<コース>
JR東京(6:40) → (やまびこ203号) → JR福島(8:35→8:45) → JR桑折(8:59) → 徒歩10分 → 旧伊達郡役所 → JR桑折(11:49) → JR福島(12:03→12:20) → JR二本松(12:42) → 駅観光案内所 → レンタサイクル → 二本松城下町

二本松奉行所の看板がある駅前派出所
桑折の後は在来線の上りで郡山に向かいますが、二本松で途中下車。
新幹線こそ停車しませんが、岳温泉、安達太良山、高村智恵子の生家を控えた観光地。
しかも江戸時代は十万石の城下町。寛永20年(1643年)に丹羽光重が入部、
以後幕末までの220余年間、丹羽氏が治めました。
始祖・丹羽長秀は柴田勝家と並ぶ織田信長の有力武将。
木下藤吉郎だった秀吉が両者の苗字から一字ずつ貰って羽柴の姓を作ったのは有名な話です。
名将の末裔が統治した町だけあって、昔の街並みや寺院が残っています。
有名な和菓子店もそのような造り。また藩政時代から続く菊人形でも知られますが、
【にわし】だからでしょうか?

御菓子師 「玉嶋屋」
本町にある江戸時代創業の老舗で二本松藩御用菓子。

昭和12年発売の「玉羊羹」
発売当時は「日の丸羊羹」。土産に購入。
そんな城下町ですが、今まで二度悲劇に見舞われています。
最初は天正13年(1585年)の伊達政宗に拠る小手森城攻め。
老若男女は言うに及ばず犬に至るまで殺害されました。その数千人。
この事があってから「独眼竜政宗」の名は四方に轟きました。
もう一つは、幕末の戊辰戦争。福島と言えば会津の白虎隊がすぐに思い浮かびますが、
二本松は会津に攻め入る前の7月29日に新政府軍の攻撃を受け落城。
木村銃太郎率いる12~17歳の二本松少年隊は大壇口の激戦で全滅しました。
新政府軍との圧倒的な兵力・兵器の差は如何ともできなかったようです。
戊辰戦争は東北全体を悲劇に至らしめました。
会津松平家は親藩、鶴岡酒井家は徳川四天王なのでまだ理解できますが、
仙台伊達、秋田佐竹、盛岡南部、二本松丹羽などは全て外様大名。
沈み行く徳川幕府にそこまで忠節を尽くすのは私には分かりませんが、
幕藩体制200年がそのような気風を育んだのでしょうか?
近隣の藩に対する義理立てもあったでしょうが、真面目一途な考えが
却って悲劇を生じるという事を我々は心に留めるべきでしょう。

駅前に建つ少年隊士の像

藩主菩提寺・大鱗寺の御朱印 (平成7年訪問時のもの)
少年隊士の供養塔も境内にある。

福島県流域下水道マンホール蓋 (福島県あだたら清流センターにて)

福島県流域下水道マンホールカード 配布場所は福島県あだたら清流センター

二本松市マンホールカード 配布場所は二本松市市民交流センター

昼食は駅前の二本松交流センター1階の「杉乃家」にて

二本松亀谷郵便局 ; 二本松城跡箕輪門とアカマツ、安達太良連峰
二本松竹田町郵便局 ;二本松少年隊群像、安達太良山
電車を二本待つ程の散策を終えて、郡山の手前の本宮で再び下車。
駅前にて伊藤久男の像に対面。昭和8年のデビュー以来、歌手生活50年。
我々の世代には「あざみの歌」「熊祭の夜」で有名ですが、
福島県出身とは今回初めて知りました。県下では春日八郎と双璧でしょうか?
そういえば「熊祭の夜」作曲の古関裕而も福島県。思わずエールを送りたくなりました。

JR本宮駅前の伊藤久男像
本宮出身の昭和歌謡の歌手。作曲家・古関裕而も福島県の人で、2020年朝ドラのエールの主人公でもある。

本宮市マンホール蓋
今回の訪問の数か月後にカードが発行された。
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<コース>
JR東京(6:40) → (やまびこ203号) → JR福島(8:35→8:45) → JR桑折(8:59) → 徒歩10分 → 旧伊達郡役所

重文・旧伊達郡役所
会津若松での寺巡礼を明日に控え、この日は郡山泊ですが
1日移動だけではつまらないので、少し足を北へ伸ばして数か所巡礼。
JR郡山駅、福島駅までは東京から新幹線で楽勝ですが、そこから先の在来線が問題。
新幹線は1時間に3本ありますが、在来線は1本か多くて2本。
駅員の方も「本数が減ってしまって…。」と仰っていました。
福島駅から北へ3駅の桑折で下車。行政区では伊達郡桑折(こおり)町。
福島盆地の北部で源頼朝の奥州藤原氏征伐以降、
ここに封ぜられた伊達氏の本拠地となりました。
江戸時代以前の桑折は奥州街道と羽州街道が交わる交通の要衝。
そういえば「こおり」と言う呼び名は古代の評・郡に通じるものを感じます。

説明板

郡役所正面

入口から見上げた2階ベランダ部分

横から見た入口部分

入口
今は在来線しか停車しませんが、桑折町の自慢は旧伊達郡役所。
『明治12年(1879年)に保原村(現伊達市)に設置されたが、
桑折村の有志の誘致活動に拠り明治16年4月に移転、
工費2万5千円を地元が負担し10月に竣工した。
建設には地元の大工棟梁4名が担当し、塔屋を備えた二階建ての擬洋風建築。
この様式の背景には当時の福島県令・三島通庸の方針があったとされる。
郡役所としての使命は大正15年(1926年)に終えたが、その後地方事務所等に使用。
昭和52年には重要文化財に指定され、昭和54年に解体修理が完成した。』 とあります。
宮城の登米や青森の弘前もそうですが、東北地区にも洋風建築は多く残っています。
唯、建築をすべて現地の人が行ったのには驚き。
恐らく見るもの作るのも初めてだったと思いますが、職人技術の高さを感じます。
加えて、これを企画したのが三島通庸。薩摩出身で大久保利通の腹心、
県令として各地を巡りましたが、福島では会津三方道路を強引に推進。
そのやり方から「鬼県令」とまで呼ばれた人間が
一方で地元の誇りともいうべきものを残したと言うのも意外でした。
彼については毀誉褒貶が半ばしますが、己の意思を曲げなかったのは流石。
憎まれることのない人間は大きな事もできないという見本とも言えましょうか?

