なので、本山寺は付録のように思われますが、

元来はここに本尊があった筈。

お参りが大変なので山を下った所に神峯山寺ができたのでしょう。

寺号も本山寺なのでこちらの方が無理が少ない気がします。

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本堂前から市内を望む

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石段付近の景色

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石段途中から見た紅葉

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石段から見た庫裏

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鐘楼前から庫裏方面を見る

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石段下の清浄水
御住職の話では敷石の下に沢蟹が穴を掘って水が漏れているとか。

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鐘楼と大銀杏(雄株)
地面は銀杏で黄色の絨毯に。

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参拝後、紅葉の参道を中の門へ

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本山寺説明書

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神峯山寺(大阪府高槻市) 日本最初毘沙門天の寺院

2019.12.12(00:05) 504

ポンポン山の手前の根本山(2019.12.3)

<コース>
JR大阪 → JR高槻 → 高槻駅北 → 市営バス18分 → 神峰山口 → 徒歩10分 → 神峰山寺

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根本山 神峯山寺 寶塔院(天台宗 新西国三十三ヵ所第十四番札所)

 師走に入り、未だ残っているであろう紅葉を求めて北摂の高槻へ。

高槻は東西に比べ南北が長く、電車の線路の北側が非常に広くなっていますが、

途中の上の口までは住宅地なのでバスは頻発。

ところがそこから先は30分毎と急に本数が減ります。

この日は駅の北口から高槻市バスに乗り18分、神峰山口で下車。

上の口からバス停2駅分、歩いても8分程度ではありますが、

住宅地は減って田園風景に。

原地区という名の通りバス停は平地ですが、案内に従って進むとどんどん坂を上り山に入ります。

寺の石標を行くと神仏習合の鳥居があって、更に進むと石柱に縄を渡し木の葉をぶら下げたものが…。

すぐ横に「勧請掛(かんじょうがけ)」と説明があり、

縄に樒(しきみ)を結び付けたもので聖地との境界を表すもの。

しかし大阪商人はこの長短で米価や株価を占ったと言われています。

苦しい時の神頼みでしょうが、金【勘定】に敏い大阪人らしいです。

まさか【かぶさん】の名前にゲンを担いだ訳ではないでしょうが…。

ここから更に800m、渓流沿いの道を通り仁王門へ到着。

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バス停で降り東海自然歩道の脇に建つ寺標

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参道入口にある鳥居

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参道途中にある勧請掛
縄の途中に樒を結び付け聖地との境とした。

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勧請掛を過て渓流沿いの参道を進む

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渓流沿いの紅葉

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仁王門前に到着
両脇には大きな狛犬が鎮座する。

 根本山神峯山寺寶塔院(こんぽんざんかぶさんじほうとういん)は、

『697年、役小角(役行者)が開山。

葛城山で修行中に黄金の光を見た小角が神峯山に入山し金毘羅童子に会い、

霊木で四体の毘沙門天を彫刻。三体は飛び去ったが残った一体を祀ったのが嚆矢とされる。

 その後、宝亀5年(774年)に光仁天皇の皇子で桓武天皇の庶兄に当たる開成皇子が中興。

天台宗寺院・光仁天皇勅願所となり、明治に至るまで皇室所縁の寺院となった。

中世以降は武士階級に、江戸以降は大阪商人にも篤い信仰を受けた。』 とあります。

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仁王門前にある「日本最初 毘沙門天」の石標

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仁王門近影

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仁王門下から来た参道を見返る
この周辺も紅葉が多い。

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仁王門から本堂まで真っすぐな参道が続く
左は境内の塔頭、右は嶺峰院回向堂。参道も紅葉の名所である。

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白壁と石垣の参道を行く

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回向院前にて鮮やかな紅葉
左に直進すると本堂、右は墓地へ行く。

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参道左にある化城院
神峯山にかつてあったものを2013年に復興・落慶。毘沙門不動護摩を毎日焚く護摩堂である。

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本坊の宝塔院への道

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本坊入口
本来、御朱印はここだが、ここでは受付で拝受。

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本坊入口から参道を見るとここも紅葉のトンネルが

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満天星越しに見る化城院

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境内の紅葉

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左の総合案内所で御朱印拝受の後、正面の本堂へ向かう

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階段の先に見える本堂

 古代より近世まで続いた古刹ですが、開山は反体制の役小角、

中興は体制派の開成皇子と180度転換しています。

元来、神峯山には山岳信仰が根付いて居り山自体が龍の御神体とされ

修験道七高山の一つに挙げられた霊場、そのパワーを体制側が取り込もうとしたのでしょう。

全盛期に比べると寺域は相当縮小したようですが、

今も境内を歩くとどこからとなくパワーを感じます。

 寺を上っていくとポンポン山に。

頂上で四股を踏むとポンポンと音がするのが名前の由来だと聞いた事がありますが、

ここの山号は根本山(こんぽんざん)。これが訛ったと考えるのが良さそうな気がします。

現在も三つの巡礼札所とされ、広い境内には三体の毘沙門天、

二体の観世音菩薩立像、一体の阿弥陀如来坐像はじめ多くの仏像が安置されています。

一体しか残らなかった毘沙門様が三体あるのは摩訶不思議ですが、これは珍しい形態だそう。

仏教にも三位一体があるのかと思ってしまいました。

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安永6年(1777年)再建の本堂
堂内には三種の毘沙門天を祀る。提灯には十六八重菊紋が見られる。

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本堂とその前にある花梨
実もたわわに生っており、落下に注意とある。

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本堂前面にせり出した庇

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本堂にある「根本山 毘沙門天」の扁額

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本堂の十六八重菊

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菩提樹の老木

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境内で最も高い場所にある開山堂
役小角(行者)が伽藍を建立したとされる場所にある。

