<コース> 夏の青春18きっぷ
【往路】JR大阪(6:00) → JR姫路(7:30→7:31) → JR岡山(9:08)
駅レンタサイクル20分 → 法界院

金剛山 遍照寺 法界院(真言宗単立寺院 中国観音霊場第五番 百八観音霊場第七番)
明治初期に鉄道が敷設されたのは文明開化に向けて物資の輸送がメイン。人の移動は二の次でした。
そんな中で人の移動の主流といえば江戸時代から続く寺社仏閣巡礼。
駅名にもそのような名前が付くのがそれを物語っています。
私の知る限り「寺」の字が付く駅が最多なのは天王寺・久宝寺・王寺・法隆寺と関西本線の4駅ですが、
この日の津山線にも2駅あります。一つは法然上人所縁の誕生寺ですが、もう一つは法界院。
寺が付かない所がポイント、クイズにでも出題されそうです。

JR法界院駅スタンプ
上;国鉄時代 下;JR西日本岡山支社2006年度
寺院は津山線の同名の駅から北東へ1㎞ですが、津山線の列車が1時間に1本以下と非常に少ない。
という訳で岡山駅で駅リンをレンタル。寺は山麓ですがアップダウンもなく20分程で到着。

入口へ到着

江戸時代建立の山門
扁額は「金剛山」

山門の獅子の彫刻

山門の天井画
生阪藩士松田翠涯の筆になる。
金剛山遍照寺法界院(こんごうさんへんしょういんほうかいいん)は、
『天平年間の749年頃、報恩大師が開基。本尊の聖観音像は聖徳太子作と伝えられ重文。
檜の一木造であるが、当初は極彩色であったと思われる。
戦国時代に伽藍を焼失し、天正9年(1581年)に現在の地に移転。
江戸時代前期に傳審和尚が堂舎を再建し中興、学問に秀でた和尚は藩主池田公も帰依された。
池田公は当院より寄進した観音像を安置するために後楽園内に「慈眼堂」を建立。
歴代住職が月参し、三十三年目には再び当院に遷座させ一般庶民の参詣も許した。

山門を過ぎて石段を上る

中門をくぐると境内に
左は大杉。

境内遠景

安政2年(1855年)建立の本堂
正面八間、奥十間。

本堂の庇部分
池田公参勤交代の折、東海道白須賀宿で観音様が夢枕に立ったので、
お告げに従い急いで宿場を出立したので津波の難を免れたと伝えられる。
観音様を篤く崇拝した池田公の元、繁栄したが、しばしば大火に見舞われたため、
本堂は安政年間、山門は嘉永年間となっている。』 とあります。

本堂から大師堂を見る

本堂近影

本堂の屋根瓦
「金」の文字は山号の金剛山に由来。

本堂説明

明治13年建立の大師堂
乾漆の大師像は昭和35年に奈良の宮沢甲輔仏師の作。

大師堂の龍の欄間彫刻
重文の御本尊は秘仏のため外陣から参拝。聖徳太子時代とありますが、
実際は藤原時代の作だそうです。それでも十分古いですが…。
入口は平地ですが、山門から本堂、裏山の八十八ヵ所ミニ霊場と高く続いています。
境内には二大門前の杉の大木始め巨木が屹立。セミが喧しく鳴く横では子供たちが虫取りに興じていました。
裏山からは市内が見渡せるので、そのような位置関係も創設に預かったとも思えます。

昭和13年建立の梵鐘楼堂
霊場へ向かう坂の途中からの眺め。

補陀落山の観音浄土を図絵した梵鐘

坂の上から見た大師堂(手前)と本堂
御朱印を御願いすべくベルを押すと、御住職夫人が御対応。
京都山科日野にも真言宗の法界院があり関係を尋ねましたが、
法界とは大宇宙(マンダラ)の世界、即ち仏の世界を言う一般用語だそう。
直接の関係はなさそうですが、【まんだら】無関係でもないようでした。

本堂前に立つ慶長3年の石灯籠

石灯籠の説明

法界院沿革

法界院御朱印
[参考書]
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JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR豊橋(10:11→10:22) → JR浜松(10:57→11:09) → JR掛川(11:35→11:57) → (天竜浜名湖鉄道) → 遠州森(12:24) → (駅レンタサイクル30分) → 小國神社 → 遠州森(14:16) → (天竜浜名湖鉄道) → 掛川(14:40) → 徒歩5分 → 掛川城 → JR掛川(15:07) → JR豊橋(16:31) → JR米原(18:39→18:47) → JR大阪(20:13)

掛川城遠景
小國神社参拝の後は掛川まで戻ることに。
在来線や新幹線からも見える掛川城は中遠の政治の中心。掛川城は
『遠江が応永から延徳(1394~1492年)の約1世紀間、守護斯波氏の支配下に置かれた際に、
家臣の鶴見氏三代に亘り砦が築かれたのが嚆矢。
明応5年(1496年)、今川氏親は遠江攻めに伴い、家臣朝比奈泰熙に
天王山の地に掛川城築城を命じ遠江支配の拠点とした。

駅から北へ直進し橋を渡る

お城の堀に架かる橋から

石段を上り城内へ

復元された城門

かつてあった四足門の説明
永禄11年(1568年)12月の武田信玄の駿河攻めで駿府城を追われた今川氏真は
掛川城に実を寄せた。しかし西からの徳川家康軍によって翌年掛川城は開城。
氏真と朝比奈泰朝は小田原の北条氏を頼り、掛川城は今川最後の城となった。
この時、家康が南の小笠山の頂から震天雷(いしびや)を仕掛けて城を壊そうとしたが、
霧が出て城を覆い隠した故事から、この城を雲霧(くもきり)城と呼ぶようになった。

本丸門の前面に配置された三日月堀

三日月堀の説明

城門を過ぎた場所に建つ太鼓櫓

太鼓櫓説明

天守閣前の顔ハメ

復元された天守閣
開城後は家康家臣の石川氏、豊臣系の山内一豊が入城し軍事用として改築した。
その後は、松平氏と移り、その後は太田氏が幕末まで藩主を勤めた。
天守閣跡は平成6年(1994年)、日本初の本格木造で復元された。』 とあります。

十露盤堀

十露盤堀説明

茶室から見た天守閣

茶室

茶室横の庭園
天守閣は復元ですが、御殿は安政2年(1855年)の再建。
城主の居所・政庁・諸役所を兼ねたもので城郭の御殿としては県内唯一だそうです。
加えて、三日月堀、算盤堀と言った珍しい形の堀も残ります。日本の城郭では堀は今一つ注目されませんが、
そのような箇所を見るにつけ、江戸城築城で有名な道灌の末裔だと再認識しました。