1階の旧事務室

窓にはステンドグラスが

2階から見た階段部分

桑折町マンホール蓋

桑折町マンホールカード 配布場所は旧郡役所隣の種徳美術館

桑折郵便局 ; 重文・旧伊達郡役所、半田山、新沼
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<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR横浜(5:22) → JR東神奈川(5:25→5:36) → JR八王子(6:30→6:33☆) → → JR松本(10:16)
【復路】JR松本駅(16:33) → JR大月(19:47→19:54) → JR八王子(20:49) → JR新宿(21:28) →JR東京(21:43)

旧制松本高等学校
いつか一人で行く筈だった、春も本番な信濃路へ「あずさ2号」ならぬ在来線乗り継ぎで。
朝5時台出発とはいえ10時16分松本着。大阪からだと新幹線と
特急しなのを乗り継いでも9時半くらいですから、信州は関東圏だと実感します。
長野県と言えば教育県として有名で、岩波書籍の年間売り上げが最も多いとテレビのクイズでありました。
岩波書店の創業者・岩波茂雄は諏訪出身ですが、
それを割り引いても教育熱心に変わりはありません。
私の出身大学の信州出身の某名誉教授は
「信州は江戸時代には農作物の収穫が低かったので、多くの親は子供に勉強させて知識を身に付けさせた。」
と述べています。
松本の観光名所と言えば、国宝・松本城と重文・開智学校が先ず挙げられます。
後者は明治9年から昭和38年まで小学校として【校舎】が使われました。
しかし市内にはその他にも旧制松本高等学校と言うものが存在。
学校自体は知っていましたが、建物が残っているとは初耳。
しかも重文らしいので、駅から東にある校舎までサイクリング。

途中にある中田家住宅

中田家の説明

中田家玄関
『旧制松本高等学校は大正8年(1919年)に9番目の官制旧制高等学校として設立。
一高・二高のナンバースクールに続く地名スクールの最初に当たる。
戦後の昭和24年に信州大学に移行、翌年に廃止となり実質は30年足らずであったが、
各界に著名人を輩出している。』 とあります。
校舎が建つのは駅東方1400mの県地区。
設立時は旧制松本中学に間借りしていたそうですが、翌年にここに校舎が竣工。
曲がりなりにも旧制高等学校が中学に間借りするのはまずかったのでしょう。
現在この辺りは「あがたの森公園」となっていますが、校舎は木造2階建てドイツ風建築。
薄緑色で周囲の樹木と相俟って信州らしさが出ていると感じました。
作家の辻邦夫・北杜夫の両氏も卒業生。特に北杜夫氏は東京出身ですから、
わざわざ信州まで入学したのは学校に惹かれるものがあったに違いありません。

入口にて 入場無料

本館

講堂外観
1920年竣工の洋風建築。

レンガ造りの記念館
このような校舎で勉強できるとは羨ましいですが、旧制高等学校の競争率は10倍。
今の旧帝大系国立大学に比べると遥かに高いので、旧制高校生になるのは並大抵ではなかったようです。

松本市マンホール蓋

松本市マンホールカード 配布場所はこちら

松本埋橋郵便局 ; 旧制松本高等学校本館、バンカラ学生、北アルプス
松本清水郵便局 ; 旧制松本高等学校本館、国宝・松本城天守遠望、北アルプス
[参考書]
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<コース>
JR北新地 → (学研都市線) → JR四条畷 → 徒歩8分 → 四条畷神社

四條畷神社(別格官幣社)
JRの駅の少し北から東へまっすぐ続く道を上ると四條畷神社。
駅近くにある石造の一の鳥居が平成30年の地震で取り払われたのは残念ですが、
二の鳥居までは両脇には桜が植えられて居り、参拝の雰囲気が高まります。
門前の左側にあるのが料理旅館「伊勢屋」。
和様で古風な造りですが、そこに掲げられた「Grill」の看板には驚き!
「参拝では、おにぎり・饂飩・蕎麦が普通では?」と思いますが、
このギャップが大阪人的とも言えます。
大阪中心部から電車で20分なので、宿泊する人がどれくらいいるのか不思議ですが、
メニューは試したいもの。今は持ち帰りのみでしたが…。

JR駅北にある社標
ここから飯森山の麓まで参道が一直線に続く。

二の鳥居前に到着
左に料理旅館が。

「GRILL」 の看板が上がる料理旅館 「伊勢屋」

現在はテイクアウトのみ
四條畷神社は、略記に拠れば、
『南朝方の武将として、四條畷で討死した楠木正行(まさつら)を主祭神として
明治23年(1890年)に創建。正行に加え一族の24武を配祀している。
付近には伝正行墓と呼ばれるものがあったが、
明治になって南朝が正統とされ楠木正成が神格化。
それに伴い息子の正行も崇拝されるようになり、地元の請願もあって神社創建となった。
その余波を受けて明治28年には浪波鉄道が大阪中心部から四條畷まで開通、
明治36年(1903年)には府立第九中学校開校、
昭和7年(1932年)には行政区に四條畷の名が採用された。』 とあります。