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開山堂近影
役小角とその使いの藍婆、毘藍婆が安置。

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開山堂より本堂(右)、釈迦堂(左)を見る

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釈迦堂

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本堂から続く廻廊

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廻廊の向こうにある観音堂
右の十三重塔は光仁天皇の分骨塔。

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観音堂横の石段を上った所の鐘楼堂

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鐘楼からの眺め

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鐘楼から廻廊、本堂を望む

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参拝を終えて本堂から仁王門へ向かう

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参道横の道も紅葉のトンネル

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渓流には紅葉の絨毯が

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参道には杉苔の絨毯も

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参道脇の紅葉

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神峯山寺説明書

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神峯山寺(新西国霊場)の御朱印

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神峯山寺(本尊毘沙門天)の御朱印

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いくたまさん(大阪市天王寺区) 難波を守る守護神の宮

2019.12.09(20:49) 503

難波に住んでいて行く?たまに!(2019.11.23)

<コース>
東梅田 → (谷町線) → 谷町九丁目 → 徒歩10分 → 生國魂神社

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生國魂神社(旧官幣大社 式内社)

 この日は昼過ぎからの凸凹シンポジウム出席前に上町台地を散策。

スタートに際して駅の西側に鎮座するのが生國魂神社に参拝。

 生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)は、神武天皇即位に遡る伝承がある古社。

御祭神は、生島大神、足島大神、大物主大神の三柱で国土の守護神でもあります。

正史には孝徳天皇の難波宮の造営に当たり当社の樹木が用いられたのが嚆矢。

かつては、今の大坂城の位置に鎮座し、中世には隣接して石山本願寺も建立されました。

 地政学的にも重要な場所だったので、石山寺合戦の後、豊臣秀吉によって現在の場所に移転。

その後、近世にも地域の崇拝を受け、明治以降には最高位の官幣大社に位置付けられるなど

難波第一の宮としての威容を誇っています。元来は国土の守護神でしたが、

今は境内には様々な社が鎮座しており、難波の商人魂を感じました。

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入口の石の大鳥居

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鳥居には寄進者の鳥井信治郎の名前が

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鳥居から谷町筋に向かう参道

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拝殿
境内には七五三祝いの家族が。

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本殿参拝後は生玉の杜散策道へ

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生玉の杜
都心にありながら楠などの木々に囲まれている。

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神社北門

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生玉真言坂
北門から北に向かう坂で天王寺七坂の一つ。この周辺に真言宗の生玉十坊があった事が名前の理由。

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境内には十社を越える社が祀られている

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一番北側にある浄瑠璃神社
文楽及び女義太夫の物故者を祭神として祀る。近松の『曽根崎心中』 の発端はここ。

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井原西鶴坐像
生玉の杜の入口にある。

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織田作之助像

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米澤彦八の碑
京都で露五郎兵衛によって始められた上方落語は、大阪ではこの境内を舞台に彦八によって広められた。

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彦八由緒記

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いくたまさん説明書

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生國魂神社御朱印

 古代の大阪は南北に連なる上町台地より成り三方を海に囲まれた場所。

潮の流れが急であった事からなみはや・なにわ(難波・浪速)と呼ばれました。

台地の東は淀川と、古大和川が注ぎ込む内湖で大小の島々が形成されました。

これが八十島で、長い年月をかけて陸地化して現在の大阪の地形ができあがりました。

今に残る福島、堂島、弁天島の地名が古の大阪の変遷を表しています。

 お江戸八百八町に対して、難波は八百八橋というのもこのような地形によるのでしょう。

参拝の後は天王寺方面までウォーキング。南北に寺院が連なり東西には急な坂が続きます。

これが大坂の由来でしょうが、難波は八百八坂とも呼べるでしょう。

ブラタモリなどで地形を歩いて辿るのがブームなので、これから歩く人が増えそうではあります。

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神社の南にある源聖寺坂
坂の下の右手にあるのが源聖寺。

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口縄坂
坂の下から眺めた時に道の起伏が口縄(蛇)に似ている事に由来。

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鎌倉時代の歌人・藤原家隆の墓
ここで夕陽を眺めた事から夕陽丘の地名になった。

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愛染坂
愛染さんがあるためで、アイゼンを付けて登る訳ではない。

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上町台地一体の地形

[参考書]

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熊川宿(福井県三方上中郡若狭町) 三方五湖と鯖街道の宿場

2019.12.08(20:54) 502

鰻を食べて鯖街道(2014.11.23)

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三方五湖を見下ろす梅丈岳

 敦賀宿泊の翌日は西に向かいレインボーラインから梅丈岳山頂へ。

山頂からは三方五湖が一望できます。この辺りは福井でも有名な梅の産地ですが、

五湖の中の淡水湖三方湖は「口細青鰻」と呼ばれる天然鰻の産地。

両方ならば食い合わせとなってしまうので、今回は「徳右ェ門」で昼食。

しかし近年の不漁で値段は庶民の【みかた】とはいきませんでした。

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左が日本海。右奥に久々子湖、手前に日向湖が見える

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右は、最大の水月湖、その奥は菅湖

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水月湖と奥に見える三方湖
三方湖は淡水で、そこで採れる鰻は「口細青鰻」のブランド名がある。

その後は、鯖街道の宿場町熊川を散策。

南北朝時代から小浜は港として栄え、小浜から京の都に物資を運ぶ道となりました。

行き交った品物の中で有名になったのが鯖。

小浜で塩処理をすると京都に着くころには丁度いい塩梅になっていたそうで

それが街道の別名になったと言います。

西国巡礼で丹後から近江へ向かう道もここを通ることになりますが、

巡礼街道とは呼ばれなかったようです。信仰よりも食い気でしょうか?