二の丸御殿入口

重文・二の丸御殿
文久元年(1861年)の再建。

掛川市マンホールカード 掛川城券売所にて配布

JR掛川駅スタンプ(JR東海静岡支社)
復元された掛川城をデザインした秀逸なものだが、今は劣化して撤去されたとかされないとか。
[参考書]
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JR大阪(5:55) → JR米原(7:42→8:04) → JR大垣(8:36→8:40) → JR豊橋(10:11→10:22) → JR浜松(10:57→11:09) → JR掛川(11:35→11:57) → (天竜浜名湖鉄道) → 遠州森(12:24) → (駅レンタサイクル30分) → 小國神社 → 遠州森(14:16)

小國神社(遠江国一之宮 式内社 旧国幣小社)
現在の日本の主要都市は近世城下町が起源。一方、国分寺・一之宮は
律令時代の国府が元になっているので、今の都市とは離れている事もしばしば。
遠江の主要な城下町は浜松ですが、国府は東海道を一宿東へ行った磐田。旧国分寺跡も残ります。
それでは一之宮はどこだろうと探すと、これが国府からとんでもなく離れた場所。
新幹線の駅のある掛川から第三セクターの天竜浜名湖鉄道に乗って25分。
遠州森駅で下車して更に山に向かって4㎞行った場所。

天竜浜名湖鉄道掛川駅にて
お茶とお城をデザインした車両。
何故、このような場所にと思いましたが、森町は秋葉街道が通り、
南アルプス(赤石山脈)山系からの清流が南に向かって流れるという恵まれた場所。
千年を超える寺社も多く、舞楽・祭も伝承され「遠州の小京都」と呼ばれるとか。
最寄りは無人の遠州一之宮駅ですが、有人の遠州森駅で下車してレンタサイクルを利用。
天竜浜名湖鉄道は気賀駅始め鉄道遺産とも言うべき駅舎が多いですが、ここもその一つ。
子供の頃は、このような駅舎を多く目にしましたが、今は絶滅危惧種で保護されています。

天浜線遠州森駅舎
小京都を意識した造りになっている。

文化財のプレート

駅舎内の待合室と改札
線路沿いから高速沿いに走り、最後は宮川に沿って北上。
遠州らしく御茶畑が目に入りますが、宮川沿いには洒落た食事処や土産店が…。
何でも一之宮の門前として明神通りと名付けられたとか。
山沿いとはいえ、一之宮の威力は大したものです。

道沿いから見える御茶畑

明神通りを行く
宮川に架かる「みそぎ橋」。向こうに見えるのは「お直り処 久米吉 宮前田楽」
小國神社(おくにじんじゃ)は、
『欽明天皇の十六年(555年)、二月十八日に本宮山に御神霊が出現し鎮斎されたのが嚆矢。
その後、都から勅使が差遣わされ、山麓6㎞の現在地に社殿を造営し正一位を授けられた。
文武天皇の大宝元年(701年)には勅使が奉幣され十二段の舞楽を奉奏。
その後、仁明・清和天皇と位階が加わり、醍醐天皇の時代に式内社となった。
後醍醐天皇の元弘・建武の変以来、勅使は絶えるが、神主が祭礼を執り行う。

神社入口へ到着

入口に建つ大鳥居

大鳥居の扁額

太鼓橋を渡り参道へ

勅使道杉並木
参道の遥か向こうに鳥居と拝殿が見える

参道左手に佇む「鉾執社」

「鉾執社」説明

参道左手にある事待池

池の説明

池に架かる森山焼の橋

橋の説明

神幸所

全國一宮等合殿社

殿社の説明

かつての御神木
社殿前の鳥居前にある。
元亀3年(1572年)、武田信玄の遠江攻めに際し、神主小國豊前重勝は
子息を人質として徳川家康に援軍を要請。
家康は御神霊を別所に移し、戦勝祈願を行った後、社殿に火を放つ戦法を取った。
徳川勢勝利の後、家康は天正3年(1575年)に本社、同11年(1583年)に拝殿・廻廊、
同13年(1585年)に楼門を再建。慶長8年(1603年)には社領590石の朱印を賜った。

拝殿前鳥居

正面から見た拝殿

拝殿前面の彫刻と組物

拝殿脇にある開運「打ち出の小槌」

境内にある家康公立あがり石
将軍綱吉の代には社殿改造、吉宗の代には400両の寄進と江戸時代を通じて将軍家の庇護を受けた。
明治6年には国幣小社に列せられるが、同15年の火災で本殿以下を悉く焼失する。
復興は官命で行われ、明治19年に完成。
遠江國一之宮として崇敬を受け今に至っている。』 とあります。
一之宮として現在まで威容を誇りますが、大きな転機は徳川家康に味方した事。
戦とはいえ伝統ある建造物を焼くとは酷い話ではありますが、
戦後はきちんと復興に尽力しています。建物よりも人であったのでしょう。
それが勝利に繋がった訳ですから、家康の戦略は正しかったと言えます。

回廊の向こうに見える本殿

本殿

拝殿前から見た社殿

社殿

大鳥居横の「ことまち横丁」
うどん・甘味処など4店舗が入っている。

小國神社略記

明神通りパンフ

小國神社御朱印
[参考書]
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日本の神社 52号 (久能山東照宮・小國神社・秋葉山本宮秋葉神社) [分冊百科] 新品価格 | ![]() |

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【往路】JR大阪(6:43) → (丹波路快速) → JR柏原(8:22)
徒歩5分 → 柏原藩陣屋跡 → 徒歩5分 → 木の根橋 → 徒歩5分 → 柏原八幡宮 → 徒歩10分 → 歴史民俗資料館・たんば黎明館 → 徒歩10分 → JR柏原
【復路】JR柏原(11:38) → JR谷川(11:45→12:10) → JR社町(12:55→13:55) → JR加古川(14:31→14:37) → JR大阪(15:28)

陣屋前にある幼き頃の田ステ女像と句碑
・雪の朝 二のじ二のじの 下駄のあと
誰しも一度は耳にした記憶のある俳句ですが、いつ誰が詠んだのかは
意外と知られていない句でもあります。この作者所縁の地がここ栢原。

