<コース>
JR京都 → JR東福寺 → 徒歩15分 → 泉涌寺入口 → 雲龍院

瑠璃山 雲龍院(真言宗泉涌寺派 別格本山)
夕方の会合前に特別公開の寺院に参拝。
公開寺院は市内に散らばっていますが移動が少ない方が楽なのは勿論。
偶々東山の泉涌寺の塔頭三寺院が特別公開していたのでそちらを訪問。
京都市内には幾多の塔頭を持つ本山寺院が多く、
それ自体は珍しくありませんが、多くは平地にあって明るい雰囲気。
それに比べると泉涌寺は東山三十六峰の一つ月輪山麓にあり、
かつての葬礼の地に壮麗な寺院が建ちます。
参道を進むと畏敬の念を抱くのはそのような事も影響しているのでしょう。
鎌倉・江戸時代の歴代皇族の菩提寺として御寺(みてら)と呼ばれた場所。
皇室所縁の御寺(みてら)ですが、【見てら!】という程、見ていないのでじっくり拝観。
大門を左に見て参道を進み奥まった高台に上った場所にあるのが瑠璃山雲龍院(るりさんうんりゅういん)。

泉涌寺総門

泉涌寺由緒記

泉涌寺特別公開の案内

御寺なので皇室の方々の御陵が
朝彦親王、淑子内親王、守脩親王(左から)とある。

雲龍院正門(不明門)

正門横の勅使門

正門から参道を見る
由緒に拠れば
『応安5年(1372年)、後光厳天皇の思し召しに拠り竹巌聖皐が創建。
同時に皇子・後円融院はここを如法写経場とするため寺領を寄進し龍華院を建立。
続く後小松、称光天皇もこの寺院を崇拝された。
そのため北朝四天皇の分骨所が営まれており、その位牌堂に当たるのが霊明殿である。
これらの建物も文明2年(1470年)の乱で焼失。後光厳、後円融天皇の尊像のみが残った。
徳川時代になり如周正専が中興の祖となり再建。雲龍院の中に新たに龍華殿を建て合併した。
これを聞いた後水尾天皇から写経道場再建のための費用が下賜され、
併せて百点余りの仏具も寄付され寛永19年に再興を遂げた。
皇室との所縁も深く、天保14年以降皇妃、皇女が葬られ玄関、方丈、勅使門を賜る栄誉に浴した。
霊明殿も幕末から明治2年にかけて孝明天皇、明治天皇、英照皇太后の思し召しで再建した。』 とあります。
玄関と霊明殿には龍の水墨画が。
共に現代画家の作品なので、雲龍という名前に肖って描かれたものでしょう。
いずれも横綱級の作品でした。

参道から見た重文・龍華殿(本堂)
寄棟、杮葺きで寛永年間の再建。

庫裏

受付正面の雲龍図
清浄の間の前に架かる。

受付横の内庭
最初に拝観したのは庭園に面した部屋。
蓮華の間からは雪見障子の四角いガラス越しに四枚の違った景色を眺める事ができ、
続く大輪の間からは庭園を一望することができる仕組になっています。
同時になぞかけの掛け軸もあり禅宗の香りがしました。
廊下を渡ると霊明殿。今に続く写経道場の様で、拝観した際にも何人かが写経されていました。
【こうひつ】ゆかりの写経と言ってもペンではなく筆。
道場なので華やかさはないですが書院の窓からの景色は見応えがあります。
借景を見ながら写経するという方針なのでしょうかね?

蓮華の間の雪見障子
四枚の窓からは椿、灯篭、楓、松が眺められる。

窓から見た庭園

蓮華の間の襖絵

大輪の間入口

大輪の間全景

大石内蔵助の「龍淵」の書
討ち入り前の山科隠棲時に、親戚の当山塔頭来迎院の住職を屡々訪ねたとか。

大輪の間の「なぞなぞ掛け軸」
左;禁酒、右;稚児の酒もいつつ飲みたや

大輪の間の縁側から見た庭園

庭園

庭園の庭石の上には菊の御紋の瓦が

庭園に聳える杉
随分前に落雷に合った。上の枝を龍に見立てるとも言われる。

霊明殿前面
皇族の位牌堂で、明治元年の再建。

霊明殿の前庭
砂で菊の御紋を描く。灯籠は徳川慶喜の寄進で、幕末動乱時に孝明天皇陵から移したと伝わる。

霊明殿前から見た龍華殿

龍華殿の廂
中央の高野槙は秋篠宮家若宮悠仁さまのお印。

「龍華殿」の扁額

龍華殿から勅使門を直視

龍華殿の廻廊を抜け再び書院へ
また書院の端の部屋には丸と四角の窓があって、
ガイドの方の説明では丸が悟り、四角が迷いの窓との事。
洛北の源光庵が有名ですが市内では二ヵ所しかないそうです。
源光庵は禅宗ですが、ここは真言宗。
和辻;「真言宗で禅の悟りとは不思議ですね。」
ガイド;「以前ここは天台・真言・曹洞・浄土の四宗兼学道場だったので、その名残ですね。」
和辻;「宗派が違って揉めなかったのでしょうか?」
ガイド;「なんだかんだと言っても元は同じところですからね。凄惨な争いはなかったようです。」
宗教の違いにより争いが起こることは珍しくないですが、
日本ではそれほどではなかったのはせめてもの救いでしょう。
かつての兼学道場を【見学】できる幸福を改めて感じます。