二の鳥居前にて

二の鳥居に続く石段

石段を上った先にある結界を示す注連縄

石段上から見返る

境内遠景
左が社務所、正面が拝殿
神社としては新しく、創建に関してはかなり政治的なものがあったようです。
北朝の系譜に繋がる明治天皇ですが、楠木一族に対する想いは強いものがあったようで
正成には正一位を追贈、明治30年には正行にも従二位を追贈されました。
【ついぞう】聞かないような厚遇ですが、これも親子二代に亘り
皇室のために命を捧げた事に拠るのでしょう。戦前は日本史では第一に覚える人物。
昨今、正成・正行親子を「まさなり・まさゆき」と呼ぶ人を見るにつけ、時代の流れを感じます。

由緒記

御祭神

二の鳥居

二の鳥居から拝殿方面を見る

二の鳥居を見返る
楠木正行は楠木正成の嫡男。父が湊川の戦いで戦死した時は10歳と幼少でしたが、
父の後を追って死のうとしたのを母親に留められ、父の遺志を継いで南朝方として働きました。
記録に登場するのは後村上天皇の即位以降、新田義貞なき後の南朝の主力として働きます。
局所的に勝利を納めますが北朝(幕府)を倒すには至りません。
幕府側は一気に勝負に出ようと高師直・佐々木道誉の率いる大軍を差し向け、
激突したのが四條畷の戦い。正平3年(1348年)正月5日の事でした。
衆寡敵せずの例えの如く正行は討死。一族も多く命を落としました。
出陣に際し、後村上天皇の「決して無理はせぬように」 との仰せに対し、
・帰らじと かねて思へば 梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる
との辞世の歌を吉野の如意輪堂に残しています。父の正成同様、覚悟の出陣でした。
23歳で夭折した事もあって判官贔屓もありましょうが、正行自身も立派な人物だったようです。

拝殿へ参拝

拝殿正面

御妣(みおや)神社
拝殿西にあり小楠公御母堂(久子)を祀る。

御妣神社説明

御妣神社(左)と拝殿(右)

桜井の別れの像

母親久子、小楠公を諭す

手水鉢奥にある大楠
亡くなる前年の11月26日、正行は幕府側の山名時氏・細川顕氏の軍を四天王寺で破りました。
その時、敗走する敵兵が渡辺橋に殺到し500名以上が淀川に落ちると言う事態に。
それを見た正行は直ちに停戦し、敵兵を救助し衣食を与えて京に送り返したと伝わります。
やや出来過ぎた感がありますが、当時も感動を呼んだようで、
二代将軍・足利義詮は墓を京都嵯峨宝筐院にある正行の首塚の横に造っています。
明治維新になって日本が国際赤十字に加盟するにあたり、
日本代表の佐野常民がこの正行の美談を引用。
各国はこれに感動して日本の加盟が認められたというおまけもつきました。
日本のナイチンゲールと呼ぶ向きもあるようですが、
そこまでいかずとも立派な人物であったのは確か。
劣勢にも拘らず、家臣も共に討死したのもその表れでしょうか?

四條畷神社略記

小楠公の赤十字精神の説明書

四條畷神社御朱印
小楠公の墓所は参道から直線で西へ行った場所にありますが、
駅前の一等地にも拘らず広い敷地や大楠があるのは
それだけ地元で大切にされている証拠。
唯、戦場や討死の場所には諸説あり決定は【難航】しているのが現状です。

墓所から神社方面を見る

墓所入口

墓所へ参拝

墓所正面

墓所の拝殿?

墓地説明

墓地と御神木の大楠

小楠公墓石

大楠近影

御神木の説明

北側から見た墓域


墓所の横は「楠公郵便局」
また塚脇というバス停横は従弟にあたる和田賢秀が討死した場所。
神社の飛び地になって居り、歯噛様として祀られています。
なんでも死に臨んでも相手に噛み付いたからだそうですが、
桶狭間の今川義元にも同様の逸話があるので、これも戦術の一つでしょうか?
余談ですが和田氏が和泉の岸という場所に城を築いたのが、今に続く岸和田となりました。

塚脇バス停前にて

和田賢秀の墓

説明板

JR四条畷駅スタンプ

四條畷市マンホールカード 配布場所はこちら

四條畷郵便局 ; 大楠、小楠公の墓、大久保利通自筆の碑
[参考書]
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<コース>
近鉄上本町 → (近鉄電車) → 近鉄瓢箪山 → 徒歩30分 → 往生院

岩瀧山 往生院 六萬寺(単立寺院)
世間はコロナで意気消沈しておりなかなか解決の糸口が見えず。
「こういう時こそ神仏に縋らねば…」 と自分勝手な理屈をつけて巡礼行脚に繰り出し。
と言っても九州へ【宇佐】晴らしともいかず、
解決の道筋が難航しているので【楠公】さんにすがる事に…。
当初は校区内の神社の予定でしたが、ネットで見ると関係のある寺院が南にもあるとの事。
予定を変更して二ヵ所参拝。
目指す寺は、近鉄瓢箪山駅から1㎞南下し、更に東へ1㎞の場所。
距離的には大したことはないですが、東へ向きを変えると急に上り坂となり遥か山麓に目的地が。

