<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:58) → JR姫路(7:30→7:31) → JR清音(9:44)
清音(9:48) → (井原鉄道) → 矢掛(10:07) → 徒歩7分 → 矢掛宿 → 矢掛(10:40) → 三谷(10:43) → 徒歩5分 → 圀勝寺 → 三谷(11:37) → 吉備真備(11:45) → 徒歩10分 → 吉備寺 → 吉備真備(13:18) → 総社(13:30) → レンタサイクル15分 → 総社宮 → レンタサイクル20分 → 備中国分寺
【復路】JR総社(16:24) → JR倉敷(16:35→16:49) → JR姫路(18:43→18:56) → (新快速) → JR大阪(19:58)

日照山 備中国分寺(真言宗御室派)
総社宮に続いて備中国分寺へ。
総社宮から吉備路サイクリングロードを通っていくと
行く手の小高い丘の上に一際目立つ五重塔が。ここが目指す寺院。

橋の向こうに見える五重塔

入口へ到着
日照山備中国分寺(にっしょうざんびっちゅうこくぶんじ)は、
『聖武天皇の勅願により天平13年(741年)に全国に建立された国分寺の内、
備中国分寺の後継寺院に当たる。
当初の国分寺は今の場所とほぼ重なり、周囲を古墳に囲まれた丘の南面。
直ぐ南には平城京と大宰府を結ぶ山陽道が通り、
丘を越えると備中国府があると言うまさに備中の中心に当たる。
奈良時代には荘厳な伽藍を誇った国分寺も平安以降は衰退し、やがて廃寺になった。
国分寺が再興されるのは江戸中期の享保2年(1717年)。
備中清水山惣持院住職の増鉄和尚が領主の蒔田氏などの援助を受けて
伽藍を整備し、ほぼ現在の形になった。但し、五重塔は更に100年後の建立である。』 とあります。

創建時の南門跡
現在の山門よりも手前にあり、昭和46年の調査で判明した。

山門と寺標

山門正面にある勅使門

江戸時代再建の本堂
本尊は薬師如来。

正面から見た本堂

本堂前面の庇

前面の龍と獅子の彫刻

本堂からの眺め
左は大師堂。

大師堂近影

江戸時代建築の客殿

同じく江戸時代建築の庫裏
御朱印はこちらで拝受。

庫裏の前から境内を望む
全国に建立された国分寺も今まで法灯を守っているのはその一部。
しかも規模は遥かに縮小し、「これが国分寺?」と言う程目立たない寺院も多いですが、
ここは場所と言い、規模と言い、国分寺と言うに相応しい場所。
日照山の山号通り風土記の丘にある上に、重文の五重塔の存在が際立っています。
『山高きが故に尊からず』 とは言いますが、寺はやはり広くて高い方が威厳があるようです。
観光写真では五重塔をバックに菜の花、蓮華を撮影したものがありましたが、
この日は菜の花が満開。しかも畑の一か所だけ菜の花がありフォトスポットなのでしょう。
多くの人がそのアングルで撮影していたので、私も同乗しました。
唯、どこの駅からも遠いのがネックですが、説明書を見て、
この辺りがかつての山陽道の要衝と知り納得。今の知識で判断する愚を思い知りました。
今の山陽本線は随分海沿いを走っていますが、これはやはり山手は起伏が激しい事、
海沿いは船に拠る物資の輸送に適していたからでしょうか?
珍しく参拝者も多く、吉備風土記の丘にある事も人が多く来る理由になっているのでしょう。

吉備路のシンボル、重文・五重塔
江戸末期の弘化年間の再建。五智如来を祀る。

木造本瓦葺き
県内唯一の五重塔で高さ34m。

塀越しに見る五重塔

菜の花の向こうに聳える五重塔
この一角にのみ菜の花が植えられていた。

菜の花近影

備中国分寺パンフレット ¥100

備中国分寺御朱印
薬師如来(瑠璃光如来)を祀るので瑠璃殿となる。

山手郵便局 ; 重文・備中国分寺五重塔、蝙蝠塚古墳
[参考書]
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清音(9:48) → (井原鉄道) → 矢掛(10:07) → 徒歩7分 → 矢掛宿 → 矢掛(10:40) → 三谷(10:43) → 徒歩5分 → 圀勝寺 → 三谷(11:37) → 吉備真備(11:45) → 徒歩10分 → 吉備寺 → 吉備真備(13:18) → 総社(13:30) → レンタサイクル15分 → 総社宮
真備町から再び井原鉄道に乗ってJRに合流し、総社へ。
市名と駅名にもなった総社ですが、そういう神社が何処かにある筈。
調べて見るとJR東総社駅が最寄りですが、吉備線は30分間隔なので、駅からレンタサイクル。

備中国総社宮(旧県社)

社に似せた造りのJR総社駅舎

神社を囲む堀
JR吉備線沿いの道路からはこの堀を越える。
総社の由来は、
『仁徳天皇の皇妃八田皇女の名代として設置された八田部に遡る。
大化の改新に拠り、吉備国は備前・備中・備後に分かれるが総社には備中の国府が置かれた。
当初は国司が中心となって祭政一致の政治を行ったが、平安末期になると豪族の力が強まった。
国中の三百四社を巡拝するのが国司には困難となったので、
国府の近くに社を建てて神々を合祀し総社と名付けた。
その後、天正10年(1582年)兵火で焼失し、慶長13年に再建。
貞享4年(1687年)に本拝殿を改築したが、昭和52年に再び火災で本殿を焼失。
2年後に再建を果たし今に至る。』 とあります。

西側にある石鳥居
ここから参拝するのが正式?

参道右手の家屋
かつて神官が居住したか?

