<コース> JRは日中15分間隔で運転
JR北新地 → (学研都市線) → JR徳庵 → 徒歩10分 → 稲田観音 → JR徳庵 → JR放出 → 阿遅速雄神社 → 徒歩10分 → 圓通寺

壽量山 圓通寺(融通念仏宗 河内西国三十三ヵ所第三十一番札所)
神社参拝の後はJRを越えて南へ700mにある三十一番札所へ。
壽量山圓通寺(じゅりょうさんえんつうじ)は、
『平野の大念佛寺の末寺の融通念仏宗の寺院。本尊は阿弥陀如来(天得如来)で、
観音堂に祀られている十一面観音菩薩像は聖徳太子の作と伝わる。
また阿弥陀三尊来迎図は絹本着色で鎌倉室町期の作。金箔を細切したものを貼付し
文様を出すという切金技法を用いた技術の高いものである。』 とあります。

山門前にて

御本尊の説明した石標

寺院の説明
御朱印を御願いすると御住職が対応して下さいました。
河内西国巡礼なので観音様ですが、御本尊は阿弥陀如来。
その理由は、元来は観音様の方が古く、後から本堂に阿弥陀様が祀られたそう。
建物も本堂は昭和45年築の鉄筋コンクリート製ですが、観音堂は安政年間の木造。
いまでも地元の人の間では観音信仰が根強いようです。

山門をくぐった所に建つ鉄筋コンクリート製の本堂

本堂の「壽量山」の扁額
御住職から伺った話では、
融通念仏宗は浄土教の系列で、開祖の良忍上人は法然上人より古い人。
比叡山には各宗派の開祖の一人として木造が祀られています。
但し有名な大原問答で浄土宗が勝ったことから、浄土宗の方が強くなったのだそう。
融通念仏宗があまり勢力範囲を広げず、河内周辺にとどまった理由です。
平安時代までの仏教は貴族仏教で、極楽往生するには
平等院、中尊寺などの伽藍を建てる必要がありました。
一方、大多数の庶民にはそのような経済力も時間もありません。
「そんな中で成仏するためには仕事をしながらでも念仏を唱えなさい」
と言う教えだったようです。
融通念仏宗とは自分の唱えた念仏と他人の唱えた念仏を融通すると言う教え。
他力本願な訳ですが、そういったところが宗教の持つ融通性と言えましょうか?

本堂前から見た観音堂

観音堂内陣

地蔵堂前にあるお地蔵様群
毎年5月15日の開山会には、「花供粗(はなくそ)供養」として来迎図を始めとする
仏教美術品が本堂で公開展示されるそうで、わずか5日前だったのが残念でした。
「来年もございますし是非。お供物の花供粗も授与されますよ。」
との御住職の話。辞する際にはお寺の沿革を記したA4判24頁の冊子も頂きました。
節分の2月3日には観音様法要として厄除コンニャクも配布されるとか。
なかなか集客力に秀でたお寺のようです。
これなら美術鑑賞と「はなくそ」を頂きに参拝せねばと思った次第です。

頂いた冊子 「森河内圓通寺の沿革」
平成28年3月30日発行。

圓通寺御朱印

寺の北側を流れる長瀬橋に架かる橋
大和川付替えにより付近には多くの新田ができた事に拠る。
[参考書]
やすらぎの古里 河内西国巡礼 こころの散策ガイド
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<コース> JRは日中15分間隔で運転
JR北新地 → (学研都市線) → JR徳庵 → 徒歩10分 → 稲田観音 → JR徳庵 → JR放出 → 阿遅速雄神社

阿遅速雄神社(式内社 旧郷社)
徳庵から放出まで戻った後は東へ200m程の古社へ。
大阪人には中古車センターのCMで馴染みのある放出ですが、
難読名では上位に位置する駅。ここは旧大和川が大坂内湖に注ぎ込んだ場所。
それ故「放ち出づ」になったと記憶しています。駅も難読ならば社名も難読。

道路に面した神門

大阪市内に唯一残る神門脇の御蔭燈籠
慶応4年(1868年)に伊勢神宮への参詣を記念して建立された。
阿遅速雄神社(あぢはやをじんじゃ)は、由緒記に拠れば
『御祭神の阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこねかみ)は摂津国に降臨し、
土地を開き民に農耕の技を授けた。
天智天皇7年(668年)、新羅僧・道行が盗んだ草薙剣を新羅に持ち帰ろうとしたが
途中嵐に遭遇。神罰を恐れた彼は河口で剣を放り出し、
剣は里人の手でこの神社に祀られた。このことからこの地は放出と呼ばれる事になった。
その後、宝剣は飛鳥浄御原に移された後、熱田神宮に奉還。
享保8年に中御門天皇がここの社に正一位を賜り八釼大明神と尊称されるようになった。
江戸中期の儒学者・並河誠所が延喜式にある阿遅速雄神社に比定し、
それ以降阿遅速雄神社と呼ばれるようになった。』 とあります。