坂を上った先にある石段
結界を示す注連縄がある。

石段の上にある寺標
史跡とあるが観光寺院ではない。

石段上から見た東大阪市内
中央はるか先に高く見えるのがあべのハルカス。
岩瀧山往生院六萬寺(いわたきさんおうじょういんろくまんじ)は、
『崇峻天皇3年(590年)に百済留学から帰国した善信尼が居住したとされる桜井寺が嚆矢。
文武天皇の時代には役小角が背後の岩瀧山で修業したとされる。
天平17年(745年)、聖武天皇の勅願に拠り行基が四十九院建立の折、
荒廃していた桜井寺跡に六萬寺を再建。薬師如来を本尊とした。
その後衰退と復興を繰り返すが、長歴3年(1039年)に念仏聖であった安助上人が
六萬寺を復興。以後、往生院と称される事となる。
往生院は河内国四天王寺の真東に当たり、極楽浄土を達する相応しい場所とされた。
ここから四天王寺西門の向こうに沈む夕日を拝む「日想観」を修する場所として大伽藍として繁栄する。
南北朝時代の1348年には南朝の楠木正行がここを本陣として出陣して討死。
黙庵禅師がその首を持ち帰りここに葬ったとされる。尚、堂宇はそのときに焼失した。
戦国時代にかけて戦乱に拠り著しく荒廃するが、承応3年(1654年)に関白・鷹司信房により復興。
楠木正成・正行親子の供養塔も建立され、現在の基礎が築かれた。
明治22年(1889年)、四条畷神社建設の話が浮上すると、
寺域を失うのを恐れた地元民は供養塔を隠蔽、古文書を処分し寺も破壊された。
四条畷神社が現在の場所に建設された後の明治26年、
鷹司家が往生院の復興を図るが進展せず。
戦後の昭和28年(1953年)に順次復興が進められ創設時の姿に戻りつつある。』
とあります。

黒門を通り寺へ向かう

駐車場脇にある由来

黒門の先にある仁王門
但し、ここから境内には入れない。

階段脇の正行公本陣跡の碑

碑の後方に建つ小楠公を詠んだ歌

古代から河内往生院で出土した瓦類の説明

古代の瓦を詠んだ歌か?

歌碑の前から下界を望む
坂を上った先に建つ寺は、1400年の法灯を伝える割には新しいですが、
このような波乱万丈の沿革があったと知り納得。
この辺りからは遺跡や集落跡が出土するので昔から人々が暮らした場所。
寺の名前は桜井、六萬寺、往生院と変わりますが呼び方を変えたものでしょう。
行基が滝で修行した、夕日を拝んだとありますが、これらの地形は古刹に必要な条件。
往生院は観光寺院ではありませんが、日想観法要・滝行はパンフも用意して
今でも行っているそうです。これも一つの経営戦術でしょう。
今回は楠木正行公の墓所を参拝しようと来ましたが事前予約が必要なので後日へ持ち越し。
代わりに本堂の阿弥陀如来に参拝、奥之院は十一面観音だそうです。

仁王門を正面に見て境内へ

こちらの門をくぐり境内へ
正面にあるのは有思閣。

鐘楼(右)と仁王門

阿弥陀如来を祀る本堂

霊園入口から
正行公は北朝の高師直の大軍と戦って四条畷の戦いで陣没、享年23歳。
四条畷市には四条畷神社が鎮座、小楠公の墓もあり現在の四条畷付近で
戦死したと思っていたので往生院の由緒には驚き。
幕府軍は都から出陣して現在の大東市野崎付近に陣取ったとされます。
一方の正行は吉野の行宮から出陣。行軍は常に幹道を進むと言う原則に従うと、
正行の陣は幕府軍よりも南側とするのが妥当。
往生院に本陣が置かれたのは事実を反映していると思います。
「四条畷の戦い」の太平記の記載は「四条縄手の戦い」で四条は大東市内にある地名。
往生院の場所も今は東大阪市ですが昭和30年の市制施行時は枚岡(ひらおか)市。
河内一之宮の枚岡神社に由来しています。かつての町名には縄手町もありました。
戦時には広い境内を持つ寺社に兵を駐屯させる事、
枚岡神社境内に正行所縁の井戸が残っている事もあり、
正行が戦死したのも今の四条畷市ではなく、もっと南に寄った場所だったと想像します。
枚岡市は後に合併で東大阪市と改名。分かり易いですが、
由緒ある名が消えて勿体ない気もします。
もし枚岡市であったなら、枚方市を「まいかた」と読む人も減るとは思いますが…。
歴史に【私情を】挟んでは駄目ですが、真に迫るのは【難航】で【往生】します。

往生院由緒

境内の歴史観の案内

「日想観法要」の案内
彼岸には写真の様に夕日が見える。

「滝行・修行体験」の案内
寺の裏山にこのような滝がある模様だが今回は未訪。

往生院御朱印 (御本尊阿弥陀如来)

往生院御朱印 (小楠公御廟)
この他に二種類 「奥之院 十一面観音」 「日想観」 がある。

縄文時代の遺跡跡碑
途中のスーパー前にあり、「枚岡市」 の表記が時代を物語る。
[参考書]
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<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:51) → JR姫路(7:56→8:01) → JR岡山(9:29→9:47) → JR津山(10:53)
【臨時】JR姫路(9:46) → JR播磨新宮(10:22→10:27) → JR佐用(10:56→11:04) → JR津山(12:02)
津山駅観光案内書 → レンタサイクル25分 → 中山神社 → レンタサイクル35分 → 作楽神社 → レンタサイクル20分 → 安国寺 → レンタサイクル15 分 → 鶴山公園 → 城東重要伝統的建造物群保存地区 → レンタサイクル10分 → 観光案内所
【復路】JR津山(16:27) → JR佐用(17:27→17:34) → JR播磨新宮(18:02→18:11) → JR姫路(18:42→18:56) → JR大阪(19:58)

萬歳山 安国寺(臨済宗妙心寺派 )
作楽神社参拝の後、鶴山公園に戻る道すがら、
庭園の綺麗な寺があると聞きちょっと立ち寄り。
道を少し北へ入り整備された石畳の先に目指すお寺が…。
萬歳山安国寺(ばんさいざんあんこくじ)は、
『元来、英田郡角南にあった善福寺が、元禄年間に現在地に移転し改名。
本堂裏にある石林園は近世中期に築造されたと言われる禅宗庭園。
ここの第二世列堂和尚の作庭に拠る。境内8,500㎡の内、69%を占めている。』
と言われています。

