<コース> 大和路快速は日中30分間隔、木津川コミュニティバス当尾線は60分間隔で運転
JR大阪(7:42) → (大和路快速) → JR加茂(9:10) → 加茂駅東口(9:14) → (木津川コミュニティバス当尾線) → 岩船寺(9:30) → 岩船寺

高雄山 報恩院 岩船寺(真言律宗 関西花の寺二十五霊場第十五番)
この日は京都府南端、奈良県境に近い南山城へ。
かつては当尾(とうの)村と呼ばれ、それ以前は小田原とも称された場所になります。
行政区では京都府木津川市ですが、地理的にも奈良市に近く、
平城京の外郭浄土として興福寺や東大寺に居た高僧・修行僧の隠棲の地であり、
真の仏教を目指して瞑想や思索に浸った聖地。平安・鎌倉期にかけて
多数の寺院や石仏が建立されるなど仏教文化が花開いた地でもあります。
この時期は岩船寺の紫陽花が花開いています。
25年前の6月24日参拝した際にはJR奈良駅から直通のバスがあったと
記憶していますが、今は浄瑠璃寺止まり。
そこで京都府下のJR加茂からコミュニティバスを利用して門前へ。

入口にて

山門に続く石段
入山料¥500 は右の受付にて。

山門近影
花の寺の看板が掛かる。
高雄山報恩院岩船寺(こうゆうさんほうおんいんがんせんじ)は、縁起に拠れば、
『天平元年(729年)、聖武天皇が出雲国不老山神社に行幸の折、霊夢があり、
大和国鳴川の善根寺に籠居していた行基に命じて阿弥陀堂を建立したのが嚆矢。
その後、空海と彼の姉の子の智泉が、大同元年(806年)に灌頂堂として報恩院を建立。
これが岩船寺の直接の草創とされる。
さらに嵯峨天皇が智泉に勅命して皇子誕生の祈願をさせたところ、
弘仁元年(810年)に正良新王(後の仁明天皇)が誕生。弘仁4年(813年)には
檀林皇后(橘嘉智子)に拠って堂塔伽藍が整備され寺号も岩船寺となった。

山門から見た境内
よく写真に撮られるアングル。

参道から山門を見返る
両側には紫陽花が…。

紫陽花越しに見る本堂
昭和63年(1988年)の再建で、平安時代の阿弥陀如来坐像を安置。


柏葉紫陽花と本堂
椅子ではお寺の僧侶がHP用の写真を撮影中。

本堂前から三重塔を見る

本堂内の御本尊
購入した冊子(¥600)より
最盛期には東西十六町、南北十六町の広大な境内に39坊を有したが、
承久の乱の兵火で大半を焼失。
再建するも応長元年(1311年)再び兵火にまみれ灰燼に帰した。
江戸寛永の頃には本堂・塔・鎮守社等、十宇を残すまでに衰頽した。
これを嘆いた文了律師が必至で勧進を行い、徳川家康・秀忠らの寄進もあって堂内の整備が図られた。
鎌倉から江戸末期にかけては南都興福寺一乗院の末寺であったが、
明治初期の廃仏毀釈で無住となった。
明治14年(1881年)に真言律宗西大寺の末寺となって現在に至る。』 とあります。

阿字池越しに三重塔を見る

紫陽花越しに三重塔を見る


十三重石塔と三重塔

本堂側面

阿字池の向こうに見える本堂


阿字池と十三重石塔

阿字池と開山堂

身代り地蔵

開山堂
平城京に遡る古刹ですが、史実では空海まで時代は下ると思われています。
唯、聖武天皇は度々都を変え、そのなかの一つ恭仁京はJR加茂駅のすぐ北側。
ここ岩船寺とも至近の距離なので、聖武天皇と関りがあったと言うのも
根拠のない話ではなさそうに思えます。

重文・三重塔
室町時代の嘉吉2年(1442年)の建立。

高台から見た三重塔

重文・隅鬼(天邪鬼)
三重塔の四隅の垂木を支えるユーモラスな木彫り。

重文・隅鬼

重文・十三重石塔
正和3年(1314年)妙空僧正の建立と伝わる。

山門の左側の遺物へ

重文・石室不動明王立像
花崗岩製で、応長年間(1312年)の銘がある。

厄除け地蔵菩薩堂

中に祀られている厄除け地蔵菩薩

重文・五輪塔
東大寺別当平智僧都の墓と伝わる。
空海の甥の智泉は聡明で知られ、空海も自身の後継者にと考えていたようですが、
天長2年(825年)彼に先立って死去。37歳の若さでした。その時の空海の嘆きが残されていますが、
「悲しい哉」と言う言葉を6回も繰り返しているのは空海の深い悲しみを表して余りあります。
境内の池を【池泉】回遊式ではなく阿字形にしたのは、その影響もあったのでしょうか?

紫陽花の間を通り高台へ

鐘楼
ホーンではなく報恩の鐘。

歓喜天堂前から三重塔を見下ろす

歓喜天堂

山頂にある貝吹岩
三十九の坊があった頃、一山の僧侶を呼び集めるために法螺貝を吹き鳴らした場所。

貝吹岩からの南山城一帯の眺め

広場の紫陽花

広場の紫陽花
寺院は山腹に建っており、三重塔・歓喜天を過ぎた先にある貝吹岩からは
市内が眼下に見渡せます。このような地勢を考えて建立されたのでしょう。
文化財も豊富ですが、建物では石製の物が多く、本堂は昭和63年の再建。
三重塔は嘉吉2年(1442年)の建立ですが平成15年に修理を経ているので
見た目には新しい印象。朱色が鮮やかすぎるきらいはありますが、
三重塔を背景にあじさいを入れると【がんぜん】映えます。
【こうゆう山】を青丹よしと呼ぶのでしょうね。

境内の紫陽花








岩船寺縁起

岩船寺冊子 ¥600

関西花の寺 御朱印

十一面観音御朱印

山門前にある鎌倉時代の石風呂
修行僧が身を清めるための風呂。
[参考書]
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<コース> 阪急電鉄、能勢電鉄は日中10分間隔で運転
梅田 → (阪急電鉄急行) → 川西能勢口 → (能勢電鉄) → 畦野 → 徒歩5分 → 頼光寺

祥雲山 頼光寺(曹洞宗)
水無月下旬に入った日は、阪急宝塚線で北上。
途中の池田市にある久安寺は紫陽花名所ですが、今回はスルー。
川西能勢口から能勢電鉄に乗り換えて更に北上。
畦野(うねの)駅の東側にある寺ですが、道順は駅の西側から線路沿いに歩き、
線路の高架下を潜ると参道の石段。途中山門がなかったので、
線路の高架が山門のようなものでしょうか?