書院横から見た庭園

水琴窟「龍淵のさやけし」

庭園の楓

庭園の向こうに見える「大輪の間」

月窓(げっそう)の間
ここを通った光が中の壁に月影を描くように工夫されている。

悟りの間にある悟りの窓
下の襖には桜が描かれ、窓の向こうには梅が植えられている。

「悟りの窓」近影

隣接する「迷いの窓」

雲龍院説明書

雲龍院御朱印(龍華殿)

雲龍院御朱印
西国四十九薬師霊場開創三十周年記念「金紙薬宝院」
[参考書]
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新大阪 → (御堂筋線) → なかもず → 徒歩15分 → 百舌鳥八幡宮 → 徒歩45分 → 家原寺 → 徒歩15分 → JR津久野 → JR我孫子町 → 徒歩5分 → あびこ観音 → 徒歩3分 → あびこ → (御堂筋線) → 梅田

吾彦山 大聖観音寺(観音宗総本山)
家原寺から阪和線津久野駅に行き阪和線で天王寺へ向かいましたが、
少し時間があったので、我孫子町で下車。東へ進むと西門に至ります。
大阪ではあびこ観音寺として知られる有名寺院ですが、思ったより境内は狭い。
それもその筈、江戸時代には36の塔頭を数える大寺院でしたが、
明治14年(1881年)火災で焼失。9年後に再建を果たしますが、
折からの廃仏毀釈で往年の規模を取り戻せなかったのでしょう。返す返すも残念な話です。

南東から寺域を見る

西側入口に建つ寺標

石畳の参道

参道先にある西門
こちらが正門に当たる。

西門近影
正式名は吾彦山大聖観音寺(あびこさんだいしょうかんのんじ)。寺伝に拠れば、
『欽明天皇7年(546年)の創建。難波の阿比古(あびこ)浦の有力者で
百済と交易していた依網吾彦(よさみのあびこ)は聖明王から1寸8分の観音像を贈られる。
当時は、未だ正式な仏教受領前だったので阿比古浦に草庵を設けて観音像を安置した。
60年程経った推古天皇13年(606年)に、聖徳太子が阿比古(あびこ)浦を訪れて観音像と対面。
費用を下賜され吾彦山観音寺を建立した。
天平17年には聖武天皇の病気回復を行基が吾彦山観音寺の本尊に祈願すると病気は平癒。
以降、天皇家や武家から厄災を防ぐ観音として崇拝を受けた。
応仁の乱に際しては本尊は高野山に難を避けたが、
後北条氏に仕えた東三郎左エ門が高野山で出家して快敬と名乗った僧侶が
高野山から本尊を観音寺に戻し、自身もそこの住職となった。
大坂夏の陣では真田幸村に追われた徳川家康が、
吾彦山観音寺に逃れて難を避けたので、戦後は寺を復興。
快敬の息子・助左エ門も旗本となった。快敬の入寂後は助左エ門が盛長上人として寺を継承。
以後、明治に至るまで東氏の血統が法灯を受け継いだ。
歴代皇室・徳川家や諸大名の信仰も篤く、全国有数の観音霊場として隆盛を極める。』 とあります。

西門を過ぎた場所にある大楠

夕暮れ時の境内

南門前にある樹齢700年の大楠

庫裏

本堂

本堂前面
内陣で参拝できる。

本堂前から見た境内
左側にあるのが庫裏。

本堂横の池の錦鯉
オリジナル御朱印帳は錦鯉がデザインされている。

南門から
駅名が我孫子という漢字にも拘らず寺名はあびこと平仮名。
その理由が分かりませんでしたが由緒を読んで納得。
開基には仏教界のスーパースターが登場するのが常ですが、
依網吾彦と言う他には登場しない人物が関わっているのは、かなり真に近いものがあるのでしょう。
大阪人にとっては大坂の陣で家康を救った寺というのは微妙な位置づけですが、
そのために今まで残ったというのは幸いだったと言えます。

あびこ山観音寺物語

あびこ観音御朱印

住吉我孫子郵便局 ; あびこ観音寺
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新大阪 → (御堂筋線) → なかもず → 徒歩15分 → 百舌鳥八幡宮 → 徒歩45分 → 家原寺

一乗山 清凉院 家原寺(行基宗単立寺院)
百舌鳥八幡宮参拝の後、阪和線に平行に道路を鳳方面に3㎞行くと行基の生誕地。
一乗山清凉院家原寺(いちじょうざんせいりょういんえばらじ)は、
『慶雲元年(704年)、行基が畿内に49の寺院を建立するのに先立ち、
父の菩提寺として生かに草堂を建立したのが嚆矢。
後に行基は聖武天皇の信任を得て天平2年730年に伽藍が整備され32坊を有する様になった。
家原寺の寺名は家を原(もと)とした事に由来する。
その後衰えるが寛元3年(1245年)に叡尊が再興。
戦国期には兵火で衰退するが江戸時代には徳川御三卿の田安家の帰依を受け復興。
明治の廃仏毀釈でまた荒廃と浮沈を繰り返す。
しかし空襲は免れ、慶安元年(1648年)再建の本堂は今も威容を誇っている。
本尊は行基作とされる文殊菩薩で、白毫には天竺の菩提僊那が招来した1寸8分の黄金仏を納める。
尚、文殊菩薩が本尊となったのは家原寺が初。
元来は勅願寺として国家鎮護・仏法興隆を祈願する寺院であったが、
合格祈願の寺として受験生が絶えない。
以前は本堂の壁に直接願い事を書く「落書き寺」として有名であったが、
諸般の事情で¥500ハンカチに記入したものを本堂の外壁に張り付ける形式に変わった。
今では「ハンカチ寺」と呼ばれている。』 とあります。