柏原歴史民俗資料館(左)と田ステ女記念館
陣屋前にある。陣屋と資料館・記念館共通で¥200。

記念館横のステ女の石像
作者は田ステ女(でんすてじょ)
『栢原藩の代官も務めた田季繁(でんすえしげ)の娘として寛永10年(1633年)に栢原に生まれる。
幼少の頃より才能を発揮し、上記の句は六歳の時の作である。
自ら綴った句集『自筆句集』には200以上の句が収められており、貞門派として当時から名の知られた女流俳人。
同じく貞門派であった松尾芭蕉とはほぼ同年代に当たる。
19歳の時、継母の連れ子の季成(すえなり)と結婚。五男一女をもうけ、その後も夫と共に俳諧を続けた。
42歳の時に夫が死去。ステ女は第二の人生を送ることを決意。
京都で出会った盤珪永琢に弟子入りし、師の寺・龍門寺のある網干に移住。
名も貞閑と改め龍門寺に近い不徹庵の主となり、尼僧達の中心的存在として、
元禄11年(1698年)66歳で世を去った。後に正岡子規は、ステ女を評して
芭蕉門下の園女・智月尼、其角門下の秋色女と並ぶ元禄の四俳女と称賛した。』 とあります。

像横のステ女句碑

寺院礎石や道標も展示

『旅愁』歌碑

歌碑説明
上記の句は、中学生の頃に子供が作ったと聞いたので、明治以降の人と思っていましたが、
遥かに古い江戸時代の女性で、芭蕉と同門であったのにも驚き。
生涯を通じて俳諧で活躍したようですから、『栴檀は双葉より芳し』の類でしょう。
それにしても「ステ女」とは大胆な命名。乳幼児死亡率の高かった近世以前は、
ことさら汚い字を名に付けて死が近寄り難くしたと言うのが一般的ですが、
一族の男性が季の文字で「スエ」と名乗っている事を考慮すれば、
スエからステに変化したとも思えますがどうでしょう?

碑を過ぎてたんば黎明館へ
柏原の観光名所は陣屋周辺と木の根橋周辺に集中している。といっても両者は歩いて5分とかからないが…。

黎明館正面
旧氷上高等小学校校舎として明治18年(1885年)に建築。

黎明館説明

玄関近影
玄関ポーチは幅3.5m、奥行2.7mで1階は吹放し。イオニア風の柱頭で装飾。

玄関のステンドグラス

入口から見た黎明館
多目的ホールの他、1階にはフレンチレストラン「ル・クロ丹波邸」、二階は南欧風ダイニングカフェ「TANBAR」が入る。

黎明館の階段付近
それよりも、66歳の生涯の濃厚な事。前半は家族と共に生き、
後半は仏門に生きるという、人生を二度生きた女性。
そのまま楽隠居もできたでしょうが、所詮人生なぞ云々という【諦観】があったのでしょうか?
駅前には田氏の銅像が立っていますが、彼もステ女の一門。
以前に国会議員をされていた田英夫氏も一族だそうです。

駅前にある田艇吉像
嘉永5年に下小倉に生まれ政治家を経て福知山線の前身の阪鶴鉄道を作った。
俳句や和歌の所縁の場所は、いずれも教育熱心な落ち着いた場所。
柏原市内も旧氷上高等小学校である「たんば黎明館」、
旧柏原尋常中学校である「柏陵記念館」のレトロな建造物が今に伝わっています。
ハイクで散策するには丁度良い街と言えましょう。

県立柏原高校内に建つ「柏陵記念館」

柏陵記念館説明

電車待ちの間、駅舎内にあるレストラン「山の駅」にて
これは限定「豚丼」¥1100。

デザートは丹波ロール ¥400

柏原のマンホール蓋
木の根橋をデザイン

丹波市マンホールカードはこちら
配布場所は木の根橋横の柏原観光案内所にて。
[参考書]
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徒歩5分 → 柏原藩陣屋跡 → 徒歩5分 → 木の根橋 → 徒歩5分 → 柏原八幡宮

柏原八幡神社(県社)
江戸時代は織田藩城下町として栄えた栢原ですが、それ以前は柏原八幡宮の門前町として発展。
平地にある陣屋からは鬱蒼と木々の生い茂る入船山の頂上に三重塔が見えます。
てっきりお寺かと思いましたが、そこが八幡宮。いまでは八幡山と呼ばれるその場所には、
町のシンボルでもある木の根橋を渡り、曲がりくねった石段を上る事5分。
石段を上る途中に社務所がありますが、ここが西の坊と呼ばれるかつての神宮寺。
明治の神仏分離令で神宮寺は廃寺となりましたが、三重塔や鐘楼が今に伝来。

木の根橋から見た八幡宮への入口
一の鳥居を過ぎ、石段を上り境内へ。

一の鳥居近影

石段から一の鳥居を振り返る

参道の石段
この曲がり角にあるのが旧神宮寺にあたる社務所

境内入口に到着
柏原八幡宮の由緒に拠れば
『舒明天皇の御世に出雲連がここ入船山の頂に素戔嗚尊を祀ったのが嚆矢とされる。
その後、万寿元年(1024年)に入船山周辺の三ヵ所から霊泉が湧出。
それを奇瑞とした後一条天皇の勅意に拠り国家鎮護として
京都の石清水八幡宮より御分霊を勧進し、丹波国柏原別宮として創建された。
万寿元年造営の社殿は、織田信長の丹波攻めの際に明智光秀の兵火に拠り焼失。
現在の社殿は天正13年(1585年)羽柴秀吉の命に拠り家臣の堀尾吉晴が再建したもの。
三間社造りの本殿に入母屋造りの拝殿を連接し、軒唐破風の向拝一間を張出す複合社殿で、
檜皮葺の屋根に箱棟、千木、勝男木を載せる。
本殿と拝殿が分離から複合に移行する過渡期の貴重な遺構で重要文化財に指定されている。

二の鳥居近影

二の鳥居から見た境内全景

柏原八幡宮由緒

重文・拝殿
入母屋造妻入、正面唐破風、檜皮葺で、安土桃山時代の建築。前の一対の狛犬は「丹波佐吉」の作。

拝殿正面の唐破風

唐破風下の亀と鳳凰の彫刻

拝殿に続く重文・本殿
福知山線からも見える三重塔は応仁年間に僧秀慶が創建したが火災で焼失。
文化12年(1815年)に再建された。鐘楼の梵鐘は明智光秀が
氷上町の高山寺から取り寄せたもので、康応元年(1389年)の銘が残る。
御神徳の中でも特に厄除けの御利益が名高く、「丹波柏原の厄神さん」として親しまれ、
2月17・18日の例祭は数万人の参拝者で賑わう。』 とあります。
ここも御多分に漏れず、戦国期に焼失。かつて御先祖が焼き討ちさせた町に
江戸時代に入部した織田家の人達はどんな心境だったのでしょうか?