二の鳥居の先に廻廊入り口が見える

廻廊は拝殿へと続く

随神門から続く廻廊

昭和54年再建の本殿

拝殿前に掲げられた備中神楽面
きっかけは国司の力が衰えたと言う消極的な理由ですが、
国中の三百余社を1年で巡拝すると言うのも随分非合理的な話。
それだけ社会が進歩したとも言えます。
古いものは残っていませんが、境内の庭園は三島式庭園と呼ばれる古代の様式。
後楽園造園の際に参考にされたと伝わります。何度も焼失・再建を繰り返しますが、
社が集まったためにここが門前町として発展して今の総社市に繋がる訳ですから、何が幸いするか分かりません。

前庭の三島式庭園

廻廊から見た三島式庭園
後楽園造園の際に参考にされたと言う。

総社の由来

総社宮御朱印

鳥居前にある総社市まちかど郷土館 (入館無料)
明治43年に建築された旧総社警察署を使用している。

郷土館入口の雛人形

1階展示室にて

常盤郵便局 ; 総社宮本殿、回廊、三島式庭園
[参考書]
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清音(9:48) → (井原鉄道) → 矢掛(10:07) → 徒歩7分 → 矢掛宿 → 矢掛(10:40) → 三谷(10:43) → 徒歩5分 → 圀勝寺 → 三谷(11:37) → 吉備真備(11:45) → 徒歩10分 → 吉備寺

鏡林山 吉備寺(真言宗御室派)
三谷から列車に乗り真備(まび)町で下車。
現在は倉敷市に属していますが2005年までは独立した行政区。
奈良朝の政治家・吉備真備(きびのまきび)所縁の地ですが、
何故「まきび町」と呼ばなかったのか。余所者には不思議でなりませんでした。
ここに疎開していた横溝正史ならばどのような推理をするでしょうか?
駅名もそのものズバリ「吉備真備」。
国鉄時代には駅名に人名は付けられないというのが規則でしたが、
唯一の例外が伯備線の方谷駅。
地元出身で備中松山藩の財政を立て直した山田方谷に由来しますが、
鉄道省からの要請に対し「字にもなっているから。」と言う理由でクリアしたという経緯が。
岡山県内には他に宮本武蔵駅もあるので、
郷土の偉人を駅名にすると言うDNAは未だに生きていると言えましょう。

吉備真備駅の上りホーム

ホームの表示板

駅前の案内板と休憩所
休憩所の外観は中国風の造りになっている。
駅から北に1㎞程先に建つのが吉備寺。
鏡林山吉備寺(きょうりんざんきびじ)は、
『飛鳥時代にこの地にあった箭田廃寺の跡に建立された寺院。
境内からは飛鳥時代の古代瓦が出土し重文に指定されている。
古代に於いてこの地方の豪族であった下道氏の一族吉備氏の氏寺。
江戸時代までは真蔵寺と呼ばれたが、元禄以降に吉備寺と呼ばれるようになった。
建物自体は近世以降のものだが、付近には真備公の墳墓、産湯井戸、館址が残り
寺院周辺は「まきび公園」として整備されている。』 とあります。

まきび公園入口

吉備寺標

吉備寺山門

山門近影

山門に掲げられた縁起
木製で観光地化していないのが良い。
武士が登場する以前に家柄に拠らず学問だけで大臣位に上った人間は
菅原道真と吉備真備の二人だけ。
その上、道真が晩年大宰府に左遷されて失意の内に世を去ったのに対し、
真備は81歳と言う当時としては稀な長命を保ち、最後まで朝堂に重きをなしています。
郷土の偉人として顕彰するのは当然と言えましょう。唯、その歩みも順風満帆ではありません。
霊亀2年(716年)22歳で遣唐留学生となり、翌年入唐。
共に入唐した者には阿倍仲麻呂・玄昉がいました。天平7年(735年)に玄昉と共に帰国。
その後、橘諸兄に重用され順調に出世しますが、藤原氏の策謀で九州へ左遷。
その間、天平勝宝4年(752年)に遣唐副使となり再度入唐し、翌年には鑑真を伴い帰朝。
後に都に呼び戻されます。
それまで権力を振るった藤原仲麻呂が謀反を起こした際には平定に貢献。
仲麻呂が誅殺された後は、出世の階段を上り右大臣に上ります。
辞職を願い出て許された時、真備は77歳になっていました。

境内から見上げた山門

山門から境内を望む

本堂へ

本堂近影
本尊は薬師如来で秘仏。

本堂から書院へと続く廻廊

書院

山門正面にある庫裏へ向かう

庫裏近影
ベルを押すと年配の御住職が対応下さった。

山門脇では木蓮が満開

吉備寺御朱印
書置きを拝受。
初めの入唐は22歳ですが、二度目は当時としては高齢な57歳。
人生の黄昏期に左遷されもう一度入唐する熱意は一体何処から来たのかと感心します。
入唐した真備に関しては、唐人からの漢詩や史書についての問いに淀みなく答えた、
囲碁の名人と互角の勝負をした等の記録が伝わります。
元来の知識に加えて在唐の期間に更に多くの知識を習得した事は確実。
帰国時には多くの書物も招来しました。日本の国家形成には何が必要か?
という事を分かっていたと言えます。
いわば七転び八起きの人生ですが、都度復活できたのは彼の能力が必要とされたからに他なりません。
視察と称して物見遊山に行った訳ではありません。尤も当時の入唐は命懸けではありましたが…。

寺の南にある吉備公墳へ上る道から吉備寺を見返る

公墳の前に建つ神社
地元では「吉備さま」と呼ばれている。

「吉備さま」からの眺め

社の後方にある公墳へ

吉備公墳

吉備公墓碑
仲麻呂や諸兄と異なり外向きの政治ではありませんが、
未だ唐から律令制度を取り入れ国家形成の途上にあった奈良朝には
彼のような才が不可欠だったと思われます。
同じ頃に活躍した政治家に和気清麻呂がいますが、彼も浮沈を経験しています。
清麻呂も備前の出身、吉備の人には逆境にも屈しない気概が備わっているのでしょうか?
2年前の西日本豪雨からの復興を見てもそのような感を深くした次第。
いつの時代にあっても彼の生き様は大いに参考になりましょう。
私も彼の【きび】に付したいものです。

まきび公園の円窓

公園の六角亭と池
西安に昭和61年に真備公の記念碑と日本風庭園が建立されたのを記念して同年に開園。

吉備真備公顕彰碑

顕彰碑
桓武天皇が延暦3年(784年)の勅で真備公を称えた文である。

顕彰碑の現代語訳

まきび記念館
唐の役所風の建物。入館無料で撮影OK。

吉備真備公肖像
但し後世の作品。

奈良時代の遣唐使船の十分の一の復元

昼食は公園内の「たけのこ茶屋」にて
特産・タケノコ、古代米とうどんのセットで¥700。

真備公産湯の井戸
公園から数百m東にあり、小田川に注ぐ子洗川の上流にある。

産湯の井戸の説明

井戸脇の吉備公館址

真備町マンホール蓋

箭田郵便局 ; 吉備真備像、猿掛城址、特産のタケノコ・ブドウ
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清音(9:48) → (井原鉄道) → 矢掛(10:07) → 徒歩7分 → 矢掛宿 → 矢掛(10:40) → 三谷(10:43) → 徒歩5分 → 圀勝寺