能勢電鉄の下の隧道?を通り寺へ

参道から線路を振り返る

寺標と両側に咲く紫陽花
祥雲山頼光寺(しょううんざんらいこうじ)は、
『一條天皇の長保年間、源満仲夫人である法女尼の発願に拠り、
満仲四男源賢僧都を開基、源頼光四男永寿阿闍梨を開山として創立。
法女尼の念持仏であった地蔵菩薩を本尊とした。
同時に頼光の霊像を安置して冥福を祈る香華院として、
祥雲山頼光寺と号して真言律宗に属した。

本堂
階段を上った場所からの眺め。

本堂前面
内陣へは入れないので外から参拝。

本堂からの眺め

前庭
禅宗らしい枯山水の造り。
二世永覚阿闍梨が示寂した後、平安・鎌倉・室町時代には戦乱で衰微。
江戸の寛文11年(1671年)禅僧万愚和尚が中興。
更に延享3年(1746年)丹波国の臨済宗法常寺の末寺となり、
本寺六世実相無相禅寺を中興の祖に請した。文化元年(1804年)に尼寺となる。
天保11年(1840年)、本寺十世普照恵燈禅師は弟子の尼衆の坐禅道場とし、
俊英の者を選んで住持相続させた。

本堂の手前にあるあじさい苑への入口

通路から本堂を見る

更に高台へと続く

石段を上った場所から
この上は墓地になる。

本堂の左を通り奥のあじさい苑へ

紫陽花越しに見る庫裏と本堂

紫陽花と紅葉

あじさい苑の向こうを通る能勢電鉄

奥のあじさい苑の通路

奥のあじさい苑
明治の廃仏毀釈の影響で明治8年(1875年)に本寺と合併するが、
建物・本尊等はそのまま引き継がれた。
昭和45年(1970年)、川西市観光協会会長であった多田神社宮司の肝いりで
「あじさい寺」として発足。現在500株の紫陽花が境内を彩っている。
平成2年に曹洞宗に改宗し今に至る。』 とあります。

本堂裏のあじさい苑
多品種が一ヵ所に植えられえている。

本堂横にて

本堂脇の池

池の端の紫陽花

本堂裏手の開山・開基の墓所
「らいこうじ」と聞くと来迎寺と書くのが普通ですが、ここは頼光寺。
創建に関わったのは清和源氏三代。武勇の誉れ高く摂津源氏の祖になった
源頼光を寺名に持ってきたものでしょう。途中の多田が源氏発祥の地で、
そこに鎮座する多田神社は源氏の氏神。
伺った所、神社の神宮寺という扱いではないようでしたが、
路線内に源氏所縁の寺があっても不思議ではありません。







源氏ならば竜胆ですが何故、紫陽花なのか。
この場所は線路沿いながら小高い丘になって居り、周囲は樹木に囲まれています。
適度な湿度と光を与える事になって紫陽花の生育に相応しい環境になったと思えます。
500株と言う事ですが、【そうとうすう】ある様子。
紫陽花導入に尽力されたのが、源氏所縁の多田神社宮司さんと言うのも良い話。
まさか尼寺だから雨に縁のある紫陽花を選んだ訳ではないでしょうが…。
途中の衰頽、末寺、廃仏希釈を経ているので、建物自体に古建築はありません。
参拝を済ませた後は、専ら紫陽花鑑賞。ガイドには載りませんが、
近在から人が来てそこそこの人出。紫陽花苑は勿論【ただ】でした。

墨田の花火

墨田の花火

渦紫陽花

渦紫陽花

柏葉紫陽花

半夏生も

頼光寺説明書

頼光寺御朱印
書置きを拝受。
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梅田 → 東向日 → 大山崎 → 駅前レンタサイクル → 10分 → 山崎聖天 → 5分 → 宝寺 → 離宮八幡宮 → 10分 → 水無瀬神宮 → 10分 → 大山崎 → (阪急電鉄) → 梅田

水無瀬神宮(旧官幣大社)
離宮八幡宮に続いて線路沿いに走り、水無瀬川に架かる水無瀬橋を渡り
水無瀬神宮へ。八幡宮からも近いですが、ここはもう大阪府下になります。

鳥居と社標

水無瀬神宮 御由緒
水無瀬神宮は
『かつて後鳥羽上皇御造営の水無瀬離宮のあった場所。
上皇は京の都から船で下られ、この離宮で詩歌・管弦・狩猟・刀剣を催された。
承久の乱で敗北後、上皇は隠岐に流罪となったが、崩御の14日前に御置文を
離宮を管理していた水無瀬信成・親成親子に下賜され後生を弔うように遺言。
崩御の後、上皇の御影を拝領して御堂を建て祀った。
その後、朝廷や武将の尊崇を受けていたが、明治6年水無瀬宮として官幣中社になり、
皇子の土御門・順徳両上皇の御霊も祀られた。
明治14年に官幣大社に昇格し神宮号を賜った。府下では唯一の神宮である。
付近は水無瀬川・水無瀬滝など水に恵まれた地で、境内から湧出する「離宮の水」は
名水百選にも選ばれている。』 とあります。

鳥居の先にある神門
桃山時代の薬医門形式。

神門の屋根瓦にある菊の御紋
後鳥羽上皇に遡る歴史はありますが、神社としての歩みは明治以降。
それでも格式の高いのは後鳥羽上皇所縁でしょうか?
知性・バイタリティに加え型破りな人であり、音曲・囲碁・双六は言うに及ばず
蹴鞠などスポーツにもその才能を発揮。遊女・白拍子を侍らし歌い踊り、
熊野詣も三十回を越える。刀剣にも興味を示し自ら「菊一文字」という刀を鍛える始末。
現在、皇室の紋は菊ですが、これも後鳥羽が刀剣に十六弁の菊紋を入れた事に由来します。
ここまでに至ったのは三種の神器なき即位であった負い目と言う説もあるとか。
1221年には幕府に対して挙兵、世にいう承久の乱。
鎌倉の力が強まるのを警戒したと言うのが一般的ですが、
寵臣・寵姫の人事に幕府が介入した等色々含むところがあったようです。
挙兵については朝廷でも反対意見が強く、室町期の北畠親房も「神皇正統記」で
暴挙とボロカスに貶しているので時を誤った挙兵とは言えるでしょう。

境内遠景

客殿と拝殿

正面から見た拝殿

桃山時代の重文・客殿
入母屋造、桟瓦葺。

手水舎
後方から出るのが名水百選 「離宮の水」。

「離宮の水」 に並ぶ人達
隠岐の島に居る事19年で61歳にて崩御。その悲劇性が協調されますが、
都から家臣が送る歌で歌合せを行い、島民も院を慰めるために闘牛を催したりと、
それなりに【隠岐にめす】生活だったようです。
己の野望で戦を始め周囲に迷惑を掛けながらも、殺される事もなく
天寿を全うできたのはよくよく強運の人とも言っては叱られるでしょうか?
次の天皇位には幕府の睨みもあって甥に当たる茂仁親王が後堀河天皇として即位。
後鳥羽上皇の系列は外された訳ですが、後堀河天皇の系列が断絶したので、
皇子の土御門上皇の皇子が天皇に迎えられ後嵯峨天皇に。
それが今に続いて居る訳ですから、どこまでも強運な星の下にあった帝です。
日本史上、朝廷が破れた唯一の事件という事で最近はとみに注目され、
後鳥羽上皇も政治的に見直す動きがあるようですが、
その辺りは歴史研究でも【上級編】と【みなせ】ます。

参道に建つ 「水無瀬駒発祥の地」 碑

水無瀬駒について

境内に掲げられた後鳥羽院御製

水無瀬神宮 略記

水無瀬神宮御朱印
[参考書]
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梅田 → (阪急電鉄) → 東向日 → 大山崎 → 駅前レンタサイクル → 10分 → 山崎聖天 → 5分 → 宝寺 → 離宮八幡宮

離宮八幡宮(旧府社)
宝積寺参拝に続き線路を越えてJR山崎駅前へ。
山崎は京都と大阪の境界ですが、JR山崎駅もその四分の一が大阪府に属しています。
駅には線路に加え境界線も通っている事になります。
駅前直ぐにあるのが臨済宗の妙喜庵。
室町時代に俳諧師山崎宗鑑が隠棲した草庵が元になったと言われ、
書院に隣接した茶室待庵は利休作とされ国宝。
当然、見るべきですが事前予約が必要で、しかもコロナで閉館中。
さぞ【そうかん】だったのに残念でした。