神門下から見た大楠と石鳥居

天然記念物の大楠
落雷で半分枯死しているのが痛々しい。

大楠の説明

大楠と石鳥居の向こうにある大楠稲荷大社

拝殿方面を見る

拝殿前の狛犬
台座には草薙御劔奉斎1300年記念とある。

拝殿正面

拝殿近影

唐破風の鳳凰彫刻

拝殿前の龍虎の彫刻
駅名も難読ですが、神社の名前の難読。地名由来もある由緒ですが、
旧大和川がここに注いでいたのは確実なので、由来はこちらが先駆でしょう。
いくら地元の人とは言え海に投げ込まれた剣が容易く見つかるのも不思議な話。
何の関係もないとは思えませんが、
一時的にここに祀られえた事がこのような伝説になったのでしょう。
神社の由緒に絡ませてあやかりたいという心理は理解できますが…。
駅近にも拘らず、境内には楠木を筆頭に樹木が鬱蒼と繁茂。
神門脇の楠木は天然記念物の巨木ですが落雷のため半死状態。
それでも若葉が芽吹いているのを見るとその生命力に驚かされます。
思わず「うっそー!」と叫びたくなる気持ちですが、
由緒を「うっそー!」いうのは不謹慎の誹りを免れませんね。

社号標石

標石の由緒

拝殿奥にある本殿

本殿の奥にはこのような樹林が続く

阿遅速雄神社 御由緒

阿遅速雄神社 御朱印

JR放出駅スタンプ
関西アーバンネットワーク印(上)、2006年西日本大阪支社印
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JR北新地 → (学研都市線) → JR徳庵 → 徒歩10分 → 稲田観音

圓通山 救世院 観音禅寺(曹洞宗 河内西国三十三ヵ所第三十番札所)
この日も先週に続き河内西国札所巡礼。といっても自宅から最も近い学研都市線沿い。
通常ならばJR徳庵駅から徒歩ですが、花博記念公園を抜けて徳庵までサイクリング。
徳庵駅から線路沿いに南下すると目指す寺院。
本来は横に入ったところが山門ですが閉鎖。道路沿いの通用口から境内に入りました。
通用門正面には河内國金刀比羅宮が鎮座。讃岐の金刀比羅を勧進したものでしょうが、
河内西国札所の寺標よりも大きいのはどういう訳があったのでしょう?

「桃源門」の扁額が掛かる
こちらが正門の筈だが閉鎖中。

通用口にて
河内札所よりも金比羅宮の石標の方が大きい。

河内国金比羅宮
楼門は竜宮様式で野崎の慈眼寺に似た形式。
同じ曹洞宗だからとも思えますが、似た形は【そうとうすう】ありそうです。
二階には梵鐘が吊るされていますが「桃霞の鐘」と説明にあるのがこれでしょうか?

中国風の楼門

楼門の「圓通山」の扁額

楼門の二階にある 「桃霞の鐘」
圓通山救世院観音禅寺(えんつうざんぐぜいんかんのんぜんじ)は、
『妙心寺二世授翁宗弼禅寺と大内義弘により建立された大伽藍だったが兵火で焼失。
後に村人が大根の根元より掘り出したと言う聖観音を本尊とし、
慶安元年(1648年)三木城主・鈴木重成(三郎九郎)を施主に再興。
実兄の石平道人鈴木正三を開基とした。
安産に霊験著しく、美濃岩村城主・丹羽式部少輔氏定の妻が
ここの観音に祈願したところ無時男児を出産。
報恩のため唐金の涅槃像・涅槃図・梵鐘を寄進。
境内に桃の木千数百本を植樹した。これがこの辺りの稲田桃の由来で、
江戸時代には花見客が数多く訪問。
果実は小型ながら甘みが強く天満の青物市場にも出荷された。』 とあります。

楼門の先に見える本堂

正面から見た本堂

本堂前面
稲田観音の名の提灯が…。

本堂の屋根
勾配、瓦の形式にも禅宗様が。
本堂の屋根の形も禅宗様に思えましたが、庭は禅宗式ではなく
種々の草木が植えられ「創興園」と名付けられていました。
ベルを押すと、お寺のお嬢さんが対応して下さいました。
御朱印を御願いすると「家人が留守なので…」
と外出中の御家族に訊いて頂き書置きを拝受。却ってこちらが恐縮しました。
和辻;「禅宗には珍しいお庭ですね。梅、花梨、ツワブキ、ホタルブクロもあって。」
お嬢さん;「祖父が庭に凝った人で、それで色々と植えたもので…。」
和辻;「入口に桃源門とありましたが…。」
お嬢さん;「この辺りは稲田桃と言って桃が有名なんです。」
和辻;「東大阪産の桃が市場に出回っているのですか!」
お嬢さん;「ここの桃は果実ではなく花を見る方です。」
とおっしゃって楼門の脇にある桃の木に案内して下さいました。
見ると梅の実程の大きさ。これなら食用ではなく観賞用というのに納得。
江戸時代に隆盛を誇った稲田桃も明治18年の洪水で多くの樹木が枯死、
以後生産は振るわなくなったとか。
しかしアメリカに送られた苗がアメリカ種と交配され里帰りして
岡山の水蜜桃の原種となったので血脈は生きていると言えます。
また稲田桃の一部が千里に植えられた事で桃山台の地名になった
と今回初めて知りました。
河内の農産物と言えば、守口大根、門真蓮根など野菜しか知らなかったので、
果物があったとは【驚き桃の木山椒の木】。
地産地消が叫ばれる昨今、復活すれば人気も出るでしょうが、
果実はなかなか大変なようです。
「梅の終わった春先には、ピンクの花が咲き誇りますので是非お越し下さい。」
と話されたのが印象に残りました。