 かつて浅野長政によって交通の要衝とされた熊川は鯖街道の起点小浜から15㎞。

鯖は腐り易いので、ここで宿泊はしませんが、荷物を受け渡して京へと向かったようです。

鯖街道きっての宿場町として栄えますが、明治になって鉄道敷設から外れたため

発展が遅れ奇跡的に街並みが残りました。東海道の関も同様です。

20年以上前には殆ど訪れる人もいませんでしたが、今は道の駅やら、

宿場の古民家を改装した土産物店やらカフェができており、観光客も増えました。

俗化したとも言えますが廃村にならずに済んだのは幸いとも言えます。

 熊川の名産は和紙と葛。どちらも水が欠かせませんが、

宿場内を流れる前川は小さいながらも平成の名水百選。

家ごとに「かわと」と呼ばれる水利施設を設けており、

野菜や食器を洗う場所があるのは近江の針江地区と似ています。

1990年代に訪れた際には宿場を歩く人も疎らでしたが、いまはそれなりの人通り。

丁度宿場の入口に道の駅があるのも追い風にはなっているようでした。

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熊川宿入口にある説明板

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宿場東端にある「熊川番所」
かつては「入り鉄砲に出女」の統制と物資への課税が行われた。

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番所にある役人の復元人形

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中ノ町付近
左は旧逸見勘兵衛家住宅。伊藤忠商事二代目社長・伊藤竹之助の生家。文化財だが見学の他、カフェとしても利用できる。

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下ノ町付近

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小浜寄りの下ノ町から今津方面を見た所

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宿場内を流れる前川
平成の名水百選。水流を利用した里芋の皮剥き車。

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小浜線三方駅、上中駅スタンプ
2006年にJR西日本管内で一斉に新調された際には設置されなかったが、その後、支社独自に設置。しかし、すぐ回収されたといういわく付きの幻のスタンプである。

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三方郵便局 ; 三方五湖、しば舟、三方梅
熊川郵便局 ; 熊川宿、鯖街道

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気比神宮(福井県敦賀市) 日本海の玄関口にある大社

2019.12.07(20:59) 501

敦賀堪忍! (2014.11.22)

<コース>
JR大阪 → (新快速) → JR敦賀 → 徒歩15分 → 気比神宮

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気比神宮(官幣大社 若狭國一之宮)
正保2年(1645年)建立の重文・大鳥居。高さ11m、幅7.5m。佐渡の気比領から献上されたムロの大木から作った。

 家族で敦賀の民宿に行くことになり、チェックイン前に市内を散策。

先ずは町の守護神気比神宮へ。伝説では仲哀天皇の頃の創建と伝わりますが、

上代から信仰されたのは確実。

仏教伝来前は後背の天筒山を磐座(いわくら)として愛発の関まで管理下に置いていました。

中世には越前平泉寺と並ぶ勢力を誇ったと言います。

南北朝時代の1337年には北朝方に敗れ、戦国時代の1570年には織田信長に敗北。

24万石の領地を没収され衰退しますが、江戸時代には復興され松尾芭蕉も訪れました。

交通の要衝のため戦災は絶えませんでしたが、明治期には官幣大社となります。

不死鳥の如く蘇ったのは流石といえます。

 いまの社は幹線道路に面していますが、かつては港に入る船の

目安にもなったのではないかと思われる場所でした。

奥の細道に記された社は港で人を【待つ御場所】だったのかもしれません。

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戦後再建された外拝殿

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境内にある芭蕉像
元禄二年八月に訪れ、”月清し 遊行の持てる 砂の上” の句を残す。

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気比神宮御朱印
墨書が日付だけというもの古社の特徴か?

古代においては唐、新羅、渤海との交流は、

① 九州 → 瀬戸内海 → 畿内

② 敦賀 → 近江 → 畿内

のルートがあり、現代に比べて遥かに日本海側の役割が重要視されました。

特に中間に琵琶湖があることで物資の輸送が容易であったのでしょう。

継体天皇は越の国から大和に入りましたが、

背景には交通ルートを抑えて実力を蓄えたのだと思われます。

 江戸時代には西回り航路の発達で衰退しますが、明治になると外国航路が開通。

また日本海側初の鉄道が敷設された場所でもあります(明治15年長浜~金ケ崎開通)。

新快速も大阪から直通なので便利な穴場といったところでしょか。

杉原千畝の「命のビザ」所縁の地であり、当時の施設等を活かした街づくりが進行中でした。

尤も子供たちは、市内観光よりも釣った魚を天麩羅にして食べたのが一番楽しかったようですが。

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港に停泊中の巡視艇

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旧敦賀港駅舎   
かつての駅舎を平成11年に再現し、現在は敦賀鉄道資料館。欧亜国際連絡列車が走ったというのも驚き。

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メインストリートにある銀河鉄道999のメーテル像

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子供たちが釣ったカタクチイワシの天麩羅

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敦賀市マンホールカード    配布場所はこちら

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敦賀結城郵便局 ; 気比神宮大鳥居、境内の芭蕉像、色ヶ浜の芭蕉句碑

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随心院門跡(京都市山科区) 小野小町ゆかりの彩られた寺院

2019.12.06(00:39) 500

葉の色は移りにけりな(2019.11.26)

<コース>
JR大阪 → JR山科 → 徒歩15分 → 毘沙門堂 → 徒歩10分 → 安祥寺 → 地下鉄山科 → 地下鉄小野 → 徒歩5分 → 勧修寺 → 徒歩10分 → 随心院

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牛皮山 随心院(真言宗善通寺派大本山) 

 現在も小野の地名が残るこの地は

古来「小野郷」と呼ばれる古代豪族小野氏の栄えた場所。

牛皮山随心院(ぎゅうひざんずいしんいん)は、

『正暦2年(991年)、一条天皇によりこの地を賜った仁海僧正が一寺を建立したのが嚆矢。

古くは牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひざんまんだらじ)と称した。

仁海僧正の夢枕に母親が牛に生まれ変わって現れたので、その牛を尋ね求めて飼育した。

ほどなく、牛が死んだのでその皮に両界曼荼羅を描き本尊としたのが山号の由来である。

その後、曼荼羅寺の子房として随心院を建立。

寛喜元年(1229年)に堀河天皇より門跡の宣旨を賜り、以来随心院門跡と称される。

堂宇も壮麗を誇っていたが、承久・応仁の兵火で焼失。慶長4年(1599年)に漸く本堂が再建。

九条二条両家より門跡が入寺し、両家によって【ずいじ】寄進再建された。』

とあります。

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道路に面した総門
宝暦3年(1753年)に二条家より移築されたもの。