JR山崎駅前にある妙喜庵

妙喜庵由緒
利休が駄目なら離宮で、という訳で駅前の神社へ参拝。
離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)は、
『貞観元年(859年)、清和天皇が見た夢のお告げに拠り、僧行教が宇佐八幡宮の分霊を勧請して
淀川対岸の男山に石清水八幡宮を創建した時、この地に分霊したのが嚆矢。
その際に行教が山崎の津で夜の山に霊光を見、この地を掘ると
岩間から清水が湧き出したので「石清水八幡宮」と命名。
後にここに嵯峨天皇の河陽離宮があった事から離宮八幡宮と呼ばれる事になった。
しかしこれは推定に拠るもので、神社が整備されたのは室町以降とされる。

JRから進むと東門へ至る

南側にある惣門(高麗門)
こちらが正式な入口になる。

境内にある河陽宮故址
江戸時代は幕府の庇護下、950石の神領、社殿も整備され「西の日光」と呼ばれたが、
幕末の禁門の変では長州藩の屯所となったため会津藩の攻撃を受け焼失。
更に東海道線敷設で社地が削られた。現在の社殿は昭和の建築で、
僅かに南部の築地塀、高麗門、東門が昔日の面影を留める。
清和天皇の頃、神勅に拠り当社の神官が長木という油絞り器を発明し、
絞った油を神社の灯明に用いた。これが契機となって室町期には
油座の中心として活躍。全国の油販売を一手に行った。
それ故、本邦製油発祥の地として知られている。』 とあります。

境内の鳥居と中門

中門(四脚門)

正面から見た拝殿

拝殿から中門を見る

拝殿奥の本殿

中門を入った左手にある各社
神社の由来は清水ですが、有名にしたのは後の油。水と油というのは俗説のようです。
神勅に拠って油絞り機を発明した御蔭で生産が【進捗】し大量生産が可能に。
離宮八幡宮に奉祀する神人は油売りとなり各地との交易にも従事しました。
“長崎のザボン売り”は創作ですが、“山崎の油売り”は歴史的事実です。
かつて全国を油で支配したとは思えないくらいの小さな規模。
御朱印を拝受すべく御願いすると神職の奥様が対応下さいました。
和辻;「拝殿の垂れ幕の神紋は胡麻の木ですか?」
奥様;「いいえ三本杉です。胡麻ではありませんし、ここの油は荏胡麻油です。」
和辻;「胡麻油とは違うのですか?」
奥様;「荏胡麻はシソ科の1年草です。実はこれで、草はその辺に植えています。」
見ると、胡麻と違い粟か芥子の実の様な球形。草は成程、紫蘇(大葉)とそっくりでした。
和辻;「今では作っていないのですね。」
奥様;「江戸時代になって菜種油・綿実油が出て来て衰頽しました。でも健康に良いので、
復活しています。但し、値段は10倍以上しますが…。」

本邦製油発祥地碑
宮故址の奥に建つ。

油祖像

長木と油売りの説明

長木の復元
何でも、荏胡麻の栽培は容易ですが収穫時期が短く、すぐ落下してしまうのが欠点だとか。
離宮八幡宮の力は物凄く、荏胡麻の販売には高額の販売料を納める必要があり、
しかも1年ごとの更新だったそう。神社の蔵には金銀がうなるほど蓄えられていたようです。
そうなると密造する人間が出て来るのが常ですが、神社は全国に僧兵を送り、
違反者を打ち据えたと言います。【えごま】る出しですが、博徒の縄張り争いのようなもの。
中世の経済はどこもそのような状況でしょう。
そのような独占が無くなるには織田信長の楽市楽座の出現を待たねばなりません。
それよりも荏胡麻に代わる作物が出てきたのが痛手。栄枯盛衰は政治の世界だけではありません。
奥様の話では地元にある「大山崎えごまクラブ」で荏胡麻を広めようとされています。
話を聞かずに帰ったら、別の場所で無知をさらけ出す所でした。何事も「離宮に尋ねよ!」です。

境内で栽培されている荏胡麻の幼苗

離宮八幡宮 参拝の栞

離宮八幡宮御朱印

山崎駅前郵便局 ; 離宮八幡宮正門、本邦製油発祥地石碑、天王山
[参考書]
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篠田ほつうの京都時空観光案内 石清水八幡宮・天王山宝積寺・離宮八幡宮 : 観光ドライバーのための京都案内マニュアル 新品価格 | ![]() |

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天王山 宝積寺(真言宗智山派)
聖天さんから線路沿いに大阪方面へ向かい、朝ドラで有名になった
サントリー山崎工場の横を山に向かいます。
大した距離ではありませんが勾配が結構キツく上る事10分で門前着。

石段の上に建つ仁王門
三間一戸、切妻造り。
天王山宝積寺(てんのうざんほうしゃくじ)は、
『神亀元年(724年)、聖武天皇の勅願に拠り行基が創建。前年の養老7年、
龍神が唐より伝来した何事も叶う打出と小槌を奉納。その後、天竺より大黒天を招来した。
また当時、この地あった橋が流出し民衆が困っていると、どこからともなく翁が現れ橋を復元。
その後、翁は山へ上り本堂厨子へ入った。これが本尊の十一面観音菩薩である。
その後、長徳年間(995~999年)寂照が中興の祖となり天台宗になり、
更に嘉慶2年(1388年)に後小松天皇の勅願所となって真言宗に改宗した。

重文・金剛力士像
これは仁王門右の阿形像。

重文・金剛力士像
これは仁王門左の吽像。

宝積寺由緒
中世は多くの塔頭・子院を持つ大寺で貞永元年(1232年)に火災に遭った際も
直ぐに復興を遂げている。鎌倉末期には鎮守社十五所権現も祀られた。
室町時代に衰退した後は一条家の管領下に入り、豊臣秀吉の庇護のもと盛時を迎える。
山崎の合戦では秀吉は当寺を本陣とし明智光秀に勝利。
境内の重文・三重塔はそれを記念して秀吉が一夜にして建立したと伝わる。
江戸時代には再び衰退し、元治元年(1864年)の禁門の変では
尊王攘夷派の陣地となるなど戦禍を被った。
明治維新後は残る4院3坊も無量寿院のみになり現在に至る。』 とあります。

仁王門から参道を望む

慶長11年(1605年)改築の本堂
入母屋造、本瓦葺。内陣の厨子に重文・十一面観音を祀る。

本堂の「天王山」の扁額
交通と軍事の要衝であったためか歴史上の著名人が【要所】に登場します。
古代の行基に関する寺伝には、橋に関する逸話があります。
行基の事績に拠れば、神亀2年(725年)淀川に山崎橋を架橋。
更に天平3年(731年)当地に山崎院を建立。
本尊の由緒は行基の架橋工事に、寺は山崎院の後身とも思われます。
お宝として祀られている打出、小槌は元来別物だったようで、
一般に知られているのは小槌に相当するようでした。いずれも土木工事に使うもの。
そういった見方から行基の土木工事の事績が種々の伝説になったとも言えそうです。
龍神や大黒天は、工事に携わった唐・天竺からの渡来人でしょうか?