本堂前から楼門を見る
右は開祖・道元禅師の御詠

本堂の前庭

金比羅宮脇の庭
蘇鉄、蓮、槙等がある。

本堂前の庭 「創興園」
さてもう一つ興味を引くのが開基の鈴木正三。天正7年(1579年)三河生まれ。
関ケ原では秀忠軍に参加、大坂の陣でも活躍した旗本ですが
元和6年(1620年)に出家。石平道人と号しました。
江戸初期の仮名草子作者としても活躍しますが、政治的にも大きな足跡を残します。
島原の乱後、天草代官には実弟で施主でもあった鈴木重成が命じられますが、
重成は兄の正三を招いて天草の復興に尽力。
重成は乱の原因が過酷な年貢にあると判断し、度々年貢半減の意見書を提出。
承応2年(1653年)重成は江戸に上り老中に面会しますが
取り上げられる事はありませんでした。
覚悟を決めた重成は再度意見書を書いて江戸の自宅で切腹。
これには幕閣も驚愕し、重成を病死とした上で
兄・正三の実子重辰を養子とし二代目代官に任じます。
重辰も重ねて年貢半減を訴えたので、幕府も遂に万治元年(1659年)
天草の総石高を4万2千石から2万1千石に改めました。
重成切腹後6年の事、ここに天草の人々はようやく過酷な年貢から解放されました。
庶民は自分達の為に命を懸けて尽くした鈴木重成・正三・重辰の3名を
神として敬い領内に20数か所の鈴木神社を建立してその功に報いたと言います。
名奉行、名代官の話は江戸時代にもありますが、
庶民の年貢半減を訴えて自ら腹を切ったのは鈴木重成唯一人。
このような政治家が実在し、しかも地元に所縁があるとは全く知らずに居りました。
この世に桃源郷を作りたいという理念を貫いたとも言えますが、
稲田桃以上に、民衆の桃源郷を指南するのは至難の業といえましょう。
「国危うくして忠臣出づ」
コロナ騒動の渦中にこのような政治家を期待するのは私だけではないでしょうが…。

境内のホタルブクロ

楼門前の稲田桃

形が違うがこれも桃

観音禅寺御朱印
観音札所だが「桃源地蔵」と墨書。
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近鉄上本町 → 額田 → 徒歩40分 → 慈光寺 → 徒歩50分 → 玄清寺 → 徒歩5分 → 額田寺

医王山 額田寺(真言宗単立寺院 河内西国三十三ヵ所第二十二番札所)
二十二番札所は二十三番札所から数百m西という近さ。
医王山額田寺(いおうさんがくでんじ)は、
『弘仁年間(810~824年)にこの地の豪族・額田首であった高内皆人が
平城から難波へ向かう弘法大師の宿泊のために建立。
その際に大師が薬師如来を刻んで安置したと言われる。
明治6年には江戸時代の高僧・慈雲尊者ゆかりの長尾山不動寺が
廃寺になったのに際し、本尊不動明王も額田寺に移された。
しかし天正時代に建立された本堂も昭和14年に焼失。堂宇及び仏像も灰燼に帰した。
現在の本堂は昭和56年(1981年)の再建であるが、
周囲には寺院に因んだ地名が残り、鎌倉・室町時代の古瓦が出土するなど、
かつては壮大な伽藍があった事は確実とされる。』 とあります。

寺院入口
これも山門。

山門近影

由緒記

境内から見た山門と大楠

山門脇の薔薇
創建は平安時代に遡り、寺号も地名を冠するなど
この地域を代表する古刹なのは間違いなさそうです。
唯、火災に拠って古い建造物が残っていないのは先の玄清寺と同様。
本堂前の地蔵堂が辛うじて昔の名残を留めていました。後で知った話ですが、
ここの御住職は北条鉄道の播磨下里駅の駅長住職が兼務との事。
住職も駅長とシェアする時代なのかどうかは分かりませんが、
【ほうじょう】繋がりなのかもしれません。

現代風の本堂
医王殿の文字がある。

本堂脇の地蔵堂

御朱印は書置きを拝受
右 ; 河内西国、 左 ; 御本尊

河内西国巡礼ガイドブック
もはや絶版だが、野崎観音で在庫があったので¥1000 で購入。ガイドブックに載らない寺社はこれが重宝される。
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近鉄上本町 → 額田 → 徒歩40分 → 慈光寺 → 徒歩50分 → 玄清寺

浄翁山 玄清寺(浄土宗 河内西国三十三ヵ所第二十三番札所)
額田駅まで戻った後は西へ5分程言った札所へ。
高台とは言え、周囲は人家が立ち並ぶ街中の寺院。境内には保育園もあります。
浄翁山玄清寺 (じょうおうさんげんせいじ)は、
『慶長2年(1597年)、額田村の高内正定氏が聖誉上人を招き菩提寺として創建。
高内氏は古代より続く豪族で額田首を名乗りこの地域に住んでいた記録が残る。
正定は織田信長に従い石山本願寺攻めに参加。その戦没者を弔うため建立したとされる。
彼は浄翁玄清居士と号したので、それが山号寺号になった。
延宝年間(1673~1680年)に教誉上人が中興、
享保2年1717年に檀家頭の高内氏首性一家が施主となり本堂が上棟された。
現在の本堂は昭和46年、庫裏は平成9年の築と新しいが、
観音堂のみは元文元年(1736年)の建築である。』 とあります。