本殿の後方に建つ鐘楼と三重塔
江戸後期1813年築の三重塔は総高23m。

鐘楼
「難逃れの釣鐘」、これも神仏混淆当時の名残である。

銅鐘
康応元年(1389年)と天文12年(1543年)の二つの年号が刻まれている。秀吉が大砲を鋳造する材料として集めたものの一つ。

三重塔の鶴の彫刻
他の三面にも鴛鴦・鷺・雁と鳥が彫られている。

三重塔説明
神社境内に塔があるのは全国でも18例しかなく、神仏習合の名残を留めています。
坂を上って神社までは程よいランニングコース。参拝途中もそのような年配者とすれ違いました。
重文の本殿は言うに及ばず、三重塔も含めた境内はいい雰囲気でしたが、
参拝者は至って少ない。御朱印を御願いする際、宮司さんに伺いましたが、
宮司;「厄除け神社の時は多いのですが、普段は至って静かですよ。」
和辻;「丹波の寺院と同様に、お勧めはやはり秋ですか?」
宮司;「ここは冬に来て頂ければ、また印象が変わると思います。」
との事でした。

三重塔から見た本殿

社務所横の社の欄間彫刻
これは司馬光の甕割りの図。
丹波の名所は駅から離れた場所が多いですが、駅から徒歩10分程度で行けるのは便利。
しかも程よい街なので、食べる場所にも不自由しません。
丹波の小京都といえば篠山ですが、ここはもう一回り小さくした小々京都と言った所でしょうか?
厄除け神社ということで、コロナ退散も祈願。
面白いのは無料で「アマビエ」の厄除け絵画を配っていたので、私も御利益を願って1枚持ち帰りました。
次に冬に来るときにはアマビエの神通力でコロナが終息し、
雨冷えのする城下町でアマエビに舌鼓を打ちたいものです。

柏原八幡宮由緒

柏原八幡宮オリジナル御朱印帳
大型サイズ この他に緑、青、金と計四色のバージョンがある。

柏原八幡宮御朱印

アマビエ護符
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徒歩5分 → 柏原藩陣屋跡

柏原のシンボル「木の根橋」
旧国鉄には駅名を重複させないというルールがあったようで、もし同じ駅名があったなら
旧国名を入れて、郡山(福島県)と大和郡山(奈良県)と言う具合に区別していました。
にも拘らず「柏原」の表記が三駅あるとは何とも不思議ですが、東海道線は「かしわばら」、
関西本線は「かしわら」、福知山線は「かいばら」と読み方で区別しています。
福知山線の駅は元来「栢原」だったのが、明治になって難解漢字を変更するという方針で
柏原表記になったそうですが、他の漢字を充てるという考えはなかったのでしょうか?
三駅はいずれも観光地化していませんが、福知山線の駅が城下町だった事は意外と知られていません。
三万石以下で城もありませんが、城主は織田信長に連なる名家です。

JR柏原駅スタンプ(JR西日本福知山支社)
上;国鉄最後の「わたしの旅シリーズ」
下;2006年JR西日本管内で設置されたもの
駅を降りて改札を出ると、昔花博で見た山の駅が…。
なんでも花博のあと、開催地の駅舎をJRが譲り受けたそうで、小浜線の大飯駅もそうです。
駅からは案内標識があるので迷うことなく城下町散策ができます。

花博「山の駅」を移築したJR柏原駅舎

駅前にある「やぐら公園」
城下町にある太鼓櫓を模したものか?

櫓上部の太鼓と人形

国道176号線沿いに建つ新町高灯籠

高灯籠説明
栢原藩は、『慶長3年(1598年)、信長の弟である信包(のぶかね)が、
丹波国氷上郡に3万6千石を与えられたのが始まり。
その後、子供の信則(のぶのり)、孫の信勝(のぶかつ)と直系で三代続くが、
慶安3年(1650年)、信勝が嗣子なくして没すると廃絶。領地は旗本の分割する所となった。
その後、大和松山藩の織田家に御家騒動が勃発し、信長の次男・信雄の玄孫に当たる
信休(のぶやす)は2万8千石から2万石に減封され栢原に国替えとなった。
ここに栢原藩は半世紀ぶりに織田家を当主に頂き、
明治の廃藩置県に至るまで10代に亘りこの地を治めた。』 とあります。

正徳4年(1714年)創建の長屋門
向かって左が番所、右が馬見所と砲庫になっている。

長屋門は陣屋の表門に当たる

長屋門から見た柏原陣屋跡
文政3年(1820年)の再建。

陣屋玄関の近影

玄関の欄間にある織田家紋「丸木瓜」

玄関から内部拝観へ
造営された正徳4年(1714年)の陣屋は二万㎡の敷地に、表・中・奥の三御殿や藩校が存在した。

陣屋内部
城と言うよりも書院と言った方が相応しい造り。

上段の間

陣屋向こうに見える庭園

陣屋玄関から柏原八幡宮の三重塔を望む

陣屋前にある藩祖・織田信包(のぶかね)公像

信包公事績
城こそありませんが、歴代の織田家が居住した陣屋が今に残ります。
また市内には織田神社や健君神社も祀られていました。
織田家が治めたと言っても直系ではなく、信包に始まる三代を前の織田家、
信休以降の十代を後の織田家と呼び区別しています。
後の織田家は血筋的にはより信長に近いですが、前の織田家が割合に善政を敷いたのとは対照的に、
後の織田家は財政難や一揆が頻発。
5代目以降に漸く好転しますが、5・6代藩主は細川家、黒田家からの養子。
やはり血筋だけに頼っていては駄目なようです。
それでも改易されることなく幕末まで続いたのは信長の御威光の故でしょうか?

