<コース>
淀屋橋 → (京阪電鉄特急) → 三条 → (地下鉄) → 北大路 → 徒歩10分 → 大徳寺

大徳寺 総見院(臨済宗大徳寺派塔頭)
夕方の京都市内の会合前に、紫野の大徳寺へ巡礼。
京都五山にもなった臨済宗大徳寺派の本山で広大な境内には22の塔頭があります。
しかし大部分は非公開で常時公開しているのは四坊のみ。
今回、非公開文化財特別拝観が二ヵ所あったので早速拝観。

総見院特別公開の案内板

入口の左の唐門
ここを進むと信長公の廟に至る。
総見院(そうけんいん)は、
『天正11年(1583年)、本能寺の変に斃れた織田信長の菩提を弔うため羽柴秀吉が建立。
千利休の師に当たる古渓宗陳和尚を開山とした。信長の葬儀もここで執り行われ、
それを主催した羽柴秀吉は天下人への一歩を踏み出した。
ここの本尊は織田信長坐像。信長一周忌法要に合わせて香木(沈香)で造られたもの。
慶派の仏師・康清の作とされ、衣冠束帯の115㎝の木造。
当時は二体造られた内の一体で、もう一つは棺に入れて荼毘に付されたと伝わる。
江戸時代には200石の寺院であったが、明治の廃仏毀釈で衰退。
大正時代に再興され、境内には三つの茶室が建立、移築された。』 とあります。

受付を過ぎ、この門を通り境内へ

参道から見る本堂

境内に植えられている京都市の木・北山杉

本堂前の茶筅供養碑

供養碑の中央は茶碗、両側は茶筅を象っている

昭和3年再建の本堂

本堂近影
この奥に木造の信長像が安置されており拝観可能。

本堂の「総見院」の扁額

本堂前から見た境内
境内は広いですが、本堂は比較的小ぶり。西半分が墓地になっています。
本堂横には加藤清正が朝鮮から持ち帰った井戸、
秀吉が利休から譲り受けた「胡蝶侘助椿」もあります。
樹齢400年、日本最古というのも【誇張】ではありません。

塀の向こうの鐘楼は堀秀政の寄進

境内西北奥にある織田一族の五輪塔
左から三つ目の大きいものが信長のもの。

五輪塔の配列

本堂脇の「掘り抜き井戸」
加藤清正が朝鮮から持ち帰った石を井筒に用いている。

樹齢400年日本最古の「胡蝶侘助椿」
秀吉が千利休から譲り受けたと伝わる。

侘助椿の説明板
信長所縁の物があるとはいえ、これだけならやや殺風景。
これにアクセントを与えているのが本堂奥にある三茶室でしょうか?
いずれも表千家所縁のものが多く、今でも二茶室でイベントが行われているとか。
但し建築としては新しく、「香雲軒」「寿安席」は大正時代、「龐庵」は犬山から移築されたもの。
三者三様ですが12+18畳の「龐庵」はと茶室としては広すぎ。
しかしそのようなものも茶室として利用するのが利休の教えでもあったのでしょう。
信長の葬儀が行われたから、境内に一族の墓があるのは当然ですが、
本尊まで信長というのには吃驚。
神を目指した信長も仏となってどのような感慨に浸っているのでしょうか?

茶室へと続く渡り廊下

廊下の上に置かれた輦台
本尊である信長公の木像を運び込む際に一度使われたとか。

廊下脇の庭

渡廊下から茶室を見る

八畳の茶室「香雲軒」

「香雲軒」の内部

犬山から移築された「龐庵」

「龐庵」の縁側部分
板戸は網代様式。

入口から見た「龐庵」の縁側

「龐庵」の茶室

最も奥にある「寿安席」
大正時代に山口玄洞が建立。

「寿安席」正面

「寿安席」茶室の襖に描かれた五七の桐の紋

「寿安席」の襖絵

総見院御朱印
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 近鉄大阪線急行は1時間毎、名古屋線急行は15分毎に運転
【往路】上本町(6:00) → (近鉄大阪線急行) → 伊勢中川(7:53→7:59) → (近鉄名古屋線急行) → 桑名(8:58→9:25) → (養老鉄道) → 多度
多度駅レンタサイクル → 10分 → 多度大社 → 多度(12:02) → 桑名(12:18) → 観光案内所レンタサイクル → 5分 → 大福田寺 → 市内散策
【復路】桑名(15:42) → 伊勢中川(16:38→16:42) → (近鉄急行) → 上本町(18:36)

神宝山 法皇院 大福田寺(高野山真言宗)
多度大社の後は桑名まで戻って市内散策。それに先立ち聖天さまにお参り。
神宝山法皇院大福田寺(じんぽうざんほうおういんだいふくでんじ)は、縁起に拠れば、
『飛鳥時代に聖徳太子が南勢山田に創建。
その後、天武・持統・聖武・淳和天皇の御臨幸を仰ぎ、聖武天皇に拠り勅願寺と定められた。
平安時代には弘法大師が修行、宇多法皇が延喜年間に閑居されるなど
皇室との所縁が深く、今に至るまで菊の御紋の使用を許されている。
その後、衰微するも後宇多天皇の建治年間(1275~1278年)に勅命に拠り
忍性上人、額田部実澄公が桑名市大福に再興。
赤須賀の浜に所縁の阿弥陀如来を本尊としたが、戦国時代に殆ど焼失。
漸く江戸時代の寛文2年(1662年)に桑名松平家の援助で現在の尾野山に移り堂宇を造営。
文政年間に松平定信公の念持仏の歓喜天の寄進を受け聖天堂を建立。
以来神宝聖天尊として日本三大聖天の一つとなっている。』とあります。

道路に面した大福田寺入口
左が聖天堂、右が本堂へ続く門

山門前にて
ここを潜ると本堂へ。

山門近影

縁起

山門から本堂を見る
三重四国八十八ヵ所の第一番札所だそうな!

