<コース> 京阪電車は10分間隔で運転
淀屋橋 → (京阪特急) → 中書島 → 徒歩5分 → 長建寺 → 伏見酒倉 → 油懸地蔵 → 松本酒造 → 大黒寺 → 丹波橋 → (京阪電車) → 伏見稲荷 → 徒歩5分 → 伏見稲荷大社 → 石峰寺

百丈山 石峰寺(黄檗宗)
伏見稲荷の奥社に参拝した後は、手前の奥宮から細い道を南下。
“ぬりかべ”ならぬ“ぬりこべ”地蔵と書かれた看板を過ぎて住宅街の一角に、小さな参道と石標が。
石段を上り詰めると黄檗宗の中国風な竜宮門が見えてきます。

道に面した参道
知らずにスルーする人も多い?

入口にある由緒記

更に石段を上る

竜宮のような山門
手前の立て札は「五百羅漢の撮影・模写禁止」の旨を記す。
百丈山石峰寺(ひゃくじょうざんせきほうじ)は、
『宝永年間(1704~1711年)、黄檗宗萬福寺第六世・千呆性侒(せんがいしょうあん)禅師に拠り建立された禅道場。
元々の石峰寺は摂津国多田荘にあったが兵火に遭い寺は焼失。本尊のみ難を逃れて
五条大橋東の祠に祀られていたのを、千呆禅師が今の場所に移したとされる。
本尊の薬師如来は昭和54年(1979年)の放火で焼失。
昭和60年(1985年)の本堂再建時に釈迦如来になり今日に至る。

山門の扁額
最初は分からなかったが、御朱印を拝受して「高着眼」と書かれた事に気付いた。

山門から市街を望む
因みに門は西向き。

山門下から境内を望む
正面が本堂で境内には草木が多く植えられている。
安永年間(1772~1782年)の半ばより画家の伊藤若冲が、第七代密山和尚の協賛を得て
裏山に五百羅漢を作成。若冲が釈迦一代記を表した下絵を描いたものを密山が制作したもので
完成まで十余年を要した。当時は千体以上あったが現在は四百余りが現存。
表面の摩滅が進んでいるが、その苔むした表情からは完成時の面影が偲ばれる。

本堂正面から
奥に見えるのが釈迦如来。

本堂前面の造りと庇

本堂扉にも卍彫刻が

本堂の「石峯寺」の扁額
若冲は生家が天明8年(1788年)の京都大火に遭った後の寛政2年(1790年)に当寺に
草庵を結んでいたが、完成12年(1800年)に85歳の生涯をこの草庵で終え当寺に葬られた。
墓の横には書家貫名海屋(ぬきなかいおく)の撰文の筆塚が建っており、
2000年以降、毎年9月10日に若冲忌が行われている。』 とあります。

本堂手前の勾欄の崩し卍

本堂より山門を振り返る

本堂屋根の瓦には「石峯禅寺」の文字が

本堂屋根
鍵のような物は何だろう?
竜宮門の先にあるのが再建された本堂。前面の造りには崩し卍などの中国風様式がありますが、
内陣からは新築の建材の様な香りが。
拝観・御朱印を御願いした際に住職夫人に尋ねた所、
夫人;「本堂ではいつも線香を焚いているのでその香りでしょう。」
との話でした。
和辻;「若冲は石にデザインしただけですよね。10年は時間が掛かり過ぎでは…。」
夫人;「気に入った石を北白川から運んで裏山に並べます。それを眺めながらデザインを決めていったので時間が掛かったのだと思いますよ。」

本堂脇の道を上って五百羅漢に向かう

羅漢参道の先に唐門が見える

唐門近影

石仏五百羅漢 (石峰寺説明書から)
釈迦の誕生から入滅までを題材に。これは賽の河原の場面。
芸術センスは全くない私ですが、真の芸術とは時間を決めて制作するのではないという事でしょうか。
これだけ時間を掛けてデザインした若冲も凄いですが、それを急かさずに完成させた住職の密山もエライ!
若冲は洛中から出て、晩年にはここに草庵を結びましたが、その【草案】はその時に出来上がっていたのでしょう。
最近の若冲人気は眼を見張るものがあるますが、彼の聖地ともいうべき場所はいたって静か。
じっくり羅漢像と対話することができました。

若冲の墓と幕末の書家・貫名海屋の撰文に拠る筆塚

境内に咲く白彼岸花
唯、残念なのは屋外にも拘らず写真撮影禁止であること。仄聞した処、
「かつては自由に撮影・模写できましたが、あるとき石像に悪戯した輩が居たずら。」
との事。
一部の心無い人のせいですが、そんなことをした【らあかん】ですよね。