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随心院由緒書

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庭園・殿舎拝観はここから

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庫裏
宝暦3年(1753年)に二条家の政所であったものを移築。

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庫裏の前にある小町百人一首歌碑

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歌碑近影

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謡曲「通小町」の説明

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庫裏近影

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庫裏の天井構造

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拝観受付横の小野小町衝立

 門跡寺院らしく上品で落ち着いた雰囲気。廻廊の中庭も緑が美しいですが、

表書院と本堂前の庭園、奥書院の庭園では木々の彩が鮮やか。

・色見えて 移ろふものは 小野郷の 庭の所の 木々にぞありける

を実感しました。

加えて書院には「だるま商店」作の極彩色絵画が展示。

「まるむし商店」は知っていますが「だるま商店」は初耳。

なんでも地元で活躍しているという絵画ユニットだそうでCGによる製作。

全体的に朱華(はねず)色という薄紅色を基調とし小町の生涯を四曲の屏風形式で描いたものです。

古刹にしては現代的な図柄ですが、不思議と違和感はなし。

古い物だけを墨守するのではなく、新しい物も【はねず】にうまく共存できている気がしました。

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庫裏から表書院(右奥)に向かう

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大玄関から薬医門を望む

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表書院と本堂前の庭園

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表書院大広間

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極彩色梅匂小町絵図(ごくさいしきうめいろこまちえず)
障壁画 2009年 だるま商店作

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生誕の図
出羽の国(秋田県)で生まれ、生活される様子を描いた作品。

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小町生誕の場面の拡大

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饗宴の図
仁明天皇のもとで宮仕えをされる様子を描いた作品。

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宮中での舞いの部分

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伝承の図
宮仕えを辞し山科小野の里でお過ごしになられる様子を描いた作品。

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小野の里での日常
住居は随心院に似ているが、当時はまだない。

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夢幻の図
山科小野を出て諸国を放浪される様子を描いた作品。

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地蔵菩薩像に写経を巻く

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表書院廊下から庭園を眺める

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庭園遠景

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慶長4年(1599年)建築の本堂
桃山時代の寝殿造で、本尊如意輪観世音菩薩坐像他諸仏を安置する。

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本堂前面の造り
屋根の廂が前に張り出した造り。

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本堂より見た庭園
一面苔に覆われている。

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本堂より見た庭園

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本堂より見た庭園

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能之間から奥書院への廊下の東側にある庭園

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奥書院の庭園にある小町堂

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小町堂内の小町像

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拝観を終え奥書院から庫裏へ戻る

 小野小町所縁の寺院とありますが、小町が実在したのは9世紀なので、

991年開創の寺院とは直接関係は無し。仁明天皇崩御後の仁寿2年(852年)、

30歳を過ぎた頃に宮中を去り小野の里に隠棲したとされるので、

境内には小町化粧の井戸や深草少将の百夜通の伝説が残ります。

 小野小町は平安朝初期の女流歌人で六歌仙の一人。

それにも増して絶世の美女として有名です。

と言っても同時代の肖像画や彫像、デスマスク等があるわけではなく、

古今集仮名序で貫之が『小町は古の衣通姫(そとおりひめ)の流なり』とあるのが嚆矢。

衣通姫は允恭天皇の后で、美しさが衣服を通して外まで見えたという人。

シースルーを着ていたわけではありませんが、これにより美女のイメージが定着したのでしょう。

 その生涯も謎めいていますが、実在の六歌仙との歌の贈答が残っており

830年頃から900年頃に実在したというのが有力。出身地、終焉地も全国各所にありますが、

有力氏族の小野氏が出羽に所縁があったことから秋田の湯沢付近の出身が有力。

説明書には小野篁の孫とありますが、年齢が20歳ほどしか離れておらず無理があります。

篁と出羽の女性との間に生まれた娘というのがそれらしいとは思うのですが…。

成長すると地方から朝廷に仕え生涯独身だったとか。

容貌については日照や保湿の好条件に加え牛飼いに従事していた関係から

牛痘の影響で天然痘に罹らず肌が極めて美しかったという医学的説もあります。

 彼女の歌のキーワードは「移ろい、夢、儚さ」が主で、

貫之が『美しい中にも妖艶さがある』と絶賛しています。

このような詠み振りが貫之の感性に一致したのでしょう。

当時のリーダー的男性に好まれるタイプではあります。

やはり美人は得なのかと笑ってしまいますが、小町自身が儚げな女性だったかどうかはまた別の話です。

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薬医門

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薬医門近影
九条家ゆかりの天真院尼の寄進で寛永年間の建築。

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薬医門から見た大玄関
左右に小玄関、使者の間がある。

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薬医門の前にある参道

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参道横にある小野梅園は梅の開花中のみの開園

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小野小町化粧井戸
小町の屋敷跡に残る井戸で小町が朝夕この水で粧を

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化粧の井戸の説明

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本堂裏にある文塚
深草少将を初め当時の貴公子たちから小町に寄せられた千束の文を埋めたとされる。

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随心院門跡 小野小町略縁起

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随心院御朱印(平成6年文化の日に拝受)

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随心院令和元年秋季限定御朱印

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説明書籍 ¥500

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TVで紹介された随心院門前南の山科わかさ屋で珈琲ブレイク

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抹茶大福&珈琲大福 どちらも¥220

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山科郵便局 : 小野随心院、小野小町文塚、疎水

[参考書]