庫裏と玄関
山門を入った右手にある。
多分に伝説的な面もありますが、この縁起には
山号・院号・寺号のすべての謂れが描かれています。
尤も寺号は地名由来の福田寺に足利尊氏が大の字を加えたとの説もあるようですが…。
寺が飛躍したのが宇多法皇の時で、衰退後に再興したのが
後宇多天皇というのもなにやら因縁めいています。
本尊は阿弥陀如来で鎌倉期、歓喜天は江戸期と後塵を拝していますが、
現地では聖天さまの方が人口に膾炙しています。
本尊より他の仏様が有名になった寺院は各地にありますが、
それだけ実際的な御利益があった故。
なんでも昭和20年のアメリカ軍の空襲で70ポンドの焼夷弾が聖天堂に落下しましたが、
御厨子の宝珠が発火栓を塞ぎ爆破を免れたとか。近辺の人々の喜びは想像に難くありません。

境内から見た本堂と聖天堂(奥)

本堂前の大銀杏

江戸時代に再建された本堂

本堂正面
阿弥陀如来を祀る。

本堂の扁額「神宝山」

南側の門から見た聖天堂
両脇に石灯籠が並ぶ。

聖天堂近影

聖天堂の扁額

聖天堂前から
奥に見えるのが本堂。

大福田寺略記

大福田寺御朱印
参拝の後は市内を散策。
江戸時代には蛤で全国的に有名でしたが、最近は漁獲高が年間1トン程度に激減。
代わりに泉鏡花の『歌行燈』由来のうどんで町興しをしています。
店を探していると思わぬところに炭焼き「新城」の看板が…。
三重県では津や志摩が有名ですが、これは【くわな】い手はありません。
どちらも「う」で始まる長いものなので問題はないでしょう。
シラスウナギの漁獲減で価格がうなぎ登りですが、
昼間には¥2300とリーズナブルな値段の「ひるまぶし」「新城丼」のメニューがあり丼を注文。
甘いタレと関西風のパリッとした食感が絶妙でした。
支払いの時に、若い店員さんが
店員:「大阪の方ですか?」
和辻:「そうですが、どうして分かりました。」
店員:「株主優待券が見えましたので。私も淀屋橋で働いていました。」
和辻:「すると板前修業で?淀屋橋なら柴藤・志津可が有名ですね。」
店員:「いいえ、全然別の仕事で。」
和辻:「ご出身がこの近くですか?」
店員:「いえ、この店が実家です。」
和辻:「跡を継がれる訳ですね。それは素晴らしい!」
価格高騰の為に長く続いた老舗を閉める話が多いですが、
鰻料理の伝統を守り続ける店があるのは心強い次第。
いつかその手は桑名の…となる日が来るのを祈りたいと思います。

「新城」前にて
桑名駅の南、市役所東にある。

新城丼 ¥2300

食後は和菓子処「寿恵広」にてアイス饅頭を購入
尚、ここの御店の奥様も大阪出身というのも奇縁。

桑名市マンホールカード 配布場所はこちら

桑名市マンホール蓋(その1)

桑名市マンホール蓋(その2)
[参考書]
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<コース> 近鉄大阪線急行は1時間毎、名古屋線急行は15分毎に運転
【往路】上本町(6:00) → (近鉄大阪線急行) → 伊勢中川(7:53→7:59) → (近鉄名古屋線急行) → 桑名(8:58→9:25) → (養老鉄道) → 多度
多度駅レンタサイクル → 10分 → 多度大社 → 多度(12:02)

多度大社(式内社 旧国幣大社)
青春18きっぷが仕えない時期ですが、近鉄株主優待券で三重県へ。
多度駅は二度目ですが、前回はここも近鉄だったので1枚の切符でOK。
しかし今回は桑名以遠が養老鉄道になったので別料金が必要となったのは
【ようろう】しくありません。しかし路線が残った事は感謝すべきでしょう。
余談ですが前回は多度町だった行政区も今は桑名市。
鉄道は分割されたが市町村は合併したと言う訳です。
多度駅から格安¥100のレンタサイクルで多度川を5分程遡ると目指す神社。
途中、道の両脇には昔ながらの家屋が並び、清めの池もあり、
古より人々の信仰の場所だった事がひしひしと感じられます。

多度駅ホームの駅名表示板

養老鉄道多度駅舎
神社を模した造りとなっている。

多度川に沿った道路を西へ
行く手に見えるのが養老山系の多度山。

道路の左側にある宮川清めの池

池の説明板

道に沿って昔の家並みが続く

東の鳥居に到着

鳥居前の太鼓橋
多度大社は伊勢の北端、養老山系の多度山の麓に鎮座。
1500年の歴史を有する古社です。
神が宿る神体山として信仰を集めたものでしょう。略記に拠れば、
『雄略天皇の時代に社殿が造営。天平宝字7年(763年)には神宮寺も創建。
延喜式にも登場し、後一条天皇の御代には東海道六社の内の一社に数えられた。
南北朝時代の暦応年間には上げ馬神事も始まり、皇室からも度々幣帛が献ぜられた。
平安末には伊勢平氏の、中世には伊勢国司の北畠氏の庇護を受けたが、
元亀2年(1571年)織田信長の兵火に拠り焼失。美濃の赤坂山に御動座になり、
江戸時代になり桑名藩主本田忠勝の寄進を受けこの地に再興した。
また伊勢神宮との関係も深く、近世以降は
「お伊勢参ればお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」
とも言われる程賑わった。』 とあります。
桑名市に編入されたとはいえ、それ程人口の多い場所ではありません。
それでも古代より信仰の場所となったのは、
御神体の多度山と境内を流れ多度川に注ぐ宮川があった故。
大河である揖斐川からどんどん川を【たど】り行き着いた先に宮を建てたのでしょう。
それで多度大社と呼ばれるようになったかは知りませんが…。
伊勢神宮との関りですが、多度の他にも近江の多賀大社、伊勢朝熊山にも
同じような事が伝わっているので伊勢との関係を強調する意向だったのでしょう。