山門と鐘楼

由緒記

昭和46年建立の本堂
阿弥陀如来様を祀る。
500年以上の歴史のある札所ですが、昭和以降の建築が多く古刹と言う雰囲気はなし。
御朱印を御願いして出てこられた御住職の御子息も保育士の服装だったので、
余計にそう感じたのでしょう。
本堂に祀られているのは阿弥陀如来様ですが、観音堂に祀られているのは
御本尊・聖観音像と地蔵尊、室町時代の聖徳太子2歳像。
ここの観音様は東向観音と呼ばれ厨子の奥に祀られていましたが、
ある日大工の源兵衛の夢枕に立ち
「私を背負って諸国を行脚せよ。」 とのお告げがあったそう。
たまたま住職も同じ夢を見たので、源兵衛は許しを得て観音様を負って全国を巡礼。
多くの女性の安産を司るなどの霊験を起こして帰郷。
その後は再び観音堂に祀られ厨子の扉も開かれたという逸話が残ります。
何だか夢のような話ですが、今でも参拝の人に扉が開かれているのを見ると
地域に密着した仏様の様です。

唯一江戸時代建築の観音堂

観音堂の扁額

鐘楼

玄清寺御朱印
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髪切山 慈光寺(真言毘盧遮那宗 河内西国三十三ヵ所第二十四番札所)
この日も先週に続き河内西国札所巡礼。興法寺に続く生駒登山となりました。
通常ならば近鉄額田駅から徒歩ですが、
コロナ騒動のため三密を避けて家から額田までサイクリング。
額田から東へと登りますが、ここは古代の平城京から難波に出る街道。
34㎞は最短コース、鞍部にあたるのが暗峠となります。
額田駅も石切同様かなり高台にありますが寺院は駅から2.1㎞。
暗峠はハイキングコースとして整備されており
枚岡公園・あじさい園もあって名に反して暗くはなし。
「鞍借り峠」が語源と仄聞しましたが、説明はなしでした。
途中の道標に従って左折しましたが、これがとんでもない細道。
畠の畦道のような場所を鶯の声を聴きながら只管進むとようやく山門前に。

赤いのは豊浦橋
駅を過ぎて川沿いのハイキングコースを歩く。

寺院への分岐点に建つ道標

かつての表参道も今は昔

ようやく札所に到着
髪切山慈光寺(こうぎりさんじこうじ)は、
『天智天皇の御世、役行者が開基。
当時、生駒山中には前鬼後鬼が住み人畜を殺傷していた。
役行者は不動明王の秘法に拠って鬼を捕え、前非を悔いた鬼は
髪を切り義学義賢と名乗り行者の弟子となった。
これが山号の由来で、以後修験道の道場として栄える。
弘仁年間には弘法大師が訪れ堂宇を修築し十一面観音を安置して真言宗に改宗。
鎌倉時代には亀山法皇が行幸され三千石の寺禄を賜り、
六坊を有する寺院として繁栄した。
しかし応仁の乱以降は兵火に会い堂宇は焼失。
江戸時代になって四代将軍家綱の頃、亮海和尚が荒廃した堂宇を再建。
宝暦3年には領主・鯰江唯意が自ら檀越となり堂宇整備に務めた。
文化9年に入山した鑁慶和尚は法律を振興したので入山も数多く、
律寺として隆盛を極め和尚は中興の祖とされた。
大正11年には開山堂を、昭和12年には本堂が修営され、
昭和22年より真言毘盧遮那宗となった。
山岳寺院らしく境内には杉や楓の大木がある他、
古来よりホトトギスの名所として知られる。』 とあります。

山門前にて

山門前の遥か向こうに市街地が見える

山門近影

由緒記

境内の様子

石段を登り本堂へ

石段脇の石楠花

石楠花の向こうに見える開山堂

開山堂(行者堂)
天文18年(1549年)の墨書のある板絵千手観音像が安置されているが、通常非公開。

開山堂から本堂方面を見る

奥に建つ本堂
本尊大日如来を祀る
この付近で悪事を働いていた二鬼は行者の法力で改心させ、
髪を切って弟子入りしたのが山号の由来ですが、鬼退治は虚構。
山賊を改心させたのが本音でしょう。
山門を過ぎるとすぐ講堂を兼ねた寺務所ですが、人影はなし。
合図の半鐘を打ち鳴らすと若い御住職が出てこられました。
和辻;「途中から凄い細道になりました。」
住職;「そこが本来の参道なのですが、今は峠に抜ける舗装道がメインです。」
和辻;「本には髪切の集落は三戸とありますが…。」
住職;「今は、二軒になりました。子供の頃は母親が学校まで送り迎えをしていましたし。」
和辻;「ホトトギスは鳴いていますか?」
住職;「ここ1週間の間に鳴き始めました。明け方に鳴くことが多いですね。姿はまず見れませんね。」
と言った世間話。
登りがきつかった話をすると、奈良方面からは3.6㎞ですが大阪は2.1㎞との事。
道のりが短い分、勾配がきついのは当然です。
ここまで来るのも一苦労ですが、伝統ある寺院が廃寺にならずに済んだのは
並々ならぬ御苦労があったのでしょう。
山門横には鎌倉時代の梵鐘があり、御住職の行為で打ち鳴らして辞去。
鐘に始まって鐘に終わった巡礼でした。
昼過ぎになったので大阪側と奈良側に茶店があったと思い出し
県境の暗峠まで歩きましたが、コロナのため閉店中。
暗い気分のまま駅まで下る事になりました。

本堂前からの景色
向こうにあるのが開山堂。

堂宇の周りは杉と苔に囲まれている

本堂西側にあるカエデ
大阪府指定名勝で、標高20m、樹齢200年の巨木。

寺務所横にある講堂
御朱印は右の寺務所で拝受。

講堂横からの景色

鎌倉時代の梵鐘
承保2年鋳造、承応5年改鋳の銘が残る。

梵鐘の銘

慈光寺縁起

慈光寺御朱印

大阪方面から見た暗峠
右の茶店は閉店中。
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梅田 → (地下鉄御堂筋線) → 本町 → 徒歩3分 → 坐摩神社 → 徒歩2分 → 南御堂 → 徒歩3分 → 北御堂