南大門(仁王門)
駅からは反対側だがこちらが正門。

南大門の仁王像

仁王門に続く駐車場
駐車料金¥500が事実上の拝観料となっている。徒歩の人は志納。

入口脇の不動堂

参道から境内を見る

池の南側から見た景色
正面の釣鐘堂は修復中。

池の東側


慶安元年(1648年)再建の本堂
行基作とされる文殊菩薩が本尊で、別名文殊堂。

本堂近影

本堂周辺には合格祈願のハンカチがいっぱい

本堂前面

本堂より境内を望む

本堂側面

本堂裏もハンカチがびっしり
ハンカチ王子は聞いた事がありますが、ハンカチ寺とは初耳。
落書きとは【ぎょうぎ】が良くないのでハンカチとなったのでしょうか?
行基は和泉国出身と訊いていましたが、和泉でも河内、摂津の境に近い場所とは初めて知りました。
時代を動かす偉人は異文化の接する付近の出身が多いという一般論は行基の場合にも当て嵌まるようです。
行基は、王仁の後裔と伝えられる百済系渡来人の系列で高志氏の一族。
父は高志才智、母も渡来系の蜂田首虎身の娘・古爾比売で、
行基は668年に和泉国家原で生まれました。
幼名・法貴丸、俗名・高志貞知と言い、15歳で出家。
受戒までの10年間を葛城山で修行したとされます。
行基は全国行脚しながら民衆を教化しましたが、同時に井戸・池・橋・堤などの土木工事、
無料宿泊所などの社会事業を行った事でも有名です。
宗教家に加えて技術者の面も持っていた訳ですが、
彼が渡来人の系列であった事が大いに与ったと思います。
後の空海もそうですが、単に宗教を説くだけでは民衆の心を掴めないと分かっていたのでしょう。
パイオニアはあらゆる事に精通しなければなりません。
初めは行基を白眼視した朝廷も最終的には彼を政権に取り込みましたが、
彼の技術に期待したからでしょう。まさに芸は身を助くです。
家原寺も当初は高野山真言宗でしたが、2018年からは行基宗という単立寺院に改宗しています。
法隆寺も聖徳太子宗ですから、それだけ行基の功績が大きかった証左でしょう。
合格祈願にも効き目がありそうですが、全勝ではなくてハンカチ(半勝)と言うのがちと気になりますが…。

本堂裏の経堂

本堂南側にある行基菩薩誕生塚

誕生塚にある堂

塚の北にある開山堂
行基の他、弘法大師、叡尊も祀る。

境内の看板

薬師堂とヤマモモの木

家原寺の子院の中院と三重塔

平成元年再建の三重塔

東門付近から見た境内

家原寺説明書

家原寺御朱印(本尊文殊菩薩)

家原寺御朱印(西国薬師霊場)
薬壺型の金紙特別朱印。西国薬師霊場開創30周年記念。
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新大阪 → (御堂筋線) → なかもず → 徒歩15分 → 百舌鳥八幡宮

百舌鳥八幡宮(旧府社)
所要が昼に終わったので、新大阪駅から御堂筋線の終点なかもずまで。
この付近は昨年世界遺産に登録された百舌鳥古墳群の場所。
世界最大の大山古墳(伝仁徳天皇陵)、陵山古墳(伝履中天皇陵)はJRの西側ですが、
東側にも古墳が点在しています。
そんな中に鎮座するのが百舌鳥八幡宮(もずはちまんぐう)。
石の鳥居から石の参道を過ぎ、階段を上ると境内。
堺は空襲を受けましたが、享保11年(1726年)建立の本殿、
文政13年(1830年)建立の拝殿、本殿前の樹齢800年の大楠は戦火を潜り抜けました。
八幡神は武運の神なので御利益があったのでしょう。

参道入口の石鳥居
あかもず駅からは反対側になる。

参道の向こうに見える二の鳥居

石段の先にある二の鳥居

八幡宮の扁額
社伝に拠れば、
『神功皇后が三韓征伐の帰路、後の応神天皇であると皇子と共にこの地に至り、
天下泰平民万人を守ると言う御請願を立て、この地を万代(もず)と名付け死後この地に葬られた。
そして欽明天皇の御世に八幡神の宣託に拠ってここに神社を創建した。
唯、延喜式等の記録には見えず、仁平2年(1152年)の『宮寺縁事抄』に記載された
「万代別宮」が最初とされる。同じ時期に鋳造された
滋賀県長浜市の勝福寺の梵鐘も元来はこの神社の梵鐘であったとされる。
後白河天皇の時代には当社が石清水八幡宮の別宮となっていた記録があり、
南北朝時代には深勝親王が参籠、和泉の領主であった大内氏も梵鐘を寄進した。
このように公武の崇敬を集めたが、大内氏の兵乱、大坂夏の陣で兵火を被り往時の栄華を失った。
しかし江戸時代になり各所からの寄進で復興を遂げ、
大坂城代が交代する際には、ここに参拝するのが習わしとなった。』 とあります。

百舌鳥八幡宮由緒

社前の大楠
樹高25m、幹周5.2m、樹齢800年の神木。

文政13年(1830年)建立の拝殿

拝殿の幕には百舌鳥の図柄が

拝殿と奥にある本殿(左)