正面入り口より境内方面を見る
左にあるのが上げ馬神事に使用する上げ坂。

上げ坂脇にある楠の御神木

石段を上った光景
左の参道を行くと本宮へ至る。

参道右手の神楽殿

奥の本宮への参道
行きは左、帰りは右の道を行くそう。

左の参道を行く

石灯籠の向こうに鳥居と門が見える

於葺門
この門を過ぎると本宮・別宮へ。

於葺門の扁額「多度両宮」
本宮と別宮があるため。

於葺門から来た道を振り返る

神橋を渡った場所から於葺門を見る

神橋上から宮川の源流を見る

本宮 多度神社
天津彦根命(天照大御神の御子神)が御祭神。

別宮 一目連神社
天目一箇命(天津彦根命の御子神)が御祭神。

於葺門脇の美御前社

帰りの参道
左が宮川で奥に見えるのが神楽殿。

参道右の松尾芭蕉句碑
それよりもここを有名にしたのは毎年5月の御礼祭に行われる「上げ馬神事」。
以前に見たニュースでは、学生が武者姿で馬に跨り、
石段横の坂を駆け上がり最後に土壁を乗り越えていました。
祭りと言うのは若者の有り余ったエネルギーを発散させる目的もあり、
全国には結構荒っぽい危険な祭りも多いですが、ここの祭りもその例に漏れません。
さて実際に神事の場所に来て見ると思ったよりも坂が急。
しかも土壁が2m程もあり、人や馬が怪我をする事もあるとか。
まさに壁高く馬越える春です。
階段の先には神馬舎があり「錦山号」という白馬がいました。
普通は神馬の模型ですが、ここは本物。
御朱印を拝受する際に神職に伺った所、
神職;「血統書付きの名馬ですが、怪我をしたのでここへ来ました。そのままだと、馬刺しになってしまうので…。」
との話。神事で乗る馬ではないようです。
怪我をしたのは不運でしたが、御蔭で良い場所で余生が送る事が出来ました。
万事塞翁が馬ですね。

多度祭の説明

石段左の上げ坂
奥の建物は多度祭御殿。ここで見学するのか?

下から見た上げ坂

上げ坂近影
近くで見ると急勾配が分かる。

先の土壁は高さ2m程もある

土壁の上から見た上げ坂

境内から石段を見返る
これだけの高さを馬で一気に駆け上がる。

神馬舎の錦山号

これは購入しなかったが、代わりにニンジンをあげた

入口右手にある重厚な門

道路から見た長屋風家屋
神職の住居か?

入口左手の家屋
表札が上がっていたので現在の住居はこちらか?

多度大社略記

多度大社御朱印

御朱印とオリジナル御朱印帳の案内
その後、訪れた南多度郵便局でも
局員;「神事の馬は、時期になると地区ごとに借りてきて世話をしています。」
和辻;「ニュースでは中高生が参加していましたが、おっさんは?」
局員;「若い人だけですね。」
和辻;「女性は参加しないのですか?」
局員;「女人禁制で、我々女性は馬の世話もさせて貰えませんね。」
との事でした。
ジェンダーであるとか、外部からは動物虐待という苦情もあるようですが、
地元の方の話からは別段それを気にもしていない様子でした。
色々な意見もあるでしょうが、それも祭りの一つの在り様とも言えます。

参詣後は南へ
多度川沿いにある大鳥居と「だるまうなぎ」の店。生憎開店前だった。

桑名市(多度)マンホール蓋
かつては多度町だったのでオリジナルがある。

多度郵便局 ; 多度祭・上げ馬神事、千本松原、イヌナシ

南多度郵便局 ; 多度祭・上げ馬神事、多度山、多度峡みそぎ滝
七取郵便局 ; 多度祭・上げ馬神事、町木・梅
[参考書]
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<コース>
横浜 → (京浜急行) → 久里浜 → バス10分 → 久里浜港(9:15) → 高速船 → 大島岡田港(10:15)

大島公園内にて
都はるみさんが独特の唸りでデビューしたのが昭和39年。
以来、大島と言えばアンコと椿の島。
伊豆七島は伊豆という位ですから伊豆の国。
いまの静岡県ですが明治になって東京に編入されました。
東京都と言っても、飛行機か船でないと行けない離島。
先ず、縁はないと思っていましたが、
第63回大島つばき祭りに合わせて久里浜港から高速船が出る様子。
久里浜ならば行き易いので、早速、旅行会社に申し込み。
船+食事+見学=¥6,900 のパックツアーでありました。
若い娘を表す「アンコ」ですが、元来は目上の女性の意味。
おそらく姉御→アンコでしょうね。
島内ではアンコ装束の年配の女性が、行く先々でお出迎えしてくれますが、
アンコ本来の意味に戻った気もします。アンコ猫ヤアンコワンコにはちょっと驚きですが…。

久里浜港から東海汽船セブンアイランド号に乗船
9:15発で大島岡田港10:15着。ジェット船のため80㎞を60分の船旅。

港では「あんこわんこ」がお出迎え

待合所前の為朝碑

バス移動の途中の椿の小径

大島公園でのアンコさん達のパフォーマンス
バックミュージックは勿論「アンコ椿は恋の花」

椿博物館にて

椿博物館からの眺め
島全体は椿で有名で植物園等があります。
椿は南方系の樹木なので温暖な大島には自生していても不思議はないですが、
花だけでなく椿油を採るという実用目的。江戸時代から整髪油として重宝されました。
食材は金目鯛はじめ海産物が主。【餡子唾気】とは参りません。

これは野生のヤブツバキか?

温室内にて中国産椿

貴宝殿

Cara Mia
椿は西欧に伝わると、早速挙って栽培された。

Great Eastern

暁香(あかつきのかおり)

プリンセス雅子

金茶花

椿花ガーデンの椿の小径にて
そう言えば、沙羅双樹もツバキ科。

大島桜
染井吉野の元親の品種。
大島のもう一つの顔は流刑地。
保元の乱で敗れた鎮西八郎為朝がその弓の腕前を惜しまれ、ここに配流。
しかしここでも国司の命に従わなかったので、都からの追討を受け自害しました。
これで話は終わる筈ですが、為朝はここで死なず琉球へ逃れ、
息子が初代琉球王舜天王になったと、正史「中山世鑑」、滝沢馬琴「椿説弓張月」にあります。
恐らく都の貴種に自出を求めた琉球王室の策略。
江戸時代には薩摩の支配下に入りますが、
同じ源氏の流れを自称する島津藩への対抗措置でもあったのでしょう。
とんだ珍説とはなった気がします。