参道の両脇の松

山門前にて
奥に本堂が見える。
階段を上ると山門、その先に本堂が見えますが、至って簡素な造り。
本堂にお参りした後、本堂裏に回ると、庭園が…。
本堂と客殿の背後にある丘を借景に取り込んだもので、
泉の奇岩が様々な樹種を背景に巧みに配置され趣のある造りとなっている。』
とあります。移転と改名を経てはいますが、
室町初期に足利尊氏・直義兄弟が全国に建立した安国寺の後継寺院。
山門から続く本堂はこじんまりとして簡素な様子。禅宗様というべきでしょうか?
拝見できませんでしたが、御本尊は十一面観音。
永和3年(1377年)の銘がある梵鐘は巡り巡ってここに寄進されました。

本堂正面
拝観していないので外から参拝。

境内にある平沼騏一郎の墓
本堂の裏に庭があるとの事なので足を運びました。
本堂・書院と背景の山に囲まれた空間に池泉回遊式庭園があります。
高い建物と山の間にあって少し日差しが弱いですが、それが却って自然な印象を与えます。
庭の名前は石林園とありますが、確かに石の配置が妙を得ていました。
寺域は後方の山まで続いているようで、チェンソーで樹木を伐採する音が響いていました。
御朱印を御願いすべく庫裏に伺いましたが、生憎不在の様子。
暫くするとチェンソーを持った初老の方が来られたので、伺うと御住職。
御朱印も最近はしなくなったそうで、お礼だけ述べて辞去。
御朱印なしは残念でしたが、思いがけない庭を鑑賞できたことで良しとなりました。

本堂裏の日本庭園

本堂と庫裏の間から見た景色

向かって左側の庭園
池に突き出たものが亀島か?

島に架かる石橋

庭園中央

庭園右側

庫裏と庭園

庭園背後の小山から池と本堂を見る

小山から池と庫裏を望む
[参考書]
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<コース> 春の青春18きっぷ使用
【往路】JR大阪(6:51) → JR姫路(7:56→8:01) → JR岡山(9:29→9:47) → JR津山(10:53)
【臨時】JR姫路(9:46) → JR播磨新宮(10:22→10:27) → JR佐用(10:56→11:04) → JR津山(12:02)
津山駅観光案内書 → レンタサイクル25分 → 中山神社 → レンタサイクル35分 → 作楽神社

作楽神社(県社)
一之宮参拝に続き、津山城まで南下した後、西へ5㎞の神社へ。
最寄りの姫新線の院庄駅から徒歩15分ですが、
列車(電車ではない!) が非常に少ないので引き続き10㎞の自転車旅となりました。
作楽(さくら)神社は、明治2年(1869年)の創建。
先に訪れた中山神社は言うに及ばず、歴史も150年程と新しい神社。
【さくら】の季節とはいえ何故、このような新しい神社に参拝するのか?

国道179号沿いにある社標

入口に建つ一の鳥居
作楽神社の由緒は
『鎌倉時代に美作の守護職の館である院庄館のあった場所。
元弘元年(1331年)、倒幕に失敗した後醍醐天皇は光厳天皇に譲位させられ隠岐に配流となった。
その途中、ここ院庄館に滞在したが、備前の土豪・児島高徳は帝を奪回しようとして果たせず、
庭の桜の幹を削って次のような十字詩を記した。
天莫空句践 時非無范蠡
(書下文) 天、句践を空しうする莫れ、時に范蠡無きにしも非ず
警固の武士は何の事か理解できなかったが、帝だけはこの意味を悟り、
このような状況下でも自分に心を寄せる忠臣がいたと心を強くした。
この故事は『太平記』にも載った有名な話だが、江戸時代の津山藩家老・長尾勝明は
荒廃していた館跡に碑を建立して高徳を顕彰。
これは湊川神社の「嗚呼忠臣楠子之碑」より4年前で、
南朝忠臣の記念物としては我が国で二番目に古い。
幕末にはここに神社を建設しようという運動がおこり、
国学者・道家大門(どうけひろかど)が中心となって朝廷より「作楽神社」の勅号を賜り、
明治2年の社殿創建となった。
道家大門は宮の造営にあたり、初代の祠官も務めた。』 とあります。

一の鳥居脇の後醍醐天皇御製碑

御製碑近影

御製説明

堀に架かる石橋を渡って拝殿に向かう

参道先の二の鳥居

神社由緒

児島高徳忠義桜碑
平成3年の建碑で参道右に建つ。

二の鳥居の奥に見える拝殿
御朱印拝受に社務所で伺うと、「作楽」の字は桜の万葉仮名だそう。
高徳が漢詩を記した桜に由来するのは言うまでもありません。
現在は、境内の奥にその桜の子孫が植えられていましたが、
地質的な影響か根付くのが遅いそうです。
児島高徳の忠義を顕彰するために建てた神社で、
御祭神も正祀が後醍醐天皇、配祀が児島高徳となっています。
境内も顕彰碑が乱立するような普通とは少し趣を異にする神社でした。
児島高徳はこの故事で有名ですが登場するのは一度きり。
従って架空の人ではないかという議論も以前からありました。
唯、太平記の作者として小島法師という名があり、同一人物ではないかとも言われます。
太平記全文を読めば分かりますが、至るところで中国の故事が引用。
上記の十字詩も史記に記載された春秋時代の呉越の故事に由来しますから、
同一人物である可能性は高いと思います。
境内にある神楽殿は明治の俳優・川上音二郎と貞奴夫妻が寄進した拝殿が元。
児島高徳の史劇を演じて全国行脚した音二郎が神社の荒廃を嘆いたためだとか。

拝殿
入母屋流唐破風向拝付。

拝殿と翼舎

作楽の真名井
拝殿前にある井戸。

井戸横にある神楽殿
川上音二郎が寄進した拝殿が元になっている。

神楽殿由緒

神楽殿の屋根瓦にある神紋 「丸に桜花」
戦前と戦後で教科書内容が大きく変わったのは日本史。
特に戦前は神話から始まり歴代皇室関係の記述が多く、
児島高徳、楠木正成は初等教育を終えた人は皆知っている人物でした。
この詩も臥薪嘗胆の故事を踏まえており、人の琴線に触れるところがあったのでしょう。
尚、明治天皇は光厳天皇の系譜に繋がる北朝の方ですが、
南北朝の正閏論では南朝を正統とされています。
今はその揺り戻しで、記述はカット。
児島高徳、楠木正成の名を知っている人も非常に少ないのが現実です。
確かに荒唐無稽な話もありますが、一方的に省略するのではなく、
どのような事実が潜んでいるのかを検証するためにも載せる方が科学的。
『天、校正を空しうする莫れ、時に反例無きにしも非ず』とも言えるでしょうか?