二の鳥居横の絵馬殿
百舌鳥耳原地区の中心となる社。
鳥の百舌鳥が耳に飛び込んだ事が地名の由来と思っていましたが、
もずの漢字は「毛受」「毛須」「万代」とも書いたそうで、
そうなると耳に鳶込んだ話は後から付け足した可能性もあります。
御祭神は応神天皇ですが、伝応神天皇陵はここではなく古市。
子供の仁徳天皇の陵墓のすぐそばに父が祀られているのも面白いですね。

百舌鳥八幡宮略記

百舌鳥八幡宮御朱印

百舌鳥郵便局 ; 世界遺産・百舌鳥古墳群、百舌鳥八幡宮のふとん太鼓
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佛日山 光照院(浄土宗 尼門跡寺院)
三時知恩寺に続き少し北にある門跡寺院へ。
佛日山光照院(ぶつにちざんこうしょういん)は、
『南北朝時代の延文元年(1356年)に、後伏見天皇の皇女・進子(ますこ)内親王に拠って創建。
ここは鎌倉時代の歴代上皇の仙洞御所となった持明院統の邸宅があった場所である。
進子内親王は自身が華道に堪能であったため、常盤未生流の家元となり、
以後、歴代の門跡は家元を兼ねる状態が続いている。』 とあります。
残念ながらここも入口より先は撮影禁止なのは同じ。
正面にある常盤会館、本堂、書院が拝観できる場所でした。

特別公開の看板
写真は常盤会館内部

由緒書

山門脇の仙洞御所跡碑
常盤会館は昭和3年11月に京都御所で行われた即位大典の際の大嘗宮朝集所を移築したもの。
寺院らしさはないですが、継ぎ目のない絨毯がスケールの大きさを表しています。
本尊は鎌倉時代の清凉寺式と呼ばれる釈迦如来立像。
規模は小さい御本尊ですが、衣の部分に菊の金細工が施されるなど細かい技術が見られます。
最後の書院は京都御苑の旧桂宮御殿の一部を移したもの。
北側の庭園には歴代門跡が御手植えの五葉松が現在までも枝ぶりを伸ばしています。
こうして門跡寺院の参拝も終了。
いずれも御所の近隣ですが、なぜ門跡寺院があったのか?
平安時代などは宗教勢力の力を取り込むべく、皇族や摂関家が子弟を送り込みましたが、
この時代に送り込んだのは女性が多く、
後継者以外の子女が政治的に影響を与えないように考慮した感じがします。
そういった意味では幽閉に近く門跡も政治の被害者だったといえるのではないでしょうか?

屋根瓦にある菊と重ね菱の紋

山門正面に建つ常盤会館
右は臨時の受付。

光照院説明(特別公開ガイドブックより)

光照院御朱印

俵屋吉富 菓子資料館前
特別拝観3箇所で、1回の抹茶接待が受けられる。

抹茶接待
銘菓「雲龍」と抹茶
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三時知恩寺(浄土宗 尼門跡寺院)
西国札所巡りに続いて御所の北側に地下鉄で移動。
「京の冬の旅」という企画で特別拝観している門跡寺院を二ヵ所拝観。
『三時知恩寺(さんじちおんじ)は、室町時代に後光厳天皇の皇女・見子(けんし)内親王が、
伯父の崇光天皇の旧御所・入江殿を寺院として創建。入江御所と呼ばれた浄土宗尼門跡寺院である。
その後、室町幕府三代将軍・足利義満の息女覚窓性仙尼(かくそうしょうせんに)が入寺。
知恩寺と号したが、「宮中で行う六時勤行のうち昼の三時の勤行をここで行うべし」
との後柏原天皇の勅命に拠って名を三時知恩寺と改めた。
明治維新まで代々皇女や摂関家の姫君が入寺され、特に近衛家との所縁が深い。』 とあります。

山門と特別公開の看板

由緒記

境内から見た山門
向こうに見えるのは同志社大学別館。
同志社大学の別館と道を挟んである閑静な住宅街。
広大な伽藍ではなく、加えて各所から移築された建造物が殆どですが、
小さい中に当時の宮中文化を凝縮した造りとなっています。
寺院は天明の大火で焼失しましたが、本堂は大徳寺山内の学問所を移築。
書院は桃園天皇女御・恭礼門院の御殿を賜りました。
木造の建造物が多い我が国では建物の焼失は致し方ありませんが、そのような場合、
新築するのではなく古いもの或いは不要になったものを移築する事が往々にしてあります。
せこいといえばそうですが、経済的にも文化財を後世まで残す面でも秀逸な方法であったと思います。
唯、残念な事に拝観入口から内部は室内・庭園に関わらず全て撮影禁止。
己の記憶のみに焼き付ける結果となりました。
本堂の六曲一双の花鳥図屏風は狩野永納(えいのう)の作品、
山鵲(さんじゃく)という名の鳥が描かれています。
実物の写真もありましたが、日本にはいない鳥のようです。
三尺下がって見ると写実的で思わず「えいのう!」と言ってしまいました。
続く書院「三の間」の襖絵は円山応挙の魞漁図(えりぎょず)が。
琵琶湖を背景としたものですが、実際に見た様子を描いたものでしょうか?
門跡寺院にはやや似合わない気もしますが、入江御殿という名前故に魞を描いたのかもしれません。
勿論、襟を正して描いたに違いありませんが…。

玄関の唐破風

山門脇の庭
ここは撮影可能。

境界付近のススキ

三時知恩寺の説明(京の冬の旅 ガイドブックより)

三時知恩寺御朱印
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淀屋橋 → (京阪電車) → 清水五条 → 徒歩5分 → 六波羅蜜寺 → 京阪三条 → (地下鉄) → 烏丸御池 → 徒歩5分 → 六角堂