石峰寺説明書

石峰寺御朱印
右は羅漢像が描かれた吸い取り紙。

伏見西浦郵便局 ; 石峰寺山門、石造五百羅漢像
[参考書]
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伏見稲荷大社(式内社 旧官幣大社)
伏見稲荷は背後の山全体が御神体なので正式に参拝するとなると、1時間余りかけて山を一周しなければなりません。
子供の頃、初詣はいつも伏見稲荷大社。しかも家の神様を祀っているのは山頂付近なので、
三が日はいつも耐寒遠足に行くようなもの。帰りに参道で食事をするのが唯一の楽しみでした。

本殿横の石段を上り奥社へ
正面は三の鳥居?右は権殿。

鳥居左にある社務所
この日は時間の関係で山頂行きはなしでしたが、その手前の奥社まではと参拝。
距離は数百mですが、そこに行くまでに通るのが千本鳥居。
境内に建つ鳥居は約一万本なのでその1割。子供の頃から知っていたので、
気にもしませんでしたが最近はインスタ映えする場所として人気が高いようです。

奥宮横にある千本鳥居
ここから奥社へ向かう。

千本鳥居を行く
上りと下りでくぐる鳥居が異なる。

奥社に到着
ここで二つ目の御朱印を拝受。
これらは祈願と感謝の証として奉納されたものが大部分。朱色は古代から魔力に対抗し
生命力を象徴する色とされてきました。恐らく血の色に由来するのでしょう。
加えて鳥居には願いが「通る」にも通じています。これが所謂【朱の起源】です。
奥社の脇にあるのが「おもかる石」、ここも観光名所で多くの人が並んでいましたが、
どちらかと言えば若い人が多かったようです。

おもかる石を持ち上げる人達
軽いと感じると願いが叶うと言われている。

奥社横には山頂へ参拝する鳥居が
この日はここで引き返し。

奥社御朱印

帰りはこちらの千本鳥居
山頂に行く代わりに途中の「稲荷茶寮」に立寄り。
境内の啼鳥菴(ていちょうあん)に設けられた和カフェで【丁重】なおもてなし。
稲荷山と庭園、八嶋池を前に【一幅】の絵を見ながら一服できます。
一押しは、鳥居と稲が載った稲荷パフェですが昼食が未だだったので抹茶蕎麦を注文。
食事が¥1000で甘味が¥1300と逆転現象が起きていますが、これもお稲荷様パワーでしょうか?

奥社の横にある啼鳥菴

看板メニュー
稲荷パフェが一番人気。

私は抹茶蕎麦 ¥1000

席から眺める庭
修学旅行生は割引があるらしく学生の姿もチラホラと。

テラスからの景色

JR稲荷駅スタンプ
上;アーバンネットワーク京都支社印
下;JR西日本2006年(京都支社) 現在設置されているのがこれ。
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伏見稲荷大社(式内社 旧官幣大社)
京阪でもJRでもどちらでも構いませんが、稲荷寿司・すずめ焼き・きつね煎餅を商う商店街を抜け
朱塗りの鳥居を抜けると壮大な楼門が出迎えます。
伏見稲荷大社は全国に四万社あると言われる稲荷社の総本社。俗に日本三大稲荷と言いますが、
三社をどこにするかは場所によりまちまち。ですが伏見稲荷と豊川稲荷は外せません。
豊川稲荷や最上稲荷が寺院なのに対し、伏見稲荷はれっきとした神社。笠間稲荷と同じです。

JR稲荷駅の正面に建つ一の鳥居

一の鳥居脇のキツネ様
咥えているのは稲の束、尾に載っているのは宝珠。

二の鳥居の奥に聳える楼門

重文・楼門
天正18年(1589年)の造営。三間一戸の入母屋造檜皮葺。
伏見稲荷大社は
『和銅年間(708~715年)の創建。渡来人の秦伊呂具(はたのいろぐ)が
稲荷山の三峰に三社を鎮座させたのが始まり。応仁の乱の後、社殿が山麓に移転された。
伊呂具は稲作を行った富裕な豪族であり、初めは「伊奈利」と表記したが、
天長4年(827年)の詔で稲荷と表記されるようになった。

楼門左脇のキツネ様
鍵を咥えている?

重文・外拝殿
天保11年(1840年)の造営。

外拝殿
桁行5間、梁間3間。一重入母屋造の檜皮葺。右手にあるのが内拝殿。
御祭神は宇迦之御魂大神・佐田彦大神ほか四神。稲荷は農耕神に由来し、
稲作の外敵である雀を焼き鳥にして出す店があるのもそのためである。
現在は五穀豊穣に加えて商売繁盛の御利益でも知られ、
初詣では関西屈指の参拝者数を誇る。』 とあります。