元禄8年(1695年)創建の建勲神社
織田信長を祀る。陣屋から木の根橋に向かう大手通りにある。

木の根橋へ向かう
ここら栢原の中心市街地になる。

木の根橋横にある丹波市柏原支所庁舎
旧柏原町の役場として昭和10年(1935年)竣工。現在は丹波市役所柏原支所として一部観光協会も入っている。

大欅「木の根橋」
樹齢1000年の高さ21m、幹回り8mの欅の根が幅6mの奥村川を跨いで自然の橋を形成している。

朱塗橋から木の根部を見る

木の根橋横の織田神社
柏原藩三代目織田信勝を祀る。

織田神社由緒

太鼓やぐら
江戸中期建立の三階建ての櫓。最上階には「つつじ太鼓」という大太鼓があり、時報や火事大水の警報、登城合図に打ち鳴らされた。

太鼓やぐら説明

柏原郵便局 ; 木の根橋
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【往路】JR天王寺(5:35) → (関西本線) → JR加茂(6:54→6:55)→ JR亀山(8:16→8:23) → (紀勢本線) → 伊勢市(9:56→10:20) → JR鳥羽(10:38) → 徒歩15分 → 金胎寺 → JR鳥羽(12:02) → JR伊勢市(12:15) → レンタサイクル10分 → 中山寺 → レンタサイクル15分 → 松尾観音寺 → JR伊勢市(15:56) → JR一身田(16:16) → 徒歩5分 → 専修寺 → JR一身田(17:25) → JR亀山(17:41→17:43) → JR柘植(18:08→18:11) → (草津線) → JR草津(18:58→19:06) → JR大阪(19:57)

高田山 専修寺(浄土真宗高田派本山)
寺内町散策の後は、いよいよその中心へ。本丸ならぬ本山です。
高田山専修寺(たかださんせんしゅうじ)は、
『浄土真宗十派の一つである高田派の総本山。
元々の専修寺は、嘉禄元年(1225年)開祖・親鸞聖人が関東各地を教化中に
下野国芳賀郡(真岡市)に一宇を建立し、専修念仏の根本道場としたのが始まり。
起源については、明星天子の夢のお告げと伝わるが、実際は真岡城主・大内氏の依頼に拠るとされる。

西の桜門跡から寺内を望む

西口から寺内町通りを見る

寺内町通り西にある重文・唐門
如来堂正面に建つ四脚門で、檜皮葺屋根の正面・背面共に大きな唐破風があるのが由来。天保15年(1844年)の建築で、完成までに35年を要した。

唐門説明

境内から見た唐門の組物と彫刻

唐門扉の牡丹の彫刻
その管理を任されたのが親鸞直弟子二十四輩の第二座にあった真仏(しんぶつ)上人であったため、
真岡を中心とした教団は関東でも有力となり「本寺」として全国から崇拝を受けた。
この教団は高田専修寺の第十世の真慧(しんね)上人の時代に一段と飛躍する。
寛正5年(1464年)、真慧がこの伊勢の一身田に無量寿院を建立。
戦火で焼失した高田専修寺に代わり、東海北陸地方の布教の中心とした事が、
高田派の、強いてはこの町の発展に繋がった。記録に残る最古の資料は天正20年(1592年)のものである。
唯、下野の専修寺も元寺と言う事で本寺、一身田は本山と呼ぶのが定着した。

唐門下から見る国宝・如来堂

御影堂の正面に立つ重文・山門
宝永元年(1704年)築の入母屋造・本瓦葺の二階建ての門で専修寺の総門。寺院の門としては最高の格式で楼上には釈迦三尊像を安置する。

山門の説明

山門脇には明治天皇行在所の碑が

境内から見た山門
「指肘木」などの大仏様の建築様式を取り入れている。

山門下から見た国宝・御影堂
その頃の寺域は現在の半分位であったが、天正8年(1580年)、正保2年(1645年)と
二度に亘り伽藍が焼失。
万治元年(1658年)津藩二代藩主・藤堂高次の四女・いと姫が専修寺の門主に輿入れする際に
土地の寄進を受けたことで約9万㎡の広大な寺域を得、
町へ入る赤門・黒門・桜門を整備するなど寺内町の形成を行った。

広大な境内

寛延元年(1748年)建築の国宝・如来堂
隣接する御影堂の半分の広さだが教義上はここが本堂で、「証拠の如来」と呼ばれる重文・木造阿弥陀如来立像が本尊。

側面から見た如来堂の外部組物
御影堂とは右側の通天橋で繋がっている。完成2年(1800年)建築の通天橋も重文。

寛文6年(1666年)建築の国宝・御影堂
親鸞聖人の木像、歴代上人の画像を安置する。入母屋造・本瓦葺の純和様で内部は780畳の広さを誇る。

御影堂前面の組物

御影堂前面にある欄間の麒麟の彫刻

横から見た御影堂と屋根の装飾
寛文6年(1666年)には全国屈指の大きさを誇る御影堂が、同12年(1672年)に御廟、
宝永元年(1704年)に山門、寛延元年(1748年)に如来堂と、幕末に至るまで
境内には種々の建物が造営され伽藍の形式を整えた。
明治以降は廃仏毀釈の余波で多くの寺域を失うが、環濠がほぼ完全な形で残り、
多くの寺院や古民家の佇まいを今に伝える。
平成29年には御影堂と如来堂が国宝に指定された。』 とあります。

山門を入ってすぐ右手にある重文・茶所
入母屋造で西側正面に唐破風造りの向拝を設けている。今でも茶の接待が受けられる。

重文・鐘楼
梵鐘は慶安5年鋳造の銘が残る。今は御堂の勤行前に撞かれるのが習わし。

鐘楼と梵鐘の説明

御影堂から続く進納所

御影堂の北東に位置する重文・大玄関
天明3年(1783年)の火災後再建。明治11年に現在地に移転した。

重文・御対面所
大玄関の東に続く。大正元年までは法主が檀信徒に対面する場所であった。
真宗は派が多いのは知っていましたが、派に拠り特色があるのには吃驚。
【十派一絡げ】にするわけにはいかないようです。栄枯盛衰は世の習いとはいえ、
廃れた元寺を本寺として敬意を表している?事には感心。
このような懐の深さも民衆には受け入れられた理由にはなったかと思います。

食堂(じきどう)
僧侶が食事するのか、檀家が食事をするのか?

婦人会館
それよりも境内の広大さと伽藍は壮大の一言。かつて訪問した京都の西本願寺に似た印象でした。
それでも観光客の違いは雲泥の差。駅で降りた人も地元の人が数人、観光バスも入山している様子はなし。
観光よりも檀家の方々の場所と言った所。
25年前には気付かなかった店もちらほらと…。早速食べる処ですが、時刻が15時過ぎだったため殆どの店が閉店。
県庁所在地の津駅から一駅ですが、鉄道が1時間おきというのがネックなのでしょう。
これだけ国宝と重文が多いと今回で【じゅうぶん】とはいかず。次はもう少し早く来ようと
一日【専修】の思いに。お寺も【三重へどう?】と言ってくれる気がしますが…。