大黒天を祀る小槌宮
褐色の屋根瓦が映える。

閻魔堂
重文の閻魔及び眷族を安置する。

重文・閻魔大王と眷族御影 (説明書より抜粋)
鎌倉時代の作。

九重石塔
平成の解体修理で当初は九重層塔と判明。仁治2年(1241年)の年号がある府下最古の層塔。
戦国時代は豊臣秀吉、と言うよりも天下を取る契機となった天王山で有名です。
三重塔を一夜で造ったというのは伝説でしょうが、墨俣一夜城がここにも拡張されたと
採るべきでしょう。秀吉にとってはこの地は宝の山だったでしょうが、
これは戦術で【打つ手】が良かった事に尽きます。打つ手を間違えたらお先は【大黒】でしょう。

本堂前の秀吉の出世石
ここに腰掛けて策を練ったとか練らなかったとか。

重文・三重塔
山崎の合戦時に秀吉が一夜で建立したとの逸話が残る桃山時代の本瓦葺。

三重塔
内には大日如来を安置する。
またここは一寸法師物語の地。大阪で生まれた一寸法師は椀の船で淀川を遡り山崎で下船、
宝寺で修業を重ねます。当時、都では鬼が暴れていたので、一寸法師は都に上って鬼退治。
褒美を貰って立派な若武者となり、美しい姫と結婚して幸せに暮らした、と言うもの。
唯、お伽噺に出て来る桃太郎・金太郎・浦島太郎・かぐや姫に関しては日本各地に
伝説の地がありますが、一寸法師は知名度の割に所縁の地が知られていません。
私も今回の参拝で初めて知った程。お伽噺と変わらない内容ですが、
三川合流と打出と小槌から宝寺と結びついたとも言えます。山崎周辺の物流業者が
京都まで勢力を伸ばした史実を反映しているのかもしれませんが…。
山崎は一寸法師よりも天王山の戦いの方のインパクトが強く、
一寸法師が霞んでしまったのかもしれません。
一寸先は闇ではないですが、お伽噺で出世した人よりも現実に出世した人に
皆の興味が向くのは当然。お宝などと言うものは、天から降って来るようなものではなく、
己の努力で獲得するものである事は庶民も分かっていたに相違ありません。

宝積寺説明書

宝積寺御朱印

山崎郵便局 ; 山崎宗鑑句碑、天王山からの景色、重文・宝積寺三重塔
円明寺郵便局 ; 桜、天王山、三川合流の風景、重文・宝積寺三重塔
[参考書]
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妙音山 観音寺(真言宗系 単立寺院)
西山で三ヵ寺参拝し、東向日駅に着いたのが昼前。午後は大阪方面へ戻り、
県境の大山崎駅で下車。昼食後、駅前のレンタサイクルを利用しての巡礼開始。
山崎は山城と摂津の国境。その名の通り両側から山が迫り、淀川三川も合流し、
街道が通る交通の要衝なのは今も変わりません。
国の分け目ですが、天正10年(1582年)6月にここで行われた山崎合戦は
文字通り明智光秀と羽柴秀吉の天下を掛けた戦い。
大一番勝負を天王山と呼ぶのはこの山から来ています。
天王山は標高270m。軍事上の要地で、武将が布陣したりしていますが、
戦自体はもう少し京都寄りの勝竜寺城付だったようです。
桶狭間同様、地名が独り歩きしたパターンですね。
駅から線路沿いに西国街道を進むと左手に石鳥居があり、ここが目指す寺の入口。
鳥居があるという事は神仏習合の名残、決してサントリーがあるからではありません。
ここからJRと阪急の線路の下を潜って、更に石段を2回上ってようやく山門へ。
線路に沿って狭い道路があるだけで、山腹に建つ寺へと続く道は徒歩。
自転車も役に立ちませんでした。

京街道沿いに建つ鳥居
線路の先に参道が続く。

二の鳥居
一の鳥居と線路を越えた先にある。

階段の先に見える山門

山門近影

山門の「妙音山」の扁額

山門を後ろに見て境内に向かう
妙音山観音寺(みょうおんさんかんのんじ)は、
『開基は寛平法皇(宇多天皇)で、昌泰2年(899年)の創建。
聖徳太子作の十一面千手観音を本尊とした。
その後、衰頽するが江戸時代に箕面勝尾寺の僧であった木食上人以空が再興。
以空は上山藩主土岐山城守頼行の子で、22歳で高野山にて得度、伝法灌頂を授けられた。
木食上人と呼ばれるのは勝尾寺に移った31歳からは五穀断ちをした事に拠る。
延宝3年(1681年)に、幕府からこの山崎の土地を拝領。翌年には勝尾寺より歓喜天を奉祀した。
宮中でも度々仏法を講じた縁で、明正天皇から「大悲院・浄聖坊・妙音山・観音寺」の
勅命を賜ったのもこの時である。上人は宮中・幕府だけでなく大坂の豪商とも縁が深く、
本堂前の大灯籠は住友家四代友信が寄進したものである。
以降、商売繁盛、良縁和合の仏として信仰されたが、本尊よりも歓喜天に対する信仰が深く、
世間では「山崎の聖天さん」として親しまれる。
しかし幕末の元治の変(1864年)で本尊と歓喜天を残し全山焼失。明治以降に復興が図られた。
現在の本堂は明治13年に島本村にあった西観音寺の本堂を移築したものである。』 とあります。

階段を上った右手に建つ庫裏と書院

境内全景

手水舎から本堂を見る

堂の周辺に植えられた紫陽花

本堂正面
本尊は十一面千手観音菩薩。明治13年西観音寺の本堂を移築したもので、西観音寺の跡地はサントリー山崎工場に。

本堂前の大燈籠
住友四代友信が元禄10年に奉納。別子銅山で採掘した銅を用いた。

大燈籠の由来記
「やまざきしょうてん」と言うと、駅前にあるお店のようですが、
れっきとした古刹。春には桜の名所となります。
地政学的に戦の絶えなかった場所だけに古いものは残っていません。
以空上人以降は確実でしょうが、それ以前はやや不明。
それでも開創の詳細が分かっているのは、御本尊十一面観音の御首内から出た一軸に
「太子作云々寛平法皇、昌泰二年草創云々」 とあり、
更に発掘された薬師如来の光背に
「妙音山観音寺昌泰二年、寛平法皇草建地云々」 とあった事に拠ります。
どちらも一次資料であり内容が一致しているので事実と言えるでしょう。
戦が多かった場所にしては奇跡的と言えそうです。
広い境内には本堂と聖天堂がありますが、本堂の方が大きく中央に建っています。
聖天さんはその奥で天王山登山口に続いています。
堂前面の垂れ幕に大根と宝袋紋が描かれているのは聖天さんに共通。
人気があるとはいえ、歴史もある御本尊に遠慮したのでしょうか?