内拝殿

内拝殿前のキツネ様
一の鳥居前と異なり狛犬然とした姿。

名勝・松の下屋

松の下屋及び茶室の説明

境内にある荷田春満旧宅
左には東丸(あづまろ)神社が建つ。
稲荷の名前も、元来は稲成り・稲生りであったと思われ、渡来人が農耕の神を祀ったのは確実。
記録では山城の地で最初に稲作が行われた場所が伏見の深草だったとか。
それが、この地に祀った理由でしょう。もう一つ、お稲荷様のお使いは狐。
と言っても野山を駈ける狐ではなく霊狐で我々の願いを稲荷大明神に伝えてくれるとされます。
これも起源は狐が鼠を始め稲の害獣を食べてくれるため。
狐の色に似たことから命名されたのが稲荷寿司と繋がります。
一説では、狐の好物が油揚げといわれますが、狐は肉食なので豆腐由来のものは好物ではありません。
どうしてそういう話になったのか?狐につままれたような話です。

伏見稲荷大社境内案内図

伏見稲荷大社御朱印

伏見稲荷郵便局 ; 伏見稲荷大社楼門、千本鳥居、宝珠
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京阪電鉄伏見稲荷駅
出町柳行きホームにて。
京阪電鉄沿線に住む人間にとって伏見大社への玄関口といえば伏見稲荷駅。
ホームは神社所縁の朱色に彩られ、キツネも置かれています。
改札を出て参道を進むと大社に行くので、何の疑問も持ちませんでしたが、
琵琶湖疎水を渡って門前町に入ってすぐ右手にJR稲荷駅があると知ったのは随分後の話でした。

こちらは淀屋橋方面改札口
左手に狐の置物が見える。

琵琶湖疎水に架かる稲荷橋
JRの駅舎も社風造りですが、駅の規模は京阪より狭く普通しか停車しません。
しかし開業年を比べると、JR稲荷駅の前身旧国鉄稲荷駅が明治12年8月、
京阪電鉄の旧稲荷新道駅が明治43年4月と30年以上も先輩。
今もJRの改札を出ると真正面に一の鳥居が聳え表参道に続きます。
神社の玄関というよりも境内の一部と言った方がぴったり来ます。

JR奈良線稲荷駅舎

稲荷駅正面に建つ一の鳥居
右の狐が咥えている金色のものは稲。
それよりも大正10年までは山科→稲荷→京都が東海道本線として使われていたとか。
地形的には大回りですが、それだけ需要があったのか、神道を重視した明治政府の意向なのか?
構内に煉瓦造りの小屋がありますが、これは開業時に造られたランプ小屋。
旧国鉄最古の建物として昭和45年に準鉄道記念物に指定されました。
昔は、汽車の前照灯、信号灯や客車の照明にはランプが使用されましたが、その油を保管する建物でした。
現存するのはここだけ。貴重な歴史の【しょうめい】です。

稲荷駅にある説明板

稲荷駅構内にあるランプ小屋
但し、外観のみ。内部見学等はしていない模様。

伏見稲荷駅スタンプ(上)と稲荷駅スタンプ
駅舎の大きさとスタンプの大きさは反比例?
[参考書]
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円通山 大黒寺(真言宗東寺派)
京都市内で大黒様と言えば先般訪れた松ヶ崎大黒ですが、どうも伏見にもある様子。
松本酒造を横に見て次の丹波橋まで向かうと途中に大黒様の案内があり、
スタートの弁天様に続いての七福神巡り。円通山大黒寺(えんつうざんだいこくじ)は、
『元は円通山長福寺と言い真如法親王が開基。親王は平城天皇第三皇子であったが、
父が薬子の変で敗れたため皇位継承から外された人。後に出家し空海の十大弟子の一人となり、
仏教のルーツを求めて入唐。マレー半島で亡くなったと伝わる。

南北の通りに面して門がある

山門の屋根瓦
鬼瓦の代わりに大黒天、瓦の端には島津家家紋「丸に十の字」

由緒記
元和元年(1615年)、薩摩藩主島津義弘は島津家の守り本尊である大黒天が藩邸近くの
長福寺に居られる事を伝え聞き、伏見奉行の山口駿河守に懇願して薩摩藩の祈祷所とした。
以来、本尊は大黒天、寺名は大黒寺となったが、当時から薩摩寺の通り名で呼ばれた。
薩摩藩と関りが深く幕末期には志士たちが密談に使用。西郷隆盛・大久保利通の会談した部屋も今に残る。
墓所には寺田屋事件の九烈士の墓、宝暦の木曽三川の治水工事を幕府から命ぜられ
300万両の費用を出した責任を取って自刃した家老・平田靭負(ゆきえ)の墓所もある。
平成15年には境内に井戸を掘った所、伏見の清冽な水が湧出し「金運清水」と命名。
多くの訪れる人々の喉を潤している。』 とあります。