寺の東にある重文・太鼓門
左右に長屋が付く四重の楼門で、かつては町の人々に時刻を知らせる太鼓が打たれた。

太鼓門説明

外から見た太鼓門

境内の蓮池

専修寺説明書

専修寺御朱印(平成7年拝受)
現在では真宗寺院は御朱印をしない所が多いが、専修寺は例外的に多種類を行っている様子。
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一身田寺内町散策マップ
伊勢の寺巡りを終えた後は紀勢本線で亀山まで戻りますが、
夕刻には1時間程度余裕があったので一身田駅で途中下車。
ここは浄土真宗高田派の大本山専修寺があり平成7年に訪問済。
なんでも最近国宝に指定されたそうで、これは再訪しないといけません。
当時は有人駅でしたが、今は無人化。県庁所在地の津から僅か1駅下っただけですが、
最寄りのJRの運行も1時間に1本というのがネックで乗降客も殆どなしでした。

JR一身田駅舎(JR東海)
大正12年(1923年)建築。瓦葺の屋根の前面に回廊のような庇を持ち寺院を連想させる造りとなっている。

平成7年押印のJR一身田駅スタンプ
下は国鉄時代の「わたしの旅」シリーズ、上はそれ以前のもの。
寺院参拝に先立ち町内散策。ここは専修寺の門前町として寺内町が形成されています。
一身田寺内町は
『奈良時代の723年に発令された『三世一身の法』の中にある、
その身一代に限って与えられた田と言うのが一身田の地名の由来。
以降は農村地帯として発達したが、大きく変わる契機になったのは戦国時代。
栃木県にあった高田専修寺の第十世の真慧上人がこの地に無量寿院を建立。
戦火で焼失した高田専修寺に代わり、東海北陸地方の布教の中心とした事が、
高田派の、強いてはこの町の発展に繋がった。記録に残る最古の資料は天正20年(1592年)のものである。

環濠に架かる朱の橋を越えて寺内町へ
町の西口に当たり桜並木があったため桜門と呼ばれた。左奥にあるのが専修寺。

寺内町全図

専修寺のすぐ南を東西に走る寺内町通り

玉保院
通りを隔てて専修寺山門前に立つ。通称「東院」

智慧光院
同じく山門前に立つ。こちらは通称「西院」。
その後、正保2年(1645年)に伽藍が焼失したが、伊勢藤堂藩より土地の寄進を受けたことで
万治元年(1658年)伽藍を復興。それに伴い専修寺を中心に環濠を巡らし、
町へ入る赤門・黒門・桜門を整備するなど寺内町の形成を行った。
濠で囲まれた範囲は東西500m、南北450mであり、幅は狭くなってはいるものの、
総延長は江戸時代の記録に一致している。

石橋と釘抜門
専修寺山門の南にあり、これを境に寺内(聖域)と地下(庶民の生活域)に区切られた。

説明文
寺内町は三つの門で管理されており、明け六つ(午前6時)に開き、
暮れ六つ(午後6時)に閉門されたと伝えられる。
明治以降は、境内と墓地以外の多くの寺領を失い、
明治7年には山門も売りに出された記録が残る。
しかし現在でも、環濠がほぼ完全な形で残り、専修寺を中心に
多くの寺院や昔の人家の街並みを残している。』 とあります。

寺町通りに面した下津家長屋門

慈智院
専修寺の東に建つ。一身田で最も古い建築とされる。

慈智院説明
25年前の訪問では専修寺の大伽藍は覚えていますが、街並みは殆ど記憶になし。
大きく変わってはいない筈ですから、自身に興味と知識がなかったからでしょう。
商業施設の記憶もないですが、門前には洒落た喫茶・食事のできる店ができており、
そこそこの繁盛ぶり。私のように鉄道を利用する人は殆どいませんが、
自家用車やマイクロバスでの来場が多いようです。
寺内町の東には案内所があったので早速訪問。
係の方が居られたので、パンフ類は頂きましたが、15時閉鎖のため見学はできず。
一般の観光地は16時まで開いている施設が多いので、油断してしまいました。
環濠は残っているものの、観光はまだ途上のようです。

道標

環濠に架かる橋
この付近がかつての黒門跡

環濠の説明

寺内町通りから一筋南の通り
商家が軒を連ねる。
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龍池山 松尾観音寺(単立寺院 伊勢西国三十三ヵ所第三番札所)
中山寺参拝の後は参宮線沿いに東へ向かい、神宮徴古館を過ぎ、
倉田山と呼ばれる丘陵地を上り野球場を過ぎた所にあるのが目指す寺院。
赤い橋を目印に左折すると、山門はなく石段の上に堂宇がありました。

朱い橋がお寺の目印

石段の上に境内が広がる
龍池山松尾観音寺(りゅうちざんまつおかんのんじ)は、
『和銅4年(712年)、行基が伊勢参宮の折に、夫婦の龍神が棲むと言い伝えられる「二つ池」を訪ね、
自ら十一面観音菩薩、毘沙門天、地蔵菩薩の三尊像を刻み池の畔に堂宇を建立し安置したのが始まり。
その後は、伊勢国司北畠家の祈願所として崇拝され、末裔の木造(こつくり)家が代々守護し現在に至る。
創建以来、本山も末寺も檀家も持たず、いずれの既成宗派にも属さない単立寺院という立場を守り続けている。

境内全景

鉢植えの蓮の向こうにある納経所
コロナのため書置きで対応との事。

本堂
本尊は十一面観音坐像だが、秘仏。火災に遭ったから火仏か?
応永10年(1403年)、寺院が火災に遭った際には二つ池から夫婦の龍が現れ、
雄龍は炎を飲み込みながら観音様を自らの体で幾重にも巻き付け、
雌龍は何度も池の水を吹きかけ三尊像と本堂を守った。
それ以来、厄除け・縁結び・子授け等の祈願で多くの参拝者が訪れるようになった。

本堂正面

本堂前面の造り

写経を納めた本堂屋上の擬宝珠
昭和29年の大改修の際に、一万巻の般若心経が発見された。
昭和57年(1982年)には龍神伝説に因み、本堂脇に300本のキリシマツツジを昇龍の形に植えた。
これは龍神庭園として春には紅白の花を咲かせ親しまれている。

本堂横を抜け龍神庭園へ

昇龍の形に植えられたキリシマツツジ
頭と思いきやこちらは尻尾

龍神庭園説明

境内の最奥に建つ聖観音堂(護摩堂)
宝を授けて下さると言う聖観音様を祀る。
また平成18年(2006年)に本堂の床板を新しくしたが、
1年ほどしてから龍に似た模様が現れるようになった。
今では床龍神(撫で龍)として新たな龍神名所となっている。』 とあります。