西本願寺 津村別院(浄土真宗本願寺派)
南御堂に続き地下鉄中央線を越えて北御堂へ。
南御堂は信長との講和に反対した教如上人が大坂に建てた寺院。
北御堂の沿革は次の様、
『織田信長との石山合戦で第11世・顕如上人は大坂本願寺を明け渡し京都へ移るが、
大坂から離れ難い門徒が天正19年(1591年)天満に近い「桜の岸」に新しい坊舎を建立。
その後、慶長2年(1597年)津村郷と呼ばれた現在地に移転。
石山本願寺を継承する位置付けであった。
慶長19年(1614年)、顕如の三男で第12世・准如上人が
石山本願寺を模した本堂・書院・広間・台所・玄関等を整備。
当初は津村別院・津村御坊と呼ばれるようになるが、
後に南御堂に対して北御堂と称されるようになった。
享保9年(1724年)の大火で本尊以外は尽く焼失するが、
享保19年(1734年)に本堂、宝暦13年(1763年)に対面所が再建。
しかし昭和20年の大阪大空襲で灰燼に帰した。
現在の諸堂は昭和39年の復興である。』 とあります。

御堂筋に面した山門

北御堂沿革

山門の向こうに見える本堂
南御堂が強硬派の第12世の教如の手になったのに対し、
北御堂は講和派の門徒の手になったのが大きな違い。大阪人のパワーでしょうか?
会社と見紛うような山門や、門徒以外にも開かれた本堂、内陣の装飾も南御堂と同じ。
いずれも壮大ですが、京都と異なり国宝はなし。
いかに大阪大空襲の影響が甚大だったかの証左です。
南御堂と異なり御朱印はなしですが、その代わりに無料の北御堂ミューゼアムが設置。
教団と大阪の歴史がビジュアルに展示されており、
今日は駆け足でしたが改めてゆっくり鑑賞したい内容でした。
西本願寺の第22世・鏡如(大谷光瑞)は明治に西域に大谷探検隊を派遣した人物。
学問に対する姿勢は伝統のようです。
京都市内でも最も広い堀川通りに本願寺がありますがこちらは東西。
大阪では南北。京都の寺院の場所から東西本願寺と呼ばれますが、
もし由緒から大阪を採用していたら南北本願寺となっていた事でしょう。
こちらが【本貫】とも言えるので難波っ子には残念な話です。
こうして90分で1社2寺巡礼しましたが、本町での所要は60分で終了。
これが本当の【本町】転倒です。

本堂への階段
寺紋の下り藤が彼方此方に。

開祖・親鸞聖人像
山門を入って右側に建つ。

第8代・蓮如上人
中興の祖というよりも浄土真宗を現在の巨大な組織にまとめた功績が大。

本堂前から山門を見る

本堂正面

北御堂説明書
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東本願寺 難波別院(浄土真宗大谷派)
御堂筋は市内を南北に通る大動脈ですが、御堂の語源になったのが南北にある御堂。
本来は寺院の事を言いますが、一般には御堂・御坊と言えば浄土真宗寺院を指します。
御堂筋に面して東向きの山門は、積和不動産関西南御堂ビルが兼務。
ぶっ飛ぶ程、大きな門ですが、参拝なのか会社訪問か紛らわしい感じです。
現在、国内で最も信徒の多い宗派ですが、戦国以降に寺院を中心に
寺内町が形成された事が、そのような呼び名に繋がったのでしょう。
浄土真宗は親鸞聖人が開祖。親鸞は正式に妻帯した最初の僧侶なので、
以後の宗祖は彼の子孫に継承。第3世・覚如上人の時に、
開祖の「御真影」を有する寺院を本願寺と号するようになりました。
その教団を大きく発展させたのが第8世・蓮如上人。
同じ宗派の人間を教団・講というものに組織し、強大な勢力を築きました。
戦国時代には加賀一国を大名支配から解放し、天下統一前夜には
各地で一向一揆が起こりますが、これはすべて蓮如に拠って種が蒔かれたものです。

境内から山門を見るとこんな具合
向こうは御堂筋が走る。
本願寺と言えば京都ですが、ここ大坂にも浅からぬ縁があります。
難波別院の沿革は、
『近畿北陸を中心に民の強化を続けていた蓮如は、明応5年(1496年)82歳の時、
摂津東成郡、生玉の地に一宇の坊舎を建立。この時の記録が大坂の嚆矢とされる。
これが発展して大坂本願寺(石山本願寺)になり、地内町は城郭化。
第11世・顕如上人の時には天下統一を目指す織田信長と
元亀元年(1570年)から11年に亘り徹底抗戦。天正8年(1580年)に漸く講和が成立し、
本願寺は紀州鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に移転する。
しかし講和に反対した長男の第12世・教如上人は文禄4年(1595年)、
渡辺の地に大谷本願寺を建立。慶長3年(1598年)には現在の地に移転した。
慶長7年(1602)に徳川家康の寄進に拠り京都に東本願寺が建立される前であった事から
難波別院(大谷本願寺)は真宗大谷派の発祥の地とされ、
その銘のある梵鐘が境内に伝わっている。
正徳4年(1714年)建立の堂宇は昭和20年の空襲で焼失。昭和36年に再建された。
御堂筋の名は当院の名から大正7年(1918年)に関市長の命名に拠る。』 とあります。