本堂横にある聖天さんへの鳥居

聖天さんを祀る天堂
幕には二大根と宝袋紋が描かれる。

天堂の奥殿

光明殿
御室仁和寺より拝領したもので、大正13年までは浴油堂と言い、ここで浴油供が修されていた。

鐘楼堂

桂昌院が奉納した釣鐘
周りに四仏の種子がある。

境内の放生池と納経所
堂宇の周囲は紫陽花が植えられていますが、本堂の幕には桔梗紋が。
納経所に同年代の女性が居られたので、尋ねる事に。
和辻;「ここは光秀に縁があるのですか?彼はここで負けましたが…。」
女性;「いいえ。中興開山の縁故ですね。」
和辻;「成程、ところでその判子は御朱印ですか?」
女性;「そうです。昔は手書きでしたが、最近スタンプ形式にしました。」
私が訪れた平成6年分は墨書。最近の御朱印ブームで手が回らなくなったのでしょうか?
中興開山の以空上人は土岐氏なので納得。大名の子弟が僧籍に入ったパターンですが、
宮中・大名・豪商から援助を引き出したのは、彼の強いネットワークの賜物でしょう。

納経所横の柏葉紫陽花

紫陽花越しに見る書院屋根

本堂脇から鐘楼堂方面を


光明殿の横はこのような断崖

山崎聖天 略縁起

山崎聖天御朱印
平成6年拝受の墨書タイプ。今となっては貴重【記帳?】。
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梅田 → (阪急電鉄) → 東向日(8:42) → (阪急バス66系統) → 善峯寺(9:09) → 徒歩8分 →善峯寺 → 三鈷寺 → 善峯寺(10:24) → (阪急バス66系統) → 小塩(10:29) → 十輪寺 → 小塩(11:29) → (阪急バス66系統) → 東向日(11:56)

小塩山 十輪寺(天台宗)
善峯寺、三鈷寺と二ヵ寺巡礼で2時間。
寺から2㎞東へ下った十輪寺へは徒歩でも25分程度ですが、
丁度駅に向かうバス時刻と重なったので1区間だけ乗車。
小塩という遺跡に縁のある停留所で下車するとすぐ左手に参道が…。

バス停に着くとすぐ入口が

入口横の紫陽花

閉鎖中の石段
上った先が本堂なので、勅使門か?

山門
小塩山十輪寺(おしおざんじゅうりんじ)の縁起に拠れば、
『嘉祥3年(850年)、文徳天皇御后染殿皇后(藤原明子)の世継ぎ誕生を祈願し、
宗祖伝教大師作とされる延命地蔵を安置したのが始まり。
祈願後、目出度く皇子が誕生し後に清和天皇となられた事から文徳天皇勅願所となる。
その後、応仁の乱で伽藍は焼失し荒廃するが、
藤原北家の流れを汲む花山院家が一統の菩提寺とした事で復興。
寛文年間に21代の花山院定好に拠って再興し、
更に27代花山院常雅によって堂宇が整備されて今に至っている。
また寺伝に拠れば、六歌仙の一人である在原業平が晩年この寺に隠棲したと言われ、
裏山には彼が塩焼きの風情を楽しんだとされる塩竃や、墓とされる宝篋印塔が残る。
中庭の樹齢200年の枝垂れ桜は「なりひら桜」、寺も「なりひら寺」と呼ばれる事が多い。』
とあります。

納経所兼受付

いよいよ庭園と堂宇へ

本堂と高廊下

寛延3年(1750年)再建の本堂
屋根は鳳輦形と言う御輿を象った非常に珍しい形である。

本堂の庇部分
寺の起こりは藤原明子の皇子誕生祈願。明子の父で摂政藤原良房の
強い意向で、この皇子が異母兄を差し置いて皇太子になりました。
中央政界はその後、藤原氏の意に沿って動かされるようになります。
その意味では藤原氏の摂関政治の礎となった寺、江戸時代に
花山院家が再興に尽力したのもそのために他なりません。
その花山院常雅が寛延3年(1750年)、本堂再興と同時に造ったのが「三方普感の庭」。
三ヵ所から眺めると見る人に様々な思いを感じさせる癒しの庭という事に拠る命名です。
当時の常雅は右大臣の要職にありましたが、江戸時代の公家は経済的には困窮状態。
平安時代のように豪華な庭園を造るのは夢のまた夢。
それでも小さな空間に様々な趣向を凝らした庭を造りました。
金が無ければ無いなりに芸術的なものを造る。
長らく日本文化を牽引した貴族だからこそ【俯瞰】できたのでしょう。

高廊下
本殿から業平御殿へと続く。

本堂から高廊下を見る

高廊下から見た三方普感の庭
自分が天上界の人となって雲海を見る趣向。正面奥は茶室。

高廊下の端から
大きな3個の石は過去・現在・未来を表現し、小さな庭に大宇宙を感じる趣向。

業平御殿から見た三方普感の庭
海底の荘厳な極楽浄土の世界を感じる趣向。中央は樹齢200年の業平桜。

三方普感庭由来

本堂裏手の業平遺跡へ

本堂の屋根の形
鳳輦に似せた形。

遺跡への道すがら本堂、高廊下と業平御殿が見える。

業平の墓とされる宝篋印塔

境内の奥にある在原業平の塩竈の跡。

塩竈近影

塩竈の由来

十輪寺と謡曲「小塩」
もう一人この寺に彩を添えているのが在原業平。
平城天皇の第一皇子阿保新王の王子でありながら、薬子の変で皇位継承から除外。
天皇の后とも浮名を流した風流貴公子で、失意の彼が都を離れた話が『伊勢物語』になったとか。
かつての恋人であった二条后(藤原高子)が大原野神社参詣の折に、
業平がここで塩焼きし、思いを託したと言われます。
藤原高子は良房の後継者基経の同母妹で、清和天皇に入内した事も因縁めいていますが、
業平の高貴性と失意が庶民の判官贔屓となったに違いありません。
寺は山中に隠れるように建っていますから、業平が晩年に隠棲したと言うのもありうる話。
塩焼きも、源融の逸話にもあるようですから【いつわ】りではないでしょう。

寛文6年(1666年)建立の鐘楼

不迷梵鐘
自分で決心がつかず、迷っているときこの鐘を撞くと、不思議と決心がつくとされる。

大樟樹
樹齢800年、本尊が楠で作られた事に由来する。

業平御楓

本堂脇の赤い実の成る樹木。

高廊下脇にある日本庭園

池の上にはモリアオガエルの卵が
唯、業平がどこまで世を拗ねて隠遁していたかは疑問。
彼は56歳で無くなり公卿には至りませんでしたが、参議に昇進する直前だったようで、
政界でもそれなりの地保を築いていたようです。貴族は庶民が思う程、軟弱ではありません。

十輪寺説明書

十輪寺御朱印
[参考書]
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華台山 往生院 三鈷寺(西山宗 総本山)
善峯寺参拝の後は、釈迦堂前を通り北門から出て隣接する寺院へ。
善峯寺訪問は今回で3回目ですが、いままでは寺院の存在さえ気付かず。
3度目の正直となりました。
鴨瀬山の中腹に建つ寺院で善峯寺同様、関西随一の眺望で知られます。

善峯寺北門から参道を進む
右手に見えるのが三鈷寺。

山門

由緒記

境内側から見た山門
華台山往生院三鈷寺(けたいさんおうじょういんさんこじ)は、
『承保元年(1074年)、源算(げんさん)上人が草庵を結んで北尾往生院と号したのが嚆矢。
それに続き二祖観性法橋、三祖慈鎮(慈円)和尚と入寺され、建保元年(1213年)に
法然上人高弟の證空善慧国師、即ち西山(せいざん)上人が入山。
ここを不断如法念仏道場とし寺号を三鈷寺と改名。
これは背後の山並みが仏器の三鈷に見ている事に由来する。
西山上人は宝治元年(1247年)に入滅するが、遺身は全て当処に埋葬。
上人に帰依した蓮生が塔を建て観念三昧院華台廟と称して歴代法燈され今に至る。
蓮生は俗名を宇都宮頼綱と言い、定家の百人一首の成立にも関わった人物、
死後華台廟に西山上人と共に葬られた。
中世は浄土宗西山派の根本道場として多くの寺領を有したが、応仁の乱で堂宇が荒廃。
その後、常念仏・再興の綸旨を賜り現在の地に復興するが、かつての勢いは取り戻せなかった。
昭和26年(1951年)には西山宗本山となり、四宗兼学(天台・真言・律・浄土)
の道場として今に至る。』 とあります。