紫雲山 頂法寺(天台宗単立寺院 西国三十三ヵ所第十八番札所)
西国札所は僻地にある所が多いですが、六角堂は京都市中京区の繁華街。
『紫雲山頂法寺(しうんざんちょうほうじ)は、用明天皇二年(587年)創建の伝説を持つ古刹。
物部氏に勝利した聖徳太子が四天王寺建立のために用材を求めて小野妹子とこの地を来訪。
水浴中に木の枝に掛けた持仏の如意輪観音が動かなくなり、
お告げでこの地に六角の御堂を建てたのが始まり。
これが本邦初の伽藍建立とされ頂法寺の名の由来となった。
平安末期から巡礼者で賑わい門前町が形成されるようになり、
室町期には京都で最も人口の多い場所となった。
境内には京都のへそ石とされるものも存在する。
聖徳太子が沐浴した傍らに小野妹子が坊を建て、
毎朝花を供えたのが華道の始まりとされる。』 とあります。

六角通の北側にある表門

寺標
西国札所と華道発祥の地と記載。

六角堂由緒

表門から見た本堂
右にあるのは縁結びの六角柳

本堂前のへそ石
本堂古跡の石とも京都の中心とも言われる。

へそ石の説明

へそ石の向こうに建つ本堂

明治10年建立の本堂
手前に入母屋造、千鳥破風の屋根の礼堂を設け、奥に六角の堂を付けた構造。

礼堂の「頂法寺」の扁額

東側から見た本堂
右奥のビルは池坊会館。

北側から見た六角堂

東側にある六角堂御幸桜越しに本堂を見る

御幸桜由緒
聖徳太子伝説は兎も角、平安京の中心に長きに亘り存在するのは事実。
度々戦火に見舞われたようですが、都度京都の町衆の力で再建されてきました。
道を挟んで飛び地に鐘楼がありますが、町の人々が金を出して人を雇い
鐘を撞いて貰ったという代物。七転び八起きの心意気を感じます。
一方、華道の方はお寺に付随して始まったようですが、今はこちらが主流。
頂法寺の住職が華道池坊の家元も兼ねています。
太子沐浴した池の傍らにあった事から池坊を名乗った訳ですが、小野妹子の末裔とされます。
但し、池坊を名乗ることができるのは宗家のみで分家した場合は小野を名乗るのが習わし。
現宗家は46代目だそうですが、小野妹子は7世紀の人ですから、
世代が少ない気もします。華道としての記録が残るのは
室町時代の12世池坊専慶以降ですから、歴史的に遡るのはそのあたりでしょうか?
しかし由緒はどうあれ、巡礼に文字通り花を添えるものとして【頂法】されたのは事実のようです。

御幸桜の奥に建つ親鸞堂

現代的な十六羅漢像

太子堂
本堂背後の人工池に面して建つ。

太子古跡の説明

境内にある池坊専好の立花像

立花の説明

太子堂前の立花

隣のビルの展望エレベーターから見た本堂屋根(6階付近)

隣のビルの展望エレベーターから見た本堂屋根(最上9階付近)

鐘楼堂
六角通を隔てた飛地境内にあり、秀吉家臣の堀尾吉春の嫡男・忠氏が寄進した。

六角堂頂法寺説明書

六角堂御朱印
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淀屋橋 → (京阪電車) → 清水五条 → 徒歩5分 → 六波羅蜜寺

補陀落山 六波羅蜜寺(真言宗智山派 西国三十三ヵ所第十七番札所)
京都での会合前に清水五条で下車。
祇園の宮川付近を通って暫く行くと、どこからか線香の香りが漂ってきます。
目指す寺は周囲を家々に囲まれた場所。
補陀落山六波羅蜜寺(ふだらくさんろくはらみつじ)は寺伝に拠れば
『天暦5年(951年)の空也上人により創建。
この年に都に悪疫が流行したため、上人は十一面観音を刻み車に乗せて巡行。
念仏を唱えながらお茶を振舞い疫病の退散を願ったと言う。この本尊を祀った西光寺が嚆矢とされる。
尚、このとき振舞った茶は梅干しと昆布を入れたもので、村上天皇も召し上がった事から皇服茶と呼ばれた。
上人の没後、弟子の中信が天台寺院として伽藍を整備し、仏教用語の六波羅蜜を採り寺名とした。
平安時代末にはこの辺りに平清盛の屋敷が営まれ栄えたが、
寿永2年(1183年)の平家没落時に兵火を受け焼失。本堂のみ難を逃れた。
鎌倉時代には幕府の六波羅探題が置かれる。
桃山時代には真言宗智山派に改宗、度々の戦火に見舞われながらも
時の権力者に拠って復興されたが、明治の廃仏毀釈で寺領は縮小。今に至る。』 とあります。
難所が多い西国札所にあって街中の楽な場所。それ故、【ふだらく】山と言う訳ではないですが…。