大黒様を祀る本堂
但し、外からの参拝。

本堂前の「なで大黒」と「幸せの壺」

山門左手の「金運清水」

金運清水の説明

清水は持ち帰り、飲用OK
伏見稲荷大社が商売繁盛の神様なので、大黒様があっても不思議ではありません。
大黒様と言えば大国主命との関係で日本古来の神様と思われがちですが、
元来はインドの摩訶迦羅天(まかからてん)でそこに大国主命が結合した五穀豊穣・財福の神様。
まるでバロムワンですが、そのような【摩訶不思議】な事が起こるのが本地垂迹の凄いところです。

墓地の一角に建つ伏見池田屋殉難九烈士の墓

烈士の墓の向かいに建つ平田靭負翁の墓
薩摩島津家が大黒を信奉していたとは驚き。そういえば鹿児島市内にも
大黒という地名があったような気も…。頼朝以来の守護を誇る武門ですが、
戦には金が掛かるためか、江戸時代を通じて借金に苦しんだせいかは分かりません。
いずれにしても幕末に琉球経由で行った海外密貿易と奄美大島の砂糖生産のお陰で
万年赤字から脱却。【大黒】字になります。これが元手となって薩摩が明治維新の立役者になった訳ですから、
大黒様の効果は十分あったと言えるでしょう。

大黒寺説明書

大黒寺御朱印

寺の向かいにはその名も「金札宮」が鎮座
[参考書]
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東高瀬川の土手から見た松本酒造
伏見の酒蔵の見所は中書島付近、宇治川派流沿い。
月桂冠の大倉酒造記念館、キザクラカッパカントリーが二代施設となっています。
しかしそれに加えて有名な撮影スポットが北西に存在。
油懸地蔵参拝の後、門前の道を西へ。現在の繁華街である大手筋は一本北ですが、
この通りには老舗の和菓子屋さんあり、電気鉄道発祥地の碑ありと、昔は中心地だったのでしょう。

油掛通に建つ説明書

説明書のある場所には老舗和菓子の駿河屋本店が建つ

市電発祥の碑
濠川に架かる阿波橋を渡り、北へ向かうと目的の酒蔵。松本酒造は日本産業遺産にもなって居り、
大手筋沿いにある黒門を過ぎて、河原の土手まで進むと煉瓦造りの煙突や建屋が見渡せます。

大手筋に面した松本酒造入口に当たる黒門

土手の手前からの眺め

煉瓦製の煙突と建屋
倉庫と言うよりも動力機器の部屋か?

土手からの眺め
春には一面の菜の花になるそう。
その先には川がありますが、これが東高瀬川。江戸時代の豪商・角倉了以は
二条木屋町から伏見まで高瀬川を開削、川は宇治川に流れ込み、更には大坂と結ばれます。
この川を通じて平安京と商都が繋がった訳で、高瀬川を通じて酒を全国に運んだのでしょう。
今はそのような風景は見られませんが、春先には土手に咲く菜の花越しに見る酒蔵が
撮影スポットになっているようです。

これは酒倉か?
見学はしていないようなので詳細は不明。

土手の北側からの眺め

土手から見える東高瀬川の流れ

中書島駅スタンプ
下の現在の設置スタンプには「松本酒造」と明記してある。

伏見郵便局 ; 伏見の酒蔵
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油懸山 地蔵院 西岸寺(浄土宗)
酒蔵を見ながら寺田屋の横の龍馬通りを北へ向かうと次の東西の通りの北側に小さなお堂が…。
油懸山地蔵院西岸寺(あぶらかけさんじぞういんさいがんじ)は、
『定朝作と伝えられる阿弥陀如来を本尊とするが、境内の地蔵堂に安置される油懸地蔵尊で知られ、
付近の地名も油懸町となっている。
地蔵尊は鎌倉期の石仏で、高さ1.7m、幅80㎝の花崗岩の表面に地蔵尊を彫ったもの。
その由来は、
昔、乙訓郡山崎の油商人が地蔵尊の前で転び、油を流してしまった。商人は落胆したが、
残った油を地蔵尊にかけて供養し行商に出た所、商売繁盛して大金持ちになった。
以来、地蔵尊に油をかけて祈願すれば商売繁盛、願望成就、家内安全と特に商家の信仰を集めるようになった。

通りに面して寺院の入口が
通りの名前もズバリ油掛通。

由緒記
地蔵尊は伏見天皇の信仰篤く、正応3年(1290年)不思議の霊験があった事に拠り、
文保元年(1317年)現在の寺院の場所にあった伏見院の別御殿を下賜され、
里三栖から地蔵尊を遷し荘厳なる堂宇を建立した。
永禄年間には小田原出身の雲海上人がここに滞在して諸堂を増築。
天正18年(1590年)には浄土宗に改宗、山号寺号も現在のものに定めた。