渡り廊下に続く庫裏

正面から見た本堂
本尊は如法仏眼曼荼羅

西山上人霊廟碑
霊廟は本堂と繋がっている。

西山上人の霊廟 「華台廟」
後方にあるのが本堂
開山の源算上人は善峯寺の開山。それに続く二祖・三祖も著名な僧侶なので、
今で言う大寺院の塔頭という扱いだったのでしょう。
山腹に建ち、眺望が素晴らしい事がその理由でもあったのでしょうか?
三鈷寺を確立した西山上人は、村上源氏で久我内大臣源通親の養子に入った人物。
血の繋がりはないとはいえ道元とは兄弟になります。
源通親は朝廷の大立者で、鎌倉の源頼朝とも渡り合った人物。
当時の貴族の常として、子弟を僧籍に入れる事は不思議ではありません。
唯、西山上人は学才があったようで、法然の直弟子として師の入滅まで傍に仕えました。
法然一派が後鳥羽院の怒りに触れた「承元の法難」、
延暦寺宗徒から弾圧を受けた「嘉禄の法難」と危機が訪れますが、
いずれも配流は免れています。これも高貴な身分の故でしょう。
御住職から伺った話では、
上人は71歳で亡くなりますが、教えを広めるために各地を巡業。
彼の足跡は遠く東北まで及んでいるようです。いまに残る肖像画も穏やかな顔で、
貴族出身という事で弱弱しい人を想像しましたが、強い信念を持った人だったようです。
後に彼の教学は浄土宗西山派として三派をなしますが
粟生光明寺、永観堂禅林寺、西京極誓願寺が総本山。
いずれも著名な寺院ですから、浄土宗内でも勢力はあるようです。
「人間至る所に西山在り」となったのも故なしとはしません。

西山上人御影 (頂いた三鈷寺縁起から)

本堂横の観音堂

本堂前にある石段
この付近からの眺望が随一とされる。

石段横の大銀杏

本堂と庫裏の間の庭園

梵字碑

三鈷寺縁起

三鈷寺御朱印
[参考書]
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西山 善峯寺(善峯観音宗 天台宗系単立 西国三十三ヵ所第二十番札所)
この日は紫陽花を求めて洛西まで巡礼。
JR向日町、阪急東向日から西山に向かってひたすら【むこう】に西進。
釈迦岳の支峰、良峯の中腹に建つ寺院が目指す札所。
西国札所は僻地が多いですが、ここも京都盆地の南西の端。
都からの巡礼者にははるばる来た感があります。
大阪方面からは神峯山寺、本山寺からポンポン山を越えて入るルートもあり、
学生時代は研究室のハイキングはこのコースでした。山門で¥500を支払い入山。
境内は迷う程広大ですが、そこは良くしたもので頂いたパンフには
境内地図と順序まで記載されていたので、それに従って巡礼しました。

バス停から善峯川に架かる一の橋を渡る

市内を眺めながら阿智坂を上る

坂を三度曲がると東門

駐車場の奥には平成11年建立の文殊寺館が

正徳6年(1716年)建立の山門(楼門)
両脇の金剛力士像は運慶作、源頼朝の寄進と伝わる。

山門の扁額

楼上と垂木部分
楼上の本尊文殊菩薩と脇侍二天は寺宝館に奉安。
西山善峯寺(にしやまよしみねでら)は、
『長元2年(1029年)源算上人に拠る開創。上人が修行中に不思議な翁が現れ、
「我は阿智坂明神なり。速やかに伽藍を建立すべし。」 とお告げがあった。
険しい地形に困惑していると、猪の群れが出現して土地をならしたという。
源算は比叡山横川の恵心僧都(源信)に師事、
47歳で当山に入山し自作の千手観音を本尊として祀った。
長元7年(1034年)、後一条天皇の勅願所となり 「良峯寺」 の寺号と御詠歌が下賜された。
長久3年(1042年)、後朱雀天皇の勅命で洛東鷲尾寺の仁弘法師作千手観音を
当山に移し本尊、源算作の観音像を脇本尊とした。
建久3年(1192年)後鳥羽天皇より「善峯寺」の宸額を賜り、現在の寺号に連なる。
白河・後花園天皇より伽藍寄進を受け、後嵯峨・後深草天皇など歴代皇室の崇敬も篤かった。

山門で入山受付

山門から本堂へと続く参道
脇には紫陽花が見える。

観音堂(本堂)
元禄5年(1692年)、桂昌院に拠る建立。納経もここで行う。

本堂前から山門を見返る

本堂前から石段を上り多宝塔、遊龍の松へ

貞享3年(1688年)建立の鐘楼堂
徳川綱吉の厄年に当たり桂昌院が寄進したので厄除けの鐘と言われる。

鐘楼堂から遊龍の松と多宝塔を見る
鎌倉時代には慈円和尚や証空上人が住持を勤める。
また西山宮道覚入道親王や青蓮院門跡より多くの新王が籠居され、
更に多数の僧侶の入山に拠って繁栄。室町時代には僧坊52に及んだが、
応仁の乱で大部分の坊が焼失した。

遊龍の松越しに見る護摩堂
元禄5年(1692年)の建立。

遊龍の松
これは根本部分。

遊龍の松
安政4年(1857年)、前右大臣花山家厚公により命名。

遊龍の松
標石は明治26年、島尾中将の書。
その後、江戸時代になって徳川5代将軍綱吉の生母である桂昌院が大檀那となり復興に尽力。
現在の鐘楼・観音堂・護摩堂・鎮守社・薬師堂・経堂が復興され、貴重な什器も寄進された。
西国観音札所に加え光明寺・楊谷寺と共に京都西山の三山として知られ、
山の斜面を利用した広大な寺域からは京都盆地が一望できる。
歴史的建造物に加え樹木も多く、特に多宝塔前にある樹齢600年、
全長37mの五葉松は「遊龍の松」 の名で知られ、「松の寺」 の異称もある。』 とあります。

紫陽花越しに見る重文・多宝塔
元和7年(1621年)建立。

宝永2年(1705年)建立の経堂

経堂脇の桂昌院枝垂れ桜

経堂奥の階段を上り廟へ

桂昌院廟への入口

桂昌院廟
宝永2年(1705年)建立。桂昌院の遺髪を納める。

明治18年建立の釈迦堂
廟を少し上った場所に建つ。

釈迦堂から市内を眺める

釈迦堂脇のサツキ
良峯に建つ善峯寺ですが恐らく寺の名前が先。良峯とは六歌仙の僧正遍照の俗姓。
同じく六歌仙の在原業平ゆかりの十輪寺が近隣にあり気になりましたが無関係。
眺望が抜群であったところからの命名でしょう。
千年近い歴史があり、歴代皇室や著名な僧侶に縁があるとはいえ、
現在までこれだけ広い境内を維持しているのには驚愕。
これには江戸時代の桂昌院を抜きには語れません。

更に高みにある奥之院へ

青蓮の滝
京都の住人本庄宗正は当山薬師如来に一女子を得る事を祈願します。
そして寛永4年(1627年)誕生した女子が玉。彼女は江戸城に上がって
3代将軍家光の寵愛を受け、生まれた男子が5代将軍綱吉。
将軍生母の彼女は桂昌院の名を賜り、晩年には女性最高位の従一位に至ります。
まさに名前の通り【玉】の輿に乗った訳ですが、一般に言われるように
堀川の八百屋の娘であったかどうかは定かではありません。
日本一出世した女性が庶民的な八百屋の出身というのは、
非常に共感を得やすいですが、同じ八百屋の伊藤若冲は青果問屋の資産家でしたし、
桂昌院も江戸城へ上がるくらいですから、それなりに裕福な家だった気がします。