昭和36年(1961年)完成の本堂
鎌倉様式で鳳凰が羽を広げたような重層屋根は東京大学の内田・松下・太田博士の設計監理に拠る。

本堂前面の入口
門徒以外でも自由に参拝でき、勿論無料。

本堂前にて
コロナのため人では少ない。

「大谷本願寺」銘のある梵鐘
文禄5年とあり、真宗大谷派の発祥を伝える。
浄土真宗は信徒も多いですが、宗派も多くその謂れも複雑そうですが、
要は講和に対して穏健派だったのが西本願寺、
強硬派が東本願寺と理解すれば良いのでしょうか?
学生時代には京都の東本願寺で騒動があるのに対し西本願寺は至って平穏。
その辺りも成立時の因縁を引きずっているのでしょうか?そうなると随分長い話ではあります。
本堂前には、袈裟を着たブタのキャラがお出迎え。その名もブットンくん。
仏恩から取った名前だそうですが、【ブッタ】由来とすればゆるきゃらもここまで来ると【ピッグ】りです。
強硬派が創設した寺院ですが、門徒以外にも門を開いており、
内陣の仏像や宗祖の一代記を描いた襖絵に参拝。世情不安の払拭を祈願しました。
浄土真宗では御朱印はないのが普通ですが、難波別院では拝受できました。

青銅製の灯籠

本堂前のブットンくん
仏恩と書いて「ブットン」と読む。顔ハメではない。

南御堂 難波別院説明書

南御堂御朱印
案内では判子とあったが墨書。
参拝後、境内南側にある獅子吼庭園へ行き松尾芭蕉の句碑と対面。
元禄7年(1694年)南御堂前の花屋仁左衛門宅で51歳の生涯を閉じました。
句碑は150回忌に当時の俳人達の手になるもの。
・旅に病んで 夢は枯野を 駆けまわる
が辞世ですが、俳聖が今の状況を見れば
・墓になんで 人は周りを 駆け回る
こんな繁華街では泉下の芭蕉もおちおち眠って居れない筈。1日も早く
・コロナ已んで 皆は難波を 駆けめぐる
となって欲しいものです。

境内南側にある獅子吼庭園

芭蕉の句碑
傍らには芭蕉が植えられている。

句碑説明
記憶では「かけめぐる」と思っていたが…。

庭園の奥にはビルが建つ
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梅田 → (地下鉄御堂筋線) → 本町 → 徒歩3分 → 坐摩神社

坐摩神社(摂津國一之宮 式内社 旧官幣大社)
大阪の船場付近に所要があり、空き時間を使ってお参り。
摂津國一之宮と言えば住吉大社とばかり思っていましたが、坐摩神社もそうだと聞き驚き。
地元民には「ざまじんじゃ」で知られますが、
正式には「いかすりじんじゃ」と呼ぶと知り二度びっくり。
私的には後者の呼び方の方が断然【イカス】り。
知らなければ【ざま】見ろと言われる所でした。

神社入口の鳥居
東向きであるが、オフィス街に囲まれている。

坐摩神社御由緒
坐摩神社(いかすりじんじゃ)の由緒に拠れば、
『大阪の中央の船場にある産土神を祀る神社。神功皇后が新羅から御帰還の際、
淀川南岸の大江の岸・田蓑島、後の渡辺の地に奉祀されたのが嚆矢。
この時、神の御教に拠り白鷺の多く集う場所に奉斎されたと伝わる。
御祭神は五柱で坐摩神とはその総称。
神武天皇即位の際に御神勅により宮中に奉斎されたのが起源とされ、
「いかすり」とは土地を守る意味の居所知(いかしり)が転じたものとされる。
ここは摂津の国府の置かれた場所で、京都から淀川を下り
熊野古道に最初に参詣する第一王子の場所でもあったと推定される。
平安時代の 『延喜式』 には摂津國西成郡唯一の大社とあり、
以後度々雨乞いの御祈祷に預かった。
天正10年(1582年)の豊臣秀吉の大坂城築城に当たり移転を命ぜられ、
寛永年間に現在地に遷座。
付近の地名を渡辺と称するのは元の地名が移されたもので、
全国の渡辺・渡部姓の発祥の地にもなった。
尚、元の社の場所には行宮が建てられ神功皇后の鎮座石も残る。
明治元年には明治天皇が境内で相撲を天覧、昭和11年(1936年)には官幣中社列せられた。
その時に造営された社殿は空襲に拠り焼失。
戦後の昭和34年(1959年)に戦前の姿のまま復興された。』 とあります。

屋根瓦には鷺の紋

陶器製の狛犬

正面から見た拝殿

拝殿前にて
白鷺の神紋が至る所に見られる。

横から見た拝殿

拝殿奥に建つ本殿
大阪のど真ん中のオフィス街、ビルの谷間に鎮座する社。
樹木は少ないですが、境内には百株を超える紫陽花がありました。

末社を巡る廻廊の紫陽花

本殿脇を通り西門に向かう両側にも紫陽花が
境内には末社が七ありますが、珍しいのは陶器神社。
西横堀一帯の陶器問屋街の守護神だそうですが、灯籠・説明板が陶器製。
愛知県の瀬戸市ではそんな神社があったと記憶していますが、大阪にあるとは意外でした。

西門から見た稲荷社(右)と陶器神社

陶器神社

陶器製の灯籠

陶板の由緒記
遷座後は物売りや見世物が多く集まり、そこに集まった古着屋から「そごう」が生れ、
船場が繊維の町として発展する基礎となりました。
また大勢の人を相手にする寄席が出来たのもこの場所。
初代・桂文治の碑も境内にありました。
桂枝雀師匠の持ちネタで「壺算」という落語がありますが、設定はこの付近だったのかと納得。
北浜付近にあれば【投機】神社になっていたかもしれませんが…。

上方寄席発祥の地の碑

江戸時代の寄席案内の復元?