神楽殿横から東大門桜樹址を見る

児島高徳像
昭和40年寄進の備前焼。台座に十字詩が記される。

建武中興650年記念碑
昭和59年 津山ライオンズクラブの寄進。

日原桜道漢詩碑

院庄六百年の涙雨
井上剣花坊に拠る。昭和7年鶴城吟社建立。

東大門桜樹址
貞享5年(1688年)に長尾勝明が建碑。児島高徳が桜樹を削った館の大門址にある。

天皇陛下の記念植樹

院庄館跡
向こうに一の鳥居が見える。

史跡院庄館跡説明

作楽神社の栞 ¥100

作楽神社御朱印
右; 通常の御朱印 左; 最近出来たもの

津山二宮郵便局 ; 聚楽園、桜の幹に漢詩を彫る児島高徳
[参考書]
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津山駅観光案内書 → レンタサイクル25分 → 中山神社

中山神社(美作國一之宮 式内社 旧国幣大社)
城下では「津山さくらまつり」がたけなわですが、
鶴山城を右手にみて鶴山通をひたすら北へ5㎞。
道沿いに流れる宮川が大きく曲がる場所で西に向かい1㎞程で目指す神社。
鳥居前には樹齢800年の祝木のケヤキがお出迎え。

神社前に到着

祝木(いほぎ)のケヤキ
樹齢800年、高さ10.5m。

ケヤキの説明

一の鳥居
「中山鳥居」と称される独特の形式。

「中山神社」の扁額
中山神社は
『文武天皇の慶雲4年(707年)の創建。貞観6年(864年)に官社に列し、
延喜式では美作国唯一の明神大社で一之宮とされ、永保元年(1081年)には正一位を授かる。
「今昔物語」 には中山神社の猿神伝説があり、『梁塵秘抄』でも厳島、吉備津と並ぶ大社としている。
元寇の際には勅命に拠り、全国七ヵ国の一の宮として国家安穏の祭祀を行った。
室町以降の美作は戦乱の巷と化し、永正8年(1511年)、天文2年(1533年)に厄災を受ける。
特に後者では尼子晴久の火責めにより建物・宝物・古文書等を焼失した。
永禄2年(1559年)に社殿が再建されるが、これは尼子晴久の美作平定の戦捷に拠るものであった。
以降、歴代藩主の崇敬篤く明治4年には国幣中社に列した。
現在も農耕牛馬の守護神、採鉱冶金の守護神として広く崇拝されている。』 とあります。

一の鳥居から境内を見る

境内から一の鳥居を見返る
右はムクノキ。

ムクノキの説明

シーサー似の参道の狛犬

参道に続く神門

神門近影
津山城二の丸にあった薬医門を明治初期に移築したもの。

神門前を流れる御手洗川

神門から拝殿を望む

門をくぐり拝殿に参拝

拝殿前面
廻廊で社務所と繋がる。

拝殿前から神門を見返る

塀越しに見た拝殿正面

拝殿と奥に続く本殿

拝殿側面

拝殿と廻廊部分
山の中とまではいきませんが、津山の中心からはかなり北にずれた場所。
和銅6年(713年)に美作国が備前国から分離した際に
吉備中山から勧進を受けたと言う説もあるようなので、
中山の由来としてはそちらのほうがしっくりくる気もします。
主祭神も鏡作神という一風変わった神様、
また鉱山や牛馬の守護神というもの中央ではなく止着の香りがします。

拝殿の奥にある重文・本殿
永禄2年(1559年)尼子晴久により再建された。

本殿横から拝殿を見る

本殿近影
単層入母屋造・檜皮葺で 『中山造』 と呼ばれる独特の様式。

本殿屋根と軒下

境内奥から見た本殿
御朱印を拝受すべく社務所へ。宮司さんが対応して下さいました。
和辻:「美作は一之宮がここで、国分寺が東津山の南で、随分離れていますね。」
宮司:「どちらも移転していませんが、平地で統治の及ぶ範囲だったのでしょう。」
一之宮の方が国分寺よりも創建は前。
国分寺は加茂川・吉井川・広戸川の三川に囲まれた場所なので、
その利便性も考慮された感じがあります。
津山の見所は津山城を中心にした東西2㎞の範囲ですが、
ここは町はずれとは言え、中身ははずれなし。
社殿は檜皮葺で「中山造」と呼ばれ美作の多くの神社の模範となったものだとか。
美作の小京都で【たまさか】荘厳な雰囲気に浸る事ができました。

境内奥の細道を抜け猿神社へ向かう

岩壁に祀られた猿神社
「今昔物語」に登場する。

猿神社近影
手作りの布製の申を奉納する習わしとか。

神門脇の神楽殿と総神殿(右)

中山神社説明書

中山神社御朱印
[参考書]
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津山城(鶴山公園)
伝統的街並みや小京都が点在する岡山県ですが、
こと桜となると津山の鶴山公園を逃すわけにはいきません。
姫路からは姫新線経由が距離的に近いですが接続が悪く、行きはいつも岡山経由。
今回もその予定でしたが、山陽本線が線路確認のため姫路は20分遅れ。
岡山経由だと2時間近く遅れそうなので、急遽予定を変更して姫新線での津山入りとなりました。
津山は美作の小京都で津山城の城下町。
津山城の場所には戦国時代に美作守護の山名氏が鶴山城を築きましたが後に廃城。
江戸時代に入部した森氏が城郭を築き津山城と命名しました。
しかし今の城跡はかつての名前で鶴山公園となっています。