元禄14年(1701年)建立の薬師堂
最も高い場所に建つ堂で、桂昌院出生の由緒から出世薬師如来と呼ばれる。

薬師堂脇の桂昌院の御詠
・たらちをの 願いをこめし 寺なれば 我も忘れじ 南無薬師仏

薬師堂からの眺望
六角形の建物は「けいしょう殿」

正面から見た「けいしょう殿」

桂昌院像とお犬様

薬師堂奥の蓮華寿院旧跡庭
出身は兎も角、これだけの伽藍を復興させるのは相当な経済負担だった筈です。
生類憐みの令と並んで無駄な出費と考える向きもありますが、
国家にとって一番の出費は戦争。250年間泰平の世であった江戸時代には、
意外と経済力があったと考えた方が良さそうです。
境内には桂昌院が復興した堂宇が多数ありますが、最高地点にあるのが薬師堂。
父が祈願した事に由来するのでしょうが、すぐ下に「けいしょう殿」として
彼女の銅像が祀られています。横にお犬様があるのも一興。
そこからは彼女の生れた京の都が一望できます。【景勝良いん】場所を選んだのでしょうが、
寺としても最大の功労者に報いたかったのでしょうね。

歴代親王廟への道

法親王の御墓

初期の住持の御墓

阿弥陀堂は改修中

本坊
境内にある堂宇の周辺には紫陽花が多く植えられていますが、
開山堂の北に広がるあじさい苑が圧巻。
品種・色彩は多くはないですが、平面だけでなく立体的な広がりを持った空間で
紫陽花を楽しむ趣向です。洛西の紫陽花名所としておすすめです。

紫陽花越しに見る護摩堂

開山堂への道にて



貞享2年(1685年)建立の開山堂

眼下に白山 桜あじさい苑が広がる

苑を一望できる幸福地蔵堂

地蔵堂から苑を見下ろす

苑から地蔵堂を見上げる






善峯寺 説明書

西国札所御朱印 (平成6年11月7日 拝受)

西国札所御朱印 (令和2年6月16日 拝受)

奥之院御朱印

京都大原野灰方郵便局 ; 薬師如来像、竹林、善峯寺遊龍の松
洛西郵便局 ; 薬師如来像、竹林、善峯寺遊龍の松
[参考書]
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篠田ほつうの京都時空観光案内 善峯寺・正法寺 粟生光明寺・十輪寺: 観光ドライバーのための京都案内マニュアル 新品価格 | ![]() |

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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 京阪電車は日中10分間隔で運転
淀屋橋 → (京阪特急) → 中書島 → (京阪宇治線) → 三室戸 → 徒歩15分 → 三室戸寺 → 三室戸 → (京阪宇治線) → 中書島 → (京阪本線) → 墨染 → 徒歩5分 → 藤森神社

藤森神社(旧府社)
三室戸寺参拝を昼に終えて、京阪本線へ戻って伏見区にある藤森神社へ。
関西人にとっては勝負事と駈馬神事で有名ですが、
勝負に縁遠い私が訪れたのは紫陽花園を見るため。

南門
駅から歩くとこちらから入る。

南門に続く参道
駈馬神事はここで開催される。左手が第一あじさい園、正面にあるのが拝殿。

街道沿いに向いた西門
左にあるのが榧の大木。

西門の先にある二の鳥居
藤森神社(ふじのもりじんじゃ)は縁起に拠れば
『平安遷都以前に深草の里に祀られている産土神で、神功皇后が新羅より凱旋後、
軍中の大旗を立て、兵具を納めた塚を造ったのが嚆矢。西暦203年の事とされる。
本殿の主祭神は素戔嗚尊で、後に加わった日本武尊・応神天皇・武内宿祢他を含め計七柱。
建物は正徳2年(1712年)中御門天皇より下賜された宮中内侍所で現存する賢所としては最古である。

境内遠景
正面にあるのが拝殿、その奥が本殿。右手奥が第二あじさい園。

由緒記

拝殿正面
本殿と共に御所から賜ったもので割拝殿として有名である。

本殿側から見た拝殿近影

正面から見た本殿
切妻造り、檜皮葺。

本殿近影

側面から見た本殿
千鳥破風の先に唐破風が付いた構造。

本殿の外側の塀

本殿東の旗塚
神功皇后が旗を立てたとされる当社発祥の地。
西殿は延暦19年(800年)に塚本の地に早良新王を祀ったものを、
文明2年(1470年)に藤森に合祀。他に井上内親王、伊予新王を加え三柱とした。
早良新王は陸奥の反乱に征伐将軍として当社に祈願し出陣。
その日が5月5日であった事が、現在の駈馬神事に連なる。
また藤森祭は毎年5月5日に行われ、菖蒲の節句発祥の祭と言われる。』 とあります。

学芸の祖 舎人新王崇敬碑
舎人新王は天武皇子で日本書紀編集総裁。そのため学問の神として崇拝を受ける。

本殿前に建つ「菖蒲の節句発祥の地」

本殿西にある神鎧像
藤森祭の象徴として建立された。

絵馬舎に掲げられた競馬の絵
藤の森で紫陽花とはこれ如何にですが、伏見区深草にある藤森神社ですが、
最寄り駅は深草でも藤森でもなく墨染なので驚くには当たりません。
古には藤の叢林があったと言いますが、藤尾の地に関係がありそうに思いますが…。
御祭神は歴史上の有名人が多く、しかも勇ましい人が多いので
勝運の神として参拝される人が多いのでしょう。様々な神社の合祀を経てきましたが、
古い建造物も多く、先に挙げた本殿の他、大将軍社・八幡社は足利義教の造営。
しかも大将軍社は平安遷都に際し、王城守護のために
都の四方に祀られた南面の守護神という由緒がありました。

本殿北側にある霊験天満宮

重文・大将軍社社殿
永享10年(1438年)足利義教の造営。

大将軍社説明

重文・八幡宮社本殿
大将軍社と同じく永享10年(1438年)足利義教の造営。

不二の水(御神水)
地下100mから湧き出る水で、二つとない事からの命名。

斎館と参集殿
5月5日の菖蒲の節句が同じ発音の勝負に繋がり、
そこから競馬になったのかと思いましたがさにあらず。
御朱印を拝受すべく神官に伺った話では
神官;「元来、祭は5月の午の日。加えて神社が平安京の午の方角にあった事に拠るようです。」
和辻;「駈馬神事で走る馬はどんな馬ですか?」
神官;「中央競馬会で走っていた馬が一線を退いたものです。」
和辻;「なるほど、第二の就職先ですね。」
神官;「でもね、サラブレッドは気性が荒いので引退しても扱いが大変らしいです。」
勝負の世界では負けん気の強さは長所ですが、駈馬神事ではどちらかと言えば短所。
過去の栄光に縛られて身動きが取れないのは、馬も人間も違いはないようです。

第一紫陽花園から拝殿方向を見る








第二紫陽花園から本殿方面を見る


第二紫陽花園から八幡宮社を見る

第二紫陽花園から見た大将軍社、霊験天満宮



境内の自販機

藤森神社縁起略記

藤森神社御朱印(限定版)