駅から宮川を通り札所へ

本堂前の石標準
但し、ここからは入れない。

入口はこちら

本堂

本堂近影

本堂前の廂

本堂の「六波羅蜜寺」の扁額
開基の空也上人は、醍醐天皇の皇子という説もありますが、生地・出身共に謎が多い人物。
天台座主から大僧正名を受けながら空也の名を通し、
架橋・井戸掘り・病人救済と市井の人々と生きる姿勢を貫いた人。
その業績はかつての行基・空海に、御落胤云々は後の一休禅師に通じるものがあります。
空也という名前からして名誉欲が少なかった気がしますから、
御落胤ないし高貴な自出というのは恐らく本当でしょう。
【くうや】喰わずの人ではなかったようです。
寺名は仏教用語に由来するというのが定説ですが、この付近は葬送の地。
鳥辺野、六原とも呼ばれていたと言いますから、六原に由来するとも言えそうです。
そういえば六道珍皇寺や六道の辻があるのもこの辺りです。
本尊の十一面観音は秘仏で国宝。辰年の十一月の期間のみの御開帳。
それよりもここには空也上人像、平清盛像といった教科書に載るような文化財も多く有しています。
知名度では勝るものの、国宝ではなく重要文化財であるのが意外でした。
尤も、空也上人も名誉を求めなかった人ですから、国宝にならずとも何ら問題はなさそうですが…。

境内にある洛中最古という七福神

本堂脇の石仏
この奥は墓地になっている。

有名な平清盛坐像
これは宝物館の案内。

六波羅蜜寺御寶暦
表紙はこれまた有名な空也上人立像。南無阿弥陀仏と唱えると仏の姿になったとか。

六波羅蜜寺御朱印
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円成山 霊鑑寺(臨済宗南禅寺派 尼門跡寺院)
知恩院の後は岡崎に向かい、この日から特別拝観の始まった谷の御所へ。
円成山霊鑑寺(えんじょうさんれいかんじ)は、
『承応3年(1654年)、後水尾天皇が皇女浄法身院宮宗澄を得度入寺させ、
円成山霊鑑寺の山号と寺号を勅許したのが始まり。
以来、明治維新まで5人の皇女・皇孫が入寺し、霊鑑寺尼門跡、谷の御所と呼ばれた。
本尊の如意輪観音は恵心僧都の作で、かつては東の山中の如意寺の本尊。
南北朝の戦乱で焼失し荒廃していたのを後水尾天皇が霊鑑寺の本尊とした。
本尊の台座に霊験あらたかな鏡があることから霊鑑寺の名の由来である。
創建当初は現在の南の谷間にあったが、貞享3年(1686年)に後西天皇の皇女
普賢院宮宗栄が当寺二世であった時に後西天皇の院御所旧殿のうち
御休息所及び御番所を賜って現在地に移築された。
現在の本堂は寛政6年(1795年)に11代将軍徳川家斉の寄進に拠って
完成したものである。』 とあります。

入口にある特別公開の案内

由緒記

山門

玄関の横を通り拝観へ

玄関奥に描かれた絵画
但し、ここは外からの拝観のみ。

庭園への門

参道を通り庭園へ向かう

書院外観

池泉観賞式庭園
江戸時代中期の作庭で、石灯籠と石組の調和を巧みに用いている。

書院横から見た庭園
東山連峰の大文字山からの稜線を利用し書院の南側に作庭されている。

書院内部 上段の間(撮影禁止のため説明書から)

書院から本堂へ続く廊下

庭園横の石段を上り本堂へ

本堂
寛政6年(1795年)将軍・徳川家斉の寄進に拠り建立。

本尊・如意輪観音像(説明書より)
台座の鏡が寺名の由来。
京都の特別拝観は、高額な拝観料を取る割には見所の少ない寺社もありますが、
ここは¥600にしては見応え十分でした。しかも場所毎に説明してくれるのも有難い。
谷に建っていないのに谷の御所とはかつては谷間にあったからとか、
10代将軍家治の子供家基公が急死されたので輿入れが決まっていた皇女が門跡として入寺、
そのため11代将軍になった家斉が本堂を寄進したとか、興味深い話を聞くことができました。
書院の上段の間には、御所から移された狩野永徳と元信の襖がありました。
和辻;「御所の襖を移すと、御所の襖が無くなって困るのでは?」
ガイド;「天皇の代替わりに建て替えをするので、それを移築する訳です。」
天皇の代替わりに建て替えというと勿体ない気もしますが、
種々の儀式を行う御所ならばいつまでも古いものを使う訳にもいきません。
成程それならば廃棄することも無く有効利用と言えそうです。
寺宝の中には、カルタや御所人形もあります。
なんでも10歳未満で入寺した尼門跡もいたとかで、日々の楽しみでもあったのでしょう。
門跡は勿論生涯独身。世間一般の生活レベルに比べると裕福ではありますが、
自由と言う点では伊勢の斎宮に通じるものがあります。
高貴な身分の方々には下々には分からない苦労があるようです。
見応え十分なのは書院の襖絵と庭園ですが、120種余りの椿も有名だそう。
どうせなら3月下旬に【あんこ】ーる訪問をしたいものです。

本堂の前庭

本堂を通り椿の咲く庭へ向かう

紅八重侘助

有楽



庭奥にある楓の高木

石段を下りて書院へ
地面には苔が繁茂している。


白椿の落花

霊鑑寺門跡説明書

霊鑑寺御朱印 その1
御本尊の観世音

霊鑑寺御朱印 その2
紅霞亭、紙は書院の襖絵

会合前に時計台前で一服
ケーキセット
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華頂山 知恩教院 大谷寺(浄土宗総本山)
夕方から市内の会合に出席するために少し早めに出て、お寺巡りに。
前回訪れた長楽寺は木曜日が休館。今回は金曜日で大丈夫と期待していましたが、
門前に来るとまさかの休館。一体、いつならば開いているのでしょうかね?
このまま岡崎に向かおうと思いましたが、途中、知恩院の前を通ると大きな看板が…。
自分の家は知恩院の末寺の檀家になるので、年始なので取り敢えず参拝することに。