昼食は大島温泉ホテルにて「島っこ膳」
金目鯛と大島揚げ(明日葉と魚のすり身)が美味。

明日葉の味噌汁
太めの三つ葉という感じ。

温泉ホテル前にて
生憎、ガスが掛かっている為、冨士は見えず。

三原山、真正面に三原神社がある
噴火口の御洞(みほら)が三原の語源になったそう。

麓の馬達

左二頭は与那国馬。右は宮古馬。

山頂口から元町港を

岡田港付近の八幡神社
為朝が建立したとかしなかったとか。

八幡神社本殿
[参考書]
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<コース>
横浜 → (相模鉄道) → 海老名 → (小田急電鉄) → 開成 → (臨時バス) → 瀬戸屋敷 → (臨時バス) → 開成 → (小田急電鉄) → 小田原 → 徒歩10分 → 報徳神社

開成町瀬戸屋敷 2/18~3/5
期間中は小田急開成駅から臨時バスが出る。¥210、10分
法華経寺に続き、ひなまつり第二弾は藤沢在の同窓も参加して頂き、神奈川西部にて。
開成町は神奈川最小の町。目立った観光地はないですが、
富士山系の伏流水と知る人ぞ知る米どころ。昭和天皇への献上米もここで作られたとか。
その町のかつての名主瀬戸家を使ってのお雛様展示。
駅からはそこそこ距離がありますが、イベント時のみ小田急開成から臨時バスが。
十年ほど前から始まったイベントだそうです。むかしの土蔵に【どうぞ】と人形が展示。
享保雛から平成の段飾りまでありましたが、珍しいのは吊るし雛。
関西ではまず目にすることはありません。
伊豆地方では有名ですが、ここも河津地域から伝わった様子。
地元の婦人会の方々が総出で作製されたそうで、買わずに済んだとの事。
集まった雛人形も壮観でしたが、敷地内の梅も含め
屋敷が周囲の風景と一体となっていたのが魅力でした。

小田急電鉄開成駅改札外の案内

バス停より見た瀬戸屋敷外観

屋敷前の長閑な田園風景
今時こんな案山子も珍しいが、どうも観光用に設置されている様子。右上には幽かに富士山が…。

門では可愛らしいお雛様がお出迎え

土蔵外観
昔は米を保管。雛人形はここがメイン。

展示中の雛人形
これは現代版か?

雛壇の横の吊るし雛

こちらは瀬戸家に伝わるお雛様
200年以上前の物という話。

調度品も今と異なり、時代を感じさせる

雛人形と言うより市松人形?

享保雛
地元の蔵から出て来た300年前のもの。

享保雛近影
典型的な瓜実顔。

これは現代風、子供雛か?

土蔵二階では地元の方が琴を演奏

二階の展示雛

土蔵内に飾られた吊るし雛

吊るし雛近影

瀬戸屋敷母屋か?

母屋縁側に置かれた造花

屋敷内の人出

屋敷内は梅も見頃
その後は、小田原で城下町を散策しながら昼食。外郎本店では甘味も頂きました。
小田原城の周辺に報徳神社があったのでお参り。二宮尊徳(金次郎)を祀っています。
小学校にある薪を背負って本を読んでいる像が有名ですが、
彼は没落した家を復興させ、その手腕を買われて藩の財政を立て直した財政家でした。
彼の言葉に
『小人には小欲あり、大人には大欲あり。』 というのがありますが、
小欲とは己のみが望むもの、大欲とは万人が望むものだそうです。
学問だけでなく、実践に生かしたところが偉大なのでしょう。
内村鑑三博士は『代表的日本人』で取り上げていますが、
今の日本にはこのような事を述べる人がいるのでしょうか?

季節のスイーツセット¥600
苺のムースと抹茶。

報徳神社へと続く参道

参道脇の二宮金次郎像
小学校にある典型的な像。余談だが、読んでいるのは四書の『大学』

像の説明

二宮尊徳翁像
大柄で体格が良かったと記録されている。

翁像の説明

報徳神社拝殿

小田原城の堀にてカワセミを発見
このあと石垣方向に飛んで行って姿を消した。石垣の隙間に巣を作っているのだろう。
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蕨城址
今は公園となっている。渋川氏の居城。横には和楽備神社があるが、漢字としては蕨の方が古いと思われる。
25日は研修会。二十三区と思いきや、何故かさいたま新都心。
ここも武蔵国と己を納得させましたが、折角なのでふらふらと中山道をば散策することに。
蕨はかつて足利一門の渋川氏の居城。
いまはベッドタウン化していますが、街道沿いには昔の名残が見られます。

蕨城址公園

蕨宿一の本陣跡
旧中山道沿いに昭和48年モニュメントを復元した。

本陣跡説明板

昔風にリニューアルしてある街道沿いの民家

蕨市立歴史民俗資料館入口

かつての織物の買い継ぎ商人の家屋
今は蕨市立歴史民俗資料館別館。

別館にある本屋


本屋の庭

分館の説明

蕨宿復元模型

江戸末期の蕨は綿織物(双子織)の生産地
職人の作業着「青縞」が有名。

蕨宿の店
蕨は街道沿いの整備に力を入れている
いまでこそ県庁となった浦和ですが、元々は小さな宿場で
明治初期に県庁の建物を建てる余裕があったから選ばれたとか。
山口・宮崎と並んで昭和9年にようやく市に昇格したと言うから今昔の感があります。
名物には縁遠いと思われがちな両市ですが意外なことに江戸期より鰻が名物。
故やなせたかし氏デザインの「浦和うなこちゃん」がマスコットキャラとなっています。
なんでも蕨より先、江戸方面には鰻屋がなく「腹が減って元気が出ないよう~」
と言った旅人は浦和・蕨で精をつけて「元気百倍!」と江戸に向かったとか。
尤も次の板橋宿は遊郭で有名だったので「元気千倍…」と
向かった旅人も多かったのは想像に難くありませんが…。
研修後の夕食は浦和老舗御三家の中村屋(江戸期創業)にて。
昨今の鰻の高騰で高くなったものの江戸よりは大分安め。
平成のサラリーマンはそのあと板橋には行かず、北区を通って帰宅の途につきました。

JR浦和駅前に建つマスコットキャラ

中村屋
旧中山道から少し西にある。

今日の夕食
お重は、¥1900(並)、¥2900(中)、¥3900?(上) これは中。

街道沿いにある山崎屋(江戸期創業)