神遊山 圀勝寺(真言宗)
宿場見学の後は井原鉄道で一駅上った三谷で下車。
郵便局に向かうと「椿の寺 圀勝(こくしょう)寺」の案内板が入口に。
伺うと徒歩5分位程道を上った先にあるお寺で自由に拝観できるとか。
「【こくしょう】ならば椿やなくて小百合やろ!」
などと思いながら案内に沿って歩くと、すぐに目指す寺院に到着。

井原鉄道三谷駅舎

人家の脇を通り入口へ到着

寺標と山門

山門近影
門は閉まっているので横の扉から中に入る。
神遊山圀勝寺(しんゆうざんこくしょうじ)は、山門前の供養碑に拠れば、
『この付近には古代豪族の下道(しもつみち)氏の古墳が点在すると推測され、
その遺骨を納めた云々。』 とあります。
上つ道の先が下道氏の領地というのも面白いですが、
高台から一帯を見渡せる場所が重要視されたのでしょう。
近辺には磐座も見えず、おそらくかつての下道氏の墳墓を寺にしたと想像できます。

山門前から見た寺の遠景

下道氏所縁一切精霊之供養塔

山門前の椿

門前の散り椿
圀勝とは珍しい寺号ですが、これは吉備真備の父親であった下道朝臣圀勝に由来し、
彼は藤原京を警護する役職に就いていました。
息子の真備は22歳の時に遣唐使となり、以後中央政界で活躍します。
圀勝寺の建立は天平勝宝8年(756年)という寺伝があるので、
それならば開基は真備の可能性が大。
彼が父親への感謝で建立した寺院とも言えます。
父親の名は国勝でしたが、寺号は圀勝。
「圀」は則天文字なので、遣唐留学生だった真備が使用しても違和感はないでしょう。

境内遠景

本堂正面

御本尊はガラス窓越しに拝む

本堂前の椿

塀の傍の散り椿
このように吉備氏所縁の古刹ですが、境内の椿が有名。
最も有名なのは樹齢300年とされる八重椿。
最盛期には木の下が一面深紅の絨毯を敷き詰めた様になるそうですが、
残念ながらこの日は、蕾も開いていませんでした。
しかし境内には他の椿もあり咲き誇る様を楽しむことができました。
御朱印を拝受しようと呼びかけても返事なし。
たまたま門前の家の方が外で作業されていたので尋ねると、
ここは他の寺の住職が兼務されているとの事。それにしては境内も建物も綺麗。
恐らく地元の偉人の寺という事で【維持】されているのでしょう。

本堂奥にある八重椿に向かう

圀勝寺きっての八重椿の巨木
樹齢300年以上で、最盛期には地面が赤い絨毯を敷き詰めたようになる。

八重椿の説明

塀の外から見た八重椿

境内に咲く椿








三谷郵便局 ; 吉備真備像、圀勝寺の椿、館址亭

三谷駅スタンプ
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<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(5:58) → JR姫路(7:30→7:31) → JR清音(9:44)
清音(9:48) → (井原鉄道) → 矢掛(10:07) → 徒歩7分 → 矢掛宿

旧山陽道矢掛宿
春分の前日は、春も盛りの山陽道へ。
JR山陽本線から伯備線を経て、井原鉄道に乗り換え。
18きっぷの使えない三セクですが、お目当ては矢掛町。
備中で古い町並みと言えば、倉敷、備中高梁や吹屋が有名ですが、
ここ矢掛も知る人ぞ知る街並み保存地区。

井原鉄道矢掛駅前
ホームは橋上。宿場町風駅舎と時計台。

街道脇の宿場の道標
何故、鉄道幹線から外れた場所にこのような街並みができたかですが、
実はここは古代以来、都と大宰府を結ぶ山陽道が通った場所。
山陽道は現在の国道2号線に引き継がれていますが、
倉敷から福山にかけては旧山陽道ではなく、海沿いの浜街道を通ることになり鉄道も同様。
鉄道敷設に関しては、この区間は最短距離を採用したとされていますが、
瀬戸内の港からの物資の移動も念頭にあった気もします。
井原鉄道が開通したのは平静11年1月11日という1尽くしの日。
当初は清音と神辺というJRの支線同士をなぜ結ぶのか不思議でしたが、
街道の歴史を知った後は納得。却って遅きに失した感もありました。

矢掛宿説明板

街道の南に建つ重文・矢掛本陣石井家住宅
寛永12年(1635年)から幕末まで200年以上本陣職を務めた石井家は庄屋であると共に酒造業も営んだ豪商、大地主。

本陣の御成門

本陣石井家の説明
有料で拝観可能。

本陣東にある矢掛屋本館
江戸時代は庭瀬藩の金融業。2015年から和風旅館として営業。
矢掛の小田は古代の駅家も置かれた場所ですが、宿場として知られるのは室町時代以降。
九州探題となった今川貞世が赴任する際に泊まった「屋蔭」という名が嚆矢。
江戸時代に今の場所に移りました。山陽なのに蔭とは不可思議ですが、
古代には山の南斜面を陰面、北斜面を背面と記したとありますから、これに由来するのでしょう。
余談ですが古代中国では山の南が陽、北が陰。川では逆に北が陽、南が陰となります。
宿場は駅から南に500m程言った場所。旧山陽道を挟んで南に本陣・石井家住宅、
北に脇本陣・髙草家住宅が完璧に残りどちらも重文。
しかも空き家ではなく現役で活躍している様子。
脇本陣横では髙草商店の看板も上がっていました。
その他、妻入り五軒並びや醸造業、時折見える洋風建築も街道にアクセントを添えています。
伝統的建造物群保存地区にたがわず、ここも食事処、土産物店、
宿泊施設になった建物も多いですが、故意に造られた感はなく自然な感じになっていました。

和風と洋風建築

季節の和菓子を販売する お菓子処 清邦庵

街道北側にある妻入り五軒並び


斎藤邸付近
江戸時代は因幡屋と号し問屋を営んでいた。

斎藤邸から北へ続く道

重文・矢掛脇本陣高草家住宅
脇本陣は矢掛では7~8軒の商家が交代で務めた。高草家は庭瀬藩の会計方であった。

脇本陣の御成門

高草家説明板

脇本陣の西隣の高草商店
お酒、野菜を商う。

新聞販売店も宿場風

大高草小路
脇本陣の東にあり焼板壁と海鼠壁に挟まれた小路で細い用水路に続く。

焼板壁に囲まれた屋敷

脇本陣裏通り
矢掛の町と村を分けた境で水路と脇本陣の米蔵に挟まれた細い道が続く。
明治以降は幹線から外れてしますが100年以上経ってから井原鉄道を開通させます。
平成の大合併でも周囲の市に編入される事なく、
小田郡矢掛町のままで通したのは古代からの誇りでもあったのでしょうか?