国宝・三門
元和7年(1621年)、徳川秀忠公の命で建立。五間三戸・二階二重門・入母屋造本瓦葺で高さ24m、幅50m。
扁額の「華頂山」は畳二畳分ある。

三門から境内へ続く階段

石段から山門を見返る
知恩院の正式名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざんちおんきょういんおおたにでら)、
『比叡山を下りた法然上人はこの東山に庵を結び
「念仏を唱えれば極楽往生できる」 という浄土宗の教えを人々に広めた。
この教えは人々に受け入れられたが旧勢力からは異端視され、
法然と弟子の親鸞は遠島。遠島を許されて都に戻った翌年に法然は80歳で没する。
後に法然の弟子達が現在地に勢至堂を建立。
江戸時代に浄土宗に帰依した徳川家康公が
ここを京都における菩提所と定めた事から寺領が拡大。
華頂山の麓が切り開かれ広大な伽藍が築かれた。
御影堂と三門は国宝に指定されている。』 とあります。

御影堂前から

国宝・御影堂(本堂)
寛永16年(1639年)に徳川家光公の命で建立。間口45m、奥行き35m、外縁3mを巡らした壮大な伽藍である。

御影堂軒下近影

宝物殿

重文・経蔵
元和7年(1621年)の建立で、秀忠寄進による宋版大蔵経を安置している。

経蔵の説明

多宝塔

阿弥陀堂
御影堂は修理中で外からのみ。それに続いて高台にある開祖の御廟まで参拝。
元来はここが発祥の場所となる筈ですが、108段の階段のためか訪れる人は疎らでした。
遠足等で何度も足を運びましたが、改めてじっくり見渡すとすべての建造物のスケールが大きい。
御影堂の大きいのは勿論ですが、渡り廊下の高さは2.5m。手を伸ばしても届きません。
三門は高さ24mで日本一、日本三大梵鐘の一つとされる鐘は70tで
大晦日には僧侶が17人がかりで撞くという代物。
境内の広い寺院は古代からありますが、建物自体が大きいのは大仏殿位のもの。
やはり浄土宗と浄土真宗は個人よりも大衆を相手にしたのでこのような巨大な建物を造り、
結果として大きな教団に発展したとも言えるでしょうか。

御影堂脇を通り本廟へ

廟への108段

勢至堂入口

重文・勢至堂
享禄3年(1530年)建築の境内最古の建造物。勢至菩薩像を祀る。

勢至堂前から

勢至堂前から御廟方面を望む

御廟前の拝殿

拝殿の軒と蔀戸

御廟前面の装飾と三つ葉葵

重文・唐門(勅使門)
大方丈玄関に通じる門。

御影堂を過ぎて北門へ
渡り廊下の高さも2.5m。

北側にある黒門

知恩院案内書(無料)

知恩院冊子 ¥500

知恩院御朱印(平成6年拝受分)
宗祖・法然上人で、当時はこれが一般。

知恩院御朱印
勢至堂のもの。知恩院御朱印は、この二つ以外は御詠歌のみ。

京都知恩院前郵便局 ; 国宝・知恩院三門
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【往路】JR大阪 → (新快速) → JR米原 → JR垂井
北口観光案内所→ レンタサイクル10分 → 真禅院 → レンタサイクル5分 → 南宮大社 → レンタサイクル15分 → 美濃国分寺 → レンタサイクル10分 → 北口観光案内所
【復路】JR垂井→ JR米原 → (新快速) → JR大阪

金銀山 瑠璃光院 美濃国分寺(高野山真言宗 準別格本山)
一之宮に続いて国分寺へ参拝。
JR垂井を中心に丁度、一の宮と反対側になります。
線路を越えて中山道に沿って東に向かうと、道路沿いに広大な広場が出現しますが、
そこが美濃国分寺跡。
その南から北を望むと山麓にやや現代的な造りを見せるのが美濃国分寺。
聖武天皇の勅願に拠って全国に建立された国分寺ですが、
中には寺院跡しか残っていないものも多々あります。
そんな中で、後継寺院が残り、しかも一之宮も近くにあるというのは稀有な例と言えるでしょうか?

史跡・美濃国分寺跡
右奥に見えるのが現在の国分寺。

国分寺の礎石

美濃国分寺入口

「やくしばし」を渡り山門へ

山門(仁王門)近影

阿形の仁王像

御縁起
金銀山瑠璃光院美濃国分寺(きんぎんざんるりこういんみのこくぶんじ)は、
『天平9年(737年)、聖武天皇の勅願に拠って行基がここ青野ヶ原に至り、
欅の大木に一丈六尺(約4m)の薬師如来を刻み安置したのが始まり。
その後、奈良の良弁僧正が第二世、弘仁年間には弘法大師が第三世、
その弟子の智泉が第四世と美濃最古の霊場として栄えた。
隆盛を極めた堂宇も仁和3年(887年)に焼失。
後に再建されるが、平安末期には衰退に入ったとされる。
復興したのは江戸初期、元和元年(1615年)に真教上人が土中から薬師如来を彫りだし、
現在の地に草葺の草堂を建て本尊を安置して以降である。』 とあります。
伝説的とはいえ行基、良弁、空海と仏教界のヒーローが住持を務めたというのは異例の事。
それだけ重要視された証でもあります。
山号寺号も金銀瑠璃と金属・鉱山に関係しているのは南宮大社との関りもあるのでしょうか?
マンガンが採れたので西美濃三十三霊場の満願札所になったとは思えませんが…。