同じく満寿屋(明治創業)
かつては昔風建物だったが、改装された。チョット残念。

中山道蕨宿にある鰻屋
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<コース>
東梅田 → (地下鉄谷町線) → 田辺 → 徒歩5分 → たなべ不動尊

紫金山 小松院 法楽寺(真言宗泉涌寺派大本山)
大阪市内での所要が昼に終わったので、少し足を延ばして東住吉まで。
谷町線はしょっちゅう利用しますが、梅田を過ぎると天王寺か阿倍野までで下車することが殆ど。
ここを過ぎると他社の鉄道との乗換駅がない事、人家は多いですが
駅周辺に観光地があるのが平野近辺くらいと言うのがその理由。
唯一?の例外と言えそうなのが田辺駅近くにあるお不動様。近畿不動尊にもなっている古刹です。
不動産の駅近くは?もありますが、お不動さんは本当に徒歩5分。
以前、出張時に御朱印は拝受しましたが写真撮影はなし。
御朱印帳を持参しながら何故カメラを持っていなかったのか
忘れようとしても思い出せませんが、今回は撮影のための再訪となりました。

案内図

西側の塀越しに境内を見る

正門は南側に
天然記念物の大楠が見える。

法楽寺入口
紫金山小松院法楽寺(しこんざんこまついんほうらくじ)は、真言宗泉涌寺派の大本山。
荘厳な名前ですが、地元では「たなべのお不動さん」で通っています。由緒に拠れば、
『治承2年(1178年)、平清盛の嫡男、平重盛公が創建。
日頃から深く仏法に帰依された重盛は黄金三千両で
宋国の阿育王山の方丈、仏照禅師から仏舎利二顆を招来。
この仏舎利を奉じて平治の乱で敗死した源氏の棟梁・源義朝を初め
源氏・平家の菩提を弔う寺を摂津の田辺に建立した。
山号は紫金に輝く二顆の仏舎利、院号は小松内大臣と呼ばれた重盛公に因む。
これが法楽寺の濫觴で、その壮麗な伽藍は戦国末の元亀の頃まで、
「殿堂壮麗にして巍巍たり」という状態で維持された。
しかし元亀2年(1571年)の織田信長の摂津攻めで寺院は全焼。
正徳元年(1711年)になって漸く、河内の野中寺より洪善普摂律師が晋山し本格的な復興を開始。
大和大宇陀の松山藩織田家の殿舎を譲り受けたのが、現在に残る山門と本堂である。』 とあります。

山門近影
享保年間に大和松山藩織田家より寄進された。

山門から見た境内
正面には平成の三重塔が見える。

境内から山門を見返る

鐘楼と大楠

楠大明神として崇拝されている大楠
天然記念物で高さ26m。

注連縄、天狗面と二宮金次郎も

大楠脇の水かけ不動
言うまでもないがこれが御本尊ではない。

平成の三重寶塔
命名は三笠宮殿下御夫妻に拠る。

平成8年落慶法要で、本尊は大日如来

本堂側から見た三重塔

塔の頂上の相輪
全長8m。
創建840年になる古刹。創建した平重盛は清盛の嫡男でありながら父に先立ち逝去。
人格者であり人望もあったと言われますから、もし彼が清盛の跡を継いでいたら、
その後の源平の流れも違ったものになっていたでしょうか?
現在の場所からは想像もつきませんが、
かつては熊野から難波宮跡まで続く難波大道に面した場所。
このような場所にありながら戦国期まで堂宇が保たれたのは奇跡ですが、
焼失した後も元の場所で復興したのもまた奇跡的と言えます。
殿舎を寄進した大和松山藩は信長の次男・信雄を始祖とする家系。
織田氏は清盛の孫の資盛の子を始祖とする平家の末流。
境内の瓦には平家の揚羽蝶の紋が至る所に見られます。
平家の本家が建立し、その子孫が焼討ちした伽藍をその末裔が復興するというのも、
因縁の不思議さを感じます。重盛の遺徳のお蔭でしょうか?まさに【所業無常】の響きありです。
伽藍は江戸時代以降ですが、境内の大楠は樹齢800年。創建時からの興亡の生き証人でもあります。

三重塔の瓦の揚羽蝶紋

本堂正面

本堂も大和松山藩織田家より寄進

御詠歌と御本尊の扁額

本堂の屋根瓦の揚羽蝶紋

本堂西側の新しい大師堂

客殿と庫裏

庫裏と前庭

前庭のアヤメ?

前庭の紅梅も見頃

紅梅と大楠越しに見る三重塔
梅木学問と楠学問の対比か?

本堂裏にある庭園と茶室
立入禁止なので外から撮影。

本堂移築の際の一連の瓦を展示
またこの地域は江戸時代には「田辺大根」の産地。
土質が大根栽培に向いていたらしく、当時の西門に因み「横門大根」の名で知られました。
境内には碑も残り、周辺では栽培もされているとか。
和辻;「地図では北側に大根畑があるみたいですが…」
住職;「年末に全部抜いてしまうので、今はないですね。」
和辻;「何に使われるのでしょう?」
住職;「毎年12月28日の終い不動で、参拝者に振舞います。」
和辻;「一杯、千円くらいですか?」
住職;「いえ無料です。唯、少ししか用意できないので、すぐに無くなってしまいますが…。」
京都市内での大根炊き「振舞い」は一杯千円が相場なので、こちらが本来の振舞い。
大阪人の気質と言っては何ですが、損して得獲れと言う事を実践している模様。
大根炊きに朝から並ぶ気はしませんが、無病息災に一度くらいは食べてみたいものです。
大根は空振りでしたが、駅前の銘菓処「松屋」には「田辺大根」を象った銘菓が。
かるかん仕様の間に大根の葉を練り込んだ餡を挟んだもので、しっとりとした味わいでした。
大根はジアスターゼの為、食べてお腹をこわす人は居ないので
「当たらない」役者を大根役者と言うそうですが、
この伝統野菜の復興は是非当たって欲しいと思いました。

田辺大根はこのような形
本堂横のオブジェ。

境内にある田辺大根の碑

法楽寺縁起(左)と略記(右)

法楽寺御朱印

寺の北側の大根畑
僅かに抜き残った葉が見える。この他にも栽培されているが、旬の時期に地元の店に並ぶくらいの貴重品。

創業70年を越える銘菓処「松屋」
谷町線田辺駅の出口の向かいにある。

郷土銘菓「田辺大根」
日持ちは10日くらいか?