矢掛町マンホール蓋

矢掛町マンホール蓋 配布場所は「やかげ町家交流館」

矢掛駅スタンプ

矢掛郵便局 ; 矢掛宿本陣の重文・石井家住宅
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知りたい、歩きたい! 美しい「日本の町並み」: この国の「原風景」に戻れる場所 (知的生きかた文庫) 新品価格 | ![]() |

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<コース> 大和路快速は日中15分間隔で運転
【往路】JR大阪 → (大和路快速) → JR奈良
JR奈良駅前 → レンタサイクル15分 → 大安寺 → レンタサイクル30分 → 帯解寺 → レンタサイクル30分 → 白毫寺 → レンタサイクル15分 → JR奈良
【復路】JR奈良 → (大和路快速) → JR大阪

高円山 白毫寺(真言律宗 関西花の寺二十五霊場第十八番札所)
・石はしる 垂水の上の 早蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも
志貴皇子
このところの暖冬で季節感はないですが、この頃に相応しい詠み。
植物が萌える様子と、「の」を多用した音の軽快さが
詠者の完成された感性を表しているともいえます。
帯解寺の後は、山の麓の道を北上して白毫寺へ。
若草山・春日山の南に連なる高円山の西麓にあり高台からは市内が一望できます。

途中の道標

ここから寺へ向かうが未だ古刹の雰囲気はない

山門へと続く石段参道

石段の散り椿

山門近影

山門から参道と奈良市内を見る

山門から受付へ向かう

受付後、登って来た道を見返る
高円山白毫寺(こうえんざんびゃくごうじ)は
『空海の師である勤操がこの地域に建立した岩渕寺の一院と言われるが、
それ以前にはここには天智天皇第七皇子・志貴皇子の山荘があり
皇子の没後の霊亀元年(715年)にここを寺としたのが始まりとされるが
詳細な記録は伝わらない。
その後、鎌倉中期に西大寺で真言律宗を興した叡尊がここを復興。
弘長元年(1261年)には弟子の道照が宋から一切経を持ち帰って
転読を行った事が記録に残り、これが白毫寺の初見とされる。
戦国時代には戦乱で、堂宇は焼失。
江戸時代の寛永年間に興福寺の学僧・空慶により再興されるが、
その後も火災に見舞われ、建造物は全て後世の再建。
但し、仏像は都度避難され平安・鎌倉時代の重文が今に伝わる。』 とあります。

本堂近影
江戸初期の再建。

本堂正面

本堂前の椿

本堂前面の庇と向拝

向拝部分

本堂横の庇

本堂から境内を見る

本堂前の五色椿
実際に五色咲く訳ではない。五色は仏教思想の影響か?

五色椿の説明板
白毫寺の名は中世以降しか登場しませんが、
もと志貴皇子の山荘があった可能性は大。境内には、笠金村が詠んだという
・高円の 野辺の秋萩 徒に 咲きか散るらむ 見る人無しに
の歌碑があります。
萬葉集で最も多く詠まれた花は萩ですが、有名なのはこの歌くらい。
その昔、古典の問題で 『作者の心情を書け』 とありましたが、
『作者でないので分かりません!』とも書けず、四苦八苦した記憶が残ります。
これは皇子が逝去された際に詠まれた挽歌に対する反歌とありますから、
高円の萩を皇子が愛でた事を偲んでいるのでしょう。
亡くなった後も名歌で送られるとは志貴皇子も歌人冥利に尽きると言えます。

境内にある「笠金村」万葉歌碑

万葉仮名で記載
揮毫は犬養孝博士。

歌の説明

多宝塔跡

白毫椿と命名された古木
多宝塔横にあり、赤に白い斑入りがあるのを白毫に見立てたからだとか。

不動明王

石仏の道にて

石仏の道から見た御影堂(手前)と宝蔵

石仏の道

石仏の道入口の十王地蔵

開祖を祀る御影堂

宝蔵
正面に祀られているのが本尊の重文・阿弥陀如来
他に重文が6点展示されている。閻魔像が有名。

宝蔵前の五色椿
本堂前の椿から挿し木されたもので、開花状態はこちらの方が良好。

境内端の石庭

石庭からの眺め

展望台から見た市内
中央右が興福寺五重塔。
万葉歌人として知られる皇子ですが、政治的にも重要なキーパンソン。
壬申の乱以降の皇位は全て天武天皇の系列ですが、
称徳天皇崩御の後、皇位に就いたのは白壁王。志貴皇子の皇子に当たります。
志貴皇子は歌に、白壁王は酒に韜晦して乱世を生き抜きましたが、
それが100年振りに天智天皇の系列に皇位を戻すことに繋がりました。
このようなエピソードに彩られる白毫寺ですが、今回は萩ではなく椿が見頃。
乱世を生き抜いた萬葉人をつらつら考えた春日となりました。

本堂裏手の椿


散り椿



杉苔の上の散り椿







白毫寺説明書

白毫寺御朱印(関西花の寺版)
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<コース> 大和路快速は日中15分間隔で運転
【往路】JR大阪 → (大和路快速) → JR奈良
JR奈良駅前 → レンタサイクル15分 → 大安寺 → レンタサイクル30分 → 帯解寺

子安山 帯解寺(華厳宗)
大安寺に続き、桜井線沿いに南下して帯解へ。
JRの駅名にもなっていますが、この中心にあるのが帯解寺。

JR桜井線(万葉まほろば線)帯解駅
JR奈良から二駅だが、無人駅。

帯解寺遠景
駅から線路沿いに北へ行った場所から。

門前の通り
かつてはこの通りがバス路線であった。

山門前にて

山門
江戸初期の建築。元は楼門造りであったが、今は簡素な四脚門造りとなっている。
子安山帯解寺(こやすさんおびとけでら)は、略縁起に拠れば
『空海の師である勤操(ごんぞう)大徳が開基となった巌渕(いわぶち)千坊の一院で霊松庵が嚆矢。
その後、長く世継ぎに恵まれなかった55代文徳天皇の后・染殿皇后(藤原明子)が、
ここに祈願した所、無事御懐妊され惟仁親王(清和天皇)を無事安産。
文徳天皇は天安2年(858年)に勅願により伽藍を建立、勅命で帯解寺となった。
その後、子授け・安産の祈願寺として朝野の信仰を集めた。
江戸時代には、三代将軍家光公の御楽の方が本尊に祈願され、
目出度く竹千代丸(四代家綱)を御安産。
六代将軍・家宣公の右近の方、東山天皇の女御、伏見邦家親王の御息所等、
いずれも祈願、御安産された。 明治以降も、
美智子皇后、秋篠宮妃紀子様、皇太子妃雅子様も祈願された事で知られる。』
とあります。