地蔵尊を祀る地蔵堂

地蔵堂前面
お地蔵さまはガラスの向こうに見える。油掛けは時間を決めて行われる。
歴代の住職からは高僧も輩出しているが、三世住職の任口上人は談林派の俳人。
貞享2年(1685年)には42歳の松尾芭蕉もここを訪れ80歳の上人と句の遣り取りをしている。
境内の建物は鳥羽伏見の戦いで全焼したが、昭和53年(1978年)に地蔵堂、
平成20年(2008年)に本堂を再建している。本尊よりも地蔵尊に参拝する人が多く、
今も油をかけて祈願するため、地蔵尊の表面は油で黒光りしている状態である。』 とあります。

香を焚く土台

由緒の描いた図
信者の奉納である。
当時の油は食用と言うよりも灯明用。民間でも用いますが寺院にとっては法灯のために不可欠なもの。
僧侶は油を絶やさない様に常に注意を払います。そこから【油断】の語が派生しました。
油を売っていたためにこぼしてしまったかどうかは知りませんが、商人にとっては脂汗もの。
それでもめげずにお地蔵さんに請願する所が凄い。それで【せいがんじ】なのかと思いましたが、
寺号は呉音で「さいがんじ」でした。境内は左程広くなく、
古刹という雰囲気はなく、庶民が気軽にお参りできるお地蔵さんと言った感じでしょうか?
お地蔵さん・お不動さんは水をかけるものですが、今でも油をかける人が絶えないのも魅力。
水で名高い伏見ですが、本来は混じり合わない水と油がうまく混在しているのもまた魅力の一つでしょうか?

正面に建つ本堂
ここは観光客の姿はなく、専ら檀家さんが使用するのだそう。本尊は阿弥陀如来。

境内にある芭蕉の句碑

伏見油懸地蔵の由来

油懸地蔵尊御朱印
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月桂冠大倉酒造記念館の北側
表札の上がった正面が本宅で、右が喫茶店らしい。
長建寺参拝の後は、次の巡礼先まで伏見の町中を散策しながら移動する事に。
伏見は北の稲荷大社地域と南の城下町地区に分かれますが、南を表すのが酒蔵。
伏見はかつて伏水と書いたように伏流水が縦横に走っている場所。
洛北に降った雨が60余年かけて伏見まで至るそうです。その良質の水を用いたのが酒造り。
清酒の発祥は奈良ですが、江戸時代に伏見で大きく発展しました。
もう一つの特徴はここの地形。戦前まではこの南側に巨椋池という湖沼があって
京都を流れる河川がここに流れ込み出るのは唯一淀川のみ。
水上交通の要衝となるのは必然で、内陸には珍しく港ができました。
開港以来400年を越えますが、中書島駅南西の宇治川沿いに伏見港を復元。
長建寺前の弁天浜からは十石舟も就航。宇治川派流周囲に並ぶ酒蔵を見ながらの散策コースとなっています。

中書島駅改札外の案内板

宇治川派流に架かる弁天橋から
左奥にあるのが長建寺。ここは十国舟乗り場でもある。

長建寺の門前にある弁天浜の説明板
伏見桃山を東西に走る大手筋の南から中書島までの間が酒蔵の犇めく場所。
かつては100近くあったそうですが、今は三分の一に。
それでも月桂冠や黄桜など地酒メーカーから全国展開に至った会社もあります。
観光のメインは月桂冠大倉記念館とキザクラカッパカントリー。
前者は昔ながらの酒造りを見せる場所、後者は酒蔵を元にした一大商業施設と言った所でしょうか?
酒造りには名水が不可欠ですが、月桂冠の敷地内には「さかみず」、
黄桜の敷地内には「伏水」と伏見十名水が今も湧き出ています。

月桂冠大倉記念館
通常なら¥400で見学できるが、コロナのため販売のみなのが寂しい。

大倉記念館の北側の通り
左が大倉家本宅、右が月桂冠経営の喫茶店。

宇治川派流に架かる蓬莱橋から見た大倉記念館
絵になる風景で、熱心に写生している人もチラホラと。

黄桜記念館
大倉記念館の北側にある。
ところで、この付近を中書島と呼びますが、湖沼なので島の【呼称】は分かりますが中書とは何でしょう?
周囲に水路があるから中なのかと思いましたが、秀吉の家臣であった中務少輔・脇坂安治の邸宅が
この地にあり中務の唐名を中書と言ったのが地名の由来。中納言・水戸光圀を黄門と呼ぶのと同じ発想ですが、
わざわざ異国の呼び名を使うのは箔を持たせるためでしょうか? 今の政治家も、
コンプライアンス・インバウンド・ロックオンなど横文字を多用していますからこの傾向は変わらんようです。
酒蔵を眺めながら水路沿いを歩くと古い町屋に「寺田屋」とあります。
坂本龍馬が危機一髪を逃れた寺田屋事件の舞台で、この日も酒蔵よりも観光客が見られました。
京町屋としては格別のものでもないですが、そこは坂本龍馬のネームバリュー。
龍馬ファンには聖地となっており、すぐ東を南北に貫く路も龍馬通りと呼ばれています。
負傷したとはいえ幕府側の急襲を逃れたのは奇跡的。
おりょうさんが文字通り風呂場から身体を張って助けた事もあるでしょうが、
やはりここが【不死身】だった事が一番大きいでしょうか?