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勧修寺(京都府山科区) 古池を囲む名園のある古刹

2019.12.04(23:41) 499

玉の輿に乗ったのは?(2019.11.26)

<コース>
JR大阪 → JR山科 → 徒歩15分 → 毘沙門堂 → 徒歩10分 → 安祥寺 → 地下鉄山科 → 地下鉄小野 → 徒歩5分 → 勧修寺 → 徒歩10分 → 随身院

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亀甲山 勧修寺(真言宗山階派大本山 門跡寺院)

 山科駅周辺の二ヵ寺参拝の後は、地下鉄で小野まで移動。

古代の名族小野氏所縁の場所として有名ですが、その前に西側の勧修寺へ参拝。

寺名は「かじゅうじ」、地名は「かんしゅうじ」。

鎌倉の「じょうみょうじ」を寺は浄妙寺、地名は浄明寺と漢字を変えますが、

京都では読み方を変えるのが【かんしゅうじ】の様です。

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道路から見える寺標と案内板
御朱印は勧修寺ではなく、隣接する佛光院で拝受する。

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白壁に沿って拝観入口へ

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勧修寺山門

 亀甲山勧修寺(きっこうざんかじゅうじ)は、

『平安中期の昌泰3年(900年)、醍醐天皇が生母の藤原胤子(いんし)追善のために、

東大寺の承俊律師を開山として創建された勅願寺。

 敷地は胤子の祖父に当たる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を用い、

造営は胤子の同母兄弟の三条右大臣藤原定方が行った。

勧修寺の寺号は胤子の父の藤原高藤の諡号に由来する。

 以来、皇室や藤原氏に所縁の寺院で、代々法親王が住職を務めたので、山階門跡と称された。

文明2年(1470年)の兵火で堂宇は焼失、江戸時代に皇室と徳川家の援助で再興。

現在残る書院は天皇の旧殿を移築した。』 とあります。

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拝観入口 ここから先は ¥400

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入口を入った場所にて
門扉には門跡寺院らしく菊の御紋(裏八重菊?)が。

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勧修寺説明板

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入口から続く参道の紅葉

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紅葉近影

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宸殿前庭

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宸殿前庭
前庭の枯山水は海と山。石組が蓬莱山でハイビャクシンの木が波を表す。

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宸殿前面の造り
入母屋造、桟瓦葺。元禄10年(1697年)に明正天皇の旧殿を賜り移築したもの。内部は書院造で明治5年から9年間勧修小学校の校舎として利用された。

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宸殿の扁額「明正殿」
扁額後ろの横木は欅の巨木。

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宸殿前庭のツワブキ

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宸殿横を通り書院へ

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参道脇の紅葉群

 寺院参拝のつもりで訪れましたが、ここは参拝ではなく庭園観賞がメイン。

庭園は約2万㎡の広さで、「氷室園」又は「氷池園」と呼ばれる平安時代の遺構。

 氷室池とは、古く平安時代に毎年1月2日にこの池に張った氷を宮中に献上し、

その氷の厚さによって五穀豊穣を占ったとされ、

氷室の池を中心に周囲の山を借景にした広大な自然美を楽しむ趣向です。

 池には蓮・睡蓮・杜若が、前庭には樹齢750年とされるハイビャクシン(這柏槙)が

地面を這うように枝を伸ばし、境内には桜、梅、楓が季節を通して花を咲かせています。

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書院前庭
手前のハイビャクシン(這柏槙)は樹齢750年で地を這うように今も成長を続けている。ビャクシンに隠れているのが「勧修寺型灯篭」で、奥に見えるのが観音堂。

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水戸光圀の寄進による「勧修寺型灯篭」
京都へ来たときには「見て通ろう」と言われる灯篭であるとか。

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書院(左)と宸殿
書院は入母屋造、杮葺で延宝元年(1673年)から3年に掛けて造営された後西天皇の旧殿を賜り移築したとされる。

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境内に咲く四季桜越しに書院を見る

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昨年の台風被害に拠り修理中の本堂
寛文12年(1672年)に霊元天皇より仮内侍所を賜り移築。本尊は醍醐天皇の等身大の伝えられる千手観世音菩薩で室町期の作。

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本堂前からの景色

 これ程の庭園を所有していた宮道弥益、藤原高藤、

いずれも政治の主流からは縁遠い家系でしたが後に高藤は内大臣に至っています。

これには次のようなエピソードが伝わっているとか。

『若い頃、山科に鷹狩りに出かけた高藤は雨宿りのために立ち寄った邸の

娘・宮道列子(みやじたまこ)と深い仲になる。

数年後、再訪した彼が見たのはその時の娘と幼い女児であった。

「雨宿りの時の…」と思った彼は親子共々引き取り生涯他に妻を持たなかったという。

その後生まれたのが定国、定方の兄弟である。

 これだけなら絵にかいたようなロマンスで終わるところだが、

雨宿りの女児胤子が一家の運命を変える。

彼女は父の勧めで源定省という官吏と結婚し男子が生まれた。

光孝天皇が崩御されたとき、源定省は皇族に復帰し宇多天皇となり、

男子は皇太子(のちの醍醐天皇)となった。高藤一家は一躍帝の外戚になった。』 と。

政治的には別段功績の伝わらない高藤ですが、醍醐帝の時に内大臣に至ります。

息子の定国は政治の世界で、定方は文化面で活躍。特に定方は醍醐天皇の時代に

歌・管弦といった【えんぎ】で朝廷の中心人物、小倉百人一首の「名にし負わば…」でも知られます。

 女性が高貴な身分や資産家に嫁ぐのを「玉の輿に乗る」といいますが、

これは列子(たまこ)に由来した語と解説にありました。

どちらかと言えば「玉の輿に乗った」のは列子よりも胤子の方。

勿論、俗説でしょうが、婚姻により高貴な身分になった事実が庶民の願望となったのでしょう。

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昭和6年再建の観音堂
氷室池に面した楼閣風の建物。

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氷室池の蓮と池にかかる紅葉

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池越しに境内を見る

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池に映る観音堂と紅葉

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勧修寺御朱印を拝受する佛光院

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勧修寺説明書
絵葉書の裏面である。

191-3-29.jpg
勧修寺御朱印
平成6年の拝受。佛光院で拝受した記憶はないのだが…。

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安祥寺(京都市山科区) 山科一帯を支配した巨刹

2019.12.03(20:59) 498

弘法大師の法灯を継ぐ巨刹の興亡(2019.11.26)