本堂
江戸時代に2代将軍秀忠の援助で再建された本堂は安政の大地震で倒壊し、安政5年(1858年)に再興された。

本堂前面の庇と蔀戸の掛け金

本堂屋根の造り

本堂から山門を望む
長く世継ぎに恵まれなかった染殿皇后(藤原明子)に皇子が生まれた
天皇の喜びはひとしおではなく、それが帯解寺の由緒となったのはあり得る話。
この寺の門前も市をなす状態になったそうで、それが今市の町名になっています。
関西で安産祈願と言えば西国札所の中山寺が有名。
由来としてはこちらの方が古いですが西国札所の中山寺に水をあけられました。
♪今は中山、今は閑♪ といった所でしょうか。
安産祈願を前面に出さないのも好感が持てます。
ここは皇室所縁の寺とばかり思っていましたが、徳川将軍家も祈願に訪れた事には驚き。
ガイドの方の話では、勅命を受けたのが清和天皇の出生に拠るとかで、
清和源氏の人々の崇拝を受けたそうです。
安産祈願の女性は鎌倉時代の木造・地蔵菩薩の前まで行き拝むのが習わし。
寄木造りのお地蔵様は腹帯を巻いた姿に彫刻されています。
この日は秘仏公開という事で、本堂と奥の清和閣を拝観。
本尊のお地蔵さまは勿論ですが、清和閣に置かれた秘仏の三面六臂の大黒天。
大きさは50㎝程でしょうが、前身真っ黒の文字通りの大黒天。
ここ半年の間に泉涌寺の走り大国、圓徳院の三面大国と計3体拝観。
景気の【今市】な時節、これで上向きになって呉れればと思います。

石庭の向こうに見える清和閣

清和閣から本堂を望む
本堂の奥(左側)には防火設備の整った収蔵庫兼内陣部が付設された。

清和閣から見た境内

寛文2年(1662年)に徳川家綱公より寄進の手水鉢

本堂側面

十三重石塔

平成20年完成の御影堂

御影堂側面の釈迦誕生のレリーフ

寺の北側を流れる地蔵院川
かつての寺の雰囲気を伝える。

帯解寺略縁起

帯解寺御朱印
帯解子安地蔵尊と墨書。

帯解郵便局 ; 重文・帯解地蔵菩薩、サツキ、大和青垣国定公園遠景
[参考書]
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<コース> 大和路快速は日中15分間隔で運転
【往路】JR大阪 → (大和路快速) → JR奈良
JR奈良駅前 → レンタサイクル15分 → 大安寺

大安寺(高野山真言宗)
巷はコロナで騒然としていますが、そんな時こそ巡礼で心を落ち着かせるべきと
勝手な理屈を並べて古都まで。
奈良は京都と異なってJRから近鉄奈良駅を経て春日大社までの東西に
古刹が集中していますが、少し離れると途端に少なくなります。
この日は、奈良駅から桜井線に沿って二駅南下。といっても電車は30分間隔の運転なので、
時刻表に左右されえないようにJR奈良駅からレンタサイクルで訪問。
奈良駅から1㎞程南下しただけで商業施設は疎らになり人家と畑が点在。
そんな一角にあるのが大安寺。大安の翌日の拝観となりました。

入山は南門から

門前の寺標

南門近影
興福寺の旧一条院の門を移築したもので、南大門の基礎の上に建っている。
『大安寺(だいあんじ)は、聖徳太子が「天下泰平・万民安楽」の願いで
斑鳩の南東に建立した熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)が嚆矢。
639年には太子の遺言に従い舒明天皇が百済川のほとりに移転し百済大寺となり、
以後、673年には高市に移転し高市大寺、677年には藤原京に移転し大官大寺と改名。
平城遷都に伴い現在地の南に移転し、大安寺と名を改めた。
我が国最初の官寺であり、東西両塔の間に
南大門、中門、金堂、講堂が一直線上に並ぶ伽藍配置。
境内面積は25万㎡と現在の25倍、七重塔は70mにも達したという。
東大寺、西大寺に対して南大寺と呼ばれる程の大寺院で南都七大寺の一つに数えられた。
遣唐僧・道慈律師により整えられた大伽藍は888名の学僧が居住する仏教の総合大学であり、
その中には大仏開眼の天竺僧・菩提僊名、越南僧・仏哲、新羅僧・審祥などの外国人僧侶、
我が国では即位前の白壁王、空海等も居住した記録が残る。
平安遷都後は空海が別当になったが、仏教の主流が密教に移ったため振るわず、
災害もあって次第に衰退。
伽藍は全て江戸期以降の建造であるが、奈良時代の仏像9体が今に伝わる。
現在は癌封じの寺として知られ、またここにしばしば詣で
竹を切って酒を注いで温め風流を楽しんだ白壁王が
62歳という高齢で帝位に就いたことから健康長寿を祈願する人も多い。』 とあります。

境内から見た南門

南門の先にある中門跡

手水鉢と竹林の先に見える本堂

本堂
天平時代の重文・十一面観音を祀る。

本堂正面
癌封じはここで行われる。

本堂前から境内を見る
左奥は木彫り仏を収蔵する讃仰殿。

本堂脇を抜けてお堂に参拝
左は寺務所で御朱印はここで拝受。

本堂と竹林
大安寺は山号もなく移転と改名を繰り返したとはいえ、それだけ古くからある寺院という事。
学僧888名などは余りにも出来過ぎた数で、疑問も残りますが話半分としても相当なもの。
本堂には秘仏の十一面観音立像、奥の嘶堂には同じく秘仏の馬頭観音が祀られており何れも重文。
本堂は癌封じの御本尊ですが、嘶堂は日本競馬会の信仰が篤いとか。
これも時代の流れでしょうか?

一面六臂の馬頭観音を祀る嘶堂

護摩堂

本堂奥には竹を植えた一角が


手水鉢にも竹が使用されている

いのちの小径(竹林)への入口

笹酒用に植えられた竹か?