長建寺境内に建つ「中書島」の由緒

派流北側にある寺田屋
見学は可能だが、今でも宿泊できるのかしらん?

龍馬通りを北へ進み次の巡礼へ
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東光山 辨才天 長建寺(真言宗醍醐派)
先日の洛北巡りの後、御香宮に立寄ったのが丁度夕方。
伏見に行って一社だけでは余りにも寂しいので再訪することに。
大阪方面から京阪特急に乗車すると京都には八幡市から入りますが停車せず。
最初に停車する中書島は京都市伏見区。京阪だけでなくJRや近鉄も通っている交通の要衝、
加えて城下町、天皇陵、名水の地でもあります。
観光名所は多々ありますが、先ずは駅に最も近い寺院に参拝。

中書島改札外に建つ寺への道標

門前へ到着
朱塗りの竜宮門と朱色の土塀が鮮やか。

由緒記
東光山辨才天長建寺(とうこうざんべんざいてんちょうけんじ)は、
『元禄12年(1699年)、伏見奉行建部内匠頭政宇(たてべたくみのかみまさいえ)が中書島を開拓するに当り、
深草大亀谷の即成就院の塔頭多門院を当地に移し弁財天を祀ったのが寺の始まり。
本尊は伎芸を司る八臂(はっぴ)弁財天で鎌倉後期の作で秘仏。伏見城の秀吉も崇拝したと伝わる。
寺名は建部氏の長寿を願って名付けられた。
弁財天は神仏習合の密教の神仏として戦国時代には貴族・武士階級の信仰を集め、
福徳・知恵・財宝を授かると信じられ今日に至っている。毎年7月23日に開催される「弁天祭」は
淀川に御輿や篝船が繰り出す船渡御が盛大に行われていたが、淀川の河川変更などで現在は休止中。
代わりの弁天祭(7月第四日曜)と節分祭は真言宗大護摩修行が行われている。

中国風の竜宮門
江戸時代の作で、下構に対して上構の楼閣が小さく、瓦も小さくなるという特徴的な造りである。

山門から続く参道
正面に辨財天を祀る本堂が建つ。

本堂近影
豊臣秀吉の居城で徳川三代まで使われた伏見城は元和5年(1619年)に廃城、
伏見の町は衰頽した。幕府は伏見を直轄とし伏見奉行建部は壕川を開拓。
長建寺の山門から北側、宝来橋から今福橋にかけて一大歓楽地とした。
彼の奉行在任中15年間、伏見は日本有数の大都市であり、京都とはまた違った文化圏であった。
明治以降も、伏見は軍人関係の都市として終戦時まで発展を遂げた。
京都市とは別の行政区伏見市であった時期もある。
現在は遊郭は全て解体されているが所々にその名残を留めている。』 とあります。

本堂前の閼伽水
伏見十名水の一つ。手洗石は即成院からの移設。右は信者が奉納した石のカエル。

三十石船に時を知らせた鐘楼
戦時中に供出されたので、これは戦後の再建。

三十石船を停泊させるのに使用された杭
杭が残ったので悔いは残らない?
全国に寺院は多々ありますが、現役の奉行がしかも歓楽街の一角に開いたと言うのは前代未聞。
しかも己の名前を寺名にするとは!良く言えば現実的な政治家、悪く言えば自己顕示欲の塊。
賛否両論はあるでしょうが、町を復興させるには一番手っ取り早い方法。
今ならばさしずめカジノを誘致して自分の名前を付ける知事か市長と言った所でしょうか?

建部内匠頭が奉行に就任してすぐに奉納された燈籠
御香宮、藤森神社にも奉納されており、奉行の伏見への意気込みが感じられる。

マリア燈籠
御所への出入りを許されたお茶屋「紅屋」の離れ座敷の庭にあり、江戸時代の禁教を乗り切った貴重な遺物。

境内に咲く彼岸花
昔、ここに参拝した時には御朱印らしきものはありませんでしたが、
今は本堂前に書置きが2種類。墨書を印刷したものですが、どちらもカラー版で¥500。
しかも花模様の御朱印は月替わりで私は花模様を購入。流石に現世利益のお寺だけの事はありました。