本堂正面欄間の彫龍(説明書より引用)
欅の一刀彫。

本堂床の床龍神

床龍神の説明
子授け祈願は木造(こつくり)家の故でしょうか?厄除けに限らず、あらゆるご利益がありそうですが、
これも葬儀・供養等を一切行わない「祈願寺」という特異な形態をとっていることもあるようです。
龍は架空の動物ですが、寺院の東側に二つ池が仲良く並んでいる事、
家事の際にはそこから水を汲んで消火活動を行ったことが、龍神伝説になったので【しょうか】?
地元の夫婦が消火活動に当たったとも言えますが、二人ではやや不足の感があります。
庭園は人工的なものですが、床板は偶然の要素が強いでしょう。
本堂内陣は撮影禁止ですが、ここだけはOK。近くで見ると龍に見えるから不思議です。
犬にも見えますが、そこは見る人の心掛けに拠るのでしょう。龍もここまで揃うと圧巻です。

松尾観音寺説明書

松尾観音寺御朱印
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神護峯 中山寺(臨在宗妙心寺派 伊勢西国三十三ヵ所第五番札所)
鳥羽から伊勢市まで列車で戻ると丁度昼過ぎ。
今日は土用の丑なので「う」で始まる三文字で腹ごしらえ。
美味し国と呼ばれる伊勢ですが、美食は多いものの値段もそれ相応。
こんな時には、出来上がりも早く財布にも優しいものは貴重と言えます。
食後に立ち寄った観光案内所には「伊勢なのに寺巡りツアー」のパンフがあり、
伊勢市内の札所三ヵ寺をバスで巡るもの。伊勢市に来る観光客の大部分は伊勢神宮参拝でしょうが、
これからは違った趣向も準備しているようです。この後、レンタサイクルで札所巡り。

JR伊勢市駅舎
落ち着いた和風の造りだが新しい。

近鉄宇治山田駅舎
もう一方の伊勢路の玄関で、こちらはレトロな洋風建築。文化財指定。

JRの直ぐ前にある店にて昼食

伊勢うどん&松坂牛しぐれ巻(4貫) ¥1,200

寺巡りツアー案内
神護峯中山寺(しんごほうちゅうざんじ)は、
『慶安4年(1651年)、伊勢亀山藩主・石川昌勝が願主となり、神宮の外宮・内宮の中間の地に創建。
妙心寺第137代住持の愚堂東寔(ぐどうとうしょく)を招き開山とした。
明暦2年(1656年)創建とされる本堂は、本瓦葺・寄棟造で古式方丈建築の
様式を残しており、堂内には開山、二代目の木像及び円空仏4体を祀る。

中山寺入口
外宮前の御木本道路から少し中に入るとこの静けさ。

中山寺沿革

文化財である山門

山門前の仁王像

山門に掲げられた山号の扁額
山門正面にあるのは釈迦八部衆の一人である乾達婆神(けんだつはじん)
を祀る乾達婆堂で、小児の疳封じに300年の伝統を誇る。
本堂と乾達婆堂の間にあるのが観音堂と地蔵堂で、明治初期に廃寺となった
蓮台寺の十一面観音菩薩を迎えたことから伊勢西国第五番札所となった。
本堂と山門、経堂が文化財に指定されており、宗派県下第一の古刹である。』 とあります。

境内の様子

山門正面にある乾達婆神(けんだつはじん)を祀る乾達婆堂

乾達婆堂に架かる「降魔殿」の扁額
小児の疳封じに300年の伝統を誇る。

横から見た乾達婆堂
場所は駅から南へ行った小高い丘にありますが、地図を見ると外宮と内宮のほぼ中間。
寺号は中間の山由来、山号は宮を守護する寺だからでしょう。
金胎寺が荒れて少し寂しいのに対し、中山寺は整備されて落ち着いた印象。
鳥羽と伊勢の差に拠るのか、立地条件に拠るのかは不詳です。
西国巡礼札所なので観音様が居られる筈ですが、観音様は間のお堂にひっそりと祀られていました。
外宮と内宮の中間にある寺院ですが、西国御本尊も本堂と乾達婆堂の中間にある中間づくしの札所でした。
中庸という仏の教えでもあるのでしょうか?中途半端なら困りますが…。

正面から見た本堂
円空仏もここに祀られているはずだが、年1回しか拝観できず。

本堂前から観音堂・地蔵堂を見る

観音堂(左)と子安地蔵堂

一番奥に建つ天神堂

境内の桔梗

中山寺御朱印
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慈眼山 金胎寺(真言宗御室派 伊勢西国三十三ヵ所第六番札所)
コロナの影響で近場にある河内西国札所を巡礼していますが、
以前に三重で貰ったパンフに伊勢西国札所もある様子。
調べてみると平安時代前期まで遡り、その後、再編成を経て今に続いています。
神の宿る地として有名な伊勢ですが、そのような古刹があるのも意外でした。
大阪から伊勢へは近鉄電車を利用するのが定石ですが、
この日は夏の青春18きっぷで大回りしながら終点の鳥羽からスタート。
リアス式海岸で知られる海の街ですが、駅から徒歩で15分程南西に歩き、
道路沿いの案内板に従って細い石段を上った山麓に札所は鎮座。

道路から続く細い石段が入口

不安になりつつも幟に従って更に奥へ

最後の石段を上ると境内へ

石段を上った先から市内を見下ろす
慈眼山金胎寺(じげんざんこんたいじ)は
『天長年間、弘法大師が伊勢両宮、朝熊山金剛證寺に参禅された後、この地に杖を留めたのが嚆矢。
天正年間には鳥羽領主であった九鬼嘉隆が鳥羽城築城の際に鍋ヵ崎から観音堂を移築。
観音山に堂宇を建立した。朝鮮出兵の際には武運・航海安全の崇拝篤く、
江戸時代の寛文5年(1665年)には領主・内藤忠政に拠り二の丸余材を用いて本堂が再建された。
慈眼山観音院と名が改められたのはこの時である。
明治維新後は大山祇神社にあった金胎寺、潮満寺を当院に合祀。
名も慈眼山金胎寺と改称。本尊は黄金の秘仏を腹蔵した一丈一尺の千手観音である。
しかし平成7年に原因不明の火事で本堂、仏像、古文書等を悉く焼失。
再建に向けて現在は仮本堂で参拝を行っている。』 とあります。

石段正面に立つ仮本堂

仮本堂前面と扁額
御朱印の書置きはここで拝受。

かつての本堂の跡地
再建に向けて準備中との事。

仮本堂の奥を抜けて八十八ヵ所巡礼へ

高台にある八十八ヵ所
境内では年配の男性が清掃中。御住職かと尋ねると、地元のボランティアの方で、
御住職は他寺と掛け持ちなので常駐ではありませんでした。
焼失した本堂跡は再建に向けて準備中との事でしたが、雑草が生えており
もう少し時間が掛かりそう。代わりに仮本堂と裏手の新四国八十八ヵ所を巡って来ました。
寺域は山に続いていますが、境内はむしろ狭い状態。
しかし境内からは鳥羽湾を見渡すことが出来、海の寺という印象を強めました。
真珠と海女さんで有名な鳥羽ですが、金胎寺と言う名は真珠を育むアコヤガイの姿を現すような気がしました。