<コース>
JR大阪 → JR山科 → 徒歩15分 → 毘沙門堂 → 徒歩10分 → 安祥寺 → 地下鉄山科 → 地下鉄小野 → 徒歩5分 → 勧修寺 → 徒歩10分 → 随身院

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吉祥山 寶塔院 安祥寺(真言宗)

 毘沙門堂を拝観した後は疎水沿いに西に歩いて安祥寺へ。

今まで非公開の寺院でしたが、天皇陛下の御即位を記念して

皇室所縁の寺院という事で初めて公開されています。

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琵琶湖疎水を西に向かう

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疎水に架かる橋を渡ると安祥寺へ

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入口にある薬医門
かつては疎水の南にあったとか。この奥が寺務所。

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薬医門の屋根

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寺務所で御朱印を拝受

 吉祥山寶塔院安祥寺(きっしょうざんほうとういんあんしょうじ)の由緒は、

『嘉祥元年(848年)、仁明天皇皇后で、文徳天皇生母の藤原順子の発願により創建。

空海の孫弟子に当たる留学僧恵運僧都は開基となった。

伽藍が完成した9世紀後半には上下両寺の大伽藍に加え塔頭が七百余り、

山科一帯の広大な山野を独占したと言われる。しかし応仁の乱では伽藍や寺領を失い衰退。

江戸時代になって幕府より境内地復旧の命を受け、敷地は大幅に減ったものの、

現在の寺領を回復。法灯を今に伝える。』 とあります。

 開創が嘉祥、山号が吉祥、寺号が安祥と総て「祥」の文字がありますが

厄災は防げなかったようです。

そういえば、先に拝観した毘沙門堂もかつての安祥寺の寺領を貰ったとありましたから、

広大な寺院であったのは事実のようです。

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安祥寺説明板

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塀に沿って参道を進む

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文化14年(1817年)建立の観音堂(本堂)
本尊の重文・十一面観音菩薩立像は泰澄の造像と伝わる奈良時代作で内陣で拝観できる。

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観音堂前面
柱や梁の木部に傷みが見られる。

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観音堂から入口方面を見る

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横から見た観音堂

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観音堂横には巨木が聳える

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観音堂遠景

11月16日放送の「おとな旅あるき旅」では、

「かつての門は疎水の南にありましたが、明治になって疎水が境内を二分する形でできました。」

と御住職が話して居られました。

堂宇は焼失しましたが、本尊の十一面観音立像は難を免れて堂内に。

また多宝塔は明治39年に焼失しますが、

祀られていた国宝・五智如来は京都国立博物館に寄託されていたので無事と、

仏像には「祥」の効果があったようです。

仏様まで焼けてしまっては、再建も【あんしょう】に乗り上げてしまう処です。

将来的に多宝塔が再建されたら寄託の国宝は帰宅されるかどうかは分かりませんが。

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多宝塔跡

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多宝塔跡の説明
国宝・五智如来はここの本尊であった。

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明和9年(1772年)建立の地蔵堂
本尊は鎌倉時代の地蔵菩薩で開基恵運僧都が中国より請来したと伝わる。

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安永2年(1773年)建立の大師堂
本尊弘法大師像は江戸中期の仏師・清水隆慶の作。

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紅葉の向こうに見える地蔵堂

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安祥寺説明書
普段は拝観しないが立派な説明書がある。

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拝観券
本尊の十一面観音立像。

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安祥寺御朱印(御本尊の重文・十一面観音)

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安祥寺御朱印(国宝・五智如来)

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山科毘沙門堂門跡(京都市山科区) 紅葉が映える門跡寺院

2019.12.02(21:24) 497

四季の紅葉と敷き紅葉(2019.11.26)

<コース>
JR大阪 → JR山科 → 徒歩15分 → 毘沙門堂 → 徒歩10分 → 安祥寺 → 地下鉄山科 → 地下鉄小野 → 徒歩5分 → 勧修寺 → 徒歩10分 → 随身院

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護法山 安國院 出雲寺(天台宗門跡寺院) 

 丹波地域の紅葉はピークを過ぎたようですが、京都市内では未だ見頃の様子。

そこで市内に繰り出しました。と言っても京都駅から一山超えた山科区。

京都盆地を一回り小さくしたような山科盆地。古くは山階とも書いたようです。

私の拙い記憶に拠れば信濃と同様に「しな」の言葉は坂を表すとか。

山科駅から道路を北に向かい坂を上った所が目指す寺院。

道沿いには邸宅が並び、都会ながら自然に恵まれ、うら【やましいな】と思いましたが、

観光シーズンの人出を考えると閑静なとはいかないようです。

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駅から1㎞歩くと目指す寺院に
両側には屋敷が並ぶ。

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毘沙門堂入口
ここから階段上の仁王門まで紅葉が続く。

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仁王門への階段と紅葉のトンネル

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紅葉を抜けて仁王門へ

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仁王門前から階段を見返る

 毘沙門堂は天台宗五箇室門跡の一つで、

正式名は護法山安國院出雲寺(ごほうざんあんこくいんいずもじ)。

御本尊は七福神の一つ毘沙門天で天台宗を開いた最澄が延暦寺本尊の余材をもって刻まれたもの。

山寺の風情を伝える格式高い古刹です。由緒に拠れば、

『大宝3年(703年)文武天皇の勅願で行基が創建。

当初は御所の北側の出雲路にあり護法山出雲寺と呼ばれた。

 その後、建久6年(1195年)に平家所縁の平等寺、尊重寺、護法寺の三寺を統合。

応仁の乱で焼失後、再建されるが元亀2年(1571年)に再び焼失。

 江戸時代に入ると家康側近の天海僧正により復興に尽力。

幕府から山科の安祥寺の寺領を与えられこの地に移転、寛文5年(1665年)に完成した。

その後、後西天皇の皇子公弁法親王が入寺、以降は門跡寺院となった。』 とあります。

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阿吽の二天像が護る仁王門
寛文5年(1665年)、この地に再興。急峻な石段の上に建つ。