山門から見た境内
正面が本堂。

階段を上り本堂へ参拝

本堂近影

現在御本尊は本堂後方の奥之院に祀られている

奥之院へは本堂横を通って向かう
「やくしはし」を渡り、仁王門を過ぎると正面に本堂が。
外から参拝した跡、御朱印を御願いすると丁度、若い御住職が戻って来られました。
和辻;「御本尊は本堂ですか?」
住職;「いえ。今は奥の院にお祀りしています。本堂は御前立です。」
という事で、御朱印拝受の間に奥の院までお参りすると、説明通りの巨大な薬師様でした。
和辻;「もの凄く大きな仏様ですが、これが埋まっていたのですか?」
住職;「胴体の一部は朽ちていて補修しましたが、埋まっていたそうです。」
私も各地で、戦乱を逃れた仏像を目にしましたが、その中でも大きさはトップクラス。
埋めるだけでも大変でしょうから、身の危険を顧みず
仏像を守った名も知られぬ人々が大勢居たという事でしょう。
和辻;「戦後、濃尾地震があったと思いますが、この辺りの被害はどうだったのでしょう?」
住職;「生まれてはいませんが、この付近は被害が殆どなかったと聞いています。」
やはり、美濃でも国府、国分寺等は自然災害の少ない場所を入念に調査したようです。
その当たりの危機管理は現代も参考にする必要がありそうです。

奥之院への階段から境内を見る
左が本堂の屋根。

奥之院の本尊前から

奥之院から国分寺跡を望む

奥之院にある御本尊・薬師如来(説明書より引用)
600年の風雪に耐えた御姿。国分寺本尊は薬師様が多いとか。

高台に建つ納骨堂と観音堂

鐘楼

本堂、奥之院と大師堂

境内右手にある庫裏

美濃国分寺説明書

美濃国分寺御朱印
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北口観光案内所→ レンタサイクル10分 → 真禅院 → レンタサイクル5分 → 南宮大社

南宮大社(美濃国一之宮、旧国幣大社、式内社)
真禅院参拝の後は、本家の一之宮に参拝。
通常は駅から南に新幹線を越えると鉄製の21mの朱の大鳥居が目に入ります。
そのまま南へ行くと目指す神社。
唯、今回は真禅院の前の道をそのまま東へ向かい大社の横へ。

新幹線を越えて見える大鳥居
東海有数のスケールを誇る。左にはうなぎ店も…。

大鳥居と新幹線線路

神社入口へ到着
南宮大社は、
『社伝では崇神天皇に遡る古社。延喜式では美濃国一之宮とされた。
南宮山の麓に鎮座するが、国府の南にあった事が南宮大社の名の謂れ。
祭神は鉱山を司る神である金山彦命で、全国の鉱山・金属業の総本宮として今も崇拝を集める。
慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦では境内全てが焼失。
寛永19年(1642年)に春日局の願いに拠って三代将軍・徳川家光が再建。
境内にある江戸時代の神社建築の遺構十八棟が重要文化財になっている。』
とあります。

橋を渡って楼門へ

重文・下向橋
一番下手にあり参拝者が行き帰りに渡る橋。

一つ上手のこの橋も通行可

重文・輪橋
楼門前に架かる神様が渡る太鼓橋。

楼門前から見た輪橋
神様が渡るので人間の通行は禁止。

境内から見た重文・楼門
随神像と狛犬が参拝者を見守る。

楼門正面の重文・高舞殿
舞楽を奉納する社殿である。

高舞殿とその向こうに見える拝殿

拝殿前から高舞殿と楼門を見る

高舞殿近影
四方の蟇股に十二支が彫刻されている。
初めは南宮山に由来する社名と思っていましたが、
神社の名が山の名になったと考えるのが良さそうです。
ここの祭神は金物に所縁がありますが、この辺りでは石灰岩、マンガンが採掘されています。
唯、古代に於いて金属が産出したという記録は聞きませんし、
境内には朱塗りの建造物が多いですが丹生の地名もなさそう。
なぜ金属の神として崇拝されたのか謎は残ります。

重文・拝殿
南宮造を構成する一棟で、参拝者はここで御祭神を拝す。

拝殿の後方に見えるのが重文の本殿と幣殿

重文・神輿舎
入母屋造・本瓦葺で神輿10基が収納されている。

重文・神官廊
神仏習合時代の神官の控所だった建物。唯、今は前にある仮の社務所の蔭に隠れている。

重文・勅使殿
入母屋造、妻入、銅板葺。
南宮山は関ヶ原合戦では西軍の吉川広家、安国寺恵瓊が陣を構えた場所ですが、
吉川広家は家康の意向を受け兵を動かしませんでした。
動かざること山の如しを地で行った訳ですが、結局西軍が敗戦濃厚になると戦線から離脱。
これで大丈夫と思ったでしょうが、毛利家は大幅に領地を削減される羽目になりました。
また陣地となった南宮大社としては兵が動かなかったので
被害はないと予想したのでしょうが、全て灰燼に帰しました。
吉川広家も南宮大社も考えは【大海人】だったようです。
唯、江戸時代になり幕府の力で再建にこぎつけたのは、
徳川からの罪滅ぼしの意味もあったかもしれません。
こうして令和2年初の一之宮参拝も無事終了。
個人的には鉱山・金属には縁はなくとも、金に円があればと思った次第です。

参拝を終えて北側の門から帰路へ

南宮大社御由緒

南宮大社略誌

南宮大社御朱印

垂井郵便局 ; 垂井祭の曳き山車、重文・南宮大社楼門
表佐郵便局 ; 南宮大社、表佐太鼓通り
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