藤森郵便局 ; 藤森神社本殿、駈馬神事
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 京阪電車は日中10分間隔で運転
淀屋橋 → (京阪特急) → 中書島 → (京阪宇治線) → 三室戸 → 徒歩15分 → 三室戸寺

明星山 三室戸寺(本山修験宗 別格本山 西国三十三ヵ所第十番札所)
水無月になり紫陽花も見頃になりましたが、各地の紫陽花名所はコロナの影響で休止が多数。
梅雨入りしてもこのまま見ずに水入りするのもなんなので、拝観できる場所を探しての巡礼。
京阪電鉄宇治線の終点宇治の一駅手前の三室戸で下車。
遥か古代に神功皇后と忍熊王が戦ったことに由来する戦川を右手に見ながら東へ1㎞。
道がだんだん細く上り坂になった【いくさ】きにあるのが三室戸寺。
かつては明星山と呼ばれた三室戸山の中腹にある西国札所。

寺標と橋を越えると受付

受付を過ぎ山門へ
参道の右側は紫陽花。

参道左側は羊歯が茂る

朱塗りの山門

石段を上り本堂へ向かう

石段を上った先から来た道を振り返る

石段の上にある水盤
紫陽花を浮かべるのも花の寺に共通。

本堂前に鎮座する宇賀神(狛蛇)
頭部が人間で胴体が蛇。造られたのは最近の事。
明星山三室戸寺(みょうじょうさんみむろどじ)は寺伝に拠れば
『奈良時代の宝亀年間(770~780年)、宮中に奇瑞が生じたので、
光仁天皇は右小弁藤原犬養に菟道(うじ)山の奥の探索を命じた。
すると志津川上流の岩淵から1体の黄金仏が出現。
天皇は御所の御室の一部を移築し、仏像出現の地に堂宇を建立し
御室戸(みむろど)寺と名付けたのが始まり。

蓮の鉢越しに見る本堂
文化11年(1814年)再建の重層入母屋造り。右手にあるのは阿弥陀堂。

本堂前面の唐破風と彫刻

本堂庇部分の造り

本堂の垂木部分

本堂前の招福兎
ボウリングの玉のような中にある卵型の石を立てると吉。宇治は菟道が語源なのでウサギか?

本堂前の勝運の牛
口中の玉に触れると勝運が付くとされる。宇治の濁点を取って「うし」なのか?
唯、実際には十世紀頃の創建とされ、奈良大安寺の行表、
或いは智証大師円珍が開山と言われる。平安時代には隆盛を極め、
三井寺の隆明上人が康和年間(1099~1104年)に中興した際には
山上山下に多くの伽藍が立ち並んだと伝わる。
文明11年(1479年)に日野富子の宇治明神参拝に関し宇治の橋寺と争って全焼。
長享3年(1489年)に後土御門天皇の尽力で再興。その際に創建の地から現在地に移った。

本堂から右側を見る

阿弥陀堂
親鸞の父の墓所に、親鸞の娘が堂を建てたのが始まり。現在のものは江戸時代の建築。

吹き流し形式の鐘楼
江戸時代の建築。

元禄17年(1704年)建立の三重塔
三日月村の高蔵寺にあったものを当寺が買い取ったもの。

鐘楼奥の浮舟の碑

浮舟の説明
しかし、天正元年(1573年)の槙島合戦では足利義昭側に付いたため、
織田信長の焼き討ちに遭遇。江戸中期には金蔵院を残すのみであったが徐々に復興。
現在の本堂は文化2年の建立である。
境内には源氏物語の浮舟に因んだ碑もあるが、
参道右手にある池泉回遊式庭園 「与楽園」 にはツツジ・アジサイが多く植えられ、
境内には蓮の鉢が置かれるなど札所に加えて花の寺で知られる。』 とあります。

納経所前の芭蕉句碑
・山吹や 宇治の焙炉の にほふ時

蓮の鉢越しに見える納経所

赤色の蓮の花

白色の蓮の花

本堂奥にある重文・十八神社本殿
長享元年(1487年)建立の三間社流造。

十八神社から見た本堂

参道脇のツツジ
宇治は平安時代に都の貴族が別荘を営んだ場所ですが、
源氏物語の浮舟にもあるように哀調漂う雰囲気があります。
元々、宇治の由来は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の所縁から。
彼は応神天皇に愛された皇子ですが、
兄に皇位を譲るために命を絶ったと言われる人。
このような経緯が根底にあるからでしょうが、
お茶と花で脱却を図っているように見受けられました。

庭園の石庭

石庭

池泉回遊式庭園

池泉回遊式庭園

参道よりあじさい園を見る

遠くに山門が見える















前回訪れたのは26年前の6月4日。
唯、紫陽花の記憶が全く残っていないので時期尚早だったのでしょう。
今回、紫陽花は見頃、本堂前の蓮も少し咲いていました。
昔と違うのはスイーツ巡礼。参道右手の紫陽花園の中に
「花の茶屋」というものが出来て居り園内で食事可能。
主食系もありますが周囲の人は「あじさいづくし」の甘味。
私もそれに倣って「あじさいパフェ」。
宇治にある京の飴工房「岩井製菓」製のお菓子と宇治茶のコラボ。
巡礼も紫陽と味彩のコラボとはなりました。




あじさい園の中にある「花の茶屋」

スイーツメニュー

あじさいパフェ

特製コースター

三室戸寺 略縁起

三室戸寺御朱印
26年間に拝受したもの。

三室戸寺御朱印(西国札所)

限定御朱印 ¥500
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和辻鉄丈の個人巡礼 古刹と絶景の健康ウォーキング(御朱印&風景印)
<コース> 近鉄電車は日中10分間隔で運転
上本町 → (近鉄大阪線) → 近鉄八尾 → 徒歩5分 → 八尾天満宮 → 八尾御坊大信寺 → 徒歩10分 → 久宝寺地内町 → 念仏寺 → 久宝寺御坊顕証寺 → 許麻神社 → 近鉄八尾

許麻神社(式内社 旧郷社)
久宝寺御坊参拝を終え寺内町を離れますが、寺の南西から
旧環濠を越えた場所にあるのが許麻神社(こまじんじゃ)、由緒に拠れば、
『付近は旧若江郡巨麻郷と呼ばれた、高句麗系の渡来系氏族の大狛連の支配地。
渡来人の祖霊として祀ったのが社名の由来で、祭神は牛頭天王である。
久宝寺観音院はここの神宮寺の扱いであり、鐘楼が手水舎として残る。』 とあります。

許麻地蔵尊
寺内町南西の許麻橋のたもとにある。

寺内町南の土塁の端から地蔵尊と許麻神社を望む

許麻神社鳥居

由緒記
「こま」と言う呼び名から想像していましたが、ここも渡来人所縁の社。
1100年以上の歴史があるそうです。白村江の戦いの印象から
日本と百済との繋がりは強い印象ですが、高句麗も同様。
高句麗が唐に滅ばされたのは白村江の戦いの5年後の668年。
一部の遺民は満洲に698年渤海を建国しましたが、
海を渡り日本に渡来した人も多かったようです。
高句麗の古代読みは「こま」。武蔵の高麗はそのままですが、
他にも狛・巨摩・許麻などの漢字で表記された地名が各地に残ります。
これも歴史の「ひとこま」と言えましょうか。

拝殿

拝殿前面の造り

西の鳥居へ続く参道から見た本殿

境内の大楠

手水舎
元久宝寺観音院の鐘楼に由来。
[参考書]
やすらぎの古里 河内西国巡礼 こころの散策ガイド
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