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右側にある阿像

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仁王門から本殿を見る

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境内から見た仁王門

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塀越しに見る本殿
後ろに見えるのは霊殿。

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最澄作の毘沙門天を祀る本殿
梁行六間、桁行五間の単層入母屋造。

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本殿唐門仁王門
内部の拝観はここから。右は御朱印待ちの行列。

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本殿前に架かる「出雲寺」の扁額

古刹に加えて桜と紅葉の名所。

平成4年6月には若い僧侶が、私一人を案内してくれましたが、

この日は令和特別拝観もあって、ガイドの人が20~30人纏めて案内。

本堂、宸殿を30分掛けて拝観。本殿から弁財天の間と宸殿奥の晩翠園の紅葉も見頃。

写真に良く使われる紅葉の参道は勅使門前ですが、撮影スポットらしく人がひっきりなしに往来。

参道下ではカメラを持った人がスタンバっていましたが、シャッターチャンスは中々来ません。

現実を【ちょくし】しないといけないという意見に【賛同した】くなります。

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本殿と霊殿の間の中庭
境内の紅葉の絶景スポット その1。奥に見えるのが弁財天。

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本殿廊下から見る高台弁財天
秀吉の母大政所が大坂城内に祀っていたものを移築した。

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本殿周りの塀越しに見る弁財天
ここの紅葉も見事。

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本殿廊下より見た霊殿
元禄6年(1693年)、第三世公辨法親王の建立。阿弥陀如来を中心に影像やお配を安置している。

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霊殿廊下から見た本殿

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霊殿から宸殿への渡り廊下

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渡り廊下から見た裏山の紅葉

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同じく渡り廊下からの眺め

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宸殿前の枝垂桜と勅使門

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宸殿から霊殿(左)と本殿を見る

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前庭にある枝垂桜と勅使門
樹齢百数十年の巨木。

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宸殿
御所にあった後西天皇の旧殿を移築したもの。襖絵は狩野益信の作で見る角度によって変化して見える。

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宸殿の裏手にある晩翠園
谷川の水を引き滝を造った江戸初期の回遊式庭園。紅葉の絶景スポット その2。

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晩翠園
「心字」の裏文字を象った池に亀石、千鳥石、坐禅石を配置している。

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晩翠園
堂の左奥に滝が見える。

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晩翠園の紅葉

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屋根越しに見る紅葉

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弁財天から見た本殿
周囲は楓と満天星の紅葉に囲まれる。

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弁財天前の紅葉

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勅使門への階段
後西天皇より拝領した檜皮葺の総門。

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勅使門
陛下の行幸か代参、当山門跡の晋山式以外は開かれない。

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勅使門から参道を見る

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勅使門への参道の紅葉のトンネル

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参道の向こうに見える勅使門
緩やかな階段が落ち葉で深紅になる敷き紅葉。紅葉の絶景スポット その3。

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参道脇の敷き紅葉
ここは立ち入り禁止。

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敷き紅葉のシャッターチャンスを狙う人達

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帰り道の紅葉

 境内の紅葉は見事でしたが、面白かったのは梅の間の解説。

会いたくない人が来た場合は、ここで待たされるそうですが一向に人は現れません。

良く見るとここの襖には、「梅に山鳥」、「竹に鵯」が描かれています。

「梅に鶯」「竹に雀」が本来の構図なので、これでは鳥が合いません。

実はこの襖は「とりあわない」という暗号を込めたものだそうで、

それに気付かない来客は永遠に待つ羽目になるようになるそうです。

 これくらいは察しなさいという事でしょうが、来客は所要があって来る訳で、

そんな事まで気を効かすのは無理と言うもの。私ならずっと待たされた事でしょう。

貴族文化華やかなりし平安朝ならば、待つ人も和歌で即妙の返事をするでしょうが、

この頃にはもう京都人にはそのような心の余裕もなくなっていたのかもしれません。

斜陽族の痩せ我慢と言ったら怒られるでしょうか…。

「ぶぶ漬けでも食べて行っておくれやす。」という京都人のイケズな気性は、

もうこの時代には出来上がっていたようです。

尤も、私は京都には6年間居ましたが、ぶぶ漬けを勧められたことは一度もありませんでしたが…。

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毘沙門堂門跡説明書

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毘沙門堂御朱印
平成4年6月20日に拝受。

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この日の御朱印は9種類
令和元年とはいえ、27年前とは雲泥の差が…。

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慧日寺(兵庫県丹波市) 茅葺屋根と紅葉の庭園が美しい禅宗寺院

2019.12.01(21:02) 496

お寺拝観はカヤの外(2019.11.20)

<コース>
【往路】JR大阪(7:13) → JR谷川(8:54→9:00) → JR久下村(9:03)

JR久下村 → 徒歩30分 → 石龕寺 → 徒歩30分 → 奥之院 → 徒歩50分 → 常勝寺 → 徒歩40分 → 慧日寺

【復路】JR谷川(15:33) → JR篠山口(15:54→16:07) → JR大阪(17:16)

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萬松山 慧日寺(臨済宗妙心寺派)