いのちの碑

美流孔(みるく)塚
女性の乳癌封じを祈るものか?
現在に伝わる光仁会・癌封じ笹酒祭りは、白壁王の故事に由来しますが、
王は酒浸りになって政争に明け暮れる朝廷から身を守ったと言えます。
称徳天皇没後に藤原氏に拠って【後任】の天皇に【公認】されたのも、
決して御し易い人物だからではなく、王の慎重さに依るものでしょう。
東大寺と西大寺は今に伝わりますが南大寺は残らず。
長い風雪を経たとはいえ後世まで名を残す事は【難題】。
天平の法灯を今に伝えることができたのは、規模が小さくなった事が幸いしたと言えそうです。
白壁王の処世術を髣髴とさせるようで面白いですね。

境内の南にあるかつての塔跡

大安寺説明書

大安寺御朱印

大安寺郵便局 ; 楊柳観音立像、光仁会の笹酒
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<コース> 近江鉄道は30~60分間隔で運転
【往路】JR大阪(5:55) → JR近江八幡(7:15→7:45) → (近江鉄道) → 八日市(8:04→8:08)→ 五箇荘(8:16)
五箇荘駅 → 徒歩10分 → 五個荘金堂地区 → 五箇荘(13:00) → 貴生川(14:04→14:24) → (信楽高原鉄道) → 雲井(14:40) → 信楽の里 → MIHOミュージアム
【復路】JR石山(20:34) → (新快速) → JR大阪(21:17)

・行く春を あふみの人と 惜しみける はせを
今年の雛祭イベントの五カ所目は五個荘へ。
県下では近江八幡、日野と並ぶ近江商人の発祥の地ですが、
いままで「ごかのしょう」と読んでいましたが表示は「ごかしょう」。
観光案内所で訊くと昔は「ごかのしょう」と読んでいたそうで、間違いではなかった様子。
九州の秘境・五家荘と区別するためでしょうか?

近江鉄道近江八幡駅にて
電車は八日市までで、そこで乗り換える。

近江鉄道五箇荘駅
町名と微妙に漢字が異なる。商家風の造りであるが無人。

小幡はこの当たりの字

五個荘小学校
商家の造りを模している。近江八幡小学校といい商人の町の学校は立派な造りである。

金堂の街並み(重要伝統的建造物群保存地区)
駅から徒歩15分でこのような空間に到着。

五個荘金堂地区の説明

これは地区の中心にある寺院

藤井・外村・中江家とかつての近江商人の館を中心に五カ所で雛人形を展示。
近江商人が故郷に錦を飾る意味で作った家ですが、
店舗はなくすべて本宅だけなのが五個荘の特徴だとか。
質素を旨とする近江商人にしては立派な造りですが、取引や接待にも利用したと聞き納得。
雛人形も立派ですが、普段は倹約して出すべきところには出すという事なのでしょうね。

藤井彦四郎邸
藤井毛糸の会社で、敷地2400坪。

近江商人の商いの基本天秤棒

藤井邸庭

藤井邸の主客の間
宮家や徳富蘇峰など著名人の名が並ぶ。

邸内の展示物と家訓

藤井邸洋間

藤井邸かつての帳場

勘定帳面

藤井邸の雛人形展示




御殿飾り

江戸期の御殿雛

外村繁邸外観

外村繁邸前の水路にて

外村繁邸庭

外村繁邸の前庭にある曲水の宴

外村邸の建屋

外村邸内の有識雛

狆引き官女
犬は安産を表す。

外村繁の原稿
第一回芥川賞候補。

外村宇兵衛邸(外村繁本家)
江戸期に農業に加え近江上布(麻)の商売を始める。現在の御幸毛糸。

宇兵衛邸の庭

外村宇兵衛邸にある川戸
湖西では川端(かばた)と呼ばれる設備で野菜や使用後の食器を洗う。写真に写る鯉が残り物を食べてくれる。

宇兵衛邸の古今雛御殿飾り

古今雛御殿飾り近影

あきんど通り付近

あきんど通り

五個荘の特産、小幡人形(土人形)
京都の伏見人形の流れ。
展示の雛人形は昔に作られて長期間守られてきたものが殆どでしたが、
異色を放ったのが清湖雛(せいこびな)。雛匠の東之湖氏による平成の創作雛ですが、
現代的と言うか非常に透明感に溢れた作品に思えました。
その斬新さが記事でも取り上げられており、【せいこう】雛だったと言えます。
古いものを守るだけではなく、新しいものはどんどん取り入れるというのも商人にとって不可欠の資質です。

中江準五郎邸庭

中江準五郎邸の「清湖雛」
雛匠東之湖氏による平成の創作雛。青い上布が美しい。

清湖雛・十人囃子

清湖雛・無垢の神

清湖雛・六人官女

金堂まちなみ保存交流館1階の顔ハメ

金堂まちなみ交流館にあるアートフラワー雛人形

五個荘郵便局 ; 蔵屋敷、昔の近江商人
続いて同窓と合流して信楽で焼き物、未訪のMIHOミュージアム見学。
その後は石山の松喜屋で近江牛を。
私も近江商人に倣い、普段は倹約しても出すべき時には出した結果、
見場よし・味よし・値段よしの三方よしの彼岸(悲願)の豪華ショーとはなりました。

貴生川駅で信楽高原鉄道に乗り換え

信楽では狸がお出迎え

MIHOミュージアムへ続くトンネル

山中に建つミュージアム

夜は「松喜屋」にて会食

前菜

スープ

メインは近江牛
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<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR横浜(6:13) → JR熱海(7:42→7:55) → (伊豆急行) → 伊豆稲取(9:00)
伊豆稲取 → 徒歩15分 → 吊るし雛の舘 → 済廣寺
【復路】伊豆稲取(15:09) → (伊豆急行) → JR熱海(16:14→16:21) → JR横浜(17:40)

吊るし雛の舘 入館¥300
弥生の二週目は、足を伸ばして伊豆半島へ。稲取は「つるし雛」発祥の地。
関西ではあまり見かけないので伊豆独自の風習かと思いましたが
酒田・柳川にもあるそうです。北前船の影響でしょうかね?
今では店で購入する事も多いですが、かつては各家庭での手作り。
勿論、雛祭りですから子供の成長を願う内容が多いですが、
他にもお金が貯まるような願いの飾りもあり、現実的です。
キンメダイの産地だけに金目のものに拘りがあるのでしょうか。
猿 → (災いが)去る、
梟 → 不苦労
といったお節料理の中身を連想する駄洒落が多く、
私も使おうかと思いますが、「吊るし上げ」を受けないように注意せねば。

伊豆急行伊豆稲取駅改札
今日はここからスタート。

伊豆稲取駅外観
なんとなくお雛様にも見える?