JR津山駅前にて
かつてはなかった城下町の街並みを模した造りに。

吉井川に架かる今津屋橋から城址を望む

観光センター横の道から城跡へ続く階段

階段上から

南側石垣にて
丁度、津山さくらまつり開催中。

石垣の上のソメイヨシノ

コロナのため人では少ないが花は例年通りに満開


津山城の始祖は森忠政公。
信長の側近で本能寺の変で命を落とした森蘭丸の弟に当たります。
森家は織田家の家臣ですが、ほかの兄弟は早世するなどで彼に家督が回ってきました。
運に恵まれたとも言えます。世間一般には兄の方の知名度が上ですが、
弟は大名までのし上がった訳ですから有能な人材だったのでしょう。

表門前にある藩祖・森忠政公の像

藩祖の略歴

石垣遠景

宮川に架かる橋付近から城址を望む
あと津山と言えば洋学の町。城東にある出雲街道沿いに街並みが残ります。
交易で栄えた海沿いではなく、内陸の津山に洋学が盛んだった
と言うのも不思議な気がしますが、美作は江戸時代にも牛肉を食した文化があった場所。
新しいものを取り入れる意向は場所よりも人の心掛けという事でしょうか?

城東重要伝統的建造物保存地区
宮川を渡った出雲街道沿いに城下町の姿を残す一帯が続く。


城東地区にある苅田酒造跡
杉玉が吊るしてある。

城西の田町にある旧武家屋敷

城西浪漫館(中島病院旧本館)
大正6年(1917年)築のバルコニー形式の玄関とドーム型の屋根を持つ。

ここも田町の武家屋敷
朝の連ドラ「あぐり」のロケに使われたらしい。

作州民芸館
1909年竣工の銀行の建物を民芸品展示に使用している。

駅前に建つ箕作阮甫の像
幕末の医者で洋学者として活躍した。

駅前に展示された蒸気機関車

駅南側にある「津山まなびの鉄道館」

鉄道館前の八重桜
蜜を求めて蜂が乱舞していた。

津山市マンホール蓋

津山市マンホールカード 配布場所は津山観光センター

津山郵便局 ; 鶴山公園・古城址、児島高徳の桜樹の漢詩、擬宝珠のある木橋
津山田町郵便局 ; 津山城址、桜

津山中之町郵便局 ; 津山城址、町屋造りの商家、松
津山大谷郵便局 ; JR津山駅に隣接して残る扇形機関車庫

JR津山駅スタンプ(JR印は津山線とあるが姫新線が正しい)
上;国鉄時代の「わたしの旅」印 下;JR岡山支社印
[参考書]
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【往路】JR横浜(5:28) → JR小田原(6:21→6:22*) → JR熱海(6:45→6:49☆) → JR磐田(9:07)
*向側ホーム ☆階段を渡ったホーム
JR磐田駅(9:36) → バス10分 → 長森(9:46) → 徒歩25分 → 行興寺 → 長森(11:57) → JR磐田(12:16)

行興寺(時宗遊行派) 別名:熊野寺
弥生も末の六日は、朗々とした曙の空を見ながら一路東海道を西へ。
この日の巡礼先は手持ちのガイドにも載っていませんが、
かつて駅で押印したスタンプの図柄に用いられていました。
普通は観光先で押印するものですが、押印したものから観光地を訪ねる逆バージョン。
最寄りの駅はJR豊田町ですが、そこから北へ5km程距離があるので、
JR磐田駅からJR浜松駅までの路線バスに乗車。
東海道五十三次の28番目と29番目を結ぶ路線ですが、
東海道本線が並行して走っているためバスは60分おき。
しかも停留所からは20分徒歩と予想外の運動になりました。

JR豊田町駅スタンプ(JR東海静岡支社印)

JR磐田駅前の大楠

霊犬・しっぺい太郎の石像
大楠の前に建つ。
池田と呼ばれる場所に建つのは熊野(ゆや)の長藤で有名な行興寺(ぎょうこうじ)。
寺伝に拠れば、
『この地域はもと池田荘と呼ばれた荘園。
庄司・藤原重徳夫妻の熊野信仰で生まれた娘・熊野(ゆや)が、
遠江守・平宗盛に見初められ都に上り寵愛を受けるが、
故郷の母親の病を知って帰国を願い出る。
宗盛は許さなかったが、熊野が清水の舞台で
「いかにせん、都の春は惜しけれど、慣れしあづまの花や散るらむ」
と歌い舞い踊った事で帰国を許された。
しかし帰国後、暫くして母親は亡くなり宗盛も壇ノ浦で戦死。
兄弟の重衡は鎌倉に護送される際に、この地で熊野に慰められたと伝わる。
熊野はこの地で尼になり母や平家一門の菩提を弔い生涯を過ごすが、
没後その庵が正応3年(1290年)に行興寺として開山。
本尊は阿弥陀如来であるが、熊野が信仰した十一面観音も保存されている。
境内には樹齢850年と伝わる長藤があるが、
これは熊野が母のために植えたと伝わる。』 とあります。