長建寺御朱印 2種
弁財天は古来、インドでは水の神。そのためお堂の多くが池や川の畔にあります。
名水の地に相応しい仏様と言えます。寺を囲む塀と山門の朱色は非常に艶やかですが、
創建の謂れを知ると納得。祀られているのが弁天というのも芸を司る神とみれば当然でしょう。
この門を見たジュディ・オングさんは「山門迎福」という言葉を残されています。
「この門を通るだけで福が来る」と言う意味だそうですが、
自身の出身地の様式に【魅せられて】居られたのでしょうか?
ここで精進落としを済ませてから遊郭へ繰り出した人も多かったに違いありません。
酒、遊郭と来れば後は賭博ですが、京都競馬場は伏見区の淀に。
飲む・打つ・買うの三拍子が揃った場所などと不謹慎な事を言う気はありませんが…。

境内遠景
手前にあるのは護摩壇。

境内にある虚子の句
かつての伏見の遊郭を詠んだもの。それよりも右の「黄桜」が気になる。

建長寺古図

京都油掛郵便局(現:京都西大手筋郵便局) ; 長建寺山門と本尊八臂弁財天
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【往路】大阪阿部野橋(6:50) → (近鉄急行) → 吉野(8:22)
吉野駅 → 徒歩80分 → 金峯神社 → 徒歩20分 → 西行庵 → 徒歩20分 → 吉野水分神社 → 徒歩10分 → 竹林院 → 桜本坊 → 善福寺 → 喜蔵院 → 勝手神社 → 大日寺 → 東南院 → 吉水神社 → 弘願寺 → 吉野駅
【復路】吉野(16:37) → (近鉄急行) → 大阪阿部野橋(18:12)

来迎山 弘願寺(高野山真言宗)
この日の〆は吉野山の一番下手にある寺院。ここを過ぎるとすぐ黒門になります。
来迎山弘願寺(らいごうざんこうがんじ)は、
『元来は金峯山寺末の上の坊で現在は高野山真言宗寺院。鎌倉時代の作とされる
木造阿弥陀如来立像が本尊であるが、有名なのは山門を入って左手奥にある関屋地蔵尊。
木造厨子に入って居り、明治初年までは関屋桜の傍にあったものをこちらに移転した。
光背の右に永正12年(1515年)の銘があり、戦国時代に造られたと分かる貴重な地蔵菩薩である。
歯痛に霊験があるとされ、毎年6月第一日曜には歯がため地蔵祭が行われる。』 とあります。

門前の由緒記

山門下から境内を見る

これは地蔵様ではなく観音様

こちらが有名な関屋地蔵尊

関屋地蔵尊のいわれ
今のところ歯痛の心配はないようですが、将来的に困らぬようにしっかり参拝。
尤も入れ歯やインプラントに効果があるかどうかは不明ですが…。
今回の特別拝観は御本尊、加えて関屋地蔵さんにも参拝しました。
こうして四社七ヵ寺を巡って巡礼終了。
有名な蔵王堂と如意輪寺は時間の都合で巡礼できませんでしたが、
観光案内所に載っているだけが吉野の魅力ではない事を発見。
一方で自身の【弘願】無知を再確認した一日でした。

地蔵様に続いて本堂に参拝

これはお前立の虚空蔵菩薩坐像
寺宝めぐりパンフより。

弘願寺御朱印
最後は電車まで少し時間があったので、吉野葛で〆。
店の名前は弁慶でしたが、いたって【静】に【御膳】を頂きました。
これで【義経】としたい処です。

近くの甘味処弁慶で一服

吉野葛

大和の御朱印帳も三冊目に
左が二冊目(壷阪寺オリジナル)、右が三冊目(當麻寺西南院オリジナル)
[参考書]
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吉水神社(村社)
寺宝めぐりが続いたあとは下千本の神社へ参拝。
街道脇に建つ鳥居を抜けて少し坂を下った場所にあるのが吉水(よしみず)神社。
上千本にある吉野水分神社を省略した様な名前ですが、れっきとした別の神社です。

メイン街道に面して建つ石鳥居

坂を下った場所にある道標
道沿いには民宿がある。
吉水神社は
『天武天皇の白鳳年間に役行者が創建した修験道の格式の高い吉水(きっすい)院が嚆矢。
明治に入り神仏分離が行われた際に後醍醐天皇の南朝の皇居であった事から、
明治8年に吉水神社に改称された。第96代後醍醐天皇を祭神とし、
当時の天皇の忠臣であった楠木正成、吉水院宗信法印を合祀している。

吉水神社由緒記

入口に当たるのは神門か?