雛の館入口
駅から徒歩15分。温泉街の中にある。

雛の館玄関右にあるジャンボ吊るし飾り
4.5m、5000個だそうな!




これは庄内酒田でのつるし飾り
通称、傘福、大きな傘の下に吊るす。海産物が多い?

九州柳川のつるし飾り
通称、さげもん。毬が主か?

稲取つるし飾りのメインは桃
邪気を払い、桃が刀に通じると言う。作り易いので大量に吊るすのには便利。

子供三番叟
子供の祝いにはつきもの。

金目鯛
この地域の産物で、赤は邪気を払う。金目のものに恵まれますように?

申ぼぼ
厄が去るに由来。

子供の成長を願う吊るし飾り
草履(足が丈夫に)、亀(長寿)、巾着(金運)など。

梟(不苦労)と鶯(エエ声?)

犬は安産

兎の赤目は呪力があるとか
唯、赤目の兎はアルビノ系に限られるので、江戸期にはあったかどうか?因みに今の日本の白兎はイギリスのアナウサギの系統。

這い子人形

這い子人形(大)

金目鯛の骨の吊るし飾り
胸鰭付近の骨を集めたもの。

雛の館にある昭和2年のお雛様

昭和2年のお内裏様
雛祭を見たあとは漁港まで足を伸ばして昼食。丁度、キンメダイの釜めしが¥700。
土日祝日限定で12時までなので滑り込みセーフ。
高級魚で有名ですが、こんなリーズナブルな価格で頂けるのも地元だからでしょうか?
食事の後、町を散策しながら「むかい庵」「なぶらとと」と展示場を二ヵ所訪問。
全部で三ヵ所ですが、狭いエリアなので全てクリア。参加賞は出ないのでしょうか?

二つ目の展示場、むかい庵 ¥300
右おくにかすかに見えるのは伊豆大島、稲取からはジェット船で40分。

むかい庵の雛飾り

むかい庵の古式雛
平戸藩主の姫が鳥羽藩に嫁ぐ際に持参した。

貝合わせ

三番目の展示場、なぶらとと。¥100
レストランも併設。

なぶらととの展示

これは藤でできた吊るし飾り

道路脇にある銭洗

稲取漁港
土曜は漁がないのでのんびりしている。

船を繋いだとされる、もやい石。もあい石ではない!

お昼は稲取朝市会場にて金目鯛釜めし¥700
キンメのあら汁が無料で付く。~12時まで(土日祝)。

町役場前のモニュメント
駅に向かうと榧(かや)の大木が。下調べの段階では気付きませんでしたが
稲取は7000人の町に八カ寺があるそうで、そこは最も駅近の済廣寺。
大慈山済廣禅寺(だいじさんさいこうじ)は、
臨済宗建長寺派で如意輪観音を祀るお寺ですが、境内にある榧の木がパワースポットで有名。
樹齢750年、高さ18m、枝張り17mの巨木。
今でも多くの実がなるので、その生命力にあやかろうという事でしょう。
私も早速お参り、今回は巡礼はないと思い御朱印帳は持参しなかったので、書置きを拝受。
御本尊が朱で記載されていたのは雛祭期間限定だそう。とうとう御朱印も期間限定が登場。
聞く所では、香り付きの御朱印もあるようでした。榧の木があるから【香や】なのでしょうかね。
寺院には宝物もあり見所も多く、決してお寺が【榧の外】に置かれた訳ではないようです。
こうして今年に入って雛祭りは、中山・開成・伊東に続き四カ所訪問。
「五ケ所」目は果たしてどこになりますことやら…。

駅前にあるカヤの寺、済廣禅寺
樹齢750年とか!

かやの寺の御朱印
本尊が朱色なのは、雛祭り期間限定のためだとか!御朱印に期間限定ちゅうのも…。

稲取郵便局 ; 稲取港の漁船、ミカン、イシダイ、大島
河津郵便局 ; 今井浜海岸、大噴湯、ハナショウブ、マツ
[参考書]
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伊豆・駿河・遠州札所めぐり 御朱印を求めて歩く 静岡巡礼ルートガイド 新品価格 | ![]() |

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<コース>
JR京都 → (地下鉄烏丸線) → 今出川 → 大聖寺 → 今出川 → (地下鉄烏丸線) → JR二条 → JR花園 → 徒歩5分 → 妙心寺

正法山 妙心禅寺 玉鳳院(臨済宗妙心寺派大本山 塔頭寺院)
大聖寺の後は花園まで移動し妙心寺へ。
JRの駅から北へ徒歩5分で壮大な門前へ出ます。
正法山妙心寺(しょうほうざんみょうしんじ)は、臨済宗妙心寺派大本山。
10万坪という広大な敷地に46の塔頭が並んだ様は壮観。
また日本にある臨済宗寺院6000の内、3500を妙心寺派が占めるとありますから、
敷地でも寺数でも群を抜いた存在といえます。
今回特別拝観は、仏殿、明智風呂と呼ばれる浴室と玉鳳院ですが、
じっくり玉鳳院のみ拝観。残念ながらここも玄関から先は撮影禁止というもの共通でした。

丸太町通りにある案内

妙心寺総門前にて
今から参拝なのだが…。

特別公開「明智風呂」の案内

明智風呂外観

浴室の説明

浴室内部
これは看板のもの。
このように広大な敷地を持つ妙心寺ですが、その始まりはささやかで、
『建武4年(1337年)、禅宗に深く帰依した花園法皇が離宮を禅刹に改め、
関山慧玄(かんざんえげん)を開山としたのが嚆矢。慧玄は後に無相大師の称号を得た。
その伽藍の横に建てた最古の塔頭寺院が玉鳳院(ぎょくほういん)である。
以来、関山禅の流れを汲む名僧を輩出し、更に多くの戦国武将の帰依を受けて発展した。
今の境内の西側は仁和寺より譲り受けたものである。』 とあります。
仁和寺も宇多上皇の離宮でしたから、同じような由来ですが、
寺領まで仁和寺から得たとは知りませんでした。
仁和寺も自分達の不利になる事はしないでしょうから、
妙心寺の歴代僧侶は余程政治力があったと思わざるを得ません。