 この日、三ヵ寺目は篠山川に沿って東に向かい、

大きく右に曲がって杉並木の木立を進んだ先にありました。

 萬松山慧日寺(ばんしょうざんえにちじ)は、縁起に拠れば、

『永和元年(1375年)、室町幕府管領の細川頼之と弟で養子の頼元により建立。

開山は鎌倉円覚寺開山仏光国師の孫弟子の特峰妙奇(とくほうみょうき)、

福知山天寧寺の開祖愚中周及(ぐちゅうしゅぎゅう)の友人に当たり、

中国より帰朝してこの地に庵を結び大衆教化に務めたと言われる。

一説では小浜の八百比丘尼が特峰の噂を伝え聞き来山、

厳しい修行の後に美しさと【若狭】を保ったまま入寂したと伝わっている。

細川家の権威もあり、塔頭十八ヵ寺、末寺四十六を数える一大本山となったが、

天正3年(1575年)の明智光秀の丹波攻めで焼失。

その後、寛永から慶安年間にかけて妙心寺から来山した大愚・別心の両禅師により復興するも、

寛文7年(1667年)の失火で再度全焼。再び妙心寺から生鉄禅師が訪れ、再建に努力。

元禄から享保にかけて、仏殿・方丈・鐘楼が整えられた。』 とあります。

 境内の建物自体は、総て江戸時代の再建ですが、

仏殿は方一間一重裳階付き檜皮葺入母屋造で、ほぼ完全な禅宗様式。

その他、方丈・庫裡・裏門・経蔵と鐘楼は文化財となっています。

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入口に到着
但し寺はまだ見えず杉木立に覆われた参道を進む。

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山門
創建当時の総門として参道の入口に建てられたが再建時に仏殿の前に移された。

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駐車場から境内へ
右が庫裏で受付と納経を行う。奥は仏殿。

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受付から見た仏殿(左)と本殿

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山門脇にある経蔵

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元禄15年(1702年)再建の仏殿

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仏殿説明板

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経蔵前から見た境内

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仏殿前から見た本殿

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本殿正面
ここは本尊ではなく、位牌を祀る。

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拝観は本殿右の玄関から

 拝観料¥300を払うと、ガイドの方が建物内を説明して下さいました。

建物の庭の紅葉が美しいのは当然ですが、書院の間から室内の机に映る床紅葉、

中庭の手水鉢に映る紅葉を観賞する事ができます。

床紅葉は京都の寺院が有名ですが、京都はどこも撮影禁止。

でもここは撮影も自由なうえに気が済むまで観賞することができました。

これも観光客が少ない利点でしょう。

仏殿では龍の天井画を示して

「大火があった時に龍が池の水を飲みこんで火を消そうとしたんですが、水が足りない。

そこで自らの血で消し止めたそうです。この柱に赤い模様があるのがそうです。

まあ、話もこの辺で消し止めといた方が良いですな。」 と落ちまで付きました。

 拝観のメインは庭園と紅葉ですが、方丈と庫裡の茅葺屋根も見応え十分。

湿度の関係で屋根には苔が繁茂し、それが山奥の古刹の雰囲気を醸し出しています

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本殿と書院の中庭にある紅葉の絶景スポット

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紅葉の向こうに廻廊が巡る

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廻廊から書院を見る

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中庭の手水鉢に映る紅葉を観賞

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場所を変えると奥の黄色いカエデが観賞できる

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書院の窓から紅葉を観賞
手前の机には紅葉が映る。

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廻廊から見る本殿奥の庭園
心字池と岩のある禅宗様式。

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心字池と紅葉

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本殿の廊下を通り仏殿へ

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仏殿へ向かう階段と廊下

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廊下の向こうにある弁天社と池

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廊下から弁天池を見返る

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いよいよ仏殿へ
奥に見えるのが山門。

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仏殿近影

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本尊釈迦三尊像
なぜかここは撮影OK。

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仏殿の龍の天井画
柱には龍の血とおぼしき赤い筋が…。

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本殿で歴代の位牌にお参りして拝観終了

 その上、この日は庫裏の屋根を葺き替え中。

7~8名の職人の方の作業を目の前で見る事ができました。

棟梁と思しき方が居られたので、話を伺うことができました。

棟梁:「屋根の葺き替えは14~15年毎ですね。」

和辻:「一度に全部するのですか?」

棟梁:「いえ、片面だけです。」

和辻:「どれくらいの日数が掛かりますか?」

棟梁:「10月に始めましたが、月末くらいには終わるでしょう。」

かつては何処にでも生えている茅を使ったものですが、今は茅不足。

今は現地ではなく、大阪の能勢から購入しているそうです。

 これで山南三ヵ寺巡礼終了。朝から相当距離を歩きましたが、それだけの価値は十分あり。

最後には紅葉に加えて茅葺も拝観することが出来、【ええ日時】とはなりました。

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庫裏の屋根(奥側)の葺き替え中

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茅葺作業の様子
テレビでは見た事があるが、実際は初めて。

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慧日寺説明書

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慧日寺御朱印

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2019年12月
  1. 高槻観音(大阪府高槻市) 街中にある古刹の札所(12/14)
  2. 本山寺(大阪府高槻市) 日本三毘沙門天(12/13)
  3. 神峯山寺(大阪府高槻市) 日本最初毘沙門天の寺院(12/12)
  4. いくたまさん(大阪市天王寺区) 難波を守る守護神の宮(12/09)
  5. 熊川宿(福井県三方上中郡若狭町) 三方五湖と鯖街道の宿場(12/08)
  6. 気比神宮(福井県敦賀市) 日本海の玄関口にある大社(12/07)
  7. 随心院門跡(京都市山科区) 小野小町ゆかりの彩られた寺院(12/06)
  8. 勧修寺(京都府山科区) 古池を囲む名園のある古刹(12/04)
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  10. 山科毘沙門堂門跡(京都市山科区) 紅葉が映える門跡寺院(12/02)
  11. 慧日寺(兵庫県丹波市) 茅葺屋根と紅葉の庭園が美しい禅宗寺院(12/01)
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