東住吉田辺郵便局 ; 法楽寺の大楠、重文・絹本着色不動明王二童子像
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<コース> 特急は10分間隔、叡山電鉄は15分間隔で運転
淀屋橋 → (京阪電鉄特急) → 出町柳 → (叡山電鉄) → 市原 → 徒歩3分 → 小町寺

如意山 補陀洛寺(天台宗延暦寺派尼寺)
大晦日に洛北に所要があってので、少し寄り道して巡礼。
出町柳駅から鞍馬行きに乗車し、殆ど人が下りない市原で下車。
人も疎らな駅周辺から線路沿いに南に戻った道沿い、
崖の上にひっそりと建つのが小町寺こと補陀洛寺。
人気も無く物寂しい雰囲気ですが、それもその筈、古代には付近一帯の葬礼の地。
昭和二十年代までは幽霊が出ると言う噂で地元の人も近づかなかったとか。
如意山補陀落洛寺(にょいさんふだらくじ)は、
『平安時代中期、天台僧・延昌(えんしょう)が修行中に一夜の宿を借りた老夫婦の願いにより
再興した明興寺が嚆矢。清原深養父が建立したとされる。
その後、後白河法皇の大原詣で立ち寄ったと言われるが、時代が下るに従い衰微。
焼失した後に清原深養父が大原に住んだ補陀落寺を移した。』 とあります。

1999年再建の本堂
鞍馬寺の護摩堂を移築。本尊は阿弥陀如来。
清原深養父 (きよはらのふかやぶ 889年以前~945年以降)は、
908、923、930年の任官の記録が残る程度で詳しい事績は伝わりません。
清原氏は舎人親王(天武天皇皇子)の末裔、父は清原房則(海雄、通雄とする系譜もあり)。
孫に清原元輔、曾孫に清少納言がいますが年齢差から元輔(908年生)を深養父の子とする説も有力。
清少納言は枕草子の冒頭で「夏は夜」と書いていますが、この歌が念頭にあったのかもしれません。
月のおもしろかりける夜、暁がたに詠める
・夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ
[百人一首第三十六番 古今集・夏]
(訳) 夏の夜はなんと短いのか。未だ宵と思っていたのにもう明けてしまったじゃないか。
これでは沈む間もない月は雲のどの辺にいることやら。
小倉百人一首でも有名な歌。深養父は勅撰集に41入首するなど
存命中は紀貫之・凡河内躬恒等に次ぐ高い評価を受けた歌人です。
しかし三十六歌仙の撰者の藤原公任にはあまり評価されず【いずこに宿る】状態でしたが、
藤原俊成により再評価され【宵ながら明けぬる】となりました。
古今集で尊ばれた機知や諧謔が後世の人に受け入れ難かったのでしょう。
深養父の弾く琴を聞きながら兼輔と貫之が詠んだ歌が後撰集に入手しており、
貫之・躬恒・藤原兼輔といった当時の歌壇の重鎮とも親交があったようです。
晩年は洛北の大原に補陀洛寺を建て「女ひとり」ならぬ男ひとりで隠棲したと伝わります。
ふ【堕落】した生活を送った訳ではなく、自然と音楽を愛する優雅な余生であったといえましょう。
この辺の出所進退は蝉丸に似ているとも言えます。
寺はその後焼失し静市市原に再建され、その名を現在に伝えることとなりました。

本堂内にある小町老衰像

境内にある「小町姿見の井戸」

小野小町の「花の色は…」の歌碑
しかしここは深養父よりも小野小町が晩年を過ごした寺として有名。
一説には小町が晩年を過ごし、昌泰3年(900年)に八十余歳で亡くなったと伝わります。
本堂内には「小町老婆像」が祀られていますが、
右手に杖、右足を岩座に置いた晩年の姿を表した鎌倉時代の作。
絶世の美女との落差を感じない訳にはいきませんが、人々の嫉妬がこのような伝説を生んだのでしょうか?
唯、御住職の話では、
「確かに老ではあるが決して「衰」ではない!」
そうで、そうすると己に対する自身の表れともいえそうです。
綺麗に齢を取るというのは現代でも大いに参考になると思います。
尚、小町寺として有名な補陀落寺ですが、小町の方が時代的には深養父よりも前。
「小野道風の書いた和漢朗詠集」の様に中世史では時々このようなことが起こるのも不思議。
【小町】ってしまいますが、真相は【深養父】の中です。

補陀洛寺御朱印
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JR京都 → JR東福寺 → 徒歩15分 → 泉涌寺入口 → 雲龍院 → 今熊野観音寺 → 新善光寺 → 戒光寺 → 即成院

光明山 即成院(真言宗泉涌寺派塔頭)
戒光寺で大仏を拝観した後、境内の総門前にある即成院を通ると「極楽浄土」の看板が。
冬の特別公開の範疇には入っていませんが、
極楽浄土の音楽を展示しているらしいので、またぞろ参拝。
光明山即成院(こうみょうざんそくじょういん)の歴史は、
『正暦3年(992年)に恵心僧都が伏見に建立した光明院が嚆矢。
その後、関白・藤原頼通は宇治に平等院を建て極楽往生を願い、
その子・橘俊綱も寛治元年(1087年)に伏見桃山に広大な山荘を営み
光明院を阿弥陀堂として移設した。
但し、恵心僧都は伝説で実際は一世紀後の橘俊綱が創始者とされる。
当時は浄土信仰が盛んになり、臨終に際しては阿弥陀如来と
二十五菩薩のお迎えで極楽浄土に行く事が理想とされた。
そのため寺院の本尊も阿弥陀如来と二十五菩薩であり、
平安時代の定朝と弟子の作とされる。
当院では毎年10月第三日曜日にお練り法要が開催されるが、
それを先導するのは大地蔵菩薩に導かれた二十五菩薩である。
寺院自体は豊臣秀吉の伏見城築城により深草に移転。
明治の廃仏毀釈により廃寺となるが、仏像は泉涌寺の塔頭・法安寺に引き取られ、
昭和16年に寺号の即成院が復活した。』 とあります。

山門と拝観の案内

屋根の上の鳳凰
開山が平等院を造った頼通の息子の為か?