坐摩神社御由緒略記

オリジナル御朱印帳の案内

坐摩神社御朱印
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近鉄上本町 → 石切 → 徒歩40分 → 興法寺 → 徒歩50分 → 大龍禅寺

瑞雲山 大龍寺(黄檗宗 河内西国三十三ヵ所第二十八番札所)
興法寺参拝の後は、生駒山を【後方】に見ながら石切駅まで戻って北西へ1㎞弱。
この辺りは土地の勾配がきつく、少し移動しただけで高度が変わります。
目的地に着いた時には随分と下界へ降りた印象。字も日下と言うのだそう。

正面から見た総門

総門下から境内を見る
瑞雲山大龍寺(ずいうんざんだいりゅうじ)は、
『聖徳太子の創建と伝えられ、当初は厳松寺と称した。
本尊の十一面観音菩薩は太子の自作と伝えられる。
応仁の乱や大坂の陣のために堂宇は焼失し荒廃。
元禄4年(1692年)に泰宗元雄禅師が師である慧極道明禅師を招き中興。
その際に寄進したのが大阪の豪商・天王寺屋吉兵衛である。
以後、萬福寺の末寺となり、大龍寺と名も改めた。』 とあります。

斎堂
庫裏と寺務所を兼ねたものか?御朱印はこちらで拝受。

斎堂の扁額と魚邦

斎堂(右)と本堂
寺院の場所もあるでしょうが、先程の山岳寺院とは全く違った印象。
斎堂に掛かっている魚邦は食事の合図に鳴らすそうですが、
宇治の萬福寺で見たのと同じ形式。
魚は瞬きをしないので睡魔に襲われないように木魚があるそうですが、
魚邦も同じ理由でしょうか?
建物にも中国風の様式が見られ境内には木々よりも躑躅が咲き誇っていました。

正面から見た本堂

本堂の扁額と全面の装飾
崩し卍や細い格子に中国様式を感じる。

躑躅の奥に見える斎堂
大坂の陣で灰燼に帰したのは、この寺院だけではありませんが
良いパトロンに恵まれたのは幸運。開山堂に泰宗、慧極の両禅師と並び
天王寺屋浄悦居士像が祀られているのはそのためでしょう。
尤も【禅】は急げ!と思ったかどうかは定かではありません。
帰りは石切参道の商店街で粽を購入。最後に端午の節句らしく締め括りましたが、
明日から【はちまき】して頑張らないとないといけません。

最も奥にある開山堂
この後方は墓地になっている。

大龍禅寺御朱印
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近鉄上本町 → 石切 → 徒歩40分 → 興法寺

鷲尾山 興法寺(真言宗醍醐派 準別格本山 河内西国三十三ヵ所第二十六番札所)
生まれて半世紀以上経ちますが、雛祭りには縁があっても端午の節句には縁が薄い。
普通ならばGW明けに備えて自宅でじっとすべきでしょうが、
流石に待機4日目ともなると外の【大気】が吸いたくなって近場を散歩。
以前の巡礼先で『河内西国霊場』というのがあるらしいとの事。
江戸時代に成立しましたが、その後忘却され昭和5年(1930年)に復活するも戦争で没。
再度復活したのは昭和51年(1976年)の事でした。
札所33番、客番4番の計37ヵ所で片町線以南にあります。
中河内、南河内はきついですが、北河内なら程よい距離なので、
この日は三密を避けて家から石切までサイクリング。
石切駅すぐ西側にも札所の千手寺がありましたが、生憎コロナで閉門。
「こんな時期にこそ、御参りに来られる方も多いですが、申し訳ございません。」
と門扉に貼付された御住職の言葉は胸に迫るものがありました。
駅自体かなり高台にありますが興法寺は石切駅から2㎞。
近畿自動車道に沿っての南下は楽ですが、近鉄生駒線に沿っての東行きは予想外の急な登り。
端午の節句なので【濃い登り】なのでしょうが、やはり予想通りには【いこません】。
途中の参道は明治の頃に「四国八十八ヵ所霊場巡り」を模した
ミニチュア石仏が寄進され今も残っています。
いずれも2体1組で、左に弘法大師像、右に札所寺院の御本尊が並んでいるのが特徴。

途中から市街地を振り返る

このような参道を2㎞上る

参道の石仏

参道脇の躑躅
音川の清流に沿ってツツジ、シャガ(射干)を見ながら40分で到着。
神仏習合の影響か、石の鳥居の奥に山門がありました。
ここも閉鎖ならば眼も当てられませんが運よく開門。
これも御仏のお導きでしょう。【お釈迦】にならずに済みました。

漸く石段の先に寺院の影が

石段脇の射干(シャガ)

石垣の上に建つ寺院

石鳥居の奥に山門が見える
鷲尾山興法寺(わしおさんこうほうじ)は、
『標高400mの生駒山山腹に建つ山岳寺院。
役行者の創建と伝わり、本尊が製作安置された平安時代には建立されていた。
修験道場として行基や空海もここで修業したと言われている。
南北朝時代1348年の正平の戦いで焼失。
その後、河内国守護となった畠山基国に拠って再建された。
応仁の乱の1467年に再び焼失し、永禄年間の1563年に大西丹後守入道浄味により復旧されるが、
その後も度々火災に遭い江戸時代に再建された。』 とあります。
山岳寺院らしく境内には鬱蒼とした樹木があり、建物自体も木に囲まれています。
そのため建物単独を撮影するのは難しいですが、
何も撮影や写生に向けて建てられた訳ではないので、これが本来の姿でしょう。