行興寺入口
山門と言うよりも関所と言った造り。

由緒記

県指定天然記念物「熊野の長藤」のうち1本

熊野の長藤の説明

境内の長藤
流石に花がないと言った状態。

白藤の棚から境内を望む
右奥が本堂。
ポスター写真で見る限り、最盛期には紫のカーテンが
境内を覆い尽くす感がありますが、藤の開花は1ヶ月以上先。
藤の蔓が棚を這っている姿しか見る事ができなかったので想像を巡らしました。
熊野御前の事は「平家物語」にも記されていますが、
人口に膾炙するようになったのは謡曲「熊野」の影響が大。
伝説的な内容ですが池田は中世から天竜川の渡しで栄えた場所なので、
平家の公達が【ぎょうこう】した史実もあり得る話です。
いかに寵愛を受けていたとはいえ、宗盛に帰国を願い出るなど
【清水の舞台から飛び降りる】気持ちだったでしょうか?
これは鶴岡八幡宮での静御前にも通じるものがあります。
源平合戦は男性中心の記載が多く、女性は時代に翻弄される
悲劇のヒロインといった印象を受けがちですが、
彼女たちも己を最大限にアピールしていたに違いありません。

境内にある熊野と母親の墓

熊野の長藤の説明書

行興寺御朱印
書置きを拝受。

行興寺の近くに建つ池田橋の跡の碑

池田の渡し「歴史風景館」
入館無料で写真や古地図を展示。

豊田町駅前郵便局 ; 天竜川、香りの博物館、熊野の長藤
[参考書]
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京阪淀屋橋 → (京阪特急) → 京阪出町柳 → (叡山電鉄) → 叡山電鉄一乗寺 → 徒歩15分 → 圓光寺 → 徒歩20分 → 曼殊院

曼殊院(天台宗 門跡寺院)
円光寺に続き、八瀬方面へ少し歩いて門跡寺院へ。
曼殊院(まんしゅいん)は寺伝に拠れば
『8世紀に開祖伝教大師(最澄)が比叡山に開いた坊が嚆矢とされる。
その後、天暦元年(947年)に是算(ぜさん)国師の時に西塔北谷に移り東尾坊と称した。
曼殊院では是算を初代とする。彼は菅原氏の出であったので、
北野神社が造営されると勅命に拠り別当職に補せられ、
以後、歴代門主は明治初期まで兼務した。
天仁年間(1108~1109年)忠尋(ちゅうじん)座主が住持の際に東尾坊を改め曼殊院とした。
竹の内御殿とも呼ばれる。
明応4年(1495年)に後土御門天皇の猶子・慈雲法親王が入山、
以降、門主は皇族が務める事となった。現在の地に移ったのは明暦2年(1656年)で、
門主は桂宮智仁親王の御次男・良尚(りょうしょう)法親王。
親王は桂離宮を造営した八条宮の第二皇子であり、
造園を始め当時の教養に秀でた文化人であった。
親王に拠って曼殊院は現在の姿になり、中興の祖とされる。』 とあります。

勅使門
普段は閉鎖だが、平成に天皇・皇后両陛下が行幸された際には開かれた。

拝観はこちらの門から
皇族なので当然かもしれませんが、良尚法親王ゆかりの古今和歌集や
池坊の立花図、茶室などは単なる趣味人の域を越え、
【後続】の人間に大きな影響を与えたようです。
江戸時代の皇族・公家は財政的に逼迫していたと言われますが、
それでもこれだけの文化を後世に伝えた矜持にただただ頭が下がりました。

曼殊院庭園

曼殊院説明書と拝観チケット

曼殊院御朱印
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瑞巌山 圓光寺(臨済宗南禅寺派)
この日は昼に八瀬で会合があり、その前に手前の一乗寺をチョット散策。
昔は宮本武蔵と吉岡一門の決闘の地、最近はラーメン店の激戦区。
大学の傍にある一乗寺ですが、ゆっくり見るのは初めて。
叡電の一乗寺駅を出て東へ徒歩15分。瑞巌山圓光寺(ずいがんざんえんこうじ)は、
『慶長6年(1601年)、徳川家康が下野足利学校第九代学頭だった
三要元佶(さんようげんきつ)禅師を招き、伏見に建立した学校・圓光寺が始まり。
学校には僧俗を問わず入学を許した。
また孔子家語・貞観政要など多くの書籍を刊行。
これらは圓光寺版と称され、重文となる日本最古の木活字が現存している。
その後、寺は相国寺山内に移り、更に寛文6年(1667年)に現在地に移転した。
山門を入ると枯山水「奔龍庭(ほんりゅうてい)」が眼前に広がり、
更に中門を進むと「十牛之庭(じゅうぎゅうのにわ)」があり、苔と紅葉で知られる。』
とあります。

圓光寺山門

枯山水「奔龍庭」

「奔龍庭」の白砂
これは説明書からの引用(北奥耕一郎氏撮影)
開基家康によって建立されたのは、関ヶ原合戦の翌年。
天下人に近付き、これからは武ではなく、文に重点を置こうと言う意図が汲み取れます。
幕府を江戸に開くのは2年後ですが、京都というのも都人に配慮したとも思えます。
禅宗寺院だから全集を刊行したかは分かりませんが…。
「馬上で天下を取っても馬上で天下を治めることはできない」
とはよく使われる言ですが、
家康の頭には天下人への青写真が出来上がっていたに違いありません。
そんな経緯があっても今は庭園が有名。
「奔龍庭」は白砂を雲海に見立て石組みで天空を奔る龍を表したもの。
通常の禅寺と違い非常な躍動感を与えています。
その奥の「十牛之庭」は牛を追う牧童を描いた
「十牛図」を題材にした池泉回遊式庭園です。
一般には紅葉の絨毯で有名ですが、仏教的な境地を示しているとか。

中門の中にある「十牛之庭」
紅葉が美しいそうである。

紅葉の時期の「十牛之庭」
説明書にある早朝の特別拝観(¥1,000)の写真(北奥耕一郎氏撮影)
私は禅宗的な哲学は分かりませんが、「奔龍庭」で【本流】の武士階級を、
「十牛図」でそれに【従業】する庶民階級を表していると見るのは深読みでしょうか?

圓光寺説明書

圓光寺御朱印
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