入口脇にある後醍醐天皇御製
・花にねて よしや吉野の 吉水の 枕の下に 石走る音

神門と中門の間
右手が一目千本。

一目千本からの眺望

一目千本の脇に建つ後醍醐天皇御製
「ただかりそめの宿と思ふに」 と言う下の句に帝の無念さが漂う。

中門をくぐる
右にあるのが「義経駒繋ぎの松」
文治元年(1185年)には、兄頼朝に追われた源義経、静御前や弁慶等がここ吉水院に隠れ住んだが、
奇しくもここが二人が最後に過ごした場所となった。
延元元年(1336年)、後醍醐天皇が京の花山院から行幸。
吉水院宗信法印の援護の元、吉水院を南朝の皇居とした。
ここの北側には京都へ向かって祈られた北闕門があり、崩御に際し、
「身はたとひ南山の苔に埋るとも、その魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ」
との辞世を残している。

中門を抜けてすぐ左手にある名勝・吉水院庭園
太閤秀吉が吉野で大花見をした際に、ここを本陣とした秀吉が自ら基本設計を行った桃山様式の日本庭園。これは通路左側の池と亀島。

庭園の説明板

明治天皇と昭憲皇太后の御製
明治天皇は南朝を正統とした。

日影で見えにくいが「弁慶の力釘」
頼朝の追手に対し弁慶が親指で二本の釘を押込んだので、怖れをなして逃げ出したと伝わる。

通路右側にある鶴島

本社に参拝した後、書院へ向かう

正面から見た本社
左手に小さく見えるのは楠公祠。

楠公祠近影
御祭神の名前が掲げてある。

参拝の作法
何と拍手は神様の数だけ十七回とは驚き!

書院受付
ここから内陣は拝観料¥600が必要。御朱印もこちらで拝受。
以後、南朝四代57年の歴史がここに刻まれ、現存する南朝唯一の行宮となっている。
文禄3年には豊臣秀吉が吉野で盛大な花見の宴を催した際には、ここを本陣として数日間滞在した。
この時に自ら基本設計したのが吉水院庭園で桃山様式の日本庭園を今に伝えている。
宝物・文化財は多いが、なかでも書院は日本住宅史上最古の書院として
ユネスコ世界遺産として登録されている。』 とあります。

書院の内陣
御簾があるのは、やはり神社と言うより行在所か?

書院の部屋と襖絵

義経・静御前潜居の間
右の狭い場所は「弁慶思案の間」とある。

後醍醐天皇玉座

玉座と南朝の説明

玉座の奥の絵画(右側)

同じく左側
題材は中大兄皇子と中臣鎌足の出会いとなった蹴鞠の光景か?

太閤秀吉の大吉野花見の品々

一休宗純の書

書院の廊下から見た庭

秀吉が本陣とした跡
神社とありますが元は寺院。それよりも南朝皇居だっただけあって拝殿も小さく、
書院という方がしっくりきます。造りは立派ですが京都御所に比べると格段に狭い場所。
中門横からは一目千本と呼ばれる広大な景色が見渡せますが、春の桜も帝の心を和ましたかどうか?
北闕門を見ると、都を一目でも見たかったというのが偽らざる本音だったのでしょう。

書院の庭から建屋を見る

北闕門
古来より修験者達の祈りの場所であった。

北闕門由緒

庭園の端からは蔵王堂が見える

吉水神社書院拝観券
説明書も兼ねている。

吉水神社御朱印
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吉野駅 → 徒歩80分 → 金峯神社 → 徒歩20分 → 西行庵 → 徒歩20分 → 吉野水分神社 → 徒歩10分 → 竹林院 → 桜本坊 → 善福寺 → 喜蔵院 → 勝手神社 → 大日寺 → 東南院

大峯山 東南院(本山修験宗別格本山 役行者霊蹟札所)
大日寺から再びメイン街道へ戻り下手へ。
この辺りまで来ると土産物店が続き、目指す寺も吉野葛の店の向かいにありました。
大峯山東南院(おおみねさんとうなんいん)は、
『吉野山に相応しく役行者によって7世紀前半に建立。霊地を開く際には
中心伽藍の巽の方角にも寺を建て一山の興隆を祈願する事が見られるが、
この寺は金峯山寺の東南に相当する。

山門前にて
向いに続くのは吉野葛のお店。

山門と寺宝めぐりの看板

由緒記
境内の多宝塔は昭和12年に和歌山県にあった野上八幡宮から移築されたもので、
塔内には大日如来像を祀る。現在は大峯山寺の護持院でもあり宿坊も兼ねている。』
とあります。

山門正面に建つ本堂

本堂正面
御本尊は役行者像で、内陣で拝観できる。

本堂前面の欄間彫刻

東南院のシンボル多宝塔
本堂の内陣に祀られているのは役行者像でこちらが御本尊。
しかし今回の寺宝めぐりでは多宝塔内の大日如来が特別公開でした。
宿坊を兼ねているだけあって境内は旅館のような雰囲気。
大峯山の修験行者の宿坊としてはやや贅沢な感がありますが、
厳しい修行の間の憩いの場所としての役目もあったようです。

多宝塔の垂木と屋根部分

多宝塔御本尊の大日如来
寺宝めぐりパンフより。

多宝塔から山門と本堂を望む

書院玄関の唐破風
この奥が宿坊となっている。

東南院御朱印
書置きを拝受。紙が桜色なのは吉野だからとは対応下さった夫人の談。
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