高台から見た仮本堂

高台から見た本堂跡

お大師様の石像もマスク姿

境内から見た市内と鳥羽湾

金胎寺御朱印
右が伊勢西国巡礼のもの。
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<コース> 近鉄南大阪線は日中10分間隔、近鉄バスは30分間隔で運転
梅田 → (地下鉄御堂筋線) → 天王寺 → 大阪阿部野橋 → (近鉄南大阪線 準急10分) → 河内松原 → 河内松原駅前 → (近鉄バス北野田線 15分) → 今井 → 徒歩5分 → 法雲寺

大寶山 法雲禅寺(黄檗宗 河内西国三十三ヵ所第六番札所)
この日は梅雨の中休みと見越して、残り少なくなった河内西国を一ヵ寺巡礼。
所在地は堺市美原区ですが、電車では近鉄電車、南海電車から
いずれも3㎞程度離れた場所にあるためバス移動。

近鉄阿部野橋駅ホームに停車中の吉野の青
住宅地に囲まれた小さな寺院を想像していましたが、バス停で降りると
大きな寺への案内板がありそれに従っていくと広大な境内が目の前に。
今井バス停から行くと南門に行きますが、ここは裏門。
表門は西除川に面した南西にある山門で、川に架かる橋も「ほううんじ橋」とこちらが玄関に当たります。

南門(裏門)
今井バス停から歩くとこちら側に出る。

南門の山号の扁額と中国要式崩し卍

西除川に架かる「法雲寺橋」

法雲寺入口全景

中国色の山門

山号の扁額
大寶山法雲禅寺(たいほうざんほううんぜんじ)は、縁起に拠れば
『黄檗三傑の一人、慧極道明(えごくどうみょう)禅師が寛文12年(1672年)に開山。
弘法大師が開いた神福山長安寺と称する真言宗の大寺院が前身であったが、
元和6年(1620年)の西除川の氾濫で流出。その後、変転を重ね、
寛文11年(1671年)曹洞宗の僧・宗月が霊夢に拠って地中より観音像を掘り出して草庵に安置。
翌12年に隠元の弟子である慧極禅師に来往を請い寺と土地を譲渡。
それを受けて慧極は寛文13年に幕府の許可を受け、山号を大寶山法雲禅寺とし黄檗宗に改宗した。
禅師は後水尾天皇、徳川四代将軍家綱、狭山藩五代藩主北条氏朝を始め
各地の人々から帰依を受け、48ヵ寺の開山となり中本山としての法雲寺の礎を築いた。
現在、広大な境内には異国を思わせる山門を始め、天王殿・大殿(本堂)・開山堂・耀先殿など
黄檗様式独特の伽藍を今に伝えている。』 とあります。

境内案内図

境内から振り返った山門

七福神
山門を過ぎて直ぐ右手に五福神を祀る。

七福神安置の由来
天保の飢饉を鎮めた神通力に拠るとか。

毘沙門天像

弁財天を祀る鎮守堂
「大寶山」の扁額がある山門は中国色が濃厚。
伺った話では大本山萬福寺の山門をモデルにしたとか。
山門を進むと道路の喧騒もなく、剪定された樹木と季節の花々に囲まれた堂宇は禅の境地。
余りにも広いので所々に案内板がありそれに従って移動する事となりました。
山門を進むと先ず現れるのが天王殿。四方に四天王が安置され
侵入者から寺を守っているのでこう呼ばれます。
正面には布袋尊があり「弥勒菩薩」とあるのは、布袋さんは
弥勒の化身と考えられているからで、黄檗宗独自の様式だそう。

六角堂

参道を進むと正面に天王殿が

天王殿正面に祀られる弥勒菩薩(布袋尊)

四方に祀られた四天王像
更に御住職の作製された飛び石を進むと本堂となる大雄寶殿。
御本尊は釈迦・薬師・阿弥陀の三如来ですが、周囲には小さな尊像を配し、
その数三千三百三十三体。木彫りに金箔を施した逸品で、
貞享元年(1684年)大坂の豪商今津浄水居士が寄進。
【燦然】と輝くお姿は【参禅】者には眩いばかりですが、広大無辺な三千世界を表すそうです。

天王殿を更に進むと大雄寶殿(本堂)

住職が製作された参道の飛び石

庭越しに見た大雄寶殿

本堂前面の造り

本堂の扁額

本堂の内陣

本堂内の三千三百三十三体の本尊(河内西国札所より引用)
かつて掘り出された観音像は秘仏ですが、その徳を讃えて本堂前には
約10mの厄除大観音菩薩が建立され燦然と輝いているのが見えます。

本堂前から天王殿を見る

台座を含めて約10mの厄除大観音
本堂の北には狭山藩主北条家の墓所があり、東には北条家の位牌を祀る耀先殿、
慧極禅師の古稀を祝って建立された開山堂があり、回廊で先の【方丈】に続いていました。
回廊脇に【放生】池があったのはご愛敬。

本堂裏手の墓所

狭山藩主・北条家墓所

本堂から方丈へ続く廻廊

廻廊北側の建造物群

北条家の位牌を祀る耀先殿

開山堂
開山・慧極禅師の古稀を祝って建立された。内部に禅師の像を安置する。

開山堂前の彫刻

廻廊の突き当りに建つ方丈

方丈から廻廊を見る

廻廊に吊るされた魚梛
叩きすぎて摩耗している。

方丈南の慧極殿
奥に見えるのは鐘楼。

慧極殿の扁額と崩し卍の格子

鐘楼

放生池越しに見る天王殿
黄檗宗の寺院であり格式も高いですが、境内を巡ってもそのような堅苦しさは微塵も感じられず。
狭山藩主の墓所ですが、狭山は1万石の小藩なので
一般庶民からの寄進・援助で成り立った部分が多かったと想像します。
境内の南側には七福神が祀られていますが、これも七福神に拠って
天保の大飢饉が鎮まった事に拠るとか。そういえば、中世の堺は町衆の力が非常に強かった場所。
そのDNAが連綿と続いているようでした。

法雲禅寺 ご案内

法雲寺御朱印

堺美原郵便局 ; 黒姫山古墳、日本鋳物師発祥地碑
[参考書]
やすらぎの古里 河内西国巡礼 こころの散策ガイド
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