門扉の彫刻も鳳凰

山門から見た境内

書院
ここは拝観なし

本堂正面
拝観はここから。

本堂前から見た境内
この寺院も彼方此方を転々とする経緯を経ていますが、
最終的には泉涌寺に落ち着きました。明治の廃仏毀釈は各地の寺院には痛手でしたが、
皇室所縁の泉涌寺だったからこそ、この窮地を乗り切ることができたのかもしれません。
また、即成院は源氏方の武将・那須与一所縁としても知られ、
与一が隠棲し境内に葬られた場所でもあります。
一説では那須氏の本貫地が即成院に寄進されたとか。
那須与一と言えば屋島の戦いで扇の的を射た事で有名ですが、
的を射るという事で願いが叶うとされています。
那須氏にとっては【良い地】であったことになります。

与一の手洗い所
といっても与一がここで手を洗った訳ではない。

本堂奥にある那須与一の墓

本堂内の那須与一の展示
ここは無料で拝観できる。

絵馬も的タイプ
御本尊と二十五菩薩、与一の墓は無料で拝観できますが、
折角なので¥500で内陣から本尊にお参り。
いずれも非常に大きな像で、功徳が大きくなるようにと願った結果と言われます。
内陣脇ではお練り法要の楽器と面が一式展示。
御住職から「撮影も、持って頂いても構いません。」
と伺ったので早速体験。木製と思いきや紙製なので意外と軽い。
これなら法要の間も疲れないでしょう。
尤も参加者は寺院の関係者なので部外者は見学だけと言うのが残念ですが…。
寺院では静かに参拝するのが礼儀ですが、音楽とは切っても切れない関係があります。
天台宗の声明がお経になってそこから音楽が生まれます。
これはキリスト教の讃美歌、イスラム教のアザーンでも同じ。
少し違いますが、萬葉集の挽歌もこれと似たものでしょう。
まさか亡くなった人の怨霊を【音量】で鎮めようというのではないでしょうが…。

内陣のお練り供養面の展示

お練り供養面の近影
紙を張ったもので、頭の飾りのみ金属製。

法要での楽器の展示

琵琶、琴、鞨鼓、篳篥など

阿弥陀如来と二十五菩薩
撮影禁止のため、これは境内の案内板。

即成院説明書

即成院御朱印

令和元年 JR東海ツアーズ限定御朱印

令和2年 JR東海ツアーズ限定御朱印

遅めの昼食は時計台前のカンフォーラにて
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東山 戒光律寺(真言宗泉涌寺派塔頭 準別格本山)
新善光寺参拝を終えて帰りの参道を歩いていると、
「重要文化財(鎌倉時代) 運慶・湛慶父子の大作
釈迦如来 十メートルの木造の大仏様です ご参拝下さい」 の看板が。
当初の予定ではありませんでしたが、無料拝観の様なので、この機会にと参拝する事に…。

泉涌寺参道脇の山門と釈迦如来拝観案内板

戒光寺由緒

山門前の「丈六釈迦如来」の寺標
東山戒光律寺(ひがしやまじょうこうりつじ)は、
『安貞2年(1228年)、後堀河天皇の勅願寺として猪熊八条の地に創建。
開山は南宋から帰朝した浄業曇照で、本尊には運慶・湛慶父子の合作である
丈六の釈迦如来立像を安置。巨大な伽藍を持つ戒律復興の道場とされた。
皇室・庶民の尊崇を集めていたが応仁の乱で焼失。
本尊だけは難を逃れて一条戻橋付近に戻った。三条河西に移築の後、
正保2年(1645年)に後水尾天皇の発願で泉涌寺塔頭となり今に至る。』 とあります。
境内に入ると、本堂がありその奥に更に高い堂が付けられています。
前で拝んだ御本尊は身の丈5.4m、台座から後背まで入れると10mという巨大なもの。
以前に参拝した中では、大和と鎌倉の長谷寺の御本尊が似た雰囲気ではないでしょうか?
仏像は必ずしも大きければ良いというものではないですが、
多くの人に信仰されるにはやはり大きい方が効果的なようです。
伽藍が焼失した際に、このような大仏をどうして避難させたのか不思議ではありますが、
泉涌寺へは祇園祭りの山鉾のように台車で曳かれて移られたとか。
いずれにせよ、今に残った事は幸いです。

山門から見た本堂(右)と庫裏

本堂正面

本堂と奥に続く本尊を安置する堂

この中に御本尊が祀られている
以前に見た京都の仏像巡りの番組で、
俳優の渡辺大さんと仏女の政田さんがこのお寺を訪問されていました。
御住職から、
「お釈迦様の身長は丈六尺だったと記録されています。
ですので、この御本尊は同じ大きさで作った生身の仏様です。」
と説明があって、大さんと政田さんは驚いた様子。
白髪三千丈の誇張とはいえ、いくらなんでも生物学的に5.4mの人間はあり得ません。
勝手な推論ですが、記録に丈六尺とあるのは一丈六尺ではなく
身の丈が六尺という意味だったのではないでしょうか?それならば違和感はありません。
記録の読みにはより【しんちょう】を期すべきでしょう。
更に続いて、
「本尊の首筋に見えるのは血の跡で、後水尾天皇が東宮時代に争いに巻き込まれ
暗殺者に首を斬られた際に、身代わりになり付いた血の跡です。」
と説明がありましたが、これだけ大きな仏様を身代わりにするのも難しい話。
一体どんな事情があったのでしょうね?