仏殿外観

法堂外観

境内の塔頭を抜けて…

これは南北の通り
余りにも広く迷路のよう。

ようやく玉鳳院門前へ到着

入口にて
ここ玉鳳院は発祥の地ながら無住、46塔頭の僧侶が交代制で務めることになっています。
一人で守るのは畏れ多いからでしょうか?
方丈は明暦2年(1656年)の再建で、六室の襖絵は狩野派の作。
一番奥に「麒麟図」があるので大河との関連で今回の公開となったのでしょうか?
また最奥には開基の花園法皇の木像が安置されていますが、
写真パネルを見る限り、激動の時代を生き抜いた相が尊顔に表れていました。
方丈から廊下で東側へ向かうと開山堂。
無相大師の木像が安置されており微笑庵(みしょうあん)の別名で呼ばれます。
これは釈迦の「拈華微笑(ねんげみしょう)」に由来。
堂内は電気設備が全くなく、消えることのない燈明(常夜灯)の元でお勤めが行われます。
また堂内には常香盤が置かれ常にお香を焚き占めるのが習わしだそうです。

特別公開案内板

山門を過ぎた先の前庭

前庭の牛石
開山を慕って来た牛に由来する。

庫裏
ここから先は撮影禁止。

方丈の伝狩野永真筆の襖絵
これは案内からの引用。
それからガイドの人の説明で驚いたのは表の唐門二つ。
良く見れば、屋根の向きが違っており、
曲線部が前後にある向唐門(むかいからもん)と左右にある平唐門(ひらからもん)の二つ。
今まで唐門といえば向唐門しか記憶にありませんでしたが、
平唐門の方が由緒が古く公家様だそうです。
境内には秀吉の夭折した長男・鶴松の御霊屋、
また織田信長・信忠親子、武田信玄・勝頼等4名の墓があります。
信長・秀吉は都に居たので分かりますが、武田の四名は不思議。
なんでも信玄が臨済宗妙心寺派に帰依したのがその理由だとかで、
呉越同舟ならぬ宿敵が同じ場所に祀られているのも死ねば恩讐も消えると言うことでしょうか?

西側にある向唐門

向唐門近影

東側にある平唐門

平唐門近影

平唐門の扉に残る応仁の乱の矢傷

玉鳳院御朱印

花園会館にて抹茶と菓子の接待
特別公開を三ヵ所拝観したスタンプラリーの特典。
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<コース>
JR京都 → (地下鉄烏丸線) → 今出川 → 大聖寺

岳松山 大聖寺(臨済宗系単立 尼門跡寺院)
京の冬の旅 特別公開は2020.1.10~3.18ですが、大聖寺のみは3月のみの公開。
光照寺や三時知恩寺の近所ですが、二院拝観時には行けなかったので今回単独での訪問。
残念ながら玄関より先は室内外ともに撮影禁止でした。
場所は地下鉄今出川を出て直ぐ、同志社大学に囲まれた場所。
御所の北側で室町三代将軍・足利義満が造営した「花の御所」跡の一角にあります。
今でもそうですが当時も一等地。何故このような一等地に寺院を営むことができたのか?

大聖寺入口
地下鉄を上がった直ぐの場所にある。

大聖寺 特別公開案内板

山門近影
岳松山大聖寺(がくしょうざんだいしょうじ)は、臨済宗の尼門跡寺院。
『光厳天皇の妃・日野宣子は光厳上皇の没後、相国寺二世により出家して
無相定円禅尼(むそうじょうえんぜんに)と名乗る。
日野宣子は義満の正室・日野業子の叔母に当たり、
その縁から義満は花の御所の岡松殿に定円禅尼を住まわせた。
禅尼が永徳2年(1382年)に没した後、岡松殿を寺にしたのが大聖寺の起こりである。
寺号は無相定円の法名に、山号は岡松殿に由来する。
室町時代から江戸末期までの450年間に24代の内親王が住持を務めた。
また正親町天皇の皇女が入山した際に天皇から「尼門跡第一位」の綸旨を受けた。
以後、御寺御所(おてらのごしょ)と呼ばれる事となる。
場所は変わらないが、現在に至るまで二度移転。
現在地に戻ったのは元禄10年(1697年)の事。
庭園は江戸中期の作庭、書院は光格天皇の皇女・普明浄院宮が
住持を務めた際に御所より千両拝領して建てられた。
本堂は昭和18年に大正天皇の貞明皇后の御殿を青山御所から移築したものである。』
とあります。開山が天皇の妃で将軍の叔母。
しかも将軍歴代の正室を出した日野氏ともなれば「花の御所」の一角に御殿を拝領し、
後に門跡寺院となるのも故なしとしません。
花の御所の名は将軍が各地の大名から花を献上させた事に由来しますが、
そこにある大聖寺はさながら「花の御寺」というべき存在でしょうか?

山門に掲げられた華道と煎茶道の看板

境内の「花の御所」の石碑

塀越しに見た本堂
ここは写真撮影OK。

屋根瓦には菊の御紋が

境内を進み玄関へ
向こうに見えるのは同志社大学。

玄関の唐門
書院・本堂は小さいながらも貴族的な造り、そこから眺める庭園は
桜・楓・椿が植えられ四季を通じて風景を楽しむ事ができます。
ガイドの方の話では、門跡としてここに入ったのは幼年の人が大部分。
最後の内親王は11歳で薨去されたとか。亡くなるまで独身で過ごす訳ですから、
衣食住が保証されたとはいえ門跡はこのような環境で幸せだったのでしょうか?
和辻;「門跡の方には結構辛い日々だったのではないですか?」
ガイド;「そう思われる方が多いみたいですが、意外と楽しまれたようです。御付きの方々もいらっしゃったので。」
和辻;「幼少で入山された方は、門跡の仕事はどうされたのですか?」
ガイド;「古参の方々が指導されました。」
高貴な身分故に政治的に利用されない方策だったのでしょうが、
このような状況下でも門跡としての職務を全うされたのは、
やはり高貴な身分という矜持だったきがします。
国は違いますが、チベットのダライ・ラマ猊下を思い出しました。
明治以降は皇族の入山はなくなりましたが、摂関家等家族の姫が多く入られたそうです。
御朱印を拝受するためベルを押すと、年配の尼僧が来られました。
「御門跡ですか?」と伺うと、「そうでございます。」との御返事。
御門跡直々に墨書頂き、恐縮しましたが、優雅な物腰の方。
今も伝統は継承されているのを強く感じました。

大聖寺門跡の説明
御朱印を拝受した庫裏玄関に掲示してあったものを撮影。

書院の間の様子(特別公開の案内板から)
椅子は明治天皇の御椅子と香淳皇后御幼少の頃に使われた御所人形。

大聖寺書院前の庭園(御朱印を拝受した庫裏玄関に掲示してあったものを撮影)
江戸時代中期に造られた御所風の枯山水庭園。

大聖寺庭園の説明

大聖寺御朱印
御門跡の墨書。
[参考書]
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