興法寺由緒

境内から山門を振り返る

入って右手にある聖天堂
山門を入って直ぐあるのは大聖歓喜天を祀る聖天堂で、
その奥が三面十一面千手観音を祀る本堂。
本堂がメインの筈ですが、規模も場所も聖天堂がメイン。
何でも参道を進むと生駒越えの一つ、辻子(谷)越えとなって居り、
近鉄が生駒山を通るまでは西の聖天さんである興法寺を経て
東の聖天さん「生駒山宝山寺」に至る巡礼の道として大いに賑わったそうです。
近鉄とケーブルの通っている宝山寺は今も賑わっていますが、
興法寺はハイキングの途中で訪れる人が目に付く程度。
やはり現代の巡礼には交通の便がポイントなのでしょう。
御朱印を頂いた住職夫人の話ではここも神仏習合だそう。
従来の信仰形態を今に伝えるようでした。

正面から見た聖天堂
弘仁2年(815年)にこの地で修業した弘法大師が役行者に授けられた大聖歓喜天像を祀るため堂を建てたのが嚆矢。

扉に描かれた寺紋
聖天の印・大根と巾着が描かれている。

聖天堂前から見た境内

青銅の灯籠の奥にある本堂

本堂前面

本堂の「鷲尾山」の扁額

本尊の楠材一木造の三面十一面千手観世音菩薩 (説明書より引用)
全長172㎝で、行基が婆羅門伝来の栴檀(白檀)をもって刻んだと伝わる。

本堂の向かいにある護摩堂

烏枢沙摩明王 (説明書より引用)
護摩堂の本尊で室町期の作とされる。不浄を消し去るトイレの神様。

興法寺由緒

興法寺御朱印
聖天堂にて拝受。
参拝後は石切方面に戻りましたが、興法寺まで来ると生駒山頂まで1㎞足らず。
これ【なら】チャリで【往こま】できそうです。帰りは下りのため楽でしたが、
途中に辻子谷水車があったので見学を兼ねて一服。
昔は水車動力を各種和漢薬の粉末加工に用いた様ですが、電力普及に伴い衰頽。
途中に製薬会社が2社あり漢方薬の香りがしたのはその名残。
但し水車は観光用の復活なので和漢薬には使用されず。
こういうのを【粉末】転倒と言うのでしょうね!

参道脇の白瀧白龍王
ここで勤行を行う?

辻子谷の復元水車
[参考書]
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JR横浜 →JR戸塚 → 徒歩7分 → 東海道戸塚宿 → JR戸塚 → JR保土ヶ谷 → 徒歩5分 → 東海道保土ヶ谷宿 → 徒歩5分 → 相鉄天王町 → 相鉄横浜

旧東海道と保土ヶ谷宿本陣
戸塚からは京浜東北線でJR保土ヶ谷下車。
東海道でありながら東海道本線が通過してしまうといのは何とも気の毒ですが、
かつては三崎・浦賀方面、そして鎌倉・江の島方面への分岐点でもありました。

上方見附付近の松並木
といっても復元用に最近植えられたばかり。

一里塚跡
東海道はJR保土ヶ谷駅を下ると右手に曲がりますが、
そこに建つのが保土ヶ谷宿本陣の苅部(かるべ)家。
苅部家は小田原北条氏の家臣・苅部豊前守の末裔で問屋・名主も兼ねていました。
苅部家は横浜地域屈指の地主で徳川家も頻繁に利用したとか。
今は横浜周辺の方が繁華ですが、
江戸期には保土ヶ谷宿が神奈川宿も配下に置いていたとは地元の方の話です。
本陣といえば聞こえは良いですが、大名の宿泊は定額でなく心付けで、
大名の財政状況が苦しくなると収入減。
しかも本陣のため一般客を泊める事もできなかったので、経営は大変だったようです。
なかには潰れた本陣もあるようですが、苅部家では通用門が現存。
明治3年(1870年)に本陣が廃止になるに際し、苅部家は軽部と改姓。
現在も本陣跡の奥に在住されています。
元々経済力があったので、ダメージが【軽め】だったのでしょう。

国道1号線の向こうに見える保土ヶ谷宿本陣

丁度東海道が曲がる付近に立つ苅部家本陣跡
通用門が現存、後ろの建物同様現在は使用されていない。

本陣跡説明
街道沿いには非公開ながら、旅籠本金子屋跡も現存。
明治2年築で、現在営業していませんが子孫の方は、隣に住まわれています。
また駅前には古風な蕎麦屋もあり、昔の様式で最近建てたとか。
戸塚~保土ヶ谷はどちらも横浜市内ですが、後者は本陣、旅籠など
当時を偲ぶものが若干残っています。良い【程がや】に開発を進めた差がでたのでしょう。

旅籠・本金子屋跡

歴史の道の説明

金沢横丁の石碑(道標)

石碑説明

宿場そば 桑名屋
古い様式の建築を用いた最近の建築。この建物の施工した工務店は江戸東京博物館も手掛けた。

昼食 「雪割」

相鉄天王町駅前にて
広重の絵に描かれた新町橋は無くなり、代わりに公園となっている。

横浜帷子郵便局 ; 保土ヶ谷宿本陣跡
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