境内の案内図にある御本尊

書院の立花

戒光寺

戒光寺御朱印
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一條殿 新善光寺(真言宗泉涌寺派 準別格本山)
札所に続いて、もう一つの特別公開寺院を拝観。
新善光寺(しんぜんこうじ)は
『寛元元年(1243年)、後嵯峨天皇の勅願により一条大宮の地に創建。
本尊は信州善光寺阿弥陀如来と同じ様式で鋳造された鎌倉時代の作。
天皇は、都の内外万民が信濃への国へ行くには遠き山路を越え、
また志あれども思うにまかせざる者の為に建立し新善光寺の名を賜った。
応仁年間に兵火に掛かるが、文明5年(1473年)に後土御門天皇の勅に拠って
泉涌寺境内に移された。』 とあります。

泉涌寺参道から下った所にある新善光寺
左奥には泉山幼稚園があるので、表門前にはママチャリが停まっている。

表門

由緒

表門から見た境内

枝垂桜

客殿玄関と中門

大方丈縁側と庭園
要は、都人が信濃への国へ行くには幾多の困難が伴う事から、
都にて善光寺の本尊を拝む事ができる様に都に持って来たと言うもの。
武田信玄が甲斐善光寺を建立したのとは意味合いが異なります。
今でも全国観音霊場百カ所巡礼を終えた人は善光寺に参るそうですが、
近代以前にも善光寺は全国から多くの巡礼者を呼び寄せる力があったようです。
善光寺の一光三尊像は勅命に拠り絶対秘仏ですが、
見る事のできない御本尊にどうしてこれほど人が集まったのか?
見れない故の信仰なのか、今後考える余地がありそうです。

大方丈の窓から見える枝垂桜
ここの中庭には降りる事ができない。

大方丈の襖絵 玄宗と楊貴妃図
撮影禁止の為、案内図にて。

大方丈縁側から見た本堂

本堂前の石塔と碑

大方丈から本堂へ続く廊下

本堂への途中

これも悟りの窓か?

礼拝後の本堂前にて

本堂前から見た池と愛染堂
そういえば善光寺は天台宗と浄土宗。泉涌寺は真言宗なので新善光寺も真言宗。
和辻;「善光寺を名乗りながら宗派が違うのはおかしくないですか?」
ガイド;「いえいえ、全国には善光寺と名のっている寺院は百を越えますが、宗派はバラバラですよ。」
との事。よく言えば宗派に寛容、悪く言えばいい加減な感じではあります。
唯、お参りする人もそこまでは気にしなかったでしょう。
現在は御朱印ブームですが、巡礼する寺の宗派を知らずに
書いて貰う人が結構いるようですから、推して知る可です。
新善光寺は室町以降、庶民の信仰を受けて栄えたとありますが、
本尊の阿弥陀如来に加えて愛染明王さんの信仰が盛ん。
愛染明王は恋愛成就・夫婦円満の御利益に加えて武運の神様でもあって、
戦国武将・直江兼続が兜の前立に「愛」を用いたのは愛染明王の信仰によるものだそうです。
庶民の信仰が深いとありますが、方丈内はやはり皇室所縁の優雅な造り。
狩野派に拠る白楽天、玄宗と楊貴妃の襖絵や長恨歌を題材にした絵巻物などは芸術性が高いと感じました。
戦前には長恨歌は皇室の醜聞を描いたと言うことで不敬に当たったそうですが、
近世の方々はそのような事に拘りはなかったようです。
そんな事を言えば、源氏物語も没になってしまうでしょう。
展示品には螺鈿の煙草盆もあって、皇族の方がキセルで喫煙していたと言うのが驚きでした。
かなり捌けた方々も多かったのではないでしょうか?

本堂より見た大方丈

庭園の様子

庭園より見た大方丈

庭園より見た本堂

十三重石塔近影

池の鯉と愛染堂

愛染堂近影

愛染堂から見た境内

新善光寺説明書

新善光寺御朱印
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新那智山 観音寺(真言宗泉涌寺派塔頭 西国三十三ヵ所第十五番札所)
雲龍院に続き次の特別公開寺院に行く途中に西国札所があったので、ちょっと立ち寄り。
場所的には参道から坂を下って再び上った場所。
かつての本堂は今よりも奥にあったとされ、地形的にも霊が集まるような場所だったのでしょう。
平安時代には鳥辺野と呼ばれる貴族の葬送の地でしたが、
葬礼や法要の多くを観音寺が行っていた事がそれを証明しています。

泉涌寺参道の左にある入口
看板に「頭の観音様」とある。

由緒記

朱塗りの鳥居橋を抜けて境内へ
付近は桜と紅葉の名所である。

参道を通り境内へ

何故か閉まっているお茶所を横に見て階段を上る

子護大師
開創された弘法大師を祀る最初にお参りする場所。
新那智山観音寺(しんなちざんかんのんじ)は、由緒記に拠れば
『平安初期の825年頃、嵯峨天皇の勅願に拠って空海が開創。
東山から光が出ているのを見て当地に来た空海は、熊野権現の化身の老人に出会う。
その際に老人は1寸8分の観音像を渡し「この地に堂宇を建てて観音を祀るように」と告げて去った。
空海はその像を自ら彫刻した十一面観音の胎内仏として祀った。これが観音寺の起こりである。
白河法皇の時代になると、紀伊熊野三山に対しこの地を今熊野と呼ぶようになった。
後白河上皇の永暦元年(1160年)には、この地に熊野権現を勧請し、
新那智山の山号と観音寺の寺号を賜った。
以後、西国札所として幾多の戦乱に逢いながらも現在まで隆盛を誇っている。』 とあります。

境内遠景

正徳2年(1712年)建立の本堂
本尊は十一面観音菩薩で、西国札所として左側で御朱印を貰う。

書院玄関

玄関脇にある創建当時の三重石塔

大師堂とぼけ封じ観音
不動明王、愛染明王に加え伽藍を寄進した左大臣藤原緒嗣の像を祀る。

醫聖堂
本堂東側の山上に聳える平安様式の多宝塔。総欅造り、高さ16m。

醫聖堂前から見た本堂
今では泉涌寺の塔頭ですが、応仁の乱までは広大な寺域を誇った場所。
泉涌寺道もかつては観音寺道と呼ばれていたそう。
本堂も泉涌寺の塔頭・別院の中では異例な大きさ。
やはり葬礼には壮麗な伽藍が要るという事でしょうか?
月輪山麓の自然豊かな場所で、藤原定家が詠んだように
郭公の声が聞こえる格好の場所でしたが、いまは稀。
御本尊は元来智慧を授ける観音様でしたが、その後、頭痛にも霊験があるようになり、
最近はボケ防止としても知られるようになりました。
伽藍は縮小しましたが御利益は拡大しているようです。

今熊野観音寺説明書

今熊野観音寺御朱印

京都今熊野郵便局 ; 国宝・三十三間堂、国宝・十一面千手観音坐像
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